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龍谷大学佛教学研究室年報 第18号(2014) 007間中 充「幻喩と三性説 : 『大乗荘厳経論』第XI章13-30偈をめぐって」

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(

1

9

)

龍谷大学悌教学研究室年報第

1

8

2

0

1

4

3

幻喰と三性説

-w

大乗荘厳経論』第 XI章 1

3

30

備をめぐってー

問 中 充

o

.

はじめに

本稿は,拙稿

[

2

0

1

4

]

および加納・上野・早島・間中

[

2

0

1

4

]

を基にして,その内容 を補うものである. 議伽行唯識学派の論書『大乗荘厳経論 (Mahayanasutrala",kara: MSA)

J

第 XI章述 求 品 (Dharmaparye~ty-adhikãra) のなかで,

k

k

.

1

3

1

4

では真実義

(

t

a

t

t

v

a

r

t

h

a

)

k

k

.

1

5

2

9

では幻喰たること

(

m

a

y

o

p

a

m

a

t

a

)

k

.

3

0

で は 昏 晴 義 (

a

u

p

a

m

y

a

r

t

h

a

)

についての探求が 説かれており1,この三つの項目はその内容からセットで考察すべきである.なお

MSA

全体の構成そのものに関しては,すでに多くの先行研究2が指摘しているよ うに,

w

議伽師地論(均gacarabhumi)

J

の『菩薩地(Bodhisattvabhumi)

J

の章立てをほ ぼ継承していて,そこに類似性や対応関係が見られることは明白である.しかし,

MSA

述求品に対応する,

w

菩 薩 地 』 の 力 種 姓 品 (

B

a

l

a

g

o

t

r

a

-

p

a

t

a

l

a

)

における求法 (Dharmapaηe~aka) の項目に,真実や昏喰に関するテーマは見当たらない.では, このようなテーマはどの文献の何を基にして,どのような理由でこの章に取り上 げられたのか.管見の限り,それを直接支持するような文献は見当たらないが,

MSA

は偏あるいは章の構成に優れた論書であるため,それぞれの偶の順序や関係 性を正しく把握することが大切であると思われる. 本稿では,先に加納・上野・早島・間中

[

2

0

1

4

]

で再校訂した箇所を含めた和訳 を提示して,

k

k

.

1

3

3

0

の内容を概観し,後に拙稿

[

2

0

1

4

]

で論じた

k

k

.

1

5

1

6

におけ る問題,すなわち

maya

mayakr

t

a

で表される幻町議と三性説との関係性について 再度詳細に検討したい.

l智 吉 祥 (J

f

i

a

n

a

s

r

i

)

r

荘 厳 経 論 総 義 (mDosde rgyan gyi don bsdus pa) ~の分科ではは.15 ・30 を一纏めとし,

1

1

に分けている.

C

f

.

野 津

[

1

9

3

8

]

p

.

1

3

1.

2

C

f

.

早島

[

1

9

7

3

]

p

p

.

l

1

5

,小谷[

1

9

8

4

]

p

p

.

1

5

4

7

など.

(2)

幻日散と三性説(間中)

1

.

MSA

XI

1

3

3

0

備の和訳

当該箇所を通した和訳に関しては,すでに長尾[2007]があるが,加納・上野・ 早島・間中[2014]で再校訂した際に,新しい読みを採用した和訳を掲載しなかっ たため,ここで改めて提示する.なお再校訂した箇所以外 (k.13,kk.28・30)に関し ては,脚注に

MSA

L

e

v

ie

d

.

に対する訂正案を附すのみで,紙面の都合上サンス クリット本文は省略させていただく.

1

-1

.

MSA

XI

1

3

1

4

くk.13>3 法の真実義4を探求することについて二偏がある. 真実 (tattva)とは,絶えず二つのものから離れたものであり,迷乱の依 り所であり,あらゆる点で全く言語表現ができないもの,また無戯論の 性質をもつものである. (それぞれ〕知られるべき,断じられるべき, また清浄にされるべきで本性として無垢なるものと考えられ,虚空・ 金・水のように煩悩から清浄となるものであると考えられる5 「絶えず二つのものから離れたものが,真実であるjとは遍計所執性〔について〕 である. (それは〕所取・能取という相(あり方)としては永久に非有だからであ る.

r

迷乱の依り所

J

とは依他起〔性〕で,それによってかの〔虚妄〕分別がある からである.

r

言語表現すべきでない,また無戯論の性質をもつもの

J

とは円成実 性である.そのうち,第一の真実は〔非有であると〕遍く知られるべきであり, 第二〔の真実〕は〔所取能取が〕断じられるべきであり,また第三〔の真実〕は 本性として清浄であるが,客塵の垢からは清浄にされるべきである.

r

虚空・金・ 水のように煩悩から清浄となるもの

J

が,本性として清浄なるものである.実に 虚空等は本性として清浄でないということはないが,客塵の垢を離れることによ り,それらの清浄〔の性質〕が認められないわけではないからである. 3 Levi ed. p.58, 1.14. 4 OtatvaO→。tattvarthaO(舟橋[2000],Ns, Tib de kho na nyid

idon). 5まず, (法の〕真実(tattva)が述べられる.世親釈(Mahayanasutralamkara-bha$ya:MSABh) では,

r

絶えず二つのものから離れたもの Jが遍計所執性,

r

迷乱の依り所』が依他起性, 「言語表現できない,無戯論の性質をもつものJが円成実性というように,ここでの真実 (tattva)は三性であるとしている.ただし,偏自体に三性にあたる言葉は直接記されてい ない.

(3)

( 21) 龍谷大学悌教学研究室年報第18号 2014年3月 くk.14> 実にこの世間において,それ(法界)6とは別に何ら存在しない.かの世 間はまた,それ(法界)について余すところなく迷妄な智を有している. どうしてこの世間の愚かな種類の者は,有〔なる法界〕を完全に捨て去 って,何らか(世間)の無なるものに執着して7¥,増上する(騎る)のカか瓦:¥8 実に世間には,このように特徴づけられたかの法界とは別に何ら存在しない.法 は法性とは区別されなし、からである. (備の〕残りは意味が明白である.

