江戸時代に於ける悌教界の粛正様相
第一章 第一節 第二節 第三節 第二章 第一節 第二節 第三節 第三章 目 次 江戸幕府の封悌数政策の影響 悌教界の殿振 文嚢復興と各宗皐林 大乗悌読批判論 戒律復興運動 教界の墜落 天台宗安楽律騒動 異言宗内の戒律運動 第 一 項 明 忍 第 二 項 湾 巌 海土宗の復古運動 第 一 節 鎮 西 波 第 一 項 忍 激 第 二 項 皐 信 江戸時代に於ける梯教界の粛正様相 第三項 第三項 慈雲尊者飲光 徳 本井
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九 /¥ 第 二 節 西 山 波 第 一 項 南 楚 第 二 項 昌 道 第三項 助 第 四 項 俊 鳳 第四章 専修念併ど現世新薦 第一節 開通一流 第 二 節 大 我 第三節 文雄と敬首 第 四 節 批 剣 第五節 革新運動と宮借
第一章
江戸幕府の封悌数政策の影響
江戸幕府の宗教政策が俳教界に輿えた影響は大きかった。卸ち基督教を禁制するための政策が併教を保護する結 果となり、悌教界は頓に隆運に向った。然し外面は進展を示したが、其の反面には借侶の遊惰を来たし教界の魔敗 をもたらすことになったのである。想うに恩恵になれて活気を失い形式に堕したからである。ここに於て其の反動 される併教批判もしくは排併思想に刺戟されて大いに奮起する一面もあった。 として護法の念のあるものをして振い立たせ粛正せんとする運動が展開された。また儒教の護蓬に伴い儒者よりな 第一節 偶数界の殿振 徳川幕府の封併数政策は直ちに諸園大名へ響き、美濃の森忠政を始め多くの諸大名は 競うて寺領を寄進し或は寺院の修築を助成した。かくして併教界は幕府及び諸大名よりの物質的の保護助成ど宗教封策の矯めの制度としての寺請詮文とにより、寺院は好運にめぐりあうのである。 ﹃慶長見聞集﹄には﹁今や悌法 繁昌の故に江戸の寺々に説法あり、老若貴賎参詣の袖つらなり群集せり﹂また﹃大皐或間﹄に於て審山は﹁堂宇多 きことを以て見れば併法出来てより己来、今の此方のやうなるはなし﹂と述べ、田中丘漏の﹃民間省要﹄には ﹁夫れ寺と云は旦那の助力によりて立つの外に或は朱印地または御除地山林百姓地の持添等有て生れては取、死 しては日々施物を取る事多し。在家に謝して見れば何の不足も有るまじと魔ゆ。凡そ園々里々を見るに山林の 少も立繁りたるは御林の外は皆紳一世併閣の有なり。殊に紳吐多くは寺院の持ちにして唯一は稀也々と、別て元 さもなき寺ども御朱印地給はり騨路の停馬などは其の捉高 線の糊程諸寺諸山のいかめしく審りたる時はなし、 成事、さも不及、所々の寺々の衣食住の結構皆金銀をちりばめたるが如し。それにつれ色々様々の騒り法外成 事共のみならい惣て家来の面々償官は不及言、中間若葉別しては小姓廻し杯は奪りは筆にも額はしがたく、其 の権威をかりて同じく群中に害をなし候事一々あげてかぞえがたし﹂ ど極言し、正司老棋の﹃経済問答秘録﹄には ﹁近世宗門起って庶人を檀家と名づけ臣下同様にて一年の資供は租税と伴しく納入させ人を使うに公役に同じ﹂ 更に績けて ﹁人民は借を見ること父母の如く園君と雄も民心をうること借に及ばず、 一 乱 に 及 ば − h 戟閣の如く借徒に属して 叛く事もあらん﹂ とまで云っている。殊に一向宗の勢力について白石は次の如く述べている。 ﹁東西ともに本願寺は十高石格式にて将軍家へ勤めなり。又将軍家の御代替りには一向宗残らず誓一紙を仕て厳ず 江 戸 時 代 に 於 げ る 併 教 界 の 粛 正 様 相 九 九
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00 る な り ﹂ ところで賓暦年間の統計による一般傍寺借侶の数は僧侶約四十一高五千絵で湾土宗約十二高一千鈴、法華宗約八 高一千五百鈴、東本願寺波八寓、西本願寺波約四高一千五百徐等々 それが寛政頃には借尼合せて約四十六寓九千乃至五十高、それに謝する全人口は二千高徐とすると、二乃至ニ・ 五パーセントを占めていることになる。此の数字は果してどの程度賓際に近かったかは計り知り難いのであるが江 戸時代に於ける僧侶の賑々しきを知ることが出来るであろう。 市して霊傑の出開帳、秘併の開帳、霊場巡拝の行事も流行し、寺内の門前町が俄かに繁栄することにもなった。 開帳は寛文頃より漸衣隆盛に向い、江戸に於ける浅草観音、目白・目黒の不動、池上本門寺放立組師、青山善光寺 の阿禰陀如来、其他信濃善光寺、洛西嵯峨理迦霊像の江戸下り、敦賀原西福寺の諮上善人倶合一慮の鬼面縁起、同 じ越前の吉崎御坊の鬼面の由来等が作り出されての、或は開帳、或は出開帳が行はれる毎に老若男女は争うて参詣 し た の で あ る 。 また霊場巡躍としては江戸を中心とせる六阿禰陀詣、四園八十八ケ所巡奔、西園並に阪東に於ける観音三十三ケ 所、秩父の廿四輩、海土宗の元組大師廿五霊場、 七観音、六地蔵、十二所薬師、日蓮廿一ケ寺等、宇ば遊築気分も 交り此等の風習は楽ゆる事どなった。 市して開帳に際して大提燈、職等を掲げ或は珍しい造物をし門前町の繁栄と護達とはやがて遊楽の中心に幾りそ れに伴う弊害を取締る法令の護布を見る事になった。 ︵徳川禁令考、武江年表、巷街賛設等参照︶ 第二節 文事復興と各宗皐林 元和の寺院諸法度に借侶の資格を定め、 一定年限の撃業を終えざれば﹁出世借﹂になれぬ様にしたことが、借侶の地位を向上せしめた。また﹃徳川賞紀﹄にある如く本城に召して将軍が悌教 の論義を聞かれたことも好撃の気を盛んならしめている。 西洋に於てはルネッサンスと相前後して宗教改革の運動が起り、 また宗教より離れて新しい哲撃が次第に護達し た が 、 日本に於てもその気配があらわれている。卸ち或るものは大乗悌設を批判し、或るものは復古論を稽えて魔 醒を輿えんとし、安心問題に封しても異設が出て来るのである。詳細は次の章に於て各項別に記述するとして、主 なものを翠げてみよう。 その例を日蓮宗振にとってみる。日生・日尊が叡山に皐ぴて後ち三大部の講場を下線飯高に聞いたのは江戸幕府 開創後幾何もなきが日生門下より中村談義、小西談林、更に京都に於ける松ケ崎談林、本間寺山内の求法院談林に 波生して行くのである。 徳川幕府より特別の恩恵をうけた湾土宗にあっては芝増上寺の檀林を始め関東には逐次つくられた十八檀林が寛 永元年頃までに制定せられて僧侶の養成に了ったのであるが、檀林の事制には階級制度が巌重であって一種の型に はめ込まれるという憾みがあったどころから、英才にして自由に研究を進めたいものはここを遁れ出でるものもあ っ た よ う で あ る 。 延賓の頃、京都の獅子谷法然院を復興した忍激の如きはその一人である。別時念併を盛んに行いっ、一方に於て 組書の註懇講録の他に大戴経封校という大事業を完了したことは確かに檀林に立て龍る撃侶の到底なし及ばざるど ころであったろう。 また滞土宗侶であり乍ら敬首や普寂は律院を関創しそこに立龍り乍ら他面では著述と研究に身を投じている。其 江 戸 時 代 に 於 け る 梯 教 界 の 粛 正 様 相
