サキャ・パンディタ著『リクテル』における
mtshan nyid の mtshan nyid の研究
はじめに61 1.mtshan mtshon gzhi の議論の箇所の科段64 2.基本的な術語の説明66 3.don ldog、rang ldog、gzhi ldog、mtshan
mtshon gzhi 70 おわりに73 第二部
サキャ・パンディタ著『量・正理の蔵(リクテル)』 第八章「mtshan nyid の考察」訳注 74
第一部 序論
はじめに
初期のチベット論理学において、学僧たちの大きな関心を呼んだテーマの 一つに、mtshanツ ェ ン nyidニ ー、mtshonツ ォ ン byaチ ャ、mtshanツ ェ ン gzhiシ (以下、チベット論理学な どの簡略な言い方に倣い、mtshan mtshon gzhi と略称する)をめぐる議論があ る ) 。独立の論理学書においても、ダルマキールティの主著の一つ『プラマー ナ・ヴィニシュチャヤ』の注釈書においても、巻頭近いところで複雑かつ膨 大な議論が展開される。しかもその議論内容は、後代のゲルク派の論理学に は見られないものであり、一体何を議論しているのか、どれが自説であるの か、どのように批判しようとしているのかを読み取ることが困難である。筆 者は巻頭に現れるこの mtshan mtshon gzhi の議論を読み始めて、すぐに挫 折してしまい、結局は初期チベット論理学の通過儀礼を終えることができな いままに、もう25年ほどが過ぎてしまった。
その間に筆者が取り組んだ初期チベット論理学の研究は、当時最も古いチ ベット論理学書の一つであったサキャ派の学僧サキャ・パンディタ・クンガ ギェルツェン(sa skya pan.d.i ta kun dgaʼ rgyal mtshan、1182-1251、サパンと略
称する)の著した名著『量・正理の蔵(Tshad ma rigs paʼi gter)』(以下『リク
テル』と略称する)の詳細な訳注であった)。初期チベット論理学は元々、10 世紀から始まるチベット仏教後伝期の最初に学問仏教の中心となったカダム 派のサンプネウトク寺の学僧たちが作り上げ継承してきたものである。しか し、これらのテキストは15世紀にツォンカパが創始したゲルク派によって吸 収され、その後はゲルク派が学問仏教の中心を担ったため、そのテキストが ほとんど散逸してしまっていた。
その中でサパンの『リクテル』はカダム派の論理学を、インドの最後の仏 教を伝えたヴィクラマシーラ寺院最後の僧院長シャーキャシュリーバドラ (Śākyaśrībhadra、1127?-1225)から伝承した最新のインド仏教論理学の理論 に基づいて批判するものであった。チベット仏教の論書の常として、サパン は批判する対象の見解を挙げ、それを詳細に批判するという形で本書を著し たので、そこには当時失われたと思われていたカダム派の論理学の主要な主 張がまとめられていた。一方、サパン自身の議論はインドの仏教論理学に比 較的忠実に基づいているので、われわれにとっても近づきやすいものであっ た。その訳注研究は道半ばにして中断してしまったが、それも難解な mtshan mtshon gzhi の議論の手前で止まってしまっていたのである。
その後、2000年代に入って、散逸したと思われていたカダム派の論理学書 を含む古写本が大量に発見され、それが次々と刊行されるに至った。それは 草書体で書かれ、印刷も不鮮明なものや欠けたものを含む不十分な出版では あったが、筆者はチベット人研究者松下賀和氏およびチベット人留学生の協 力の下、それらの写本に含まれる論理学書20数点のほとんど全てをコンピ ュータに入力し、アクセスしやすい状況を作った)。 しかし、コンピュータで編集して打ち出せるテキストを手に入れても、な おその文章を読むのは非常に難しく、読解研究自体は遅々として進まなかっ た。そのうちに筆者自身の研究生活も終わりに近づき、これまでの研究をま とめる時期になった。その際、中断していた『リクテル』の全訳を仕上げる ことを目標の一つにすることにした。そのためには何度も手を付けては挫折 してきた mtshan mtshon gzhi の議論に取り組む必要があった。本稿はその 成果として執筆したものである。その主要な内容は、『リクテル』の第八章 「mtshan nyid の考察」の前半、mtshan nyid についての一般論の箇所の解 読と注解に当てられ、その序論として、その内容の分析と mtshan mtshon
gzhi について新たに得られた知見をまとめることにした。
読解そのものは何度も挫折したとはいえ、筆者はこれまでこのテーマにつ いて二つの論文を著した。その一つ、2003年に発表した「初期チベット論理 学における mtshan mtshon gzhi gsum をめぐる議論について」は、難解な 議論を解きほぐすための新たな方法を元に執筆した。すなわち、内容の読解、 議論の理解を括弧に入れ、文や表現の共通性のみに着目して、mtshan mtshon gzhi に関する表現の形式的な特徴を抽出したのである。議論そのも のは分からないけれども、カダム派の学僧(サパンも含めて)が共通の理解 のもとにそれらの術語を駆使しているとすれば、かれらの議論の背後に前提 されている概念構造があるに違いないと考えたのである。 その結果、バラバラに意味を考えていた三つの術語の背後に共通の構造が あることが判明した。それはチベット論理学における論証式の形式と酷似し た構造であり、むしろ、それら mtshan mtshon gzhi を使用した命題は、そ れ自体が論証式と言えるものであった。実際の文章の中では必ずしも明確に 現れてこない命題形式も、それを論証式における構造に還元するならば、そ の命題の意味、あるいは少なくとも読み方を理解することはできるようにな った。mtshan mtshon gzhi の三語は、初期のチベット論理学のみならず、 その後のチベット仏教の論書の中でも重要な用語になっていく。それらの理 解も、同論文での考察を元に明確に理解できるようになった。
その後、2018年には、「初期チベット論理学における mtshan nyid の mtshan nyid を巡る議論」という論文において、mtshan mtshon gzhi の議 論の最初に位置する mtshan nyid の mtshan nyid が可能であるのか、とい う議論について概観を行った。この段階でもやはり議論の内容は追えないが、 mtshan nyid の mtshan nyid が成り立つための要件などについて、時代を追 って整備されていった状況を確認することができた。
以上二つの論文で明らかにしたものについては、以下本稿でも簡単に要約 しつつ紹介したい。 本稿で、カダム派ではなく、サキャ派のカダム派論理学批判の書『リクテ ル』を取り上げたことには重要な意味がある。サパンはインド論理学の伝統 からカダム派の論理学を批判しているとは言え、その構成や議論内容、術語 に関しては、ほとんどをカダム派の論理学書に負っている。さらに先ほども 述べたように、サパンの主張自体は理解しやすく、またその視点から批判さ れるカダム派の見解はかなり整理されているので、そこからってカダム派 の論理学書を理解する視点を獲得できる。また批判しているとは言え、そこ に使われる術語などはカダム派のものと共通しているので、サパンの文章か ら、チベット論理学に固有の特殊な用語の理解もある程度可能になる。サパ ンの結論を理解することからることによって、批判対象のカダム派の議論 も理解しやすくなる。 以上のような視点から、本稿ではまず筆者の旧稿での結論を下敷きにしつ つ、サパンの議論を参照しながら mshan mtshon gzhi の理解を組み立てて いきたい。
1.mtshan mtshon gzhi の議論の箇所の科段
まず初めに、『リクテル』第八章前半の科段を挙げて、どのような順序で 議論が進んでいくかを確認したい。
A1 : 知られる対象を全体として確定する(第一章〜第七章) A2 : 知る主体である量の自性を確定する(第八章〜第十一章)
C1 : mtshan nyid、mtshon bya、mtshan gzhi 一般の自性の確定 D1 : 所知に〔mtshan、mtshon、gzhi の〕三項目が必ず存在していること の論証 D2 : 〔所知全てに〕必ず存在している三項目の自性を確定する E1 : それ自体を特定する E2 : それらを設定する妥当性(ʼthad pa)
E3 : 〔mtshan、mtshon、gzhi〕各々の mtshan nyid F1 : mtshan nyid〔の mtshan nyid〕
