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唯識思想における意識と言葉

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Academic year: 2021

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唯識学派は、われわれが日常的に経験している世界の根底に、潜在意識によって生起せしめられた依他起性という ① 世界を想定する。﹃摂大乗論﹂︵二・二︶は依他起性の世界を、⑪身体[の表象]と、②身体の所有者[の表象]と、 ③経験者の表象と、側それによって経験される対象の表象と、⑤それを経験する[主体の]表象と、㈹時間の表象と、 切数の表象と、⑧場所の表象と、⑥言説の表象と、⑩自他を区別する表象と、⑪善趣と悪趣および死と生との表象と いう十八種類の表象からなるものと説明する。さらに同書︵二・五︶は、その中の仙から側は六根、側は六境、⑤は 眼識等の六識を指すものであり、要するにこれらは十八界を指すものであると言う。それゆえ①から⑤は、世界を形 成している十八界という構成要素のすべてが表象であることを示しているのである。また、⑥から⑪はこれらの構成 要素としての表象の或る特定の在り方を示したに過ぎないと説明する。したがって依他起性とは、基本的には、アー ラャ識が十八界として現われ出たものであると理解することができる。 さて、これらの十八界はアーラャ識の﹁現われ出たもの﹂ではあるが、まだ個々の事物としては認識されない混沌 とした状態にある。この十八界として現われた依他起性が基盤となって、机や椅子などの個々の事物からなる遍計所1

唯識思想における意識とことば

|依他起性のダイナミズム

谷信千代

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執性の世界が立ち現われる。そこにわれわれの日常経験の世界が生起する。このように依他起性の世界は静的な世界2 ではなく、本来存在しないものを存在せしめる虚妄分別のダイナミズムを有する世界である。その虚妄分別のダイナ ミズムの構造は、二・二において、十八界を構成する十一種の表象に過ぎない依他起性の世界が、あたかも主観的 存在と客観的対象物とを備えた実在の世界であるかのように立ち現われることとして説明されている。以下に、虚妄 なる分別にすぎない依他起性が、どのようにして実在の世界として立ち現われていくかを考察してみたい。 ﹃摂大乗論﹂によれば、依他起性の世界には、、王客に二分される要素が既に備わっている。しかし、それらの要素 はいまだ潜在的なものであり、個々の事物として明瞭には対象化されず識別されない。それらが明瞭な対象として識 別されないのは、この段階では意識がまだ無分別の状態にあるからだと思われる。ともすれば、眼識から身識に至る 前五識は無分別であるが、第六意識は分別を伴うものであるかのように考えられがちである。しかし厳密に言えば、 五識にも分別はあり、意識にも﹁無分別﹂と呼ばれる状態がある。世親は﹁倶舎論﹂で、五識にも自性分別があるが、 それにもかかわらず﹁無分別﹂と呼ばれるのは、それらに計度分別と随念分別とがないからだと説明している。自性 ② 分別とは尋︵対象を追求する粗放な心の働き︶のことである。意識にも詳細な働きを交えない粗放な心の働きである ③ 尋の状態の場合がある。その自性分別のみの意識は五識と同様﹁無分別﹂と呼ばれる。 計度分別︵四冒目日冨目︲く時四言四︶は﹁倶舎論﹂負路。︶では﹁意に属する散乱の言﹂つまり﹁三昧に入っていない時 ④ の、意識と相応する慧﹂と規定される。それに対する称友の注釈は、計度分別とは三昧に入っていないときの意識に 伴って生じる蕾であり、その意識に伴う慧は、三昧に入っていないので、その先端が種々に散乱し、焦点を失い、一 瞬毎に別の所縁︵対象︶へと向かって働くものであると述べる。そこでは意識の働きが、三昧に入っている心の状態 と三昧から出た日常的な認識の状態とに分けて説明されている。それによってわれわれは、意識が三昧状態から三味 を出た日常の状態へと移る場合にどのように変化するかを知ることができる。

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﹃倶舎論﹄とその称友の注釈におけるこの意識の変化に関する説明は、単に三昧状態から日常の心の状態に戻った 場合の意識の変化だけでなく、われわれの日常的な生活の深層において営まれている意識の変化にも適用し得るもの と思われる。つまり、この意識の変化の説明は、対象が認識される最初の瞬間に、深層意識において純粋経験された ばかりの依他起性の世界が、その直後の瞬間には、主観的存在と客観的存在として二分化され実体化された遍計所執 性の世界へと変化する場合の、意識の変化をも説明し得るものと考えられる。 称友は、三昧状態にない意識の働きである計度分別を﹁所縁に向かって名と関連して活動する﹂ものと注釈する。 称友によれば、計度分別とは、名と関連して︵目白号の爾菌︶所縁に向かって働き、所縁を﹁色である﹂とか﹁受であ る﹂等と決定し確定する慧、あるいはその慧を伴う意識である。他方、三昧中の修所成の慧は、名とは関連せずに所 縁に対して活動し、自性分別と呼ばれる。それゆえ、意識︵厳密には意識に伴う慧︶が名と関連性をもたないとき、 自性分別と呼ばれ、﹁無意識﹂と呼ばれる意識となる。他方、名と関連性をもっとき、計度分別と呼ばれ、日常的な 意識となる。前者は三昧状態にある意識であり、後者は三昧から出た場合の意識である。前者は依他起性における意 識であり、後者は遍計所執性における意識である。ただし周知のごとく、唯識学派では、依他起性は遍計所執性とま ったく別のものとは見倣されない。われわれに深層意識において無意識裏に認識されている世界は、いま現に目のあ たりに立ち現われている現実世界となんらかの共通する世界を有している。依他起性が遍計所執性と共有するその世 界に依他起性のダイナミズムが潜んでいる。そしてその両者の共有する世界は、意識が名と関連することによっても たらされるものであるように思われる。 それでは、われわれの日常経験の世界︵遍計所執性︶と深層の世界︵依他起性︶とが共有する、意識が名と関連す3

二意識と名

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ることによってもたらされる世界とはどのようなものであろうか。 握し、見によってそれに執着し、諸々の尋によってことば︵く凶。︶を発し、見たなどの四種の言説によって言説 をなし、存在しない対象を﹁存在する﹂と増益することによって増益する。 ここには、心の深層において認識されている世界︵依他起性︶が、第六意識によって捉えられ、実体化され、実在 する個々の存在として受け止められて、日常的に経験されている世界︵遍計所執性︶が立ち現われる状況が説明され

1意識の働き

﹃摂大乗論﹂︵二・一六︶は、依他起性が意識によって捉えられて遍計所執性に転ずる過程を次のように説明する。 遍計するものがあり遍計されるものがあるときに、遍計所執性がある。その場合、何が遍計するものであり、 何が遍計されるものであり、何が遍計所執性であるか。 意識が遍計するものである。分別を有するものだからである。それ︵意識︶は[それ]自体のことば︵号巨幽冨. g&息︶の黛習の種子から生じ、すべての表象︹を生み出す︺ことばの重習の種子から生じたものである。そ

⑤⑥

れゆえ無限の行相をもった分別として生ずる。すべてのものについて分別するがゆえに遍く計度するものとされ、 ゆえに遍計するものと呼ばれる。 依他起性が遍計されるものである。 ⑦ 依他起性において或る行相で遍計がなされるとき、そ[の行相]がそこにおける遍計所執性である。﹁或る行 相﹂でとは或る在り方でという意味である。 遍く計度するものはどのように遍く計度するのか。[すなわち]何を所縁とし、どのように因相︵己目冒︶を 把握し、どのように執着し、どのようにことば︵ぐ山。︾侭侭︶を発し、どのように言説︵ぐ胃ぐ騨訂国ゞ旨切昌且︶をな ③ し、どのように増益することによって遍く計度するのか。名を所縁とし、依他起性においてそれを因相として把 4

