御遺文蒐集史上に於ける上古三翠 五 0
御遺文蒐集史上に於け
3
上古三聖
主
産
田
義
遜
此に上古三事といふのは身延に於ける上古の−ニ型で、即も身延の保代の三翠中最も上古に位する、 日朝、日立、け停の三翠をいふのであι
。五口等は前披に於て﹁身起の御異践に就て﹂迅ぺた故に、次 で身延を中心とする御書録内外の蒐集に就τ
迷ぺて北たい。若し御真蹟に就ては前披に於て、歴代の 中興三師に就τ
、朝意博三師ご、重逗乾の三附を以て共に.身延山に於ける御遺文蒐集時代の雨三師 と見、後の脱省亨の三師を以て保存時代t
見たが、若し御異院を離れた御遺文そのものごしては、中 興の三三師の中、最初を蒐集時代、次を刊行時代、後を流布遁時代と見べ3
であるから、今は正し︿最 初の蒐集時代仁就て述べることにする。 市して身延一山に於ける、御遺文中心の蒐集刊行の事貨は、これ身延のみに就て見る時には身延の それであるが、乙れが頓て宗門に於りる、御遺文編輯史上の動きごして見ることが出来る。随って今遮ぷる所は.濁 b 身延一山の事賃ばか h ,でな︿、同時代に於ける宗門的の事業であり、殊に行皐朝師 の知きは、此の点に就ては宗門に於付る、 一大動功者として見ねばならねのである o 特に古来銭内外 の 蒐 集 の 史 貨 が 、 濁 ・ 9 録内の最初にある﹃御書目録後記﹄の文に支配せられて、その史買の研究を等 閑に附した戚がある。而して事減五四三年に入寂した、紀州戚磨寺十八世の勇猛鹿師の、﹃組書編輯考﹄ のみ此の問題に貢献し翻がたあるつ即も御書の編輯に就℃は、古来日昭の執筆と稗する﹃御者目録日 記事﹄には﹁宗姐御入滅の後には、定めて無道心の悪人等が出で、、、怒に謀者そ作って御存と稀して、 世間の人遣を惑はすに依て、去る弘安六年二月の頃から内 φ 俸 達 し て 、 一周忌ぞ期して所持の御者を 持 ち 寄 り 、 一百四十八遁を以て御者主決定し、目録を作り、その他のものは御者であっ℃も、六老常 一同の内諾を経て御者と定むぺきである﹂ ξ あるのである。而して之れに弘安六年大才葵 4 4 十月十二 日﹂と記し、且つ六老慣の署名が連記し
τ
あるのである。故に此の第一周忌の時の一四八通を以て録 内 と し 、 之れに漏れたものを三周忌に蒐集して録外と定めたといふが、これに劃して勇猛鹿師は、各 十義を畢げてこれを疑ひ。且つ録内目録の原本に就て 蓋し以るに六聖の結集鑑定の遁暑は、其意後皐の疑惑を鍋︿に在。突。宜しく者を延山に留めて其 信を奨むべき也。菅﹁目録﹂のみ然るに匪ず、亦営に其全般営貯留すぺし。而て既仁無しお。後人 御遺文蒐集史上に於ける上古三雲 五御遺文蒐集氏ょに於ける上古三翠 まζ の思惟に出つるとふ想ムベし。﹃租書編輯考﹄ といひ。叉録内外名目に就て、 蓋し内外相針の立名は同時に有るぺ主也。若し異時と言はば、銭外の目有台てよ b 録内と名っくぺ き也。録外の立名英︿んば則
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亦録内の目無かるべし。内外己に立たや本数決定せゃんば、則も通 署某の家に在 b と言ふとも、以て証となすに足らゴるな b 。況や其帯無きをや。故に六暑の通暑は 後世の仮托たる乙ご醸し失。亦内外の題制後世に出る乙吉昭然たり。ハ全上︶ といひ。更に録内の編輯に就之、事減十有除年の正安の頃よb
、糊︿異端の設が現はれ、百年頃 R 7振 を 出 す に 至 ・ 0 、臆永の頃型滅 には御許の偽作が盛になって来た故に、二三の哲匠が磐風の蔚生 を悲んで、密かに相約し陰かに珍蔵する加者を崇め、且らく一一山入通を以て完峡として、篇目を定め 名を六事に嫁して偽防に備へたのが、今日の所謂録内であって、その後口決相承の諸篇を蒐めたもの が録外であるといふのである。 如上の設に依れば昌一一減百年頃、二三の哲匠か御詐偽作の欝風に鑑みτ
、珍臓の組者金索め一四八遁 を 符 て 、 乙れが篇目を定めて六事の蒐集に擬したものが、録内の御書ごいふのである。吾等は組書中鋭内の編輯に就ては、粗ぽ上越の鹿師の設に讃する者であるが、今且ら︿その設を別に して、身延膳代を巾心とし℃御書の蒐集に閲して述べる乙とにする。今日身延山に曲概する御書の歴代 寓本中、最古のものとしては、先づ第二世の佐渡阿閑梨日向型人の、﹁安岡論﹄の潟本を初めごし
τ
、 第三組日進事人﹃御書寓本﹄ 一日加が、これに攻﹁ものである。而して此の中には 一、立正観抄 法 輩 止 観 同 剛 持 決 十 枚 元徳二年第本 一、自佐渡闘人之中給御書 法 制 中 行 者 値 難 事 迫 仲 枚 一 切 詩 人 見 ニ 聞 之 一 有志人々互語之 て 武 蔵 殿 江 揺 御 書 下 案 日蓮房叉佐渡闘え被遁候て後雨三年も候℃者可 ν有 = 御 免 − 候 。 若 承 ℃ 被 = 具 下 − 候 人 も 、 若殿原 之中にも死罪などに被 ν行事も候ごてか様に申候。 叉御領之御錦惑かるべ︿候聞か様に申候。 九 月 十 四 日 左 衛 門 尉 頼 綱 在 列 次 良E
兵 街 殿 文永八年九月十五日到来 承 = 三 郎 太 郎 一 武 臓 殿 御在剣 御遺文蒐集史上に於けるよ古三連 五御遺文蒐集史ょに於ける上古三翠 五 四 一 、 佐 渡 閤 流 入 借 日 運 引 率 弟 子 等 巧 一 一 惑 行 一 之 由 有 一 一 北 ︵ 間 一 、 此 行 之 企 甚 以 奇 位 也 。 自 今 以 後 於 一 一 相 随 一 、 文 永 十 年 十 二 月 七 日 沙 彼借之輩者可 ν令 レ 加 ニ 畑 誠 一 。 猶 以 令 = 違 犯 一 者 可 ν被二日比進一夫名之両所候也、何執達如 ν件 恵 上 依 智 六 郎 左 衛 門 尉 殿 。 一、御赦免之蹴 日蓮法師御勘気事所レ被ご免許一候也。 文 永 十 年 二 月 十 四 日 行 清 ,−− 1T 光 藤 左 衛 門 入 道 殿 一、武蔵前司殿 御教書案 御赦免蹴 捕 宮北 告〔宅 在 !J'IJ 長 在 !J'IJ 平 在 卵j 綱 在 !J'IJ 文 永 十 一 兵
部
日蓮法師御勘気事有ニ御免許一之由所 ν被 ν仰 ν候也。早可レ被ニ赦免一之由候也。何執達如件 え ま 年 二 月 十 六 日 承 行 ヌ定山 域 兵 衛 入 道 殿 一、最蓮房御返事 ︵ 立 正 視 抄 怠 欣 ︶ 二月廿八日 一 冗 徳 二 年 第 一、願偽未来記 文永十年後 者 一 月 十 二 日 御 書 元 徳 二 年 第
て種
ι γ 災難起御勘文事 ︵ 災 難 封 治 抄 ︶ 右九篇一審会三十二枚で、青表紙で朝附の御書目録と同一体載で、 右の中御書としては﹁立正観抄﹂ ﹁ 全 迭 献 ﹂ ﹁法事行者値難事迫仲﹂ ﹁ 関 備 未 来 記 ﹂ ﹁災難封治抄﹂の七篇がある o その後善・皇’院・叡・位・串・延の諸師にも、勿論多くの御書の潟本があったらうが、今此に明 記 す る こ と は 出 来 ぬ 。 斯 く て 活 師 一 冗 徳 二 年 寂 禦 滅 四 九 年 後七代百三十年を経℃、事減一八O
