はじめに
国分一太郎(1911∼1985)は,1930年代にお いて生活綴方教育実践と生活綴方教育運動に関わ りをもった人物である. その国分は,戦後においては,その著書『新し い綴方教室』(日本評論社,1951年)等を通して 戦前の生活綴方教育の紹介や生活綴方教育の復興 に尽力した. 国分の戦前のあゆみを振り返ると,1930年に 山形県において小学校教員となって以降,次第に 生活綴方教育にかかわりはじめて,1932年から は学級文集『もんぺ』の指導者として,1935年 からは学級文集『もんぺの弟』の指導者として, 生活綴方教育関係者のなかでは著名な実践家の一 人となった.ところが,1936年から1939年にか けての時期においては,率先して生活綴方教育批 判を展開している. * たろうら しん 文教大学教育学部心理教育課程 本論文は,なぜ国分が生活綴方教育批判の立場 に転じたのか,生活綴方教育批判の理由は何で あったのかを検討するものである.このことを通 して,国分が戦後に復興しようとしたものは何で あったのかということの示唆を得たい.第 1 章 国分による戦前生活綴方教育の紹介
前述のように,国分は,戦前生活綴方教育関係 者の一人であり,戦後において戦前生活綴方教育 の紹介をした代表的な人物である.その紹介にあ たって,一般的にみても紹介者の生活綴方教育観 が反映することは当然のことであるが,国分の場 合は,紹介にあたって取捨選択をおこなっている ことを自らが明らかにしている. 第 1 節 プロレタリア文学等の影響を除外 国分は,1950年代の生活綴方教育復興期にお いて村山俊太郎の戦前の一部の論文を意識的に紹 介しなかったものがあるとして,1974年に次の ように述べたことがある.―
1936
年から
1939
年における―
太郎良 信
*An Examination on the Criticism of Seikatsu-Tsuzurikata
Education by Ichitaro Kokubun
Shin TAROURA
要旨 国分一太郎は1930年代において生活綴方教育実践と生活綴方教育運動に関わりをもった人物で ある.1935年までは生活綴方教育の実践家の一人であり,綴方による生活勉強の実践を展開していた. ところが,1936年以降は生活綴方教育批判の立場に転じ,綴方教育を文字表現指導に限定するととも に,生活綴方教師たちには地域における啓蒙者として活動することを呼びかけることとなった.国分は, 生活綴方教育とは別に,教育労働組合運動への参加を理由に検挙された前歴があったため,その教育活 動に対して視学等の監視や干渉があった.生活綴方教育に対する国分の姿勢の変化は,戦時体制の進行 にともなって監視や干渉が強化されたことに起因している可能性がある. キーワード:国分一太郎 生活綴方教育 生活勉強 文化勉強 文章表現技術指導「1950年代のはじめ,生活綴方運動が復興し たとき,筆者は,村山俊太郎氏の上にみたよ うな文学の側により接近した形の前記『新し い文学と綴方教育』(『綴方生活』1936年4月 号―引用者)『綴方と文学の包合』(『工程』 1936年1月号―引用者)『「生き方」に於け る 芸 術 性 と 環 境 性 』(『 教 育・ 国 語 教 育 』 1936年4月号―引用者)などにのこされた 考え方を,できるだけ紹介しないこととし た.したがって1957年山形児童文化研究会 が,村山俊太郎遺稿集『北方のともしび』を つくるときにも,紙数の関係からとはいえ, これらの論文を,わざと収録しないでおい た1)」 以上の引用文中に付記した初出の年月でうかが えるように,1936年の1月と4月に公表された3 本の村山論文は国分によって意識的に紹介されな かったということとなる.その理由は,国分によ れば次のような点にあるという. 「そのわけは,あの当時のプロレタリア文学運 動やその理論のあやまちや未熟さを,敗戦後 は再検討する時期にあったこと,生活綴方を 復活するのには,『文学』と近づけては運動 の上で不利であると考えられたこと,敗戦後 石森延男氏ら文学趣味派の作文教育運動が官 側によりそってではじめており,それらとの まぎれを恐れたこと,『生活組織』『集団主義』 といったものは,わたくしたちが生活綴方運 動かいめつの前に反省していたように,自然 科学や社会科学などとしっかり結びつく正し い教科の教育を興隆させて,『ひとりの喜び がみんなのよろこびであり,ひとりの悲しみ がみんなの悲しみとなるような知性』を形成 しなければならぬこと,また子どもたちの自 主的集団的創造的自主活動に依拠して集団的 な訓練をなすべきこと,すべてを綴方にまか せてはいけないと思ったことなどによるので あった2)」 ここにおいて,国分は,戦後の作文教育をめぐ る状況をも挙げているが,戦前の生活綴方教育の 問題に起因することとして挙げているのは,プロ レタリア文学運動と理論には再検討すべき問題が 残されていたということである.「生活組織」や「集 団主義」の問題も国分においてはプロレタリア文 学理論との関係でとらえられている. さらに,村山の論文「『生き方』に於ける芸術 性と環境性」(前出)について,次のように説明 している. 「村山氏が前記の『「生き方」に於ける芸術性 と環境性』という論文を『教育・国語教育』 の四月号に書いたと同じ年の同誌新年号に入 江道雄氏(当時の筆名は入江道夫―引用者) がかいた『芸術科学と綴方理論』(正しくは「芸 術科学と綴り方理論(続)―調べる綴方理 論と其の批判者の批判」―引用者)をひき あいにだすのがよい.村山氏が二月一九日に 上記論文を脱稿したとき,同氏はこれを,す でによんでいたのだし,じつは村山氏と筆者 (国分)とのあいだでも,その公式主義を話 題にしたのだった3)」 ここには,村山論文より前に入江論文があった こと,入江論文の「公式主義」を村山と国分が話 題にしたことが示されている.国分が「公式主 義」というとき,入江論文が蔵原惟人の論文「生 活組織としての芸術と無産階級」(『戦旗』1928 年4月号)に学んだものとみられるものであると いうことによる.そして,蔵原論文に学んだとい う点においては村山論文も入江論文と同様と,国 分はみる. 「『生活組織』ということばと,『生活認識』と いうことばは,入江氏のばあいは当時の芸術 科学=プロレタリア芸術論にまなんで,より 直接的・公式的に,村山氏のばあいは実際の 生活つづりかたのしごとに即して,より教育 論的に,との差はあるが,ともに蔵原氏の紹 介・主張から学んだことは,ほぼ断定してよ いであろう4)」 したがって,国分において,入江論文と村山論
