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『正法眼蔵』「現成公安」の巻の冒頭 を読む

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(1)

■弘前大学哲学会 第

3 3

回大会 論文

( 2)

『正法眼蔵』「 現成公安」の巻の冒頭 を読む

佐 々 木 隆

は じめに

ここで取 り上げた道元の 『正法眼蔵

現成公安」の巻の冒頭の部分は,仏教思想のエ ッ セ ンスを並べて述べた もの と言われている重要な ところである.『正法眼蔵』は文体の難 解であることが知 られ,従来か ら一語一句に注釈を加えられ,教えや思想を捉え導き出さ れてきた.筆者 も同 じよ うな努力を続け,その言葉の意味か ら哲学的人間学の解釈を行なっ てきた. しか し,そのよ うなや り方では,道元の独 自性を解体 し,出典 と成 った 古典など の既存の思想を要約するだけのことであった り,道元ではな く解釈者の考えを紹介 してい るに過ぎないのではないか と思 うようになった.

言葉の意味 とは言葉の使い方だ とすれば,文章 として纏ま りのあるものを,一語一句の 注釈を して,要素に分解 し,一般化するな らば,その文章全体の意味は捉えられないこと になる

.

現成公安」の言葉が仏教思想を羅列 したカタログではないな らば,その独 自な 表現において何 らかの道元独 自の考えが示 されていると考えなければな らない.

これまで,筆者は良寛の 『小樽詩巻』の研究を行い,言葉の組合せ,対句表現 と内容 と のかかわ り,そ して詩 と詩を組み合わせている編集意志に注 目し,新 しい解釈を行なって きた.その過程で 「現成公安」の巻において も,文章全体の記述に特徴 (哲学的文法)が あ り,それが解釈の在 り方を指示 している事を発見 した.

記述の構造 (哲学的文法)に即 して読む と,道元の 「現成公安」の文章の語 っていたの は,教えや答えとい うよりも, ソクラテスの対話のように常識 (仏教の世界における常識 を含む)の中にある無知の自覚化であ り,読む者‑の問いかけであ り,積極的な読む1:J への参加‑の促 しだ ったのである. このように問い として捉えることによって,禅語録な どの対話的記述の伝統 とも一致 し,片言章句の理解ではな く,全体の流れが把握できるよ うになるのである.以下,道元の言葉が理解 しうるものであることを 「現成公安」の巻の 冒頭の部分を中心に明 らかにする.

テキス トについて

日読まれている道元の文章は読みやす くするために近代の句読点を打 った ものが流布 している. しか し,原文には句読点がない.だか ら,句読点を打ち,段落に分けることで, 既に校正者の解釈が入 っているのである.

道元の文章は, リズ ミカルな ものが多く,音読 されることを前提 とし,意図的にそのよ うに書いていると考えざるをえない.道元 自身は,真実 とは異なるフィクシ ョンとして,

(2)

真実か ら心を反 らすひまつぶ しの遊び としての 「詩歌」を否定 した (随間記)ために,そ の戒めに したがって, これまでは詩的な表現があることを知っていても,その表現に即 し た解釈はなされて来なかった と思われる.

しか し,禅では不立文字 と言われるが,道元は仏典の文字を尊重 し,仏典の中にある詩 的な表現や直感を否定 していない.それ どころか道元自身が詩を作 り,表現に 1夫を与え ること (レ トリック)によって新 しい解釈や発見を導きだせることを承知 していたのであ る.最 も有名な工夫の例は, 「有時」の巻きの有時 (あるとき ・或る時 とい う意味の言葉) を有 (ある) と時 (とき)に分けて 「存在 と時間」を考察する 「有時」の巻などが認めら れる.

