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館 山 豊 はじめに しろ本稿では,革命前後の考察をとおして,

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イランとホメイニのイラン

The Stmggle Between the Allocation State and the Production State ill Iran Before and After the Revolution in 1979

館 山   豊

はじめに      しろ本稿では,革命前後の考察をとおして,

1979年のイラン革命は次の二つの点にお  イラン国家に働いている諸力のダイナミズム いてわれわれの理解をこえるものであった。  を明らかにしようと思う。革命による体制の 第一は,それまで盤石だと思われていたシ  激変は,シャーの時代には底流にあって,は

ヤー(国王)の独裁体制がいとも簡単に覆さ  っきりとはみえなかった変革への力を映しだ れたことである。石油収入を支配し,強力な  した。それがいったいどのような性格のもの 軍隊とアメリカの後ろ盾によって支えられた  であり,また革命後,それはいかにイランの 体制は,容易には崩壊しないと考えられてい  国家や経済・社会を形成していったのかを明 た。むしろ聖俗未分離のサウジアラビアの方   らかにしたいと思う。それをとおしてイラン が政治的に脆弱であるかにみえた。したがっ  革命にたいするひとつの視点を提供できるの てシャーの独裁体制が人民の蜂起によって短  ではないかと考える。

期間のうちに転覆したことは青天のへきれき

であった。      第1章不十分な分配国家イラン 第二は,シャーの独裁体制が倒れたとき,

多くの人はより民主的な政治体制が樹立され  第1節分配国家概念

ることを予想し,まさかイスラム聖職者によ   イラン革命は,形態的には,人民を基礎に る神権政治が樹立されるとは思ってもみなか  して,徹底的な社会変革をおこなったという った点である。シャーの支配体制は一種の  点では,歴史的な大革命にもけっしてひけを

「開発独裁」に近く,それは経済発展がある段  とらない典型的な革命であった1。しかしそ 階に達したところで,より民主的な政体に転  の内容となると,神権政治の復活というきわ 換すると考えられていた。したがって,近代  めて特殊な性格をもった革命である。革命の 化の恩恵を十二分に享受しているとみられて  特殊性は,その時々の国家や経済,社会の特 いたイランにおいて,突如宗教が復活し,神  殊性の反映である。そうした観点からイラン 権政治が樹立されたことはシャーの独裁体制  革命をみなおすと,それは世界第二位の石油 が倒れた以上の驚きであった。        輸出国で生じた革命であるという特殊性に帰 本稿の課題は,しかし,イラン革命そのも  着する。石油輸出国では総じて他の途上国と のの分析でもなければ,その世界史的意義の  は異なった国家や社会が形成されている。し 検討でもない。それらは筆者の手に余る。む  たがってイラン革命の分析もその点から始め

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26       茨城大学人文学部紀要社会科学論集

る必要がある。      を他の途上国一般と区別できなかったことと 中東産油国の国家と社会の関係について  好対照をなす3。

は,1980年代に新たな概念的発展がみられ   第二は,分配国家の非租税国家的側面を根 た。ルキアー二等によって提唱された「分配  拠にしてはいるものの,伝統的政治体制の持 国家」概念がそれである2。分配国家とは,  続性を強調している点である。これは,それ 農業や工業などの国内の生産基盤がきわめて  以前の研究が,近代化途上にある伝統的政治 脆弱でありながら,国外から巨額の収入が国  体制は,みずからが促進した社会的動員にも 庫に流入し,財政を通じたその撒布(=富の  かかわらず大衆の政治参加を拒んでいるがゆ 分配)によって国民経済が維持されるという  えに不安定であり,いずれ近代的政治体制へ 国家のことである。そこでは当然のことなが  移行するとみていたことと比較すれば,180

ら国民への課税はおこなわれない。したがっ  度の視点の転換といえる。

て課税のないところに代表なしの原則に基づ   このように分配国家概念は石油輸出国の新 き,分配国家では民主的な政体の実現などは  たな分析枠組みを提示するものであり,今後 問題とならず,伝統的な政体が維持される。  その概念の精緻化や内容の豊富化が求められ

もっとも産油国の石油収入は石油の輸出に  ている4。

よるものであり,なにも無償で外国から流入   それではイランを分配国家と規定していい したものではない。原油資源は神が彼らに授   だろうか。

けた恵みであり,資産にほかならない。した

がって石油輸出国は資産を売却することによ  第2節純粋な分配国家と不十分な分配国家 って収入をえているのである。しかし中東産   ルキアー二による分配国家の指標は,歳入 油国の場合,高い生産性を誇る超優良油田を  の40%以上を海外からの収入に依存してい 擁し,ごくわずかな労働力で石油を大量に産  て,歳出がGDPのかなりの割合を占めると

出できるうえに,石油の世界市場価格が  いうきわめて大ざっぱなものである5。クウ OPECのカルテル的行動によって高い水準に  エート,サウジアラビア,オマーン,リビア 維持されていることから,産油国に流入する  は文句なく分配国家に分類されるが,アルジ

巨額の石油収入は国内で作りだされたものと  エリア,バーレーン,イラクは境界線上にあ いうよりは,むしろ世界中の石油輸入国から  るとされる。イランについての言及はない 独占地代を取りたてたものとみなすことがで  が,1977年の同国の石油収入は歳入の73%,

きる。つまり巨額の富が外部から流入してい  歳出はGDPの41%であるから,分配国家の るのであるから,産油国こそ典型的な分配国  基準を十分満たしているといえよう。現に分 家といえる。       配国家概念を使ってイランの分析を行ってい

分配国家概念の優れているところは,第一   る研究のほとんどは同国を分配国家と規定し に,石油収入という産油国を産油国たらしめ  ている6。しかし同じ分配国家といってもた ている最も重要な要因を概念構成の中心にす  とえばサウジアラビアとイランとでは石油依 えた点にある。石油収入は産油国の国家と経   存度の違いによって経済や社会もだいぶ異な 済を石油依存型へと編成しなおすが,それに  っている。

よってその社会は他の国とは異なった独特の   第1表はサウジアラビア,イラン,トルコ 性格を帯びるにいたる。これはそれ以前の研  の基本的な指標を比較したものである。トル 究が,石油危機以降においてもなお石油収入   コは分配国家の対極にある「生産国家」の代 のもつ意味を理解できず,それゆえに産油国  表として掲げた。まずサウジアラビアの石油