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ている。すなわち、われわれがいま現に目のあたりにしている机や椅子などの個々の事物は、そのようなものとして 認識される一瞬前までは、それらの個々の事物として存在していたのではなかった。それらは心の奥深くで意識され ない混沌とした状態で存在していた。その混沌とした無意識の状態である依他起性の世界にメスを入れて、個々の事 物に分節し、いま現に見聞きされているわれわれの日常経験の世界つまり遍計所執性の世界を造り出すのは、意識及 びそれに伴う心作用︵心所︶の働きだ、と言うのである。 右の引用文中﹁名を所縁とし﹂という語で始まる最後の箇所は、意識によって遍計所執性が造り出される状況を説 明したものである。しかしこの説明だけでは理解しにくいので、注釈を参照して考えてみたい。無性は次のように解 ⑲ 説している。 はない﹂と[経に]説かれる如くである。見たなどとは、見た・聞いた.覚えた・知ったという四種の言説 ︵ぐ旨ぐ煙冨愚︶である。たとえば蛇の名を所縁とするとき、縄において、蛇の因相である誉曲などを因相として ⑫ [捉え]、それに執着して、他の者に示そうとして﹁蛇を見た﹂と語︵冨骨︶を語る。それと同様である。 ここに引用した﹁摂大乗論﹂︵二・一六︶の記述は、先の第二・第五節に説かれた、ただ十一種類の表象に過ぎない 依他起性[すなわち]眼など[の表象]において[それを因相として把握する]。それに執着しとは、五種の見 ⑩ が計度[分別]の行相をとって生じるからである。因相としたものに執着するからであり、因相に執着すること によってという意味である。計度[分別]された対象に対して見によって﹁これは是の如くである﹂と執着し、 他の者に示そうとして尋と伺とによってことば︵ぐ凶。︶を発する。﹁尋せず伺せずに言葉︵句、周烏︶を語ること 、 名を所縁としとは、〃デーヴァダッタ〃などの名を聞くときに対象を遍計するが、名を聞かなければ対象を分別 することはできない・依他起性[すなわち]身体など[の表象]においてそれを因相として把握しとは、﹁自相 を執し﹂という意味である。因相として把握するのは想︵い“且爵︶である。想したように言説をなす。あるいは

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その過程は次のような六項目に分けて説明されている。 仙名を対象とする本論の﹁名を所縁とし﹂という語を、無性は、名を聞くことがなければ、意識は対象を認 識することはできないことを意味するものと解している。つまり意識が対象を認識するためには必ず名を対象とする ということがなければならないと言うのである。 ⑬ ②名を依他起性の上に因相として把握する次の﹁依他起性においてそれを因相として把握し﹂という語を、 無性は、自相を執するという意味だと言う。つまり、﹁デーヴァダッタ﹂などの名︵概念︶が発せられるときに、本 来言説を離れた無分別な依他起性の世界において、意識がその名を因相︵巳目目︶として把握することを言う。名を 因相として把握するものは、厳密に言えば、意識に伴う想︵団且目︶という心作用である。そのことを無性は﹁因相 として把握するのは想である﹂と注釈したのである。﹁因相として把握する﹂ということが実際にはどうすることを 意味するかについては後に考察する。 ③見によってそれに執着する次の﹁それに執着し﹂という語を、無性は因相としたものに執着することと解 する。つまり、想によって名を因相として把握したものを、次に、意識に伴う別の心作用である五種の見︵誤った見 経験の世界を構築するのであろうか。 であると言う。それでは意識はどのようにして混沌とした意識下の世界に目鼻立ちをつけて現に認識されている日常 混沌とした依他起性の世界に目鼻立ちをつけて、個々の事物からなる遍計所執性の世界を構築するものを、﹁意識﹂ 意識が日常経験の世界を構築する過程を述べたのが、本節の﹁名を所縁とし、依他起性においてそれを因相として 把握し云々﹂という最後の一文であると思われる。筆者にはその文意が充分には明らかでなく、無性の注釈に依って も不明な点は残るが、意識の働きを理解する上で重要な箇所だと考えられるので、以下にできる限りの考察を行なっ てみたい。 I

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以上の六項目からなる過程を経て、混沌とした潜在意識の世界としての依他起性に、意識とそれに伴う心所の働き によって目鼻立ちがつけられ、主客に分節された日常経験の世界である遍計所執性が立ち現われる。この説明の中で 注意を引くのは、その過程の中で﹁ことば﹂が大きな働きをしている点である。有部の阿毘達磨論書中に見られる、 ことばが聞き手に理解される過程に関する説明と比べても、それは明らかである。例えば﹁倶舎論﹂においても、こ とばの意味を聞き手が理解するのは意識の働きであるとされるが、それに関して称友は次のように注釈する。 を言語表現することである。 解︶によって﹁これは是の如くである﹂﹁これはデーヴァダッタである﹂と執着する。 側執着したものを尋伺によって発語するそして計度分別したものを他の人に示そうとして尋伺によってこと ばを発する。本論には尋のみが挙げられているが、無性は﹁尋なく伺なくしては語を語らず﹂という経を引用して、 本論の尋を尋伺を指すものと解している。 ⑤見聞覚知の四種の言説を行なう﹁見聞覚知の四種の言説﹂について、﹃倶舎論﹄は経に説かれる十六種の 言説を挙げている。それらは正しくない言説︵非聖言︶と正しい言説︵聖言︶とに分けられる。正しくない言説とは、 見ていないのに見たと言うこと、見たのに見ていないと言うこと、乃至、知っていないのに知っていると言うこと、 知っているのに知っていないと言うことの八種である。正しい言説とはその反対の八種である。要するに言説とは ﹁見た、聞いた﹂等と語ることである。その場合、色が見の対象であり、声が間の対象であり、法が知の対象であり、 ⑭ 香・味・触が覚の対象であるとされる。それゆえ見聞覚知は六識を意味する。したがって四種の言説とは六識の内容 ⑥対象を増益する以上のような意識およびそれに伴う想と五見と尋伺という心作用によって、〃デーヴァダ ッタ〃という名を聞くとき、実体としては存在していない〃デーヴァダッタ〃が実在するかのように誤認される。 2ことばの働き

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⑯ 想とは、表象作用︵の餌且倒目︶であり、境の因相︵己目目︶を捉えることである。 称友はそれを次のように注釈する。 ⑰ 境の因相を捉えるとは、境の特性である姿︵ぐ爵冨︲鼠の間︲昌冒︶を捉えるという意味である。 ⑬ 世親は﹃五穂論﹂でも同様に規定している。世親の﹃唯識三十頌﹂に対する安慧の注釈でも次のように説明される。 想とは境の因相を捉えることである。境とは所縁である。因相とはそれ︵境︶の特性であり、青や黄などのもの を所縁として立てる要因︵雨国目︶である。それを捉えることとは、﹁これは冑であって、黄ではない﹂と確定す 声を聞くのは耳識である。先に述べたように、耳識にも自性分別はあるけれども、計度分別と随念分別とがないの で﹁無分別﹂と呼ばれる。ゆえに、耳識は声を聞くだけでその意味を理解しない。ことばの意味が理解されるのは、 耳識の直後に生じる分別を伴う意識によってである。ここまでの説明は﹃摂大乗論﹂も阿毘達磨諭吉も同様である。 けれども次の〃デーヴァダッタ〃という名を因相として把握する段階において違いが生じる。 名を因相として把握するのは、意識に伴う想という心作用である。想の働きを世親の﹁倶舎論﹂は次のように規定 手9フ勺○ ここで先に保留しておいた﹁因相として把握する﹂ということの意味を考えてみたい。先に引用した無性の注釈では、 ﹁因相として把握する﹂ことが蛇の例を用いて次のように説明されていた。 たとえば蛇の名を所縁とするとき、縄において、蛇の因相である湾曲などを因相として[捉える。] ⑮ 識によって識別される。 を所縁として立てる要因一 ⑲ ること︵己昌冒目︶である。 ことばの意味である、眼などの寄り集まったものである﹁デーヴァダッタ﹂[なる存在]は、その直後に分別意 ﹁デーヴァダッタはここにはいない﹂とか﹁いる﹂と語られるとき、声は聞き手によって識別されるが、他方、8

