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東南アジアの国々

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東南アジアの国々

一一経済地理学徒の旅の記録一

貫一

は じめ に

 1965年2月17日羽田を立って,シンガポールに直行。そこからマレーシア国を北上して,マラッカ,

首都クアラルンプール(こ㌧に住む人々はケールとよんでいる),ペナン島を経て,タイ国の首都バン コックに入った。マレーシア国滞在は2週間であった。陸路,開鎖されている国境をこえ,カンボヂや 国に入り,待望のアンコールの遺跡をみる。同国の首都プノンペンから,ホンコンを経由台湾(あえて 中国といわない)に入った。台北から観光列車とよんでいる特急車と乗合・ミスで台中,日月輝を往復し て沖縄にとんだ。インドネシアはインフレがはげしく,われわれの予算では旅行が困難であったと思わ れ,ブイリッピンに行かなかったのも経済的理由である。丁度1ケ月の行程であった。

 この研究旅行は,財団東南アジア研究助成会のお世話によって始めて可能なものであったし,また,

在京の同窓生諸氏ことに大平オーバーシーズ社長や,また現地の同窓生ことにシンガポールでは日航麦 店長,ペナン,バトワFスではマレFシア砂精製進会村練,麦野人,長崎県農原出身の老婦人,タイ国で は大平オー・ミーシーズの現地出張員の方,京大東南アジア研究センターの方々,ホンコンでは伊藤忠の

:支店の方々,沖縄では琉球大学:の人々のあた㌧かい御世話を頂いた。紙面をかりて厚く御礼申上1ヂたい。

 なお,この研究旅行は前川助教授と同行した。経閉的にも有利であったし,また極めて心強くもあっ た。同氏にも厚く御礼申し上げたい。

1 東南ア ジア

 東南アジアという用語は,一般的用語としては耳新しい。 日本では,戦時中には「南方」

とか「南洋」,古くには「南蛮」という地域的用語が用いられていたが,一般には「極東」

という奇怪な術語が,日本人の間に,ことに戦後,何の疑問もなしに新聞用語にまでなっ ている。例えば,安保条約の制定のときにも,この意味の不明な「極東」という地域的概 念が,堂々と用いられ,日本の議会でも問題になっていたが,一向に野党のつっこみの足 らないままに終った。従って,今日のヴェトナム戦争にまで,安保条約が適用されるよち な三三劇が起っている。ECAFEという国際的機構があるが,このAはAsiaで, FE はFar East極東である。極東というのは,元来ヨーロッパを中心とした概念で,地域名 よりも極めて政治的概念である。今日では・いよいよあいまいで,殆んど正確に理解され でいないままに利用されているのが中東,近東,これを一括してしまった「中近東」とし1)う

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地域的概念である。少くともサラセン帝国が支配をしていた時代には考えられないことで,

やはり西ヨーロッパの帝国主義的なアジアの支配が起ってからの,ヨーロッパ中心の術語 である。南方とか南洋とかいったのは,同様に日本の帝国主義的進出を背景とした概念で 特に日本が第一次大戦後,委任統治をしたいわゆる「南洋群島」 という言葉を思い出して 頂ければ充分である。

 そんな意味で「東南アジア」という地域本来の呼称が一般化されてきたことは,この地 域を中心として考えられてきたことを意味するという点において,極めて意義のあること である。もちろん,純粋な地理的呼称として,クレッシーが早くから,南アジア(彼はシ        ①

ベリアをアジアから除外している)を東南アジア,西南アジア,インドという3地域に分 類していたから,何も東南アジアという呼称が戦後出来たというのではないが,少くとも 一般化したのは,戦後,これらの地域が独立を得てからであることは聞違いない。

 クレッシーは,東南アジアを一つの地理的単元として,自然地理的な立場に主として立 って説明し,バスBussはこの地域を9つの独立国と3つの植民地(英領ボルネオとシン       ②       ③

ガポールはまだ英領であった。ホンコンはふくませていない)からなり,半島部の諸国も アジア大陸から孤立し,船と航空機が,.この世界の強い紐帯をなしているとしている。

①qessy:Asia s land and People

② Claude A. Buss:South・east Asia and the World Today.

③ 9つの独立国はタイ,ビルマ,ベトナム共和国,ベトナム民主共和国,カンボヂヤ,ラオス,イン   ドネシア,ブイリッピン,マラヤ(まだマレーシア連邦が形成されていなかった)。3つの植民地は,

  ポルトガル領チモール,英領ボルネオ,シンガポールである。

・飯塚はアジアの国々が,かって植民地的収奪をうけてきたことについて1つだといった        ④ が,アジアには「東洋的停滞」とか「アジア的生産様式」とかいう表現が一般化し,前期 的停滞と,後進性とが,まるでアジアの宿命的本質であるかの如き考え方がある。東南ア ジアの国民所得がひくく,それを2%上昇させるために,年1こ100億ドルの投資が必要だ とさえいわれている。つまり「近代的」,「進歩的」をヨーロッパ的の本質とするという 考え方が,その奥にひそんでいるといわぎるを得ない。かっては新興ブルジョワジ7の進 歩的な理論であった地理的唯物論が,この地域における資本主義的収奪をおおいかくす保 守的な理論として用いられ,停滞と後進性とを,東南アジアのもつ自然的条件から説明し ようとされる。かかるアジアの停滞と後進性は, もちろん資本主義発展の過程から形成さ れた歴史的現実であって,中世の歴史にさかのぼるならば,停滞とはヨーロッパの,進歩

