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朱子礼関係文献国訳 -「朱子語類」巻八十四(一)-

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朱 子 礼 関 係 文 献 国 訳

        −﹁朱子語類﹂巻八十四︲−

    は じ め に   朱子の礼学に関する文献資料は、まことに多岐にわたり、且つ質的量  的には可成りのものを有する。なかんずく、その専著としては、礼経学  の立場で、末代的礼学の経学的体系化の一大精華としての﹁儀礼経伝通  解﹂をあげなければならない。次いで、当時の政教的理念すなわち政治  的目的意識の具現化のために、礼的理念や礼的規範・意識を本質として ’ふくみもち、実践可能な具体的礼俗・儀礼としての礼説たる﹁朱文公家  礼﹂、更には﹁小学﹂などの書が存する。この外、彼の思想仝領域にわ  たるものとして、﹁四書集注﹂ ・ ﹁文集﹂ ・ ﹁語類﹂などにも、広く礼  学に関する諸思想や礼説が多く見られるのである。特に、哲学・倫理思  想の立場からの礼思想︵理念︶や徳論、更には、実践論の立場からの礼  関連思想が見られるのである。ところで、四書関係については、すでに  恩師後藤俊瑞先生の編になる﹁朱子思想索引﹂の一環としての﹁朱子四  書集注索引﹂︵昭和二十九年・広島大学中国哲学研究室刊︶の中に、分類整理  されている。朱子が﹁四書集注﹂を作るに当って、先達諸家の諸説を取  捨して問答を設けて、その理由を究明した﹁四書或問﹂の中にも多くの  ものが含まれており、これも亦﹁朱子四書或問索引﹂ ︵昭和三十年刊︶と  して整理されているのである。﹁文集﹂ 一百巻及び﹁続集﹂十一巻と  ﹁別巻﹂十巻とは、書簡文を主とするが、その外に、封事・奏剔、講義 や﹁儀礼釈宮﹂などを収める雑著などの中にも、礼経学・礼思想・礼説  一       ’ 山   根  三  芳 ︵教育学部漢文学研究邑 などに関するものが、多く内蔵されている。﹁語類﹂百四十巻の内容 は、朱子の弟子たちの筆録によって成ったものであって、綱目別に分類 収蔵されている。なかんずく、礼関係の資料としては、主として巻八十 四から巻九十一の間に門目別に収められている。勿論この外全篇にわた って、礼学に関する広範な意見や思想が展開されていることは云うまで もないことである。ちなみに、巻八十四は﹁礼こ ︵論考礼綱領・論後世 礼書・論修礼書︶、巻八十五は﹁礼二﹂︵総論・士冠・士昏・郷飲酒・聘礼・公 食大夫礼・観礼・喪服経伝・既夕・少牢債食︶、巻八十六は﹁礼三﹂ ︵周礼−総 論・論近世諸儒説・天官・地官・春官こ誕官・秋官・冬官I︶、巻八十七は﹁礼 四﹂︵小戴礼︶、巻八十八は﹁礼五﹂︵大戴礼︶、巻八十九は ﹁礼六﹂冠昏 喪I総論・冠・昏・喪︶、巻九十は︻礼七︼ ︵祭︶で、巻九十一は五礼︵雑 儀︶を登載しているのである。本稿は宋の黎靖徳編﹁朱子語類﹂ ︵明・成 化九年刊本・正中書局印行︶を底本として、諸本を可能な限り参照した。 その間文字の大きな異同については注記しておいた。︵なお、諸本の研究 や成立に関しては、先人の多くの研究かあるので、ここでは一切省略する︶その  ﹁語類﹂の巻八十四の最初から、紙数の関係で二十三節までの本文・書 き下し・出来得る限り本文にそっての国訳をほどこし、大意と最小限度 の付注をなしたものである。この書は当時の俗語を多くふくむ問答録で あるため、誤読や誤訳も多く存すると思われるが、今後改訂を加え完全 を期したいものである。以下の国訳は逐次発表する予定である。  本稿訳出に参考となったものとして、内容的には全く相含みあうもの

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ニ   高知大学学術研究報告・第二十七巻 人文科学 である、吉川幸次郎こ二浦國雄﹁朱子集﹂︵中国文明選・第三巻・朝日新闘 社刊︶がある。これはまことに多方面に亘る詳細な解説がなされ有益であ る。更に、記録者についての参考資料としては、後藤俊瑞﹁朱子﹂︵東 洋思想叢書・日本評論社刊︶の﹁著書と門人﹂の項や、特に最近では、田 中謙二﹁朱門弟子師事年孜﹂︵﹁東方学報﹂京都第四十四冊・京都大学人文科 学研究所刊︶及び﹁朱門弟子師事年孜続﹂︵同前・第四十八冊︶や、前掲﹁朱 子集﹂などにきわめて緻密な考証のもと詳細に論述されているので、つ いて参考にされたい。     。。  なお、清朝の江永撰﹁礼轡綱目﹂巻首下の﹁朱子論礼綱領﹂・論類の・ 項に:﹁語類﹂から四十九節を登載しているが、その中に巻八十四から十 四節︵︱・2・3・4・5・6・7・8・13・22・24・25・26・33︶‘︲を入れて いる。更に、最近の礼学研究としては、‘銭穆氏﹁朱子新学案﹂︵台湾・中 華書局刊︶の第四冊に﹁朱子之礼学﹂が見える。最後に参考として巻八 十四の記録者図を付記しておく。   ﹁朱子語類﹂巻八十四 記録者一覧表  なお、本論は昭和五十二年度・五十三年度文部省科学研究費︵一般研究C︶ による﹁朱子礼思想の総合的研究﹂の研究成果の一部である。   朱子語類巻八十四 計二十八版    疆一     論考祓綱領︵礼を考える綱領を論ず︶ 田 破楽服壊二千他年。若以一大数一頭‘之。亦未’鳥’遠。然已都無二稽考  處一。後来須y有已箇大犬底人出来‘翁’数折洗一番上。但未‘知ヨ遠近  在二幾時‘。今世受日下。恐必有二箇碩果不’食之理一。必大  破楽癈壊すること二千除年なり。若し大数を以って之を頭れば、亦未 だ遠しとせず。然れども已に都て稽考する處無し。‘後来須らく一箇の大 大底の人出で来ること有りて、蚊を愈して折洗すること一番なるべし。 少だ未だ遠近幾時に在るかを知らざるのみ。今、世受日に下る。恐らく は必ず箇の﹁碩果食はれざる﹂の理有らん。  礼法と音楽との制度が廃壊しだのは、二千余年の間である。概数でよ く観れぱ、まだそれ程に遠いことではない。しかし、もうすっかり礼楽 を稽考する処をもなくなっている。今後、一人の偉大な人物が輩出し て、礼楽をことごとく整理することが最も大切なことでなければならな い。そのことの遠近さえも何時のことになるかわからない。今日、世の 中が変化して世俗が日々に低俗化しつつある。恐らく﹁碩果不食﹂の道 理によって、礼楽がまた必ず再興されるであろう。  ︿大意▽ 礼楽かすたれてしまってから暫く経過し困乱しているので、一日も    早く整理再興すべき人物が望まれる。朱子の自負心をも吐露する。  注 ○碩果不食⋮−﹁易﹂の剥卦に﹁上九碩石不‘食﹂と、大きい果物の実が     一つ残っていることから、君子の道は天祐によって決して亡びることはな    く、再興されるということ。程︵伊川︶ ﹁易伝﹂ ﹁如二碩大之果不・見‘食、    将‘見二復生之理一・:﹂とある。 ○必大−呉伯豊︵字︶、興国の人、早    く張拭・呂祖謙に学び、晩に朱子に師事した人。蔭補をもって吉水丞とな    る。﹁朱子文集﹂巻五十二に手紙あり。朱子五十八・九才及び六十三才の    記録者である。

