間 接 伝 達 論 的 論 理 学
第 2 部 ・ 注 釈 部 ( そ の 3 )清 水 茂 雄
Die mittelbare-mitteilungstheoretische Logik
Zweiter Teil・Anmerkungen <3>
Shigeo SHIMIZU
Zusammenfassung :In dieser Abhandlung㌧als der dritten Anmerkn nghzur mittelbare-mitteilungstheoretischenLogikm6chteichbesondersdieWahrungder Szeneer6rtern.
Der philosophische Terminus l'Szene'.istschon in der ersten Anmerkung definiertworden.I)ieSzenebedeutetsozusageneineB也hne,aufderdaswahre wort(im Japanischen・.Shingon)sichverkleidendsichselbsterzahlt.Esgib上dr占i m6glicheriszenen:dieniittebare-mitteilungstheoretischeLogik(genaugennomen istsiekeineSzene,dadasWortaufdieBQhneauft'ritt,ohnesich、zuverkleiden), HeideggersLogik(Sigetik)undHegelsLogik.
DerZuschauerkann dieWahrheitderSubjekt-PradikatBeziehung arisehen, indem dieSzenewirklichgewahrtwordenist.Diesbesagt,daLSdasganzeWesen derGeschichtederPhilosophievollkommeniiberblicktwordenist.
DieWahrungderSzenebedeutetes,alsderZuschaueram mystischen Spiel teilzunehmen.Darum istsiesehrschwerZuVerStehen.Abersieistunumganglich zurEr6rterungtiberdiemittelbare-mitteilungstheo.retischeLogik・
Keywords:論理学 (Logik),間接伝達 (mittelbareMitteilung),言糞 (Sprache) 場面の確保 (die-WahrungderSzene), ハイデガー (Heide由 er) 緒 言 本論文 は 「間接伝達論的論理学」 の第
2
部 としての 「注釈部」のための一連 の論究 に屑 するものであ る.「間接伝達論 的論理学」 の 第1
部 は1
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9
6
年3
月1
5
日の日付ですでに単行 本 として出版 された.「第1
部」 で は極 めて 難解 なことが結晶化 された姿 で語 られている ので, その内容 に関 して は注釈の必要がある. そ して,すでに2
回にわたってその試みがな されたのである. このよ うな 「注釈部」の第3
論文が本論文 とな る.筆者 はこの第3論文で 「間接伝達論 的論理学」 の 「序論」への注釈 を締 め くくり たいと考えている.そ して.同時 に 「序論」の 最 も肝要 な事柄である 「場面 の確保」 とい う ことを主眼に論究 したい. 「場 面」 とい うこ と、はすでに 「注釈部」の 「その1
」で述 べ た よ うに,
「真言」が変装 した姿 で歴史 的 に登場 す る舞台 というようなことであり,ハイデガー1
9
9
8
年4
月1
3
日受理 -1-の哲学 はち ょうどその最後か ら
2
番目の舞台 になっているのであった. こ甲舞台のいわば 観客になって これを観 ること(eeWPla)
が ここで言 う 「場面の確保」 ということなの である. もっとも, このような比職的な表現 で は何 ら実質的なことが言われず じまいになっ て しまう危険性があ り,む しろ,
「場面 の確 保」 はただ 「場面」が確保 されているその事 態 の中か ら紡 ぎ出され る 「言葉」が言われる ことで示されるのである. 「場面の確保」 はハイデガーの哲学では,● 「企投」(
Ent
wur
f) と呼ばれてい ることに対 応 している.「企投」 とは解釈 の地平 を開 く ことであり,有 るものの全体を解釈 し,それ が何であるかを理解す るための視界を開 くこ とであるが,後期の彼の哲学ではむ しろそれ は我々がここで 「場面の確保」 といったこと に近 い もの となる.彼は 「企投」 と一体化 し ている 「披投」 ということを言 うので あるが この 「披投的企投」 こそが 「場面」その もの の本質を一定の仕方で表現 しているのである. 「場面の確保」 に関わる問題 は最 も幽玄な 哲学的問題であり奥義に属 している.-イデ ガーの哲学 はこの 事態 にまで到 って いるの であり.そのため,彼の哲学 は最 も難解な も のであるだけでな く,最 も重大な事柄 に迫 っ ているのである. 我々は,最後 と最後か ら2番 目の 「場面」 の確保がなされ るべ き事を 「序論」で示 した のであるが,
「注釈部」 の この第3論文でそ れをよ り詳細 に論 じたい.そ して これが本論 分 の主眼点である. なお, この論文の叙述形式 について はこれ までのやり方を踏襲 したいが,一応説明を し ておきたい. 最初の番号 は 「その1
」か らの注釈の通 し 番号,続 く括弧内の記述 は第1
部 として刊行 された 「間接伝達論的論理学」のページと行 であり.注釈箇所が指定 される.次が注釈 さ れ る文なり語句である.引用文献のみを示 し たいときは 「-∼-」のように略 した形で表 すこともある.2
2
,(
p
.75
,4
行) /西田の論理 にお いてはそれが 帽 念J
と して把握 されている.
J
すでに述べたように,西田哲学の基礎をな している 「場所」,つまり,
「超越的述語面」 は,一切の 「主語 一述語関係」を述語付 ける ところの,従 って,
「述語 とな って主語 にな らないもの」,
「無の場所」,である. しか し,その場合,それをまだ何故に 「無」 と名付けることが出来 るのであろうか.仮に それ は 「無」 と名を付けただけなのだろうか. もし仮 としたな らば,それを 「石」 と名付け て もよいのだろうか.あるいは,それは 「無 のよ うな」何かだか ら,
「石」 よ りもむ しろ 「無」であるべ きだというのだろうか. もし そん な風 に名付 けるとしたな らば,我 々は 「命名」 に関す る哲学的 な事柄 を看過 してい ることになり,ハイデガーか ら見下ろされる ことになろう.「無」 とい う命名 はその哲学 の思考の事柄 にとってはどうで もいいよ うな ことではないのである.「無」 の場所 と 「命 名」 とは本質的な繋が りにあるのである.老 子 r道徳経」 に 「仮 にこれを字 して道という」 とあるが,
「字す」 とい うことは商札 をつけ るよ うな こととはまるで異なることなのであ る.つま り,
「無の場所」 とそれをそ う名付 けることとの間には何か必然的な ものが存 し ていると考え られる. もちろん ドイツ語では「無」は(das)Nichts とい って 「ム」 とは発音 されない. しか し. 無 もNichtsもともに絶対否定 の概念の表示 とも解される.概念 はどの国語で も一つであ るが.それを表示す る記号が異なり, またそ れにともなって発音 も異なると考え られ る. 言葉 は概念を表現す る適切な道具であり;そ の本質は記号であるというわけである. しか し, よく考えてみると,記号がそれで もって衰そうとす る概念 自体がその内に主語 と述語 の統一 と分裂をなす何 ものかである以上,概 念その ものがすでに言語的 と考 えなければな らない.我々は 「円の概念」をただ薄ぼんや りと思 い浮かべているので はない. 「円の概 念」によっておよそすべての丸 い物が丸いと 理解されるのである.丸い物のすべては 「円 の概念」に基づいて丸いのである..とはいう ちのの,我 々は 「円の概念」を最初 は認識で きてはいない. しか し
,
「我 々 の」 認識 に左 右 されることな く,
「円の概念」 はその もの の客観的な定義を もって有 るのである. もち ろん,
