朱 子 礼 関 係
文 献 国 訳
﹃朱子語類﹄巻
I
八十五
は じ め に 本稿は﹁語類﹂巻八十四﹁礼□ ︵﹁朱子礼関係国訳−﹁朱子語類﹂巻八 十四﹂上局知大学学術研究報告・第二十七巻 同教育学部研究報告・第二部第三 十一号︶に続くものであって、﹁儀礼﹂十七巻を中心に問答した筆録の ﹁朱子語類﹂ 巻八十五 記録者一覧表山
根 三 ︵教育学部漢文学研究言芳
国訳である。最初に、総論︵十二節︶と士冠︵七節︶ ・士昏︵三節︶・郷飲 酒︵一節︶・聘礼︵一節︶・公食大夫礼︵一節︶・競礼︵二節︶・喪服経伝 ︵十八節︶・既夕︵一節︶・少牢飴食︵二節︶の九巻とに関する四十八節 である。次に参考として巻八十五の記録者の一覧表を附記しておく。(儀 ネL) ネL 二
ズ
登 載 節 数 果E 鯵間蜜
雲
既
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喪 服 経 伝競
礼
公
吏
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聘
礼
郷
飲
酒
士
昏
士
冠
総
論
8 63 2 1 3 2 硫黄 剛 7 61 3 4,P
768
?
5 1 1沈
偏
5 50 1 ,1 1 1 1箭
4 602 1 2 1詮
4 58 4 閔李 祖 2 64 2・輔
廣
2 58 1 1 文陳 蔚 1 69 1呂
癈
1 68 1溜
1 60 2 1娑
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1林
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1 公李 謹 165
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1堆
呉
1 69 1 信幸 用 1 64 1呉
振
1 ? 1無
鬘
48 2 1 18 2 1 1 1 3 7 12計
なお、本稿は、昭和五十二 年 度・五十三年度文部省科学研究費︵一般研究C︶による﹁朱子礼思想の総合的研究﹂の研究成果の一部である。七三
七四 高知大学学術研究報告 第二十八巻 人文科学 朱子語類巻八十五 計七版 破二 儀 破 總 論 倒 河間献王、得二古腔五十六篇一。想必有y可・観。但富時君臣間有・所y 不・暁。遂至い無y傅。故先儒謂、聖経不・亡二於秦火一浪二於漢儒一。其説 ‘ 亦好。﹃温公1 、景帝太子既亡。嗇時若立二献王‘埓‘嗣、則漢比破楽制 I ゛IJ I 一 d 一 一I 度必有‘可‘弩又致堂謂ヽ武帝若使三董仲舒抒相汲騒暴初史大き、 則反治必盛。ご某如’此差除、那良得来。廣⋮⋮⋮⋮⋮’1 4 k j L 一 I I I I Sr− 河間の献王、古祓五十六篇を得たり。想ふに`必ず観るべきもの有らん、 と。’但だ富時ヽ君臣の間暁らざる所有り・遂に傅ふること無きに至る。︲ ︱ 故に先儒謂へらく、聖経秦火に亡びずして漢儒に壊さる、と。−其の説も 亦好し。温公論ず、景帝の太子既に亡ぶ。富時若し献王を立て嗣と埓せ ば、則ち漢の澄楽制度必ず観るべきもの有らん、と。又、致堂謂へらく、 武帝若し董仲舒をして相と埓し、汲賠をして御史大夫烏らしめば、則ち 漢の治必ず盛ならん、と。某、常に謂へらく、若し此の如く差除せば、 かしこ ` 那良にか得来たらん、と。 河間の献王が、古礼五十六篇を入手した。その礼の中には、よく観察 して考えてみなければならないものが、きっとあったと想像される。た だ、その当時の君主も臣下も誰も皆、その礼に通暁する所がなかったか ら、遂にその礼を後の世に伝承することができなかったのである。だか ら、先代の儒者たちは、聖人の述べつくった経書は、秦の始皇帝の焚書 によって亡快したのではなくて、漢代の儒者たちによって壊滅されたも のだと、考えている。司馬光は論じている。景帝の太子はすでに死亡し ていた。当時もし、献王を嗣としていたならば、漢代の礼楽制度は、必 ず観ることのできる内容のものになったにちがいない、と。又、胡寅は 論じている。武帝がもし董仲舒を宰相となし、汲詰を御史大夫︵宰相の補 佐役︶としたならば、漢代の政治は、必ず隆盛となったであろう、と。 私も何時も、その当時、もしこのように官を授けることができたら、き っとそのようになったであろう、と考えている。 ︿大意▽ ﹁儀礼﹂と古礼との関係を述べ、経学史の立場から、先儒、温公や 胡寅の説を採り上げて、混儒が儀礼経を破壊したとする。 注 ○河間m-︱混の人、景帝︵B.C. 151-141︶の第三子。謐は献。﹁随 書﹂経籍志に﹁魯の海中より礼経を発見し河間献王が献上した﹂と。﹁漠 書﹂芸文志に﹁礼古経五十六巻﹂とある。これは、礼の古文経で、その中 ’・収十七篇は今文経︵=儀礼十七篇︶と同一、その外の三十九篇は亡快し た・○温公−司馬光︵A.D. 1019-1086︶、字は君実、凍水先生と称す。 ’︿ 礼関伍の書、﹁書儀﹂を著す。拙稿﹁司馮洸礼説考﹂ ︵泰三樹三郎博士叩レ 寿記念東洋学論集、T九七九、朋友書店刊︶及び﹁司馬光婚礼説考﹂︵池田一 犬 末利博士古稀記念東洋学論集、一九八〇一柳盛社刊︶など参照。○致堂−・ 胡寅︵1098-1156︶、字臆明仲、崇安の人、安国の弟の子、致堂先生と称す。 、 −。詮は文忠、胡安国︵1074^1138︶の養子で、武夷家学、楊時に従学。﹁論辨・ `詳説﹂・﹁読史管見﹂など著す。○武帝−漢の景帝の中子。名は徹、詮は 武。文・景帝の業を受け、太学を興し、儒術を尊び、五経博士を置いた。 ○董仲舒I紀元前二世紀頃の儒学者、河北省景県の人、春秋公羊学を修め、 景帝時代に博士となり、武帝に儒教を政府公認の思想と定めさせ、以後 国家統治の正統思想化への逆を開いた。武帝への対策は著名であり、官は 江都国︵武帝の兄の易王が封ぜられた国︶の相となり、後に大中大夫とな る。﹁春秋繁露﹂を著す。伝記は﹁史記﹂﹁儒林伝﹂や﹁漢書﹂﹁董仲舒伝﹂ の外、年表は清の人、蘇輿の﹁董子年表﹂がある。思想研究には、重沢俊 郎﹁周漢思想研究﹂の中の﹁蛮仲舒研究﹂︵一九四三刊、弘文堂︶と、日原 利国﹁春秋公羊伝の研究﹂ ︵一九七七、創文社刊︶などかある。○汲賠− 混の撲陽の人、字は長轜︵?∼?︵いしに︶。老荘の学を好み、游侠に富み、 気節を尊んだ。武帝の時、m用されて淮陽の太守となる。○御史大夫−御 史の長官。秦・漢時代の三公の一つ。前混末は、大司空と改められ宰相の 職となった。ここは、宰相の貳と見る。○差除−任命して仕事をさせる意。 閲 先王之腔、今存者無‘幾。︲漢初自有二文字‘。都無二人収拾‘。河間献 王既得二雅楽‘。又有こ腔書五十六篇‘。惜乎、不’見二於後世一。是富時 儒者、専門名家、自己経‘之外、都不・暇y講。況在・上、又無7興二確 楽‘之主上。故胡氏読道、使三河間献王場・君、董仲舒場い相、汲賭場二御 史一、則漢之破楽必興。這三箇差除、豊不二甚盛一。賀孫
