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道徳科の授業づくりの焦点としての教育内容・教材研究 —「大喜利型授業」を超えるために—

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道徳科の授業づくりの焦点としての教育内容・教材研究

——「大喜利型授業」を超えるために——

山 崎 雄 介

群馬大学教育実践研究 別刷

第38号 313~322頁 2021

群馬大学共同教育学部 附属教育実践センター

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道徳科の授業づくりの焦点としての教育内容・教材研究

——「大喜利型授業」を超えるために——

山 崎 雄 介

群馬大学大学院教育学研究科教職リーダー講座 道徳科の授業づくりの焦点としての教育内容・教材研究 山崎雄介

Critical analysis on contents and textbooks for moral education:

Overcoming “Ohgiri-type” lessons

Yusuke YAMAZAKI

Program for Leadership in Education, Graduate School of Education, Gunma University キーワード:特別の教科 道徳(道徳科),教育内容研究,教材研究,いじめ防止対策推進法

Keywords : Special Subject Morality(Dotoku-ka), Research on contents of education, Research on subject matter, Act for the Promotion of Measures to Prevent Bullying

(2020年10月30日受理) 1 問題の所在  2008年版学習指導要領までの「道徳の時間」を「特 別の教科 道徳」(以下「道徳科」)に再編する,い わゆる「道徳の『教科化』」は,2018年度に小学校, 2019年度に中学校でそれぞれ,他教科も含めた2017年 版学習指導要領への完全移行(前者が2020年,後者が 2021年)に先がけて全面実施された。  道徳科の全面実施前後の時期には,指導要録への評 価欄の新設という事情もあり,多くの学校現場の関心 は「評価をどうするか」に向いていた。しかし,「児 童生徒の成長を認め,励ます個人内評価として文章表 記で実施」,「評定や観点別評価は実施しない」,「入学 者選抜への使用は不可」といった枠組のもと,道徳科 の評価結果の利ス テ イ ク ス害関係の度合は低い,「主体的・対話 的で深い学びの実現」や「カリキュラム・マネジメン トの実施」など課題山積の中,道徳科の評価にかけら れる手間には限界がある,などの事情にあり,小・中 学校とも,1年間の実践を経て,評価についての混乱 はほぼ収束したといってよい。代わって,教科書を実 際に使用するなかでのさまざまな問題もあり,あらた めて「授業づくり」が課題として浮上してきている。  筆者は先に,道徳「教科化」の肯定的可能性,否定 的可能性を数点ずつ挙げておいた。前者としては, 「実現の公算は極めて低い」(山崎,2015:163)とし たうえで,①関連諸学との真摯な対話,②教育内容・ 教材の洗練(愚劣な教材・実践の駆逐),③授業方法 の洗練,の3つを挙げておいたが,「教科化」実施後 の実情をみる限り,残念ながらやはりこれらの可能性 は開花しなかったといわざるを得ない。とくに,前記 ②について,その導入が「教科化」による従来からの 最大の変更点であり,法令上「主たる教材」として使 用義務が課される(学校教育法第34条第1項)検定教 科書の質が高くないこと,それに起因して③の可能性 も十全に開花しなかったこと,は深刻な問題である。  さらに根本的な問題として,道徳科の「教育内容」 であり,教科書作成の基準となる,学習指導要領に示 された内容項目についても,批判的に検討すべき点が ある。加えて,道徳「教科化」の根拠として「いじめ への対応」が呼号されたことと,「いじめ防止対策推 群馬大学教育実践研究 第38号 313~322頁 2021

