• 検索結果がありません。

国立歴史民俗博物館研究報告 第 172 集 2012 年 3 月 はじめに 東北地方南部 阿武隈川上流域において 縄文時代の集落景観は縄文時代中後期の移行期に急変 する 竪穴住居から平地式建物へ 複式炉から石囲炉へ そして敷石住居受容 屋内墓から屋外配 石墓 石列区画施設の出現など さらに貯蔵用大型

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "国立歴史民俗博物館研究報告 第 172 集 2012 年 3 月 はじめに 東北地方南部 阿武隈川上流域において 縄文時代の集落景観は縄文時代中後期の移行期に急変 する 竪穴住居から平地式建物へ 複式炉から石囲炉へ そして敷石住居受容 屋内墓から屋外配 石墓 石列区画施設の出現など さらに貯蔵用大型"

Copied!
58
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

福島雅儀

はじめに ❶時間軸,土器型式の整理 ❷住居の変化 ❸そのほかの集落施設 ❹越田和遺跡の集落変化 ❺柴原A遺跡の集落 ❻集落の変化 おわりに [論文要旨]

Change of Colony in the Upper Reaches of the Abukuma River from the Middle to the Late Jomon Period:

From the Excavation Survey of the Shibahara A Site and the Koshitawa Site in Miharu-machi, Fukushima Prefecture

FUKUSHIMA Masayoshi 縄文時代中期から後期に移る期間,土器型式で 4 型式程度である。土器編年の相対的時間からみ れば短い時間幅である。ところが炭素年代測定による絶対年代によれば,それは 500 年以上の時間 であるという。これが正しいとすれば,これまでの考古学的解釈は大きく見方を変えなくてはなら なくなった。そこで小論では,阿武隈川上流域の柴原A遺跡と越田和遺跡の発掘調査成果をもとに 当時の集落変化について考えてみた。 縄文時代中期末葉の集落の中心施設は,複式炉をともなう竪穴住居である。このほか水場遺構と 土器棺墓が検出される程度である。後期初頭には,石囲炉をともなう 4 本主柱の竪穴住居が造られ, 屋外土器棺墓が増加する。また掘立柱建物も受容される。続いて,掘立建物が増加するとともに, 柄鏡形敷石住居・石配墓も導入される。さらに後期前半でも新しい段階の柴原A遺跡では,平地式 敷石住居,広場,石列,石配墓群,焼土面による集落に変化した。 東北地方に広く分布するとされた複式炉も,上原型に限定するとそれは阿武隈川上流域から最上 川上流域,阿賀川流域に特徴的な炉であった。また石囲炉を伴う 4 本柱穴の住居は,阿武隈川上流 域に限定的に分布している。敷石住居においても,柄鏡の柄が大きく発達した平地式敷石住居は, やはり阿武隈川上流域を主な分布圏としている。そして,集合沈線による地域色を持った土器が作 られている。阿武隈川上流域は,仙台湾沿岸地域と関東平野を結ぶ通路ではあったが,この時期, 南北の両地域とは異なる特異な生活様式を創造していたといえよう。 また,この期間土器型式が連続していた遺跡でも,営まれた集落は断続をくり返していた。集落 の規模も 20 名程度であった。大規模に見えた集落も小集落の重複による累重の結果であった。 【キーワード】縄文集落,複式炉,敷石住居,柴原A遺跡,越田和遺跡

阿武隈川上流域における

縄文中期から後期への集落変化

福島県三春町柴原A遺跡と越田和遺跡の発掘調査から

(2)

はじめに

東北地方南部,阿武隈川上流域において,縄文時代の集落景観は縄文時代中後期の移行期に急変 する。竪穴住居から平地式建物へ,複式炉から石囲炉へ,そして敷石住居受容,屋内墓から屋外配 石墓,石列区画施設の出現など,さらに貯蔵用大型土坑群の出現と衰退などである。土器型式期で 数型式の間である。小論ではこの一端について,阿武隈川の支流,大滝根川流域に位置する三春町 越田和遺跡と柴原A遺跡の発掘調査結果から考えてみた。 阿武隈川は,奥羽山脈と阿武隈高地に挟まれた地溝帯の中央部を南北に貫いて北流し,仙台湾に 至る東北地方南部の大河である。この流域は,「中通り」とも呼ばれるように,仙台湾と関東平野 を結ぶ主要な交通路である。ここでいう阿武隈川上流域とは,二本松丘陵より南からの流域である。 図 1  三春ダムと関連遺跡  1 西方前遺跡 2 春田遺跡 3 柴原A遺跡 4 柴原B遺跡 5 越田和遺跡 6 四合内B 遺跡 7 仲平遺跡 8 蛇石前遺跡 ダムサイト・湛水域 大滝根川 阿武隈川 福島県

(3)

阿武隈高地は,標高 550 ∼ 700 mのなだらかな丘陵地帯である。その所々に,標高 1,000 mを越 える隆起平原の残丘が聳えている。高原の東側は,双葉断層による急峻な斜面から,海岸段丘を介 して太平洋に至っている。一方西縁部は,小河川により出入ある複雑な地形の丘陵地帯が発達して いる。現在の植生は,落葉広葉樹林である。この丘陵地帯は,中生代の花崗閃緑岩を基盤とし,地 表面はその風化土である砂土で覆われている。つまり,雨水による侵食が盛んな地質であり,丘陵 の斜面は常に侵食と堆積が継続していた。この地形と資質により,丘陵裾部に立地する縄文時代の 遺跡では,当時の地表面がそのまま遺存していることも少なくない。三春町柴原A遺跡と同町越田 和遺跡も,そのような遺跡である。 大滝根川は,阿武隈高地のほぼ中央に位置する大滝根山麓から西流して,郡山市街の南東端で阿 武隈川に流入している。全長 51km の小河川である。越田和遺跡と柴原A遺跡は,三春ダム建設に ともない発掘調査が実施された。三春ダム関連の発掘調査で縄文時代中期∼後期の遺跡は,西方前 遺跡,春田遺跡,柴原A・B遺跡,蛇石前遺跡,仲平遺跡,越田和遺跡,四合内B遺跡の 8 遺跡が ある。このうち柴原B遺跡までの 4 遺跡が大滝根川沿岸,仲平遺跡以降の 4 遺跡は大滝根川の支流 蛇石川の沿岸に位置している。各集落間の距離は,川に沿って 3km 程度である。いずれも河川近 くの段丘面や丘陵尾根線に立地している。

………

時間軸,土器型式の整理

東北地方南部における縄文時代中期の土器型式は,山内清男による一連の研究により,大木諸型 式が設定されていた[山内 1937]。このうち中期後半から末葉については,大木 9 式・10 式が相当 する。しかし,大木 9 式と大木 10 式の間には,施文方法などに大きな相違があり,この間を埋め る土器型式が求められていた。そこで丹羽茂は,伊東信雄により大木 10 式として認定されていた 土器[伊東 1957]に着目して,山内大木 10 式を大木 10 式新相とし,大木 9 式との間に大木 10 式 古相を設定した。いわゆる丹羽編年である[丹羽 1971 など]。丹羽茂が提示した大木 10 式古相の資 料は,本宮市荒井上原遺跡,二本松市塩沢上原遺跡・原瀬上原遺跡など,阿武隈川上流域の資料 である。山内清男が型式設定の基準とした仙台湾の大木貝塚の資料とは,地域が異なっている。丹 羽の提示した大木 10 式古相資料には,山内の基準資料に類似する土器片もある。図 2 の 60 や 63 で ある[早瀬・菅野・須藤 2006]。しかしこれらは,大木 9 式とされている土器である。 ところが近年,大規模発掘調査の進展により資料が急増するとともに,山内清男の設定した標準 資料に対比することの困難な土器群が知られるようになった[柳沢 1980 など・福島 1987]。また縄 文時代後期前半期の東北地方南部を対象にして,馬目順一により関東地方の称名寺式に相当する綱 取Ⅰ式,堀之内 1 式に相当する綱取Ⅱ式という土器型式(図 10)が設定された[馬目 1968]。これ についても,土器群の内容や土器型式の平行関係の再検討が求められている[福島県教育委員会 1996・本間 2008 など]。 阿武隈川上流域において,この時期の土器変化を知る上で重要な遺跡は,三春町越田和遺跡の調 査成果である。この遺跡では,複式炉の設置された竪穴住居から石囲炉への変化,さらに敷石住住 居にいたる土器群が,文化層の重複と遺構の重なりで把握されている[福島県教育委員会 1996]。

(4)
(5)

