新出資料﹃南山北義見開私記﹄発見の意義
││南米律院消米の威儀・法式・法会次第の受容と泉涌寺流の展開││
西
谷
功
続出資料r南山北裳見聞fl、記J発見の意義 はじめに ここに紹介する﹃南山北義見聞私記﹄字・宙の二冊(以下、﹃私記﹄)は、入宋僧・我禅房俊粥(一一ムハ六 1 一 二二七)の泉涌寺二二二六年間山)や有縁の﹁北京律﹂系寺院で興行された威儀・法式・法会次第に関する集 成書である。江戸時代の写本であり、蔵書印(﹁口光律十寸 L) から寺院名不明だが、かつては某律寺所蔵だった。 さらには同様に朱印﹁瑞麿蔵書﹂が付されており、守口光律寺﹂から石田瑞麿(一九一七 1 九九)氏の子に渡っ たことが知られる。現夜は泉涌寺所蔵であ旬。 @ 本 書 は 、 ﹃ 律 宗 文 献 目 録 ﹄ ( 以 下 、 ﹃ 目 録 ﹄ ) に 確 認 で き る 。 ﹃H
録﹄では、﹁南山北義集﹂として﹁二巻﹂、﹁永享 十二年{一阿四O
)
記述﹂、﹃石田氏蔵﹂とある。続いて﹃H
録﹄には、﹃南山北義見聞私記(見聞集ごとして、 ﹁イ本﹂と﹁ロ・本﹂を挙げる。イ本は弘治三年(一五五七}の象耳泉突によるま日写で、現在は戒学院所蔵(以下、 唐柑提寺本)。ロ本は宝永七年(一七一O
}
に広れ川県尾道市の荘厳浄土寺・理門の書写本(以下、浄土寺本)が 同 寺 所 蔵 と い う 。 残念ながら、筆者は﹃イ本﹂を実見していないが、キいにして浄七寺本を調査する機会に忠まれ句。また、明 -73-@ 治二十年(一八八七)書写の写本が泉涌寺に、そして、随心院に泉涌寺末寺の東向観音寺旧蔵本(寛永十四年 二六三七﹀書写本)の存在を知り閲覧する機会を得叩。 浄土寺本と泉涌寺(明治}本および東向観音寺旧蔵本(以下、東向旧本)と石田氏旧蔵本は、校訂作業を行う ことで同系統の写本とわかる。したがって﹃目録﹄に記す﹁石田氏歳 L 本﹁南山北義集﹂は泉涌寺所蔵﹃南山北 新出資料『剛山北豊島見聞弘配』発見の窓義 義見聞私記﹄字・宙にほかならない。 現行本の外題と内閣はともに﹁市山北義見聞私記﹂だが、﹃目録﹄で﹃南山北義集﹂とする理仰は不明である。 ﹃日録﹄は﹁石岡氏蔵﹂本と﹁イ本﹂﹃ロ本﹂を別に分類していることから、おそらく徳間氏は三苫の内容まで 調査されていないのであろう。﹁石田氏蔵﹂本は石山氏からその所持と概要を伺ったにすぎないかもしれない。 このことは諸写本が﹃目録﹄では﹁南北両寺不同釈﹂に分類されるが、後述のように北京体と市都律の相違を述 べるものではないことからも推察することができる。 したがって、ここに紹介する﹃私記﹄は、管見のおよぶかぎりでは、 a q ( 凹 ) 府 山 側 提 寺 本 泉 暁 子 沢 本 ( 一 五 五 七 年 書 官 切 } 市水向山本(随心院本}外題﹃北義集﹂、内題﹁市山北義見聞私記﹂ 浄土寺本外題﹁南山北義見聞私記.﹂、内題﹃市山北義見聞私記﹂ 泉揃寺(江戸)本 H 旧石凹氏所蔵本外題﹃南山北義見聞私記﹂、内題﹁同﹂ 泉涌寺(明治)本外題﹁市山北義見聞集﹂、内題﹁南山北義見聞私記﹂ (
一
、 _ , ( 筆 者 未 調 査 ) (一
一
) 一 六 三 七 年 井 写 ( ーー一
} 一 七 一O
年書写( 五
)
一 八 八 七 年 書 写 の五本の写本が確認される。このような状況から今後も関連寺院で複数例発見されることが期待できそうだが、今回はひとまず、(四)泉涌寺(江戸)本を底本として考察を行う。 本稿は、まず本書の著者および成立年代を考察したい。かかる手順を踏まえて、本書内容を吟味するニとで泉 涌寺が伝持した威儀や法式の意義、それを受容した泉一仙寺流の展開の一端をあきらかにしたい。 一 、 識 語 か ら わ か る ニ と 続出資事ヰ'南山~t裳見聞弘記a 発見の.袈 本書識語には以下のようにある。 此私記者相州鎌倉大楽寺覚仙長老︿道号婦源。実名忍宗﹀記也。一部廿六章之内。大僧別受。出家。点茶 c 音曲之四章草本紛失。又年中行事章者飯山寺三時経隊等也。非詮要依今略之。又疏章者仏生涯繋等蹴也。今 又 略 ν之。表白章者結界等表白故各々掌中写加之。又文言繁広。或不急之事等少々削去之。而書官 7 之。又草 本者廿 L ハ京為別巻。今集為上下両巻。永卒十二年間月四日於飯山寺自去歳臨月十九日。以来聴学余暇漸々写 之 詑 。 遊 学 一 一 制 導 陶 。 - 75-永亭十二年{一凹附
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)
に書写した信遵によれば、﹃私記﹄は相州鎌倉大楽寺党仙長老︿道サ州制。実名芯宗﹀ の著作であること、本書は﹁飯山寺﹂所蔵の巻子装二十六巻の古写本であることが理解される。そして本書成立 が永享十二年以前であり、信遵の童日写段階ですでに四章(巻)分が散逸し、そして白身も﹃少々消去之﹂したも のが、現行本﹃私記﹄と理解される。 以下、この識語にみえる﹁相州鎌倉大楽寺﹂、﹁覚仙長老︿道号帰源。実名忍宗 V ﹂および可飯山寺 L などの事柄に関して述べる。 新出資料'南山北義見聞私記a発見の意義 ﹃相州鎌倉大楽寺﹂について 信遵の識語によれば、本書は鎌倉の大楽寺長老・党仙上人によって記された書物であるという。大柴寺(鎌倉 市)は泉揃寺有縁寺院として鎌倉時代に創建され、浄妙守の東谷・胡桃谷に所在した。ニの寺は永享十一年(一 四三九)に足利持氏の白刃による類焼で焼失し、やや後に覚同寺熔頭として復興されたとい、川。 したがって信遵が飯山寺で書写した時期(永享十二年︿一四四
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﹀)、大楽寺は焼失していたことになる。そし て﹁覚仙長老 L は大楽寺焼失以前の住持と理解され、本書成立下限をまずは一四三九年以前に置くことが可能と なる。信遵の害写動機に大楽寺焼失があったのかもしれない。 大楽寺の創建および開山に関しては不明点がおおいが、大楽寺旧蔵の琵鐘銘文でおおよそ想定できる。この党 鐘は現在、神奈川県厚木市の浅間神社所蔵であり、銘文によって貞和六年二三五O
)
三月に﹃願主沙門公珍井 ⑨ 大檀那行珍 L と﹃造鋳大工中務丞清原宗廃 L による製作とわかる。このなかに﹁沙門公珍、憶念光明、心騎離籍 (後略)﹂、後段に寸文保元年、志議心中、縫石厳而、伽藍興隆、待草下生、期一舎衆、龍肇未際、莫墜遺風(後 ⑩ 略)﹂とある。大楽寺は文保元年(一三一七)頃に公珍により創建されたと考えてよかろう。この党鐘は追銘に よって長禄三年ご四五九)に﹁買得﹂されて浅間神社の別当寺院に安置されたことがわかるが、この﹁貿得 L は前述の大楽寺焼失二四三九年)によるものだろう。 - 76-⑪ ﹃常楽記﹄によれば観応三年二三五ニ)ト月二十七日に﹁大楽寺東堂公珍円寂﹂‘とあることから、住持年な ど不明ながら大楽寺長老だったことにちがいなく、また﹃京常﹂であるから示寂時には大楽寺長老を退任してい たこととなる.いずれにせよ、党錨によれば、大楽寺は文保元年に伽監が建立され、鎌倉胡桃谷に一ニO
年ほど所在した寺院であると理解される。 新出資料『南山~t.見聞怠記a 発見の意義 @ さて、﹃凶院流血脈﹄によると、公珍は浄円上人(浄円房)とも呼ばれた。浄円房公珍は正利五年(一三一ムハ} ⑪ 十一月十問 H 付の﹃権頂受者交拘﹄、また年月未詳ながら﹃掘現受者交名﹄にも重受者としてみえ、﹃︹称名寺︺ 授 与 栴 ・
