• 検索結果がありません。

雑誌名 明治学院大学教養教育センター紀要 : カルチュー

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "雑誌名 明治学院大学教養教育センター紀要 : カルチュー"

Copied!
39
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

イオニア」

著者 原田 勝広

雑誌名 明治学院大学教養教育センター紀要 : カルチュー

ル = The MGU journal of liberal arts studies : Karuchuru

巻 12

号 1

ページ 75‑112

発行年 2018‑03‑25

その他のタイトル A Study of Shimura Usaburo: NGO Pioneer and Supporter of Chinese Refugees

URL http://hdl.handle.net/10723/00003373

(2)

序 章─暖かい光で周りを照らし続けた 一生

 老人は最晩年,東京・青梅市の特別養護老人ホー ムで穏やかな日々を送っていた。視力を失い耳も 不自由だった。記憶力,判断力,理解力,持つも ののすべてを神に返しつつあるようにみえた。そ れでも子供のように邪気のない笑顔で老人ホーム では人気者だった。 

 年老いてやせたとはいえ,偉丈夫だったかつて の面影が残り,牧師らしく声に張りがある。楽し いのは突然始まる礼拝説教,というより路傍の衆 に呼びかけるような声高らかな演説。内容は,日 中戦争の時,上海近くで中国人難民の医療支援を した思い出だ。

 「中国にわたる直前に,京都大学の医学生を引 き連れましてね,薬問屋が軒を並べる大阪の道修 町を回ったんですよ。中国へ医療団を派遣します,

期限切れの薬や中古の医療機器はありませんか,

あったら是非,寄付をお願いいたします,と言っ てね」

 友人の息子も中国人難民施療団に参加する予定

だった。病気で断念したが,後に聖路加国際病院 理事長となる若き日の日野原重明である。

 非政府組織(NGO)の活動が注目されるよう になった 1990 年代の終わり,調査取材の過程で 筆者が「緊急人道支援のパイオニア」として出会っ たのがこの老人牧師だった。

 妻が語る。「生活が本当に貧しくて,電車にも 乗れず夫婦でよく歩きました。夫は伝道に行くに も私を荷台に乗せて自転車をこぎながら。奉仕に 生きた一生でした」

 亡くなる前に葬儀目録をそろえ,その時に読む べき聖書の個所と讃美歌を指定していた。鷹揚で,

美しいもの,善いも のに敏感な老人は,

こんな歌を詠んでい る=写真①。

蔦(つた)照葉 摘みて書物に 挟みたり 幾年月の 秋とどむべく

~中国人難民を支援した「NGO のパイオニア」

原 田 勝 広

序 章─暖かい光で周りを照らし続けた一生 第 1 章─山梨県の旧家に生まれる

第 2 章─同志社で学び京都駅裏のスラムで伝道 第 3 章─戦時下の中国にわたり難民を支援 第 4 章─戦後は「元標教会」で布教,夢は世界連邦 第 5 章─現地報告 2017

写真① 志村の遺した句を見せ る康子夫人

(3)

 いま老人の過去の栄光を知る人はほとんどいな い。志村卯三郎。2007 年 7 月,103 歳で神に召さ れるまで,暖かい光で周りを照らし続けた。

 彼のことは忘れられるべきではない。そんな思 いから,ここに志村の人生をたどることにする。

第 1 章─山梨県の旧家に生まれる

〈山梨の精米所の三男として誕生〉

 山梨県でひとりの男の子が誕生した。赤ん坊の 名前は卯三郎という。四男四女の 6 番目,三男で ある。1904 年(明治 37 年),日露戦争が始まり,

出征した弟を思って与謝野晶子が「君死に給うこ と勿れ」と詠んだこの年,シベリア鉄道が完成し,

ニューヨーク市地下鉄が開業した。日本では貝塚 茂樹,桑原武夫,中国では鄧小平,スペインでは ダリが生まれている。

 長じて 5 尺 8 寸 5 分というから 180 セ ンチ近いがっしりし た体躯となる卯三郎 だが,生まれた時は 8 か月の早産で,小 さくてとても無事に 育 つ ま い と 思 わ れ た。生まれたのは 1 月 27 日 だ っ た が,

役所に出生届を出す のを見送っていたのはそうした事情による。もう 大丈夫ということで 3 月にやってようやく届けを 提出した。めでたいというので,男の子であった にもかかわらず,3 月 3 日を誕生日ということに した。生誕の地は中巨摩郡鏡中條村下今井,現在 の南アルプス市である。

 卯三郎の父,大八は,つきや(精米所)が生業

だった。農業地帯で昔は商売といえば,つきやか 鍛冶屋くらい。近隣はほとんどが農家であった。

 志村家の敷地は広大で,かなり離れた敷地の端 に小川が流れており,脇にその水を利用して臼で 精米をしていた水車小屋の跡が今も残っている。

幼少時の卯三郎も水車小屋の近くで近所の子供た ちといっしょに元気に遊んでいたのだろうか。水 車に使われていた歯車などの部品は長く蔵に保存 されていたが,最近,実家が建て替えられた際,

玄関の三和土(たたき)に装飾として埋め込まれ たほか,花台などにも使われている=写真②。

 大八の父,つまり卯三郎の祖父は孫兵衛という が,妻が嫁入りしてきた時,乗って来た籠が実家 の玄関の天井から装飾品として吊りさげてあり=

写真③=壮観である。志村家はかなりの資産家で あったと考えられる。その妻は,歩いて2時間くら いの南アルプス市飯野の造り酒屋から嫁入りして きた。大八の妻,なおは在家塚(南アルプス市=旧,

中巨摩郡白根町,政治家,金丸信の生誕地)から 嫁いできたという。

 大八は精米所のほ か に, 水 田 で の 稲 作,養蚕も手掛けて いた。当時,山梨近 辺は,世界遺産の富 岡製糸場で知られる 隣県,群馬県の富岡 に次ぐ絹の一大産地 で,「養蚕王国・山梨」

とうたわれていた。歴史をひも解けば,富士吉田,

都留,大月,上野原などは古くからの絹織物の産 地で,927 年の延喜式という書物にも,税金とし て絹が納められたとの記述がある。

 明治時代に横浜港が開港したことで輸出も盛ん になり,山梨の養蚕業は発展,甲斐絹を外国に売っ

写真② 花台に使用われている 歯車

写真③ 天井から吊られた籠

(4)

て大儲けする甲州商人も現れた。養蚕はその後も 長く山梨の重要産業だったが,昭和に入って大き な試練を迎える。輸出先の米国でフルファッショ ン・ストッキング(婦人用絹長靴下)の需要が増 えるに従い,品質のむらが問題となったのだ。こ のため,輸出生糸検査法が施行され,横浜,神戸 での生糸検査が厳しくなり,生糸・絹織物産業は 大きな打撃を受けた(1)。第二次世界大戦で減産,

戦後,いったんは盛り返すが,安い中国産,韓国 産に押され衰退,農家は果樹栽培に切り替え,現 在に至っている。

 卯三郎の実家に近い隆円寺に志村家のお墓=写 真④=がある。墓地の入り口を入った右手すぐが 重要な場所とされるが,志村家の墓がここに位置 していること,さらには寺への大口寄進者だけが 立てることができるといわれる大名灯篭(大名型 高級角墓前灯篭)があることなどからも志村家は 旧家だったと推定される。

 近隣の住民は「山梨には地域の有力者が擬似親 子関係を結ぶ親分子分慣行が残っており,親分は 子分に対し経済的,社会的庇護を行い,子分の方 は奉仕を行った。志村家は親分の家だった」と証 言している。

〈クリスチャン一家に〉

 志村家の家系を詳しく見てみよう。大八の長女,

澄枝は美人で良い縁談に恵まれたが病気勝ちで,

彼女のために医者のところへ薬を取りに行くのが 弟,卯三郎の役目だった。甲府商業に進学して下 宿することになり,「姉さん,申し訳ないが,も う薬を取りにいけなくなった」と打ち明けて間も なく澄枝が亡くなってしまった。卯三郎は衝撃を 受け,その後,生涯,そのことを悔やんでいたと いう。