G1 : mtshan nyid の mtshan nyid は必要ないという考えを否定す る H1 : 異説を退ける H2 : 自説 H3 : 論難を退ける G2 : 〔設定する〕必要のある mtshan nyid を設定する H1 : 異説の否定 H2 : 自説
G3 : 〔mtshan nyid の mtshan nyid によって〕退けられる過失ある 〔mtshan nyid の〕数の確定 H1 : 異説の否定 I1 : 異説 I2 : 異説の批判 J1 : 正理によって否定する J2 : 〔ディグナーガ、ダルマキールティの〕原典の真意では ない H2 : 自説
H3 : 論難を退ける
F2 : mtshon bya〔の mtshan nyid〕 F3 : mtshan gzhi の mtshan nyid D3 : 三項目それぞれの設定
C2 : 特に量の mtshan nyid を確定する
C3 : mtshan nyid によって規定される意味の確定
B2 : mtshan gzhi それぞれの意味の確定(第九章〜第十一章)
本稿では、第八章の最初から mtshan nyid の mtshan nyid の議論の最後
(H3)までを訳出する。
mtshan nyid の mtshan nyid の内容を大きく分けると、
G1 : mtshan nyid の mtshan nyid は必要ないという考えを否定する G2 : 〔設定する〕必要のある mtshan nyid を設定する
G3 : 〔mtshan nyid の mtshan nyid によって〕退けられる過失ある 〔mtshan nyid の〕数の確定 の三節になり、それぞれの中に異説の否定、自説、論難の排除という三節 がある。最もページ数を占めているのが、いずれの場合も異説の否定であり、 その中は異説を述べる部分とそれに対するサパンの批判からなる。もちろん、 自説の部分はサパンの見解がストレートに展開されるので重要である。
2.基本的な術語の説明
まず、チベット論理学の基本的な術語について説明しておきたい。(ઃ)論証式 チベット論理学に限らず、特にゲルク派の寺院ではインドの論書を学ぶと き、ほとんどの内容を論証式に書き換えて学んでいく。時代が下るにつれて その傾向は強くなっていく。論証式とはサンスクリット語では prayoga、チ ベット語で sbyor ba と言われる。形式は、 【論証式】A)を主題として、B である(ことになる)。なぜなら、C である から。 ※ここで、A は主題、B は所証(論証しようとしている属性)、C は論証因 である。 ()遍充関係 このとき、論証因 C と所証 B との間には遍充関係が成り立っていること が前提になる。遍充関係には肯定的なものと否定的なものがある。
【肯定的遍充関係(anvaya, rjes ʼgro)】B があるところのみに、C がある。
【否定的遍充関係(vyatireka, ldog khyab)】B がないところには、決して C
はない。 これは、B があるところを集合 B、C があるところを集合 C とした場合、 集合 C が集合 B に包摂されるかあるいは外延が等しいことを意味する。 (અ)因の三相 因の三相とは正しい論証因が満たすべき三つの条件である。仏教論理学の 創始者ディグナーガが主張し、その後広く受け入れられている。これは、
mtshan nyid が成立するための三条件のモデルになったと考えられる。因の 三相のどれが成り立たないかで、論証因の過失の種類が区別されるが、それ と同様に mtshan nyid の過失も mtshan nyid の三条件のどれが成り立たな いかによって分類される。 【第一相】論証因が正しく主題において成立している。 【第二相】肯定的遍充関係が成り立っている。 【第三相】否定的遍充関係が成り立っている。 (આ)論証因の種類 ダルマキールティは、論証因が三種類に限定されると主張した。
【自性因(svabhāvahetu, rang bzhin rtags)】所証と論証因が同一の存在に属 していて、それらの間に遍充関係が成り立つ場合。第八章での例では「声を 主題として、無常であることになる。なぜならば、作られたものであるか ら。」が言及される。
【結果因(kāryahetu, ʼbras rtags)】因果関係にある二つのものについて結果
を論証因、原因を所証とする場合。第八章の例では「あの山(=主題)を主
題として、火があることになる。なぜならば、煙があるから。」が言及され る。
【無知覚因(anupalabdhihetu, ma dmigs pa)】知覚されないことからその対
象が存在しないことを論証する。第八章では言及されない。
(ઇ)規定式
チベット語では mtshon sbyor であり、定訳はない。インドでは対応する 考え方自体がない。
ば C であるから。」
これは上記の論証式の形式にほぼ一致する。「主題」はチベット語で chos can であるが、規定式では、mtshan gzhi ないしは単純に gzhi と言われる。 「規定される」という部分は、様々な表現が用いられる。「と言説され得る」 「mtshon ba され得る」など。ただ、意味上はほとんど変わらない。このこ とは福田[2003]で指摘したが、この事実から mtshon bya の意味が帰納さ れる。A は mtshan gzhi、B は mtshon bya、C は mtshan nyid である。
この規定式は上の論証因の種類で言えば自性因である。しかし、自性因が 全て規定式となるわけではなく、B と C が mtshan nyid mtshon bya の関係 にあることが必要である。たとえば、無常であることと作られたものである ことは、mtshan nyid mtshon bya の関係にないので規定式ではない。
(ઈ)言説(tha snyad)
サンスクリット語では vyavahāra であるが、チベット仏教ではそれより やや限定された意味で用いられる。語と分別知の対象になるものであり、名 称と概念と訳すこともできる。しかし、tha snyad du bya ba というような 動詞的な表現では、「と言われ得る、と考えられる。」という意味である。す なわちわれわれの日常的な行為において、言葉を使った行為あるいは言葉に 出さない思考において対象となっているものである。これは mtshon bya と ほぼ同義である)。 (ઉ)ldog pa 多義的な語であるので、本稿ではチベット語のままで用いる。このチベッ ト語に対応するサンスクリット語には使われる文脈の異なった三つの単語が あるが、チベット語では概ね「排除する」という意味で使われる。仏教論理
学の言語論における anyāpoha「他のものの排除」と同じ意味である。「他の ものの排除」が語の意味であるとされるのと同様、ldog pa も語によって表 示されるものである。それは同時にその対象に種々存在する属性に対応する。 ある属性は、それではないものとの「異なり」「差異」として認識され、「異 なり」「差異」は他のものを排除することによって規定される。すなわちそ の他のものの排除による「異なり」としての属性が ldog pa である。
3.don ldog、rang ldog、gzhi ldog、mtshan mtshon gzhi
ldog pa 以外に本稿で和訳していない一連の術語は、容易に和訳(あるい
は現代語訳)が見出せない単語であり、mtshan nyid と mtshon bya を除い て、サンスクリット語に対応語が見られず、一群のものをセットにして理解 しないといけない。福田[2016]において指摘したように、これらの術語の 明示的使用は、現存するチベット論理学書ではチャパ・チューキセンゲから 始まる。しかし、すでに彼の段階でもこれらの術語は当時の人々の間で共通 の理解、あるいはコンセンサスがあったようであり、正確にどのようにして これらが術語化されていったかは確定できない。 先にも述べたように、初期チベット論理学書の中で、mtshan mtshon gzhi は非常に大きなテーマであり、それを確定することが当時の学僧たち の関心を集めていたが、それらと非常に深い関連があるにもかかわらず、 don ldog、rang ldog、gzhi ldog については議論の主題にされることはなか った。既定の術語として広く用いられ、mtshan mtshon gzhi の定義にも自 由に使われている。しかし、これまで述べてきた ldog pa と言説の意味を元 にするならば、これらの術語の関係も自ずと推定できる。
