上代における開拓とその特質
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(2) . 10 巻. 第 2号. 北海道学芸大学紀要 (第一部). 昭和35年2月. 上代に於 ける開拓とそ の特質 津. 石. 撒・. 北海道学芸大学旭川分校史学研究室. Toru ISR耽AUA : The Land Developnユent and i ts ics in・ i Character the Ancient Times t s. 目. 次. 1 東国の経営 1 , 崇神朝 に於ける東国経営 2 . 景行朝以後の東国経営 韮 播磨国の開 拓 1 . 国家権力支配の浸透せざり し頃の 国占めの伝承. 1. 2 . 景行朝以後の播磨国の経営 田 奈良時代の開拓と東国の経営 1 . 奈良時代の政治的課題 2 . 東大寺の荘園開拓 3 ‐ 東北蝦夷地の経営. 東 国 の 経 営. 1 . 崇神朝に於ける東国の経営 崇神朝以前の大和朝廷の勢力範囲は, 伝承によれば, 非常に狭いものであって, 当時の国造をみ と, 倭国造に珍彦(ウズヒコ) , 伊勢国造に天日鷲命, 凡河内国造に , 葛城国造に剣根(ツルギネ) 己蘇根(ヒココソネ) , 山代国造に天目一命, 紀伊国造に天道根命等の六人の名がみられるのみで 1 る. ) 県主としては, 神武東征の際に帰順したといわれる弟滑が猛田県主に任ぜられ, 弟磯城が 城県主とされている. これらによって, 倭(ヤマト), 葛城, 伊勢, 河内, 山代, 紀伊の近畿地区 ) 限 ら れ て い る. 2. 然るに崇神紀によれば, この期にその範囲は広げられ, 大彦命を北陸道, その子武淳川別を東方 二道 (東海) 吉備津彦を西道 (山陽道) 丹波道主命 (古事記では日子坐王) を丹波 (山陽) へ遣 され, 後に皇子豊城入彦命を東方に遣わされた. 豊城入彦は永く東国にとゞまり, 上毛野君, 下 野君らの氏の祖となったとある, 崇神朝の四道将軍の派遣のときに, 国造の数も増加し, 知知夫 造 (武蔵国秩父郡) 久比岐国造 (越後国頚城) 高志深江国造(越後国沿川郷深江?) 出雲国造(出 ミ国出雲郡) 岩見国造 (石見国) 吉備中ッ県国造 (備中国) 波久岐国造 (与之岐?周防吉敷) 波多 造 (土佐国幡多) 火国造 (肥前) 阿曽国造 (肥後国阿蘇郡) 等があり, 北は日本海方面では越後 西 内海方面の周防, 備 , 東は関東地方, 方では, 日本海方面では出雲, 石見, 南方では土佐国, , 九州の肥前, 肥後を含めている. 崇神朝の話には, 津田左右吉氏も指摘しているように, 崇神 後数代の大和民族の発展を含んでいるものと推 定されるが, この機会にかなり広い範囲に伸張 し )かくの如く崇神朝前後に 大和勢力が伸張して未開地を開拓して進ん いることが了承される.3 , ゃのであるが 彼らが始めて農業開拓をしたのではない すでに広範な地域に農業は営まれていた , . である. 便宜な地域では, 水稲も行われていた. 弥生式文化は 「農耕女化であっても, 稲作を中 -138-.
(3) . 石. 沢. 徹. 心としていることは特殊なことであって, これはこの文化の源流がすでに水稲栽培を主体と してい たのか, 源流においては種々の穀物栽培があったのに, 特に稲作を選択したのかの分析がきわめて 4 ) しかもその範囲は, 北九州, 南九州, 東九州, 四国, 中国, 畿内 東海道 伊勢湾 必要である.」 , , 地方, 北陸, 中部地方, 南関東, 北関東, 東北地方の南部にまでも, 水稲が行われている. それ故 に, 崇神朝の大和勢力の拡大と移動は, そのとき始めて農耕民が移住したものと 断定するわけには ゆかない. そこで崇神朝における東国経営を中心に, 当時の大和勢力の拡大と開拓はどのような性 質 のも の で あ っ たか を考 え て み よ う.. 日本書紀によれば, 崇神四十八年に, 皇子 「豊城命をして東の国を治めしめたまひき。 こは上毛 野君, 下毛野君の始祖なり」 とあ り, 常陸国風土記の新治郡の条に 「古老の日へらく, 昔, 美麻貴 の天皇の天の下知らしめし世, 東の夷の荒ぶる賊を平討けむ為に, 新治の国造が祖, 名は比奈良珠 の命といふを遺はしき」 また行方郡の 条には 「斯貴の瑞垣の宮に大八洲知らしめしし天皇の世に, 東の夷の荒ぶる賊を平けむとして, 建借間の命を遣り給ひき」 とあって, 常陸も毛野もともに, 崇 神天皇の時から, 大和の勢力が及んだと している. 肥後和男氏も 「私は大体 この時代こそ大和の勢 力が東国に及び始めた時代であ り, それが伝承に反映L て い る と 考 え る も の で あ る. た ゞ し そ れ は ) とのべている 概して海岸地帯であって, 毛野方面までは, まだ手が届かなかったかと推測する」5 が, 崇神朝頃に東国に大和勢力が波及したことはみとめてよ いと思う. それでは先にも云ったよう に, すでに弥生式文化として, 水稲耕作が行われていたのに, そこへあとから侵入して, これを略 奪したものであろうか, そのようには考えられない. 弥生式時代の反映を示 していると推 測される 神話の中に, 古事 記の中に, 「繭に速須佐之男命, 天照大御神に日したまはく, 我が心清明き故に 我が生めりし子手弱女を得っ. 此に因りて言さば目から我勝ちぬと云ひて勝ちさびに, 天照大御神 の営田の阿離ち, 溝埋め, 亦其の大嘗聞し看す殿に,尿まき散ら しき, 故然か為れども,天照大御神 は, とがめずて告たまはく, 尿如くは, 酔ひて吐き散らすとこそ, 我が那勢之命如此為つらめ, 叉 田の阿離ち溝埋むるるは, 地をあたらしとこそ我が那勢之命如此為つらめと, 詔り直したまへども } と あ り 田 の 阿 離ち 溝 埋む る は 地 を あ た ら し と こ そ 猶 其 の 悪 しき 態止 まず て, 転 て あ り 云 々」 6 , ,. 思い誤ったからしたのであろうと解したという, 即ち, 土地所有権が不分明な時代で, 先に土地を 開いて稲作したものが勝ちで, 先占権のみが問題となった時代である, それ故に, 万葉集の中にも 古い慣行がみられる. 「以上万葉歌に表はれた歌詞によって判る如く, 当時山林原野が相当に広く 其処に入って材木を伐採し, 開墾を企て, 雑草を刈り取るための先占が許され, その先占の形式と )播磨風土記には 国家権力の及 して簡 単なる標結 (シメュヒ) をするだけで事足ったのである」7 , ばなかった時代に, 勝手に各地から人が入って国占めの行われていたことが語られている 国家権 . 力の及ばなかった時代には, 未開地の先占, 国占めが広く行われていたことが推測される. それ故 に, 東国への大和勢力の波及と開拓は, 主として未開地, 未墾地の先占, 国占めとして行われたも のであろう. 日本書紀にも, 崇神朝に豊城入彦命は 「会明に, 兄豊城の命, 夢の辞を天皇に奏して 日ひしく, 『みずから三諸山に登りて, 東に向きて八廻弄槍 し, 八廻撃刀しき』 といひ, 弟活目の 尊, 夢の辞を奏して日ひ しく 『みづから三諸山の嶺に登りて, 縄を四方に短へて, 粟を食む雀を逐 ひ き℃ といひ しかば, 天皇相夢して二の子に謂りたまひしく 『兄は一片に東に向きて東の国を治む べ し, 弟は悉に四方に臨みて宜朕が位を継がせ』 とのりたまひき」 とあるをみれば 古代には夢占 , によって土地を先占する慣習も行われていたことを示している. (註, 岡田謙氏によれば, 台湾蕃 )とにかく国占め 先占 人の行ふ焼畑農業に於ては, 夢占により開墾地の選定をしていたと言ふ)8 , めの ,ような方法で未墾地の先占を行って進んでいったのが主であろうと思われる. 未開地や未墾地 の開拓に当って, 東国では, 何らの抵抗な しに進めれたと考えるのは誤っている. 風土記によれば - 139 -.
