タイ国華僑社会の変貌と中華総商会
一50年度海外学術調査報告・補遺一一
市 川 信 愛
も く じ 1.流動する華僑社会
(1)はじめに
② ポストヴェトナム下のタイ国華僑の動向;管見 ① 米ドル紙幣の高騰
② 追われる台湾系華僑 ③ 華僑団体の動静 ④中国製品の進出 2.タイ国華僑団体と中華総商会 (1)概 況
(2)泰国中華総商会小史く資料〉
① 時代に即応した創設 ②建設の進展 ③会務の拡大と発展 3.今次調査の概要と今後の課題 (1)調査の目的
(2)調査の状況 (3)整理計画 (4)成果の見通し
本稿は,昭和50年度科学研究費補助金 (海外学術調査 現地調査)による現地調査 ri華僑社会における幣派主義の変貌過程に関する実証的研究一タイ,マレーシア,シン ガポールを中心として 」の基礎報告として行った,須山卓教授との共著r華僑社会の 特質と幣派』 (1976年6月)所収の拙稿「泰国華僑社会の特質と幣の諸形態』の補完とし てなされたものである。
1.流動する華僑社会
(1)はじめに
東南アジアにおける華僑(Oversea Chinese or Chinese Imigramt)ないし華人
(Local Chinese)の位置と役割およびそれをとりまく環境条件が,ポスト・ヴェトナム下
の新しい情勢変化の下で,現在いかに流動化しつつあり,時として極めて重要かっ危機的
局面にさえ直面しているか,しかもそれがいかに国により地域によって複雑多様な様相を 呈しているか。この実態をハダで感じ,直接見聞する機会を与えられたのが,今次「50年 度科学研究費補助金一海外学術調査一現地調査」によってである。訪問国は,タイ,マレ ーシア,シンガポールの3国とホンコンであるが調査が必ずしも順調に行われえたわけで はない。それは,国によって(例えばマレーシア),華僑,華人,中国人等々の呼称すら 公然と呼べないほど,複雑な民族一人種間の感情対立が鋭敏化しており,調査活動を自主 的にセーブし,単なる資料集収ないし予備調査にとどめる措置をとらざるをえなかったか
らである。
一方,シンガポールにあっては,新らしいNation buildingのために,その9割以上 が中国系住民でありながら,敢えて「華僑」 「華人」という意識を切り棄て, 「シンガ ポーリアン」というコンセンサスへと,国民の意識を統一しようとしている。そこではマ レーシアとは別の意味で,やはり,華僑は死語化の運命をたどっている。両国で発行され ている現地紙『南洋商報』にも,ほとんど華僑の文字を見出すことは出来ない状況になり つつあるのである。
ところが他方,華僑の現地化がもっともスムーズに進展し,融合社会を形成しつつある といわれ,評価されるタイ国にあって,予想を裏切って,華字新聞に華僑の文字のはんら 註(1}
んを見出したのである(内田直作教授も同じ所見)。このような相異は,果してどこ から生ずるものなのであろうか。ポスト・ヴェトナムという情勢下にあって,中国一中華 人民共和国との対応の差がこのような面に現れている,いわば一時的,政治的現象なので あろうか。確かに,それぞれの国,社会個有の事情によって生じたものであろう。だがそ こには,華僑団体一挙派と現地社会との対応の内部に深い要因が伏在しているように思わ
れる。
本稿では,第1に今次海外学術調査旅行における見聞のうち,主題とかかわりのあるい くつかを,流動するタイ国華僑社会の一断面を示すと考えられるものに限り収録した。
第2には,今次調査旅行により,現地で入手した最近の文献,資料をもとに,タイ国にお ける華僑団体と幣派の特質に関する分析は,須山卓教授との共著r華僑社会の特質と幣 派』 (1976年6月,長崎大学東南アジア研究所,研究叢書No.ll)において,一応果した
ところであるが,紙数の都合で収録できなかった「泰国中華総商会史」に関する史・資料 をその補遺として掲載することとした。翻訳には,長崎県立国際経済大学中田喜勝氏の協 力をえたことを特記し,謝意を表したい。
② ポストヴェトナム下のタイ国華僑の動向 ①米ドル紙幣の高騰
タイ国の華僑は,表面は一応平穏だがポストベトナム下の流動する隣…国の情勢に極めて
敏感な動き,反応が内部ないし底流ではかなり激しく進行しつつある。それは社会の表面
に現れた最近のいくつかの事例から,推察することができる。一つは,1975年4月の100
USドル紙幣のヤミレートの急騰であり,いま一つは,上流華僑の子弟の学ぶHigh Schoo1(私立)の生徒の異動=急減一カナダ,オーストリア,アメリカ,シンガポー
ル,ホンコン等への転出者の急増である。
75年9月にバンコクを訪ねたときにはも早,生命,財産の安全地帯(?)への分散,逃 避は一応完了してしまったあとだという見方が支配的だった。 (東銀その他にて聞取)
75年4月17日のカンボジャにおけるクメール・ルージュの圧制,引きつづく4月30日サ イゴンの陥落,更には6月のラオスにおけるパテトラオの首都ビエンチャン進出という一 連のポスト・ベトナム情勢は,極めて敏感にタイ国華僑に反応と影響をもたらした。
その1つが,US100ドル紙幣のヤミレートの高騰にほかならない。タイ国はドルと 固定レートを設定し,1$一20.25BAH:TS(バーツ)を中心に上下30カターンで操作さ れているが,サイゴン陥落直後には,実に25バーツ近くに高騰,それはヤミレートではな く,現地銀行,外国銀行とりわけ日系の東京銀行,三井銀行も例外ではなく,どこも公然 と要求され,行われた。
例えば,東京からのUSl,000ドルの送金為替を銀行にもって,ドルの現ナマに交換し てもらおうとすれば,一番ヒドい時で76USドルの手数料がとられたという(某紙特派員 の話)。これは実に,7.5%の手数料に当る。但しドルでなくバーツで受とるときには,
正常レートで換算され不合理性は表面化しない。ピークは3月末〜4月初の時期で,US ドル紙幣(とりわけ高額のIOOドル紙幣)がこのような高値を呼んだのは,いうまでもな くドル貨とりわけ100ドル紙幣に対する需要が急増したためであり,その要因について は,次の推測がなされている。
一つは,ベトナム,カンボジア,ラオスから流入して来た難民たち (華僑)が,財産
(とくに金塊)を持参,それを更に国外に持ち出すことが困難(タイでは金の流出をチェ ックしている)なため,ドルに換えようとした。持ち出すのには当然,高額紙幣の方が便 利なので,IOOドル紙幣へ需要が集中した。
いま一つは,タイ国内の台湾系中国人が財産の分散をはかり,バーツをドルにかえよう とはかったが,外貨の持出しについては,タイ人の場合1日当り40ドルで90日分(3,600