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悶 祓學多不・可’考。蓋鳥二其書不・全。考来考去考得。更没二下梢‘。故  學y鐙者多迂回。一縁“一讃‘書不‘廣兼亦無二書可’誼。如7周鐙仲春教二振  族‘如申戦之陳お。ロハ此一何其間有二多少事‘。其陳是如何安排。皆無’  處y可こ考究一。其他鐙制皆然。大抵存こ於今一者。只是箇題目在爾。必大  疆學は多く考ふべからず。蓋し其の書全からざるが場めなり。考へ来 り考へ去り考へ得れば、更に下梢没し。故に鐙を學ぶ者の多くは迂閣な り。一に書を浪むこと廣からず、兼て亦書の浪むべき無きに縁るのみ。  ﹁周疆﹂に﹁仲春、振族を教へること戦の陳の如し﹂といふが如き、只 だ此の一句にも、其の間に多少の事有り。其の陳は是れ如何が安排せ ん。皆考究すべき處無し。其の他の破制も皆然り。大抵今に存する者 は、只だ是れ箇の題目在るのみ。  礼経学の内容については多くのことが考えられなくなっている。その ことは、礼学に関する文献が不完全なためだと思われる。あれやこれや と思索をめぐらして考え得ても、一向にはっきりとした結論は得られな いのである。だから礼学者達の中には、迂澗なことが多くあるわけなの だ。その第一の理由は、読書が狭いことであり、その上さらに読むべき 書物のないことである。﹁周礼﹂に﹁仲春に振族を教えること戦の陳の 如くにす﹂とあるところのただ一句でも、その間にいろいろな問題点が ある。たとえば、その陳は一体どんなにするのだろうか。どれも皆考究 するべきよりどころがないのである。その他の礼制についても皆同じこ とがいえるのである。大体、今日に現存する礼制でも、ただ単なる題目 だけのものがある。   ︿大意▽ 礼経学の諸内容には、多く考証できないものかある。それは文献資    料の不備・不完全性によるものである。礼制についても同じことで、内容    の不明瞭なものか多くある。   注 ○仲春⋮I夏官・大司馬に﹁仲春歌一振旅。司馬以‘旗致y民。平‘一列陳一。    如二戦之陳こと。鄭注に﹁凡師出日い治。兵入日二振旅。皆習戦也。四時    各教・民以一其ご焉。⋮春習二振族一。兵入収’衆。専こ於農一﹂とある。 -一 一 朱子礼関係文献国訳柵︵山根︶ 閣 古殿繁縛。後人於’殿日益疎略。然居‰﹁而欲‰何二古殿一。亦恐情文  不二相裕一。不・若只就二今入所‰仁殿中一個修。令・有二節文制数等威‘足  矣。古楽亦難二遮復‘。且於二今楽中一。去二其礁殺促数之音一。弁孜二其  律呂一令‘得こ其正‘。更令7掌二詞命一之官製卯撰楽章上。其間略述7教化訓  戒及賓主相良之情及如申人主待二臣下‘恩意之類上。令二人歌・之。亦足“一  以養二人心之和平一 0周殿歳時晶y民讃y法。其富時所い讃者不y知二云何一。  今若将二孝悌忠信等事一撰已文字一。或半歳或三月一次。或於こ城市‘或  於二郷村一聚y民而誼y之。就埓こ解説一。令二其通暁一。及‘所’在立二粉壁一  書寫。亦須y有y益。必大  古の殿は繁碍なり。後人殿に於て日に益疎略なり。然れども今に居 て古の腔を行はんと欲せぱ、亦恐る、情・文相裕はざらんことを。若か ざれば、只だ今人行ふ所の殿の中に就ひて側修し、節文・制斂・等威 有らしめば足りぬ。古の楽も亦遁に復し難し。且らく今の楽の中に於 て、其の礁殺・促敷の音を去り、弁せて其の律呂を孜めて、其の正を得 しむ。更に詞命を掌るの官をして楽の章を製撰せしむ。其の間略教化訓 戒及び賓主相良するの情及び人主臣下を待する恩意の類の如きを述て、 人をして之を歌は。しめば、亦以て人心の和平を養ふに足らん。﹁周殿﹂ に﹁歳時には民を扇て法を誼む﹂と。其の富時誼む所の者、云何なるか を知らず。今若し孝悌忠信等の事を将って一文字を撰し、或は半歳、或 は三月に一次、或は城市に於て、或は郷村に於て民を聚めて之を誼み、 就ひて解説を埓し、其をして通暁せしむ。在る所に及びて粉壁を立て書 寫せしめぱ、亦須らく益有るべし。  古の礼は繁文縛礼である。後世の人々は礼に日々ますます疎略になっ てしまった。そこで、今日、古の礼を実践しようとしても、これまた礼の 情︵礼の実質︶と文︵礼の形式︶とが相い称わないのではなかろうかとの 心配がある。古の礼がうまく行われないのならば、ただ現在の人々が実践

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四  ’﹃高知大学学術研究報告﹃第二十七巻 人文科学 している礼を適当に改変し、その礼が礼の文飾・礼制の数量や身分に応 じた威儀などをととのえてさえおれば、今日実践できる礼としては十分 なのである。古の音楽の場合も、またにわかに古い制度に復しがたいも のである。だから、しばらく現行の音楽の中で、音調がのびやかでなく て低いものや、演奏繁多なものを取り去って、さらに律呂を調べて声音 の正しいものを獲得させなければならない。そのうえに、︰詞命を掌る官 に命令して歌詩を製り撰ばさせる。そしてその歌詩の中に、教化・訓戒な どや、賓主が相応対する場合の情や、人君が臣下を待遇する時の恩意       `。      ︲       I j などを述べさせて、人々にこれを歌わさせれば、平和な人心を養育する        I    ♂   I       I一のに十分である・’周礼﹂に﹁歳時には民を属めて法を読む﹂とある    ■I       I I       I.が、その当時読んでいた1 籍が何であったかはわからない。今、もし孝 悌忠信などのことを材料として一つの書を撰定しIあるいは半年または 三箇月に一度、ある時は城市に、ある時は郷村に、民を聚めてその書を 読み、その文章について解説を施して、その内容に通暁させる。その上、 いたる所に粉壁を立てて、その文章を書き写させておけば、さらに有益 となることは必定である。   Λ大意▽ 古礼・楽は繁雑であって、現今で実践しようとすれば、礼の情・文     が合致しなくなる。そこで、時・位・処に適したように通礼を節文改正し     て、その礼教の木質を教化さすべきであり、かくて国家社会の秩序の安定     と民心の平和とか確保できるとする。   注 ○繁御−繁文御礼のこと。儀礼の規制などくだくだしく、手続きなど煩わ     しいこと。 ○情文⋮j人の心情︵内的精神︶と礼の節文︵外的儀節︶と     が調和がとれて一致すること。情は礼意、文は礼物・威儀。﹁礼記﹂三年     問に﹁三年之喪、何也。日、称・情而立’文﹂と。鄭注に﹁称・情而立‘文、     称二人之情軽重‘而制二其礼‘也﹂と。 ○節文−取捨選択して文飾するこ     と。﹁礼記﹂坊記に﹁礼者因‘一人之精一、而為二之節文一、以為二民坊‘者也﹂     と。﹁孟子﹂離婁上に﹁礼之実、節一文斯二者一、是也﹂と、朱子は﹁節文     周二品節文章こ︵集注︶と。 ○制数I礼節・礼容の数m的なものを統制     すること。 ○等威−身分・等位に応じた威儀。 ○嘸殺−音調がのびや かでなくて低いこと。楽記に﹁是故志微。嘸殺之音作、而民思憂﹂と。 ○律呂−音声の清濁高下を正す器。陰陽各六つに分け、陽を律として、黄 鐘・太放・姑洗・蔽賓・夷則・無射、陰を呂として大呂・爽鐘・中呂・林 鐘・南呂・応鐘としている。 ○周礼−地官・州長に﹁各掌二其州之教‘、 治二政令之法一。正月之吉。各属二其州之民一読。書、以考こ其徳行道蓼一・;﹂ と。族師に﹁各掌二其族之戒令政事一。月吉則属‘民而読こ邦S一、書二其考弟 睦闘有い学者一﹂と。 ㈲ 古殿於y今宜難‘行。1 謂後世有こ大聖人者作一。餌y他整理一番。令こ  人甦醒・。必不・こ二恚如こ。古人之繁一。但倣ご古之大意一。義剛 パ古の殿今に於て宜に行ひ難しヽ。嘗つて謂へらく、後世大聖人なる者作  ること有りてい他と興に整理すること一番にして、人をして甦醒せし  ’めん。必ず一一霞ごとく古人の繁の如くならざるも、但だ古の大意に  倣はんのみ、と。ブ  古の礼は今日ではまことに実践しがたいものである。これまでに、私 は後の世に偉大なる聖人が出現して来て、彼と共に古の礼をひとたび整 理して、人々に古の礼への関心をよみがえらせたいものだと、考えてい た。しかし、その場合、礼の一つくについては、すべて古人の礼の繁 文のようには、必ずできないものであろうか、ただ古の礼のもつ根本意 義︵綱領︶だけは理解させたいものだと、言ってきた。  ︿大意▽ 古礼の整理か肝要であることを提起し、それへの関心を喚起させ、    礼の本質を理解させる必要かあると説く。  注 ○義剛I黄義剛、字は毅然。江西省臨川の人、白鹿洞堂長・黄義勇の弟。    朱子に師事すること最も久し。﹁朱子語類﹂の有力な筆記者。朱子六十三    才以後の問答記録者である。 ㈲ 古噌難‘行。後世萄有二作者‘。必須‘酌二古今之宜一。若是古人如・此  繁縛。如何教“一今人要こ行得一。古人上下習熟。不・待こ家至戸暁‘。皆  如二飢食而渇欽一。略不い見二其埓・難。本朝陸農師之徒。大抵説’腔都  蓼‘一先求二其義‘。豊知古人所乱以講丿明其義‘者。蓋縁Ill其儀皆在二其具並