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この限りでは﹃摂大乗論﹄と阿毘達磨論書の説明の仕方に区別はない。また、﹁摂大乗論﹄が﹁因相として把握し、 見によってそれに執着し、諸々の尋によってことば︵ぐ凶o︶を発し、〃Iを見た〃〃Iを聞いた〃などの四種の言説に よって言説をなし云々﹂というように、意識が言説を起こすに至る過程を、意識に伴う想や見や尋・伺などの一連の 心所法によって引き起こされるものとして説明することも、阿毘達磨諭書の説明を踏襲したものである。しかしこの 箇所の説明は、有部と琉伽行派とにおける想の規定の相違を念頭に置いて理解すべきょうに思われる。 先に述べたように﹁倶舎論﹂においては、想はただ﹁表象作用であり、境の因相を捉えることである﹂と規定され ている。他方、﹁職伽師地論﹄︵本地分意地︶では次のように規定されている。 ⑳ 想とは何か。表象すること︵了像、の目冒自倒︶である。 ⑳ 想はどのような作用をするのか。所縁において心に因相を取り言説を起こさせることをその作用とする。 同じく﹁礒伽師地論﹂の摂決択分の五識身相応地意地においても ⑫ 想はどのような作用をもつのか。所縁において心が因相を取ること及び言説を立てるという作用をもつ・ と規定され、さらに無著の﹃大乗阿毘達磨集論﹂には ﹁蛇﹂という名を聞いたとき、蛇という対象︵境︶の特性であるクネクネと雪曲する様を因相として捉える。それ は言うまでもなく﹃倶舎論﹂で﹁境の因相を捉える﹂と言われ、称友によって﹁境の特性である性質を捉えること﹂ と説明された想の表象作用による働きである。つまり、﹁蛇﹂という名を聞くときに、想がクネクネと弩曲する様子 を心に表象させ、因相として把握する。安慧はこの因相を、何らかのもの、今の例で言えば﹁蛇﹂が、対象として認 識される要因であると言い、この因相を捉えることによって﹁これはAであって、Bではない﹂つまり﹁これは蛇で あって、蛙ではない一と確定されると言う。意識およびそれに伴う想が、何かの名を聞いてその対象を認識する過程 あって、蛙ではない﹂と確︷ は以上のように説明される。

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ところで、分別は二・一九から二・二二の節にわたって解説されているように、依他起性と遍計所執性の両方に関 係する。それが依他起性と遍計所執性の境界線を分かりにくくしている原因である。両者の関係について考えてみよ う。両者の関係を含む三性相互の関係は二・一七に次のように述べられる。 これら三性の在り方は、[相互に]異なっているのか、あるいは異なってはいないのか。異なっているのでもな く、異なっていないのでもないと言うべきである。同じ依他起性が、或る在り方からすれば、依他起である。或 想はどのような特質をもつのか。想は表象すること︵構了、“画且習自幽︶を特質とする。想は種々の法の影像 ︵像類、胃呂巨日冨︶を捉えることを[自性とするものであり]、そしてそれによって、見られ聞かれ・覚えら ⑳ れ、知られた意味を言説するのである。 このように﹃玲伽師地論﹂や﹃大乗阿毘達磨集論﹂においては、意識が言説を起こすに至る過程は、意識に伴う ﹁想﹂という一つの心所法の働きとして説明されている。先に引用したように、﹃摂大乗論﹂の﹁依他起性[すなわ ち]身体など[の表象]においてそれを因相として把握し﹂という語を無性が注釈して [それは]﹁自相を執し﹂という意味である。因相として把握するのは想である。想したように言説をなす。 と述べたのも、上記のような﹁琉伽師地論﹄や﹃大乗阿毘達磨集論﹂の﹁想﹂に関する理解を踏まえた上でのことに 相違ない。このように、想という一つの心作用に、対象の相を捉える﹁取相﹂の働きと、それをことばにする﹁言語 化﹂の働きとが共に含まれると解した所に、玲伽行諭書の特長がある。そこに、﹁ことば﹂の作用を意識による対象 認識と切り離すことのできないものとして重要視する琉伽行派の﹁ことば重視の思想﹂の一端が窺える。なぜ琉伽行 派は﹁ことば﹂の作用を対象認識と切り離すことのできないものと考えたのであろうか。

三依他起性・遍計所執性と分別

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同じ依他起性が或る[在り方]からすれば﹁依他起﹂と呼ばれるような、或る在り方とはいかなるものか。他 ⑳ なる力である勇習の種子から生じた依他起なるものだからである。 同じものが或る[在り方]からすれば﹁遍計所執﹂と呼ばれるような、或る在り方とはいかなるものか。分別 の因相であり、それによって分別︵遍計執︶されたものだからである。 同じものが或る[在り方]からすれば﹁円成実﹂と呼ばれるような、或る在り方とはいかなるものか。分別 ︵遍計執︶されたその通りには、それは決して存在しないからである。 依他起性は、それが他なる種子から生じたものであるという在り方からすれば﹁依他起﹂と呼ばれる。その同じ依 他起性が、分別︵遍計執、冨鼻四宮煙︶の因相︵昌目目︶でありかつ分別によって分別されたものであるという在り方 からすれば、﹁遍計所執﹂と呼ばれる。 ﹁分別の因相﹂という語の意味は難解である。無性はここの﹁分別の因相であり、それによって分別︵遍計執︶さ れたものだからである﹂という語を 我や色などの遍計執されるものの所依であり、遍計執と呼ばれる意識によって我や色などの事物として遍計執さ ⑳ れるのである。 ⑳ と注釈し、分別の因相を遍計執されるものの所依と解している。つまり依他起性が所依となって分別が生じ、その分 別によって依他起性自身が分別されたとき、その同じ依他起性が遍計所執性と呼ばれると言うのである。これは依他 起性が遍計所執性へと転ずる瞬間を説明しようとしているのである。つまりその瞬間には、依他起性は分別を生ずる 所依︵分別の因相︶となり、しかも同時に、自ら生み出したその分別によって分別されて、遍計所執性へと転ずる。 る在り方からすれば、その同じものが、遍計所執である。或る在り方からすれば、その同じものが、円成実なの で坐のう③。