越田和 1 群土器 複式炉の設けられた竪穴住居跡から出土した。凹線と充填縄文により,アル ファベット文様施された土器である。丹羽編年の大木 9 式新相と 10 式古相と関連する土器である。 大木 9 式新相では楕円文と逆U字文で縦方向に文様が展開するのに対して,大木 10 式では横方向 のアルファベット文が展開するという特徴が指摘されている[丹羽 1989]。あるいは体部文様が下 端で切れるのを大木 10 式,切れないのを 9 式とする鈴鹿良一の区分案がある[鈴鹿 1986]。しかし 鈴鹿の案では施紋技法,器形,土器構成などを合せてみれば,大木 9 式と 10 式を区分する基準と しては不明瞭である。越田和遺跡 1 群土器は,以前に筆者がびわ首沢式[福島 1987]とした土器群 のなかで理解できよう。 図 3  山内編年大木10式土器[早瀬・菅野・須藤 2006]

(6)

図 5  越田和遺跡 1 群土器(びわ首沢式)[福島県教育委員会 1996]

(7)

びわ首沢式には,加曽利E 4 式と曽利式土器が客体的にともなっている。また栃木県槻沢遺跡で は 28 号竪穴住居跡などで,びわ首沢式土器と加曽利E 4 式土器が混ざって出土している[栃木県 教育委員会 1980]。両型式が平行関係にあった一端を示していよう。 越田和 2 群土器 石囲炉を伴う竪穴住居跡から出土する土器である。沈線が多用され,口縁部は 水平であるのに加えて突起や波状となり,体部に沈線による文様が特徴的である。越田和 1 群土器 に,加曽利E 4 式の文様要素を合わせて出現した地方色の強い土器である。福島が大木 10 式新相 期には,阿武隈川上流域には別型式が存在しているとし,牛蛭式を提案した土器群に相当する[福 島 1987]。また本間宏の綱取式に先行する土器群(図 8)に相当する[本間 2008]。 大型の深鉢は,びわ首沢式の形を引き継いで,これに楕円文などを配置した独自の文様が施され ている。在地の要素である。これに加曽利E 4 式から称名寺式の要素を加えて,それまでの東北地 方南部の土器要素が希薄になり,独自の土器型式を生み出したのである。越田和 2 群の土器は,阿 武隈川上流域を主な分布圏とする在地性の強い特徴がある。南方へは,関東平野の北部に限界線が 図 6  越田和遺跡 2 群土器(牛蛭式土器)[福島県教育委員会 1996]

(8)
(9)
(10)

ある。北方の仙台湾岸の大木 10 式土器とはほぼ平行関係にあるが,文様形態や施文手法が大きく 異なっている。越田和 2 群土器と丹羽編年大木 10 式新相土器,さらに称名寺式土器とは平行関係 にあることになる。この結果は,近年の炭素年代測定による土器型式の年代[小林 2004 など]とも 整合する。 馬目順一は,「関東の称名寺式・堀之内 1 式に対応する土器型式があるはず」として,綱取Ⅰ式・ Ⅱ式を設定した[馬目 1968]。しかし馬目が抽出して示した土器型式には,層位的裏づけが乏しい。 また分布範囲の検討もなされていない。提示された土器は,東北地方南部から出土した称名寺式土 器,堀之内 1 式土器の一部でしかない。大木 10 式新相と越田和 2 群土器(牛蛭式)・称名寺式が, 並行する時間関係[小林 2004]にあれば,馬目順一が称名寺式に対応する土器型式とする綱取Ⅰ式 が成立する余地はなくなる。 ところが本間宏は,馬目順一の型式名称を尊重して,綱取Ⅰ・Ⅱ式の内容を大きく変更する編年 案を提示している[本間 2008]。本間は,綱取Ⅰ式の前に,越田和遺跡 2 群土器に近い土器群を示し, 綱取Ⅰ式には,馬目の言う綱取Ⅱ式と掘之内Ⅰ式に近似した土器群を当てはめている。続けて残余 の土器を綱取Ⅱ式としている。 したがって,本間と馬目の間では,同じ名称の土器型式でありながら,その内容と枠組みが大き く異なる不都合がある。この場合,綱取Ⅰ式に先行するとされた土器の内容が,越田和遺跡 2 群土 図 9  本間編年 2

(11)

器と大きく変わらないのであれば,それが牛蛭式と筆者が命名した土器内容,および分布範囲が重 なるのであれば,牛蛭式とすべきであろう。また本間の綱取Ⅰ式とⅡ式において,深鉢間に型式区 分の不明瞭な土器が含まれているのに対して,綱取Ⅱ式の新相と古相の間には,文様の施文方法に 大きな相違があり,柴原A遺跡などでは層位的にまとまりがある。新相は,いわゆる集合沈線によ る施文である。 越田和 3 群土器 壁柱構造の竪穴住居跡・敷石住居跡から出土した土器である。関東地方の堀之 内 1 式土器のなかでとらえられる土器である。東北地方南部が,関東の土器型式圏と一体化した結 果である。ただし,口縁部に凸帯を巡らす大型の深鉢では,特徴的なCやI字形の区画文様が配置 されている。前段階の文様要素である。この型式には,新潟方面の三十稲場式が客体的にともなっ ている。 また柴原A遺跡の平地式敷石住居跡からは,堀之内 1 式新相の集合沈線の多用された土器がとも なっている(参照,図 18 の土器)。この種の土器は,関東地方から東北地方に分布しているととも に堀之内 1 式古相の土器とは文様の施文要素が大きく変化する。同一型式名称の新古で区分するよ りは別型式名称で区分すべきであろうが,そのまま堀之内 1 式新相としておく。 図10 馬目編年(縄文時代後期前半)[馬目 1982]

(12)
(13)

近年,相原淳一は,宮城県内の複式炉をともなう竪穴住居を検討するなかで,大木 8 b式から大 木 10 式までの土器編年表(図 11)を提示している[相原 2005]。そこに示された土器群は,阿武 隈川上流域の土器群と共通する部分もあるが,むしろ差異が顕著である。とくに大木 9 式諸段階と 大木 10 式後半で,装飾文様の相異が著しい。大木 10 式前半期として提示された土器は,福島県に 近接した阿武隈川水系白石川流域の土器である。だからこそ山崎充浩が,丹羽編年の大木 9 式新相 と並行する阿武隈川上流域の土器を春田Ⅱ式として捉え[山崎 1990],筆者が別型式として理解す ること[福島 1987]を提案した理由である。 以上から阿武隈川上流域では,縄文時代中期末葉から後期前半にかけて,次の土器型式を考古学 上の時間軸としておく。春田Ⅱ式(丹羽編年大木 9 式新相平行),びわ首沢式(越田和 1 群土器  大木 10 式古相平行),牛蛭式(越田和 2 群土器 大木 10 式新相と称名寺式平行),堀之内 1 式古相 (越田和 3 群土器),堀之内 1 式新相である。 近年の炭素年代測定によれば,大木 9 式から堀之内 1 式にかけての絶対年代は,次のような測定 結果が提出されている。大木 9 式新段階期が BC2,620-2,490 年,あるいは BC2,670-2,470 年[藤根・ 佐々木 2005]。称名寺式は 2,470-2,300cal BC年,堀之内 1 式は 2,290-2,030cal BC年,堀之内 2 式 は 2,030-1,870cal BCである[小林 2006]。大木 9 式新相の開始から堀之内 1 式期の終了までは,最 大で 600 年程度,最小で 500 年程度の時間幅が想定されている。これを理科学上の時間軸と理解し ておく。

………

住居の変化

まず,集落を構成する主要な施設 である住居の型式期に対応した変化 を確認しておく。この地域では,複 式炉をともなう竪穴住居の成立から 石囲炉をともなう住居,そして敷石 住居の受容,掘立柱建物の出現とい う順序で,住居が変化する。 複式炉 縄文時代中期後葉の東北 地方南部において,竪穴住居には 「複式炉」という特徴的な施設が設 けられていた。炉の名称は,「土器 を埋設した火壺と石で構築された炉 が セ ッ ト に な っ た も の 」 と し て 1960 年前後に梅宮茂によって命名 された[梅宮 1960]。この後,丹羽 茂が,土器埋設部と石囲部,それに 前庭部が組み合わされたものを上 図12 複式炉の 2 型式[丹羽 1972,荒木 1998] 初期複式炉 (上台1号住居跡) 0 50cm 土器埋設石囲部 敷石石組部 石 組 部 上原型複式炉 ※資料は二本松市原瀬上原遺跡第8号住居跡 ※点抽は火熱による影響の度合を示す。

(14)

