大村はま単元学習における「素材の教材化」の論理
: 教育関係の五項モデルに基づく「ことば」の「教
材」論
著者
畠山 大
雑誌名
教育思想
巻
43
ページ
91-104
発行年
2016-03-31
URL
http://hdl.handle.net/10097/64267
大村はま単元学習における「素材の教材化」の論理
―教育関係の五項モデルに基づく「ことば」の「教材」論― 畠山 大(作新学院大学女子短期大学部) 0.はじめに―研究の目的と課題 本稿の目的は、大村はまによって取り組まれた「ことば」の単元学習を分 析対象として、氏の「ことば」の教育における「教材」論を解明することに ある。特に、大村が、「ことば」を教えるうえで、どのような論理に基づいて 「教材」を開発していたのかを主題とする。 教育学領域において広く知られるように、大村はまは、自らの「ことば」 の教育実践を国語科における「単元学習」の形態で行うという探究を続けた 実践家である(大村 1982、橋本 2001, 2009、田近 2013 等)。そのため、吉 田裕久が国語科単元学習の特徴として指摘するように、大村は、「教科書を順 次進めていく一般の国語科授業とは異なり、単元主題、単元構成、教材収集、 指導過程、評価など、およそ授業にかかわるすべてのこと(目標・内容・方 法・評価)を教師自ら立案し、構想し、実施する」(吉田 2000、p. 1)という 試みを行ってきた。 こうした中でも、吉田が述べる「教材収集」については、他の研究におい ても、大村単元学習の特徴として特筆すべき点であることが指摘されている。 例えば、大村の授業論における全体構造の中で氏の「教材」が持つ重要性を 考察した研究として、西森章子・井上光洋の研究がある。この両氏の研究で は、大村の授業に学んだ者の回想録の分析を行うことで、大村実践における 「教材」の位置づけを、教える側と学ぶ側との両面から捉えて、次のように 述べている。 大村はまについて回想する人達にとっては、教材に対する考え方及びそれに 基づいた授業が特に強い印象となって残っており、また同時に大村はま自身も、 教材に対する考え(材料は教師・子ども双方にとって新鮮であること、など) があり、それが実際に展開された指導・学習内容にも反映されていた…(略)。 (西森・井上 1999、p. 178) このように、教える側の大村にとっても、また、学ぶ側の者にとっても、 大村単元学習における「教材」が持つ位置づけは、極めて重要なものであっ たことが示唆されている。そのため、これまでにも大村の「教材」論については、例えば、「話し合い」の教育に着目してそこで用いられた教材の分析が 行われたり、また、「書くこと」における教材としての「手引き」の分析が行 われたりなどと、実践の記録に基づいた実証的研究が重ねられてきた(長田 2002、鈴木 2006 等)。 こうした研究動向に対して本稿では、より原理的な視点から大村の「教材」 論を分析したい。すなわち、先に挙げた先行研究の成果を受けつつも、大村 の「教材」論を単元学習論の全体構造の中で明確にすることを試みる。具体 的には、次の3 点を課題として分析を行う。 (1)大村にとって「教材」はどのような認識のもとで開発されていたのか。 言い換えれば、教える側の大村にとって「教材」となる素材 .. はどのような論 理のもとに収集、分析され、「教材化」されていたのかを明らかにする。これ は「素材の教材化」と呼ぶべき働きである。本稿では、大村単元学習論にお ける「教材」論を分析するために、大村がどのような認識のもとで「素材の 教材化」を行っていたのかを解明する。 その際、重要な論点となるのは、教師である大村と「教材」との関係であ る。一般的に、教材の価値が論じられるとき、それはもっぱら子どもの学び にいかに資するかという、子どもと「教材」との関係性が基軸となっている。 しかし、大村単元学習においては、教師と「教材」との関係も極めて重要な ものとなっている。教材化の働きの中で、教師と「教材」はどのような関係 にあるのかを明らかにする。 (2)単元学習という形態において、大村は何を基準として「教材」の選択 および配列を行っていたのか。これは単元学習論という理論の全体性におい て、「教材」の位置づけを明確にする作業となる。教育実践を行う上で、実践 者には選んだ素材を教材化し、それを何らかの基準に基づいて実践の中に「位 置」を与える必要がある。大村にとってその基準とは何であったのかを解明 することを目指す。 (3)単元学習という教育形態において、大村は「教科書」をどのような視 点で分析し、活用していたのか。一般に「教科書」は、日本における小学校、 中学校、高等学校の「主たる教材」となっているが、先に見た通り、大村単 元学習では独自の教材化も積極的に行われていた。そうした単元学習の中で、 与件としての「教科書」はどのような位置を占めるものであったのかを明ら かにする。 以上の3 点を論じることで、大村が「ことば」の教育においてどのような 「教材」論を有していたのかを、特に「素材の教材化」という観点から明ら かにすることを目指す。この試みによって、大村単元学習における「教材」