文との評価には若干の相違があるものの,蔵原論 文を学んだとみられる村山の論文「『生き方』に 於ける芸術性と環境性」(前出)も戦後において 紹介したくないものということになるのである. そして国分は,入江論文の「公式主義」を村山 と話題にしたことがあるとすることにかかわっ て,自らのことを次のように補足している. 「このことについては,筆者も『文壇的批評と 教壇的批評』という論文を1936年10月号の 『教育・国語教育』に書いている.これは『な んでもよいからかいてくれ』とたのまれ,た ぶん6月ごろに送稿したのだったが,編集者 である入江氏(入江道雄―引用者)がなか なかのせてくれず,10月号までにその掲載 がのびた5)」 国分によれば,国分の論文「文壇的批評と教壇 的批評」(『教育・国語教育』1936年10月号)は, プロレタリア文学論やプロレタリア芸術論に影響 された入江論文や村山論文への批判意識のもとで 書かれたものということとなる. その国分論文で主張されたことの詳細について は,本論文においてのちに検討する. 第 2 節 文章表現技術の指導に絞る主張の背景 国分は,1936年から1937年にかけて生じて来 た生活綴方教育の動向として,1952年の時点で 次のように回想している. 「生活綴方の実践家たちのある部分(わたしや 寒川道夫君,平野婦美子さん,村山俊太郎氏 はそのいちじるしい例)が,昭和十一年の終 りから十二年にかけていい出した『国語科の 中の綴り方は素朴に文章表現技術の指導の教 育にせよ』との論は,あながち,そろそろき ざしかけた生活綴方への当局の弾圧をおそれ たのだとはいえないだろう(当時鈴木道太君 や北海道の坂本亮人君は,わたしを非難した 論文をかいたように思う).むしろ,わたし は,自治活動のあいだや,各教科においてこ そ,生活綴方でとったようなものごとの具象 的把握の方法を重視したかったのだ.『文筆4 4 活動4 4』の指導を強調したのもそのためであっ た6) 」」 これは,国分の論文でいえば,「文壇的批評と 教壇的批評」(前出),「自己に鞭打つの書」(『教育・ 国語教育』1936年12月号)や「『綴方教師として の悩み』について」(『綴方生活』1937年1月号) 等にみられる動向のことである.そして,こうし た考え方に至った理由は,かならずしも生活綴方 教育への弾圧を回避しようとしたためではないと いう説明である. ただし,別の説明もある.国分は1984年の回 想においては,「『綴方教師としての悩み』につい て」(前出)を例にとりながら,次のように述べ ている. 「Ⅲのところの後半でのべたようなてんまつを 知るひとは,この巻の最後の方にのっている 文章のうち,『綴方教師としての悩み』に 『明治大帝』といった語を用いたり,中国で の作文教育に関したホンヤクを,わたくしが したりして,もっぱら文章表現の力を,子ど もたちの文化的技術として授けるようにした いと書いたりしたわけは,すこしく推しがき くのであろう.はじまりかかった弾圧に,わ たくしたち(これには村山俊太郎氏も含む) は,すこしく転向し,また,意識的なとうか4 4 4 い 4 をなしはじめていたのである7)」 国分は,このように,「『綴方教師としての悩 み』について」(前出)が,「転向」や「とうかい (倒潰)」によるものであることを認めている. つまり,国分は,文章表現技術の指導に絞る主 張の背景について,かならずしも生活綴方教育へ の弾圧を避けようとしたわけではないというもの と,弾圧を予想して「転向」「倒潰」しはじめた ことによるものという二通りの説明を示している ということとなる. そして,二通りのうちのいずれの説明であって も,「『綴方教師としての悩み』について」等が弾 圧を回避しようとしたものか否かという問題が, 当該論文の筆者である国分から提起されていると
いうことである.
第 2 章
「生活勉強」と「文化勉強」
― 1935 年頃における国分の生活綴
方教育論
すでに言及したように,国分は,1936年から 文章表現技術の指導に絞るということを主張して いる. それより前の国分の生活綴方教育論はどのよう なものであったのかについて,1935年頃の「生 活勉強」としての綴方教育論をみておくこととす る. 第 1 節 「生活勉強」の主張 国分は,自らの生活綴方教育を語る際に,次の ように「文化勉強」と「生活勉強」という語を用 いて,それぞれの意味を確認している. 「僕達は子供達によい生活態度,生活方法の発 見をさせたい.所が今までの教育は,既成の 文化 4 4 勉強によつてばかりそれを行つた.(中 略)所が生活は観念で働くよりも,ぐんぐん と生活で働いてゐた.だから僕達は観念の堆 積によつては生活方法も生活態度も建設して 行けなくなつて来た.(中略)文化 4 4 勉強によ つて新しい生活の道を発見することはでき る.(中略)けれどそればかりでは足りない. 生活の現実に僕達は学ばねばならない.生活 の現実を行かねばならない.生活勉強 4 4 4 4 だ.生 活の具象を勉強して行くのだ.綴方を一つの 生活方法として用ひさせるのはこゝだ8)」 国分は,「生活勉強」の意味を説く際に,従来 の教育が「文化勉強」のみであったということを 批判しているのであり,「文化勉強」が不要であ るとか,否定すべきであるなどとみているもので はなく,あくまでも「文化勉強」だけでは不十分 であるということを主張しているのである. そして,綴方に着目して,「『生活を描かせる綴 方』から『生活を勉強する綴方』へ進む9)」とし て,綴方を「生活勉強」の手段として位置付けて いる. そして,「生活を勉強する綴方」について,子 どもたちには次のように説明している. 「綴方でする勉強は生活の勉強.村の子供らし い生活方法を覚へて行く勉強.村の生活者の 強い心を持つて行く勉強.村をよくする,国 をよくする勉強.そして一番しまひには,自 分達のよい考を,たゞ生活でばかりして行く 力を鍛へて行く勉強だ10)」 このように,綴方を「生活勉強」として位置付 けるとき,綴方教育は文章表現技術の指導にとど まるものではなかった. 「あくまでも綴方は単なる文化技術〈表現技法〉 として授けるのではなくて,生活方法とし て,武器として与へ,生活開拓の技術として 与へる時,綴方の生活指導の道は嶮しい乍ら も青い空をながめて行く事が出来るのであつ た11)」 第 2 節 「生活勉強」のための綴方指導系統案 こうした「生活勉強」を主張していた時期に, 国分は,論文「私の描く綴方指導系統案」(『国語 教育研究』第4巻第1号,1935年4月)を執筆し ている.そこにおいても,「生活勉強」の必要性 についてつぎのように述べている. 「子供の生活を大事にしてやる.『生活の教師』 になつてほしい.算術や読方や地理や国史や 修身や叱言ばかりでは,何としても『寂しく て―何んとなくほんとの仕事をしてゐない やうな気持』をもつてほしい.与へられた子 供をその子等の出来る程度には生活勉強をさ せてやる良心を持ちたい12)」 ここにおいても,国分は,算術等の各教科の存 在に言及しつつ,それらの教育ばかりでは教育と して不十分であることを述べているのであり,算 術等の各教科教育が不要であるとみているわけで はない.