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雑誌名 東北学院大学論集. 教会と神学

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象徴の神学(2)――W. パネンベルクの教会論――

著者 佐々木 勝彦

雑誌名 東北学院大学論集. 教会と神学

号 18

ページ 51‑95

発行年 1986‑03‑20

URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024371/

(2)

象徴の神学(II)

‑W パネンベルクの教会論一

佐々木勝彦

IV

本論文の課題ばバネンベルクの教会論の内容を明らかにすることに あり われわれ(土, その手がかりとしてすでに『神学と神の国jに収 められた「教会と神の国」 (Ⅲ)と「教会の神学のための諸命題1 (111) をとりあげた!)。本章‑ではさらに「倫理と教会論」としてまとめられた 論文の中から, 教会論の部分をとりあげて論じてみたい。 この部分は 10の論文から構成され.内容的にはl)教派の問題. 2)職制の問題 3)聖餐の問題に,大別することができる。これら三つの問題は,当然 のことながら相互に関連しており, 内容的にまとめて論ずることも可 能である。 しかし本論文では. 「倫理と教会論』の構成に従って,一つ 一つの論文の内容を検討するノj法をとりたい。

第1論文は「教会と関係をもたないキリスト教」2)である。パネンベ ルクは,統計的にもはっきりとしてきているキリスト者の礼拝出席率 低ドの問題から入り, まず, このような現象はキリスI 教の歴史にお いていつから始まったのかを問題とする31.彼によれば, 「教会と関係 をもたないキリスト教」ば明らかに近代の産物である。教会に対する

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(3)

信頼が決定的に失われるようになった主な原因は.諸教派への分裂と 宗教戦争にある。決着のつかないこの戦争の結果.政治,経済,社会 は徐々に宗教から離れていった。信仰はいよいよ私的な事柄となり,教 会はその普遍性を主張しえなくなった。 ところが社会や文化は, その 中立性の主張にもかかわらず, 自らの合法性の根拠をキリスト教的原 理に求めざるをえなかった。 こうして宗教改革がかかげたキリスト者 の自由の要求から, 寛容と信教の自由の要求が, さらにその結果とし て一般的な市民の自由の要求が生まれた。最初ぱ歴史の教計│ │から生ま れた近代的な人権の思想も, 内容的にはキリスト者の自由の思想. つ まりキリストへの信仰による罪からの自由の思想に由来している。 し かし問題は, キリスト数が, 自らのこの普遍妥当性を適切に屯張しえ 厳いでいることである。プロテスタントの側では,教派間の分裂に続 いて, 啓蒙主袋に対する反動Ⅲ敬盧主義的信仰復興運動などが, 他方 カト リ ,ソクの側で(ま. 司教制の権威主義的な理解に対する反対が, そ れそオl 「教会と関係のないキリスト教」にむかう要因となった。従っ て諸教会が自らの分裂の原因となってL、る教義上の問題と真剣にとり くまない限り. この傾向はます主す強くなるだけである。 しかも「教 会と関係のないキリスト教」は、 それ自身のために教会を必要として L 、る・ というの(rk, 教会があって(まじめてキリスト教が伝承され. 教 会があって感じめて生の限界状況が現実に克服されるからである。

教会が. その数育、 神学, 宣教を通してキリスト教信仰の本質にか かわる事柄を教え 意識させるということがなげれば.教会の外にい るキリスト背ば, 自らのキリスト苫としてのアイデンティティを持ち 続けることができなくなってしまう。特に, 次の世代に対する伝達の

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象徴の神学(11) 3

問題を考えるならば.教会の働きば不可欠である。 しかし近代のキリ スト教の不幸は, 自らが目ざしている寛容と自由の精神を,制度的に 保障しえ斑いでいることにある。その精神は, いまだに教派主義的教 会のうちにとりこまれたままである。 しかもこのような教会は, キリ スト教の使信と信仰に関する自らの立場の普遍性を主張しようとす る。キリスト教信仰は, たしかにすべての人に対する普遍妥当性の要 求を含んでいる。使徒パウロ以来, キリスト教は自らの使信の普遍性 を確信し, キリスト教神学は,雄初から, キリスト教伝承の普遍妥当 性を明らかにすることを課題としてきた。人々は. それぞれの時代の 現実経験と理解の変化に対応しながら. キリスト教の使信と教えの普 遍妥当性を表現しようとしてきた。だが, 今日の教派主義的教会がキ リスト教の普遍的現実と真理を表現していないことは明らかであり,

ここに現代の複雑な問題状況がある。現代神学は, この状況の中で,キ リスト教伝承の普遍妥当性を探求してL、る。信徒にとってもこれは重 大な問題である。教会と全く関係をもたずに信仰をもち続けることは 不口I能である。キリスト教信仰は交わりとL、う生活連関を必要とし,そ の中での桑生きていくことができるからである。イスラエルの神は,共

│司体の中に正義と平和が打ち建てられることを求める神である。 これ が,民の選びのために個々人を,全人類のために−−つの民を,神が選 ばれた理由である。 この民のうちに正義と平和が打ち建てられ, 神の 支配が実現されることば, 同時に−政治的にはまだ実現されていな L,−すべての人間の社会的規定, つまりすべての人閥の共通の救済 が実現されることである。このようにイスラエルの神に対する信仰は,

社会性と普遍妥当性の緊密な関連を包含している。 イスラエルの神は

53−

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イエスの神でもある。 イエスば神の国を宣教することによって,次の ことを明らかにした。神は平和と正義を求めておられるのであり, こ の正義の中心は,赦しと社会的連帯性をもたらす愛にある。こうして 人間の規定が実現されるのである。キリスト教会は, このことを主の 晩餐Iこおいて表現している。個々のキリスト者がイエスと交わること によって,すべてのキリスト者の連帯が基礎づけられ、 さらにすべて の人との連帯が根拠づけられる。 イエスの神ばすべての人の唯一の神 であり.それゆえ教会は,盤と平和と正義の精神に生きる社会であり,

そればすべての人間のために存在する。換言するならば. キリスト教 会は, 全人類の将来である神の支配を今やすでに先取りしている交わ

『)である。神の支配(ま人間の平和と正義を問題とする。そしてこの平 和と正義は, 神御自身が支配するところにおいての魂実現されるので ある。

キリスト数会依.蝦初からⅢ 自らの交わりば, 神の国におけるすべ ての人の来たるべき整わl)を先取りしている.つまりそこで平和と正 義が成就さオ'る交わりをすでに先取りしている. と信じてきた。キリ

スト教会が志向‑j‑る人間共同体の統一性は, ノ、間の支配ではなく神御 門島 厨ルー基づいている。 もちろんキリスト者の共同体も.共通の 信仰{こ蛭づいてキ' スト譜の統一に責任を負う職務4'を必要とする。

責任の分扣に応じた職務がなければ. キリスト者の統一ば実現されな L、。また.キリスト者の共同体ば人類の統一の徴と道具になりえない。

しかし教会史が示している通り,職務ば実際には神の支配にではなく , ノL問の支配に仕えてきた。従って今後は、碓務の形式的権威を教会員 やキ!)スト教界全体の意志と .層緊滞に結びつけることが必要であ