 長男,つまり卯三郎の一番上の兄にあたる保も 背が高くガッチリしていたという。米屋を継いだ ものの東京で株取引にもかかわっていた。「晩年 は白いひげを生やして仙人のようだったとの証言 もある。保は芸術にも造詣が深く,書画,骨董が 趣味,中国の漢字もわかるほどで読めない字はな かったらしい」(2)。保の長男(卯三郎の甥),照彦は,

ミッション系の明治学院大学に入学,そこを卒業 後は勤務先とは別に,中国など近隣諸国との友好 親善や海外での植林活動を行う一般社団法人国際 善隣協会にも関与,幹事としてモンゴルを訪問し たりしている。ここにも卯三郎と,後述するが彼 の友人,明治学院神学部高等部予科に学んだ社会 事業家,賀川豊彦の影響を見ることができる。

 二男は伝造といい東京で牧師になった。これは 卯三郎の影響が大きかったようで,卯三郎の妻,

康子は「卯三郎は手紙をたくさん書いて,兄弟に も熱心に伝道していました。伝造が入信したのは 卯三郎の影響で,キリスト教をよく思っていな かった父親の大八は,卯三郎だけでなく伝造まで 教会に盗まれたと嘆いていました。伝造は東京へ 出て三河島で布教活動をした。卯三郎は日本基督 教団だが,伝造は基督兄弟団で,その学校の校長 までつとめました。長男は東海大学教授だった義

写真④ 志村家のお墓

(5)

樹で,その妹が光子。二人とも卯三郎が名付け親 です」と証言している。光子はスイス人,ブルン シュワイラーと結婚,岡山の総社で布教活動をし ていたという。

 長兄の保も晩年に入信,葬式を仏式とキリスト 教で 2 度行ったという信じがたいエピソードを残 している。末っ子の四男は幼い時に死亡している。

四女で卯三郎の妹,愛子は卯三郎とともに中国で 難民支援にあたるが,これは後で述べる。いずれ にしろ,元々は仏教徒ばかりの山梨の農村にもか かわらず,志村一族は卯三郎に感化されてキリス ト教入信者が 20 名以上にのぼった。いま山梨の 地元ではクリスチャンの家系として知られてい る。

 卯三郎はどんな子どもだったのだろう。どうや ら小さいころから個性的で,頼まれて店番をして いる時など,お米を買いにきた人にしっかりおま けをしていたというから大人顔負けである。小学 生の時から勉強はよくできた。簡単に問題を解い てしまって外へ出た卯三郎が難問に呻吟している 友人のために正解を書いた紙をこっそり窓から投 げ入れ,先生に叱られたというエピソードも残っ ている(3)。不正には違いないが,ひょうきんで 気の利く卯三郎の人柄を象徴する話といえる。

 長兄の保は家業の精米業を継いだため小学校を 卒業しただけだったが,三男の卯三郎は成績優秀 で実家も裕福だったことから進学が認められた。

本人は中学へ行きたかったようだが,周囲が相談 し,商業ならよかろうということで甲府市の甲府 商業へ進んだ。それでも中等教育を受けるのは村 で初めてだった。甲府商業に合格した時,父の大 八に「父さん,合格したよ」と報告したところ,「そ れは,えらいことになった」という慌てた様子の 返事がかえってきたというから,やはり,当時と しては大変なことだったのだろう。

第 2 章─同志社で学び京都駅裏のスラム で伝道

〈成績優秀で大阪商船に就職〉

 甲府商業でも優秀な学生だった。同校を卒業し た志村卯三郎は大阪商船に就職する。なぜ故郷か ら遠く離れたこの会社を選んだのだろうか。妻,

康子の証言が興味深い。通っていた甲府商業に大 阪商船から「誰か優秀な学生を一人推薦していた だけないか」と直接,求人の手紙が来た。それで 成績のよい卯三郎に白羽の矢が立ったということ のようだ。船会社ということで,海外雄飛を夢見 る若者らしい選択であったのかもしれない。

  同 社 の 本 社 は 当 時,大阪市北区富島 町(現在の西区川口)

にあった。志村が勤 めたのは神戸支店で ある。同社はいま三 井船舶と合併し,商 船三井となっている が,当時の大阪商船 は,日露戦争で平壌 丸以下の 73 隻を国

に提供,愛国丸が旅順港閉塞作戦で沈没するなど の被害にあったものの,戦争による船腹ニーズの 高まりと日露戦争勝利による権益拡大で再び発展 の道を歩み始めた。航路も朝鮮,中国方面が新設 され,日本郵船に次ぐ第二の大手汽船会社として の地位を確保していた。志村は外国船の部署に配 属されたが,ここでも仕事ができたので,大学を 出ていないにもかかわらず,出世コースに乗って いたようである。

 当時,青年男子には兵役義務があり,大阪商船 から近衛騎兵連隊に配属され少尉となった=写真

写真⑤ 近衛騎兵連隊時代の 志村

(6)

⑤。クリスチャンになった経緯であるが,大阪商 船に戻り会社の寮に住んでいたころ日曜になると 出かけて行く同僚がいる。聞けば教会に行ってい るのだという。この同僚に感化されたわけだが,

入信の動機について志村自身はこう語っている。

「立身出世,天職を求めていた私でありましたが,

キリストとの出会いによって,それが肉につける 天職か,霊につける天職かとの区別をつけよと迫 られました。自分の立っていた肉の基盤はグラリ と崩れたのです。御言に立たねばならぬ。主に従っ て行動し,主によって発言する言葉となってゆか ねばならぬ。キリストに,我が内に入って頂かね ばならぬ。それは素晴らしい発見でありました」(4)

 1926 年,22 歳の時,兵庫県・芦屋組合教会(芦 屋打出教会)の長谷川敞,初音牧師夫妻により受 洗した。教会でも役に立つので重宝がられ,そこ では朝昼晩と大いに貢献したといわれる。

〈関学から同志社へ進み,洛南教会で伝道〉

 キリスト教のことをさらに勉強したいというこ とで大学進学を考えた。京都の同志社に行きた かったが,試験のこともあり,まず兵庫県西宮市 にある関西学院大学神学部へ進んだ。その後,無 事に同志社大学文学部神学科に入学した。満州事 変が起きた 1931 年(昭和 6 年),27 歳の時である。

同志社に社会学専攻が初めて設けられた年で,志 村はその第一期生にあたる。

 同志社では学生寮の寮長を務め,ステパノ会と 学生 YMCA に参加した。ステパノ会というのは 神学生有志によって結成された団体で,説教訓練 や伝道方法の研究をするだけでなく,学生生活に おいても布教を実践することを目的としていた。

志村も同志社に入学すると同時に 4 月,京都駅裏 の西九条川原城町 15 の4に洛南基督教団伝道所

(現,日本基督教団洛南基督教会=南区東九条)

を設立,神学生としてここに住みこんでセツルメ ント活動を開始した。その後,「家の教会」,そし て京都駅南西の東寺に近い南区西九条大国町と教 会は移転したが,日本組合基督教会に加盟し,精 力的に路傍伝道は続けられた。

 志村は手紙などで居場所を「洛南東寺五重塔畔  志村卯三郎」と書いており,東寺はお気に入りの 場所であった。東寺周辺は遍路,乞食の安宿があ るほか,ハンセン病患者が野宿しているので有名 だった。開門が午前3時と早く,御影堂で仏舎利 を参拝者の額と掌に当てて祝福を祈っていた。志 村は「午前三時,四時は真闇。外灯の光をたより に聖書をよみ,祈りをささげ,感想をメモするの が小生の日課でした」(5)と述べている。

 さて,志村の活動 は具体的にはどうい う も の で あ っ た の か。近くの工科学校 の校舎を借りて日曜 学校を開いたり,夏 には神戸で臨海学校 を開催,夜はそこで 童 話 伝 道 会 を 行 っ た。二階建ての民家 を借りた「家の教会」

=写真⑥=時代は,「2 階の露台の東北にサオを たて,突端に十字架をつけ,青地に赤の十字旗を 日曜日ごとにかかげた。また,移転の折には 2 貫 4 百匁の古鐘を入手し,これを祈りの鐘と名づけ,