ここにおいては用語としては「文化勉強」 という語はみられないが,内容でみれば,算術等 の各教科による「文化勉強」だけでは不十分であ り,「生活勉強」も必要であるとするものである.そして,綴方で「生活勉強」をすすめるための試 案として小学校の尋常科1年生から高等科2年生 までの8年間を視野に入れた図表として「生活勉 強・綴方教室進行過程案(段階式の試み)」とい う綴方指導系統案を作成し,論文「私の描く綴方 指導系統案」において示したのである. その際,国分は,綴方指導系統案について次の ように述べる. 「A.従来の指導系統案―表現技術の上に造り あげた指導案 ―描かせるための指導 案. B.僕達のほしい系統案―生活探究の上に設 計されて 〈 〉 系統案―生活勉強のための綴 方指導案. 右のやうに『綴る方法』指導案であつたA に対して,綴方が生活開拓とか人間構成の武 器となつた近頃では,僕達が良心的な仕事を したくなればなるほど,Bを熱望するから, 新しい意欲は古きものへの不満となり,焦燥 となる13)」 つまり,国分は,「生活を追求し,深める指導 とそれを表現する事の指導をどこまでも密着さ せ,しかも生活こそ下部基底であると考へて」,「生 活探究のため」と「表現技術のため」の二つの面 をあわせもつ系統案をつくったこととなる14). このことからうかがえるように,国分が示した 図表「生活勉強・綴方教室進行過程案(段階式の 試み)」は,国分の「生活勉強」の綴方指導系統 案ということとなる. 第 3 節 具体的な綴方指導案 国分が論文「私の描く綴方指導系統案」におい て 図表「生活勉強・綴方教室進行過程案(段階 式の試み)」を公表した時期に,国分は,尋常4 年の綴方指導案を『実践国語教育』1935年4月号 か ら1年 間( た だ し,8月 号 の み は 休 載 ) に わ たって連載している.それらの連載記事を図表 「生活勉強・綴方教室進行過程案(段階式の試 み)」と照合してみることとする. ⃝1「尋四 四月の綴方指導案」(『実践国語教育』 1935年4月号) 指導題目は「ほんとの事を詳しく書く」で ある.これを「生活勉強・綴方教室進行過程 案」(以下「過程案」と略記)の階段5(尋常3・ 4年の後期あたり)と照合すると,「ほんとの こと」(「生活探究のため」の1段階)と「く はしく」(「表現技術のため」の1段階)に該 当する15) . ⃝2「尋四 五月の綴方指導案」(『実践国語教育』 1935年5月号) 指導題目は「遠足の詩から遠足の文へ」で ある.これを「過程案」の階段5と照合する と,「よい題」(「生活探究のため」の2段階) と「ひとつの事」(「表現技術のため」の3段階) に該当する16). ⃝3「尋四 綴方指導案」(『実践国語教育』1935 年6月号) 指導題目は「農繁休暇の生活反省」である. これを「過程案」の階段5と照合すると,「生 活反省」(「生活探究のため」の19段階)と「や うすでかけ」「会話をうつせ」(「表現技術のた め」の18・19段階)に該当する17). ⃝4「尋四 綴方指導案」(『実践国語教育』1935 年7月号) 指導題目は「『みんなの心』の綴方」である. これを「過程案」の階段5と照合すると,「み んなで生きる」(「生活探究のため」の20段階) と「やうすでかけ」「会話をうつせ」(「表現技 術のため」の18・19段階)に該当する18). ⃝5「尋四 綴方指導案」(『実践国語教育』1935 年9月号) 指導題目は「『稲刈る頃』の詩」である.こ れを「過程案」の階段5と照合すると,「生活 し方」(「生活探究のため」の21段階)と「や うすでかけ」「会話をうつせ」(「表現技術のた め」の18・19段階)に該当する19). ⃝6「尋四 綴方指導案」(『実践国語教育』1935 年10月号) 指導題目は「日曜日の手紙」である.これ
を「過程案」の階段5と照合すると,「ほんと のこと」(「生活探究のため」の1段階)と「く はしく」(「表現技術のため」の1段階)とに 該当する20) . ⃝7「生活をそだてる者の表現学―尋四綴方の力点 考察」(『実践国語教育』1935年11月号) この月は,綴方指導案としてでではなく, 論文の形で書かれている.そこにおいては, 表現学を批判しつつ,三つの「力点」を示し ている. 一つ目は,「生活の眼」である.これは,「過 程案」の階段5と照合すると,「生活の眼」(「生 活探究のため」の18段階)と一致する. 二つ目は,「題材を捉へる眼」である.これ は,「過程案」の階段5と照合すると,「調査・ 研究」(「生活探究のため」の17段階)に該当 する. 三つ目は,「現実で証明する表現」である. これを「過程案」の階段5と照合すると,「や うすでかけ」(「表現技術のため」の10段階) に該当する21). ⃝8「尋四綴方指導案」(『実践国語教育』1935年 12月号) 指導題目は「或る生活反省(私の修身)」で ある.これを「過程案」の階段5と照合する と,「生活反省」(「生活探究のため」の19段階) と,「心のコトバ(正しくは「心からのコトバ」 とみられる―引用者)」(「表現技術のため」の 9段階)に該当する22). ⃝9「尋四綴方指導案」(『実践国語教育』1936年1 月号) 指導題目は「物を生活関係の中に見る事の 指導(眼を深める)」である.これを「過程案」 の階段5と照合すると,「生活の眼」(「生活探 究のため」の18段階)と,「時・所・人」(「表 現技術のため」の7段階),「文のくみたて」 (「表現技術のため」の12段階)(「大事な所」 (「 表 現 技 術 の た め 」 の14段 階 ) に 該 当 す る23) . ⃝10「尋四綴方指導案」(『実践国語教育』1936年2 月号) 指導題目は,「冬の夜の新スケッチ法」であ る.これを「過程案」の階段5と照合すると, 「生活し方」(「生活探究のため」の21段階), 「絵のやうに」(「表現技術のため」の13段階) に該当する24). ⃝11「尋四綴方指導案」(『実践国語教育』1936年3 月号) 指導題目は,「今年の綴方勉強」である.こ れを「過程案」の階段5と照合すると,「生活 し方」(「生活探究のため」の21段階),「文の くみたて」(「表現技術のため」の12段階)に 該当する25). 以上のように1935年度に1年間にわたって雑 誌連載の形で示された綴方指導案をみると,国分 は1935年4月に公表した「私の描く綴方指導系 統案」において示した図表「生活勉強・綴方教室 進行過程案(段階式の試み)」に基づいて,各月 の指導案を執筆していることがわかる. したがって,国分は,1935年4月の「私の描く 綴方指導系統案」に示された課題意識を少なくと も雑誌連載の上では1936年3月まで持続してい たとみてよいであろう.
