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理科教育における鍵概念「自然」をめぐって 予 備 的 考 察

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u

理科教育における鍵概念「自然」をめぐって

予 備 的 考 察

小 川 正 賢*

(1985年9月28日受理)

APreliminary Study on a Key Concept Nature Involved in Science Education

Masakata OGAwA*

(Received September 28,1985)

Abstract

Natur♂, aside from the ambiguity of its meaning, is surely one of the key concepts in Japanese science education。 We can find out that the concept

Nature is involved in science education in some Asian and African countries       ,

but hardly in western societies like United Kingdom or United States. This means that Nature must be one of the key concepts in examining a rationale of science education in the world.

In this preliminary report, I present following problems and discussions we might face when we try to investigate the relationship beLween Nature and science education:

1.Needs for a comparative study on traditional views of Nature . 2. Needs for an analysis of the concept Nature in Japanese science ed一

   9

浮モ≠狽撃盾氏D

3.Needs for an examination of a rationale of science education in the       world from the viewpoint that Nature is the key concept.

は じ め に

次の文章は現行の小学校学習指導要領の理科の目標に関する記述である。

「観察,実験などを通して,自然を調べる能力と態度を育てるとともに自然の 事物・現象についての理解を図り,自然を愛する豊かな心情を培う。」1)

*茨城大学教育学部理科教育研究室Laboratory of Science Education, Faculty of Education,

Ibaraki University

(2)

2      茨城大学教育学部紀要(教育科学)35号(1986)

この短い文章中に「自然」という語が三回も使われている。このことは日本の理科教育において

「自然」概念が重要な位置を占めていることを意味する。と同時にこの点は,日本の理科教育がた えず範としてきた欧米の科学教育2)と比較した場合の大きな相違点でもある。欧米の科学教育では

「自然」概念が表面にでることはほとんどない壽すなわち,日本の理科教育には欧米の科学教育と の共通点である「自然科学」概念と少なくとも欧米の科学教育には含まれない「自然」概念という 二つの要素が含まれていると考えることができる。しかるに,従来の日本の理科教育研究において は,「自然科学」に関しては検討されてきているものの,「自然」に関してはほとんど検討されてこ

●   ■       ●   ●  ●   ●   o

なかった3)もっとも,「日本人の思想や文化の原理としての「自然」,価値の源泉としての「自然」

とはいかなるものか,ということについては,突っこんで考えられることがあまりに少なかった。

(傍点原著者)」5)し,「「自然」という概念が複雑で多岐にわたるのに,過去の日本人は,自然とい うことを古代ギリシア以来の西欧人たちや,中国の思想家たちがなしたように,古代から自覚的に 哲学的問題として思惟の対象とすることがなかった。」6)わけであるから,理科教育の研究分野にお いてそれが検討されていなくてもさして不思議だと言えない面もあろう。しかし,「自然」概念の精 緻な検討が理科教育の研究のなかで行なわれていないということは,理科教育活動や理科教育研究 のなかで,その概念の持つ意味内容が日常語としての「自然」の域を出ず,各人各様の意味内容を 込めて(あるいは,本人の無自覚的用法も含めて)使用されることを意味する。そして,各人が他 人も自分と同義にその概念を用いていることを信じて疑わないし,ましてや,自分が異なる意味で その語を無意識のうちに使っている可能性があることなど思いもよらないことなのである。特に日 本語の「自然」という語が翻訳語であるという特殊事情のもあり問題はさらに複雑になっている。

理科教育の分野においても,一般的に用いられる用語や概念の中に多義的なものが数多くあり,そ れが障害になっていることを指摘する研究がいくつかある8)が,そのような観点からも「自然」概 念は理科教育という文脈の中で検討しておくべき概念の一つであるといえよう。