原 型複式炉として定義をした[丹羽 1971]。ここでは,阿武隈川上流域における上原型複式炉の出 現から終末に至る竪穴住居を概観しておく。ここで単に複式炉という場合は,上原型複式炉をさし ている。 上原型複式炉は,機能が異なる 3 つの要素で構成されている。土器埋設部と石囲部,それに前庭 部である。石囲部において火を焚き,これを前庭部で管理をする。土器埋設部には炭火を保存する と推定されている[梅宮 1960 など]。妥当な考えである。 土器埋設部には 1 個から数個の深鉢が据えられ,これを保護するように,その周囲に円礫が配置 されている。土器内部の下部には,炭化物が堆積している。土器体部の外面には,焼土層が形成さ れている。上半部の焼土層は厚さ数 cm にもなり,硬くなっている。これに対して,下半部の焼土 層はあまり発達していない。これは,土器の内部に木灰を入れることにより,炭火の熱が土器の外 側に伝導することが阻害された結果であろう。埋設土器の底に炭化物の薄層が形成されているのは, 木灰が経年変化で分解して,これに含まれていた炭化物が遺存した結果である。 石囲部は,石組部あるいは敷石部とも呼ばれている。土坑の底面や側壁に石が貼り付けられた造 りである。複式炉の石囲部では,縁石は比較的不明瞭である。石囲部の土器埋設部側上半部には, 著しい加熱痕跡が残されている。これに対して底面の加熱痕跡はそれほどではない。これも,木灰 などを入れて利用したのであろう。木灰によって保護されれば,貼石の表面に加熱が及ぶことは少 ない。土器を据えて煮炊きを行うにも,石床ではなく,灰床の方が安定する。石を敷くことにより, 土中からの湿気を遮断する効果がある。ただし木灰が少なければ,焚火の影響は貼石にも及ぶ。 前庭部は,石囲部と竪穴の側壁に続く浅い凹面で,いわゆる踏み締まりにより硬化している。初 期の形態は,側壁側に大きく開いた台形状である。側壁近くの前庭部からは柱穴状の遺構が検出さ れることが少なくない。この遺構は,主柱ではなく出入り口の梯子状施設の痕跡であろう。福島県 北向遺跡では,この部分に踏み石が据えられていた[福島県教育委員会 1990]。押山雄三も,この部 分に出入り口を想定している[押山 1990]。 土器型式に合わせて,複式炉およびこれに類する施設の変化を追えば,この流れから抜け出すこ とは難しい。さらに土器編年に対する研究者間の相違があれば,変化の理解にも混乱が生じる。そ もそも,土器変化と炉の変化が対応しているとは限らない。土器の変化に合わせるのではなく,ま ずは遺構自体の変化を知ることであろう。 複式炉を構成する 3 要素のうち,土器埋設部は大木 8 b式期に,前庭部については大木 9 式期の 初期段階に出現している。これとともに土器埋設炉,あるいは小型石囲炉が設けられていた。そし て大木 9 式期の新相期に,貼石炉が導入されて上原型複式炉が成立した。貼石は,複式炉を構成す る重要なポイントである。 大木 8 b式期において,長方形の石囲炉は,関東地方北部や新潟県方面から東北地方にかけて広 く分布している。長方形の軸線は,竪穴の形状,主柱配置に対応している。このなかには,石囲の 内部に石を敷く例もあるが,一般化はしていない。土器が埋設される地域は,信濃川流域で顕著で ある。ここでは,石囲炉の片方に寄せて土器が埋設されている。また,小さな石囲炉を敷設する炉 が大木 8 b式並行期に出現している。さらに土器の埋設された反対側の短辺が大きく開く形態にも なっている。土器が埋設される要素に着目すれば,信濃川流域は土器の埋設された石囲炉を造る生

(15)
(16)

活様式が定着した場所といえよう。ただしこの地域では,掘り込みのある前庭部は確認されていな い。 石囲炉に連結された前庭部は,大木 8 b式土器の分布圏のなか出現する。また土器の炉内埋設も 確認されているが,この部分は発展することなく,一時期途絶えてしまう。このことは,複式炉の 重要な構成要素である。土器の埋設が,大木式土器圏の自立的な発展のなかで生み出されたのでは ないことを示している。 大木 9 式の前半期になると,東北地方南部では,ふたつ石囲炉連続して設けられ,これに前庭部 が伴う炉が出現する。馬目順一が着目した上田郷型複式炉である[馬目 1991]。この石囲炉の底面 には,貼石がない特徴がある。磐梯町・猪苗代町法正尻遺跡 90 号竪穴住居跡や飯野町(現福島市) 上台 1 号竪穴住居跡である。この炉は,短期間に上原型複式炉に変化したと推定され,検出例は少 ない。炭火を保つための石囲炉があり,焚き火用の石囲部,管理用の前庭部を完備している。この 頃から,石囲炉に土器が付設された例も散見する。上原型複式炉が出現する直前である。荒木隆は, この炉を初期複式炉[荒木 1998]と理解している。確かにこの炉は複式炉の祖型のひとつであるが, 図14 磐梯町法正尻遺跡66号竪穴住居跡復元案[福島 2005] 絵,福田秀生

(17)

土器埋設炉が必ずともなう上原型複式炉とは区別しておく。前庭部付石囲炉の一種である。 この炉と関連して中村良幸は,広義の複式炉の要素として前底部の存在を重視し,これがあれば 広義の複式炉に含めることを提案している[中村 1982]。石囲炉と前庭部からなる沢部型複式炉[市 川 1978]は岩手県や秋田県などに特徴的な炉である。この地域では,縄文時代後期前半まで沢部型 複式炉が継続している。須藤隆も同様の観点から複式炉を分析している[須藤 1985]。宮城県上深 沢遺跡の炉などである。 しかし上原型複式炉が土器埋設部,敷石部,前庭部が整って成立するのであれば,上田郷型や沢 部型複式炉とは,別型式の炉と理解すべきであろう。石囲部に貼石が施され,土器埋設炉がともな う典型的な上原型複式炉は,通常,大木 9 式の後半期とされる頃,春田Ⅱ式と前後して出現する。 土器埋設の伝統は,信濃川流域で顕著な特徴である。東北地方南部では,土器埋設が断絶している ので,この地域と結びついて導入されたと考えられる。春田Ⅱ式の前半では,曽利式に関連する土 器が客体的に含まれている(高木遺跡 251 号住居跡など)。上原型複式炉は,石囲炉という東日本 の伝統を発展させ,信濃川流域の土器埋設施設,東北地方南部の前庭部,それに貼石という新しい 工夫をあわせて生み出されたのである。 図15 竪穴住居跡(びわ首沢式期) 越田和遺跡25号竪穴住居跡[福島県教育委員会 1996]

(18)

上原型複式炉の分布範囲は,阿武隈川上流域を中心に,阿賀川流域,栃木県北部,最上川上流域 に分布している。しかも,これと重なるようにびわ首沢式も分布している。仙台湾沿岸では,びわ 首沢式期に一部で上原型複式炉がみられるが,全般に分布は希薄である。東北地方中部以北は,沢 部型複式炉の分布圏である。また,いわき市方面の海岸部や久慈川下流域でも,複式炉をともなう 竪穴住居の分布は希薄になる。やはりびわ首沢式土器も客体的である。 びわ首沢式期の複式炉をともなう竪穴住居は,整った築造企画のもとに作られていることが,橋 本幸夫によって明らかにされている[橋本 1998]。複式炉と柱穴の関係,竪穴掘形が相互に関連し た築造企画が想定されている。筆者も複式炉の築造について考えてみたが,橋本の理解と基本的な 点で一致している[福島 2005]。 縄文時代中期後半の住居変化を図 13 に示した。春田Ⅱ式における 8 本柱竪穴が,次第に主柱を 減らして最終的に 3 本柱となること。前半段階では,複式炉の土器埋設部が竪穴外形線の中心であ り,主柱列の中心であった。新しくなるにしたがい,竪穴外形線と主柱列の中心が分離して,複式 炉の主軸線上を移動する。また古い段階は,複式炉の全長が竪穴外形の半径値とほぼ同じ長さで あった。しかし新しくなると,複式炉の規模は小さくなる。竪穴住居と炉の関係が,それまでのよ うな結び付きを失った結果であろう。主柱配置を考える場合,前庭部に設けられた柱穴が問題とな る。これを主柱と理解する[福島県立博物館 1985]案と出入口の踏み台やはしご穴とするのであれば, 竪穴住居の築造企画が大きく異なるからである。 初期の上原型複式炉では,土器埋設部を起点に竪穴住居の側壁に向かって,石組部・前庭部が開 く形である。全体の形状は扇形である。これは新しくなるにしたがい,石囲部・前庭部の幅が狭く なる傾向がある。これとともに石囲部では使用される石材が大きくなり,貼石よりは組石の手法が 多用されるようになる。 上原型複式炉をともなう竪穴住居跡は,比較的深く掘り下げた床を造っている。越田和遺跡では, 後続する時期の竪穴住居跡と比べて,深い例が大半であった。この時期の竪穴では,仲平遺跡 3 次 3 号竪穴住居跡のように,検出面から床面までが 1.6 mを測る壁が遺存した例もある。また竪穴住 居跡の堆積土に分厚い焼土層が形成されていることもある。この土層は火災により形成された焼土 層ではなく,土屋根材に焼土を利用した可能性を考えている。深い竪穴に土屋根という閉鎖的な住 居構造と推定されよう[福島 2005]。 上原型複式炉の最終形態は,前庭部が消えて土器埋設部と石敷部で構成される達磨形となる。こ れとともに石敷部の底面に底石が敷かれない例も多くなる。全体の造りも粗雑になる。主柱の配置 も,以前のような規則性は見られない。たとえば船引町(現田村市)堂平遺跡 4 号竪穴住居跡など である[船引町教育委員会 1990]。この複式炉跡からは,牛蛭式の深鉢が出土している。過渡期の資 料である。 石囲炉 阿武隈川上流域では,牛蛭式(越田和 2 群土器)の出現と前後する頃,埋設土器をとも なう方形石囲炉が主流となる。平石ないし直方体の転石 4 個を方形に組み合わせた構造である。転 石は,長側面を上にして据えられ,掘形は石材の形状に合わせて造られている。炉床は浅い凹地で ある。このなかに,土器が正位ないし斜めに据えられている。土器はそのまま置かれていることも あるが,通常は掘形の中に下半部が埋められている。なかには床の一方に寄せて,あるいは真ん中