「円の概念」の基底 には 「空間概念」 という前提が潜んでいる.そして 「空間概念」 が果た して客観的な ものかそれ とも主観的な ものか はかなり細かな詮索を必要 とす るであ ろう. しか し,いずれにせよト
「概念」.はそ のものの中に主語 と述語の関係 によって表 さ れる論理的な事態 となっていることは明白で ある.仮に 「概念」が主語 と述語の関係を持 たない ものとすれば, それは一休何なのであ ろう. まった く思考の外の 「訳 の分か らぬ も の」 ということになろう. こうして考えてゆ くと,言葉 は単 に概念の 表示のための記号ではないことが分かる.、む しろ概念その ものが言葉 のことが らなのであ る.概念の奥に潜んでいるこうした 「言責 の ことが ら」 の深奥に 「無」 と 「言われている」 なにものかが認め られるのである.ところが, そのよ うな仕方で 「言われる」ところの 「無」 が,西 田哲学の場合,
・
「概念的 に」 認 め られ ているのである. このことは 「無」.が 「無」 という名前で言われていることの理由が 「無」 そのものには 「よ くわか っていない」 という ことに他な らない. これ は西田哲学がその哲 学の基礎をなす ものをそのものとしては言 い 出せないでいるということである. 我々がまだ概念の立場 に留まっている限 り, 我々は 「土曜 日」の時を経験す ることはで き ない.言葉が自分のことを 「言おう」 とかの 「無」へ と下 って行 くとき,それを 「否定性」 という概念で言 い表すな らばその下 ってい く 言葉 は 「下 って行 くこと」 を言 い出せないで いることになる.言葉 はそ こで は,
「否定性」 の概念によって 自分を言い表す ことが出来な いで, いわば不満を持 っているとい うことに なる.ハイデガーは r言葉への途上J という 論文のなかで, この消息を実 に巧みに表 して いる.つまり,否定性 とい ったような 「概念」 は 「言葉を言責 として言葉 にもた らす」 とい うことを不可能 にす るというわけである.逆 に言えば,
「概念」,′たとえば,
「否定性」.は 超越的述語面を言 うには不適切であるといえ る.西田哲学 はこの ジレンマをまともに経験 している言葉の出来言 と考え られる.概念で は捕 まえ られないことを概念的に把握 しよう とす るこうした葛藤が西田哲学 の味であ り, また,その哲学 の独 自性を形成するのである. その哲学 は根本矛盾の中に身をおいている. では,,概念 (Ab
γos,ratio,Begriff) とは何であるのか.我々はそれをこの本 (間 接伝達論的論理学 ・第-部)の後半,--ゲ ル r論理学」への論究において明らかにする. しか し, ここで簡単 に言えば;.概念 とは,言 葉が自己へ と到 って 「言 う」, その到 りつつ ●●● ある生成(Werden)を言葉 がそ こで言 う言 い 方である.つまり,概念 とい うものは本質的に
さWerden的であ り.その全体が普遍 一特殊一 個 とい う3
つ の区分 か らなる全体 的な或 る 「運動」、なのである. この3つ の区別 は, だ か ら∴
「概念」 その ものの一Werden的 とい う 本性を表現 しているとい うことになる.概念 がこのようにして己の本質を言 い出せるよう になると, これがヘーゲルの 「論理学」になっ ているのである.そのために∴ このような仕 方で概念が自分の本質を言 うことによって同 時にそれは単なる思考の領域を出て,存在 と -つの ものとして言 い出される. これがへ-ゲルの 「理念」ゝとい うものの真の意味なので ある.へ-ゲル哲学 の核をなす 「概念」, そ-3-して 「理念」/とい うものは或 る歴史的なもの であり,ヘーゲル哲学 は必然的な仕方で歴史 の中に登場 したことになる. この間の消息を 述べているのがヘーゲルの 「哲学史講義」ーで ある.「概念」 と歴史性 の根元的 な繋 が りを へ-ゲルは自分で も不思議が りなが ら探求 し ていたに違いない. 概念が 「概念 として」 自らの姿 を歴史的 に 登場 させたとして も, それで哲学 がその最終 的な形態 になったのではない. というのも, 概念は 「摘まえられた」言糞であって,/吉葉 と しては 「捕まぇられていない」と捕 まえ られた ものだか らである∴あたか も,鰻 (言葉)が手 か ら抜 けて しまうように, す るりと抜 けてい く言葉を 「捕 まえ られたもの」(begriffen)と 見なすとそこに概念が有 ることになる. そ し て, この 「す る1りと抜ける」とい う動態 が 「概 念」の真の姿なのである∴そこで, 概念 のいの ちはそれの否定性にあるといえる. 概念 はある 意味で.言葉の 「衣服」のようなものである. 概念の本当の姿が以上のようなものである とき,その 「抜 けてい く言
糞」
, 先の比職的 表現では 「鰻」,を概念 と して把超 しようと す ることは実 は捕 まえるべ きものに関 しては 何 も捕 まえていないということになる.、手が この抜 けてい く鰻をどこまで も追 いか けると それがヘーゲルの 「論理学」・になるが, もし ら,・かの鰻を捕 まえたのに概念の世界 にもち こむな らば, それは本当は捕 まえていないと い うことを告 白しているだけのことになる. 西田哲学 はこのような構造を もつ 「論理学」 であり,絶対矛盾 している. しか し,概念が 「鰻」であることを西田哲学は概念的には知 っ ているのだか ら,そ れは極めて難 しい局面, つ まり,
「難所」 にかか った 「論理学」 とい え る.無の哲学 としてそれは極めて問題性 の ある立場 に立 っている. ところが,へ-ゲル の 「論理学」 は概念が 「概念 として」 その真 の姿を言 い出 しているのであるか ら, それ 自 体 に問題 はないということになる.問題があ るとすれば.
「鰻」が単 に 「まだ捕 まえ られ ていない」 という点 にあるだけである. 概念 はそれが概念であるかぎりほ,個丁特 殊 一普遍 という区別の原理をもっているの も それが 「概念」だか らである.従 って,.それ が 「概念」であることをやめる,あるいは∴ やめようとしている場合には, この区別 自身 が単 にな くなるといった単純なことではなく, この区別が 「なぜ生 じたのか」が看取 される よ うになるということである.そこで,西田 哲学 もそのような 、「思考の事柄」を思考 して いなければな らない.実際∴西田はその事態 を 「場所の自己限定」 とい う論理学的事態 と して把握 したのである. しか し,厳密にはそ の事態,つまり,個 一特殊 一普遍 という区別 が 「なぜ生 じたか」 については 「場所の自己 限定」では不十分なのである.なぜな ら, こ のように 「なぜ生 じたか」 を眺めることので きる場面 は 「言葉」の秘密を言葉が言 うよう なそのような場面であ って,単純な 「直接伝 達」を必然的に拒絶す るか らである. 個 とい うものは特殊的なものが否定されて, 普遍 に戻 ることである.たとえば,人間といっ た特殊概念の特殊性を否定 してどこまで も普 遍性 に戻 ろうとする, いわば概念の必然的な 努力 によって個性 とい うものが出て くる.人 格 というのはそういうものである:だか ら, 真の個性 はなにか普遍的な精神になっている. 単 に人 と違 うというだけでは個ではな く,・む しろ,抽象的な人格であって, 自己を見失 っ ているにす ぎない.真 に個性のある人格 とい うものはかえ って最 も普遍的なものに触れて いなければな らない. ところが こうした個 一 特殊 一普遍 という三者連関 は言葉が 「鰻のよ うに」手か ら抜 けてい くような事態なのであ る.つま り,この連関その ものが述語可能性 を もっているのである.先の例でいえば,人 格が普遍性を もつに到 った個 というものを超 えて人格 の全 くな くな ったよ うな,いわ ば 「無 の人格」 とい うものが可能なのである.それは 「人間」をいわば脱 いで しまった気持 ちよさとい うような境位 といえ るが,そこで は「人間」 の何であったかが述語可能 にな っ ているのである.同様に して,個 一特殊 一普 遍 という概念の根本規定 も述語可能性を もっ ているのである.それが西 田哲学の言 うとこ ろの 「於いてある場所」に他な らない. しか し,この 「場所」とは鰻,かのつか まえそこ ねた鰻なのである.
2
3
, (p.
7
5
,
-7行) r世界を理解 している西田の立場が絶対矛 盾になっているということなのである.