第 3 章 1935 年末以降における国分への監
視の強化
国分は,前述のように1930年に山形県の小学 校教員となった.1931年11月に山形県教育労働 組合が結成された際に,村山俊太郎に誘われて参 加した.翌年の1932年3月に,治安維持法違反 の嫌疑で山形県教育労働組合が弾圧され村山らが 検挙される事件があり,のちに8名が懲戒免職と された.国分も検挙されたものの,結果としては 教職にとどまることとなった.校長の監視のもと での教員生活について,国分は戦後に次のように 回想している. 「教壇に帰ることを許されてからのわたしは,校長のきびしい監視をうけながら,子どもた ちの教育にいっぱいの力をそそぐことになり ました.文通する友だちはひとりもなくなる し,ただコツコツと子どもたちに綴方をかか せたり,よみ・かき・算数,理科の知識をつ けることに骨おりました.そして『綴方生活』 誌上で知った宛名などをたよりに,秋田の北 方教育社と連絡をとったり,『綴方生活』の ほかには,昭和六年に千葉春雄氏によって創 刊された『教育・国語教育』などを読んでお りました26)」 この回想に見られるように,国分は,学級文集 をつくったり,『綴方生活』や『北方教育』『教育・ 国語教育』等の雑誌を通して各地の教師との交流 をはかったり,誌上に論文や実践記録を発表した りしていくこととなった.ただ,常に,治安維持 法違反で検挙されたことのある人物という周りの 目があり,国分自身もそうした周りの目を意識し 続けていた.しかし,当初は,具体的な形で国分 に政治的な圧力がかかるというわけではなかっ た. そうした国分を取り巻く状況や心境の一端につ いては,国分が心を開いていた成田忠久(『北方 教育』主幹)らに宛てた書簡や,国分の日誌に記 されている. 国分らが1935年秋頃から始めていた「山形国 語日曜会」という国語教育研究サークルのメン バーに校長や視学からの政治的な圧力が加わりは じめたのは,成田宛の国分の書簡に即してみる と,同年12月のこととみられる.国分は,1936 年1月7日付の成田宛の書簡において,サークル のメンバーがそれぞれ視学や校長から注意を受け たことを報告したのち,自分にかかわることを次 のように記している. 「3.その(1935年12月―引用者)十二日, 僕校長宅によばられたり.はからざりき視学 居るなり.綴方論をきかれたり.色々かたり て『モーラル』まで出した所,『君そんなこ とでごまかすな』などといひたり.次に生活 詩の問あり.『綴方生活』五月号をよんでゐ たりしなり.……昂の『地主・小作・日やと ひ』などとかけるをとみにうたがひゐたり. 『生活態度の詩』のりつぱさなどについては なす.それにしても全体視にたゝずといはれ たり.この他,話多けれど,北方のことなど 話さぬは不審なりき.共に飯をくひ,共に温 泉に入りたり.その時せなかを洗ひ流してや らぬがわるかりしなり.今夏県主催日本文化 研究(四週間)に行くべしとひたにすゝむる 也27)」 国分が校長の家(校長の自宅は温泉旅館を経営 していた)に呼ばれて行くと,視学が待ってい て,国分の綴方教育論や『綴方生活』の内容等に ついて問いただされたり,日本文化の講習会に参 加することを強く勧められたりしたということで ある. 書簡には,次のような記載もある. 「4.校長各方面より来る手紙,文集の類を 一々ノートにひかへておくこととなりぬ. 5.二十幾日なり.もう一度よばられたり. 又視学也.『こなひだの注意アリガタシ.以 后けつして貴先生に心配をかけず』と手続書 をかけとのこと也.心すゝまねどかきたり. 『従来とても一点のやましきことなけれど』 とかきたるに『わるしわるし』といつてそれ を消させ『今后は言〔云〕々』とかゝされた り.校長は同席せざるなり(はじめも)但し 校長の印をもらふとのこと也28)」 国分への来信のすべてを校長が記録すること や,視学に迷惑をかけないという誓約書を書かさ れるなど,国分の行動が視学と校長の監視下に置 かれるようになったことが記されている. 1936年2月13日付の成田宛の書簡では,雑誌 原稿の執筆に関して次のように述べている. 「『綴方生活』を県視学も一番にらんでゐるの で,僕としても何だかかきしぶつてゐます. 弱いといはれても,どうにもベンカイしやう はありません.二,三月ともことはつてしま
ひました.西原氏から四月から,何か一つ づゝといはれましたが,こまつてゐます.金 がないのでたゞでよましていたゞくだけもし たいのですが,かく気持も失せてゐます29) 」 この書簡から,視学が国分の執筆をも監視して いること,なかでも『綴方生活』への執筆をとり たてて問題視していることがわかる. 換言すれば,この時期以降に国分が雑誌に執筆 するものは,視学に読まれることを前提としたも のということとなる.そして,その内容は,のち に詳しくみるように,生活綴方教育批判であっ た.