(19)

に据えられている。あるいは,石囲炉の外側に近接して土器が埋設されている例もある。炉の内部 は,著しい熱変化が認められ,床面は焼土面となっている。 越田和遺跡で確認された牛蛭式期の竪穴住居跡は,円形掘形,4 本主柱で,石囲炉は,主柱列を 結ぶ南梁線寄の位置に片寄って造られている。埋設土器をともなうことは,前段階の伝統を受け継 いだ造作である。主柱構造の上屋,炉が床面の梁筋下に造られることも同様である。住居の出入り 口は,石囲炉のある側と推定され,これと関連する柱穴がある。複式炉をともなう竪穴住居と比べ て,顕著な特徴であろう。さらに一部では,柄鏡形につながる突出部の痕跡も確認している(越田 和遺跡 19 号住居跡など)。 この種の竪穴住居と共通する構造は,茨城県や栃木県方面に類例がある。日立市上の内遺跡や同 市下の内遺跡,栃木県槻沢遺跡など,いずれも加曽利E式後半期の遺跡である。後藤信裕は,複式 炉の掘形に着目して関東北部と東北南部の相違について分析を加えている[後藤 2010]。東北南部 では土器埋設部と石囲部の掘形が別々に造られるのに対して,関東北部の複式炉は土器埋設部と石 囲炉を一体として掘形が造られる傾向にあることを指摘している。そして石囲部に土器が埋設され た炉が加曽利E 4 式期に出現していることを示している。この種の炉は,4 本主柱で,竪穴住居の 一方に偏って配置され,反対側の柱間に石囲炉が配置される形状である。栃木県室ノ木A遺跡 2 号 住居跡[南那須町教育委員会 1993]である。これは越田和遺跡の牛蛭式期竪穴状住居跡と共通する 特徴である。 このほか上の内遺跡 2 号竪穴住居跡も,四本主柱で方形石囲炉が主柱を結ぶ直線の下に造られて いる。基本構造は共通している。牛蛭式土器は,茨城県方面からも出土している。北関東地域との 交流のなかで,新しい構造の竪穴住居が出現したのである。 越田和遺跡で検出した牛蛭式期の竪穴住居跡では,側壁が高く遺存ずる例は少ない。この竪穴住 居では,従来のものと比べて竪穴の掘形が浅くなる傾向がある。越田和遺跡は,丘陵崩壊土に集落 の表土が覆われていたことから竪穴住居跡の検出面は,旧表土の高さに大きな相違はなかったと推 定される。配石遺構の検出面と同じ面であることも,これを裏付けている。平地式のような壁が設 けられていた可能性もある。主柱に加えて壁柱も,それと同程度の大きさになることも,壁の強化 を図る構造を示している。 一方,仙台湾を中心とする大木 10 式新相の土器が分布する地域では,沢部型複式炉から継続し た構造の炉が造られている。この種の複式炉では土器の斜位埋設が特徴的で,典型的な上原型とは 異なる。また,石囲部において底面の貼石が失われるとともに前庭部との一体化が進行する。仙台 市山田上ノ台 14 号や仙台市観音堂 3 号竪穴住居跡などである。この傾向は,山形県方面でも確認 されている。真室川町釜淵C遺跡の例である。福島県内でも北端部では,この段階まで複式炉が確 認されている。飯館村上ノ台A遺跡 22 号竪穴住居跡の例などでは,前庭部が失われている。同様 に新潟県方面でも,前庭部が消失している。 堀之内 1 式期の竪穴住居では,4 本主柱ではなく,壁際に 7 本前後の柱が配置されるようになる。 壁溝と重なる位置である。主柱構造から壁建構造への継続的な変化である。石囲炉は,床面の中央 付近に設けられる。越田和遺跡 29 号住居跡である。このほか,柴原A遺跡 10・11 号住居跡でも同 様な竪穴住居跡が確認されているが,ここからは時期を限定する土器は出土していない。壁柱穴構

(20)

造で床面中央に石囲炉の設けられた竪穴住居は,縄文時代後期後半から晩期に続いているし,他地 域では別の時期にもある。 敷石住居 加曽利E 4 式期の関東地方では,柄鏡形住居が普及する。これに敷石もともなう例が 増加する。壁溝が設けられ,主柱に代わり壁柱構造の上屋となる。この住居の石囲炉は,床面の中 央に造られる。関東地方の石敷住居は,石材の豊富な西部に分布し,千葉県など石材の乏しい地域 には分布しない。石敷きの有無を別にすれば,竪穴の中央に炉を設け,壁柱構造の竪穴住居が一般 化する。これに柄鏡の柄状の出入り口が設けられた形態である。 びわ首沢式期から,複式炉の設けられた竪穴住居の床面に石を敷くことが一部で採用される[鈴 鹿 1986 など]。この場合,床面に平石が敷かれ,壁面に立てかけられることもある。福島市入りト ンキャラ遺跡 2 a号竪穴住居跡や飯館村宮内A遺跡 1 号竪穴住居跡などである。ただしこの段階で 図16 竪穴住居跡(牛蛭式期) 越田和遺跡21号竪穴住居跡[福島県教育委員会 1996]

(21)

は,柱配置などの基本構造は,他の竪穴住居と変わりはない。この時期では,集落のなかに占める 敷石住居の割合は極めて少ない。 この時期の敷石住居は,阿武隈川でも中流域,あるいは福島県北部から宮城県南部の地域でまと まる傾向がある。阿武隈川上流域や那珂川上流域では,分布は希薄である。中部・関東地方とは出 現時期は近いが,分布圏が異なることから,この地域とは別に,出現したと推定されている[鈴鹿 1986]。 しかし,長野県幅田遺跡からは,敷石住居跡にともなって東北地方南部に特徴的な土器が多数出 図17 柄鏡形敷石住居跡 越田和遺跡 5 号敷石住居跡[福島県教育委員会 1996]

(22)