ドル)を限度としている。従って,それ以上持ち出そうとすれば,当然ヤミで入手せざる をえず,ドル紙幣への急需要を呼んだ。
これには反論がある。華僑は古くは本国送金に始まり,全世界各地の華僑同志秘密の送 金ルートがある。例えば,バンコックのある両替屋に預けると,自動的に外国の某金融機 関にある預金口座に自動的にふり込まれるしくみになっている。いうまでもなくこれは,
華僑の本土送金によって形成された一種の秘密結社であり,何らかの「翻派」に所属して いさえすれば,このヤミルートを使って海外への財産逃避は可能なわけである。従って,
これ以外の中国人,台湾系の中国人がこのようにドル紙幣買いに走ったのだという観測が
成立つ。
一方,カンボジア,ラオス,ヴェトナムから流入した難民の中には,多額の金塊を所持 して来ており,そのままタイ国外へは出国出来ないため,急きょドルに交換したのだとい う説明をする者もある。いずれにせよこの変動で巨利を得たのは,在泰の中国人Money 註(2)
changerであった。
② 追われる台湾系華僑
1973年のスチューゲンツ,パワーによる10月革命の成功を契機として,従来反共的態度 に終始してきたタイ政府の,対中国姿勢の転換は決定的なものとなった。もちろんニクソ
ン政権下の米中接近,日中関係の緩和以来,タイ国の政治関係には,様々な変化が現れは じあていた。タイ中貿易関係の公認,プラーシット商務相(華名,許啓茂)の北京訪問,
左翼的人物と目されていた出子綿(潮州府普寧県原籍,元米商公会理事長)の,中華総商 会の副主席のポストへの復帰等々の一連の動きの中にうかがうことができる。だが,総商 会の政治活動は政府によって承認されていないから,これをもって,華僑団体の政治姿勢 の転換と即断することはできない。むしろ,対中国へのジェスチュアーとみるべきであ る。即ち,中国本土とタイとの国交回復は,ヴェトナム戦争終結後急速に進展した。と同 時に,まずタイ政府関係機関からの台湾系の技術者,顧問が一せいに引き揚げさせられた
しそれ以前に台湾系中国大使館は直ちに閉鎖された。
1973年春,チェンマイ郊外の国立大豆農試, Soybeall Development Project of Chiengmai, Department of Agricultural Technologyに働いていた台湾系の技術者丁 氏は,今回訪ねたときは既に強制退去に近い形で帰国し,そのあとを,彼のAssistant だったタイ人の女性技師が引ついでいた。熱心なT氏が残していった幾つかの農業暦(台 湾政府発行)や,トーガラシの標本は,彼のAssistantのタイ人女性によって実験室に 尚,キチンと整理されて残っていた。
バンコックには,台湾省出身の医師が少くない。ほとんど日本の医大か旧医専の出身者 である。1975年の初め,中国系医者を中心とする開業医の人気アンケート調査を,地元某 華字新聞がやった。その中で,日本人に人気のある台湾系医師L氏について, 「ウデはい いが料金が高い」と書かれたたあ,急に患者が減ってしまったという。筆者は73年2月に タイを初めて訪ねたとき,猛烈な下痢に悩んだあげく彼に診てもらったことがある。日本 の医専を出た日本語のうまい感じのいい医者だった。今回は連絡がとれず会えなかった が,いま,タイ以外の国で開業するか,台湾に引あげることを検討中だという。 (ジェト
ロでの話)。
しかしながら,440万人と推定されるタイ国華僑の大多数は政治的立場を鮮明にせず,
むしろ積極的に,愛国的態度を表明している。バンコク市内でも田舎を旅行しても,各地 にある華僑経営の食堂や商店の壁には国王と並べて掲げられている肖像写真は,孫文であ
って毛沢東でも蒋介石でもないのである。これは初歩的保身術と評価することもできよう
が反面,現地への同化への積極姿勢を示すものだとみることもできるであろう,例えばア
メリカの日系二世,三世が第二次世界大戦中に積極的に兵役に志願した心情と一脈相通ず るものがあるようにも思われるからである。
〈説 明〉
(市出山厳山
左川 本写本
か((哲陞勝 ら筆中也(三
)二二(潮(
)総北州ジ
商九二 工 会大館 ト 副)総ロ 秘 幹)
喜 事 長 ) )
サートン路,泰国中華 総商会館前広庭にて,
敬省略。
(1975.10.5)
③華僑団体の動静
バンコック市サートン路にある泰国中華総商会を訪ねたが,現在の役職員の大部分は,
台湾系ないし親台湾派の人たちによって占められているように思われた。役員の任期は2 ケ年だというので,1976年は改選の年に当り,恐らく,次の改選で台湾系が退陣し,親中 国派が台頭するのではないかという見方が支配的である。いうまでもなく華僑の変り身の 早さは定評のあるところであり,これをもってタイ国華僑の体質が変ったと判断すること は禁物であろう。有力な中国系タイ人の大部分は,財産も子弟も国際的に分散しているか らである。例えば,息子を2人もつと,1人は台湾系に1人は中共系に仕立てるといわれ るごとくである。 (上掲写真参照)
しかし,華僑諸団体の対応は,表面的には平静だが,地域によっても異る。バンコック には,台湾の華僑テコ入れの中心ともいえる「中華会館」があり,蒋介石からの寄贈によ って建設されたもので,その中に「中山記念館」と称する図書室がおかれている。蒋介石 の写真は流石にはずされてはいたが,彼の銘入りの書は未だ堂々とかかげられていた。
Main−land Chinaへの気がねは,地方へ行くほどうすれ,ピサノロークにある中華会館
には,蒋介石の写真がかかっていたのを確認したし,海南会館(中部〜北部タイのセンタ ー)にも,彼の名前が見出された。
ともあれ,一時的な混乱はあっても,タイにおける華人系ブルジョアジー(資本家)の 動静は,75年10月段階では一応の平静さに立ちかえったとみてよいであろう。全般的に は,ポスト・ベトナムの中で,依然国内にとどまって事業を継続しようとする華僑ないし 中国系タイ人の数の方が圧倒的に多い。当時前ククリット政権の政策を積極的に支持,中 には政策提言さえする華人の団体,グループも現れ始めていた。とくに大蔵大臣や皇帝へ の接近を積極化した中国系タイ人が識6られる。それは政府や皇室への拠出金,献金等の 増加となって現れているという。
更には,企業への投資活動となって現れている。主体はセンイ部門だが,鉄鋼,自動車 一石油,食料,雑貨の部門へも向い始めている。これは,金額こそ外資に及ばないがポス ト・ベトナムによるアメリカ離れ傾向の中で,外資の直接,間接の投資が急減したことへ の代替として注目されるのであるが,同時に国家権力への接近をうかがわせる。
