オクタビオ・パスの詩論における el otro と
el desconocido の違い
フェルナンド・ペソアとの比較を通して
Difference Between el otro and el desconocido in the Poetry
of Octavio Paz and Fernando Pessoa
平 山 幸 乃
*HIRAYAMA Yukino
1. はじめに
オクタビオ・パス(Octavio Paz, 1914-1998)の『四学』( , 1965)にはフェルナン
ド・ペソア(Fernando Pessoa, 1888-1935)に関するエッセイ「自分にとっての他人」(El desconosido de sí mismo)が収められている。その中でパスはペソアの異名、そしてその異名 と詩の関係について考察し、「真のペソアは他者である1」と述べている。この他者という言葉は パスが詩についての考えを述べる際しばしば用いるものであり、パスの詩論において重要なも ののひとつだと言うことができる。この点から先程のペソアに関する一文はパスにとってペソ アが特別な詩人であったことを意味していると考えることが可能である。 しかしパスはエッセイや詩作品のなかで他者について述べる際、基本的に el otro あるいは la otredad と い う 表 現 を 用 い て い る の に 対 し、 前 述 の エ ッ セ イ の タ イ ト ル に は el desconocido という単語を用いている。 el otro は他者、 la otredad は他者性を意味し、 el desconocido は未知の人物や他人といった意味合いである。この点からエッセイ内で扱われて いるペソアに関する考えは、パスが el otro という言葉を通して表していた他者の考えと同じ ではない可能性を指摘することができる。そもそもパスの他者は「私とは誰か?」を問い、「私 は私である」という答えに り着くための手段であるのに対し、ペソアの他者とも言える異名 は私の複数性という点でパスの他者と異なっている。 本論文では「自分にとっての他人」からパスが抱くペソアの異名に関する考えを概観し、パ スの詩論『弓と竪琴』( , 1956)を援用しながらパスとぺソアの他者を比較する ことで、パスが el otro ではなく el desconocido を用いた理由を明確にする。またパスがペ ソアという詩人をどう捉えていたのか、パスの詩論の中にペソアの詩論との類似点があるのか * 京都ノートルダム女子大学・非常勤講師
1 Paz, Octavio. . p. 133. El verdadero Pessoa es otro.
も見てゆく。
2. パスの詩論について
(1)他者の表現方法 オ ク タ ビ オ・ パ ス は『 弓 と 竪 琴 』 を は じ め、『 泥 の 子 供 た ち 』( , 1974)や『もうひとつの声』( , 1990)といった著書 を通し自らの詩に対する考えを明確に述べている。本論文では先述のエッセイ「自分にとって の他人」に加え、パスの詩に対する考えが最も詳しく書かれたと思われる『弓と竪琴』をとり あげ、パスの詩や詩作に関する考えを見てゆこう。『弓と竪琴』を読む際、パスの他者という考 えを中心に見てゆくうえでキーワードとなるのは「他者(el otro)」 と「インスピレーション (la inspiración)」 のふたつの言葉である。 まずはじめにひとつめのキーワードである「他者」という表現は、限定された誰かや何かを 指すのではなくその時々で意味するものが変化していることを確認しておかなければならない。 こうした他者は「身体を持つ他者」と「身体を持たない他者」のふたつにわけて考えることが 可能である。2 「身体を持つ他者」は主に女性や外国人、詩人から見た詩人ではない人や読者を 指し、「身体を持たない他者」は生、死、愛、言葉などを意味している。パスは彼自身の詩論に おいてこれらを「他者(el otro)」という言葉で表している。またこうした様々な意味を持つパ スの他者は、基本的に自己を否定するものではなく「私とは誰か」という問いに対する「私は 私である」という答えであり、自己を確立するための手段のひとつだと考えられる。 