J
西田は 『人間的存在』 という論文の中で, 「超越的な るものとい う語 はい ろいろの誤解 を惹起す るか もしれないが;それは屡々云 っ た如 く絶対矛盾の自己同- として,意識的自 己 知的自己に超越的であると云 うことであ る」 と述べている. (西田幾太郎全集9
巻,・ 岩波書店,東京,1
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4
9
.
p.66) ところで,ハイデガーは,``Transzendenz" というのは形而上学 に滞 っていることを示す, と述べている. この点 については両者の考え る 「超越」・の 意味を吟味 しなければな らないが,我々はこ こでなぜハ イデガーがTranszendenzを少 な くともSeynの場面 で不適 当 とみたか につ い て思いを寄せるべ きである. 絶対矛盾的自己同一が 「いろいろの誤解を 引き起 こすが」とい う断 りを付 けなが らも 「超越的」と言えたということが重要 な点なの である. これに対 してどうして もそう「言えな い」 と見ている, この両者 の違 いこそ, 両者 の根本的な哲学的墳位の違 いなのである. ハ イデガーの 「場面」が 「土曜 日」の場面 である からこそ,
「超越的」という語の不適切性が看 取されるのである.「超越的」だ と言 え ると言 えないのこの違いは両者の論理学の「どこで?
」
と本質的に関わっている.本来,
「超越的述語 面」は 「超越的」とは言えないと見えているベ さなのに,
「超越的」と言える..これがそ もそ も絶対矛盾 しているのである.なぜ 「超越的」 と言えないかというと, それ は, その場面 が すでに乗 り越え られて,つま り, 超越 した等 の先だからである. そこにもうすでに来て し まっているのである. 山を超 えた人 にはもは や超える向 こうはない. もちろん. 超 えて き たところをこち らと比較 して こち らは向 こう には 「超越的」とは言える. しか し,超えて き てここに立 っている時 に見えていることは決 して 「超越的」ではないのである.なぜな ら, 言葉がその秘密を言 うときにはそ こにはなん ら超越的なものは認められないか らである.2
4
,jp
.
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5
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行)r
5田 と根本杓に遭 うのはDa-sel'nliもば やr
mJ
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ではないのである.
J
人が-イデガ-の哲学 に按 す るとき,おそ らくはまず r有 と時Jから始めることが多 いで あろう.事実,それは彼の 「主著」とみなされ ている.そ してこの著作の中心 概念 がDasein (現有 または現存在 と訳 されて い るがハ イデ ガーはDa-sein,・Da-seyn等の用語 も使 ってい てそれぞれ意味が使 い分 けられているので原 語をそのまま使 う)`であることは容易 に分か る. また, それが人間存在の存在論的術語で あることも周知の通 りである..しか し, -イ デガ一において,特に後期の立場ではDa-sein はそれ程単純 に理解 されるもので はない. 我々は, この 「間接伝達論的論理学」 の特 に 「第∵部」でDa-seinとは何 かを 「言葉 の 出来言」 として言お うと試みている. そこで この解明を待たずに今 ここで先走 ることは避 けたい. しか し, このDa-seinが 「概念」 で はないことを注意を喚起す るために論 じてお くことは有意義 なことと思われる. この論究 が 「場面の確保」の理解を容易にす るであろ うか ら.バイデガ-は r哲学への寄与J)の中 で次のような言葉を述べている∴ 「人間はDa-seinとしてEreignisとしてのSeynー5-によってer-eignenされるのであり,そのように してEreignisそのものに帰属的になっている
.
J
(BeitragezurPhilosophie,Gesamtausgabe
,
Frankfurtam MainBd65,1989,S256.な お,以降B.Z
.P
の略語で表す.) ここでEreignisは注15ですでに述べ られて いるので重複 は避 けたいが簡単 に言 えば, 「おのれを隠す ことのために明け透けること」 がすなわち 「おのれを隠す ということ」が顕 現す ることが起 こる処 になっているというこ とである.そ して, こうした 「明け透かれた」 領域を開 くのはただDa-sein, つ まり,人間 の本質だけであり,そこで,
「お のれを隠す ことの明け透 け」 には人間の本質が 「必要 と された」 とい うことにな ると同時 にDa-sein その ものが この領域の開かれの根から呼び出 されてきたとも言えることになる. さて, こうして 「説明」、されると人 はこれ を 「概念的に」理解 しようとするであろう∴ しか し,実 はもしも概念的に理解できたとす ればそれは事柄を逸 したとい うことになるの である∴辻村氏がその著作の中でハイデガー を真 に理解 している者 はもはやその哲学につ いて何 も言わないが理解 していない者があれ これ と彼の哲学を論 じる, というような意味 の ことを述べているが, このような見解は真 にハイデガーの思索の事柄 に精通 しているこ とを示 している.-イデガ-の特 に後期の哲 学の思索の事柄はまことに幽玄な事柄であっ て,ある信 じがたい事態に到 っているのであ る. このような幽玄な思索の事柄 にか の Da-seinは属 して いるので あ って, それ故 に, 「概念」把握を して しま うことは全 くの誤解 になっているのである. そのようなわけで,Da-seinがSeynによ っ てe丁-eignenされる, つ ま り, 同 じことであ るが,
「帰属する」 と言 われ るとき, ここで 言われていることは,たとえば,子ど もが一 家に属 しているとか,種が類 に属 していると かいうontischなことで もなければ, また, 何かそ うしたことに類比的に把握 される何 ご とかで もないのである.そ うではな く,この er-eignenという言葉 はそれの 「唯一性」 を いってみれば発揮 していること.元気づいて いることなのである.つまり,それはその言 葉 によって指示 される対象が もはや 「有 るも の」ではな く,言糞 自体がそれによって言わ れ るところの ものとな っている,というより, よ り正確には 「成 りつつある」のである. そ して,Da-seinはこのよ うな出来言 (出来事 ではない)を呼びおこしなが ら,-また,それ によって呼びおこされているものとなってい るのである.つまり,Da-seinは何か言葉 の 起源にまで入 り込んでいて,それ自体決 して 「概念」 なのではない.ハ イデガーは, 従 っ て, このようなEreignisの領域を 「もっとも 見知 らぬ処, もっとも稀なこと」 と言い表 し ている.それは′ぁのヘーゲルの r論理学J も 「見知 らぬこと」であり,西 田哲学 に も見 え ていなか った事柄なのである. 一般 に何 ごとかが概念的に把握 されるとい うこととハイデガーがSeynのWesungと言 ,; ていることとは根本的な差異がある. こうし た区別がはっきりつ くとい うことは,すでに この区別 または差異が 「歴史的に」なされた ということである'.そ こで,-イデガ-より も以前 に生 まれたヘーゲルにして も西田に し て もこの差異が差異 として認められることは なか ったのである.いってみればまだ この差 異が出て くる 「時」が熟 していなかったとい うことである.そのためにヘーゲルや西田の 思考の事柄 は 「まだ」概念的なものでなけれ ばならなか ったのである..こうした 「差異」 の 「歴史性」 とい う本 質を こめて,筆者 は 「金曜日」 と 「土曜 日」 とい う比喉的な言 い 方を使 っているのである. では何故にこの区別ない しは差異 は 「歴史 的」 と言えるのか.それは 「土曜 日」
, つ ま り,-イデガーの 「論理学」が営まれている場面 自体が 「時が熟 した」 と 「言葉する」か らである. いいかえれば,そこはハ イデガー 自身が言 うように,Erahnung,予感できる, 終わ りの予感が出て くるところなのである. この 「予感」 は単にある個人 (ハイデガーを 含めた)が抱 く未来への予感で もなければ,・ その時代の人々が漠然 と感 じる集団的な予感 で もな く, ここ∴-イデガ-の 「論理学」が 入 り込んだ 「場面」が,つま り
,
「言糞」 が いい始めようとしている,そこで 「言葉 され ている」 予感であ る. 簡単 に言え ば, この 「予感」 は 「歴史的論理学 的な予感 」 なので ある.Lそれ故, このような 「予感」 は 「予感 が予感す る」, ない しは,
「予感であるか ぎり の予感」がされているという事態になってい るのである.それは 「終わ り」 (最 後 の神) が近づいていることを歴史的に言い表 してい るのである..さて. これまで述べて きたこと をハイデガー自身の言葉を引用 して確認 して おこう. なかなか奥行 きのある言葉 なので原 文で示 し, あわせて訳 してお く. I)asSagen desanfanglichen Denkens stehtauBerhalbdesUnterschiedesγon BegriffundChiffre. 「始 まり的思索の言葉 は概念 と暗号の区別 の外にある.