年の寛正二 年に、第十一代の行皐朝削が身延仁入山せられたのである。斯くて朝師入山以来、伽藍の方面に於て は両谷の地の狭陸を感じ℃、現今の地に移建したといふが、叉近時の一一説仁は村松海長寺九世出師の ロ H a u ア ﹂ E l E E F U 文 明 六 年 甲 午 地 震 於 一 一 延 山 一 値 ν之。身延山事。大嬰人御草創之諸堂地悉損減成ご河原一畢。 日朝塞人 御建立之御塔競落。坊中等悉流失。今之御堂地日朝悪人再興関興之山也。 とあるは海側身延修串中の事貨で、時に村松海長寺は海山酬の厄に遇ひ、身延の地震のため山津波の厄に 御法文蒐集・奥上に於げる上古三塁 五 五御泣文蒐集史上に於ける上古三禦 五 六 擢
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、西谷が悉く河原に化したのに原因する苫もいふが、若し果しτ
後設の如くであれば、朝師入山後 十四年期滅一九三年の事になるのである。 執れにもせよ朝師現今の身延の素地を遣ったばかb
ではなく、御真蹟の蒐集は勿論、御書の蒐集に 杢力を住がれて.現に朝師の其寓本ごして、身延文庫に珍蔵せられるもの.録内外合して二百三十八 通を戴ふるのである。且つ自らこれを註せられて、その講録免る﹁朝削見聞﹂は、五大部外二十一章に亘b
.四十四巻の多きを加へるのである。 以下朝師の御書蒐集に就て越ぷるに先ちて、若し朝師以前に就て乙れを見れば、中山の富木常師の ﹃ 本 骨 骨 聖 歌 録 ﹄ 永 仁 七 年 翠 減 一 八 の 六 十 七 篇 。 衣 で 一 服 帥 の ﹃ 本 隼 事 敬 録 ﹄ 康 永 三 年 一 増 減 六 三 の 百 五 十 篇 に 先 づ指を屈しねばならぬ。勿論右のニ録は御塾教目録であるが、叉御番目録とも鬼倣きる、のである。こ の他には墨減五一年に入寂せられた、富士興師の﹃富士一跡門徒御存知事﹄宗会一嵐山門集に見る、五大部 外 ﹁ 下 山 抄 ﹂ ﹁ 取 要 抄 ﹂ ﹁ 四 信 五 品 抄 ﹂ ﹁ 本 掌 問 答 抄 ﹂ ﹁唱題抄﹂の十抄を掲﹁るもの、外、未だ目 録ご稀すべきものは無い様である。乙れに夫﹁ものとしては型滅一八
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年即ち寛正二年の著と砕する。矢張中山門流に屈す本成川賞 の﹃宮家宗旨名目﹄であるが、 乙れには既に三大部五大部︵上四九左︶の日を出し、下巻の初には ﹁上帖には題放の法門、悉く大綱を以て之を沙汰し詑る。此帖には大型人の御作の御者の、銭外録内 の分別、六老借の御事、同じく御化道の終りを載すべき品﹂ ︵ 下 初 ︶ Jこ い ひ 、 ﹁御書目録﹂に依 b 録 内を百四十八通を定め、録外に就ては 借て銭外の御書は載を知らや。若し載を知らば録内同前なるべし、云々惣ι
て御舎の蚊七百余帖ご 一再支不審也。乃至抑目録最初は何御書ぞや。答云︿﹁立正安岡論﹂也。 といへば、若し朝仰の身延御入山を寛正二年とすれば、既に此の時中山門流には録内は、 一百四十八 通整足して居たのである。而して﹃宗旨名目﹄にその名目の見ゆる録内御書は、計五十五通でとれは 五大部等主始めとしτ
、 ﹁ 取 要 抄 ﹂ ﹁ 題 目 抄 ﹂ ﹁ 唱 題 抄 ﹂ ﹁開立正意抄﹂乃至一 i 四思抄﹂等の、宗義 に聞係ある重要御書で、その大意、御述作の年丹、封告衆等に就℃の略併である。併し乍ら銭外に就℃ は録内同然といひ、御書の総数を七百おといふに就ては不審な b ごいふ如く、七百中百四十八の録内 を 除 い た 、 五百五十篇の録外があることは、勿論不審であるが、 ﹁宗国円名目﹄中に見ゆる銭外の御書 は、全体で衣の十八一過に外なら自のである。 御泣文蒐免虎上に於げる上古=一塞 五 七御也文古品怯用具ょに於ける上古三製 五 A
一
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二 四 、 一 一 六 、九
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︺ 一 八 、 一 三 四 、 一 回 二 、 一 六 一 、 一 七 一 、 一 七 四 、 一 七 五 、 一 八 三 、 一 八 九 、 一 九O
、 一 九 三 、 一 九 五 、 一 九 六 . 一 一 一 一 六 、 右の如く十八通の中、御輿撰に拘はるものは牛厳に満たね有様であっτ
.此の点から見ても営時に如 何に録外が信用出来なかったのか Y 知れるのである o 此 の 他 に は 朝 師 家 滅 一 凶 一 一 一 一 九 と 同 時 代 で ‘ 一年の後輩たる京都妙願寺六世の、謄山寒松軒目 具 信 正 聖 滅 一 四 ニ l − 一 一 一 O の﹃澗亭画底抄﹄であるが、本書は具仰が訓告減二一七年即も明臆七年十月 から、翌年六月に亘る約一ヶ年を胤賀した著であるが、師はこれを編輯するために、組書を某山よb
借 b たそうであるが、その中には姐書を摘﹁る乙と三十四篇で、五大部を始めとして銭内の順序を議以 肝要なる御書に就て越ぺたものである。故に H U 等の事貨から見℃も、嘗時録内丈は所謂六事に仮托し て 大体蒐集せられ身延中山等の門流には、 粗ぼ保存せられたものであらう o 然 ら ば 時 間 時 果 し て 身 延 山 に も 、 録 内 の 完 本 が ゐ っ た ’ ﹄ ご は 、 現に朝帥御筆の ﹁ 録 内 目 録 ﹂ がゐるに依ても明かであ ル。。該目録に依れば最初に、﹁御書目録日記事、六老館所記﹂として﹁安岡論を始めとして、百四十八 通を掲げ、巳上御抄目録如 ν 新、合一百四十八通﹂と書しτ
後は、矢張六#蒐集の縁由と署名が記3
れ て居る。御書の順序等は、粗ぼ現行の録内板本の如︿でゐるが、併し乍らその名稿の如3
は必ずしも現行本に一致しない。或は﹁御書﹂とのみ書してあるのきへある。併しH賓の﹃宗国円名目﹄以上に現 行録内板本に近︿、殊に朝帥の﹁緑内目録﹄には﹁可槌﹂等と傍書して、板本目録に導いた点が明瞭 である。斯かる点から見て朝附の目録は、恐らく録内最初の苅行の元和板翠滅三四一年・功徳日通校訂 の 喜一本となったものご思惟するものである。 今試みに朝師目録と現行鎌内本三の、御書の弐第の同異を封照すれば、 書 名 此 都 内 桜 本 制 抑 制 目 録 阿偽房御消息 五 一 六 兄弟紗
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四保金吾許御文一
一
一
一
一
二 五 迫申法飛行者値難事︵佐渡圃人々御中抄︶ 一ヱハ別問 ニムハ本書に附す 寺泊御書二
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二 八 佐 渡 御 書 日 蓮 弟 子 檀 那 御 中 二 九 有智弘正法事 二 四 御近文祝祭・見上に於げる上古三翠 五 九御注文十地位指先ょに於ける上古三副書 〆 , 、
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車人知三世事 七 八 入。
善無畏紗 入A
八 九 太田殿御紗塾党大仰事 九 六 九 妙法尼御前抄一
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九 八 十法界事一