朝毎に,土曜日夜の少年伝道隊野戦の折,日曜学 校のはじまり,夕方の礼拝のときに鳴らした」(6)。  当時,この一帯はスラム街で,そこに住んでい た底辺労働者,朝鮮人やハンセン病患者の仮収容 所を対象に伝道を行った。朝鮮半島出身者が多 かったのは 1910 年(明治 43 年)の日韓併合が原

写真⑥ 「家の教会」( 中央が 志村)=洛南教会「写 真で見る 40 年」より

(7)

因である。「朝鮮総督府が土地調査事業を実施し たことで,土地を奪われた朝鮮人が仕事を求めて 日本に流入した。1924 年ころ,京都には 2,000 ~ 3,000 人の朝鮮人労働者が居住していたと言われ,

……この朝鮮人が宇治川発電所工事,東山トンネ ル工事,現在の JR 奈良線の敷設工事に従事し,

地場産業であった染色の工員となっていった。こ の工事に従事する中で,彼らの居住地の一つに東 九条があった」(7)

 洛南教会の「写真で見る 40 年」は志村の熱心 な福音伝道ぶりについて次のように記述してい る。

 「伝道は児童へ,ものごいへ,宿なき人々へ,

まずしい人へ,ハンセン氏病患者へ向けられてい た。志村牧師は『午後は交番所,病人,伝道所た るハンセン氏病患者仮収容所の慰問をなし,花を 提供し得たのは大いなる感謝である』と記してい る。ハンセン氏病患者収容所が伝道所であった。

世間の人々が嫌忌するハンセン氏病患者へいかに 心を傾けていたかが知られる」

 また,この 40 年史は,志村の同志社の友人,

高橋元一郎の重要な情報を掲載している。「外か らの寄付を受けるために,振替口座をもうけた 折,重態であった伝道者高橋元一郎氏は寄付金3 円のうち1円を特にこの口座の供託金用として与 えた。氏はしばらくして赤貧のうちに死んだ。あ る人は『あの高橋君が無一文の病苦の中から供え られた献金,それは容易ならぬものです。私はよ く彼を知っています。まことに富者の万灯に勝る ものです』と語っている」

 後述するように,高橋は,志村の中国難民支援 のひとつの動機となった人物であるが,こうした まさに貧者の一灯の尊さに感動し,それをしっか り受け止める心を志村が持っていることの証につ ながる忘れてならないエピソードである。

教会は 1941 年以降から在日朝鮮京都南教会と合 同礼拝を捧げ,1945 年の日本敗戦まで続いた。

〈榎本,賀川と知り合う〉

 ここで触れておかねばばらないのは志村と当 時,京都大医学部の学生だった榎本貴志雄(1915

− 1989)との再会である。榎本はのちに志村が 中国で行う難民支援に参加することになるが,そ のきっかけは,この洛南基督教団の活動であっ た。実は榎本が同志社の中学2年の時,志村が寮 長をした関係で,ふたりは顔見知りであった(8)。 榎本は京大では,キリスト者会に属し,志村や賀 川豊彦(1888‒1960)

=写真⑦=のほか,

岩橋武夫,杉山元治 郎らを招いて勉強会 や講演会を開いてい る(9)。 榎 本 は「 朝 は自分の教会に出席 し,午後は志村氏の 教会に集まって太鼓 をたたいて子供を集

め,夜は志村氏を中心に医療班結成準備に熱中」

(10)とその時代を振り返っている。

 賀川とは同志社での講演で知り合い,「雲の柱 会」(その後,「同志社労働者ミッション」と改称)

設立などで関係性を強めていく。榎本は卒業後,

賀川の推薦で,京都府平安病院に就職することに なるわけだが,榎本がスラムの子どもたちのため に露天で日曜学校の集会を開いたりしていた洛南 基督教団主催で 1935 年(昭和 10 年)10 月 22 日,

賀川が第 2 九条小学校において伝道集会を開き,

2,000 人もの人を集めている。志村,賀川,榎本 の3者はその後,多様な形で活発な社会事業を展 開することになるが,洛南での出会いはその関係

写真⑦ 賀川(左)と志村

(8)

性の初期にあたるもので,興味深い。

 ちなみに賀川は大正・昭和期の社会事業家,宗 教活動家として知られ,日本の労働運動,農民運 動,生活協同組合運動で重要な役割を果たした。

戦後,何回かノーベル文学賞,平和賞の候補にあ がったし有力な首相候補とされたこともあった。

洛南基督教団が設立された 1931 年は生協運動の 先頭に立っていた神戸購買組合,灘購買組合がそ ろって創立 10 周年を迎えた年にあたり,「産直や 大量仕入れ,そして現金払いによって販売価格を できるだけ低くする生協は,組合員数,売上とも 大変な勢いで伸ばしていた」(11)

 国際基督教大学教授,古屋安雄は自身の著作(12)

の中で,賛美歌作家としても知られる牧師,由木 康がキリスト教を三類型に分けたとして,次のよ うに紹介している。「第一はイエス型で,神の国 を強調,シュバイツァーと賀川豊彦に代表される。

第二はパウロ型で,信仰義認を強調,ルターと内 村鑑三に代表される。第三は教会型で,教会形式 を強調,カルヴァンと植村正久に代表される。こ のうちで,日本では第二と第三が,すなわちパウ ロ型と教会型が主流で,第一のイエス型は傍流視 されたので,内村と植村は有名であるが賀川はそ れほど有名ではない」(13)。賀川は神戸の貧民街 に住み込み,生協だけでなく労働組合をつくった。

慈善より組合,愛の教訓よりその実践に生きた人 である。洛南教団やその後の路傍伝道という志村 の生き方は,古くは武士階級,明治以降も豪農や 知識人に支えられた教会の権威を背景にしたもの ではなく,現場に入っての貧民,病者,抑圧され た大衆を相手にした文字通り愛の実践そのもので あり,ここに賀川の大きな影響を見ることができ る。

 前述の賀川の伝道集会の1週間前の 10 月 15 日 には,岡田啓介内閣が国体明徴に関する第二次声

明を発表,憲法学者,美濃部達吉の天皇機関説を 反国体の学説として排している。時代背景をみる と,このころ日本はちょうど軍事独裁国家への道 を徐々に歩み始めた時期に当たるといえる。

〈支那事変で慰問使として中国へ〉

 賀川の伝道集会の翌 1936 年,志村の受洗 10 周 年記念の伝道集会が 12 回にわたって開かれたが,

これには 288 人が参加,教会は徐々に基盤を固め る。この年,2・26 事件が起き,戦争の足音は確 実に近づいてきていた。1937 年(昭和 12 年)の 支那事変で時局は以下のように急展開,志村の周 辺もあわただしくなる。

 7月7日 盧溝橋事件発生→支那事変(日中戦 争~ 1941)

 7月   日本基督教連盟はそれまでの非戦,

平和,人権尊重を主張していた立場 を変え,「時局に関する宣言」で国 策協力を表明

      日本 YMCA 同盟は①日本基督教連 盟の皇軍慰問事業に協力し,慰問金,

慰問品の募集に努める②出征軍人の 慰問については必要な奉仕をする③ 慰問使を派遣するーーーを決定(14)

 8月13日 第 2 次上海事変(~ 10 月 26 日)

 8月20日 志村,日本基督教連盟慰問部より,

時局祈祷会発起人のひとりとして皇 軍慰問事業調査を委嘱され,北支(華 北=中国北部地域)へ出発。(写真

⑧はその挨拶状のハガキ)(15)。11 月帰国

 9月   日本基督教連盟,「支那事変ニ関ス ル声明」で「吾等ハ此際,折ヲ一ツ ニシ,進ンデ国民精神総動員ノ挙ニ 参加シ,吾等ノ精神作興運動ヲ強化

(9)

シテ聊カ報国尽忠の誠ヲ致サンコト ヲ期ス」と述べる

 12月13日~ 南京事件

 まさに風雲急を告げるといった感じだが,志村 は 1937 年の調査に基づき,翌 1938 年,中国難民 救済施療班を組織し,京大医学部の学生,榎本ら と中国へ難民支援に向かうことになる。