しかし先に確認したように、ペソアに関するエッセイでは el desconocido という単語が使 われている。エッセイの内容はペソアの異名に関すること、またそれらを通し詩作における他 者という考えについて詳しく述べたものとなっているにも拘らず、タイトルをはじめエッセイ 内で el otro ではなく el desconocido という単語が主に用いられているのはなぜだろうか。パ スの作品で el desconocido という単語を用いて他者を表すものとしては、例えば『鷲か太陽 か?』( , 1951)に収められた短編小説「出 い」(Encuentro)を挙げることがで きる。 「出 い」は主人公の「私」と未知の人物である「もうひとりの私」で展開してゆく物語であ り、ふたりのやりとりを通して私と他者の関係が描かれている。それは比喩的に詩人と言葉の 関係を表していると解釈できるものとなっており、作中に言葉や詩を書く行為に関するパスの 考えを読み取ることが可能である。3 この作品内には「見知らぬ人」を意味する el desconocido 2 この点に関しては拙論「オクタビオ・パスの他者の探究」で詳しく考察した。特に第二章で中心的にと りあげている。 3 「出 い」の解釈の可能性については拙論「オクタビオ・パスの他者の探求」第三章で詳しくとりあげ ている。を用いて作中の他者を指す描写があるが、el desconocido という単語を使用したことに関して は以下のように「よく考えたうえでこの言葉を書いている」と言及されている。つまり「出 い」で描かれているパスの他者が意図的に未知の存在を意味していることが分かる。
Al llegar a mi casa, y precisamente en el momento de abrir la puerta, me vi salir. Intrigado, decidí seguirme. El desconocido -escribo con reflexión esta palabra- descendió
las escaleras del edificio, cruzó la puerta y salió a la calle.4
家に帰りちょうどドアを開けるその瞬間、私が出てゆくのを見た。そこで私は私の後を追 いかけてやろうと決めた。その未知の人物―よく考えたうえでこの言葉を書いている―は 建物の階段を下り、入口を横切り通りへ出た。 ここで注目すべきは el desconocido という単語を「書いている(escribo)」、つまり今まさ に書いているという時制で物語が展開している点である。物語自体が過去形で進んでゆくのに 対し、上記の el desconocido という言葉に言及している場面が現在形で書かれていることは、 この物語の書き手(=詩人)が作品の外側にいることを明確に表している。そして詩人の存在 を示すことによって、「出 い」が書く行為(=エクリチュール)を比喩的に表している可能性 を提示できるようになる。 パスは詩を書く以前の詩人と詩を書き上げた詩人の違いについて「一度詩が書かれると、詩 の以前に彼であったあれ、彼を創造へと導いたあれ―それは愛、喜び、苦悩、退屈、異なる状 態へのノスタルジー、孤独、激怒など言い表すことができない―はイメージとなる5」と説明し ており、書く行為を通して「私」と「もうひとりの私」という他者が出 うことを指摘してい る。こうした場面であえて el desconocido が用いられていることから、 el otro はパスの詩 論における様々な他者を表す可能性を持つのに対し、el desconocido はそうした他者とは異な る場面で使われているということ、そしてそれは書く行為に関する場面であることが分かる。 (2)インスピレーション 次にもうひとつのキーワードとなるインスピレーションについて確認しておこう。パスは『弓 と竪琴』のなかで「詩人の声は詩人の声であって詩人の声ではない。この私のディスクールを 4 Paz, Octavio. . p. 173.