(4) . 上代における開拓とその特質 東 国 は 東 夷 の 住 家 で あ っ て, 国 栖 (ク ズ) と い っ た り, 佐 伯, つ ち ぐも, や つ か は ぎとも い うも の. が住んでいて抗抵した。 従って開拓の第一歩としては, これらの東夷の征服 ということにあった. そのような物語として, ヤマトタケルの東征の物語が語られている. 自然物採集経済時代の蝦夷地 でも, 狩猟・漁携地の確保という意味からやはりアイ ヌは, その地域の確保のためには, 他部族の 侵入に対して戦った. 大和勢力の東漸に対しても, 戦争を伴ったものと思われる. 次に東国開拓にあたっては, 宗教的な神威をいただいて, 鹿島を中心として行われたと想像され る. 常陸風土記の香島の郡に 「高天の原より降り来 し大神, 名を香島の天の大神 といふ. 天にては 号を香島の宮といひ, 地にては豊香島の宮と名 づく. 其の後, 初国知らしし美 麻貴の天皇の世に至 りて, 奉る幣は, 大刀十口, 鉾二枚, 鉄の弓二張, 鉄の箭二具, 許呂四口, 枚鉄一連, 練鉄 一連, 馬一匹, 鞍 一具, 八処の鏡二面, 五色の純一連なり」 とあり, 香島大社は東国の古社の第一位であ る, その註に, 「俗に臼はく, 美麻貴の天皇の世に, 大坂山の頂に白細の大御服きまして, 白樺を 御杖に取り坐し, さとし賜ふ命は, 我が前を治め奉らば, 汝がき こ しめす国を平け, 大国も小国も 己つたというのであ 事依さし絵はむとさとし給ひき」 と云ったので, この神威を鎮撫の神とて仰ぎネ この神が東国開拓の神威 大神を る鹿島の地が東国開拓の基地とされ ネ 己 そんなわけで る. , , 香島の とされていたことは誤りない所である。 肥後和男氏も 「とにかく東海岸の経路は, 鹿島神の北進と 己したのであ いふ形で行われたの で, 陸奥第一の社ともいうべき塩釜神社も, 本営は鹿島香取を合ネ る. これは多賀城の外港として発展したものと思われるから, 多賀城もその宗教的外 護をこの神に ) との べて い る 仰 い で い た こ とが 想 像 さ れ て よ か ろ う.」9 .. 次に大和勢力の開拓は, 弥生式時代の農業開拓に比してどのように進歩 した面をもっていたかと いうことであるが, 「弥生文化は, 道具の発展段階からいえば, すでに鉄器時代に属している。 … 鉄器文化は 本格的にはすでに都市文明が発生して後に登場する, 弥生文化が鉄器文化であっても その社会の構造よりすれば, 文明の中心地において農業が起った当初の階梯であり, とうてい都市 l o ) と云われるように, すでに鉄器の使用が文明の中心地では始っ 文明まではたどりついていない」 - ているのであるが, 然し, 地方にては 「石器がかなりの量において使用されている」 のである. - 般的にいって 「蓋し, 弥生式文化時代に於ては, 住民の生業として, 一面狩猟漁 桝を営みっ 農業 を兼ぬる地位にまで進んでいたが, 而も当時の耕作用具 としては尚専ら石器特に石庖丁と石斧が使 1 1 ) 石庖丁や石斧, その外, 木具が主であったと考えられる. 然るに大和 用せられていたのである」 勢力は, すでに古墳文化時代のすすんだ武具や農具をもっていた. 香島の社に奉った武具や農具を みても, 殆んど鉄器及び鉄である. 溜池, 溝渠, 堤防築造事業には, 鉄製器具によって, 一段と促 進されたものであることが理解される. 当時の鉄製品としては, 農具の外に, 武器としての刀剣, 鉾, 鏡, 鐸, 兵庫鎖など, 武具としては甲胃, 盾な どがあった. 機織具としての鉄針, 馬具として の轡, 鎧もある. 発掘された農具中で主なものは, 鍬, 鋤, 唐鍬, 梨, マングワ, 鎌, 糟, 箕等が ある. 鉄製の武具, 武器, 農具を使用 したのみでなく, 埴輪にもみられるように, 馬, 牛, 鶏, 大 が家畜とされていた. 香島大社に奉ったものにも馬があげられている。 馬は主として乗用に供され たらしく, 殊に大陸より輸入されたものの ようである. 乗用の鞍, 鎧, 轡, 胸繋, 面繋, 尻繋, 杏 葉, 馬鐸, 鈴, 雲珠, 摂蝶金具, 環鈴, 銀面のような馬具を伴出している. かかる鉄製農具を使用 して, 新地の開拓が進められたのであろう. 常陸風土記によれば, 新治郡は, 「古老の日へらく, 昔, 美麻貴の天皇の天の下知らしめしし世, 東の夷の荒ぶる賊を平討けむ為に, 新治の国造が祖, 名は比奈良珠の命といふを遣はしき, 此の人罷り到りて, やがて新しき井を穿りしに, 其の水浄く 流れき, すなわち, 井を治りし因を以ちて, 郡の号に著けっ」 とある. 一般的には弥生文化をもっ ては開拓し得なかった土地をも, 進歩 した鉄器を使用 して, 新しい井 (註, 井というのは, いうま 40- -1.
(5) . 石. 沢. 撒. でも な く 池 の こ とで あ る. 行 方 郡 の 条 に い は ゆ る 其 の 池 は, 今 の 椎 の 井 と な ず く, と あ る )を 掘 り .. 水田地帯とし, 居住地とすることが出来たことを物語るものである, またすすんだ機織業もつたえ たようである. 久慈郡の大田郷の条には, 「美麻貴の天皇の世に及び長幡部の遠つ祖, 多天の命, 三野より避りて, 久慈に遷り, 機殿を造り立てて初めて織りき, その織れる服, 自ら衣裳と成り, 更に裁ち縫ふことな し. これを内幡といふ. あるもの日へらく. 純を織る時に当りて朝 Lく人の見る 2 ) と ある が 故 に, 屋 の 扉 を 閉 ぢ, 内 を 闇 く し て 織 る. よ りて 鳥 織 と 名 づ く」1 ,. 崇神紀十二年の条には, 依羅池を作るとあるから, 広く池溝を作る技術も進んでいたことが考え られる. なお推測を加えれば, 書紀崇神記十二年の条に 「作二依羅池-」 とあるのに, 古事記仁徳 段には依羅屯倉とあるところをみると, 新開した開拓地を朝廷の屯田とし, 屯倉を興したものであ る う と 思われる, 屯倉については, 書紀垂仁巻二十七年の条に, 「屯倉此云;弥夜気- 」 とのべてい る.. 崇神・垂仁朝に, 他の女物, 制度と共に, この屯田制の方法, 荒廃地を開拓する醜の時代の方法 が輸入され, 新開地に井を掘り, 池をつくり, 溝を掘り, その附近を屯田と し, 朝廷の直轄領とし ての屯倉領を各地に設置していったものと思われる. 亀田には各地より田部を募り移住せしめたも の で あろ う.. 2 . 景行朝以後の東国経営 常陸風土記の信 太郡碓井の里について, 「古老の日へらく, 大足日子の天皇 (景行天皇) 浮島の 帳宮 (カリミヤ) に幸し給ひ し時, 水の供御無かりき, すなわち ト者をして訪占はしめて穿りし所 今雄栗の村に存れり」 とあり, また 「古老の日へらく, 倭武の天皇 (日本武尊) 海 の辺に巡り行で ましし時, 行きて乗浜に至 り給ひき. 時に浜浦の上に, 多く海苔を乾せりき, 是に由りて能理波麻 1 3 ) とあ り また茨城の郡の条にも 「郡の東十里に桑原の岳あり 昔 倭武の天皇 の村と名づく」 , , , , 岳の上に停留り給ひて, 御膳を進奉りき, 時に水部 (もひとりべ) をして 新に清井を掘らしめし , かば, 出泉浄く香り, 飲み喫ふに尤もよかりき」 また行方の郡の条にも 「倭武の天皇 天の下を巡 , 狩りて, 海北を征平け給ふ, 是に当りて, 此の国を経過ぎ, やがて槻野の溝泉に頓幸 し, 水に臨み て手を洗ひ, 玉を井に落 し給ひき. 今行方の里に存れり. 玉清の井といふ」 とあり 同郡当麻の郷 , にても, 「古老の日へらく, 倭武の天皇, 巡り行でまして, 此の郷を過ぎり給ひき. 佐伯 名を鳥 , 日 子 と日 へ る あ り. 其 の 命 に 逆 ひ しマ こよ りて, す な は ち 略 殺 し給 ひ き」 と. ま た 芸 都 の 里 に つ い て. も 「古へ, 国栖, 寸津毘古, 寸津毘売という二人ありき. 其の寸津毘古天皇の幸に当りて, 命に違 ひ, 化に背き, いたく粛敬なかりき, 髪に御剣を 抽きて, 登時斬り減し給ひき」 波都武野について も日本武尊の伝説がある. 香島郡の角折の浜についても 「あるもの日へらく, 倭武天皇, 此の浜に 停宿り給ひ, 御膳をすすめ奉りき, 時に都べて水なかりき, すなわち鹿の角を抜き執りて地を掘り しに, その角折れたろが故に名づくといへり」 久慈の郡, 多珂郡の飽田村, 藻島の浜についても, 日本武尊の伝説をつたえている. 以上列挙してきたように常陸の国の開発には 景行天皇や こと , , に日本武尊の伝承が多く残されている, 先に引用した碓井の里の景行天皇巡行の際には, 水がなく 困ったので, ト者をして占わしめ掘ったところが, 雄栗の村に水が出たという. 土地の選定や井戸 場所の選定にも占者が活躍している. 茨城郡の桑原岳に, 日本武尊が登ったときに, 水部 (もひと りべ) をして新たに井 (清井) を掘らしめたとあ り, 玉清の井についても倭武尊 の伝説があり, 東 国の常陸国は高台の地が多く, 居住, 農耕のためには, 井戸水に不便のために, 未開発の地が多く 残されていたのであろう. 然るに井戸掘り技術の進んだ大和勢力の進出によって, 井戸掘りや, 泉 の発見によって, 一段と開拓が進んだものと思われる. 特に先に引用 した桑原岳については 「倭武 の天皇, 岳の上に停留り給ひて, 御膳を進奉りき, 時に水部 (もひとりべ) をして, 新に清井を掘 -141-.