土している[森嶋 1982]。器形は体部上半が膨らむ波状口縁,あるいは幅広凹線と充填縄文を組み 合わせた文様構成など,びわ首沢式土器と近似した特徴をもっている。一方阿武隈流域でも,曽利 式土器が作られていることが指摘されている[小暮 2002]。小暮は東京湾沿岸を介した曽利式土器 の波及を推定しているが,幅田遺跡の例からすれば,中部高地から山岳地をへて阿武隈川流域と結 ぶ交流路を想定することも可能であろう。このことから,敷石住居という特異な住居が両地域で前 後して出現することは,無関係とすることは出来ないのではないだろうか。 牛蛭式期になると,集落を構成する住居に敷石住居の割合が増加する。郡山市倉屋敷遺跡では, この時期の 4 軒中 3 軒が敷石住居であった。本宮市高木遺跡 225 号竪穴住居跡でも,同様な敷石住 居が検出されている[福島県教育委員会 2003]。ただし後の柄鏡形となる突出部は不明瞭である。住 居構造や形態は,同時期の竪穴住居と大きな相違はない。 堀之内 1 式期古相期には,突出部が明確な柄鏡形の敷石住居が出現する。石囲炉は方形で,床の 全面が石敷きになり,直線的な突出部にも石が敷かれる。越田和遺跡 5 号敷石住居跡である。床面 に石が敷かれて,柱穴は,敷石の縁と壁溝の内側に配置されていたらしい。少なくとも,土中に埋 めた主柱を支えとする屋根構造ではなかったと考えられる。 続く越田和遺跡の 1 号 ・2 号敷石住居跡は,平地式である。遺存状況が良好ではないことから不 明瞭であるが,時期は堀之内 1 式古相の新しい段階であろうか。この遺跡では新相の土器は出土し ていない。さらに堀之内 1 式新相期では,突出部が大きく発達した平地式の敷石住居が明確になる。 石囲炉を設けた円形部や方形部,そしてこれと同規模に造られた方形の突出部という形態である。 この両者を結ぶ部分に狭い通路状の敷石が設けられる。柴原A遺跡の例である。 それまでの住居とは,大きく異なる形態であることから,宗教的な施設とする見解も払拭されて いない[仲田茂司 1992・三春町 1989 など]。確かに特異な形態ではあるが,前段階の住居から変化し た施設であることから,通常の住居であると考えるべきであろう[山本 1980]。前方部の側端は石 列で区画のある例や前端に台石の配置された例もある。住居の前庭部を構成する施設である。東北 地方南部における構造変化である。阿武隈川上流域では,三春町西方前遺跡や本宮市高木遺跡,中 流域では福島市宮畑遺跡など,後期前半の遺跡で多数の検出例がある。 本宮市高木遺跡では,石囲炉のある敷石部に沿って竪穴の痕跡を確認されているという報告があ る[福島県教育委員会 2003]。しかし柴原A遺跡では,敷石住居跡の検出の状況や周辺遺構との関連 から見て,明確に平地式建物である。竪穴式ではない。石囲炉の設けられた円形部の周辺調査によっ て柱穴も確認しているが,これが敷石住居跡の柱穴となる決め手は得ていない。 柴原A遺跡で最も遺存状況の良好な 2 号敷石住居跡では,石囲炉の設けられた円形部と石敷に縁 石を巡らせた方形部,これを繋ぐ連接部で構成されていた。連接部の脇には開口して土器が埋設さ れていた。図 18 の土器は,連結部の東に据えられていた。堀之内 1 式新相の土器である。石囲炉 の設けられた円形部が居住空間である。敷石の外側に側柱構造で,屋根が設けられていたと考えら れる。円形部の面積は通常の竪穴住居の直径と同じである。居住者の数も同様であろう。 方形部には縁石があり,先端に平たい台石も設置されていることから,この部分は露出して屋根 がなかったと考えられよう。広場に向かって造られた大きな縁石のような施設である。野外作業や コミュニケーションの場などである。

(23)

敷石住居は中期後半の関東地方西南部から中部山岳地域を故郷として出現した[山本 2002 など]。 その後,加曽利E 4 式期には関東地方の西半部にまで分布圏を拡大し,後期前半には東北地方南部 にも普及した[山本 1980]。びわ首沢式期には,一部で敷石住居が出現しているが,これは客体的 であった。複式炉の周辺の敷石や,壁際に板石が巡らされているが,集落の竪穴のなでは客体的で ある。阿武隈川上流域に普及する平地式敷石住居は,関東方面から伝来した住居様式である。在地 図18 敷石住居(平地式) 柴原A遺跡 2 号敷石住居跡[福島県教育委員会 1989]

(24)

の要素は希薄である。 掘立柱建物 三春ダム周辺においても,掘立柱建物は縄文時代前期には出現していた[福島県教 育委員会 1996]。しかし,それが普及するのは縄文時代中期後半からである。飯野町(現福島市) 和台遺跡では,縄文時代中期後半に,集落の中心となる広場のなかに掘立柱建物跡が造られていた [飯野町教育委員会 2003]。阿武隈川上流域の掘立柱建物は,堀之内 1 式期から顕著になる。 三春ダム関連の遺跡調査では,越田和遺跡で 5 棟の掘立柱建物跡を検出している。これ以外に柱 穴も多数検出している。柱穴を結ぶ直線が長方形となる桁行 1 間,梁行 1 間の建物跡が 3 棟,桁行 2 間梁行 1 間が 1 棟,桁行 2 間梁行 1 間で梁行側に棟持柱に相当する柱穴がある長方形の建物 1 棟 である。柱穴は円柱形で,おおよそ直径 0.3 ∼ 0.4 m,深さ 0.2 ∼ 0.5 m程度である。 桁行 2 間梁行 2 間の 1 号掘立柱建物跡では,床面中央に細長く,長さ 2 m,幅 1 mの不正形の焼 土面がある。6 角形柱配置の 5 号掘立柱建物跡では床面に焼土面が 2 箇所あり,桁行 1 間梁行 1 間 の 6 号建物跡でも中央に楕円形の焼土面があった。焼土面は,硬く焼けしまった状態である。1 号 掘立柱建物跡では,厚さ 4cm まで硬化していた。住居として使用された痕跡である。 1 号掘立柱建物跡は,33 号竪穴住居跡の上に造られていることから,住居施設の継続の可能性が 高い。焼土面が楕円形基調で規模も大きい焼土面である。炭火や焚き火により形成された焼土面で 図19 掘立柱建物跡(堀之内 1 式期) 越田和遺跡 1 号建物跡[福島県教育委員会 1996]

(25)

あろう。掘立柱建物の出現は,竪穴が壁柱構造に変化すること,平地式の敷石住居の出現と対応す る動きである。発掘調査において確認した掘立柱建物跡は 5 棟であったが,周辺には柱穴と推定さ れる穴が集中していた。報告された以外にも,掘立柱建物の存在を想定しなければならない。 竪穴住居等の居住者とその関係 集落を構成する各施設の核となるのは,住居である。そこに住 んだ人,人々が集落を構成する単位となる。ところが竪穴住居等の居住者数,居住者間の関係につ いては不確定な部分が少なくない。居住者数については,いわゆる関野の定理が目安となっている [関野 1938]。関野の研究以降も,竪穴住居の居住者数と居住者の関係についての究明が継続されて いる。竪穴住居について,これが遺構として認識され始めた関野克の時代と現代では,資料の蓄積 に格段相違がある。床面の利用状況,炉以外に焼土面や踏み締まり範囲,主柱,側壁,出入り口が あり,屋根の傾斜などの諸条件を考慮した分析が加えられている。しかし,居住者数とその結びつ きや関係については,確定した成論が得られていない[小林 2004 など]。 有名な姥山貝遺跡B 9 号竪穴状住居跡から出土した成人男女各 2 体,幼児 1 体の人骨についても, 分析方法と視点の相違から見解の一致はない。そもそも竪穴住居跡から人骨が出土したとしても, これを竪穴住居の居住者とする証拠とはならない。さらに複数の人骨遺体があれば,その社会関係 を解明することは容易ではない。 ひとつの竪穴住居には,一組の家族が必ずしも居住したわけではない。そもそも,縄文時代の家 族を現在の家族という概念で把握することはできない。はたして,縄文時代に家族という概念が あったかどうかも不明である。竪穴住居跡がいくつか集まっている場合,この竪穴住居群に居住し た人々の結びつき関係が問われよう。 竪穴住居跡は,その規模と各種施設から住居であり,通常は複数の人間により生活が営まれてい たと推定されよう。竪穴住居は,住むことで結びついたひとつの世帯である。ここに居住する人々 が,快適な生活を送るには,複数の配偶者や複数の成人男女が日常的に同居することは無理である。 成人であれば一組の男女,あるいは数人の同性者程度の居住であろう。さらに,ひとつの竪穴住居 に居住していた人々から,子供の成長による世帯からの独立,あるいは何らかのトラブルによって 世帯から分離する場合も少なくなかったであろう。逆に,居住人の移入もありうる。複雑な動きが 竪穴住居跡の配置には想定される。 小林謙一は,竪穴住居跡に人間を寝かせることの可能な空間面積から居住者数を算出することが, 現状では最も妥当性が高いとしている[小林 2004]。それは,竪穴住居跡に身展させることの可能 な数であり,焚き火の有無,寝具などの条件からさらに少なくなることは,当然想定されよう。し たがってここでは,仮に直径 5 m程度の竪穴住居であれば,男女一組の成人,あるいは 2・3 人程 度の成人の居住が可能であるという程度の想定としておく。敷石住居跡についても,これと大きな 相違はない。ただし掘立柱建物跡は,住居以外の用途も想定して検討しなければならない。

………

そのほかの集落施設

各種の墓 縄文時代中期から後期にかけての集落景観では,墓も大きな構成要素である。この時 期の墓には,土坑墓,土器棺墓,それに配石墓がある。このうち配石墓は,東北地方南部縄文時代