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では公珍に﹃大楽寺長老﹂の訓書を付していヤ ⑪ 住持(別当)を可長老﹂とするのは、中本代仏教の僧職名に山米することから、大楽寺も宋代仏教の寺院制度で 運営されていたと考えてよい。寺僧の名が潅項儀礼にみえるからといって密教寺院と考えるのは早計である。泉 涌寺では少なくとも鎌倉時代中期以降には、宋代仏教の寺院制度や儀礼に依拠しながら、寺内の真吾一同院などで西 @ 院流の潅項を行っており、大楽寺や後述する飯山寺なども泉涌寺と同様の寺院制度で、戒律に則った寺院生活や 儀礼を実践しながら諸教義を修学する体制で運営されていたと考えられる。 したがって大楽与は鎌倉時代後川の鎌倉地域において、浄光明 h 寸や党凶土ぜなどに統︿泉而寺流の寺院として公 ⑭ 珍によって創建されたと考えてよい。そして、後述するように相州には厚木の飯山寺を山中心とした泉川キ流ネッ トワークが展開し、称名寺などの凶大寺流の寺院と人的・法流的交流を頻繁に交わしていたことがわかる。 しかしながら、公珍を事例として推察できる以上のような交流事例はそれほど多くない。大楽寺僧に関しでも、 公珍のほか﹁唯住房 L なる僧侶が住し、嘉暦元年二三二六)に﹃他界 L したことがわかる程度であ旬。このよ うに資料がとぽしいなか、﹃私記﹄を著した﹁覚仙長老﹂も泉涌守流の僧侶として鎌倉地方での展開に彩りを添 やがて大楽寺長老に就任する人物ということになる。 -77-えてぐれる一人であり、 著者﹃覚仙長老﹂について 著者の﹁覚仙長老︿道号帰源。実名忍宗﹀﹂(以下、忍宗) の生卒年や行状は高僧伝類には記されず、行状はほとんど不明である。したがって本脊の成立年を確定することはむずかしい。しかしながら、書写者・信遵が述べ る識誕の前に芯宗の識語として、 右私記者経本理上人之一覧。預添削所令治定也。{宙・訂ウ} 新出資科'陶山~t.見聞&IaJ発見の意義 とあり、忍宗は﹃本理上人﹂の一覧を経てあらかじめ添削されたものを治定したと述べる点は注目される。後述 す る が 、 ﹁ 本 理 上 人 L は鎌倉時代中後期に活躍した泉涌寺僧・大燈源智と考えられ、芯宗は漉知日在世中に重なる 時期に鎌倉周辺で活動した僧侶と想定できる。 このような想定を踏まえると、忍宗は、称名寺聖教﹃式用心故実事﹄(外題)にその名前が見いだせ旬。本書 は﹃永和第四︿戊/午 V ( 一 三 六
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三月汁日於鎌倉泉谷浄光明寺例常脇岡坊西而-一テ書写了/郁珍//﹂の奥 書を持つ写本で、原本は﹃高元二年二三O
四)十二月十八日記之了芯宗﹂という識語を有していた。また同 書にはコ冗応元年二三二九ごに﹁実道﹂、さらに﹁建武四年(一三三七)﹂﹁道円﹂の識語も有している。道円 の識語には﹁建武四年-七月九日書写了、先年之/此、覚仙上人在鎌倉之時式事随/分送日(後略ごとあること から、﹃式用心故実事﹄の著者﹁芯宗﹂が可覚仙上人﹂とわかる。忍宗は建武年聞にはすでに﹁覚仙﹂と称して いた。したがって、この人物こそが﹃南山北義見聞私記﹄の著者・芯宗にほかならず、﹃式用心故実事﹄の識語 に よ り 、 少 な く と も 一 三 一O
四年から一三三七年まで忍宗は在世したことが確認できる。 また、﹃式法則条々﹄(内題}は藤原孝道撰述の声明・和楽に関する故実品川口で、﹃魚山後胤私位以﹂は蕗元三年 二 一 ニO
五)師匠の仁和寺正修上人(正修房明玄)の本を安居院で内写したことが巻末に記されている。元亨四 年(一三二四)九月五日に称名寺で書写した高慧(一二八四 1 一三三八、後に浄光明寺長老就任)の識語では、 - 78ーー忍宗﹂は上治し一止修上人のもとで稽古に励むこと三川ト四年の月日を要し、﹁最期上浩之時、被免此書井私見 聞之﹂とい、刊。また﹁師云﹂から、尚慧は誉市に直後教一ボを受けたことがあきらかである。かりに嘉元三年の内 写を﹃最期ト.洛之時﹂とするならば、以後、忍宗は相州川辺を拠点に活動したと考えられる。忍宗による﹃式法 制粂々﹄の持写識語 H から推して、その三ヶ川前に記した﹃式川心故実事﹄の執筆地も京(安閑院カ)と考えら れ る 。 新出資料'南山北義見聞私記』発見の倉重量 さらに芯宗は﹁安居院大納骨白僧都︿党守どが徳治二年(一三
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七)に鎌倉下向した際に交流している。党守 は安居院法印聖覚二二ハ七 i 一二三五)の法系に名を連ねる人物で、北条貞時二二七二 1 一 一 ニ -一 } 関 係 の @ 法要出仕のために下向した時に﹁問答 L を交わした。﹃式用心故実事﹄もその題名から声明に関する故実苫の類 と考えられ、また活動時期も重なることから、﹃式法則条々﹄などにみえるJ
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と同一人物とみてよかろう。 芯宗の相州での活動拠点の子細は不明だが、源智住持の覚園寺、大楽寺、後述の例から飯山寺(﹃私記﹄﹁結夏 章 第 八 ﹂ ) が 想 定 で き る 。 弓 t 忍宗は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて相州で活躍した僧侶で、なおかつ上洛経験のある音曲(声明・読 経)に長じた人物でもあった。﹃私記﹄寸入院章第品目四﹂に正平四年(一三四九)十一月二十七日の識語を有す飯 山寺への入寺法語が収載されている。この箇所は信遵追録の可能性もあるが、現行本﹃私記﹄はこの頃に完成し ており、芯宗はこの頃まで在世した可能性もあろう。 予 , ト ユ き て 、 ﹃ 私 記 ﹄ の 序 文 に ﹁ 余 過 ニ 弱 冠 -雄 ν 入 品 作 門 こ ( 字 ・2
オ}とあるから、忍宗は二十歳を過ぎて律家とな ったことが理解される。この﹁律門﹂は後述の本書内自作から泉涌寺関連寺院とみてよいが、特定寺院や師匠を導 き出すことはむずかしい。このようななかで、﹃私記﹄推敵本を﹁一覧﹂した﹁本理上人﹂の存在は極めて重要 と 考 え ら れ る 。新出資料『南山北畿見聞弘記』発見の章旗 ﹁ 本 理 上 人 ﹂ に つ い て @ 先 述 の よ 、 ヲ に ﹁ 本 理 上 人 ﹂ は 大 僚 源 知 H のことである。源知日の生卒は不明だが、覚園寺に﹁正慶元年壬
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ご 三 三二)/大燈大和尚之陪/仲秋廿八日造立﹂の友陸印燃があることから、この頃までの示寂であろ、予南北朝時 @ 代の覚附寺長老思淳が記した﹃党同寺川- A
年- A
配﹄によれば川不明だが﹃廿二日大盤忌﹂とある.したがって ﹃私記﹄維敵本は正慶元年以前に源智が﹁一覧﹂したことになる。 源 知 H が葬られた覚同寺は永仁四年(一二九六)に北条氏時が開基、智海心慧が岡山として﹁降伏異国、鎮識判 廷 L のために制建された。心意は泉涌寺六世長老・願行房憲静(
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一二九五)嗣法の泉涌寺有縁僧で、高元同 年 ( 三5
六)四月二十七日に示寂している。源智はその後を受けて覚園寺二世長老に就任してお旬、長老時代 @ の消息が﹃源智消息経﹄(国会図書館蔵﹃妙法蓮華経﹄紙背)として伝存している。消息は源智から﹁大の御か 舎 利 篇 礼 文 布 峰 山 恋 た(北粂貞時室の円成 ) L ﹁ 大 武 殿 御 局 L に 逸 ら れ た も の で 、 そ こ に は 寸 し や り か う ﹄ ﹁ れ い も ん ﹂ ﹁ ふ さ つ ﹂ ﹁ し 、 L 説 戒 ( 巻 之 二 ) や ﹁ せ っ か い L ( 巻之四)とあることから、覚園寺でかかる儀礼が興行されていたことが理解される。 また、源智は徳治二年(二三O
七)頃に関東下向の﹁けんかう(卜部兼好 ) L ( 巻 之 七 ) と 面 識 が あ っ た よ 、 ヲ で 、 @ 一 @ 兼好は同時期に下向中の安居院覚守とも交流していた。忍宗と覚守もこの時に﹁問答 L を交わしており、北条貞 時や側室を介して覚国寺で四者が交流した可能性もあろう。忍宗と源智の交流はこの頃から始まるのかもしれな - u - 80一 さて、覚園寺長老就任以前の行状で注目すべきは、源知 H は泉涌寺で講義を行っていたことである。称名寺聖教 ﹃教誠儀鈴﹄は正中二年ご三二五}書写典主口を持つもので、識語に、 己上弘安八年二月五日聴畢。永仁五年・ 1 比川於泉桶守披講次更添削失。比丘源智誌。新出資料r南山北強見聞私記a発見の意義 とみえ旬。﹃教誠儀紗﹄は、新学比丘の心得るべき日常作法を律制に準じて述べた道賃﹃教誠新学比丘行護律儀﹄ の註釈害であり、識語より源智が弘安八年(一二八五)の聴講時に記した講義録を、永仁五年(一二九七)に泉 涌寺で講義するために添削したもので、源智は一時期泉涌寺で若い比丘を教導する立場にあったことがわかる。 本件には泉揃寺閉山俊郁・三依頼円厨定舜(人米側)・四位川翁智鈍(入米僻。 ? 1 一 二 四 二 1 六 一 一 ) ・ 五 世 技 川 M 即 応 允 ( 一 二 一 一 1 八七)や後述の飯山寺を附山する円悟房浄同の救説を引用するニとから、泉桶寺流の正統的 @ な教説を展開した人物といえよう。生卒から推せば、思允に匝接師事した可能性が高い。 このように、源智は泉涌寺流の実践と教義を兼備し、この知識をもって鎌倉時代後期に覚園寺長老となり、最 @ 晩年に泉涌寺長老に就任する人物と理解される。したがって、﹃私記﹄は源智を通した泉揃寺流の威儀・法式・ 法会次第の集成主円であり、減智と忍宗の活動時期から推して鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけて成立した 川物であることがわかる。 - 81