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象徴の神学< 11

る。神とキリストの支配に基づく教会の ゑが1 人類の統一の徴と道具 になりうる。教会は,正義と平和の実現という人間の規定に対して象 徴的厳意味をもっているにすぎなL、。数会は, この世において自らの ノJで人類の統一をはかることばできない。教会は, 自らの存在に与え られている象徴的なノJに基づいての象,人類統一の道具として活動す ることができる。この意味で教会の生命はサクラメンタルである5)。教 会は人類の統一の徴であり. その存在の象徴的性格を礼拝において示 すことは.教会それ自身の本質と機能にとって根源的なことである。そ れゆえ,教会のこの本質を目に見える仕方でしかも集中的lこ表現して いる聖餐は,里要である。われわれはこの聖餐を, 礼拝生活の中心と して,新たに再発見しなければならない。そうするとき,教会の礼拝 は初めて, 人類の統一のために派遣されているという自らの象徴的性 格を,再びとり戻すことができるようになる。キリスト教の教理も,教 会のこの象徴的性格にふさわしく , 新たにされなければならない。そ れは神学者の仕事であるだけでなく , 教会全体の貞任である。われわ れはこのようにして教会の教派主義をのりこえることができる。 この 点でⅢ 第二ヴァチカン公会議(1962‑65) と1968年ウプサラで開かれ た第4回世界教会協議会(WCC)で出された教会の本質に関する宣言 感,重要である。教会の分裂を克服することは, キリスト教が人類の 統一のための徴となる上で. イミ可欠の前提条件である。教会と関係を もたなL,キリスト教の出現という近代の現象は, まず第一に教会の分 裂の結果である。 しかもわれわれの生きているこの世界ば,全人類を 包括する根源的連帯性の徴を必要としているのである。

第2論文「教会の統一 :階仰の現実とエキュメニズム運動の目標」

一ー

t〕。

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(1975年)6) も,第1論文と同様に.近代の世俗化は教会の外側から やってきた運命ではなく、自らの統一を実現できなかった16世紀以来 の教会の罪の結果である, と説く。すべてのキリスト者は,一人の主 に対する信仰において,洗礼と聖餐を通して彼と交わることによって.

すでに相互に結び合わされている。従って人間の諸々の努力に先立っ て,統一はすでに実現されている。 しかもエキュメニズム運動は, 分 裂以前の状態にもう一度戻るというよりも, キリスト教信仰のうちに すでに存在し, キリスト者であるわれわれの存在にとって本質的な内 容をなす統一へと回心することを目ざしている。教会ばキリスト御自 身へと方向転換しなければならない。われわれはⅢ ここで教会の不可 視性をもち出して言い訳することはできない。すべての教会が自らの 分裂とその結果に対し責任を負っている。たしかにキリスト教の統一 をめざすあまり,性急になってはならない。しかしだからと言って,相 互理解と共│司作業の業を意図的に遅らせてもならない。プロテスタン ト教会の指導者は. プロテスタント諸教会の発生が宗教改革の失敗の 結果であったことを,常に思い起こさなければならなL、。宗教改革者 たちはキリスト教界全体の改革をめざしていたのである。すべてのキ リスト者の統一は教会の本質にかかわることである。初代教会の考え によれば, キリスト者の統‑は使徒性や公同性と並んで教会の本質を 織成する事柄であった。教会の職務ば,教会の統一に対して責任を負っ ている。教会における監督職の形成もこの観点からとらえなおさなけ ればならない。キリスト教の統一を実現するにぱ, そのことに責任を 負う職務が必要である。 これは一人のカリスマ的な人間によって片づ けらオ1る問題ではない。アウクスブルク信仰告白第7条7)は,教会の統

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象徴の神学(Ⅱ

﹃J1

‑‑・をはかるには, 福音とサクラメントの智理の点で一致するだけで十 分であるとしているがⅢ キリスト者の統一に責任を負う職務について の了解鴫必要斑のである。

パネンベルクは最後に,現実にカト リック教会との対話を進めてい く際に留意すべき事項として, 次の四つをあげて↓、る。第一に, カト リック教会が他の諸教会の特色を自らのうちに取りこむと同時に.諸 教会がカト リ ック教会の良き遺産一例えばⅢ 礼拝における聖餐の中 心的な意義,教会共同体を形成するための監督端の重要な役割一を 再発見しなければならない。第二に, 両者ば, われわれがすでに共通 にもっているものを確認することをめざして,公式に対話を始めなけ ればならない。相手をキリストの教会として相互に承認しあえる諸条 件を研究し, しかもまずローマ教皇がそのきっかけをつくらなければ ならない。つ喪り, カト リック教会側の受容条件を提示する必要があ る。 というのぱ諸教会が自らの伝統を捨てて, カト リック教会の現在 の−教理的. 礼典的.組織的一形態を採用するとは考えらオ'ない からである。第三にⅢ将来のキリスト教会のあるべき婆. とくにキリ スト教界全体に責任をもつ職務についての了解が必要である。 この点 で, カト リック教会の捕導者としての教皇の管轄権とキリスト教界全 体のためのその普遍的監督権を区別する考え方ば,重要である。対話 の中でこの具体的形体と諸条件を検討しなければならない。第四に,こ のような対話から. プロテスタントもギリシア止教も同等の椎利を もって参加しうる新たな世界教会会議が生まオ'るであろう。そしてこ のような会議が開かれることによってばじめて, 諸教会の統一の基し、

が築かれる。各教会ば. この会議をめざして準備をしなければならな

ーー

t]/

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い。

第3論文「共通の過去をもつとL,うことは, 分裂した教会にとって どんな意味があるのか」8)は, 教理史の観点から教会の統一について 論じている。教会の統一において問題となるのは,諸教会の相互関係 のみならず, いやまず第一に,原始キリスト教と今日の教会との関係 である。ルターは,いかなる教会の教えも過ちからのがれられなく,教 父や古代の教会会議も, 彼の発見した福音の教理に基づL、て評価され なければならないと考えた。 しかし彼は,実際には古代教会の三つの 信条,特に使徒信条を福音の適切な要約と象なした。ルターにとって 救碩の問題は, 古代教会の教義に後から付加きれる何か余分な事柄で はなく,特に両性論は彼の義認論の鍵となった。 メランヒトンも, ア ウクスブルク信仰告白第1条において, ルター派の神論のためにニケ ア信条を引き合いに出し, 同じく第3条において, キリスト論のため に使徒信条を用いた。カルヴァンも, Iキリスト教綱要」の第二版(1543) の中でⅢ岐初の四つの公会議で決定された教義をはっきりと認めた。メ

ランヒトンの場合にも, カルヴアンの場合と同様に, 古代教会の教義 と福音の教理は事実」 ら一致しているという主張が見られる。 しかも彼 によれば. ルターの教理を告白する教会だけが古代教会を純粋に受け 継いでいるのであり.真のカト リック教会はルター派の教会の中にの 攻目に見える仕方であらわオLている。十七世紀になると, G.カリク トウス(1586‑1656)はこの考えをさらに発展させ,強調した。彼は,

占代教会ば一致していたし, ルター派教会はこの古代教会の立場を受 け継いでいると考えた。彼はプロテスタント諸教会の一致と さらに はカト リック教会との一致の基礎を古代教会の中に見い出だそうとし

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象徴の神学(11) 9

た。 ここに表われているのはⅢ 雌史的制約を無視して.古代教会に直 接戻りうるとする非歴史的なロマン主義である。それは特にⅢ理想化 された古代教会のうちにすでに中世の教皇教会にむかう要因があった ことを見逃している点で,問題である。十九紀になるとA. リッチュル ば,教会史ば初期の段階から堕落の歴史であった, と主張した。今や,