1

2.MSA第 XI章 I

S

29偶

<k.15> 〔法の〕真実に関して,幻向転たること9を探求することについて十五偶がある. 幻 (maya)10のように,虚妄分別〔のあり方〕が説明される. 幻 事 (mayakrta)11のように,二の迷乱〔のあり方〕が説明される. 「幻のように

J

とは,呪文をかけられた木片や土塊等が迷乱の因12となるように, 依他起性〔という行相を持つ〕虚妄分別が〔迷乱の因となると〕理解されるべき である13.

r

幻事のように

J

とは,その幻 (maya)において象・馬・金等の形相 (akrti) 6 k.13から引き続き, tasmatとtatraを『三性」としてもよい.Cf.長尾[2007]p.58. 7異読はなく文字そのものに訂正の余地はないが,これを複合語とするか否かについて解 釈が分かれる.舟橋[2000]および長尾[2007]は, yad asadabhinivi~tab と各語を分けるが,筆 者は asadabhinivi写taを,第七格格限定複合語として『無なるものに執着したJ という意味 で理解した.一方のyadの文法的価値はそれほど自明ではないが,

r

何らかのものについて のj という意味,あるいはめ句のjagatを間接的に指示するものと理解し,複合語の一部 とした.Cf.加納・上野・早島・問中[2014]注記(a). 8 k.14は,ダノレマミトラによるAbhisamayala",karalikaPrasphufapada(D 3796, 5a7・bl;P 5194, 6a2・3)に引用される.

'gro ba dag na de las gzhan yang cung zad yod min la 11 'gro ba ma lus pa yang de la mam par rmongs pa'i blo11 yod pa kun nas spongs shing med la mngon zhen gang yin pa 11 'jig rten rmongs pa'i mam pa tshabs chen 'di ko ji lta bu 11 Cf.加納・上野・早島・間中[2014]注記(b). 9 m盃yopama。→ mayopamataO(長尾[2007]Ns). 10mayaという語の一般的なサンスクリットとしての意味には,力(power)・幻想(il1usion)・ 幻術 (magic)などがある. 11幻事 (maya訂ta)とは.

r

幻術で(によって)作られたものj と筆者は解釈している. 12bhrantinimittarp→ bhranter nimittaqt(肉). 13paratantrab svabhavo→ pratantrasvabhavo(肉). Ns はparatantrabsvabhavo. Tibは・paratantrabsvabhavakaroであり,舟橋[2000]および長尾 [2007]はparatantrabsvabhavakaroという校訂を示すが,肉の通りに読んでも問題はない. C五加納・上野・早島・問中[2014]注記(c).

9

8

(4)

幻 噌 と 三 性 説 ( 間 中 ) がそれら〔象・馬・金等〕の本質 (bhava)として顕現するように,かの虚妄分別 において遍計所執性という行相を持つ二の迷乱が所取・能取として顕現すると理 解されるべきである. <k.16> そこにおいてその本質(bhava)が無いように,勝義はあると考えられる. 一方,それが認識されるように,世俗諦はある〔と考えられる)14. 『そこにおいてその本質が無いように

J

とは,幻事 (mayakrta)において象たるこ と (hastitva)等が非存在であるように,かの依他起〔性〕において勝義は遍計所 執〔性〕の二の相が非存在であることと考えられる.その幻事 (mayakrta)が象等 の本質 (bhava)として認識されるように,虚妄分別が世俗諦としてIS認識される. くk.17> それの非存在において,その因〔となったもの〕の顕現が得られるよう に,転依において,非有〔なるもの〕の分別(虚妄分別)が得られる. 幻 事 (maya財ta)の非存在において,その因である(素材となっている)木片等のも のの顕現が真実の義 (bhfitartha)として認識されるように16,転依において,二の 迷乱が存在しないから,虚妄分別の真実の義 (bhfitartha)17が認識される18 14kk.I5・16はヤマーリによるPrama1Javarttikala1flkarafikaSuparisuddha(D 4226, 3a2・3;P 5723, 3b2・4)に rw荘厳経輪』において (mdosde唱yan1as)J として引用される.これはジュニヤ ーナシュリーミトラのSakarasiddhiSastraからの孫引きの可能性が高い.

sgyu ma jitIar de bzhin du 11 yang dag ma yin kun rtog brjod11

sgyu mas byas pa de bzhin du 11 de bzhin gnyis ni 'khru1 bar brjod 11 15 11 jiItar de 1a de med pa 11 de bzhin don dam yin par 'dod 11

jiItarde dag dmigs pa bzhin11 kun rdzob kyi ni bden pa nyid 11161/ Cf.加納・上野・早島・問中[2014]注記 (d). 15sarpvrtisatyatoO→sarpvrtisatyatvenoO (肉). sarpvrtisatyatopa1abdh i bという Nsの 読 み を 諸 校 訂 本 は 採 用 す る . 長 尾[2007]では sarpvrtisatyatvenopa1abdhibという読みについて『外形的には合理的に見えるが,意味的には 承認できないから採用しないJとしている.確かに長行所出のsarpvrtisatyataという語形は, そのまま偏文(16d)に現れ,長行が偶文の語句をパラフレーズしている可能性は残る.し か し な が ら , mayakrtasya hastyadibhavenopalabdhib と , 当 該 の abhfitaparikalpasya sarpvrtisatyatvenopa1abdhibは対句となっているため,この読みを採用した. Cf.加納・上野・早島・問中[2014]注記(e). 16bhfitarthopalabhyate→ bhfitartha upa1abhyate(長尾[2007],肉). 17bhfito

rtha→bhiitartha(肉).

18 安慧釈 (Sütrãla", kãra-vrttibhã~ya: SAVBh)ではab句について, rたとえば,幻術師の薬 や呪文の力による石や木などからの馬や象などの顕現は,力が消えて馬と象の形相が無く 顕現しない時,象などの形相の因の想が認識される.すなわち馬や象は見えず石や木が見 えるという意味である (Cf.早島[1978]p.77)Jとしている.MSABhでは単にabhave(存在

(5)

くk.18> 龍谷大学{弗教学研究室年報第18号 2014年3月 その因において,実に迷乱していない世間の者は思いのままに行動する であろうように,転依において,顛倒していない行者は思いのままに行 動する者である19 その因である(素材となっている)木片等において,迷乱していない世間の者は思 いのままに行動する(,すなわち〕自在であるように,転依において,顛倒して いない20聖者は思いのままに行動する(,すなわち〕自在である. くk.19> そして,そ〔の象等〕の形相(盃匂ti)はそこにおいてあるが,そ〔の象 等〕の本質 (bhava)は存在しない.それ故に,有なること (astitva)と非 有なること (nastitva)とが,幻 (maya)等〔の嘗喰〕において規定され ている. この備は意味が明白である. <k.20> そこにおいて,有 (bhava)は無 (abhava)ではなく,まさに無 (abhava) は有 (bhava)ではない.そして,有 (bhava) と無 (abhava)との無差別 が,幻 (maya)等〔の誓轍〕において規定されている. fそこにおいて,有は無ではない

J

とは,およそそ〔の象等〕の形相 (a訂ti)とし ての有 (bhava),それは無 (abhava)ではない.