とはアジアの代名詞たり得たと考えるべきではないだろうか。

 何れにせよ,現在東南アジアが前期的停滞をつづけている後進地域であることは事実で ある。しかし,それ塗この地域の本質と考えることは,歴史を無視した考え方で1自然的 条件によって,自然と人間との相関々係を超歴史的に論ずる立場はあり得ないことは,既

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東南アジアの国々 3

に明かなことである。

④飯塚浩二:アジアのなかの日本

 2 新興国マレーシア

現在後進地域の典型の如くにみなされている東南アジアのうち,統計上,1人当り国民 の分配所得をみると,マレーシアは日本についでアジアで第2位である。戦後しばらくの 間は,日本よりも高かった。現在でも大学出の初任給は,われわれ大学の中堅教員とほぼ 同仁6・7珊である・工業化曜んでし る先回(と自認する躰のために中翠≧

いう言葉が用意されているが)日本の低賃金はたしかである。日本の高校程度重はそれ以 下といわれるカレヂの教官の俸給は,まさにわれわれの3倍をこえていた。

 この国がからてイギリスの植民地であったことは周知のところであるが,植民地の経 済的特色として,この新興国は極端に工業化がおくれ, その生産がいわゆる単二栽培 mono−cultu「eという術語で表現されているよう1こ・ゴムと錫の生産が・ζの即繍の 中核をなしているbこれは独立後も前も大した変りはない。従って,マレーシアの近代化

とは生産の多角化と工業化にあるといえるようである。

      ⑤

⑤工業化を推進するために,Pioneer Industries Ordinance(P.1.0)』を制定し, Pioneer Certifi・

 cateを与えて,免税,関税保護その他の特権が与えられている。1958年から1963年の間に証明書を  うけた会社106,層払込資本金136百万ドルに達した。

 ゴムのような第一次製品は,国際価格が先進国の価格操作の前に極めて不安定な商品で ある。われわれが訪問した時は,ゴム価格の下落で,深刻な不況をかこっていた。しかし 錫は好況で,中小鉱山も活況を呈していた。

 工業化のために,盛んに外資の導入をはかっている。 もちろん工業化といっても;現在        のところ大部分は低次の加工業の域を

東南ア?ア国民所得1人当り概算        (円換算)

国    名 卜人当り年換算 年度

日  本1 179・500円i 62

マ レ F シ  ア 102,960円 62

シンガポFル 147,320

マ   ラ   ヤ 95,760

サ      バ 84,260

サ  ラ』ワ ク 65,880

台     湾 48,100 61

タ       イ 38,110

フイ リッピ,ン 37,970

出ていないし,それも,国内の自給が 主な目標である。

 導入された外資は,多くは地場資本 との合弁型式を取っている。地場資本 といっても,殆んど華僑資本である。

日本資本の進出も多く,ペナン島の 対岸にあるバトワ昌スのMalaisian Sugar Manufacturing Co. LTD.は,

:地場華僑資本と,三井物産1日新製糖 の合弁資本で,日本側資本は40%であ る。設立以来,間もないのに現在,・全 国土の3分の2の市場支配している6

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技術はすべて日本のもので ある。しかし,その原料で あるさとうきびは,単一栽 培の結果によると思うが(

現地のさとうきびの栽培は 自然条件上不利であるとき いた。信じられない)すべ て輸入されている。原料自 給にも重点がおかれてい た。バトワースの近くにあ った野村貿易が49%を出 資しているFederal Iron Works:Ltd.は1962年に稼 動したが,関税保護措置で 巨利を博していた。ここも またすべての原料が日本か ら輸入され,ここでは単に,

僑のそれである。

字欝

・{勢「隷・諾謹聴ψ曽蟹b

講i噸

 第1図 マラヤ砂糧製造会社(バトワース)

 マレーシアの華僑資本と三井物産,R新製糖類の3者合弁 の企業。その近代的装備はすべて日本の技術である。原料は すべて輸入にあをいでいる。左側は三井物産派遣の日本人(

本学出身)総支配人,右側は前川助教授

鉄板にメッキをほどこすだけである。地場資本はもちろん華

 元来,華僑資本は工業化を抑圧されてきた植民地経済を背景として,多くは商業資本と して活躍してきたのであるが,独立後の今日盛んに産業資本化が進んでいる。

 工業化のために盛んに工業団地が極めて大規模に,まつ形成され,工場が立地する前に 社会資本が盛んに投下されている。しかし,この団地が古い工業立地論の立場からは理解 しがたいような地域にも進められている。特に首都クアラルンプールでそう感ぜられた。

その原料の大部分を輸入にあおいでいる現在,港のない工業団地が多いのである。

 マレーシア工業化の立地条件は結局,安価な労働力だといえそうである。工員はPIO でマレー人を優先的に雇傭しなければならないことになっているが,彼らの日給は大体 300〜500円が平均である。技術系,或は事務職員は大部分が華僑 (まれにインド系人)で

ある。ペナンの政庁で,われわれの会った中級の役人は,偶然かも知れないがインド系人 のみであった。マレー系人で,会社の運転手などは高級職員である。われわれが世話に なった日本航空の運チャンはマレー系人であった。超過勤務やら,すべての手当を入れて 月3万円が最高だそうである。

 かかる低賃金立地の外に,さきにもふれたように,新興の幼稚工業は,政府の保護によ って,国内市場を独占し得て巨利を博してきている。 (しかし必ずしも日本のような高い 独占価格を作っているとは思えなかった)とすると,ここの工業の立地の立地条件は,従 来のような最低生産費立:地の理論からの説明ではなく,市場支配の立地理論が適用されな