第 4 章 生活綴方教育批判の展開
前述のように,国分は,1936年から1939年に かけて,生活綴方教育批判を展開して行くことと なる. ここでは,生活綴方教育批判を主題としている とみられる7本の論文をほぼ発表順に検討して行 くこととする.ただし,同一の月に複数の論文が 発表されている場合があり,厳密には発表順の不 明なものが含まれている. 第 1 節 自嘲的揶揄的な生活綴方教育批判 ― 論文「社会事業的文化事業的教師と して」 国分は,1936年5月の日記に「社会政策的見地」 の必要について次のように書いている. 「5月14日 (中略)扶桑閣教育機構叢書第三巻つく.浦 辺氏の“学齢前児童の問題”なり.一読す. しごとの多さをおもひ,身の勉強の不足を思 ふ.一つは社会政策的見地についての私の不 馴れを感じた30)」 これは,浦辺史著『学齢前児童の諸問題』(扶 桑閣,1936年)を読んでの感想を記したもので あるが,この時期に,国分は社会政策的見地に立 つ論文「社会事業的文化事業的教師として」(『日 本文化と国民教育』1936年8月号)を書いている. そこにおいて,国分は,青年教師が情熱を注い でも思うようにはならない現実の制約があるとい うことを認めつつ,青年教師たちの状況として次 のように描いている. 「ありのまゝの現実を認識させる事だけが一番 だ.あとは何も出来ないと言ふ.真実をかけ 真実をみよといふ.見てどうするかと言へ答 はない.あるとしても『真実のみが,未来を はらんでゐる』と深遠だ.あとはどうにもな らぬとアナーキーになり,更に虚無におちい る.そこである若者どもは生活意欲をもたせ ようといふ.それには自分がもつ事だとい ふ.所が,その生活意欲とは何ぞやと質問す る先生が出る.生活意欲とは貧乏でなくなり たいといふだけのものではないと答へられる と,そんなら凶作の時に何故そんな事を叫び 出したと叱る.もう一人はこんど,多分に空 想的だと度々いふ31)」 このなかに登場する「ありのまゝ」「真実をか け」「生活意欲」などということばは,国分を含 めて生活綴方教育実践を語る際にはしばしば用い られてきたものである. そうしたことばを多用しながら,その論調は, 生活綴方教育に共感するとか推進するということ とはほど遠いどころか,生活綴方教育を自嘲的に とらえる,あるいは揶揄的にとらえるものとなっ ている.そして,生活綴方教育に情熱を注いでき た教師たちに対して,その情熱が意味のないもの であるとするものである.さらに,そこまで生活 綴方教育を追い込んだところで,次のようにいう. 「そこで小学教師よ.青年教師よ.如何に生き んとするや―とせつぱつまつて来た. 曰く社会事業的教師とならん―とこの際 答へたい32)」 このように,国分は,青年教師に社会事業的な 面に取り組むことを促している.その具体的な例 として次のように述べている. 「託児所が論ぜられ,実践され,校外教育が再 吟味され,地域中心の学校施設が問題とされ,生産学校が行はれはじめたのもみな,教 育が社会事業の側にうごいてきた証明でき〈 〉 る. 紙 芝 居 の 教 育 的 実 践 さ へ も そ れ で あ る33) 」 ここで挙げられている事例に出典等が示されて いるわけではないが,そこに列挙されている事例 をみていくと,託児所の問題は浦辺史著『学齢前 児童の諸問題』(扶桑閣,1936年),校外教育の 問題は松永健哉著『児童校外教育とその実践』(扶 桑閣,1936年),地域中心の学校施設の問題は小 川実也著『地域中心としての学校施設』(扶桑閣, 1936年),生産学校の問題は中重信著『生産教育 の諸問題』(扶桑閣,1937年),紙芝居の問題は 松永健哉著『教育の武器としての紙芝居の製作と 実演』(扶桑閣,1937年)というように,いずれ も『生活学校』の発行元でもあった扶桑閣から出 版されていたパンフレットに見事に対応するもの であることがわかる. 国分は,こうしたパンフレットを読みつつ,社 会事業の面への関心を広げて行ったものとみられ る.そして,次のように重ねて説いている. 「じつとしてゐるよりは行動した方がいい.行 動は社会事業的な面が一番今のところ進歩的 だとしたら,青年教師はそこへ行くだらう. それをきらつて『生活を描け生活を描け』と ばかりいつてるのは『貧しい事がなくなると, よい綴方が出なくなる』と心配する事の愚に 等しい34)」 「意欲がどうの態度がどうの,リアリズムがど うのといつた所で,それが単なる精神的な『覚 悟』に終らなかつたら御目出度うだ35)」 つまり,批判の対象として例示されていること がらは,国分を含めて,これまで生活綴方教育に 取り組んできた教師たちの仕事である.それらを 揶揄する形で描いたり,自嘲する形で描いたりし たものである.しかし,生活綴方教師たちの実践 や理論の姿を直視したものではなかったし,国分 が自らの実践の総括をふまえたというものでもな かった. 第 2 節 社会事業の教育的効果への関心 ―論文「文壇的批評と教壇的批評」 国分は,1936年5月の日記に,雑誌等にみられ る綴方教育論が文学評論や社会評論と類似したも のとなっているということを書いている. 「5月24日(日) (中略)綴方について―文学や社会問題論 文と少しもちがはぬ,しかも大げさないひ方 の不遜についてしきりに考へてみた36)」 こういう問題意識で書かれた国分の最初の論文 は,「文壇的批評と教壇的批評」(『教育・国語教 育』1936年11月号)である.この論文について, 国分は,先にも言及したように,1936年5月頃に 執筆したものという証言をしており37),日記に記 した前後の時期にこの論文を執筆したものとみら れる. この論文の書き出しは,次のようなものであ る. 「最近の綴方論文をよんで感ずる事は,文芸評 論と綴方評論が,同じ歩調をとつてゐるにと どまらず,その論旨の頂点までも精密に同じ 高度にあることだ.ある文芸雑誌の論文を読 んだ頭を,そのまゝその翌月あたりの綴方論 文にもつて行つても,少しも頭を和げる必要 などはない38)」 国分は,綴方教育論のなかに文学評論をそのま ま受け売りをしているものがあることを批判しよ うとしている.ただし,国分論文において,その 論拠として具体的な論文等が示されているわけで はなく,次のような記述があるのみである. 「『現実社会と格闘する作家の血みどろな肉体 的実践行動が……』などとよんだその後へ『現 実社会と格闘する児童の血みどろな行動がも つ生活認識や生活感情を』などと読むと何か, 父親の靴をはき,帽子をかぶり,ステツキを ふりあげて,ガラス窓でもこはしてゐるやう なポンチ絵をみるやうな気がしないでもな い39)」 国分が批判的に紹介しているような綴方教育論