先王の腔、今に存する者幾も無し。漢の初め自ら文字有り。都て人の 収拾するところ無し。河間の献王、既に雅楽を得たり。又、破書五十六 篇を有せり。惜ひかな、後世に見へざること。是れ富時の儒者は、専 門0 名家、一経よりの外、都て講ずるに暇あらず。況んや、上に在りて も、又、破楽を興する主無し。故に胡氏説道ならく、河間の献王をして 君と場し、董仲舒を相と篤し、汲問をして御史と埓らしめれば、則ち漢 の破楽は必ず興らん、と。這の三箇の差除あれば、豊に甚だ盛ならざ’ら んや。 先王が制作された礼経文で、゛今日現存するものはいくらもないのであ る。漢初には、人々がそれぞれ礼に関連する文献を有していたであろう が、それらをすべて収拾して整理する人はなかったのである。ところが、 河間の献王は、もうすでに雅楽を手に入れておられた。その上、また、 古礼経五十六篇をも入手されておられた。それなのに、後の世に、それ が見られないことは、まことに残念なことである。この当時の儒者たち は、それぞれ専門の学で世間に名を得ている者たちであって、各自の専 門の一つの経書より以外は、全く講義する余裕はなかったのである。ま してや、朝廷にあっても、礼楽を興起させようとする指導者もなかった のである。だから、胡寅がいうことに、河間の献王を君主とし、董仲舒 を宰相、汲問を副宰相としていたならば、満代の礼楽は必ずや隆興した ことであろう、と。この三人に適役を与えれば、どうして礼楽の隆盛を みないことがあろうか、必らず隆盛となったにちがいない。 Λ大意▽ 先王の古礼の伝承を見ないのは、満代儒者の専門性の限界と知識の 狭陰性とによるのは勿論のこと、朝廷にも適切な指導者がなかったからで あるとして、前節と同じく、胡氏の説を援引して、経学史上の歴史的批判 。と皮肉性とを吐露している。 注 ○雅楽−郊廟朝会に用いる正しい音楽。﹁論語﹂陽貨に﹁悪三鄭声之乱‘一雅 楽一也﹂と。﹁満書﹂礼楽志に﹁是時河間献王有二雅材一、亦以後、治道非ニ ー雅楽一不い成。因献二所y集雅楽一﹂とある。﹁漢書﹂ ﹁河間献王伝﹂参照。 七五 朱子礼関係文献国訳□︵山根︶ ○名家−専門の学者で世に名を得ている者。﹁漢書﹂芸文志に﹁漢興有二 斉魯之説一。伝二斉論一者⋮⋮唯王陽名家。⋮⋮﹂︵論語︶と。また、ヽ﹁名家 者流、蓋出二於礼宮一。古者名位不・同、礼亦異‘数。⋮﹂︵名家︶ともある。 ○説道−﹁とく﹂、﹁いふ﹂と読み、いうことにはの意。 閣 今儀膿多是士腰。天子諸侯喪・祭之鐙、皆不y存。其中不い過y有二些 小朝聘・燕饗之疆一。自・漢以来、凡天子之破、皆是誇二士膿一来、増加 場y之。河間献王所y得疆、五十六篇、却有こ天子・諸侯之徽一。故班固 謂、愈y於推二士鐙一以埓二天子・諸侯之徽‘者上。班固作二漢書一時、此徽 猶在・不’知ヽ何代何年失了・可゛惜・可゛惜・皿40唄孫 今の﹁儀疆﹂は多くは是れ士の鐙なり。天子・諸侯の喪・祭の殿は、 皆存せず。其の中に些小の朝聘・燕饗の徴有るに過ぎず。漢より以来、 凡そ天子の腔は、皆是れ士鐙を将ち来りて、増加して之を場れり。河間 の献王、得る所の膿、五十六篇、却って天子・諸侯の祓有り。故に班固 甲 “ すぐ謂へらく、﹁士の破を推して以て天子・諸侯の鐙を埓る者より愈れり﹂ と。班固、﹁漢1 ﹂を作る時、此の鐙猶ほ在り。知らず、何の代何の年 に失ひ了るかを・惜しむべし・惜しむべしご皺心四四吻
今日の礼経﹁儀礼﹂十七篇の内容は、士の身分の礼が多いのである。
従って、天子や諸侯の喪礼や祭礼などは、皆存していないが。その﹁儀
礼﹂の中には、天子や諸侯に関する朝聘や燕饗の礼などが、すこしばか
り存するだけである。漢代よりこのかた、凡そ天子の礼は、皆士の礼を
根拠として、それに準じて種々の儀節・度数などを増加して作ったので
ある。河間の献王の得た ﹁古礼五十六篇﹂ の中には、天子・諸侯の礼
が、きちんとあったのである。だから、班固は言っている、﹁儀礼・今文
径の冠・・昏・葬・祭などを内容とする士の礼を推考して、天子・諸侯の
礼を作るものよりは、古礼の内容は、はるかにすぐれている﹂と。この
事からすると、班固が、﹁漢書﹂を書いた時には、この天子・諸侯の礼
をふくむ古礼は、なお現存していたのである。。ところが、何時の時代、
七六 高知大学学術研究報告 第二十八巻 人文科学 何時の年にか、それを亡夫してしまったかは不明である。まことに残念 なことである。賀孫の記録は簡略である。 Λ大意▽ ﹁今文儀礼﹂と﹁古礼﹂との内容を比較し、天子・諸侯の礼に言及 し、﹁古礼﹂には、この礼が完備していたことを、班固の説を推して説き、 更に、その亡快を嘆いている。 注 ○士鐙ド今日、伝わる﹁儀礼﹂は、﹁漢書﹂芸文志に﹁・:漢興りて、魯の高 堂生、士礼十七篇を伝令:﹂とある、所謂﹁士礼十七篇﹂で、﹁今文儀礼﹂ しといわれるものであ髪因みに﹁哀史﹂芸文志にも、﹁儀礼十七篇匹皿﹂ 1 1 ″ 、 I ・ イ ︵巻一、経・礼類︶とある。この礼経の中にもヾ天子・諸侯・卿大夫の礼 ≒。もふくまれ亀。これらの具体的な考証は、池田末利訳注﹁儀礼﹂V︵東海 大学出版会、昭和五十二年三月刊︶。﹁解説二、礼経の伝授﹂を参照されヽた 、い。○天子・諸侯喪・祭⋮−天子・諸侯などの喪・祭の礼は規定されてい な・いので、﹁儀礼﹂め士喪・既夕・士虞・特牲・少牢・有司徹の礼から推 。。 考して、その内容を考えることになる。○朝聘・燕饗之腔I朝聘には、 聘・公食大夫・観礼など、燕饗には、大射・燕・郷射礼などか考えられる か、その篇の分類については不整合のものがある。前掲﹁儀礼﹂Vを参照 されたい。因みに、﹁儀礼経伝通解﹂の分類で、該当するものを列挙する と、1家礼︵士冠・士昏礼︶ 2郷礼︵士相見・郷飲酒・郷射礼︶ 3学礼 ︵なし︶4邦国礼︵燕・大射・聘・公食大夫礼︶5王朝礼︵観礼︶6喪礼 ︵喪服・士喪・士虞礼︶7祭礼︵特牲價食・少牢債食礼・有司徹︶ であ る。○班固︱字は孟堅︵A. D. 32-92︶、扶風安陵の人。父の彪の志をつ いで、二十余年間﹁漢1 ﹂を著し、不完成にて獄死し、妹の昭か補った。 ﹁白虎通﹂など著す。○愈於推士徴・:−﹁淡雪﹂芸文志に﹁礼古経者︵儀 礼古文経︶出二於魯直中‘。及孔子学十七篇文相似、多三十九篇。及明堂陰 陽、王史氏記所見、多一天子諸侯卿大夫之制‘。雖い不・能y備、猶癒7倉等 推二士礼一而致m於天子之説上。﹂とある。 ㈲ 確書如二儀確一、尚完三備如二他書一。儒用 膿1 、﹁儀腔﹂の如きは、尚ほ他書如も完備す。 確関係の書物の中で、﹁儀礼﹂は、やはり他の書物よりも一段と完備 している。 Λ大意▽ 礼関係の書物の中で、﹁儀礼﹂が最も完備していると説く。 注 ○儒用−李儒用。字は仲秉︷岳州岳陽の人。朱子六十九歳の記録者である。 圓 儀徴不’是古人預作已1 一如占此。初間只以‘義起、漸漸相襲行得 好。只管巧至二於情文極細密極周経處一。聖人見二此意思好一。故録成y 書。只看二古人君臣之際一、如二公前日所‘査圖子一。君臨二臣喪一、坐撫二 富心一、要経而踊。今日之事、至二於死生之際‘、忽然不二相関一。不三偕 如二路人一。所謂君臣之恩義安在。祖宗時、於二芭執政喪‘亦親臨。