論が明確になるとともに、教育実践を支える「素材の教材化」論について、 「ことば」の教育という視点から、より詳細な説明が可能となるであろう。 1.「素材の教材化」を支える認識―「教師」と「教材」の関係性 まず、「(1)大村にとって「教材」はどのような認識のもとで開発されてい たのか」という点である。 一般に、「教材」は、「教育(教師)」・「教材」・「学習(学習者)」という教 育実践を構成する三要素の一つとして数えられ、専ら教師が用いる子ども達 (学習者)の学びを触発するための手段として説明される(山口 2008、p. 22)。 言い換えれば、「教材」が「教材」であるためには、何よりも、「学習者であ る子どもの学びにいかに資するか」が問われることになるということである。 大村も、当然のことながらこの点は極めて重視しており、例えば、上に挙 げた先行研究において分析の対象とされてきた「手引き」という教材開発を 行ったり、また、「古典」領域での単元学習の指導において、独自の視点から 子ども達の学びを触発するための教材開発を行ったりしている(例えば、大 村 1983b、pp. 158-159、畠山 2015)。 しかし、大村にとって「教材」とは、単に「子どもの学びに資するもの」 としてのみ論じられるものではなかった。例えば、大村は、教師である大村 自身と「教材」との関係について、国定教科書時代の題材である「クラーク 先生」(昭和23 年)の話題の中で、次のように述べている。 まるで身内に出会うような親しみをもって教材のページを開いた。この気持ち がこの学習の終わりまで変わらず、教材に対する誠意というようなものになり、 惜しみなく手をかけ時間をかけて教材とその背景とを調べることになった(大 村 1982、p. 35、波線は引用者による) 大村にとってこの「クラーク先生」という教科書教材は、大村が「私の敬 愛した、開拓精神に富んだ二人の伯父、札幌農学校出身の伯父たちの思い出 に直結している」(同上、p. 35)と述べている通り、自身との関係において極 めて愛着を感じる教材であったことが伺える。さらにまた、別の文脈で大村 は、次のようにも述べている。 私の使用していた教科書に、そのころ短期間出ていた児童雑誌「世界の子供」 からとった「クラス雑誌」というのがあった。私はこれに、文字どおり、とび ついた。やりたくてたまらなくなった。……(中略)……最初は自分がとびつ いて夢中になったのであった(大村 1982、p. 139、波線は引用者による)。 これらの言明において見るべきことは、大村が「教材」を考える上で、「身
内に出会うような親しみ」や「教材に対する誠意」、「とびついて夢中になっ た」という言葉で表現される教師と教材との愛着の関係 ............ と呼ぶべき関係性が 示唆されていることである。 先に触れたように、「教材」のあり方が問われるとき、それは第一に「学習 者である子ども」と「学びの対象である教材」との関係が論点となる。言い 換えるならば、その「教材」が子どもの学びにおいてどのような役割や意義 を持つのかが問われるということである。そうであるからこそ、とりわけ教 育実践の研究では一貫して、学習者である子どもがいかにして学びに専心で きる教材開発ができるかが問われてきた。1980 年代以降に積極的に見られる ようになってきた、「「教材」から「学習材」へ」という動向も、学習者と学 びの対象との関係により則した形で、「教材」観を刷新する試みとして見るこ とができる(加藤 2002)。 しかし、先にみた言明の通り、大村はその点と同様に、「教師」と「教材」 との関係にも非常に大きな関心を払っている。事実、大村は、単元学習を構 成する上で、教師の側が「その単元の学習指導に当たりたい気持ちをもり上 げているかどうか」(大村 1982、p. 124)や、「指導者自身夢中になれる単元」 (同上、p. 188)かどうかを問う。これは、先の言明も含めて考えると、一見 したときに極めて情緒的な認識のように思われるが、大村の場合決してそう ではない。