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収入は歳入の90%近くを占めている。この  歳入の73%を占め,国家の社会からの独立性 数字は国家が社会への課税にまったく依存せ  はかなり高い。他方,歳出はGDPの41%の ず,したがって社会の経済的利害から完全に  規模であるから,社会の国家への依存度は高 独立していることを示している。他方,歳出  いにしても,サウジアラビアほどではない。

はGDPの83%の規模に達し,社会がその生   しかも人口が多いために,一人あたりの 存を国家に完全に依存していることを示して  GDPは2,160ドルで,サウジアラビアの3割

いる。ここでは社会が国家を規定するのでは  の水準でしかない。この程度では国民の生活 なく,国家が社会を規定する7。しかも人口  水準を大幅に引き上げることはできないし,

が希薄なため,一人あたりGDPは7,336ドル  ましてや国内の生産活動を縮少し,消費物資 に達し,当時の日本より若干高い水準にあっ  はもっぱら輸入に依存するという経済をつく

第1表 サウジアラビア,イラン,トルコの比較(1977年)

石油輸出額 石油収入1 歳出1 GDPの産業別内訳(%) 一人当たり 人口

(億ドル) 歳入(%) GDP(%) 農業 工業(製造業) サービス業 石油業 GDP(ドル) (万人)

サウジアラビア 433 87 83 2 16(2) 23 60 7,336 806

イラン 235 73 41 9 23(12) 36 32 2,160 3,470

トルコ 0 0 26 28 25(21睾) 47 0 1,110 4,180

*1978年

出所)J,銚鵠鹸贈耀撫舞窃「謙♂nte聡tGmWnd the P d°x°fA °n°mゆ朔・α嘘P°幡

サウジアラビア:Kingdom of Saudi Arabia,!lc漉yε〃3ε薦qμ舵Dθりθ ρρ〃重θπ∫P血鋸1390−1404.;IMF,傭θ〃3α εoπα F直παηcjα 5 α 記5】K8α7boo髭,1991

た。この高所得を背景に,一一方では生産活動  りあげることはできない。したがって国民に を国外に押しだし,国民生活に必要な物資は  雇用と所得を保証するために,国内にある程 輸入でまかなうという傾向を強める。その結  度の生産基盤を残さざるをえない。そのこと 果,農業と製造業をあわせた付加価値額はわ  を反映して,イランの農業と製造業の合計付 ずか4%へと縮小し,建設業を除くと見るべ  加価値額はGDPの21%に達し,また農業従 き産業はまったくないという状況となってい  事者の割合も全労働力の40%弱とかなり多 る。他方,外国人労働者を多数雇用し,イン  くなっている。もちろん生産国家であるトル フラストラクチャの建設や基幹部門での活動  コと比較すれば,生産基盤の脆弱性は否めな あるいは家事労働に従事させる。その結果,  いが。

国民の多くは肉体労働や生産活動から遊離   歴史的にみてもイランはサウジアラビアと し,場合によっては家事労働からも遊離して  異なり,工業化とその基盤整備に力を注いで いく。国民の多くは公務員化し,あるいは商  きた。1949年から78年にかけて合計で五次 業に従事し,あるいは経営管理者へと上昇し  にわたる経済開発計画が実施されたが,当初 ていく。国民のあいだでは明確な階級関係が   こそ輸送・通信網の整備や農業に手厚い配分 形成されず,国家はむしろ共同体的側面を強  がおこなわれたものの,60年代半ば以降は

く示すようになる。国民は消費と金融資産の  輸入代替工業化をめさして,工業,建設業,

蓄積にいそしむだけである。このように国内  電力業などに計画の重点が移行した。そして の生産基盤をほとんど消失してしまった分配  石油収入の増加にともない,60年代末から 国家をわれわれは「純粋な分配国家」と呼ぶ  は,鉄鋼,アルミニウム,石油化学,自動車

ことにしよう。       組み立てなどを中心とした重化学工業の育成 それに対してイランの場合は,石油収入は  が企図され,イラン最初の鉄鋼所およびアル

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28      茨城大学人文学部紀要 社会科学論集

ミニウム工場はともに1973年から操業をは  著しい違いがみられる。それが政治的安定度 じめ,石油化学の生産額はドル換算で1970  の違いをもたらす。まずこの点からみていこ 年の1,600万ドルから1975年の1.4億ドル  う。

へ,自動車生産額は1.7億ドルから6.6億ドル   ルキアー二分配国家論の眼目は,国民への に増加した8。その結果,1959−72年に製造  課税がなされないため,少数者が権力を独占 業の付加価値額伸び率は平均12.2%であり,  している伝統的政権も政治的安定を享受でき 年平均9.2%の実質経済成長率を上回ったの   るというところにあった。しかしルキアー二 である9。ここに純粋な分配国家とは異な  のように「課税なければ代表なし」という論 る,イランの生産国家的側面が現れている。  理のみを強調するなら,シャーのような開発 そもそも石油がいつかは枯渇する資源であ  独裁型の政権でも国民への課税はわずかであ る以上,石油収入を全部消費してしまうこと  るから,同じように政治的安定を享受できる は国家にとって得策ではない。その一部を金  ということになる。したがって,あまり非租 融資産なり実物資産に転換し,石油の枯渇に  税国家的側面を強調しない方がいい。

備えなければならない。その意味では,サウ   むしろ伝統的政権の特徴は,権力が少数者 ジアラビアに比べて原油埋蔵量が少なく,人  に集中しているというだけでなく,伝統的文 口が多いイランで工業化への指向が強く現れ  化や宗教,イデオロギーなどに取り囲まれ,

ることは当然ともいえる。      それによって政権が支えられているというと このように分配国家的側面を強くもちなが   ころにある。それらは,伝統的な社会秩序や らも,国内に生産基盤がある程度残ってお  規範を維持することによって伝統的政権の安 り,かつ生産国家化への指向がたえず現れる  定性を補強する。そして急速な経済開発にも 国家をわれわれは「不十分な分配国家」と呼  かかわらず,そうした伝統的なものが温存さ ぼう1°。後にみるようにそこでは互いに異質  れるのは,分配国家における「近代化」が新 の論理をもつ分配国家的側面と生産国家的側   たな人間類型の形成を必要としないからにほ 面とがせめぎあっており,それが国家や社会  かならない。大規模な経済開発や社会建設は に,純粋な分配国家とは異なった性格を刻印  多数の近代的労働力を必要とするが,伝統的 している。イラン革命は,そうした不十分な  社会からそれを生みだすには原始的蓄積をお 分配国家において生じた革命であり,それ  こなわなければならない。しかし純粋な分配