5 Paz, Octavio. , p. 168. "Una vez escrito el poema, aquello que él era antes del poema y
que lo llevó a la creación -eso, indecible: amor, alegría, angustia, aburrimiento, nostalgia de otro estado, soledad, ira- se ha resuelto en imagen: ha sido nombrado y es poema, palabra transparente"
遮り、言うつもりのなかったことを言わせるものは一体誰なのだろうか6」という疑問に対し、イ ンスピレーションの働きを指摘しながら次のように答えている。 詩を書く行為は我々の目の前に、我々の声ともうひとつの声が結びつき混ざり合うような 対立する力の結び目として現れる。境界ははっきりしないものになる。我々の考えは気が 付かないうちに、我々がすべてを支配できない何かになる。我々の自我は名前のない代名 詞に譲歩する。それはきみでも彼でもない。この曖昧性に、インスピレーションの神秘は 存在する。7
ここで使われている「もうひとつの声(la otra voz)」という表現もまた「他者」と並んでし
ばしば用いられるものである。8 パスは上記の引用箇所で詩作の行為を対立する力の結び目と して例えているが、これはアンドレ・ブルトン(André Breton, 1896-1966)による「シュルレ アリスム第二宣言」の有名な言葉「生と死、現実的なものと想像上のもの、過去と未来、伝達 可能なものと伝達不可能なもの、高いものと低いものが、そこからはもはや互いに矛盾したも のとは感じられなくなるような精神の一点9」を想起させる。 実際、シュルレアリスムは 20 世紀のアヴァンギャルド芸術運動のなかでも特に深くパスが関 わりを持ったものであり、詩に対する考え方に影響が見られるのは確かである。なかでも今・ ここという言葉で表現される世界の先、いわゆる未知の場所を目指すというアヴァンギャルド の姿勢はパスの詩論において他者との出 いとして表現されている。またパスはシュルレアリ スムに関して、インスピレーションをひとつの世界観としたことを評価してもいる。10 こうしたパスのインスピレーションに関する考えとして、パスは「我々の声」と「もうひと つの声」、つまり「私」と「他者」ともとることのできる対立する存在を認めている。それは詩 を書くという行為において「詩を書いている詩人」と「詩を書き終えた詩人」というふたりの 詩人の存在を見ていることになる。そしてこのふたりの詩人とは書いている時点と書き終えた 時点の違いから、互いに他者として向かい合っていると捉えることができる。従ってインスピ レーションに関する描写からは、パスにとって詩を書く行為が「もうひとりの私」という他者 と出 う場だと考えることが可能である。
6 Paz, Octavio. , p. 157. La voz del poeta es y no es suya. ¿Cómo se llama, quién es ese que
interrumpe mi discurso y me hace decir cosas que yo no pretendía decir?
7 Paz, Octavio. ., p. 159. "El acto de escribir poemas se ofrece a nuestra mirada como un nudo de
fuerzas contrarias, en el que nuestra voz y la otra voz se enlazan y confunden. Las fronteras se vuelven borrosas: nuestro discurrir se transforma insensiblemente en algo que no podemos dominar del todo; y nuestro yo cede el sitio a un pronombre innombrado, que tampoco es enteramente un tú o un él. En esta ambigüedad consiste el misterio de la inspiración."
8 この表現はパスの詩論『もうひとつの声』でキーワードとなっている。 9 ブルトン、アンドレ『シュールレアリスム宣言集』90 頁。
3.オクタビオ・パスとフェルナンド・ペソア