例えば、「研究発表」という単元を実践記録として残す中で、大村 は次のように述べている。 このごろ特に考えさせられていることがある。わかっているということ、研究 したということ、発見したということ、それはもちろんねうちの高いことであ る。しかし、それは、発表され、人に知らされていくのでなければ、社会的な ねうちがない。過去の教育では、前者だけがあまりに尊ばれ、発表力の少ない ことはあまり重大に考えられなかった。……(中略)……これからは、そうで あってはいけないと思う。もっと発表する力、わからせる力をもつ人を育てな くてはいけないと思う。すぐれた、考える力、理解する力を持っていればいる ほど、発表力をつけたいと思う。(同上、pp. 185-186、波線は引用者) この言明に見られるように、大村の単元構成には、当時の「ことば」の教 育に対する明確な現状認識があった。言い換えるならば、「ことば」の教育が 抱えている現状の問題に対して、教師である大村の自律的な判断が働いてい たということである。 そしてまた、さらに言うならば、この言明からは、これから生きていく子 ども達にどのような「ことば」の力を身に付けさせるべきなのかという能力 分析への示唆も見られる。事実、大村は、単元学習を構想するときに、その
単元における学習経験を通して、どのような「ことば」の能力を育てること が必要となるのかという能力分析を行っている1。例えば、大村は、「聞く」 という「ことば」の力を育てるうえで、「知識を学んだり、得たりするために、 「講義」とか、「説明」とか、「発表」とかを聞くという場合、そういう聞く 力をつけるのに一年生なら、どんな話がいいでしょうか」と述べ、聞く力の 教育における学習内容の「系統が今は不確か」だと指摘する(大村 1983a、 p. 43)。その上で、そうした系統を教師が明確にしつつ、単元の構成を行う重 要性を認識していた。大村は、こうした認識に基づいて、自分の実践を「能 力の分析をはっきりもって、その力をつけようとして単元を作って」(大村 1982、p. 316)いくものであると明確に位置づけている。 このように考えると、大村が「この単元を行う」という判断を下す時、そ れは単純に「この教材を用いて授業を構成したい」という教師の一方的な思 いを表すものでもなければ、何の準備もなしに「自然に気のむいてくる」(同 上、p. 124)という無意図的な状態を指すものでもないことは明白である。ま してや、「教科書で扱われているから」という実践の場を離れた外在的な理由 や、「この教材に興味を持ったから授業化しよう」という無計画的な発想でも 当然ない。むしろ、単元構成を行うという周到な準備の過程において、大村 は、①子どもたちの能力分析に基づいた「教材」の開発を行いつつ、そのこ とを通して②教師である自分自身と「教材」との関係構築を行うという、重 層的な行為を行っていることが見えてくるのである。 つまり、先に見た大村の「身内に出会うような親しみ」や「教材に対する 誠意」、「とびついて夢中になった」という言葉で表現される教師と教材との 関係性は、教材を開発するという行為の中に埋め込まれた形で存在しており、 単元学習の実践において欠かすことのできない重要な要素としての位置づけ が与えられている。単元学習において「教材」とは、子どもたちにとってよ り良い学びの媒介物となる以前に、教師にとっても独自の関係性を構築され ている必要のあるものなのである。 1 例えば、大村は「話すこと」の能力分析に基づく、学習内容の系統表を公表してい る(大村 1983a、pp. 61-65)。大村はこうした試みについて、「どんなことを、どんな 場合にわかりやすく話すのか、その他、いろいろな条件を取り上げてそれぞれの系 統の中に位置づけながら、しかも、真実なことばの語られるような、しぜんな「話 すこと」の学習の場を、思いつきでなく、位置を明らかにして設けようと、それも かんたんに、時間的にも速く処理できるようにと考えた」(同上、p. 69)ものとして 説明している。