は,中東の盟主たらんとする野心をもったシ  国家では,原蓄の重要な過程をなす農民の土 ヤーが,西欧をモデルとした生産国家を強引  地からの分離や労働力の陶冶を回避すること に作り上げようとしたことに端を発してい  が可能となる。それは分配国家が豊富な資金 る。       を背景に,労働市場を世界に開放し,経済開 発等に必要な近代的労働力を外国から大量に 第2章 シャーの近代化政策        調達するという行動をとるからである。サウ

ジアラビアでは単純労働者だけでなく,熟練 第1節 分配国家と伝統的社会秩序      労働者,専門家,経営者など多様な外国人労

純粋な分配国家も不十分な分配国家もとも  働力が導入されている。はじめから質の高い に莫大な石油収入を背景に,急速な経済開発  近代的労働者を大量に確保できるがゆえに,

や社会基盤整備をおこなう。それは当然社会   通常工業化の初期段階で必要とされる農民の 変動をひきおこすが,その際両者のあいだ  土地からの分離や労働力の陶冶などは不要と には,伝統的なものにたいする対応において   なる。労働力の陶冶とは,近代社会に適合的

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な新たな人間類型の形成であり,それは伝統  することによって,イスラムの文化的機能を 的な文化,宗教イデオロギーなどの解体を  弱体化させようとしたものであった。さらに 意味する。それはきわめて時間と手間のかか  1960年代の農地改革は大土地所有者として

る歴史的作業であり,かつ大きな社会的痛み  のイスラムの経済的基盤を崩すものであっ をともなう。しかし分配国家ではそうした新  た。他方,ホメイニの逮捕をきっかけに生じ たな人間類型の形成が不要となるがゆえに,  た1963年の暴動や,1978年の宗教都市クム 伝統的な文化,宗教イデオロギーはそのま  で生じた宗教学生による反シャー運動を力で

ま温存され,急速な経済開発と共存すること  弾圧するという強硬策も時には採用された。

になる。そこに純粋な分配国家の政治的安定   こうしてシャーは伝統的文化やイデオロ の秘密がある。イランと対照的なサウジアラ  ギー,規範を解体し,西欧的な近代社会に適 ビアの政治的安定はそのことを如実に示して  合的な新たな人間類型をつくりだそうとした いる。       のである。その結果,イスラム勢力を体制か

ら疎外することになった。

第2節伝統的なものの破壊

しかしイランでは,工業化や経済開発を進  第3節脆弱な社会

めるにあたって,伝統的な文化や宗教を排除    もっともイラン社会に西欧的文化や価値観 し,それにかえて西欧的価値観や文化を移植   が浸透し,シャーの政治体制を支える階級や しようとした。シャーは西欧とくにアメリカ  階層が形成され,彼らの社会的ヘゲモニーが の文化,科学技術,制度などへの強い憧れを  多少とでも確立していたなら,シャーは革命 もち,その導入を積極的に推し進めることに  に対してもう少し強い抵抗力をもった社会を よって後進性から脱却し,イランを偉大な文  作りあげることができたかもしれない。しか 明国に再興しようという野心をもっていた。  しまさにそこに不十分な分配国家特有の「社 油価高騰以後は,20世紀中にイランを世界  会の脆さ」が現れていた。それは経済開発政 第5位の工業国にすることを目標に掲げた。  策による資本家階級や中産階級の形成にもか 彼の父である初代シャーも西欧的近代国家の   かわらず,彼らが社会的に足場をもたない根 形成を目標としていた。      無し草的存在でしかなかったという点であ

親子二代にわたって展開された西欧化政策   る。

の中心を占めたのは,イラン社会に広範なイ   たしかに石油資金の大量撒布は,ビジネス デオロギー的影響力をもっていた伝統的勢力   チャンスの急速な拡大や多額の低利資金・補 であるイスラムの弱体化であった。イスラム  助金の供給をつうじて多くの資本家や企業家 は単に宗教的機能だけでなく,学校機能や法  を生みだした。とくに政府との取り引きはう 律的機能さらには文化的機能や社会福祉的機  まみが大きかった。したがってシャーや政府 能なども果たしていた。社会はイスラムとい  役人との人的な関係が企業の業績を左右する う経糸によって織りあげられていた。それに  ことになる。企業の利潤の多くは労働者の搾 たいしシャーは,近代的教育制度や近代的法  取とか企業家精神の発揮などの結果としてで 制度の導入・拡充をおこない,イスラムの最  はなく,賄賂やコネを利用した結果として得 も重要な拠点を攻撃していった。また女性の   られる11。また輸入代替工業化政策は国内市 チャドル着用禁止令や女性への参政権の付  場を国際競争から隔離していた。そうした状 与,あるいは西欧の映画やテレビ番組の放映  況のなかでは合理化や新技術の導入などはか などは,西欧的価値観や文化を積極的に導入   えって経済合理性にあわない。むしろ仲介業

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30      茨城大学人文学部紀要社会科学論集

や輸入業などの流通過程での利潤の方が確実   り,国民の意識や生活に深く浸透していなか で大きなものとなる。その結果,種々の社会   ったかを示している14。シャーが作りあげた 的資源を組みあわせ,生産を効率的に組織し  社会はそれほど強固なものではなかった。そ ていくという資本家の自立的な機能は衰え,  こに生産国家的側面と分配国家的側面との対 彼らは資本と市場と利潤を提供してくれる政   立に起因する社会の脆さが明瞭に現れてい 府に大幅に依存することになる。       た。

しかもシャーは社会が国家から自立し,主   生産国家は社会を組織するに際して,自由 体性をもつことを許そうとはしなかった。国  や平等といった組織原理あるいはイデオロ 民に政治的自由を認めず,秘密警察網を全国   ギーをもち,社会に対して勤勉,蓄積,合理 に張りめぐらせ,自主性や独自性を示す者は   性といった規律を求める。非合理的なもの,

すぐに排除された。国家のあらゆる重要な決  非生産的なものを極力排除し,分解してい 定はシャーによっておこなわれた。社会はシ  く。

ヤーに完全に依存することになった。      それにたいして分配国家は,伝統的イデオ グラムシによれば,資本主義社会では,資  ロギーや規範に基づいて社会を組織し,しか 本家階級は自らの政治的,文化的,イデオロ   も社会にたいして勤勉,蓄積,合理性などの ギー的活動を通して,ヘゲモニーを確立し,  規律を求めない。分配国家の本質は外部から 従属的階級の意識を左右し,支配一被支配関  流入した富を配分することにあるから,力点 係について彼らの積極的同意をとりつける。  は富を生みだす「生産」よりもむしろ富を配 しかしイランの資本家は,自立性を欠いてい  分する「流通」におかれる。そして非合理的 るうえに,そのような活動を制限されていた  なもの,非生産的なものが温存され,あるい ため,社会的レベルでのヘゲモニーを確立す  は強化される。