一
一
一
一
行敏訴蹴曾遁 一 三O
一 三 七 の異聞があるが、身延の﹁朝帥目録﹂には相等手入れがしであって‘現行の﹁録内目録﹂がそれを定 本ごしたこごは濃一惇である。此の外最後の﹁地引御者﹂の後に、更に﹁日女御前御書﹂ ︵ 外 一 五 二 ︶ ﹁ 西 山 殿 御 返 事 ﹂ 七 六 番 の ﹃ 資 制 左 京 抄 ﹄ を 書 き 一 昨 へ で あ る が 、 乙れは目録完成のためで、或は一百四十八 過に克に二遁を加へて、 一百五十通とせんとの準備とも見られι
。更に身延文庫には﹁録内目録﹂で 一百四十八遁整足したものがあるが、 乙れと﹁朝一川目録﹂とは姉妹闘係がある乙とは明らかで、雨録 を掛照した形蹟が、朱筆の後から見られる。若し﹁朝川目録﹂が目録 M 記の文中﹁随悉持参有之御書 大 A 口之免一一一百四十入遁−﹂の十八子を脱して居ること、又字句中﹁御信用﹂を﹁御借﹂と錯し、 ー「 廻 文﹂の下﹁云﹂字、 ﹁鯛之﹂の下﹁候畢﹂の宇を脱するよb
見れば、他の一本の方が原本で、 ﹁ 朝 帥目録﹂が乙れを轄おしたとも見られる。敦れにもせよ身延文庫には‘ ﹁朝側目録﹂の外古本の﹁銭円 目録﹂のある乙とは記憶すぺ主である。 四 目録の事は乙の耗度にして、正しく本題たる朝師の蒐集せられた、御者に就て見るならば、 乙 れ は 明治の晩年慈仰の御代に、故島知 H 良附が手入されて陪るので、這般の研究には非常に好都合である、 島師の手入本は銀内二十六舟、銭外十冊、都令三十二舟になって肘るが、原本は錬内分五十四舟百二 通、録外は三十四舟百通で、内外合して八十八舟二百二通現存するのである。 とれに就℃は島州が手入の折の剥査の記事が、銑内本の港首にある、即ち 先づ銭内に就
τ
見 る に 、 日朝上人異寓録内令本廿冊、外に柿欠 R 7 A 口本六舟。原本五十四舟、百O
二遁。内銭外十六遁あb
、 内は入十六通。 右録内不足 n T 俸川代補欠合本、︵原本十五舟︶三十六活、内重出或油、外萱通、内内三十三遁、合計 百十九通、故に全日銀数百四十八油の内、京十九週金︿不足となる、此不足分番披左に、一
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四 玉 、 九一
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二 四 、 二 五 、一
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三 人 、 四 人 、 四 九 、 御 A 辺文蒐集史上に於けるよ古三翠 ー ’ノ、a御法文蒐集史ょに於ける上古三車 { ノ、 ム ハ コ 一 、 六 四 、 七 一 、 七 三 、 八 九 、 九 六 、
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三 、一
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六 、 一 ︵ り 七 、一
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一 回O
、
一 四 一 、 一 四 三 、 一 四 六 、 右細同及異潟﹁銭外目録﹂は十二世意附部、立削真筆﹁御筆御書註文’一にあ b 往 見 . 右原本冊載は明治四十三年調査の際、現在品に依る。真筆目録も録外の方は、意附の控あるを以て、 原 本 数 と 現 存 敏 ’ と の 掛 照 e T 得れども、銀内舟は搾日比一きを以て、現在の不足二十九過を悉︿原本の時 よb
不足なりと云ふにはあらF
るなり。きれば現在不足分に依れば、二、一二、四等の大事の御書ま で欠本なれど.原本時代には定めし有 b しならん。想ふに第一の﹁安閑論﹂の如く、冠誘誌も立波 に 入 b たるものにして、早く散逸せしならんか。 原 本 合本 t回 数 鍛 内 録 外 重 出 異 潟 五 四 二O
() 八 六 一 六 補 欠 五 ... ‘ ノ、−
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入 4 計 六九一 一 六
一 三 八 一 一 九七
故仁会一四八の中二九不足となる。 右の記録に依て‘朝削蒐集の御書の内容は明了である。即も島削もいふ如︿、現在の朝師の録内本には二九通の不足がゐるが、勿論それは今日から見た所謂朝帥蒐集本の不足で、朝師の時比百四十入迅 が果して完備したか否かは不明である。何となれば島師も朝師の寓本全体一
O
二通中、既に銭外が十 六遁あったといへば、録内は八十六一池で隠って、不足が六十二通ゐったのである。故に惇師が三十六 通を補たしたといふが、内に重出の二通と録外の一通とを去れば、録内 R 7 の補足正しく三十三通で、 それ丈け朝帥本の六十二週の不足を補っても、更に二十九辿の不足があったのである。 由来惇師は朝師の入室の弟子であった故に、体師の録内の補足は、必ずしも朝師滅後のととでなく 之、恐らく御在世中側近にあって、朝師の御書蒐集を資材て、録内の完壁を期したものとも思はれる。 故に今は且らく俸制の祈足した升も、朝師蒐集の録内本として取扱ふ二三にする。而して今先づ朝師 蒐 集 の 一 ︵ U 六通を、品師の合本に就て番挽に依て配列すれば左の如くである。 第 各一
、
内 第 二 審 七 、 λ。
内 第 三 巻 一 ︵ ︸ 、 一 一 、 内 第 四 巻 一 二 、 七 七 、 一 一 一 一 五 、 主 ハ 、 = 一 、 一 四 八 、 一 宍 . 入 4 、 七 0 . 内 九 第 五 巻 一 回 、 一 六 、 一 四 七 、 内 御治文蒐集史上に於けるよ古三事 ノ、第 巻 第 七 巻 第 八 巻 第 九 巻 第 十 巻 第十一巻 第十二巻 第十三巻 第十四巻 第十王巻 第十六港 第十七巻 第十八巻 第十九巻 御 泣 文 蒐 集 史 上 に 於 け る 上 古 一 ニ 翠 一 七 、 一 入 、 七 入 、 一 一 一 西 、 一 一 己 、 一 九 、 二 ︷ ︺ 、 一 、 L r Z M 刊 本 銭 外 一 一 点 、 兵 本 銭 外 二 七 、 一 一 一 也 、 八 七 、 一 一 八 、 一 三 一 、 一 元 、 一 一 言 、 九 五 、 問 。 、 四 一 、 四 二 、 間 二 一 、 岡 山 、 一 一 九 、 一 ニ ︵ ︶ 、 一 一 一 山 、 一 訪 問 . 八 一 、 七 4 . 九 ︷ ︶ 、 四 六 、 外 二 O
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五 一 、 忍 一 一 、 五 回 、 五 五 、 五 六 、 五 − 也 ‘ 外 一 O 六 一 口 斗 、 五 入 ‘ 外 五 削 、 一口岡、外二三一
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、
八 口 、 外 一 O 三七、外一六 さ 一 . 六 日 品 、 六 六 、 六 七 、 交 、 七 ニ 、.