排除」を意味し、それぞれに対して名称と概念が付与されて言説となる。こ の構造の中の各契機に別々の ldog pa を設定するならば、まず一つの対象に 存在する「他のものとの差異・排除」が don ldog になり、それら属性を担 う一つの対象全体が、属性の基体として gzhi ldog と言われる。rang ldog は、don ldog に対して一対一で付与された言説、すなわち名称・概念を指 していると考えられる。この中で don ldog と rang ldog は他のものとの差 異の実体とそれに対する表現ということになるが gzhi ldog それ自体には ldog pa の意味はなく、don ldog が存在している基体という意味で作られた 術語と考えられる。
mtshan mtshon gzhi については、先に規定式の中の位置づけを指摘した。 その規定式の構造およびその元になった論証式の構造からも mtshan mtshon gzhi のおおよその意味が推定できる。すなわち mtshan gzhi は mtshon bya および mtshan nyid の担い手・基体であり、mtshan nyid は、 その mtshan gzhi に mtshon bya を述定する根拠である。mtshan gzhi を主 題として、それは mtshon bya と規定される。なぜならば、その mtshan gzhi には、それを mtshon bya と規定するための mtshan nyid があるからで ある。
mtshan nyid と mtshon bya は、サンスクリット語の laks.an.a と laks.ya に
対応して、特質と特質付けられるものを意味していた)。チベット論理学では、
論証式とパラレルな規定式を構想するために、mtshan nyid と mtshon bya に加えて、それらの基体としての mtshan gzhi が必要とされたのであろう。 さらに三つの ldog pa の構造も、その背後にあるものと思われる。すなわ ち、mtshan nyid とは対象の側に存在している他のものとの差異としての don ldog であり、mtshon bya はそれに対して一対一で付与された名称・概 念の言説としての rang ldog であり、mtshan gzhi は mtshan nyid = don
ldog および mtshon bya = rang ldog がそこにおいて存在する主題・基体と しての gzhi ldog である。
ここで mtshan gzhi と gzhi ldog がほぼ同じ意味で用いられているのはサ パンの論述から間違いない。しかし、mtshan nyid と don ldog については、 mtshan nyid は don ldog であるとは言えるが、その逆にはならない。サパ
ンの mtshan nyid の mtshan nyid は、「直接的対立項)を否定排除している
don ldog が成立している存在」(chos gang zhig dngos ʼgal gcod paʼi don ldog grub pa)である。他のものを否定排除しているというのは、ldog pa の元々 の意味である。それが対象の側に成立しているものであることが don ldog grub pa で示されている。さらに don ldog の全てが mtshan nyid でないこ とは、「直接的対立項を排除している」という修飾語によって示される。直 接的対立項とは、存在するものを二分したときの、それ以外のものであり、 それを否定排除するので、その don ldog は、その対象のみに当てはまる特 質的属性になる。
一方、サパンによって否定されるカダム派の定説は、「三条件を満たした mtshon bya の don ldog が〔mtshan )〕gzhi に お い て 成 立 し て い る も の (chos gsum tshang baʼi mtshon byaʼi don ldog gzhi la grub pa)」である。ここ でも mtshan nyid の意味の中心は don ldog にあり、それが mtshon bya と mtshan gzhi との関連によって限定されていることが分かる。サパンはこの 見解を「mtshan nyid の理解が mtshon bya に依存しなければならないので
正しくない」と批判している!)。要するに mtshan nyid を規定するために
mtshon bya に依存してはならないということであるが、逆に言えば、 mtshan nyid には don ldog にない mtshon bya、mtshan gzhi との関わりが 含まれているのである。このことが、一般的な用語の don ldog、rang ldog、 gzhi ldog と、mtshon pa の働きの中で成立する三つの項目としての mtshan
mtshon gzhi の違いだと言えるかもしれない。言い換えれば、三つの ldog pa はそれぞれ独立して使用できるが、mtshan mtshon gzhi は常に他の二項 目を予想して用いる必要がある術語であると考えられる。
おわりに
以 上、『リ ク テ ル』第 八 章「mthan nyid の 考 察」の mtshan nyid の mtshan nyid の箇所を読解するのに必要と思われる基本的な概念を説明した。 mtshan mtshon gzhi および don ldog、rang ldog、gzhi ldog については、 現在の理解の到達点をまとめることができたが、従来の理解からそれほど大 きな進展があったわけではない。これまで予想し、理解していた内容に違い はないが、それが以下の翻訳や注釈を通じて、実際の議論や文脈の中で確認 できたし、それをまとめて記述することもできたと思う。以前には読解を挫 折していた『リクテル』の議論も、おおよそ理解することができた。
実は以下に訳した mtshan nyid の mtshan nyid の議論は第八章「mtshan nyid の 考 察」の 議 論 の 半 分 に も 満 た な い。こ の あ と、mtshon bya の mtshan nyid、mtshan gzhi の mtshan nyid、mtshan mtshon gzhi それぞれ の rang ldog の確認、それらの相互の関係の仕方などの議論が、カダム派の 説とそれに対する批判、そしてサパン自身の見解と、それに対する論難の排 除という下位区分を伴って展開されていく。これら残された部分の訳注およ びその分析については、本稿で築いた理解を元に、今後継続して研究成果を 発表していきたいと考えている。
第二部
サキャ・パンディタ著『量・正理の蔵(リクテル)』
第八章「mtshan nyid の考察」訳注
A2 : 知る主体である量10)の自性を確定する B1 : mtshan nyid の設定
C1 : mtshan nyid、mtshon bya、mtshan gzhi11) 一般の自性の確定
D1 : 所知12)に〔mtshan nyid、mtshon bya、mtshan gzhi の〕三項目が必ず存在して いることの論証
【偈】全ての所知13)に三項目が必ず存在しているので、その設定を説
明しよう。
全ての所知に mtshan nyid と mtshon bya と mtshan gzhi の三項目(rnam
pa gsum)が必ず存在していることは、自己認識によって成立する14)。なぜな らば、所知の形象が知に昇るとき15)、他のものと異なった形象16)〔で知に昇り〕、 その〔所知〕を錯誤していない語あるいは知が思念することが可能であり17)、 〔その所知が〕基体〔の形象〕と共に〔知に〕昇ってくる18)からである。 D2 :〔所知全てに〕必ず存在している三項目の自性を確定する E1 : それ自体を特定する 【偈】mtshan nyid は〈理解させるもの〉であり、実在物に属する 存在(don gyi chos19))である。mtshon bya は〈理解されるもの〉であ
り、知に属する存在(blo yi chos)である。mtshan gzhi は〈理解さ
れるものの拠り所となっている存在〉(rten gyi chos)である。これら
は、設定されるものと設定するもの(rnam gzhag ʼjog)〔の関係の上
で概念的に区別されるもの〕である。
mshan nyid は、それによって理解させるものであり、〔言説20)を〕設定する
根拠である。たとえば〔「牛」を理解させる〕瘤と喉袋のような実在物に属 する存在(don gyi chos)である。mtshon bya は、理解されるところのもの であり、〔mtshan nyid によって〕設定される結果であり、たとえば「牛」