2.教育関係の五項モデルに基づく「教材」の位置づけ 前節でみた通り、大村単元学習では、教師と教材との関係構築が極めて重 要な働きを有している。では、その関係構築の過程の中で、教材はいかにし て「教材」としての位置づけを受けることになるのであろうか。本節では、 この点をより詳しく検討したい。具体的には、「はじめに」で挙げた2 つ目の 問いである「(2)単元学習という形態において、大村は何を基準として「教 材」の選択および配列を行っていたのか」という点を問う。 大村は、昭和29 年に「単元学習への出発のために」という主題で、単元構 成の要点を論じている(同上、pp. 123-125)。大まかに整理するならば、(1) 生徒の求めているものは何かの検討、(2)教師の求めているものは何かの検 討、(3)資料が整っているかどうかの検討、(4)学期始め、学期末、大きな 行事などと考えあわせての時期の検討、そして(5)教師自身の準備状態の検 討、という5 点を例として挙げている。大村は、こうした点を検討した上で あれば、仮に結果として.....「教科書」をその内容構成通りに一から扱うことに なったとしても、単元学習として求められる要点を検討した上での結果であ るため、「主体的に材料を選び、選んだ材料にそれぞれの位置を与えているわ けで、材料と教師との関係には大きな違いがある」(同上、p. 125)と述べる。 ここで注目したいのは、「主体的に材料を選び、選んだ材料にそれぞれの位 置を与えている」という言明である。一般的に考えるならば、選んだ材料に 「位置」を与えるときに、そのための判断の支えとなる基準が必要となるは ずである。先に示した5 点のような事項を教師の側で検討する中で、その基 準がどのように作られていくのか。この点を大村がどのように考えていたの かを知る上で、先に示した「(1)生徒の求めているものは何かの検討」につ いての説明は示唆的である。 「生徒が求めている」ということは、「生徒が何を学習したいか」ということ であるが、それは生徒の希望を聞くというだけではない。……(中略)……「生 徒はいま、どの能力がたりないか、また、いま何を与えればぐんと伸びるか」 を正しくつかみ、その求めているものを適当に与え、何か欠けていたところの 満たされた感じ、一つの山を築きえた気持ちを味わわせたいのである。(同上、 p. 123、波線は引用者) この言明を見ると、教材として用いる材料を主体的に選び、選んだ材料に それぞれの位置を与えるためには、「生徒はいま、どの能力がたりないか、ま た、いま何を与えればぐんと伸びるか」という子どもの能力の把握も重要視 されていることがわかる。これは、前節で確認した通り、能力分析の重要性
が形を変えて示されている言明である。この大村の言説に従うならば、単元 学習を構成するうえで教師に求められるのは、国語教科書に見られるような 「ことば」の学びとして用いられる材料..(素材..)の系統性....と、子ども達の学. びの状態....とを密接に関係づけ、一から材料の配列を作り直していく................こととい うことになる。 示唆的なのは、この文脈において大村が「教材」ではなく「材料」という 言葉を用いていることであろう。この文脈で「教材」と「材料」(素材)が概 念上使い分けられているのは、大村にとって「ことば」の学びに必要な「教 材」は、学びを触発する可能性を有した「材料」と子ども達の学びの「状態」 との関係の中で構築されるもの ....... と捉えられているからである。すなわち、こ こまでの分析でまず明らかなのは、大村にとって「教材」とは、①教師であ る大村と、②学びの触媒となりうる「材料」である素材と、③子ども達の学 びの状態との三つの項による関係を基盤として、あくまでも関係論的に構築 される概念ということである。 そして、「材料」が子ども達の学びにおいて意味ある「教材」として構成さ れるには、この三項の関係の中で、教師である大村の意図に支えられた主導 的な働きが欠かせない。なぜなら、「教材」概念が関係論的なものである以上、 それを構成する教師の側に一定の見通しに支えられた意図的な「教材化」と いう働きが無いと、単元学習がその場での「思いつきになったりいわゆる興 味本位になったり偏ったり」(同上、p. 123)という結果に陥ってしまうから である。 教 師 教 材 子ども 図 1:教育実践の三要素モデル 教 師 素 材 子ども 教 材 図 2:大村の「素材の教材化論」の モデル