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進法」制定やその後の文部科学省,地方教育委員会の 諸施策との「相乗効果」についても無視できないもの がある。  そこで本稿では,道徳科の授業づくりの出発点とし ての「教育内容・教材研究」に焦点をあて,道徳科授 業の質を高めていくための方途を探究する。具体的に は,2で道徳科の教育内容としての「内容項目」やそ れにもとづいて作成された検定教科書の問題点を検討 することを通じて,教育内容・教材研究の視点を提示 する。3では,それら教育内容,教材の問題に起因し て道徳科授業が陥りがちなパターンとして,「大喜利 型授業」という概念を,具体例とともに提案する。4 では,「大喜利型授業」に陥りがちなテーマとして, 2017年版学習指導要領での道徳教育全般や道徳科で重 視されている「いじめ」について,背景としての「い じめ防止対策推進法」とそれにもとづく政策動向にも 触れつつ論じる。 2 道徳科の教育内容・教材をめぐる諸課題 2.1 学習指導要領「内容項目」と教科書検定  2017年版学習指導要領では,「道徳の時間」同様, 道徳科の教育内容を「内容項目」として示している。 ただし,「教科化」でそれが教科書検定と連動するこ とで,副読本時代とは異なる形で個々の教材を強力に 規定することになった。  道徳科の内容項目は,たとえば「[感謝]家族など 生活を支えてくれている人々や現在の生活を築いてく れた高齢者に,尊敬と感謝の気持ちをもって接するこ と」(小学校第3・4学年)のように,[ ]で括られ た見出しと説明文から成っている(見出しは2017年版 から新設)。副読本時代は,検定が行われないことも あり,内容項目の説明文と教材文との対応については 作成者の判断にゆだねられていたわけだが,教科書に なり,検定を経ることによって,その対応に厳格さが 求められることになった。  具体的には,説明文に盛られた要素が教材文で網羅 されていないと,「学習指導要領に示す内容に照らし て,扱いが不適切である」との検定意見が付され,結 果として,教材文が内容項目の説明文の敷衍に限りな く近づいたのである(浪,2015など参照)。たとえば 上記[感謝]であれば,感謝の対象として「家族」, 「高齢者」の双方が当該学年分の1冊で(必ずしも単 独の教材文である必要はない)カバーされていなけれ ば,上記の検定意見が付され,教科書会社は修正を求 められることになる。  ちなみに浪(2019:125-126)は,小学校分第2回 の教科書検定において,ある社の5年生用「ノート」 の[感謝]にかかわるコラムで,「〔日々の生活を支え てくれる人々の善意に〕気づいた時,わたしたちは何 を思うでしょうか」という問いが,上述の検定意見を 経て「家族や多くの人の支え合いや助け合いで成り立4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 つ日々の生活4 4 4 4 4 4に気づいた時,わたしたちは何を思い, どう応えていける4 4 4 4 4 4 4 4でしょうか」と,ほぼ高学年[感 謝]の説明文の引き写し(傍点部が説明文にある語 句)に化す,「問いの中で答が出されてしまうという 茶番」が生じたことを指摘している。  基本的に各社とも,教科書中の各教材文の末尾や, 一部の社では付属の「ノート」類の当該教材の箇所 には,「考えてみよう」等と題して,授業中の討論や ワークシートへの記載の際の課題例が掲載されている が,こうした課題例も,上記のような検定姿勢に制 約される。このため,教科書教材の少なくない部分 は,道徳「教科化」の眼目であったはずの「考える道 徳」,「議論する道徳」には背馳するものになっている のである。  とするならば,法令上の使用義務との関係で多くの 時間で教科書を使用せざるを得ない現場にあっては, こうした構造的な問題点をふまえながら,批判的に教 育内容研究・教材研究を行うことが,質の高い授業を 提供するためには必須となる。章を改めて論じよう。 2.2 内容項目自体の問題と教材への影響 2.2.1 [善悪の判断,自律,自由と責任](小学校 中学年)  道徳科の内容項目の中には,教材文等を通じた授業 への具体化の際に,さまざまな問題を惹起し得るもの もある。  第1に,内容項目の表現が行為者の主観的な意図・ 意志のみを問題にしており,行為の客観的な帰結を等 閑視している,あるいは少なくともそう読まれる可能 性の高い記述になっているケースである。この場合, 行為者の主観的な意図は内容項目の表記に合致してい るが,行為の現実的な帰結までを視野に入れると,そ

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315 道徳科の授業づくりの焦点としての教育内容・教材研究 の行為が道徳的に「善い」とはいい難いということが あり得る。  たとえば,小学校第3・4学年「[善悪の判断,自 律,自由と責任]正しいと判断したことは,自信を もって行うこと」についてみよう。まず,正しいと判 断した「こと」の内容として,大きくは行為の「目 的」と,その目的を達成するための「手段」がある。 行為が道徳的に「善い」といえるのは,もちろん目 的,手段の双方が正しい場合に限られる。目的,手段 のいずれかないし双方が誤っている場合,その行為を 「自信をもって」行うことは,「善い」とはいえない。  上記の問題点が教材レベルで顕現している例とし て,「サッカーボール」(『小学どうとく ゆたかな心 4』光文書院)を挙げておく。まず粗筋を紹介する。  主人公が友人とサッカーに興じている最中,グラウ ンドを通りかかった1年生くらいの男の子にボールが 当たり,その子は転倒する。主人公はすぐ駆け寄って 助け起こすが,ボールを蹴った当人も含め,友人たち が男の子のことを気にもかけずゲームを続けるのに憤 慨して,ボールを奪い取って座り込む。主人公を非難 する友人たちに対し,「きみたちは何も感じないのか」 と一言返し,主人公は座り込み続ける。  さて,このケースで,主人公の行為の「目的」,す なわち友人たちへの注意喚起にたいしてはとくに異論 なく首肯できる。  しかし,そのための「手段」については疑義があり 得るだろう。教材文に記述された範囲では,主人公の 意図,メッセージは受け手である友人たちにまったく 伝わっていない。とするなら,この「手段」について 主人公が「正しいと判断した」のは誤りだったので は,との疑いが濃厚に生じる。であれば,この「手 段」を「自信をもって」行うことは,道徳的な「善」 であるよりは,「独り善がり」というべきものである 可能性も多分に考えられる。さらには,主人公と友人 たちとの関係の悪化という帰結も推測される。  こうした,内容項目の諸要素それぞれと,要素間の 関連,その教材への反映の仕方について検討すること が,教育内容・教材研究の第1の視点である。 2.2.2 [規則の尊重](小学校高学年)  第2に,内容項目に含まれる社会科学的概念の,学 習指導要領や同解説での解釈には,疑義を呈さざるを 得ないものが含まれている。ここでは具体例として, 小学校[規則の尊重]の第5学年・第6学年分(法や きまりの意義を理解した上で進んでそれらを守り,自 他の権利を大切にし,義務を果たすこと)を挙げてお く。とくにここで問題にするのは,後半の「権利」と 「義務」との関係である。  この点について,文部科学省(2017:51,傍点引用 者)は,「他人の権利を理解,尊重し,自分の権利を 正しく主張するとともに,義務を遂行しないで権利ば4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 かりを主張していたのでは社会は維持できない4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4ことに ついても具体的に考えを深め,自分に課された義務に ついてはしっかり果たそうとする態度を育成すること が重要」と述べている。  しかし,こうした,義務の履行をその付与・享受 の条件とする「権利」観は,貸借関係など個別具体 的な行為レベルのケースにより親和的なものであ り,たとえば生存権など基本的人権の根幹部分,「自 他の権利を尊重する」といった倫理的・道義的な意 味での「義務」は十分にカバーされない。こうした 権利-義務観が具体的な教材レベルで問題を惹起し ている例として,「これって『けんり』? これって 『ぎむ』?」(『新訂新しい道徳5』東京書籍)を挙げ ておく。  この教材はまず前半で,4つの具体的場面を設定し ている。第1の場面は友人との本の貸借の場面で,貸 した側・借りた側各々の権利-義務,第2の場面は学 校のボールを休み時間に使う権利と使用後に元の場所 に返却する義務という,特定の行為レベルで権利-義 務のセットが成立する事例である。  それに対して,第3の場面はきょうだいで1つの ゲームを共有するケース,第4の場面は校庭の使用に 際してのルール遵守という,「権利間の衝突が想定さ れる場合に,互いに他者の権利を尊重する義務」とい う,抽象度の高い事例になっている。  これらをうけて,権利・義務を考えるための素材と して,学習発表会での演劇のキャスト・スタッフを決 定する場面を扱った物語が提示される。主人公(ぼく /村田)は演劇の主役に推薦され,本人もやってみた い気持ちはあるものの,週2日設定される放課後練習 日の一方が,3年生のときから始めたピアノのレッス ンと重なって参加できない旨を表明する。「自分勝手 だ」との声もあがる中,学級委員が「メインキャスト