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言うまでもなく、依他起性も虚妄分別と呼ばれる分別である。したがって、虚妄分別という分別が、遍計所執性を生 ぜしめる他の分別の所依となった状態を、他の状態と区別して﹁分別の因相﹂と呼んだものと考えられる。 ﹁分別の因相﹂の何たるかを理解するために、われわれは先に﹁意識の働き﹂において﹁意識が遍く計度する﹂と いうことの意味を考察したことを、思い出してみる必要がある。そこでは無著は 遍く計度するものe目冨官、意識︶はどのように遍く計度するのか。[すなわち]何を所縁とし、どのように 因相を把握し、どのように執着し、どのようにことばを発し、どのように言説をなし、どのように増益すること によって遍く計度するのか。名を所縁とし、依他起性においてそれを因相として把握し、見によってそれに執着 し、諸々の尋によってことばを発し、﹁見た﹂などの四種の言説によって言説をなし、存在しない対象を﹁存在 する﹂と増益することによって増益する。 と述べていた。それに関して無性は、﹁依他起性においてそれを因相として把握する﹂という語を﹁自相を執する﹂ ことを意味するものと注釈する。そして﹁因相として把握するのは想であり、想したように言説がなされる﹂と言う。 また﹁それに執着する﹂のは、﹁五種の見が計度分別の行相をとって生じるからであり﹂そしてそれは﹁因相とした ものに執着するからである﹂と述べる。つまり因相として把握するとき、依他起性において自相を執する働きが生じ、 それに伴って計度分別が生じる。そして計度分別された対象に対して﹁これは是の如くである﹂と執着し、他の者に 示そうとして尋と伺とによってことばを発するのである、と解説する。 無性の注釈から、先ず、因相として把握することが、依他起性において自相を執することを意味することが分かる。 次に、それが意識に伴う想︵“四且倒︶という心作用による働きであり、その働きは言語化を伴うものであることが分 かる。更に、想とは別の心作用である五種の見が計度分別として生じ、因相として把握したものに執着することが分 かる。したがって、意識が依他起性を対象とし、それを遍計所執性へと転ずるとき、一方では、意識に伴う想という 12

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心作用が依他起性を因相として把握し言語化するように働き、もう一方では、別の心作用である五見︵あるいは計度 分別︶が、因相として把握されたものに﹁これは是の如くである﹂というように執着する。ここには依他起性が遍計 所執性へと転ずる過程が、依他起性が意識に伴う二極の心作用による、二種の把握︵執着︶と二種の言語化︵執着︶ として説明されている。この場合、把握と言語化とは、おそらく別の作用ではなく、同一の作用に対する二種の表現 であろう。それは両者が共に﹁執着﹂という語で言い換えられていることからそのように想像される。そしてこの二 種の把握あるいは二種の言語化は、﹃解深密経﹂に出る﹁自性の相の安立﹂と﹁差別の相の安立﹂と同趣旨のことと 思われる。それらは次のように述べられる。 分別の行境であり、遍計所執相の所依である、行の因相において、﹁色穂である﹂というように自性の相あるい は差別の相として名と記号とが安立され、﹁色聴が生じる﹂とか﹁減する﹂とか﹁色穂を断ずる﹂とか﹁遍知す る﹂というように自性の相あるいは差別の相として名と記号とが安立されたもの、それが遍計所執相である。そ れに依って世尊は諸法の相無自性相を設定されたのである。 分別の行境であり、遍計所執相の所依である、行の因相なるもの、それが依他起相である。それに依って世尊 ⑰ は諸法の生無自性相と勝義無自性相の一分とを設定されたのである。 ここには依他起性が、分別の行境であり、遍計所執相の所依であり、行の因相︵“鯉日の冨国昌目目︶であることが説 かれる。そしてその依他起性において自性の相あるいは差別の相が言語化されたものが遍計所執性であるとされてい ﹁行の因相﹂は雪万八千頌般若経﹂の西蔵訳第八三章と﹁二万五千頌般若経﹂の西蔵訳第七二章に相当する﹁弥 ⑳ 勒請問章﹂に頻出する用語であることが報告されている。そこでもこの語は依他起性を語る用語として用いられてい る 0 る 0

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この章の問題は.切法が無を自性とするものだとすれば、般若波羅蜜を学ぼうとする菩薩は、色穂を初め仏陀の 特性に至るまでの一切法を、どのように学ぶべきか﹂という弥勒の問いに対して、世尊が.切法を単に名に過ぎな いものと学ぶべきである﹂と答えたことによって引き起こされる。弥勒は次のように尋ねる。 世尊よ、﹁これは色である﹂とする命名は[命名さるべき]事物を備えていると考えられます。乃至﹁これは仏 陀の特性である﹂とする命名は事物を備えていると考えられます。すなわち[命名は]行の因相に依って[なさ れる、と考えられます]。そうであるとき、菩薩摩訶薩は、どのようにして色を単に名に過ぎないものと学ぶべ きでしょうか。乃至、[どのようにして]仏陀の特性を単に名に過ぎないものと学ぶべきでしょうか。もし[命 名が命名さるべき]事物を備えていないとすれば、その場合には、そういう名には単に名に過ぎないというその ことも妥当しなくなります。﹁これは色である﹂という[命名に]単に名に過ぎないということが妥当しなくな ⑳ ります。乃至﹁これは仏陀の特性である﹂という[命名に]単に名に過ぎないということが妥当しなくなります。 世尊の言うように、一切法が単に名に過ぎないものであるとすれば、﹁これは色である﹂とか﹁これは仏陀の特性 である﹂と命名することが成り立つためには、命名さるべき事物︵蔓幽切言︶が存在していなければならない。命名さる べき事物なしに、名のみが存在することはあり得ない、と弥勒は言う。弥勒の考えを認めた上で世尊は、命名さるべ き事物と命名との関係を次のように説明する。 ﹁これは色である﹂というその命名︵目日四段の胃︶は、その行の因相の上に、たまたま投じられたものである。 乃至﹁これは仏陀の特性である﹂というその命名は[その行の因相の上に]たまたま投じられたものである。そ ⑳ して、弥勒ょ、その行の因相である事物によって、﹁色﹂というこの名において、﹁色である﹂という確信、理解、 認知が生じる。ゆえに弥勒ょ、そういう点から次のように、理解すべきである。すなわち﹁これは色である﹂乃 至﹁これは仏陀の特性である﹂というその命名は、その行の因相である事物の上にたまたま投じられたものであ M L 調

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弥勒よ次のことをどう考えるか。この場合に、或る人々には、その同じ行の因相である事物の上に、あるいは 概念︵の営冒︶、あるいは言葉による表示︵官営“目︶、あるいは名︵目日目︶、あるいは言説︵煙目く苫く鯉厨国︶、ある ⑪ いは執着︵“匡目くの笛︶が[生じる、ということを]・ ここで﹁行の因相﹂は﹁行の因相である事物﹂と言い直されており、両者は同一物を指すものと考えられる。それ が命名さるべき事物である。世尊は、その命名さるべき事物と命名とが、必然的ではない、たまたまの関係 ︵侭目巨富︶にあるものだと言う。しかし、その関係が必然的でない、たまたまのものであるに拘わらず、その行の 因相である事物のゆえに、﹁色﹂という名において、﹁色﹂という確信や、理解や、認知、あるいは、概念や、言葉に よる表示や、名や、言説や執着が生じる、と言う。つまり行の因相である事物は、命名さるべき対象であり、かつ概 念や、乃至、執着を生ぜしめる原因でもある。それゆえこの語をここでは、概念や乃至は執着を形成する︵の四日の百田︶ ⑫ 因︵口目旨騨︶であり、かつ命名の対象としての相でもあることを示すために、筆者は﹁行の因相﹂と訳した。 さらに、この行の因相である事物は、究極的な存在︵勝義、冒圖日野旨︶ではなく、究極的な存在は、言語表現さ れない[法]界︵目号巨山国“島騨呂︶であるとされ、しかもそれら二つは同一でもなく別異でもないと説かれる。同 一でないとされる理由に関しては、もし同一なら、凡夫でさえ言語表現されない[法]界を証得して般浬梁するとい う誤謬に陥ることとなる旨が述べられる。別異でないとされる理由に関しては次のように説明される。 弥勒ょ、もしも言語表現されない[法]界が行の因相である事物と別異であるなら、そのときにはもはや、それ あるが故にその言語表現されない[法]界が通達され得るところの、その因相も認められないこととなるである ここに因相という語が二通りに用いられていることがわれわれの注意をひく。一つは言うまでもなく行の因相であ鴫 ⑭ 罪︿ノ○ フ︵︾、︲し﹂○