という言説(tha snyad)のように知に属する存在である。mtshan gzhi は、
そこにおいて〔言説が〕理解される拠り所(=基体・主題21))である。たとえ
ば白斑牛のような〔それが「牛である」と言われるところの主語になってい
る〕ものである。この三項目はみな実在物の自相22)に属するもの(don rang
mtshan gyi cha)から出てくるものではなく、他の排除23)(gzhan sel)〔によっ て成立するもの〕に他ならない。 E2 : それらを設定する妥当性(ʼthad pa) 【偈】三項目にも〔存在〕理由(rgyu mtshan)が必要である。〔存 在理由が〕ないならば、〔三項目〕全ては混同されてしまうであろう。 白 斑 牛 が「牛」で あ る と 言 う こ と が で き る た め に、瘤 と 喉 袋 の み を mtshan nyid と 設 定 す る 理 由 は 何 か。理 由 が な く て も〔瘤 と 喉 袋 が〕
mtshan nyid で あ る と 述 べ る な ら ば、〔他 の〕二 項 目(= mtshon bya と
のか。同様に、「牛」という言説や白斑牛についても、それぞれ mtshon bya と mtshan gzhi であると述べることができる mtshan nyid は何であるの か、分けて考察しなければならない。
E3 :〔mtshan nyid、mtshon bya、mtshan gzhi〕各々の mtshan nyid F1 : mtshan nyid〔の mtshan nyid〕
G1 : mtshan nyid の mtshan nyid は必要ないという考えを否定する H1 : 異説24)を退ける
【偈】〔ある人は〕「実有(rdzas yod)である mtshan nyid に mtshan
nyid は必要ない。必要であるとするならば、際限なく続くことにな る。」と言う。
〔異説〕ある人は、「mtshan nyid には別の mtshan nyid は必要ない。な
ぜならば、don ldog は実有であるから25)。また、もし必要であるとするなら
ば、際限なく続いてしまうからである。」と言う。
【偈】ある人は、「〔mtshan nyid の〕実在物(don)には〔mtshan
nyid は〕必要はないけれども、〔mtshan nyid の〕言説には〔mtshan nyid が〕必要である。」〔と言う〕。他の人たちは「〔mtshan nyid の〕 実在物にも〔mtshan nyid が〕必要である。」と言う。〔別の人たち は〕「同様に、mtshon bya も、論証因の場合と同様〔mtshon bya の mtshon bya が〕際限なく続くことになる。」と言う。
青いものにおいて〈現前しているもの(mngon ʼgyur)〉の実在物(don)は成
立している(=認識されている)けれども、〔〈現前しているもの〉という〕
言説が成立していない(=言説を理解していない)愚者に対して、「青を主題
として、それは〈現前しているもの〉であると規定できる。なぜならば、
〔青は〕知覚経験によって認識されるもの(myong baʼi rtogs par bya ba)だ
からである。」と〔論証する必要があることを〕全ての論理学者たちは認め ている。それと同様に、mtshan nyid にも実在物と言説という二つ〔の側 面〕があり、そのうち実在物〔の mtshan nyid〕については別の mtshan nyid は必要ない。しかし、その実在物〔としての mtshan nyid〕を主題とし
て、それが mtshan nyid である26)と規定するための mtshan nyid は設定され
る。しかし、それ(=述語としての mtshan nyid)が実有であるという論証因
は成立しない〔ので、実在物としての mtshan nyid に mtshan nyid は必要 ないという批判は成り立たない〕。
〔異説〕また、ある人27)は以下のようにおっしゃった。
〔立論者:〕実在物〔としての mtshan nyid〕にも〔別の mtshan nyid が〕 必要であるけれども過失はない。すなわち、第二の言説の mtshan nyid で
ある牛の言説28)(ba lang gi tha snyad)には mtshan nyid である瘤と喉袋が必
要であるように、である。 〔反論者:〕牛の言説が第二の言説の mtshan nyid であるのはなぜか。 〔立論者:〕〔逆に尋ねよう。〕瘤と喉袋も牛の mtshan nyid であるのはな ぜか。 〔反論者:〕それは牛の思念対象29)(zhen yul)であるからである。 〔立論者:〕牛の言説も第二の言説の思念対象であるから〔第二の言説の mtshan nyid〕である。しかしながら、瘤と喉袋には別の mtshan nyid は必 要ないので、際限なく続くことにはならないのである。
それと同様に、mtshon bya にも別の mtshon bya があると主張する30)。 〔反論者:〕そうであるならば、mtshan nyid の実在物に〔必要な mtshan nyid〕は限りあるけれども、言説は際限なく続く。すなわち、mtshan nyid
お よ び mtshon bya の 二 つ を 主 題(gzhi)に し て、mtshan nyid お よ び
mtshon bya であると言えるために、別の mtshan nyid が必要であるので際 限なく続くのである。 〔立論者:〕そうであるならば、あなたに以下のことを尋ねよう。すなわ ち、山に火があると論証するために煙を論証因として提示したとき、煙が論 証因である理由は何か。 〔反論者:〕因の三相を満たしているからである。 〔立論者:〕それならば、煙が論証因であると論証するために〔論証因と して〕因の三相が必要であるとするならば、その〔因の三相〕自身が論証因 であると論証するために別の論証因が必要となるので、際限なく続くことに なってしまう。 すなわち、愚者に対して、煙が論証因であると論証するために、〔限定の ない〕論証因一般〔であると論証する〕やり方と、〔所証によって〕限定さ れた論証因であると論証するやり方の二つがあるうち、〔所証によって〕限 定された論証因は際限なく続く。 たとえば、「煙を主題として、『火があると論証する』論証因であると規定 される。なぜならば、『山に火があると論証する』ことについての因の三相 を満たしているからである。」という〔論証式が可能であり〕、また「因の三 相を満たしていることを主題として、『煙が論証因であると論証する』論証 因であると規定される。なぜならば、『煙を論証因であると論証する』こと についての第二の因の三相を満たしているからである。」という〔論証式が 可能であり〕、「第二の因の三相を主題として、『最初の因の三相が論証因で
あると論証する』ことについての論証因であると規定される。なぜならば、 『最初の因の三相が論証因であると論証する』ことについての第三の因の三 相を満たしているからである。」云々というように、知で区別をして、言葉 で間違えることなく述べていくならば、一劫の間述べても尽きることはない。 〔反論者:〕そうであるならば、〔主題である〕語自身において、〔すでに〕 語が成立しているのと同じである。 〔立論者:〕語にはすでに成立しているものと成立している属性31)(grub pa grub chos)の二つがあることになってしまうであろう。 〔反論者:〕因の三相も同じことになるであろう。 〔立論者:〕その通りである。なぜならば、主題の因の三相は煙の因の三 相であり、論証因の因の三相は、それ(=論証因)自身に存在する因の三相 であるので、排除(ldog pa)〔の対象〕が異なっているからである。 語についても、〔他のものに〕関連させて設定するならば、〔それ自身で成 立している〕純粋なもの(dag pa ba)ではなくなり、因の三相は純粋なもの ではないことになると〔あなたは〕認めているので、〔主題と論証因は〕異 なっているのである。 〔反論者:〕そうであるならば、際限なく続く後続のものを知らないので、 先行するものを知ることができないことになってしまうであろう。 〔立論者:〕そうはならない。なぜならば、所証は、論証因の mtshan gzhi によって論証されるからである。 〔反論者:〕そうであるならば、論証因の言説は際限なく提示しなければ ならないことになる。 〔立論者:〕誤った理解があるならば、〔際限なく提示〕しなければならな いのである。 〔限定なしの〕論証因一般を論証する場合には、〔他のものからの〕ldog