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10人の都合を全部聞いていたら練習日が設定できない かもしれないので,どうしたらいいか考えてほしい」 というところで話は終わる。  教科書ではその後に,「考えよう① 村田さんとク ラス全体,それぞれの『けんり』と『ぎむ』はなんで しょうか」,「考えよう② 学習発表会を成功させるた めに,クラスのみんなにとってだいじなことはなんで しょうか」という2つの課題が提示されている。し かし,上述の場面で「義務」を云々するとしたら, 「相互の事情を最大限考慮して,合意可能な解決策を 探る」という倫理的・道義的レベルのそれが両者に共4 4 4 4 通に4 4存在するとしかいいようがない。したがって, 「それぞれの」という,個別具体的な行為レベルでの 権利・義務が「村田君」と「その他のクラスのメン バー」で別個に4 4 4存在するかのような問い方は,いかに もミスリーディングである。  さらにいえば,「考えよう②」,つまりこのケースで の具体的な解決策を考える段になれば,主人公の側に もクラスの他のメンバーの側にも,特定の行為を相手 に強いる「権利」も,他者の都合に一方的に従う「義 務」もない以上,権利,義務という語を用いたところ で議論は生産的になりようがなく,これらの語はむし ろ邪魔でしかない。  こうした,内容項目,あるいはそれにもとづいて作 成された教科書教材における中心的な概念に関する解 釈の正否を精査することが,教育内容・教材研究の第 2の視点である。なお,山崎(2020)では,こうした 観点から,中学校での[遵法精神,公徳心]の定番教 材「二通の手紙」(2019~20年度使用分全社で採用) について批判的に検討している。併せて参照された い。 2.3 教材文と社会変化とのズレ  いっぽう,教科書教材の問題点として,古くからの 定番教材,文科省『私たちの道徳』等から流用された 教材などで,社会変化に取り残され,ズレが生じてし まっていることがしばしばみられる。具体例として, 中学校『私たちの道徳』初出で,中学校教科書でも採 用率が高い(2019年度より使用中の8社中5社)「言 葉の向こうに」を採りあげよう。内容項目[相互理 解,寛容],情報モラルなどの文脈で用いられるもの である。まず粗筋を紹介しておく。  主人公「加奈子」は,サッカーに関するインター ネット上の掲示板で,贔屓のA選手に対する誹謗中傷 を見かけ,憤りのあまり,相手と同様の乱暴な言葉遣 いでコメントをつけてしまう。そのことを他の「穏健 な」参加者に注意され,「あなたが書いた言葉の向こ うにいる人々の顔を思い浮かべてみて」と諭された加 奈子は,「すごいこと発見しちゃった」と母に告げる。  この教材の問題として,第1に,「穏健な」参加者 に共有されている「荒らしはスルー」,すなわち悪意 をもった参加者は無視するという態度は,娯楽目的で の掲示板等での「作法」として,ごく部分的には該当 する。しかし,近年のSNS等での誹謗中傷やそれによ る自殺などの被害,またそれに対する法的措置の強化 などの状況をふまえれば,この「作法」が妥当性をも つ範囲は急速に狭まりつつある。  また,近年twitter等で,しばしば乱暴で激しい言葉 遣いで社会的・政治的メッセージが発信され,それが 大きな影響力をもつことがある。それに対し,言葉遣 いのみをあげつらい,メッセージの内容を無視した り貶めようとしたりする論法が,トーン・ポリシング (tone policing)として批判されている。  たとえば国内では「#保育園落ちた日本死ね」への 非難の大半,海外では「#BlackLivesMatter」への 「黒人以外の命はどうでもいいのか」式の揚げ足取り などは,トーン・ポリシングの典型といえる。  こうした社会状況の変化をふまえれば,加奈子へ の「穏健な」掲示板参加者の「説教」は,「重大な悪 影響をもたらすかもしれない発言を『無視』で済ませ る」,「発言の内容を吟味せず,言葉遣いだけで論難す る『トーン・ポリシング』に陥っている」などの深刻 な問題をはらんでおり,およそ「すごい発見」などと いえたものではないだろう。  こうした,教科書教材,さらにその背景にある内容 項目自体が,社会変化との関係でズレを生じていない かという点の検討が,教育内容・教材研究の第3の視 点である。内容項目[家族愛,家庭生活の充実]に配 当された教材における家事労働や介護についての扱い も,こうしたズレが拡大しつつあるものの典型といえ るだろう。  前者についていえば,小学校中学年の定番教材「お 母さんのせいきゅう書」における,「家族愛の発露と しての,金銭には換算できないもの」という家事労働