r

まさに無は有ではない

J

とは,お よそ象たること (hastitva)等としての無 (abhava). それは有 (bhava)ではない21 そして,その有 (bhava)と無 (abhava)との両者が無差別であることが,幻 (maya) 等〔の誓喰〕において規定されている.なぜならば,そこにおいて,およそその 〔象等の〕形相 (akrti)としての有 (bhava),それはまさに象たること (hastitva) 等としては無 (abhava)だからであり,およそ象たること (hastitva)等としての無 (abhぉa),それはまさにその形相 (akrti)としては有 (bhava)だからである. しない時)としているのに対して,少なくとも SAVBhでは呪力が有効に働いている時から 呪力の消滅までの一連の過程において三性説を示していることになる.Cf.繭 [2000]. 19kk.17・18は r(阿頼耶織の〕転依jについて述べられている.MSABhによると, k.17の tadは幻事(may盃krta)であり,それが存在しない,すなわち幻術師の呪文や薬が止まると, 木片などが現れるという喰えである. 20 apaηasta→ aviparyasta (長尾 [2007],肉). 21nasau na→ nasau (舟橋 [2000],長尾 [2007],Tib de ni yod pa ma yin no).

9

6

(6)

くk.21> 幻自散と三性説(問 中) そのように,二の顕現はここにおいてあるが,そ〔の二〕の本質 (bhava) は存在しない.それ故に,有なること (astitva)と 非 有 な る こ と (nastitva) とが,色 (rupa)等 に お い て 規 定 さ れ て い る . そのように,ここ〔すなわち〕虚妄分別においてこの顕現はあるが,その本質 (bhava) は 存 在 し な い . そ れ 故 に , 有 な る こ と (astitva)と非有なること (nastitva) とが, 虚 妄 分 別 を 自 性 と す る 色 (rupa)等 に お い て 規 定 さ れ て い る . <k.22> そ こ に お い て , 有 (bhava)は無 (abhava)で は な く , ま さ に 無 (abhava) は 有 (bhava)で は な い . そ し て , 有 (bhava)と無 (abhava) と の 無 差 別 が,色(而pa)等 に お い て 規 定 さ れ て い る22 「そこにおいて,有は無で、はない」とは,二の顕現〔は無いのではなし、),という ことである.

r

ま さ に 無 は 有 で は な い

J

とは,二の本質 (bhava)の 非 有 な る こ と23 〔は有るのではなしつ,ということである.

r

有 と 無 と の 無 差 別 が , 色 等 に お い て 規 定 さ れ て い る

J

とは,実に二の顕現が有 (bhava)で あ る こ と が , ま さ に 二 の 〔 本 質 が 〕 無 (abhava)で あ る こ と だ か ら 〔 無 差 別 〕 で あ る . 22kk.19・22の 4偶は有 (bhava)と無 (abhava)の規定と無差別について示されている.kk.19・20 は幻 (maya) で語られ, kk.21・22は色(而pa)で示されており,なおかつ偶の構造はほぼ 同じである.これは幻の昏輸を用いることによって後の『色Jという法が存在しないとい う理解を比較的容易にさせ, k.15から今まで述べてきた mayaを rupaに置き換えろという 思考の転換・発展を促す偶の集まりのようにも感じられる. また k.20では kk.15-16と同様な MSABhと SAVBhの相違が見てとれる.MSABhでは「そ 〔の象等〕の形相 (akrti)Jが有 (bhava)で,

r

象たること (hastItva)等Jが無 (abhava) であるとしている.それに対して SAVBhでは,象等の形相(姿)が顕現する原因(素材) である f石や木Jを有とした上で,単に『象等の形相 Jではなく,

r

象〔等〕の形相として の迷乱の顕現」が無ではない(=有)と述べられ,

r

象〔等〕の本質そのもの Jは無として いる.このように両釈では,象等の本質が無であることは共通しているが, MSABhが『象 等の形相Jを有とするのに対して, SAVBhは「象等の形相としての迷乱の顕現』を無では ない(=有)としている点が異なる. これは兵藤[2010]1こよると,安慧は二取としての顕現自体は無ではないということを認め るが,このこ取としての顕現は迷乱であり,木片から象が顕れたりするように顕現自体は 本来の形相(姿)とは異なった『虚偽なものjと見ていて,形相(姿)そのものを虚偽と して少なくとも有ではないとしている.対して MSABhは k.16と同様に,象の形相(姿) を有としていて虚偽なものとは見ていない. Cf.兵藤[2010]pp.356・357. 23dvayanastita→ dvayabhavanastita (長尾 [2007],肉).

(7)

龍谷大学悌教学研究室年報第18号 2014年3月 くk.23> 増 益 (samaropa)と損減 (apavada)との両極端を遮止するためであり,ま たまさに小乗によって行くことを遮止するためであると考えられる24 また何のために,このことは,有(bhava)と無(abhava)とが個別の性質(aikantikatva) でありながら無差別であると考えられるのか.順次に,増益 (samaropa)と損減 (apavada)との両極端を遮止するためであり,また小乗に赴くことを遮止するた めであると考えられる.なぜならば 無 (abhava)の無たること (abhavatva)を知 れば増益 (sarnむopa)をなさず,有 (bhava)の有たること (bhavatva)を知れば損減 (ap抑 制a)をなさなし、からであり,そして, (有と無との〕両者の無差別を知れば 〔世間的な〕存在から厭離せず,それ故に小乗によって出離しなし、からである. くk.24> 迷乱の因と迷乱とは,色の識 (rupavijnapti)と非色の識 (a而piQIvijnapti) とであると考えられる. (一方が〕非存在であるからには,他方〔も存 在し〕ないだろう25 およそ色〔ありとする〕迷乱の因としての識なるものおは色の識(而pavijnapti) と 考えられ, (一般に〕色と呼ばれる.一方,色〔ありとする〕迷乱は非色の識 (arupiQI vijnapti)である〔と考えられる).色の識が非存在であるからには,他方の非色の 識も〔存在し〕ないだろう.原因〔となるもの〕が無し、からである. くk.25

26> 幻〔術で作られた〕象の形相(誌が)を執取するという迷乱に基づいて, 〔所取と能取の〕二が説かれた.そこにおいてこはそのように無いが, まさにこは認識される. 骸骨の影像を執取するという迷乱に基づいて, (所取と能取の〕二が説 かれた.そこにおいてこはそのように無いが,まさにこは認識される27 24この偶は前説の4備の理由をまとめて述べている.なお唯識での増益と損減に関しては, 繭[2005][2009]に詳しく述べられているので,そちらを参照されたい. 2Sこの k.24は『摂大乗論』第 H章に引用される.この点に関しては芳村[2002]にviji'iapti を中心として考察されている.r摂大乗論~ (Nagao ed. p.65; D 4048, 14b4・5;P 5549, 16a5)

'khrul pa'i rgyu dang 'khrul pa ni // gzugs kyi rnam par rig pa dang /1

rnam rig gzugs can min8 par 'dod/1med par gyur na cig shos med // 24 1/

Cf.加納・上野・早島・問中 [2014]注記

ω

.