教皇中心主鏡の錐ならず原始キリスト教のヘレニズム化が問題とされ るようになった。A.v.ハルナックは, この福音のヘレニズム化の萌芽 がすでに原始キリスト教それ自身のうちに, たしかに使徒パウロ自身 のうちに見られることを発見した。歴史研究は, 原始キリスト教の中 に初期カト リシズムの萌芽を見い出そうとした。 ケーゼマンの言うよ うに, 聖書ば今や教会の統=でばなく,告白の多様性を基礎づけるも のとなった。各教派は,聖丼の中に自分自身の過去を見い出そうとし た。その結果.共通の過去は, キリスト教会の協同の必要性や可能性 を示すものでぱなくなってしまった。

しかし 「分裂した教会の共遡の過去が同時にその将来でもあるとす れば」91. 輯情は異なってくる。ナザレのイエスの人格はⅢ キリスト教 信仰のすべての歴史的形態の出発点であるだけでなく. キリスト者の 希望が目ざしている到来しつつあるお庁でもある。 イエスという一人 のお方ば.教会史の歴史的根源であるだけでなく, すべてのキリスト 者の, そして全人類の一つの将来である。 まさにこのゆえに. 分裂し た教会ば共通の過去に基づいて岬一致すべきである. との呼びかけが 湧き上ってくる。使徒の派世とキリスト教の伝道ば, 諸岡氏に対する 来たるべき神の欺きの光の中で起こってL,る。それらば再臨の信仰の 中で起こってL,る。キリスト教信仰(ま, この抜きの将来に直面しなが

39−

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ら, しかも神によってなされた人間との和解をその内容としている。主 の再臨は, 今や, 信仰によって彼と結ばれ, 教会の交わりへと入れら れたすべての者にとって,救いの時と左る。 「それゆえ, キリストの将 来から.キリスト者の統一の必要性が出てくる。」'0)われわれは原始キ リスト教や古代教会に戻るのでばなく, 今日の問題状況の中で, 主の 再臨にそなえて何を変革すべきなのかを考えなければならない。 これ は, ある規範となる過去へと戻る姿勢とは根本的に異なっている。 イ エス・キリストがキリスト者と教会の共通の将来であるということは,

キリスト教の統一‐にとって決定的なことである。たしかにこのキリス トの将来ぱ,過去の睦史と. そこから出てきた使徒の派遣と.将来に むかう教会の信仰によって開示される。 しかし共通の過去が意味をも つのば, それが教会と世界の将来を指し示すときである。そしてイエ ス・キリストの将来が, すべてのキリスト者と教会の統一・を決定する という視点をもつことができるとすれば, われわれは.過去の様々な 分裂の中にも共通な事柄を見ることができるであろう。キリスト教の 分裂と闘争の中に「十字架につけられたキリストの統一」! ! )を見るこ とができるとすれば,誰が原始キリスト教の唯一の継承者であるのか という争いlま. 消えてなくなってしまうであろう。

第4論文「使徒性と教会の公同性を理解する上での,終末論の意義」

(1971年)'2) Ij:3節から構成されている。この論文は.使徒時代それ自 体をその後の教会史の規範としようとするならば,問題を全く解決し えないこと. 使徒職という考え方には一・つの終末論的モチーフが含ま れていることをⅢ 明らかにしてL、る。

原始キリスト教がきわめて終末論的な意識をもっていたことは, 今

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製徴の神学(11) 11

日多くの研究によって確められている通りである。それは,究極的な ものが臨在しており,われわれはその中に生きているとの意識である。

この究極的現実は 世界にとって未だ来たらざるものである。 しかし キリスト者にとってそれば. イエス・キリストに対する信仰と来たる べき完成に対する待望のうちにすでに臨在している現実である。使徒 職の問題を考える際にも, この終末論的意識を中心に据えて考えなけ ればならない。原始キリスト教の使徒職は.復活した主の顕現に基礎 づけられている。パウロはこのことをガラテヤ人への手紙第1g12 節, 16節等'3)で明らかにして、,る・12使徒のみ、ならず使徒と呼ばれる には.復活した主の顕現が必要であった'41。しかしこのように使徒職と 復活者による召しとを結びつけたのは, パウロでばなかった。彼は伝 承された原始キリスト教の使徒理解を受けついだのであり, このこと は, 彼以前に使徒と呼ばれる人々がいたことからも推察される通りで ある。福音書には(マルコ6:30, マタイ10:2, ルカ6: 13). イエス が生きていたときに, 弟子たちがすでに使徒と呼ばれていたことも記 されている。 しかしこれば, 復活後の状況が復活前の状況に持ち込ま れた結果である。ルカだけが, イエス朧12弟fをまた使徒と呼んだと 語っているが(6: 13) . これは使徒を12人に限定しようとする彼の婆 勢と関連している(使伝l :21以下)。 また福音雪の伝承には,復活者 Iこよる特別な委託と派遣の記事が記されており. これば内容的に, パ ウロの伝えている使徒理解に対応している。パウロは. 自らの使徒職 を弁護しようとして自らの考えを強調しているところを除L、て,原始 キリスト教における使徒職の特質や意味についての元来の理解を伝え ている. と考えらオ'ている。従って使徒職や使徒の本質につL、ての論

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議は,復活者による使徒の召しと派遺の意味から出発しなければなら ない。 しかしだからと言って,後に重要な役割を果すようになったル カの使徒概念を完全に否定する必要はない。それは神学的反省の出発 点ではなく,原始教会と生前のイエスの生や業との関連を問うルカの 関心から出てきたものである。そしてこのルカの関心は,今や歴史学 的根拠を失った彼の主張に従わなくても,理解できるのである。

でば,復活者の顕現とその委託による使徒職の基礎づけとは何を意 味するのであろうか。 これは,復活者の顕現が生前のイエスの現実と どんな点で違うのかを問うことに他ならない。 まず第一に, イエスに おいてすでに現実となっている,死から解放された終末論的生命が問 題となっている。第二に, それゆえイエスの復活の現実は, イエスが 生前に要求していた終末論的全権に対する神の肯定を意味する。第三 に, イエスの出現はⅢ 彼がそのために御自身の命をささげた派遣の更 新を意味する。到来しつつある神の国についての使信は, 今や, イエ ス御自身おける神の支配の開始の宣教という新しい形態をとってい る。 このようにイエスの復活顕現は. イエス御自身の派遣の確証であ るだけでなく、 弟子たちにとって. その派遣の更新を意味した。原始 キリスト教の使徒職ば, 死人のよみがえりというイエスに起こった終 末論的現実から始まっている。そして使徒の委託'5)も終末論的意味を もっている。 これは特に, パウロがイザヤ(11苫10)の終末的預言の光 りに照して引き受けた異邦人伝道(ローマ15: 12)に表われてL、る。ユ ダヤ・キリスト教的思惟からすれば.異邦人の悔い改めば,神御自身 のノjによってなされる出来事であり, しかもそれと共に神の支配が全 地にあまねく及ぶ出来事である。 この点でキリストの十字架は極めて

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象徴の神学、1I ) 13

重要な意義をもっている。パウロはイエスの傑刑の中に, 律法のゆえ にイエスがイスラエルによって拒絶された事実を見た(ガヲラヤ3: 13 以下)。今や律法なしに,すべての民に悔い改めが求められているので ある。使徒の行為は. イエス・キリストにおける神の終末論的行為と いう光の中で起こっているだけでなく ,終末論的約束それ自体の内容 を実現することをめざしている。彼は自ら神の支配の道具になろうと している。使徒は, イエス御自身の終末論的使信の継承者となってい る。今や, イエスの教えと業において示されていた来たるべき神の支 配が.すべての民に対する伝道の内容となっている。イエス御自身が,

使信の出発点であると同時に内容となっている。 これはⅢ 使徒の終末 論的派遣が変化を経験しながら継続されること, つまりそれぞれの時 代が使徒やその時代と異なる状況にあることを考慮に入れながら. キ

リストの使信を語るべきことを意味してL,る。

第2節は,以上のような視点が教会史の中でどのように保持され,ま た変化してきたかを論じている。使徒的であるとL、うことは, イエス のうちに出来事となり, 使徒たちによって告知された究極的真理を説 明しようとすることである。 この真理は,既に述べたようにⅢ この世 にとって来たるべきものである。使徒性にとって本質的に重要なのは.