以上は,日本の理科教育の文脈で「自然」概念の検討の必要性について述べてきたが,じつはこ の「自然」概念は世界の科学教育の理念を考える上でも重要な概念となりそうな気がしている。た とえば,韓国の科学教育の目標9)の中には「自然」という語が出てくるし,アフリカ諸国の科学教 育における問題点の指摘10)のなかにも「自然」が重要な要素であることを示唆する例が見られるの である。

そこで,本論においては理科教育(あるいは科学教育)において「自然」概念をどのような観点    , から検討してみる必要があるのか,その問題視点をいくつか指摘し,今後の研究方向の手がかりを

探ってみることにする。

伝統的自然観とその比較検討

理科教育における「自然」を問題にするためには,そのまえにまず「自然」概念それ自身の哲学

的考察が必要となる。実際,この問題に関して数多くの著作が出版されており11)議論は膨大な量に

のぼる。それらをここで概観したり類型化することは筆者の能力を超えることであるし,本稿の主

旨の範囲も超える。そこでここでは筆者にとって比較的納得しやすかった「自然」の概念規定を紹

(3)

介するにとどめたい。それは中埜肇12)によるもので,彼は「自然」を「物質的(物理的)自然」「生 命的(生物学的)自然」「心的(心理学的)自然」という三つのもののいずれかもしくはそれらを 包括したものと言い,前二者を総合して「物としての自然」という表現をしている。さらに,注意 すべきこととして,「自然」とは第一義的には「ものの原始の状態」,すなわち人間の〈手〉が加え

●   ●   o   ●

られていないありかたを示す言葉である点を指摘する。すなわち,「自然」は本質的に様態概念であ ると言うのである。本論では,この考え方を参考にして,「自然」を「物としての自然」に限定して おくことにする。

ところで,「自然」を「物としての自然」と限定すると,それをどのように理解するかという問題 が生じる。これは各個人の文化的背景に大きく依存する。そこで「物としての自然」の理解のしか

たをここではその個人の「自然観」と名づけようと思う。そうすると次に個人の「自然観」の集合        」

フを考えることができ,集合体内で,各人の「自然観」の共通的要素を想定することも可能になる。

これがその特定集団の「自然観」であると規定することができる。このような特定集団としては種 々のレベルが考えられるが,部族とか民族といったものが一般的だろう。こうして我々は特定部族 の「自然観」とか特定民族の「自然観」を考察することが可能となった。さて,そのような個人あ るいは集団の「自然観」は決して不変なものではなく文化的影響などを受けて時間的空間的にたえ ず変化していくはずである。そこで時空的に見て比較的安定している「自然観」の要素の集合体と してその集団の「伝統的自然観」なるものを設定しうる。このような意味での「伝統的自然観」は 当然,世界各地の部族,民族等によって異なるであろうし,それはそれぞれの部族,民族の「深層 文化」ゆあるいは「集団的(集合的)無意識の基層」④といったものの重要な一部分をなすに違い

ない。

理科教育や科学教育という文脈で「伝統的自然観」を問題視するのは,それがいわゆる「西洋近 代の科学的自然観」とたえずコンフリクトを生じているように思えてならないからである。理科教 育や科学教育の理念を考察する際には「伝統的自然観」の問題をさけては通れないはずである。欧 米の科学教育がデッドロックにのりあげている現状はまさにこのような意識の欠落にあると思える。

種々の「伝統的自然観」を比較検討していくことは,我々の「伝統的自然観」に根さした「自然」

概念を相対化した形で,あるいは,内側からではなく外側から検討することに他ならない。このよ うな文脈からではないにせよ,「自然観」に関する国際比較研究均や国内比較研究16)も行なわれはじ めているので,研究の前途は比較的明るいと思われる。まず第一に,各国,各地域,各民族などの