(6) . 上代における開拓とその特質. らしめしかば, 出泉浄く香り, 飲み喫ふに尤ょかりき」 とあって, 日本武尊が水部 (もひとりベ) をして新に井を掘らしめたというのは, 相当に深い井戸も, この水部の技術者によって掘ることが できたことを伝承しているものであろう. 新技術を伝えるための職掌的な都制は, 崇神朝頃からす で に 始 め ら れ て い る よ う で あ る が 垂仁朝には十の都制を設けたとあり, 次第に各技術についての 部制が設置されて いっ たらしい. 水部も, 従前には出来なかった土木事業の技術を心得ていたもの と思われる. この頃, 播磨国風土記によれば, 播磨国には, 同じ景行朝に, 山部が設置されて, 山 直が伴造となり, 国家的支配と開発が進められたようである. 海部に対する山都で, 山川林野の開 拓者であった. 景行朝には, 職掌的部民制の制度が愈々発達 して, かかる都民制の活用による開拓 開発が推進されてきたものであることが知られる. Iへらく, 斯我の その後, 常陸風土記によれば, 成務天皇の御世に, 多珂の郡について 「古老のE 高 穴穂の宮に大八州知らしめしし天皇の世に, 建御狭日の命を多珂の国造に任 しき, この人, 初め て至り地体を歴験て, 峰険しく 岳崇きを以ち て, 因りて多珂の国と名づけき」 とありて, 多珂の国 造の任命のことを伝えている, 成務朝に広く国造制を設置したことは, 日本書紀成務紀五年の条に 「五年の秋九月, 諸国に令して, 国郡に造長を立て, 県邑に稲置を置き, みな楯矛を賜ひ て表とし 山河を隔ひ て国県を分ち, 肝順のまにま, 邑里を定めたまひき」 とあり, やはり多珂の国造もこの ときに設置されたとつたえている. 行政組織の発達を語るものであるが, これによってどれだけ開 拓が推進されたかは不明である. 孝徳天皇の御世, 大化改新の時に, 同風土記の総説に, 「難波の長柄の豊前の大宮の天の下知ら しめ し天皇の世に至りて, 高向臣, 中臣幡織田連等をして, 坂より東の国を総べ しらしむ。 時にあ づまの道を分けて八つの国と為 し, 常陸の国は其の一つに居れりき」 とあり, 東国が八ヵ国とされ 高向臣, 中臣幡織田連らが総領したという。 信太郡の条には, 「古老の日へらく, 難波の長柄の豊 前の大宮に天の下知らしめしし天皇の世, 葵丑の年に, 小山上物部河内, 大乙上物部会津等, 総領 高向の大夫に請ひて, 築波, 茨城の郡の七百戸を分ちて, 信大の郡を置きき, 此の地は本の日高見 の国なり」 と. 築波, 茨城郡の七百戸を分って, 信太郡の新郡を設置したのである. 行方郡につい ても 「古老の日へらく, 難波の長柄の豊前の大宮に天の下知らしめしし天皇の世, 葵丑の年に, 茨 城の国造小乙下 壬生連麻呂, 那珂の国造大建壬生直夫子等, 総領高向の大夫, 中臣幡織田の大夫等 に請ひて, 茨城の地八里, 那珂の地七里, 合せて七百余の戸を割きて, 別に郡家を置きき, 所以に 行方の郡と称ふといへり」 こ では茨城国造と那珂国造らが総領高向大夫らに請ふて七百余戸を割 いて, ー郡を設置したことを語っている. 分郡して新郡をつくったのである. 茨城国造壬生連麻呂 は, 行方郡を新設したのみでなく, 郡の西の谷, 先に継体朝に箭括氏麻多智の開墾した地を, 「其 の後, 難波の長柄の豊前の大宮に天の下知らしめしし天皇の世に至りて, 壬生連麻呂, 初めて其の 谷を占めて, 池の堤を築かしめき, 時に夜刀の神 (蛇) 池の辺の椎の樹に昇り集ひ, 時を経れども 去 ら ざ り き, こ に麻呂, 声を挙げて大に言ひ しく 『此の池を修めしむるゆゑは, 民を活かすにあ り. 何 の 神 ぞ, 誰 の 紙 ぞも, 風 化 に 従 は ざ る』 と い ひ て, す な わ ち 役 の 民 に 令 し て 日 ひ しく, 『目. に見ゆる雑の物, 魚虫の類は, 蝉り濯るる所無く, 随尽に打ち殺せ』 と言ひ了れば, その時, 神蛇 避け隠れき, いわゆる其の池は今椎の井と号く」 とある. 継体朝に箭括氏麻多智は, 蛇神の群れ来 る に よっ て, 堺 に 堀 を ほ っ て, 「此 よ り上 は, 神 (蛇 神) の 地 た る こ と を 聴 さ む, 此 よ り下 は, 人. の田と作すべし. 今より後, 吾, 神 (蛇) の祝と為 りて, 永代に敬ひ祭む. 翼はくは祭ことなく恨 むことなかれ』 といって, 社を設けて, 初めて祭りきといへり. すなわちまた耕田一十町余を発し 己って 麻多智の子孫相承けて祭を致し, 今に至るまで絶えず」 とあり, 堀をもって堺と し, 蛇神をネ その巣りの難を免れんとして永代ネ 己ったとあるが, 孝徳の世の国造壬生連麻呂は, 池の堤をつくる ←142-.