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図南アジアの国々 5

くてはならないと思う。

 周知のように,マレーシア連邦は,中国系,マレー系,インド系その他多くの民族から 構成されているが,うっかりすると,かかる事実から,マレー三人が人種的に他の民族よ り劣っていると結論づけられる(事実管理職などは,到底現在のマレー三人に期待出来な いというのが,一般在住日本人の結論であった)ようであるが,しかし,極めて貧しいマ

レ』系人が殆んど教育の機会ももち得ず,彼らの素質をのばすことは現実には不可能であ るという事実に眼をおおうてはならないと思う。

 そして,彼らは永い間,植民地的収奪の他に,華僑の商業資本からの搾取をうけ,日本 のような高額の独占価格を形成していると思えないにしても,更には華僑の工業資本から の搾取をうけている。日本でも,また他の資本主義諸国における資本主義的搾取というの は常識かも知れないが,このマレーシアで問題なのは,かかる搾取者と被搾取者とが,民 族的に極小数の白人系,中国系とマレニ系という異質の存在であるということである。つ

まり,異質的二重構造の社会なのである。このことは程度の差はあっても,タイでもカン ボジャ,ヴェトナム,インドネシアでもいえることである。

 さきにマレーシアの分配所得は東南アジア諸地域で最高であると述べたが,実はかか・る 階層を無理した地域的平均を取ったもので,実藩は50%のマレー人が総国民所得めわずか        4.3%を得ているにすぎないのに対して,

  、人種別国民所得

       中国二人は,ほぼ平均値に近い。おそらく,

種人砒刻所徽率

非アジア人

中  国  人 イ ン ド 人 パキスタン人 マ レ 一 人

  計

1.8%

36.9%

11.2%

50」%

100%

 43%

36.8%

 8%

4。3%

100%

業であるゴムのestateの83%はヨーロッパ系人(主としてイギリス人)

れ,また総国民所得の96%までは,さきに述べたように,

れているが,政治的にみると,殆んどマレー人の国である。

であるし,21人の大臣のうち15人まではマレー人であり,

レー人と変らないが,政治的発言力は極めて弱められている。

 マレーシアにおける民族主義は,実はマレー人優先主義以外の何物でもなく;他の後進 個におけるような,反資本主義的な性格は殆んど感ぜられない。その政治機構は,イギリ

・スの植民地支配の希望と古いマレーのいわばアンシャンレヂムを残存せしめた奇妙な妥協 の上になり立っているといっても過言でない。いわゆる新植民地主義と非難される所以で ある。中国系人の増加をおそれて,その連邦加入を許してこなかったシンガポールを,そ マレー人のみの所得を抽出したら最底であ ろう。従って,マレー系と中国系の両人種 の対立と抗争は極めてはげしく,去年の回 教徒祭において両人種の問に流血の惨事が

あった。但し,非アジア人の所得は,:彼ら と問題にならない位に高い。・

 マレーシア連邦は,例えばその中心的産       によって所有さ      非マレー系人種によって占めら       国王は9人のサルタンの互選      人口の数では,華僑は殆んどマ

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冠頭畿懸

第2図 マラヤ半島南部のゴムプランテーション。高 度約1,000メートルから撮影,ゴムプランテーション の約半数は英人の所有である。

の共産勢力の拾頭をおさえ,

インドネシアからの共産主 義勢力の侵透を防ぐために は,シンガポールの連邦加 入を認めぎるを得なかった。

 長い間,資本主義諸国の 支配と収奪をうけていた新 興独立国家の民族主義は,

その故に反資本主義的であ り,また反植民地主義であ るといってよいと思う。そ して,植民地支配は多くの 場合,その被支配国のアン

シャンレヂムを温存し利用 してきたので,反封建的であるともいえる。もちろん,かといって民族主義は必ずしも共 産主義ではない。民族主義者のヴェトナムの共産主義に対する理解と共感は,反資本主義,

反植民地主義,反封建主義の立場に立つ民族主義の共感であろう。 この民族主義を資本主 義国が抑圧しようとする時,民族主義は共産主義に追いやられるのではないだろうか。

ところが,マレーシア連邦の民族主義は,他の非マレー人種に対するマレー人第一主義的 といった性格が強い。PIOでも,当該の企業に対してマレー系人の雇傭を第一にするこ とを謳っている。日本航空会社のシンガポール支店長の話では,管理職につく人以外には,

日本から社員をよぶことは不可能であると話しておられた。

 こうした多くの矛盾をはらむマレーシアでは,その近代化を進める政策にも矛盾した面 が多い。マレー懸人は国法によって回教の戒律を守ることが要求され,マレー論人を雇っ ている企業は,彼等の信仰上の習慣を守ることを助けなければならない。 1ケ月もつづく 断食(といっても昼食をぬくだけである)によって,彼等の仕事の能率が著るしく低下し ても,打つ手段がない。社会の近代化につれて,雇傭労働者化してくるマレー訴人に対し て,回教は大きい近代化の阻害要因になっているようである。 1夫多妻主義は,今日も依 然として法律によって守られている。われわれがのせてもらった日本航空のマレー人運転 手君は,3人の奥さんと9人の子供をもっていた。

 子供が多いといえば,東南アジアの人口増加は実にすばらしい。マレー人の世帯で,6

〜9人の子もちは極く普通である。少々の経済成長があっても,人口1人当りに計算する と,かえって生産の減少している国がある。

 マレー人の部落は極めてまずしい。ペナンのジャングルの入口にあるマレー人部落では,

テレビが村長宅(これは比較的立派であった)の前の広場に設けられていたが,娯楽とい

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東南アジアの国々

うものは殆んど見当らな い。村長一族で,小さな印 刷工場を経営している人に 日本人の可愛いいお嫁さん がきていた。そこに働いて いるのは,この部落の人達 で日給は300円位であった。