一
﹁ 飯 山 寺 ﹄ に つ い て 前掲の(ニ ) 1 ( 五)﹃私記﹄は信遵によって﹁飯山寺 L で書写されている。この寺は先述の円悟房浄困(一二 一 七 l 七二によって建枕された。 浄川は俊郁にやや遅れて入米し景福寺に参学した後、京に戒光寺と水林寺を閉山する曇川(一一八七﹄一一一 - hh
)
や前掲の月翁智鋭から学んだ僧で、泉揃寺首座{一二五一年頃、泉桶寺版﹃孟蘭盆経疏新記﹄識語て東林 寺長老、三聖寺を経て(一二五八年頃)、曇照示寂後に戒光寺長老(一二五九年)となり、やがて甘縄無量寿院 長老を兼務するために鎌倉に下向した。退院後、﹁飯山放光寺﹂を﹁開発﹂し、その地で示寂した。彼はとりわ け戒律に長じ、正嘉二年(一二五八)正月には東大寺戒壇院で開講しており、その場に忍空や真照、凝然などが新出資斜鴨川崎見聞弘晶発見の怠義 列し旬。他方では、入宋憎ら諦米の金光明償法儀礼の草本を記した人物でもあ旬。 浄闘の無量寿院長老就任の年月は不明ながらも、同院が安達義景の持仏堂から発展した寺院であることか句、 招聴者は安達泰盛二二三一 1 八五)が推測される。浄因退院の理由も不明だが、無量寿院が寝殿造りの堂宇で あるこ句、﹁飯山放光寺 L の可開発﹂(﹁円照上人行状﹂中)から推測すると、同院では以下にみるように泉涌寺 流の伽藍が建立できなかったためと思われる。 飯山寺は、神奈川県厚木市飯山に所在するが現在は禅宗に属する。鎌倉時代資料には﹁飯山放光寺﹂のほかに、 ﹁飯山寺﹂﹁飯山律寺清浄金剛寺﹂﹁相州事厳山清浄金剛律寺﹂などとみえるが、関係性は明らかではな略。平安 時代後期には﹁金剛寺﹂と称したため、﹁放光寺﹂﹃金剛寺﹂は近在するが個別の寺院だったのだろう。浄困は入 寺した﹃放光寺﹂を﹃開発﹂したこと、入寺以後に﹁放光寺﹂例は見いだせないこと、さらには浄悶以後﹁飯山 @ 寺﹂﹃消浄金剛寺﹄から泉川守流の僧仰を多数輩出することからすれば、浄同入寺により両寺を合併して﹁清浄 金剛体寺﹂、通称﹃飯山寺﹂などと称したと解釈することも可能である。 @ ﹁放光寺﹂に浄闘を相判し﹃閣発﹂させたのも、宝池 A H 戦後にこの地を伝領した安達泰盛だろう。泰盛は浄凶 に帰依し、所領地所在の﹁放光寺﹂に泉涌寺流の伽盛を建立させようとしたよデだ。というのも、﹃私記﹄﹁結夏 章第八﹂に飯山寺伽藍として、金堂・土地堂・殿主自然・章駄天・三門・僧堂・祖師堂・十六観堂・御影堂・布金 { 米
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寮・潅項堂・方丈・礼問とみえ、これらの諸堂宇は廻廊で繋がっていた。この諸堂名は、俊郁﹁殿堂房寮色目﹂ ( 一 二 二O
年)などにほぼ同名でうかがえることから、飯山寺伽藍は泉涌寺伽藍を正確に模した寸律寺 L と し て 建立されたといえる。﹁色H
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の諸堂宇は俊郁が遊学した南宋時代の寺院を忠実に模したものであるから、鎌倉 @ 時代末頃までには飯山に雨宋寺院が建立されたことになる。往時の飯山寺伽躍は﹁東山泉涌律寺図﹂(図 1 ) が 参考となろう。泉涌寺は俊郁の勧進活動のほか貴顕からの寄進があってようやく創建されたことからも、飯山寺 -82-新出資料『南山1:じz!見Ilfl私記』発見の意義 川 地にも大担越が必要であった。この 判 越こそが、安述奈帰 一 門 や柿月脳 動 後 に 束山泉涌伴苛政│ 岡地伝領の北粂絹 宗家であ り 、 彼 ら の 氏 川 進により泉市寺同様の伽礁が飯山に建立 されたと考えられる 。 飯山 寺 伽誌 で 注 目 されるのは十六 観 堂 の造営である。従来、金沢文庫聖教にみ 図 I た え が@る
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音 lfJ営 正」→ で、と き 解 る さ 。 れ -83 十 六 観堂 は俊初ゃい官鋭などの人未 併が体 験した府宋浄上教の 実 践道場で、泉叩 t 寸 に は 一 二 五O
年までには創山比されていた 。 俊 抗 ﹁ ぃ 米 林 ト ム ハ 州 側 主 仙 進 疏 ﹂ ( = 二 五年)や﹁色白﹂、元粋﹁ 制 作 l 長 期修機凱式 ﹂ ( 一 二 二 五 年 )にみる 観堂 での実践法としては 、 可 制 仰 い 山 山 口 肌 舟 経 ﹄ 依 拠 の ﹁ 十 ム ハ 観 ﹂ を ﹃ 峰 洞化観 ﹄ の 立場から念 仏 ・ 悩法・経行 ・ 坐仰を行うことで、自身 心中 に阿弥陀や浄 土を 概恕するというもので、修行に入る ⑪ と 三 年間は堂内から不退山であ っ た 。 十六組堂建立は我国では泉涌寺と飯山寺のみであり、 かかる例からも、飯山寺は泉涌 寺流の教 線拡大にともな う 相州での一大拠点として位置付けることができる 。 金沢文庫盟教などを踏まえれ ば、浄図示寂後の飯山寺居住 僧 は ﹁ 問 瑞 ﹂ ﹁ 元 瑞 ﹂ ﹁ 修 道 ﹂ ﹁ 智照 L ﹁ 盛禅 L ﹁ 義観坊 ﹂ ﹁ 智 蔵 ﹂ ﹁ 了 孫 ﹂ ﹁ 円 性 ﹂ ﹁ 忠 淳 ﹂ ﹁ 明 真 ﹂ ﹁ 厳 観 ﹂ ﹁ 亮 仇 ﹂ な や華厳経(智照)・四分律(盛神 ・ 亮樹)の註釈校訂など多 ど で あ り 、 彼らは西院流の伝法権項(円漁 ・ 元 瑞 )様な活動を行い、東大寺戒壇院(修道)や称名寺湛容{智雄・厳観)とも交流してい旬。長老職は浄問、覚阿、 @ 思淳、知一へと次第した。 このように﹁飯山寺﹂は鎌倉時代中後期に幕府の中心的存在である安達家や北粂得宗家による帰依により剖建 されたと考えられる。とりわけ、飯山寺伽藍が明らかとなった点は重要で、同寺僧は宋風伽藍のなかで泉涌寺流 の戒律に則り、真言や華厳など多様に研究しつつ、十六観堂で実践修行していたことが理解できるようなったの である。室町時代の飯山寺の詳細は今後の課題としたいが、信遵のような遊行憎が参学する寺院として上述のよ うな寺観を維持したと推測される。 以上、四項目を踏まえると、﹃私記﹄は泉涌寺流の相州への教線拡大のなかで、鎌倉時代後期に、忍宗が覚園 寺長老源智に推敵本をご覧 L してもらい、その後に自身が﹁治定﹂したもので、本書成立は鎌倉時代後期から 南北朝初期頃と判断される。同時期の相州には、幕府役人たちの帰依・出資により泉涌寺流の諸寺院が創建され ており、多種多様な泉涌寺流の憎が京鎌倉聞を往来していた。﹃私記﹄はこのような中で成立した。識語から推 し て 、 ﹁ 一 覧 L 者が泉涌寺流の正統的嗣法者であることからも、本書内容が俊郁以米の泉涌寺の立場を色漉く受 けたものとみなしてよかろう。 新出資料r南山北義見開私記a発見の意義
二、本書の構成と内容
-84-では、泉涌寺流の立場とはいかなるものだったのか。以下、本川内容を検討したい。まず、巻頭には忍宗によ る編纂動機が語られる.テ ヲ ト -テ ヲ ヨ ウ ハ タ -ナ ス コ ト ヲ ナ リ ノ ニ -, , J ナ ル ユ 余 過 -弱 冠 -雌 ν 入 -一 律 門 ベ 恵 三 性 庸 薄 -為 ν 行不肖。終南札抄纏捧三巻軸 A 霊 芝 鼎 記 只 列 コ 講 時 軒 4 而 己 ? 既 無 -積 ハ テ ヲ ト へ 凡 学雪衆之功﹂量有エ窮理露潔之普-哉。但惟律儀以 ν正 -軌 範 一 為 ニ 要 枢 刊 行 事 以 ν 専 ユ 法 式 -為 -基 塑 寸 然 而 訪 - 3 ι -ノ タ リ ユ へ ハ ヲ ユ ニ 先賢-則空鳥之跡似 ν難 ν 尋。制ニ之当時-亦湛水之浪忽易 ν乱。誠不可不明-不可不遠回所以。且為擬品川活時之折 -y k a w -テ ユ ル -F 予 ス ヲ ユ ニ ル 品 ヲ レ ハ 市斗且為 ν解 -闇 夜 之 方 偶 4 随 ν 見 随 ν間集以--現行之一途 J 非 ν文非 ν才。記雑--和漢之両宇一不 ν諒 川 二 他 家 之 ソ ラ シ b V A -ヲ 披監寸噸瞬之縞実有突。令 ν充二愚昧之閲見-疑胎之恨白散者敗。 ( 字 ・ 2 オ﹄ウ) 新出資料『刷山北接見聞私自己』発見の意義 必宗は二十歳を過ぎて﹁律門﹄に入ったが、道宜(終南}や元照(霊芝)が記した戒律の教理両は内身の本性が 寸庸薄﹂のためよくわからない。本来戒律というものは、軌範正しく、行事は法式に則ることを枢.史とするが、 先賢に聞いても﹃空白川の跡﹂﹁湛水の浪﹂のようなもので尋ねがたく乱れやすいため、見附によって集めて一つ の予段とした。他家に披覧するわけではないので哨奔があるわけではなく、本品川の間見によって、雄問点が解消 すればいいと述べている。 LL 述のように、忍宗活動期には相州に泉涌守流の諸存院が創建されていた。俊郁らが雌仮した泉川か流成作の 軌範や法式も、相州への展開のなかで岩干の不明点が生じていたようだ . . , a 守,,., M ゆ宗は統けて、﹃通川之綱領﹂として﹃具ユ足威儀乙﹃ A H 掌 ﹂ ﹁ 焼 肴 礼 拝 ﹂ 可 敷 市 坐 具 ﹂ ﹁ 肌 孟 山 品 川 嶋 こ ﹁ 川 入 手 ﹂ ﹁ 山 川 . , . , 折﹂﹁衆中出入﹂﹁入衆時令ニ黙然こ﹁不 ν論 ε内外上下-令 ν致 z礼儀この十粂の作法を挙げる。みな遵守すべき法 会参集時の所作や集団生活における規別である。 以上の事柄から、俊郁らが規定した律儀やその法式がおよそ一