(7) . 石. 沢. 撒. に多くの蛇が群らがっているので, 役民をして, 開発の妨害をする一切の動物を打ち殺さしたとい う. 先の時代と此の時代的思想の相違が著しくあらわれている. 恐らくは狼や費 目 , 蛇の類, 農作物 に害を与える害虫, 害鳥の類を総出で除去したものであろう, 開拓の一段と進歩したことを示して い る.. また香島郡の条には 「古老の日へらく, 難波の長柄の豊前の大朝に天の下知らしめしし天皇の世 己酉の年に, 大乙上中臣鎌子, 大乙下中臣部兎子等,総領高向の大夫等に請ひて,下総の国の海上の 国造の部内, 軽野より南一里那賀の国造の部内, 寒田より北五里を割きて, 別に神の郡を置きき」 下総国, 那賀国より分けて, 神郡の香島郡を設置したという. 多珂郡の条にも 「その後, 難波の長 柄の豊前の大宮に天の下知らしめしし天皇の世, 奨丑の年に至りて, 多珂の国造, 石城直美夜部, 石城の評造部志許赤等, 惣領高向の大夫に請ひ申 して, すぶる所遠く隔り, 往来に便よからざるを 以ちて, 分ちて多珂, 石城の二つの郡を置きき」 とて, 多珂, 石城の二郡の設置のことを述べてい る. 久慈の郡については 「淡海の大津の大朝に天の下知らしめしし天皇 (天智天皇) の世に, 使を して藤原の内大臣の封戸を検しめき, 軽直里麻呂, 堤を造りて池を成しき」 とありて, 築堤して池 をつくることを述べているが, 如何に土木技術の進歩があったかを示 している。 日本書紀によれば, 大化元年八月に, 東国の国司を召 して, 戸籍を作り, 田畝を検校し, 園池水 陸の利は, 民とこれを共にするようにと命じた. 東国は以前から皇室の勢力地盤であって, 屯田兵 を養う屯倉や, 舎人部を貢献する国造が置かれていたので, 大化の新政はまず東国と大和から手を つけた. 大化二年三月にも特別に東 国国司に民治の要諦を説ききかせ, 或は東国朝集使に国司の治 政を問わしめている. 地方区劃を改正 し, 国郡里に分け, 大郡, 中郡, 小郡にした. また駅馬, 伝 馬の制を設けた. 信大の条に 「榎の浦の津には, すなはち駅家 (ウマヤ) を置く, 東海の大道, 常 陸路 の 頭 な り. こ の ゆ え に 伝 駅 使 等 (ノ・ュ マ ヅカ ヒ ラ) 初め て 国 に 臨 ま む と し て は, ま づ ロ と 手 と. を洗ひ, 東に面きて香島の大神を拝み, 然して後に入ることを得るなり」 常陸風土記が和銅以後間 もなく成 立したものとすれば, 大化改新の令の発布後, 恐らく天武朝 (日本書紀による) に, かな り多くの駅家が設置されたことを語っているから, その頃には出来たのではあるまいか, (註, 坂 本太郎氏の上代駅制の研究には, この駅家のことについては誌されていない) 駅家の設置は, 少く とも官庁の交通連絡の便をたかめたに相違ない. 新郡が設置され, 郡家が設けられ各官吏が常駐す ることになって, 多くの民は安住するようになったに相違ない, 北海道の例をみても, 農民は, 出 来るだけ文化に浴し, 文化に接する機会を願う通性があ り, それを慕う風があるからである, # 播 磨 国 の開拓 1 , 国家権力の支配の浸透せざりし頃の国占めの伝承 播磨風土記をみると, 土地を占有する話が多く 記されている. それを 「国占め」 と記 している. 自然条件の恵まれている土地, つまり開拓に抗抵の少いところをさが し求めて占有するのを国見と 1 4 ) 国家権力が播磨の国に充分に浸透しなかった頃には 諸国から盛んに あらゆる も称している. , , 氏族が移住してきて, 適宜に自然条件のよい土地を, 競争して占有した当時の様子が伝承されてい る.. ,. 播磨風土記をみ 、ただけでは, こ にもとどのような民族が住んでいたかはわからないが, 考古学 的には, 縄紋土器文化や弥生式文化を残 した人々が住んでいたことはた しかである, 他の地方の例 から考えて, この国の北の山間には, 土グモ, 国栖, 佐伯などと称する生蕃が居住していたことは 推測して間違いないであろうが, しかし常陸風土記や肥前風土記には, これらの種族に関する記事 が み え る の に, こ こ に は 全 く み ら れ な い の は ど し て で あ る か. し かも 開 拓 当 時 の 伝 承 が 多 い の は 何 - 143 -.
(8) . 上代における開拓とその特質. 故であろうか. 土地を競争して占有する話でみちているし, 神同士が土地を取り合う話でみちてい る. 宍禾 (シサワ) の郡は 「伊和の大神, 国作り堅め了へて後, この川の谷の尾を堺ひて巡り行で 1 5 ) とあり, 印南郡の伊和部は, 宍禾の郡 ましし時に, 大鹿, 己が 舌を出 して, 矢田の村に遇ひき」 の伊和君等が族, 到来りて此に居りき. 故に伊和部となずく, と. 揖保郡の香山の里も「伊和大神, 国を占め給ひし時, 鹿来たりて山の峰にたちき」 と, 同郡林田の里も 「伊和の大神, 国を占め給ひ し時, 御志を此処に植てき」 と. 伊勢野は, 伊和の大神の子, 伊勢都比古, 伊勢都比売を敬き祭っ . Hは, 伊和大神の子石龍比古, 妹石龍比売の川の水を争ったとき, 妹 たとあり, 出水の里の美奈志i ら 神の力で水流たえることなか しめたるにより, みなし川という, と. 宍禾の郡名は伊和大神の国 造り了えたろ時の縁によるものとし, 阿和賀山は, 伊和大神の妹, 阿和加比売の命が, この山に在 した る に よ る も の と し, 伊 和 の 村 は, 伊 和 大 神, 酒 を こ の 村 で 醸 し た る に よ る と し, 神 前 郡 は 伊 和. 大神の子, 建石敷命, 山便の村の神前山にあるによりて名とすとあり, 綬 (ヌカ) の岡は, 伊和大 神と天の日槍の各々軍をして戦った, その時に大神の軍集って稲を春ついたので, その綬あっまっ て 丘となったといい, 麦布山 (ラフ山) は 「昔, 宗形の大神, 奥津嶋比売の命, 伊和の大神の子を は ら み て, こ の 山 に き た り て, 我 が 産 む べ き 時 は 詑 ふ, と 云 ひ き, 故, 麦 布 山 と い ふ」 と あ り, 伊. 和大神と宗形の大神オキッシマヒメの婚姻のあったことをつたえている. 伊和の大神が如何なる神 であるかは不明であるが, 先住民の神であることは推測される. 神島に石神があり, この神, 顔に 五色の玉あり, 叉, 胸に流るる涙あり, これも五色であると記しているが, 伊和の大神の子は石龍 比古, 石龍比売 で (註, 石立彦, 石立姫なるべし) あって, すべて岩に関係ある名 であるから, こ の石神を主神或は トーテムとする種族であろうか. とにかく伊和大神の子孫がこの地に広く住み農 業を営んでいたと思われる. 伊和大神一族の間の水争いの話なども, それを物語っている. 伊勢野 では, 住民が安住する ことが出来なかったが, 漢人刀良等が祖の衣縫猪手は, こ に 住 ん と し て, 社を山本にたて, 「山の琴にます神, 伊和の大神の子, 伊勢都比古の命, 伊勢都比売の命を敬き祭 りき, 此より後, 家々静安にして, 遂に里を成すを得たり」 とあるのは, 伊和の神を祭る一族が先 住民であったが, 後に各地よりこの地に移民し来るものがあり, 漢人 (帰化人) も多く移住し来っ た こ と を 語 るも の で あ ろ う.. 帰化人が多く移住し来った話は, 天日槍の一族の移 住の話にもみ られる. 先住民の話は 「葦原の しこをの命」 と天日槍との交渉の話としても伝えられている. 粒の丘は, 天の日槍が葦原のしこを に, 宿すべき所を借りたろことから起るものとし, 宇波良の村は, 葦原のしこをが国占めした時に 「こ の 地 は 小 狭 く し て 室 戸 の 如 し」 と い っ て, 表 戸 (ウ ワ ド) と い う, と. ま た伊 奈 加 川 は 葦 原 の し こ を と天 日 槍 の 国 占 め の 争 の と き, い な な く 馬 が あ っ た に よ る の で あ る と し, 御 方 の 里 は, 葦 原. のしこをと天日槍 と国占め争いし, 大神の形見としての御杖をこの村にたてたるによって御形 (ミ カ タ) と い う, と,. 高野の里の祝田の社にます神, 玉帯志比古, 大稲女, 天帯志比売, 豊稲女と志深の里の三坂に坐 す神, 八戸桂かす御諸の命とは, 大物主葦原のしこをの命が国堅めし後に, 「天より三坂の琴に下 り給ひき」 とあるが, 大和朝廷の祖, 天孫系種族が日向の高千穂に降ったように, この播磨の国の 三坂の琴に降ったという. 大物主葦原のしこをは, それ以前に, この地に降ったものとしている, 葦原のしこをというのは, 個人的姓名ではないと思われる, 弥生式文化をも った農業民としては, * ÷原のしこをは先住民であったようである. ま た天 日 矛 と 大 汝 命 (オ ホ ナ ム チ 命) と の 国 の と り あ い の 話 が, 二 ・ 三 ヵ 所 に 出 て い る が, 天 日. 矛は但馬国を中心にして北にいた漢人種の子孫 (但馬人種) と出雲人種の争った話であるという解 釈もみられるが, 折□信夫氏は, 「此を歴史家は合理的に, 漢人種 (但馬人種) と出雲人種とが争 44- -1.