イエス・キリストの出現の究極的真理を明らかにし, それをその時代 にふさわしい言葉で語ることだけである。従ってわれわれば.例えば.

恩寵をめぐるアウグスティヌスやルターの議論の中にも, 使徒的精神 を見ることができる'6)。そこでは多くの危険性にもかかわらず,キリス トの究極性が問題となっているからである。 さらにこの恩寵論の使徒 性は次の点に見ることができる。つまりそれが.個々人の生をキリス

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卜の救いに関係づけて,教会の多様性へと道を切り開き.使徒的派遣 の包括的特徴を示したこと,そしてそれが, この世と人間の変革を説 いたことである。それゆえ,教会ば教理を形成する過程で使徒的派遣 の終末論的方向性を失ってしまった,と単純に言うことはできない。た しかに問題があったことも事実である。例えば,原始キリスト教との 歴史的差異を無視して,使徒時代を規範化しようとしたり,今日,歴 史的研究によって明らかにされているような,新約聖書における様々 な緊張関係や対比を無視して, 使徒たちの一致を強調したりした。パ ウロとエルサレム教団との緊張関係も忘れられてしまい.それだけ,意 見の対立を排除する傾向が一層強められた。使徒的なものと過去の思 惟様式や生活形態を同一視した結果,教会は、新しい時代の固有な課 題や可能性に対し閉鎖的になってしまった。聖書の非歴史的解釈や使 徒伝承の非歴史的解釈は,かってはそれなりの機能を果していたが,現 在では不可能である。教会は使徒性の新しい概念を必要としている。そ れはⅢ 各時代と使徒時代の違いをばっきりと認めながらも,使徒の派 遣と関係を失わないような新しい概念である。 この点で,原始キリス ト教における使徒職に含まれている終末論的動機は重要である。 この 意味での使徒的教説の判断基準は,端的に次の点に求められる。つま りキリストの歴史や人格の究極的真理性と包括的普遍性一イエスの 復活において示された救済の力と世界を新たに照し出すその力 を 証明しうるその程度にかかっている。真のvitaapostolicaは,教会の 場合であれ個人の場合であれ, イエスの究極的, 包括的,解放的,変 革的真理に身をさらすところに生まれる。 ここでプロテスタン 卜教会 の聖書原理について考えて悪ると,今や歴史学の発展のゆえに, たし

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製徴の神学(11) 15

かに従来の形のままでそれを主張することはできない。 しかしルター が行ったように, キリスト宣教を使徒性の判断基準とすることは正し いと言わなければならない。事実, 使徒の派遣ばキリスト宣教のため の派遣であったからである。 カト リック教会の場合には司教や教皇の 職制の問題があるが. われわれはこれをアプリオリに否定する必要は ない。使徒の派遣はⅢ その派遣にふさわしく信仰者を導き, そのキリ スト宣教を継続することを含むからである。 この課題は内容的に相互 に関連している。 しかし.一人の人がこれを同時に担わなければなら ないわけではない。 この継承の問題も歴史学によって再検討を迫られ ており,真の解決の糸口ば「使徒的派遣の終末論的本質から教会の使 徒性を理解すること」17)にある。

第3節は「公同性」の問題を扱っている。使徒的派遣の思想は, そ れ自身のうちに公同性の思想を含んでいる。キリスト教会は,現在も 継続中の世界伝道とこれまでのその影響力の中で自らを理解する時に のゑ, 使徒的であると言うことができる。キリスト数会〈よ このよう に公同的である程度に応じて, 使徒的でありうる。教会の統一と公同 性は密接に関連している。 しかし両者は│司 ・でばない。教会の統一の 場合には,特に,すでに存在している教会相亙の変わり, キリスト敬 会と信仰の根源との一致. キリスト者個人と教会との一致が問題とな る。 これに対して公同性は.既存の教会の制約を越えてし、る。各個教 会は, 人類に対するその普遍的委託という観点から見れば, 特殊な存 在である。公同性はこれを越えて, まだキリスト教信仰を受け入れて いない世界と教会の関係をも含んでいる。教会の公同性あるいは普遍 性は. イエス・キリストにおいて人類のために起こった救済の普遍性

戸Pー

−bD−

(17)

とそれを人類全体に伝えるという教会の課題と深く結びついている。

教会が完全に公同的なものとして実現されるのは,終末時である。終 末的完成は世界史の最終段階であるだけでなく, 同時にそれ以前のす べての時代の裁きと成就である。「それゆえ教会の公同性は,厳密な意 味において終末論的概念である。」'8)歴史の中にある教会は,そのつど この公同性に部分的に与っているにすぎない。 しかもそれは,具体的 な形つまり多様で特殊な形をとる19)。従って公同性ば一様性(Unifor‑

mitat)を必要とするとか,真の教会ば目に見えないままであるとかい う主張は,誤りである。具体的形体はもちろん全体的な公同性と同一 でばないが, 各個教会は.歴史の中で完全な公同性を表わすことがで きる。キリスト教全体の歴史や遺産との連続性,特にすべてのキリス ト教信仰がそこから出てきている根源との連続性,過去と現在に端け るキリスト教信仰の多様性.キリスト教の来たるべき新たな可能性.特 に教会の派通がめざしている人類全体の救いを大切にするとき.各個 教会は. はじめて公同的になる。一様性を求めるならば, かえって公 同的多様性を失うであろう。われわればあらかじめ多様化のプロセス に限界をもうけようとしてはならない。むしろ外側から一様性を強制 しない方が. そして分化が進めば進むほどⅢ この多様性の統一を求め る声が湧き上ってくる。各個教会ば. 自らの特殊な形体を完全な公│可 性と混同しない限り, まさにこの特殊性のゆえに教派主義をのりこえ

ることができる。公同性感時間的・空間的普遍性のみならず, 内容的 完成をも意味しており, 教理の形成・発展もこの観点からとらえなお す必要がある。ある教理が異端的になるのは, それが部分的真理にと と'まり. キリスト教的遺産の完成と公同的真理の終末論的完成を自ら

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象徴の神学(II) 17

の視野に入れることができないからである。教会の公同性は終末にお いて完成されるのでありⅢ それが信仰の対象であることば,教会の使 徒性の場合と同様である。今日.公同的・使徒的教会を信ずることは