26 ya nimittavijnaptib→ nimittarp ya vijnaptib(肉).

27この連続した閉じ構文の2偶はSAVBhによると,前半の備は世間的な嘗輸で説かれ,後

(8)

幻 喰 と 三 性 説 ( 間 中 ) 幻〔術で作られた〕象の形相 (akrti)を執取するという迷乱の観点から,所取・能 取の二が説かれた28 そこにおいてこはそのように無いが,まさにこは認識され る.また骸骨の影像を思念することにとって〔の迷乱,すなわち〕それを執取す るという迷乱に基づいて,前のように二が説かれた. <k.27> 迷乱を特徴とする諸法は,そのように有 (bhava)であるから,そのよう に無 (abhava)であるから,有 (bhava)と無 (abhava) とが無差別である から,幻 (maya)のように,有なるものであり且つ非有なるものである. およそ所対治を自性とし,迷乱を特徴とする諸法は,また幻 (maya)のように, 有なるものであり〔且つ〕非有なるものである.どうしてか.

r

有なるもの」とは, そのように虚妄分別として29有(bhava)であるからであり,

r

非有なるもの

J

とは, そのように所取・能取として無 (abhava)であるからである.そして有 (abhava) と無 (abhava)との両者が無差別であるから, (諸法は〕有なるものでも非有なる ものでもあり,幻 (maya)もまた同様の特徴を持つ.それ故に「幻のように」と し、う. <k.28> 能対治としての諸法は,そのように無 (abhava)であるから,そのよう に無 (abhava)であるから,そのように無 (abhava)であるから,無相な るもの (alak$ana)であり,また幻 (maya)のようであると説示された30 およそ仏陀によって教説された〔四〕念住などの能対治としての諸法もまた,無 相なるもの (alak$ana)であり,幻 (maya)のようであると説示された.どうして か.愚者たちによって把握されるように無 (abhava)であるからであり, (仏陀に よって〕説かれたように〔言語表現として〕無 (abhava)であるからであり,仏陀 によって示現された入胎・出生・出家・成道など31のように〔示現された成道な 半の備は聖教の替轍でもって説かれている.Cf.長尾 [2007]p.72. 28grahakalTlca tatra→ grahakan caI dvayan ca tatra (肉). 29 abhutaparikalpatvena→ abhutaparikalpanatvena (肉). 30この2備も構造は似ていて, k.27は貧などの所対治なる雑染の諸法について, k.28は信 などの能対治なる清浄の諸法について,幻の如くであると説かれている.なおk.28に関し ては,三種の無を説くにもかかわらず, Tibと漢訳で ryodJ と「有』が混在している. Cf.長尾 [2007]p.75. 31OsalTlbodhyadayal}→。salTlbodhadayal}(長尾[2007],Ns).

(9)

龍谷大学悌教学研究室年報第18号 2014年3月 どが〕無 {abhava}であるからである.このように〔能対治に関する諸法は〕無相 なるもの (alak~ana) であり,また現に存在しないものが顕れる.それ故に幻 (mãyã) のようである〔と説示されている). く

k

.

2

9

>

また幻の王 (mayaraja)が他の幻の王 (mayar司a)によって征服されるよ うに,一切諸法を見る最勝者の子らは無慢 (nirmana)32である33 およそ 34能対治としての諸法が幻の王 (mãyãr遺~a) に喰えられるのは,雑染を断滅 して清浄について増上がある(力勝れている)からである.およそ雑染の諸法もま た玉 {raja}に喰えられているのは,雑染の生長 (nirvrtti)について増上がある(力 勝れている)からである.この故に,その能対治〔としての諸法〕によって雑染に 打ち勝つことは,幻の主 (mayaraja)によって王 (r可a)を征服するようであると見 るべきである.そして,そのことを知るから,諸普薩は両方の場合(雑染と清浄) について無慢 (nirmana)35である.

1

MSA

第 XI章 30偏

k

.

3

0

>

替輸義についてー偶がある. 実に最高覚者の諸仏によって至る所で語られた諸行は,幻・夢・陽炎・ 影像と似たもの,光の影・反響のようなもの,水〔に映る〕月の像と似 たもの,また化作と等しいものであると知られるべきである. (これら の嘗喰は〕六つと六っとこつと,さらにまた六つが二つのこととして考 えられ,そして三つは一つ一つに〔嘗輸が〕ある36 世尊によって諸法は f幻 (maya)のようなものj乃至「化作 (nirm句a)のようなも 32 nirmaras→ nirmanas(舟橋[2000],長尾[2007].Ns). 33所対治なる雑染の諸法も,能対治なる滑浄の諸法も幻の知くであるので,幻王によって 征 服 さ れ た 場 所 こ そ 無 覆 無 記 の 阿 頼 耶 織 で あ り , 征 服 し で も 菩 薩 に 慢 は 無 い と い う 輸 え で ある.Cf.長尾[1978]pp.219・220,長尾[2007]p.76. 34 ya→ ye (舟橋[2000],長尾[2007],Ns). 35nirmara→ nirmana(舟橋[2000],長尾[2007],Ns). 36 k.30では諸法(諸行)を幻以下,より一般的な八喰の形で示している. Cf.長 尾[2007]pp.77-79.

9

2

(10)

幻 輸 と 三 性 説 ( 問 中 ) の

J

であると〔善く〕説かれた37 そのうち,

r

幻 (maya)のような

J

諸法とは, 六つの内的な処(根)である. (なぜなら〕我・命たるもの等は非有であるのに, そのように見える(顕れる)からである.

r

夢 (svapna)のようなもの

J

とは,六つ の外的な処(境)である. (なぜなら〕それを享受する事物はないからである.

r

陽 炎 (marlci)のような

J

二つの法とは,心と心所である. (なぜなら〕迷乱をなす (起こす)からである.

r

影像 (pratibimba)のようなもの

J

とは,また同じく六つ の内的な処である. [なぜなら〕前の業の影像だからである.

r

光の影 (pratibhasa) のようなものjとは,また同じく六つの外的な処である. (なぜなら〕内的な処の 影となるものであり,その増上(力勝れていること)によって起こるからである. 「六つが二つのこととして考えられる

J

とは, (前に述べられた〕六つからなる 〔内・外の〕二つのもの38が考えられるということである.