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 存一。耳聞目見無’非二是殿一。所謂三千三百者較然可・知。故於’此論こ  説其義一。皆有こ辿依一。若是如‘今古殿散失。百無已二存者一。如何懸  空於こ上面‘説’義。是説J得甚座義︸。須y是且将こ散失諸破‘錯綜參考。  令巾節文度敷一一着古賓。方可‘推二明其義一。若錯綜得・賓。’其義亦不‘  待・説而自明矣。賀孫  古の微行ひ難し。後世荷し作者有らば、必ず須らく古今の宜を酌むべ し。若し是れ古人此の如く繁縛ならば、如何ぞ今人をして行ひ得ること を要めしめん。古人は上下習熟すれば、家いへに至り戸ごとに暁さする ことを待たずして、皆飢て食ひ渇きて飲むか如し。略其の難と埓すを見 さず。本朝陸農師の徒、大抵殿を説くに都て先づ其の義を求めんことを 要す。豊知らんや、古人其の義を講明する所以の者は、蓋し其の儀は皆 具へ並びに存するに在るに縁り、耳に聞き目に見ること、是の殿に非る こと無きを。所謂﹁三千三百﹂という者、較然として知るべし。故に此 に於て其の義を論説すれば、皆披依有り。若し是れ今の如く古礼散失 し、百に一二の存する者無くば、如何ぞ懸空に上面に於て義を説かん。 是れ甚麿の義をか説き得ん。須らく是れ且らく散失せる諸破を将って錯 綜參考し、節文度瞰をしてコ賓に着けしむべければ、方に其の義を推 明すべし。若し錯綜して賓を得ば、其の義も亦説くことを待たずして自 ら明らかならん。  古の礼は実行しがたいものである。後の世に、もし礼を創作する者が いたら、きっと古今の礼の宜を参酌するにちがいない。もし古の人にも 礼がこのように繁縛であるのならば、どのようにして今日の人にその礼 を実行させることが期待できようか。古の人は身分の上下を問わず皆礼 に習熟していたので、各家毎に礼について教えさとすことをしないで も、飢渇した者が何でもおいしく飲食するように、大体礼の実行につい ては困難さをしめしていない。宋の陸農師の︸派は、おおよそ礼を論議 五 朱子礼関係文献国訳︲︵山根︶ するには、まずすべてその礼の根本的意義を論求しなけれぱならないと した。古の人がどうして礼の意義を講明しようとするのかそのず虻は、 よく考えて見るに、それぞれの儀礼には皆その意義を内具して、具体的 な儀礼として存在するものであり、耳で聴き目で視るところの礼容は、 すべてこの根本義からの礼であることをよく知っているのだろうか。い わゆる﹁威儀三千、礼儀三百なる﹂ものは、はっきりと理解できるので ある。だからここで、その根本意義を論説すれば、皆拠依があることが わかるのである。今日のように、古礼が散失して、百の中で一二のみし か残存していないようでは、どうして儀礼のうわつらだけでその意義が 説明されようか。根拠のないうわつらだけではどのように意義を説明す ることができよう。しばらく散失している諸礼をいろいろに組み合せて 参考にし、礼の節文や度数などを一つ一つ礼内容に則してたしかめ考察 させることができれば、それによってその意義が推し明らかにできるの である。儀礼を交互に組み合せて礼内容をたしかめることができたなら ば、その意義もまた説明を待つ必要もなく、自明の事となろう。  ︿大意▽ 古礼の整理の必要性を説き、陸氏の説礼の態度すなわち礼の根本意    義を理解しようとする研究態度を高揚し、かかる礼の意味性を把握する態    度の必要性を強調する。  注 ○作者I前哨節の﹁聖人者作﹂の作と意味内容としては相ふくむものであ    る。礼楽を創作する者=聖人と見る。﹁礼記﹂に﹁知二礼楽之情‘者能作。    識二礼楽之文一者能述。作者之謂’聖。述者之謂‘明。明聖者述作之Ⅲ也﹂︵楽    記︶とある。 ○陸農師−陸佃、号は陶山。山陰の人。王安石に経を受け    たか、新法を是としなかった。礼関係の著に﹁礼象﹂十五巻、﹁礼記解﹂    四十巻、﹁述礼新説﹂四巻、﹁儀礼義﹂十七巻、﹁大喪議﹂一巻︵﹁宋史﹂    芸文志・経・礼類︶などかある。○三千三百I﹁礼記﹂に﹁経礼三百、曲    礼三千﹂︵礼器︶、﹁中庸﹂に﹁礼儀三百威儀三千﹂、この集注に﹁礼儀経    礼也。威儀曲礼也﹂とある。○賀孫I葉味道、初名加賀孫。括蒼の人。辛    亥以後の所聞、すなわち朱子六十一才以後の記録者である。 剛 胡兄問’鐙。日。徴時鳥y大。有二聖人者作一。必将y因こ今之鐙一而裁J

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六   高知大学学術研究報告 第二十七巻 人文科学  酌其中‘取中其簡易易‘暁而可心行。必不’至7復取二古人繁縛之膿一而施中  之於今上也。古膿如・此零砕繁冗。今壹可乙汀。亦且得二隨・時裁損一爾。  孔子従二先進︸。恐已有二此意一。或日。破之所二以亡一。正以こ其太繁而  難L汀耳。日。然。蘇子由古史説二忠質文一處。亦有こ此意‘。ロハ是晋拝  不’出。首尾不二相照庖一。不’知文宇何故如・此。其説云。自こ夏商周‘  以来。人惰日趨こ於文‘。其終却云。今須y復行‘一夏商之質一乃可上。夫人  情日趨二於文一矣。安能復行二夏商之質‘乎。其意本欲・如二先進之説‘。  ︷但餅不‘足二以達’之耳。側       ’‘ と り  ゜に 夫゛却