(1)ふたりの共通点について オクタビオ・パスとフェルナンド・ペソアを「他者」という考えを通して比較する際、第一 に両者がその生涯において短くない期間を外国で過ごし、自分自身や母国を外側から見つめる という経験をした点に触れなければならない。そこでまずはじめに両者の生い立ちを簡単にで はあるが確認しておこう。 パスは 1914 年、メキシコ・シティに生れた現代メキシコを代表する詩人、思想家、外交官で ある。詩を出版し始めたのは 1931 年頃からで、1944 年にはグッゲンハイムの奨学金を得てア メリカ合衆国へ留学しており、この経験を基にメキシコという国やメキシコ人をメキシコの外 から多角的に見つめたエッセイ『孤独の迷宮』( , 1950)を執筆してい る。これはパスの代表作と言える作品であるだけでなく、孤独という考えを通し自己と他者に 対する意識という重要なテーマを扱った作品でもある。パスはそれ以降も外交官としてパリ、イ ンド、日本に滞在しており、なかでも 1962 年から 1968 年までメキシコ大使として過ごしたイ ンドでの時間は、パスの詩的創造に大きな影響を与えている。 一方ペソアは 1888 年、ポルトガルのリスボンに生れた詩人である。母親が現在の南アフリカ 共和国、ダーバン駐在のポルトガル領時と再婚したことをきっかけに、1896 年から 1965 年ま でダーバンで過ごした。その間イギリス系の教育を受けたペソアは彼にとっての外国語である 英語を非常に身近な言語として感じるようになり、英語での詩作品も残している。1905 年にポ ルトガルへ帰国してからは国外へ出ることなく過ごしたが、少年時代を外国で過ごしたことは 彼にとってポルトガルという国やポルトガル語という言語を外側から見つめる機会になったと 言うことができる。生存中に出版された詩集は『歴史は告げる』( , 1934)のみであ るが、死後多くの原稿が発見されており、現在では異名の詩人として知られている。 以上のように祖国や母国語、そこから発展して自分自身というものを外側から見つめる機会 を持っていたという共通点のあるふたりではあるが、本論文でとりあげるパスのエッセイ「自 分にとっての他人」から分かるようにパスがペソアについて最も注目したと思われる点は、多 くのペソア研究同様ペソアの異名だと言うことができる。なぜならパスの詩論は先に確認した ように他者やインスピレーションといったいわゆる「私」を越えたものをキーワードとしてお り、ペソアの異名もまた一種の他者であると言うことが可能だからである。 (2)パスから見たペソア パスとペソアには自分自身を外側から見つめるという共通の経験があり、それはパスの他者 やペソアの異名として彼らの作品を通して確認することができる。またパスがペソアを評価し ていたことは「自分にとっての他人」から読み取ることのできる内容や、パスがスペイン語訳 のペソア詩集の出版に携わっている点からも明らかである。例えば「自分にとっての他人」の中ではペソアについて次のように述べられている。 彼の歴史は彼自身の日常生活の非現実性と彼自身の虚構の現実性の通過だと要約すること ができるだろう。これらの虚構とはアルベルト・カエイロ、アルヴァロ・デ・カンポス、リ カルド・レイス、そしてとりわけフェルナン・ドペソア本人といった詩人のことである。11 パスが挙げたアルベルト・カエイロ、アルヴァロ・デ・カンポス、リカルド・レイスといっ た名前はペソアの異名のなかでも特に知られたものである。それぞれの詩人はペソアの単なる 筆名の枠を越え、異なる作風を確立している。つまりフェルナンド・ペソア本人でありながら ペソアではない他者として扱われていることになる。パスはこうしたペソアの作風を「ペソア のあらゆる作品が失われたアイデンティティーの探求である12」とも表現している。 例えば本名の他に筆名を用いて執筆するというのは珍しくない行為である。しかしその場合 は本名を持つ詩人と筆名が同一人物だと認識されている。それに対し、ペソアの異名は各異名 が人格を持ち、プロフィールを持ち、各々の執筆スタイルを確立させてもいる。このように自 分自身を基に他者と対立するのではなく、自ら他者をつくりあげるペソアの異名は「私」と「も うひとりの私」という対立をつくりあげており、「私」の複数性という性質を指摘することがで きる。 パスはこうしたペソアの異名に関して論じるためにエッセイ内でアントニオ・マチャード (Antonio Machado, 1875-1939)を引き合いに出し、マチャードのつくりあげたアベル・マル ティン(Abel Martín)やフアン・デ・マイレナ(Juan de Mairena)を透明な仮面であると例 えている。そのなかでマチャードのテクストとマイレナのテクストはほぼ同一であるとして、詩 人と詩人による異名が別人物ではないことを明確に述べているのに対し、ペソアに関してはア ルベルト・カエイロやリカルド・レイス、アルヴァロ・デ・カンポスといった異名の詩人たち とペソアの関係が、いわゆる劇作家や小説家と作中人物との関係とは異なる点を指摘したうえ でペソアは「詩人としての作中人物の発明家ではなく、詩人の作品の作り手である13」と表現し ている。こうしたパスの言葉からはパスにとってペソアとペソアの異名たちが完全に切り離さ れた存在と見なされており、異名による作品はペソアが他者として書いたものと考えられてい たことが分かる。 また先に挙げた異名の詩人たちについては、次のようにも説明されている。
11 Paz, Octavio. . p. 133. Su historia podría reducirse al tránsito entre la irrealidad de su vida
cotidiana y la realidad de sus ficciones. Estas ficciones son los poetas Alberto Caeiro, Álvaro de Campos, Ricardo Reis y, sobre todo, el mismo Fernando Pessoa.
12 p. 160. Toda la obra de Pessoa es búsqueda de la identidad perdida.