そのため、大村は教師の「見通し」という点に極めて重大な関心を払って いた。以下の言明を見ておきたい。 要するに、何かによって、いつも見通しをつけていなければならない。そのと きしていることが、全学習指導計画のどこに位置を持っているのかを、はっき り知っていることが大切だと思います。(同上、pp. 73-74、波線は引用者) この言明は、単元学習の形態で「ことば」の教育を行った時に、子どもた ちが身につけるべき力を十分に獲得せずに、ただ「ことば」の経験を「ゆき あたりばったり」(同上、p. 71)にすることになるのではないかという疑問に 答えたものである。大村はこの疑問に対して、教師の側が明確な見通しを持 つことの重要性を主張している。そのため、例えば、大村は異なる文脈でも 次のような言明をしている。 いろいろな研究会のプログラムを見ますと、やはり教材が中心であって、こ こに材料がある、これをどのように扱おうかということが多い、これはある道 程にそういうことは確かにあると思いますが、単元学習はそういうところから 出発していません。 ……(中略)…… 材料が先に決まっているのではなくて、ひとつの目あてというか、やること、 問題、それが先に決まっているということなのです。(同上、p. 353、波線は引 用者) ここで述べられている「目あて」や「やること」、「問題」は、先に見たよ うに、子どもの学びの状態を踏まえた上で教師の側が持っておくべき「見通 し」である。この点を十分に教師が自覚していないと、単元学習が「ゆきあ たりばったり」になってしまう。大村は、この点に極めて自覚的であったた めに、子どもたちの学びの状態を検討した上で、「一つ一つの単元について、 一応の指導計画を立て、それによって指導した場合、生徒は、どんなことば の生活を経験するようになるかその大体の予想を、聞くこと、話すこと、読 むこと、書くこと、の四方面にわけて、一覧表にする」(同上、pp. 71-72)こ とを重視する。そして、こうした「表を用意していつも全体というものを見 通していることがどうしても必要だ」(同上、p. 71)と述べるのである2。 このように理解すると、先に示した「「教師」―「素材」―「子ども」」の 三項に基づく教育関係のモデルは、新たに「目あて」や「やること」、「問題」 2 ここで述べられている一覧表については、すでに大村単元学習の目的論との関係で 論じたことがある。詳しくは、畠山 2014b を参照のこと。
といった言葉で示される見通し、すなわち、「実践の目的」と呼ぶべき要素を 含み込んだモデルで説明しなければならないことがわかる。つまり、大村単 元学習における「教材」の原理は、以下の図3 で示される「「実践の目的」― 「教師」―「素材」―「子ども」」の四つの項の関係を基盤とし、その四つの 項の関係の中で「教材」が構築されるという「五項モデル」として示し得る のである。 図式化すれば明らかな通り、大村単元学習における教育関係の「五項モデ ル」は、従来の教育関係の描写と比べて明らかに重層的なモデルとなってい る。 また、大村単元学習において、この「実践の目的」が「見通し」という言 葉で表現されているところも重要である。なぜなら、それは単に、この「実 践の目的」が、一つひとつの単元毎に細切れに想定されているわけではなく、 むしろ、他の単元との関連において一つの全体的な構造を取っていることが 示唆されているからである。つまり、大村の実践では、「実践の目的」は、子 ども達の学びの経験を見通した連続性を持つものであり、その意味で、大村 独自の「カリキュラム」として意識されていることがわかるのである。 近年の研究では、大村の実践を分析する視点として、個々の単元を大村の カリキュラム全体の中に位置づけて分析するという手法の有効性が指摘され ている(例えば、甲斐 2012、p. 151)。こうした研究動向は、明確に指摘され てはいないものの、大村の単元学習の背後にそれを支える「独自のカリキュ ラムへの意識」が存在していたことを裏付けるものである。本稿では、この 大村の単元学習を支える重要な「見通し」、すなわち「実践の目的」の連続性 子ども 教 師 素 材
教 材
実践の目的 図 3:大村単元学習における教育関係の「五項モデル」を「カリキュラム意識」という言葉で概念化しておきたい。 3.「教科書」教材への視点に見る「教材化」の論理 さて、これまで検討してきたことをより明確にするために、最後に「(3) 単元学習という教育形態において、大村は「教科書」をどのような視点で分 析し、活用していたのか」という点を問う。 「単元学習」という教育形態を採る大村に対しては、一般に「教科書を用 いない授業」という誤解に基づく認識がなされていたことが述べられている (例えば、大村 1984、p. 317)。すなわち、単元構成において必要となる素材 を教科書以外の様々な媒体から探し出し、必要な教材として構成するという 見方である。しかし、実際には、野地潤家が述べるように、大村は「本気で 国語教科書のありかたを問われ、国語教科書の生かしかた・扱いかたを真剣 に求めて」(同上、p. 454)きた。事実、大村は「教科書は、専門にくふうさ れた資料であり共通に全生徒のもっているたいせつな資料である」(大村 1982、p. 126)と述べており、西尾実の指導のもと、実際に教科書の編纂にも 携わった経験を持っている3。