「伝統的自然観」に関する情報を収集する必要があろう。たとえば,「中国人の自然観」7)「インド 人の自然観」1§)「イスラムの自然観」19)「アフリカの自然観」書0)「南太平洋諸部族の自然観」21)およ び「日本人の自然観」劾といったものを抽出して比較検討してみることは,世界の理科教育あるい は科学教育の理念を考えるうえで極めて重要な情報を与えてくれるであろう。ここで付け加えたい ことは,おそらく「ヨーロッパの自然観」に相当するものが存在し,それは「西洋近代の科学的自 然観」とは異質なもので,しかも現在も「深層文化」として存在しつづけているのではないか,そ して,そのことに彼らは気づいていないのではないかという仮説が,特に西欧の科学教育を考える うえで重要になってくるに違いないという点である。

以上のような考察を経て,それぞれの「伝統的自然観」が明確になればこれを「科学的自然観」

と比較することができる。そうすると,それぞれの地城,民族,国の科学教育における問題点が明

(4)

4      茨城大学教育学部紀要(教育科学)35号(1986)

らかになる。従来,発展途上国の科学教育を指導助言してきた欧米の科学教育専門家の間にこのよ うな視点があったかどうか定かではないが,少なくとも彼らが「科学的自然観」の側にたって,す なわち,「科学的自然観」の「伝統的自然観」に対する優位性を前提とし,後者を前者でおきかえよ うとする潜在意識に基づいて具体的行動をしてきたであろうことは想像に難くない琶3)

日本の理科教育における「自然」概念の問題点

ではここで日本の理科教育における「自然」概念をめぐる問題点について少し考えてみることに

したい。

まず問題点として提起したいのは,日本の理科教育の歴史のなかで「自然」という用語が使われ るようになったのはいつであるのかという点である。「自然」という用語が翻訳語であることはすで に述べた。日本語古来からの用法(「おのずから」の意味での「自然」)ではなく, nature の翻訳 語としての「自然」が理科教育のなかでいつから使われるようになったのかが問題である。これを 知るたδ6には理科教育に関する諸文献のなかから「自然」という用語を抽出し,その意味するとこ うが,日本語古来の意味であるのか, nature の意味であるのか,あるいは,柳父章の言う「翻訳 語特有の効果」24)としての第三の意味であるのかを判別する作業が必要である。

柳父は名詞としての「自然」という用語法が生れるのは明治20年代以降のことであるという誓)明 治20年代といえば,日本理科教育史上でも重要な文部省令r小学校教則大綱」の定められた時期で ある。そして,その省令の第八条に掲げられた理科の要旨の中に「自然」という用語が出てくるの である。ただし,その「自然」という用語が nature の翻訳語としての意味で用いられているかど うかの判断は慎重にしなければならない。なぜなら,この第八条では,「通常ノ天然物・及現象ノ観 察ヲ精密ニシ」「天然物ヲ愛スルノ心ヲ養フ」という表現と,「植物・動物・及自然ノ現象二就キテ」

という表現が共存しているからである。「天然」と「自然」をどう使っているのか,またそれは名詞 なのか,あるいは nature の翻訳語といえるのかといった問題が生じるからである。この問題を通 して,この時代の「自然」概念を検討していけば,あるいは日本の理科教育史上におけるこの時期 の位置づけに関する定説26)とは異なる位置づけが可能かもしれない。

ただし,この考察は日本の理科教育史上最初の用例がこのr小学校教則大綱』であったと主張す るものではない。この点については今後の問題としておくが,「自然」という用例があるか否かとい うよりも,それが nature の翻訳語あるいは「物としての自然」という意味で用いられているか否 かが重要であることを付言しておきたい。

次に,以上の議論と関連することではあるが,理科教育において用いられる「自然」の用語法を 分析する必要があろう。そうすることで,「自然」という用語の多義性,あいまい性が理科教育にお いてひき起こしうる現象(たとえば,法令,教科書を通した「文部省」対「現場教師」,「現場教師」

対「児童生徒」といったコミュニケーション過程での意味内容の変質化など。)が明確になり,その 結果従来の理科教育のなかではほとんど意識されなかったような問題が表面化してくる可能性がで