(26)

1 4 5 2 3 6 写真 1  各種遺構[福島県教育委員会 1990・1996] 1 春田遺跡 1 号竪穴住居跡(春田Ⅱ式期) 2 越田和遺跡 26 号竪穴住居跡(びわ首沢式期) 3 越田和遺跡 21 号竪穴住居跡(牛蛭式期) 4 越田和遺跡 1 号掘立柱建物跡(堀之内 1 式期) 5 越田和遺跡水場遺構(堀之内 1 式期) 6 越遺跡配石墓(堀之内 1 式期)

(27)

後期になってから普及す る。墓跡と推定される遺 構に土器埋設遺構がある。 埋設された土器は,大型 深鉢が中心で,これに小 型深鉢や浅鉢,小壺が加 わる。この土器は,正位 に据えられたもの,逆位 に据えたもの斜めに倒し たもの,横に置かれたも のがある。埋葬者の体格 や遺体の状態により,土 器の大きさや設置方法を 対応させたのであろう。 斜めや水平に据えられ た土器の下部には,焼成 後に穿孔の施された例も ある。土器内部の排水を 意図した造作である。多 くは比較的大型の深鉢が 使用され,これを土坑内 に横倒しの状態で埋納し ている。出土状態は土圧 により押し潰れた状況で ある。土器の形状を保っ ている例は少ない。口縁 部は土器や石材などによる閉塞の痕跡は無い。板木による閉塞も想定されるが,そのような痕跡は 確認していない。使用される土器は,通常使用されるもので,特注品ではない。土器の破砕にとも なう土層変化以外の埋土は,人為的に形成された痕跡を残している。 土器の内部からは,石器が出土することもある(越田和遺跡 4 号土器埋設遺構など)が,類例は 少ない。人骨が出土した例では,郡山市町B遺跡 20 号土器埋設遺構において,歯牙列が確認され ている[福島県郡山市教育委員会 2005]。土器に頭骨,あるいは頭骨片が納められたと推定されよう。 堀之内 1 式期の例である。また上納豆内遺跡では,小児の火葬骨片が出土している[福島県郡山市 教育委員会 1982]。阿武隈川上流域の土壌では,室町時代以前の土葬墓から人骨の遺存例は少なく, 古墳時代の土坑墓でも歯牙のエナメル質がまれに遺存する程度である[福島県教育委員会 1982]。し たがって人骨の出土例は少ないが,土器の埋納状況や後の配石遺構の下部構造との関連から,この 種の土器埋設遺構を土器棺墓と考えても矛盾はない。以下では土器棺墓とする。ただし,土器棺に 図20 配石墓 越田和遺跡 7 号配石墓[福島県教育委員会 1996]

(28)

転用された深鉢は大型といっても器高 80cm,直径 60cm 程度で,成人遺体を内部に納めることは 困難である。遺体を適当な大きさにする前処置を前提とする埋葬方法が推定される。 びわ首沢式期では,屋外に設けられた土器棺墓の状況は遺跡により異なる。四合内遺跡や春田遺 跡では,屋外の土器棺墓は検出されていないし,越田和遺跡でも 2 例を確認した程度である。規模 の小さい遺跡では,土器棺墓の検出例は少ない。これに対して,継続的で規模の大きな集落跡では, 多数の土器棺墓が検出されている。旧飯野町和台遺跡などである。この遺跡でも,土器棺墓の数は 検出された竪穴住居数の 程度である。しかも竪穴住居間に散在して,墓地が特定の区域に限定さ れてはいない。 屋内の土器埋設遺構も,越田和遺跡のびわ首沢式期の竪穴住居跡 11 軒や春田遺跡の 7 軒でも, 検出されてはいない。これに対して,仲平遺跡では,12 軒中 2 軒,四合内 B 遺跡では 4 軒中 3 軒 の検出例がある。多くは土坑内に横倒し状態で土器棺が納められている。やはり,継続的な営みの ある集落遺跡である。 竪穴住居内の埋設土器は,複式炉側面の左右で,側壁にそった場所に造られている。竪穴住居の 床下に土器が隠れる程度の浅い穴を造り,水平方向に土器が埋設される。土器は,土圧により潰れ た状況で出土する。土器の上面と床面との間は,埋土である。土器が潰れて生じた凹地を埋め直し た状況である。この種の遺構の掘形では,床面からの深さが 1 mを越えることはなく,大半は土器 が隠れる程度であろう。なかには,仲平遺跡 3 次 3 号竪穴住居跡のように,土坑の内部の土器上に 平石が置かれていた例もある。この平石は,住居が廃絶した時には,床面に露出しない位置であっ た。陥没した土坑を埋め直したのであろうか。 屋外の土器棺墓が急増するのは牛蛭式期になってからである。郡山市馬場中路遺跡などである。 越田和遺跡では,この時期の土器棺墓が 11 基確認されている。多くは土坑に横倒しに土器が埋設 された遺構である。一方,屋内の土器棺墓は激減する。土器棺墓は集落に散在するのではなく,竪 穴住居跡の周辺に造られている。やはり竪穴住居の住人と結びついて造られたのであろう。 屋外で検出される場合,多くは旧地表面を失っているので,土器が埋設された施設の深さを限定 できない。また埋設土器の上に配石が造られていたかは不明である。墓坑の上に平石が据えられて いた可能性のある遺構は,仲平遺跡 3 次 3 号竪穴住居跡が,この地域では古い例である。びわ首沢 式期である。 配石墓が明確になるのは,堀之内 1 式期になってからである。堀之内 1 式期の配石墓は,特定の 住居と近接して配置される傾向にある。そして堀之内 1 式期の後半には,集落の内部に配石墓群を 形成するようになる。 配石墓は,地表面に楕円形あるいは円形に石列を造り,その内部に平石が充填される造りである。 まず土坑の上面に平石や小石が敷かれ,それを縁取るように石列が造られる。石列の上面は,内部 の平石上面より一段高くなっている。楕円形配石墓は,長径 1.5 m前後である。 下部構造は土坑である。0.5 m程度の深さで,埋土の土層は水平に堆積する特徴がある。配石の 形状に合わせて造られ,楕円形と円形がある。楕円形では,成人をそのまま埋葬可能な大きさであ る。通常,土坑のなかに副葬品が納められることはないが,船引町堂平遺跡では,土製耳飾り,土 偶片,土器片,獣骨片が出土している。土器片と獣骨片は,混入であろうか。また西方前遺跡第 4

(29)

群A配石遺構では,ヒトの歯牙が出土している[三春町教育委員会 1992]。越田和遺跡の 4 号土坑で は,炭化した板材が底面近くから水平に置かれた状態で出土した。棺材の一部であろう。 円形の場合でも比較的大きな土坑が設けられている。越田和遺跡 7 号配石遺構では,深鉢の土器 棺が出土した。土坑の底面に水平に置かれた深鉢が,土圧で押しつぶされた状態であった。深鉢の 口縁は開口した状態であった。ただし,板材などで塞いでいた痕跡は不明である。墓坑の大きさ, 図21 水場遺構(牛蛭式期) 越田和12号配石遺構[福島県教育委員会 1996]

(30)