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年程度で不明点が生じていたこと、本書は そのような相違を泉涌寺流の正統を学んだ源智に二覧﹂してもらい、尋ねがたく乱れやすい戒律の儀礼や作法 などを是正する目的で編纂された、﹄とが明らかとなる。 - 85ーいま一つ注目すべきは、忍宗のように戒作の教理研究に章一きを置かず、法式を重視した僧侶が泉涌寺流の門を 叩いたことである。従米、﹁泉涌寺で戒律を学ぶ﹂ことは、戒律の思想的教学的研究と解釈されることが多いが、 芯宗のような声明家や西院流の真言仰など多柿多様な僧侶たちが泉桶寺流寺院で活動する例からしでも、成作研 究はその一側而にすぎず、作儀・法式(実践而)を体得するために入寺した僧侶が多数存したことにも住忠しな ければならな刊。この点で、﹃私記﹄は泉川守流の﹁仲儀﹂実践家による法式手引再として位置付けることがで 曇 C Z u g
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投 下 章 第 一O
二時食章第二︿付点心井行香作法v
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侍者茶礼章第三O
開講章第四︿付打集作 ノ 法v
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結界章第五︿付解界作法﹀O
四分布薩章第六︿付沙弥合布薩井尼衆礼 ν僧 作 法 ﹀ 布 薩 章 第 七 ︿ 付 四 分 ム ロ 行 作 法 ﹀ 宙{下)冊 新出資料晴山北義見聞弘記』発見の意義 では、以下に﹃私記﹄の章題を記す(現行本に収載のものには守O
﹂ 印 を つ け る ) 。 字(上)冊O
結夏章第八︿付受日作法 v 拝諸章第十二︿付令退作法 v 章第十六O
諸祖忌章第十七 諸疏集章第廿二O
白恋章第九O
諸礼文講章第十O
浴 室 章 第 十 三 大 僧 別 受 章 第 十 四 如 法 出 家 章 第 十 八 点 茶 章 第 十 九 諸 表 臼 集 章 第 廿 三 一O
入院章第廿四O
諸礼文行儀章第十一O
沙弥別受章第十五 年 中 行 事 ・ 章 第 廿O
寺官O
通受 音曲家第廿O
分衣章第廿六O
亡僧章第廿五O
売網 - 86-字(上)冊は第一章から七輩、出(下)附は八章以下を収める。このうち、散逸の第二十三章﹁諸表白集章﹂は、﹁泉涌寺識調類﹂(﹃続群書類従﹄二八下)が類似資料の可能性がある。ー楓諦類﹂は応永六、七年二三九九、 一 四
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中心の楓踊文が収載されている。﹃私記﹄にも﹁楓踊類﹂所収のような表白文が収載されていた可能 性が尚い。信遵は・﹄の類は、他章への押人や削除をして記したと述べており、(ニ ) 1 { 五)本は伝道によるいく @ らかの改変があると見るべきである。 新出資料r南山北豊富見聞私記』発見の意.. さらに本書成立は制州であることから、これらの内容がすべて泉揃寺の作法・儀礼のみでない点は間忠すべき で、本書は所々に泉桶寺と飯山寺・党同寺での作法の相違を記す。ただ、多くが三寺聞で共有されていたことや 特記・剖書として飯山寺や覚同寺の例が記されることから、泉揃寺を中心に泉揃寺流の諸寺院で同様の法式が興 行されたものとみて差し支えなかろう。 分類すると、僧院での日常生活や修学作法(二・三・凹・十三・十九章)をはじめ、布薩や結夏・白恋、受戒 - 87-などの儀礼作法(五・六・七・八・九・十・十一・十二・十四・十五・十六・十七・十八章てそれにともな、フ 文書集成(二十・二十一・二十二・二十三章てさらには長老人寺作法(二十四章)、僧侶入寺作法(一章)、葬 儀(二十五章)と亡僧所持品の分配法(二十六章てと多岐にわたる。 各章の解説と考察は紙幅の都合で翻刻とともに別稿に期したいが、注目すべきは﹃私記﹄にみえる食作法・儀 ソ ウ イ ン @ シ ユ シ ン 礼内で説諭する経文や調繭の多寸が当時の中国語品目﹁宋音 L であること、皇帝への祝聖(宋音﹁恭為祝延聖寿無 山町山除隊釘(奉祈国王皇帝)﹂︿二章ほか﹀)の読輔、儀礼H
の 堂 前 掛 牌 ( 四 章 ほ か ) 、 講 義 時 の 上 常 ( 四 章 } 、 茶礼(一一了十九章てなど宋代仏教の威儀や法式が興行されていることである。また泉涌寺長老の入寺作法(二 十四章)には、俊郁が入宋して一ニ0
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三年の問師事した律院・景福寺長老如庵了宏(
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一 一 一 一 一 頃 ) の 入寺法語が記され、入寺作法はそれに依拠する。師弟関係や了宏示寂年から推してこの法語は俊郁が前米したと 考 え て よ い 。新出資料r前山北鶴見聞私記a宛見の.. このような川例から、﹃私記﹄にみえる威儀・法式・儀礼は、俊郁や門下仰が入宋した南宋仏教界の威儀など を集録すると維察でき、とりわけ、俊初参学の律院・景福寺での威儀・法式・儀礼が泉揃寺{流)で導入された ⑪ 可能性が極めて高くなった・ 景福寺は明州城内(呪、寧披市)所在の寺院で、北宋時代の挫隆二年(九六二に﹃水陸蓮花院﹂として建立 され、大中枠符三年二
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に﹁景福﹂が賜額された十方律院(﹃宝慶四明志﹄巻十二で、北米の江南地 域で活蹴した元照(一O
四 八 1 一一一六)の法系寺院である。元照は南山道貨の戒律を復興し、戒律と天台浄土 教を学ぴ、一向者を兼学融合した僧侶である.俊郁入宋時には、すべての律院は道買の法流を汲むとされ、したが って、俊郁が如庵了宏から学んだ威儀・法式・儀礼とは元照再興の末代律儀であったと理解されしザ 以上の考察から、﹃私記﹄は俊弼参学の陶宋律院・景福寺の威儀・法式・儀礼を受容した泉涌寺および泉涌寺 流で興行されていた法式・儀礼などを筆録したものと判明する.したがって、先述の﹃源智消息経﹄にみえる 合 利 縛 礼 文 衛 礎 自 若 磁 波 ﹁ し や り か う ﹂ ﹁ れ い も ん ﹂ ﹁ ふ さ つ L ﹁し、﹂﹁せっかい﹂などは、すべて南宋律院の儀礼作法で行われたと考え られ、﹁大の御かた﹂﹁大武殿御局﹂などの在家者もかかる宋式儀礼を目の当たりにしたニとが理解され旬。甑智 以降の覚園寺でも祝型や布薩、結夏・自恋などが興行されてお旬、泉涌寺流の覚閣寺や飯山寺などでも末代律院 の法式や儀礼が室町時代頃まで興行されていたことになる. -88-三、﹃私記﹄発見の意義
泉涌寺の伽藍や寺院制度が南宋寺院に倣って運営されたことを踏まえると、そのなかで僧侶は南宋僧(景福寺 僧 H 律僧)と同様の威儀を具備し、日常的な寸衆務﹂(字・日オ)などの日謀、祝聖や布薩などの月課、安居・山恋・﹁仏生﹂﹁侃繋﹂会などの年諜を守りながら、修行生活を行っていたことが判川す旬。そして、儀礼の多く で宋音読輔が義務化されていたため、言語習得のために日常的に宋背を公用語と
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た寺院と想定することも吋能 で あ る 。 では、泉涌寺における南宋僧院生活の一例を提示する。﹃私記﹄寸浴室章第十三﹂に、 新出資斜町村山~t.室見聞私混』発見の意義-,
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先当日早H .