もともと,タイ国における華僑は,他地域の華僑よりも,特に政府と密着している。
それは,タイ国政府内部に,華僑子弟の要人が多数居ることに起因している。例えば,
「故サリット旧師が総理の時代(1959〜63),当時の中華総商会主席張二三に対し,数々 の政府への協力に対し何か酬いたいが何が欲しいかと問われ,メコン企業が欲しいと答え た処,直ちにOK:と独断決定され,移譲されたものである。現在の社長は張蘭臣の長男旧記 如」で「タイ国財界の巨頭になっている。政府企業の華僑移譲中最大の実例である」。ま た「数年前から,タイに於けるタクシーには,メーターを附けねばならなくなったが,之 は,メーターの業者である華僑が,政府の役人と結託して着けさせたものである。しかし このメーターは,現在全然使用されておらずタクシー代は乗客とタクシーとの交渉で決め 註(3)
られておる。政府機構と華僑との商売上の露骨な密着の適例であろう」と。政府と華僑有 力者との癒着を示す事例は枚挙にいとまがない位である。したがって,アメリカ離れでゆ れる新情勢の下で,華僑資本がより前面に進出する傾向が予測されるのである。
以上の管見から,一般的な結論を導き出すことはつつしまなければならないが,ポスト
・ヴェトナム下の流動するインドネシア新状勢の中にあって,タイ国華僑の対応は,大別 して,生命,財産の国外転出一逃避分散型と,反対に積極的同化・協力型および,傍観な いし静観型の3つのタイプに分類されるが,大勢としては,より一そうタイ国への同化と 土着化を深めて行く方向で,対処しようとしているように思われるのである。
④中国製商品の進出
1975年7月の泰中国交回復を契機として,バンコクのChina townヤワラ地区の商店に は,「中華人民共和国各種商品」の看板が目につくようになった,更に,部内の中心商店 街にも,中国製品専門店が開店し,物珍らしさに客を集あている。
しかし,その主体は雑貨製品で,品数も少く,目覚まし時計,ボールペン,万年筆石
けん,洗剤,漢方薬,民芸品等で,一頃日本でも中国製品物産展等で即売されていたのと 大差はない。価格も,日本円に換算して,ボールペンIOO円〜300円,万年筆500〜2,000円,
目覚し時計2,300〜3,000円と,決して安くはない。国交回復前,密輸や他国経由で輸入さ れていた時の方が,安かったという不満さえ出ている。繊維製品は未だ輸入されていない ので,日用生活必需品の面での大きな影響は観察できない。中国との直接貿易は,74年2 月,タイ国商務省「対中国貿易禁止令の一部改正」により,一般機械,工作機械,化学 原料,原油等8品目に限り,ライセンス方式による取引が開始されて以降のことで,未だ 全面的通商協定の締結には至っていないためである。日本における友好商社貿易に近い形 で,輸入された商品が列んでいるにすぎない。
しかし1974年実績では,輸入9,145万バ・一ツ,輸出223万バーツで,約8,922万バーツの 大巾入超となっており,輸入品目の主役は石油の67%で,その他は家庭用ミシン(6,000 台),工作機械,モーター,漢方薬等の順である。一方輸出では,90%以上が米で,その 他も食料品である。直接の輸入以外に,香港,シンガポール経由での間接輸入が相当額に 上ると考えられるから,中国商品の流入は,より大巾のものと考えられる。
a 家庭用ミシン
中国製品は,単にバンコックのヤワラにとどまらず,既に地方都市から農村にも普及し 始めている。バンコックから80キロ内陸に入った交通の要衝サラブリの商店に,中国製の 家庭用ミシンの新入荷を大々的に広告していたのを目撃した。これは,ひとり華僑のみで なくタイ人中流階級にもかなりの人気を博している証拠である。日本製ミシンと比べる と,デザインも不体裁だし,ジグザグ縫いの出来ない直線縫いだが,価格が6〜8割と安 く,操作が簡単なこと,および部品が,タイ国内で生産され,修理が容易なことである。
即ち中国製ミシンは,マシンヘッドのみを輸入し,テーブル,脚部はタイ国内で作ら れ,アッセンブルされている(工場は華僑経営)ため,小売価格が割安となっている。ジ
ェトロの調べでは次の如くであった。(1975年7,月現在)
申国製ブランド名 South China Butter Fly Sea Gull Flying Dove Flying Man Typica1
上台価格
1,700ノ ミーツ
ユ,850
1,800 1,800 1,700 1,600
〃
〃
〃
〃
〃
日本製ブランド名 :New Lion
New Home Panda
上台価格
1,800ノ ミーツ
2,200 〃 2,400 〃
このように価格が安い上に,品質機能は同種の日本製品と比較して劣らないので極めて 有力なライバルとして,今後急速にタイ国内家庭用ミシン市場のシェアーを拡大して行く
ものと考えられる。
b 農業機械
更に注目されるのが,中国三農器具の普及である。もともと,タイ農村への華僑=ミド ルマンの支配力は極めて強大である。大型農耕機械一トラクターは,賃耕という方式で大 部分ミドルマンによって所有されているが,そのほとんどは米国製(フォードが多い)で ある。この分野では,日本は後発の地位に甘んじている。その理由は,日本企業の行動様 式に起因しているといわざるをえない。
周知のとおり,タイの土壌は強重ネン土質である。一雨降ればぬかるみで足をとられ,
2〜3日晴天が続けば,たちまち石のように堅くなるため,農地を耕転ずるのに日本製中
・小型耕転機では歯が立たない。専ら米国製トラクター(一部ドイツ製)の独断場であ る。勿論わが商社がこれを見落すはずはなく,再三メーカーに製造を打診したことがあっ たが,いずこも問題にしてくれなかったという。国内向け小型テーラーで充分採算がとれ ているのに,工場のレイアウトから改め,不安定な東南アジア向けの生産に切りかえるこ とは,大きなリスクを伴うからである。
中国製農機具の特質は,外観は日本製品に比べよくないが安値なこととタイの土壌に適 合した中型耕転機,使い安い脱穀,調整機であるという評価である。日本の農機具は多用 性のもので,しかも前進3段,後進2段の切りかえが出来るのに,中国製はせいぜい各1 段の耕転プロパーのものにすぎない。このような多目的機能を充分タイ農民が使いこなし えているかというと疑問,充分中国製で間に合うとする見方が強い。更に補修の問題があ る。日本製農機具は,かなり精巧で部品を日本のしかも特定メーカーから輸入しないと修 善ができない。ところが中国製は,極端にいうとエンジン本体を別にすると,パイプとネ