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317 道徳科の授業づくりの焦点としての教育内容・教材研究 観が,「逃げるは恥だが役に立つ」,「私の家政夫ナギ サさん」といった,多様な家族観,ライフスタイルの 中での家事労働の位置やその経済的側面を扱ったTV ドラマを視聴してきた小学生に対して,リアリティを もちうるかはきわめて疑問である。  後者についていえば,介護を要する高齢者が登場 する教材の多く(たとえば中学校「一冊のノート」) が,「介護は家族が担うのが当然」といった価値観を 暗黙裡に刷り込む結果になっていないかどうかは,授 業にあたって検討しておくべき点だろう。  道徳「教科化」の基本理念として「考える道徳」, 「議論する道徳」が標榜され,さらに道徳教育に係る 評価等の在り方に関する専門家会議(2018)で「質の 高い指導方法」の例として「問題解決的な学習」が提 案されるなどの中で,道徳科に即した指導方法につい ては多数の解説書,授業アイディア集の類が刊行され た。それらは総じて,内容項目や教科書教材自体は所 与のものとしたうえでの発問,板書,討論のさせ方等 の提案にとどまっている。  しかし,本章で提案したような視点からの教育内 容・教材自体への検討を欠いては,真に質の高い授業 づくりにはつながらないといえるだろう。 3 道徳授業の構造的問題 3.1 副読本時代の悪弊——ウワバミ主義  宇佐美(1974:73)はかつて,「道徳の時間」の読 み物教材の多くやそれに無批判な授業を,落語「浮世 根問」におけるご隠居の「ウワバミ」の語義の説明に なぞらえ,「ウワバミ主義」と呼んだ。くだんの噺で ご隠居は,「『ウワ』ってのがあると思いねぇ」,「その ウワがバミたと思いねぇ」と,「思いねぇ」を連発し て無知な八つぁんを丸め込む。同様に,「資料の言葉 が粗く貧しくて,『形象』を成り立たせるほどに具体 的な事実(についての経験)を伝えられない」もとで 「『ねらい』〔内容項目〕が先立っているところでは, どうしてもウワバミ主義になる」(前掲書:74)と宇 佐美はいう。  では,この「ウワバミ主義」は彼の指摘から50年近 く経ち,「道徳の時間」が「道徳科」になって克服さ れたのだろうか。 3.2 ウワバミ主義の現代的変種——大喜利型授業  結論から述べると,宇佐美のいう「ウワバミ主義」 は,そのままの形で,あるいはやや形を変えて現在も 道徳授業にはびこっている。まず,そのままの形での それの象徴的な事実を1つだけ紹介しておくと,宇佐 美(1974)が「ウワバミ主義」の典型としてとりあげ た教材文「おおかみとくま」は,2020年度より使用中 の小学校道徳科教科書では,全社の1年生用で「はし の うえの おおかみ」という題で掲載されている。  いっぽう,「ウワバミ主義」の現代的変種の典型例 として,数十年前から「定番教材」となっており, 2020年度使用開始の小学校道徳科教科書でも全社で5 ないし6年生の[正直,誠実]の教材として採用され ている「手品師」の近年の扱いを採りあげる。きわめ て著名な教材でもあり,本稿読者にとって粗筋は不要 と考えられるので省略する。  この教材の,「約束を守って大劇場出演のチャンス を断り,『たった1人のお客様』に手品を観せる」と いう手品師の行動については,古くから批判があり, また授業においても,子どもたちが手品師の行動に納 得せず,さまざまに「対案」を提案し,教材作成者や 教師の意図通りに授業が運ばないことが指摘されてい る。  いっぽう,手品師の行為,すなわち,「男の子との 約束を優先して,大劇場出演のチャンスを断る」こと の道徳的な問題性については,松下(2011)が端的か つ的確に指摘している。すなわち,それが実は関係す るすべての当事者にとって誠実4 4さを欠くという,まさ に内容項目の核心にかかわる致命的な欠陥である。  第1に,チャンスをもたらしてくれた「友人」に 対しては,「代役探し」という彼の責任への顧慮を欠 いている。第2に,男の子(=たった1人のお客さ ま)に対しては,その場限りの慰めを提供しているに すぎず,彼の問題の本質的な解決には向きあっていな い。第3に,自分自身に対しては,手品師としての成 長という自己のニーズに誠実に向き合っていない。第 4に,手品という文化を支える大劇場の観衆に対して も,当該文化の共同体メンバーとしての責任を果たし ていない(松下,2011:27-29)。  近年の「手品師」を用いた,しかも教材作成者の意 図に無批判な授業や,現行の検定教科書の多くでは, 上記のような手品師の行為の不合理さ・不誠実さに子