入 ニ 、 入 コ 一 、 八 八 、 九 ︵ ︺ 、 一 ︷ ︶ 七 、 = 品 ︵ ︶ 、−
九 一 一 、 州 0 、川o
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一 二 、 少 一 、 ブ 一 一 一 、 一 口 一 、 刈 一 、 川 七 、 九 九 、 一 一 二 、 一 O 一 一 、一
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士二宏一
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一 一 五 、 一 四 ニ 、 四 回 、 一 一 六 、 , 、 問 内 五i
入1 内 九 、 外 二 内 - L‘,
、
内 内 四 、 外 一 内 内 八 . 外 三 内 六 、 外 内 内 内 四 内 一 二 、 外 七 内 ... r、
第二十巻 三 玉 、 コ 毛 、 外 二 三 凶 、 外 四 五 ‘ 一 一 三 一 、 外 一 四 一 一 、 一 一 三 、 九 一 三 、 内 入 、 外 三 以 上 計 一
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六遁であるが、此の内録内の九O
、録外の一二二の二通が重木であ b 。 外 録 外 が 一 五 遇 、 更 に 第 八 巻 に ﹁ 安 岡 論 判 朕 ﹂ ﹁ 翻 恵 吠 ﹂ 前 引 日 準 認 本 巾 に あ り の二泌があるが、之は且らく除︿とすれば、御 書とすれば正しく一O
二通で、此の内銭外一五通を除けば録内は八七辿である。然るに島師が乙れを 八六通としたのに劃すれば一通の相違があり、叉その依本中へ一O
問 と 一O
七とを加へて居るが、 乙 れは恐らく九四と九入の雨書の設でゐらう口 斯の如主朝師蒐集の録内八七通は、同謂録内の一四八過に封しては、貨に六一通の不足がゐるので ある。而して是等の中三六遁は、惇師本に依り補足することが出来るのである。 乙れ島師が﹁録内不 足 R 7 惇 師 代 金 筆 者 は ﹃ 朝 一 川 代 型 問 委 助 主 見 ご 柿欠 A H 本 ︵ 原 本 十 五 細 川 ︶ 三 十 六 通 、 内 重 出 二 通 、 外萱通内 三十三遁﹂と記せる知く、原本十五舟を島師は六珊に合本したが、その第一は目録で、第二巻以下に 三十六通が収められて居る。今番読を以て之を一不さば 第 二 巻 一 五 、 二 九 、 二 七 .一
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入 、 一 一 四 、 三 七 、 第 三 巻 三回、四七、五九、三五、九七、七九、四五、 第 四 港 一 同 七 、 五 三 、 七 四 、一
一
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一二四、九三、九一、八四、一
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、
御泣文戎銃一奥上に於げる上古三重 六 五御 泣 − v ∼ 蒐 集 史 上 に 於 け る 上 宙 一 一 一 翠 占 、 司 、 − − ノ ﹂ ノ 第 五 巻 八
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、 外 二 三 三 六 、 五O
、 八 六 、 一 三 八 、 六 一 、 六 九 、 第 六 港一
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一 四 五 、一
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一 三 ム ハ 、 一 一 一 入 、 以上三六遁であるが、此中一通の銭外は一一三六の﹁阿仰房殿御返事﹂千日出御前御書、三三回 で 、 そ の 他に島附は重本二週といふが貨は四通あるのである。即も三四は朝帥本第十巻に、 一 四 七 は 今 一 第 五 巻 lと、
一 二 二 は 企 第 十 三 巻 に 、 一一二は第十八倉に在るのである。故に三六遁外以上の五遁を除いた、 ニ一遁が正しく惇師蒐集の分である。 要するに朝惇雨師に依て蒐集せられた録内本は.朝帥本の入七地と惇師本の三一地と、後に述よる 朝師銭外混入の六通中二ニ、三O
、八O
の 三 一 辿 を 加 へ た 、 二二通で録内一四八通中、二七誕の不足 となるのである。而して斯の如3
二二遁の銀内は現に身延文庫に戒する所である。五
然らば果して朝帥蒐集︵惇−帥分も含む︶の録内本は、初めから二七泊の不足があったのかといふに、 不足亦はそれ後世の散逸とすぺ主である。何となれば既に朝附の﹁録内目録﹂に、各御書の首尾の御 文が附記せられて、御書の内容を知らしめた点から見τ
.録内が完備して居たととが詩せられるのである。それのみならず更に後世の散逸の事貨を誼するのは、朝師の著辿に引用せられた文に徴すれば い よ / ・ 1 1・明かにするととが出来るのである。 然るに朝師の著述といへば、肢に身延文庫仁現存するもの﹁柿施集﹂ 一 二 巻 、 ﹃ 例 議 問 叫 ん 口 ﹄ 四 七 巻 。 コ 一 日 講 ﹄
一
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二 審 。 ﹃御書見聞﹄三三巻等を始め、相等の敷に上る故仁今は先づ、手元にゐる 苅 行 本 中 ﹁ 朝 師 見 開 ﹄ 宗 皐 全 世 並 じ ﹃ 一 克 一 剛 化 導 記 ﹄ 日 蓮 宗 主 背 の二本に就て調査して見るととにする。 先づ﹃朝師見聞﹄に就て見るに、此の内には五大部外二十一章、即ち二六通念揮されて居るもの丈け が現在する故に、是等の原本の存在は疑ム余地はないのである。市して該二六過の中には、録外の 二 八 、 七 五 、 一 七 三 、 一 七 六 、 一 八O
の五通があるが、他の二O
通は総て録内である。即も一
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、 四 五 七 九一
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三 八 、 四 一 、 六 三 、 六 七 、 七 二 、 一 二 四 であるが、その中四一は﹁月水蝕﹂と﹁題目捕陀名競勝劣事﹂とを、異本として今川の如く別聞きれ 子 、 ︵ ﹃ 三 賀 寺 銭 外 ﹄ に は 今 H の如く別書として皐げられて居る︶これに依て録内の歓本中 一 一 、 − a、
四 五 九一
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一
、