」(
B.Z.P,S.281) こういうように言われても,まだ-イデガー の管学,特 にEreignisを 「概念 として」把握 しようとす る人々/更に,それを弁証法 より 一段 と低い段階 と考える研究者 は- イデガー の思索の事柄を全 く分か っていない と断定的 に言える.彼 らの誤解の根本 にあるのは 「場 面」が確保 されていないということである. こういう人 はいったん我意,我見を捨ててハ イデガーの 「論理学」がそこで営まれている 「場面」の もつ根源性か ら紡 ぎだされて くる 言葉 に謙虚 に耳 を澄 ます という態度が必要で ある. また, こうした 「耳を澄 ませ る」 とい う態度 はこの 「間接伝達論的論理学」に対 し て も要求 される基本的な姿勢で もある∴ どい うの も,
「間接伝達論的論理学」は-イデガー の 「論理学」の 「場面」の更 に奥の ことが ら に関わ っているか らである.そこでは 「言葉」 が自分の出生の秘密を密かに言 うのであ りト・ こうした幽かな言糞 は 「間接伝達」を してい て,伝えない伝えを為すか らである.それ故, 「間接伝達論的論理学」に とって 「場面 の確 保」◆は必須のことになり, これがなされてい ないかぎり,そのSagenは虚 しく空々 しい言 葉の遊 び,せいぜい詩で しかないとい うごと になる. しか し, これは哲学の歴史の最後 に なっていて,◆実 にカ ントが この扉を最初 に開 いたのである.1いずれ我々はカ ン トの哲学 の 真の意味についてこの観点か ら詳細な研究を しなければならないだろう.、2
5
,(
p
.7
5
,7
5
行) r密のDa-sel'nは r移f
f
J
L,ているJ I 彼,つまり,ハイデガーのDa-seinが移行 している, と言 われ るとき/それは 「彼の哲 学的術語で あるDaseinがその意 味 を変 えて いる」 とい うことで はな く,「ハ イデガー 自 身のDasein」が移行 を してい る, とい うこ とを意味 しているのである. もっと簡単 に言 えば,■- イデガ-その人の自己理解が深化 し ているとい うことである. しか し, ここで誤 解 されると困るのは,
「自己理 解」 とい うこ とを心理学的,宗教的に解 しないことである. 人はともすれば 「自己理解」 とい うことを自 分の本当の性格 とか 自分の心の本来の有 り様 を知 ることだと解す る.あるいは,一更 に深 く 理解す るものは 「自己」 というものを神, あ るいは仏ないしはその他の何か超越的な存在 との関わ りにおいて把捉する. しか し, ここ で-イデガ-その人 の 「自己理解」が深化 し ていると言われ る場合は,そ うした意味での 「自己理解」ではないのであ る. そ うで はな く, ここで言 う-r自己理解」 とい うの は,ド 「論理学」の歴史 において, その歴史 を動 か しているような ・「自己」が深化す ることを意-7-味するのである∴ いいかえれば. このような 「自己理解」 はそれに伴 って生ず ると ころの 「自己認識」 において自 らが ある歴史 的な 自 己であり,歴史を創 りつつあることを 自覚 し ているのである. このような意味での 「自己 認識」.は,それ故
,
「唯一性」 を同時 に喜忍識 しているのでなければな らない.世には深い 宗教的な自覚 に達 した ものは多い. しか し, ここで我々が知 っているところの このいわば 「論理学の歴史的自己」 の理解 に達す るもの は稀であ り, ヘーゲル はその一人で ある. 「己自身を思考す る思考」
,つ まり,
「論理学」 そのものに到 って, 自己理解 している自己が ヘーゲルその人なのである. よ く宗教 の立場 の人が 「思考」の立場 はまだ分別知の立場で あって 「無分別知」の境地を哲学者は知 らな いなどというが, ヘーゲルの墳位をよ く知 ら ない人のみがそのようなことを言 うにすぎな い.ヘーゲルの 「論理学」 は歴史的な もので あって,宗教 の立場の人にはうかがい しれぬ ことなのである(
r
哲学史講義」 の 「序論」
を参照 されたい). というの も,
「論理学」 の 歴史 は 「主語 一述語」関係の真相が歴史的に 明かされる運動だか らである.∫ このように, ハ イデガーのDaseinが移行 しているとい うことは彼の自己理解が深化 し ていることである. しか し, ここでい う 「自 己理解」 とい うことは普通の意味でもなけれ ば宗教的なもので もないとい うこと, この こ とは特に留意 され るべ きことである. この こ とが押さえ られないと,
.
「場面 の確保」 もま たなされない ことになる. さて,・ハイデガーその人のDaseinの移行 は もちろん かれの哲学の概念 としてのDasein 概念 (すでに述べたように,厳密 にはDasein は概念ではないが ここでは便宜的にこのよう な表現を使 う)の変遷 と深化を同時に もた ら す.両者 は相互 に関連 し合 っているのである. 実際,Dasein概念 は, ハイデガーの思索 の 深化 とともにその意味を深めてきた.初期の 大著,"Sein und Zeit"で はDaseinはSein (育)の意味を顕現 させ るための特別 の一種 の通路 として選ばれた. しか し,後期 におい てはDaseinはDa-seinと して,Daが開かれ ることとして, そ こでSeynの真理がおのれ を昆目すために必要 とされるものとして,考え られている.そ して∴最終的にそれは 「言葉 に関係す るもの」 として捉え られるに至る. こうした深化のプロセスはそのままハイデガー その人の 「自己理解」の深まりと一つのこと である. このことはとりわけ-イデガーの後期の哲 学の理解 と関係す る.Da-seinがEreignisに とって 「必要」になっている, ということを 理解するには,実 はハイデガー自身のDasein がKehreの現場に立 っていなければな らない のである.たとえば, ア リス トテ レスが言 う ように, エネルゲイアは概念上 はデュナ ミス に先立 っている. しか し, このことは概念的 に理解可能なことである..鶏の卵 は概念上 は 「鶏」が先である. なるほど現実 には卵が先 とも考え られる. しか し,概念からいうなら, 鶏が先でなければな らない. 「鶏の卵」 の概 念 においてはどうして も 「鶏の」 ということ があ らか じめ思考 されているか らである. こ れがないとそれは 「卵」です らな くな って し まう.同様にして,SeinとDaseinの関係に関 して Seinが先立っ とい うことは後者 の概念 の中にあ らか じめ前者が前提 されるというこ とか らも考え られることである. しか し,ハ イデガーの思索の事柄 はそのような概念的な 理解ではとうてい達す ることが出来ないこと なのである.DaseinがSeinの意味顕現へ の 方法論的通路 になるということか ら,それが 「用 いられる」 ということと して理解 され る には当のDaseinがその現場,我 々が言 うと ころの 「場面」,にまでた ど り着 いていなけ ればならない. その現場で まさにDaseinは, 「Daseinとして」 自分の 「用い られて いる」 というその事柄を語 って聞かせることがで きるか らである.このような当の現場にまで至 っ たDaseinは-イデガーその人 と無関係 な関 係にあるのではない.彼はいわゆる 「知的に
」