渡y 江以来、一向癈’之。只秦檜之死、高宗臨・之。後来不二復畢‘。如二陳 福公l'壽皇春‘之如‘此隆。至二其死一亦不二親臨一。i祖宗凡大臣死、遠 地不及’臨者、必遣二都営往届。い壽皇、凡百提J撮 1得意唇。這般處 を以て起り、漸々に相襲行し得て好く。︲只管、巧に情文極めて細密、極ソ めて1 経みる處に至る。聖人此の意思の好きを見る。故に録して書を成‘ 。 す。只だ古人、君臣の際を看るに、公が前日斑く所の昭子の如し。君、 臣の喪に臨むれば、坐して富心を撫して、要経して踊す。今日の事、死 f I1生の際に至りて、忽然として相開せず。曾だ路人の如くのみならず。所 謂君臣の恩義、安にか在らん。祖宗の時、芭執政の喪にも、亦親から臨 めり。江を渡りしより以来、一向に此を癈す。只だ秦檜の死のみには、 高宗之に臨めり。後来復た畢げず。陳福公が如き、壽皇之を1 すること 此の如く隆なり。其の死に至りても、亦親から臨まず。祖宗、凡そ大臣 死すれば、遠地臨むに及ばざる者は、必ず郎官を遣はして往きて弔せし む。壽皇、凡一百意思を提接し得たり。這般の處、却って怨地くに受え ず。今日、便ち一向に癈却す。 ﹁儀礼﹂十七篇の1 は、古人がはじめから今のような体裁の一書に作 ったのではない。初めの間は、義理をもって人情の自然に従う所から発 生した風習であって、その後、年月を経過して漸次に共に相い襲ぎ行な われてきて、その風習がひたすら巧妙になり、時代を経過して、情文が 極めて細密に、極めて周経なる処に到達したのである。そこで、聖人は 却忌地不以 ﹁儀腔﹂は是れ古人預め一1 を作りて此の如くならず。初間、只だ舜 `l k I 一一か`肖7 ・″lir4‘ y
そ0 1 習0 意腹の善良なるものを見て、遂にこれを記録してI書となし たのである。ただ、古い時代の君・臣の人倫的身分関係をよく見ると、 貴公が、先日画かれた図子のようになるものだ。もし、列国の諸侯たる 君主が、臣下の喪に親しく臨んだ時には、坐って当心を撫で、要経して 踊るのである。今日では、人の生とか死とかの場合には、さっぱりとし て全く無関係であって、ただ路上であう人のような関係であるだけでは なくて、’いわゆる君臣の恩義とか言う考え方は、どこへ行ったのであろ うか、全く姿を消してしまっている。宋の太祖の時は、旧の執政が死ん だ場合には、夫子がわざわざ親しく喪に臨んだものである。ところか、 揚子江を渡って臨安に都を遷してからは、全くこのような儀礼は廃止さ れてしまったのである。ただ、秦檜の死に際しては、時の天子・高宗 は親しく喪に臨んだのである。それ以来二度とこのような事は行われな かった。陳福公の場合は、孝宗から特別の愛顧を蒙っていたが、彼が死 んだ時には、孝宗はもう親しく喪に臨まなかったのである。太祖の場合 は、大臣が死んだ時、遠隔の地で親しく喪に臨めない場合には、必ず所 管庁の長官を代理として、わざわざ弔に行かせたものである。しかし、 孝宗の時には、もろもろの儀節についての意見をひきあげることはでき たのであるが、このような場合に、このような儀節を行うべきだという ことが、はっきりわからなくなっていたのである。今日に至って、諸儀 節は全く廃止され、すたれてしまったのである。 Λ大意V 礼の起源に関する朱子の説︵菊子と異なる見解︶を迷べ、残礼経 は、聖人か創作したものではあるか、その具体的な事実たる礼そのものま でも創造・規定したのではないとする。更に、末代天子の臣下の喪への親 臨の実体について言及している。 注 ○以・義起⋮j﹁論語﹂の集註に﹁礼者天理之節文也﹂︵顔淵︶、﹁礼者天理 之節文・人事之儀則也﹂︵学而︶とある。○情文⋮−﹁礼記﹂に﹁礼者因‘一 人之情一而為‘一之節文‘。為二之節文一、以為二民坊‘者也﹂︵坊記︶とある。ま ’た、﹁孟子﹂擦文公上に﹁蓋上世嘗有7不y葬二其親‘者上。其親死、則挙而 委二之於迢‘。他日過・之、⋮⋮﹂とあり、その集註に﹁⋮⋮於y是帰而掩二 七七 朱子礼関係文献国訳口︵山根︶ 其親之戸一。此莽埋之礼牙起−也0 此掩二其親一者、若所’当‘然、則孝子 仁人。所三以掩二其親一者、必有二其道一、而不二以’薄為瓦貝矣﹂と。○要経I 腰につける麻のまきもののこと。詳細は、前掲書﹁儀礼﹂Ⅲ・頁八の註2 と頁十四の註2など参照。○君臣之恩義・:君臣の義については、﹁礼記﹂ に﹁天地之祭、宗廟之事、父子之道、君臣之義、倫也﹂とある。○祖宗− 宋の太祖︵A.D.960997j° O渡’江−建炎元年︵にI︶ ・欽宗の時、都 を臨安に遷す。南宋・高宗︵1127-1162︶の時代となる。○秦檜−字は会 之︵1090-1155︶、贈は申王、謐は忠献。江蘇省の人。高宗の時、宰相と なり金国と和議を主張した。○陳福公−不詳。○壽皇−宋の高宗の尊号。 圓 俊有い経、有y受。経者常也。愛者常之愛也。先儒以二曲俊‘場二愛俊一。 看来、全以場二愛俊一亦不可。蓋曲者委曲之義。故以二曲腔一場二愛腔‘。 然母’不・敬。安二定跡一、安y民哉。此三句豊可‘謂二之愛俊一。先儒以二 儀俊一鳥二経敬一。然儀俊中亦自有・愛。受俊中又自有い経。不y可已律 看一也。俊記、聖人誕y俊、及學者問答處。多是説二腔之受一。上古俊書 極多。如三河間献王政J拾一得五十六篇‘。後来蔵在二秘府一。鄭玄輩尚 及・見・之。今注疏中有二引援處一。後来遂失不y傅。可い惜可い惜。儀俊 古亦多有。今所い飴十七篇、但多二士敬一耳。偏 俊に経有り。愛有り。経なる者は常なり。愛なる者は常の受なり。先 儒は﹁曲俊﹂を以て愛俊と場す。看来れば、全て以て受腔と場すは亦不 可なり。蓋し、曲とは委曲の義なり。故に曲俊を以て愛俊と場す。然る に、﹁敬せざること母し。辞を安定にし、民を安ずる哉﹂との、此の三 句、豊に之を愛俊と謂ふべけんや。先儒は﹁儀俊﹂を以て極俊と馬す。 然るに、﹃儀俊﹄の中にも亦自ら受有り。愛俊の中にも又自ら経有り。 一律に看るべからざるなり。﹃膿記﹄は、聖人、俊を誕き、及び學者問答 する處なり。多くは是れ俊の受を説けり。上古には俊書極て多し。河間 の献王、五十六篇を収拾し得るが如きも、後来蔵して秘府に在る。鄭玄 が輩、尚ほ之を見るに及ぶ。今の﹁注・疏﹂の中にも引援する處有り。 後来遂に失ひて傅らず。惜むべし惜むべし。﹁儀俊﹂も古には亦多く有 り。今、能る所十七篇には、但だ士俊多きのみ。