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他、洛の京極了蓮寺の文雄は宗乗研鎮の外に音韻撃に通暁している。 員宗本源の皐林創始は﹃承麿閲鰭記﹄によると寛永十六年十一年十四日の慶讃式からということになっている。 ところで其の第二代能化西吟の講義に封して月感一味が勇敢にも異義を申立て興正寺門主准秀を味方にとり入れ更 に幕府に公裁を仰ぐまでに運動を展開したことは注目に値いするのである。また一如義の主唱者圏空は蓮如を批評 しているし、貞享三年には﹃一往再論﹄三容一冊を刊行している。そこに説く四十一箇傑は要するに在来の異宗の 勤めている改悔文等の教化は一往義であって再往異質の信心とは凡慮の測る魔に非ざる悌恩報謝など念頭にかけず して只だ稽名念併すれば自ら三昧成就の徳ありて不思議の境地に入るど説いている。回疋の設に謝して泰巌は賓暦四 年二月﹃真宗紫朱鶏﹄を著はして強く批弾し以て異宗正義を顕正せんと力めている。 大谷波本願寺の皐寮制は、本波より廿徐年遅れて寛文年中に始まっている。これが高倉皐寮である。ここに講師 及び擬講をおいて宗皐を研修せしめた。幕末の天保六年になると其の結衆が千六百二十二人にも及んだと雲華院講 師年譜には 4記されている。而して西本願寺波の皐林にあっては自由討究の傾向あるに封し東の皐寮は極端に統制を はかったのであるがそれでも深働・宣明の二師の如く皐轍を二つに分った結果をもたらせている。 第三節 大乗悌設批判論 併者の手にあった儒皐朱子撃が借門を離れて儒者の手に移った。林道春は本朝遁鑑 を編纂して外園を卑しみ我闘のみ等しとなし隠て併教の如きも排斥されることになったのである。江戸初期にあっ ては鵡宗の崇停、天台の天海、海土の存臆等の偉僧があって権勢の座にいたのであるが其れらの波後借侶の権勢も 低くなり紳儒二道の撃者が共に忌障なく併教を批剣することになったのである。また文嚢復興による自由討究の思 想が大乗非併設を生むようになったのかも知れない。﹁ 富 永 仲 基 の 傍 教 研 究 法 ﹂ ︵龍谷論叢二五六競︶で内藤虎衣郎博士は評論されて仲基は﹃出定後語﹄ ﹃ 翁 之 文 ﹄ を 著して大乗非悌設を説き、服部天滋は﹃赤裸々﹄、朝夷厚生は更に﹁出定後語﹄より統計十篠を抽出して﹁摩詞街 未審十傑﹂を出し、卒田篤胤は﹃印度戴士山﹄ ﹃出定笑話﹄を以て績けているが仲基の﹃出定後語﹄に殆んど論じ謹 くされているというのである。 此の非併設に封し湾土宗の文雄は﹁非出定後語﹄を出し、異宗の潮音は﹃掴裂邪編﹄を著わして紹封併設論を主 張せるも結局罵倒し降伏せりといふ態度にと Y ま っ て い る 。 ところが此の仲基の大乗非悌設論よりも先きに浮土宗の律院開租と稽せられる敬首のあることは注目すべきであ る。印ち﹃出定後語﹄出版の延享元年よりも九年前に﹃−理塔悌法大意﹄を著わしている。 それはその下巻に次の如 く記されていることで知られる。 ﹁子時元文二年丁巴春二月理瑠和上手書シテ見セ給フヲ寓ス 忍 海 時 年 三 十 四 ﹂ その本文中に ﹁結集に二あり一に公結、二に私結なり乃至私結は大乗なり、大乗は内秘なり、故に結すべき理なし﹂ 或 は ﹁悌法に公法私法あり、公法は公侍する廿四組の惇来これなり。私法は私停す。文殊馬鳴龍樹の停これなり。公 法とは三戴なり。私法とは大乗なり﹂ と。大乗は懇迦金口の直設なりといふ在来の設を疑える﹃出定後詰﹄に﹁持此読者旦十年﹂と?っ。 してみると果 して敬首ど仲基と何れが先鞭なるや定かではないが、敬首が前掲の如く書いていることから見ると、或ほ仲基より 江 戸 時 代 に 於 け る 梯 教 界 の 粛 正 様 相
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O 四 先きに大乗併設批判の考えをまとめていたのではなからうか。 次に揮土宗の普寂徳門は江戸目黒長泉院の住持となった持律借であるが、 その著﹃額揚正法復古集﹄巻第一に ﹁韓迦に大小の雨設ありて大乗は馬鳴龍樹の時に至り小乗皮相の弊を救済するに至るに大乗の秘密臓を聞きた り しー とあるは明かに程迦直設を非認している。徳門は華巌皐の立場よりして一乗異質四分律論者であり乍ら其の研究迫 攻の極、大乗は寝迦金口直設に非ずと看破して在来の教擦を打破しているのである。 第二章戒律復興運動
第一節 教界の墜落 一苅和元年五月に豊臣氏が全滅したあと徳川幕府は同七月武家諸法度、禁中並公家諸法度 と共に諸宗諮本山諸法度を定めて統制を期したのである。 就中寺院諸法度は一は家康の併教信仰による保護たるど共に、他に基督教防遁を目的とせられていたのである。 其の結果僧侶ほ生活の安定を保護せられて大いに教皐研鎖に精闘する利便を得て皐究偉才を輩出することになった けれども、反面に於て安逸になれ墜落沈滞といふ悲しむべき事態をも露呈したのである。 嘗時の教界の素乱を法令から窺うことにする。印ち﹃憲教類典﹄正徳四年三月の傑に﹁寺社境内の芝居停止、遊 女禁制﹂がある。修養道場たるべき寺社が遊蕩地化している一例である。また﹁徳川禁令考﹄によれば事保六丑年 五月の僚に﹁常州水戸三味堂に罷在候日蓮宗所化長延は五月二十三日より揚屋に入り根津門前茶屋にて隠責女と出 合い預金子まで遣い捨てたりとて﹁三日さらし﹂に虞せられたり﹂と記さる。﹃禁令考﹄享保十四年間九月廿五日の篠に﹁武州淵江領栗原村道心者西岸というもの同村輿四郎の女房に押而密 曾せし震死罪になり﹂と破戒女犯を記している。されば心ある借侶が内部にあって戒律を喧惇し外にあって幕府が 麿 懲 せ る も 斡 同 然 で あ る 。 徳川中興の英主と稽せられし八代吉宗将軍は華美を去り革清を叫んだが、 其の﹁寺院へ仰出され候捉書﹂ ︵ 憲 教 類典事保七壬寅年︶の第一僚に ﹁外儀を鋳らずして世風に同ぜず皐業を馳まし放逸に無之重夜傍道を行候事出家之本範也。然るに分際不相臆之 衣服を着し無量の道具を蓄え華美を好候ともがら有之由 玄々﹂ また同第七傑に ﹁旦那妻子を誘い参詣之節饗藤有之とも不及夜陰、尤住持之親類たりとも可准 五々﹂ とあるは寺院に在家のものを宿泊せしめての女犯を気遣ったものである。寛文五年に諸宗一般に謝して護布せられ た傑目五篠の最後には ﹁ 一 、 他 人 者 勿 論 親 類 之 好 雄 レ 有 レ 之 、 寺 院 坊 合 女 人 不 レ 可 レ 抱 ニ 置 レ 之 、 但 在 来 妻 常 者 可 レ 矯 ニ 格 別 一 ︵ 替 土 宗 全 書 第 二 O 巻五七二頁︶ どあり、妻帯者以外の女人を寺院坊舎に宿泊を禁じているのを想い曾わすべきである。 それにも抱らず破戒女犯のかどで罰せられたものが多い。 ﹃徳川禁令考﹄によると寛永六年肥前園長崎興一滴寺監 寺禅宗の玄光、同十二年佐州羽茂郡淳土宗光善寺住持聞隆、享保三年七月廿九日日蓮宗延命院日道、同院納所柳全 上総圏望陀郡新義真言宗薬玉院秀慶らの名があらわれているし、辻善之助博士著﹃田沼時代﹄に安永録の記事とし 江 戸 時 代 に 於 け る 併 教 界 の 語 正 様 相
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O 六 て安永六年八月廿三日小普請岡部徳五郎ど共に煮賓屋茶屋門前茶屋を飲み歩きじ帰国の各めをうけた話が出ている。 男借の不律に封し尼僧はどうであったか。尼僧そのものではないが尼借姿をした勘進比丘尼や熊野比丘尼の不行 績が﹃残口の記﹄ ﹃ 東 海 道 名 所 記 ﹄ ﹃人倫訓蒙園業﹄などに出ている。彼女は地獄境相を掲げ因果態報を説いて勘 進して渡世していたものがだん/\饗化して白粉をぬり紅をさし三絃を鳴らして遂には色を驚ぐこととなり、元総 から享保にかけて盛んに江戸を初め東極道諸所に横行し元文年間にほ武士ど心中すろ者も出て幕府より巌重に取締 られたといふ。是れらは純粋の尼借ではなく尼の姿を借りていたのではあるが悌法と関連せしめていただけに教界 の墜落の一端を示している。 幕府としては借風刷新粛正の取締令ほ績々護せられ寛政十一年に次いで文政十二年には四度も法華院諸惜の不如 法を律するの遣を示している。その一例 ﹁近来猶又相馳侯女犯破戒に及ぴ罪科に被魔候者も不紹、 それのみならず利欲に耽り或は不相態之金子借入、済 方不買等閑に致し候輩も有之哉乃至、俗人に紛敷衣服井被布等を着剰市中茶店等に飲食を怒にし就中所化共法 外 之 振 舞 云 々 。 一 宗 一 一 淑 途 評 議 相 伺 様 可 致 候 ﹂ ︵ 禁 令 考 所 引 ﹃ 地 方 公 裁 録 ﹄ ︶ 匂お文化文政の頃には僧侶が遊里に通うにその便宜に袈裟を着けず合羽を着用して外出をなせしにより、幕府は 大いに頭を悩まし到底戒律を守り得ぬ者ほ師借に警告して錆俗せしむる方法をとらしめたが、これも師弟の情買で 徹底せなかったようである。 