さらに,和漢混交文 とい う文体について,一般に和文で書 くとい うことは漢文で読めな い読者の為に易 しく説 くものであると思われているが,道元の場合 も,はた してそ うなの か.読みやす くな っている とは思われない.江戸時代には僧侶のために 『正法眼蔵』の

却退一字参』 とい う漢訳本が出されている.訳に問題があると言われている (いわゆる 漢文 と仏教漢文の混交などがあるためか と思われる)が,漢訳本の方が読みやすか ったの である.なのにあえて,道元がフォルムのはっき りした漢文で書かなかったのは,意味の 唆味な和文の表現を選ぶ理由があったか らであると考えなければな らい.

この論文で示 している本文は筆者が語句を対句構造が明白になるように分けた ものであ る.

本文

現成公安

1)諸法の仏法なる時節, すなはち

迷悟あ り 修行あ り 生あ り死あ り 諸仏あ り衆生あ り.

2)

方法 ともにわれにあらざる時節, まどひな くさとりな く

諸仏な く 衆生な く 生な く 滅な し.

3

)仏道 もとより豊倹 よ り跳出せ るゆゑに, 生滅あ り

迷悟あ り 生仏あ り.

4)

しか もか くのごとくな りとい‑ ども, 花は愛惜にち り,

(3)

草は棄嫌におふるのみな り.

5)

自己をはこびて方法を修証するを迷い とす, 方法すすみて 自己を修証するはさとりな り.

A

文 と文の関係について

従来か ら

1

) と

2)

3)

は仏教の基本問題を取 り上げた もの と言われている. しか し それ らが どのような相互の関係に有るのかはあま り明 らかにされてはいない.題名の 「 成公安」を文全体を代表するもの とするよりも,仏典の注釈書において,まず題名の注か ら始める伝統に則 って,ここの部分 と直接結び付けて,それぞれが独立 して現成公安を語 っ ていると考えたか らである.

その場合,教えの羅列ではない とすれば仏教を一つの立体に喰え,その三つの次元を弄 した もの考えることや,素朴な認識が次第に深め られて行 くような構成になっていると考 えることができる.

まず,1)と2)3)は互いに無関係な部分ではな く相互にかかわる仏教の全体を語 ・= ていると考えるな らば,1) と2)3)をどのよ うに理解すれば全体が成立す るのか こ れまでの設では不明なままである.また,思想が深め られているとい うが,既存の仏教概 念の枠に照 らして述べ られ,道元の言葉に即 して示 されてはいないので証明の必要があそ そこで

,1)

2)

の 「ある」と 「ない」との明 らかに違いのある言葉の対称に注 目して 文 と文の関係の意味を明 らかにする.

1

) と

2)

には 「時節」 とい う言葉が共通することに注 目すれば,1) と

2)

が 「時節̲

とい う立場か ら,対称的な思想が示 されていると考えられる.そ して時節 とい う言葉は3二 の場合にはないので

,1)

2)

の組合せ と

3

と)は立場を異にすることが窺える.

1)について

,

すなはち」とい う言葉は 「

そのまま」とい う意味で,2)には 「 なはち」 とい う言葉がない.だか ら,2)には 「すなはち」 と繋げ られない理由がある と 考えられる

.

すなはち」が 「有るものをそのまま」 とい う意味な らば,2)には 「そのま ま」に有るもの 自体が存在 しないので,だか ら,文の構造がほ とん ど同 じで も

,

すなは ち」 とい う言葉がない.

3)

については 「もとより」 となって

,

そのまま」 と全 く同 じではないが,元 となぞ 存在を認め,その存在か ら,本来的に と言 うことにな り,1)と同 じよ うな言葉 とな って

くるのである.

青葉の用法について

1)では

,

迷悟」 とい う対立する概念の組み合わ された漢語があ り,2)では 「まど□

な く, さとりな く」 と 1)の言葉の否定形が和語が対応 している. ここで, 「迷悟」 とレ う言葉は,迷いを悟るとい う意味 として,また迷 と悟 とい う対立する概念を対比させ並バ ていると見ることが出来 る.それ と対比される

2)

の 「まどひな くさとりな く」 とい う和 語が 「まどい もさとりもな く」ではな く

,

まどひな く」 と 「さとりな く」 とそれぞれ¢

(4)

言葉を独立 させて否定 していることに注 目され る.だか ら,まどひ」 とい うものがない から 「さとり」の 自覚が反省 され ることも,「さとり」 と対立する 「まどひ」 とい うもの もない とい うことになる.