それでも5,6人の子供が いた。低い生活水準から多 くの子供が生れ,まさに矢 内原が,昭和5,6年頃に

指摘し猷態がみられ̀  第3図マラヤ人騰落(ペナン島)

      マラヤ人の集落は極めて貧しい,ペナン島北西部の古い漁村

⑥ 矢内原只雄:人口問題(矢内原只雄全雄)

7

 それでも,マレーシアは新興国家である。少くとも政庁は清潔で,能率的である。事務 能率は極めてテキパキしているし,汚職も殆んどきかれないそうである。日本にみられる ような料飲店やサロンというのは殆んどみあたらない。東南アジア全部の国と,長崎市の 料飲店とどちらが多いだろうか。東南アジアで,それらが多いのはやはりタイ国である。

シンガポールで最高級のキャバレー(マレー人はケブレとよんでいた)は,まるで日本の 小学校の雨天体操場(現地の日本人はそうよんでいる)のように殺風景である。そして最 終の時には,全員起立のうちに国歌が吹奏される。

3 自由港シンガポール・ペナン・ホンコン

 ホンコンは現在もイギリスの植民地であるが,ペナンもシンガポールも現在ではマレー シア連邦に属している。従って同じ国に属していても,自由港であるこの2つの島に出入 するのには税関を通過しなければならない。

 これらの自由港は何れも島であるが,旧支配者であったイギリスの植民政策の1つとし て,イギリスその他工業国の製品が無税で入ってきていた。その経済の実権をもっている のはもちろん華僑であることは,3つの島とも共通している。ことにシンガポールは,戦 前イギリスの世界政策の中核的な要港でもあった。つまり,東南アジア全域のゴムの原料

と錫の鉱石が,シンガポールにあつめられ,この両者の世界的な独占的生産を行っていた。

この2つの重要な戦略物資でもあった商品は,またアメリカ合衆国に殆んど産しないもの であった。単にマレー産のもののみならず,インドシナ半島,インドネシアからも原料や

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鉱石がシンガポールに送られてきた。そして,それらの最大の購入者はアメリカ合衆国で あった。しかも,マラヤの消費財は殆んどイギリスから入っていたので,アメリカと東南 アジア地域とは著るしい片貿易であった。イギリスの合衆国に対する支払超過に,東南ア ジアは重要な決済の役割を果してきたといえる。単に経済的ばかりでなく,かかる重要な 商品の生産を独占する地域に対しては,イギリス本国よりその最大の消費者であるアメリ

カに取って,軍事上の関心が極めて高いはずである。つまり,シンガポールの防衛は,ま たアメリカに取っても極めて重大な関心事であった。何れにせよ,それはイギリスの世界        政策のもとに,東南アジア

         ・   ・\一:は単に自然地一こばかり

       でなく,戦前,経済・政治        ∫:触  の上からも,シンガポール

第4図 シンガボ・一ルの家船

この家船は,主として,インドネシアとの物資輸送に従 事していたもので,現在両国が断交しているので,その 数も減少している。

第5図 シンガポールの住宅莚設

 社会主義政権下にあるシンガポールの社会福祉的政策は めぎましく進んでいる。

を中核とした1つの地理的 な単元をなしていたといえ よう。今日では,ゴム,錫 に往年の商品価値も低下し てきたし,また,この地域 のゴム,錫の生産の独占も 低下してきている。また,

現在SEATOに参加して

いるのは,タイとフィリッ ピンのみで,東南アジアと いう:地域は極めて分裂的傾 向が強い。インドネシアと マレーシアの対立は周知の ところであるが,そのため に,従来インドネシアから 原鉱石を輸入し,精錬して いたシンガポールの錫精錬 工場が閉鎖されているもの があった。

 工業化政策は,自由港で あるシンガポールでもおし すすめられ,導入された外 資の進んだ技術で進められ ていて,現在のところ自由

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東南アジアの国々 9

港政策とあまり矛盾した面が出ていないが,やがて,そうした問題が表面化してくるだろ う。シンガポールはいわゆる政治的には革新系が強く,住宅政策のような社会政策には,

随分努力して,立派なアパート群が建設されている。

 戦後,シンガポールは永くイギリスの植民地としてつづいてきたが,往年のイギリス植 民政策の中核的地位は失っているし,また自由港としての繁栄は,完全にホンコンにうば われたのではないだろうか。戦前のシンガポールの繁栄ぶりをみていないので,これは推 定の域を出ない。

 ホンコン九竜地区は,戦後中国からの難民を多くうけ入れて,その人口は急速に膨張し てきているが,そこの商店に陳列されている商品は,まさに豪華であって,到底シンガポ ールは及ぶべくもないと思はれる。

 豪華な宝石その他の商品とともに,中国の精微な手工業製品が大量かつ安価に流入して いる。自由港ホンコンにも,近年工業化が進められているが,むしろ流入してきた難民救 済のための工業化で,工場は難民住宅の近くに設けられた規模の小さいものであって,そ の自由港政策と矛盾するような面は考えられない。

韓・

第6回忌ペナン島の旧要塞

左図写真の建物は旧ペナン政庁,この要塞の大砲にはオランダ東印度会社のマーク(右側写真)

が入っている。

 日本の大きい商社の殆んどすべてがホンコンに出張所をもっているといわれているが,

ホンコンにおける対日感情は決してよくない。いわゆる買物観光に右往左往する日本人は,

まさに華僑商人のよきかもでしかないように思われる。日本のいかなる医科大学の出身者 でも,ホンコンでは医師として認められない。戦時中の日本軍隊の罪悪が長く,今日に尾 をひいいてる。