r

反 響 (pratisrutka)の ようなもの

J

とは,説かれた諸法(教え)である.

r

水〔に映る〕月の像(udakacandrabimba) のようなもの

J

とは,三味に依拠した諸法(教え)である. (なぜなら〕清き三味 が水のようなものだからである.

r

化作 (nirmaoa)のようなもの

J

とは,故意に有 〔の世〕に生を取る時にである. (なぜなら〕雑染のない一切の所作に加行するか らである 39 37yat tuktaJTl→ yatra suktaQ1(長尾[2007]). 38$atdvayaJTl→ ~atkadvayaJTl (長尾[2007],Ns). 39 MSA第XI章kk.13・30のシノプシス k.13 三 性(trisvabhava) k.14 法 界(dharmadhatu) k.15 依他起と遍計所執

1

「三性 k.16ab 円成実/勝義諦

4

L

二締 k.16cd 世 俗 諦

J

kk.17・18 転依(誕rayaparavrtti) kk.19-20 幻(maya)

1

l

真 実 例 十有と無の規定 kk.21・22 色(而pa) J k.23 増 益(samaropa)と損減(apavada) k.24 識(vijfiapti) k.25,26 世俗(幻術)と聖教(骨鎖) k.27 所対治(雑染)なる諸法 k.28 能対治(清浄)なる諸法 k.29 無慢(nirmana)である菩薩 幻 轍(mayopama) k.30 幻(maya)な ど の 八 輪 一 一 ー 一 一 昏 轍(aupamya)

(11)

龍谷大学{弗教学研究室年報第18号 2014年3月

2.MSA第 XI章 1

5

1

6備における解釈

同箇所は兵藤[1991]をはじめ,松田[2006]・松岡[2007]・本村[2012]などの近年 の諸研究においてよく指摘されている所である.ここでは三性を,幻術師が石や 木片等に呪文をかけて幻の馬や象等の姿を見せる様子で喰えており,三性それぞ れがこの喰えのどれに当てはまるかが問題となる.拙稿[2014]では主に,三性説 を醤喰で説明している幻 (maya)あるいは幻事 (mayakrta)が指し示す意味内容に 関して,世親 (Vasubandhu,ca.400・480)のMSABhと安慧 (Sthiramati.ca. 510・570)の SAVBhとの間での,見解の相違に関する問題を提示した. くMSAk.15> < MSABh k.15> yatha maya tathabhutaparikalpo nirucyate / 40 yatha mayakrtarp tadvad dvayabhrantir nirucyate //15// yathaìñ.~y正治~i~PlirlgfiiÏ向 bh泊nter nimittarp kã~thalo~tãdikarp tathabhutaparikalpal;l paratantrasvabhavo veditavyal;l / yatha mayakrtarp tasyaJTlmayayarp hastyasvasuvarQadyakrtis tadbhavena pratibhasita tatha tasminn abhutaparikalpe dvayabhrantir grahyagrahakatvena pratibhasita parikalpitasvabhavakara veditavya // < SAVBh k.15>

(15ab) dper na sgyu ma mkhan gyis sngags dang sman gyis yongs su zin pa'i mthu las sgyu ma'i rta dang glang po la sogs pa snang ba'i rgyu !do danf!shinf!18SOf!S 08 Ita bur ni vanf!da笹 口ama vin oa kun tu bはalZst~ / sems dang sems las byung ba rten cing 'brel te 'byung [0 175b] ba gzhan dbang gi mtshan nyid yin par 'dod de I ci'i phyir zhe na / sngags dang sman gyis zin pa'i rdo dang shing bu yang rta dang glang por snang ba'i rgyu byed pa de bzhin du gzhan dbang yang gzung ba

41 dang 'dzin pa Ita bur snang ba'i rgyu byed pas na rdo shing gi tshul Ita bur blta'o //"'... 両注釈を比べてみると, ab句では依他起性である虚妄分別が幻 (maya)に輸え られるという点は合致しているが,下線部のように SAVBhは石や木などが虚妄 40Cf. Levi ed. p.59. 41 (15ab)たとえば幻術師によって呪や薬でかけられた〔幻術の〕力により,幻の馬や象な どが顕現する原因(素材)である石や木などのような[もの]が虚妄分別であって,心-心所,縁起によって生じたもの,依他〔起〕相であると考えられる.何故かと言えば,呪 や薬によって〔幻術を〕かけられた石や木もまた,馬や象として顕現することの原因とな るように,依他〔起相〕もまた,所取・能取としての顕現の原因となるから,石〔や〕木 の様相 (tshuI)のように見られるのである. Cf.早島(l978]p.75.

90

(12)

幻 轍 と 三 性 説 ( 問 中 ) 分別であると明言している.cd句は遍計所執性であるこの迷乱は幻事 (mayakrta) に町議えられるという趣旨で, MSABhは幻事 (mayakrta)を「幻 (maya)における象 等の形相(批判)

J

とし,

r

それら〔象等〕の本質として(tadbhavena)顕現する

J

と 限定しているが,これに対して SAVBhはtadbhavenaを注していない42 このよう に「木片等」が依他起性,

r

象等の形相」が遍計所執性に対応するという関係は両 釈において大きな違いはないが, MSABhの tadbhavaに留意しながら続けて k.16 を見るとその違いは明らかとなる.なお,MSABhの網掛け部分のTib訳はsgyuma'i sngags kyis btab paとなっており, maya-mantraparigrhItarpとして複合語の Gen.Tp で解釈しているようであるが,そもそもMSABhのyathamayaは備のそれを引用 し て い る は ず な の で , 注 釈 と し て は[mantraparigrhItarp] [bhranter nimittarp] [kã~thal o~tãd ikarp]がmayaと同格であると考察すべきである43

くMSAk.16> くMSABhk.16> yatha tasmin na tadbhavab paramarthastathe~yate / yatha tasyopalabdhis tu tatha sal1lVrtisatyata 1116// yatha tasmin na tadbhavo mayakrte hastitvadyabhavab / tatha tasmin paratantre paramartha i$yate parikalpitasya dvayalak$aQasyabhavab / yatha tasya mayakrtasya hastyadibhavenopalabdhib / tathabhutaparikalpasya sarpvrtisatyatvenopalabdhib // くSAVBhk.16>