 これによって志村を失った洛南基督教団の勢い が衰えるが,それは政府の宗教界,とりわけキリ スト教に対する厳しい統制と支配の強化と軌を一 にしている。YMCA によれば,キリスト教界の体 制迎合は当然,YMCAにも波及し,1940 年には,「国 体尊重」「皇国忠誠」を誓う「日本基督教青年会々 員綱領」を正式に採択した。日米開戦直後の 1942 年,日本 YMCA 同盟は,宗教統制をもくろむ宗 教団体法(1939 年制定)の規制を受けやむなく名 称を日本基督教青年会 に変更した。その青年 会は会則を改正し,各 加盟 YMCA もそれに ならって会則改正に踏 み切ったが,目的及び 事業として,「皇国使 命ノ完遂ニ貢献スルコ トヲ以テ目的トス」と 規定したという(16)。  そういう意味では,

志村が派遣された皇軍慰問事業調査も政府,軍部 の意向に沿ったものであるのは間違いない。

 しかし,後述するが,北支出張から帰国した志 村は,中国には戦争で病人が多く医師と看護婦が 必要,との報告書「北支全線に従軍して─祖国基 督者への訴へ」をまとめ,湯浅八郎同志社総長な どに送っている(17)。もちろん,第二次海事変な

どの影響を受けているのは明らかだ。東大在学中 に,同志社の組合教会で志村と一緒だったとい う隅谷三喜男(1916‒2003)日本キリスト教海外 医療協力会(JOCS)元会長(東京女子大元学長)

は当時の状況について「若い牧師の間ではもっと 現実に足を踏み入れ中国で何かできるのではない かという機運が盛り上がっていた。志村もそのひ とり」(18)と話しており自著で「軍国主義に批判 を持っていた志村は 1937 年,中国に渡って戦争 被害者の実情を見て回り,中国難民救済の施療班 の必要を痛感した」(19)と,志村の中国難民救済 医療班結成が,彼の主体性と独自の判断によるも のであったことを強調している。

〈惨状を見て,中国での難民支援を呼びかけ〉

 志村が北支へ出発したのは 1937 年 8 月 20 日で ある。その直前の 7 月 29 日には北京郊外の通州で,

冀東防共自治政府の保安隊が日本人の婦女子,子 どもなど 225 名を強姦,虐殺する通州事件(20)が起 こっている。このころ日本では閣議で軍需工業動員 法の発動が決定された。農林省は戦争による農山 漁村の労働力不足対策ととして,勤労奉仕施設要 綱を各地の地方長官に通達している。24 日には閣 議で,国民精神総動員実施要綱が決定された。盧 溝橋事件は上海へと飛び火した形で日本は対中国 全面戦争へと突入していく。政府は 7 月の内地三 個師団の中国派兵を決定,以後も続いて動員派兵 が行われた。この年に召集された陸軍の兵員数は 実に 47 万人にのぼる。召集令状を受け取った出征 兵士は町内会や婦人会の万歳に送られて故郷を後 にし,銃後の女性たちは武運長久を祈念する千人 針を縫うのに忙しかった。そうしたまさに緊迫した 雰囲気の中での志村の中国大陸への慰問であった。

 さて,前述の「北支全戦に従軍して─祖国基督 者への訴へ」というタイトルの報告書であるが,

写真⑧ 「北支へ慰問出発」

の志村の挨拶状

(10)

1937 年 10 月 5 日付で,「支那駐屯軍従軍慰問使 志村卯三郎」名で,同志社の湯浅総長のほか職員,

学生,同窓会にあてで残されている。同月 14 日 付で同志社庶務部から関係各所に回覧を依頼した ものである。この報告書は当然ながら,派遣元の 日本基督教連盟慰問部にも送付されていよう。ま た,ほぼ同じ内容の文書「北支全線を馳駆して─

従軍牧師の第一線従軍手記」が同月 20 日付週刊

「神の國新聞(21)」(1937 年第 42 号)及び 27 日付(第 43 号)に掲載されている。

 日本基督教連盟はそもそも国内外の諸教会の合 同を目的に,関東大震災直後の 1923 年 11 月に設 立された組織だが,労働運動の仲間との距離を感 じ新しい宗教運動を起こそうとしていた賀川豊彦 は 1929 年,同連盟の協議会で神の国運動を提唱 した。これは信仰を社会改革ではなく精神の世界 にだけ閉じ込めておこうとする,当時の教会に対 する挑戦でもあった。富田満(1883‒1961)がこ の神の国運動の委員長に,海老澤亮(1883‒1959)

が総主事に就任した。ふたりはともに神の国運動 を推進したが,富田は宗教を統制するための宗教 団体法に基づき 1941 年に設立される日本基督教 団の統理者となり,その後,天皇に賜謁すること になる人物である。

 以下,上記の志村の報告書,従軍手記の内容を 紹介する。

 従軍慰問使という身分とあって,軍とは協調的 な姿勢に終始しており,「私は 8 月 26 日単独で 香月清司司令官閣下と親しく面謁の時を恵まれ た。そしてその翌 27 日,事変始まって以来,唯 一の従軍牧師として本事変間,全支の野を駆けめ ぐり得る特権を軍司令官より与えられた」とやや 高揚した調子で記している。香月司令官とは,盧 溝橋事件の渦中に重篤に陥った田代皖一郎中将に 代わって支那駐屯軍司令官となり,志村が会った

1937 年 8 月に北支那方面軍が創設されると第1 軍司令官となった香月清司中将のことである。こ の時,朝日新聞の記者に撮影してもらった天津で の香月司令官との2人の写真は,同志社社長を務 めた尊敬する原田助に送られ,後に助の長男でバ チカン公使も務めた原田健から東京で志村に手渡 されるという奇遇を経験することになる。

 前線だけに戦闘のただなかでかなり危険な状況 にも陥っている。「友軍の砲弾の炸裂が手に取る 様だ。便衣隊が捕らえられ,目の前で〇〇(伏字)

される。陣が進む。日が暮れる。飯盒炊餐の水も 沼の水である。敵の夜襲の執拗さ,逆襲は夜を利 して一夜に三回位繰返される。小銃弾は木枯らし の様にヒューヒューとうなる。夜が明ける。汲ん だ水の程近くに敵の死体が浮いていたりする」と いった具合である。ただ,志村らしいのは,あち こちでお茶をたてていることである。志村は「同 志社在学中,堀貞一牧師夫人から手ほどきを受け,

戦前,家元今日庵で淡々斎大宗匠から手を取って 教えられ,淡交会の末席を汚している」(22)と記 しており,その腕前を発揮したようである。

 中国人は戦闘で難民化しており,志村は必然的 にこうした状況には強い関心を寄せることになっ た。「天主堂には 1,600 名の避難民が収容せられ ていた。この無辜の避難民に対して私は慰問,激 励し,大いに尽くす所があった」と記している。

当時,中国には 6,000 人に及ぶ欧米の宣教師が入 り込み,教会,学校,病院で中国人のために貢献 していた。もっとも有名なのは「奉天三十年」の 著者クリスティーだが,志村もある県で,避難民 救済に当たっていた在中国 30 年という 56 歳のオ ランダ人,ヤンセン司教に会い,「筆舌に尽くし 得ない神の恩寵を体験した。……砲火の只中を唯 一の外人として踏みとどまっていた」と痛く感動 している。後の志村の難民支援活動を考えると,

(11)

ヤンセン司教には大いに刺激を受けたのではない だろうか。

 南京事件は志村が帰国した後の発生であるが,

志村が中国入りしていた 8 月には第 2 次上海事変 に伴って発生した難民救済のため,フランス人カ トリック教会のロベール・ジャキノ・ド・ベサン ジュ神父が上海南市難民区の設置を日中双方に提 示し了承されている。これにより,フランス人,