(9) . 石. 沢. 徹. つ た 話 だ とい ふ が, そ う は簡 単に 行 か な い. こ ん な 話 は ざ ら に あ る の だ か ら, 必 しも そ う し た 歴 史. をつたえていると限らぬ. 先住民と移住民とが土地を取りあった当時の印象を, その頃有力な出雲 人, 但馬人の祖先の神にあてはめ たまでである. こう した土地の取り合いの話が多いのは, この国 6 ) が植民で成り立っていることを示すので, 村の引っ越して来た初めを語る物語が多いのである」1 恐らく大和朝廷の政治的支配関係の及ばない時代に, 各地から大和に入った種族と同じような種族 が入って土地を開拓し, 農業を営み, 大和朝廷の景行朝の頃には, この部落国家では, 印南の別嬢 が座女的女酉であったか, 部落の王の如き地位にあったものであろう. そ こで景行 天 皇 の 「妻 訪 ひ」 となったものであろう. 大和朝廷の勢力の及ばなかった頃には, 地理的位置の関係からも, 諸 方の国との交通の要衝にもあたるところから各地方から移住者が勝手に, 自由に入りこんできて, 国 占 め を し た, 先 に き たも の と 後 か ら き たも の と の 争 も 多 か っ た. 戦 争 にも な っ た ら しい.. 俳磨郡安師里 (アナシノ里) には, 大和国磯城郡から, 穴師の神が, 穴師の里の民と共に移住し てきたのであり, 同郡因達 (イ ダテ) の里は, 因達兵主神なる河童の神をいただいている諸国の伊 達の根拠地である. 揖保郡日下部里は, 出雲の墓屋の由来を説いているので, 出雲人がこの地にき た話であろう し, 賀毛郡山田里猪飼野は, 日向の肥人, 朝戸君, 即ち, 筑紫の南の方の人が出てき た処である. 鴨波の里 (アハハノ里) は, 阿波の国より, 美濃の里は, 讃伎国弥濃の郡より, 緋磨 の御宅は隠岐, 出雲, 伯善, 因幡, 但馬国より, 飯盛山は讃伎国より, 越部の 里は但馬国より, 日 下部 里は出雲国より, 麻打の里は但馬国, 佐の岡は筑紫の田部, 石海の里は石見国より, 柏原の里 は出雲, 弥加都岐の原は, 伯善の人, 因幡の人, 花波山は近江の国, 山田の里は日向の肥人, 雨保 都比売は紀伊の国より移住してきたものである. また帰化人で, この地に来り村をなしたものも多い. 漢部の里(讃芸の国の漢人) 手苅村(韓人) 韓室の里 (韓室首宝らの上祖) 巨智の里(百済よりの帰化人) 新良訓(シラク二) の村は新羅の人, 漢部の里 (漢人) 伊勢野 (漢人刀良等の祖) 枚方の里 (河内の枚方の漢人) 大田の 里 (呉勝, 韓国 人) 少宅の里漢部 (漢人) 綬の岡 (百済人) 等である. 2 , 景行朝以後の播磨国の経営 播磨国風土記総説によると, 景行天皇は, 印南の別嬢を妻問い したとき, 賀毛の郡の山直らの始 祖, 息長の命一名, 伊志治を媒として妻問いしたとある. 息長の命伊志治については, 氏は息長, 1 7 ) 播磨国賀毛郡の山直の始祖となった近江国の出たる息長氏のことであろ 名は伊志治と解される. う。 山直息長氏は, 播磨の国が大和朝廷の支配下にたつようになってから, 朝廷の直属の部なる山 部を管掌していたものであろ う.息長氏は記紀によれば「開化天皇の皇子日子 坐王が野洲郡なる御上 神の御女の息長水依比売にみあひまして丹波比古多多須美知能宇斯王を 生まれた. この美知能宇斯 王の女のラ K羽州比売が垂仁天皇の皇后となって生みたまうたのが景行天皇であっ た. この景行天皇 の若建吉津備日子の女の針間之伊那職能大郎女に生ましめられたのが倭建命で, この倭建命の一妻 1 8 ) 西田長男氏の推測によれば, その祖の天日槍は近江 に生ましめられたのが息長田別王であった」 国吾名邑に住んでいたから, 新しい採鉱冶金の方法を彼の国より伝えて, 吾名邑にいたので, かか る新技術を, 学んだその地方の一団の人々を 「息長氏」 と称した. 息長氏は鍛冶族である。 そこで 「採鉱冶金の業は山部の一つの職業でもあったらしく, 近江国の息長氏が特に播磨国の山部の伴造 として, 山直に補せられたのは, 息長氏の斯かる専門を認められてのことであった。 尚ほいえば近 1 9 ) 江の息長氏は, 既に山部であったからであるとも思われる」 印南別嬢については, 景行記には, 「吉備臣等之祖, 若建吉備津日子之女, 名針間之伊那職能大 郎女」 とのべ, 天皇との間に櫛角別王, 大碓命, 小碓命, 倭根子命, 神櫛王の五柱を生んだとあり 雀皇子, 小碓尊 (日本武尊) を生んだとある。 風土記に 景行紀では, 出目を記さず, 皇后として大石 - 145一.
(10) . 上代における開拓とその特質. は丸部臣の始祖の比古汝 弟 と吉備比売との間に生まれたのが伊那靴大郎女 (印南別嬢) とある. 天 皇は印南別の姉妹を皇后並びに妃としたものであろう. 景行天皇との間に, 日本武尊が生れたこと は諸説一致している. 印南別嬢が吉備氏の出自らしく考えられるが, 四道将軍の吉備津彦との関係 は, 時代的な関係から考えられない. そこで西田長男氏は, 「恐らくは景行天皇の吉備国征服の物 語というものがあって, この御事業に関係づけられて物語られていた人物で吉備之兄日子王であ っ たのではあるまいか. 既記の天皇と吉備氏の出たる印南別嬢とのっまどひの説話の如きは, こうし た吉備国征服の物語の断片であるようにも思われる. そうしてこれはやがて印南別嬢の腹に生まれ られた日本武尊 の御事業としてのみ語られるに至り, 吉備兄彦皇子のことは忘れられてしまったの 0 ) との べて い る 吉備 津彦 で はなく 吉備 兄彦 皇子 だろ うと いう の で あ る この 説 で あ る ま い か」2 . , .. 話は, 景行天皇の九州地方に至るまでの妻間婚の一つであり, また播磨国の征服, 山直息長氏をし て管理せしめたことを語っている. それでは山直息長氏によりて, 「山部の部民として新たに編 貫 せられたのは, こう した無主地を開発したもの乃至は開発すべきものであったろう. 更にいうなら ば, かかる無主地を開発 して生計を営んでいる人. 々を新たに山都として編貫し, その帰属を明かに せられたので あるかも知れない. ……山部には主として無主地たる山川林 野にその先取特権が認め 2 1 ) ていたらしい 「山部は他の部民と同様に農民であ られるが, 既得権には及ばないことを伝え」 . ったろぅが, 特に山部とよばれたのは山林に住む人民を包含していたからであろう」 と云う説に賛 2 」山部を山窟や山人と同 で あ る と 考 え て い る。 し か し 成 してよいのではないか. 折口信夫氏は,2 2 3 ) という意味では 播磨国 その説には賛成 しがたい. 「山の神に仕える神人が いてそれが山人だ」 , に古くより石神をま つる先住民がいて, それを山人というのであれば理解出来ることである. 景行天皇のときに, 播磨国が大和朝廷に服属せられたと考えられるのは, 風土記の中には, 四道 将軍吉備津彦の 征服に関する伝承がみられないことからも云えると思う. 景行天皇は, この 征服に て, 其の住民を山部として編貫せ しめたのみでなく, 益気の里には, 御宅 (屯倉) を設置したとい う. この御宅は印南郡である. 印南嬢は, 比古汝弟, 吉備比売の娘というのが, より正しい伝承の ように思われる. 成務天皇の世に, 丸部臣等始祖,比古汝弟をして,国の堺を定めしめたとあるが比 古汝 弟は, 印南別嬢の父であるという. 国郡の堺を定め,国造,県主を定めたことの伝えであろう . 神功皇后の九州征討の際に因んだ伝承の多いのは, 因達の里人も この 征討に従軍したからでも , あろうか. 言挙の卓, 伊都村, 浦上里, 萩原の 里, 中川の 里等がそれに関係したように語られてい る. なお萩原の里の開拓は, 神功皇后時代に, 原野に池を掘って 針間井と したとあるが 一般に , , は天然自然の池を利用したのであろうが, こ では萩の生えた低地に池 (貯水池) を掘り その周 , り を 開 拓 し た も の の よ う で あ る.. 応神朝には, 応神天皇が親しく巡行されたと伝え, 麻跡の里・質野の 里・幣の丘・大立の 丘の地 名は, その時の縁によって名づけられたものであり, 小川 の里については舎人上野の国の麻奈靴古 をしてみせ しめた地であるとつたえている. 景行朝には諸国より 舎人・釆女を貢せしめたというか ら考えられないことで はない. 英馬野・多志野には屯倉をつくって開田せしめたという 「その野 . は宅を造り, また田を墾る べし」 と. 会野・手沼川・伊刀嶋・家内谷・宗我富は, 天皇巡行のとき に,そ の 岡 に 井 を ひ らい た ろ に よ るも の で あ り,松 尾 の 卓 ・ 大 内 ・初 く山 ・ 大 見 ・ 大 法 山 ・ 倉 見 ・ 堕 岡. ・生野・勢賀・多舵の里の地名はやはり天皇巡 行の際の縁によってっけられた名であり, 梗の岡に は百済人が城をつくっておったし, 鈴 堀山・伊夜の丘・鴨の里・伎須美野は, 大伴連らが此の地を 請うたので, 国造黒田別を召して地の状を問うたときの縁によって付せられた地名であるとつたえ る. 臭江という地名は, 百八十の村君が闘っていたので, この村にあっめて 斬り殺した縁によると い う. - 146 -.