てくる。

たとえば,現在の小学校指導書理科編を例にとろう。この小冊子の中にはさまさまな「自然」と

(5)

いう用例がでてくる。その中のいくつかを示してみる。

自然に親しむ,自然から学びとる,自然のままの生物,身近な自然,

生物と自然の関係,自然環境,自然愛,自然現象,自然保護,

自然に対するおどろき,自然に対するはたらきかけ,自然の認識,

自然の不思議さ,自然のきまり,自然の状態,自然の巧みさ,

自然の特徴,自然の存在様式と価値,自然の中の植物,自然を愛する,

自然を対象とした活動,自然を探究する,自然を全体として扱う,

自然を調べる,自然についての直接経験,自然についての認識,

自然についての興味や関心,自然についての基礎的な概念や規則性,

自然への愛情,自然への取り組み,自然への理解・態度,自然科学,

 これらの用例において「自然」とは何を意味するのであろうか。少なくとも2〜3のグループに      暫

サの意味内容を類型化することができないだろうか。ここで問題になるのは,原文がどういう意味 内容を意図して書かれたかであって,原文の表現の妥当性ではない。そして,次の問題として,こ

れらの用例が読者にどのように解釈されうるかということが考えられる。この二点を明確に区別す ることによって,そのずれが明らかになるであろう。そうすれば,従来の理科教育史が一般的に採 用してきた制度史の立場を再検討する必要性が生じるかもしれない。過去の諸史料をこの観点から 再検討することが可能になるからである。

このような問題点を明確にしていく過程で,おそらく,日本の理科教育の根底に潜んでいる「隠 れたカリキュラム」としての「自然観」教育の存在が浮かびあがってくるように思える。すなわち,

理科教育の根底にある,そして時の流れにかかわらず不変的な「自然観」教育とその上で現象して いる,そして時の流れのなかで変化していく「顕在化した理科教育」という二重構造のわく組で日 本の理科教育およびその歴史を見直すことができそうな気がする97)

「自然」概念に基づく科学教育理念の検討

前節においては,日本の理科教育に論点を絞って考察したが,そこで得られた基本的視点は,世 界の科学教育の理念の再編成を可能にするように思える。このような試みはほとんど行なわれてこ なかったし,本来そう単純にいくはずのものではないことは承知しているが,その上であえて,こ の問題に関する展望を述べて本論をまとめてみることにしたい。

ここでは,科学教育においてはscienceの教育という目標だけを掲げればいいのかという問題を考 えてみる。すでに述べたように,科学教育を「伝統的自然観」と「科学的自然観」の葛藤場面で生 じる一現象だとすると,科学教育においてscienceのみを単純に教育するという素朴な科学教育観は 再検討を要するはずである。少なくとも,「伝統的自然観」の自覚,「科学的自然観」の自覚,両者 の比較などの問題は科学教育の重要な目標群となるはずではあるまいか。このような見方に立つと,

日本の理科教育の図式(前節参照)は興味深い事例となる。すなわち,scienceの教育は主として「顕

在化した理科教育」の部分で行なわれてきたと言えるし,それゆえ,それは世界の(あるいは欧米

の)科学教育の流れに敏感であったし,現代化の流れを欧米よりもむしろ進んで受け入れようとし

(6)

6       茨城大学教育学部紀要(教育科学)35号(1986)

てきたと言えよう。そして,それ以外に「隠れたカリキュラム」としての「伝統的自然観」の教育 が,たとえば,「自然を愛する1といった目標が,表面に出る出ないにかかわらず継続的に存在して

きたと言える。このような二重構造で日本の理科教育をとらえることをどう評価するかは別として,

この点は欧米の科学教育と大きく異なる点である。イギリスやアメリカのNature−studyの流れと科 学教育の関係について言及する準備は今はないが,それらがお互いを補完する形で存在していると は思えない。科学教育者たちは,むしろ,Nature−studyの流れに決別し, scienceの教育を志向し てきたと言えるのではあるまいか。そこで,彼らもここで述べたような二重構造の図式に立って,