ジで出来ているといっても良い位に単純かつ規格化された構造である。プレス部品も500 トン程度のプレス機械で作れるものである。したがって,タイの技術レベルに対応した機 械であることから,日本製品に対抗しっっ,タイ農民にスムーズに滲透する可能性が強い
のではないかという見方が現地では持たれている。華僑を消費対象とする雑貨とくらべ農 機具市場の拡大は,より広範なタイ全国市場開拓へと向っている。
ところで,タイ市場からみた日本商品と中国商品の鹿逐は,今後益々激しくなるであろ うが,両国が若し競争的に併存しうるとすれば「段差論」的分業をくむべきだという意見 が在泰日系人の間で提唱されている。即ち日本は重工業製品と知識集約型工業製品を担当
し,中国は軽工業製品ないし非知識集約型製品を担当すべきだとするのである。ノーハウ および,マーケティングにおける開差を認めた上での国際分業の論理である。
しかしながら,中国からの農機具輸入は,ミシンにみられた如く,固定ディーゼルエン ジンおよび電動モーターを主体とし,それにタイ国内生産部品をアッセンブリーした灌排 水機,小型自家発電機,脱穀調整機のウェイトが高く,実用性,軽便性,維持管理の容易 性,価格の低廉iさで,日本製に充分対抗している。しかも,中国製農用機械の販売とサー
ビスのネット・ワークがタイ国内に着々と整備,拡大されているのだ。
発展途上国に対する日・中の対応と姿勢のちがいをマザマザと見せつけられた思いであ ったし,「果して,日本は東南アジアにおいて生き残れるのか」という危濯を,再三自問 自答したことであった。
注(1)内田直作教授は,「バンコクにおける華僑社会の構造」(『経済研究』第37号PP.61〜62)に おいて,「華僑社会それ自体は,伝統主義的に凝固した体制を保守現存しつづけ」ていると主 張される。これは,河部利夫教授の「融合論」と,際立って対象的な見解といわなければなら ない。
注② マレーシア滞在中の8月,同じ見聞をした。インドシナ政変に過敏化した情況に加えて,東 マレーシア,サバ州のムスターハ首相の失脚,解任が起り,それに対応するように,ホンコン ・ダラーの交換レートが急騰した。これはマレーシア華僑の資金逃避によるものという観測が 一般的であった。周知のとおり,マレーシア華僑はシンガポールのアジアダラーとの交換を許 されていないので,間接的にホンコンのマネー市場に結びついているからである。
(3)藤島健一『タイ国に於ける華僑』1975年10月,バンコク国際印刷有限公司,,9〜10頁
2.タイ国華僑と中華総商会
(1>:概 観
東南アジア各地の「中華総商会」 (中華理事会,華僑連合総会と呼ぶところもある)
が,清朝の政策的バック・アップもあり,移住現地社会への対応の必要性もあって,ほぼ 20世紀初頭に出そろうなかにあって,タイ国での設定は,シンガポール,ペナン,ホンコ ン等のイギリス植民地下での結成につぐものとして,むしろ早期に属するといってよい。
タイ国において,華僑が強大な経済力を築いた背景には,いうまでもく「甜派」と呼ば れる血縁,地縁,同業縁等々の各種華僑団体の活動があったが,これら諸団体を大きく統 合する総元締的最高機関は,いうまでもなく,中華総商会である。
泰国中華総商会は,同国の社会・経済・政治の進展と変化に対応しつつ,いく度かの変 遷一改組を経験し今日に至っているが,概括的にいうならば,現地社会との調整・融和の 中枢的地位と役割を,一貫して保持し続けて来たと言ってよい。その歩みは,タイ国華僑 社会の近代化の記録ともみることができよう。
更に,東南アジア各地の華僑社会相互の連絡は,各国の中華総商会(理事会,連合総 会)を中心に保持され,あたかも東南アジアというパノラマのスイッチを一つ押すと全域 に燈が点るように,その連絡は緊密である。そのスイッチの中枢は,戦前にあっては,孫 文の時代,シンガポールとペナンが,東南アジア華僑の中心であったが,中i華民国成立後 は,むしろベトナム華僑が,ホンコン・シンガポール貿易を一手に掌握し,第二次大戦直 後の一時期までは,カンボジア,ラオスの華僑との連繋も深まり,東南アジア華僑のセンタ 注(1)
一の地位にあった。台湾政府にくらべ,中華人民共和国の華僑政策は立ちおくれを示す。
しかし,インドシナ半島の戦乱とシンガポールの独立のなかで,その中心は次第に,シ
ンガポールへ移っていくが,とりわけ,ポスト・ベトナム情勢の中では,泰国華僑の動向
が,東南アジア華僑全体に大な影響をもつものとして,ク1コーズアップされるに至ってい る。したがって,泰国中華総商会の歩みをふりかえってみることは,その性格と今後の方 向を予見する上で重要である。以下『泰国中華総商会六十週年記念刊』所収,梁卓雲「六 十年来之泰国中華総商会」 (6〜15頁)を定本とし,陳振泰r泰華僑団史略』 (1975.5,
バンコク)所収の「中華総商会」 (7〜9頁)を補完・参考として同概史を紹介するが,
その前に,泰国中華総商会傘下の各種僑団の概要をみておくこととする。
19世紀初頭まで,タイ国華僑社会は,福建,広東,海南,客家,潮州等の諸幣派が,そ れぞれの地縁一同一語派ごと別れたグループを結成し,相互に横の連絡を保つことはほと んどなかった。箒ごとの,職業ギルド,相互扶助活動,宗教組織はあったが,それは秘密 結社的性格が濃く,郷需一語派四部に固まって,相互に特権をめぐって,猛烈に角逐する
こともめずらしくなかった(械斗)。
1882年から1910年にかけての約30年間の苦力貿易の盛行した時;期には,タイ国へおびた だしい華僑が流入し,その数100万人をこえ,うち37万人が永住し,タイ全人ロに占める 割合は,約10%に達したと推定される。周知のように,この流入華僑の大宗は,高州人 で,他の郷幣を圧して優位に立つようになる。このような背景の中で,タイ国華僑共通の 組織として初めて組成されたのが「天華医院」 (1904〜6年)で,ついで1908年,中華総 商会が首都バンコクに創設された。