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る。もう一つは、法界を通達せしめる因相である。行の因相は、先に述べたように、概念および執着を形成しかつそ の対象となる因相、つまり迷いの現象世界を形成する因相である。それに対して法界を通達せしめる因相は、もはや 現象世界を形成しない因相であるので、﹁行の因相﹂とは呼ばれない。悟りの智慧を生じかつその対象となる因相で ある。また、行の因相である事物と法界との区別が﹁言語表現﹂の有無にあることからすれば、この場合の行 ︵の四日の百国︶は、広義の﹁ことば﹂の働きを意味する語として用いられているものと解せられる。それゆえ法界を通 達せしめる場合の因相には﹁行﹂の語が冠せられないのである。 二・一七に用いられる﹁分別の因相﹂を十全に理解するためには、以上のような用語の使用法を考慮すべきであろ う。それを整理して検討することが今後の課題として残されている。 注 ①分節は長尾雅人﹃摂大乗論和訳と注解上﹄︵講談社、一九八二年、長尾と略記︶に準ずる。本稿における西蔵訳からの和 訳は本書に収録された校訂本を底本とする。 ②櫻部﹃倶舎論の研究﹄二○○頁。 ③﹃玲伽師地論﹄︵大正三○、三五七頁、下、二○以下︶は四種の現量の中に、﹁意根の所行を境界﹂とする﹁意受現量︲|を現 量の意識として挙げている。竹村牧男﹁唯識三性説の研究﹄二五五頁参照。 ④醇嗣尋も忠︾甲酌荻原雲来訳註﹁阿毘達磨倶舎論明瞭義釈﹄︵第一界品︶一○一頁。 の四冒口四口四mくいめい日倒豈言山もHm︺剴山の討巨庁四︲○胃口庁蜘︲目目、回国口も四口四庁ロ︲ごH煙匡]釦Hロすぎ﹄斥倒0m.m山彦]Hpmpp巴ずぼ画く倒目戸凶国凹の﹂.ぐ田四mH四ぐ胃ぐ芦旦︸胃四m︻割 ︵ぐ言冒丘厨︾四凶を訂正︶く冨四倒昌ぐ己冨匿日9口①昌閏吾号昌彊国︲冒且冨目&白目目︲白目冒堅、日富国胃自国国閂皇目鼻ぐ百四四. 、 穴勝己四匹いす匡己目ご煙恒甲く時四言画﹄q匡○目鼻①国︽国︲国冒︾型四日ずゆロ①自習口叫もの汽笛旦倒ず巨冒印ぐ再扇写昌で即昌ぐ①﹂四国凶血目ご印目匡昌晨甘四日 ﹄ご’四号︲号言昌昌冨目08︾の臼呂巨薗冒冨曽四口四日四首目日99の厨か菌置日宮口①︵目昌曽砦①爾箇毎日冨邑①を訂正︶胃いく閏冨国昌 令凸j ご印崖切画﹄ウロ﹂口員屋ロ四目画︲く胃六四岸ロ凹再ぐ匡○く画庁の し・ 峠 4 16

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⑧ ⑦ ⑥ ⑤ ⑨ 性中に於て眼等の相を取る。見に由りて執著しとは、五の品類に由りて行[相]を推求し、転じて諸もるの執著を起こすなり。 相貌を取り已りて執著を起こすが故に。是れ相貌に於て堅く執著するの義なり。見に由りて義を推求し、決定して執著を起こⅣ れ自相を執するの義なり。相を能取するに由りて説きて名づけて想と爲し、其の所想の如くに是の言説を作す。或は依他起自 其の名無きに非ず。名有りて、能く其の義に於て諸もるの分別を起こすなり。依他起自性中に於て彼の相貌を取りとは、是 じて境と爲しとは、謂く、色受等・天輿等の名の義に於て相応するに、諸もるの通計を起こし、異なる行相を説いて識と爲す。 との茎莪な、り。 縁たる相に由りて、是を遍計所執自性と名づくなり。是れ﹁此の如く﹂との義なりとは、是れ﹁此の品類の縁たる相の如く︲ に。是の故に、一切の無辺の行相もて分別して転ずるなり。 及び一切の識の名言黛習を用て種子と為すとは、謂く、無辺の色等の影識の名言黛習の種子を因と爲す。彼に似て生ずるが故 自らの名言重習を用て種子と為しとは、無始よりの生死の所有る意識は戯論・名言惠習の種子にして、此を生因と爲すなり。 訳している。 一m同〃︾PfV目冒胃﹄︺一一11︷パ︲﹄︲丁争、・ 二・一六に対すう負 [玄英訳の読み下し] 復た次に、云何が遍計は能く遍く計度するとは、作間生起して、遍計所執自性の差別を宣説せんと欲するが為なり。名を縁 又、若し此の相に由り依他起自性をして所遍計を成ぜしめば、此の中、是を遍計所執自性と名づくとは、謂く、此の品類の 又、依他起自性を所遍計と名づくとは、謂く、此の一分の眼等の諸相は是れ所計の業なり。 當に知るべし。 復た次に能遍計有り等とは、遍計所執を分別せんと欲するが為の故に此の言を説く。 では、目侭医旦目鴨冒名を所縁とし、とあることを考盧して、名を所縁としと訳した。長尾訳も﹁名を対象として﹂と 西蔵訳は目侭唱の回目唄冒であり、名によって所縁とし、と訳すべきであるが、無性疏にそれを蛇の例を用いて説明する 而呉︺により胃侭切冒を採る。 意識が無量の行相によって分別することは二・一五Bにも説かれる。 ロ閏によ、り穴ぐ勝を採る。 六に対する無性釈は次の通りである。 意識は是れ能遍計なり。分別有るが故にとは、顕示と随念との分別有りて雑染する所なるに由るが故なり。 アラユ

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尋伺無くして、能く語言を説くに非ず。見聞等の四種の言説に由りて言説を起こしとは、見聞覺知の四種の言説に由りて言説 を起こすなり。蛇に似たる縄等の相貌を縁じて盤曲等の種種の相貌を取るが如く、自ら執著し已りて他を覺悟せんが為に是の 如きの言を説く。﹁我已に蛇を見る。我已に蛇を見る﹂と。此も亦是の如し。他は是を聞き巳りて復た更に増益し、謂ひて し已り、他の為に説かんと欲す。尋に由りて語を起こしとは契経に﹁尋に由り、伺に由りて、能く語言を説く﹂と説くが如し。 をもっているからである。それゆえ意識は無限の行相をもった一切の分別として生ずるのである 依他起性[すなわち]身体など[の表象]においてそれを相として把握しとは、自相を執しという意味である。相として把握 するのは想である。想したように言説をなす。あるいは依他起性[すなわち]眼など[の表象]において[それを相として把

その習気がその種子である。すべての表象︹を生み州す︺ことばの習気の種子から生じたものであるとは、すなわち、色など の無限のものとして現われた表象はことばの習気という因から生じたものである。[意識は]そいうものとして現われる性質 た、見た・聞いた.覺えた・知ったという]言説︵く菌く“訂国ゞ三口の畠且︶としての [それ]自体のことばの習気の種子から生じとは、意識は、﹁意識﹂と呼ばれる[が]、 握する]。五種の見が計度[分別]の行相をとって生ずるからである。それに執着しとは、相としたものに執着するからであ り、相に執着することによってという意味である。見によって計度[分別]された対象に対して﹁これは是の如くである﹂と 執着し、他の者に示そうとして尋と伺とによって言葉︵く四。︶を発する。﹁尋なく伺なくしては語︵句、冒烏︶を語らず﹂と 所縁としとは、 そのまま遍計されたものであることを示す ﹁實有なり﹂と爲す。 [チベット訳の和訳] 意識が遍計するものである。分別を有するものだからであるとは、[意識は]計皮 依他起性において或る行相で遍計がなされるとき、そ[の行相]がそこにおける遍計所執性で 依他起性が遍計されるものであるとは、その一部が眼などの対境︵く留冨︶と[して通計される] 遍く計度するものはどのように遍く計度するのかとは、行相の様態を間うて、遍計される様態を示すのである。名によって 趣計するものがあり等々と遍計所執[性]が考察される。 デーヴァダッタなどの名を聞くときに対象を遍計するが、名を聞かなければ対象を分別することはできない。