七八 高知大学学術研究報告 第二十八巻 人文科学 礼の内容には、本質的に経礼と変礼とがある。経とは常礼の意であ り、変とは常礼の変容との意である。先儒が、曲礼を変礼だと考えてい る。ところか、その曲礼だと言われている内容をよく考察してみると、 それがすべて変礼だと考えるのは、よろしくないことである。思うに、 曲礼の曲とは、委曲の意味である。だから、曲礼を変礼だとするので ある。ところが、﹁曲礼﹂の﹁敬せざるなかれ。辞を安定にし、民を安 。ずるかな﹂ノとの、この三部は、礼の本質的な根本復を述べたものであっ I d− I e ″ 、 一 I Fで、どうしても変礼という呉とはできない吋容のものであ名。先儒は ﹁儀礼﹂を経礼だと規定した。。ところが、こ’の﹁儀礼﹂の中にも、ま。だI 一自から変礼もふくまれている。その反対に、変礼の中にも、また自から e 1 4 ` − 一・経礼をふくんでいるので、一律にそのように規定するこ。とはできないも のである。﹃・﹁礼記﹂は、聖人が礼の根本義︵大体︶とその効用とを説いたこ ものや、学者が礼について問答したものなどが集録されていて、その多 くは礼の変に言及したものである。大昔には、礼に関する1 が大変多く あった。河間の献王が、古礼五十六篇を収拾することができたものなど も、その後、秘府に秘蔵されたのである。後漢の鄭玄たちまでは、その古 礼を直接に見ることができたのである。だから、現存の﹁注・疏﹂の中 に、多くそれが援引されているのである。その後になって、遂に失われて 後世に伝わらなくなったことは、まことに残念至極のことである。同様 に、﹁儀徽﹂もまた古くは多くの内容があった。今日残存している十七篇 には、ただ、士の儀礼に関するものだけが多く載せられているのである。 Λ大意V 礼の本質的内容には、その体をなす経礼と用をなす変礼とかある。 ﹁礼記﹂の曲礼は、すべて変礼ではないとして、﹁礼記﹂の概念規定を行 い、更に、﹁儀礼﹂の経学史的立場に言及して、現行﹁儀礼﹂は、士礼を 多く内容として含んでいるとする。 注 ○礼有‘経・:−﹁礼記﹂中庸に﹁礼儀三百、威儀三千﹂︵章句に﹁礼儀、経 礼也。威儀、曲礼也﹂と︶、礼器に﹁経礼三百、曲礼三千﹂ ︵鄭注に﹁経 礼周二周礼一也。周礼六篇、其官有二三百六十一。曲猶い事也。事礼周二今礼一 也・ト:﹂と︶。なお、朱子の経・変に関する考え方については、拙稿﹁朱子の ’倫理思想に於ける権の意義﹂︵日本中国学会報第十輯二九五八年刊︶参照。 ○曲者・:−﹁礼記﹂鄭注に、﹁曲礼者是儀礼之旧名、委曲説礼之事﹂と。 ○曲礼Iこの曲礼は﹁礼記﹂首篇の曲礼のことを指す。○母‘不・敬⋮− ﹁礼記﹂曲礼に、﹁曲礼日、母‘不・敬、側若思、安二定辞一、安’民哉。﹂と ある・鄭注に﹁此上三句、可‘一以安・民。説二曲礼一者美’之云耳﹂と。陳湯 ﹁礼記集説﹂に﹁朱子日、首章言7君子修身、’其要在二此三者一、而其奴足巾 以安去民。乃礼之本。﹃故以冠‘篇プ:伯︵祖萬︶氏日、経礼三百、曲礼三 午︸可7以已言一蔽吉之。’日母皐蔽。上とある。○礼記I周末から漢 ’代諸9 の古礼説を集めた経書・本書’の成立には異説多し・1 説ではヽ漢の 、戴聖︵﹁大戴礼﹂`八十五箆を集めた威徳の甥︶か、・﹁大戴礼﹂などを中心に・ 佃編して作ったもめであって、四十九編あり。’○注疏︱後漢の鄭玄撰。。﹁礼 記注二十巻﹂や、唐の孔頴逮等奉勅撰﹁礼記正義七十巻﹂ ︵これは、鄭注’ を底本として、梁の1 侃や後周01熊安生の礼記義疏を参酌して作ったも 。の︶を指す。。 ダ ・。 万 剛 儀腔是経、位記是解二儀昏‘。如’儀昏有二冠位‘、位記便有二冠義一、儀 位有二昏腔一、昏記便有m昏義上。以至二燕・射之類一、莫‘不二皆然一。只 是儀腔有二士相見一、昏記却無二士相見義一。後来劉原父補二成一篇‘。文 蔚問、補得如何。日、他亦學二膿記一下二言語一。ロハ是解二他儀位‘。文蔚 ﹃儀位﹄は是れ経、﹁昏記﹂は是れ﹁儀位﹂を解す。﹁儀位﹂には﹁冠 位﹂有りて、﹁位記﹂には便ち﹁冠義﹂有り、﹁儀昏﹂には﹁畳位﹂有 りて、﹁腔記﹂には便ち﹁昏義﹂有るが如し。以て燕・射の類に至るま で、皆然らざること莫し。只だ是れ﹁儀位﹂には﹁士相見﹂有りて、﹁位 記﹂には却って士相見義無し。後来、劉原父、一篇を補成す。文蔚問 ふ、補ひ得て如何ん、と。日く、他も亦﹁位記﹂を學びて言語を下す。 只だ是れ他の﹁儀腔﹂を解せるのみ、と。 ﹁儀礼﹂は礼の経を述べ、﹃礼記﹄は経として﹁儀礼﹂を解説したも のである。だから、﹁儀礼﹂には﹁冠礼﹂があり、﹁礼記﹂には、それ に対する﹁冠義﹂があり、﹁儀礼﹂には﹁昏礼﹂があって、﹁礼記﹂には ﹁畳義﹂があることになる。そのようにして、燕礼や射礼の類に至って
も、皆そうなのである。ところが、﹁士相見礼﹂は、﹁儀礼﹂だけに見 えて、むしろ、﹁礼記﹂には、それに対応する﹁士相見義﹂はないので ある。そこで、その後、劉原父がその欠を補うために﹁補亡記﹂なる一 篇を補成したのである。そのことに関して、文蔚が朱子に問うた。劉氏 の補成はどんなものでしょうか、と。言う、劉氏も﹁礼記﹂の内容の本 質をよく学び得て、文章を作っている。ただ経である﹁儀礼﹂を解釈し たことになるだけだ、と。 Λ大意▽ 礼経たる﹁儀礼﹂と﹁礼記﹂との内容的本質に言及し、すなわち ﹁礼記﹂は、経としての﹁儀礼﹂の解説書であると、劉敵の﹁補亡記﹂の 内容にも言及している。 注 ○劉原父−﹁語類﹂巻八十四、叫節の注を参照。○一篇−劉氏著﹁補亡記﹂ のこと。後節Iを参照。なお、前巻叫節にも言及する。○文蔚−陳文蔚。 字は才卿、号は克斎。信州上饒の人。朱子五十八才︵戊申︶以後の記録者。 圓 魯共王壊二孔子宅一、得二古文儀腔五十六篇一。其中十七篇呉二高堂生 所‘傅十七篇一同。鄭康成注二此十七篇一、多畢二古文作7某、則是他富時 亦見二此壁中之書一。不’知如何、只解二此十七篇‘、而三十九篇不・解。 竟無y傅・焉。義剛 魯の共王、孔子の宅を壇して、﹁古文儀徽﹂五十六篇を得たり。其の 中十七篇、高堂生傅ふる所の十七篇と同じ。鄭康成、此の十七篇に注す るに、多く﹁古文某に作れり﹂と畢るれぱ、則ち是れ他の富時にも亦此。 の壁中の書を見る。知らず、如何にして只だ此の十七篇を解するのみに て、三十九篇を解せざるかを。竟に焉を傅ふること無し。 景帝の時、魯の共王は孔子の旧宅を壊って、﹁亡儀礼五十六篇﹂いわゆ る﹁古文儀礼﹂を得た。その中の十七篇は、漢初に魯の高堂生が伝えた ところの十七篇と同一内容のものであった。後漢の鄭玄が、この十七篇 に注して、多く﹁古文は某に作れり﹂とを列挙しているところからすれ ば、鄭氏もその当時この壁中の書・五十六篇を直接に見たものである。 それなのに、どうして、ただこの十七篇のみに注解をほどこして、残り 七九 朱子礼関係文献国訳□︵山根︶ の三十九篇に注解をなさなかったのであろうか、不明である。そこで、’ とうとうこの三十九篇を後世に伝えることがなかったのである。 ︿大意▽ ﹁今・古文儀礼﹂に関して言及し、更に、﹁古文儀礼﹂ヽの中の三十 九篇と鄭注との関係に言及する。 注 ○古文作某−例えば、士冠礼﹁布席干門中関西閣外西面﹂の鄭注に﹁閲門 − 薇、闘閥也。古文閲為渠、岡為燈﹂とある。 囲 儀緩疏、説得不二甚分明一。温公緩有二疎漏處一。高氏送終緩勝二得温 公緩一。義剛 ﹁儀緩疏﹂は、説漣得て甚だ分明ならず。温公の腔、疎漏の處有り。 高氏の﹁送終膿﹂、温公の緩より勝り得たり。 唐の頁公彦の﹁儀礼疏﹂の説明は、大変はっきりしていない。司馬光 の礼説も、疎で手おちのところがある。ところで、高氏の﹁送終礼﹂ は、温公の﹃書儀﹄の中に見える﹁喪儀﹂の礼説よりは、ずっとすぐれ ているようだ。 ・’ ︿大意▽ ﹁儀礼﹂に関する諸説、頁疏・温公礼説や高氏の﹁送終礼﹂などに 言及して、喪礼に関しては、高氏説が、温公説よりすぐれると批評する。 なお、温公礼説にっいては本稿前削節の注参照。 注 ○高氏・:上尚閲︵宇は抑崇︶。﹁宋志﹂に﹁高閲﹁送終礼﹂ 一巻﹂ ︵史・ 儀注類︶とある。 I 劉原父補亡記、如二士相見義・公食大夫義一俵好。蓋偏會‘學こ人文 字‘。如7今入善埓二百家書一者上。又如y學二古楽府一、皆好。意林是専 學一公羊一。亦似二公羊‘。其他所二自埓一文章、如二雑著等一、却不二甚 佳‘。人傑 劉原父の﹁補亡記﹂、﹁士相見義・公食大夫義﹂の如きは俵好し。蓋 し偏に人の文字を學ぶことを會す。今人、善く百家の書を埓る者の如し。 こがふ又、﹁古楽府﹂を學ぶが如きも、皆好し。﹁意林﹂は是れ専ら公羊を學 ぶ。亦、公羊に似たり。其の他自ら鳥る所 0文章、雑著等の如は、却っ