ここで 「迷」に対応す るのは和語では 「まよひ ・迷ひ」 とされ,まどひ ・惑ひ」 とは 差異があると言われる.『岩波古語辞典』によれば,まどひ」は 「①行 く先を見定めかね て混乱する.② どうすればよいか決めかねて,心が乱れる.③はなはだ しく ・・・する.

とあ り,まよひ」は 「①織物の糸が弱って織 目が乱れる.② ほつれる.③入 り乱れる.右 往左往する.④心が乱れる.⑤行 く手 も不確かなまま歩む.⑥償 う.」 とある.

ここには仏教のテクニカルターム (既成概念) としての 「迷悟」 とい うものよりも,言 葉を少 しず らす ことによって読む者一人一人の 日常の存在‑の配慮が促 されていると考え

られる.

さとり」について,「さとる」 と訳 しうる漢語は 「悟 ・解 ・暁 ・覚 ・了 ・諭 ・証」など があ り,悟」 と書 くよ りも意味が広げ られ,読み手はさまざまな 「さとり」意味を自ら の存在に即 して考えることが強い られるのである.そのなかで,特に 「証」の文字は修証

‑如 と言われるよ うに道元に とっては重い意味がある.ちなみに道元は修 と分離 された証 や,証のための手段 としての修 を否定 している.修行」 とい う言葉が 「現成公安」の巻 に出て来るのはここだけで後にはない. このことか ら 1)の文章には仏教の通説の紹介の 意味があると思われる.

次ぎに,1)について,生あ り死あ り」 と対立概念が組み合わ されているが,2)では

生な く滅な し」 とやは り1)の言葉に対応する否定形が組み合わ されている. しか し,

死あ り」が 「滅な し」で同じような言葉であるが微妙に違っている.

これは 「生死」 とい う対は,生あっての死 として受け止め られ るので,生」を否定す ると対概念 としての死を 「死な し」 と出来ないことと,否定の否定で 「生あ り」に戻って しまう可能性が考え られる.

仏教用語 としての 「死」には修行の結果,情識分別の念を離れ,煩悩の熱気がな くなる 境地を指す ことがあ り, これは仏教用語 としての 「滅」の意味に近いものである. 言葉を 対応 させるだけでな く, より深めて受け止めていると考えられる.逆に,生あ り死あ り」

とい う言葉は我々の 日常に近い素朴な認識示 しているとも考えられる. ここで 「生な し滅 なし」を 「生滅な し」 としないことにも意味がある.生滅な し」は 「生滅滅己」 (生滅 と いうものが無 くなっている)つま り,さとりの世界に入っているとい う意味になって,「さ

とりなく」 と言っていることに矛盾 して しま うか らである.

1)の 「諸仏あ り衆生あ り」は 「諸仏な く衆生な く」 とそのまま否定形になって対応 し ている. ここで 「生あ り死あ り諸仏あ り衆生あ り」 と 「諸仏な く衆生な く生な く滅な し」

と言葉の順序が反対になっているのは, 「生あ り死あ り」が仏教的な 「諸仏あ り衆生あ り」

とい う文脈の中で読まれ るために,生な く滅な し」 となった と考え られる.その前提は

3)

において も 「生死あ り」ではな く 「生滅あ り」 と引き継がれる.