二 八 、 六 三 、 一 二 四 の一内通は正しく存在したことが証せらる、のである o 品 川 片 山 支 + 内 角 一 史 上 に 於 げ る 上 古 一 一 一 禦 ム ハ 七御註文蒐集見ょに於ける上古三製 ノ、 i¥. 衣 に 真 に 朝 一 附 が 文 明 十 年 、 即も山一減一九七年に執筆せられた、 ﹃元組化導記﹄仁就て調査すること にする o 先づ注意する乙ごは、此 4 A H が第一資料に御守を掲げたといふより、御全日に依て艶俸を綴られ た一事である。この一事は正に朝師が組惇編輯に就て、 一双眼を備へて居た左詮であって、近世﹃年 譜攻異﹄が御書を以て、組停の事貨を註明したなども‘ とれと同一史眼に基いたものである。今御者 を以て綴られたといった、﹁化導記﹂に就てその引文を、翻則すれば大体左の四類となるのである。 一、御存云或は﹃御消息云﹄﹃御札一五﹄﹃御扶一五﹄等を合む、 五
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回 二、或記云 ﹃ 白 川 回 日 名 目 ﹄ 等 古 制 偽 認 知 ♀ ・ 二四回 二、王代記王代一覧? 二 回 四、私 一五靭削の意見一
六
回
右の中﹁御者云﹂ と い ふ の は 、 勿論﹁御弁﹂とい人外 ﹁ 御 消 息 ﹂ ﹁ 御 札 ﹂ ﹁御朕﹂等の別稀も含んで 居るが、その他直ち者名を出すものもある。故に今夏に﹁御書云﹂に就て R T 類すれば、大体衣の五類 となる 一 、 御 者 名 高 安 凶 論 ﹄ 一 式 ﹃ 撰 時 一 位 一 五 錯 す と い ふ も の d 五 回 二、御書云 三五回一 、 御 消 息 云 八 回 四、御札云 回 五、御朕云 回 是等の回数は計五
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回であるが、今此の五十闘に就て録内外そ按すれば、銀内一九.録外五通、計二 四 一 辿 に 一 日 一 っ て 居 る の で あ る 。 即 も 録 内 は-
-
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四 一 回 、 一 五 、 一 九 、 二 五 、 四C
、 四 八 、 五 一 、 五 三 、 五 九 、 六 五 、 七 じ 、 八 三 、 八 五 、 一 ︵ い 七 、一
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八 、 一 一 九 、 一 四 五 、 の一九泊で銭外は三、六六、 一 四 二 、 一 九 九 、 二 五 九 の 五 一 辿 で あ る 。 而して此等録内外中尤も多く 引用せられたのは、鈴外二五九の﹁波木井殿御芥﹂の一O
回 、 一五の﹁佐渡御勘気抄﹂の九回、六五 の﹁種々御振舞抄﹂の七回、 一四の﹁妙法尼御返事﹂の四同等である。他は概ね一回或は二四位宛で あ る o 此の外﹁或記云﹂ごいふ中には、中山の本成 H 貨の﹁宗旨名目﹂が四回ばかり引用されてい泊る。 執れにもせよ﹁化導記﹂の引誼を以τ
、ト録内一九日地乞数へるが、此の中朝附録内故本中一
一
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四 一 五 、 二 五 、 日 ↓ r k、
n v p 苧 , 〆 五 二 一 、一
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入 、 一 四 八 、 の八過の存在は確買であるのである。 御遺文蒐集史上に於けるよ古三嬰 ノ、 丸御遺文蒐集出品ょに於ける上古三嬰 七 0 . 』− J
、
今上越の﹁朝師見聞﹂並に寸化導記一に依て、朝師銭内木中の欠本の散逸を誼したが、更に緑内一 四八泊中の、朝惇雨附緑内依本砂二七辿と、上述二書判明分に就て、比較同表すれば左の如くである。 銭内欠本 見 聞 化導記 書 名 安岡論O
調目紗 コ開先・寺叶ゆ子’
144 よ ロ H4 以 四 四 四O
報思紗五
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本隼紗.
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法華取要紗七
本 骨 骨 問 先 日 紗 九 九O
題目紗。
同日回選出ヴ M H r ι ・ 百 園 内 , ん 叶 川一
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願誘法紗−︵俸制補充︶ 二 四 二 五
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入 七一
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二 八 四 二通とす 御益支蒐集史上に於けるよ古三翠 一 代 大 意 秒 四 妙法尼紗 五 佐渡御勘気紗 線勘文紗 九 法蓮妙O
十法界秒 四 保 金 五 日 許 御 書 四 信 五 日 m 紗 二 五O
行者値難紗 有抑弘正法事 諸艇法華難易O
身延山御書 四 0 中興紗 月水紗 セ御泣文蒐集史上に於ける上古一一一嬰 四 八 四 九 ー ハ 俸 仰 仰 ぎ 』皐~ ノ、 六 四 七 七 --L.. ノ、 六 七 七 七 [lLJ 八
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日妙御書 千日尼紗 五 阿備房紗 五 光日房紗 五 九 車 一 人 御 難 事 コ 一 目 立 妻 子 少 r ‘ 、 A M − − 一 別 品 川 ド 4 1 戸 よ 砂 本隼供養紗 六 五 和 L f 振舞抄 敢機時岡紗 七。
一昨日御芥 下山紗 諌暁八幡紗 関悌未来記 八 頼基陳朕八
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四 九 六 九 八一
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ー﹁侮附補充︶一
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補充︶一一一四 一四O
四 御 泣 文 蒐 集 史 上 に 於 け る 上 古 一 一 一 聖 八 五 宿屋入選許御書 太田殿許御書 阿備房御消息 慈 畳 大 師 事 ︵ 醐 却 ︶ 大事三郎殿御書 上野鈴 薬 王 日 間 得 意 紗一
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清南寺大衆中一
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八 波木井殿御報 運滅無常紗 一 一 九 一谷入道御書 十二因縁紗 兵衛志御返事 本隼得意紗 七御法文蒐集見ょに於ける上古三翠 −と 凶 一 四 三 具体同心事 ーハ俸制柿き 一 四 五 四思紗 一 四 六 新地紗 許 二 九 ︵ 得 席 補 充 五 週 二 二 九 右の如︿三類合して五五通、その中二九遁欠本中﹁見聞﹂並に﹁化準記﹂に依て、正しく存在せ b と 断定し得るもの二、三、 四、五、六、九、一二、二五、三入、四八、六三の一一通であるが、他の扶 本、二四、三一、三二、四九、六四、七一、七一二、八九、九四、九六、九八‘