[分別]と随念分別を伴うからである。 無始時来の輪廻において[行なってき ﹁ことば﹂︵号宮面目︾g&息︶であり、 る]のである。 あるとは、因となった行相が 18

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[経に]説かれる如くである。見たなどとは、見た・聞いた。覚えた・知ったという四種の言説︵く目ぐ凹冨国︶である。たと えば蛇の名を所縁とするとき、縄において、蛇の相である誉曲などを[本物の蛇の]相として[捉え]、それに執着して、他 の者に示そうとして﹁蛇を見た﹂と語︵冒烏︶を語る。それと同様である。 ⑩この一文は西蔵訳テキストでは前掲の拙訳のように﹁それに執着し﹂という本論の語の前に置かれているが、玄英訳︵大正 三○、四○四頁、上、五’六︶に﹁由見執著者、由五品類推求行転﹂とあるのを参考に、その語の後にあるべきものと解した。 ⑪雑阿含留興爵日号言呂目歩尉、戸や臼ふふに引用される。 印冒ぐの。匡回印同画︾匡言ぐ四mのmH目の詩倒H山ぐ惇庁四吋穴四ぐ﹄○四H倒茸のロ可四口戸弄叫声.毎︵く詳四拭穴ぐ画く胃○画[ぐ画く四○四日ロゴ冨幽の四庁の口倒ぐ﹄計四門穴凹ぐ]の倒閂ぐの︺︾口.計印口煙ぐ① くト 典 く L 臼日凸 四口ロ山国汽画切言①ぐ昌四崗丙四百ぐののロ丙切H口倒の奇①ぐ胃○倒門山彦. 。二足 櫻部﹁倶舎論の研究﹂二九七−二九八頁参照。 ⑫胃局.四画目︾“︾岸隠式四︾画大正三一、四○三頁、下、二九’四○四頁、上、一四。片野前掲書、一二八頁参照。 H昌胃ロ㈹、﹄mgHご﹄ぬので、のぎのめす]四ずゆロ]]ごPのず望自己、写①めす国、丘四]ゆめ○mm石口牌叶冒﹄ロ”︵ず○m口四mg○口一画澆巨口弄口H一○mで四Hず胃①﹂穴冒]門口﹂国、 目戸知庁豈○ので四Hp回匹○口旨い︻ロ酌拭昌で画HH︽○mでmH丘国のユ門口目日巨の、○||ぬい医四国函望]国ずmpm胆罠画m○ず○口︺]Q]宮m﹂ゆめ○mmで画冒皿旦の胃閂毎扇ぽい邑目巨四﹃ ︸色目ロロ回の声のめず目四ヶ四口冒門四口い、樟H巨言切声回国Hpm−mHppm○口でmHm面①ロの写①のび︺ゆず、︶︼︽庫、厨彦]ぬ、○||門口厨巨四国HpmR塵凰国でロロ]廷匡剥の切 弄①|芦胃mH︾旦匡の①めい屋、旦匡︻ず、国の岸四HH︺①めめロ︷ずゆめ口旦騨旦︾﹂○ぬめい○||望四口、ロ四館のぎ四国ぬく﹄ニラ四口ぬい﹄ロ胆○ケ○口目目旦門口胃、一卸の○いめで四 ]画﹀○’一岸ゆず四吋目閏目で凹冒口、四国、のもpH耳○mで画﹄HpmH己で四門]巨函ご卸のの○一一Qの﹂印HppmOpで四︻いずのロ七四m犀のめず冠四ヶ、ロ戸門口厨百四ロヨ回崗ゴ冒四の で四mロ日ロ、○口で四月めぽのロで四︾目ロゴ︼冒弄の門口房ぽゆ国冒胄釦﹄四目旨、ロ○口で四門の辱のロで四当﹄Qずmpm、]のいずのmずく四ケ煙哩﹄庁ずい庁切冒﹄ぬ、○||岸ロヮ四のロ加①の己四H ご門弄即いめで四︾︼Q○口﹂口︾g︼国﹄qのずい面一口目○のロの口︺ロm○口で四門切豈のppmめいの廿四ロg四m]口望○口で、門︾・○旦己四口卸吋詳○mで四9口画、Qも目○・℃四口四m m﹄切目”四m弄巨ロ己画のの︸Opmの弄①||H口四ゴ門芹四mの門口凹旦で︼画﹂で③H諄いゴー、胃ロ﹄のHpH卸○切豈の、芦的穴四qmm匡口ぬい己四声四ず屋︶○||H国一彦○国、で四]ゆめ○mm も口いぼのめす冒四ずいロ﹄己寺弓○口いで四﹄mpm︽写○mで凹匹印ヨ”一己目のずHmmでず閨①巳で”﹂mpm一門邑四汽冒で四目刊①いも凹言彦四め曰く口二門口印ヨでいず的昏﹄で○ Q四ぬい]、計の一一砕岸口門めず[ロ﹄ぬと胃[ご﹄ロ、]印匹目目、、で四口四︵彦画、で四]いめず門戸旨、晋]目ご庁②茸四口日四戸くい、丙く○ぬ﹄印め○mmも四門目苛め参四口胃戸印︻ご国①g o岸pmgの]mHppmOpも、詞めずの国pmmmm︾四国]四ずめ庁回国で卸︾﹄でず冒胃RめすHロー門口庁冒○国mpm○m壷のの︽m︾]”斤巨m門口H四ケ画匡の二ppm旨ご計、面巨目ぬいの○|| 縁名為境者、謂色受等天輿等名於義相応、起諸遍計、説異行相為識。其名非無有。有名能於其義起諸分別。於依他起自性中取 彼相貌者、是執自相義。由能取相説名為想。如其所想作是言説。或於依他起自性中取眼等相。由見執着者、由五品類推求行転、

