誘導保育論の研究
一菊池ふじのの実践を中心として一
学校教育専攻 幼児教育コース 原 憲 慶
はじめに
現行の「幼稚園教育要領」は、保育者が「幼 児一人一人の行動の理解と予想、に基づき、計画 的に環境を構成すべきことJ、さらに「幼児一人 一人の活動場面に応じて、様々な役割を果たす べきこと」を改訂の要点として打ち出した。こ れは子どもの自主性と保育者の指導性を尊重し、
子どもと保育者が共に環境構成の主体者になる ための問い直しで、あったと考えられる。幼稚園 において、子どもと保育者双方の生活をし、かに 最大限発揮させるかという観点から、子どもの 自主性と保育者の指導性を問うた先達者の1人 が倉橋惣三であり、その実践は東京女子高等師 範学校附属幼稚園(以下、東京女高師附幼と略 す)の保安母たちの「誘導保育」として展開され てきた。本研究は、倉橋の保育者論、菊池ふじ のの誘導保育に見られる保育者自身の「生活性」
を明らかにすることによって、今求められる子 どもと保育者双方が環境構成の主体者になるた めの保育を解明することを目的とする。
1 .
倉橋惣三の保育観明治
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年の東京女師附幼に始まる我が国の保 育は、欧米直輸入の保育から「我が国独自の保 育理論Jを目指した中村E
ミ・東基吉・和田賓らの努力によって確立されてしだ。
大正
6
年、東京女高師附幼の主事となった倉 橋は、雑誌『婦人と子ども』などを利用し独自 の保育理論を展開し始めた。倉橋の保育理論は指 導 教 官 橋 川 喜 美 代
昭和6年頃までに、大きく 3期に分けることが できる。
[第1期:大正元年から2年] 系統的な恩物 指導に対する批判
[第2期:大正2年から昭和5年] 保安母の在 り方を説き、自らの保育者観の提示
[第3期:昭和5年から昭和6年] 保安母との 座談会を通した、実践的保育論の展開 倉橋はこの間、徐々に自らの幼稚園観・保育 観を変遷させつつその保育理論の核となる、子 どもの「生活そのものの誘導」という概念を確 立させていった。そして倉橋は、その「誘導」
の根拠である保婦の「生活性Jを劃見した。保 安母は自らの「生活性jにより子どもと実際生活 とをつなげ、また、子どもに先んじて活動を楽 しみ没頭するその姿勢こそが、子どもを「誘導J する。倉橋の求める保安母の「生活性」とは、す なわち保安母の真剣に生活する姿そのもので、あっ たとも言えよう。
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菊池ふじのの誘導保育菊池ふじのは大正
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年東京女高師附幼に赴 任した。赴任当初の菊地の保育は、倉橋が「ち ぎれ保育」と呼んだ日々の生活のつながりも子 ども同士のつながりもないもので、あった。こう した保育に物足りなさを感じていた菊池は、保 育室の砂箱の中に粘土で「ひじり橋Jを作るこ とに挑んだ。子どもたちの活気に誘導保育への 自信と手応えを得た菊池は、その代表的な誘導保育「人形のお家を中心として」に取り組み始 める。子どもが入って遊くる人形の家づくりと、
その内装や家具などを作ってして誘導保育の特 色は、菊池自身の計画が子どもの興味を喚起し、
一刻も早く活動したいと子どもを駆り立ててい く誘発力と、活動の中心に躍り出ることの多さ にあった。しかし菊池のこうした指導性が強制 に陥らない理由は、菊池自らの「生活性」にあ る。例えば、菊池は人形の家の壁に色を塗る際 も、左官屋として子どもの遊びに加わる。そう した菊地の姿は、子どもの興味を左官屋の仕事 へと導き、子どもは喜んで作業に加わり、遊び の発展をもたらす契機ともなった。菊池が行っ た誘導保育は、菊池の予想、をも上回るほど子ど もに受け入れられ、大きな盛り上がりを見せた のである。
3.東京女子高等師範学樹3付属幼稚園における 誘導保育
東京女高師附幼では、大正 7年、保安母とよ子 が「動物園遊びの記Jに記した誘導保育を実験 的に行っている。この実践は壁に大きな動物の 絵を張り、保育室内に動物園を作るというもの で、あったが、動物の絵を保育実習生が描くなど、
子どもが主役で、あったとは言いきれない点や、
ここで、使われた素材の大部分が紙で、あった点で、
なお試作的取り組みで、あった。
本格的な誘導保育の開始は、大正 14年に発 表された及川ふみによる「八百屋遊び」からで あった。これは1クラス内で行われる小規模な もので、あったが、後に幾度も行われるお底を主 題とした誘導保育の先駆けで、あった。この後、
各保婦が競って誘導保育を進めていくようにな る。昭和
3
年には新庄よし子による「幼児の仕 事の一つ一大工仕事ー」が発表されている。こ れまでは紙が素材の大部分を占めていたが、ここから本格的な木工が導入されてし、く。昭和 7 年に発表された村上露子の「わたし達の特急列 車『うさぎ披~J は樽を使用して実際に乗ること ができる汽車を作るもので、あったが、汽車の周 辺にあるものも製作している。誘導保育は主と なる1つの物だけを作るのではなく、子どもの 興味をその周辺に広げる役割を担うようになっ ていったo このように誘導保育は各保安母によっ て行われる中で、素材の多様化、規模の拡大と いった変遷が見られ また子どもの興味を実際 生活に向けるとしづ新たな役割を担うようにな っていった。そしてこれら保婦による誘導保育 への取り組みは、倉橋の保育理論の形成に影響
を与え続けたのである。
おわりに
菊池が子どもと共に作った人形の家には、屋 根が曲がっている、机や椅子ががたついている としづ問題点があったo しかし菊池はそれを修 繕していない。それは菊池が製作物を「作品」
としてではなく、「子どもの生活の道具」として 捉えていることの表れで、あったo つまり「子ど もの生活の道具」として耐え得るならば、外観 が多少いびつで、あってもそれは菊池にとって問 題にはならなかったので、あるo 菊池の視点はよ り子どもの近くにあった。これは菊池が常に子 どもと共に在り、子どもと触れ合い、子どもを 真剣に考えているがゆえで、あったと言える。こ のように常に子どもに寄り添うことによって子 どもの心をくみとり 自らの「生活性」によっ て子どもを「誘導」し得る保育者が今日におい ても求められているのではないだろうか。そし てそのような保育者こそが、子どもと保育者双 方が環境構成の主体者となれる保育を展開でき ると考えられる。菊池の誘導保育は、今日の保 育に多くの示唆を与えてくれているのである。