ることなど望むべくもなかった。つまり資本   このように分配国家と生産国家とは互いに 主義社会の確立に必要なイデオロギーや規範  相容れない原理によってなりたっている。し を作りだしていく能力を奪われていたのであ  たがってイランのように分配国家的側面と生 る12。彼らのあいだには階級的連帯感すらな  産国家的側面とをあわせもち,政治権力が生 いといわれていた。      産国家化への指向を強く示すような国では,

またシャーは知識人を中心とする中産階級   生産国家に適合的な人間類型を作りだそうと をも政治的に抑圧したが,その結果,人数的   する政治権力側の努力は,分配国家的側面に にも多数を占め,近代化イデオロギーを支え  よってたえず突き崩されていく。石油資金の るはずであった彼らを疎外することになっ  撒布により政府は資本家を容易に作りだせる た13。      が,逆にそのこと自体が分配国家的側面を強 先代のシャーのチャドル着用禁止令にもか  化し,生産国家に適合的なイデオロギーや規 かわらず,依然テヘランにおいても多くの女  範の定着,つまり新たな社会秩序の形成を妨 性がチャドルを着用していたこと,また大衆  げる。この傾向はその国が分配国家的側面を 的なデモやストライキによってシャーの独裁  強めれば強めるほど,つまり配分すべき富の 体制が揺らぎ始めると,資本家階級が大挙し  流入が拡大すればするほど,顕著となる15。

て国外に脱出したこと,さらには政治的混乱   分配国家を生産国家へとつくりかえる作業 の中で,シャーの後継者がついに出現しなか   は,単なる伝統的社会を資本主義社会に作り

ったことなどは,シャー独裁体制のもとでの  かえる作業にくらべて,格段の困難さをとも 近代化,西欧化がいかに表面的なものであ  なう。

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強権的政策にもかかわらず,シャーが西欧   しようとする運動形態はポピュリズムに特徴 的価値観や規範の移植に成功しなかった理由  的なものである19。イランでも,ホメイニの もそこにある。そして経済の過熱と革命によ  呼びかけにたいして,農民を除くほとんどす って社会が混乱に陥った時,社会秩序を維持   べての階級,階層が結集した。その意味でイ するものとして,結局,国民が伝統的に最も  ラン革命はまさに人民革命であった。しかし 慣れ親しんでいるイスラムが政治の表舞台に  そこでは,はじめからイスラムが革命の指導 登場することになったのである16。油価高騰  的イデオロギーとしての地位を占めていたわ によってイランが分配国家的側面をもっとも  けではない。むしろ「人民」という共通項のも 強めたその時に,革命が生じ,神権政治が登   とにさまざまなイデオロギーをもった諸勢力 場したことは,分配国家とイスラムとがいか  が結集していたのである2°。そうしたものと に親和的であるかを示している。       して反体制運動が組織されたのであり,イス

ラム勢力は,そのなかの,有力ではあるがひ 第3章都市下層の堆積      とつの勢力に過ぎなかった。彼らが政治権力 を掌握したのは,革命後の権力争いの過程に 第1節 ポピュリズムと「虐げられし大衆」  おいてであった21。

もちろん分配国家的側面が強くなったから   それならば最終的にイスラム勢力が政権を といって,伝統的なものが自動的に復活した  掌握した理由はどこにあるのか。それは第一 わけではない。そこにはイスラム勢力による  に,彼らがホメイニというカリスマ性のある 主体的な努力,つまり反体制運動が展開され  指導者を擁していたこと,第二に,緩やかで ていた。しかもその指導的イデオロギーとな  はあるが,聖職者を中心とした全国組織をも ったものは伝統的イスラムではなく,ホメイ  っていたこと,第三に,多数の都市下層を動 二によって「革命の神学」へと練り直された  員する能力をもっていたことによる。革命の イスラムであった。それはひとことでいえば  性格および革命後のイラン国家の性格を考え ポピュリズム的に解釈しなおされたイスラム  るうえで,第三の要素は重要である。という といえよう。アブラハミアンによればホメイ  のは都市下層は反体制街頭行動などで重要な 二の社会観は1970年代に入ると,抑圧者と  役割を果たしただけでなく,革命後も主要な 被抑圧者,宮殿の住人とスラムの住人,上流   革命組織や革命防衛隊などに人員を供給し,

階級と下層階級などのように単純な二分法を  イスラム勢力の暴力装置を形成したからであ 中心としたものへと変化した。そしてイスラ  る。彼らこそが「虐げられし大衆」の実体で ムこそが「抑圧されし貧民」,「搾取されし  あった。

者」,「虐げられし大衆」の利益を代表し,現

世における平等と社会正義を実現するもので  第2節都市下層とイスラム

あることが強調されたのである17。それは,   都市下層の多くは,都市との所得格差を誘 伝統的イスラムが暗黙裏に君主制を容認し,  因として農村から流入した人々からなってい 既存の社会秩序を肯定していたことからする  た。その格差はシャーの近代化政策が徹底し と解釈上の大きな転換であった18。      て都市偏重型であったことから生じた。シ 社会を人民と寡頭支配層との敵対的な二階   ヤーは都市こそが経済成長の原動力であると 級に分類し,カリスマ性をもった指導者が人  考え,都市に投資を集中した22。それにたい 民の利益を掲げて人民大衆に直接呼びかけ,  して農村は冷遇された。もっとも1960年代 彼らを動員することによって既存体制を改変  前半から70年代初頭にかけて農地改革が行

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32       茨城大学人文学部紀要 社会科学論集

われ,かなりの農民がその恩恵を被った23。  騰した。それは都市下層の生活を直撃した。

しかしそれは一方では,耕作権を保有してい  景気の過熱を冷ますため財政支出を抑制する なかったがゆえに土地の配分にあずかれなか  と,今度は雇用の減少を引き起こし,やはり った多くの土地なし労働者を生みだし,他方   都市下層に大きな影響を与えた。