Daseinを探求 しているので はない.Dasein, それは自己自身の ことで もあるか らである. しか し, ここでまた誤解が出て くる. こうし た探求 されることが自己理解 と本質的に結 び つ くということを聞いて,ただちに 「実存哲 学」だとみなす という 「早合点」である.ハ イデガーの哲学を 「実存主義」の哲学 だと見 なす人 は彼の哲学を全 く知 らないといえる. 彼の哲学 は西洋の哲学史全体における必然性 の輪のひとつなのであって,しか も,いわばメ イン ・ス トリー トの最先端部をな しているの である. そ こで, ハ イデガーがそのDasein の概念を自己への探求 とともに深めた とい う ことは何か個人的な, あるいは宗教的な差 し 迫 った必要か ら可能になったということとは まるで別次元のことなのである.それ は端的 に言 って 「歴史的な」出来事なのである.つ まり, それ は,・DaseinがSeinの方 か ら 「規 定される」 ということを当のDasein自身が経 験する (場面が確保されたとい うこと) とい うようなことなのである. か くして,Dasein は 「移行」す るのである. ところで,Daseinの このよ うな 「移行」 は,-イデガ-の哲学 その もめの深化 とい う 形で遂行 される. しか し,ノこの移行の必然性 の根拠に関 しては原理的に明かされ ることは ないであろ う. とい うの も, この必然性 を 「土曜 日」の次の日,
「日曜 日」,つまり,
「間 接伝達論的論理学」が眺めるか らである. し か し,そこでは言葉 はただ自分のことしか言 わないあだから,というのも,ここで 「主語一 述語関係」か ら言葉 は降 りているので,何か 有 るものを主語 にできないということになる ので,そ うなると..Daseinも消滅 してい る とい うことになるように見える. しか し,む しろそれはそうなるのではな く・,そのように 言葉がただ自分のことを言 うというようになっ た当の言葉を 「聞 く」という役 目に変わるので ある.そ してこの 「聞 く」という役 目をかの言 葉の方から言いっけられるのである.そ して, 「聞 く者が有 る」と言われるのはただ,
「土曜 日」と「金曜 日」そ して 「木曜 日」以前 の 「場 面」においてである.すると, この場合,
「土 曜 日」の場面では「聞 く者が有 る」とい うこと になっているとき,その「有」は言葉がただ 自 分のことを言 うということべ と自己解消す る 「成」と重な らなければならない. この 「な ら なければならない」がかの 「移行」の必然性 の 根拠なのである.ハイデガーのDaseinはこの ような形の 「移行」を現に経験 しているので あるか ら.それは時間性そ.のものの経験 にな る. というのもそれは 「私」 とい うものの究 極的な根拠 に達 しているか らである. ここか らして,``SeinundZeit"の結論, つ まり,LJ Daseinの有の意味がZeitlichkeitとして解釈 された理由が決定的な仕方で明 らかになる. いってみればこの著作 はヘーゲル r論理学J という銀山鉄壁を突破 したのである.2
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行) この箇所 のEI周文 の記載は長 くなるので省、 噂する. なあ この箇所は 「序論J
の最 も腰 解 な敢分なので詳 しく説明を したい., すでに何度 も述べたように,
「間接伝達論 的論理学」 は言葉の発祥の場面で 「主語 一述 語関係」の真相を言 うこ、とを為す. しか し, このような ことが遂行 されるには 「場面 の確 保」がされていなければな らない. これがな されていないな らば,言われていることその ものが虚偽であることになるし, また,それ が確保 された処か らの言葉が空理空論 として 聞 こえるしかないということになる.・ところ が,
「場面の確保」がなされ るな らば, そ こ にはある 「歴史的な意識」が同時 に出て くる ので ある. それ はどうい う意識 か とい うと 「言われなければな らなか った こと」 とい う 意識である.つまり, この 「場面の確保」が-
9-為 され るとそ こにそれが 「言われなければな らない」 とhll.うことが聞 こえて くるのである. カ ントの超越論的論理学 というものがそうい う種類のものである. ある極めて重大なこと, 「言われなければな らなか った こと」 がその 論理学 によって言われたのである..カ ン トの その論理学 はなにかあるおそるべ きことを人 間 に教えているのである.だか らして, カン トの哲学です らもある意味では 「場面の確保」 が必要 なのである..言葉がどのような変装を して舞台の上で振 る舞 っているかを眺めるこ とがで きて, ようや く我々はカ ン トの 「超越 論的論理学」が 「論理学」 の歴史 の中でどの よ うな時を創 りだ したかを認識するのである. 言葉が独 りでただ 自分 のことを言 うというこ とが出て くるまでには言葉 は 「論理学」の歴 史 を経 るのであるが,_カ ン トの超越論的論理 学 では言葉 は 「よ うや く自分のことを言 い出 せ るようになった」 ということを言 っている のである.つまり,述語の側 に自分の固有の 道 を言葉 は見つけているのである.そのため, そ こで は 「論理学」 は 「超越論的」 というお のれの現在の境遇 にふ さわ しい名称を得てい るのである. このような名称で もって 「論理 学」 はLr主語 一述語関係」の真相を披露 しよ うとしているわけである. T主語 一述語関係」 といって も, もちろん その種類 は多 い
.
「この花 は赤い」から始まっ て 「神 においてはその本質 は存在である」 に 至 るまでのいわゆる命題的なもの,あるいは 「この レタスは健康的であ る」 のよ うな類比 的なもの,あるいは 「この川 は怒 っていた」 等 の比職的なもの,あるいは命題的な ものの 中にも「この花 は赤 くない」
,
「この花 は赤 い だろう」等 の種別がある. I しか し,そのどれ もが 「主語」と「述語」の 区別 と統一,つまり,
「関係」を形成 している ことにはかわ りはない. しか し, ここで注意 を集中 してこの 「関係」を考えると,次第 に 見えて くることがある.それはこの関係,つ まり,
「主語」と 「述語」の区別 と統一 は一般 的な もので はな く,ただ 「主語」 と 「述語」 というそういうものの独 自の .「関係」である ということである.それは何かの二つの区別 されるものがある統一にあるといった普遍的 な 「関係概念」 の類の一つの種 というもので はないのである.それははじめか ら 「主語 一 述語」の場での区別 と統一なのである. こうした関係 についてカントはある洞察 に 達 していた.カ ントは判断を分析判断 と総合 判断に分校 した.分析判断では,主語の概念 の中に元々含まれているものを述語が顕在化 させる.たとえば,
「すべてのモノは延長 し ている」 という判断の場合, モノの概念その ものにすでに 「延長」 という規定が含 まれて いて これを述語が顕在化 しているにすぎない. これはだか ら或 る意味では同一判断といえる. モノは最初か ら 「延長的」なのであってそこ に何かあらたな ことが起 こっているのではな いか らである. これに対 して,L総合判断は主 語概念には元来含 まれていないものを述語概 念が加えて 「拡張」 させるのである. たとえ ば,カ ントが挙 げている例で は,
「すべての 物体は重 さを もつ」 とい う命題, あるいは 「2たす4は6である」な どである∴ 2に4 を加えるだけで はまだいかなる仕方で も6の 概念 は出て こない.述語の6は主語の 「2に4
を加える」 に何かを付 け足 してこれを 「拡 張」′させているのである. カントはこうした 総合判断がア ・プ リオ リに,つまり,経験 に 基づかずに, しか も必然性をもってなされる ことの可能性の根拠を問 うのである. さて,我々はカ ントの立てたこうした判断 の区別 とそれへのカ ント的なアプローチの仕 方 とは別 に次の よ うに言 いたい. つ まり, 「総合判断」 の可能性 は元々,
「主語 一述語関 係」その ものの中にある, と.一般に主語 に な っているものはけっして述語ではない.そ こで,分析判断 というものは一種の同語反復 なのである. これに対 して,主語が述語のはうか ら可能 になっている場合には主語概念以 上のことが連語が付け加え られ ることで言わ れるようになる. たとえば
.