が『教育・国語教育』や『綴方生活』などの国語 教育関係雑誌や綴方教育関係雑誌に実際に掲載さ れたか否かは現時点において確認できてはいない が,国分は,そうしたことが事実であるという前 提で論をすすめている.そして,教師たちは文学 評論の影響をうけて綴方の批評をおこなうのでは なく,「教壇的な作品評価」を行うべきとして8 項目にわたる心構えを挙げている. たとえば,一つ目は「子供達の各個がひとりひ とり,ほんとに自己の現実生活に密着して綴方を かいてゐるか.教師のことばなどをうのみにし て,心にもなく身にもつかぬ観念や概念でかいて ゐないか40)」といったように,綴方を批評する時 に個々の子どもの生活や認識に寄り添って批評す ることの重要性を説いているものであり,重要な 指摘とみられる. しかしながら,この論文で,国分が主張しよう とするのは,作品評価の心構えにとどまるもので はない.たとえば,「リアリズム的教壇実践」で あるべきというとき,次のような例を挙げてい る. 「リアリズムの綴方をかゝせようとする程の人 は,自己の学級の子供に対する態度もリアリ ズムでなくてはならぬ.(中略)極端な概念 論者の子供がゐたら先づ,それはそれとして 肯定せねばならぬ.(中略)現実を現実として, 一度びは認め,そのあとにそれを打開する行 為に移るべきである41)」 国分が「現実」と言うとき,教師が子どもをあ りのままにとらえようとすることにとどまらな い.子どもたちに客観的なものの見方,科学的な ものの見方等を獲得させるために,現実社会を把 握させることをも意味している.そのため,村で 行われている社会事業や文化事業も重要な現実で あり,子どもに理解させるべき現実ということと なる. 「主観的なものを客観的なものへ,個人的なも のを社会的なものへ生活の眼をひらかせるの 道は,つねに『現実生活』の把握によつて 『現実生活』で証明し,現実生活にとかしこ んで導かねばならぬ.自然発生的な社会意識 をもつた子供を科学的な社会認識に導くこと も,生物的人間を社会的人間にひきあげるこ とも,すべて『生活』によつて証明しつゝ, あるひは他教科の各面に於て心づかひつゝあ るひは子供達が村の社会事業や,文化事業に かこまれてゐる事を自覚させ乍ら順次わから せていかねばならぬ42)」 そして,そうした理解を促すうえで,綴方教育 が果たすべき役割が大きくなってきたという. 「人間教育とか,純粋感情の教育とか〈情操陶 冶〉といふレツテルを張ってやつて来た綴方 教育が,産業の発達による社会的情勢の変化 によつて,漸次,より広範囲な生活教育とし て,その直接的な武器として,生活態度の陶 冶と,生活技術の鍛錬とにまで進展したこと によるともいへるだらう43)」 そして,こうした社会事業等に取材した綴方を 次のように「より現実的な綴方」とみて,「有意義」 と評価されることとなったという. 「社会事業の方が,概念的な小学教育よりは, より教育的変化をもたらすといはれる如く, 概念的な知的学科や,観念的な情操教科に比 して,より現実的な綴方の方が有意義なもの とされ,それには昔さながらの文壇的ひとり よがりの指導よりは,より教壇的な協働生活 関係としての,生活組織 器 〈 〉 関として役立つ やうに吟味されるに至つたのである44)」 このように,社会事業の教育的効果が小学校教 育に勝るものがあるとされるなどと言及しつつ, 「より現実的な綴方」が「文壇的」な指導による 綴方より有意義なものであるという. また,国分は,「教壇的」ということばが,綴 方が他の教科等との関係をもつことを拒絶するか のような誤解を招かないように,綴方と他の教科 等との関係についてつぎのように言及している. 「僕達の綴方も,あらゆる教科が,生活を証明 材料として引つさげて来り,綴方の道をゆた
かにしてくれる限りはよろこんでむかへるで あらう.それらによつて生活の知性がたかま り,生活が充実し,生活行動が真摯になるな らば,綴方にとつて其れはこのましき限りで ある45)」 他の教科等との関係を論じる時,綴方にとって も各教科が果たす役割があるということ自体は決 して目新しい論点ではないが,ここでは,綴方に 他の教科等が入ってくることは拒まないという捉 え方であり,綴方の側から他の教科等と関係をつ くりにいくということには関心がはらわれていな いという点で,従来の綴方による「生活勉強」と は異質なものとなっている. それは,綴方と社会事業等との関係についても 同様のことと考えられているようである.ただし, 他の教科等に対しては,とりたてての注文はない が,社会事業に関しては,子どもたちや学校の周 りで盛んに実施されることを求めており,次に引 用した部分に見られるように,社会事業に関心を 持たない教師は貧困がなくなると綴方の題材がな くなってしまうことを恐れているようなものだ, というような乱暴な表現までとりつつ,子どもた ちの社会事業への関心を促すことを期待してい る. 「それよりも却つて,綴方が綴方の垣の中にと ぢこもる如きは,その機能を衰微させる自己 矛盾として,むしろ警戒するに値することな のである.貧しさを深刻にかいた綴方があつ てくれるやうに,貧しさよ永遠に亡ぶ勿れ ―等といふのは綴方の望む処ではない.貧 しさがなくなるやうに,防貧事業や救貧事業 が,あるひはもつと根本的な社会事業が,学 校の周囲でどしどしと行はれる事などは綴方 にとつて慶賀すべき事である46)」 このようにみてくると,論文の題目は「文壇的 批評と教壇的批評」ではあるが,題目から想起さ れるような,綴方の批評をおこなう際には文学評 論的な批評を行うのではなくて教師の目でもって 子どもの生活や認識に寄り添って批評を行うべき だ,ということ等にこの論文の重点があるのでは ないということとなる. 本章第1節でみたように,国分は「社会事業的 文化事業的教師として」を書いて,自らが社会事 業的文化事業的な教師となろうとしていた.その ことをふまえて,この「文壇的批評と教壇的批評」 をみると,小学校教育よりも社会事業の方が教育 的効果があるとさえ書かれているように,社会事 業等に啓発されることを綴方に書くことを,現実 から学ぶこととして位置付けていることがわか る. 第 3 節 綴方教育から「重荷」をおろす ― 論文「自己に鞭打つの書―綴方教育 の反省」 国分は,前述の論文「社会事業的文化事業的教 師として」や論文「文壇的批評と教壇的批評」に おいて社会事業に関心を抱き,それらとのかかわ りで「現実」から学ぶ綴方教育のありようを論じ ていたが,「自己に鞭打つの書―綴方教育の反省」 (『教育・国語教育』1936年12月号)において「綴 方とは『文字でかく―文章でかく』学科だ」と 主張することとなった. この論文において,国分は,次のような「反省」 をしている. 「久しい間,私達は,綴方に重荷をしよはせ て,生活探究とか,現実格闘とかと要求して ゐた.しかしこのやうな事は,生活教育の全 場面がうけもつべきものであつて,綴方のみ がやつきとなつても駄目なものだ47)」 このように,国分は,綴方による「生活勉強」 を「重荷」とみて否定し,綴方教育は「文字でか くことの指導」にすることを提起することとなる. 「文字で書くことの指導―それには文字でか くことを,かく必要を,機会をもつともつと 多く,教室の中や,家の生活の中につくらね ばならぬ.他の学科でもせねばならぬ.学級 新聞も日記も,子供の豆手帳も,報告記も生 きてはたらかねばならぬ.自然観察もいいこ とだ.提案もよい.文字による文化交通―わ