純真無垢な詩人であるカエイロは、ペソアがなることのできなかったものである。放浪の ダンディであるカンポスは、ペソアがなることができたけれどそうならなかったものであ る。彼らはペソアの生における不可能な可能性である。14 パスが言うようにペソアの数々の異名がペソアの実現できなかった生の可能性を表している のだとすれば、異名そのものが詩と同様に作品であると考えることができる。興味深いのは、パ スが詩作を通して様々なかたちの他者を書いたのに対し、ペソアは他者として書いた、という 点である。例えばパスは先程引き合いに出した短編小説「出 い」の中で登場人物として他者 を存在させていたように、他の短編小説や詩作品、戯曲においても主人公の「私」とその人物 が向かい合う相手の「他者」を描いている。あるいは詩作品を「私」の視線で展開させ、詩の 読者に「他者」の意識を抱かせるものも見られる。15 一方ペソアは他者として詩を書いており、そうすることでペソア本人とは別のペソアという 他者を生み出している。ペソアのつくり出した数々の異名がパスの言うように「ペソアの生に おける不可能な可能性」であるとしても、ペソアはそうした人物を作中に登場させたわけでは ない。つまりパスがペソアの異名そのものを虚構と言及していた通り、ペソアの詩作品と同時 に異名の詩人たちもまたペソアの作品だと言うことができる。
4.「自分にとっての他人」に見るパスの詩論
(1) el desconocido の用法 ペソアの異名が作品のためにつくられたものではなく、作品こそがその異名を詩人として確 かなものにしていると言うことができるのであれば、異名は詩を書くためのものではなく、異 名のために書く行為があると考えることが可能である。こうした書く行為に関して、パスは「自 分にとっての他人」の中で次のように述べている。 我々は我々であるものになるために、あるいは我々ではないあれになるために書いている。 我々は誰かや別の出来事のなかに我々自身を探している。そしてもし自分自身に出会うと いう幸運─創作の前兆─を手にできたとすれば、我々は未知の存在であることを見つけ出 すだろう。1614 ., p. 149. Caeiro, el poeta inocente, es lo que no podía ser Pessoa; Campos, el dandy vagabundo, es
lo que hubiera podido ser y no fue. Son las imposibles posibilidades vitales de Pessoa.
15 特に詩作品「白」(Blanco)などは詩の冒頭に読み方の表を設けるなど読者の存在を想定した作品となっ
ており、パスにとって読者もまた他者という存在であることが分かる。
16 Paz, Octavio. . p. 143. Escribimos para ser lo que somos o para ser aquello que no somos.
En uno o en otro caso, nos buscamos a nosotros mismos. Y si tenemos la suerte de encontrarnos -señal de creación- descubriremos que somos un desconocido.
ここにはパスが書く行為をどう捉えていたかが記されているが、この考えは『弓と竪琴』か ら『もうひとつの声』へ至るまでの間大きく変わることなく繰り返されるものである。パスに とって詩を書くのは新たな言葉をつくり出すのではなく、常に既に詩人の内にあった言葉との 再会である。この点については以下のように『弓と竪琴』でも同様のことが論述されている。 詩的想像は存在の発明ではなく発見である。世界のイメージを散らばった破片として現れ るものの中に見つけること、あるものの中に他のものを認識することは、言語へ他者に存 在を与えるという比喩力を返すことである。詩は他者の探求であり、他者性の発見である。17 詩的想像が存在の発見であるということは、パスの詩を通して表現されているものが他者で あることを意味している。パスが上記の引用箇所で「詩は他者の探求であり、他者性の発見で ある」と述べているように、彼にとって詩とは、あるいは書く行為とは詩人が言葉や読者とい う他者と出 う場所なのである。 書く行為において詩人は言葉という他者と出 い、詩において詩人は読者という他者と出 う。そしてなにより詩を書き上げる瞬間、それまでとは違う私(=他者)になっている。ただ しこの他者は今・ここで書いている詩人にとって未知の存在であり、だからこそ「出 い」の ように書く行為を比喩的に表したと解釈することのできる作品の中では el otro ではなく el desconocido という言葉で表現されていると考えられる。 以上のことを踏まえるとパスが el desconocido という単語を用いて他者の存在を表すのは 書く行為において、ということになる。また他者との出 いに関してパスは「詩の声、〈もうひ とつの声〉は私の声である。人間の存在はなりたいと望む他者を既に含んでいる18」とも述べて おり、パスの言う他者はあくまで自分自身のうちに常に既に存在するものであることが分かる。 すなわち「私」と「他者」は互いに向かい合うときに初めて「私」と「他者」になるが、互い に互いの可能性を既に含んでいる。 (2) el desconocido が意味するもの パスの詩論における他者とインスピレーションの働きや、「自分にとっての他人」から読み取 ることのできるペソアのイメージ、そしてパスが書く行為に触れる際 el desconocido という 言葉を使用することを確認したうえで、最後にパスの詩論において el desconocido という言
17 Paz, Octavio. . p. 261. La imaginación poética no es invención sino descubrimiento de
la presencia. Descubrir la imagen del mundo en lo que emerge como fragmento y dispersión, percibir en lo uno lo otro, será devolverle al lenguaje su virtud metafórica: darle presencia a los otros. La poesía: búsqueda de los otros, decubrimiento de la .