「1
たす1
」 と いう主語概念だけではまだけっして 2の概念 にはな らない.飛躍がおこるのは述語になっ ているものが主語 を包摂 してこれを眼下 に眺 める場合である. たとえば,ちいさい子 ども がオ- ジキの1を2にたす ということは知 っ ていて もそれが3
であるということになるに は知性的な飛躍が必要である.それは子 ども の脳の神経組織ができあが ったとい う生理学 的なことで はな く, 論理 的な飛躍 であ る. 「すべての物体は重 さをもつ
」 とい う場合で も 「すべて」 の物体の概念 を超え出て しか も これを包摂す る新たな視野がひ らかれなけれ ばな らない.「すべて」 ということは何倍 と いう個別的な物体を一つ一つ調べてその一つ 一つがまちがいな く 「重 さをもつ」 とい うこ とを証明す る事ではない.次の一つが重 さを 持たなければすべてではな くな って しま うか らである.「すべて」 とい うことは概念把握 がされているとい うことでなければならない. ところがその概念 には 「重 さを もつ」 は元々 は含 まれていない. しか し,主語概念は述語 概念である 「重 さを もつ」 によって拡張 され るのである. しか も 「すべて」である. それ はだか ら主語 の概念が述語 の概念に包摂 され ることで可能 になるのである. だが, この ことは 「主語 一述語関係」その ものの真相 と同一 のことである.つ まり,逮 語が主語よりも先であるということなのであ る.普通 は述語は主語 の後から来る.しか し, その実相 は述語が主語 よりも先 にな っている ということなのである.「石が有 る」 と言 う とき.
「石」があってその後 「有 る」 とい う 述語がつけ加わると普通 は考え る. しか し, それは逆であ り.
「有 る」が論理的には 「石」 よりも先なのである. これは一般的には 「述 語論理」 といわれ, プラ トン哲学の基礎論理 として知 られているL.西田哲学 も貯金曲折を 経てこの論理 に到達 したことは周知の通 りで ある. しか し. こうした 「述語論理」 はまだ 本当にはその謎が解 けたので はない.第-, 「主語 と述語」 というその関係 の起 源が不明 瞭である. この関係の真相はただ 「歴史的に」 明かされて きたのである. カン トが立てた問鼠 「ア ・プ リオ リな総 合判断 はいかに して可能か」 は 「主語 一述語 関係」 の真相が 「歴史的に」明かされるとい う 「論理学」の歴史の全体にとってひとっの 画期をなす ものと考え られる. たとえば先の 例の「2
たす4
は6
である」を再 び取 り上 げ てみよ う. この言明 は実 は 「すべてのa十b
は Cである」 ということを言 っているのであ る.ある個別的な事例についての言明なので はな く,およそすべての数について足 し算 と い う演算が経験的に確かめられ ることな く普 遍的に可能 になっている, この ことをその言 明 は語 っているのである.いまこの計算が5
億個の事例で確かめ られたか らすべてについ てそ うな っているとは経験的には証明されな い. もちろん.数学 には帰納法 とい うものが あ って 「すべてに」 ということを経験的なこ とか ら推論する方法 はある. しか し,最初の 事例, たとえば1+
1-2の可能性がそ こで も前提 されなければな らない. これはしか し, 「すべての」足 し算の演算可能性 の前提 には かな らない.1
に1
が加わってそこか ら2
と いう概念が出て来 るには個々の数の概念 のほ かにそれ らを組合 して統一す るような原理が 必要 になる. しか し.それは個々の数の概念 の中に もまた 「加え る」の中にもない. しか し, この原理 は数の概念に対 して は全 く外的 な もの ともいえない.む しろそれは数の休系 には必然的な原理 と考え られる.で はその原 理 とは何か.それは個々の数の概念を超えて しか もそれを包摂 して,その個 々の数 よ り先 行 しているところの述語の側にあるものと考 え られ る. それはた とえば家の建築 にもたと え られ る.個々の数 は家の材料,た とえば木- l
l-材
a
であり木材bである. これに対 してそれ を家 として集めるのはa
で もbで もな く 「家 の概念」である.同様 に数a
と数bを加えて 一つのまとまった数 Cに 「造 る」 には個々の 数を集めてまとめる概念が要 るわけである. それは数その ものの必然的な運動 と考え られ るのでこのために足 し算が普遍的に可能になっ ているのである. このような集めてまとめる 「概念」 は数の述語の方 にある もので あ って ア リス トテ レスの哲学で言えばェネルゲイア に相当する. 「主語一述語関係」 に潜んでいる謎 めいた ものは今述べたことの中に も窺われる.そ し て このような謎めいた ものの実状を明か した のがかのヘーゲルの r論理学Jに他ならない. そこで言葉は 「主語 一述語」関係の奥処を何 とか言 い表そ うと 「概念の努力」をしている のであり, さなが らそれは 「鬼の形相」を呈 す るような白熱 したものとなっている.我々 は 「本論」の注釈でこの著作のそのよ うな有 様を詳 しく述べることになろう. そこでは主 語 になっているのは本来先行 している述語で あるが,それは述語 にとっては 「否定的な も の」である.そこでこれを 「否定」す ること で述語 は自分 のその 「先行性」を露にするの である (否定 の否定). ・だが,
「我々」が ここで 「土曜 日」とか 「日 曜 日」とか言 い表 して いる 「場面」は こうし た ことの更に奥処のことが らなのである.つ まり, へ-ゲルの 「論理学」のNegativitat (否定性)というものではまだ述語 に超越す る 述語 は掴 まえ られないのである.その ことが 可能になるには「概念の努力」が鎮まって寂か な出来事が起こらなければならない(Ereignis). ここではヘーゲル 「論理学」で述語が 自分で 定立 した 「媒介」,つまり,
「主語」は立て られ ず/ その関係をいわば 「脱皮」し,後 にぬけ が らを残すような見物が見 られる∴ ここで言 糞 は一方で寂かに自分の過 ぎ越 し方を眺め, 他方で自分のなっか しい故郷の町の灯火をな がめているようなものになっているのだ. こ の ときはじめて 「主語 一述語関係」の真相を 言葉 自身が言 うことがで きるようになるので ある. だか らしてこの 「場面」で言葉 は 「寂 かな」気分にな っている.-イデガーの晩年 の哲学や我々の 「間接伝達論的論理学」はこ のような場面の消息を伝えるのである. そこで, このような 「場面」が確保 された その処で一体何が起 きているのか, もっと正 確 にいえば.「何が言われているか」,を言 う ことが 「間接伝達論的論理学」の仕事である. それは様々な関連か ら言われるのであるが, その中の一つが 「主語の消失」であり,同 じ ことであるが,
「事」がな くなることである. 一般 に何 ごとかが知 られるとその知 られた 事柄の方か ら命名の可能性が出て くる.それ が何であるかという問に対 して, それについ て真に知 られるとその ものの方か らしてその ものに最 もふさわ しい名前があるいは言葉が 出現す る. ところで, 今上 で述べた ような 「場面」が確保 されるとき, そ こで出現す る 言葉 は 「言葉」 なのであ る. つ まりそこで 「真 に知 られたことが ら」 はその ことが らの 方か ら出現する 「言葉」で言われ るところの 言葉なのである.つまり,言葉が 自分の過 ぎ て きた山並みを眺めなが ら,他方 に自分がか って去 った故郷の町の灯火を見て.ああ帰 っ て きた, と思 っているとき,その故郷の方か らしてそれが言糞であると自分か ら言 うので ある.その場合,当然のことであるが,言糞 は言葉の 「言 (こと)」 を言 うことになる. しか し, この 「言葉 の言 (こと)」 のその言 い方 は今 こうして眺めている 「過 ぎて きた山 並み」・の言い方.つ まり,
「主語一述語関係」 ではあ りえない.そ うではな く,言葉がそこ で 自分が言葉であると命名 しているようなそ ういう独 自な仕方で 「言 う」言い方なのであ る. この仕方 こそが 「間接伝達」である. そ こでは 「言葉」が直に言葉のことを言 うのだ か ら 「直接伝達」ではないか,と反論する人がい るか もしれ ない. しか し
,