これより先,精米業者の団体である「火聾公会」が,上州蕎の手によって結成され(別 名「精米公会」ともいう)中華総商会創設の中心的役割を果した。したがって,総商会の ヘゲモニーは,潮州に属するといってよい。今日,24の会館および同郷会,28の同業公 会,50の宗親会を数えるなかにあって,泰国中華総商会の名誉会員の資格をもつのは,た だ一つ精米所の公会(同業組合)のみであることからも,その歴史的役割が知られる。両 者は,いわば,伯仲した力関係一経済力をもち,兄弟のように密接不可分に結びついてい るともいえよう。因みに第2の勢力グループの永久会員にランクされるものは,潮州会 館,米商公会,銀信局公会(金融機関の一種),土産傭行公会,鍾銀公会,朕誼社,朕華 攣学公会,朕支慈善社の8団体と商店永久賛助会,個人商店永久会員のIO団体である。こ れらがいわば,タイ国華僑団体の中で,有力な団体ということができよう。
そのほかの団体は第↓表に示すとおりであり,いずれも中華総商会のメンバーに加入し ているが,商店普通会員,個人普通会員にとどまる。もちろん,これらの有力団体から,
中華総商会の役員が選出されるが,その任命は2年に1度行われる選挙によって決められ る。現在の会頭は黄三明,秘書長は郭振殿である。
なお表中,※のついたものは,1972年度版『泰華僑団名簿』には見出せず,1975年度版
に初あて登上するものである。宗親会の場合,72年には45団体を数えるのに対し,75年に
は50団体に増加している。則ち,その内訳は,※印のもの9団体が増加し,反対に,表中
から姿を消した5団体がある。その団体名をあげると,
第1表 タイ国華僑団体名一覧表(除華文学校)
商会・同郷会
中華総商会
中 華 会 館 潮 州 会 館 客 属 総 会 広 肇 会 館 海 南 会 館 福 建 会 館 江 海 会 館 台 湾 会 館 雲 南 会 真
潮安同郷会 軍陣同郷会
掲 陽 会 館
町寧同郷会 黒海同郷会 大 捕 公 会
費 順 会 破
墨平同郷会
興 寧 会 館
簡僕同郷会
橋東輔益公会
重陽三頭下田呉氏郷会 潮陽王峡渓尾同郷会
盆山輔益社 普寧三論郷張氏族親会 慈善団体
報徳善堂蟹各回団三社聯合
救 災 機 構 報 徳 善 堂 玄 辰 善 堂 世 覚 善 直 道 徳 善 止 偏 徳 善 堂
※三山慈善院
※義 徳 善 悪 天 華 医 院
i華僑互助社 北撹養老院 中華贈医所 曼堅甲幼院 華僑孤児院 存徳慈善院
誠 慶
※世
※仁
※瑞
徳 善 徳 善 徳 善 徳 善 池 善
堂 堂 堂 堂 堂
※仏三肇互助総会
薩肋仔聯友社
同 熈 社 三盛仁徳互助社 中 医 総 会 華僑新声国記社
※栄興互助社
※三三肋互助社 聯 益 公 会
白橋哺隆肋聯誼瞳
孔堤楽軒国楽社
※善徳互助会
※新興父母互助社
楡聞旧歓社 進徳校友会 培英校友会 広肇校友会 建英校友会 農民校友会
同業公会 泰玉蜀黍土産商公会 土産同業公会
火 鋸 公 会 火 聾 公 会 木 業 公 会
木材出入口商公会
五 金 公 会
米商出口公会 中業側行公会
於 業 公 会 皮 業 公 会
華僑印刷同業公会 金銀回旋同業公会
茶 商 公 会 貨 運 公 会
泰華進出口引公会
華僑派報聯合会 酒 商 公 会 華僑職工聯合会 華 僑 公 弓 袋 業 公 会
華僑建築公会
華僑興信局公会
華華薬業公会
織 業 公 会 縫 業 公 会 糖 業 公 会
影相同業公会 宗 親 会
丁氏宗親総会
六桂堂宗親総会
王氏宗親総会 丘氏宗親総会 朱氏宗親総会 平氏宗親総会 李氏宗親総会 杜氏宗親総会
※圧氏宗親総会 平氏宗親総会 塁塞宗親総会
沈 氏(呉興発祥)
巫氏宗論総会 周氏宗親総会 林氏宗親総会
※林氏南山公総会
海南林氏宗祠 侯氏宗親総会 洪氏宗親総会
※挑氏宗親総会 孫氏宗親総会 徐氏宗親総会 馬氏宗親総会 梁氏宗親総会
崇高氏宗親総会 荘氏宗親総会 許氏宗親総会 陳氏宗親総会
海南陳家社
熔江頴川宗親総会
郭氏宗親総会 黄氏宗親総会
黄氏江夏慈善社
黄氏江夏堂
楊氏宗親総会 猿摩氏宗親総会
※郷氏宗親総会 熊氏宗親総会 察氏宗親総会 劉氏宗親総会 郡氏宗親総会 鄭氏宗親総会
※鷹氏宗親総会
※頼氏宗i親総会
謝氏宗親総会
※曽氏宗親総会 龍岡親義総会 羅氏宗親総会 錘氏宗親総会 蘇氏宗親総会 宗教団体
中華仏学研究社
蓮華仏教社 龍華仏教社 義和念仏敬徳社 大光仏教社 蓮邦仏教社 光華仏教会
万金福寿壇仏教社
明蓮仏教社 寿光仏教社 普覚仏教社 浄徳仏教社
瑠宝亭念仏社
万華仏教社 同徳仏教社 玄徳仏教社
谷府崇徳仏教社
斉天宮仏教社
華宗僧務委員会 龍 蓮 禅 寺 普 仁 寺
普門報恩寺
甘 仙 龍 水 立 沼 天 霊 弥 光 真 振
露 仏 福 福
化 精 江 精
鷲 陀 明 知 興
龍 精 精 精 精 善
寺 寺 寺 寺 舎 舎 寺 舎 舎 舎 舎 堂
覚園念仏林
慈 善 香 芽 小 普 同
寺 苑 寺
(注)『奉華僑団名録』1975−76年より
何盧公堂公祠 立紙祖忌 符氏二二 二二乱雲 雲氏大宗桐
で,いずれも墓地や祖廟の管理,祭杞を主目的としたものである点が共通している。自然 消滅か他団体に吸収合併されたものか,詳らかでない。
いずれにせよ,僑団の中に浮沈と交替が進行していることが推察される。また内田直作 教授は,1972年の同じ文献から「善堂・医院・互助社」等と称する社会事業団体一慈善団 註(2)
体の数をユ7掲げておられるが,75年には,※の付したものだけでも10団体を数え,更にそ れに準ずるものを加えると,2倍近い増加を示していることが考えられる。商会,同郷会
については既にふれたので省略するが,華僑の各種団体は,益々活発な動きを示すものと いえよう。
これらの各種僑団の相互連絡,調整組織として発足し,次第に独自の指導性を主体的に 洒養,発揮するにいたったのが,ほかならぬ「泰国中華総商会」である。その60余年の歩 みについては,次節で詳しく考察するので,ここでは,その概略を摘記するにとどめよう。
商会の名称は,創立時「逞京中華総商会」,民国17年(1928) 「逞羅中華総商会」と改 称,民国29年(1940)シャムがタイと国名を変えたのに即応し「泰国中華総商会」となっ た。創立は,華僑の知名士,商学修,陳論魁(陳宗明の父)らの領袖によって唱導され,
始めは相互の利益を守るために商業上の紛争を裁くことを本務とした。
商学修(精米業)は華僑社会の推挙により,長期間にわたって会長をつとめた。
陳輪魁につづき,彦藻珊(富士圃の父)らは,いずれも巨額の資本を擁し,品位と人徳 によって華僑社会から推されそれぞれ一期つつ会長となった。
高,陳,彦の諸氏は何れも潮州出身で,極あて,順調に諸僑務を推し進めた。1923年,当 時広東銀行の総支配人黄昏修が会長となるや,規約を改め,組織を強化し,かっ商華公国 所,商品鑑定所などを設立した。このころ華僑領袖らは募金を行いIO万バーツを集めたの で,精米公会とともに合同で現在の沙呑路(ShatOD91u)にある会の事務所を購入した。