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どもたちの目が向くことを回避するため,姑息な弥 縫策を講じている。それは,終末部での「たった1人 のお客さまに手品を観せている」際の手品師の心情を 考えさせるという課題設定である。教科書等によって は,友人からの誘いを受けて迷う手品師の心情を考え させる課題が加わる場合もあるが,総じて,「大劇場 への出演を選ぶ」ということが選択肢の1つとして正4 当に4 4顧慮された課題設定はみられない。  子ども自身,本心では納得できない(自分が——さ らにいえば教師も——その立場だったらまず選ばない であろう),その後の自らのキャリアそのものを棒に 振る可能性が高い,「男の子との約束を守る」行為を 無理やり前提として,その際の心情についてもっとも らしいことを発言したり書いたり,その結果をもとに 話し合ったりすることを強いられる状況は,道徳的価 値について真摯に「考える」,「議論する」こととはお よそ別物である。それはむしろ,滑稽な「お題」の縛 りのもとで司会者や観客の受けを狙った答えをひねり 出す,お笑い番組等によくある「大喜利」に限りなく 近いものである。  こうした,まともに考えればおよそ納得のいかない 「お題」の縛りのもとで,気の利いた発言や記述を競 う「大喜利型授業」は,道徳的価値をストレートに鵜 呑みにさせようとする「ウワバミ主義」より多少手が 込んではいるものの,本質的にはなんら進歩がない。 下手に手が込んでいる分,むしろ悪質だといってよい かもしれない。  もっとも,たとえば「手品師」のような個別の教材 についての,教科書での課題設定等のレベルであれ ば,教師自身の判断によって,「大喜利型授業」に陥 ることは回避可能ではある。たとえば,「大劇場への 出演を選んだ場合」,「男の子との約束を守った場合」 それぞれの誠実さを考える,など,比較的無理の少な い課題設定での授業例も多くみられる。もっともその 場合,男の子との約束を守る=大劇場出演のオファー を断ることの手品師本人にとってのリスク(既に自立 した手品師が1つの仕事を断るのとは違い,本人のプ ロとしての自覚,適格性に否定的な評価が定着する可 能性が高い)が正確に顧慮されているかは疑問なケー スが多いのではあるが。  しかし,現在の道徳科授業をめぐる動向には,個別 の教材レベルの問題を超えて「大喜利型授業」への傾 斜をもたらしかねない問題が存在する。最後にそれに ついて論じておこう。 4 いじめ「対策」と道徳科授業   ——「大喜利型授業」のもう1つの元凶 4.1 「いじめ」概念の拡大  周知のように,道徳「教科化」にいたる政府・文科 省の動きの端緒は,教育再生実行会議(2013)に端的 に表明された,いじめ問題への対応である。  文部科学省(2017:2)は,2015年の学習指導要領 一部改正=道徳「教科化」を,「いじめの問題への対 応の充実や発達の段階をより一層踏まえた体系的な ものとする観点からの内容の改善……などを示した もの」とするとともに,内容項目[相互理解,寛容] (同前:48),[公正,公平,社会正義](同前:52-53) の解説でいじめに言及している。  そこで,各社の道徳科教科書では,各学年にいじめ を扱った教材文,コラム等を配しており,また学校現 場でも,いじめを扱った授業は活発に展開されている。  こうした中で,見直しが必要だと思われるのが, 「いじめ防止対策推進法」(以下「法」)第2条のいじ めの定義,さらにそれを一歩進め,文部科学省初等中 等教育局児童生徒課長名で発出された「平成26年度 『児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する 調査』の一部見直しについて」別添資料2「児童生徒 1,000人当たりいじめ認知件数(平成25年度)にみら れる「いじめ」概念の拡大である。この資料では,上 記調査(現「児童生徒の問題行動,不登校等生徒指導 上の諸課題に関する調査」,以下「問題行動調査」)に おける学校間・自治体間のいじめ認知基準のばらつき を問題視し,とくに判断が分かれる以下の事例につい ても,いじめとして認知するよう設置者・学校に指示 している。   ●定期的ないじめアンケートにA君がいじめを受 けたことがあると回答した。後日,A君に面 談で確認した内容は以下のとおり。(A君,B 君,C君の証言は一致)   ・体育の時間にバスケットボールの試合を行った が,球技が苦手であるA君はB君からミスを責 められたり,みんなの前でばかにされたりして