「言葉」 が 「言葉」を言 うというそういうことは 「主語一 述語関係」の場面での事柄なのであって,そ の枠組みを抜 けている処では 「言葉」 はただ ひたす ら 「言葉 の秘密」を 「秘めやかに」言 うのである.つ まり,言葉 はある誰にも知 ら れない仕方で自分の出生の秘密を言 うのであ り,
「間接伝達」 にな って いるので ある. 言 葉はここでは 「言葉で もって(
wi
t
h,ni
t
)
」
言葉のことを言 うのではない. それだと 「主 語一述語関係」か ら一歩 も出ていないとい う ことを言 っているに過 ぎない.「言葉の言 '(こ と)」が言われなけれほならないのである/ こ こで 「主語の消失」が認められるようになる. 「言葉 は云々である」 というような仕方で の言葉の 「解明」 はせいぜい言語学の守備範 囲で しかない. それの基盤には 「論理学」が あるので はあ るが, これす らも 「言葉 の言 (こと)」を問題 にで きない.なぜな ら,それ ら一切 の学 的探求 は 「主語 一述語関係」 に 「乗 って」 いるか らである‥ こ〉の関係 その も のの成立を眺めるためにはもはや言語学や普 通の 「論理学」 の手法 は全 く役に立 たないの である.ただカ ントか ら始 まった 「超越論的 論理学」が こうした問題の入 り口を開けたの である.それはだか ら.歴史的な仕方で言葉 が自分のことを言 うとい うことである.言葉 は自分 自身を言 う場合,言葉を主語 にしてそ れを述語付 けるという仕方で言 うのでもなく, また,
「我」の自覚形式 と同 じよ うに自覚的 に,つまり,
「我 は我 を知 る」 というような, そういう仕方で言 うので もない..言葉が言葉 を自覚 して それ を言 えばそれ こそ言葉 の言 (こと)で はないかと思 う人が いるか もしれ ない. 自分のことを自覚すればこれほど確実 な知 はないだろ うか ら. しか し,そ ういうよ うに して言葉 は自分のことを言 うのです らな いのであ.る.ただ,言葉 は自分が言葉である ことをは じめて 「そ こで」言 うのであ る. 「そこで」 とい うのは言葉 が言 うその 「そ こ で」である.つまり,
「主語 一述語関係」:Fは 言葉がまだ 「そこで」言葉の言 (こと)を言 い出せないところの 「言糞の出来言」 なので ある. この 「まだ出来 ない」 とい うことが 「主語 一述語関係」 の本性 なのであ る. 言葉 に してみれば 「我 々人間が語 るとき,言われ ていないこと」があるわけである.・ このように,
「主語一述語関係」 を いわば 「降 りようとしている」言責 の出来言 の 「場 面」では本質的に 「主語」が消失 しよ うとし ている.それ とともに事 (事象 といって もよ い)が消失 しようとしているのである.一般 に,
「主語 一述語関係」 のあるところには, それに対応 した事がある.そ して 「主語 一述 語」関係 はこの事 についての言明にな ってい ると理解 され る.そ して普通 はこの 「事」が 主語 になって これに述語が付 けられるとい う ことにな っている.我々は 「チュー リップが 赤い」 と言明するときには 「赤いチュー リッ プ」 が先だ って直観 されていなければな らな い. 同様 に 「ソクラテスが歩いている」 に し て も 「歩 いているソクラテス」がまず 「事」 として所与 されていなければな らない. もち ろん 「事」の中には単なる感覚的な直観によ るものではな く, いってみれば叡知的な直観 によって所与 されるもの もある. しか し, ど のよ うに して直観 されようとそれ は 「事」で あり,それについて言明可能 にな っていなけ ればな らない.たとえ数学的な対象です らも それが言明可能でないな らば如何 なるもので もないということになろう.このようにして, 「事」 は我々が言明するため に 「先 だ って」 与え られた ものとなっている. ではなぜ言明の前 にあ らか じめ定立 された 「事」 は言明可能になっているのだ ろ うか. ア リス トテ レスはすべてデュナ ミスはエネル ゲイアに先立たれているということを述べた. 何かの可能性 になっているものはすでにその 「何か」,つまり, エネルゲイアを概念的に先 行 させている. もしこのことが 「主語 一述語-1
3-関係」に も成立す るとすれば,主語はデュナ ミスに相当するから,述語が主語よりも先立 っ ていると言えるのではないだ ろうか. 「事」 が言明可能になって言明の前 にあ らか じめ定 立 されているのは,言明の方が先であるとい うことなのである.「赤いチュ- リ.ップ」 と い う 「事」がまず有 ってそれについて 「チュー リップは赤い」 という言明がなされる.主語 の 「チュー リップJは当の 「事」の方に係わっ ている.述語の 「赤 い (赤 で ある)」.も⊥見 すると 「事」の描写のよ うにみえ
,
「事」■に 係わ っているように見え る. しか し,
「赤い」 は普遍的な思考 された ものであっていわゆる 「質」のカテゴ リーに属す る ものであ り,.そ の意味では主観 に関係す る. 「赤」 は確 かに 「チュー リップ」の表面 に有 るけれ ども, そ れを 「赤」 という色の概念 として述語付 ける のは 「思考」の働 きに属する.更 に当の主語 たる 「チュー リップ」です らもすべての性質 を担 っているものとしての 「実体」の概念に よ って 「思考」 されている.「チュー リップ」
は 「赤」でもあれば 「柔 らかい」でもあれば 「甘 い匂い」で もあ り, それ らのすべての性 質を担 って時間の持続の中で 自己同一 してい なければならない. このようなものが 「実体」 の概念であり,それは 「思考」 された もので ある (同一性の概念で思考 されて いる). こ うしてみてい くと,言明の前 にあ らか じめ与 え られた 「事」 はむ しろ思考,つまり,言明 の側のほうに先だたれているということになっ て ぐる. もちろん, こうした ことはヒュ-ム においては疑 いを懸 け られているわけである が,我々はここに 「主語 一述語関係」の謎め いたことわりの一端を見 るのである.なお, ヒュエムの哲学 につ いて は 「自然科学」 と 「間接伝達論的論理学」 との関係 を論究 す る ときに (特に確率論 に関 して)必然的な仕方 で登場 してもらうことになろう. , ところで, ここで看過 されがちなことがあ る.それはどち らが先か とい うことでな く, 順序 があるとい うことの不思議 さで ある. 「チュー リップは赤 い」 という言明 において は概念的には 「赤 いチ ュ⊥ リップ」 とい う 「事」'はその言明よりも 「後」 であ る. その 理由は上で述べた. しか し,
「チュー リップ は赤い」 という言明は 「赤いチュー リップ」 という所与な_くしては起 こらない.つまり, どのように考えようとまず 「赤いチュー リッ プ」の直観が 「先」でなければな らない.つ まり,そこには厳然たる 「順序」がある.い いかえれば,
「事」が先 で続 いて言 明 とい う 順序である. しか し,如何なる所与 もすでに して言明の方が概念上 は 「先」でなければな らない∴一体 このような事態 はどのよ うなこ とになっているのだろうか. カン トはこのよ うな謎の解明にその主著である 『純粋理性批 判』の特 に前半 においてある見通 しを開いた. しか し,だか らといってカン トの 「超越論的 論理学」が先の謎を完全 に解 いたわけではな い. カ ントにおいてはその謎解 きの不完全 さ がある種の隠蔽 によって見えなくされている.・ 我々は, しか し,その謎の本質を見極 めてい るのである.その謎の本質 は 「主語一述語関 係」の本質 と同一のもので卒る,と.つまり, この関係において 「主語」 と 「述語」 には順 序があるが, この順序 と 「事」が言明より先 であるということとは本質的には同 じことな のである.そこで,今,
「主語消失」 の 「場 面」が確保 されるとき,
「事」 が言 明 よ りも 先に立つ というそのことも起 こらなくなって くるわけである.言 い換えれば言明,・ない し は言葉の方が 「事」 よりも先 にな って くる, というよりも 「事 の消失」が起 こる (起 こり 始める) ことになるJ. このような 「場面の確 保」がなされるとそこが L「土曜 日」
, あるい は 「奥の細道」
,つまりハ イデガーの 「論理 学」 になるのである.`