 ペナンはマラッカ海峡の入口にある島で,西力が最も早く及んだところであるが,現在 では昔日の繁栄は失われている。海岸にはオランダ東印度会社製のマークの入った砲台が

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第7図 近代住宅と中国人貧民住宅(ホンコン島)手前の 近代的なマンション建築(家賃は5万円を超える)の向う 側にある山腹斜面には,貧しい中国人のバラックが密集し ている。ホンコンでは,貧富の差が極めて大きい。ホンコ

ン大学学生の年間経費は最低63万円が必要である。日本の 大学に留学する方が安くつく。

古い遺跡として残され,古 くから無力の支配を物語っ ている。自由港の繁栄はペ ナンからシンガポールへ,

ついでホンコンにうつった。

,そのホンコンにも,この島 に最初に定着したといわれ る貧しい蛋民の水上生活の 地域的集団がみられるし,

豪華なアパートの近くの山 腹に,貧しいマッチ箱のよ うな家々が,へばりつくよ うに建っているのは,実に 対臆的な光景である。程度 の差はあるが,ペナンにも,

 シンガポールにも同様のこ  とがいいうる。もちろんマ  レー人住宅であるが。

4 タイとカンボヂャ

 戦前,東南アジアの唯一の政治的独立国であったタイ国も,その経済的実権はやはり他 の国々と同様華僑の手中にある。その首都バンコックの住民は殆んど華僑のようであるが,

ここでは,タイ人と華僑と の間には,異邦人的な感情 はあまり感ぜられないよう に思えた。つまり人種的に は中国系であるが,彼らは むしろタイ国民であるとい えないだろうか。

 バンコックでタイ人が商 店をかまえているのは,極 く場末のみで,例えば有名 な観光地になっている水上 マーケットは殆んどタイ人 の経営のようである。その あつかっている商品は,殆

       蜜ず

,響鄭嘩タ

第8図 タイ国の水上マ戸ケット(バンコック)

小船は観光船相手のくだものうり,すべて附近のタイ農民 が従事している。対岸の店舗をかまえているものは,やは

り華僑が多くなっている。

(11)

東南アジアの国々

んど周辺のタイ農民の食料品である。それでも次第に華僑の進出がみられるに至っている。

 この水上マーケットは最近急激に観光客がふえ,店をもたない貧しいタイ国農民が,自 ら丸木船をあやって観光船に近づき,スイカ,バナナなどの食料品をうっている。最近観 光船の大型化が進んできている。われわれの訪れた時は,乾季には珍らしい豪雨があった 直後で,大船観光船が高速度で通過するたびに,両岸の家屋に河水が侵入していた。随分       迷惑な話である。タイ人は       この河で,顔や歯をあらい,

      水浴し,洗濯する。

       宗教と国家藤織とが癒着       しているこの国では,バン       コック市内には極彩をほど       こした絢燗豪華な寺院が極       めて多い。バンコックで最       も高い寺院の塔からみると,

      眼につくのは寺院ばかりで       煙突は全くといってよい位   第9二水上々一ケットの水利用(バンコック)       眼に入らない。それは貧し   この水路は航行に利用されているのはもちろんであるが,附

      いタイ人の生活と凡そ遊離   近住民は,こ〜で洗濯し,顔をあらい,水浴し,料理を調理

  している。われわれの行ったのは,めづらしい豪雨のあとで,  した景観であった。貧しい   満々たる水が流れていた・       水上マーケットにも,小規 模なものであるが,美しい寺院が周辺と凡そ不つり合いに点在しているのは印象的であっ

た。

て宗教の存在を忘れること は出来ないように思われ る。国家権力と宗教との癒

       第10図 バンコック市内

幽晦譲讐書灘灘課殆んど寺購に入ら帥ほ

(12)

か。この国の国家型態もまたそのアンレシヤンヂムの温存の上に成り立っているのか。そ ういえば,タイ国はSEATOにも参加し,資本主義陣営に最も近くそんな意味では,東南 アジアでは安定した国のようである。資本主義陣営からの援助も大きく,首都バンコック

はいわばSEATOの中心的都市として急速に人口を膨張せしめてきた。首都を中心とし て四囲の農村とは全く九つり合いのような立派な道路が,放射状に出ている。

 現在タイ国は,中立国カンボヂヤと国交を断絶している。われわれは陸路車で,その国 境をこえる計画をたて,流しの車をやとった。この道路は農村地帯を真東に横断するもの

i競

難や

 第11図 タイ国東部のサバナ景観

  こ\では,水路もなく,農家はかん木のかげに地下水に依存   した生活を送っている。か〜る景観は,タイ東部,カンボヂ   ヤ西部に広くまたがっている。両者の相違は,タイ国の幹線  道路が,実に立派だということである。

この道路にそうて,タイ農民が自らの果樹その他の食料品の露店を出し,

客をよんでいる。この景観は国境をこえてカンボヂヤまで全く同様であった。飛行機から みたトンレサップは,周辺に湿地帯(青く光っていた)をみせて小さくなっている。

 とざされた国境を陸路こえることは,われわれ日本人には殆んど経験のないことである が,比較的簡単に通過出来た (同行の前川助教授のフランス語は国境のカンボヂや吏員に 対して立派に役立つことが出来た)。

 カンボヂヤは共産系に近い中立国で,資本主義陣営に最も近いタイ国と国交がたえてい るが,そうした中立系国家をはだに感じたのは,バンコックで非常に多かった歓楽街が殆 んど見当らなかったことである。しかしセムリアップ(アンコールの近くの都市)やプノ ペン(首都)でも,やはり華僑の街で,商業は殆んど彼らの独占的企業である。カンボヂ や人のものは露店である。朝早くから,家族つれや若い娘さんでも露店で外食している。