1)にあって

2)

にないのが先にも述べた 「修行あ り」 とい う言葉である.その理由 と

(5)

して

,

修行」 とい うものが 「迷」か ら 「悟」‑の移行のための努力あるいは手段 を指す もの と考え られ るか らである.修行が 「迷」 と■をつな ぐな らば

,

迷」 も 「悟」は 絶対的に断絶 しているものではな く,連続性があることになる.迷」 も 「悟」 も相対的 な区別に過ぎない ことになる.つま り

,

迷」 と 「悟」の区別には意味が無 くなる.その 展開 として

2)

の 「まどひな くさとりな く」 とは 「迷」 と 「悟」の区別を否定 していると 考えられる. さらに

,

迷」 と 「悟」の否定に至れば

,

迷」か ら 「悟」‑の移行 とい うも の自体が存在 しえない ものになる.初めか ら二つの独立 した もの とその間の移行過程が存 在 しえない ものだ った ら,修行の概念 自体が存在 しないので 「修行な し」 と否定的に言 う

ことす らできないのである.

もう一つ考えられることは

,

修行」とい うもの自体が,どのように有るものなのか,無 い ものなのか,が不明である とい うことを意味 している.そのことが

5)

において修証の 在 りjJが考えられている理由であると思われる.

B

諸法

仏法

方法」

このような

1

) と

2)

の違いは,文の初めの 「諸法の仏法なる時節」 と 「方法 ともにわ れにあ らざる時節」の前提の違いによるものである.

ここでは法 と言 う言葉が 「諸法

仏法

方法」 と三つに使い分けられている. ここで

諸法」 と 「仏法」は区別 されていなが ら 「諸法の仏法なる」 とあ り 「諸法」 と 「仏法」

とが何 らかの形で結び付いているあるいは 「法」 とい う共通項をもっている事が示 されて いる.

それに対 して 「万法」の 「万」にはすべての とい う意味があるので 「諸法」 と 「仏法」

とがその中に含 まれ る と解釈できる.それは 「ともにわれ にあ らざる」の 「ともに」が

諸法」 と 「仏法」 とい う 「方法」の複数の要素を示 しうるか らである.漢訳で も 「方法 倶非我時^L.̲」 となっている

.

倶」 とは 「そろって」 とい う意味である.

ここで聞題になるのは 「われにあらざる」の漢訳 「非我」 とい う言葉である. この 「 れ にあ らざる」を無我ではな く,非我 と訳 した ことには

,

非我」には 「わた しには存在 しない,あるいは,わた しのものではない」 とい う意味 と 「無我」の 「わた しとい うもの がない」 とい う意味があ り,二つの意味を含む もの として解せるので,いずれの法にもま た我々にも固定的な実体はない とい う解釈をしていることになる.

ここを増谷文雄や石井恭二のよ うに我 を主体的な 自己や 自我 として限定 して訳せば, 我々において 「まどひな くさとりな く,諸仏な く衆生な く,生な く滅な し」 とな り,2) は 1)の文の全面的な否定ではないので,我々を離れて, どこか別の所に 「迷悟あ り修行 あ り,生あ り死あ り,諸仏あ り衆生あ り」があるとい うことになって しま うのである.

しか し,引用 した 1)か ら4) までの言葉の中に個別的な自己を示す言葉がなく5)で 初めて自己とい う言葉が出て来ること,1)が一般

,2)

が個別 とい う対句において比較 し た部分がないことか ら 「我」を 「自己」や 「自我」 と限定 して解することはできない と思 われる.

(6)

ここで も 「非我」や 「無我」あるいは 「自性」 とい う漢語ではな く 「われ」 とい う暖味 な和語を使 っている理由は白己の暖味な存在を含めた前の

1

)の文全体を意識 させるため であると思われる.

C

繋辞について

1)の 「なる時節」 (諸法仏法時節)には漢訳す る と消えて しま う和語の 「なる」には

である」 (繋辞 と存在)の意味 と 「成 る」 (生成)の二義が含 まれ る.また,2)の 「 れにあ らざる時節」 (非我時節)の 「あ らざる」も 「何かである」ことの否定,つま り 「 うではない」 と 「ある」 (存在す る) ことの否定である 「存在 とい うものがない」 とい う 意味 も含まれているのである. ここにも漢文ではな く和語で表現す る必要性が認めれ る.