れ人情日に文に趨る。安んぞ能く復だ夏・商の質を行はんや。其

つて云ふ、﹁今須らく復だ夏・商の質を行ひて乃ち可なるべし﹂

の意本と先進の説の如くならんことを欲す。但だ餅以って之を達するに

足らざるのみ、と。

 胡叔器氏が礼について問うた。言う、礼は時を大と為すものである。

聖人がこの世に生れ出ることがあると、必ず今日存する礼を中心とし

て、その時︵時代︶ ・処︵社会︶に適中するように裁量斟酌し、簡単容

易で理解できるもので実行可能なものを礼の規範として取り上げるにち

がいないであろう。古人の実行した繁岬の礼を再び取り上げて来て、今

 日の礼として実施するようなことは決してしないのである。古礼はこま  ごまとこみいっていて、今日ではどうしてもそのままでは実行できない  のである。この古礼もまたしばらく時の宜しきに従って裁損︵制定損  益︶ことができるだけである。孔子が﹁吾は先進に従ふ﹂というのは、  多分この意味のことをふくんでいたのであろう、と。或る人が言った。  礼がだんだん亡びてゆく理由は、まさしくその礼が大変繁雑で実行でき ・ にくいからだけのことなのか、と。言う、然り、と。、蘇轍が、﹁古史﹂  に、忠・質・文を説いている処にも、またこの意味のととが見える。た  だ十分にその意味が発揮し出ざれていないし、翁後も互に相い応じてい゛ ゛ないのである。その文章もどうしてこのようになるのかもわからない。  そ勿﹁古史﹂・の説に﹁夏ぶ商・珀の時代からだんだんと人情が日々文華  の方向へとおもむいた﹂と云っている。其’の。終りには、むしろ次のよう  に云っている。﹁今日︵末代では︶再び夏・商時代の質朴を実行すれば  よろしい﹂と。一体、人情が日々に文華の方向へとおもむけば、どうし  て再び夏・商時代の質朴を実行することができようか。その表現してい  る意味も、もともと﹁論語﹂に見える先進の説のようでありたかったの  である。ただ、辞がその本当の意味内容を十分に伝達することができな  かっただけのことであるのだ、と。   ︿大意▽ 礼は時の宜しきに従って制定さるべきものであることを強調する。     古礼もかくて今日に生かされる礼となることを説く。あわせて蘇氏﹁古     史﹂の内容にっいても批判論及している。   注 ○胡兄−胡安定・字は叔器。朱子の門人、師事期は朱子六十八才以後。白     斎先生と称す、江西省芹郷の人。 ○礼時為大−﹁礼記﹂に﹁礼時後大⋮﹂     ︵礼器︶、﹁左伝﹂に﹁礼以順y時、天之道也﹂︵文公十五年・成公十六年︶。     ○孔子⋮−﹁論語﹂に﹁子日、先進於二礼楽一、野人也。後進於二礼楽一、君     子也。如用い之、則吾従二先進一﹂︵先進︶と、その集注に﹁先進後進猶。言二     前輩後輩一。⋮用‘之謂・用二礼楽一。孔子既述こ時人之言一。自又言其如・此。     蓋欲二損‘過以就・中也﹂と。 ○蘇子由丿蘇轍︵1039-1112︶。賦の弟。     号は穎浪、謐は文定。眉山の人で宋の詞人。著に﹁古史﹂六十巻あり。

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   ﹁史記﹂の欠を補ふという、上は伏畿から下は秦始皇帝に至る史実の記    録。本紀七、世家十六、列伝三十七。○忠・質・文丿忠は﹁まどころ﹂で    礼原理の根本理念。文は文華、質は質朴で、礼制改制の原理である。    一般に夏は忠を尚び、殷は質を尚び、周は文を尚ぷといわれる。文質三総    論は﹁春秋繁露﹂の﹁三代改制質文篇﹂、﹁白虎道﹂の﹁三正篇﹂に見え    る。﹁論語﹂に﹁質勝い文則野、文勝い質則史、文質彬彬、然後君子﹂︵雍    也︶、﹁子日、殷因二於夏礼一、所二損益一可‘知也⋮﹂︵為政︶、﹁林放問二礼之    本一。子日、大哉問、礼与二其奢一也寧倹、喪与二其易一也寧戚﹂ ︵八街︶と    ある。○辞I﹁論語﹂に﹁子日、辞達而已矣﹂ ︵南霊公︶とある。○側−    肘雌字は仲荘︵一本には杜仲に作る︶。浙江省永嘉の人。朱子六十七才    以後の記録者である。 閉凶服古而吉服今。不二相抵接‘。坏莫惟三献。法服其除皆今服匹卿球JJ  百世以下有二聖賢出一。必不・踏こ善本子一。必須二斬新別倣一。如二周殿一  如y此繁密。必不・可に汀。且以二明堂位一哉‘之。周人毎事皆添二四重‘。  虞不‘過二是一水裾一相似。夏火。殷藻。周龍章皆重添去。若聖賢有‘  作。必須一‘一簡易疏通使二見‘之而易y知推・之而易瓦何。蓋文質相生。秦漢  初巳自趣こ於質一丁。太史公・董仲舒毎欲Ill改用二夏之忠一。不’知其初蓋  已是質也。國朝文徳殿正極常朝。升朝官巳上皆排y班。宰相押y班。再  月而出時郎。班官甚苦y之。其後遂癈。致II主楽道以‘此攻こ魏公一。蓋  以ヨ人情趨二於簡便−故也。方子  凶服は古にして吉服は今なり。相抵接せず。膠莫は惟だ三献のみ。

法服其の飴は皆今服なり。

と有れば、必ず薔本子を踏

諺惣社ご瀋岳y逞1でこ

まず。必ず須らく斬新に別に倣すべし。﹁周

破﹂の如き此の如く繁密なり。必ず行ふべからず。且く﹁明堂位﹂を以

って之を観れば、周人毎事皆四重を添ふ。虞の祓は是れI水櫛に過ぎざ

るに相い似たり。夏は火、殷は藻、周は龍章、皆重ね添え去る。若し聖

賢作ること有れば、必ず須らく簡易疏通して、之を見て知り易すからし

め、之を推して行ひ易すからしむべし。蓋し文・質相い生ず。秦・漢の

初め已に自から質に趣き了る。太史公﹃・董仲9 毎に改めて夏の忠を用ひ

七 朱子礼関係文献国訳︲︵山根︶

んことを欲す。知らず、其の初め蓋し已に是れ質なることを。國朝文徳

殿正極の常朝に、升朝官已上、皆班を排す。宰相班を押し、再秤して

出て時に蹄る。班官甚だ之に苦しむ。其の後遂に癈す。王楽道此を以っ

て魏公を攻ることを致す。蓋し人情簡便に趨るを以っての故なり。

 凶服すなわち喪服は古い時代に用いられて、今日では吉服を用いてい

る。しかし、儀礼の実行上たがいにくいちがいはないようだ。孔子を祭

る釈莱の礼は、ただ三献のみで、迎戸以

その他は皆現行の服を用いるのである。

万U

ないのである。法服

頴詣磯亙貴

後に聖・賢人が出て来たら、必ず旧本の儀礼のそのままを踏襲すること

はなく、必ず斬新な時宜に適した別な儀節を作り出すにちがいない。﹁周

礼﹂などは、その内容が繁雑で緻密であるから、実行が必ず不可能とな

るものである。しばらく、﹁礼記﹂の﹁明堂位﹂の文によって、これらの

処を考えてみると、周の人はことごとく皆虞・夏・殷・周四時代のものを

重ね添えていることになる。すなわち、虞・舜の微は一つの水禍に過ぎな

いものであったようだ。その無飾のものに夏は火を画き、殷は五色の玉・

藻を増し加え、周は龍の章を加えた。これらを皆重ね添えたものを、周

の人は着ているのである。もしも聖・賢人が出て来ることがあったら、

必ずこの複雑な礼容を簡素にときあかして、見てわかるように、推しは

かって実行できやすいようにするにちがいないのである。そこに、礼の

文と質とが生じて来ることになる。秦・漢時代の初期は、自然と礼の質

の方向へとおもむいていたのである。太史公や董仲舒は、何時も夏の時

代の忠を中心に礼を改ため用いさせようと努力した。ところが、その当

初すでに、礼の本質は質であったことを、十分に理解していなかったの

である。本朝文徳殿の、天子が政を聴く御殿で毎朝、升朝官以上の者は、

皆位階によって順序に整列し、宰相がこれを検閲して、再拝してから退

出し、それぞれの部署に帰って行くことを実行させたのである。そこで

それに並ぶ官吏たちは大変苦しんだのである。その後この儀礼はようや

(8)