自らの科学教育を検討してみる必要があるのではないかと述べておきたい。日本の理科教育では問 題にもならない「天文学と占星術」28)といったテーマが科学教育のなかでとり扱われなければなら ないことや,欧米において科学教育の成果が予想外にあがらない,また,定着しないという状況が あることは,このような視点に立った検討の有効性を予測させる。次に非西欧諸国の科学教育につ いても言及しておきたい。このような国々の科学教育は,衆知のごとく,主として欧米の科学教育 者や欧米で科学を学んできた学者たちの手で行なわれてきた。すでに述べたように,彼らには,潜 在的な「自然科学万能」意識が存在している。従って,その科学教育の方針は,「どうすれば科学を 教えられるか。」「何が科学を教えるための障害となっているのか。」といった意識に基づいて決定 されてきた。欧米で開発されたカリキュラムパッケージをそのまま,あるいは,多少の修正を加え ただけで使用してきたのも同じ意識に基づく行動といえよう。しかし,ここで述べた二重構造の図 式に立てば,このような国々の科学教育の第一一歩は,科学を教えようとすることではなくて,自ら の「伝統的自然観1を知ることではあるまいか。彼らは,彼ら自身の「伝統的自然観」に基礎をお いた科学教育理念を創造すべきではあるまいか。

以上,本論においては,理科(科学)教育における「自然」概念の検討をするための予備的な考 察を行なってきた。そして,その中で「自然1あるいは「自然観」というものが理科(科学)教育 の理念を考えるうえで予想以上に重要な位置を占めることが明らかになってきた。本論で言及した いくつかの問題点については,今後,それぞれ精緻な実証的研究をしていく予定である。さらに,

今回手がかりを得た科学教育の理念問題についても,論理的なつめをしていくつもりである。

       注

P)文部省『小学校指導書理科編』(大日本図書,1978),p.7.

2)本報では,「理科教育」は日本のそれを意味する用語として,また,「科学教育」という語は science education の翻訳語として使い分ける。

3)イギリスやアメリカの Nature−study は science education とは異なる概念であると考えておく。

4)わずかな例外としては,安東久幸「生物教育における自然観の史的考察一特に自然保護に関連して一」

r日本理科教育学会研究紀要』22巻1号,1981年,pp.37−44,細山田三郎「自然教育の構想一文献紹介一1

『鹿児島大学教育学部研究紀要,人文・社会科学編』36巻,1984年,pp.57−70.などがある。

5)中村雄三郎「日本人にとって目然とはないか一制度と情念とをつなぐもの司『中央公論』85巻12号,1970

(7)

年,p.208.

6)源了圓「日本人の自然観」『新岩波講座哲学5,自然とコスモス』(岩波書店,1985),pp.348−349.

7)柳父章『翻訳語成立事情』(岩波書店,1982),pp.125−148.など。

8)たとえば日下和信「初等理科における科学用語の取扱いについて(第2報)」『神学と人文,大阪基督教 短期大学紀要』17集,1977年,PP.29−51,小川正賢・砂押千里・高瀬一男「用語「発芽」が児童の発芽認 識に及ぼす影響」『日本理科教育学会研究紀要』24巻3号,1984年,pp.13−2αなど。

9)Mori I.,Yano H.,Lee J.−M.,Tadang N.,and Medel T.E. Comparison of Elementary School Science Curricula in Four East Asian Countries. Sc θπcθE伽cα琵oπ64(1980), PP.405−412を 見よ。

10)たとえば,Odhiambo T. R. Understanding Science:The Impact of the African View of

Nature in Gilbert P. G. S. and Lovegrove M. N. eds. ScεeπcθEぬcα古 oπiπ、4∫r cα(London;