では,配分された農地が一家の生活を養えな    しかしそうし劣悪な生活環境が自動的に彼 いほど零細であったり,政府が改革後も,大   らを革命運動に導いたわけではない。都市下 規模な企業的農業以外に十分な資金を回さな   層は本来的に政治に無関心であるといわれて かったため,農村に停滞と貧困をもたらすこ  いるし,思想的にも農民的な保守性を保持し とになった。       ている銘。しかもシャーの独裁体制は,都市

その結果,都市と農村との所得格差は拡大   下層による互助組織の自主的な運営すら許さ し,1976年における一人当たり所得の地域  ず,それを政府の監視下におき,その活性化 間格差はブラジルのそれとほぼ同じ水準,つ  を阻止していた29。

まりきわめて大きなものとなっていた24。都   しかし都市下層は,唯一,モスクを中心と 市では投資の拡大にともない雇用が急増し,  したイスラムのネットワークによって緩やか 賃金が上昇する。他方農村には過剰人口が堆   に組織されていた。彼らは出身地域ごとに組 積し,貧困が蔓延する。農村から都市への大  織され,モスクで下層の聖職者が執りおこな 規模な人口移動が生じるのは当然であった。  う宗教的な儀式に参加していた3°。モスクを 1966−76年に約200万人が農村から都市へ流  媒介とした集まりが,シャーによって抑圧さ 入したと推定されている25。その勢いはとく  れた互助組織の代替機能を果たすと同時に,

に油価高騰以後,激しさを増す。テヘランの  下層のイスラム聖職者と都市下層を結びつけ 人口は1966年の270万人から1976年には  ていた。そしてホメイニによってポピュリス 450万人へとわずか10年で1.7倍に増加し,  ト的に解釈し直されたイスラムの教義が,聖 全都市人口の28%を占め,第2位以下の都市   職者の急進化を引き起こすとともに,都市下

をはるかに引き離していた。このように,農  層も急進化していった。彼らは革命運動に動 一   村から都市への大量の労働力移動はシャーの  員され,革命組織に参加することによって,

近代化政策によるもの,すなわちイランの生  イスラム勢力を強力に支えたのである。

産国家的側面をあらわす現象であった。     純粋な分配国家サウジアラビアでは,イラ 農村から流入した労働者は,特別の熟練を   ンと違って,貧困な都市下層が堆積すること 必要としない低賃金労働に吸収される。それ  はなかった。それは基本的には,油価高騰以

らは雇用が不安定なため,彼らはたえず低賃  後,経済開発に必要な労働力を外国から大量 金の職種を水平移動するだけで,上昇移動す  に導入したからである。1979/80年までには

ることはない26。       外国人労働者数はサウジ人労働者数を上回っ 油価高騰以降のシャーの経済開発政策は,  ていた。サウジアラビアの急速な都市化の大 いわゆるビッグ・プッシュ戦略といわれるも  半は外国人労働者の流入によるものであっ のであった。しかしそれはすでに加熱状態に  た31。

あった経済を,巨額の財政支出によってさら   もちろんサウジアラビア人の農村から都市 に拡大しようとするものであったから,随所  への移動もみられるが,イランほど大規模で でボトルネックが発生し,インフレーション  はない。農村と都市との所得格差はあるが,

が昂進した27。とくに都市の住宅不足は深刻  農村が貧困に喘いでいるわけではない。そし であり,投機的な要素も加わって,家賃が急  て外国人労働者への規制は厳しく,サウジ企

(9)

業との雇用契約がなければ入国できないし,  し,イスラム勢力が司法,立法,行政の三権 またその契約が切れると直ちに出国しなけれ  を掌握する1981年11月までの時期である。

ばならない。したがって都市下層が堆積する  この時期は,ホメイニが最高指導者の地位に ということはない。しかも外国人労働者には  つき,シーア派イスラムを国教とする憲法が 政治的権利が認められていないから,彼らが  採択されるなど,イスラム共和国の骨格が形 反体制運動に組織され,動員されることもま  成された時期である。しかし政治的には革命 ずありえない。      を共に戦った諸勢力間で熾烈な権力闘争が展

イランでは人口の多さゆえに外国人労働者   開され,社会的には急進派による過激な行動 に依存するわけにはいかなかった。そのため  がくりかえされる。そして何度かの国民投票 自国民から近代的労働力をつくりださざるを  をへて,リベラリストやイスラム的装いをま えず,農民の土地からの分離と彼らの都市へ  とったマルクス主義勢力が排除され,次第に の供給という,工業化をめざす原蓄政策を展  イスラム勢力が権力を掌握していく。

開することになったのである。それは結果的   この時期は要するに旧体制を破壊していく に大量の都市下層を生みだした。そしてイス  時期であるから,当然政治的にもイスラム急 ラム勢力は彼らを組織することによって,そ  進派が主導権を握る32。国際関係面でもアメ のエネルギーを自らの政治力に転化していっ  リカによる禁輸,在米イラン資産の凍結をひ たのである。      きおこした1979年の米大使館人質事件は急 進派学生によるものであったし,革命の輸出 第4章革命後のイラン国家の特徴      宣言なども急進派的思考によるものであっ

革命後のイラン国家は,分配国家的側面,  た。1980年にはイラクとの戦争が勃発する。

生産国家的側面に,新たに「虐げられし貧民」  (1)分配国家的側面

の利益を図るというポピュリズム的側面がつ   経済面をみると,イランの実質GDP(1985 けくわわり,かなり複雑な様相を呈すること  年価格)は1978年の16兆リアルから1981年 となった。しかも,各側面の利害を代表する  の12兆リアルへと25%もの大幅な縮小を記 政治勢力が形成され,相互に権力闘争を繰り  録した33。それは,革命による混乱のほか 広げる。したがってどの政治勢力が政治的主   に,イラクとの戦争勃発,油価高騰による石 導権を握るかによって,三者のうち,どの側   油需要の世界的な減少により,原油輸出量が 面が優位にたち,どの側面が後景に退くかが  116に激減し,その結果石油輸出額が217億 決まる。他方では,イランをとりまく国際環   ドルから120億ドルへとほぼ半減したからで 境の変化が三側面の優劣に影響を与え,それ  ある。分配すべき富の流入が大幅に細ったと が逆に政治勢力間の権力争いに影響を及ぽ   いう点では,分配国家的側面が後退したこと す。そこで革命後の時期を三つに区分し,各  は明らかである。しかし歳入に占める石油収 時期の特徴を,権力関係の変化および三側面   入の割合は1978−81年に58%から55%へ,