小さな飲食店は他の国と同様,非常によく発達している。インフレがひどいが食料品は比 較的安いように思われた。驚くべきことは,アメリカ製のコカコーラ,7upなどの清涼飲

で,丁度乾季にあたり,そ の土地利用は極めて粗放的 で,その時点で耕地的な利 用は既にみられなく,水牛 が放牧されていた。水路に そうて,貧しい農家が断続 しながら街村を形成してい

た。

 東に進むに従って,土:地 利用はいよいよ粗放的とな り,水路もなく丁度サバナ 的景観を呈してきた。農家 は井水に依存して,灌木の 中に点在していた。立派な 道路に水牛車が動いている。

     車のくるたびに

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東南アジアの国々

料水がどんな小さな露店 や,奥地に入っても侵透し ていることであった。

 カンボヂヤの貨幣リエル は正式交換レート35リエル 1ドルであるが,タイ国の バンコックには華僑の経営 する貨幣交換所があり,そ こでは1ドルに100リエル くれる。約3倍に近いイン フレである。アンコールの 遺跡を見学していると,ヤ ミ商人がひそかによってく る。彼らは1ドル80リエル で交換するそうである。プ

ノンペンの町で日本のモノ クロフイルム(35m36枚ど り)が1本80リエルするが,

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第12図 水路とタイの水田地帯(バンコック東部農村)とタイ    農民の売店

  水路の手前に幹線道路があり,この道路にそうて,点々と  写真にみるようなタイ農民の売店がある。スイカ,・ミナナの  外に清涼飲料水(コカコーラー,7UPなど)などを売ってい  る。スイカの味は,日本のそれと全く同じである。

      ドルでかえば1ドルである。新興国家ではその工業化のため に,輸入工業品の関税が高く,価格も当然高い上に,インフレで一層ひどくなっている。

それでもここは食料品が安いので,それほどの深刻さは感ぜられない。セムリアップのホ テルでは,1ドル55リエルで正式に,観光客に対してサービス交換をしてくれるが,それ でもホテル代は非常に高くなる。ヤミで交換されたリエルはこのホテルでは受取らないそ

うである。しかしこのホテルは政府の経営だからで,他の華僑の経営する2,3流のホテ ルではそうでもない。

 アンコールの遺跡群は,日本では単にアンコールワットしかあまり知られていないが,

この密林のなかの巨大な石造の遺跡群は,東南アジア否世界的な観光資源であろう。カン ボヂャ政府は観光政策上,アンコールの遺跡群の保護には非常に力を入れている。遺跡の 修理が大規模に(方法は原始的であるが)行われ,またアンコールワットの石舞台に古典

舞踊が観光客相手に政府直営で行われている。非常に高い(公式レートでは2,500〜2,600 円である)。観客は全く外人ばかりであった。

 バンコックやマレーシヤの諸都市にみられた極彩式の寺院とおよそ対雛的な灰色一色の この遺跡群については,既に多くの文学者によって語られ,紹介されているし,また本年 報で重藤教援の研究があるのでここでは多言を用いない。アンコールの遺跡群は,わが国

ではアンコールワットが持に有名であるが,これに近い規模の遺跡郡がその北方の密林に 点在し,一つ一つの石材にすべて彫刻がほどこされている。この巨大な石材が水運によっ

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てはこばれ,テコの理でつ み上げられたことは知られ ているが,この巨大な文化 財を残したクメール人と,

今のカンボヂや国民の間に どうしても一連覇つながり を感ずることが出来ない。

長い間の植民地支配が,か かる遺跡群を残すような巨 大なエネルギーを澗渇せし めたというのであろうか。

鷺蜜

 ㌔ {:塗煙導寒

第13図 アンコールの遣跡の修復

アンコール・ワットはじめ,多くのアンコールの遣跡群は,

世界的な観光資源である。社会主義に近い中立系のカンボヂ ヤもアンコール遣跡群に対する観光政策は非常に力を入れて いる。写真のような,原始的な方法で大がかりな修理が行わ れている。

5 沖縄と2つの中国?一台湾

 ホンコンから台北にわたった時,その市内の商品のあまりにも貧弱なのに驚いた。丁度 日本の3流地方都市程度である。ホンコン商品の豪華さに眼をうばわれていたといえるに

 副欝嘱

聯磯

.癖i灘、

懸菰麟・外総

第14図 台湾の水田(台中附近)

台北では苗代の時期であったが,台中に近づくにつれて,

田植が進められ,台中近効では田植が終っていた。

しても,あまりにも対臆的 であった。台湾は不景気で あるが,重税が台湾人に重 くのしかかっている。料飲 店にはたらく女性までが,

そのことと米の高くなった のを嘆いていた(正確な記 憶はないが,それでも日本 の梼程度であったような気 がする)。

 米といえば,台北では桜 が散って新緑に入り,まだ 苗代の時期であったが,南 へ進むにつれて,田植が進

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東南アジアの国々 15

めちれ,台中では既に終っていた6施形からいっても,そうした農業景観からいっても台 湾は日本と非鴬によく似ている。 顔などほ甘木人と全然区別がっかない。私など,随分台 湾人として多くの人々からはなしがけられて困らだ。・しかし農家は赤レンガの家が非常に 多く,塊震がなく;』只地面からつみ上げちれているだけである。農村のなかの小さな市場 町も殆んど赤レン寿の家がならんでいる。そして農村で煙をあげている小さい工場は殆ん