堆積土の状況からみて,単葬墓であろうと推定している。 このほか,土坑墓と推定される遺構もある。土坑の内部は人為的に埋め戻した状況が認められ, 若干の遺物が出土することがある。人骨が出土しない例が大半で,限定は難しい。やはり,住居跡 の周辺から検出されている。 越田和遺跡では長方形土坑の長側面に沿って炭化材の検出される例があった。長さ 1.5 m,幅 0.7 m程度である。深さは,0.3 m程度であったが,削平や自然侵食の可能性もあり,本来の深さは不 明である。炭化板材は棺の痕跡であると考えている。配石墓の土坑からも同様な木片を確認してい る。地表面の状況は不明である。何らかの標示物が推定されるが,遺存した例はない。 集落内に造られた墓は,集落住人の結びつきを反映していよう。生物としての死ではなく,世帯 の一員,集落の一員として死者を葬ることにより,死者は集団のなかに死後もその地位を占める。 死者を弔らい,墓を造ることにより,残された人々の間で人間関係の再構築がなされることになる。 墓と墓の結びつきは,集落内部の人間間の結びつき関係の一端を反映していよう。したがって,生 活の定住化とともに,集団墓が営まれるようになる[鈴木 1980・藤本 1982]。定住集落は,限定し た土地を集落構成員が占有とすることである。世代を超えて占有を継承する表徴として,墓が造ら れたのである。 水場施設 定住生活を維持する上で,清水を得るために水場を確保することは不可欠である。越 田和遺跡では,びわ首沢式期,牛蛭式期,堀之内 1 式期の各水場遺構を検出している。いずれも集 落が立地する扇状地が河川の浸食により,小さな崖を形成する場所である。自然の清水が湧き出す 場所である。各時期 1 基である。集落全体の共用施設であろう。 びわ首沢式期の水場は,湧水地点に大型深鉢の上端 10cm 程度が地表面から出るように埋め,周 囲には平石を置いて足場としていた。深鉢の下部は打ち欠いてある。深鉢の下半部に砂利が詰めら れていた。湧水を汲み出す時に泥土が巻き上がらない工夫である。さらに深鉢の周囲に平石を配置 して,足場が造られていた。水場から流れ出した湧水を排水する溝もあり,また湿地を越えて水場 に至るために木道の痕跡も確認している。 牛蛭式期の水場は,長さ 2.5 m,幅 1.5 m,深さ 0.3 mの土坑を設け,湧水線近くには,土坑底 面を一段掘り下げて,円筒状に打ち割った大型深鉢を据えていた。土坑の底面には砂利を含む砂を 敷き,その上には粗砂が詰められていた。土坑の上面には,板石を敷いていた。土坑と深鉢の間に 粗砂を粗砂詰めることにより,深鉢の内部に溜まった清水を汲み出せば,粗砂の間に湛水した水が 深鉢に供給されることになる。民俗例にいう水袋である。深鉢から溢れ出た余水は,溝を設けて排 水するようになっていた。 堀之内 1 式の水場は,崖面の中腹の湧水線に土坑を設け,湧き出た清水を貯める池からなる。土 坑は,0.8 m程度の矩形で,深さは 0.4 m程度である。崖側の三方を板材で保護し,貯水部との境 にも敷居状に樹皮を除去した木材が据えられていた。貯水部は台形状で,幅 3 m,長さ 3 m以上で ある。樹木皮を杭で固定した壁も造られて,底面にも敷かれた板材が部分的に遺存していた。清水 の汚濁を防ぐためであろう。 この施設は,土器を据えた構造の水場より多量の清水を得ることが可能になる。湧水地点の土坑 を区画すること,板材や樹皮で壁や底を保護することにより,汲み出しにともなう泥土の巻き上が

(31)

りを防ぐことにもなる。水場を中腹に造ることにより,近くにある蛇石川の増水による汚染の可能 性も少なくなるし,水を汲み出すために湿地に降りなくてもすむようになる。貯水部は,堅果類の アク抜きに使うことも可能である。 貯蔵施設 縄文時代中期中葉には,集落に近接して造られた大型土坑群が知られている。この種 の土坑群のなかには,住居は造られない傾向がある。磐梯町・猪苗代町にまたがる法正尻遺跡,郡 山市妙音寺遺跡,楢葉町馬場前遺跡などである。土坑は下半部の断面形が三角形で,上部が円筒形 のフラスコ形が古く,新しくなるにしたがい円筒形に変化する。太平洋岸の相馬市境A遺跡では, 直径 1 ∼ 2 m,深さ 3 m以上の円筒形土坑が 100 基以上も尾根上に群集していた[福島県教育委員 会 1988]。春田Ⅱ式・びわ首沢式期である。これらの土坑群では,内部を細分する単位は不明瞭で ある。土坑は,各住居や住居群に対応するのではないらしい。 各土坑は群集しているが,重複していることは少ない。地面に所在を示す標識が設けられていた のであろう。堆積土は,縞状の重なりや崩落土の塊で満たされており,人為的に埋め戻された形跡 がある。出入りには梯子が使用されたと推定され,土坑底面に小さなくぼみを認めることもある。 壁面に足掛け状の抉りを設ける例もわずかにある[福島県教育委員会 1988]。 縄文時代中期中葉の土坑からは,深鉢が数多く出土する。柴原A遺跡の 1 号土坑からは,オニグ ルミ核果とドングリ類種子片が出土している[福島県教育委員会 1989]。土坑に貯蔵された食料の一 端を示していよう。この種の大型土坑の群集は,びわ首沢式期になると少なくなる傾向あり,完形 土器もほとんど出土しなくなる。一方,複式炉をともなう竪穴住居跡の周辺に,貯蔵穴形土坑も検 出される傾向がある。 佐藤啓の教示によれば,福島県内において縄文時代の堅果類は約 50 基の遺構出土例がある。こ のうち,縄文時代中期末葉を境にそれまで土坑から出土した。堅果類炭化物は,竪穴住居跡からの 出土例が増加するという。各竪穴住居で,個別に食料を貯蔵する傾向が強くなったことの反映であ 図22 水場遺構(堀之内 1 式期) 越田和遺跡[福島県教育委員会 1996]

(32)

ろう。 飯野町(現福島市)和台遺跡 2 号住居跡からは,炭化クリがビニール袋にして 7 袋が出土してい る[八巻 1977]。これについては,竪穴住居の屋根裏空間を利用した貯蔵が想定されている。さら に和台遺跡 183 号竪穴住居跡からは,クリを中心にオニグルミとトチの炭化物が 64 kgも出土し ている[飯野町教育委員会 2003]。この出土状態について,報告書では住居が廃絶した後に行われた 祭式・儀礼の可能性を推測している。①複式炉上の土器投棄儀礼,②クリの蒸し焼き祭式・儀礼で ある。 しかし①は複式炉直上の出土であり,住居の廃絶に伴う状況であるという解釈もできよう。②で は,二次的な掘り込み面の形状が不定形であること,蒸し焼きによる焼土面の形成も不明瞭である 点から,廃絶にともなう土層堆積の仮定で形成されたという判断も可能かと推測している。この住 居の堆積状況を現地で確認したわけではないが,報告された土層断面図や写真の一部からは竪穴住 居下部の堆積土を 3 時期に区分する必要はないようにみえる。この例を祭式や儀礼とするには類例 が乏しい。少なくとも普遍的に行なわれた行為ではない。特例とするよりは、八巻一夫の考えを尊 重したい。 焼土面と屋外炉 土器埋設遺構の屋外炉は,旧地表面で開口した状態で土器が据えられ,内部に は炭化物がともなっている。さらに周辺には焼土面が形成され,炭化物なども散布している。複式 炉の土器埋設部と同様な状況である。 また柴原A遺跡では,地表面に石囲炉も設けられていた。掘立柱建物跡の有無に留意したが,存 在は確認していない。環状に石が配置され,石囲の内部と周辺に焼土面が形成されていた。周辺に は 2 m程度の範囲に木炭粒が散布している。石囲の内部には土器片が敷かれている例もある。柴原 A遺跡から 4 基を検出した。 焼土面は,柴原A遺跡で 97 基,越田和遺跡で 7 基を検出した。直径 2 m程度の大きなものは, 広場の周辺や,東西の敷石住居群の間に形成されている。通常,焼土面が形成される地表面は,裸 地や下草のない樹林である。薮や下草の繁茂する樹林での焚き火は,引火の危険がともなう。敷石 住居間に樹木が存在した痕跡は確認していないので,焼土面が分布する範囲は,裸地に近い状態で あろう。 柴原A遺跡の各焼土面は,熱変化を受けた硬化層が形成され,周辺には炭化物や獣骨片が散布し ている。動物の種類が特定できたのは,イノシシとニホンシカである。植物遺体には,オニグルミ, クリ,ドングリ類とコナラ亜属と針葉樹などの小枝片がある。受熱痕跡のある獣骨と堅果類の炭化 物が焼土面から出土することは,この場所で調理が行われた痕跡であろうか。獣骨の砕片は食残滓 であり,そのまま食事の場となったことを示している。 通常,焼土面が地表に形成されれば,それは雨水や霜柱などによって損なわれる。さらに動植物 の活動も加わって焼土の硬化面は急速に崩壊する。一年の四季を経過すれば,地表に形成された焼 土面の大半は崩壊して,所在は不明となる。ところが柴原A遺跡では,砂層に覆われた旧表土面上 に,多数の焼土面が検出されている。この表土面が砂層に覆われた時に形成されていた焼土面であ り,それが自然崩壊するまでの比較的短時間に砂層が形成されたことを示している。柴原A遺跡の 縄文時代後期の旧地表面は,それが当時の状況を良好に伝えていると考えられる。

(33)

図23 柴原A遺跡動植物遺体分布状況[福島県教育委員会 1989]

(34)