これによって同会の会務は一層の進展をみせ,タイ華僑社会の団体の中で首位を占めるに いたった。
黄慶修についで1928年,馬立群(広州出身)が会長となり,馬の離任後は陳守明,蟻光 炎,張蘭臣ら3氏が前後して会長となった。陳弁明が会長在任(1929〜32年)中,出会の 会務は大きく発展した。光華堂を建設,中華中学を開設,華僑学校運動会,救済,救護な
どの愛国運動の指導を行なったので,タイ社会においてすこぶる好評を博した。この頃か ら同心は,一切の華僑団体活動の中心となるに至った。
創立当時は,旧事制をとり正副会長各1名,董事49名であったが,以来,主席,委員と 名称を変え,若干の起伏はあったが,ほぼ一貫して拡大し,現在主席1,副主席2,会董 51となっている。爵位をうけた会長は9期の彦藻珊ただ1人であり,在任中殉職したのは,
陳町明と蟻光炎の2人である。これら3人は,今日も同胞の称讃の的となっている。以
下,大きく3つの時;期に区分して,その歩みをたどろう。
(2)泰国中華総商会小史く資料〉
① 時代に則応した創設
泰国中華総商会は,清朝血統2年(1910)に創設されている。当時泰国(原文はシャム となっているが泰に統一した,市川),治安良く,商工業は繁栄し,国民は平穏安楽であ ったが,清朝の政治は腐敗し,民生は衰え,革命思想が流布され,世情は不安に満ちてい
註(3)
た。もともと,泰国華僑は,政治や華命思想には無関心だったが,祖国の不穏な情勢に は,敏感にならざるをえなかった。 ・
このような情勢に対応し,華僑が相互に連絡を緊密にし,集団の力を発揮し,自らを守 ることを目的とする商業団体を組織する必要が,在々華僑の有力者,高学(修暉)一精米 業者,叢論魁(福豆)一「蟹利行」の経営者,伍佐南一泰国華僑社会の指導者,およびシ 註四
ンガポールから来訪した伍房扉一カピタンらによって提唱された。
当時既に香港に「華僑総会」,シンガポールに「中華総商会」が結成,活躍したが,泰 国には華僑の数も多く,彼等の経営する商工業も盛んであったから,商会結成の条件は整
っていた。上記4人の提唱に答え,彦棟珊(華僑で爵位を授けられた有力者)が直ちに賛 同し,サンパン路に3部屋を借りて仮事務所を設けた。規約を制定,理事と会長を選出,
任期を1年と定めた。第工〜第4;期会長には,高学(修暉)が就任した。
註(5)
民国3年(1914),本国政府が「商会法」を公布,会長と理事の任期を2年としたのに 応じ,規約を改正し以降2年置任期となり,
第5期会長 陳倫魁(落梅)
第6期会長 陳澄波(盛秋)
第7期会社 高学修
をそれぞれ選んだ。,この創立期の10余年間の商会の仕事は,訴訟手続,証明書発行その他 の日常業務が中心であった。
民国11年(1922)8月,本国潮海汕頭に暴風雨による災害が発生し,罹災情況は深刻,
広範囲に及んだ。泰国華僑各界は連合して,救援二金を募集することを決議,華僑を代表し て彦藻魚が第6代皇帝に実情を奏上したところ,5,000バーツの下賜金を交付された。こ れを契機に募金は順調に進み,集った巨額な救災資金は,逐次汕頭へ送られた。
民国13年(1924),彦藻珊が第9期会長に選任,借用中の会所が手狭で不便なため,独 自の建物を購入することが議決された。ところが,彦会長の急逝に会ったが会長は臨終の 際1万バーツを基金として寄付された。以降,副会長伍佐南が代行した。
第10期会長,周六輝はその遺志を引継ぎ,建築準備金は10万バーツに達したが,会所建 築は未だ実現しなかった。
民国15年(1926)周回渾会長の時代は,国民政府の北伐の時期に際会,若い華僑はその 註(6)
影響をうけ,中華僑商会のあり方に不満をもち,匿名信書で攻撃する者があった。周会長
は単なる反抗とはみず,その批判を旦懐にうけ入れると同時に,やり方が間違っている場
合や文面が過大な場合は,遠慮なく反論を加えた。会長自身,情勢が極めて複雑で流動的 かつ前進的方向をたどっていることを洞察し,華僑各層を訪問して意見を交換,任期が終 れば,人才を求めて中華総商会の刷新をはかることを決意した。
熟慮の末,広東銀行泰京支店長黄慶修を選抜,第11期会長に選任,自らは退いたが,誠 意と懇切な態度で,旧記有力,著名な華僑と会見し,新体制の支持を働きかけた。かくし て,商会は,全面的に革新されたが,このために尽力した周前会長の功績は不減である。
② 建設の進展
黄慶修第ll期会長は,民国17年(1928)就任後直ちに,会所の建設に積極的にとりくみ 周面輝,陳梧責,黄慶修,瀟鉱毒,画面水,白油宜の6名を選び「建築購入委員会」を結 成した。候補地として理事達とも近く,華僑が集り易い商業中心地が物色され,天華医院 の地点が第1候補にあげられた。早速委員は天華医院側と交渉に入ったが,医院側は,医 院の前の土地半分を分割譲渡する代りに,商会側は,集った寄付は多少に拘らず,すべて 医院へ交付し,新らしい病舎の建築資金とするという条件を提示して譲らなかった。両者 の距離が離れすぎて,交渉は行きずまり,遂に破談となった。
場所の決定では,市街地では地価が高く,騒がしいし,郊外は交通に不便であったので それ以降も難航した。幸いスピー山路に適切な土地が見つかった。ところが,購入して間 もなく,シャートン路(現在地,市川注)の「孟買洋行」跡地に,広さ合計2千余平方ヤ ードの3階建の洋館ユ軒,2階建の洋館2軒を求めることができた。場所が広く,価格も 高くなく,とりわけ建物が利用可能であった。そこで,精米同業組合と共同購入を決め,
組合が4割,商会が6割出資し, 2階建の2軒は組合に所属し, 3階建の方は商会の所 属とした。同年!2月には,会所裏に職員宿舎を建て,すっかり面目を一新して新年を迎え た。なお,家具,什器その他は,精米同業組合,広肇会館,江漸会館,華僑虚業公所が別 個に寄付した。
民国18年(1929),第7代皇帝を顧問に,当時内政部面陸軍大臣ラコンスワン親王と交 三部大臣カンポン・ピー親王を副顧問に迎え,翌19年(1930)正月,祝典を挙行,皇帝夫 妻が来臨しテープカットされ,各部大臣,各国駐在公使,領事並びに各機関,各僑団の長 が斉しく列席され,空前の盛況であった。
会務も刷新,拡大し,とりわけ新設された商品検査科は厳正,正確で声価を高め米穀検:
査では,各公司,洋行の米の検査をほとんど引きうけるほどの盛況ぶりであった。
民国19年(1930),馬立華が会長となると,早速建物内部の改造に着手,階下の会議室 を三階に移し,近代的内装を行ったが,これは40余年後の今日も尚ほぼそのままで使用さ れている。同時に,階下はピンポン室,談話室とし,会所の後にテニスコート,バドミ