道元は

1

)の 「なる」には 「ある」 (存在) と 「成る」 (生成)の意味 も含まれ, 「成 る」

には,成 る以前 の 「ない」状態 と成 った後 の消滅,即ち 「ない」が含まれている.2)

あ らざる」では 「何かではない」 とい う意味だ けでな く 「存在 とい うものがない」 とい う意味に解 している と思われ る.

それは 1)にある 「修行」 とい う言葉が 2)にはないことか ら伺える.Aで述べた よ う に 「修行」の 「修」 とは基本的に何かに 「なる」 ものだか らである.それゆえ

1

) と

2)

の対応関係を考えれば

1

)の 「なる時節」 と

2)

の 「あ らざる時節」は存在 と時節 (時間) の意味を比較 している と言 うことができる.

D

あるとない

3)

の文は

1

)の 「あ り」 と

2)

の 「

・の 「あ り」で正反合の弁証法のように見え るところである. しか し,形が似ているか らと言 ってそのまま弁証法 と考えてよい ものか 疑問である. これ までは存在の肯定か ら否定そ して超越的な統合が述べ られている として, 内容か ら弁証法的であると言われてきた. しか し,一一つ一つの語句がそのよ う対応 してい るのか明 らかに されて来なか った.だか らこそ,独立 した真理が並べ られているとか,物 事の表 と裏をのべているので矛盾はない とか見 られてきたのである.

3)の 「仏道 もとよ り豊倹 よ り跳 出せ るゆゑ に」 (仏道固跳出於豊倹故)の言葉に注 目 すると, この文には 「法」 とい う言葉がな く,その代 り 「仏道」 とい う言葉になっている のである.そ して1)2)の 「時節」 とい う言葉 もここにはないのである.そ こで言葉に 即 して

1)2)

がセ ッ トであることと, この

3)

1

) と

2)

のセ ッ トに対 して総括 を し ていることが考え られるのである.

さて 「豊倹」 とは 「豊富」 とか 「倹約」 とい う多い少ない とい う相対的な ものを表わす 言葉である. しか し, この 「豊倹」においては相対的な ものを指す と同時に,1)の 「 り」と

2)

の 「な し」が対応する と考えられ る.そ こで 「豊倹 よ り跳出せる」 とは 「ある」

な し」の区別 を超越 して とい う意味になる

.

区別を超 えて」いるので区別の節 目とい ものを認めることができな くなる. 「ある」か ら 「な し」‑

,

な し」か ら 「ある」‑の時 間的な変化 も無いことになる.そ こで 「時節」 とい う時の流れ も時の 「節 目」を設定す る

(7)

こともできな くなるのだ と思われる.それゆえ,豊倹は時節にも対応 していることになる.

E

アウフヘーベンか

跳出」には迷いの世界か ら悟 りの世界‑飛び出す とい う意味がある. しか し,1)の

あ り」と2)の 「な し」を超越すると言 って も,別の世界に移るのではな く,1)の 「 り」 と2)の 「な し」を踏 まえて

,

生滅あ り,迷悟あ り,生仏あ り」 と言 うのである.

生滅あ り,迷悟あ り,生仏あ り」は,2)の 「生な く滅な し」の否定 と 1)の 「迷悟」

の再肯定 とい うア ウ7‑‑ベ ンしているように見える.まさに 「生仏」 とは対立する 「 生」 と 「仏」を一つに合わせた言葉なのである.

ところが

1

)の 「修行」 とい う言葉がここにも出てこない.道元は修行を重ん じた こと はよく知 られているので,修行がい らない と考えた とは思われない.そこで仏道 とい う言 葉には修行 と存在を示す方が内在 していると考えることができる. しか し, ここで も 1) の何かか ら他の何かになるような移行 としての修行を

2)

のように否定 していると考えら れる.1)の 「迷悟」は迷か ら悟‑対立するものをつな ぐ移行 (方便 ・手段) としての修 行が考えられるが

,3)

の迷悟は生仏が 「衆生」 と 「仏」を一つに した とするな らば 「迷」

と 「悟」 とい う二つのものではな く 「迷悟‑如」 として一つであることになる.一つのも のの中には移行はない.