広場 柴原A遺跡のように,円形の裸地となって,周囲に集落施設の配置される例は少ない。飯 野町(現福島市)和台遺跡では,南北二つの広場が確認されている。このうち北側の広場は直径 30 m程度で,広場には掘立柱建物跡が配置され,さらにその外側に竪穴住居跡が検出されている。 集落全体を規制する施設配置に基づいて造られた計画性の高い集落である。また郡山市上納豆内遺 跡では,総数 111 軒の複式炉をともなう竪穴住居が直径約 50m の広場を取り囲んで造られていた。 ただしこの広場からは,土坑や掘立柱建物跡などの遺構は検出されていない。 多数の竪穴住居跡が検出される遺跡でも,広場が設けられていない例も少なくない。本宮町(現 本宮市)高木遺跡などである。しかし密集する住居跡群のなかに,居住施設の分布しない空間があ る。同型式期の竪穴住居が列状に配置された周辺,住居群のまとまり間の空間である。このような 空間も,広場の一種であろう。越田和遺跡でも,水場遺構近くの段丘平坦面には遺構の空白地区が ある。竪穴住居群の中心にはないが,広場のひとつであろう。 広場は,集落の住民にとって交流の場であり,各種の集まりや協業の場である。共用施設である。 集落の住人が数人程度であれば,竪穴住居程度の空間に集まって各種のあつまりに対応できよう。 しかし数十人ともなれば,それなりの空間が必要になる。集落社会を維持するために,広場が設け られたのである。 生活廃棄物処理 多くの場合遺物包含層として認定される遺構である。有機物は分解・消失する。 貝塚等でない場合,遺存することは稀である。出土物は,土器と石器が主体である。遺物包含層は, 集落周辺に形成されている。通常は沢地や崖面である。三春ダム関連遺跡では,廃棄された竪穴住 居の凹地に,遺物包含層が形成された例は少ない。仲平遺跡 3 次 3 号竪穴住居跡は,少ない例の一 つである。この竪穴住居跡は大型で,崖面近くに造られていたことから,廃棄場とされたのであろ う。 竪穴住居跡の分布と重なるように遺物も散布している。これは,遺構が撹乱を受けて散乱した遺 物と,住居の周辺に廃棄された不用品が起源であろう。これに対して,裸地の広場では遺物出土量 は少ない。この部分に,生活廃棄物を投棄できない規制があったからであろう。 生活廃棄物は,集落における消費生活の痕跡である。生活廃棄物が形成される場所は,集落にお ける消費のまとまりを反映していよう。それは個人であり,住居 ・ 住居群,あるいは集落全体とい うまとまりである。あるいは,祭祀や協業など各種の活動にともなう廃棄物もあろう。

………

越田和遺跡の集落変化

越田和遺跡は,大滝根川の支流,蛇石川の北岸に位置している。遺跡は丘陵の裾部に立地して, 北側は丘陵,南側は蛇石川の氾濫原である。おおよそ南北 110 m,東西 140 mの範囲に集落が形成 されていた。北側の丘陵谷部を扇の要として,南に開く小さな扇状地である。北端の標高は 313 m, 南端部は 305 m前後である(写真 2-1)。 縄文時代後期前半の遺構検出面は,丘陵からの厚い流出土によって覆われていた。遺構検出面は, 縄文時代の旧地表面でもある。とくに遺跡の北半部では,丘陵から流出した土砂が繰り返し堆積し ていた。これとともにまた,自然の侵食作用の影響もあり,削平の進行した地区もあった。平安時

(35)

写真 2  越田和遺跡 福島県教育委員会 1996(一部改変) 1 越田和遺跡周辺(上が南) 2 5 号敷石住居跡(堀之内 1 式期)  3 縄文時代後期地表面検出状況

(36)

代の竪穴住居跡の床面との比高差は 1.3 ∼ 2 m以上もあった(写真 2-3)。これに対して南部では, 丘陵部からの流出土は比較的少なく,しかも表土化の進んだ黒褐色土に変化していた。それでも 1 m近い堆積がみられた。 縄文時代中期から後期の段階で,遺跡の西端部は段丘崖が発達した急崖になり,南東部はそのま ま谷川の小流れに続いていた。遺跡の西部は北中央部から南東に張り出す緩斜となり,東部は北か ら南に傾斜する浅い凹地面である。 蛇石川は川幅 5 m程度である。水田が造られる以前は,流路の両側に氾濫原を形成して蛇行し, 湿地や小さな水溜りが連続する状況と推定される。そして狭窄部の峡谷では,小さな滝が連続する 急流となる。ときには狭窄部の斜面が崩壊して,流路上に自然ダムが出来ることもあった[福島県 教育委員会 1993]。 越田和遺跡で検出したびわ首沢式から堀之内 1 式の遺構は,次のとおりである。竪穴住居跡 42 軒, 掘立柱建物跡 5 軒,敷石住居跡 6 軒,土坑 97 基,焼土面 5 基,屋外囲 2 基,土器棺墓 8 基,配石 墓 8 基,水場遺構 3 基,石列・集石など,それに遺物包含層などである。つぎに土器型式期別に遺 構をまとめてみる。 びわ首沢式期の遺構 竪穴住居跡 14 軒,土坑 18 基以上,土器棺墓 2 基,水場遺構 1 基,遺物 包含層などである。竪穴住居跡以外の遺構は少ない。これは集落の南部から検出された竪穴住居跡 が,複式炉や柱穴のみとなり,竪穴の壁を失っていることから,旧地表面が侵食され,表層に近い 遺構が失われたことも関係していよう。ただし,大型円形土坑などは検出されていないので,この 遺跡では設けられていない可能性は高い。土器棺墓も 8 号埋設土器遺構のみである。少ない。 土器片などの遺物は,竪穴住居の営まれた緩斜面から段丘崖の斜面にかけて散布していた。緩斜 面の遺物は,集落の地表面に散らかった状態であり,この範囲では日常生活の活発な活動があった ことを示している。裸地となっていた範囲であろう。竪穴住居間の空地は,広場である。西南部か ら西部にかけては,出土する土器片の破片も大きい傾向があり,主な廃棄場であった。 竪穴住居跡は,おおよそ 4 群に分かれて検出されている。遺跡の東部では,丘陵の裾線に並んで 11・13・14 号の竪穴住居跡,これよりやや離れて 12 号竪穴がある。この一群と対応するように凹 地の西端に 17・22 号の 2 軒がある。東部では 11・41 号,13・14 号、 17・21 号が 2 軒ないし 3 軒 をまとまりにしている傾向がある。西部では,丘陵裾近くに 42 号と 39 号の 2 軒が点在し,他の竪 穴住居跡から少し離れた位置に造られていた。また,南西部の平坦面には 10・25・28・32 号の 4 軒がある。 各竪穴住居は,円形掘形 3 本柱構造で,複式炉も土器埋設部石囲部,それに前庭部で構成されて いる。規模も直径 5 m前後で,大差はない。これにともなう深鉢も,体部下半部が縄文,上半部が 凹線区画のアルファベット文である。びわ首沢式新相期である。住居構造は画一的で,それにとも なう土器型式にも新旧の認定は困難である。また,主柱穴の重複や造り変えの痕跡も未確認で,各 住居跡間に同一型式間の重複関係はない。竪穴内部の堆積状況も,中央部に黒褐色土が厚く形成さ れていた。住居が廃棄された後に自然堆積で形成された土層である。牛蛭式期の土器も含まれるが, 破片が混ざる程度である。 このなかで,39 号竪穴住居跡は,単独で造られている。しかも,牛蛭式期や堀之内 1 式期の住

図 2  山内編年大木 9 式基準資料 [早瀬・菅野・須藤 2006]
図 5  越田和遺跡 1 群土器 (びわ首沢式) [福島県教育委員会 1996]
図 7  越田和遺跡 3 群土器 (堀之内 1 式土器) [福島県教育委員会 1996]
図 8  本間編年 1 [本間 2008]

参照

関連したドキュメント

厳密にいえば博物館法に定められた博物館ですらな

Based on the plant macrofossils discovered in the Kureha Hills, Toyama, Japan, a possible altitudinal vegeta- tion sequence of Hokuriku Region during the Middle Pleistocene Period

図2 縄文時代の編物資料(図版出典は各発掘報告) 図2 縄文時代の編物資料(図版出典は各発掘報告)... 図3

毘山遺跡は、浙江省北部、太湖南岸の湖州市に所 在する新石器時代の遺跡である(第 3 図)。2004 年 から 2005

上げ 5 が、他のものと大きく異なっていた。前 時代的ともいえる、国際ゴシック様式に戻るか

 1999年にアルコール依存から立ち直るための施設として中国四国地方

 このようなパヤタスゴミ処分場の歴史について説明を受けた後,パヤタスに 住む人の家庭を訪問した。そこでは 3 畳あるかないかほどの部屋に

神戸・原田村から西宮 上ケ原キャンパスへ移 設してきた当時は大学 予科校舎として使用さ れていた現 在の中学 部本館。キャンパスの