英国人,スウェーデン人らによる南市避難民救済 国際委員会が作られた。この難民区にならって 10 月には南京に同様の難民を救済するための委 員会設置構想(23)が米国人教授らによって話し合 われていた。帰国までに志村にもこうした動きは 耳に入っていたと思われ,翌年の難民救済施療班 派遣に影響を与えた可能性がある。

 志村は,北平(北京)では,同志社の先輩で大 正時代に派遣牧師として中国に渡った後,朝陽門 外に崇貞学園を創設して女子教育に取り組んでい た清水安三(1891‒1988)を訪ねている。美穂子 夫人の墓前に額づき,「小さき墓に詣で,支那の 貧しい少女達の前に立ったが,祈りは遂に涙と なって泣きに泣き暮れた。清水氏の北平における 存在は唯主基督にありて重大な意義を持つものと 云わねばならぬ」とキリスト者としての使命感を 呼びこされた様子である。清水は戦後帰国し東京・

町田に桜美林学園を創立している。

 終わりの方で,中国への批判が書かれて,志村 の考えを知るうえで参考になる。「今日の事態を 招いたのは,支那自身の不可避的宿命であり,そ れもまた神の摂理の中にあるのではないかと,支 那の為に悲しく思わしめられた。為政者の策を誤 りし罪の故に民は悩むのである」。

 志村の報告書,従軍手記は以上のような内容で ある。「新東亜秩序建設」に突き進む軍部の威勢 のよさの中で,キリスト者としての立場は微妙な

ものがあったと想像されるが,まだ戦争が始まっ たばかりで,緑地に赤い十字架の長旗を翳し,緑 の襷をかけて従軍牧師として戦場を駆け回る志村 自身からはその矛盾を強く感じさせる記述は見当 たらない。

 そして末尾に「最後に祖国の基督者への訴へ」

という項があり,

 ①篤志看護婦を要す

 ②外科,内科,歯科などの医者  ③支那戦禍窮民救済義金品の必要  ④地方新聞,雑誌,精神修養文書  ⑤自発的従軍慰問使

 ───これらが現地で不足していると協力を呼 び掛け,連絡先として,京都の洛南教会の志村あ て,東京神田錦町の日本基督教連盟海老澤亮氏あ てを指定している。

〈寄書き帖に山下奉文の名前も〉

 この旅で,戦地を巡りながら,志村はどんな人 に会ったのだろうか。ここに現地で一筆書いても らった北支寄書帖(24)=写真⑨=が残っている。

写真⑨ 北支寄書帖(山田書店蔵)

(12)

志村が会った人たちが感謝あるいは激励の意を込 めて,彼のために書いてくれたものだ。英語のも のも含め 14 名が書いている。筆者不明のものも あるが,わかるのは以下の人達で,軍人,キリス ト教関係者が多い。

 まず軍人では山下奉文少将(1885‒1946)。前年,

1936 年の 2・26 事件で蹶起将校たちと陸軍省の間 の仲介役をし,最後は将校たちに自決を進めたと いうことで同調者として左遷されていた。志村が 訪ねた 1937 年の 8 月 26 日付で支那駐屯混成旅団 長に就任している。後にマレーの虎とうたわれる ことになるが,この時は北平(北京)で会ってい る。堂々たる達筆で「破邪顕正」(不正を破って 正義を明らかにすること)としたためている。

当時,東條英機(1884‒1948)が第 10 代の関東軍 参謀長だったが,東條部隊本部高級副官の梶浦中 佐の名があり「長旅の前に御慰問を受けて感謝に 堪えず」と謝意を表している。

 意外な人物の名前もある。情報機構「末次研究 所」という諜報機関を設立した末次政太郎で「要 は人心を得るに在り」の言葉を寄せている。末次 は,福岡日日新聞の通信員・記者で,犬養内閣の 外相,芳澤謙吉(1874‒1965,緒方貞子の祖父に あたる)とも面識があったとされる。中国内外の 50 種類のメディアの記事を切り抜いて分類,保 存した末次情報資料で知られる。キリスト教関係 者をみると,「誠意達天」と書いている丹羽清次 郎(1865‒1957)は同志社出身で,志村の先輩に あたるキリスト教伝道者である。東京 YMCA の 育成や対外協力援助など,草分け時代の YMCA の発展に尽くした人物で,当時は朝鮮基督教連合 会を設立し委員長に就任していた時期に当たる。

 瀬川八十雄(1890‒1977)の名前もある。社会 鍋や公娼制度の廃止運動で知られるプロテスタン トの一派,救世軍で長く活躍した伝道家で,戦後

は全国婦人保護施設 連合会会長などを務 めた。

 今ではユネスコの 世界遺産に登録され ている雲崗大仏寺の 住持(住職)開本の 署名も見られる。山 西 省 大 同 市 の 西 方 20 キ ロ に あ り, 歴 代皇帝を模した大仏

を建立した石窟寺院だが,どういう縁だろうか。

 中国人の寄せ書きもあり,通州事件が起きたば かりの通州県(当時,河北省に直属。いまは北京 市に位置する市街区)県長の胡光が「北支の明朗 化はこれから」と書き,満州国公爵全栄や,「愛 是永不止息的」との言葉を寄せた北平公理会牧師 王梓仲もいる。

 名前が判然としないが,「朝陽門前」「崇貞学園」

とあるのは,同志社の先輩,清水安三の関係者に 違いない。「十三年ぶりの戦友志村君に会って」「大 同月明の夜君とともにあゆむ」と再会を喜んでい る岡部進,栗田信一は,志村が陸軍近衛騎兵連隊 に配属された時の同期であろう。また,教会関係 者と思われる英語の寄せ書きもある。

 出色は「Shoji」のサインで描かれている志村 の立ち姿の肖像画だ=写真⑩。鉛筆による手書き だが,ブーツに外套をはおり,襷をかけた姿は凛々 しく,勇んで中国大陸を疾駆している当時の志村 をほうふつとさせる力作である。

第 3 章─戦時下の中国にわたり難民を支援

〈京大医学生らと 9 人で施療団結成〉

 志村は従軍慰問使として活動して帰国後,中国

写真⑩ 志 村の肖像 画 部 分を アップ

(13)

難民支援を決意し,国内で募金を開始する。無論,

前年の中国での経験が影響しているのだが,後年,

志村は世界連邦新聞への寄稿「ソ連・東欧諸国に 使して」(25)の中で,この時の中国難民救済施療 班派遣の動機について,「昭和 8 年 11 月,『日本 軍閥の罪を贖わんがために死するなり』と咽頭結 核で殉教者のごとく死んだ高橋元一郎の遺命に応 えるもの」と軍部への反抗心を明らかにしている 点は興味深い。高橋元一郎とは,前述の貧者の一 灯の高橋である。

 臨終に際し,「戦争は大罪悪,愛する祖国を第 二のドイツと為すことなかれ」と遺言を残したと いう(26)

 先に触れた報告書「北支全戦に従軍して─祖国 基督者への訴へ」に見られる軍への共感とはまた 違った本音がうかがえる。妻,康子によれば,志 村は晩年,当時を振り返り「日本が悪いんだ。敵 国でも中国人を愛さなくてはいけないという思い だった」と志村の中国行きの動機について語って いる。

 高橋元一郎(1895‒1933)は宮崎県出身。同志 社を中退して伝道師となり,賀川豊彦らの協力で 東京・深川に貧しい人たちのための天幕村を建設 する。満州事変勃発で平和運動を主導したが,賀 川宅での静養の甲斐なく結核のため 38 歳の若さ で亡くなった。彼の死後,友人で牧師の本田清一 が彼の生涯を描いた「街頭の聖者高橋元一郎」(27)

を出版しているが,「著作について特に配慮いた だいた協力者」という一覧表の中に志村の名前が ある。

 同書には,賀川豊彦が次のような序文を寄せて いる。

 「高橋元一郎氏は生きている時から心霊学に 浸っていた。そして死後の存在を明確に意識し,

死んでから私は忙しくなります,必ず死んでから

平和運動をやってみせますと私にいつも繰り返し ていた」。賀川が百万人救霊運動展開中の 1925 年,

同志社で特別伝道講演を行ったことがある。これ を契機に研究会設立の構想が持ち上がるのだが,

計画案作成のメンバーのひとりが,当時図書館司 書だった高橋だった。

 この本には,高橋の生き方を象徴する様々なエ ピソードが随所に紹介されている。満州事変の発 生を報じる号外を手にした時はこんな具合であ る。「高橋の胸はうずいた。日本よ何処へ行く? 