生滅」 も 「生あ り」 と 「滅あ り」ではな く

,

生滅」 として一つ (‑如)であることに なる. この場合‑如は物事の裏 と表 として一つ とい T雫味ではない.存在に気がつ く契機 としてそれぞれが認識 されるにすぎない.それゆえ実体的な区別があるものではないか ら 移行 としての修行は存在 しないことになる.

F

接続詞

そのように迷悟‑如,生滅‑如 と解すれば

4)

の 「花は愛惜にち り,草は棄嫌におふる のみな り」は 「迷悟」 として一つであること

,

生滅」 として一つ として対になっている

ことを具体的な ものを通 じて説明 しているように思われる.

このよ うに理解 され るには 「しか もか くのごとくな りとい‑ ども

,

」 とい う言葉が西有 穆山のように 「このな りといへ どもは,いつ もの筆法で,なれば とい うことだ」 と順接 と

してのみ解釈できればの話である.

しか し

,

「しか もか くのごとくな りとい‑ ども」はやは り否定的接続 として読むのが妥 当ではないか と思われる.多 くの解釈者たちも前に述べたことを否定する否定的接続 とし て読んでいる.その意識は 1)や2)の理論そ して3)の仏道ではいろいろ言 うけれ ど現 実は 「花は愛惜にち り,草は棄嫌におふるのみな り」 とい う対立する現象があるだ けなの だ と理解するものである.

さて

,

豊倹 よ り跳 出せ る」 ものが 「花は愛惜にち り,革は棄嫌におふ るのみな り」 と あっさり否定 されてよいのであろ うか.1)2)の認識がそれ 自体 として誤 りなのではな く 限界があ り,3)でア ウ7‑‑ベ ンされた とするな らば,1)2)3)で一つの纏 ま りとして

(8)

511精 し,文章の構造 としては,4)は次ぎの別の文章の始ま りの問いかけ と解すべきでは ないだろ うか.

確かに,次の

5)

には 「自己をはこびて方法を修証するを迷い とす, 自己を方法すすみ て修証す るは さとりな り」 と 「われ にあ らず」ではな く 「自己」 (自我)の 「われ」が登 場するか らである

.

愛惜」や 「棄嫌」を感 じるのは法や仏道ではな く主体的な 「自己

だか らである.

な りとい‑ ども」は否定的接続 と読むのは 「法」や 「仏道」 とい う 「われ」を離れた 立場で一般論を語 っているが

,

「自己」 とい う個別の立場に注 目すれば と問題の取組み方 を変えていると理解できるのである.

G 対句 と接続

西有のように順接 として 「な りとい‑ ども」を受け取れば4)3)の説明に過ぎな く なる.

1)

の 「ある」 と

2)

の 「ない」の否定 として

3

)の生成があるとすれば

,4)

の花 や草の例が よく分かる.

しか し,通説のように否定的接続 と読む と,色々な理論を並べてきたがや っぱ

V ):

1論 よ り現実なのだ とい うこれまで述べてきたことをすべて意味の無いものに して しま う.無駄 なことをこれだ けの神経を使 って表現する必要はないのではないか.そ して, これ以上文 を書き進める必然性 も無 くなるのである.以下の文が蛇足でないな らば,単純な 「順接」

として理解するのも 「否定的接続」 とす るのも誤 りである.

そこで, この言葉は順接を していると同時に否定的接続を していると対句の両義性か ら 理解すれば,説明で)ると同時に,否定は視点を変えるための否定で,新 しい問題提起の 例を 「花は愛惜にち り,草は棄嫌におふるのみな り」 としていると解せると思われる.

花」 と 「草」の対比が何を意味するか とい う問題 よりも先に,人間の在 り方を中心に 考えていたのを 「花」 と 「草」 とい う時節の折を感 じさせるものが示 されている. とい う ことは

,3)

で時の変化が否定 されたのが

1

)の時節‑ と話が戻 り,一般的な論か ら個別 的な位相を変えた考察をもう‑唾や りなおす ことを意味 している.