pa が同時32)(ldog pa gcig bcad)〔であるという説〕と〔ldog pa が〕等しいも の(mtshungs pa)という説の二つがあるうち、前の説では、第三の論証式33) において〔終端に〕達する。すなわち、「因の三相を主題として、〔それが〕 論証因であると規定される。なぜならば因の三相を満たしているから。」と いう〔論証式を〕提示したならば、そのとき「語を主題として、〔それは〕 無常である。なぜならば語であるから。」という〔論証式と〕同様、主題と
論証因が同じである不定因34)(ma grub pa)となってしまう。〔しかし〕それ
は正しくない。すなわち、因の三相が因の三相を満たしていないとしたら、 そのとき、その因の三相は論証因であるのか、ないのか。〔論証因で〕ない としたら、煙が論証因であると論証することはできない。〔論証因で〕ある としたら、rang ldog が論証因であるもの35)が因の三相を満たしていないとい うことがどうしてあり得ようか。また因の三相が因の三相を満たしていない ならば、煙も同様に〔因の三相を〕満たしていないことになってしまうであ ろう。 〔反論者:〕煙は議論の主題〔であるあの山〕において成立しているので 主題所属性〔が成立し〕、同類例36)である火のあるところに煙があり、異類例 である火のないところに〔煙が〕ないので、肯定的・否定的遍充関係が成立 する。それゆえ、〔煙は〕因の三相〔を満たしている〕のである。 〔立論者:〕今の議論の場合にも、〔因の三相は〕議論の主題である煙の属 性として成立しているので主題所属性〔が成立し〕、同類例である論証因で あると規定されるものにおいて〔因の三相が〕成り立ち、異類例である〔論 証因と規定されないもの〕において〔因の三相が〕成り立たないので、肯定 的・否定的遍充関係が成立する。それゆえ、因の三相がどうして成り立たな いことがあろうか。したがって、同じ ldog pa が論証因一般であると規定で きることを論証するときにも際限なく続くと主張する。なぜならば、先行す
るものに関しての因の三相一般の ldog pa(tshul gsum tsam ldog)が主題で あり、後続のものに関しての因の三相一般が論証因だからである。
〔反論者:〕特定の〔所証に関する〕因の三相(tshul gsum gyi bye brag)
の ldog pa が異なっているのであって、〔因の三相〕一般の ldog pa は異な っていないのである。
〔立論者:〕〔特定の因の三相の〕ldog pa が異なっていることによって、 〔因の三相〕一般の ldog pa〔も〕異なっていることになるので、論証因は 必ず際限なく続くことになる、と言うならば、今の議論でも、〔瘤と〕喉袋 一般を mtshan gzhi に設定して、mtshan nyid であると規定する場合にも、 mtshan nyid 一般であるという場合と、特定のものの mtshan nyid であると 規定する場合の二つがあるうち、特定〔のものの mtshan nyid〕であると規 定するならば、必ず際限なく続くことになるのは前述の通りである。また mtshan nyid 一般であると規定するときにも、ldog pa は同時〔であると主 張する〕説と、〔ldog pa が〕等しいと主張する説の二つがある。そのうち、 前の説の通りであるならば、第三の論証式のときに終端に達すると主張する のは不合理である。なぜならば、mtshan nyid の三条件が mtshan nyid の三 条件を満たさないならば、rang ldog は mtshan nyid ではないことになって しまう〔からである〕。また瘤と喉袋も〔mtshan nyid の三条件を〕満たさ ないことになるのも〔前の場合と〕同じである。
したがって、ldog pa が等しいと主張する人たちは、mtshan nyid 一般で あると規定するときも、際限なく続くと主張する。なぜならば、順に先行す るものについての mtshan nyid の三条件を mtshan gzhi〔として〕、順次、 後続のものについての mtshan nyid の三条件が mtshan nyid だからである。 したがって、mtshan nyid の mtshan nyid は際限なく続くことになる〔が
〔サパン:〕以上の説は正しくない。 【偈】設定する根拠が確定されることなしに、設定される結果が確 定されるとするならば、mtshan nyid は必要なくなるであろう。〔設 定される結果が〕確定され得ないとするならば、際限なく続くことに なり、〔最初の mtshan nyid が確定されることも〕なくなる。 設定する根拠である mtshan nyid が確定されることなしに、それによっ て設定される結果である mtshon bya が確定されるとするならば、mtshan nyid が な く て も mtshon bya は 理 解 さ れ る こ と に なっ て し ま う38)。ま た 〔mtshon bya が〕確定されないならば、mtshan nyid は際限なく続き、それ ゆえ後続〔の mtshan nyid〕が確定されることはあり得ないので、最初の根 本の mtshan nyid も確定されないことになる。 【偈】〔反論者:〕論証因の mtshan gzhi によって所証の内容が論 証されるので、際限なく続くという過失はない。 際限なく続く後続のものが知られないとしても、過失はない。なぜならば、 所証は論証因の mtshan gzhi によって論証されるからである。 【偈】〔サパン:〕因の三相、あるいは〔瘤と〕喉袋が確定されなく ても、〔主題あるいは mtshan gzhi である〕作られたもの、あるいは 白斑牛だけで、無常であること、あるいは牛であることが理解される ことになってしまうであろう。
論証因の mtshan gzhi、あるいは mtshan nyid の mtshan gzhi において所 証が理解されるならば、因の三相あるいは〔瘤と〕喉袋が確定されなくても、 論証因の mtshan gzhi である作られたもの、あるいは牛の mtshan gzhi で あると白斑牛などが知覚されたとき、無常なる声、あるいは牛であることは 確定されることになってしまうであろう。 その通りであると言うならば、作られたものが知覚された際に、〔無常で あることが理解され〕常住であるという増益39)が生じることはあり得ないこと になる。また瘤と喉袋のない他の物体においても、牛であると確定されるこ とになる。
特に(bye brag tu)、言説が mtshan nyid であると主張するのは正しくな い。 【偈】〔ある者:〕言説に対しても思念契機(zhen rung)が何かな いならば、その〔言説〕は所知ではなくなる。〔思念契機が〕存在す るならば、それ自身、後続のものの mtshan nyid である。 牛の言説自体、第二の言説の mtshan nyid である。すなわち、牛の言説 は、それ自体、錯誤していない語と知が思念する〔ための契機〕が存在しな ければ、知や言語表現を超えたものになってしまう。また〔思念契機が〕存 在するならば、それが思念対象である牛の言説と don ldog が同じものなら ば、〔瘤と〕喉袋(= mtshan nyid)を思念する〔ための契機〕である牛(=
mtshon bya)もまた、〔瘤と〕喉袋自身と〔don ldog が〕同じものである 〔という過失に陥る〕のと同様である。もし〔思念契機が思念対象と don ldog が同じもの〕ならば、その思念対象は、牛の言説自身であるのか、そ れとも瘤と喉袋であるのか。前者ならば、別の言説が mtshan nyid として 成立してしまい、後者ならば、一つの mtshan nyid によって複数の mtshon
bya を表示する(mtshon pa)ことになってしまうので、その〔いずれも〕 あり得ない。 したがって、順次先行する言説が mtshan nyid であり、それを語と知が 思念する〔ための契機である〕後続の言説が順次 mtshon bya であるので、 所知の領域に、mtshan nyid となり得ない法はあり得ないのである。 〔サパン:〕以上の説を否定する。 【偈】もしそうであるならば、枝にも枝がないならば〔枝は〕木で ない〔ことになる。枝に〕枝があるならば、木についても mtshan nyid が際限なく続くことになる。 木の mtshan nyid として一般に承認されている枝に、第二の枝がないな らば、枝は木ではないことなってしまう。また〔枝に第二の枝が〕あるなら ば、それに対してさらに第三〔の枝〕と第四〔の枝〕などが必要となるので、 木の mtshan nyid も際限なく続くことになる、と言ったならば、どうする のか。 【偈】〔ある者の反論:〕枝に別の枝がなくても、枝それ自身によっ