「有 る ものが有 る」 と いう言明はここでは成立せず,
「有 るが有 る」
ということになる. ここで前者の言明の 「述 語」の 「有 る」が後者の言明の.「主語」の位置に来 るわけである. しか し,す ぐ気づ くよ うに後者 も実 はまだ 「主語 一述語関係」を残 している. だか らこそ 「土曜 日」なのであっ て 「日曜 日」になったのではないのである. 「日曜 日」 には 「主語 一述語関係」 その もの が 「過 ぎて きた山並み」 として眺め られ,他 方に 「言葉 の故郷」のともしぴが見えること になる.我 々の 「間接伝達論的論理学」 はこ のような丁場面 の確保」がなされることを要 求す るのである. このように
,
「主語消失」 の出来言 の場面 では 「事」 の 「消失」 もまた目撃 される. し か し,それは単 なる消失ではな く,
「順 序」
が転回するとい うことである.つまり,すで に述べたように,普通の世界では 「赤いチュー リップ」が 「チュー リップは赤 い」 という言 明よりも 「先」である. しか し,ヘーゲルが いみ じくも述べてい るよ うに哲学 の世 界 は 「逆になった」世界であり,特 に哲学 の奥義 を究める消息の場面では 「全 く逆 になった」 ことが眺め られ る.言葉に先だ って事が もは やあ らか じめ与え られるということその もの が全 くおこらないのである. 「起 こる」 のは 「起 こる」が 「起 こる」のであり, ここに- イ デガ-の論理学 は必然的 にTautologie(同 語反復) となる.辻村氏が述べているように Ereignisの論理 はまさにTautologieとな る わけである. しか し,ハイデガーの場面では この必然性の根拠 は結局明かされない.間接 伝達論 的論理学 だけが 「なぜTautologieと なるか」を言 うことが出来 るか らである. このような転回が-イデガーの 「論理学」 の場面ではKehreとして命名されたのである. ヘーゲルも西田 も原理的に目撃で きないこの ことが らは単なる逆転でないことが理解 され よう. ここで我 々にスピノザの哲学の可能性 というものを考え られる視界が開かれる. ち ちろん,スピノザの哲学では 「場面 の確保」 がされているわけではない. しか し, ここで はじめて,つまり,哲学の奥義 が語 られ るこ の場面ではじめてスピノザの哲学 の方法が本 質的には正 しか った ことが洞見 され るのであ る.彼の哲学はまだ 「主語 一述 語関係」の制 約の中に拘束された言葉の出来言であるか ら, 本来 はその方法 には無理がある.つ まり,
「主 語 一述語関係」 の中に有る限 り哲学 の方法 は アポステリオ リでなければな らない. ところ が, スピノザの哲学 はこれ とは逆 に神か ら始 まっている.だから,・彼は自分 の哲学 の方法 に関 しては矛盾 に直面することになる. 彼 の 方法が矛盾 にな らないためにはまさにKehre が起 こらなければな らないことになる. しか し,それは実に歴史 の終わ りをイ予感」す る 場面が確保 されなければ起 こらなか った こと なのである. さ らに輪をかけたように理解の 困難なことがこのよ うな事態 には起 こる. 「主語消失」 が起 こる, あるいは起 きよ う としている場面 では事の消失 も同時に起 こり, さらに 「転回」 とい う事態 も目撃 されるが∴ それだけではな く,杏, もっと信 じられない ことが眺め られ る. ここで言葉 は非 ・事象的 になって, リア リテ ィをもたな くな り, む し ろア ンリア リテ ィを獲得す るのである. これ こそが間接伝達論的なことのある意味で は精 髄なのである..このような場面で言われ る言 葉 は何か実在を表すのではないどころか, こ こで は じめて言葉 はそれ 自身unrealization を遂行するのである. ここで,unrealization と言われていることは何か非現実的な妄想世 界や幻想的世界を創造するとか,詩的世界が 構想 されるとかいったこととは_「全 く異なる」
,
「論理学」 の根本の場面のことが らであ って, 一切の詩人 の 「夢に も見ざること」である. それはこれまで誰 も知 らなかったことであり, ●●●●●● ただ言葉だけが知 っていたことなのである. それはハイデガーの 「論理学」だけが辛 うじ て目撃す ることがで きる光景であ り,実際, 彼がSeynのnichthaftと言 っていることが そ れに相当 している. この事態をヘーゲル 「論 理学」の 「奥の細道」を独 り行 く独 りの 「私」 ー 15-が経験するのである. この見知 らぬ光景の中 で 「私」は何 ものなのかが言葉の方か ら言わ れ るのである (「私」 とは何 かを 「私」 が言 うのではな く
,
「言葉」 が言 って くれ るのを 「私」が聞 くということである).∴ なお,unrealizationは余 りにも深遠 なこと であって,人間的なことでは全 くないので, 「本論」の注釈で詳述す る. 「主語消失」の場面では「事の消失」
, そ し てunrealizationが起 こるが, これ らは別 々の ことではなく,それぞれが一つの統一性の中 で関係 しあっていることが これまでの論究か ら明 らかであろう. この 「場面」が確保 され る ことで, ここに我 々は 「言葉 の言 (こと)」を 「言 うこ'とが出来る」ようになる. ここでは当 然 なことであるが 「言葉」が支配権をにぎって いる. この 「支配権」そのものが人間には 「夢 に一も見なかった」 こと (言)なのである. すな わちここで 「言葉の方か ら」哲学の根本概念が 命名 され 支配権の行使がなされ るか らであ る. これがハ イデガーの言 うところのKehre の可能性の根拠になる.F間接伝達論的論理学』 の本文の中で筆者 が「Kehreの事態 は 「土曜 日』の本質か ら必然的 に生 じた」と言 ってい るのがそれである. また,
「場面」が確保 され ると言葉が今述べたように支配権を行使す る ので, これによって哲学的な問題や概念に対 して決着が着 く(Entscheidung)ことになる. ここか ら直 ぐ分か るように,Entscheidungは もはや人間の行為 の一つではな く,言葉の行 為様式であることになる.「土曜 日」 の場面 では, しか し,それはまだ 「主語一述語関係」 を残 しているのでSeynの本質 に属す ること として目撃 されるのである. これが 「第二部」
のp.17, 5行か らのハイデガーのB.Z.Pか らL の引用において述べ られていることである. ここでこれまで述べて きたことをまとめる 意味で-イデガーの言葉を引用 し,そ こに彼 の哲学が 「土曜 日」に して 「奥の細道」であ ることが見えていることを確認 してお くの も 意義有 ることであろう.-イデガ-の哲学, 特に後期のそれは ドイツ語の原文抜 きに して は意味のないものであることは 「言葉の支配」
か ら,我々はまず原文も 続いて便宜的に日 本語訳を記す.DasgroL3eWesendesMenschenberuht darin,da月 esden WesendesSeinszuge -h6rt,von'diesem gebrauchtist,dasWesen desSeinsinseineWahrheitzuwahren. Darum istdaszuerstN6tige dies,da月 wirzuvordasWesendesSeins屯berhaupt wirzllVOrSOIchesdenkenderfahren,daL3
Wirzuvorsolchem Erfahren einen Pfad spurenundihnindasbislangUnwegsame bahnen.(BremerundFreiburgerVortrage,
Gesamtausgabe・Frnkfurtam MainBd79, 1994,S70) 「人間の大いなる本質 というものは次のこ とに存 している.それ は, この本質が有の本 質 に属 しているということに,そ して,有の 本質をその真相へ と護 るのにこの有の本質に よって必要 とされているということに.それ つまり,我々はまず有の本質を総 じては じめ に思索に値するものとしてよ く考え, まずは このようなことを思索 しつつ経験するという こと,我々がまず このような経験のためにあ る細道を跡づけ,そ して細道をこれまでは道 絶えていたところへ と拓 くということ, これ である.