では、実際のところ、大村は単元学習の中で「教 科書」をどのように生かしていくもの ........ と捉えていたのであろうか。以下の言 明を見てみたい。 だいたい国語の教科書というのは、ほかの教科書とはたいへん内容の性質が 違うと思うんです。ほかの教科書の場合は、いろいろなことが書かれています けれども、それを書いた態度は初めから終わりまで同じだと思います。ところ が、国語の本の場合は、その内容をそのまま伝えようとしているわけではあり ません。文章の書き方とか、司会の仕方とか、そういうような材料 ・ ・ が集められ ているのであって、その内容を伝えるのが仕事ではないんです。つまり、それ を読んで、言語活動を展開するなかで言葉の力がつくというような要素がある わけです。(大村 1984、p. 319、波線および傍点は引用者) この言明に見る通り、大村にとって教科書は、「それを読んで、言語活動を 展開するなかで言葉の力がつくというような要素がある」ものとして理解さ れていた。そうであるからこそ、大村は、教科書の活用の仕方について「最 初から順を追って内容を学んでいく」という方法に限られる必要はないと考 えていた。むしろ、「授業のやり方の種類が少ないということが、たいへんい 3 大村は、昭和 31 年から 46 年まで筑摩書房から刊行された中学校用国語教科書の編 集委員を務めている。またその際、教科書と併せて刊行される教師用指導書の作成 にも携わっている。詳しくは、大村 1984、pp. 5-313 を参照のこと。
けないことだ」(同上、p. 321)と述べ、「ことば」を学ぶ材料として国語教科 書を多様な方法で活用することを検討している。 その一つとして提案されているのが、「教科書を1 冊の本として扱う」とい う方法である。雑纂式という形態で編纂されている国語教科書を、「ことば」 の学びの材料として1 冊全体を対象とした単元を大村は構想し、実践してい る。 例えば大村は、国語教科書で「ことば」ということばがどのように用いら れているかを分析する単元「ことば―こんな意味が、こんな意味も」(昭和 46 年石川台中学校)を実践している。この実践では、教科書 1 冊全体を対象 として、そこで用いられている「ことば」ということばを収集し、カテゴリ ーに分けて分類している。大村はこの実践を振り返り、「「ことば」というこ とばには、いろいろの意味のあることが、かねて話題になっていた」とし、 「「ことば」ということばの使われ方を探しながら、この一冊を読んでみると、 予想以上に、たくさんの、そしていろいろの種類の「ことば」が出ていた」 (大村 1983c、p. 101)と述べている。 また、他の単元では、教科書1 冊全体を使用して、「書き出し文」の研究を 行っている。教科書に掲載されている様々な分野の文章、例えば論説や小説、 意見文等の書き出しがどのように構成されているか、そしてそれがその文章 全体の中でどのような意味をもっているのかを分析する単元である。大村に とって「書き出し文」の研究は、作文学習の指導としても非常に重要な意味 を持っている。この単元は、その作文学習指導という側面も併せ持ちながら、 「教科書」という様々な分野の文章が掲載されている雑纂式の書籍の利点を 有効に活用した単元となっている(大村 1984、pp. 330-342)。 このように、大村は、教科書という一般的には「既成の教材」とされるも のであっても、単元学習の一つの「材料」と捉え、子どもの学びの中で学ば れる必然性を持つ形で「教材」へと作り変える作業をしている。すでに検討 したように、「結果として」教科書をそのまま扱うことになったとしても、こ の大村の教科書の扱いのように単元学習として求められる要点を検討した上 での結果であるため、「主体的に材料を選び、選んだ材料にそれぞれの位置を 与えている」ことになり、「材料と教師との関係には大きな違いがある」こと になる。 さらに言えば、こうした大村の考え方に基づくならば、教科書という素材 が、子どもの「ことば」の学びの過程において、状況に応じて、そして何よ りも「実践の目的」に基づいて何度も教材化される可能性がある ............... ことになる。 教科書に掲載されている各文章が、その単元における「実践の目的」に照ら