懸品附浴之排於僧堂前 A 消衆令乞仔知-剃髪等川怠︿長髪入浴最為ニ狼脂 - v。次作相浦衆具二域協-,
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-︿ 湯 雌 脚 術 等 提 -平 現 -懸 ν腎﹀。到ニ浴室日於門間内-小揖(市・却ウ} と泳浴時の威犠(作法)が示される。泉涌寺浴室は﹁門外泊室﹂として三門外(図 1 、﹃目﹂状建築群左上方) @ 亨 Z に設置されていた。ー浴室﹂は後文からも湯船に入るもの(入浴}と判明する。休浴 H は早朝に J 問 浴 之 俳 ﹂ を 仰堂前に懸けて衆併に知らしめるが、ぞれは長髪での入浴が狼脂となるので事前に刷艶させるためという。 かかる剃髪行為や平設を懸腎して浴室へ向か、ヲ作法を視覚的に示すのが大徳与所雌﹃五百羅漢凶﹂と考えられ る。本両は南宋淳照年間(一一七八 i 八八)に明州(寧波市)東方の東銭湖所在の叩乙律院・恵安院(﹃宝慶四 明志﹄巻十三)の義紹が勧縁僧となって有縁者を募り、画人の林庭珪・周季常らが中心となって制作、奉納され たものであ旬。本同制作時期に栄西(二四一 1 一一一一五)は入宋して周辺で活動(束銭湖近絡の阿背王寺舎利 殿造営中)し、また俊郁はその約十年後に明州城内の景福寺に参学、阿宵王寺長右とも面会している。本州にみ る羅漢の日常生活は幾分かの誇張はあるにせよ、栄酋や俊郁入宋時の同時代資料として、商宋僧院の H 常生活を 活写していると考えてよい。 - 89-淳 県 九 年 ( 一 一 八 一 一 ) 銘 の ﹁ 浴 室 ﹂ d ( 図 2 ) は羅漢の浴室入場を描いたものである。太鼓の合図で羅漢たちが続出資科F南山北接見flil弘記』発見の意義 一 斉に浴室へ進むなか下段中央 の維部や同段右端の鬼、 小 段の 五百総i!iS図「浴室」 持者 の 平 思 決 は 上 述 の ﹁ 懸 将 ﹂ で ある 。 懸宵緩漢は鬼侍者の維部 に先を謀 っ たようで 上胸の縦 と
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銘の ﹁ 剃 髪 ﹂も入浴前 の作法とし てとらえること も可 能と なる 。 このように、南宋 仏教 にぷ打ちされた出家生活の所作や儀 礼な どからも理解されるように、俊初による泉涌寺 @ 創建は、鎌倉時代初則の治京に凶・新仏教とは全く輿質の南米仏教式の山家集 問 が誕生したことを意味していた 。 泉 一 山 寺閉 山 以 前 の 円 本 仏 教 山 介 は 末 法 の世をむかえ、叡 山で は 水 ・ 党論のような現実肯定思想が流行、顕統制 川 たち は釈迦以来の実践すべき 三 学(滅定想)のうち知品川(教壇而)に偏重する時代となり、成作や禅定(実践面)が @ 軽視されていた。また、商都でも能見以来の﹁如法ノ受戒﹂も時が移ると﹁俄々﹂が崩れ、中古よりは名ばかり @ の受戒や安居で﹁持 ・苅持伴/人跡﹂も絶 え 、 ﹁ 如 法ノ儀﹂が廃れた 時代とな っていた。かかる 仏教界 の 状況 の な か、世間では飢僅や 地震、内乱が起こり、東 大寺や商都諸寺院が灰燐に 附し た 。 顕密仏教による﹁王法仏法相依 詳 細 ﹂ が崩れ去 っ た時代であった。 このような状況を内省し打 開 を試みたのが栄西や俊拐などの一部の入米 僧 たちである 。 入宋 例 らは 日本で廃頒新出資料'南山~~裳見聞弘記』発見のE. していた三学観と﹁如法ノ儀﹂をかの地で学んだ。当時の中国仏教界は、国家統制下で多くの僧侶が師を求めて 諸国務﹄遊行し、寺院側はそれを受け入れるトト刀寺院体制であり、入宋併はかかる制度を利用して諸寺院を遊学し た。寺院は律院・禅院・教院に大別され、俊郁は三院すべてに参学したが、一寺院で一教義ーーすなわち仲院で は成作のみ、棚院では禅のみ、教院では教学のみーーを呼修するのではなく、上掲の日課日課年課を護持しなが @ ら、それぞれの立場から戒定慧の三学を綱要とし実践修学していた。彼らはかかる南宋仏教の三尚子観や俄礼を釈 迦時代へとさかのぼる理想的な仏教のすがたととらえ、三学僧として帰朝し、僧侶の︿清浄性﹀を保つ儀礼(安 @ 居 ・ 布 薩 ・ ' H 恋)を再興して︿如法﹀の仰院生活を興行することで王法を護持しようと考えた。この点で﹃私 記﹄は末代仏教の︿如法 v と考えられた威儀・法式を収載したものといえよう。 @ 注目すべきは宋一正時代成立の清規摘を参照すると、当時の律禅教院は詳細不明ながらも、祝型、安肘や布雌な どの月課年謀、入院法や上堂、または叉手や行道(﹁府折 L) など共通する儀礼や作法・所作が多い点である。祝 聖や上堂などは従来、我が固で﹁樽宗特有﹂とされてきたが、少なくとも南米時代においては三院通用の法式で あり、俊常的に代表される入宋僧や十方僧が律神教を問わず三院に参学できたのも、︿知法 v の通用法式や作法が @ 存したからにはかならない。通用の︿如法 v 安居(結夏)に関しては、南宋律院(景福寺)の法式が泉涌寺を介 して南都律家に受容されたことをあきらかにしたが、他方で栄西や建仁寺僧、法然門下僧も俊弼から学んだと考 えられ旬。この視点に立てば、栄西・道元・円爾などの︿禅家 v や渡米僧・蘭渓道隆の著述や規式(清規)、米 元の清規類などと﹃私記﹄諸章の検討を通じて、南宋仏教の具体的な儀礼や作法を復元することも可能となろう。 @ では、このような南宋仏教通用のな場から、一例として﹃私記﹄﹃二時食第二﹂と道元﹃赴粥飯法﹄(一二阿四 1 六年頃、永平寺で成均}にみる禅一律院での通川食作法を検討したい。 本来、僧侶は一堂に介して判 H H に食がをした(通情食)が、平安から鎌倉期にかけて顕硲仏教の諸寺院では一 - 91
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は所定度位に坐すことがわかる ( 図 3 ) 。 本図が ﹃ 律苑率規 ﹄ 収載の﹁鉢位図﹂と 一 致する こ とから、泉市寺 僧 堂 が ん 汰 元 作 院 の 似堂に忠実とわかる 。 永平寺僧堂は子制不明だが、南小水柿院 の 話 隠寺仰堂や 一 六竜寺﹁芸堂開 9H
簾﹂を 参考にすれば、泉市寺 川 川 立と近似 の 堂宇と ω 附 さ れ る 。 ( 探z
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制 川 仰が持 参する食探知は鉢、鉢,寸、鉢 蝶、筋、地、刷、匙筋袋 、m r