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三 、一
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一 四 一 、 一 四 三 、 一四六の一八遁も存在したことは、粗ぽ認定し得る所である。 而して乙れらの依本は、 果して何防散逸したかは勿論不明であるが、 前にも遮ぺた如︿身延暦代 中、上古の朝意惇三師を以て御書の蒐集寓僻時代とすれば、 次の中古の重遼乾三師は、 苅計時代仁 属し、殊比一妙重師は、夙に組書五大教の校訂に意を用。、晩年とれを法資乾建二師仁遺命し、文蔽 四 年 翠 寂 三 一 即 日 三月粗校訂を了したが、後慶長七年身延入山の折、更に﹁安園﹂ ﹁ 関 目 ﹂ ﹁ 撰 時 ﹂ ﹁ 報 恩﹂等の異蹟を針照し、建帥と議って五大部外四篇の、所謂﹁慶長松﹂百部摺なるものを始めて刊行 したのであるから。或は此の折参照資料として、紛失したかにも思はれるのである。斯くして録内本は央第に散逸して、絡にニ九逼の多主に至ったのであらう。 斯の如く身延門流に於ては、行皐朝附の時に既に録内の完本があり、果して我等が推断した如く‘ 惇師の補欠が朝師の御在世中、銀内の完壁を期するにあったとすれば、御書の蒐集寓惇時代に、身延 には既に朝師の時に、 完全なる鎌内本があったとレふべ
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で あ る 。 然らば録外に於τ
は如何といふ 氏、肢は述ぺた如く、朝師の録内本中に一六遁の銭外が鼠入し、 一通の重本があったが、惇附補欠本 中に録外が一遁あった故、矢張一六通の録外の混入した乙とは明かである。殊に﹁朝師見開﹂に就て 見れば、朝師は濁b
録 内 の み な ら ず 、 録外分にまで及ばれた,﹄とは明かである。 期、る点から見れ ば、朝師は緑内外に脅して、二様の取扱をなされなかったことが知られる。 七 然らば朝師の録外本は、前掲の十六通のみかごいふに、朝抑蒐集の録外は原本三十四舟。島師は十 舟に合本したが、その中に牧むる御書・は、録外二五九遁中貨に一OC
遁を数へたのである。今その蒐 集の内容に就で見るに 第 港 一 七 六 、 八 七 . λ 入 、 一 ︵ ︸ 五 、 一 ︵ ︸ λ 、 一 O 七.六回、九一、八九、五五.一口一、四八、一六、一 00 . ニ ニ 三 、 一 八 、 ニ ニ 四 、 御遺文葉集史上に於ける上官=一理 七 五第 二 巻 第 三 港 第 四 倉 第 五 巻 第 六 港 第 七 巻 第 八 巻 第 九 巻 第 十 巻 御注文蒐集史上に於ける上古三塁 六 九 、 ・ 2 、 一 一 一 王 、 七 回 、 一 品 、 一 O 二 、 満 品 川 六 基 一 、 丘 、 四 Jハ 、 一 七 二 、 内 合 、 九 九 、 一 七 七 、 一 実 、 一 一 一 一 五 、 ニ 五 回 、 内 一 三 、 ニ 晶 、 富 士 銀 一 丹 、 一 七 一 、 一 五 、 三 七 、 新 加 、 鱒 集 下 六 、 七 九 、 九 口 、 一 一 一 七 、 一 一 西 、 一 一 一 一 回 、 = 豆 、 ニ ︵ ︶ 、 以 上 合 計 一
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逼であるが、此の中仁は重本が二通即も一三五、 御書がある。 一 三 五 、 八 ニ 、 一 室 ハ 、 四 三 、 一 九 五 、 一 四 、 回 、 ニ 四 一 、 ニ 五 九 、 ニ ニ 七 、 七 一 一 一 、一
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他受ニノ大 一 五 五 、 一 七 回 、一
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三 八 、 内 号 、 E豆 外 一 九 0 . 一 式 ︵ ︺ 、 一 口 五 、 一 三 五 、 一 五 一 一 、 九 五 、 延 外 官 一 九 . 内 一 三 、 七 五 、 ニ 五 九 、 一 一 一 八 、 ニ 四 八 、 八 、 一 コ 一 六 、 一 八 ︷ ︺ 、 ・ 5 L 、ー
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一 − ︿ 八 、 七 六 一 口 、 四 七 ‘ 一 六 回 、 歪 、 四 九 、 内 一 O コ 一 、 孟 へ 一O 九 、 一 一 0 . 内 一 四 一 一 一 、 一 九 、 二五一その他録内を初め他の七類の銑内本 身延録外 他受用 績 集 本 一 澗 寺 録 外
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JjU 富士銭外 二二、三O
、三二、八O
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一 四 三 、 ﹁ 八 幡 遺 管 事 ﹂ 績 七 八 ﹁ 二 乗 作 備 事 ﹂ 緩 一 O 一 ﹁諸法貫相事﹂二六 ﹁宮本殿御返事﹂下 J ハ 。 ハ 八 三 五 ﹀ ﹁ 伯 香 房 御 許 ﹂ 満 外 大 ハ ニ O 九 四 ︶ ﹁ 如 H 妙房御書﹂ニ O 一 六 ﹁ 九 神 事 ﹂ 付 熔 序 とれ等七類合して一五通まるが、今その中の録内本六過に就て見るに、 の三通 八O
︵ 億 本 第 五 ﹂ 二 二 ︵ 朝 本 第 八 ︶ ニO
︵ 会 上 第 六 ﹂ の三本は.朝惇二師の録内にある故に重本であるが、三二、一
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三 、 一 四 三 、 は朝師本の類まで、停師本にもない分である故に、録内一四八遁中先述一二O
遁の不足は左の二六日過ご なるのである。 二了二、四、五、六、九、・:、二四、 一 四 六 、 二五、ミ:三八、四八、四九.六一二、 六四、七一、七三、 入九、九四、九六、九八、一
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、 一 四 一 、 而して今板本録外以外の諸本に就て見るに、身延録外の二本の中、 ﹁八幡造替の事﹂の奥書には 御 遺 文 蒐 集 奥 上 に 於 げ る 上 古 三 嬰 七 七御遺文蒐集史上に於けるよ古三禦 4ゴ /i
、