また文化元年七十五才で復した中井竹山が松卒定信へ出したと稽する﹃草茅危言﹄にも寺町借侶の事として大坂 中心にのべられている。 ︿経済叢書第十六冊所収︶﹁大坂中の寺院議宗の借侶戒律を破し放逸無意の健たらく言語に紹したる事なり。卒生寺中にて酒肉を貧り公然 どして青棲華街に入るは言うに及ばず。寺内または外宅に究妻を貯へ生育を途て男子成は是を徒弟と係り後住 に任ずる等往々有て官府よりも本寺よりも吟味無ば其勢を次第に旗張する事に成り、廉恥は地を挽いたり。往 歳愚の門人たりし者の頼み寺の党妻子をうみたりとて其住持の借より檀越へ餅を賦りし事あり。或時三町人の 一人山村輿助話に其菩提所は先租の一建立故、住持の入院退院を始め線て寺務迄も山村より指園衣第成りしに 追々品替り今は住持甚だ樫を取り、何事を申ても用いず、 一向に手に合はぬ事に成たり。其故は買は四代績き の他家より相績に来り寺は三代迄賞子相績の故也とて大笑に及ぴたりし。目疋等を推て其他一切の乱行を想い見 る 可 し 五 々 ﹂ 向ほ近来の不法共を数え上げ巌罰のほどを述べて居るが、 一向宗に非る寺にでも隠し子相績という有様にて不犯 借は砂からず公然の秘密として党妻を持ち市かも施物を貧っていた。 ﹁年忌の事﹂の篠に ﹁凡そ年忌を怠れぼ寺より催促する者故中分以上に年忌を禁ぜらるれば寺より催促もならず﹂ と僧侶が布施物欲しさに年忌勤の事を催促するものと見てそれに反感をもっ儒者としての言であるが、更に ﹁年忌は必寛浮屠氏の物取に始りたる事を曾て心付き無貴賎一統に先租への追孝一大事の儀と心得たるは大間違、 是を苦々敷思より斯く陳述する
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A 々 ﹂ と 績 け て い る 。 また正司考棋も﹃経済問答秘録﹄ ︵巻十七惇道論︶に於て ﹁大酒せざる借は千借に一借、或は酔狂博突湾瑠利小唄舞踊等能く上首にして甚しきは姦通して堕胎致させ母子 江 戸 時 代 に 於 け る 梯 教 界 の 帯 正 様 相一
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O 八 共に死するものもあり、寺として十に八九は女居ざるはなく妄語戒を破り様々の妄語を以て愚夫愚婦を誕まし 併租の遺誠一として守らず、衣食住の憾に長じ日に月に奉加を催し庶人を虐ぐ乃至豚犬の心を抱き 一 品 々 ﹂ と云い授戒法要中にさえ濫行のあったことを同省十七授戒の係で ﹁洞家の江湖に授戒と名け血娠を掠えて居士大姉競を記して改名を授く。 由レ之衆くの男女鯨夫寡婦等其の寺に 同宿する事七日、是又嬉乱の媒酌にと云者也、古王代には尼といへとも寺宿を禁ず 去 と ﹂ 右の中井積善も正司考棋も共に儒者で排出仰論者にして或は誇張したところがないではないが上掲の慮罰の事例と 思い合わす時、全然誕言とは言い難く、其の墜落の一端を撃示したものと云わねばならない。 第二節 天台宗安楽律騒動 停教大師、慈慧僧正によりうち立てられた戒壇院も江戸時代に入り貞享年中には 全く衰微し妙法院真如法親王をして﹃額戒論闘幽記﹄の序に於て﹁元議兵焚之後、戒壇雄レ存市紹無ニ惇戒者−買紋 典乎哉﹂と歎かしめている。 此の時に蛍り妙立、霊空、玄円相績いで出世し租道復興を士山し安築院を弘律の根本道場と定め盛んに律徒を養つ て借風刷新を計ったのである。 さて妙立は最初繭家で得度し南山流の四分律によって二百五十戒を自誓受し自ら身を持すること頗る巌正であっ た。寛文十二年に改宗し比叡山に於て﹁四分乗皐﹂を創稽したことが嘗時の山衆に容れられず異議者として放逐さ る。依て洛東聖護院村に草庵を結ぴ五十四才で複し北白川に葬られている。 ︵弟子璽空の著草堂雑筆中妙立和尚行業記︶ その弟子に霊空がある。廿七才にして妙立に教えをうけ三十四才妙立について沙禰となり皐業を蹴み遂に管領宮 大明院公諮問親王の崇信を蒙り元総六年大戒奮跡再興の令旨を賜るまでに至る。依て元禄十一年三月、山家の撃則に久修業俵受があるのに準援して師の妙玄の稽えた四分乗撃を嘗てはめんとし ﹁一向大乗は初修業一紀心蔵山中の所行にして暫隔の相待戒なり。若し一紀を漏ずる時は式文の久修業によりて 集皐の行持を尽す。四分乗皐は汝等所行是菩薩道の開舎に則る紹待の妙戒なり。故に議山の大借も紀満後は安 築に来って二百五十戒をうけて初めて久修業の大借に成ることを得。是れ関山大師の本意に契える究寛の大戒 な り ﹂ と叫んで天台の借侶に小乗二百五十戒を授けて以て律儀を正させ借風を粛正せんと志したのである。 ところが、従 来からの山家波員流国耳らに﹁山家の好賊なり﹂と酷評され反謝されたのである。 そこで霊空は寛文三年安築院を弟子の玄門に譲り自らは各地の行化の放に立つ。 ところが同四年に大明院宮より 乗撃の御篠制を賜り師の主張・がここに初めて貫徹することを得たのである。 然し山家波としてはなか/\心服せなかったが﹁等如、妙乗、専信、 大 動 先 鋒 被 レ 中 ニ 毒 矢 一 ﹂ ︵山家大戒興廃略縁 起︶とある如く乗小に反封した山家波は大打撃をうけ殆んど姿を消すことになった。 想うに霊空の事徳共に秀でて おり、而かも管領宮の信望を厚くした矯めに小乗戒によって天台宗侶の刷新を計らんとした念願がかなえられたわ け で あ る 。 現在大津市坂本の安楽律院に保管せられている﹁安楽院井一波律院候制﹂に 一、龍山衆登壇受戒之節者安築院より可改詮明之旨輪王大王令旨にて候、登壇之刻安楽院輪番病気等指ツカヘ有 之節者安築院在山之大僧詮明可有之事 ︵ 乃 至 ︶ 右篠件、水々無相違被相守可被令法義相績者也 玄 門 江 戸 時 代 に 於 け る 梯 教 界 の 粛 正 様 相
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O 寛保三年笑亥七月 智 幽 ︵ 花 押 ︶ 安楽院輪番大借中 玄門は霊空の弟子である。天台借の龍山衆が登壇受戒の際にほ安楽律院より一々小乗の四分律を金水準したという 護明を貰わねばならぬという傑制で霊空の望みが達せられている。 然し山家波園耳律師、りは心窃に能らずして新宮公啓親王に訴えて、安築律は租意に背けることを委曲言上した。 偶ま安楽院三世玄門ほ死して中堅を失うたので山家波が勢を挽回し賓暦八年八月三日には一向大乗復古の制が管領 宮より下された。是れにはまた安楽院四方律徒が服さず、泰巌比丘を筆頭に七人の惣代が江戸に下り幕府に直接訴 願し寺一位奉行所の門前にて総死を遂げたるほどの決意を表している。 而して山家波の真流は公啓親王の崇信を得て一時は一向大乗をもり上げたものの加携する律借とてなく縫承者も 少数であったのに封し、安永元年に公遵親王が代って管領宮につかれるや翌日になって安楽院の律制を再ぴ小戒に 復せしめられる令旨が愛せられるに至る。 ところが三井寺の寺門波に頼道なるものあらわれ、此の日本天台の列租の轍に合わぬ妙立霊空の皐風に強く反謝 の態度をとり山門波の論に和して大いに復古道を唱えたけれども寛政七年五十二歳にて浸して其のあとをつぐもの が い な か っ た 。 以上の如く妙立によって提唱され霊空によって大成された小乗戒によって大いに革新を計った運動に謝して山門 汲並びに寺門波の反封があったにせよ、管領宮の力を得て小戒を以て革清することに成功したこどを認めねばなら 戸 、 、 A O み 匂 V第三節 真言宗内の戒律運動 古義の高野山、新義の豊山長谷寺、智山智積院が事相の外に性相撃にも英才を 出した程であるが、他面高野山に於て皐侶行人の乳礁を績け慶長十一年、寛永五年、寛文四年、享保三年、元禄五 年の紛議が著しいものであった。 