経済闘争が果たして武力を以って解決され得よう か。国民はかの世界大戦の悲惨な結果に目覚めな いのか」。そして,近くに住む知人を訪ね,この ような提案をした。「この際,主にある一千八百 の教会,十七万の同志に呼びかけて,平和の為の 連合祈祷会を開く必要はないでせうか」。

 志村自身も登場する。高橋が病を得て病床に臥 していた時,突然,京都の志村から見舞いの手紙 がきたのだという。病気は東京の一部の人しか知 らないはずなのに「神秘なる世界なるかな,我が 病便りもせぬに知る人のあり」と書き,こう祈っ ている。「こんなに苦しいのは私という小馬鹿者 が無理をしたからでせうか。それとも,貧弱です が,日本の一平和主義者として満州事変以後の国 家的罪悪─私はどうもさう思いますが─の贖ひを なしているのでせうか。とにかく苦しいです」

〈募金や寄付,薬を集める〉

 さて,中国難民救済施療班であるが,募金は当 時のお金で6千円と立派な家が買えるほどの大金 が集まったが,志村によれば,「このお金は旅費 に使うので,薬なんかはどこかで手に入れるしか ない。学生と薬問屋が軒を並べる大阪の道修町に 出かけ,われわれは中国難民を支援するため施療 班を結成します。期限切れの薬はありませんか。

(14)

また,使わなくなった中古の医療機器はありませ んか。あれば是非寄付してください。大声でそう 訴えながら薬問屋を一軒一軒しらみつぶしに回っ たんですよ。皆,大きな袋に一杯の薬をもらって 帰りました」(28)。日本国民の中国に対する反感 がどんなものであったかはっきりしないが,薬の 集まりは悪くはなかったようである。

 志村は 1938 年の 8 月 5 日から 10 月 10 日まで,

「中国難民救済施療班」団長=写真⑪=として中 国へわたり,太倉県城西門外で医療ボランティア を行う。

 当時の世相はというと,7 月に 1940 年開催予 定だった東京オリンピックの中止が決定した。施 療班が活動中の 8 月 22 日には,大本営が漢口攻 略を発令している。この漢口の従軍記を書いても らおうと,内閣情報部はペン部隊を中国に派遣す ることになった。9 月 11 日に,陸軍部隊は上海 から蘇州を回り前線へ。参加したのは,久米正雄,

川口松太郎,尾崎士郎,丹羽文雄,岸田国士,林 芙美子ら。海軍部隊は菊池寛,佐藤春夫,吉川英 治,小島政二郎,吉屋信子らで,上海から揚子江 を船でさかのぼった。現地から,あるいは帰国し てから新聞,雑誌に日本軍の奮闘ぶりを書き,戦 争を賛美した。そういう時代であった。彼らは戦 後も活躍し,今も評価は変わらない。文学と戦争 というのも重いテーマではある。さて,施療班だ が,身分は陸軍特務部の軍属扱いだった。これに ついては「志村は,初めは自力で活動するつもり だったが,軍ともいっしょにやらなくてはならな かったと語っていました」と妻,康子が,夫の複 雑な立場を証言している。YMCA は日清・日露 戦争の際に,軍隊慰問事業を経験しているが,医 療を目的とした派遣団は初めての試みであった。

 メンバーは志村以下9人。京大医学部基督者会

(京大 YMCA)のメンバーを中心に組織されて

おり,旧知の榎本のほか,医学生である三村英 雄,新藤英夫,医師の医学部病理学教室の赤木立 雄,外科の菅野準。看護婦は,函館から中野まつ よ,京都から長野とし江,そして志村の妹の愛子 であった。愛子は末っ子だったが,当時,西宮に あった日本で最初の女子神学校,神戸女子神学校

(のちに聖和大学。2009 年に関西学院に法人合併)

の学生で,兄,卯三郎の京都の洛南基督教団の教 会の活動も手伝っていた。看護婦免許はなかった が,特殊看護婦ということで,いわば雑用係とし て強引についていったというのが真相だ。

 愛子は生前,「1937 年に兄は日本基督教連盟か ら慰問使として中国へ派遣されました。慰問使と いうのは,部隊に戦死した人が出たような場合 に,友人などが保管していたその人の寄せ書き入 りの日章旗や千人針を日本に持ち帰って家族に届 けたりするような役割でした。直前の 7 月に盧溝 橋事件で日中戦争が始まっていました。日本国内 では,あそこが陥落した,こちらも撃破したとい う風に勝ち戦さで沸き立っている時でした。でも,

中国では難民があふれ惨憺たる状況になっていま した。兄はそれを見てきたので,このままじっと しているわけにはいかない,あの中国の人たちを 救済しなくてはという思いで難民施療班を結成し

写真⑪ 第1回の中国難民救済施療班

(前列中央が団長の志村。右端が愛子)

(15)

たのです」(29)と語っている。

 榎本ら京大医学部基督者会の学生らが施療班に 参加したのは,1937 年秋に基督者会で施療班を 組織して中国難民のために奉仕しようという話が 出た時,ちょうど志村が資金はあるが医療従事者 が見つからず施療班派遣が行き詰っているという 話を聞き,1938 年 5 月,正式に協力を申し出た ことによる(30)。その後,学生らは洛南基督教団 で祈祷会を持ちつつ準備を進めた。

 この背景について,JOCS25 年史では,「日支 事変の勃発によって軍部は深く中国大陸への侵攻 を進め,事態はもはや救い難い軍部独走の状態に 陥り,天皇制国家の絶対的権力が政治の領域を超 えて教育や思想の内側まで入りこんで圧迫を加 え,強力な全体主義的圧制のもとに組みしかれて,

キリスト教信仰に生きようとした学生たちは神の 権威と地上の権威との衝突に深く悩まされた」(31)

としている。悩める学生に,難民救済施療班はひ とつの突破口を与える形にとなったといえる。

 施療班の派遣は,大量虐殺があったとされる南 京事件(1937 年 12 月‒1938 年 3 月)の直後とあっ て,隅谷三喜男はさらに明確に「南京での日本軍 による虐殺を見た米国人の教会関係者が庶民を撃 つのはひどいじゃないかと上海の日本人 YMCA に声をかけた。そこに池田鮮という日本人がいて 日本の YMCA に現地情報を送り,私信の形で多 数の中国人市民が死傷していると訴えた。これを 受けて医療活動が必要との声が高まり,医療関 係者を求めていた志村に協力を申し出た」(32)と,

背景に米国サイドの働きかけがあったと解説して いる。

 北村稔は「南京事件の探求」(文春文庫)の中で,

国民党宣伝部顧問とされるマンチェスター・ガー ディアンのティンパーリー特派員の 1938/2/4 付 の書簡(南京事件調査研究会編訳「南京事件資料

集・アメリカ関係資料編」より)を引用,南京 安全区委員のジョージ・アシュモア・フィッチ・

ニューヨーク YMCA 国際委員会書記(中国の青 年を YMCA が組織した励志社顧問として南京に 滞在)が,安全区国際委員会委員のジョン・マギー 聖公会伝道団宣教師(南京国際赤十字委員会委員)

の撮影した,大学病院で治療中の民間人負傷者の 十六ミリフィルムを米国へ持っていくよう働きか けていた事実を紹介している。さらに,「私はそ のとき(中略)オーバーの裏地に,虐殺現場を撮っ た十六ミリのネガ(ほとんどは大学病院で撮影し たもの)を縫い込んでいたので,少し気を使っ た。(中略)幸いにして,それらはみつからなかっ た。上海につくとただちに,フィルムを複写する ためにコダックの営業所へ持っていった」という フィッチの回想録も引用している。