「実りあることであり,」20) この信仰のあるところで,教会は初めてⅢ到 来しつつある神の国の先駆者となるのである。

第5論文「諸々の信仰告白とキリスト者の統一」(1973年)2')"5節 から猫成され,教派主義とキリスト教的統一の問題を論じている。信 仰告白と信条の中心にあるのは,キリストに対する信仰告白である。し かもそれは, キリストとの人格的交わりを内容としている。福音書は この人格的性格を「だれでも人の前でわたしを受けいれる者を. 人の 子も神の使いたちの前で受けいれるであろう」 (ルカ12:8)22)と述べ ている。H、v,カンペンハウゼンによれば, このイエスの言葉は初期キ リスト教に直接・間接に大きな影響を与えた。 しかし, キリストや神 の子という称号の中に信仰告白の行為を詮ることはできない。「告白す る」 という動詞がこれらの称号と一緒に出てくることは稀であるとと もに, これらの称号は「人々の前で」という法廷のような状況に対応 していなL、からである。 このことはいわゆるペテロの信仰告白(マル コ8:29)にもあてばまる。他方パウロは「自分の口で, イエス依主で あると告白し, 自分の心で. 神が死人の中からイエスをよ.魂がえらせ たと信じるなら,あなたは救われる」(ローマ10:9)と語ってL,る。「イ エスば主なり」 との歓呼ば信仰告白である。 もし原始キリスト教のう ちに洗礼式文の存在が実証されないとすれば, あるいはパウロの定式 も洗礼式文を示唆していなし、とすれば.われわれは, 信仰告│ 1の概念 をこの種の型に固定すべきでばない。 /:ウロ<土イエスに対する僑仰i'i

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白を,礼拝において,主イエスへの呼びかけに参与することとして考 えている。その場合イエスは「主なるイエス」である。 ピリピ人への 手紙第2章に引用されてい為原始キリスト教の定式も, 「イエス・キリ ストは主である」 (ピリピ2: 11)と告白している。後に, この告白か ら洗礼式文や教理が生まれた。パウロは, ローマ人への手紙の中で,主 なるイエスへの告白は,彼が神によってよ悪がえらされたことに対す る信仰であると述べている。 これがやがて信仰告白の内容を吟味する 基準の一つとなった。復活以前に弟子たちは. イエスを,待望してい たメシア(マルコ8:29)あるいは父なる神の「子」とみなした。ある 人の信仰告白が現実にイエスにふさわしいかどうかば, イエス御自身 がそれを受け入れるかどうかによって決定された。 ところが復活後に なると,教団妹この問題をⅢ イエスの名と結びつけられた種々の解釈 に基づいて解決しなければならなかった。今や教団がイエス御自身の 立場にとって代り,教団によって受け入れられることが. イエス御自 身によって受け入れられることを窓味した。従って個人は,教団の信 仰告白を受容するという仕方で, イエスに対する信仰を告白するよう になった。パウロが考えていたのはこの蛎態であり, ヨ/、ネの第一の 手紙がイエスを神の子と告白しているとき(4: 15)も, 同じ事態が起 こっている。 この場合イエスを神の子と告白することは, イエス御自 身のゞ承ならず. 彼を通して神と結びつけられることである。 このよう な理解は. 人旧lと神との関係はイエスに対する態度によって決定され る,とのイエスの要求に対応している聾3)。後の洗礼告白はこのような告 白から出てきたのである。父なるお方を創造者なる唯一の神として告 白することば、 2世紀以来特にグノーシスとの対決において重要な意

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象徴の神学(11) 19

味をもった。キリスト告白の多様性は, イエスの名前と結びつけられ た称号の多様性のゑならず, 次のような言葉からうまれた。つまりそ れは 神ばイエスを死人の中からよゑがえらせ・た(ローマ10:9), イ エス.キリストは肉体をとられた(第一ヨハネ4:2), との言葉である。

そして最後にイエスに対する信仰告白ば. イエスから出て信仰者に永 遠の生命を保証する聖霊と結びつけられた。キリストを主(キュリオ ス)と呼ぶことが, その霊が正しいかどうかを見分ける基準である(第 一コリント 12:3)。後の洗礼告白の三位一体論的展開は241,このキリス ト告白から出てきた。それは, 神と信仰者の交オつりを保証する,神と イエスの統一という観点から つまりイエスの独自な意義を人格的に 告白することから出てきた。 しかもそれはすでに述べたように,教会 の告白という性格をもっており, イエスに対する告白の内容をより明 確にしようとするこの傾向は,誤った教説との対決によってさらに促 進された。

原始キリスト教のキリスト告白をみてゑると, そこではイエスの人 格に対する告白と. その告白を基礎づけるイエスの意義に関する言明 が結びあわされている。 この意義について一致できるかと.うかは.教 会の生命にとって決定的なことであった。 ニケア(325年), ゴンスタ ンチノーブル(381年). カルケドン(451年)の各信条において重要 なのは, イエス・キリスト , イエス・キリストと父の関係.聖霊, に ついての言明の一致が, キリストにおける一致. キリスト告白におけ る一致を志向し, そのようにして教会の一致を基礎づけていることで ある。 「イエス・キリストに対する信仰告白のこの人格的契機{土Ⅲ 教会 のあらゆる信仰告白定式の中心であり続けなければならな↓、。」251"

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理はもちろん不可欠なものであるが,信仰告白の場合には,それは奉 仕の機能26}を果すにすぎない。教会の信条ば, その元来の独特な意 図27)に従って検討されなければならない。各時代の信条は, イエス.

キリストに対する信仰告白の形式であり,その告白内容の同一性は,

「キリスト教の根本的な意図」28)に端いて保たれる。この観点から信条 をみなおすとき,われわれは歴史主義に陥ることなく,各信条の歴史 的相対性を正しく評価することができるようになる。教派主義の問題 もこの観点から砿な垢す必要がある。各教派は, イエス・キリストの 現実をどのように表現してきたか, しかもそれは,今日の釈義的.歴 史的知識の光に照して, どれぼど妥当性をもつのかを問わなければな らない。われわれは教義学的言明を信仰告白文書として.つまりキリ スト告白という人格的意図から理解しなければならない。「教会の統一 は, まず第一に教理の統一ではない。そうではなく教会の統一は, イ エス・キリストに対する共通の信仰告白に基づいている。」29)信仰理解 の上で連し、や対立があるとしても,必ずしもこの共通の信仰告白が不 可能になるわけではない。それらはむしろ.結局, 信仰を言い表わそ うとする│可じ意図から出てくるのであり,それらは相互禰完的である。

例えば, 16. 17世紀のルター派と改革派の教理上の対立も,双方の教 会が次のことを認めるならば,新しい観点がうまれてくるはずである。

そればイエス・キリストに対‑j‑る信仰告白が最も重要であったこと,信 仰理解の相違にもかかわらず, この意図の点で同じであったことを認 めることである。

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象徴の神学(1Iノ 21

V

第6論文ば「宗教改龍と教会の統一」 (1975年)30)である。今日,宗 教改革を考えるとき.われわれは,福音の再発見つまり神の自由な恩 寵の再発見, この福音に基礎づけられた値人の良心と信仰の自由, と いった肯定的な側面だけでなく , 西欧教会の分裂とその結果起こった 現代社会の世俗化, といった「怠図せずして」31)起こった否定的側面に も注意をむけなければならない。宗教改革のもともとの目標は全体教 会の改革にあったのであり, その意味で, 教会の分裂ほと'宗教改革者 の慰閣に反していることはない。ルターにしてもメランヒトンにして も. ローマ教会が義認の教理を受け入れさえすれば, ローマ教会の職 制そのものに反対するつもりばなかった。その後のプロテスタント教 会がこの事態に│式つき|)と気づかなかったのは,純粋な教理こそ真の 教会とこの教会の統一・の基本である,と考えたためである3忽)。彼らは聖 書の諸文書がもっている観点の多様性と歴史的制約, またその後の解 釈の多樵性と歴史的制約をとらえきれなかった。 しかも, この古プロ テスタンテイズムの排他的概念を打破するきっかけとなった歴史批評 的聖苔研究は, かえってプロテスタントの個人主義を促進するきっか けともなった。教会の統一ばさし迫った問題とば考えられなかった。し かし今世紀に)、って, エキュメニズム運動は.教会の統一がキリスト 者にとって不!11欠唯ものであることを明らかにした。 この運動ば様々 な要悶から発生したが. その主なものをあげると次の通りである。① キリスト者は誰でも今世紀の大きな社会問題に共同の責任を負ってい ることに気づいたこと。②特に伝道の分野において.キリスト教の分