八 高知大学学術研究報告 第二十七巻 人文科学 く廃止された。王楽道は、この儀礼を実行させた韓埼を非難した。その 理由は、人情は、儀礼の簡便化の方へおもむくものであるからなのだ。   Λ大意▽ 礼の質・文が歴史的には相互に生ずるものであるとして、礼の本質     を述べ、実例をあげて、周代の礼の文を説明している。また、人情として     は礼は簡素化の方向へむかうものであることを述べる。   注 ○釈莫−﹁札記﹂文王世子に﹁凡学春宮釈二莫于其先師一。秋冬亦如・之⋮﹂     と。鄭注に︷釈莫者設二薦饌一酌莫而已。無︸。一迎戸以下之事一⋮﹂とある。     ○至録−楊至。字は至之。朱子六十三∼六十四歳の所聞を録す。 ○明堂    、位−’﹁礼記﹂の編名・。﹁有虞氏肺載・夏后氏山・股火・周血章⋮⋮ル四     代之服器官、魯兼二用之一。是故魯王礼也。天下伝’之久矣:紆との鄭注に       lf       l   j    ﹁祓∼冤服之解也。舜始作・之。以尊二祭服一。萬湯至‘周。増以二斑文‘。後。  ・。バ王弼飾也。山取二其仁可扁     焉⋮﹂とある。引用文は、﹃明堂位の文と異なり、夏を火、股を藻に作っ。 ている。 ○虞散−虞は舜のこと。 と。﹁儀礼﹂に見える﹁仰﹂・ 散は祓で、古の祭服。ひざがけのこ ﹁妹給﹂の類か。○水櫛︱水は五行︵水・    火・木・金・土︶の首の意か、槍はひざかけのこと。舜の祓を意味するか。    ○趣於質了−了の字一本子に作る。 ○太史公−漢の司馬談。太史令とな    る。子は遷。 ○董仲舒j︵B. C. 176-104︶広川︵河北省︶温城の人。    景帝・武帝に仕え、公羊学をおさめた。 ○升朝官−常参宮で、朝謁に参    与するもの。 ○排班−位官︵階︶の順序によって整列すること。 ○    押班−百官の著席する位次のことを取り扱い、または検閲すること。 ○    王楽道︱不詳。 ○魏公−韓埼。宋の安陽の人。字は稚圭。伯仲俺ととも    に天下に称せられた。三朝に歴仕して相となり執政10年。魏国公に封ぜら    れた。 ○方子−李方子。字は公晦、果斎と号す。福建省耶武の人。朱子    の年譜の最初の作成者。朱子五十八才以後の所聞を記録する。 閣 聖人有・作古殿未二必恚用一。須“一別有二箇措置一。視二許多璃細制度‘。  皆若二具文一。且是要・理﹁會大本大原−。曾子臨’死丁寧説。君子所以貝二  乎道‘者三。勁二容貌‘斯道二暴慢‘矣。正二顔色一斯近’信矣。出二排気一斯  遠二鄙倍‘矣。湿豆之事則有司存。上許多正是大本大原。如今所二理合一  許多正是箔豆之事。曾子臨’死教‘人不y要‘去’理n會這箇一。夫子焉不い  學。而亦何常師之有。非二是孔子‘如何盗傲二這事一。到こ孟子一巳是不・  説J到細砕上‘。只説7諸侯之膿吾未二之學‘也。吾1 聞・之矣。三年之喪  斉疏之服俯粥之食自こ天子一連中於庶人上。這三項便是大原大本。又如’  説二井田一。也不ヨ曾見こ周敏一。ロハ披二詩裏一。説7雨こ我公田一遂及二我  私一。由‘此観い之。雖y周亦助也上。ロハ用二詩意一帯将去。後面却説下郷田  同・井、出入相友、守望相助、疾病相扶持。八家皆私二百畝︸。同養中公  田上。只説二這幾句‘。是多少好。這也是大原大本處。看孟子不y去y  理J會許多細砕一。只理J會許多大原大本一。又日。理二會周敏一。非“一位至二  宰相一。不y能’行二其事‘`。自二介lii.之。更自遠在。且要y就二切噴‘  理卯今受用處上。若倣ご至宰相一 0亦須ヨ上遇ご文武之君一。始可‘得‰仁二其  ls   4      1      ■    ″  志‘。又日。且如二孫呉‘専説‘用‘兵。如こ他説一也有二1 本原一。如︲y説7  一日道。這者興y上同’意。可二興’之死一。可中興’之生上。有道之主将 ’用二其民・。先和而後造二大事一。・若使7不i<Qii於道理・不上’和二於入神‘。  雖y有二必勝之法一。無・所y用匹之。問こ器遠‘。昨日又得‘書。説二得大  綱一也是如・此。ロハ是某看こ仙郷埓t學。一言以蔽・之。ロハ是説4 都似。  須y是理會到二十分一是始得エ。如二入射二般。須二是要‘中二紅心‘。如− 。今直要‘中・的。少間猶且不‰y中‘的。若只要y中・帖。只會‘中・探。少  間都是胡−1 登柱]了気カー。二百歩外若不二曾中‘的。ロハ是狂矢。如今  且要’分丿別是非一。是底直是是。非底直是非。少間傲出便會‘是。若  依︱稀底也喚作・是便了。下梢只是非。須二是要・傲二第一等人一。若決是  要‘倣二第一等人一。若才力不‘逮。也只倣J得第四五等人一。今合︲下便  要・傲二第四五等一。説丿道就二他才地‘如占此。下梢成こ甚座物事一。又  日。須y是先理J會本領‘端正。其催事物漸漸理自會’到上面上。若不7理J  會本領一了上。報’饒作百殲百會。若有二些一子私意一。便粉砕了。只是這  私意如何卒急除得。如二顔子一天資如‘此。孔子也只教二他克・己復‘膿。  共徐弟子告‘之雖’不’同。莫・不7以二此意一望七之。公書所’説。再求・  仲由富初他是只要y傲J到如y此。聖人教二由・求之徒一。莫’不y以二曾・顔‘  望占之。無・奈丿何他才質只傲J到這裏一。如y可‘使’沿二其賦‘可き使y  埓二之宰‘。他言初也不“一止是要二忌地一。又日。胡氏開‘一沿道寮一。亦非’一

(9)

 狽只理J會這些一。如二所謂頭容直足容重手容恭一。許多説話都是本原。  又日。君畢所‘説。某非‘謂二其理會不・是。ロハ不‘是二次序一。如7荘子  云&回道非こ其序‘則非占道。也自説得好。如’今人須ヨ是理J會身心‘。  如己片地‘相似。須二是用い力仔’細開墾‘。未‘能‘如・此。只一管説二種‘  東種‘西。其宜種‘一得甚歴物事‘。又日。某1 説。佛老也自有7快︲活’得  人一処上。日E那裏只縁y他打こI併−得心下一浄潔上。所以本朝如二李文靖・  王文正・楊文公・劉元城・呂申公一。都是忌地人。也都去‘學い他。又  日。論末那様事不‘着二理會一。若本領是了。少聞如y雨漢之所J以盛‘是  如何。所︲以衰一是如何。三國分併是如何。唐初間如何興起。後来如何  衰上。以至二於本朝‘大綱自可こ理會一。若有二工夫一更就二裏面一看。若更有ニ  エ夫一就二裏面一討こ些光采‘更好。某之諸生度二得他脚手‘。也未い可’一興  枯ご恚許多‘。只是且教y他就二切・身處一理會上。如‘誼二虞・夏・商・周之1 一。  許多聖人亦有し説二賞罰一。亦有‘説二兵刑一。只是這箇不二是本領一。問。  封建周確説二公五百里一。孟子説二百里一。如何不‘同。日。看二漢儒注・  書。於こ不・通處一。即説︲道這是夏・商之制一。大抵且要二頼将去一。若将二  這説一来看二二項一。却伯孟子説是夏・商之制。孟子不二詳考一。亦只説Ill  1 聞こ其略一也。若二夏・商時一諸處廣凹。人各自聚揚二國一。其大者止  百里。故萬合二諸侯一執二玉帛一者萬國。到二周時一漸漸呑井。地里只管添。  國斂只管少。到二周時一只千八百國。較こ之萬國一。五分已減二了四分已  上一。此時諸國已自大了。到J得封二諸公一非こ五百里一不占得。如二周公  封’魯七百里一。蓋欲‘優二於其他諸公一。如二左氏説一云。大國多兼二嫉  折‘。也是如’此。後来只管併来併去。到二周衰一便制y他不y得。也是尾  大了。到こ孟子時石ハ有二七國一。這是事勢必到二這裏一。雖y有二大聖大  智一。亦不y能y遥二其衝‘。今人只説7漢封こ諸侯王‘土地太過上。看末不・  如‘此不・得。初間高祖定二天下‘。不・能y得二韓・彭・英・盧許多人一来  使申所・得地又未占定こ是我底一。富時要’殺こ項羽一。若有’人説丿道中J分  天下‘興・我。我便興‘弥殺中項羽上。也没こ奈何一。興‘他到‘一一少開封二自子 九   朱子礼関係文献国訳日︵山根︶  弟一。也自要二狭小‘不‘得。須y是教‰舅得許多異姓一過上。又日。公今  且収こI拾這心下‘。勿7埓二事物一所占勝。且如7一日全不’得・去‘講J明  道理一不‘得‘蹟・書只去占態事。也須y使7這心常常在巾這裏上。若不二先  去’理丿會−得這本領一。只要い去7就二事上一理會上。雖三是理II會’得許多  骨董‘。只是添丿得許多雑1 一。只是添心得許多鵬吝一。某這説的定是怨  地。雖こ孔子復生一。不‘能‘易二其説一。這道理只一而已。賀孫  聖人作ること有れば、古破未だ必ずしも震ごとく用ひず。須らく別に 箇の措置すること有るべし。許多の瓊細の制度を視るに、皆具文の若 し。且是れ大本大原を理會せんことを要す。曾子死に臨み丁寧に説け り。﹁君子道に貴ぶ所の者三あり。容貌を動かして、斯に暴慢に遠ざか り、顔色を正しくして、斯に信に近づき、俗気を出して、斯に鄙倍に遠 ざかる。漓豆の事は則ち有司存せり﹂と。上の許多正に是れ大本大原な り。如︱今理會する所の許多は正に是れ箔豆の事なり。曾子死に臨みて 人に教へて這箇を理會し去らんことを要せず。夫子焉にか學ばざらん。 而も亦何の常師之れ有らん。・是れ孔子に非ずんば、如何ぞ金ごとく這の 事を倣さん。孟子に到りて已に是れ細砕の上に説き到らず。只だ﹁諸侯 の破吾れ未だ之を學ばざるなり。吾れ嘗って之を聞けり。三年の喪、斉 疏の服、値粥の食は、天子より庶人に達す﹂と説くのみ。這の三項は便ち 是れ大原大本なり。又井田を説くが如き、也た曽って﹁周徴﹂を見ず。只 だ詩裏に篠りて、﹁﹁我が公田に雨あり、遂に我が私に及べ﹂と、此に由 りて之を観れば、周と雖も亦助する也﹂と、説けり。只だ詩の意を用ひ て帚み将ち去れり。後面却って、﹁郷田井を同うし、出入相友なひ、守 望相助け、疾病相扶持し、八家皆百畝を私し、同く公田を養ふ﹂と、説け り。只だ這の幾句を説く、是れ多少好し。這れ也た是れ大原大本の處な り。看よ、孟子許多の細砕を理會し去らず。只だ許多の大原大本を理會 することのみを。又曰く、﹁周腔﹂を理會するも、位宰相に至るに非れぱ、