の優劣の変化と関連づけながら分析すること  歳出の対GDP比は41%から33%へと低下し にしよう。       た程度で,依然としてルキアー二の分配国家

の基準をみたしていた。もっともこの間,財 第1節第一期 ポピュリズム的側面の優位:  政赤字は歳出の18%から39%へと大幅に拡

1979年2月〜81年11月       大しているが,そのかなりの部分がシャーの 第一期は,ホメイニがパリから凱旋帰国し  時代に蓄積した100億ドルあまりの外貨の取 た1979年2月から,ハメネイが大統領に当選  り崩しによって埋め合わされていたことは,

(10)

34      茨城大学人文学部紀要 社会科学論集

過去の石油収入が分配国家的側面をかなり支  土地の占拠が行われた。革命評議会や政府は えていたことを示している図。また産業別  むしろその圧力を受けて後追い的に,国有化 GDPでも,製造業比率の低下とは逆に商業比   や政府規制の強化を中心とした社会主義的政 率の上昇がみられるなど,分配国家的側面の  策を打ちだすといった状況であった。その結 相対的地位はそれほど低下しているわけでは  果,金融分野では銀行,保険会社のすべてが,

なかった。       工業分野では多くの企業が次々と国有化され

(2)生産国家的側面      た。またシャー所有の資産や企業は,革命後 むしろこの時期には生産国家的側面の後退   に設立された宗教財団によって接収された。

が顕著であった。革命後の最初の2年間に,  1982年までに,国有化され,あるいは宗教財 工場の稼働率は30%にまで低下したといわ  団の所有下におかれた製造業企業の割合は,

れ35,粗固定資本投資も1978−81年に対GDP  従業員1000人以上規模で96%,従業員 比で31%から19%へと大幅な減少を記録す  50−999人規模で38%,従業員10人以上規模

る。財政支出の内訳も,経済開発費が全体の  で14%であり,それらは従業員10人以上規 29%から23%へと低下し,かわって教育,保  模の企業の労働者数の68%,同付加価値額の 健,社会保障などの比重が高まる。こうした  71%を占めていた%。また貿易は政府の独 生産国家的側面の後退は一部は革命の混乱や   占となった。

輸入の減少などによるものであるが,それだ   それにともない,革命後も国内に残ってい けではなく,以下にみるような経済面におけ  た資本家やマネジャー,技術者達も,国外に るポピュリズム的側面の突出に起因するとこ  脱出するかあるいは企業から追放されていっ うが大であった。       た。かわって彼らの地位に就いたのは,専門

(3)、ポピュリズム的側面      的知識や経営ノウハウをもたない急進派の この時期に政治的主導権を握った急進派  人々であったため,経営を立て直すことは困 は,革命直後の大衆的熱狂のなかで,旧勢力  難であった。彼らはむしろポピュリスト的発 の一掃や主要産業の国有化あるいは民間の土  想から労働者への配分を厚くしたから,それ 地や住居の接収などのスローガンを掲げ,  がさらに企業業績を悪化させた。また企業内 次々と過激な社会的行動を展開していった。  部においても,ホワイトカラー層の賃金圧縮 農村にも革命の熱狂が伝播し,革命組織の扇   が進行し,ブルーカラー層との賃金格差が大 動によって土地なし農民や貧農による地主の  幅に縮小したから37,前者の勤労意欲の減退

第2表 実質月平均支出額の変化(都市家計,1977年価格)

1977 1979 1980 1982 1983 1984

全 体 100 97.9 8L8 84.8 88.9 89.2

第1五分位 100 1035 106.9 98.9 89.9 98.1

第2五分位 100 108.0 105.9 107.7 113.6 120.7 第3五分位 100 108.3 105.0 108.6 108.2 109.0

第4五分位 100 105.8 95.8 95.0 105.6 103.1

第5五分位 100 90.8 66.3 71.6 74.9 76.1

最低位10% 100 106.1 1115 84.9 67.6 74.5

最高位10% 100 91.9 645 65.4 71.0 72.6

ジニ係数 0.4998 0.4702 0.4040 0.4168 0.4282 0.4205

蠕蜜畿h、lllZ櫨脇露酷鵬蓋8R。v。1。、、。n、A、、。dy、。 lnc。m, D、、、,、b。,、。ゴ伽燃。伽,、。_酬翅陀  Eα∫5餌4」θε,21(1989),P.340,341.

(11)

を引き起こしていた。その後イランは優秀な  る急進派と保守派との抗争が表面化する。し マネジャー層の不足に悩むことになる。また  かしホメイニが両派のバランスを崩すことを 国有化や接収を免れた資本家にしても,革命  嫌ったため,政治的には膠着状態に陥る。他 政府による財産権の保証があいまいであった   方,石油収入の一層の減少やイラクとの戦争 ため,生産・投資意欲を減退させていた。そ  の継続はイラン経済を疲弊させ,大衆の窮乏 れにもかかわらず,総雇用者数がほぼ一定で  化が進行する。イラクとの戦争は1988年に あったことは,革命的昂揚のなかで労働者を  ようやく終結する。第二期は,1989年6月 解雇することがきわめて困難であったことを  にホメイニが死去するまでである。

示している認。革命諸組織も多くの貧民を吸   (1)ポピュリズム的側面

収していた。       こうした変化を反映して,この時期にポピ こうしたことを反映して,この時期の所得  ユリズム的改革は勢いを失う。それは,イス 分配は平準化傾向を示した。第2表は都市家   ラム保守派が議会の憲法擁護評議会を拠り所 庭の月平均実質支出額の変化を,1977年を   として,急進派のうちだす改革案を次々と否 100として指数化したものである。1977−80  決していったからである。たとえば土地改革 年にかけて全体では2割近くの減少を示して  法案,外国貿易国有化法案,暴利取締法案,

いるが,落ち込みがもっとも大きかったのが  インフレーション抑制法案,所得税法案,労 最上位20%で,実質支出は1/3も減少してい  働法案などを含めて,1981−1987年に百もの る。それに対して最低位20%のそれは79,  法案を,イスラムに違反しているとして否決 80年と2年続けて拡大し,そのなかでもとく  したといわれる41。