(16ab) mdo sde dag gi nang nas don dam pa'i bden pa dang kun rdzob kyi bden pa zhes 'byung ba bden pa gnyis kyi mtshan nyid dpyod de / dper na sgyu ma'i rta dang glang po la sogs pa'i dbyibs rdo dang shing la sogs rgyu las rta dang glang por snang mod kyi / Ido dan2 shin2 de 1! rta dang glang po'i rang bzhin med pa de ltar gzhan gyi dbang gi mtshan nyid la kun tu brtags pa'i rang bzhin gzung ba dang 'dzin pa gnyis med de / gzung 'dzin dang bral nas yongs su grub pa'i mtshan nyid du gyur pa ni don dam pa'i bden pa yin par 'dod do zhes bya ba'i don te / 'dis ni don dam pa'i bden pa'j mtshan nyid bshad do //44, 42世親はおそらく,後の包盛主旦

l

a

ca tatrasti辺地瞳盟三 cana vidyate (19ab) を意識して r tadbhavenaJ という限定を附しているのであろう. Cf.兵藤 [1991]p.lO. 43舟橋[2000]・長尾 [2007]の校訂や,兵藤 [2010]の『木片や土塊が幻術の呪文をかけられて」 という訳からも,諸研究者はmayaを複合語として捉えている.ただし松岡 [2007]は筆者の 読み方と同じである. 44 (16ab)諸経典の中に「勝義締と世俗締J と説かれる二諦の相(特徴)を考察する.たと えば幻の馬や象などの(という)形 (dbyibs) は,石や木などの〔幻術の〕原因から,馬

(13)

( 31 ) 龍谷大学悌教学研究室年報第 18号 2014年 3月 ま ず 両 釈 の ab句を検討すると,兵藤[1991]で tasminの 解 釈 の 違 い が 指 摘 さ れ て いるように, MSABhは k.16本 備 の 「 そ こ に お い て (tasmin)Jを f幻事(=象等の 姿 ) に お い て (mayakrte)Jで あ る と 解 釈 し て い る . お そ ら く こ の ab句 は 「 依 他 起 性 ( 虚 妄 分 別 ) に お い て 遍 計 所 執 性 が 存 在 し な い こ と が 円 成 実 性 で あ る

J

と い う 文 脈 で あ ろ う が , こ れ に 対 し て 安 慧 は 下 線 部 の よ う に 「 そ こ に お い て (tasmin)Jを fその石や木(=幻の素材)において Jで あ る と 解 釈 し て い る . ま た cd句 で MSABh は k.15 と 同 じ く 再 び 「 象 等 の 本 質 と し て (bhavena)J と限定しているが, SAVBh は そ の よ う な 注 を 附 し て い な い . こ の よ う に 世 親 は こ の kk.15・16の 注 釈 で 「 象 等 の 本 質 と し て (bhavena)J と い う 限 定 を 加 え て い る が , こ れ は 世 親 の 著 作45と さ れ る 『 三 性 論 (Trisvabhavanirdda: TSN) ~でも同様である 46 <MSABh k.16ab> <SAVBh k.16ab> <MSABh k.16cd> <SAVBh k.16cd> 「勝義の喰えJ

=

r

幻事において象等の本質が無いことj f勝義J=

r

依他起において遍計所執が無いことJ f勝義諦の喰えJ=

r

木片等において象等の本質が無いこと」 『勝義締J=

r

依他起において遍計所執が無いこと」 「世俗諦の噛えJ

=

r

幻事が象等の本質として認識されるJ 「世俗諦J

=

r

虚妄分別が世俗諦として認識されるj 「世俗諦の日耐えJ= r(木片等からの〕象等の顕現(=認識)J 「世俗諦J=

r

依他起からの遍計所執の顕現(=認識)J や象として顕現するけれども,その石や木において馬や象の自性がないように,依他起相 において遍計所執性(分別されたものの自性)である所取・能取の二がなく,所取・能取 を離れて円成実相となったものが勝義諦であると考えられるという意味である.これは勝 義諦の相(特徴)を説く. Cf. 早島 [1978]p.76. 45近年の研究では TSNが本当に世親の著作かどうか疑う意見もあるが,今回はその問題に 立ち入らず,論を進める. mayakrtarp mantravasat khyati hastyatmana yathaI akaram盃trarptatrasti hasti nasti tu sarvatha 112711 呪文の力によって,幻事 (mayakrta)が象の本質 (atman)をもって顕現する. そこにおいて〔象の〕行相 (akara)のみがあるのであって,象〔自体〕は全く存在しない. svabhaval)kalpito hasti paratantras tadakrtiJ:tI tatra hastyabhavo

sauparini~panna i~yate 112811 象〔自体〕が遍軒所執性であり,そ〔の象〕の形相 (akrti)が依他起〔性〕であり, そこにおいて象が存在しないそのことが,円成実〔性〕と考えられる.Cf. 山口[1972]p.128.

8

8

(14)

幻自散と三性説(間 中) 兵藤[1991]ではこのように世親が「象等の本質として (bhavena)Jと限定してい る理由を,“世親が「そこにおいて (tasmin)Jを 「 幻 事 に お い て (mayakrte)Jと解 釈 し , そ の 作 ら れ た も の を 象 な ど の 形 相 と 規 定 し て 遍 計 所 執 性 で は な く 依 他 起 性 で あ る と 見 な す な ら ば , 新 た に 遍 計 所 執 性 の 定 義 が 必 要 と な る の で , 世 親 は 「 そ の 形 相 と し て の 象 な ど を 実 体 と し て 執 す る こ と

J

を 遍 計 所 執 性 と す る の で あ る " としている47つまり「象等の本質(bhava)Jという語を使って「象等の形相(a切i)J と明確に区別しているのだが,新たに遍計所執性の定義が必要となること自体, 少 し 不 自 然 に 思 え る . た だk.l6をMSABhのように, r幻 事 (mayakrta)Jを「依他 起性」として捉えるとすると, MSABh k.15でのmayaは「木片等Jを示すので, mayaもmayakrtaも閉じ「依他起性」を示すことになってしまい,一続きの MSABh

として整合性が成り立たないのである48 拙稿[2014]では最終的に,主に kk.15・16の MSABhにおいて,幻の替輸で表さ れていることとそれに対応する三性(特に依他起性と遍計所執性)に混乱が生じて いるという問題を解決するために, mayaとmayakrtaの関係性に注目しながら, 三性説を幻で町議えられている方から検討した.その結果として,原文の分析に基 づ き 以 下 の3点 を 報 告 し , 三 性 説 に 固 執 せ ず , そ れ ぞ れ の 偶 の 独 立 性 を 優 先 し て 解釈するという新しい読み方を提案した. ①k.15本偏にはmayaとmayakrtaが共に出てきているのに対して, k.16ではMSABhにmayakrtaだけが出てくるのみである. 47 Cf. 兵藤[1991]p.ll. 48以上の考察を表にまとめる.