八〇 高知大学学術研究報告 第二十八巻 人文科学 て甚だ佳ならず。 劉原父の著﹁補亡記﹂の中で、﹁士相見義﹂や﹁公食大夫義﹂などは、 まあまあ好い内容である。だが、ただただ他人の文章を学うことができ るものだ。今日の人々が、多くの学者の書を作るのと同じようなもので ある。また、古い﹁楽府﹂を学うことなども、皆好いことである。とこ ろで、、﹁意林﹂は、公羊を学うたものである。だから、この文章もまた 公羊に似ているのであ&。’ぞの他の良分自身で創作した文章や雑著など ぱヽ叉対拓砂くないものであ乱。j ト。。! ☆ ∼∼。 Λ大意▽ 劉氏の﹁捕亡記﹂を通じて、文章表現の内容・形式の在り方に論及 。す ○ ’‘ ” ‘” ’ ハ `’る `‘ ^ ゛ 注 ○劉原父・:︱前剛節及び﹁語類﹂巻八十四御節参照。朱子は﹃儀礼経伝通 。。。 解﹄巻第六・士相見義第十・郷礼一之下に劉敞補亡として、更に、。第二十 一一丁公食大夫義、第四十・邦国礼四之下に劉敞補亡としてあげている。○ 古楽府I楽府に採集された民謡で、音楽にあわせて歌ったもの。唐以後は、 古い楽府題によって作詩したが、歌うことなく、ただ古体詩となったも の。○意林−書名で五巻︵﹁四庫提要﹂子・雑歌類にあり︶唐の馬総編。 聞 永嘉張忠甫所い校儀膿、甚子細。然却於二目録中冠鐙玄端處一、便錯 了。但此本較二他本一、尽一最勝‘。賀孫 永嘉の張忠甫、校する所の﹁儀鐙﹂甚だ子細なり。然れども却って目 録中の﹁冠腔﹂玄端の處に、便ち錯り了る。但だ此の本、他本に較べれ ば、最も勝れりと鳥す。 永嘉の張淳の校定した﹁儀礼識誤﹂は、大変詳細である。だが、その 目録中の﹁冠礼﹂玄端の処には、錯誤がある。ただ、この本は、他の礼 関係の書に比較すると、最もすぐれたものである。 ︿大意▽ ﹁儀礼識語﹂について言及する。 注 ○永嘉張忠甫−永嘉は、浙江省温州永嘉郡永嘉県で、ここには、朱・陸学 派に対する永嘉功利学派︵浙州学派︶があった。張淳については、前稿﹁語 顛﹂巻八十四旬節の注参照。 I 陳振叔亦倫得。其説二儀敬一云、此乃是儀。更須y有二敬書‘。儀敬只 載二行・敬之威儀一。所謂威儀三千、是也。敬書如‘云二天子七廟・諸侯 五・大夫三・士二I之類、是誕二大経一處。這是趨。須三自有二箇文字‘。 賀孫 陳振叔も亦値得たり。其の﹁儀敬﹂を説きて云ふ、此れ乃ち是れ儀な り。更に須らく腔書有るべし。﹁儀敬﹂は只だ敬を行ふの威儀を載す。 所謂威儀三千、是れなり、と。腔書に、天子七廟・諸侯五・大夫三・ナ − J i l 一 −三と云ふが如きの類、是れ太経を説く處なり。這れ是れ敬なり。須らく’ i l ・ j −I I﹃ 一 自’レ箇の文一子有¨るべ1 ・ノ’ ド ∼ 。\ ご ご 陳振叔も、また﹁儀礼﹂に関する説は、まあまあ要領を得’てい’る。そ’ の﹁儀礼﹂を説いて、次のように言う。﹁儀礼﹂は儀節を説いたものであ る。だから、更に当然礼の経を説くところの﹁礼書﹂があるべきなのだ。 ﹁儀礼﹂は、ただ礼を行うための威儀を具体的に載せているもので、い わゆる﹁中庸﹂の﹁威儀三千﹂が、それであるのだ、と。礼書に廟に関 して﹁天子は七廟、諸侯は五、大夫は三、士は両廟﹂とあるような類は、 礼の太経を説く処である。これが、儀に対する礼であるのだ。そこに は、自然にそれを説明するための文章が、必要となるべきである。 ︿大意V ﹁儀礼﹂は威儀・儀節を説いたものであり、﹁中庸﹂の﹁威儀三 千﹂がそれだとする陳氏説を述べ、朱子は礼書の中にも、礼の根本になる 儀に対する経を説く処があることを列挙している。 注 ○陳振叔−不明。○所謂⋮j﹁中庸﹂に﹁礼儀三百、威儀三千﹂と。○天 子七廟・:−﹁礼記﹂礼器に﹁礼有二以・多為‘貴者‘。天子七廟・諸侯五・大 夫三・士こと、更に、王制にも﹁天子七廟・諸侯五廟・大夫三廟・士一 廟﹂とある。 士 冠 I 問、士冠確策二于廟門一。其確甚詳。而昏確止云、将い加二諸トー。占 日、吉。既無‘篁而ト。確略何也。日、恐ト箆通言‘之。又問、確家之 意、莫7是冠確既詳二其篁‘、則於二昏腔‘、不二必更詳一、且従ゆ省文之 一− 一 l f1 1■ ■ 一一 一 l j 咽
゛義上。如何。日、亦恐如・此。然儀膿中、亦自有二不y備處一。如y父母 戒y女、止有二其僻一、而不y言二於某處一之類上。人傑 問ふ、﹁士冠破﹂、廟門に笙ふ。其の鐙甚だ詳なり。而るに・﹁昏徴﹂ には止だ云ふ、﹁将に諸をトに加へんとす。占に日く、﹁吉なり﹂﹂ と。既に篁ふこと無くしてトす。疆略なるは何ぞや。日く、恐くはト笙 通じて之を言ふなり、と。又、問ふ、祓家の意、是れ冠腔既に其の篁を 詳らかにすれば、則ち昏徴に於いて、必ずしも更に詳からにせず、且つ 文を省くの義に従ふこと莫きや。如何ん、と。日く、亦恐くは此の如く ならん。然して﹁儀祓﹂の中にも亦自ら備らざる處有り。父母、女を戒 ぐるに、止だ其の辞のみ有りて、某處を言はざるの類の如し、と。 問う、﹁儀礼﹂の﹁士冠礼﹂に、士がはじめて冠を加える礼で、冠礼の 日を禰廟の門で篁う儀節については、大変詳細に述べられている。とこ ろが、同じく﹁士昏礼﹂には、女の名を問う礼︵問名︶の場合は、﹁これ ︵女の名︶の吉凶をトおうと思います﹂と、更に、トの吉を女の家に告げ る礼︵納吉︶の場合は、ただ﹁占に﹁吉﹂と出ました﹂とのみ言っている。 この場合、箆の儀節はなくてトだけを述べヽていて、礼の内容が簡略であ るのは、どうしたことでしょうか、と。言う、恐らく、トと篁とを通じ て言ったからであろう、と。再び問う、礼経学家の考えとしては、冠 礼で、もうすでに箆の儀節について詳述しておれば、俗礼の場合には、 再床その事について詳細に言及することもないので、それは同時に文章 を省略する方法に従わなかったことになるのでしょうか、どうでしょう か、と。恐らく、省文の意義に従ったものでしょ。う。然しながら、﹃儀 礼﹄の中にも、また自然と不備な点もある。例えば、﹁士昏礼﹂の新迎 ︵夫親ら婦を迎える礼︶の儀節で、父母艦対にをげる場合に、ただ﹁必ず 正すこと有りて、衣の如く算の若くあれ﹂との戒辞のみあって、それを 行う場所が、何処であるかを明記していないのが、それである、と。 