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319 道徳科の授業づくりの焦点としての教育内容・教材研究 とても嫌な気持ちだった。   ・しかし,B君と仲がよいC君が,「かわいそう だよ。」と助けてくれて,それ以来,B君から 嫌なことはされていない。   ・その後,A君もだんだんとバスケットボールが うまくなっていき,今では,B君に昼休みにバ スケットボールをしようと誘われ,それが楽し みになっている。  こうした状況をうけて,現在,学校現場では,「問 題行動調査」への回答にあたっては,その場で解決し た一過性のトラブルであっても,苦痛・不快が生じた 場合は,いじめとして計上することになっている。し かしそれはあくまで,そうしたトラブルが本格的ない じめに発展することを未然防止するための措置であ り,文科省(や地方教育委員会)自身,こうしたケー スで苦痛・不快を与えた側への指導に際して,いじ めという語を用いたり,「絶対に許されない」などと いった高圧的な指導をしたりすることを要請している わけではない。  たとえば東京都教育委員会(2017:34)は,「法」 や「問題行動調査」上はいじめとして認知すべき事例 を整理する中で,「発言の苦手な子供に,『○○さんも 意見を言いなよ。』と強く促した」という事例を,「好 意で行った」,加害の意図はない行為ではあるがいじ めだと分類している。ただし,「加害の子供への対応 例」としては,「親切さを十分に評価した上で,発言 が苦手な子の気持ちについて,一緒に考える」とい う,しごく穏当なものが示されている。  ちなみに,文部科学省「いじめの防止等のための基 本的な方針」(2013.10)にもとづいて設置された調 査研究協力者会議「いじめ防止対策協議会」ではし ばしば,「法」(や「問題行動調査」)ではいじめであ るが,「行政実務上は,いじめと取り扱わない」事例 を現場に明示する必要性に言及している。たとえば, 2016年度の第1回会合で配布された資料「『いじめ』 の定義の解釈について(論点ペーパー)」では,「恋愛 感情の告白に対する拒絶」,「仲良しグループの自分以 外のメンバーがたまたま公園で出会って一緒に買い物 に行ったことを,その場にいなかったメンバーが後で 知って,『仲間外れにされた』と被害感情を抱いた」 などのケースが例示されている。  しかし,こうした方向でのまとまった学校現場への 情報提示は未だなく,「不快・苦痛が一時的にでも生 じれば『いじめ』」との「問題行動調査」的いじめ観 の影響力のみが強まっているのが現状である。  ちなみに田原(2017:67)は,上で引いた「いじめ 防止対策協議会」のケース(論点)に言及しつつ, 「いかに奇っ怪に見えようとも,法2条の定義が,そ のような『論点』をもたらすのは,その無限定さゆえ に必定である」としたうえで次のように提案する(同 前:69,傍点引用者)。   いじめ防止法のいじめ定義が過去30年にわたる政 府を筆頭とするおとなたちの努力の帰結であると いうことは,見方を変えれば,法2条は,逆説的 だが,いじめとは何かを自分たちの頭で考える4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 チャンスを児童生徒に提供してくれているといえ よう。私たちが,学校の日常において,同じよう に見える行為を,ある場合にはいじめである,別 の場合にはいじめではないと判断するとき,両者 を分かっているのは何なのだろうか。  しかし残念ながら,道徳科授業の現実は,田原が提 案したような,「法」や「問題行動調査」のいじめ観 を相対化する方向には向かっていない。  とくに,「法」第2条の「児童等に対して,当該児 童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一 定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理 的な影響を与える行為(インターネットを通じて行わ れるものを含む。)であって,当該行為の対象となっ た児童等が心身の苦痛を感じているもの」という定義 は,そのまま「いじめとは何か」の説明として——無 批判に——授業で引かれることも多いのが現状である。 4.2 道徳科授業への影響  しかし,「苦痛を感じれば即『いじめ』」というの は,われわれの生活実感とはやはりズレがある。およ そ人間同士の関係において,苦痛・不快の発生を完全 に抑止しようとするなら,そこに真正のコミュニケー ションなど存在しえないことは明らかだろう。  学校での教育活動に話を絞っても,授業中の発問へ の回答が不正解である旨教師に指摘される,話し合い で自身の意見が否定される,疑問が呈されるなど,苦