18 Paz, Octavio. p. 180. La voz poética, la "otra voz", es mi voz. El ser del hombre contiene ya a
葉が意味するものを明確にしておこう。el desconocido という言葉の元々の意味は未知のもの や人、つまり今・ここには存在しないものであるが、パスはそうした不在のものという考えに ついて「自分にとっての他人」の中で次のように述べている。 ペソアの世界とはこの世でもなければあの世でもない。もしも不在によってある流れゆく 状態─存在が消え不在が何かの前兆であるような─が理解されるのであれば。しかし不在 は何の前兆なのだろうか?それは存在するものがいなくなる瞬間、そしておそらく存在す るであろうものがまだ現れきっていないような瞬間である。19 ここで不在の概念を通して表現されているのは詩の生れる瞬間、まだ詩が書かれておらず、こ れから書かれるという予感である。また「存在するものがいなくなる瞬間」と「おそらく存在 するであろうものがまだ現れきっていないような瞬間」というのはそれぞれ詩を書き始める瞬 間、詩を書き終える瞬間と考えることができる。なぜなら詩を書くことによって詩人はこれま でとは違う自分になる(=他者になる)からである。 第一にパスの詩論において詩を書くことは言葉との再会とされており、「存在するものがいな くなる瞬間」という表現は詩人がこれまでの自分とは別の自分を知ることになる点を指してい る。一方「おそらく存在するであろうものがまだ現れきっていないような瞬間」という表現が 曖昧にしか存在を指摘していないのは、まだ詩が完成しておらず今・ここにはないものだから である。このことからペソアの世界、すなわちペソアの詩作によってつくりあげられるものは 未だ知られていないもの(= el desconocido)だということができる。詩が完成するのは詩が 詩として読者に受け入れられる瞬間であり、詩人にとって詩は常に未知のものとして現れてい る。 また以下に引用するのは「自分にとっての他人」の最後の部分であるが、ここでも不在とい う考えを通し詩を書く行為について説明されている。 不在は喪失であるだけではなく、決して完全には姿を現すことのない存在の予感である。難 解な詩と歌は同じである。つまり不在において、私たちがそうである非現実において、何 かが存在している。人々や色々なことの中で驚きながら、詩人は旧市街の道を歩く。彼が 公園に入ると木の葉が揺れている。彼は何かを言いかけて…いや、何も言わなかった。午
19 Paz, Octavio. . p. 162. El mundo de Pessoa no es ni este mundo ni el otro. La palabra
ausencia podría definirlo, si por ausencia se entiende un estado fluido, en el que la presencia se desvanece y la ausencia es anuncio de ¿qué? -momento en que lo presente ya no está y apenas despunta aquello que, tal vez, va a ser.