Λ大意▽﹁儀礼﹂経文の表現上、通言の立場での表現と、不備な点とのあるこ 八一 朱子礼関係文献国訳I︵山根︶ とを指摘し、士冠・士昏礼一の卜箆の儀節に関する表現内容について言及す 注 ○士冠礼・:j﹁儀礼﹂士冠礼の文。○将加⋮I士俗礼の問名に関する記文 に﹁問・名目、某既受y命、将’加‘海ト一。敢請、女為こ誰氏一。・:﹂と。更 にヽ納吉に関する記文に ﹁納吉日、 。吾子有・肌’命。某加一海卜‘、占日、 吉。使二某也敢告一。・:﹂とある。○父母戒‘女⋮−士昏礼の親迎に関する 記文に﹁父醒・女、而侯こ迎者‘。。︲一父西面戒y之、必有E正焉、若‘衣若・算。 母戒二諸西階上一。不・降﹂とある。 ㈲ 問・宿‘賓。日、是戒二言賓一也。是隔い宿戒‘之。暇 賓を宿むるを問う。日く、是れ賓を戒蕭するなり。是れ宿を隔て之に 戒ぐ、と。 問ふ、賓に宿めるとは、どういう意味なのでしょうか、と。言う、冠 を加える賓に、あらかじめ知らせ来るように戒げることなのである。こ の宿賓の儀節は、笙日の翌日戒げるのである、と。 Λ大意▽ 士冠礼の﹁宿賓﹂の意義とその儀節の日とについて述べる。 注 ○宿賓−士冠礼の宿賓に関する経文に﹁乃宿y賓。賓如二主人服一。⋮﹂と、 鄭注に﹁宿進也、宿者必先戒。戒不い必’宿。其不い宿者為二衆賓‘⋮⋮﹂と ある。○隔宿−一晩とめおくの意で、笈日の翌日のこと。○熊−呂振、字 は徳昭、号は月披。弟︵字は徳遠︶と朱子の門に学ぶ。南康︵或本には建 。昌︶の人。朱子六十九歳の記録者である。 闘 古朝服用‘布。祭則用y絲。詩絲衣拝賓・戸也。皮弁素積。皮弁、以二 白鹿皮‘馬匹之。累積、白布場い継。泳﹃ 古の朝服には布を用ふ。祭には則ち絲を用ふ。詩に﹁絲衣は、拝して 戸を賓するなり﹂と。皮弁には素積なり。皮弁は、白鹿の皮を以て之を 馬る。素積は白布もて裾と馬す。 古い時代の士の礼服たる朝服には、麻製の布を用いた。祭服には絹製 の布︵=絲︶を用いたのである。﹁詩経﹂ の﹁絲衣﹂篇の ﹁詩序﹂に、 ﹁士が王の祭を助けて、祭の翌日、絲衣して、拝祭に戸を賓客として 祭り宴する﹂とある。皮弁の服には素積を著るのである。その皮弁は、
八二 高知大学学術研究報告 第二十八巻 人文科学 白鹿の皮でつくるのである。また、その素積は、白い絹製の布を材料と して裾をつくるのである。 Λ大意▽ 士の朝服について言及する。 注 ○朝服I士の礼服で、十五升の布衣と累裳とからなる。士冠礼経文に﹁主 人玄冠・朝服・細帯・素峰:・﹂とある。その色は、冠と同色である。﹁礼 記﹂雑記に﹁朝服十五升﹂と。○詩−﹁詩経﹂・周頌・閔予小子之什の絲 衣の序に﹁絲衣、鐸賓戸也・:﹂と、鄭注にヽ﹁拝又祭也。天子諸侯日‘棒。 ・:﹂とあり、本文に﹁絲衣其杯丿載’弁球球・:﹂と、毛伝・集伝に﹁絲衣祭 ゛服也﹂とある。○皮弁・・:−士冠礼の冠日陳股に関すゐ経文に、﹁皮弁服、 j ! ー ー “ 素積・細帯・素節。ミ﹂と.、皮弁服については、、鄭注に﹁此奥・君視‘朔之 ドミ服也。皮弁者以‘︻白鹿皮一為‘冠、象・玉古一也﹂とある。素積μ一 冠と同じ. 白色の衣と、十五升β布で作って、腰のまわりにひだがある裳︵=祐︶と l l ー り 査くと作す。看来れば亦只だ是れ皮弁の模様なり。皆白皮を以て之を鳥 ‘る。細布の冠は、古来之を有せり。初めは是れ細布の冠なり。斉するとき は則ち之を紺くす。次の皮弁なる者は、只だ是れ朝服なり。爵弁は士の 祭服なり。周の膿には、爵弁は五冤の下に居る、と。又、問ふ、﹁美を散冤 に致す﹂の注に﹁皆祭服なり﹂と言う。眠冤は恐くは全て是れ祭服にあ らざるや否や、と。。日く、祭服には之を祓1 と謂ひ、朝服には之を仰と 謂ふ。詩の﹁郡埠秘たる有り﹂、内則の﹁端し節七紳す﹂と、皆是な句。 。問ふ、士。冠腔句一加 ‘ ・再加に、﹁吉月・令月﹂と言い、三加に至れば、し ㎞ ! ﹃ ︱ ︷ ﹁歳の正を以て﹂と言i・。知らずぃ是れ奏1 伺じバするや否やを、ど。に 曰く、只だ是れ一時節に行ふな’り。此の’文自ら此の如く説けり。絹布の 冠を加え、。少頃して、又、更に皮弁を加ぶ。少頃して、又、更に爵弁をイ。 ミ加ふ。然して後に膿を成す。量公の冠鐙の如きも、亦此に倣ふ。初めは 。。 艮巾、次は帽、次は啖頭なり、と。又、問ふ、散長の散は膝を蔽ふなり。 阜を以て之を焉る。舜の衣裳に征くに、創散締組有り。知らず、又、如 何に服の上に辺くや、と。日く、亦暁るべからざること有り。散は、裳 の前に在り。亦僣を其の上に査く、と。 問う、﹁士冠礼﹂にいわゆる三度の冠礼の中の始の加冠︵=始加︶・ 二度目の加冠︵=再加︶・三度目の加冠︵且二加︶があるのは、どうして でしょうか、と。言う、﹁士冠礼﹂の記文に﹁三加して︵一加よりも二加・ 三加と次第に尊い冠を用いて︶弥尊くする﹂とあるように、三度冠を加え るのである。初めて加える冠は、絹布の冠である。その冠は座布で作る
ものである。二度目には白鹿の皮製の皮弁である。三度目には爵弁であ
る。諸家は皆雀の頭のような形をなすとしている。よく看ると、これも
亦皮弁の模様と同じである。これ等は皆白い鹿の皮で作るのである。と
ころで、絹布の冠は、古い時代からあったものである。初めて加える冠
には、絹布の冠を用いる。これは太古では、平素は今の喪冠のような白
布の冠を冠し、斉戒する時には、これを染めて絹くしたものである。二
度目に加える皮弁は、朝服である。三度目に加える爵弁は、士が君の祭 を助ける際に着用するところの祭服なのである。周代の礼では、爵弁 は、天子が祭祀に用いる五種の冠の中で下位にあるものなのである、と。 再び問う、﹁論語﹂の﹁美を散竟に致す﹂の先生の﹁集注﹂に﹁皆祭服 なり﹂と言っておられます。散屍は恐らく全て祭服ではないのですか、 どうですか、と。言う、祭服の場合には、散見と云い、朝服には蝉と云 うのである。﹁詩経﹂に﹁牌や璋の飾りが泌燦然と輝いている﹂と か、﹁礼記﹂内則の﹁玄端の服を着、譚をつけ、大帯を結ぶ﹂とあるな どは、皆これを云うのである、と。問う、﹁士冠礼﹂の一加・再加の時の祈 祝の辞には﹁吉月令辰⋮﹂とか﹁令月吉日・・・﹂とか云っているが、三度 目の加冠の時になると、﹁歳の正含を以て・:﹂と云っているが、同時の 儀節なのでしょうか、よく理解できません、と。言う、これ等は、一時 節にとり行うものである。この﹁士冠礼﹂の文章には、自然とそのよう に説いているのである。まず、最初に絹布冠を加へ、しばらくして、更 にあらためて皮弁を加え、それからしぱらくして、また更に爵弁を加え ることによって、はじめて冠礼が完成するのである。司馬温公が、﹃書 儀﹄の﹁冠儀﹂の中でも、この加冠の儀節に従って規定している。それ によると、初めには褒巾、次には帽、三加には幌頭を用いているのであ る、と。又問う、散見の散は、膝を蔽うものである。章皮を合して 作るものである。。舜の衣と裳とに飾りを画くのに、齢散と締と繍とが ほどこしてある。この文飾も服の上にどのように画かれたのか、理解が できません、と。言う、私にもよく理解できないところがある。敵は裳 の前にかけるものである。そこで、その散の上に耐を画くのである、と。 