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痛・不快が発生し得る場面は枚挙にいとまがない。教 科外では,たとえば中学校の定番行事「合唱コンクー ル」などは,練習過程での生徒同士の——しばしば激 しい——対立と,それを乗り越える過程そのものがカ リキュラムの重要な一部であるとすらいえる。  ちなみに,道徳科の教科書教材にも,このあたりの 機微を——自覚的にというより結果として——指摘し たものがないわけではない。たとえば『中学道徳 と びだそう未来へ1』(教育出版)所収の教材「『いじ り』? 『いじめ』?」の後半に配置された漫画「『ご めんね』って言えたのに」である。  漫画の主人公「私」は,小学校時代仲が良かった友 人「アスカ」のことを何げなく「お笑い芸人に似てい る」と指摘する。その場にいた者はアスカ本人も含め 笑っていたが,その後アスカはグループから離れ, 「私」とは別の中学校に進学する。ある日「私」は学 校で,「アスカのことをいじめていたのはあの子だ」 と数名の女子生徒から名指しされ愕然とする。上記の エピソードのことを指摘され「いじめだなんて/そん なつもりじゃ ...」と反論する「私」に,非難した側 は「相手がいやだと思ったらいじめだよね」と言い捨 てる。  ちなみに教科書では,「アスカはどうして『傷つい た』と言えなかったのだろう」,「『私』がしたことは 『いじり』と『いじめ』のどちらだと思いますか」, 「お互いの考えや気持ちを伝え合うことができるクラ スにするには,どうしたらいいだろう」という3つの 課題が示されている。しかし,この教材は,くだんの 漫画の前に,近年バラエティ番組などで多用される 「いじり」という語を解説した文章と,イラストを添 えた「体に触ったりしない,言葉だけの『いじり』」, 「みんなが笑えてクラスが明るくなる『いじり』」など 3例を挙げて,「あってもよい『いじり』」を理由とと もに考えさせるという課題を配している。  こうした構成によって,「『私』がしたことは『いじ り』と『いじめ』のどちらだと思いますか」という先 に引いた教科書の課題は,疑問文の形ではあるが,真 正の「問い」というよりは,「いじめ」という答えを 誘発するものになっていると判断せざるを得ない。し かし,発言時点あるいはその後に「アスカ」からの 「傷ついた」というフィードバックもなく,重ねて何 がしかのからかいなどをしたわけでない「私」の行為 が,はたして「いじめ」に該当するのか,内心では疑 問に思う生徒は少なくないと考えられる。  「法でいういじめ」と「行政実務上のいじめ」など という明文化された言語表現はできないにしても,内 心でこれにあたる区別をしている生徒にしてみれば, 「私」の行為を「いじめ」と判断するという前提で発 言なり記述を強いられる時間は,まさに「大喜利」で しかないだろう。  筆者からすれば,この漫画で一番深刻な問題なの は,「相手がいやだと思ったらいじめだ」という,早 期発見のツールとしての「いじめ観」をいささか過剰 に内面化して,「私」を断罪する——こちらの方がよ ほど,「行政実務上も」いじめとして扱うべき,まご うかたなきいじめであろう——生徒たちの姿である。  さらにいえば,くだんの「いじめ観」を逆方向に過 剰に内面化した姿としては,相手に苦痛・不快を与え ることを恐れるあまり,及び腰にしか他者に接するこ とができないという子どもたちが想定される。しか しこれはこれで,「よそよそしくしか接してくれない」 と相手を傷つける可能性もある。要するに,「些細な トラブルが深刻ないじめに発展することを防止するた めに,それらトラブルを『いじめ』というフィルター を通してみる」という,あくまで教師(など,いじめ 防止に特段の責任をもつ「大人」)にとってのツール を,そのまま子どもがもつべき「いじめ観」とする指 導は,論理的にも実践的にも破綻せざるを得ないので ある。  このように考えてくると,上記教材に象徴的に表現 されている学校現場の混迷は,子どもたちにとってと いうよりは,まずは教師,さらには大人たち一般に とって重要な省察の契機となりうるだろう。 4.3 問題の根源としての法自体の欠陥  みてきたように,「いじめ」をめぐる道徳科授業の 問題は,じつは道徳科授業の内部,つまり教育内容, 教材研究等の未成熟のみに起因するものではない。む しろ,いじめ防止対策推進法と「問題行動調査」とく に後者にかかわる文部科学省や地方教育行政から現場 への指示・指導に問題がはらまれている。「問題行動 調査」的「いじめ」観の問題性については前述したの で,ここでは「法」自体の問題点について論じる。  「法」については制定当初から,「拙速で制定された