どレンガ工場である。.台中へ行ぐバスの中で持に気炉ついたのは,日本の製薬工場の農村 進出である。

 興味が深かったのは,台北や台中の町で,日本の戦前,或は戦時中に流行しだ歌謡曲や 哀慾をおびた軍歌が大流行していることである。しかも日本のその時のように,駅や町や 村の要所には憲兵が立っていた。戦前,戦中に青春時代をすごしたわれわれほ, そんな光 景に何か本能的な恐怖感におそわれた。

 台湾人で30才以上の人は殆んど日本語が理解出来る。台湾人といっても,日本の統治時 代に台湾に住んでいたいわゆる本省人である。そして,むしろ不思議な位,彼らは日本人 に好意をもっている。 当然であるが蒋介石が統治するようになってから大陸から移住した いわゆる外省人は日本語も理解しないし,月本に対する持別の感情はないのではないか。

30才未満といえば,日本から解放された時にまだ子供であった人達であるが,面白いのは,

いわρる高砂族(ここの女性は美人が多い)では,直なお,その家庭で日本語が日用語と しても使用されているそうで,そこの子供はよく日本語を話せるξこの弧立的な社会に対 して,戦後の蒋介石政府のいわゆる徳化が充分に行きわたらないのであろうか。

 総省人と本省人との対立は,台湾の重要な社会問題であb,政治問題である。われわれ の乗ったタクシー(出租汽車という)の運チャンが,偶然本省人であった。彼は親しげに われわにはなしかけてくれた。流暢な日本語であった。話がなにげなしに外省人と本省人 との関係にふれていったトタンに,彼は口をつむんで,二度と話をしょうとはしなかったb 冠省人,本省人の対立問題は,.台湾では禁句のようである。そして町の辻や,農村の農家 のレンガ屏などに,大陸奪還,共匪討滅などのショッキングなスローガンが氾濫してい

る。

 権力あるポストは殆んど外省人ににぎられ,日本統治時代よりも,支配者どしての外二 人の数も多く,交通整理のお巡りさんまで外訴人が多いようであち。このような意味℃,

外省一対本省人間には問題が多い。いっか日本のテレビでも,その兵士め肉体にまで共匪 討滅のスローガンがかきこまれていたが,こうした国内の諸問題に対してきびしい思想統 一が行われ,大陸奪還とか共匪討滅などの文句は,そうした問題から本省人の眼をそらす ためのものではないだろうか。その強大な陸軍は,実は国内にむけられたものと思える。

台北から台中に向うバスのなかで,農村に立派なコンクリート建築をしばしばみかけるの で,初め工場の進出と考えていたが,となりの青年から,あれは兵舎だと,さもにくにく

しげにわれわれに話してくれた印象を今だに忘れることが出来ない。

(16)

 われわれが訪忌中に,副総統の張番が死去した。すべての新聞が,最大級の美辞麗句を・

ならべて彼の業蹟をたたえていた。殆んどすべての紙面で,彼に関する記事がみられた。

われわれは,日本人としての礼儀でもあると考え,話しかける機会のあった2,3の人々 に哀悼の意を表したのであるが,誰も張群の死を知らなかったし,また張群をさえ知らな かった人もあった。 (かといってなにも,われわれが彼の偉大さを否定しようとは思って いない)。巷に氾濫する古い日本の歌謡曲の流行は,ものいわぬ庶民(ことに本省人)の・

蒋介石政治に対するはかないレヂスタンスではなかろうか。日本の政界で,よく2つの中=

国論がたたかわされている。それは何らかの政治的意図で論ぜられていると思うのである が,まさにこれは根拠なき架空論で,もし,アメリカ第7艦隊の支持が取り除かれたら,

2つの中国論は空中分解を起すのでないかと思う。

 それでも台湾では,殆んど米軍兵をみかけなかった。これはいささか意外であった。そ の点沖縄は全く様相がちがう。ここは米軍の基地そのものである。

 国破れて山河あり,これは中国の詩であるが,敗戦の直後日本をおそった豪雨が各地に 水害をもたらした時,われわれは国破れて山河既になし,となげいたことを記憶している が,沖縄ではその言葉があてはまるのではないだろうか。同行の前川助教授は,かってこ の地に駐屯した沖縄の生き残りであるが,彼はつくづく私にそう述懐した。日本でさわが れている原潜は常時入港している。沖縄の経済の70%は基地経済に依存している。今日,

主産業である砂糖の価格下落のために,沖縄はいよいよ特需依存をつよめている。佐世保 では外人専用バーの経営者がその経済的理由から原潜入港賛成のデモを行ったことは,わ れわれの記憶に新しい。 これが全島的規模で特需経済に依存する沖縄で,果して日本復帰 が実現しうるであろうか。琉球大学の卒業生のうちから,毎年数十名が,アメリカ本土に 送られ,その教育をうけて    朝.、塚嘗櫨癖ゴゾ み  、L,城旭,.