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裂は致命的であることを味わったこと。③教派的伝統を主張‑j‑る傾 向が弱まり.一人の主との交わりを通して,すべてのキリスト者が結 ばれていることを改めて発見したこと。④文化プロテスタンティズ ムの主張とは反対に, キリスト者の実存にとって教会が重要な意味を もつことを, プロテスタントの教会も理解するようになったことであ る。従ってわれわれば, その中ですべてのキリスト者がキリストに対 する信仰において結びあわされるような, 「一つの真の公同の教会」33)

を目ざさなければならない。各教派の伝統は, このより大きな公同性 にむかって特別な貢献をすることができるのである。

ルターのゆずれなかったものは信仰による義認の教理だけであり,

それが受け入れられさえすれば、 プロテスタントとカト リックの分裂 の主な要因は取り除かれるであろう。すでに拳<の学者が.このルター の信仰義認の教理ば.教会分裂の要因となりえないことを指摘してい る34)。神学的には,信仰義認の教理が公│司性をもつことは広く確認され ている。従って教会の分裂は, 今日の眼から見るならば, 単なる誤解 から出ていると言わなければならない35)。 この誤解の大もとになった の城. 「中世教会の階層的・権威主義的構造」36)である。 この階層的・

権威主義的枇造と対立するのが.信仰による義認の教理である。 とい うのばそれば, 信仰者と神との直接的な関係つまり神信頼に基づく真 の自由の主張を含んでいるからである。 「このキリスト教的自由は.

……義認信仰の本来の核心であり,義認の教理ば, この自由の神学的 定式と基礎づけに他ならない。」37) しかしルターによれば,個人の信仰 とこの自由にとって不可欠なのは.福音が公に宣教されることと, こ の宣教を委託された教会の職務が存在することである。 このように神

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象徴の神学(11) 23

とのl貞接性と人間の介在は緊密に関連している。 この自由の思想ば宗 教改革の最も重要な遺産である。プロテスタント教会は, 今日この自 由の思想をキリスト教界全体にあてはめて考えなければならない。そ の他の多くの特色は,時代的に制約されたものにすぎない。 これに属 するものとして,例えば.悔俊に一面的に架中する傾向3帥.ルター派神 学が展開したような律法と福音の関係についての議論39>、 ルター派の 二王国説,教皇制とミサに対するルターの論争. ルターの聖書理解な どがあげられる。特に蝦後の点は, ルターが聖書における神の権威の 直接性を過大に評価していることと関連している40)。ルターは,基本的 には福音の伝達という人間の介在の必然性を認めていたが, この事態 の全体的意義をまだ十分に把握していなかった。それだけにキリスト 教的自由の思想は重要であり, それば, 社会生活と信仰の関係,信仰 理解の複数性, 神学の自由Ⅲ 職制の形態, 教会生活の理解などを再吟 味するきっかけとなるであろう。 この自由の思想ば近代社会に大きな 影響を与え,市民的自由をう ゑ│ │ 'す触媒となった4 '。その後この自由の 思想が忘れられてしまったのは,教会が分裂したためである。だがこ の荘盤を失うならば. 自由は個人の恐意とL、う空虚なものとなり, や がて自由の思想そオ 自体も侶川を失うであろう。その結果,新しい全 体主義が待望されるようになるであろう。教会は「キリスト教的自由 の生活空間」42)である。今日,蚊治の分野においてⅢ この自由の思想を 普浬的激ものとする機会はⅢ ほとんど失わオLている。教会はこの思想 を教えるだけでなく、 この思想を生きなげオ'ぱならない。 さらに教会 は, 自らの分裂状態を克服するという仕万で. この思想を実現しなけ ればならない。礼拝において聖擬が占める!:'1心的な怠義を再発見しな

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ければならない。聖餐と司教の職務及び教会の統一との関連ば,ルター にとってもメランヒトンにとっても,あまり問題とならなかった43)。し かし今日われわれは. この問題と真正面から取りくまなければなら衣 い。 「宗教改革の言明の限界は,教会の統一の問題との関連で,司教職 あるいは牧師職についての固有な神学を欠いていることである。」 ) アウクスブルク信仰告白は,職制の問題を教会の根本問題としてでは なく,外的秩序の問題として片づけてしまった4s)。ところが教会の秩序 は, そこでキリストにある信仰者の統一が問題となる限り.決して副 次的で外面的な事柄でばないのである。

第7論文は職務の問題を扱ってL、る(「エキュメニズム運動から見た 職務理解」1974年"))。この論文はDiedeutscheOkumenischeUniver‑

sitMtsinstituteが出したDasMamorandum(1973年)の内容の重要 性について論じている。パネンベルクによれば. この「覚え書きjに おいて注目に値するのは, いくつかの研究機関が教会の蝿務に関する 同意堺項を積極的に展開していることである。従ってそれば. 一般の エキュメニズム関係の報告書にみられるような,職務に関する教派的 見解の羅列に終始していない。それ繩,教会の職務についてプロテス タントの神学者とカト リックの神学者が共通に主張しうる事柄を例示 的に明らかにしようとしている。 しかしそれは.職務に関して内容的 に完全な教理を提示しようとしているわけではなく、 例えば. 司教職 の歴史的展開とその意義に関する記述,教皇に関する記述なと.を欠い ている。聖霊論についても同じことが言える。 しかも「聖霊論だけで,

カト リックとプロテスタントの職務理解にみられる伝統的相違を克服 することばできない。」47)そしてまさにこのことがI、覚え書き』の中心

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象徴の神'学(11 ) 25

問題である。第2ヴァチカン公会議は, 司祭職は信仰者の普遍的祭司 性と, その程度においてまたその本質において異なる. と主張してい る(Lumengentiumll,10)。 これはプロテスタントにとって受け入 れがたい見解である。 この区別は, それが信仰者の交わりという生活 連関に包z入込まれるときにのみ,受容可能となる48)。今日う.ロテスタン トとカト リックが共通の職務理解を展開する上で必要なのぱ, 信仰者 の普遍的祭司性と教会の特別な職務の関係を問うことである。『覚え書 き」はこの関係につL、て次のように述べてL,る。「按手を受けた職務は.