不如法の借風が一世曾一般の墜落と相助長しあっているに釘し、戒律を以て自らも行持し他にも教え勤めて教界粛 正を計ったことをあげたい。 第 一 項 明 忍 ﹃慶長日件録﹄によると師は山城横尾山を去って慶長十二年七月十六日明園に赴かんとしたが海 外渡航を禁ぜられているので其の志果さず萱岐に滞留したのであるが、刻苦勉闘の戒行の様相に封し地方人痛く感 動をうけている。封馬巌原滞留中には湾土宗海岸寺住持和頗が其の行徳を慕っている。ところが惜しいかな慶長十 五年六月三十五才の若さで復したが、後世まで遺徳を停えたど見え、浮巌、慈雲も其の蓄蹟模尾山を訪ねて明忍律 師を偲ぴ持律の決意を誓っているほどであり、 また泊以後九十三年︵元禄十六年︶にして遠く山城横尾山より石碑が迭 られて命絡の地に建てられ、其の台石は封馬侯の寄付であることを想合せると其の遺徳は永く垂れたことである。 縫承者として良永、能圏、慈忍等出で其の徳風を慕い終に湾最によって律をもって一世を風擁するまでに至った の で あ る 。 第 二 項 浄 巌 字は覚彦、穎密の墜を朱ね究めていた。延賓元年自誓して菩薩戒を受け、次いで同四年二月には 受明濯頂を再興した。嘗時の真言一門において、教界の活動は洗滞し、戒律また萎微して振わなかったので明忍の あとを慕って山城横尾山に登り自誓して小乗の具足戒をうけ爾後諸国を巡拝した。途衣皐徒の集り来りて菩薩戒 を受くるもの一千徐人、三錦戒を受けるもの六十寓鈴、 その駿名一時に高く惇えられた。時の将軍綱吉は子なきを 江 戸 時 代 に 於 げ る 併 設 界 の 粛 正 様 相
以て貞享四年には生類憐感の禁令を布き悌寺僧侶に婦仰することが厚かった折りしも湾巌の高徳の程を知り元棟四 年八月綱吉将軍は湾巌の矯めに武州湯島に霊雲寺を建立せしめたのである。四伊巌は大いに護奮し同寺を戒律の道場 としたが、同七年六月廿九日には関八州異言律儀の借統に推翠されるや師はいよ/\異言律を公表し周年七月﹃員 言律盟問﹄なる車行本を刊行し寺社奉行所にも差出している。 ︵霊雲叢書解題参照︶。 その初めに ︵霊雲寺開山湾巌律師述芯調雲︶ F 照 校 刻 、 同県言律宗ノ事御尋ヲ蒙リ候間アラアラ注シ進上申候、戒律ハ諸宗一一通ズル法ニテ諮出家ノ通法ナレド律宗ト名 真言律簿 ルハ末世近世ノ出家多クハ戒法ヲ守ラズ候故無戒ノ借ト持戒ノ借ト紛レ候、是一一依テ乃至 員言律ト名乗申候 と書記しているどころから見ても醤時無戒破戒の僧侶が漸々多くこれを緊粛せしめる矯めに持戒奉律の者を一人 でも多からしめんと考え賓動したことが察せられる。更に績けて 真言宗ノ人動モスレパ戒ハ小乗ナリ、我等ガ皐ブベキニアラズト申シテ放逸無情ナルヲ我宗ノ法ノ様一一存候。 狭山ル一一弘法大師ハ小乗ノ戒律ヲ撃ブベシト記セラレ候。況ンヤ大乗ノ戒ハ云ニ及パザル事ニテ候、殊一一員言法 ハ天下ノ泰卒ヲ新ル法ニテ御座候一一、悌租ノ法ニ背キナガラ其ヲ行シテ験アルベシトム仔ズルハ不相臆ナル事ニ テ御座侯 右少シモ私ノ意ヲ交エズ悌租ノ法言一一任セテ記シテ進上仕候 元鵡七年七月 霊 雲 寺 島 見 彦 欽 上 寺吐奉行所 右の如く弘法大師が小乗の戒律を撃すべしと仰せられたとして小乗戒律の必要を盛んに説くことになったのであ
る 。 想うに大乗戒は精神的にして形式を巌格にせないことが遂に悪見に陪り墜落に流れ易くなるので、浮巌は律儀な る行いをなさしめるにはどうしても小乗戒の精細なるにつかしめねばならぬと考えたのであるが、 それはまた飲光 慈雲も、天台の安楽律院一波も等しく小一来戒に依っているのと相共通するものがあったのである。 ところで天台の山家波が小乗戒を反封した如く、海巌の運動に封しでも反謝はあった。それは上掲の文中に﹁異 言宗の人動もすれば戒は小乗なり我等が島一ふべきにあらずと申し﹂にもあらわれている。此れに謝して湾巌が﹁弘 法大師は小乗の戒律を皐ぷべしと記せられて候﹂ど庭ぜられている。 卸 ち 弘 法 大 師 遺 誠 ︵ 弘 仁 四 年 仲 夏 月 晦 日 | | 弘 法 大 師 全 集 第 七 巻 三 二 九 頁 ︶ に − フ y ヤ − 一 V テ エ メ 趣 ニ 向 悌 道 一 非 レ 戒 寧 到 必 須 一 一 額 一 密 二 戒 堅 固 受 持 清 浮 莫 v 犯 、 戒 及 聾 間 金 口 薩 等 戒 四 衆 各 有 二 本 戒 一 。 所 レ 謂 穎 戒 者 三 婦 八 戒 五 密 戒 者 所 謂 三 摩 耶 戒 、 亦 名 ニ 悌 戒 一 亦 名 二 議 菩 提 心戒一亦名一一無震戒 右の額戒を堅固に受持せられたことについては七大寺年表、行集記、本朝高僧待、異雅の空海和上惇記、石山寺 古文書等に於て年月日に差異があるも、等しく南都戒壇院に於て四分律の具足戒壇をうけられていることを停えて いるし、異言の租師恵果阿闇梨も四分律の人であった。されば異言宗にあって南都戒壇院に上り得度をうくると共 に五八十具の戒を受けるならわしが長く績いていたのである。 また異言所停の経典末疏を見ても小乗の戒律は差えないようである。 ﹃議伽論﹄に戒の大小は心の期するところ といい、善無畏の大日経疏には本所受戒を受くるに非れば真言に入る可からずとあって、小乗戒は排斥せられてい 江 戸 時 代 に 於 け る 梯 教 界 の 粛 正 様 相
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一 一 四 な い の で あ る 、 また事賞徳川中世まで南都の戒壇院に登っていたのである。 ︵故長谷賓秀東寺大皐教授談﹀ かくて湾巌によっ纏められた四分律は其の後貫行者も講究者も出て一時は盛んになった。それが精々影を潜めよ うとした時に慈雲尊者︵飲光︶が出て有部律を以て四分律に代え教界沈滞墜落の教界に封し樟寧在世そのままを目標 とする正法運動が起されるのである。 師は享保三年播磨に生れ、幼にして儒教殊に朱子を讃み後ち河内法乗寺貞紀について得 度し更に南都に入りて額密の皐を究めたが四分律の五百結集の文を見て大いに感奮し河内に蹄り野中寺に於て沙調 第三項 慈雲尊者飲光 具足戒をうけ盆々研鎖を重ねたのである。ところが嘗時の教界にあっては幕府の答にあって慮刑を受ける破戒慣が 多かったので此れを常道に戻すには正法律を守らしめる他に途がないど決意し賓動に移したことは﹃根本借制井高 貴 寺 規 定 ﹄ ︵ 飲 光 著 ︶ に記述するところによって窺い知られるのである。 そこには大は衆法、界の結制、戒の受捨、機の軽重、安居要期、窓説、治掻等より小は心念法衣鉢、坐具、紙支、 覆肩等及び日用の資事に至るまで悉くその弊を革正することを期している。 かくて師の教化によって感化をうけた ものが多く、就中弟子の親詮は最もよく師命を如法修業し瞳を攻めたので廿四歳の若さで天折している。 飲光は更に正法律の興隆に力を注ぎ延享四年には嬬津有馬の桂林寺に移って其の地方を教化じたが、風紀を正し くするには先づ其の衣装からという見地から袈裟を正しいものにすることを考え且つ賓施した D 卸ち唐宋以来袈裟 の裁製が正式に遣っているし、 その着法も亦正式でないこことを慨き、袈裟の裁製を研究して方服園儀二容︵刊︶と 慶 阪 園 儀 ︵ 寓 本 ︶ とを著わしている。而して賓暦の中頃、師四十鈴歳にして護願して如法の袈裟千衣を作って慶く 施し袈裟の模範を示さんと企園したのであって爾来師が示寂まで四十徐年間教化の傍ら尼僧を勤めて盛んに正しい
袈裟をつくり寄進せしめることにつとめたのである。 長谷賓秀師の蒐集された慈雲手控寓本五冊.を拝見したが、 そこに次の帳簿があった。 一、法衣護願裁製之簿 二、千衣袈裟之記録 三、千袈裟裁製之簿 四、千袈裟稲田簿 五、御袈裟千衣之ひかえ と題披は各別であるが其の内容は千衣の番鋭順を控えたものである。想うに長年の聞に書き績けていったので題名 はその折に思いついたまま記したようである。五冊の内容であるが其の出来上った袈裟を一々監査し記録しており、 施主、年月日、受持者名、針の縫様の種類、郎ち馬歯縫、烏足縫、編葉縫の三縫様を匡別して手控えられたもので 第五冊の中ほどまでが飲光の自筆であった、今参考の矯めに第一競衣と第千衣とを抄寓しておこう。 ︵第一冊︶法衣護願裁製之簿 第一衣 党字︵檀那波羅密︶ 木蘭色安陀衣 帖葉五篠一長一短馬歯縫 財鰻行布中量長六尺八寸鈴賢四尺二寸牢徐 助 織 慧日式叉尼 同 義文求寂尼 江 戸 時 代 に 於 け る 俳 教 界 の 一 帯 正 様 相 一 一 五