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321 道徳科の授業づくりの焦点としての教育内容・教材研究 議員立法であるために,当事者である子どもたち・保 護者そして具体的な法的責務を負うことになった学校 現場の実情を踏まえないまま,多くの問題を抱えたも のではないかという不安と懸念」(小野田,2014:4) が表明されてきた。  その「多くの問題」の重要な1つが,前節までで述 べてきた道徳科授業への悪影響であるわけだが,その 主因である「いじめ」概念の拡大,早期発見のツール といじめの正確な定義との混同,といった事態の原因 として,ここでは「法」第9条,とくに第4項に着目 しておく。第9条は主として,「いじめ」問題の当事 者としての保護者の責務を規定したものであり,第1 項ではわが子が加害者にならないよう,「規範意識を 養うための指導その他の必要な指導」を行う努力義 務,第2項ではわが子が被害者になった場合に「適切 に当該児童等をいじめから保護する」義務,第3項で 国,自治体,設置者,学校のいじめ防止等に関する措 置に協力する努力義務が課せられている。そして,第 4項は以下の通りである。   4 第1項の規定は,家庭教育の自主性が尊重さ れるべきことに変更を加えるものと解してはなら ず,また,前3項の規定は,いじめの防止等に関 する学校の設置者及びその設置する学校の責任を 軽減するものと解してはならない。  ここで問題にしたいのはもちろん後半の「また,前 3項の規定は」以下である。この規定によれば,具体 的ないじめ事件をめぐる保護者と設置者・学校との間 の法的紛争にあっては,第1~3項の努力義務・義務 の履行状況とは無関係に,ほぼ全面的に設置者・学校 に責任が帰せられるということにならざるを得ない (いじめの予見,対応等にかかわる物理的な困難によ る酌量はあるにしても)。  では,このように設置者・学校に過大ともいえる責 任を負わせることの実践的意味について,立法過程で 十分に検討されたのだろうか。答えは否である。  「本法について……与野党協議及び国会質疑並びに 附帯決議案の起草を通じてその全論点にわたる検討と 解決策の策定を行い,さらに,上記の国の基本方針 〔「いじめの防止等のための基本的な方針」〕の策定に も関与した立法者」(小西,2014:2-3)を自任する小 西洋之(参議院議員,「法」策定当時民主党)は,上 記第4項後半について,おおむね以下のように解説し ている。  まず立案段階では,第4項の立法目的は,裁判での 賠償金等をめぐる争いの中で「学校と保護者との間で いわゆる責任の押し付け合いのようなことが行われる ……懸念を払拭するため」(小西,2014:65)とされ ていた。対して小西自身は,他の条項も含めた審議・ 修正過程において上記の目的は変容したと述べ,「私 見」として,「〔各当事者の〕責任を明確にした上で, 行政・学校がその責任を自覚し……いやしくも家庭ま かせにするようなことがあってはならないことを確認 的に規定したものと解するべき」(同前)としている。  しかし,当初の立法目的と小西の「私見」との間 で,少なくとも,「設置者・学校に無条件に全責任を 負わせることで責任の『押し付け合い』を回避する」 (なるほど最初から一方に責任が押しつけられていれ ば,たしかに押しつけ合い4 4にはなるまいが)という本 質的な欠陥については「変容」など認めがたい。さら に問題なのは,上記の引用を含む文の最後に括弧書き で付された以下の記述である。   なお,与野党協議において,当該規定の必要性も 含めたその法的意義を議論する時間等の余裕は得 られませんでした(小西,2014:65)。  設置者や学校に多大な法的責務を負わせる立法者と して,無責任きわまりないというほかはない。先に 引いた田原(2017)ふうにいうなら,「法律」が時と してこうした無責任なつくられ方をするという事実 は,道徳科[規則の尊重](小),[遵法精神,公徳心] (中)の格好の教材になるともいえるのかもしれない。  ともあれ,こうした,「いったん事が起これば自動 的かつ全面的に設置者・学校のせい」という状況のも とでは,教育行政や学校現場としては,「問題行動調 査」のいじめ観に象徴される「早期発見至上主義」に 走らざるを得ないのは必然である。そうした状況がい じめ対策として実際にどの程度の効果を挙げているの かについては別途精査が必要である。しかし,少なく とも道徳科授業については,上でみてきたような「副 作用」,すなわち,「法」・「問題行動調査」的いじめ観の 無批判な押しつけが生じていることは事実なのである。

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おわりに  以上,道徳科本格実施後の状況をふまえ,当面の重 要課題と考えられる教育内容・教材研究の視点と,授 業が陥りがちな陥穽について述べてきた。多くの現場 では,大半の時数で教科書教材を用いざるを得ないこ とは事実である。その意味で,さらに多数の内容項目 や教科書教材について,批判的な教育内容・教材研究 をふまえた活用の方途を提案・蓄積することは重要な 課題である。  いっぽう,道徳科の授業づくりにあたっては,教科 書教材にとらわれない自主的な教材開発も重要な課題 である。本稿ではこの点についてはふれられなかった が,「教科化」以前のそれも含め,教師たちには豊富 な教材開発の経験が存在する。教科書が「当たり前」 になる前に,こうした経験を継承可能な形に整理して いくことも今後の課題である。他日を期したい。 文献 道徳教育に係る評価等の在り方に関する専門家会議(2018) 「特別の教科 道徳」の指導方法・評価等について. 小西洋之(2014)いじめ防止対策推進法の解説と具体策. WAVE出版. 教育再生実行会議(2013)いじめ問題への対応について(第1 次提言). 松下良平(2011)道徳教育はホントに道徳的か?.日本図書セ ンター. 文部科学省(2017)小学校学習指導要領解説 特別の教科道徳 編. 小野田正利(2014)「いじめ防止対策推進法と,学校-子ども -保護者関係の変容」の内容構成について.季刊教育法, No.182:4. 浪伊豆生(2015)道徳「特別の教科」化の水準・再論——教科 書検定と「道徳教育アーカイブ」.前衛,No.952:122-133. 浪伊豆生(2019)指導した道徳科のもとで何が起こっている か.前衛,No.977:121-132. 田原宏人(2017)道徳教育の教材としての「いじめ防止対策推 進法」.札幌大学総合論叢,第43号:65-75. 東京都教育委員会(2017)いじめ総合対策【第2次】上巻[学 校の取組編]. 宇佐美寛(1974)「道徳」授業批判.明治図書. 山崎雄介(2015)「教科化」は道徳教育を改善するか.群馬大 学教育学部紀要 人文・社会科学編,第64巻:157-171. 山崎雄介(2020)道徳科の評価をどうとらえ,どう実践する か.民主教育研究所年報,第20号:64-74. (やまざき ゆうすけ)

参照

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