-

-

-

-

-

-

-

依他起性=.IJ:妄分別 遍計所執性=ニの迷乱 MSA本偏 maya(幻) mayakrta(幻事) (kk.15・16) 円成実性(勝義締) 依他起において 遍針所執が 存在しないこと k.15 Iこは; MSABh k.15 miiyii=木片等 mayakrta=象等の形相 円成実性の記述はない MSABh k.16 may亙krta=象等の形相 hastitvadi=象等の本質 SAVBh maya=木片等 mayakrta=象等の形相 依他起において (kk.15・16) 遍計所執が MSAT MSABhと同じか? 存在しないこと TSN mayakrta=象の形相 hastyatman=象の本質 (kk.27・28) .無性 (Asvabhava,ca.・500・)の注釈 (Mahayanasutrala1f1kara-!ika : MSA

T

)

は説明に乏し いが.MSABhを注釈していることから世親に従っているように思われる.

(15)

(33 ) 龍谷大学悌教学研究室年報第18号 2014年3月 ②k.15が mayaとmayakrtaの磐田愈で依他起性と遍計所執性を表しているのに対して, k.16はあくまで勝義と世俗の二諦を主題としてその誓輸を述べているだけではないか. ③三性説では勝義=円成実性だが, MSABh にも円成実 (parini~panna) としづ語はなく, ただ本偶の勝義(paramartha)という語を使用しているに過ぎない. つまり「三性説

J

という概念、にとらわれて, k.15の mayakrtaと同じ対応関係を k.16に当てはめて読むこと自体が間違いなのかもしれないということである.す なわち k.16の mayakrtaは単なる愉例として用いられている可能性があり, k.16 は勝義を説明する際, r依他起において遍計所執が無いこと

J

を, r mayakrtaにお いて象等の本質が無いことjで喰えているだけなのかもしれないのである.した がって,必ずしも無理に k.15と k.16を続けて同じ三性と幻喰の対応関係、で読む 必要はなく, k.15については依他起性と遍計所執性とが, k.16については SAVBh の官頭にもあるように勝義と世俗の二諦がその偶の主題で,そこに幻の昏喰がな されているという認識が大切なのである. そもそも MSAの幻 (maya)の嘗輸には, (a)幻想の原因 (thecause of an illusion) と(b)幻想そのもの (anillusion itself)という 2つの側面があるとされ, MSABhは(a) の解釈に当てはまるが,同時に初期識伽行派では一般的な (b)の解釈も含んでいる というのである49 つまり漢訳で「幻jといってもそれは「幻事

J

の意味を含む

ことがあり,サンスクリットで mayaといってもそれは mayakrtaの意味を含むこ とがあり得るのである.したがって ,mayaを原因としてその結果が mayakrtaで あり ,mayaは mayakrtaの意味を包括する概念であると言える.すなわち幻 (maya) とは幻術師が起こす幻術

s

o

であり,幻の素材であり,幻術で作られたものであり, また一般的な幻想(現れ)をも示し得ると考えられるのである. よって k.15は maya と mayakrta を明らかに区別して喰えているが, k.16の mayakrtaは単独で用いられている以上単なる喰えなので, k.15を引きずらないで mayakrtaを mayaの意味に置き換えて読むことができるのではないだろうか.そ うすると少なくとも「依他起性

J

の喰えは kk.15・16で会通できるのである. 49 Cf.松田[2006]. SO k.15の yathamayaは「如彼起幻師Jと訳されている (T31,6I1b20) •

8

6

(16)

幻 轍 と 三 性 説 ( 問 中 )

3

.

おわりに

以上, MSA第XI章 kk.13・30の再校訂を踏まえた和訳を提示し,加えて kk.15-16

の 問 題 に つ い て 詳 細 に 検 討 し た . そ の 結 果 と し て 筆 者 は , mayaと mayakrtaの 関 係 性 に 注 目 し な が ら , 三 性 説 に 固 執 せ ず , そ れ ぞ れ の 備 の 独 立 性 を 優 先 し て 解 釈 す る と い う 新 し い 読 み 方 を 提 案 す る に 至 っ た .kk.15・29は「幻町議jが テ ー マ で あ るが,

r

真 実jが テ ー マ で あ る kk.13・14の直後の kk.15・16に お け る 幻 (maya) は, 幻 事 (mayakrta) と 共 に 用 い ら れ て い る 以 上 , 他 の 偏 と レ ベ ル の 異 な る 使 わ れ 方 が な さ れ て い る よ う に 見 受 け ら れ る . そ も そ も 「 喰 え

J

と い う も の は 一 種 の 表 現 技 法 で あ り , や は り 難 解 な こ と を 容 易 に 理 解 さ せ る こ と が 「 輸 例

J

の 本 来 の 意 義 で あ る の で , 時 え ら れ る も の に 明 確 な 区 別 や 一 貫 性 を 求 め る こ と は 厳 し く , そ れ ぞ れ の 備 に 応 じ た 替 輸 が な さ れ て い る と 言 え よ う51

補遺清弁著『般若灯論』第

xv

章との関連文脈をめぐって

『般若灯論 (Prajnapradfpa)~第 XV 章で,滑弁 (Bhãviveka, ca. 500・570) は 推 論 式 の 喰 例 に 計 3回 も 幻 (sgyuma) を 用 い て お り , た と え ば k.lの 説 明 で は 以 下 の よ うである. 《梶山訳))52 最高の真実として,個人諸領域(内処)は本体あるものではない.【主張】 原因・条件から生じているから. (理由

1

たとえば幻化の人・牛・鹿・鳥などの事物のように.【喰例

1

あるものに本体があるならば,それは生じないであろうから

u

原因・条件から 生じているjという能証は〕異類から排除されるのである. これに対して,語意を理解しないであらさがしをしようとするある人がいう. 51なお,本村[2012]は筆者と同様の箇所を扱って輪じている.要点を簡潔にまとめると, 幻暗に対する両釈の記述ははそれぞれ, (安慧)r幻術に喰えられる虚妄分別のみが存在し, そこにおけるこの迷乱は存在しないj という構造と『菩薩地』にみられる vastu と仮説 (prajnapti)に関する構造が類似している, (世親)

r

虚妄分別とそこにおけるこの迷乱の両 者についてその存在を説くJという構造と『中辺分別論 (Madhyantavibhaga)~に見られる 虚 妄 分 別 (abhutaparikalpa) と迷乱 (bhranti) の構造が類似していると指摘している.これ は兵藤 [1991]を基に論じられているが,注記で松田 [2006]を引用し,“マイトレーヤにおい て幻術の比輸に二つの構造があるのは,これら 2種の側面を持つ幻術の比輸が未だ統一さ れていないことを意味する"と附しているのみで,筆者とは少し視点が異なる.しかし, 他の文献との構造比較は今後の研究に向けても参考すべきものである. 52Cf.梶山[1979]p.184.