して適切な素材となり得る場合、それは教科書の中の独立した「教材」とし て実践に用いられる。そしてまた、上に見たような教科書を「1 冊の書籍」 として扱うことがその単元における「実践の目的」に照らして適切であると みなされるならば、すでに読まれた文章であっても、扱われ方を変えて「教 材」として実践の場に供される。 このことは、「教科書が何度も使用される可能性がある」という単純な事実 を意味しているわけではない。むしろ、「教科書」という一つの「素材」が、 単元における「実践の目的」に基づいて、「教師」である大村と学習者である 「子ども」との間に、形を変えて「教材」として構築されるということを意 味するのである。つまり、先に示した教育関係の五項モデルが、教科書を扱 う上でも機能することがわかるのである。 4.おわりに 以上の分析の結果を踏まえて、本稿の結論として、大村の「教材」論を 3 つの観点に整理しておきたい。 (1)教師の側が持つ「教材」に対する関係の重要性 本論で示した通り、「教材」とは一般に、子どもにとっての学びの価値や提 示のあり方を問われることが多いものである。しかし、大村にとってはそれ と同時に、「教材」が教師とどのような関係にあるかという点が極めて重要視 されていることが明らかとなった。 ただし、これは単に、教師の「思い」や「関心」といった情緒的なレベル での関係性の構築を意味しているのではない。むしろそうした点を含みなが らも、子どもたちの学びの状態を分析的に踏まえて単元構成を行うという周 到な準備の過程で作り上げられていく、「教師と教材の関係性」の構築を意味 している。この要素を抜きにして、大村単元学習における教材論は成立しな いのである。 (2)「実践の目的」・「教師」・「素材」・「子ども」の間の関係概念として 成り立つ「教材」という考え方の重要性 また、大村の実践では、「教材」は所与として存在するものではなく、単元 における「実践の目的」に基づいて、教師と子どもと素材(材料)の間にお いて関係的に存在し得るものであると認識されていることが明らかとなった。 そのため、例えば「教科書」のような一般には既成の教材として理解される ものであっても、それはあくまでも子どもの学びを触発する材料に過ぎず、
そのままの形では決して「教材」とは成り得ない。そこには、材料を子ども との関係において「教材化」するという「教師の主導性」が強く求められる。 この事実は、教師はあらかじめ外在的に存在する「教材」を効果的かつ効 率的に教えることを担うだけの存在ではないことを示している。大村の言説 に基づくならば、教師は「教える内容」との関係構築を行う中で、「素材を教 材化する」という自律的な判断を求められるのである。そして、その教材化 の基準として極めて重要になるのが、単元における「実践の目的」である。 つまり、大村実践における「教材」の構成原理は、「「実践の目的」―「教師」 ―「素材」―「子ども」」の四つの項を支えとした教育関係の五項モデルで捉 えなければならないということである。 このモデルは、従来の教育実践の三要素は言うまでもなく、これまで教育 学領域で論じられてきた「素材の教材化論」をも超え出る、より重要的なモ デルである。このことが示唆するように、大村の教材論は、これまでの先行 研究において取り組まれてきた教材そのものの内容論的な分析の対象として の価値のみならず、教師の自律的な判断としての「主導性」の分析や、「教育 関係のモデル」を刷新する可能性をも有した研究対象なのである。 (3)教師の「カリキュラム意識」に支えられた「教材化」という発想 の重要性 大村にとって「教材」は与えられたものとして存在しない以上、上で述べ たように、それは自身の実践のカリキュラムに対する明確な意識の下で「構 成されるもの」として存在することになる。それは、子どもたちの「ことば」 の学びには、「ことば」の性質に基づく見通しを持ったカリキュラムが必要で あり、そのカリキュラムに基づいた独自の教材化が求められると大村は認識 しているからである。この認識を支えているのが、(2)で述べた五項モデル に含まれる「実践の目的」の連続体である「カリキュラム意識」である。 本稿では「カリキュラム」意識の概念化まででとどまり、その詳細までは 分析の対象とすることができなかった。この点については今後の課題とした い。付言するならば、この作業は、本稿で行った大村はまの教材論の解明を、 今度はカリキュラムという実践の連続性の中で問い直すものとなるであろう。 【引用・主要参考文献一覧】 橋本暢夫 2001 『大村はま「国語教室」に学ぶ―新しい創造のために―』渓水社。 橋本暢夫 2009 『大村はま「国語教室」の創造性』渓水社。
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