奉仕する職務つまり 『指導jの職務である。」この指導は.すべてのキ リスト者に共通のしかも中心的な課題,即ち自分たちがキリストの派 遣に参与していることを公にすることを内容としている。 このように 按手を受けた職務を教会員の指導の職務とみなす理解は. プロテスタ

ントにとってなじ 承のないものである。一般にプロテスタントでは.宣 教の委託を職務の中心と考えるからである。従ってフ・ロテスタントで ば,教会員の指導は補足的なものと考えられ、神学的に「中立的」49,厳 事柄とzAなされがちである。 ところがアウクスブルク信仰告白(第28 条)は、暗黙のうち(こ. しかも自明のこととして.指導の働きを宣教 の委託と結びつけている。それば福音の教えにおいて教会の統一を保 持し, 回復する働きである。それは宣教によって.教理に基礎づけら れた教会の統一を目指す働きである50)。 「指導」という概念城この課題 を指している。 しかも.教会の統一に対する最終責任は宣教の委託と 切り離すことができなL、にもかかわらず,按手を受けていない人が教 会員の指導に参与する可能性も, 否定されていない。それゆえ『覚え 書き』 (ま,職務理解に関するプロテスタントの一般的見解よイ)も幅底

ーー

J。

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い立場に立っていると言うことができる。

このように職務理解に教会員の統一に対する責任を含めることば,

職務についてエキュメニカルな対話を続けて行く上で重要である。 と いうのはアンテオケのイグナティオス以来. 司教職の発生とその発展 の核心ば.統一を配慮するという意味での指導の役割にあったからで ある。 さらにこの見解によれば,われわれは教会生活のすべての段階 で統一のために奉仕することを求められてL、る。 「覚え書き」はたしか に司教や教皇の問題I'こ直接言及してはいないが, その職務理解はこの 問題に重大な影響を及ぼすと思われる。 r覚え書きjによれば,職務はⅢ まず第一・にすべての教会員を含む全体教会に与えられているのであ

り, それば第二義的にの詮特別な種々の職務に分れる。今日この見解 はカト リ ック神学においても広く受け入れられている51)。それは第二 ヴァチカン公会議の教令の克場とも符合する521。ただし『覚え書き」ぱ,

カト リックと違って, いわゆる使徒継承の問題を司教の職務と結びつ けていない。それば『覚え課きjが信仰者全体を包括する考え方と, 使 徒・司教・司祭の関係に関する歴史学的研究に基づいてL、るためであ る53)。指導の職務の特質は. 「公開性(Offentlichkeit54))」つまり 「共 通の事柄を公にすること」 (テーゼ12)にある。按手礼は「キリストの 派遣を公にする全権」 (テーゼ15)を意味する。按手を受けた職務の特 質ば,すべてのキリスト者に共通の事柄を公にするための「全権(die VollmaCht)」55) と,それを用いて共通の信仰と派遣の統一をはかるこ とにある。 これは他の奉仕と異なる特別な奉仕であり,特別なカリス マである。 カト リックの中には, この「公開性の命題」に対して「キ リストの代理(ReprasentationChristi)」を主張する人々もあるが, 間

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象徴の神学( 11 ) 27

題は, この思想が按手を受けた職務の特質を表わすのにふさわしいか どうかである。すべてのキリスト者は, キリストとの交わりのゆえに キリストの聡務と派遣に参与しているとすれば,誰もが, 他者に対し ていわば−.人のキリストである。従って, この点に按手を受けた職務 の特質を見ることばできない。 キリストの派遣に参与することは. 他 者に対してキリストを代理することを含んでいる。従ってむしろ職務 の担い手は, キリストの派遣に参与しているという信仰者の共通関心 を代表すると言うべきである。

このように『覚え君き」の職務理解は.指導という観点と公開性と いう観点を結びつけている。指導の特質と課題は. 共通の事柄を, そ の他の教会員や世界に対して公にすることから生じてくる。キリスト を告知し、 その派泄を公にすることはⅢ 信仰における教会の一致をは かることでもある。職務の担い手は, 信仰者を励まして, 信仰の内容 に心を開かせⅢ さらに種々の賜物を結びあわせて統合する。 この意味 で,按手を受けた職務ば信仰の共通の本質を代理している, と言うこ とができる561。 l.覚えきき』では,職務と按手のサクラメンタルな性格 については、 直接言及されてL、ない。そればサクラメントという用語 が様々な意味で理解されてきたからである。パネンベルクによれば,

mysterionという言集はⅢ 異邦人をまきこむ神の救済意志(エベソ3:

4以卜) とこの救済恵志におけるキリストと教会の統一− (コロサイl : 27)を意味する。今日サクラメントという用語を使用する場合, この 次元を念頭におかなければならない。教会はキリストとの変わりのう ちにある罐的現実である。 この意味で.現代カト リ ック神学が行って いるように,教会をUrsakramentと呼ぶことも可能である 7)。16世紀

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のプロテスタントが要求したように, ある行為がイエス御自身によっ て始められたかどうかを,サクラメントの基準とすることはできない。

按手礼がサクラメントであるかどうかということも, この観点から考 えなければならない。 「覚え書きjによれば.按手礼は,按手礼を受け た人の全存在をかけた関わりを要求する。 しかもそこでは,按手礼と 叙任が区別され, 曲者は, 後者の制約された委託とちがって無制約的 性格をもつ, とされている58)。従って按手礼は,洗礼との類比から一回 限りのものとされている。 このような議論は,職務についてエキュメ ニカルな対話を継続する上で極めて有益であり,今後一層の検討を要 求されている課題である。

バネンベルクは第8論文(「聖餐一一統一・のサクラメント」 1971 年591)と第9論文(「プロテスタントの視座から見た聖従論の問題」1971 年60))において, 聖餐の問題を扱っている。パウロが, 「わたしたちが 祝福する祝福の杯,それ砿キリストの血にあずかることではないか。わ たしたちがさくバン, そればキリストのからだにあずかることではな いか。パンが一つであるから, わたしたちば多くいても. =‑つのから だ厳のである。ゑんなの者が一つのバンを共にいただくからである」

(第‑‑コリン 卜 10: 16以下)と述べている通り,キリストの体にあずか ることばキリスト者の交わりの根拠である。それゆえ聖餐は,既に存 繩する教会の統一の表現と徴であるとともに. キリスト者の常に新た な統一の源泉と根源である。聖餐の交わりは,教会統一という目標に むかうべくわれわれを励ます力, つまり今すでに働いているキリスト の力である。聖養は, キリストの死を思い起こすという仕方で過去に むけられているだけでなく. 同時に希望の徴である。新約聖苫(土. 来

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象徴の神学(II) 29

たるべき神の国における食卓の交わりとの関連を指示している。 とこ ろが,聖餐の歴史においてこのことはあまり注目されてこなかった。だ が. もし聖餐において来たるべき神支配における交わりを今すでに 祝っているとすれば, そして一・人の主の再臨を待ち望んでいるとすれ ば,教会の統一もまた,聖餐において既存のものとしてだけでなく,希 望の対象として現臨する6')。聖餐をぬぐる議論において重要なのは,そ の交わりの賭に招くお方がイエス・キリスト御自身であるということ である。 イエス・キリストが取税人や罪人たちと共に食事をされたこ とを思い起こすならば.教会は, この招きに条件を付け加えるわけに はいかない。真剣な気持でイエス・キリストの食卓にあずかろうとす る者を排除することはできない。聖餐論についての教派的な相違を,こ の排除の理由とするわけにはいかない。例えば,化体説に対する宗教 改革の批判は, 「意味の変化という思想(Transsignilikation)」62)が導 入されたことによって、今日でばそのままあてば主らなくなっている。

また,犠牲と.してのミサはキリストの犠牲の唯一回性をそこなってし まうとの宗教改革の批判に対して, カト リック神学は,聖餐はキリス トによってなされた一回限りの業をサクラメンタルに代理する, と考 えている。他方. ブロテスタン' 卜にとって信仰は, キリストに属する すべてのものに参与することであるとすれば. それはキリストの死が もつ犠牲的意味にも与かるはずである。各時代の神学的パースベク ティヴは種々の制約を受けているとしても, それによって神学が無意 味になることばない。むしろそれば, 信仰生活の現実,特にキリスト