て、〔枝が〕栴檀〔の木〕と一体のもの(ngo bo dbyer med)と論証さ
れるので、際限なく続くことにはならない。
栴檀が木であると論証するために、枝を〔論証因として〕挙げたとき、枝 に対してさらに別の枝がなくても、枝は木ではないということにはならない。 すなわち、その〔論証因として挙げた〕枝によって木と異なったものである と論証しているのではなく、〔木と〕一体のものであるとすでに論証してい
るので、枝自身も木であることは成立しているのである。 【偈】〔サパン:〕第二の言説がなくても、その言説自身が mtshan nyid によって所知であると論証されるので、言説がどうして際限な く続く必要があろうか。 言説に第二の言説がなくても、前の言説が知や言語表現の対象外となるこ とはない。〔なぜならば〕瘤と喉袋などの mtshan nyid によって牛などの言 説が〔mtshan nyid とは〕異なったものとして論証されるのではなく、一体 のものとして論証されるので、瘤と喉袋が知ったり言語表現したりできるも のとして成立しているとき、それと一体の言説もまた知ったり言語表現した りできるものとして成立している〔からである〕。たとえば、栴檀の木とし て成立しているとき、その枝が木として成立しているのと同様である。 この論理は、mtshan nyid が際限なく続くと主張する人と比べるならば、
完全一致の類推(cha mthun gyi mgo bsgre)であり、この箇所では、順序を
乱した類推(thod rgal paʻi mgo bsgre)である。完全一致で類推(cha mthun
du bsgre)するならば、〔以下のようになる。〕先行する言説に後続の言説が 存在しなければ、先行〔する言説〕は知ったり言語表現したりできないもの となってしまうであろうと言うならば、先行する栴檀に後続の栴檀がないな らば、先行〔する栴檀〕は香りをもたないものとなってしまうであろう。 後続のものがなくても、先行するもの自体が栴檀であることが成立してい るので、香りと離れることはない、と言うならば、後続の言説がなくても、 先行するもの自体が言説であると成立しているので、知と言語表現を逸脱す ることはないのである。 同様に、火の mtshan nyid である熱さに対して第二の熱さがないならば、
前のものは火ではないということになってしまう。あるいは、火に対して第 二の火がないならば、前のものは火ではなくなってしまうなどの全ての場合 に同じ〔批判が当てはまる〕のである。
もし、火と木などの純粋な実体的存在(rdzas chos)と、際限なく続く
mtshan nyid の mtshan nyid や、際限なく続く言説の言説のような〔他のも
のに〕依存する ldog chos(概念的存在)とは、言葉は似ているけれども意味
対象は異なっているのである、と言うならば、われわれは、全ての語と分別 知とは「他の排除」であると主張する。〔したがって、〕否定および定立は全
て ldog pa に依拠した観念的存在(bloʼi chos)であるので、全て等しいので
ある。 また、瘤と喉袋が牛の思念対象であるので mtshan nyid になるのと同様、 第二の言説の思念対象である第一の言説が mtshan nyid になるとおっしゃ っているのも、単に思念対象であるだけで mtshan nyid になるというなら ば、結果因40)の思念対象は火であるので、火が mtshan nyid であるというよ うに過大適用の過失におちいるのである。 したがって、mtshan nyid が際限なく続く、あるいは言説が際限なく続く などという〔批判〕は、炊いた米を食べるために、〔米の〕種の痕跡を探す ようなもので、無意味なことだと〔ダルマキールティ師は〕お考えになり、 その七部の論書のどこにも〔そのようなことを〕お説きにならなかったので ある。 H2 : 自説 【偈】指示するもの41)と実在物(brda don)の結び付きが認識されたと き、言説が理解される。
智者には、論証因や mtshan nyid となっている実在物(don)を見ただけ で言説が理解される。また愚者には、それら〔論証因や mtshan nyid〕の mtshan nyid を論証因として提示した言説を論証することによって〔その mtshan nyid から言説が〕理解される。極めて愚かな人には、因の三相各々 の内容(ngo bo)を説明するか、瘤と喉袋〔という mtshan nyid〕の don ldog である背中の肉の盛り上がりと喉の垂れた皮などの、指示するもの 〔である言説〕とその実在物の結び付き〔を説明する〕必要がある。 以上のことを述べただけでも理解できない人は、言説を論証する相手では ないのである。 それでは、愚者にどのように言説を論証するのかと思うならば、〔答えよ う〕。 【偈】論証因および mtshan nyid の両者には、それぞれ一般的なも の(spyi)と特定のもの(bye brag)とがある。両者とも第三の論証 式で〔終端に〕達する。四番目以降〔の論証式〕は必要ない。 煙が論証因であるのはなぜかと問うならば、限定をせずに論証因一般であ ると論証する場合と、限定的にこの論証式に属する〔論証因の〕言説を論証 する場合の二つがある。そのうち前者は、「因の三相を満たしているものが 論証因である。たとえば作られたもの〔は因の三相を満たしているので論証 因である〕。煙もまた因の三相を満たしている〔ので論証因である〕。」と提 示される。 以上のような、因の三相を満たしているものが論証因であるというのはな ぜかと問うならば、因の三相を満たしているものが論証因と名付けられる。 たとえば、枝を有するものが木と名付けられるのと同様である。このように
名前を思い出させることによって、〔言説と実在物の結び付きが〕理解され るのである。 この〔特定の〕論証式に属する〔論証因の言説〕についても、ある〔特定 の〕所証を論証することに関して因の三相を満たしているものは、その〔特 定の所証を〕論証するための論証因である。たとえば、無常であることを論 証する〔作られたものという論証因〕と同様である。〔火を論証する論証因 である〕煙も、山に火があると論証することに関して因の三相を満たしてい る〔ので、あの山に火があると論証する論証因である〕。 山に火があると論証することに関して、因の三相を満たしているものは、 山に火があると論証する論証因である。なぜならば、山に火があると論証す ることに関して因の三相を満たしているもの自体が、山に火があると論証す る論証因と名付けられる。たとえば、枝を持つものが木と名付けられるのと 同様である。〔これは〕分かりやすい。 同様に、瘤と喉袋が〔牛の〕mtshan nyid である〔と言うための論証因〕 にも、一般的なものと、この〔論証式〕に属する〔特定の〕ものの二つがあ る。そのうち前者は「直接的対立項を排除する don ldog が成立しているも のが mtshan nyid である42)。たとえば、腹部が膨れ、脚がすぼまっているも の〔が壺の mtshan nyid であるの〕と同様である。瘤と喉袋を有するもの についても、直接的対立項を排除する don ldog が成立している。」というこ とによって〔瘤と喉袋が mtshan nyid であることが〕成立する。その同じ ものが mtshan nyid であるというのも、直接的対立項を排除する don ldog の成立しているものが mtshan nyid と名付けられる〔からである〕。たとえ ば、「枝を持つものが木〔と名付けられるの〕と同様である。」ということに よって成立するのである。
て白斑牛を〔主題として〕述べることによって知るときに、ある〔対象=
mtshan gzhi〕をある〔言説= mtshon bya〕として規定する(mtshon ba)
ことに関して、直接的対立項を排除する don ldog が成立しているものが、
〔その特定の主題を〕それ(=特定の mtshon bya)であると規定する mtshan
nyid である。たとえば、壺(= mtshon bya)と規定されるものにとって腹
部が膨れているもの〔が mtshan nyid である〕のと同様である。〔瘤と〕喉 袋〔を持つもの〕において、白斑牛を牛であると規定することに関して直接 的対立項を排除する don ldog が成立しているのである。