(11) . 石. 沢. 徹. 仁徳の世に関係のある伝承と しては, 瓶落の里は 私部弓取等の遠祖他田熊千に緑があり 従っ , , て 御 名 代 な る べ し とい う 説 も あ る が, 字 の ま の意味では 后のためにつくられた私部があったこ , とになる. 「私の 里」 があり, 私部弓束等の祖田叉利君鼻留 が居たという 私部を設け帰化人を住 . せ しめたのであろう. また餅磨の御宅は, この天皇の世に 隠伎・出雲・伯菅・因幡・但馬の五国 , 造らが, 天皇に罪あ りて, この地に田をつくら しめられ, 各々意伎田・出雲田。伯替田・因幡田。 但馬田といって, その収稲を屯倉に収めしめたという. 栗栖は天皇の勅によって 若倭部連池子に , 栗の実をやって植えしめたによろし, 佐比の岡は 筑紫の田部を召して 開墾せしめた地であり , , , 弥加都岐の原には, 伯替・因幡の人が住んでい たが 橋著であったので 狭井連佐夜を して 禁め , , , たろところが, その一族の中に, 服部弥蘇連の娘がいたので, 「こは執政大臣の女なり」 というの で帰したという. 大和朝廷の権力者が妻問い して, 娘を生ま しめたろものであろう 山田の里の猪 。 養野は, この天皇の世に, 日向の肥人, 朝戸君が猪を放ち飼いしたと云うが 今日のいう豚を飼っ , たも の で あ ろ う か.. 雄略朝には, 尾治連等の上祖, 長日子なるものがあり, 善い蝉と馬を殉死せ しめたとつたえる . 安閑朝には, 越部の里には, 皇子代 (ミコシロ) と号する地があり, 寵人但馬君小津が 皇子代 , 君の姓を賜り, 屯倉をこの村につくって住んだので, 子代の村という . 欽明朝には, 大野の里に村上足嶋の上祖恵多が住んだし 小川の 里には私部弓束等の祖田叉利君 , 鼻留が居り, 任那よりの帰化人であるが, 私部である. 推古朝には, 大倭千代勝部らを して開墾せしめたのが, 勝部の岡であるという 。 孝徳朝には, 石海という地は, 阿曇連太牟をして, 石海人夫を召して開墾せ しめたものであり , 比治の里という地は, 揖保の郡を分けて, 宍禾郡をつくったときに山部比治が里長 とされた縁によ ると い う.. 天智朝には, 船引山の地は, 道守臣がこの国の宰となり, 官船をこの山で造って引き下 したとつ たえ る.. 上に述 べてきたことから知られるように, 景行朝の妻間ひに始まり 山部が設置されて 人民は , , 山部に編貫され, 山直息長氏が伴造として管掌 した. その後 朝廷直轄地たる屯倉が各地に開かれ , 田部をして耕作せしめた様子がみられる. さらには御名代部や皇子のための御子代部や皇后・后妃 のための私部が設置されて, 部民をして耕作せ しめられたことが知られる 当時の未開地の開拓が . かかる方式で広く開かれていったことを知るのである . m 奈良時代の開拓と東国の経営 1 . 奈良時代の政治的課題 奈良時代の政治的課題は, 律令制度の完備ということと, 仏教文化の充実 また辺境地帯の北方 , 民族のせん動 による蝦夷のしゆん動に対する対策及び開発ということにあった 律令制度の完備と 。 しては, 大宝元年八月には, 大宝律令・律六巻・令十一巻の完成をみた し, 続日本紀の大宝元年正 月元日の条には 「文物之儀, 於是始備尖」 と評 したほ どであるが, しかし慶雲三年には すでにあ , る程度の改革が必要ときれ, 同四年には慢性的キキソなどから改革を愈々必要と していたが 仏教 , 文化の完成と辺境地対策を中心にして, 政治的意見の衝突があり 文武天皇崩ぜられて廟堂には愈 , 々不安の空気がみられた. 元明天皇の即位の詔にも 「亡命山沢 狭蔵軍器」 する者があり容易なら , ざる不 隠の空気があったようである. 和銅四年九月の詔をみても 「今宮垣未 だ成らず 防守備充分 , な らず」 と の べ てい る の を み ると な お 防備 充 分 で な い と 考 え て い た よ う で あ る そ こ で 藤 原 不 比 , 。. 等が中心となり, 養老律令によって方式の不備をくゞって姦動するを防圧せんと した 不比等が死 。 -147-.