りやすい日本語,易い日本語でかくことの能 力,これこそ現在の日本人の必ずほしい文化 技術だ48)」 ここにおいて,国分は,文字で書くという能力 を育てるために,文字を使う必要のある機会を意 識的に設けて行くということを述べている. そして,「かく能力はあつてもつまらぬ事ばか りかいてゐてはならぬ」という批判を受けかねな いことを想定しつつ,「つまらぬ事をかゝぬやう にすることが,毎日毎日の私達の綴方の拾幾倍も とつてする時間ではないか.生活の眼はそこでこ そ鍛へられるのだ」と,綴方の内容は学校教育全 体の場で教育されるものであるとしている49). こ の 論 文 と 同 時 期 に, 国 分 は『 生 活 学 校 』 1936年12月号に「今年の収穫」と題する次のよ うな短い文章を寄せている. 「一,綴方が『文字表現』による文化交通の手 段を指導する学科だと信じてうたがはぬやう になつたこと.そしたらかへつて怠けられな くなつたこと. 二,したがつて,綴方以外のしごとを,まだ まだりつぱにやらねばならぬといふ眼がひら けて来たこと./その間『知識乃至技術の最 低必要量』をぜひ,どの小国民にもつけたい と熱情をこめて叫ぶ松永健哉氏を知つたこ と,語つたこと,うんとあまへてしまつたこ と50)」 この文章では,国分がすでに綴方教育を,前述 した「文字で書くことの指導」として実践し始め ていることを示している.そして,他の教育活動 への視野が広がったこと,『生活学校』の松永健 哉に学んだところが大きいことを明らかにしてい る. 第 4 節 「文字表現」の指導⑴ ― 論文「『綴るその事が生活だ説』の 再吟味」 国分は「『綴るその事が生活だ説』の再吟味」 (『教育論叢』1937年1月号)において,従来の生 活綴方教育を次のように描いている. 「生活の具体をかきながらも,子供の環境の如 何と個性の特質にふさはしい『生き方』を得 させようとするやうな,多分に教育的な,意 欲的な,それこそ『綴る事によつて,生活を 勉強し,生活の正しい仕方を学んでいく,建 設して行く』といふ意味で本質的な『綴る事 が生活そのものだ』説も行はれ,実践もされ てゐる51) 」 国分はこのように生活綴方教育を捉えつつ,次 のように注意を促している. 「子供が生物的自然的人間としての発展も,社 会的人間としての発展も,けつして『綴方で やつた生活勉強4 4 4 4』ばかりになどによるのでは なくて,むしろ『環境的必然』や『自然的本 能』の結果によること多く,又はあらゆる他 教科からの,具体的,効果的な指導を受けた 賜であることを忘れてはならぬ52)」 子どもが成長発達する際に,国分が指摘してい ることがらも大きく作用しているであろうこと は,自明のことである.そして,それらを否定し て「綴方でやつた生活勉強」だけてもって子ども が成長発達したなどというような教師や論者がい るはずはない.ところが,国分は,こうした詭弁 を弄しつつ,「綴方でやつた生活勉強」の意味を 否定的に描いているのである. さらには,「生活勉強」の綴方どころか,文章 表現指導としての綴方についても否定的になって いる. 「実際の大人乃至子供の生活では,綴方でやる やうな種類の綴る必要はあまり起りはしな い.現在の発達にもまして,将来の社会生活 に必要にして十分な知識技能をきづくべき筈 の国民教育として,その一環としての綴り方 である以上,もつともつと技術的方面の仕事 が重視されねばならぬ筈だ.その技術的方面 とは,自分の感情を,わかりやすく,自由に かけるといふことだ53) 」 これは,国分が,綴方を,文章表現ではなく文 字表現のレベルで考え始めたことによるものとみ
られる. 「ちようど今の綴方は,工場の機械のそばでは なく,村落の南瓜棚の下で,機械工学が観念 的に説かれてゐるみたいなものだ.教養とか 修養とかには役立つてゐるが,その『文字表 現』が現実の生活関係の中に生きてゐない. 道具としては生きてゐない54)」 そして,「文字表現」という観点からみたとき, 綴方教育においても不十分であり,教科教育にお いても文字表現の機会は乏しいとみる. 「文字表現といふものの,機構に即して綴方が 行はれてゐるとは大きい声ではいへさうもな い.そしてその他の学科,修身,国語(よ み),地理,理科,国史,農業,家事,図画 などでも,あんまり文字表現といふものを無 視してゐる.書かれてあることは大切にする が,児童が文字を表現し研究をつゞけるとか, 発表するとか,といふ風なことは行はれ難 い55)」 結局は,子どもたちが生活の必要に即して文字 表現を行う機会を用意して文字表現能力を育てる という主張となる. 「今の綴方営為が,あまりに『生活必要』に立 つてゐないこと.あまりに高級でありすぎる こと.もつと国民として大切な『わかりのい い表現技術』を授けるといふ仕事に力を入れ てもよいこと.綴るのがほんとに必要な機 会,機関をつくつてやるべきこと56)」 第 5 節 「文字表現」の指導⑵ ― 論文「『綴方教師としての悩み』に ついて―あまりに平凡な一面的な」 国分は,1年3カ月ぶりに『綴方生活』1937年 1月 号 に「『 綴 方 教 師 と し て の 悩 み 』 に つ い て ―あまりに平凡な一面的な」を書いている. そこにおいて,国分は,綴方教育の役割を次の ように絞っている. 「綴方では『文字といふ道具を使つて思想や感 情を,他人にわかるやうにかく』といふ立場 からだけ,私は今度うんと悩んでみたいと考 へてゐるのです57)」 このように,綴方教育の役割を「文字といふ道 具」を使いこなす力をつけることにおいて考える 国分は,自らが悩むべきとする四つの課題を掲げ ている. 一つ目は,「文字表現をどしどし使用し,役立 てるやうな,真の必要な機会といふものを作つて やることが少いのではないかといふこと58) 」であ る.これは,前述の論文でも課題とされていたこ とであり,ここで初めて提起されたものではな い. 二つ目は,「それ(文字表現が必要な機会―引 用者)は村の大人の生活にも少いから,環境的な 問題であつて,文化建設の役割をもつ小学校が全 般的に考慮してゐなくてはならぬと,綴方の垣の 外の問題にゆづること59)」である.前出の論文「社 会事業的文化事業的教師として」に示されていた ような課題意識がここでも示されているというこ ととなる. 三つ目は「日本人として最小限度に必要な,漢 字が知らなければ,りつぱな表音文字としての, ひらかな文を,カタカナ文でもよいからかける子 供にしたいといふ事60)」,そして,四つ目は,「そ れ(日本人として最小限度に必要な文―引用者) を誰にでも,をちこち人の如何を問はずに,わか らせ得るやうにはつきりすらすらと,むづかしく な く か け る や う に し な く て は な ら ぬ と い ふ こ と61)」であり,いずれも日本人としての最小限度 の文字や文が書けるようにするということであ る. この論文において新たに強調されていること は,三つ目や四つ目に示されたような,ひらがな やカタカナを習得するのが課題であったり簡単な 文を書くのが課題であったりするような低学力の 子どもたちがいるということであり,国分が文章 表現ではなく文字表現ということを主張すること の理由の一端が示されたということとなる. そして,実践の具体的な課題としては,文字表 現をする必要性が生まれる場をどのように設定し