(10)

一〇  高知大学学術研究報告 第二十七巻 人文科学

其の事を行ふこと能はざらん。一介より之を論ずれば、更に自ら遠くに

在り。且切賓に就いて受用する處を理會せんことを要す。若し宰相に傲

り到るも、亦た上文・武の君に遇ふを須って。、始めて其の志を行ふこと

を得るべし、と。又曰く、且孫・呉が如く、専ら兵を用ふることを説 く。他の説の如きも、也た箇の木原有り。﹁一に日く、道﹂と。﹁道と は、上と意を同くして之と鋼に死ぬべく、之と興に生くべし﹂と説くが 如し。有道の主将ミ其の民を用’ふるに、先づ和して後に大事を造す。若 し道理に合はず、人神犯和ぜざらしめば、必勝の法有りと雅も、之を用    I       `       1 `ふる所無けん、こと。器遠に問ふ。。。昨日又9 を得、大綱を説き得ること也 `  ” ’         I      な  一 み       、 た是れ此の如し。只だ是れ某、仙郷學を埓すを看るに、一’言以っ’て之を 蔽ふ。只だ是れ説き得ること都似たり’須らく是れ理會すること十分に到 りて、是れ始めて得るべし。人の射るが如く一般なり。須ら・く是れ紅心 に中らんことを要すべし。如−今直に的に中らんことを要むれば、少間 猶ほ且的に中るべからず。若し只だ帖に中らんことを要むれぱ、只だ探 に中るべし。少間都て是れ胡1 に登して気力を托げ了らん。二百歩の

外、若し曽って的に中らざれば、

       てい ただ5 こを分別せんことを要す。是なる底は直に是れ是とし、非なる底は直に是

れ非とせぱ、少間傲し出して、便ち是なるべし。若し依稀底を、也た

喚びて是と作して便ち了らぱ、下梢は只だ是れ非ならん。須らく是れ第

一等の人と傲らんことを要すべし。若し決して是れ第一等の人と傲ら

んことを要むるも、若し才力逮ばずんぱ、也た只だ第四五等の人と傲り

得ん。今合一下に便ち第四五等の人と倣らんことを要し、他の才地に就

いて此の如しと説道せば、下梢は甚座の物事をか成さん、と。又日く、

須らく是れ先づ本領を理會することを端正にし、其の帥の事物は漸漸に

上面に理會し到るべし。若し本領を理會し了らざれば、低饒ひ祢百昼に

百會すとも、若し些子の私意有れば、便ち粉砕し了らん。只だ是れ這の

只だ是れ狂矢なり。如︲今且く是非

ただ5 こ

私意如何にして卒急に除き得ん。顔子の如きは、天資此の如し。孔子也 だ只だ他に﹁已に克ちて膿に復る﹂ことを教ふ。其の除の弟子之に告る こと同じからざると雖も、此の意を以って之に望まざること莫し。公が 書に説く所なり。再求・仲由は富初他是れ只だ此の如くに傲し到らんこ とを要す。聖人由・‘求の徒に教ふるに、曽・・顔を以って之に望まざる こと莫し。他の才質只だ這裏に傲し到るこ。とを奈何ともすること無し。 其の賦を治めしむべし、之が宰篤らしむべ漣が如き、富初也だ止だ1 れ 忌地くなることのみを要せず、ヽと。又日くJ胡氏﹁治道飛﹂を開くも亦 濁り只だ這些を理解するのみにあらず。所扇﹁頭の容は直く、足の容は 重く、手の容は恭しき﹂が如き、。許多の説話都。て是れ本原なり、と。ズ     r  faf      ij    ゛四d    −   4      あら     i 日く、君畢説く所、某、其の理會すること是ならずと謂ふに非ず。只だ 次序を是とせず。﹁荘子﹂﹁道に語ること其の序に非ざれぱ則ち道に非ざ るなり﹂と、云ふが如し。也た自ら説き得て好し。如今の人、須らく是 れ身心を理會すべし。一片の地の如く相似たり。須らく是れ力を用ひて 仔細に開墾すべし。未だ此の如きこと能はずして、只︱管に東に種へ西 に種ふと説かば、其の宜は甚座の物事をか種へ得ん、と。又日く、某嘗 って説く、佛・老も也た自ら人を快活し得る處有り、と。是れ那裏只だ 他心下を打併し得て浄潔なるに縁るのみ。所以に本朝李文靖・王文正・ 楊文公・劉元城・呂申公が如き、都て是れ怨座地の人、也た都て他を學 び去る、と。又日く、論じ来たれば那様な事理會することを着けず。若 し本領是に了れば、少間雨漢の盛なる所以は、是れ如何ん、衰へる所 以は是れ如何ん、三國の分併は是れ如何ん、唐の初聞如何ぞ興起する、 後来如何ぞ衰ふるかの如きより、以って本朝に至るまで大綱自ら理會す べし。若し工夫有れば更に裏面に就いて看よ。若し更に工夫有れば裏面 に就け ﹃ て些の光采を討ねて更に好からん。某の諸生、他の脚手を度り得 て、也た未だ典に許多を拾じ婁くすべ。からず。只だ是れ且く他をして

(11)

身に切なる處に就いて理會せしむ。虞・夏・商・周の書を読むが如く、

這5許 箇6多

是れ本領にあらず、と。問ふ、封建﹁周腰﹂に﹁公は五百里﹂と説

の聖人も亦賞罰を説くこと有り。亦兵制を説くこと有り。只だ是れ

き、﹁孟子﹂は﹁百里﹂と説く。如何ぞ同じからずや、と。曰く、漢儒

の書を注するを看るに、通せざる處に於て、即ち這は是れ夏・商の制な

りと説道す。大抵且頼り将ち去らんことを要す。若し這の説を将ち来り

て二項を看ば、却って伯くは孟子の説は是れ夏・商の制ならん。孟子詳

考せず。亦只だ1 つて其の略を聞くと説けるのみ。夏・商の時の若き

は、諸處廣澗にして、人各ζ自ら聚って一國を埓す。其の大なる者は止

だ百里のみ。故に萬、諸侯を合し、玉帛を執る者は萬國なり。周の時に到

りて漸漸に呑井して、地里只管に添へ、國の蚊は只管に少なし。周の時

に到りて只だ千八百國のみ。之を萬國に較ぷれば、五分にして已に四分

已上を減じ了る。此の時諸國已に自ら大なり了る。諸公を封ずること五

百里に非れぱ得ざるに到り得たり。周公、魯に封ぜられること七百里な

るが如し。蓋し其の他の諸公には優れんと欲す。左氏の説の如く云ふ、

﹁大國は多く斂折を兼ね﹂と。也だ是れ此の如し。後来只管に併せ来たり、

併せ去りて、周衰ふるに到りて便ち他をも制し得ず、也だ是れ尾大にし

了る。孟子の時に到りて只だ七國有るのみ。這是の事勢必らず這裏に到

る。‘大聖大智有りと雖も、亦其の衝を遥ること能はず。今人只だ漢、諸

侯王を封ずるに土地太だ過ぐると説けり。看来るに此の如くならざれば

得ず。初間、高祖天下を定むるに、韓・彭・英・盧許多の人を得来りて、

得る所の地を、又は未だ是れ我が底と定らざるを使ふこと能はず。富時

項羽を殺さんことを要す。若し人有りて天下を中分し、我に呉へべ、我

便ち弥と典に項羽を殺さんと説道するも、也だ奈何ともすること没し。

他に良へ、少間自らの子弟を封ずるに到れば、也た自ら狭小ならんこと

を要するを得ず。須らく是れ許多の異姓に富り得過さしむべし、と。

一 一  朱子礼関係文献国訳日︵山根︶’