(12) . 上代における開拓とその特質. んでからは, 長屋王が指導権を握っていた. 彼は不比等の方針を大体は襲うたのであるが, 仏教を 軽蔑し, むしろ道教をもって指導精神と していたようである. 薬師寺の僧景戒の著わすところの日 本霊異記によると, 王が日ごろ仏教を軽蔑し, 晴れの場所で, 僧を殴るようなことまでしたから, 罰があたったのであると説明している. 事実, 長屋王が 左大臣として権力をふるった教年間には, いくつかの仏教統制の政策が行われているの であって, 僧尼の間には悪王の名をはせていたの であ る. 長屋王が謹告を うけて自殺せねを ならなくなったのは, 彼の左道に走ったためであるという罪 名によるの である. 当時, 儒教の経書に対して, 緯書と して天人感応説が流行していた. その学派 は, 緯説家といい, 天が奇瑞を現わして将来を予言するという事を説くものである. 奈良時代に行 われた緯書で, 続日本紀にみえるものは, 孝経勾命決・孝経授神契・熊氏瑞応図・王氏符瑞図な ど がある. 経国集第二十巻には, 養老年中, 葛井広成が儒教と老荘学との優劣に就いての策問に応じ た対策が二種のせられているが, 当時問題にされていたことが知られる. このとき広成は 「玄以ニ リニ尊卑之序-, 致し身尽し命」 独善-為 宗, 無ニ愛敬之心-, 棄し父 背し君, 儒以ニ兼済-, 為し本, 男 と論じ, 老荘をすて 儒をとるべきことを説いているのであって, これが当時の世論であった. 山 上憶良が神亀五年に, その頃の流行の道教思想に反対して, 三綱五常を力説し, それに惑わされろ を戒めた和歌が万葉集にのっている. また天平元年四月には諸官人以下天下百姓に, 異端を学 び妖 術をなし, 叉, 厭魅呪阻をして人を害した時, 首は斬, 従は流に処す べき旨を勅せられている. 神護景雲三年五月県犬養姉女等が, 座轟に坐して流された時の詔には, 天皇の大御髪を盗み, 汚き 佐保川の ドクロに入れて, 宮城に持参 し, 厭魅をやったことがみられる. 長屋王の場合は, 皇太子 が夫死 した時に, 長屋王が呪い殺したのだという晃罪によるのであるが, 彼が左道つまり道教に傾 いていたことが想像される。 当時, 唐では道教は唐皇帝の祖先の教として崇めていた時代であるか ら充分考えられることである. 唐代は道教を主としていたが,則夫武后のときに,仏教を大いに保護 し, 仏教をもって政治の方針とした. 我が国でも, この頃, 仏教主義が大きな勢力をなし, 官人・ 民衆の間に流行していた. 長屋王は仏教には反対ではないが, 消極的であったようだ. 藤原氏は仏 教主義, 仏教文化主義の立場をとり, 聖武天皇も熱心な仏教主義者であったので, 長屋王は菟罪を きせられて自尽せしめられた. 仏教, 即ち仏寺, 仏像, 写経の事業は, 推古朝以来, 国家の事業と して推進されてきたのであるが, 大化の改新以来は, 人口の増加もあり, この事業の遂行上の国家 的経済力が乏しく, 何らかの財政的基礎を見出さねばならなかった. 政府は造東大寺司のような令 外の官制を設けて営造せ しめることとし, 各省からの技術者をこれに臨時に所属せしめて, その工 を助け, 経済的には荘 園の経営をもって維持せしめることにした. 長屋王の事件は, 単に光明夫人 を皇后にせんとする目的から企てられたという単純な問題ではなかった. 仏教文化の完成を推進す るか否かというための政争であり, 長屋王は時世の仏教文化主義から反党グループと して犠牲にさ れたものであろう. 仏寺の荘園の経営は, 殆ん ど造東大寺司のような制度の下に行われた官営事業 であったこと, また仏教文化の完成は, 当代 民衆の多くのものの世論でもあった。 写経料や造寺, 造像にも, 民衆は多く協力しているのである. しかし仏教女化の完成ということは, 負担の多いこ とであり, 当時の政争の重要な課題であったことは, 橋奈良麻呂の謀反事件によっても知られる. 天平宝字元年七月, 奈良 麻呂が, 内相 (仲麻呂) を, 無道であると批判しているのは, 東大寺のこ とで人民はひ どく苦しんでいるし, 貴族たちもまたこの状態を大変重大だと思って心配していると 云っている. 東大寺造営ということが如何に大きな重荷であったかが知られる. 4 2 2 . 東 大寺 の荘 園開拓 ). 東大寺による北陸地方の開拓は, 天平勝宝元年に諸大寺とともに, 墾田百町の勅施入があってか ホ麻呂 ら活発となるが, 最も多くの資料を残している桑原庄は,東大寺が天平勝宝七年三月に,大伴弓 -148-.
(13) . 石. 沢. 撒. から買得した九十九町余の土地を元にして始められたものである。 この地の開拓の斡旋には, 越前 国足羽郡大領の 生江臣東人が関係している。 彼はかつて造東大寺司の 史生であった。 準官営的事業 と して, 国家の保護をうけて, 桑原庄の荘園開拓と経営が始められた。 詳細については, 先学の多 くの研究があるので省略するが, この造営にあたっては, 様工 (設計工) や連作工 (造作工) 等の ような, 造東大寺司所属の専門の技術者が動員されていることである。 東大寺の仏寺 o 仏像の造営 には, 各省からの高度の技術者が, 造東大寺司の臨時の所 属とされて建設に当ったよ うに, こ で 5 2 ) つまり上代の田部に代って, 土地開拓の技術者, も専門の技術者がこのために派遣されている。 工人が動員されているのである. さらに注目す べきは, 荘園には倉屋 (荘舎) をたて 荘内の頴稲 を蔵むると共に釜, 鉾, 鎌, 鍬, 鎚, 藷, 手鱗, 鉛(カナガキ) , 折草, 篭, 明権, 折檀, 水乎気, 田箇, 木佐良, 糟, 字須, 箕, 蓑(ミ カ) , 縮(ホトギ) , 田杯 (タッキ) 等を備えている. 唐代の荘 園では, 貴族 o 官僚,商人・寺観が, 張磁 (ウス) を備えて過 重なる賃貸料をとって, もうけてい 一つにはそのような目的もあったであろ たというが, 東大寺庄園に これらの農具を備え .たのには, う。. さらにもう一つ重要なことは, 桑原庄の開拓計画が, 天平勝宝六年二月七日, 五月十四日に提出 され, 七年 四月 五 日に も 提 出 さ れ た の で あ る が, 国 司 よ り却 下 さ れ て い る. そ の 理 由 と し て は, 田. 使曽弥乙麻呂一人の専当であるから不可であるとし, その後, 天平勝宝八年二月, 天平宝字元年二 月の両度の勘定があったときにも, 共に乙麻呂一人のみの署名であるからと云う理由で却下されて いる. この後, 乙麻呂の田使はやめさせられ, 尾張連古方呂が代り, 天平宝字元年 十一月十二日付 の越前国使等解では, 桑原庄の堀をつくり, 溝を開き, 樋を度すことの計画を提出している。 「以 前, 錐本至溝在, 溝下田高, 以披荒, 先開悉, 然不買伯姓, 上仲開堀溝者, 見開可吉田, 残野可開 一二箇年, 於理商量, 小損多益, 望請寺家牒, 申送国府, 若有不許熟田者, 以寺 家田相替於熟田, 傷具注状, 附粟田人麻呂請処分, 以解」 とのべ, すでに溝はあるが, 溝の新造と して, 延長今尺 で の四十一町三十九間, 修理溝として, 今尺で三百六十間, その全体の応損百姓田は一町八段, 新造 溝の人功 (雇夫) 延千四百三十人であり, 開溝完成の 上は, 荒田り未開地五十九町余を, 一・二年 間に開田すべき計画になっている. その後, 却下された様子がないので, これはみとめられたので あろう. 先の計画書 では, 乙麻呂一人の計画であるからというのみでなく, 溝を新造したり, 旧溝 を修理したり, 樋をわたすような計画が全然なかったから却下されたものであろう. 開溝計画のな い開拓計画は, 最初からみとめらるべき筈のものではないからである。 この点について, 従来の研 究者が注意していないのは問題である. 造寺・造像・写経という仏教文化の完成ということが国家的大事業 であったことを思うと共に, それを実際に担当したものが, 造00寺司という官司であり, またそれを負担した技術者は, 各専 門の技術者の工人階級であった。 職掌的部民ではなく, 工人階級 であったことから, この時代は官 司制の時代であり, 工人女化の時代 であるといってよい. 工人の活動は, 早く仏教の輸入 と共に始 っ て い る が, こ に部民制に代って, 工人が中央各省に採用 されて, 国の大事業に参加しているの である. 土地開拓には, 様工o連作工のような工人階級の技術者が動員きれているの である. 2 6 3 . 東 国 蝦 夷 地 の 経営 ). 当時, 北海道の蝦夷は, 北方よりの異民族の侵入に対して, それとの戦に災され ていた. 北海道. 7 ) の 日本 海 岸 の 中 部 か ら オ ホ ← ツク 海 岸 の 各 地 に 侵 入 し て 住 居 し た アイ ヌ の ュ ー カ ラ (英 雄 詞 曲)2. の 中 に 出 てく る レプ ンク ル(渡 来 の 異 民 族), オ ホ ー ツ ク 式 土 器 文 化 を 遺 し て い る 異 民 族, こ の 中 に. はサンタ (山丹人) と称するものもあり, 「牛の尻尾」 みたいな髪の毛を背後にたらしている連中 もいるとあるから, 明らかに弁髪した大陸方面からの渡来民族である。 この大陸渡来の民族との戦 一 149-.