彼らは新しい沖縄のエリー トとして帰島する制度が取 られているかにきく。米人,

黒人,比島人という階層の 下に,日本人(沖縄人)が 社会的に位置づけられて いる。米人を自動車事故で 死亡させた日本人運転手に 6.5万ドルの弔慰金の支払 が,裁判所で命ぜられてい る新聞をみた。日本人なら 1,500〜3,000ドルがせいぜ いである。基地の街那覇や

第15図 一家全滅した世帰のあと(北部沖縄)

附近の住民が,全滅した家族をあわれんで,写真にみるよ うな小屋をその宅地跡にたてた。

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東南アジアの国々 17

新しく基地の建設されている中部一帯はまさに西部である。小さな島にふつり合いな広い 軍用道路が縦横に走り,横文字の氾濫するまさに西部の街である。軍用道路の外側の草む らのかげに 息をひそめて 住んでいる農家と,時には,それとは凝血的な立派な沖縄特 有の墓を発見するとき,始めて,アアここは日本の沖縄だなあと気がつくのである。

おわ りに

 東南アジアで,われわれの会った人達はみな同じ顔を同じ皮膚の色をしていた。マレー シアのインド懸人だけが異邦人という感じをもっただけである。人肉的にも東南アジアは 一つである。旧植民地支配から脱した新興独立国である点ではもちろんそうであるが,羽 田をたって,ホンコンで小休止した時,そこにあるいている人にうっかり日本語ではなし かけて,相手がキョトンとした時「ああここは日本ぢやないんだなあ」と始めて感じた位 である。人種学的に,黄色人種とか褐色人種とか区別したり,タイ人,カンボヂや人,マ レー人などと区別することはどれだけ意味があることだろうか。彼らを異人種として対立 せしめる政治的意図が働いているのではないだろうか。戦後のアフリカにおける多数の小 国の独立の理論的背景として,それぞれの国の人種の相異があげられているが,これとて も,分割して統治する古い植民:地支配の思想が,むしろその人種的根拠の背後にひそむ政 治的意図であることを考える時,なお,東南アジアの人種的分類の政治性を感ぜざるを落

第16図 タイ,カンボヂや国境近くのタイ人の飲良店  タイの婦人に美人は少い。珍らしいタイ人の商店(多く は華僑である)である。この老婦人は,歯をおはぐろでそ めている。多くそうである。より貧しいタイの老婦人は、

頭髪を男子のようにみじかくしているので,男女の区別が つきにくい。われわれの少年時代の日本の老婦人と殆んど 区別がつかない。アジアは1つだと思う。

ないのである。東南アジア は1つである。それが,ベ トナムにおいても,またマ レーシヤとインドネシア,

タイとカンボヂヤ,台湾と 中国大陸との分裂或は坑底 の背後にあるものは何であ ろうか。SEATOに参加す

る東南アジアの国はわっか,

タイとブイリッピンのみで,

他はすべて非東南アジア諸 国である。ここにわれわれ は,東南アジアの分裂する 真の根源を感ぜざるを得な いのである。これらの国々 において,共通の言語をは なし,政治的に対立のない 平和を現実することがどんなにすばらしいことだろうかと思う。

(18)

 言語といえば,東南アジアでは,日本で英語が普及している程度に,日本語が普及して いる。戦時中の日本軍の功罪の功の面だろうか。好悪の感情は別として,東南アジア諸地 域の日本に対する期待は大きいし,やはりアジアで畏敬されているといって よいであろう

(ホンコンでは,どうも別のようである)。しかし,その期待ないし畏敬は,日本の経済 力や教育に対することもさることながら (バンコックのある貧しい中国人の店主が,大事 そうに,日本の大学の留学生制度に関するパンフレットをわれわれにみせてくれたことは 極めて印象的であった),ありようは,ふたたび日本がかってのような強大な武力を復活 して,東南アジアににらみをきかすだろう.という,文字通りおそれを伴った期待がむしろ 中心だったように思えてならない。

 意外なことの1つは,東南アジアでアメリカは決して好感をもたれていないことであっ た。原爆を投下したBaδNationだということを,マラヤの青年は,日本のためにアメリ

カを非難してくれた。バンコックで会ったアメリカのある大学の一教師が,挨拶もそこそ こに,突然,日本に対するアメリカの原爆投下は,数十万の日本人とアメリカ人の生命を 掌ヅ・と考えるが沼はど偲うかといわれ塒・アメリカ人は1躰のインテリ斌の 事実をξう殉とめでいるか緋常1こ気にしていることに思い堕し・一方案外そんな事 実を忘れているのは当事者である日本人ではないだろうかと思わざるを得なかった。

一部業者が被爆地を観光資源としか考えているのは論外であるが。

 敗戦の傷あとの観光といえば,沖縄の戦跡は,今や全く観光地化している。しかし,そ

こには腱さすよラ鰭痛騨伴う…スの案内嬢の興野を塗がす躰人力満牌多

いそうである。われわれは友人に案内されたので幸か不幸か,その説明をきくことが出来

         の      

なかった。ひ酔ゆりの塔に案内された時,この犠牲者達は・みな自分の教え子だったと・

そ爾友木がはなしてくれた時,涙をおさえようがなかった。

 バンコックに京大の東南アジアセンターの連絡所がある。そこで,色あくまでも黒い,

回るからに頑丈そう苓偉丈夫に会った。京大の農学部の教授であった・彼は長期間現地の 農村に入って地味な研究をつづけてこられたそうである。マラヤでは,米の二期作を指導 して,政庁から勲章(この勲章のなんと光輝あることよ)をもらったコロンボプランの農 林省技術者のはなしをきいた。ペナン島では,京大文学部の教授とその1行(このなかに は京大:地理教室の自分の後輩も参加していた)に会った。ペナン島の支那寺の石碑の拓本 から,当時の華僑の実力者を研究したいということであった。

 この教授は,学士院賞をもらった世界的に高名の学者であるが,そんな人々が,極めて 地味底仕事をコツコツや?ておられるのを玲て,われわれのような馳け足の研究旅行に,

いささか気はつかしい思いをせざるを得なかった。われわれの研究旅行も今回のようなも ののみに終ることなく,次には是非そのような機会をもちたいと願っている。

       (1965.7.6)

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