に最低位10%の伸びが著しい。ジニ係数も   両者の対立はイスラム解釈の相違によるも 1977年の0.4998から80年の0.4040へと大  のであり,急進派がポピュリズム的あるいは 幅に改善したから,所得の不平等はかなり是  社会主義的側面を強調していたのにたいし 正されたといっていい。       て,保守派は伝統的解釈に立脚していた。伝 学歴別にみると,大学卒以上のなかで,高  統的なイスラム解釈とは,私有財産を肯定 額所得者の比率が大きく減少し,他方無学歴   し,私人間の契約に政府が干渉することを嫌 者のなかで高額所得者の比率がわずかではあ  い,経済を市場の自由な動きにまかせ,しか るが拡大した39。これは,革命によってエ  も人々の労働の結果としての貧富の差を容認 リート層が多数失脚する一方,無学歴層の一  するというものである42。それは古典的資本 部が社会的に上昇移動するという社会変動が  主義のイデオロギーに近似している。違いは 生じた結果であるが,それは「教養ある工  後にみるように生産よりも流通に力点がおか

リートに対する大衆のヘゲモニー」というポ  れていることである。そもそもホメイニのイ ピュリズム的側面の興隆を如実に示してい   スラム解釈自身が両者の対立にいたる二面性 る4°。      をはじめから内包していた。

いずれにせよ第二期における保守派の台頭 第2節 第二期 分配国家的側面の優位:   は,第一期における急進派の行き過ぎにたい

1981年11月〜1989年6月       する反動とみることができる。その結果,そ この時期の初期には,三権を掌握したイス  れまで急進派が中心となって進めてきた改革 ラム勢力が恐怖政治を敷き,反政府勢力を根  の勢いは停止した。また革命諸組織の政府機 絶やしにする。それによって政権は安定する  関への吸収も進行し,革命的エネルギーを鎮 が,そのあとすぐにイスラム勢力内部におけ  静化させる政策がとられた。

(12)

36      茨城大学人文学部紀要 社会科学論集

(2)生産国家的側面       こうしたことはとくに下層および中下層労 他方,生産国家的側面はこの時期において  働者の生活に大きな影響を与える。第一期に もなお後景に退いたままであった。石油輸出  みられた所得分配の平準化傾向は,第二期に 額は1982,83年と200億ドル近くまで増加  入ると逆転する。前掲第2表からもわかるよ するが,その後再度減少に転じ,86年以降は   うに,最上位20%の実質支出額が1980年か 油価暴落により100億ドルを大きく割り込   ら84年にかけてかなりの回復を示し,最低 み,その後1989年まで低迷する。他方,イラ  位20%のそれは減少に転じている。ジニ係 クとの戦争は長引き,年々の戦費は推定で財  数も0.4205へと悪化している。生産活動の 政支出の30%前後に達していた43。両者は  低迷がポピュリズム的側面の後退を引き起こ 国内貯蓄の減少をもたらし,イランのような   していたともいえる。もっともそれによって 閉鎖経済のもとでは,それは当然投資の縮小  革命以前の状態に逆戻りしたわけではない。

を引き起こす。1981年にGDPの19%であっ  第一期の行き過ぎが是正されたというところ た粗固定資本投資は,1987−89年には13%  だろう。その後この種の調査がおこなわれて という低水準に落ち込む。新規投資,更新投   いないので,1984年以降の変化については 資はおろか,維持,補修すら十分におこなわ  不明である。しかし,次にみる分配国家的側 れず,生産設備は老朽化,陳腐化する一方で  面の強化とともに,その恩恵を受ける上流階 あった。しかも,有能な経営者・管理者や熟   級の利益が拡大したことは,所得格差が80 練労働者の不足,経営組織の非効率外貨不  年代後半から一層拡大したという推測を可能 足や経済制裁による部品や原材料の不足など  にする。

により稼働率は低下した。生産性は低下し,  (3)分配国家的側面 製品の品質も悪化した。イラン経済は,今ま  ①為替相場の過大評価

で蓄積した資本ストックを食いつぶしながら   この時期のイランは,表面的には分配国家 縮小再生産を続けていた44。この間の実質   的側面を薄めていく。ドル表示での石油輸出 GDPは1982,83年と回復するが,それ以後  額が減少しただけでなく,歳入に占める石油 は横ばいとなり,1986年から再度落ち込み  収入の割合も1982年の63%から1986年に がはじまる。そして1988,89年には1981  は21%へと大幅に下落し,ルキアー二の分配 年とほぼ同じ最低水準(1977年の6割)にま  国家の基準である40%を割り込む。かろう で下落する。しかもこの間,人口が急増した   じて40%近くに回復するのは1989年であ ので,一人当たり実質GDPは,1989年には  る。 GDPに占める歳出の比率も1981年の 1977年ピーク時の4割近くへと下落し,かな  34%から1989年の18%に下落した。

り激しい大衆的窮乏化が進行した。       しかしこれらの数字は石油収入の実際の役 それは賃金上昇率の変化にも反映してい  割を過小評価している。それは,この間イラ る。革命直後に高騰した賃金上昇率も,  ンの為替レートが著しく過大評価されていた 1981年以降鎮静化し,80年代半ばまでは物  からである。

価上昇率と同じかあるいは多少低い水準で推   イランの通貨リアルは1980年,政治的理 移した。そして80年代後半に入ると賃金上  由によりドルとのリンクから離れ,SDRに 昇率は物価上昇率に大きく後れをとるように  固定相場(1SDR=92.3リアル)で結びつけら なり,実質賃金の目減りが進行した。また低  れた45。その結果,リアルの対ドルレートは 迷する経済は急増する労働力を吸収できず,  極めて狭い範囲でしか変動しないことになっ 失業率も上昇した。      た。1980−1985年にリアルの名目対ドルレー

(13)

トは,70リアルから91リアルまで下落,そ  いるのだから,分配国家的側面が弱められて れ以後はドル安にともなって切り上がり,  いるといってもよさそうである。しかし実は 89年には72リアルに達した46。       その目減り分は,目にみえない形で社会に配

しかしこの時期は,石油輸出額の大幅減  分されているのである。イランのように政府 少,実質GDPの縮小,資本ストックの食いつ  が外貨の一方的売り手の場合,ブラック・

1   ぶし,生産性の下落,インフレーションの昂  マーケットで発生するプレミアムは,公定 進など経済のファンダメンタルズが極度に悪  レートでの外貨の買い手が獲得することにな 化した時期であった。それにもかかわらず対  る。なぜなら,その買い手が輸入業者であれ ドル名目レートがそれほど大きく変動せず,  ば,海外から公定レートで輸入した製品を,

とくに80年代半ば以降は革命以前とほぼ同  国内ではブラック・マーケット・レートで販 じ水準が維持されたことは,この間リアルが  売することができるからである。この場合,