(17)

龍谷大学悌教学研究室年報第18号 2014年3月 『幻術というものは,呪文と薬草を用いることにより,また泥・土・草・実・ 葉などがあって,それから象などのものがあらわれるのである. (かりに象に本 体はなくても,草などの材料には本体があるの〕だから, (君の〕輸例には証明 さるべき性質がないという誤りがある.J それは正しくない.象としてあらわれているものに象の本体がないということ を轍例しようとしているのであって, (象としての顕現のなかにある〕草などを 主張しているのではないからである.しかもそれら〔草など〕の本体も実はあ るのではない.それらの生起はすでに否定されたのであり,地などの実体とし ての存在性も否定されたからであるS3 こ の よ う に , 土 な ど に 呪 文 を か け て 象 な ど あ ら わ す 幻 術 の 喰 え が 使 わ れ て い る . 第XV章は「自性の考察」であるが, i有 と 無 の 考 察jで も あ る の で , 有 と 無 の 規 定 に よ り , 増 益 と 損 減 を 離 れ る こ と を 意 図 し , 賢 者 は 有 と 無 の 両 極 端 に 依 拠 し な い こ と が 説 か れ て い る . も ち ろ ん こ れ は 『 中 論 煩 (Mulamadhyamaka-karika)~に対 す る 注 釈 で あ る た め , 全 く 一 致 す る 構 成 で は な い が , 清 弁 が

MSA

XI

章 の 幻 (maya)に 関 す る 箇 所 を 意 識 し て 述 べ た 可 能 性 は 十 分 に 考 え ら れ よ う . 〈略号・テキスト〉 MSAlBh Mahayanasutrala",kara/bha$)'a, ed. by Sylvain Levi,

Mahayana-Sutrala",kara, Expose de la Doctrine du Grand Vehicule se/on de砂steme

Yogacara. Tome 1. Paris:Librairie Ancienne Honore Champion, 1907, (repr. Kyoto: Rinsen Book Co., 1983).

Tib 蔵訳MSABh(0 4026, P 5527)

MSAT Mahayanasutra/a",kara-tfka(0 4029, P 5530)

SAVBh Sutrala",kara-vrttibha$ya(0 4034, P 5531)

53Prajnapradipa(0 3853, 158al・4;P 5253, 196a3・6):

don dam par nang gi skye mched mams ni ngo bo nyid yod pa ma yin te 1 rgyu dang rkyen las byung ba'i phyir dper na sgyu mar byas pa'i mi dang 1 phyugs dang 1 ri dgas dang 1 bya 1a sogs pa'i rdzas dag bzhin no 11 gang la ngo bo nyid yod pa de ni 'byung bar mi 'gyur bas mi mthun pa'i phyogs las Idog go 11

dirtshig gi don maロogspa sun 'byin par 'dod pa (P ba) kha cig gis smras pa 1 sgyu ma ni gsang sngags dang sman yongs su gzung ba'i dbang gis 'jim pa dang 1 sa dang 1 rtsa dang 1 'bras bu dang 110 ma la sogs pa dag yod pa nyid 1as glang po che 1a sogs pa'i gzugs su snang ba'i phyir1 (P omit1)dpe bsgrub p訂 byaba'i chos dang mi ldan pa'i skyon yod do 11 de ni rigs pa ma yin te 1 glang po cher snang ba glang po che'i ngo bo nyid med pa dpe nyid du 'dod kyi rtsa la sogs pa dag mi 'dod pa'i phyir dang 1 de dag gi ngo bo nyid kyang yod pa ma y in te 1 de dag gi skye ba bkag pa'i phyir dang 1 sa la sogs pa dag rdzas su yod pa nyid bkag pa'i phyir ro11

(18)

幻自散と三性説(間 中) TSN Trisvabhavanirde拘,Cf. 山口 [1972] 自 ゴル寺旧蔵の MSABh党文員葉写本 Gottingen,Xc 14/57 Ns NGMPP Reel No. A 11411 (MSABh完本;Sarpvat 798; 32 x 6 cm, 133 folios) D デルゲ版チベット大蔵経(東京大学印度哲学印度文学研究室編) P 北京版チベット大蔵経(鈴木学術財団影印版) T 大正新修大蔵経 (参考文献〉 繭法明 [2000]

r

三性説についてー『幻術の嘗晴Jにおける見解の相違についてーJ

r

印度学仏 教学研究~ 49・1,pp.(119)-(121). [2005]

r

唯織思想における増益と損減について一三性説との関わりを中心としてー」 『印度学仏教学研究~ 54-2, pp.(91)ー(95). [2009]

r

唯識三性説の構造をめぐってー増益と損減の観点からーJ

r

印度学仏教学研究』 58-2, pp.(119)・(123). 宇井伯寿 [1961] r 大乗荘厳経論研究~,岩波書庖. 海野孝憲 [1967]

r

弥鞠の唯織思想についてい)一安慧造『経荘厳釈疏J求法品第 13偶 --29偏を 通してーJr名古屋大学文学部研究論集~

XLV

哲学 15,pp.19・34. 小谷信千代 [1984] r 大乗荘厳経輸の研究~.文栄堂. 梶山雄一 [1979]

r

r

智恵のともしび』第十五章(試訳)Jr 仏教学論文集~.東方出版. 加納和雄・上野隆平・早島慧・問中充 [2014]

r

r

大乗荘厳経論』ゴル寺旧蔵貝葉の翻刻と校訂ー第 27葉:第XI章 14・27偏-J 『龍谷大学仏教文化研究所紀要~ 52. 間 中 充 [2014]

r

r

大乗荘厳経論』における幻輸と三性説との関係についてJ

r

印度学仏教学研 究~ 62-2. 下川│漫季由 [1984・86]

r

無性造『大乗経荘厳広註』和訳(1)"-(3)ー求法品第 13--59偶ーJ

r

大崎学報』 137, pp.l・20:138, pp.29・49:141,pp.11・27.

(19)

龍谷大学悌教学研究室年報第18号 2014年3月 竹村牧男 [1995)

r

唯 識 三 性 説 の 研 究

t

春秋社. 長 尾 雅 人 [1931]

r

三 性 説 と そ の 嘗 輸 J

r

東方学報.111ト4,pp.47・84. [1978]

r

中観と唯識.11,岩波書唐. [2007)

r

<大乗荘厳経論>和訳と注解一長尾雅人研究ノート(2)一.11.長尾文庫. 野 津 静 置 [1938)

r

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くキーワード>

r 大乗荘厳経論~,述求品,幻, maya

,嘗日食,三性説

(本学博士後期課程)

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