、鉢 巾 、 以 払(阿 4 ) で ある 。 小食(判食)は粥、 小 (大)食( 月 刊 食)は飯 ・ 必(汁) ・ 来 ・ 芥物などを食し、喫ぷ ( 茶 礼)もした 。 時間になると寺 中 の鑑、太鼓、特 板、供錨が規 則的 に 嶋 り 、 ﹁ 衆 務 ﹂ 中 の 僧 侶 た ち は 威 儀 を 耐 鍛 え僧堂に向かう。入堂、段位への移 動 、 坐 法、鉢 の 安 置 など 細やかな作法や 所 作 、 然止 市 ド 削 引 が 述 べ ら れる 。 上記 の 食掠名や作法などは細部を災にするが、ほぽ ﹃ 飯法 ﹄ と 凶4 共通するものと担併できる。 Jiti泊干¥:''('骨堂 (r泉,i'li1j:WI:ii'fは1にJ) 部をのぞき私 僧 山や院 家で 食し僧食は守 られなくなった @ という(別食) 。 一 万で、南米諸 寺 院はす べて僧立での 仙川食であり、俊郁や道元などの入米仰は︿如法﹀の的食 を体験し、泉 涌 守や永平寺などで興 行したことに な る 。 泉 涌 寺 僧堂は﹁清 雲堂 ﹂ と 称 さ れ 、 二 時 の 坐 禅も行 う 堂宇(俊 砺﹁ 色目 ﹂ ) と し て 、 三 門 左廻廊 の 際に造営さ れ fこ ( 図 1 1 人 口 には暖簾をかけ(宇 ・ 日 ウ ) 、 堂 内 は @ 内と外に分かれ る 。 内 、 的 立 中央には型 制 似 と ﹁ 静 ﹂ 、 堂 内 壁而沿いに 述床、外的 堂 巾 央 に ﹁ 飯 ム 口 ﹂ が設 置 さ れ 、 際13 -92 -長老や官人(役職伯)新出資科『南111北義見聞私紀』発見の意蓑 b v n 今 -V L V Z ザ イ 注目すべきは諸種の読前文や呪顕である。金前には﹁恒例或臨時之臼 L があれば唱えた後に宋音﹁十方施主災 セ ウ セ ウ シ フ シ ユ ス ン シ ャ ン シ フ シ ン キ ン 陣消除福寿増長﹂と宋音﹁十仏名 L ﹃心経﹂や﹁展鉢備﹂を読繭し、長老が可食詑偏{﹁財施法施功徳無量償ハ ア シ タ ャ -フ{具足円満文﹂)﹄を附え、衆僧は所作をともないながら、長老の堂内作法や浄人(行者)の食事配給と迎動し、 シ ヤ ﹁受食旧国﹂﹁大食偏﹂﹁五観﹂﹁正食備﹂を説諭する。食す際は﹁三匙偶﹂、食後には﹁後唄﹂﹁食党侃(末背﹁若 ハ ︻ シ ︾ シ 4 タ A 7
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' u ' b v a e シ ス ソ カ イ ハ シ キ ウ シ ヲ 飯食巳。当願衆生。所作皆弁。具諸仏法﹂ ) L を述べる。小食では上記作法前に、毎月朔日目﹃祝聖 L 、二日 H ﹁ 土 地 堂 識 経 ﹂ 、 十 五 日 H ﹁ 布 薩 ノ 白 ﹂ ﹃ 祝 聖 ﹂ 、 十 六 日 H ﹃ 土 地 堂 調 経 L、晦日目﹁布薩ノ臼﹂が発せられる。宋 音ルビを付きないものあるが、ほとんどが宋音読諦と考えてよかろう。 @ このような宋音の瓢繭や呪願もほぼ同文で﹃飯法﹄に記されており、上述の用語﹁雲堂﹂や型僧像・仏具食器 如、仰堂内での所作や食引作法、禁止事項などを附まえても、泉桶寺と永平寺の僧堂では米式 H ︿ 如 法v
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食 が 興行されていたことが理解される。 - 93-そして、禅律院を発信源とする︿如法 v 僧食の作法は僧侶社会に留まらず、在俗社会への浸透をみた。その作 シタサシ妙︽シ︼バ 法が寸出生﹂﹁生飯﹂である。出生・生飯とは﹁出--生飯乙からきたもので、自身の鉢から飯を七粒取り出して 別に置き、食後に烏や魚に施食する行為で、上掲﹁五百羅漢図﹂にも描かれる(岡 5 ) 。かかる行為は古くから 存したが、我国では発音﹁サ(ン}パ﹂だけが伝わり、﹁三把﹂﹁三飯﹂﹁散飯﹂と宛て、一様でなかったという。 @ これを﹁生飯﹂と統一したのが﹃入宋ノ僧ドモ﹂であった。︿如法﹀僧食が在俗社会に受容されていく背景は、 在家者や檀越による施食や布薩への参加が想定される。﹃飯法﹄には﹃古凶斎 L では施主が僧堂内を行香すると あるように、在家者主催の臨時﹁斎﹂は、在家者が僧食に参加している。図 6 の五百羅漢図可食事中﹂はそれを よくあらわしている。食事をする五羅漢前に被冠の男性供養者が合掌し、侍者は珍宝を手にする。彼らがこの食 7 y d h y 市引の施主なのであろう。詳細は述べないが、本阿羅漢の食器や所作・作法、上方の喫茶道具、沖人(行者)の給新出資斜 rl帽山北iill見rm私記』発見の意義 仕 な ど 、 ﹃ 私記 ﹄ ﹁ 二 時食﹂や ﹁ 侍 者茶 礼 ﹂の内森を拙写するとみ 五百緯漢図「放生」 て よ い 。 泉市守や泉涌寺流で僧 食や布薩に参加した在家者は 上述のような僧食を体験したわ けである。図 5 の生飯行為も下 i阪15 方に胞主が凡えることから在家 者 、 丘 仰 恨 の ・ 所 後 を 揃 い た む の と併 してよかろ う 。 き て 、 泉 市 寺 に お け る ︿ 如 法﹀制食の興行を踏まえると Ti.Î'ïM{ùi~1ヌ1 rft~F,,-lJ ﹃ 感身学正記 ﹄ にみえる叙尊 の 約 食 仙 川 刊 行 は 一 内 考せねば ならな い 。 従 米 、 H M 出 三 年 ( 一 二 三 七 ) に ' H 水 而 守 三 叶 一 定昇の海龍 王 寺で の 食 料 互 」 の 主
主 解 庭
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れ 内 詰 ト た仇芳 に 。-1111 お ー ザ け 憤 る は 以 「 下 別 資 同6-
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ー凡当寺近年学泉涌寺儀、住侶皆長斎着法衣、持鉢坐僧林、受食、雄悪世勝事、別食非僧食、蓄八不浄財、不 持性遮戒、受芯萄戒入、難己満四人、雑住元差別、以講事妙等、次動悲反僧食、 H 疋以当寺長老、至七月下旬、 @
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八月一日、応成通僧食︿云々﹀ 新出資科『南山北裳見聞私記』発見の意義 しかしながら、当時﹁持斎持律ノ人跡﹂も絶えた商都仏教界は﹃夏中ノ閑律学シ、持斎スベキ供科ナムド斗ヒ ヲカレ﹂たが、﹁夏寛レパ持斎モセズ﹂(上掲﹃沙石集﹄)とい、ヲ非︿如法﹀の安居状況であったこと、南都諸寺 院における寺家と伴家の対立、通僧食宣言が安居後である点を理解した上で、そこに泉揃寺の︿如法 v 僧食を踏 まえるならば、泉川ナザ俄こそが﹁長斑特法衣、持鉢坐仰林、受食﹂であって、夏安居中は泉川寺流の僧食が興行 されていたと解すべきである。叡尊の言葉は安居中の︿如法 v 僧食が夏克するといつもどおりの別食となったこ F 同 u n E とへの悲憤ととらえるべきで、これに応える形で安居後の八月一日から海龍王寺﹁長老﹂の宣言で通僧食が再興 行されたわけである。 以上のような同解釈を踏まえると、軒かりし頃の叡尊は泉桶寺儀を否定し独自の法式を制定したのではなく、 ⑮ ︿ 如 法 v 儀礼興行のために積械的に泉桶寺儀を受容したことになろう。後年の叡尊の多様な前聞の行動原理には 泉涌寺僧からの︿如法﹀律儀の獲得が内在していたわけである。四、﹃私記﹄発見による泉涌寺(流)
の再考│おわりにかえて