大幅に過大評価されていたことを示してい  政府は民間に隠れた補助金を支出しているこ る。      とになる。これが「見えざる石油収入」の撒

外貨不足のもとで,為替の過大評価を維持  布である。

しようとすると,厳しい為替管理を必要とす   政府による為替管理のもとで,公定レート る。革命後の資本の海外逃避を防止するため  でドルを入手できる者はかぎられている。輸 にも為替管理は欠かせない。しかしそれは必  入ライセンスを確保できる民間の輸入業者,

ずドルのブラック・マーケットという負の側  輸入依存度の高い国営企業およびシャーの資 面をうみだす。案の定ブラック・マーケット  産を接収した宗教財団などである。当然のこ は革命直後から発生し,公定レートにたいす  とながら輸入ライセンス取得のために賄賂や るプレミアムは次第に拡大し,80年代半ばで  コネが利用され,革命前と似たような社会的 500%,87年頃で1000%,90年には2000%  腐敗が進行する。そのなかでも革命政権と密 にも達していた47。      接な関係をもつバザールの大商人や宗教財団 イランの場合,為替レートの過大評価は,  の上層部などは,為替の過大評価の恩恵を十 国内通貨建てでの政府収入の目減りをもたら  二分に被っているといえる。これはシャーの す。というのはイランの石油収入はまず全額  時代の分配国家的側面と同じである。違いは ドルで国庫に納められ,そのあと中央銀行と  その受益者が資本家やシャーの財団から,バ のあいだで,公定レートで国内通貨と交換さ  ザール商人や宗教財団に変わっているだけの れるからである。もし公定為替レートを  ことである。

200%切り下げたら,リアルでの石油収入は   先にみたようにこの時期に所得配分の平準 3倍となり,歳入に占めるその比率も上昇す  化傾向が逆転し,上流階級の支出が大きく回 る。したがって80年代にはいってからの歳  復するのも,上のような構造によるところが 入に占める石油収入比率の持続的低下は,そ  大である。80年代後半になるとブラック・

の大半が為替相場の過大評価によるものであ  マーケットでのプレミアムが急激に拡大して るといっていい。当時のリアルの適正為替水  いるが,それはその分だけ政府の支出する隠 準を,公定レートから200%切り下った水準  れた補助金の額が膨らんでいることを意味し であると仮定するなら,ルキアー二のいう石  ている。80年代後半以降,所得の不平等がさ 油収入が歳入の40%以上という分配国家の  らに助長されたという仮説の根拠はここにあ 基準を満たすことができる48。        る。

もっともリアルでの石油収入は目減りして   このように分配国家的側面は何ら後退して

(14)

38       茨城大学人文学部紀要 社会科学論集

いない。それどころか他の二側面が後退した   以上のことはこの時期に,道徳教育,文 ため,その相対的地位は高まったといえる。  化の面でイスラム聖職者による社会的ヘゲモ

②イスラムの復活       ニーの確立が進展し,イスラム的価値観や規 分配国家的側面の優位を特徴づけるもうひ  範に基づく社会秩序が定着しはじめたことを とつの現象は,イスラムの復活である。先に  意味している。

もみたように分配国家は,自ら包摂する社会   それだけではない。イスラムはバザールあ の秩序維持のためには,伝統的なものに依存  るいはバザール経済とときわめて緊密な関係 せざるをえない。したがってイスラムを基盤  を維持していた。先にもみたように伝統的イ とした伝統的社会秩序の復活は,分配国家的   スラムは,自由市場システムを積極的に肯定 側面の強化をもたらすとみることができる。  するだけでなく,マホメットがメッカの富裕

といってもイスラムが政治,経済,社会,法  な商人であったこともあって,商人や商業活 律,文化のすべての領域にわたって復活,浸  動にたいして好意的かつ肯定的であった5°。

透したわけではない。総じてイスラムがかな  歴史的にも都市の商人層がイスラムの中心的 り復活,浸透したのは,道徳教育,文化の  な担い手であったし,イスラム聖職者とバ 面であった。       ザールの商人とは婚姻を通じて人的な関係を イスラム勢力は,イランの国家と社会がシ  築きあげていた。またバザールの富裕な商人 ヤーによる西欧的文化や価値観の導入によっ  達が,イラン革命時にホメイニをはじめとす て汚染され,腐敗したとみなしていたので,  るイスラム勢力を資金的に支えたことは周知 イスラム的文化,価値観の復活は,一切の西  の事実である。

欧的文化や価値観を拒絶することと裏腹の関    バザール経済が,生産部門より流通部門に 係にあった。それは,個人の権利や解放に最   力点をおく分配国家に適合的なことはいうま 大の価値をおく西欧的個人主義を排して,血  でもない。もちろんバザール経済は商業だけ 縁共同体や信仰共同体の権利や保護を重視す   でなく,生産活動も包摂している。しかしそ るイスラムの思想に置き換えようとしたとも  れは職人などによる零細規模のものにすぎ いえる49。そのため女性は社会的に隔離さ  ず,彼らを金融や販路の独占を通じて支配す れ,また黒衣の着用を義務づけられるなど,  る商業や商人の力には強いものがある。生産 女性の権利は男性に比べて一段引き下げられ  にたいする流通の優位がバザール経済の特徴 た。男女関係を中心として,きわめて厳しい  である。したがって生産よりも流通を重視す 道徳的規律が国民に要求された。教育の分野   る分配国家的側面の拡大は,バザール経済を では教育内容がイスラム的なものに変更され  強化する。それは,非石油部門付加価値に占 ると同時に,アラビア語の履修が復活し,大  める商業の比率が1981−87年に18%から 学でも宗教教育が義務づけられた。文化の分  26%へと上昇し,農業を抜いて首位に躍りで 野ではイスラムに違反する「堕落した」西欧的  たのに反し,製造業・鉱業が12%から8%へ 雑誌,音楽,映画などは禁止され,テレビや  と低下したことにも表れている。

ラジオでは伝統的音楽やコーランの朗詠など   分配国家はバザール経済を強化する。他方 が多く放送されるようになった。また当然の  イスラムは伝統的イデオロギーとして分配国 ことながら西欧的教養を身につけた知識人,  家を支える。そしてイスラムとバザールとは 教師,役人などを,イスラム聖職者やイスラ  緊密な相互依存の関係にある。ここに,分配

ム的価値観をもった者によっておきかえる過  国家一バザール経済一伝統的イスラムという 程も進行した。       政治,経済,イデオロギーの領域にわたる三

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