後最後の光の中の、世界の非現実性。すべては動かず、待っている。20 この部分は「詩は残り、我々をなぐさめる不在の意識である」と続いてゆく。つまりここで 説明されている通り、パスにとって詩の生れる瞬間に感じることのできるものは今・ここには ないものに対する予感のみである。 なにより不在の意識が詩だとすれば、詩を書いている詩人が向かい合う他者とは今・ここに はないもの、すなわち未知のもの(= el desconocido)だと言うことができる。従って、パス の詩論において el otro で表現されている他者が既に書かれたものであるのに対し、 el desconocido とは詩の生れる瞬間の、まだ書かれていない他者を意味する表現だと言うことが できる。 以上のことからパスがペソアに関するエッセイのタイトルや内容に el otro ではなく el desconocido という言葉を用いた理由はペソアの異名という他者が今まさに詩を生み出すとい う可能性を持つ他者であり、詩を書く行為のために存在しているからだと考えられる。
5. おわりに
本論文ではオクタビオ・パスがフェルナンド・ペソアについて述べたエッセイ「自分にとっ ての他人」から el otro と el desconocido の使い分けに注目し、詩作における他者という考 えを中心にパスとペソアを比較しながら、パスが el otro と el desconocido をどのように使 い分けているかを確認した。 パスが詩についての考えを述べる際しばしば用いる他者(el otro)という言葉が意味してい るのは女性や外国人、読者といった「身体を持つ他者」と、生や死、愛といった「身体を持た ない他者」のふたつにわけて考えることができる。どちらの他者もパスの詩作品の中に書かれ ていることから、パスの他者(el otro)は言葉によって書かれたもの、あるいは言葉を通して 浮かび上がるものであり、パスにとって詩が他者の探求の場となっていることが分かった。 一方、見知らぬ人(el desconocido)もまた広義の他者として捉えることのできる言葉ではあ るが、この表現はパスの詩論で用いられる el otro とは異なる用法であることが指摘できる。 本論文では「自分にとっての他人」に加えパスの短編小説「出 い」も参考にしながら、 el desconocido という言葉が書いている場面において用いられる表現であることを明確にした。 以上のことを踏まえたうえで「自分にとっての他人」を通してパスの抱くフェルナンド・ペ20 ., p. 162. La ausencia no es sólo privación sino presentimiento de una presencia que jamás se
muestra enteramente. Poemas herméticos y canciones coinciden: en la ausencia, en la irrealidad que somos, algo está presente. Atónito entre gentes y cosas, el poeta camina por una calle del barrio viejo. Entra en un parque y las hojas se mueven. Están a punto de decir... No, no han dicho nada. Irrealidad del mundo, en la última luz de la tarde. Todo está inmóvil, en espera.
ソアの考え概観し、両者の詩論における他者を比較してゆくと、ペソアの異名とは書くための 手段であること、そしてペソアは異名を書いていたのではなく異名として書いており、異名に よる作品を通して浮かび上がるのは「書いている私」という主体であることが分かった。ただ し今まさに書かれている詩作品、あるいはまだ完成していない詩作品は詩人本人にとって未知 のものでもある。すなわちペソアの異名とはその未知のものをつくり出し、そこへ自分自身を 投げ出す契機となるものである。このことからパスは「自分にとっての他人」の中で el otro ではなく el desconocido を用いたと考えられると結論づけた。 参考文献 佐竹謙一『概説 スペイン文学史』研究社、2009 年。 パス、オクタビオ『鷲か太陽か?』(野谷文昭訳)書肆山田、2002 年。 ─「自分にとっての他人」(鼓直訳)『ペソア詩集』澤田直編、思潮社、2008 年、124-133 頁。 ─『弓と竪琴』(牛島信明訳)岩波書店、2011 年。 ブルトン、アンドレ『シュールレアリスム宣言集』(森本和夫訳)現代思潮社、1977 年。 ペソア、フェルナンド『ポルトガルの海(増補版)─フェルナンド・ペソア詩選』(池上岑夫編訳)彩流社、 1997 年。 平山幸乃「オクタビオ・パスの他者の探究」博士論文、関西外国語大学、2017 年。 Paz, Octavio. , México, D. F., Editorial Joaquín Mortiz, 1969.
─ . , Obras Completas 11 Edición del autor, México, D. F., Fondo de Cultura Económica, 1998.
─ . , edi., Conmemorativa, México, D. F., Fondo de Cultura Económica, 2001. ─ . , Obras Completas 15 Edición del autor, 2ªedi., México, D. F.,
Fondo de Cultura económica, 2003.
─ . 3ªedi., México, D. F., Fondo de Cultura Económica, 2012.
Pessoa, Fernando. , edição crítica, José Augusto Seabra, coordenador, 1ªedi., Madrid, CEP de la Biblioteca Nacional, 1993.