ントンコートを作り,会員に余暇とレクリエーションの場を提供した。また,隣…の精米 同業組合の建物の2階を借り,中国国産品陳列館とした。国語運動に呼応し,民国20年
(1931),華僑学校で国語とタイ語の弁論大会を挙行,会員へは,商業日刊紙(為替相:場
と商品市況)を中国語と英文で印刷配布した。
民国20年(1931),中国本土は大洪水にみまわれ,被災地は延ユ6省,罹災民は6,000万 人に達し,流離漂泊し悲惨を極めた。馬会長は,中華総山会内に「祖国水難救援委員会」
を組織,政府から許可をうけて公開募金を始あ1ケ月で15万バーツを突破した。全額を直 ちに上海の銀行経由で各省の水難救援会や国民政府水難救済委員会へ寄付した。
さきにスピー工路に購入していた土地は,その後放置されたままであったので,精米同 業組合と計り,4万バーツの出資をえて,共同店舗用建物を建て,大通りに面してユ2軒の 店舗を造成,民国25年(1936)完成するや,精米同業組合と折半した。
更に馬会長は,俗に私派と呼ばれる華僑の暗黒社会の一掃にも努力した。この組織の由 来はすこぶる古く,多くは奇異な服装でブラブラし,強きを侍んで弱きをいじめ,互に縄 張り争いをし,些細なこと,一寸した行き違いで互いに殺し合い,華僑の恥を晒ずばかり でなく,外人から軽蔑嘲笑の的となっていた。馬会長は,信望する山高岱と共に,暗黒社 会のボスを召集し,諭すに大義を以てし,真人間になるよう勧告し,組織の解散を宣言さ せた。それ以来,暗黒社会の組織は跡を絶つに至った。
また,中国で新しく公布された商会法に照し,理事(董事)を委員とし,会長を主席と 改あた。
民国21年 (ユ932),陳宗明が第13;期主席に選ばれ,会務の拡張と発展に努めた。当時 は,五四運動3年目で,本国で就学していた子弟が,中学,大学を卒業(清朝末期,南洋 i華僑の子弟のために建てられたる暫南大学がもっとも多かった,市川注),陸続として帰 って来た。彼等は教師となったり,自ら学校を創立する者も少くなかった。そのため,華 文学校の進歩は目ざましく,特に体育と国語(華語)に成果が上った。総商会では,この 気運をとらえ,双十節を;期してロンピニー公園 (バンコクの中心にある都市公園,市川 注)で,華僑学校の連合運動会を開いた。参加選手の人数,会場の規程,観衆の熱狂ぶり 等,空前の行事であった。第7代皇帝陛下夫妻も臨席になり成功裡に終った。これは,泰 国における華僑の連合運動会の噛矢である。また,商会建物附属の各種運動施設も,陳主 席のときに一新した。
ところが,運動会が終って1ケ月も経たない内に,タイ政府は高圧的な教育条例を公布 した。華僑の子女は,一律に公立学校に入学,タイ国語で教育をうくべきこと,若し強引 に華僑の学校に入学せしめるなら,処罰するというものであった。この新条例を承認する と,バンコク,トンブリ地区の華僑学校は,甚大な被害をうけるので,商会,上記団,各 華僑学校の代表は,集って対策を協議,文書で政府教育部に緩和方を接記したが,結局失 註(7)
敗であった。華僑の子弟は,以来毎週25時間のタイ語の授業を課せられることとなった。
一方,商会へ加入する華僑の数は,サートン路に事務所を移転,新設してから一貫して 増加をたどったが,とりわけ陳守明主席のときに多く,遂に2,000名をこえるに至った。
会員の大会を開く会場が見当らない状態となったため,3,000名収容可能な大講堂を建設
することを決めた。広く建設費の募金を行うと同時に,上海,香港,広州等の各建設会社 に照会して,外面は中国様式で,中華文化と精神を発揚し,内面はヨーロッパ式とすると いう設計図を求めた。予定地は,商会裏に新規に用地を購入,拡張した。
設計図は,上海の「大方建築公司」の技師島山漂のものが最も翁島堂々としていたが,
建築費が13万バーツを下らず,止むなく,バンコクの技師に再募集したところ乃妙(フラ ンス留学)のものが最良で,これを入札させたところ,「三二興号」が55,000バーツの最 低価格で落札した。これよりさき,第ll期会長満期退任の歓送会の席上, (民国19年3 月),名誉秘書長黄百始のスピーチの中で,華僑商業中学を創立し,人材を養成する必要 を諄々と述べた。次の第12期正副会長は,いずれも二三育才に熱心で,各回団を連合して
「設立準備委員会」を結成,まず馬会長が1万バーツ寄付した。つづく第13期の陳主席 は,就任後「準備委員会」を改組し,募金担当委員2組を結成,積極的に募金運動を推進
した◎
中学の名称は,従来の「華僑中学」という呼称を改めて「中華中学」とし,光華堂と同 時に,民国22年(1933)7月定礎式を行い,民国23年(1934)元旦,泰政府国務院長来 駕の下に開校式を挙行した。陳主席は,建設事業のほか,商工業の振興,慈善,体育,文 化,僑三等の各分野に全力を傾け,委員一致協力して商会近代化に尽力した。
民国25年(1936),蟻光炎が第15期主席に選任されたが,彼は,中華中学が創立早々 で,初級中学しかなく,卒業二更に勉学を志す者は,祖国へ帰らねばならぬ実情を深く考 慮し,その方策に着手した。時あたかも,日本軍が本国に侵入,戦火は各地に拡大し,文 化機関も多く爆撃に遇い,校舎を転々と移動零落流離する始末であった。到底,遠く南洋 から帰国して就学することなど思いもよらなかった。そこで,商会の3階建の洋館を増築
し,高等中学を附設し,初等中学の卒業生を収容,育成することとし,民国28年(1939)
2月落成した。
ところが,開校後1年にもならぬのに,不祥の事故が発生,中学は封鎖されるうき目に あった。蟻主席は早速,以前からあった商会の図書室を休校中の中華中学へ移し,中華図 書館とした。当時本国は,抗日戦および国共対立の最中にあり,タイ国華僑社会にも反映 し玉石混交,複雑な状況となった。蟻主席は不幸にも,同年ユ1月兇徒の銃撃にあって落命 され,後任は互選により薦爾和が引継ぐこととなった。
民国29年(1940),張二部が第17期主席に就任した当時は,第2次世界大戦が最:高潮 で,東南アジアの戦局は,不安流動的で,物情騒然とし,人心は動揺していた。このよう な環境下で,会務を進展させることは困難で,歴年の債務の整理と図書館の充実を行うに とどまった。
翌年12月8日,開戦と同時に日本軍はタイ国に上陸し,商会の建物は,日本軍に強制占 拠され,物産陳列館,図書館,各種運動施設は,損傷をうけたり破壊されたりした。商会
は止むなく別に,2階建の洋館を借りて,臨時事務所を開設した。