白斑牛を牛であると規定することに関して、直接的対立項を排除する don ldog が成立しているものが、白斑牛を牛であると規定する mtshan nyid で ある。なぜかと言えば、白斑牛を牛であると規定することに関して、直接的 対立項を排除する don ldog が成立しているものに対して、白斑牛を牛であ ると規定する mtshan nyid と名付けられた〔から〕である。たとえば、枝 を有するものが〔木と〕名付けられたのと同様である〔。これは、理解し〕 易い。 H3 : 論難を退ける 【偈】〔反論者:〕因の三相に因の三相がなければ、論証因にはなり 得ない。〔因の三相が〕あるならば、際限なく続くことになる。 因の三相が因の三相を満たしていないならば、因の三相〔を満たしたも の〕は論証因ではなくなってしまうであろう。また〔因の三相を〕満たして いるならば、それ自身が第二の因の三相であるので、それに関して第三の因 の三相と第四〔の因の三相〕などが〔必要となり〕、あなたの説においても
際限なく続くことになってしまうであろう。 【偈】〔サパン:〕〔火を論証する煙の〕因の三相は、全ての煙に属 する性質であり、〔煙と〕切り離すことはできず、〔それ以外の〕他の ものの属性ではない。 煙を主題として、その上で〔それとは別の〕何か因の三相なるものを挙げ るならば、あなた〔の批判〕は正しいであろうが、われわれは煙それ自体が、 知によって因の三相〔を満たすもの〕であると捉えられている以外に、煙の 上に第二の因の三相や第三の因の三相など〔があると〕は認めないので、ど うして過失があろうか。 【偈】このことによって、mtshan nyid が際限なく続くという過失 もまた退けられる。
直接的対立項を排除する don ldog が成立しているものに対して mtshan nyid がないならば、その〔don ldog〕は、mtshan nyid ではないことになっ てしまう。また〔mtshan nyid が〕あるならば、際限なく続くことになって しまう、という〔論難〕も、上のことで退けられる。すなわち、瘤と喉袋を 主題として、直接的対立項を排除する don ldog が成立しているものを何か 別に提示するとするならば、〔それが〕際限なく続くことになってしまうで あろうが、瘤と喉袋自身が、直接的対立項を排除する don ldog として論証 されるので、過失はないのである。 もしそうでないならば、喉袋に第二の喉袋がないならば、喉袋は牛ではな いことになってしまい、また〔第二の喉袋が〕あるならば、〔以下、第三、
第四の喉袋というように〕喉袋を際限なく提示する必要があるなどの過大適 用になってしまうのである。
G2 :〔設定する〕必要のある mtshan nyid を設定する H1 : 異説の否定
【偈】ある人は、〔mtshan nyid の mtshan nyid は〕mtshon bya を 設定するものであると言う。それは論証因〔の mtshan nyid〕につい ても同じことになるので〔正しく〕ない。
mtshan nyid の mtshan nyid は mtshon bya を設定する理由である、と言
うならば、論証因の mtshan nyid もまた、なぜ「所証(bsgrub bya)を理解
させるもの」にならないのか。
所証を理解させるもの自体に因の三相が必要であると言うならば、
mtshon bya を設定するものについても、設定するやり方(ʼjog tshul)の三
条件(chos gsum)が必要になるのである43)。
【偈】ある人は、〔mtshan nyid の mtshan nyid は〕三つの条件を満 たしているものであると主張する。
「三つの条件を満たした mtshon bya の don ldog で基体において成立して
いるもの」〔が mtshan nyid の mtshan nyid である〕とおっしゃる44)。
【偈】この〔mtshan nyid の mtshan nyid〕は mtshon bya に依存し ているので、正しくない。
mtshan nyid であると理解することが、mtshon bya に依存する必要があ るので、〔この mtshan nyid は〕正しくない。
〔反論者:〕mtshan nyid として挙げられたもの自体が、自らの mtshon bya に依存するならば過失になるけれども、これは自らの mtshon bya に依 存していないので過失にならない。たとえば、論証因に設定された「作られ たもの」が、自らの所証である無常なものに依存していても、論証因〔とし
て〕提示されたもの自体(rtags kyi dgod byaʼi ngo bo)が無常なものに依存
していないので、過失がないのと同様である。
〔サパン:〕〔その〕喩例は異なっている。なぜならば、「作られたもの」 の ldog pa は無常なものに依存することなく成立するが、この〔mtshan nyid の mtshan nyid〕では mtshon bya が成立していないならば、mtshon bya の don ldog は成立し得ないからである。
H2 : 自説
【偈】〔mtshan nyid の mtshan nyid は〕直接的対立項を排除する (gcod pa)don ldog である。
〔mtshan nyid の mtshan nyid は〕直接的対立項を排除する don ldog が成 立しているところのものである。なぜならば、mtshon bya と mtshan gzhi
の二つの ldog pa を退けて、求められているもの(gangʼdod pa de = mtshon
bya)の don ldog が成立しているものだからである。
G3 :〔mtshan nyid の mtshan nyid によって〕退けられる過失ある〔mtshan nyid〕 の数の確定
H1 : 異説の否定 I 1 : 異説
【偈】〔mtshan nyid の〕mtshan nyid の過失をまとめるならば、三
〔種類〕であると北方のもの(チベット人)たちは主張する。
後代のチベットの論理学者たちは、mtshan nyid の過失をまとめるならば、
rang ldog〔から〕独立に(rdzas su)成立していないもの45)、don ldog が他の
ものとなっているもの46)、mtshan gzhi に存在していないもの47)〔の三種である
と主張する〕。
そのうち、第一のもの(= rang ldog から独立に成立していないもの)は、
自らの言説から独立に(rang dbang du)成立していない(=自らの言説に依
存している)mtshan nyid である。それを分けるならば、牛の mtshan nyid として牛自身のような、自らの言説を mtshan nyid として挙げるもの、牛 の頭のような、自らの言説によって限定されたものを〔mtshan nyid とし て〕挙げるものの二つである。ある人は、他のものの言説〔を mtshan nyid と し て 挙 げ る も の〕と、他 の も の の 言 説 に よっ て 限 定 さ れ た も の を 〔mtshan nyid として挙げる〕ものとを加えて、四種類であるとおっしゃる。
〔第二〕don ldog が他のもの〔の don ldog〕になっているものとは、自ら の言説からは独立に成立しているが自らの mtshon bya の don ldog ではな いものである。
この〔don ldog が他のものの don ldog になっているもの〕を分類するな らば、四つある。存在し得ないもの、遍充していないもの、過大遍充してい
るもの、相互遍充しているものである48)。
し得ないものである。たとえば、馬(= mtshon bya)と規定されるものに対 して喉袋を、あるいは相対否定であると規定されるものに対して「肯定的存 在を捨てたもの」を〔mtshan nyid として〕挙げるような場合である。 第二〔遍充していないもの〕とは、mtshon bya を有するものの一部に存 在しないものである。たとえば、牛の mtshan nyid として喉袋と斑を挙げ る場合、あるいは所知の mtshan nyid として肯定的存在を捨てたものを挙 げるような場合である。 第三〔過大遍充しているもの〕とは、mtshon bya を有するものに遍充し ており、mtshon chos49)がないところにも存在しているものである。牛の
mtshan nyid として、頭を有するものを、あるいは相対否定の mtshan nyid として所知を挙げるような場合である。
第四〔相互遍充しているもの〕とは、mtshon bya を有するものと相互遍 充が成り立っているが、mtshon chos とは ldog pa が別のものとなっている ものである。たとえば、無常なものの mtshan nyid として、因縁に依って 生じたものを、あるいは空性の mtshan nyid として所知を挙げる場合であ る。