一 一 六 明和三年丙戊正月十六日奉施高井田寺 現前借伽 和 尚 位 飲 光 受 持 ︵第五冊︶御袈裟千衣之ひかえ 第千衣 党字︵一字金輪の種字︶ 蓮糸織 十九篠大衣割裁馬歯寛政一苅 年酉年 慈雲大和上様御護持 宗珠裁 慈雲導者千衣御袈裟御成就の御願心 文化二年二成就寛之 是によると飲光は千衣に満たずして死し、第千衣はその残後の翌文化二年に士山を縫いで成就せしめたことがよみ とれるのである。師の感化が如何に深厚であったかを察知することが出来るし、此の裁縫に閲輿した尼の教は百五 十鈴人を算することが出来るのである。 さて師は先きに生駒山に幽棲して道行盆々堅く徳化四方に渡ったが寛政十年には河内高貴寺に居を移し築壇結界 していよいよ持戒堅固であった。幕府も其の高徳なるを賛し同寺を正法律の本山となしている。受戒の道俗は買に 一高人を越えている。ところが文化元年十二月廿三日京都阿禰陀寺に於て八十七歳で寂を示す。 是れら異言宗内の高借による持律運動は誠に讃歎すべきではあるが教界の墜落は容易に止まず唯だ一時の併教穎 揚 一部の道俗共鳴者を得たというに過ぎなかたというのは遺憾である。
第三章
漕土宗の復古運動
第
一
節
鎮西派 徳川時代の部土宗寺院は徳川氏の香華院は勿論、さもなくとも特別の恩恵に浴したことが借 侶をして増上慢にし、而かも華美に陥らしめることになり律儀瀬療を来たすことともなり、心あるものは奮起し粛 正運動をおこすこととなった。また本山や檀林にあって宮借として振舞うことをきらって地方の卒借となり、宗一組 の昔に還って異の念悌借として教化に従事せんとするものがあらわれて来たのである。 第一項 忍 j勤 江戸芝に於て宗撃を修めたのであるが、 そ の 師 寓 無 が 知 恩 院 ︵ コ 一 十 八 世 ︶ に晋董するや江戸より 関西に上り京都東山鹿谷の元租教化の故地近くに法然院を開き中園慮山の白蓮祉の結制にならって別時念仰の道場 を山内の金毛院に別建した。市して六時麓讃を巌格に行じて借風をひきしめると共に宗乗を復興せしめる岳地めに贋 く組書を求め集めて研鎖に便ならしめ更に大蔵経封校という大事業をも護願しセ棒等の遺殺を正しく理解せんこと を 念 願 し た 。 倫ほ﹁別時念悌三昧法諺註﹄を版行するほど念悌賓践と宗撃に熱心であって、幾多の典籍をも上梓して教事に寄 輿するところが多かったのである。 忍激はその師高無が知恩院大僧正であった岳地め徳川幕府との交渉も容易であった便宜から寺域領田を得、法然、院 の寺観を整え、人材の養成、事業の完遂に事候かぬだけの資材に悪まれたのではあるが、他の香華院の如きになら わず華美を去り専ら質素閑静にしてひたすら稽名し乍ら宗撃も修め宗祖への復古の志を貫動して行ったのである。 高治二年出版の﹃風流可笑記﹄には 江 戸 時 代 に 於 け る 梯 教 界 の 粛 正 様 相 一 一 七一 一 八 ﹁嘗代の坊主共はただ賎しき百姓町人ぱらの子孫の身のすぎはひとして形を替えたるまでなり﹂ ジ ﹂ み ℃ ﹁嘗世の出家は何とした智恵もなく行もかひなく況んや道心のこと思ひょらざる只欲を好み不知足を専らとし楽 華におごり飲食を怒にする 一 品 々 ﹂ と痛罵しているのに封抗していたように考えらる。 忍激は主として鹿谷に龍り居て自ら先頭に立って教翠の振興と稽名、律儀を賓行していて外巡せなかったから各 地に教化が行届かなかったけれども其の徳望を慕って来集するものが多く、 それらが地方に踊って忍激の皐風ど流 儀とを停播したものである。就中三河、近江、大和には其の徳風をうけついだ末寺が出来た。殊に三河の貞照院の 如きはもともと捨世波であった寺が忍激の流を汲んで律院となり爾来末寺の躍をとるようになったのである。 第 二 項 皐 信 忍激の残後に皐信が出ている。享保七年伊譲に生れ湛慧和上について菩薩大戒を重ね受けてより 忍激の遺蹟たる獅子谷法然院に璃せられて住職となり、忍激の志を縫いで鹿山流白蓮吐念併を大いに復興せしめん どしたが、僅か五ヶ月にして思うところあって諸方巡化の放に出たのである。晩年には郷里なる伊藤松山の長建寺 に住せられんことを懇望せられた。固辞し難く住職する事になったのであるが、 それに先立って檀家の迭葬追善法 要には一切行かず、専修念悌一行に徹することを檀信徒との聞に約束しておいたのである。死人への引導よりも生 きたる人への教化を主眼としたのである。 ﹃ 草 茅 危 一 吉 ﹄ の ﹁ 迭 葬 の 事 ﹂ ﹁年忌の事﹂項で僧侶の布施貧欲有所得の 念を痛罵せることへ封抗している感を深うする。 師はまた松山城主の請によって香華寺大林寺を董するや愈よ慣行を正し戒法を巌守せしめ不軌のものは何人とい
えども忌障なかった。松山の有力なる家出身の尼に非法があったことを知るや法衣を脱がし門前に於て捜斥の法を 行 じ た と い ふ 。 師はまた宗租の昔より更に進んで程迦正法の古に復せしめんと志したことは柳か慈雲飲光と似通った戒の復古宿 望を抱いていたが、教撃の方面に於ても復古を志し、大蔵経を閲覧し諸宗を遁撃しその鯖結するところは厭積欣湾、 悌との二つを強行せる貼は、 念併の一行三昧を目指したのである。そして泣くは忍激、遠くは宗祖の背を偲ぽんと酌んだと見るべく、持戒と念 ︵ 遺 弟 慧 満 の 文 政 四 年 輯 録 の 皐 信 和 尚 行 版 記 また開通に類似したところも多いのである。 参 照 ︶ 師の教化を受けた松坂の信岡︵器開全十八巻三一七
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八頁︶ば開通と封比して闘通は悪人にも初めより本領を員向に とき因果を設かなかったが、事信は智人には初めより設けども悪人には漸次因果門より引き入れて願生浮土の念悌 心を設さしむる様に計りたりと其の差異を翠げている。 また皐信の停記中に現世祈祷を排除していない黙も関連と異っている。想うに松山太守の香華寺に住していたか ら随他意から排除せなかったのではあるまいか。 第三項 徳 本 出世慣の教佑が沈滞していたのに封し、平慣にして信仰篤く而かも活躍したのほ徳本及ぴその一 波 で あ る 。 徳本は賓暦八年紀州の生れであるが寛政五年十月には戸を閉ざじ釘付けにして濁り別時念悌舎百ケ日を修した。 然し未だ正規の出家の手績きを経ていなかったのである。 ところが此の念悌行者の信行談を聞かんとして各地より 結縁別時念悌曾を開鐙したいからといふ希望者が多く申出ている。藩主紀州侯よりも懇切なる招きを受けているが 江 戸 時 代 に 於 け る 悌 教 界 の 粛 正 様 相 一 一 九一 ニ