との交わりという聖餐の現実は, 神学的反省によってとらえきれない 豊かなものである, との確信を与えてくれる。第二ヴァチカン公会議

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の教理にみられるように, プロテスタントの聖餐を全く否定するよう な傾向が一層弱まるとすれば. それだけ職制についての理解も深まる はずである。プロテスタント神学は,信仰者の万人祭司性に基づいて 職務を考えている。 これに対して現代のカト リック神学は.使徒的派 遣の継続はまず第一に全体としての教会に与えられていると考えてい る。両者の間に大きな相違は鍬られない。プロテスタント側も, 公に 行使される職務を単純に信仰者の万人祭司性と│司一視でき唯いことを 認め, さらに宣教と指導の課題を使徒的派遣の中でとらえるように なっている。 ここで教皇の問題は回避できない問題であるが. それに もかかわらず.この点で完全に一致しなければならないわけでもない。

今日, ある教派の聖餐式に他教派の信徒が列席するという意味での共 同陪餐(dieoffeneKommunion)ば実際に行われているが,今後それ はさらに公式の共同陪餐(dieoifizielleundregulareKonzeleblation derEucharistie)にむかって押し進められるべきである。

第9論文「プロテスタントの視座から見た聖餐論の問題」63,には「聖 餐に関するエキュメニカルな対話のために」という副題が付されてお り,全体は8節から構成されている。今日,聖吾の歴史学的研究が進 んだ結果,聖書それ自体の中に, 聖餐の意味や起源について多様な見 解のあることが明らかになった。そこで聖餐の問題を.歴史的・釈義 的研究とば別に,組織神学的に取り扱おうとする傾向が出てきた。例 えば, サクラメントの概念はその有力な手がかりとされている。プロ テスタントにば, もともと恵みの手段に関する教理から論ずる伝統が あり. 例えばパウル・アルトハウスもこの立場を取っている。 しかし プロテスタントにおL,て現在きわだっているのは, サクラメントの概

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箪徴の神学(11) 31

念を洗礼と聖餐の制度に関する要約として論じる傾向である。 これは アウクスブルク信仰告白と同じ論じ方であり64),W・エラート(Werner Elert)ば洗礼論と聖餐論を一般的サクラメン' 卜概念から始めることに 強く反対している。 この考え方は,サクラメントの数や本質をめぐる 論争にまきこまオLずにエキュメニカルな対話を進めうる点で.重要で ある。パネンベルクによれば.聖餐に言及している新約本文ばすべて.

聖餐の制定を復活前のイエスと結びつけており.洗礼の制定の場合の ようにそれを復活者と結びつけること(士できない651。E・ ローーマイヤー は, 聖餐伝承をイエスの日常生活における食事と終末論的食事の思想 に結びつけた。前者はイエスが御自分の弟子たちと. あるいは取税人 や罪人たちと共に守った食事であり,後者ば来たるべき神の国におけ る救済の象徴である66)。この考え方は,イエスの最後の晩餐に関する伝 承について懐疑的な立場をとってL、るE・シュヴァイツアーやW.マ ルクスセンによっても,受けj、れられている。 イエスの使信と行為の うちに.到来しつつある神の支配がすでに臨在しているように. イエ スとの食卓の交わりのうちに, 神の国における終末の喜びの食事がす でに先取りされてL、る。たしかに, イエスの復活と高挙に対する確信 は,原始キリスト教の聖餐式の実践と意味に影稗を与えた。聖餐は,十 字架につけられ, 復活し, そして再臨されるお方との交わりとして祝 われた。 しかしながら.次の事実は全く変っていない。つまイ)原始キ リスト教の伝承によれば, 聖餐の制定ば. 今や神の右にi向j挙された主 の生前の業にさかのぼるのである。 イエスとその使信に対する信仰告 白によって,来たるべき神の支配への参与が保証され, しかも今すで にそれが与えられているのと同じように. イエスとの食卓の交わりに

81

(33)

よって,来たるべき神支配の食卓への参与が保証され.与えられてい る。最後の晩餐の言葉特に「パンについての言葉(Brotwort)はこ の意味構造を含んでいる。」67)最後の晩餐の言葉は,さらに聖餐とイエ スの死との関連に言及している。例えば,終末論的な言葉(マルコ14:

25), Hyper定式に象られる砿罪モチーフ(マルコ14:24,第一コリン ト 11 :24b), パウロの想起モチーフ(第一コリント 11:25b),新しい 契約とイエスの血の結合, にみられる通りである。 これらのすべてが 第一次的なモチーフであるかどうかについては,議論が分れている。し かし終末論的な言葉については, ほとんど異論がない。そしてこの終 末論的な言葉によって次のことが明らかになる。 イエス御自身が食卓 の交わりに自らの死との関連を与えたのであり,賄罪モチーフ, 契約 の犠牲としての死という解釈,過越の祭との類型論的関係などは, こ のイエスの死に固有な意義を内容的に展開したものである。従って,イ エス御自身が自らの差し迫った死についてある特定の解釈を明言した かと.うかば 第二義的な問題である。依然として重要なのは, 食卓の 交わりへの招きとその意味内容一一来たるべき救いに参与しているこ と−がイエス御自身にさかのぼること, そして食卓の交わりが彼の 死の救済的意義にあずかることをも意味していることである。 しかも この食卓への招きば, イエスが取税人や罪人と共に食事をしたことに 示されるように, 当時の弟子たちの範囲を越えた普遍性をもってい

る68)。

教会史にみられる聖餐論をめぐる混乱の原因は, パンにつL,ての言 葉が, アラム語の形ではイエスの肉体それ自体でばなく, イエス御自 身を指してL、たことを忘れてしまったことにある。 さらに, パウロが

(34)

象徴の神学(11) 33

伝えている杯についての言葉も,イエスの血を直接飲むことではなく,

イエスの死において基礎づけられた新しい契約を指していたのに,教 会はそれを忘れてしまった。他方Ⅲ 聖餐をめ<‑る品近の議論は, カト

リック側においてもプロテスタント側に描いても, 聖饗によって与え られるイエスとのかかわりの人格的性格を強調している。 このイエス の人格は,来たるべき神支配との関連で把握されるべきであり, われ われが来たるべき神の救いに与っていることは, この救いの使者であ るイエスとの交わりによって保証される。聖餐において問題となって いるのは, この「救いの賜物の完全な概念」69)である。聖餐の賜物を聖 餐という人格的出来事と切り離してはならない。 これまで聖餐に関す る議論が, その諸要素にの魂集中してきたのば.聖餐の出来事におけ るキリストの臨在が,神顕現の意味で理解されてきたためである701.た しかにどの教派も, 高挙の主が十字架につけられて死んだお方と同一 であることを記憶していた。 この意味でイエスの死の想起は,聖餐の 中にも神学的反省の中にも生きていた。 しかし聖餐におけるキリスト の現臨の問題を, まず第一に,歴史的イエスと彼の十字架の死の出来 事に与かる問題としてとらえる観点は,生まれなかった71)。むしろ救済 的関心から.高挙の主の変容した存在嫌式に与かることが追求された。

従ってカト リックの犠牲という考え方は, プロテスタントよりも,聖 餐と十字架にかけられたお方との結びつきをより明確に表現してい る, と言わざるをえない。プロテスタントの見解ば.聖餐の賜物の中 に.十字架につけられたお方の現臨よりも十字架の懐牡刀「実」721だけ を見がちだからである。 もちろんカト リックの見解には, イエスの死 の出来事の反復とか補充という理解を含む可能性が残されているが,

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