〔第三〕mtshan gzhi に存在していない mtshan nyid とは、自らの言説か
らは独立に成立しているけれども、規定されているものの基体(= mtshan
gzhi)に、提示されている通りには成立していないものである。
それを分類するならば、四つある。矛盾しているために〔mtshan gzhi に〕存在していないもの、ldog pa が異なっていないために〔mtshan gzhi に〕存在していないもの、don ldog が異なっていないために〔mtshan gzhi に〕存在していないもの、mtshan gzhi の一部に遍充していないために 〔mtshan gzhi に〕存在していないものである。
実体的存在(rdzas chos)については、馬(= mtshan gzhi)を牛(= mtshon
bya)と規定するために喉袋を〔mtshan nyid として挙げる場合〕、概念的存
在(ldog chos)については、所知を絶対否定であると規定するために、肯定 的存在(bsgrub chos)を捨てていないものを〔mtshan nyid として〕挙げる 場合などである。
因の三相を欠いたもの(tshul gsum kyis stong pa)(= mtshan gzhi)〔を論
証因(= mtshon bya)と規定する〕際に因の三相を〔mtshan nyid として〕 挙げる場合は、その〔過失〕にはならない。なぜならば、限定〔、すなわち 因の三相〕を否定する排除自体については因の三相を満たしているからであ る。
第二〔ldog pa が異なっていないために mtshan gzhi に存在していないも の〕とは、gzhi ldog を mtshan nyid として挙げたものである。喉袋〔を有 するもの〕を牛であると規定するために、喉袋自体を〔mtshan nyid とし て〕挙げる場合などである。
因の三相を論証因であると規定するために因の三相を〔mtshan nyid とし て〕挙げたものは、その〔過失には〕ならない。なぜならば、関連の仕方に よって50)(ltos pas)、mtshan gzhi と mtshan nyid の ldog pa が異なっている からである。
第三〔don ldog が異なっていないために mtshan gzhi に存在していない
もの〕とは、自分自身を自ら(= mtshon bya)の mtshan gzhi にして、〔そ
の mtshon bya に対する〕mtshan nyid を挙げたものである。たとえば、牛 を牛と規定するために、喉袋を〔mtshan nyid として〕挙げる場合などであ る。
所知の言説を所知であると規定するために知の対象になり得るものを 〔mtshan nyid として〕挙げたものは、その〔過失〕にはならない。mtshan
gzhi(=所知の言説)と mtshon bya(=所知)は、関連の仕方によって(ltos
pas)don ldog が異なっているからである。
第四〔mtshan gzhi の一部に遍充していないために mtshan gzhi に存在し ていないもの〕とは、規定しようとしている〔mtshan gzhi の〕一部に遍充 していないものである。たとえば、命あるものを牛であると規定するために、 喉袋〔を mtshan nyid として挙げる場合〕、あるいは知一般を量であると規 定するために、正しい対象を認識するものを〔mtshan nyid として〕挙げる 場合などである。 これら〔四つ〕のうち、mtshan gzhi において矛盾しているために〔存在 していないもの〕以外の三つは ldog pa に基づく存在を〔mtshan nyid とし て〕論証するときには成り立たない。なぜならば、そうであると規定する mtshan nyid が存在しないもの〔の mtshan gzhi〕において、そうでないと 規定する mtshan nyid が存在するのかしないのか。もし、存在するとする ならば、そうでないと〔論証する〕mtshan nyid が存在することによって、 その mtshan nyid が存在しない場合、それは矛盾しているために存在しな い〔過失〕となる。もし、〔そうでないと規定する mtshan nyid が〕存在し ないとするならば、ldog pa について、mtshan gzhi がそうであるものとそ
うでないものとに分割されない(kha tshon ma chod pa)ことになってしま
うからである。
以上のように、付随する議論も含めてお説きになったのである。
I2 : 異説の批判
J1 : 正理によって否定する
〔mtshon bya の don ldog と〕別のものになっている〔という過失〕 は存在しないことになる。〔論証式を〕提示せずに過失を挙げるなら ば、mtshan gzhi に存在しないものというのは無意味である。 もしこれら〔の mtshan nyid の過失〕を、論証式を提示して数えるなら ば、don ldog が mtshon bya〔の don ldog〕と異なっている mtshan nyid は
あり得ない51)。すなわち、肯定的存在を捨てたもの(= mtshan nyid)である
がゆえに、空性(= mtshan gzhi)を絶対否定(= mtshon bya)であると規定
するとき、肯定的存在を捨てたものは絶対否定の言説にはあり得ないので、 don ldog が異なったものになってしまうのである。
〔反 論 者:〕mtshan nyid が mtshon bya に あ る か な い か の 意 味 は、 mtshan gzhi にあるかないかを指しているのであって、mtshon bya 自身の ldog pa に依存しているか依存していないかを指しているわけではないと認 められる。なぜならば、そうである必要性はなく、そうである効用もないか らである。
〔サパン:〕それならば、don ldog が他のものになっている〔という過 失〕であると主張しても、mtshan gzhi に存在していない〔という過失〕に なってしまう。なぜならば、〔mtshan gzhi に〕存在しないので don ldog が 別のものになっているという過失も、mtshan gzhi に存在していないものと して設定されるからである。 論証式を提示しないものについての過失に数えるのであるというならば、 mtshan gzhi に存在していないものを〔過失に数える〕必要はなくなる。な ぜならば、牛の mtshan nyid として瘤と喉袋を挙げたり、絶対否定の mtshan nyid として肯定的存在を捨てたものを挙げたりするならば、過失は ないからである。
〔反論者:〕〔それは〕mtshan gzhi の設定の仕方による。すなわち、白斑 牛や空性のようなものを〔mtshan gzhi に〕設定するならば過失はないが、 馬や所知のようなものを〔mtshan gzhi に〕設定するならば過失あるものと なるのである。 〔サパン:〕そうだとすれば、論証式が提示されないものについて過失を 数える〔という説〕は損なわれる。なぜならば、〔そのときの〕過失は、三 つの構成要素全てが提示された〔論証式〕に依拠しているからである。
〔反論者:〕mtshon bya の過失は、mtshan gzhi において提示されるにせ よ、されないにせよ、mtshon bya について数えられるが、mtshan gzhi の 過失は、mtshon chos を有していようと有していなかろうと、mtshan gzhi として提示されたものに依拠して数えられるので、過失はないのである。
〔サパン:〕それは正しくない。すなわち、mtshan gzhi において〔過失 が〕数えられるならば、〔mtshan gzhi が〕提示されないというのは矛盾し ているし、〔mtshan gzhi が〕提示されるならば、〔mtshan gzhi が〕提示さ れないというのは矛盾する。また、〔mtshan gzhi が〕提示されるのならば、 mtshan gzhi の過失ではないというのも矛盾する。
また、mtshan gzhi に存在しないという過失は、mtshon chos を有してい ようと有していなかろうと、mtshan gzhi として提示されたものに依拠して 数えるならば、馬を牛と規定するために、rang ldog から独立して成立して いないものを〔mtshan nyid として〕提示したとしても、mtshan gzhi に存 在しない〔という過失〕になってしまうであろう。
それを認めるというならば、あらゆる過失は、mtshan gzhi に存在しない 〔という過失〕に集約されることになるので、他の過失〔を数える〕意味が
なくなる。