O 一化が終ると遁れて行脚に出るといふ酒脱ぷりである。享和三年十月京都獅子谷法然院を訪ねて剃髪して正式に出 家の姿となり績いて江戸へ下り宗戒雨脹布薩法式の相承別闘を終え再ぴ獅子谷に戻り別時念併に酌んだのであるが、 大和賞白川奥院並に紀州西山源の梶取締持寺より特招をうけ晩年には紀州侯にも召される等その感化を求めた者が多 く、其の中には三河の律院九品院を興した徳住を始め数多くの偉憎がいる。 ︵行誠著徳本行者惇参照︶ 倍て徳本が正式の僧侶の資格を受けない前に各地から招かれて別時念併を修行したことについて一言しておく。 ﹃徳川禁令考後家﹄巻三八に﹁俗人十念日停之儀数人に致停授、積物を取侯ものお仕置の事﹂という見出しで寛 延四年三月御仕置之例として 大 坂 北 久 太 郎 町 五 丁 目 大 和 屋 宇 右 稿 門 此宇右一街門儀怪敷宗門には無之候得共、俗人身分として十念日侍之儀数人江致侍授、植物を取候儀不坪候、然 共以来可相止由申之付其旨詮文申付俳壇併具取上げ軽追放可申付哉と大坂町奉行相伺 御 差 園 重 追 放 というように俗人にして十念惇授は禁ぜられていて慮罰をうけたものである。徳本は出世以前に随分と教化を行つ たのであるが、徳本は檀物を取ることが目的でなかったから色められはせなかったが、京都法然院にての剃髪につ づいて江戸へ下つての雨脈相承は此れら俗人の不正者ど混同せられるこどを恐れてのこどであろうか。 この十念惇授は鎮西波で行う五童相停の随一であって既に元和篠田第五篠にて﹁封在家之人不可令相侍五重血脈 事 ﹂ と あ り 、 そ の 第 二 十 六 篠 に は ﹁ 一 向 無 智 之 道 心 者 等 封 道 俗 授 一 一 十 念 一 勘 一 一 男 女 一 輿 一 一 血 脈 一 誠 以 法 賊 也 、 自 今 以 後 堅可停止事﹂とあるが、寛文十一年の檀林曾決議定書の第十五篠にも在家相停を禁じている。郎ち ﹁ 附 於 一 一 在 々 所 々 一 隠 遁 上 人 或 道 心 者 封 一 一 在 家 一 五 重 令 一 一 相 惇 一 之 聞 有 之 侯 各 強 可 レ 有 一 一 ム 思 議 一 事 ﹂ と重ねて禁じているのである。 ところが湾土宗寺院過去帳に或は墓石面に五重停授の詮としての春一競が付せられているのを徳川中世以後になる ど見うけるはこの在家五重停授の禁がゆるやかになった矯であろう。 第 二 節 西 山 派 文義復興の気運は自由研究を重んぜしめ古来の口停を軽く扱うようになるのである。而かも 同じ淳土宗にあり乍ら鎮西一阪が徳川氏と縁故が深く何かにつけて有利な地位に押上げられていた。 かくて群馬の吾 妻川東善導寺、越後の高田来迎寺等の大寺が鎮西へ封抗することとなり一方では鎮西波の皐林は制定以来湾土租師 の疏紗解程が盛んに行われ西山義はそれに追付くことが出来なかったようである。それでも宗撃の興隆を計った碩 皐も績々出ている。 第 一 項 南 語 就中紀伊梶取組制持寺南楚︵寛文十一年寂︶は宗義を長感にうけ天台撃を天海に、繭仰を園耳に海士鎮 西義を震巌に開いて市かも自家西山義の所信を唱導している。 ところが師は在来の宗撃者が古来の惇承末妙にのみ 拘泥する狭量を歎じ博撃の機能を傾けて﹃観経疏重笠﹄十三巻、﹃具疏記﹄八巻、﹃大経義苑﹄七巻、﹁論註随聞記﹄ 五巻等の著述をなし優秀な門下が多く集ったのであるが、師は自由討究を重んずる立場にあり殊に鎮西の霊巌に揮 土義を聞きてより盆々鎮西義に入り西山義の特色を失われたのである。 ここに於て西山波組以来の租書解轄をうけつぐものでは此の南楚の鎮西かぶれを嫌うものもあらわれた。 第 二 項 昌 這 竹林の昌道︵元禄十三年寂︶は西山波の中の西谷流、深草流の雨流をうけて源租西山園師の昔に還 江 戸 時 代 に 於 け る 併 教 界 の 粛 正 様 相
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さんとし、二流の調和を企てたのであるがムユ歩進めることが出来なかったのである。 嘗時恰かも天海借正の勢力が盆々大を示し西山波にあって天海の志をうけて皐ぶものが多くなり天台西山粂撃の 寺院がふえ天台が漸次西山波を侵かして行くような現象となったのである。そこで天台より引きはなして摩土義を 立てんとするには教義を鎮西に頼よることとなるし、戒儀は鎮西流によるか天台に依って園頓戒を相承するとい切っ 有様であって、洞空の如き翠匠でさえも西山家の戒は天台の戒そのままであると議表する程になっていた。 第三項 助 ︵元禄十六年寂︶南楚流の教旨信仰にも、天台流の園頓戒そのままとする洞空の考えにも満足せな い助三が出現している。師は遂に﹃園戒補助犠﹄三巻を版行している。是は蛍時の西山教界に一大ショックを輿え て い る 。 一世の皐匠洞空宗莞は早速駁撃を加えた。助三の弟子に阿三が有て東に下り幕府の公裁を仰ぐことにした。 ところが公裁は助三に有利の判決となり西の本山光明寺の悪雲は脱紫退山となり一山の評議によって世代より削除 さる。また主敵洞空らも脱衣追放に慮せられるという事になり助三の復古運動は功を奏したわけである。 第 四 項 俊 鳳 ︵天明六年寂︶波内より翠徳共に高く推賞せられた俊鳳は上掲の鎮西波撃信より園頓戒をうけ其の 著述に選揮集の末註である﹃同順正記﹄があるが、西山編古編等教部も公表しているが、師は鎮西流を唱導し﹁善 導吉水の義に稽はざるは園師︵西山︶の設といえども採らず﹂とまで宣言しているのは注目すべきである。 然し西山義の復古運動が全然なかったわけではない。幕末に出た亮範は西山光明寺に住持したが、師は﹃四帖疏 管規紗﹄、﹃選揮集管規妙﹄を始めとし塁陀羅事相の法門といふ西山義濁特の著書のほか、園頓戒に闘しては﹃園頓 戒集要紗﹄をも編し復古挽回運動に努めたが其れに賛同し教えを受ける者も多かったのである。また三河の音空に は著書も多く西山義復古は漸く命脈を伸ばすことになったのである。第四章
専修念併と現世新橋
第一節 閥遁一派 開通は一万藤九年四月八日尾張に生れ十六歳にして江戸に出で其の翌年より祐天大僧正に就 て停宗停戒、享保元年理瑠庵敬首和上より菩薩戒をうく。組童日を関讃し日課稽名三高遺を勘む。享保八年春、騎郷 の途中箱根の関所を通るに際し符券の必要から﹁生死輪廻の関所を越すには本願念悌の符券さえあれば闘を通られ る﹂どいふ托事観によって自らの名を﹁無磯関連﹂と改めたどりつ。後ち京都に上り霊漕和上を訪ね更に菩薩戒を 重受し自行化他に酌む。時に門人に示して日うには ﹁今時遁世出家の人多くは道念鎗亡して悌租の教誠を護らず、世上の無震に驚かず、正業を廃して空しく光陰を 迭り途に此度の往生を誤つに至る。我れ此れを悲しみ思ふによりて所々に道場を管構し遁世出家の人々を集め て 共 住 せ し め 、 一期稽名利殖させしめん矯め 五 々 ﹂ と。かくて享保十七年郷里西方寺に不断念悌を開始し以後所謂る所々の道場を建立しているが何れも六時勤行線 上堂、常行念悌番衣出勤、田疋を定式となして巌重であった σ 翌十八年此の尾張関中一色の西方寺を如法の律場とな し元文元年には闘成律寺と改稽しでいるが、そうする矯めに園麗へ七十二度、本山へ三十六度往反して漸く律場を なし得たという。其の間少からざる反封があった事が察知せられる。此の律場制定に就ては敬首の指揮を仰いで持 戒念悌を昂揚して念悌義を停えつつ教界の刷新粛正を考えたからである。市して志願成就の後ちには寺務は避けて 自行精働するのみであった。ところが師の徳を慕い或は停聞して来集する道俗は日増しに加わったけれども伽藍建 立等の念悌以外の徐善は勤めず唯だ念併の敷遍をのみ説いていたとい切っ。 江 戸 時 代 に 於 け る 梯 教 界 の 溝 正 様 相一
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一 二 四 嘗時の湾土宗門は徳川家の権勢をたより各本山では堂塔の建立または営繕が行われ、民間に於ても善根として造 管が勧進されまた事賞よく寄進せられたものである。そこを経済問答、秘録借道の中に﹁今の借は方便と云って寝 ても起きても財を貧る工夫するなり﹂と僧侶の貧施ぶりを翠示するのである。 此れに封し閥通は宗租の昔、宗祖の心行に還さんとし、往生以外には何の報いをも希求するを許さずご聾の稽 梯も更に徐報のためにせず皆悉く極築に回向せん﹂︵行業記巻上の自行義願文︶と述べ念仰を以て現世利益の新諮問に用 いる事は師の極力排斥する慮であった。 師の著述にかかる﹃本願念併勘化本義﹄には﹁近世もろ/\の現世のことを勘示し無智の男女をしてただ厭欣の 誠心を失はしむるのみならず 云々﹂と書き出し ﹁賓一昨延長武運輩固園安泰の祝一博は四恩報謝で是懇門の通法なれば閥く可らず乃至然し是れ宗門の別軌に異れば 隠自意の正意と混請する事勿れ﹂ と一往遁法としてい乍ら異質の意中の祈祷排除であったのである。印ち ﹁異質勘化門の日は別軌の故買に基き願行共に一向専修なるべき事は湾宗一家の公談也。重て乞う新て勘むる事 勿 れ 勧 め て 一 耐 る 事 勿 れ ﹂ と重ね誠めて勘化本義の結尾としている。然らば何故現世新薦を排除するかといふに本義巻上に ﹁一にほ惣じて厭機欣揮の宗風に合はざるが故に。こには別して至誠深心廻向の三心を失脚するが故に。三には 決して宗懐宗剣にヰ布達するが故に﹂ と廃立以正の立場をとって湾土宗の根本義を立詮せんと力め、十 J 個の章疏、十三個の組文をも引用して極論してい