﹃私記﹄の発見は、従来の鎌倉時代における泉揃寺創建や泉涌寺流の展開意義を大きく見直す契機となる。本 考察で俊弼が泉桶寺で興行した律儀は南宋律院・景福寺の律儀をそのまま興行したと考えることが可能となった。続出資料'南山北鶴見聞私犯a発見の意義 かつて泉涌寺の寺院組織は宋式で運営され、伽藍(図 1 ) も南宋律院や教院を参考にした法堂や僧堂、十六観堂 など従来の日本には存しない堂字が多数造営されたこと、堂内には伽藍神や掌駄天などの宋代寺院で重視された @ 神々を安置し宋音の儀礼が興行されていたことなどを指摘したが、ここに南米律院特有の︿如法 v 儀礼や三院通 川の月課年諜や作法に準拠した僧院生活を送っていたことが明らかとなった. これはすなわち、鎌倉時代初期の京に南宋仏教の出家集団が誕生したことを意味した。泉涌寺を訪れたひとび との眼前には、異国の伽藍がいならび、そのなかでは顕密仏教とは異質の宋代仏教の世界が広がっていたわけで ある。泉涌寺僧たちは、泉桶寺で︿如法 v 作法や儀礼を遵守し、三学を綱要として教学や仏道修行に励んだが、 これは彼らが入宋せずとも擁似的に宋代仏教の実践や法式を受容できたことを意味していた。 きて、上述の視点に立てば、使郁や泉揃寺仰と交流した、いわゆる﹁他門僧﹂たちの意味も変わってくる。従 米、教学史的思想史的視点で考察された、貞慶門下や商都律家が戒律、栄圏とその門下が禅、法然門下が宋代浄 土教を泉涌寺で学んだとする視点には、僧院生活という視点が欠如していた。寺院が僧侶の仏道への実践的生 活・修行の︿場 v であることを考慮したならば、他門僧たちも泉涌寺僧同様に上述のような規則や作法に則った 種々の儀礼や三学に準拠した修行方法を実践したと考えるべきであろう。 テ ユ ハ ヲ すくなくとも、入門時の作法や儀礼は宋式で行われ、﹁客僧﹂でも﹁初来必告三知風俗僧制-﹂することが義務 , , . , づけられた。とりわけ、﹁依衆学行﹂﹃知僻事﹂﹃別場惜﹂のコニ筒粂仰衆共住之大綱﹄として﹃是以泉揃寺閉山 僧制之初被 ν置 ν之者﹂であることが﹁住持教勅﹂で宣言され(﹁投下章第ご︿字・日ウ i M ウエ、入門翌日の小 食(朝食)から威儀を具して参加し、僧堂内での所作や﹃巡堂﹂を学ぶところからはじまる。たとえ可客僧﹂で あっても泉涌寺僧制に従うことが義務づけられ、上掲の僧食を体験したわけである。﹃客僧 L らも宋音を学び読 踊したと考えてよい。蘭渓道隆が来日まもなく泉涌寺子院の来迎院に寓居するのも、宋地での泉涌寺僧との親交 - 96ー
のほかに、泉涌寺が、渡米直後の中国僧が弘法(弘禅)できる︿如法 v の伽藍、法式や作法・宋背などを備えた 寺院だったからにはかならない。 新出資料 rJtj山北義見聞払記」発見の慮義 ﹁ナザ院への参学﹂とは、その寺院の法式に準じた活動に従って修学・実践することである。この点で、他門僧 の泉涌寺への参学もやはり宋代仏教の擬似的体験をともなっていると解さなければならない。例えば、泉揃寺開 山時の有力な檀越の一人である九条道家の兄とされる証月房慶政(一一八九 i 一二六八)は、=二七 1 一 八 年 @ 聞に短期入宋した後に俊郁﹁色日﹂(一二二
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年成立)を書写している。書写年不明ながらも、慶政は俊郁のも @ とに参学した可能性は向く、道家と俊郁の関係を踏まえれば、慶政の入宋動機に俊郁との交流も想起できよう。 このような擬似的体験による末代仏教の選択的受等や拒否は、参学併にゆだねられたが、いずれにしても泉川 寺での体験を経て併制としての︿如法 v 性を礎得することで、彼らが新たな宗教活動をおこない、やがて独れの 出家集同を形成していく点は枝川しなければならない。教学史や忠惣史、宗派・史という立場では触れられること のない泉涌寺という︿場﹀、その宗教空間への参学に着目すれば、従来想像もされなかった他門への影響も新た @ に 見 え て こ よ う 。-
97-また、﹃私記﹄の発見にともなう泉同寺流の展開も鎌倉仏教を考えるうえで重要な意味をもっ。はじめて俊郁 が︿如法 v 作法や儀礼を興行したとき、この国には︿如法 v の三学僧や律僧は一部をのぞき存しなかった。俊郁 に賛同した僧侶は泉涌寺で︿如法 v の作法や儀礼を学ぶことこ二二六年)により、泉涌寺僧が誕生した。俊常的 示寂後(一二二七年て彼らは一方では入宋して俊粥の法流をたどり、彼と交流した律僧・禅僧・教僧に教えを 受けて三学僧として帰朝して泉涌寺ほかで多様な活動を行うよ、ヲになる。他方、泉揃寺では、俊荷から伝授され た安居などの︿如法﹀儀礼や作法を十年間実践することで︿如法 v の律家が誕生し泉涌寺山械が形成されヤ海龍 王寺で講義した三世定舜はその最初の一人である。彼らが寺外で活動することで、泉桶寺流の作法や儀礼が広まっ た 。 新出資料『南山北義見聞私品発見の慮義 かかる展開のなかで、泉揃寺流の諸寺院(戒光寺・東林寺・飯山寺・覚園寺・大楽寺など)が創建され、新た な拠点としてそこに僧侶が集うようになる。このことは泉桶寺に参学せずとも A 如法 v 性を雛得できる寺院が誕 @ 生したことを意味した。飯山寺や大楽寺、浄光明寺の例が示すように、以後、諸寺院では泉涌寺流の︿如法 v の 作法や儀礼、月課年課を基底におきつつ独自の仏道実践(泉涌寺や飯山寺を拠点とする宋代浄土教や西院流、浄 光明寺の﹃問宗興隆﹂など)を展開する寺院となる。彼らは寺院内で﹁真言僧﹂﹃浄土僧 L ﹃華厳僧﹂として個別 の集団を形成して住侶したのではなく、ともに宋式(日泉涌寺流}の寺院生活を営む︿如法 V 俄であることを自 覚 し て 共 住 し た と 考 え る べ き で あ ろ 、 川 。 泉涌寺流の展開のなかで留意すべきは、浄因や源智などにみられる頻繁な住持交代や任期制の官職憎の存在、 それ以外の僧侶(衆僧)の多様な活動の実態である。これらを踏まえると、泉揃寺を本山とする本末寺制ではな く、宋代寺院の住持制度である﹁十方住持制﹂の律院、そして﹁十方僧﹂ H 行遊僧を受け入れる寺院(十方寺院 制)として運営されたと考えられる。というのも、俊郁(泉涌寺)の立場は、﹃私記﹄﹁臼恋章第九 L で 宗 師 が 、 - 98-テ シ テ タ ヲ ノ 諸 大 衆 宿 縁 相 引 会 " -一 所 A 修道無 ν尋 道 三 九 旬 4 比丘作法如ニ雲水 J 在処無 ν定。安居巳寛。去住任 ν意 。 或 瀞 -諸 寺 -訪 z名 徳 寸 或 散 -一 諸 方 -導 ユ 有 縁 A ( 宙・幻オ) と宣言するように、本来の比丘(釈迦時代の比丘)は在処を定めるものではなく、それに従えば、安居期聞が終 われば﹁去住﹂は任意で、諸寺に移動しても、または新たに有縁を導いてもかまわないというものであった。ま さに、宋代の十方寺院として、さらには入宋僧が理想とした釈迦時代の僧侶の在り方をここに興行したことにな
旬。泉川寺流諸寺院の創建もかかる十方僧としての活動が事聞いたと解してよかろう。 ニの点を踏まえると、従来、﹃円照上人行状﹄にみえる忠順や蘭渓道隆と宋地で交流した樵谷惟曜、鎌倉時代 後期に多様な造寺・宗教活動を行う無人如導などの﹁泉涌寺僧 L は、参学後に泉涌寺を退出して新たな宗教活動 を起ニすため、彼らは泉涌寺儀を否定したものと考えられたが、むしろ俊郁の教勅に忠実な︿加法 v 僧(十方 僧)としての活動ととらえるべきである。泉涌寺を離れた﹁泉桶寺僧﹂の活動は﹃私記﹄を踏まえて再考されな @ ければならない。 新出資斜 rlt増山~t義見聞事t..ïi!J発見の.畿 しかしながら、﹁空烏の跡﹂﹁湖水の浪﹂のような律儀は、それを体得した寸客僧﹂においてはやがて形成する 白流の組織化{教団化てその歴史的展開のなかで失われていった。また泉涌寺や泉涌寺流諸寺院でも、両者を ゆるやかに紐帯させていた宋式の寺院制度が、南北朝期の新政権下で﹁本末﹂として置き換えられ、また度重な る兵火などで伽藍を焼失し︿如法﹀の律儀も徐々に奥行できなくなっていった。この律儀の再興運動は﹃私記﹄ @ ' が再び書写される江戸時代││それは泉涌寺の復興期でもあるーーまでまたなければならない。 以