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起諸執著。取相貌已起執著故、是於相貌堅執著義。由見推求於義決定、起執著已欲為他説。由尋起語者、如契経説。由尋由伺 而説語言。非無尋伺能説語言。由見聞等四種言説而起言説者、由見聞覺知四種言説而起言説。如縁似蛇縄等相貌、取盤曲等種 種相貌、自執著已為覺悟他、説如是言。我已見蛇、我已見蛇。此亦如是。他聞是已復更増益、謂為實有。 ⑬﹁それ﹂が何を意味するかは説明されない。長尾訳では名︵概念︶を示すものとされている。長尾上、三二九頁参照。 ⑭少尉厚もいぶ︾中届舟橋一哉一倶舎論の原典解明業品﹄三四六’三四七頁。二倶舎論﹄に十六種の言説に関する記述の あることを本庄良文氏にご教示いただいた。︶ 8○四蟹ぐ目いく豊四国写の国国口罫幽昏一︽︽回島撰の号翼如く凶9国鼠尉昌①︶日鼻①︺国司輿①昌画倒国ぐ倒日国鳥切意画身磐煙ぐ倒呂国胃画く弾・国司理の ︺乱司倒国く画昌国詳剖目の﹀口倒ご山場冨匡く︺弾く画ぽ割国玩︾|島異の骨の国く倒呂国冒倒ぐ印・急司騨①菖首倒国ぐ倒呂鼠四身翼の︺島の国ぐ倒呂国望凶ぐ四二 四ぐ]首騨のゆく]ヨ四国ぐ倒呂国耳引日①画ご画搦冨巨ぐ目印ぐ昌画国営言胃尉巴削日日m国脅自国目角国昌ヨ画国ロ凶日置日置宙四国四日| 岸 ○画斥切匡昏恥吋○言四門ロ四国四の○群庁四胃四ロロウロロ弄四門口与国すず豚。四国四一| 画 冨旦号駕患昌冨ぐ胃画倒国日日四国日。○再四目﹃、吾四百画目四日一百く︾]三| ︺四。○四汀冒菖司四目の旨倒ロロゥ苛口冨日gQ島駕四日胃ご巨冨四日一目四○○o胃○行国昌ヨ山口のロ色国CO言屋尽日一国四国日四国○菖ヨ倒口①ご回国庁s百国臼昌 一哩昌館胃目印︺号く叫声倒望四国司倒口巴切国ロ日画国日一 1福原亮厳監修﹁阿毘達磨倶舎論本頌の研究Ⅱ﹂九五頁では。鼻吻匡脅○目日自○昌冒自習号言冨日と訂正されている。2福 原前掲言では︲ぐ言四s日四s目と訂正されている。 経説諸言略有十六。謂於不見不聞不覺不知事中言實見等、或於所見所間所覺所知事中不見等。如是八種名非聖言。若於不見乃 至不知言不見等、或於所見乃至所知言實見等。如是八種名聖言。何等名為所見等相。頌日。 由眼耳意識井餘三所證 如次第名為所見聞知覺 論日。毘婆沙師作如是説。若境由眼識所證名所見。若境由耳識所證名所聞。若境由意識所證名所知。若境由鼻識舌識及身識所 證名所覺。 ⑮醇尉尋も⑤ち・巴︲圏舟橋一哉﹁倶舎論の原典解明業品﹄三五○頁。 ⑯ン尉厚も.農91国大正二九、一九頁、上、一八。櫻部頂舎論の研究﹂二八一’二八二頁。 20

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於所縁令心彩壹言説為業。 ⑳シのら蝉思大正三一、 m四目試口画口画伍丙笛己山の巴亘吋国 画詳]’ め四目目閏昌国9m白く]箇冒目目鼻○侭Hg農※|想謂於境取差別相。※シ︻く弱く]笛冨︲冒昌茸︲四四菌 ⑰醇嗣く顎ロ]目︾閉荻原雲来・山口益訳註﹃阿毘達磨倶舎論明瞭義釈根品﹂五七頁。 ぐ届包と四︲ロ貝巨淳言四︲ぬ同型写、一口.ぐ易四国四︲く品①の口︲再匡も口︲ぬ片山宮四﹄︽と四H含ロ四面 、 、 ⑱刀昌層忌§き§、黒弓§園b閏段届︾画為竹村牧男﹁唯識三性説の研究﹂二九○参照。 ︾匡匡小のめぬ四口いの可のロ四一と匡冒晨四門口︵の写四国﹄ご少胃︾回国﹂己で四︾○’一 ⑲砕き“冒原自国蓉号ミミミ§盈曽も巴も蜂 協日冒四ぐ届画く印日日員○﹂四農mpm日一ぐ尉四くい巴四日ず印口四日.日日胃言国自国﹂ぐ豚の曽 口H置冨国堅望堅四日ずゆpいく国四ぐ閉吾画丙山国ロ閏画一国昌○堅四豊津国四目日日も凹唇印日日毎日①国ppm目冨日豈一 ⑳母国戸やgbも禺己旦鷺.四︾脚大正三○、二九一頁、中、二八’二九。 閏目副雷目目一の四旦習自画一一想云何。謂了像。 ⑳母国戸やgもも農ら旦隠︾“︺中ロ]・大正三○、二九一頁、下。 山﹄四吋ロケ卸目の○呉言餌○]言閂穴四尉包ぐぐゆぐゆ可幽門四斤印同ロ]穴凶 L gHp︼ぬゆめも四旨釦m①HごmH口厨声色pHご口︻︺旦昌自己四︺︺弄声印め口冨四二丙]]]凹めず]①二口○. 於所縁令心発起種種言説為業。 日日訂国は両蔵訳では日房ごロ日閏︾鳥目層と訳され、漢訳では発起種種と訳すが、この箇所を注釈した摂決択分では次注 のように彩壹と訳している。同舟の§ロ.団員詮首辱守員留琶幕昌目息。葛ミゼではごごゞ計困に日蔚宮口臼胄︾烏旨冨烏侭︶8日 目四房国富Hゞ烏旨冒の意とされていることを示して、弓の国置侭庁同四留唱○H吾の冨置侭︷○Rぐ四国の鴨回弓︶と訳している。 ⑳屈〆昼圏ゞ四︺卸大正三○、六○二頁、上。 ﹂︻ロ]、固のも弾﹂凹めの呂戸、戸﹃]印門口行の写画pH己四円︾回国﹄ロも凹旦mpm庁彦四切戸く四匹︾﹂○ぬ、で印︶一﹄ゆめ︵︶印ご国]胃ご○. 六六三頁、中。 |の画ロ]]口倒口倒口画匡声四国ロ回で︻四註一︺︼目冒ケ○回”︻四面山口四mくい︷︺ず四ぐ画く画く画匡︻切言画の昌号卸口冒、庁ゆく]︺威四言画冒幽耳︸冒画ロく目印くぃ一戸四門︲