つま り,単純にあるものが対iするもの‑ と変化するような弁証法的な発展を示 しなが ら,有るものは有 り,無いものは無い とい う厳格な存在の論理を認めているのである.だ から,対句的な表現の中で,弁証法的な論理 と厳密な論理が葛藤 しあっていると言える.4) の 「しかな りといえども」は

3)

において時節 (時間) とい うものを仏道が度外視 したけ れどもとい う意味に解することもできるのである.

H 論理は展開する

5)ではも, 自己 と万法を対称的に示 していることが文の構造か らよく分かる.それ と, 3)4)にはなかった2)の 「方法」の言葉が戻っている.そ して2)にはなかった主 体の在 り方 と 「方法」 との関係を修証を通 じて,迷い とさとりの定義の変更を行っている.

2)の 「方法 ともにわれにあ らざる」に対 して, 「方法 ともにわれにある」 とまでは言わ

(9)

ないが, ここでは方法 と修証す る者 とい う 「われ」ではないが 「自己」の関係が問われて いるので, 「まどいな くさとりな く」 とあ った こ とが 「迷 とす」 と 「さとりな り」 と変わ るのである.

ここで気がつ くのは 「方法 ともにわれにあ らざる」に対 して 「力法 ともにわれ にある」

と述べているのは 「諸法の仏法なる」の部分ではなか ったか とい うことである.諸法はそ Dまま仏法ではないはずである.それなのに 「諸法の仏法なる」 と見徹 した ことには限界 が あ ったのであ る. 当然,不法 ともにわれ にあ らざる」 とい う認識 に止 まれば仏教 の実 践 とい う問題に答 え られない ことになっていたのである.そ して, ここでは

1

) と

3)

迷悟あ り」 とした迷悟 とは何かではな く,迷悟 の主体的な在 り方が定義 され るのである ここで 1) にあ った修行 とい う言葉が修証 に変わ っている. 内容が深め られ ている とい う考え と一致す る. しか し,修証‑如 と言われ るが,5)において修行ではな く修証であ ればそのまま 「さ とり」である とは述べていない.修証 とい う言葉が道元独 自の意味を示

していない. まだ意味は 自己のあ り方にかかわ って決め られ るよ うに見える.

以上の よ うに, 言葉 を忠実にた どれば,道元の文章が弁証法的な対立を総合 してゆ くよ うな論理 を もって展開 していることがわか る.

本論文は平成

1

0

9

2 6

日 弘前大学哲学会で 「道元の論理構造」として発表 したものに手を 加え,題41も変えたものである.

参考文献

仏教大系刊行会 『仏教大系 正法眼蔵 第‑‑』仏教大系刊行会 大正7 西有穆山 『正法眼蔵啓辿 上巻』大法輪閣 昭和

4 0

安谷白雲 『正法眼蔵参究 現成公安』春秋社 昭和4

2

森本和夫 『正法眼蔵人門

』NHK

ブックス 昭和

6 0

高橋賢陳 『正法眼蔵上巻』理想社 昭和4

6

増谷文雄 『正法眼蔵 一』角川書店 昭和48 水野弥穂子 『正法眼歳(う』岩波書店 平成2

河村孝道 校注 『道元禅師全集 第一巻』春秋社 平成

2

春 日佑芳 『新釈 正法眼蔵』ぺ りかん社 平成7 石井恭二 『正法眼蔵1』河出書房 平成

8

春日佑芳 『正法眼蔵を読む

1

』ペ リカン社 平成11年 池田魯参 『道元学の揺藍』大蔵出版 平成2 拙著 『良寛の詩を読む』国書刊行会 平成

9

拙論 『愛語について』東北女 √大学紀要

3 2

号 平成

6

利行について』

3 3

平成

7

道元 とコミュニケーション 同車について』同3

4

平成

8

道元の 「布施」を読む』同3

8

平成11

良寛 と道元」『良寛のすべて』人物往来杜 平成

8

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