る。この勘化ぶりを世に﹁閥通流﹂と呼ぴ師の在世時より一一種饗った教化法として認められ師自らも許している。 一枚起請梗概聞書春一に ﹁淳土宗の中にも何某の知識は心経を讃ませ施餓鬼をも修し文は新一瞬の矯に百高遍をも勤め現世安穣にも回向し て後生善慮を願求するこそ誠に目出度き教とこそ云うべきに一向に往生の矯許りと片向路なるは開通一流の勘 めに誰かされたる偏局者と名をや立つらん﹂ と開通流の綱領を明記せるにでも察せらる。 ところが此の化盆に磨くものが殖えたのをそねんで師の過失を認て書き連らねるもの、園膳に議訴して却て閉門 の禁をうけるものもあった。 それでも闘通は迫害を物ともせず元文元年三河の光明寺に、賓暦二年の頃には美濃岐阜の本誓寺に、明和四年に は近江の宗安寺に於て倫おも反撃の一一策風があったことは ﹁多念の口稽をのみ備に勘めて破邪顕正分明なりしによって他よりこの事を恨み念怒の鈴り蜂起して師を迫害せ んとまで催しける﹂ と行業記に侍うるとほりである。 師は更に京洛に入り賓暦八年には七本松に碍法輪寺を建てているし、加茂川の西三本松に於ても専修勘導をして いるが、嘗時京洛滞留中の事借の中には上記する開通の勘化法に封して反感を抱くものも可なりあったのである。 第 二 節 大 我 賓永六年に生る。幼少より内外典を皐ぴ廿三歳︵享保六年︶にして真言宗より潜土宗に轄じた が嘗時の江戸に於ける名僧と稽せられる者が競って名利を好むを深く慨歎し紳明に誓って清い生き万を選ばんとし 江戸時代に於げる併教界の霜正様相 一 二 五
一 一 一 六 て鎌倉光明寺稽馨翼察を頼より共に上洛し、知恩院四九世の室に仕えたが、 その異察大借正の寂後は黒谷光明寺に 身を寄せ専ら大蔵経の関讃に日を迭るうち迎えられて山城八幡の正法寺第廿二世を董す。この寺は名古屋徳川家と 縁故深く寺領よりの米牧の多き肉山である。ところが寺務の繁雑なることは大我の穣遁の士山と大いに髄離するとこ ろから辞意を洩らすも聴き入れられないので、師は一考し狂穫を装うて辞去し、岡崎に隠居し乍ら増上寺定月大借 正と詩文を交わすことになったのである。 ところで此の隠遁を好み名利を避けた清借と見らるる大我は蛍世を救わんとして革新粛正運動をしている前記の 関通や普寂徳門を嫌ったのである。開通に謝しては専修新薦論、扶宗論を著わして反駁し、並日寂徳門に謝しては性 悪論、遊芝談を作って盛んに反している。何故かような翠に出たのであろうか。 惟うに閥通や徳門は名利を避けて活躍し律院などを設けて大方の騎仰をうけている事が、大我から見れば買は名 を避けたようで却て名聾を博しているではないかというのではあるまいか。 また現世一前一障を却けて専稽名競に徹せんとした事に封して反感を抱いたようでもある。大我は檀林鎌倉光明寺や 租山知恩院という幕府直轄寺や御三家随一の香華寺たる八幡正法寺に住したことが名利を離れ乍らも不知不識の中 に幕府安泰を心の中に抱いていた官借である。そして正法寺の本山である百高遁知恩寺の百寓遁新薦や同寺所俸の 利剣名競の御利益を無に出来なかったようである。されば専修祈祷論の中にもその奥付にも﹁利剣名競﹂を付載し ている。また武運長久を祈願し徳川歴世の恩顧に報いんとしたことであらうし、また江戸幕府が新義取締令を出し ている趣旨にも添う矯め、関遁や徳門の巌正な現世利盆を避けて専心穏名するという設を、幕府に協調して所謂る ﹁新設﹂として排除せんと蹴起したのではあるまいか。
大我は名利を避けて隠遁したけれども其れは厭離穣土欣求淳土印ち往生願望が切なるが矯めでなく、繁雑なる世 務を嫌悪して詩歌関散の境涯に隠れる世間一般の隠遁者に過ぎなかったのではあるまいか。 かの世を率いて迫害に もうち克って宗風挽回せんとした関連の積極的に富んだ犠牲運動者どは相容れなかった筈である。 第三節 文雄と敬首 文雄は元藤十一年丹州桑田郡濃野村に生る。借総無相の別競がある。初め京都了蓮寺誓 願について内外典を習い音韻皐に秀づ。文雄の著に﹃専雑甑陶篇﹄がある。此れは弟子の文龍が師僧を追薦の矯め に版行したもので奥には ﹁ 明 和 己 丑 八 月 得 故上人之備考而謹謄寓之 文 龍 固 薦故上人七回報恩以謄寓罵﹂ と記されている。文雄の自殴には ﹁ 不 レ 精 一 一 撃 術 一 帯 一 ニ 口 氏 専 雑 一 同 ニ 軌 於 異 流 他 門 一 ︵ 乃 至 こ 出 則 奈 毒 壁 一 一 葵 生 一 今 京 師 之 間 法 俗 喧 意 稽 レ 之 可 レ 不 一 一 慢 慨 一 哉 玄々﹂ とあって専修と雑行どの匿別を明かにし雑行雑修の解稗を如何にすべきかが目的である。市して関遁一流の雑善排 除は嘗を失して極端に偏し寧ろ異流他門に類同せる邪義なりと開札している。 ところで知恩院山内入信院所蔵の文書中に﹁関連不退妄教化﹂と題するのがある。脚か繁演なるもあえて次に書 き出し文雄の所設と相似通えるを示さんとする。郎ち
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一、今時之湾宗本末諮寺元祖ノ宗意ニ遺スルト云寸ω
一、諸寺ニ観音地蔵之飴尊ヲ立ノ寸、一元組鎮西等之法敵ト阿スル寸。ω
一、在家之愚夫ヲ勘メ観音地蔵其他諸尊ヲ悉ク捨サスル寸 江 戸 時 代 に 於 け る 併 教 界 の 霜 正 様 相 一 二 七一 二 八 二州遠州遅一一テハ河へ流シ侯者多有之候。
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一、本末ノ寺院ニ施餓鬼頓潟働法諸法要一切聾明等悉皆雑行、元組之捉一一違スルト阿スル寸ω
一、海宗知識ト稽スル者念悌勘進ノ者元組ノ提一一背キ正義ヲ失スト云寸ω
一、震位回向現世護念ノ矯ト稽スル念悌ハ一向利盆無之ト云寸 m w 一、寺院霊牌ヲ立薦幅トス皆宗意ヲ失スト阿シ在家ヲ数エテ先祖ノ位牌ヲ河ヘ流サシムル寸ω
一、戒名ヲ呼或ハ書ク寸ヲ甚ダ阿スル寸 付 寺院へ戒名ヲ書キ廻向ヲ頼ム寸ヲ妨グ寸 剛山一、部土宗一二向新一橋ノ沙汰曾テ無之、現世ノ矯ニ少分心ヲ寄スルハ皆元租流ノ念悌者ニ非ズト阿スル寸ω
一、祈祷論等世ニ行ル寸ヲ聞キ官口通ジ賂貰逗リ欺テ流行ヲ妨グル寸ω
一、古来勅命ニテ念悌ヲモテ災疫口除等ノ寸ヲ云治ス寸ω
一、幡随院方丈等ノ高徳ヲ嫌ヒ在家ヲ集メ貴人ニ封シ甚ダ悪口罵辱シ宗旨ノ安心ヲ不知ト阿スル寸其ノ上又其高 徳 ニ 拝 謁 ヲ 求 一 ア 欺 ク 寸ω
一、金銀ヲ不思儀一一自由シ貧乏ノ在家老婆愚俗ニ勘メ入黛ヲ成シテ道路ニ名競ヲ弘メサシ虚談ヲ侍テ巳ガ類一一入 ノレ 寸 凶一、貴人ニ立入縁ヲ求テ巳ガ勝縁ニスル寸 同一、是迄ハ諸園説法ノ所多ク禁ゼシ説法停止ノ寸 同一、寺院ニテ亡者ヲ大切一一シ引導ト稽シ併前一一出シ法要ヲ岳地ス寸揮無盆非法ナリト阿スル寸同一、在家へ教ヘテ死人ヲ庭端一一取出サシムル寸 側一、在家へ勘テ悌壇ヲ藤サシムル寸 同一、父母ヲ養フヲ捨テサセ少婦女児ヲ勧テ尼ニナシ所属一一スルモノ都部甚ダ多シ父母等、甚恨ムル者多キ寸
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一、説法ニ自分悌ナリ悌一一銭ヲ投輿スル理無之、甚ダ無麓ナル志ヲ起シテ施ス者心有ラバ房へ持参レト勘ムル寸ω