Heinemann,1972), pp.39−46.など。

11)比較的最近の著作を挙げてみると,日本倫理学会r自然 倫理学的考察』(以文社,1979),相良享,尾藤 正英,秋山度編r講座日本思想1,目然』(東京大学出版会,1983),国際文化研究所日本支部編『国際共同 討議自然とは何か』(法蔵館,1984),Rouner LS. ed.0πNα加rθ(Notre Dame, Indiana, University of Notre Dame Press,1984),および前掲のr新岩波講座哲学5,自然とコスモス』などである。

12)中埜肇「自然哲学の現代的視点一人間学的自然哲学の試み一」前掲『新岩波講座哲学5,自然とコスモス』,

第二節「「目然」の概念1,pp.246−250.

13)上山春平『深層文化論序説』(講談社,1976),pp.13−74 14)武田清子編r日本文化のかくれた形』(岩波書店,1984),pp.1−16.

15)たとえば,石田正次,北村昌美らを中心とした日独仏の目然観比較(この場合,森林環境に重点をおいて いる。)がある。トヨタ財団助成研究報告書(代表,四手井綱英)r森林環境に対する住民意識の国際比較に 関する研究(lnternational Comparisons of Attitudes toward Nature)』(1981)を参照せよ。

16)阿部治,中山和彦「連想法を用いた山間部と都市部の中学生の環境(自然)認識の比較」『日本科学教育学 会第9回年会論文集』1985年,pp.138−139。

17)吉田光邦「東洋の自然観一中国人の場合一」『岩波講座哲学W自然の哲学』(岩波書店,1968),:pp.101一 120,福永光司「中国の自然観」前掲『新岩波講座哲学5自然とコスモス』,pp.320−347,Tu Wei−Ming

The Continuity of Being:Chinese Visions of Nature in Rouner, op. c ., pp.113−129,劉述先

「自然についての中国人の考え方」前掲,国際文化研究所日本支部編,『国際共同討議自然とは何か』,pp.

233−250.など。

18)服部正明「インドの自然観」前掲『新岩波講座哲学5自然とコスモス』,pp.298−319, Thurman R. A.

F. Buddhist Views of Nature:Variations on the Theme of Mother−Father Harmony in

Rouner, oP. c ., PP.96−112.など。

19)五十嵐一「目然の偉大な鎖一オリエント的グノーシスの相貌一」前掲r新岩波講座哲学5目然とコスモス』,

PP.270−297.

20)Odhiambo, Zoc. c琵.

21)たとえば,Stanton R. J. and Maddock M. N. Science education and the supernatural in

Papua New Guinea ,Rθseαrcん ηSc eπcθEdμcα oπ5(1975), pp.123−133など。

(8)

8      茨城大学教育学部紀要(教育科学)35号(1986)

22)これについての文献は極めて多数にのぼる。一部を示すと,斎藤正二r日本的自然観の研究,上,ド』(八 叛書房1978),源了圓の前掲論〕虹Watanabe M. The Conception of Nature in Japanese Culture 8cεθπとe 183(25 January,1974), pp.279−282.など。

23)このような人々の報告にはほとんどいつも「科学的思考」を妨げる要因として「伝統的目然観」が登場し てくる。

24)柳父章,前掲書,p.128.

25)同書,P.136.

26)たとえば,板倉聖宣『日本理科教育史(付・年表)』(第一法規,1968),pp.190−199.など。

27)このように主張する根拠がないわけではない。たとえば,岡本正志,森一夫「理科教育に現われたわが国 の伝統的目然観一「理科の要旨」の制定に関する考察を中心として一」『科学史研究』No.118,1976年, pp.

98−101.においてこのような視点に基づいた議論が行なわれている。      .

28)Barman C. R.,Rusch J. J.,and Cooney T. M. Sc επcεαπd Soc ε αZ 138αθs:AGω de∫or 8c 一

eπcθ7セαcんer8(The Iowa State University Press,1981), p.94.

参照

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