又日く、公今且く這の心下を収拾して、事物の埓めに勝たられること勿

れ’。且一日全く道理を講明し去るを得ず、書を讃むを得ず、只だ事に

態じ去るのみが如き、也た須らく這の心をして常常這裏に在らしむべ

し。若し先づ這の本領を理會し得去らずして、只だ事の上に就いてのみ

理會し去らんことを要せぱ、是れ許多の骨董を理會し得ると雖も、只だ

是れ許多の雑1 を添へ得、只だ是れ許多の騏吝を添へ得ん。某、這の説

く的、定めて是れ忌地し。孔子復た生ると雖も、其の説を易ふること能

はず。這の道理只だIなるのみ、と。

 聖人がこの世に生れでることがあると、古い礼の全部をきっと用いる

ようなことはしないであろう。必ず古い礼が時宜にかなっているかどう

かをよく考えて、適切な措置の上で用いるにちがいない。多くの細かな

礼の制度をよく視ると、それらは皆礼の形式だけのもので、実質のない

文飾を備えているようである。だからこそ、礼の根本的な理念である大

本大原のところを理会しなければならないのだ。曽子は死に際して人道

の大本大原について丁寧に説明している。﹁上に立つ為政者たる君子の

重んずべき道に三つの礼がある。わが身の振舞である容貌を動かすに当

っては、礼にかなえば自然に他人の加える粗暴わがままな行為から遠ざ

かることができ、己の顔色に誠意を表わして、礼を失わないと、自然に

人から欺かれない、言葉づかいが礼にかなえば、自然に道理にそむいた

人の言葉を遠ざけ得る。湿豆などの祭器を云々するというような事務的

なことは係の者にまかせておけばよい﹂と。上述のこの三つのことは、

まさに大本大原のことなのである。ところが、今日人々が理会している

多くのことは、まさしく、上述の湿豆の事に該当するものである。曽子

は死に臨んで、人々にこの湿豆のことを理会することを必要としないの

だと教えたのである。曽夫子は一体どこでこの道理を学び得られたので

あろうか。その上、一体誰が曽子の常の。師であったのだろうか。それ

は、孔子でなくては到底できないことなのである。ところが、孟子にな

(12)

-一 一 高知大学学術研究報告 第二十七巻 人文科学 るともう細かく砕いて具体的には説明しなくなっている。﹁諸侯の儀礼 は、未だ勉強したことはない。この礼について聞き知っている。三年の 服喪︵斬衰︶、斉疏の服や肝粥の食は上は天子より下庶入に至るまで皆同 一であるのだ﹂と、ただ説いているだけである。この三年の喪・斉疏の 服・肝粥の食の三項目こそは、礼の大原大本なのである。また、﹁孟子﹂ に井田のことを説明する場合にも、﹁周礼﹂の説を見て述べることをし ていない。/ただ﹁詩経﹂の詩のなかの文を根拠として、﹁﹃我が公田に雨 が降ってから、我が家の田にも雨降らせたまへ﹄とあるから、よく考え、。 てみると、周にもやはり助法が。行なわれていたことに’なる﹂と、いうよ うに説明している。これはただ﹁詩経﹂”の﹁大町篇﹂’の詩文の意味を援 、      I   s      I 引し用いだだけのととである。そこで、後のとひろで、﹁一つの郷の田 は、八家が[つの井を共同としい常旧頃出入するにも仲よく連れ立ち、 盗賊を防いだり見張ったりするにも、互いに力を合せて助け合い、病の ある時も、互いに看護し合うようになる。八家の者が百9 ずつをそれぞ れ私有し、八家か共同して公田を耕作する﹂と、説き及んでいる。この 説明中のいくらかは、良好である。これもまた、事柄の大原大本のとこ ろを主張しているからである。孟子は多くの細やか内容を理会しようと しないで、ただその奥にあるいくつかの大原大本のところを理会してい たことを、よく認識しなければならない。また、﹁周礼﹂の内容をいく ら理会しても、地位が宰相とならなければ、それらのことを実行できな いことになる。一介の士の立場から論ずれば、それらのことは己とは無 関係で遠くに在ることになる。だからこそ、己と切実な大原大本のとこ ろを受用できるように理会しなければならないのだ。万一、宰相の位に ついても、上古の文王・武王のような有徳な君主に遇うことができては じめて、その志を行なうことかできるのだ、と云っている。また、孫子 ・呉子などは、専ら兵を動かすことを説明している。彼らの説の中にも 限本的な理念がふくまれているのだ。﹁第一に道﹂という。﹁道とは士卒  が上の者と心を一つにして、いかようにも上司の意のままになり、とも  に死すべきか、ともに生くべきか﹂と、説いているのが、その木原のここ  ろなのである。道徳のある立派な主将が、民を使用する場合には、まず  心から信用させて和合した後で戦を成就するのである。もしも、道理に  合わず、人の魂にも和合しないような状態では、たとえ必勝の方法が  あるとしても、それを用いようがないのだと、言っている。器遠に問う  た。昨日また書を入手した。この1 もやはりこのように大綱を説き得て ヽいる。一私が俗界をはなれ﹃だ清静の地で学問をすることをよく考えて看る    r   ゛ 4  ″        ・   ’    ゜ ’F と、﹄言で要約することができるようだ。そこで説かれ得るごとも、す    −      j      l       ∼ べて似でいる∼つに思尨る・だがそれも1 会が十全であってこそ始めて  可能なことで泌るのだ。人が弓を射る場合乏同一でおって、是非とも的  に命中させる必要かあるのだ。今すぐに的中させようとすると、やがて・

的中させることもできなくなって.しまうもの

うとすれば、的をかけるためのもり土である

だ。もしただ帖に中らせよ

探ぐらいには中ることがで

きる。しばらくの間、みだりに矢を発していると、その結果気力を消耗 することになってしまう。ところが、二百歩の距離で、もしも一度も的 中しない時は、矢が狂っているからなのだ。今しばらくその矢の良否を 判別する必要がある。是なる矢は是とし、不良なものは非として、良い矢 をもって、しばらく射ていると、的中する結果となり得るものだ。もし良 否の判断がはっきりしないものを是として使用したならば、終りには目 的が達成されない結果となってしまうものだ。何にしても是非第一番の 人となろうと目標を立てるべきである。ところで、そのような欲求がい くらあっても、その人の才智と力量がもしなければ、ただ第四・五番の 人となってしまうものである。しかし、今すぐに、第四・五番の人となろ うと努力しても、かれの才能と地位があれこれと云われるとしたら、お しまいには、どのような結果になるものであろうか、と。また、言う、まず 最初にその事柄の根本の処の理会をきちんとし、その外の事物について

(13)