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⑳長尾訳注は﹁遍計の因となること﹂を意味するものとしている。長尾上、三三六頁注2参照。 、 ⑳同層目。蔚乱あご冨忌ミミョミミ畠ミミ︾貝冒冒巴Pら韻︶も閏︺岸届大正一六、六九六頁、叩、一五’二二。兵藤一夫 ﹁三性説における唯識無境の意義川﹂︵﹁大谷学報﹄第六九巻第四号、一九九○年︶二八頁参照。 H冒四ロ芦℃凹尉計奔○mで四面.︺、己惣○堅くロ]丙匡冒す片言画いめでいぼ.︼Hロ扇彦四国畝一旦汽営﹄ぬ画凸の彦旦ロヶ目①巳汽国営片口庁の犀四目臼四旨卸一mN偉いの片目芦も言匡ゴ己○画彦①印 回○ず○割目巳弄胃芦貝冒一いず四国凶﹄9口mHp’ず晋のず目四mm痔H巨弄いぼ四口副︺・旦巨間口︺口匡四目ケH﹂四HHppHpも少買ず国彦四岨で四9m。|ぬい匡脆、穴閏]己彦巨己で○の屍望の 苛○圃声①声四門目一口、四m加○国声①宙四国芦一ぬいロ、、穴望昌ロ岸巨昌も○四℃四国丘四﹄四国一国Opmmロゆ①mで四N声①の号○ず○割目旦斥昌一ロ冒厨ご騨口副胃g二四胃ロ’ず]の ずH四mい]H巨富面四国副芦。﹂巨口]目卦。四目ケRgmHRp四日旨で“Hずい面四m己印、四己﹂印ぬいも凹匡のpH弄匡ロゴ鼻、”ので四声・目門口厨彦向ロ副芦・罠、ぬい言の一○の]回す鼻①口 口いいす○○目目冒旦回国茸Q四m○ず○の門口印同国、斥旦﹄門口︹の写四目副︼Q口○ず○副﹄Q︼口四胃口○ず尉己卸副﹄﹄ず竺○ぬいも弾︻崗冒旦切四匹﹂mmmの○||片口印日で四R︻︽○ぬ己四ロ﹄ の己胃○回国ロー穴巨冒す科弄、ぬいで卸臣.﹄Hロ厨犀四国副]旦弄旦昌、画煙の犀旦巨句との二戸]︼[口扇ぎ四口目冒煙、回口﹄四mmで四匹のご胃、いず四口、宮昌堅ケ四画い﹄旨目扇ぎ四国副胃二 冒四”切言①|ユの冒釦ヴ目庁のロロ凹めず○○肖口冒匹回国写・回の○写○のHpmH口の穴︼]の穴冒のず凹昌○ず○割︼堅胃ロ四国胃○ず]mで色副]Q・四国−9○ppm目で四国○ず○副︼g Hp四HpO昏芦⑳壱四口の罰目二一mm、。﹄ぬ穴ピロョ昏旦○ぬのロ四局門口﹂、四Q﹂四mm⑫○|| 若於分別所行遍計所執相所依行相中、假名安立以為色葱或自性相或差別相、假名安立為色温生為色恵滅、及為色蔑永断遍知或 自性相或差別相、是名通計所執相。世尊依此施設諸法相無自性性。若即分別所行遍計所執相所依行相、是名依他起相。世尊 依此施設諸法生無自性性、及一分勝義無自性相。 ⑳飯田昭太郎はコンゼと共同で﹁二万五千頌般若経﹄中の対応箇所を校訂出版している。同bop“の四且巨煙馨○目。︾:巨昌︲ 構了相是想相。謂由想故構壹種種諸法像類、随所見聞覺知之義起諸言説。 ⑳鴨冨口賜旦冨侭唱︼長尾訳には訳されていない・漢四訳はすべて﹁他﹂と訳す。 ⑳ロ日ゞ固隠式E・大正三一、四○四頁、上、二八l中、一・ ヶg四m﹂四国、ぬい官、の]四m○mmで四戸ロロヶ鼻四mのも四目鼻のロゞ﹄ロロい匹陣冒館一声ロロ庁庫目○mで印め医のの丘︺ロケ四国﹄ユ丙︺]Hロ四国冒も四﹃ぬ①いでゆめゴロ印、 包回ロ加、圃口”の一mm○mので画︾冒旦口mOm己○︻丙匡ロ︵匡門言○mm︽の|| 由依他起是我色等遍計所執所依止故、又依他起是我色等意識遍計所遍計故。 片野前掲書︵一三三頁︶では﹁我や色などの[諸法]は遍計所執の所依であって﹂とするが、我や色などは遍計所執であり、 その所依ではないと考える。 り ワ ム ム

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⑳校訂テクストでは﹁その行の因相によって、事物において﹂扁目“四日の百国日日旨の息く閉白目とあるが意味が通じ難い。チ ベット訳弓①穴zo臼囲︶︶号耳&ご冒昌、盲目白煙﹀昼侭ompc烏“︶にしたがって計のロ四m四日吻訂3日目員の口幽ぐ閉冒目と訂正。 血 K F 袴谷前掲論文、一九○頁補注1参照。 ⑪画9目Nの陣昌己画聖o目。も麗鰐巴︲と 四噸四口目穴四日の国ロロ笥己、匡彦①︼四目冒仰弄巴宮四日国切日日笛日切穴四国︲ロ目旨弄蔚ぐ麗冨昌胃四回丘四日日も、日旨ゞ四mm目白戸四日の国ロ ロ野口印旦昏の望四目宮口厨5国日l冒煙旦匡四日]画く四9ヶ匡旦匡写四・唇日日画旨.︵巴︼g鼠。、旨い旨①冒四扁口四の四目爵間四目[昌雰のp煙く尉冒巳言巴 昌ロロ日﹄gの田切白目口四日目目己四日胃ごめ四日宮山目星○ヶ医、く四国.冒四ご山と紺弾日四昏冒禺扇、曰くの二m目国5国印の勉巨巴寓①望四で四曼母2m︲①ぐ四曰 くの9国く目四日唖四mm目冒弄四目の冨口口角目印旦毒①国四日目画廓冒国昌国mB目困日畏胃回︲日日胃扇ぐ閉盲目肖○堅匡凹営計昌︶四目旨lく煙﹂己山曰 く画く凹旦ず匡旦堅彦煙旦冒四吋目芦画一昼。︵昌○︶言、弄屏員pHロ印豈く四mの戸畠四]胃のぐゆのく倒旦曽彦四筥斥即庁くゆのぐ口詳いい冒胃口どのくゆめ四口届床山同回︲巨貝口唇①ぐ四の弄巨邑智めいHご一p煙く四 仁 ダ、 比 t L L1 。﹂ 己同い]副四℃pHく国冒四目一いく四口匡ぐぐ画く煙彦倒忌○ぐ凶1四ヶ弓]ロ]ぐ①の○く四︾ t ⑫袴谷氏は﹁形成因﹂と訳す︵袴谷前掲論文、特に二○四頁補注粥︶。兵藤氏は﹁行の相﹂と訳し﹁因縁所生法の相﹂と解す ︵兵藤前掲論文、特に三六頁注叩︶。竹村氏は﹁行なる因相﹂と訳す︵竹村前掲書、七四頁︶。目目国を因と取るか対象と取 るかに関しては長尾上、三三六頁注2参照。 ⑬口9局の陣屋四go目。もい器︶ら︲患袴谷前掲論文、二○三頁㈱参照。 と画昏画穴彦巴ぐ囚冨印日国︾四mいく四国団彦四mゆくg○ケ彦凶巴冨如く閂三m目ど四国閏日︾巳計かず言汀も冠画のぐ印匡ざ四目昏己四目日腎吾四s戸の四○①q画きいい声、︲ H2爵P]の呂○易冒gの刃旦目日日目国ご皇国§聰い、営昌§雪蔦員魯ミミミミ号冒員吻印弓電︺弓目の︺ら畠︶袴谷憲昭﹁弥勒請 、 問章和訳﹂︵﹁駒沢大学仏教学部論集﹂第六号、二一○’一九○頁、一九七五年︶。兵藤前掲論文参照。 ⑳画○○国園の陣胃匡画堕5画8も画龍︾侭︲ざ. 冒印・画国面四,四くい口切四く四m冒戸四日匡脚ロロ四日四﹄ずのぎ四日巨も四毎ヶ犀冒胃の胃凸Q]︹匿冒門口で四目戸口−mmくいの冒穴口日日Q四国ロ印日四旦豈の胃騨巳匡も巴呉旨宇 里の旦四ユ丘四日]凶ぐ囚旦ラ匡匹匡彦四・弓閂日倒昌F買い匡匡国困日め穴胄四目旨巨庁国白戸己画旦四国ロ.国邑倒穴印吾卸日ず○二︺厨禺g①口四日四冨静呉弓の日四 口四日閏ロ山口四丙四ヨ同巨ロ自国再﹄陛穴巴国ぐぐ四日︾l口四ロ国目倒口四曰く四くゆ巳ウ匡旦匡昏印匡弓四局ヨ画曽冨陛穴巴国くぐ閏巨四四g四曲ぐ四切言烏四日のく四目め印ロ 脾 く ・氏 、 国のご印ロ日日]ゆめ薗旦印宮口四日四目騨門閏ロロゆで︻画くE冒曾の︾冒皿匹昌﹂四日門匡も四日﹄ロロ四日ゆ日輿﹃餌日ロ四国E昌胄のl望幽ぐ四匡丘戸丘旦昏四匡毒四忌日凶]ロ に ロ、目口印肖己倒︵局mHpp知己H画く巨一ぐぃ庁① 炉、Lく

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