(14) . 上代における開拓とその特質. が, 千三百年前から八百年ぐらいまでの約五百年間みられる。 渡来異民族との戦がュ←カラにうた われているのである。 北海道のみでなく, さらに南下してわが東国の各地にまでも侵冠してきたと 思 わオ観 粛 慎 人 の 侵 冠 と し て つ た え る と こ ろ で あ る. こ れ ら の 大 陸人 の 圧 迫 に よ り, アイ ヌ も 南 下. し, わが辺境に侵題するものも多くなったようである. 阿倍比羅夫の遠征も, この北方異民族 (粛 慎) の征討にあったのであり, 日本としては, 国家的危機にあったというべきである. 粛慎が蝦夷 に侵魅したので, 蝦夷からの要請もあって, 津軽・能代までも征夷の軍がすすめられたものであろ う・. 蝦夷地の 征夷と開拓については, 政府は色々の方策をもってす. めた. まず行政的・軍事的には 権郡または設郡 し, 或は建国し, 城柵を各地に設置し, 鎮兵を置き守備にあたらしめた. 斉明天皇 の四年, 阿倍比羅夫は, 水軍をもって粛慎にせんどうされて反抗する蝦夷をうち, 淳代・津軽の 二 郡の権郡をおいた. 日本海方面では, 和銅元月九月に, 越後国の申請によって, 出羽郡を設置した が, 同五年九月には太政官布告によって, 北道蝦夷の狂暴を治 めるために, 出羽国を設置した. 陸 奥方面では, 和銅六年十二月に陸奥国に新に丹取郡 (名取郡の ことか) を設置した. 城柵の設 置と しては, 大化三・四年に, 停足・磐舟の両柵を設けたろに始まり, 文武二年十二月には越後国をし て石船の柵を修理せ しめ, 同四年二月にも越後・佐渡二国をして, 石船柵を修営せしめている. 和 銅七年十月には, 尾張・上野・信濃・越後等の国の民二百戸を強制的に割当て 出羽の柵戸として 配置せ しめ, 養老五年六月には詔を下して, 陸奥の辺境の民が戎役に疲労し, 父子死亡し, 家離散 するものあるに至ったので, 調庸を免じて保護を加えた. また同フ 年四月には, 陸奥管内の百姓の 庸調を免じ, 農桑を勧めるのみでなく, 射騎を教習せしめ, 或は陸奥出身の兵衛・衛士・位子帳内 資人並に防閤仕丁・釆女仕女に至るまで, 皆国にかえらしめ, 一方, 全国より陸奥の鎮所に兵糧を 送らしめた. 養老六年八月には, 諸国の国司をして, 柵戸一千人を簡点して, 陸奥の鎮所に配せし めた. 神亀元年二月には, 陸奥鎮所の軍兵の家族を, この地に移す ことをゆるし, 家族と農業を共 にするのをみとめた. 天平九年二月には遣陸奥持節大使藤原朝臣麻呂らは, 陸奥の多賀柵に至り, 常陸・上総・下総・武蔵・上野・下野等六国の騎兵一千人をもって, 山海両道を開き, 蝦夷を鎮撫 し, 多賀・玉造・新田・牡鹿・色麻の五柵を鎮せしめた. 天平宝字二年十月には, 浮浪人をして, 桃生城を造ら しめ, 浮宕の徒一千人を徴して柵戸 と した. 出羽の雄勝城も, この頃に築城されたら しい. また天平宝字三年九月には 「始めて出羽国雄勝・平鹿二郡に, 玉野・避翼・平文・横河・雄 勝・助河並に陸奥国に嶺基等の駅家を 置く」 とあるをみれば駅家が設置されたもの よ う で あ る. 同 時 に相 模 ・ 上 総 o 下 総・常陸・上野・武蔵・下野等七国の送るところの軍士の器伏を雄勝・桃生. の二城に貯えしめた. 神護景雲元年冬十月には, 陸奥国の伊治城が三旬をへず して築城された. か くの如く, 政府の築城の努力にも拘らず, わが北辺は安か らず, 宝亀七年二月には, 陸奥国の上申 では, 軍士二 万人をもって, 山海二道の賊を伐たねばならなかった. その年の五月には, 出羽国志 波村の賊叛逆 し, これと戦った官軍利あらずと記されている. また宝亀十一年三月には, 陸奥国上 治郡大領伊治公砦麻呂が反して紀ノ広純の 征夷が必要となった. わが辺境守備の政策をみるに, 唐 代の藩鎮の制に倣うも の 多いのに注目される。 各地に唐の藩鎮に当る鎮所を置き, 鎮兵をおいて 守らしめ, その家族をも招いて農業を営ましめ, また各藩鎮の上に, 唐代の節度使にならって, 遣 持節大使を任じ総轄せしめている. 長屋王による養老六年四月の陸奥の肥沃の地百万町歩の開墾計 画は十日の役をも って強制的 に国郡司をして, 公営田を開かしめんとする計画であるが これも 唐 , 代 の公 営 田 に 摸 す る も の が あ る.. 政府は帰服の蝦夷に対しては, これを優遇し, 首長には氏姓を賜り 郡司に任じ 経済的にも優 , , 遇した. 彼らは伴囚とか夷浮とよばれたが, 公民の課役は免ぜられた 宝亀七年十一月 出羽国の . , 50- -1.
(15) . 石. 沢. 徹. 伴囚三百五十人を太宰管内及び讃伎国にうつ し, また七十八人を国司及び参議以上の醸と した こ . のように内地に移して同化せ しめる方法をとった. 開拓移植民の政策としては, 移民には三年, 五年の復を与え, 自らす んで移徒を願うも のには 法外の優復を給って保護した. 天平宝字二年十一月 浮浪人一千人を徴発 して 桃生城の柵戸とし , , 天平宝字三年九月 には, 坂東八国並に越前・能 登・越後等の四国の浮浪人二千人をもって 雄勝の , 柵戸としている. 天平宝字六年十二月 には乞索児 (ホカイ ビト) -百人を陸奥国に配した 神護景 . 雲三年六月, 浮浪人二千五百人を陸奥の伊治村において柵戸と している 彼等を鎮所の柵戸に配 し . て農耕のみならず軍事をも教習せしめた. 天平宝字四年三月には 「没官の奴二百冊三人 蝉二百 , , 七十七人を, 雄勝柵に配 し, 並に良人に従う」 とあるが, 没官の奴娘に恩典を加えて良人に解放し 雄勝柵に配した. また死罪を赦されたろ配流者を移植せ しめた. このように政府は, 浮浪人や奴蝉 や罪人のみではなく, 和銅七年十月 には良民を, 尾張・上野・信濃・越後等の国の民二百戸を強制 的に割当て 出羽の柵戸として配置した。 また霊亀元年五月 には, 「相模・上総・常陸・武蔵・下 野の六国の富民千戸を移して, 陸奥に配す」 とあり, 富民を強制的に移民せ しめている. , 蝦夷地の 問題は, 如何に国家的危機であったかを知 ることができる. 産業の奨励としては, 農耕の指導のみでなく, 大宝元年三月には凡海宿弥麓鎌を陸奥に遣して, 金を 台は しめた. 和銅七年二月には, 出羽国の養蚕を指導せしめた. 養老六年四月の太政官奏では 陸奥管内の百姓の庸調を免じ, 農桑を勧課せ しめている. 蝦夷地の守備と開 拓ということが, 如何に国家的大 問題であったかを理解することが出来たと思 う. 註1 ) 旧事紀巻十, 国造本紀 2) 川上多助, 皇威の発展と氏姓制度, p .28 3) 津田左右吉, 日本古典の研究(上) p .304 4) , 10) 杉原荘介, 日本考古学講座四, p .4 5) ) 肥後和男, 古代史研究第二集・蝦夷, p ,9 .141 .156 ,p 6 ) 古事記上巻 7 ) 小野武夫, 日本農業起源論, p ) 6 5 , 11 , 8) .17 .7 .185 ,p ,p 1 2 ) ) 常陸風土記, 以下の引用文で註のないのは, 常陸風土記のそれぞれの条による. , 13 4 1 ) 住吉神社神代記事 1 5) 播磨風土記, 以下引用文で特に註のないのは, 播磨風土記による, 6) 1 2 , 23) 折ロ信夫, 日本文学史ノ ート1, p .181 .31 ,p 9) 1 7) ) ) ) , 20 , 21 , 22) 西田長男,日本古典の史的研究 p.297,p.326,p、314,p.336,p.379 , 18 ,1 .p .333 24 ) 東大寺領桑原庄関係資料は大日本古文書四による. 2 5) 竹内理三, 日本上代寺院経済史の研究, 26) この部分の資料は, 続日本紀のそれぞれの年次の条による. 27 ) 金田 一京助, ユーカラの研究.. -151-.
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