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、﹃私記﹄の発見は、央われた泉涌か{流)律儀の川先見にとどまらず、その仲儀が俊郁らを介した封一悩 与作偽を忠実に移入したことが川らかとなり、我が国中附の成作復興の原点ともいうべき作在が景福寺であるこ と、かかる視点から鎌倉時代における泉涌寺流の南宋仏教受容の一様態をあきらかにした。このことは覚岡寺や 飯山寺(現、金剛寺。曹洞宗)、さらには泉涌寺流の律儀を受容した西大寺流や唐招提寺流、戒壇院流などの市 都諸寺院や地方諸寺院などに現存する仏像や仏画、法具、聖教などさまざまなものを、再度儀礼空間のなかに配 - 99-置することを可能にすると考える。 また、﹃私記﹄は、ト二世紀から十三世紀の南宋仏教の通用法式や作法を多く収載する可能性が高く、この点 で、従米我が国の南宋仏教受容の相い子として一元化される傾向にある﹁禅宗﹂との相対化を可能にした・これい を が 敷 、 街 本 す 稿 れ を ば そ 、 の 南 端 宋 緒 の と 三 と 院 ら に え お 、 け J る 号 通
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提 刀三 可 能 と な る 残 さ れ た 課 題 は 多 ︻ 図 版 出 典 ︼ 凶 1 は ・ 泌 揃 寺 提 供 . 凶 2 、 5 、 6 は﹃大徳寺伝米五百羅漢凶銘文細川査報 ι m H 持﹄(奈良凶立問物船・東京文化財研究所、 ニO
一一年)から転載させていただいた。凶 3 は ﹃ 浄 式 ﹄ の 州 問 、M4
は﹃私記﹄の抑図を筆者がトレースしたもので 本 町 A W O 続出資斜'陶山北鶴見聞弘記a発見の意義 註 ①本存は、後述する泉涌寺臓の明治写本を調査した筆者が、 年 十 一 月 に 泉 涌 寺 で 睡 購 入 し た も の で あ る 。 ②徳田明本編﹃律宗文献目録﹄(百事苑、-九七四年て九ニ頁。 ③ 二O
一二年三月二十二日に調査。調査許可をくださいました浄七寺住職の小林暢普師に感謝申し上げます。 @ト卒者は、高木博志 A 京都大学)氏による泉涌寺所蔵の近代文社川調査時に見いだされたものである・本稿執筆の契機 を与えてくださった高木氏に感謝申し上げます。なお、明治写本は飽谷大学に写真撮影本(一九六九年製本}が所蔵 されている(資料番号自由巴信組印)。おそらくこの三年後に刊行される﹃鎌倉仏教成立の研究俊裕律師﹄(石田充 之編、法議館、一九七二年。以下、﹃俊郁﹄)に向けて泉涌寺で調右目された一環と考えられる。 ⑤東向観音寺旧蔵本(随心院本)の存在は、二O
一一年三月十七日に般悶淳一氏からご教授いただいた。東向旧本は 書写年を有す点で底本にふさわしいが、虫損が著しく判読できない筒所が多い。 ⑥唐招提寺本に関しては、川瀬一馬﹃泉奨律師﹄(﹃唐招提寺論議﹄、桑名文星堂、-九四四年)で泉涌寺・唐紹提寺 長老ほかを歴任した象耳泉咲(一任一八 1 八八)の手沢本と判明し、﹃私記﹄の現存最十日写本に位鼠づけられる。泉 喫は今川義元の兄(小和問皆川﹃義元家督継承をめぐる縫﹂︿﹃今川義元﹄、ミネルヴア書房、ニOO
四年 V} で、-五 六九年の峻河における可大乱﹂により事磯山遍照光寺(藤伎市}が焼失し、翌年にその混乱を避けて上治したという。 府側提寺本は駿河時代の書写とわかる。 本書を古書庖で遇目し、 その資料的重要性から二O
一O
- 100ー続出資科『陶山 ~t義見聞私記a 発見の意義 ⑦﹃私記﹄ん
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・ 山 山 の 術 品 句 、 訂 . l ウ ラ 3 詔 4 1 オ モ テ 。 以 下 、 本 品 川 H か ら の 引 川 は 、 宇 巻 は 字 、 街 巻 は 小 川 と し 、 . l 数とオモ テ ・ ウ ラ は 以 下 の よ う に 行 回 附 す る 。 例 ( { 子 ・ 町 オ 1 ウーまた、引川文中の︿﹀は制件を意味する。 @大森順雄﹁願行上人伝﹂{﹃覚附寺と鎗倉律宗の研究﹄‘われ隣常、一九九-年、二八01
一 一 良 三 た だ し ﹃ 鎌 倉 九 代 後 記﹄では永世干元年(一同ニ九}二月十一日に永安寺とともに焼失とある(貰逮人・川副武胤編﹃鎌倉廃寺事典﹄、布 隣堂、一九八O
年、一四ニ頁)。その後に再建されて永享十一年に再度焼失か。 ⑨﹃厚木市史中世資料編﹄(厚木市、一九八九年)、金工口問七︹大楽寺鐘銘︺。 ⑬従来、大楽寺創建に関しては、﹃鎌倉鷲峰法流伝来記﹄の西院流の円祐からの授法者﹃公珍︿胡桃谷/大楽寺開 山 V﹂を典拠として、閉山を公珍とする。本金聞は応永二十九年(一四ニニ}、党同寺忠市の編述だが、延享阿年(一七 四七)書写本が伝存するにすぎない。該当箇所は忠市ではなく﹃高慈﹂なる憎が寸此書先年於金沢令書写之 L したも の で 、 ﹁ AJ 反一乱顕密聖教悉令散失之随一也、然今為後生染筆 T L したものであることから、応永二十九年以降の加 筆といえる。﹃伝来記﹄の当該筒所は大楽寺旧蔵の党鐘を典拠として記されたのであろう。 。 ﹃ 群 書 類 従 ﹄ 二 九 、 一 一 二 一 一 良 。 ⑫甲岡山何時寸親王院本﹃両院流血脈﹄﹄{﹃高野山大学申信教文化研究所紀要﹄一六、二OO
三 年 三 ⑬﹃鎌倉遺文﹄三問、二六O
二 三 号 。 ⑪﹃鎌倉遺文﹄三六、二八二六三号。同詐では、元亨二年{一三ニニ)十一月とする。 ⑮福島金治氏{﹁鎌品川側栄寺の府船派遣について﹂︿﹃金沢北条氏と称名寺﹄、古川弘文館、一九九七年どは、﹃大衆存 長老﹂を公珍とともにみえる﹃忠観房 m m 源﹂とする(ニ二三氏)。しかし、同書マイクロフィルムをみると、﹃大融市寺 長老﹂は﹃浄円妨{公珍ごと﹃思観幼{照源ごの聞に割書で記されおり、福島氏はそれを﹁思観妨﹂の削書と解釈 されたようだが、割書は﹁忠観防﹂よりも﹁浄円妨﹂の方に寄っている。党鏡銘を踏まえれば、二-=六年時に問泌 が大楽寺長老である可能性は低い。 ⑮﹃泉涌寺遺属詩文 L ( ﹃俊郁﹄、三九二頁)、大塚紀弘﹃中世﹁仰律﹂仏教と﹁禅教律 L 十 宗 観 ﹂ ( ﹃ 中 世 禅 律 仏 教 諭 ﹄ 、 山川出版社、二OO
九年︿初出、二OO
三 年 ﹀ 、 五 七 頁 ) 。 @﹃金沢文庫資料金書九寺院指図篇﹄(金沢文庫、一九八八年て五O
。拙稿﹁泉涌寺閉山の諸相﹄(﹃御寺泉涌寺と 閉山月給大師﹄、泉涌寺、二O
一 一 年 ︿ 初 出 、 二OO
九年 V) 。 - 101-新出資料'南山~t.見聞弘記』発見の.. ⑮正和三年(一三一四)に冷光明寺僧が中心となって発願した可不断光明真言井浄土宗等四宗興隆発願事﹂(﹃鎌倉市 史史料篇﹄一、四八四号)に鎌倉近郊の律系寺院十二ヶ寺合計十四名の署名があるが、大楽寺僧の名がみえないこ とから、これ以後二一-ご七年頃}の創建と考えられる。浄光明寺には宋代仏教に特徴的な﹁僧堂﹄が造営(浄光明 寺敷地絵図)されており、同寺でも宋式の寺院制度で運営されていたと考えられる。浄光明寺および﹃発願事 L に 関 しては、大三輪龍哉寸鎌倉時代の浄光明寺﹂{﹃浄光明寺敷地絵図の研究﹄、新人物往来社、二