Λ大意V 士冠礼の始加・再加・三加の礼に着用する冠すなわち絹布冠・皮 弁・爵弁について述べ、温公も、礼経に従って加冠の礼を規定するとし。 更に、祝辞に言及し、繊の内容にも言及している。 注 ○所謂・:−﹁儀礼﹂士冠礼の始加・再加及び三加の礼のこと。○所謂三 加⋮−三加に関する記文に﹁三加弥尊、論こ其志一也⋮﹂と。また﹁礼記﹂ 八三 朱子礼関係文献国訳口︵山根︶ 冠儀に﹁三加弥尊、加い有い成・:﹂とある。○初是⋮−始加に関する記文に ﹁冠義、始冠、絹布之冠也。太古冠・布、斉則絹い之。⋮﹂とある。○爵I 爵弁の爵と同じ、雀の意で、赤黒色。○爵弁I冠名。冤に似て施かな い。雀の頭に似ている。士冠礼﹁爵弁服﹂の鄭注に﹁爵弁者、冤之次、其 色赤而微黒、如一爵頭一。・:﹂とある。○周礼⋮−﹁周礼﹂夏官・弁師に ﹁掌二王之五冤‘、皆玄冤、朱裏延紐、’・:﹂とある。その爵弁は、冤につい で尊いものである。○致美⋮−﹁論語﹂泰伯に﹁子日、萬吾無二間然一矣。 ⋮⋮謳’衣服一、而致こ美乎敵冤一、⋮⋮萬吾無‘一間然一矣﹂と。何れも祭礼用 の礼服。敵は前掛け、冤は冠で、布を包んだ長方形の板が上についてい て、板から飾りが垂れているもの。○譚−朱駿声撰﹁説文通訓定声﹂に ﹁蝉、朝服日・榔、祭服日’祓︵敵︶⋮﹂とある。なお、敵については、巻 八十四・第関節参照。○詩・:−﹁詩経﹂甫田之什・噌彼洛矣に﹁庭こ彼洛− 矣、維水渋渋。君子至止。鞠璋有y泌。⋮⋮﹂と。毛伝に﹁鞠容刀抑也。 璋上飾、泌下飾也。・:﹂と、﹁集伝﹂に﹁肺容刀之稗。今刀鞘也。璋上 飾、泌下飾。亦戎服也﹂とある。肺は刀宝、玲は刀削の上部の飾、泌は下 部の飾である。○内則⋮−﹁礼記﹂の文。○言吉月・:−加冠祝辞の経文に ﹁始加、祝日、令月吉日、始加二元服一。⋮⋮再加日、吉月令辰、乃申二爾 服一。⋮⋮一一一加日、以二歳之正一、以二月之令一、咸加二爾服一。⋮﹂とある。○ 温公⋮﹁書儀﹂巻二﹁冠儀﹂に見える。○尉敵結締−天子の礼服の半黒半 白の斧の形のぬいとりの美しい模様を齢敞といい、﹁書経﹂益稜に﹁藻火 粉米、齢皺締綿﹂と、その蔡伝に﹁創若こ斧形一。取二其断一也。繊為‘両己相 背一。取二其辨‘也。締、鄭氏読為y布、紋也。紋以為い繍也。・:六者絵‘一之於 衣一、宗彝也。・上ハ者綿二之於裳一。所謂十二章也⋮⋮。﹂とある。○寓−徐 寓。字は居父、号は盤洲叟。永嘉の人。朱子六十歳以後の記録者である。 ㈲ 陳仲蔚問二冠儀一。日、凡婦人見二男子一、毎先一河。男河則又答辞。 再拝亦然。若子冠則見い母亦如y之。重二成人一也。尋常則不y如‘此。但 古人無二受y河疆一。雖・兄亦答辞。君亦然。但諸侯見‘君、則雨辞還二 河‘。義剛 陳仲蔚、冠儀を問ふ。曰く、凡そ婦人、男子に見ゆれば、毎に先づI 河す。男河すれば則ち又答河す。再拝にも亦然り。若し子冠すれば則ち 母に見るも亦之の如くす。成人を重ずればなり。尋常には則ち此の如く ならず。但だ古人には河を受けるの徽無し。兄と雖も亦答河す。君にも
八 四 高 知 大 学 学 術 研 究 報 告 第 二 十 八 巻 人 文 科 学 亦 然 り 。 但 だ 諸 侯 、 君 に 見 ゆ れ ぱ 、 則 ち 雨 奔 す る に 一 河 を 還 す 、 と 。 陳 仲 蔚 が 、 冠 礼 の 儀 節 に つ い て 問 う た 。 言 う 、 一 般 に 、 婦 人 が 男 子 に 見 え る 場 合 に は 、 何 時 も ま ず 婦 人 が 一 拝 す る も の で あ る 。 そ こ で 、 男 子 が 拝 す れ ば 、 婦 人 は 又 そ れ に 答 え て 拝 す る も の で あ る 。 だ か ら 、 再 拝 の 場 合 に も 、 ま だ 男 子 、 答 え て 再 拝 す る の 、 で あ る 。 若 し 子 が 冠 し た 場 合 に 、 冠 者 で あ る 子 が 母 に 。 見 え る 場 合 に も 、 亦 こ の よ う に 侠 拝 す る の で あ る 。 そ れ は 、 子 が 成 人 じ た こ と を 重 ん ず る か ら で あ る 。 と こ ろ で 、 普 通 の 時 に は ヽ 子 ば 対 し て は 、 そ の よ う な 丈 夫 に 対 す る 拝 は し な い の で 恚 る 。 た 、 だ 、 古 の 人 に は 、 受 拝 の 礼 は な か っ た の で あ る 。 兄 に 対 し て も 、 冠 者 は 兄 の 拝 に 対 し て ま だ 答 拝 す る の で あ る 。 君 主 に 対 し て も ま た ぞ の よ う に す る の で あ る 。 た だ 、 諸 侯 が 君 主 ﹃ ︵ = 天 子 ︶ に 見 え る 場 合 に は 、 ・ 諸 侯 は L 一 度 拝 す る が 、 君 主 は 一 杯 を か え す だ け で あ る 、 ” と 。 ド Λ 大 意 ▽ 婦 人 か 丈 夫 に 対 す る 侠 拝 ︵ 二 度 の 拝 ︶ は 、 丈 夫 か 一 度 、 婦 人 か 二 度 拝 す る よ う に 、 冠 者 た る 子 が 、 母 に 見 え る 時 に も 、 母 が 侠 拝 す る こ と を 述 べ 、 冠 者 に 対 す る 拝 と 、 諸 侯 対 君 主 の 拝 と に 言 及 す る 。 注 ○ 陳 仲 蔚 − 不 詳 。 ○ 若 子 冠 ⋮ − 士 冠 礼 の 冠 者 か 母 に 見 え る 経 文 に ﹁ 冠 者 ・ ⋮ : 北 面 見 二 于 母 一 。 母 拝 受 。 子 拝 送 。 母 又 拝 ﹂ と 、 鄭 注 に ﹁ 婦 人 於 ‘ 受 夫 ‘ 、 雖 二 其 子 ‘ 、 猶 侠 拝 ﹂ と あ る 。 更 に 、 冠 者 か 兄 弟 に 見 え る 経 文 に ﹁ 冠 者 見 一 ’ 于 兄 弟 ‘ 。 兄 弟 再 拝 。 冠 者 答 拝 ⋮ ﹂ と あ る 。 ﹁ 礼 記 ﹂ 冠 義 に ︷ 見 ‘ 一 於 母 一 、 母 拝 ・ 之 。 見 ‘ 一 於 兄 弟 ︸ 、 兄 弟 拝 ・ 之 。 成 人 而 典 成 ‘ 礼 也 。 ⋮ ﹂ と あ る 。
I 冠者見三母良二兄弟一。而母良二兄弟‘、皆先秤。此一節亦差異。昏膿
亦然。婦始見二舅姑一、舅姑亦芦。義剛
冠者、母と兄弟とに見ゆ。而して母と兄弟とは、皆先づ奔す。此の一
節も亦差異あり。昏疆も亦然り。婦、始めて舅姑に見ゆれば、舅姑も亦
芦す。 ゛
冠者が、母と兄弟とに見える時には、母と兄弟とが先に拝するのであ
る。この場合の拝の儀節は、普通の場合の拝とは差異があるのである。
昏礼の場合にもそのような拝をするのである。新婦が始めて舅姑に見え