 フィッチはその後,反日キャンペーンのため 全米各地での YMCA や教会などへの講演に向か うわけだが,上海に滞在したのは 1938 年 1 月 19 日から 2 月 25 日までの約 1 か月ほどである。前 述の隅谷の証言と重なるところがある。とすれ ば,軍部と協調する形で施療班を組織した志村と,

YMCA として参加した京大生とは初めから立場 が違い,考え方にも開きがあった。つまり,当初 から現場での協調に支障をきたす危険性をはらん でいたといえる。

 前述の通り,志村は道修町で薬を集めたが,日 本基督教青年会同盟発行の「開拓者」所収「京大 YMCA 太倉施療班報告─中支難民に手を延べて」

によれば,学生らは,大学病院で実地の勉強を開 始するとともに,医学上の必要から医療器具・用 品の調達に動いた。アルコール,蒸留水,ガラ ス器具など日本からの運搬が困難なものや包帯,

ガーゼ,脱脂綿など現地にありそうなものは,軍 から提供してもらうことにした。その他,学内の

(16)

教授の協力により,製薬会社に大量の薬の寄付を 依頼したり,開腹手術用の器具などを借りた。眼 科の器具,注射器や縫合針などは購入した。

〈上海に近い太倉で1万人を診療〉

 施療班の活動の舞台は,上海の西北 50 キロ,

車で 3 時間ほどの太倉県(現在の江蘇省蘇州市に 位置する県級市太倉市。1937 年に嘉定太倉の激戦 があった)の城西門外で,畑部隊軍特務部の指揮 下に入って 8 月 1 日から 9 月 10 日(一部は 10 月 初旬まで)の間,同部太倉班で施療宣撫に従事す るという形で,宿舎,食事も軍からの支給であった。

 志村は準備のため先乗りの形で 7 月 5 日には上 海に向け出発した。実は前年,上海の中日教会の 古屋孫次郎牧師に医療活動の候補地について相談 していた。古屋は志村と同じ山梨県の生まれで移 民で米国に行き,牧師になったという変わり種で ある。帰国後,同志社の組合教会にかかわったこ とから志村とは旧知の間柄であったと思われる。

その古屋に「太倉に行きなさい。あそこは激戦の あったところで,中国人民への迫害がひどいとこ ろだから,そこで医療支援活動をやってもらいた い」と勧められており(33),それで既に場所は太 倉に決め準備を急いできていたのである。

 古屋孫次郎の息子,安雄は元国際基督教大学教 授で最近まで,途上国の農村指導者を育てている 学校法人アジア学院の代表理事を務めていた。妹 の信子はアジア学院創設者の高見敏弘に嫁いでお り,この兄妹は当時,一家で上海に住んでいた。

安雄はインタビューで「当時,私は小学校の5年 生くらいでしたが,父を訪ねてきた志村さんが大 きな声で聖書の話をしていたのを覚えています」

と語っている。

 引き続き京大 YMCA の施療班報告「中支難民 に手を延べて」の内容を見ると,学生らの一行は

8 月 1 日に京都駅を出発,鉄道で長崎まで行き,

そこから船で上海へ向かった。上海では中日教会 に宿泊,畑部隊の軍特務部で宮本少佐から「中支 の人は特に狡猾である。一寸施療をやって喜ばす 位では何の効果もない。宜しく孫の代まで滲み入 るような施療をやれ」と言われる。翌日,「特務 部ノ事務ヲ嘱託ス 但シ無給トス 依テ太倉ニ至 リ附近ノ宣撫診療ニ従事スヘシ」との命令ととも に腕章徽章を受け取り,軍属として宣撫診療を行 うことになった。

第 2 次上海事変の直後だけに「(上海の)町の中 は取り片づけられたとはいうものの激戦の跡もの ものしく,虹口クリークから東北にかけては全然 焼野原。……此の通りが皇軍の死守した第一線で ある。之が数名の寡兵で守り抜いた橋であると 一々実地を指して説明されるとき,数十倍の敵を 相手に一歩も退かなかった陸戦隊勇士の奮戦が偲 ばれるのであった。此の地で会う兵士には一々敬 礼して話しかけたい気がした」と報告には記され ている。上海から太倉への道も,戦のために傷つ いており,周りの畑は戦禍のまま耕作する農民も なく,夏草が繁り,そこここにトーチカの跡がみ える。レンガの壁は生々しく崩れているという惨 状であった。

 病院跡で診療をしていた太倉無料医療所を引き 継ぐことになり,内科,外科・皮膚科,眼科,婦 人科・性病科の4診療室を開設,一日平均 70 人 の外来患者、 150 人のコレラ予防注射という繁盛 ぶりで,多い日には 300 人が出入りしたという。

期間中の外来患者の延べ数は 2,776 人。コレラの 予防注射を受けた 6,638 人を加えると合計で 9,414 人に達した。開院早々内科に来た患者がコレラ だったことから,防疫と診療という両面作戦を強 いられることになり苦労は多かったようだ。マラ リアのほか循環器系や呼吸器系,消化器系の疾患

(17)

やトラホームなどが多かった。また治安も悪く銃 創や刀創の患者も多かった。帰国間近になって疲 労もあったのか,施療班のうち 5 人がマラリアや 急性の腸カタルで倒れるという思わぬ事態も発生 した。

 報告では,軍部批判や軍部指揮下で活動するこ との制約,苦労は語られていないが,「大陸は我々 の理論と知性と信仰とを要求している。若し神の 召が其処にあるならば敢然として行かねばならな い……大陸から奪わんとする者はその時,持つも のをも失うだろう。信仰を以って己自らを与える 者は其処で得て余りあるだろう」と気概に満ちた 内心が打ち明けられている。

 ただ,「中支の人は特に狡猾である」と言った 宮本少佐への反論は以下のように出てきて興味深 い。「中支の人たちが狡猾であるというのは酷に すぎると思う。昔から戦乱の絶えない極めて不安 定な土地で生活するために彼らが得た適応性を狡 猾の一語で評し去ることはできまい。我々の接し た範囲では,わが子の脚を折って入院させ一家を あげて看病にやって来て,施療病院の飯をただ食 いするというようなのはなかった」(34)

〈日本人の非道を「償う」という思い〉

 この報告書の実際の筆者は京大の医学生,新藤 英夫とされるが,榎本貴志雄は後に「日本基督教 青年会医科連盟ニュース第1号」(1940/6/1 発行)

で,難民施療班の活動を振り返り,「中国人と接 触してこれを友として与えられたことのほかに,

日本人が中国で行ってきた暴虐の数々を直接間接 に見聞する機会も与えられた。このことは,私ど もの心の奥深く大きな影を残すことになった。そ れまで考えてきたような単なる医療奉仕ではな く,同胞の行ってきた非道な行いを,私たちは身 をもってつぐなわなくてはならないのだ,という

気持ち,中国に捧げようという決心が,このとき 私を捉えた」と書いている(35)。本音をようやく 明らかにできたといえよう。

 榎本はまた,前掲の「医学と福音」(1965/10,

Vol.17)所収「中国診療班結成の思い出」でも同 様の趣旨を述べたうえで,「岩波より発行された

『奉天 30 年』の序文に書かれた矢内原先生の,日 本青年よりも第 2,第 3 のクリスチー出よという 呼びかけ,白人の犯した罪のつぐないの気持ちが シュバイツァーをして,アフリカにおもむかせた と伝えられたことなどが,この私どもの決心の背 後にありました」と打ち明けている。

 志村の妹,愛子は施療班の当時の活動について

「薬は近江兄弟社のヴォーリズ(36)さんからメン ソレータムなどたくさん寄付してもらいました。

太倉は日本軍の爆撃の後だから,電気はなくラン プとロウソクの暮らし。まあ,殺風景なところで した。患者は病気ありケガありで大変でした。傷 を負って皮膚が割れているが,薬もなく風呂にも 入っていない。傷口が化膿してウジがわいている。

それは今も鮮明に脳裏に残っています。コレラ患 者もいたしマラリアなんて当たり前。栄養不足で 回復が遅れ,そういう病気がなかなか治らない」

と生々しく語ってくれた。愛子自身もマラリアで 倒れてしまった。無料医療所時代に働いていた金 輝弘医師と,志願してきた中国人看護師2人が協 力してくれ,大きな力になったという。