民国31年(1942),日本軍は三二明に主席就任を強要して来た。当時日本軍は,バンコ クの各地に駐屯し,人心は戦々競々として落ちつかず,華僑同胞全体の生命財産を保護す る意味からも,恥を偲んで日本軍の要請に従うよう,委員一同からも懇請し,陳主席の就 任をみるに至った。
この年のIO月,タイ全土に雨が降り止まず洪水が各地に発生,河川の氾濫,田畑の冠 水,人家の浸水等々,すべてのものを流失させるかの観があった。罹災地の広さ,災害の 甚大さは,タイ国百年来の大災害といわれ,中国人,タイ人の被災者の数は,数えること が困難であった。商会は,三二の会館,天華医院と連合し, 「泰国水難i救援華僑委員会」
を組織し,食糧品,日用品を募集し,タイ政府当局と協力して,バンコク,地方都市を救 援し,有効な成果を収めた。
民国32年(1943)4〜5、月頃,日本軍は「町勢鉄路」建設のため,中国人労働者数万人 を徴用しようとした。通りで拉致したり,民家に侵入して連れ去ったりし,群衆は極度の 不安に陥った。陳主席は,募集雇用の方法を改めるよう泰当局と協議し日本軍に申し入れ たため華僑はその迫害からのがれることができた。
陳主席の任期満了に伴い,改選の結果雲竹亭が選任されたが,雲主席は,タイ国籍の華 僑の子孫であったため,規約に抵触するとして,日本軍は再び陳主席を就任させた。
陳主席は,表面上は日本軍を上手にあしらい,内々では泰国の反日派の長官及び中・タ イの抗日団体と相互に連絡をとり,バンコクから遠くないワットンに難民避難地区をつく った。内実,これは同盟軍がパラシュート部隊を降下させるのを助けるためであった。
民国34年(1945),日.本軍は次々に敗退し,投降のニュースが伝わったので,陳主席は 同盟軍が上陸するのに呼応する準備に着手した。ところが,8月16日夕方,商会での公務 を終えて,帰宅の際,兇漢から待伏せの狙撃を受け,不幸にも殉職した。商会はその後し ばらく,主席はおかず,常務委員会が輪番で職務の代行をつとめた。
③ 会務の拡大と発展
第二次世界大戦が終結し,平和が実現したので,商会は直ちにサートン路の建物に復帰 し,応急の修理を施した。第8代,第9代皇帝は,民国35年(1946年)6月,商業区を巡 視の途次,商会にも立寄られたのは,永遠に記録すべき栄誉である。
同年,傭爾和が第25期主席に選任,直ちに中華中学の回復に着手した。日本軍占拠時 に,校具,什器,図書はすっかり紛失してしまっていたので,各委員は経費の募金に立ち 上り,旬日を経ず30万バーツ余が集り,民国35年(1946)8月,復校祝典を挙行するに至 った。その後漏主席は事情があって辞職,互選で林伯岐が事務を引継いたが,林主席も間 もなく辞職,民国36年(1947)8月,再度の互選で張乱臣が就任した。
民国37年(1948),張主席は引きつづき,第21期主席となり,以来27期まで6期にわた って主席を歴任,民国50年(196ユ)7月逝去した。任期中の業積は多面,多彩なものがあ
る。
彼は,僑務を数多く処理し,福利事業に努力,国民外交も展開して,中・タイ親善を促 進した。民国37年(!948)6月4日夜,タイ国各都市の政界要人がバンコックに皆集まっ たのを機会に,「シムアンポン」御苑を借りて,ときのタイ国務院長,ほか各省大臣及び 全タイ71都市の政界要人並びに各僑団指導者が陪席して夜会を開き中・タイ両民族の理解 を深めた。その後,タイ政府の難民児童の救済の慈善富銭1,100,000バーツの消化を承認 し,防火募金に協力し,警察の派出所建設を援助するよう各界へ勧誘し,警察病院建築準 備の責任者を担当し,タイ国務院長の市街地美化運動に呼応するために,各界ヘバンコク の羅斗圏(Santiparn)噴水池の建造募金をした。いずれもみな,当地の政府の建設と福 利増進に協力援助したものである。
タイ国政府は外国人の身分証明書発行手数料を徴集していたが,20バーツであったのが 年毎に増額されてジ400バーツになっていた。この額は過重で,華僑の過半数は納入能 力がなかった。(中国本土からの難民流入を阻止しする方策としてとられたもの。市川 注)。そこで,張主席は数回にわたって,減額を請求し,民国45年(1956)になって,タ
イ政府はやっと400バーツから200バーツへ減額することを宣告した。同時に張主席は身分 証明書の有効期限を延長するか,又は収入印紙を証明書に余分に二布することを当局へ請 求した。
わが華僑はタイ国に移住してすでに久しく,従来,己の分を守り,逸脱行為は殊に少な かったが,時には誤って法に触れて国外追放を命ぜられる者もあった。彼らはタイ国にす でに永く居住し,一家をなして家業もあるので,国外追放になると,すぐに生活の問題が 発生した。そこで,張主席は国外追放を解除して帰国させ,引続いてタイ国で生活できる ようになることを請求した。この外,僑商を代表して,種々の塩乾食品の輸入を開放し,
ウドン・豆素麺・ビーフン,染業・紡績・豆腐の六製造業の工場を期限付で移転させるこ とに融通を利かせるように請求した。すべて順調に解決して相当な成果をあげた。
商会が経営していた中華中学は民国30年 (1941)復校以来,校務は日々に向上してい た。ところが,民国37年(1948)の年末に,停校を命ぜられ,その校舎は荒廃にまかせら れてあった。そこで,多年停校中であった「中華中学」を改めてタイ語シヤドン中学と
し,早速,タイ国文部省へ申等し,民国44年(1955)に認可され,5月に正式に開校,専 らタイ語と英語とで授業が始められた。
民国47年(1958)張主席は体育を提唱する前に,テニスコートをバスケットコートに改 造し,同年10,月IO日に開場した。その後,商会が主催した各期のチェス杯タイ国内バスケ
ット試合及び国外各地のバスケットチームが来訪しての試合は,多くはこのコートで開催 された。張主席が逝去された後は名誉秘書の立創志がしばらく代行した。
民国51年(1962),黄作明が第28期主席に選ばれ,引続いて四期を務あ現在に至ってい
る。商業・華僑関係の事務を引続いて処理する外に,商会会所の備品及び光華堂の建造物
修復を行った。即ち,第二次世界大戦が終結し,平和が実現した後,些か修理したが結局
甚はだ老朽していて,ただ外見が悪いだけでなく華僑全体の体面にかかわることであっ た。そこで,黄明主席は就任後,早速,会所を大規模に修理し,会所の応接問,事務室の すべての調度品を新しく購入して備えつけ,同時に民国54年 (1965)に光華堂を修復し た。内部は中国の宮殿式を採用し,全部の椅子を交換し,飾りつけが終ると,面目一新し
た。