る時にも、舅姑もまた新婦の拝に答えて拝するのである、と。 Λ大意V 冠者に対する母と兄弟の拝と、新婦か舅姑に見える時の拝とが同一 性格をもつ侠拝に当ることを述べる。 注 ○冠者⋮−冠者か母に見えることについては前節参照。冠者か兄弟に見え ることについては、経文に﹁冠者見二于兄弟一。兄弟再拝。冠者答拝・:﹂と ある。○婦始・:−士俗礼の新婦か舅姑に見える礼に関する経文に﹁⋮婦 執二部東・栗一、自’門入、升‘自二西階一、進拝蓼一于席‘。舅坐撫‘之、興答 拝。婦還又拝。。・:﹂と、鄭注に﹁還又拝者、還二於先拝処一拝。婦人与‘受 夫一為y礼則侠拝﹂とあぢ。 −︲ ヽバ L ㈲ 士冠破始冠゛一縫布冠y冠而弊i-之。\弊1 限y用也。義隆士︿ 、\’ う れ用ひ。ざればなり。 。。 1 − a 4 ﹁士冠礼﹂ では、三度の加冠の儀節の中で、始めての冠を加えるに は、絹布の冠を冠らせる。その場合、冠礼が終了したら、これを弊てる のである。弊てるのは、これを用いないからである。 ︿大意▽ 始加の冠は、繩布冠であって、儀礼終了後は、不用として棄てると する。 注 ○始冠⋮︱士冠礼の始加に関する記文に﹁冠義、始冠、細布之冠也。⋮⋮ 冠而敵’之可也﹂とある。なお、この文は、﹁礼記﹂・郊特牲に引くもの と同一である。買疏は、士以上は敞つるが、庶人はこれを著用する︵聶崇 義同じ︶といい、江永はその理由を、後世の玄冠は紛を用いて布を用いな いからだとしている。前掲﹁儀礼﹂Iの四五頁参照。 士 昏 I 儀破昏破、下達用‘高。注謂’在‘下之人、達二二家之好一而用表鷹、 非也。此只是公卿・大夫下達二庶人一、皆用・高。後得二陸農師解一、亦 如・此誕。陸解多二杜撰‘。亦鮑有二好處一。但簡略難い看。陳祥道破書考 得亦ほ也・淳○義剛録云、揮之云、自二通典‘後、牙一入理二會破一。本朝但有二 ´´穏 n 陳祥道・陸佃略理會宗一。日、陳祥道理會得也穏也。陸農師 也有二好處一。但杜撰處 多。如二儀鐙一云云。 ﹁儀破﹂の︵士︶昏破に、﹁下達して鷹を用ふ﹂と。注に﹁下に在る0 人、二家の好を達して、局を用ふ﹂と謂ふは、非なりご
公卿・大夫より下庶人に達するまで、皆 通じて肩を用ふるなり。後、
陸農師の解を得るに、亦此の如く誕けり。陸の解は杜撰多し。亦鮑好き
處有り。但だ簡略にして看難し。陳祥道の﹃殿書﹄考へ得て亦穏なり。
○義剛か録に云ふ、揮之云ふ、﹁通典﹂より後、人の趨を理會すること尤し。本朝、 但だ陳祥道・陸佃のみ略理曾し来る有り、と。日く、陳祥道は、理會し得て也 た穏なり。陸農師も也た好き處有り。但だ 杜撰なる處多し。﹁儀饅﹂の如き云云、と。 ﹁儀礼﹂の士の結昏の礼に、﹁媒介者を通じて女の家へ結婚の意志を 通達し、納采には生きた厠を用いる﹂とある注釈に、下に在る人が、婿の 家は結婚の意志を、女の方は許諾するとの両家の好を通達するのに鷹を 用いると云っているのは、間違いである。この文意は、上は三公・九卿 や大夫から、下は一般庶人に至るまで、納采の意を示すため、皆筒を用 いるのだとのことである。その後、陸農師の礼解釈書を見得たところが、 彼もまたそのように説いている。陸氏の理解には不正確で間違いが多い が、その反面、また好い処も多く見えるのである。しかし、その説明が 簡略であるので、よく理解できないものがある。陳祥道の﹁礼書﹂は、 よく考えられていてヽその説は穏当である・ ○皿丿句皿瞬︸心と。一 一一に匹 後、人々は礼を理解しなかった。ただ本朝の陳祥道と陸佃とは、大体礼を理会す ることかできていた、と。朱子言う、陳祥道は礼説をよく理解することかできて いて、その説は穏当である。また、陸佃の礼説も好い処も多くあるか、た だ杜撰な処が多く存する。例えば、﹁儀礼﹂の何々のようである、と。 ︿大意V 昏礼の﹁下連用蕩﹂の意味を述べ、末代の礼学者、陳祥道・陸佃な どの礼書についての所見を説く。 注 ○下達⋮−士昏礼の納采に関する経文に﹁昏礼、下達、納采用・鴎﹂と、 鄭注に﹁達通也。将・欲三与‘彼合二昏姻一い必先使三媒氏下二通其言一。女氏 許’之、乃後使三人納二其采択之礼で・﹂とある。頁疏に﹁言二下達一者、男 為’上、女為’下、取二陽侶陰和之義一。故云二下達‘。謂以‘一言辞’、下二通於 女氏‘也。・:﹂とある。ここでは、昏礼には身分の如何に関せず蕩を用い ゛ることの意。○注謂⋮−﹁礼記﹂昏義に︷昏礼者将7合二二姓之好‘、上以 事二宗廟︸、而下以継申後世上也﹂とある。○陸農師−﹁語類﹂巻八十四・㈲ 八五 朱子礼関係文献国訳口︵山根︶ 節注参照0 恐らく﹁礼2 解﹂か、﹁儀礼6 ﹂に見えるも0 であろう0 ○陳 祥道−字は用之︵1053-1093︶。福州の人。礼関係の著に、﹁礼書﹂百五 十巻がある。○通典−巻八十四・皿節の本文と注参照。○択之−林用中。 古田の人、朱子は畏友とする。﹁朱子文集﹂巻七十五に﹁林用中字序﹂が 見える。 剛 問、昏徴用い鷹。婿執‘鷹。或謂、取・‘︼其不二再偶一。或謂、取’其順二陰 陽‘往来之義上。日、士昏破謂二之価乗‘。蓋以・士而服二大夫之服‘爵弁、 乗二大夫之車一墨車、則富‘執二大夫之賢一。前説恐傅會。又日、重二其徴一 而盛二其服一。賜 問ふ、昏徴に薦を用ひ、婿、薗を執る、と。或ひと謂ふ、其の再び偶 せざるに取る、と。或ひと謂ふ、其の陰陽に順ひて往来の義に取る、 と。日く、﹁士昏徴﹂に之を価乗と謂ふ。蓋し士を以ってして大夫の服 爵弁を服し、大夫の車墨車に乗れば、則ち富に大夫の賢を執るべし。前 説、恐くは傅會ならん、と。又日く、其の徴を重んじて其の服を盛に す、と。 問う、結婚の礼の納采・納吉・請期などに摯として鷹を用い、また、 親迎の時に、婿が高を執ることについて、或る人は、婦が再度配偶者を かえない意味だといい、或る人は、陰陽の変化に順応して規則正しい結 婚の順序を明示する意味に取ったのだと、云っていますが、どうでしょ うか、と。言う、﹁士昏礼﹂では、これを摂乗と云っている。よく考え て見ると、士の身分であって、士の上等の祭服で大夫の服である爵弁を つけ、主人︵=婿︶討普通ならば、士の車である検車に乗るが、礼を盛 大にして、大夫の乗る革のついた墨車に乗るのであるから、当然大夫の 賢である肩を執るべぎである。だから、前の説は、恐らくこじつけであ ろう、と。又言う、昏礼は重大な儀礼であるから、それを重んじて、大 夫の服をつけて盛大なものにしたのである、と。 Λ大意V ﹁鄭注・頁疏﹂や程伊川の説を批判して、昏礼の摯に鵬を用いるこ との意味を述べている。八 六 高知大学学術研究報告 第二十八巻 人文科学 注 ○用・肩・:−士昏礼の納采に﹁昏礼、下達、納采用‘両・:﹂、納吉に﹁納吉 用・○、如こ納采礼一﹂、請期に﹁請期用’両⋮﹂とある。○婿執・・・−親迎 に﹁賓執‘○従。・:﹂とある。朱子﹁家礼﹂には、簡省に従って、親迎の みに○を用いるとする。○或調⋮−﹁工程遺書﹂に﹁婚礼執‘両者、取三其 不二再偶一爾。非二随y陽之物一﹂︵巻二十四︶と、伊川の考え方。○順陰陽⋮ −士昏礼の鄭注に≒用y両為・摯者、取其順‘一陰陽一往来⋮﹂と、頁疏に﹁案 周礼大宗伯云、・以y禽作二六摯一。卿執旨∼大夫執y両、士執‘誰。此昏礼 無y問二尊卑一、皆用‘両。故鄭注谷一言云、取三其順二陰陽一往来也。陰陽往来 。﹃ ・者、、両木落南翔、泳沖北狙、夫為‘陽婦為‘陰。﹃今用i両者、亦取二婦人従で 夫之義一。・1 以昏礼用‘焉。⋮﹄とある。﹁白虎通﹂ ・ぜ娶篇にら礼日、。女ヽ・