 施療班が任務を終えて帰国した後も愛子は現地 にとどまった。学校で日本語を教えてくれないか という話が軍部から持ち込まれたからだ。太倉の 中学校で 1 年近く教えた。日本軍の横暴は教え子 の親を通して愛子の耳にも入ってきた。「日本の 軍人が家に入ってくるので若い女の子は怖くて家 の奥に隠れている。私が行くとぞろぞろ出てきて 怖い目にあった経験などを話してくれる。たまら

(18)

ないという思いで聞いていました」

 その後,上海の教会に移り,そこで働いた。

日本人の教会がいくつかあり,古屋一家とも出 会っている。間もなくして実家の父,大八が危篤 となり,急きょ山梨へ帰った。この時,地元の 1939/9/12 付山梨日日新聞に,「志村嬢帰る」と いう見出しで愛子の記事が社会面に掲載された = 写真⑫。記事内では「婦人矯風会上海支部員」(37)

と紹介されており,「洛南教会から派遣され,軍 の特志看護婦,太倉県立中学校日語教師として活 躍した」と報じられている。愛子自身の「日本は 正義の国である,日本人は親切の人である,とい うことを知らせるために微力を致しておりますが だんだん解ってくれています」というコメントも 載っている。また,愛子は記事の中で,志村卯三 郎について「南昌(38)で難民支援に当たっている」

と述べている。

 帰国した際,甲府駅からタクシーで帰宅したこ とも親戚が記憶している。葬儀後,上海に戻った が,大腸カタルになり,帰国,山梨で一人暮らし の母なおを助けながら生活したあと,34 歳で十 日市場へ嫁いだ。中国の子どもたちと一生,一緒 に暮らしたいと思っていたが,その夢は果たせな かった(39)

 意外にも,施療班の団長を務めた志村の記録や

資料がほとんど残っていないが,遺品の中に残さ れていた戦後の資料で,「戦時下,キリスト者と して,日本軍閥の中国に対する罪悪をお詫びし,

キリストの愛を行動に表して理解して頂くために と中国難民救済施療班結成を決意,京大医学部の 三学生のほか,医師と各地から募った篤志看護婦 の参加で班を結成」と,その動機に触れている。

また 81 歳の 1985 年,母国の同志社大学に寄せた メッセージ(40)でも「私は 1938 年,中国に対す る日本軍閥の罪悪を謝罪,その贖いの祈りをもっ て中国難民救済施療班を結成,激戦,壊滅,荒廃 の中国・太倉県に3か月,愛の十字軍病院を開設 しました」と軍への批判を込めている。

 また,JOCS25 年史資料所収の「中国難民救済 施療班の思い出」の中でも,「中国に対する日本 軍閥の罪悪を謝罪,その償いの祈りをもって施療 班を結成」としているが,このインタビューを 1986 年に行った JOCS 事務局の野上寛次は「50 年近くも昔の出来事に対する志村氏の自己理解と いう色合いが強い」(41)と付記している。

 志村を含む施療班のメンバーは皆,日中戦争の 本質について客観的にとらえる視点をまったく 持っていない,というのが野上の分析である。

 その他には,志村は妻,康子にも生前「中国は とにかく大変なところで苦労した」と言葉少なに 語っていただけである。妹の愛子に「死体の臭い がというのは,それはすごくてね。その臭いをご まかすために中国で煙草を吸うことを覚えたんだ よ」とポツリ漏らしたという壮絶な話が残ってい る。

〈2 回目の医療班派遣〉

 3 人の京大医学部学生は帰国すると直ちに翌 1939 年に再度,医療チームを中国に派遣する準 備に入った。京都だけでなく全国の医科系大学,

写真⑫ 志村愛子帰国を報じる山梨日日新聞の記事

(19)

専門学校の YMCA に呼びかけた。これに応えて,

1939 年 1 月 6,7 の両日,京大 YMCA 会館「地 塩寮」には全国 13 の医科系大学,専門学校から 66 名が集まり,日本基督教青年会同盟医科連盟 を結成した。

 7 月 15 日から 8 月 15 日の間,中支・蕪湖(現 在の安徽省に位置する地級市,蕪湖市)に学生医 療班を送ることが決まった。団長に長崎医大外科 教授の古屋野宏平が決まり,新藤,榎本のほか,

名古屋医大,京都府立医大,東京歯科,大阪歯科 などの医師 3 名,医学生・歯学生 12 名,看護師 7 名がメンバーとなった。現地の日本人小学校を 根拠地としながら蕪湖県立病院の中の新築の一棟 で診療所を開設,「大日本学生医療班」の名前の下,

内科,外科,皮膚科,歯科,眼科の診療を行った(42)。 残念ながら肋膜炎による体調不良のため最終的に は中国行きを断念することになるのだが,京大医 学部(内科)大学院の医学生だった若き日の日野 原重明(43)も名前を連ねていた。派遣された医師,

学生たちを陰から支えた人がいた。地塩寮に住み 込んで学生を指導していた日本 YMCA 同盟学生 部の関西駐在主事,宮本寿である。彼も医療班に 参加した。

 こうした中,第1回目で団長を務め,大きな貢 献をした志村の名前がどこにもないのは不思議で ある。医者ではないが,メンバーに入ってもおか しくないはずである。これについて志村は,太倉 での活動を振り返るなかで,「医者と言うのは扱 いにくいしね。(略)みんなよくやってくれまし た。涙ぐましい働きをしてくれました。ところが ね,私の評判が悪くてね。結局,慰労会もしませ んでしたよ」(44)と記している。具体的な言及は ないものの,軍部への対応などで,医学生との間 に亀裂が生じていたことをうかがわせる。

 蕪湖で学生医療班は大きな成果をあげ,中国人

に「もっと永く留まって活動を続けてほしい」と いう嘆願を振り切り,後髪をひかれる思いで帰国 した。戦況の悪化で医療班の派遣は 2 度限りで途 絶えてしまったが,この医療活動は 1940 年に南 京につくられた日本人 YMCA にひきつがれた。

激戦地だっただけに市内には避難民があふれてい た。

 翌 1941 年,南京近郊の朝天の寺の一部の建物 で「朝天医院」と命名して活動を開始。1942 年 には日本から南京に派遣された榎本が南京日本 YMCA と協力して,同市内中心街に恒久的な南 京日本 YMCA 診療所「朝天医院」を設立した = 写真⑬。「(南京日本 YMCA と)と中国人の篤志 家の助力で YMCA から少し離れた昇州路大板巷 54 号に立派な建物が借りられており,これを一 部改修するだけで充分に使用に耐えた」(45)。日 本人としての贖罪意識が病院開設に向かわせた が,中国人には大いに歓迎され,新聞でも大きく 報道されたという。「初代所長に予定されていた 榎本の応召により,松島正雄が現地に渡り,12 月 8 日に朝天医院は開所式を挙げることができ た。(略)当初から多くの患者が押しよせた。特 に余程信用のある医師以外にかからない中国婦人 達も来院するようになった」(46)。しかし松島所 長も応召し女性ばかりになると,女性の西川雪子

写真⑬ 朝天医院

参照

関連したドキュメント

一方、この他に中国で南北朝時代に発掘された西方銀器や青銅器を見てみると、大同 市小站村圪塔封和突墓出土狩猟文銀皿 ( 3-4世紀

8月9日, 10日にオープンキャンパスを開催 し, 本学類の企画に千名近い高校生が参 加しました。在学生が大学生活や学類で

[r]

印刷所 京都市南区吉祥院池田南町一三     ㈱

金柄学 一事実の概要

高等教育機関の日本語教育に関しては、まず、その代表となる「ドイツ語圏大学日本語 教育研究会( Japanisch an Hochschulen :以下 JaH ) 」 2 を紹介する。

松本亀次郎が、最初に日本語教師として教壇に立ったのは、1903 年嘉納治五郎が院長を

1、研究の目的 本研究の目的は、開発教育の主体形成の理論的構造を明らかにし、今日の日本における