はだんだんに上面を理会していくべきである。もし根本の処を完全に理

会していないならば、あなたが、たとえ多くの神々の霊にいくら合うこ

とができたとしても、不完全な理念のゆえに、そこにわずかな私意でも

あれば、物事は粉ごなにうち砕かれてしまうことになるのだ。一体どう

したらこの私意を早急に除去することができるのか。顔回は生れつきこ

れができた者である。孔子もまた顔子拓﹁己に克ちて礼に復える﹂こと

を教えたのである。その外の弟子たちにも、同一のことを教え告げてい

て、私意を除去することを強く希望したのである。その間の経緯につい

て孔子の書﹁論語﹂に説明しているとおりだ。再求や仲由にも、当初は私

意を除去させようと努力したのである。だから、孔子は再求や仲由の仲

間たちにも、曽子や顔子のような仁者となるように希望し教育したので

ある。ところが、かれらの才能や性質によってこの境地に到達できなか

ったのであるから、どうしようもないのである。仲由は仁者とはいえな

いかも知れないが、軍事などを扱うことのできる腕前は十分であり、再

求も子路と同じく、政治を扱うことのできる力量は十分であると言われ

ているが、はじめからこのようになることを要求したのではなかったの

だ、と。また、言う、胡氏は﹁治道粛﹂を開いて、また、人生の本領

を理会し得ようと努力しただけではなかった。﹁礼記﹂玉藻に﹁頭の容

貌は直くして傾けず。足の歩み方は軽々しく挙げ移さず、手の容は恭し

くして慢に弛めず﹂といっているような多くの説話の中にもすべて本原

の処を述べているのだ、と。また、言う、君畢の所説について、私かそ

の理会を是でないというのではない。次序がよろしくないというのであ

る。﹁荘子﹂忙﹁道の話をしながら、秩序から外れる場合、それは真実の

道ではない﹂と、いっているのがそれである。この説はまことによろし。

今日の人は、是非とも身と心との両面を理会する必要がある、たとえば。

一片の土地のようなもので、必らず努力してこまやかに開墾すべきであ

る。それがまだ十分にできないのに、ただあちこちに種子をまくことば

一三  朱子礼関係文献国訳H︵山根︶

かりしても、実は何の種子を種えることができたことになろうが、何も

植えないと同じことなのだ、と。また、言う、私は嘗って、仏教や道

教についても説き及んだ際に、これらの教説もまた自然と人々を生き生

きと心地よくさせる処があると説いた。この教が、人々の心底をきれ

いに洗い清めることができて、心が浄潔になったからによるのである。

ゆえに、本朝の李文正、王文正、楊文公、劉元城、呂申公などは皆この

ような境地の人で、仏・老の教を学び得た者たちである、と。また、

言う、かく論じて来るとどのような事柄もその本領が十分に理会され得

ていないものだ。もしも、本領がよく理会され得ていたとすれば、すこ

しの間でも両漢が隆盛であった理由は、どうしてか、衰えたのはどうし

たわけか、魏・蜀・呉三国の分割・併合はどうしたわけか、唐初の間は

どうして盛んに興り、その後どうして衰えたのかと、本朝に至るまでの

大綱の処は自然と理会できるものである。もしも更に、工夫を加え、物

事の表面だけでなく、裏面についてもよく考察することが好いのだ。更

に工夫を加えてその裏面の光釆を検討すれば、一段と物事の本領が理解

できて好いことになるのだ。私の諸生たちは、それぞれの足場について

種々考察は加えてはいるが、まだ誰も多くのものをひねり出すことがで

きていない。しばらく自己に切実な処のみについて理会させなければな

らないのである。虞や夏や商や周などの書を読んでみると、多くの聖人

たちもまた賞罰について、また兵制について説いているが、これらの

事柄はそれらの書の本領ではないのである、と。問う、封建について

 ﹁周礼﹂では﹁公は五百里四方の土地だ﹂と説き、﹁孟子﹂には﹁百

里四方の土地だ﹂と説いているのはどうして同一でないのか、と。言

う、漢の儒者の注釈1 をよく看ると、説が通じない不斉一の処には、き

まって夏・商の制度だと説いている。おおかたはその説に根拠をおくこ

とを希望している。もしこれらの説を採って来て、前掲の二項を考える

と、孟子の説は恐らく夏・商の制度であろう。孟子はそのことを詳らか

(14)

 一・四  高知大学学術研究報告∼第二十七巻 人文科学  に考えないで、ただその概略を聞き及んで説いたのだとする。夏・商の・  時代は、土地がどこも広間であって、人々が自然に集って来て一つの国  をつくりあげたのである。だから大なるものは、ただ百里だけであった  のだ。故に萬は諸侯を統合した時、五等の諸侯の国はI萬もあった。と  ころか、周の時代になってだんだんに呑弁せられて地里がひたすら付け  加えられ、国の数がただ少なくなるばかりであった。そこで周の時代に  はただ千八百国を数うるようになった。萬の時の一萬国に比較すれば、  五分の四以上を減少したことになる。どの時は自然に諸国はすでに大き  くなってし奮っていた・1 公を封ずる場合に、五百璽でなければどうし  ようもない状態になっていた。筒公旦が魯に封ぜられだ時討七百里。であ  ったのは、’そのことのゆえか・おもうにヽ他の1 公よりも優位に封ぜよ。 ・うとしたからでもある。﹁春秋左氏伝﹂の説明のごとく﹁大国は多く数方  千里を兼ねる﹂と、いうのがそれである。その後、ひたすら併わせ来て、  周の権威が衰亡するに至って、他の国を制圧できなくなると、臣下の勢  力が強くなってしまった。孟子の時代になると、秦・楚・斉・燕・韓・  魏・趙の七国だけとなった。このように政治的権勢も当然にこれら七国  のうちに移っていった。偉大なる聖智者がいたとしても、この時のいき  おいを止めることはできないのである。今日の人は、漢王朝が、諸侯や  王族を封ずる場合に、その土地の広さがはなはだしく程度をこしている  と、説明している。しかし、よく考えて看ると、そうでなければよくな  いことがわかる。高祖が天下を平定する際に、韓信・彭越・英布・盧・  棺など多くの人の援助を得たのであり、それによって獲得した土地や、  そしてまたまだ我が所有だと定っていない土地などを使用することはで  きなかった。当時は、項羽を殺すことが最も肝要なことであった。だか  ら、もし或る人が、天下を中分にして自分に与えれば、弥とともに力を  協せて項羽を殺そうと説いた時に、どうすることもできないではない  か。他に与えてから、やがて自分の子弟を封ずることになって、自然と 土地が狭小であってはいけないであろう。是非とも多くの異姓にも当り 得るように配慮すべきであったからだ、と。また、言う、貴公は、今し ばらく心の底にある理念的なものをとりまとめて’、表面上の具象的な事 物によって心が左右されないようにすべきである。一日でも事物の道理 を講明することをしないで、読書もできないままで、ただ事物に左右さ れるようなことがあるが、この本心を常に主体内の奥底に存養・顕在 せしむべきである。もしも、まずこの本領を理会することができないま まで、ただ第物の上面についてのみ理会   1  ようえすれば、多くの愛玩す ぺき骨董品のようなものを理会すること如でぎるとしても・、なに。ほどか の乱雑さを添え得る結果となり、。多くの騎吝をも添・え得る’ことにもな って、そのものの本質をつかむことはできなくなるのである。私か力を こめて説いていることは、にのこと以外に。はないのだ。孔子が、・復た再 生して来たところで、この説を変易することはできないのである。かく 説く、この道理は、ただ一つなのである、と。   ︿大意▽ 礼の理念についての基本的な態度を述べる。礼の場合は儀礼・礼容    の文飾された繁雑な諸形式などを理解するのではなくて、それらを根本的    に支える本質的理念たる礼の大本大原を理解することか、最も肝要事であ    るとして、いろいろ例を挙げて強調している。   注 ○大本大原I根本の意味。礼の根本的理念。﹁道之大原出二於天一。天不・    変。道亦不・変﹂︵﹁漢書﹂董仲舒伝︶。﹁中也者天下之大本也﹂︵﹁中庸﹂︶    ○曽子臨死−﹁論語﹂泰伯に﹁曽子有’疾、孟敬子問・之。曽子言日。鳥之    将‘死、其嗚也哀。太之将y死、其言也善。君子所・貴二乎道一者三。勁二容    貌一、斯遠二暴慢一矣。正二顔色一、斯近’信矣。出‘一辞気一、斯浪一鄙倍一矣。笛    豆之事、則有司存。﹂とある。 ○諸侯之礼−﹁孟子﹂膝文公上に﹁・:諸    侯之礼、吾未こ之学‘也。雖’然吾嘗聞・之矣。三年之喪・斉疏之服、肝粥之    食、自こ天子一連二於庶人一。三代共‘之⋮﹂とある。三年の親の喪、斬衰の    こと。斉疏は、織目のあらい布の意。斉は喪服の﹁斉衰﹂の略でもある。    1 は濃いかゆ、粥はうすいかゆ。共に喪中の食なり。﹁礼記﹂喪服四制に    ﹁三日而食・粥・:﹂とある。○説井田︱﹁孟子﹂膝文公上に﹁・:詩云、雨二    我公田‘。遂及二我私一。惟助為y有ご公田‘。由い此観・之、雖・周亦助也。・:郷田    同‘井、出入相友、守望相助、疾病扶持、則百姓親睦。方里而井。井九百畝。其

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