一、説法ヲ間ク者多可申念悌悉皆無盆一一勘メ来ルト恨ル者多キ寸 凡ソ法ヲ荷ヒ衆ヲ領スル借侶ハ寺院ニ依テ口口口稗尊ノ遺法内法軌則ヲ以テ進退セザレパ別ニ依リ魔ナシ、弦 一一依テ随分律儀ヲ守ルベキハ租ノ教ヘナリ。六粛施食放生湾儀建立薦七追福度生説法種々方便ヲ善巧シテ諸天 紳祇鈴等徐悌外護ヲ求メ世不卒ナレパ法文住セズ、是ガ矯一一闘家安全宗教賢布ノ新薦ヲナス寸ハ海士宗ナリ陀 遁ル、ナシ。素ヨリ浮宗ヨリ七雑消滅賢済衆厄ノ選要ナル念傍ナル故嘗時百年昇卒念併祈祷ノカナルヲ我宗ニ 祈祷ナキト申ハ他宗一一力ヲ輿ヘ我宗ヲ陵蔑スル傭外道ナリ。選集井ニ妃詩文ハ世モ法モ常緑ヲ放下シテ車修一 行ニ結腸スル出家在家ノ行者一一教ル也 往生之業念悌岳地先ト云、又往生極集ノ矯ニスト能別ノ言ハ置玉フヲ出家在家トモ結縁蔦事如此一一教ルニ非ズ ト出家荷法ノ人ハ懇迦ノ教ヲ進退スル寸別ニ教へ玉フニ不及故也 其遁世専修ノ行者ト稽スルハ世ヲ遁レ関連如キ隠者コソ諸縁慶却念悌一行ニ結腸シ見併等ノ好相ヲ求ムベケレパ 彼借モ自ラ口ニハ専修ヲ勘メテ 持粛ナドシテ沙門ノ行ヲナシ彼ガ所謂 雑 行 田 疋 江戸時代に於ける傍教界の粛正様相 一 二 九一 三 O 粛 曾 ノ 家 一 一 赴 I/ 是 論旨ヲ得現世ノ新ベキ勅命 I/ 目 疋 努力シテ説法 I; 是四 無盆ノ書述世ニ行 ひ 是 五 寺ヲ建立ス 、 是 六 推シテ人ヲ勘メテ多度シテ借一一スル寸 I/ 是七 是等ノ行、選揮集ノ何虞一一有リト矯スヤ、人ヲ専修ト勧メテ自ラ一専修ナラザラルハ如何、無顧ノ悪人此人ニ非ズ ャ、在家ヲ専修ト勘ムルハ世人裏山エ入テ諸縁ヲ捨テヨト勘ムル意ナリヤ。 然ラパ闘制ニ背ク大罪也。 在 家 不 レ 苦勘テ専修ニ結騎セパ一向宗ノ勘メニ無レ異事、 悌紳ノ徐縁悉ク嫌ヒ捨テ、活世遺悪ノ結縁ヲ許ス寸甚ダ宗一一選 セル勘也。僧侶信伏シテ黛ヲ矯スヲ甚ダ未審、将タ密カニ魔事一一テモ修兵ル寸ニヤ、知識多ク是ヲ疑フ具眼ノ人 被借詑惑テル明ニ知ベシ ︵ 以 上 ︶ 右の妄教化筒傑の第二際、第三傑の地蔵観音徐尊を轄することを関連が駿せしめたといふ。文雄の﹃甑陶篇﹄の 七丁右に善導の清海大海衆の言を引いて駁せるど相一致している、然し闘通の著によれば河へ流さしめるが如きは 無かったようである。 ﹃燈嚢讃歎章﹄十七丁右に﹁念併は一切諸併如来の名競を唱うると湾しければ格別の必要なし﹂との思想を述べ ﹃一枚起請文梗概聞書下﹄ ︵ 静 全 巻 九 、 二 二 六 頁 ︶ に は 最 も 遁 切 に 論 じ て い る 。 ﹁念悌者は徐法飴尊を捨てて殻らず貴ぴて用いざるべし﹂
という態度である。文雄に駁論をなさんが矯めに過激に言っている,駒は、上掲の入信院の文書と相共通している。 また第四傑の施餓鬼排斥は事費であったが此れに謝して﹁専雑甑陶篇﹄廿四丁左三行に ﹁ 施 食 ノ 法 蓮 門 普 修 母 一 一 廼 不 雑 一 興 謂 梯 門 之 遁 軌 禅 教 顛 密 普 F 修 λ ﹂ との理由を以て駁せり。入信院文書と文雄の所論とは相通の気脈ありたる如きも入信院文書には其の年月人名を紋 く震に果して誰の手になるや断言し難し。然し入信院には前掲の開通の﹃本願念梯勧化本義﹄があってそれに文雄 が一々駁を書き細注を入れている。きれば上掲の﹁闘通不退妄教化﹂なる文書も、勧化本義本と共に入信院に入つ て来たのではあるまいか。 倍て文雄の住持せる京極の了蓮寺︵現在は百寓遍内に移転して来ている︶も百寓遁祈祷勅願所知恩寺の末寺であるこ どは前記の大我と共通の立場であることを想い合わすべきである。 文雄は同志である大我の﹃間津決﹄を﹁甑陶篇﹄に引いて来て専修不一聖腐を駁しているのも大我と相通じている 貼 で あ る 。 衣に文雄が敬首に封面したことに輝一れておこう。敬首は関遇の律における師であった。 ﹃ 甑 陶 篇 ﹄ の 廿 三 丁 終 二 行 に ﹁ 法 俗 不 受 戒 不 一 一 韓 中 之 人 一 ︵ 乃 至 ︶ 執 一 二 行 一 慶 一 一 徐 行 こ と い う 設 を あ げ 、 か く 唱 え る 或 師がある。その文雄がある師と言えるは、弟子文龍が故師︵文雄︶の心は敬首を指していると、傍註を施しているの である。そしてその設に封して﹁謂如レ所レ聞非ニ吉水之徒乙ときめつけて、戸羅の極難ほ揮土易行の宗義に合せな い と 云 っ て い る 。 ところで敬首が元文五年庚申夏四月下旬に出した﹃揮土解行紗﹄の中に 江 戸 時 代 に 於 け る 梯 教 界 の 粛 正 様 相
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問 今時湾土宗と名つく者の剃髪はすれ共、受戒をば嫌いて受けず、肉は頗るたしなへとも酒五辛をば服用す。 衣は着すれども袈裟をばはしらず。五種の正行にあらぬ施餓鬼をなし、寺塔を建立す。これにても吉水の流義 な り や 。 タにどコ 予は世の揮土宗を不知、故に是非すべき様なし、然れども尺八を吹いても潤宗と名のり日蓮が徒も法華の行 者と思い、万杖を帯し兜巾を頂きても異言の行者と呼ぴ、肉食妻帯しても出家かと思う。至愚あれば上に下の 隠う如きの身持にでも浮土宗と思うて終身ゆめにて一棺の土となる者もあるべし。怪しむに足らぬとなり ど嘗時の教界を皮肉り、更に最後に ﹁諸数立義不同委しく記せるものなし、故にあらあら之を記す。海土宗の中に於ても難行易行のあることをしる せるものなし。図に之を癖じて初心修業を湾う者なり。 ど、其の説くところは持戒を勤め念悌門については慶立矯正のたてまえであった。 ところで文雄の住せし了蓮寺には右の敬首著﹃海土解行紗﹄を文雄が自ら書寓して其の次に文雄自ら著述せんど する﹃淳土解行紗正託章﹄を付けた書冊が癒せられている。駁論書である。その中で文雄は ﹁吉水の教は必ずしも戒行具足せざれば往生せずと教え玉うにはあらず。随分に護持すべきなりと示し下へり。 末法は戒力のっとめ難きこと、日本園頓戒の元祖たる停教大師聖道の人師として千歳己上の明鑑云々﹂ と云い、また ﹁偶ま揮土の門闘に入れども吉水の租訓を斥い好んで奇設を吐て愚人を驚かす。唯是名利鈎るの謀計にして厭械 欣揮の正信に喜もあることなし﹂と。敬首と文雄との思考は照合してみて全く隔紹していたのである。向ほ大一架悌読論についてもこの雨者は意見が 相 反 し て い た 。 さて湾土宗に於て施餓鬼舎を修することを上競に論難しているが、元祖法然上人には施餓鬼曾について、述べら れてあるを未だ知らない。先年嵯峨正定院戴書中に﹃裸緋﹄慈雲著あるを知る。此の慈雲は真言の慈雲骨持者飲光で はない。京洛西光寺住とあるも停記は未解である。鎮流組停の慈雲ならば菅原岳地長の息にてそれでは鎌倉時代まで 遡り徐りに古すぎる感がある。兎まれその著書には淳土宗にて施餓鬼曾を修することは雑行雑修であるからといっ て極力排斥すべしと論じている。此の嵯峨正定院は東山一心院の末寺でもともと捨世波に属していて、専修念併を 唱道し、施餓鬼曾などは排除して来た矯めであろう。 第 四 節 批 判 さて文雄等が現世祈祷を主唱する所以は四恩報答を高調し皇帝永岡武運長久を志しているし、 目疋れを排斥する反釘波に封しては忘恩者または凶首と罵倒しているのである。庭で幕府から現世一耕一瞬 1 1 特に武運 長久ということを指示したのであろうか。淳土宗に封しては其の沙汰はないが、員言宗に下した元和係自には明か に新藤を制定している。また寛文己酉︿九年︶正月四日井伊兵部少輔へ御渡されし篠令には次の如く御朱印寺に於て ほ祈祷を行わしめられたのである。即ち憲教類典によるに 寛文己酉年正月四日 井伊兵部少輔殿 御 渡 御目付江 諸国御朱印之寺吐領於五穀豊熟寓民安穏之儀一統にて可途新薦候、尤守札護符様之品施行候も勝手次第にて侠 江 戸 時 代 に 於 け る 梯 教 界 の 粛 正 様 相