本 云 以 = 日 英 所 持 本 一 寓 ν之、此御直筆鎌倉向問中法耕堂に有 ν之贋物持也。今は中山に有之也。 と蒐集事情を書し、新加の﹁智妙房御返事・﹂には﹁本云以コ御筆一奉寓之宮本殿へ﹂と記し、 富士録 外には﹁御白筆富士有之﹂との奥井がある。市して是等七通は、何れも板本銭外以外のものである。 故に板本銭外としては、 一0
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通 よ b 録内等一三通併に重本二泊を除いた八五迅で、銭外二五九遁に 不足する乙と一七四通である。 然るに前述の如く録内本の中氏、混入した録外の 一六、四五、五回、六一、七九、八O
、八三、九0
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一 回 二 、 二O
二 、 二 三 四 、 の 一 五 過 と 、 侍 師 録 内 、 品 入 の 銭 外 二 三 六 の 一 過 ご 、 都 合 一 六 日 辿 あ る が 、 と の 中 、 一六、七九、九O
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一、並仁惇師本の二三六の五通は重本故に之を除き、四五、五四、六一、八O
、 入 三 、一
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一 一 一 一 ↓ 、 一 四 一 つ 二O
二 、 二 三 四 、 の一一地は、正しく銭外蒐集本として費ふべきである故 仁、朝師蒐集の録外は、八五通と今の一一通即ち九六通ゐったのである。それに板本外の七地と加ム れ ば 、 計 一O
三過となるのでゐる。 此の外身延文庫仁は意同蒐集の録外日銀がある。然るにそれに就て遮ぶる前に一言すイき乙ごがゐる。外ではないが昨年本誌に﹁身延の御真蹟に就
τ
﹂通 J べたが、この折に身延歴代の目録中朝師の霊 賓目録に就ては散逸と述 J べたが、意師仁就ては何等述ぺなかった。貨は本年御遠忌に貰物館仁、霊賓 出品の折意師の目録が接見されたとの事で、七月末い盛山の折拝することが出来たのである。今その 内 容 に ・ 成 ℃ 一 言 す れ ば 、 一部は﹁御筆御書誌文﹄ ﹃ 銭 外 御 弁 註 文 ﹄ ﹃台家謡歌誌文﹄の三部よb
成り 且っその奥書仁は 此 一 m 加者於ご梅平敬同房古型敬中一、不意求ニ得之二雄 ν爾官山永々の重賓故、納一一世文庫一者也 寛永十六年巳酉二月十五日 容 長 日 豊 。 と 記3
れて居るが、此の記事に就ても見て一度紛失したのである。 克仁三部の内容に就て見れば、 ﹁御筆御書誌文﹂には巻物升ごして、録内分廿港︵他筆にて﹃﹁安岡 論 ﹂ コ代五時之岡﹂二審 ﹁地引之御井﹂﹁治病抄﹂不足﹄ごあ b ︶、録外の舟としては、﹁ h 眼女御 者 L-﹁ 天 接 地 天 井 ﹂ ﹁ 光 け 上 人 御 井 ﹂ ﹁妙心尼御前御返事﹂の六油彩﹂奉げ、更に要文、諾文類来等御 異蹟二十余港、計巻物六十血栓ど記し。衣で御筆双紙の分としτ
、御井並に要文等制異蹟計小綴百五帳 大綴五十帳を記し。奥者に 私云 H 疋は大事之黒箱の外の御筆の数共也。 此外に箱一の巾の御筆敷上件之敷物以下之内不 ν 人 ν之 御泣文蒐築史上に於げる上官三禦 七 九御遺文蒐集史ょに於ける上古三車 i¥. 0 也 。 云 一 冨 ム︸記されて居るが、御真蹟等に闘する内容の研究は、且く他の折を期するとして。以下意附の﹁録外 御者註文﹂に依て、立師蒐集の御存に就て研究することにする。
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意師蒐集の録外に就ては、 ﹁録外御弁詑文﹂に掛﹁る所九七過でゐる。 ﹁註文﹂の本文は九六と敷 へ る が 、 ﹁日朗訓告人御井﹂二通これは﹁士舘御咋﹂さ﹁五人士舘御井﹂さである。外に﹁捕源太入道 御守﹂二通とあるが、 ﹁註文﹂に十通宛数ふる時、それを一通と数へて居るのである、故に貨は九七 過である。尚ほそれに就て一言すべきは、嶋師が前引録内本の初に 右細目及異寓銭外目録は、十二世意師部、意師異筆御筆御御拝詑文にあり牲見 右原本畑教は明治四十三年調査の際現在品に依る、異筆目録も録外の方は、意師の拘あるを以て、 原本数と現在教との封然を得れどち一再云 とあるが、意師の﹁銭外詰文﹂に就て足るに、標題の下に﹁日意所持停﹂と明記してあb
、 最 末 に ﹁ 久 謹寺常住﹂とある故に、身延録外中には意師の時代には、意師の所持本と久蓮寺常住との二種があb
﹁久遠寺常住﹂といふのが、恐ら︿今けの朝師蒐集本であって、此の外に意同所持の舟があったのであ る。而して意附の券は目録のみ宙めて、貨物は現存せぬ様である。故に嶋師が﹁異筆同銀本録外の方﹂云 々は諜で、現在朝師銭外本と、 立師目録本ごは勿論幾多の重本はあるが、 全然別本でゐったのであ る
。
今意附の﹁録外御者註文﹂に就て見る仁、これ意師の﹁録外目録﹂であって、 丁度宇頃すでは一通 或 は 数 週 を 以 て 帖 を 品 川 つτ
あるが、ぞれも十帖までは敷へられるが、以下は帖を舟って居らぬ故、何 帖であったか不明である。唯その内容に就て段、九七遁中前の朝附の場合と同じく、銭外の板本以外 に左の五種を混じて居る。 録 内 二 二 、 四O
、四八、五二、五八、一
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八 、 』.... f、
重 本 七ω
、
一 三 八 、 一 六 九 、 一七九、二一九 五 績集本 ﹁ 強 仁 蹴 ﹂ ︵ 中 三 一 ︶ 他受用本 ﹁ 待 従 殿 御 消 息 ﹂ 一 四 八 異本銭外 ﹁ 二 季 彼 岸 事 ﹂ 詫 に ﹃ 上 と 別 な り ﹄ と あ リ 異 本 か 故に銭外板本に封して、意師蒐集の R 7 はとれ等一四遁を除いた八四通である。 御 遺 文 蒐 集 史 上 に 於 け る 上 吉 一 − 一 週 一 F、
御法文蒐集見ょに於ける上古三翠 Y、丸 而 し て 今 先 づ 混 入 の 鍛 内 に 就 て 見 る に 、 上 掲 の 通 六 中 四 八 の ﹁ 日 妙 四 一 一 人 御 咋 ﹂ 融 市 訟 発 添 書 、 八 五 九 を 除 い ては、執れも朝師録内本の重本となるのである。此外録外の重本に就て見るに、録外本の内に録内或 は同一銭外の断片が、別御書として数へらるもの、二五九遁中三四遁の多
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に及んで居る如く、銀内 銭外の断片にして﹁他受用﹂中に、別者として掲げらるべ主ものあるも営然である。今の意附録外中 単に﹁御者﹂三ある一本があるが、これ恐らく他受用の﹁行者備天守護抄﹂︵五二︶ で、それはまだ録 外の一六九番の﹁議量品得意抄﹂︵一五二︶の連文であらう、故に今は﹁得意抄﹂の重本と見たが、 とれとて録外﹁開目抄﹂の断片でめるから、叉録内に封すれば又重本となるのである。斯る事貨は御 者蒐集時代には、勿論ゐるべき事貨で叉相等にあったのである。日疋等は御遺文編集史上問題として、 他日を期する所である。故に今は且らく刊行準備時代に属する故に.録内外の板本を中心三して、研 究を港めるのか便宜である。更に今の重本の中に意師銭外の﹁悪世明鏡抄﹂ごいふのがあるが、 乙れは 矢張問録に前に﹁法華真言勝劣奥﹂とあったものである。これもその貫録内﹁新橋抄﹂の連文で、此 部分は恐らく叉録外に﹁異言宗行調伏秘法還著於本入者﹂︵六二六︶といふ題目で、掲げられてあるも のである。斯の如く断片の断文の相違から、別書と思はれたものも多︿あったのであらう。此の他に は﹃績集﹄の﹁強仁献﹂︵中三一︶と、﹁他受用﹄の﹁待従殿御消息﹂︵三一二︶と、異本録外とした﹁二季彼岸事﹂とであるが、﹁彼岸事﹂には﹁上さ別本なり﹂と註してある点は、恐らくは録外一七六番 の ﹁ 彼 岸 抄 ﹂ ︵ 一 五 三 八 ﹀ の異本と見るべきであらう。故に上掲五種の異本の中では、先づ銭外重本の 五通と、録内混入の六通と、その他的三遁を除いた、八三通が、意附蒐集の録外板本舟の御書である が、若し意師の蒐集御書ごすれば、 之の外に録内の四入が一通、 ﹁ 強 仁 扶 ﹂ ﹁待従殿御消息﹂の二通 を加へた八九通であるが、銭外舟は正しく八九一過となるのである。 意附の蒐集舟は右の如︿八三或は八五通であるが、最後にこれを朝附蒐集の九八或は一
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五過と封 照すれば、此に身延上古三事蒐集の録外が判明する諜である。市し℃これに依て白然前に遁ぺた、嶋 師の所謂﹁意師の控﹂なb
や否やる剣明するのである。それに就ては蒐集金銭外の八八通及び一O
五 遁の封照でなく、八四遁及び九八通の銭外板本分を中心とするのが便宜である。先づ雨師蒐集の板本 で銭外の重本営調査すれば、 五 、 一 六 、 一 吉 開 . 一 一 一 月 、 一 一 一 八 、 五 ム 、 六 回 、 六 九 、 七 一 一 一 、 七 回 、 七 ム 、 八 八 、 九 一 一 、 一 ︵ ︺ 一 、 一 oi 、 一 一 ︺ 九 、 一 一 ︵ ︶ 、 : 乙 、一
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一 二 七 . 一 コ 一 回 、 一 古 玉 、 一 三 一 ハ 、 一 一 一 一 八 、 一 一 一 一 九 、 一 六 口 、 一 六 八 、 一 七 一 、 一 七 回 、 一 七 日 、 一 七 七 、 一 九 ︵ ︺ 、 一 九 五 、 ニ ︵ ︺ 羊 、 − a L 二 、 二 L λ 、 一 也 、 一 軍 四 、 ニ 五 九 、 の 計 四O
遁である。而して意師が新に蒐集せられたものは、前述八三活よ h 右の四わ辺を減じた、左 御持品文蒐築史上に於ける上古三禦 F、
御法文蒐集奥ょに於ける上古三翠 i¥. 凶 の四三通である 一 、 二 、 六 、 七 、 一 一 、 ニ 回 、 ニ 五 、 ニ 六 、 ニ λ 、 三 ︵ ︺ 、 一 三 、 一 一 一 屯 、 四 一 、 六 八 、 七 口 、 八 五 、 九 八 、 一 一 回 . 一 一 也 、 一 一 一 八 . 一 一 完 、 一 一 一 己 、 一 コ 一 三 、 一 一 千 也 、 一 五 ︵ ︺ 、 一 五 一 、 − 式 一 一 、 一 六 九 、 一 七 九 、 一 八 二 、 一 八 回 、 − 八 九 、 一 九 三 、 一 九 回 、 一 九 六 、 一 九 七 、 一 九 八 、 ニ 一 二 、 二 五 、 三 六 、 ニ 一 九 、 ・ 4 2 二 、 ニ 四 九 、 の 諸 抄 で あ る 。 更に録外板本中朝帥の蒐集に拘はる、九六通 ︵此の中には朝師録内本混入の一五通分も這入て居 る︶とは、意師蒐集と重本をなす分と、その他民 一 ニ 、 四 、 一 口 、 三 一 、 一 回 、 一 五 、 一 入 、 一 九 、 ニ ︵ ︶ 、 一 一 一 三 、 一 一 豆 、 一 一 五 、 四 コ 一 、 ﹁ 回 忌 ﹂ 、 四 六 、 四 七 、 四 入 、 四 九 、 ﹁ 武 四 ﹂ 、 ﹁ 六 一 ﹂ 、 六 五 、 ﹁ 入 。 ﹂ 、 八 一 一 、 ﹁ 八 三 ﹂ 、 八 七 、 八 九 、 九 一 、 九 九 、 一CO 、 一 ︹ ︶ − 一 、 ﹁ 一 O 六 L 、
一
O 七 、 一 口 八 、 ﹁ 一 二 一 ﹂ 、 ﹁ 一 二 ニ ﹂ 、 ﹁ 一 四 一 ﹂ 、 一 五 一 一 、 一 五 五 、 =に、
一 六 回 、 一 六 六 、 一 七 一 、 一 入 。 、 ﹁ ニ C ニ ﹂ ‘ 三 コ 一 、 三 七 、 壬 一 コ 一 、 ニ 二 回 、 ﹁ 云 一 四 ﹂ ‘ ニ コ 一 五 、 ニ 四 一 、 ニ 四 八 二 一 品 一 、 孟 一 、 ニ 毛 、 二 五 λ、
の計五六過を 加 へ た も の で 、 朝師蒐集の録外は計九六過となるのでゐる o 随って意師蒐集の舟は八 通 よ り ‘ 重本の四O
通 乞 削 除 し た 、 前掲の四三週といふぺきで、 所謂上古三連蒐集の録外は、 抜本舟が八三一過ご四三通計一二六地で、録外二五九遁中一三三遁の不足がある。その他の録外本としては朝師の七過と、意師の二一過を令して九遁ゐる故に、総して銭外本ごしては、三事時代に一三五通 を蒐集したととになるのである。 九 上棋の記述乞要約するに、御遺文蒐集史上に於げる上古三型の功績は、録内に於ては蒐集完成せら れて、所謂寓惇時代であって、殊に朝削に於ては、衣の刊行時代への準備が完成された様であった。 然るに銭外に於ては正しく蒐集時代に属し、且っその大宇が蒐集せられて、衣第に完成へ向ひっ、ぁ ったが、三連蒐集の御喜に就て見れば、刊行の録外二五九過には.前にも越ぺた如く、三四通の録内 外の断片が蒐集せられた重本があり、且つ凶
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余遁の真偽未決或は後人の偽作が混入せられて居るの である。然るに三山陣営時は勿論諸山が異践を深︿珍賦して、今日の如く容易に他見を許さなかった故 に、各断片に題鋭を付して蒐集せるれた事買は、上掲の三事の目録にもあったのである。然るに後世 苅行せられた録外の如く、 一二六通中﹁彼岸抄﹂等僅に敷地仁留った乙とは、勿論三型の鑑識に侯つ たのであるが恐ら︿嘗時が誌書流行時代に属して‘未だ蒐集の一地に至らなかったとも思はれる。 軌れにもせよ朝師蒐集の現在の録外本は、法資俸制の蒐集と令して、朝附舟八七地、惇師楠畝 n T 三 御遺文蒐築史上に於げる上古三車 八五御注文蒐集史上に於けるよ古三禦 八 六 三通と‘克仁朝師銭外混入の升三逼ご、計一二三遁で録内一四八に到して 二六通の快本がゐるが、 院に述ぺた如︿﹁見聞﹂の所依二五通︵﹁題目捕陀名競勝劣事﹂ぞ別問せぎる故.別関すれば二六通と なる︶中仁、録内故本舟が一