役立てて行くかということであるとして,次の5 点を挙げている. 「○文字表現をする必要が生ずる機会を ○どこに見つけていくか ○どこに作つてやるか ○それをどう役立てていくか ○どうして伝達してやるか62)」 第 6 節 「文字表現」の指導⑶ ―論文「綴る欲求と必要と機会と」 前述のように,国分は,文字表現をする必要が 生じる場面を用意することを実践の課題としてき た.論文「綴る欲求と必要と機会と」(『実践教育 講座 研究編2国語2』第一書房,1937年4月) は,そうした課題に絞って論じたものである. 国分は,自らが「もっぱら文章表現の力を,子 どもたちの文化的技術として授けるようにした い」とか「日本語による表現力の保障」などを主 張するようになったということに関して,1984 年の時点で『国分一太郎文集5』において次のよ うに述べたことがある. 「このような考えかたに立つつづりかた教育の 体系については一九三八年,百田宗治氏を顧 問として編集する国語教育講座に,その一端 をわたくしは執筆しているが,これも,いま は入手することができず,この巻には収録で きなかったことを書きとめておく63)」 ここで国分が言及しているものが,論文「綴る 欲求と必要と機会と」である.この論文は,前述 のように初めに『実践教育講座 研究編2国語2』 (前出)に収録されたあと,長谷川乙之吉編『国 語教育の綜合研究』(第一書房,1938年)に再録 されている. なお,すでに明らかなように,国分は,この論 文を「このような考えかたに立つつづりかた教育 の体系」を述べたものと自己評価しているもので ある. この論文の執筆に関しては,国分の日記に関連 する記述がみられる. 「2月3日(水) (略)教国“寒川氏”の書く生活に―心う たれ,ドキンとうたれたり.僕なんかの考を よくわかつててくれるらしいことをしりうれ しくてたまらない64) 」 これは,数年来の文通仲間の寒川道夫の論文 「書く生活」(『教育・国語教育』1937年2月号) を読んで,寒川が国分のいう「文字表現」指導の 主張に賛同していることを喜んでいるものであ る. 「2月6日(土) (略)小川氏よりハガキとロンソウ.寒川氏 の論とてもよし心づよし65)」 これは,寒川道夫の論文「書きたい心理と綴方 文化」(『教育論叢』1937年2月号)を読んで,こ こでも共感したということである. 「2月14日 (略)午前中は“第一書房”への原稿の構想 をしてくれる.(略)夜,“綴る欲求,必要, 機会”を9枚近くかきあとは明日にのこす. 寒川氏のりつぱな稿をくりかへしよむ66)」 ここには「綴る欲求と必要と機会と」の原稿を 途中まで書いたこと,その過程でも寒川の二つの 論文を読み返したということが書かれている. 「2月15日 (略)午前中でやうやく第一書房への原稿か き終る67)」 こうした日記の記載をみると,寒川の論文「書 く生活」(『教育・国語教育』1937年2月号)と同 じく寒川の論文「書きたい心理と綴方文化」(『教 育論叢』1937年2月号)とに共感しながら,書い たものということがうかがえる. 国分は,この論文においても,従前からの「文 字表現」の能力を育てるということを課題として いる. 「先づ第一に『文字表現』を駆使する子どもに だけはしてやりたい.文字といふ道具を使つ て,思想,感情をすらすらいへる位にはして やりたい68)」 そのための手だてとして,国分は,「何を」「如
何に」綴るかという評語の前に考えるべきことと して,次の3点に考えついたという. 「1.何故綴りたいのか―子供らは綴りたく てたまらなくて文を書いてゐるか(欲求) 2.何のために綴るのか(必要) 3.どんな時に綴るのか(機会)69) 」, この3点は,書く機会を教師が設けることによ り,子どもたちが書く欲求と必要とを感じるよう な状況が生まれることを見込んだものとされてい る. そして,書く機会を設けるということに関して は,一人ひとりの子どもたちに豆手帳をもたせて 日記をつけさせるということのほか,学級として 毎日やること,学級として毎週やること,学級と して毎月やること,随時やること,綴方の時間に できること,教師による個別指導というように, 大きく七つに分けて考えられている70).そして, そのことによって生まれるとみられる表現様式は 次のように想定されている. 「○記録・報告(手紙)・発表・主張・訴・批 判・感想・提案・注文・案内・寄稿・届・ 質問・その他 ○自然観察・実験記録・制作記・飼育栽培記・ 採集記・理科的説明 ○児童詩・児童随筆・童話・スケッチ ○村の生活報告・観察記録 ○読書紹介・見学の報告・旅行報告 ○他教科における文表現71)」 これらのなかには,「他教科における文表現」 のように別の論文では無視されているとされてい たものも含まれており,多様な文字表現の例が列 挙されている. 第 7 節 生活綴方教育批判の集大成 ―論文「綴方教師から文化技術者へ― 農村教師の文化的役割序説」 国分は,1937年半ばに病気で休職した.そして, 休職中に,相沢ときとの共著『教室の記録』(扶 桑閣,1937年)を出版したが,その出版に関係 することでもって,1938年3月に国分は教職を免 職となっていた72). その後,国分は,百田宗治主宰の『綴方学校』 編集にかかわりはじめており,編集部にいるとき に書いたものが「綴方教師から文化技術者へ― 農村教師の文化的役割序説」(『綴方学校』1939 年1月号)である. このあとまもなくの1939年1月に国分は,中 国・広東の南支那派遣報道部員として赴任するこ ととなり,生活綴方教育批判にかかわる戦前最後 の論文ということでもある. この論文は,次のような構成となっている. 1 綴方教師の善意 2 綴方教師の内省 3 綴方教師への批判 4 綴方教師の文化的役割 1から3においては,綴方による生活教育の実 践,綴方による生活教育の過大評価への自己反 省,『生活学校』や教育科学研究会からの生活綴 方教育批判の3点を,1939年時点における国分の 立場から概観したものとなっている. 「4 綴方教師の文化的役割」において,国分は 「われわれは綴方教育を文章表現技術の指導とす る.そして綴る内容を豊かに,意味深くするため には,学校教育,校外教育のあらゆる分野に於い て力をつくすこととする73)」として,綴方教育は 文章表現技術指導に限定して,綴る内容に関して は綴方教育としてではなく別途に取り組むという ものである. 綴方教育を文章表現技術の指導に絞るというこ とは,すでに国分の論文「文壇的批評と教壇的批 評」(『教育国語教育』1936年10月号)以来のも のである.また,「文字表現」を学級において多 様な形でおこなうためにさまざまな機会を用意す るということは「綴る欲求と必要と機会と」(『実 践教育講座 研究編2国語2』1937年4月)以来 のものである.しかし,ここでは,学級にとどま らず学校教育や校外教育にまでの広範囲に及んで いる.ただし,学校教育や校外教育として挙げら れている内容をみると,子どもたちが書く活動の
ための機関というわけではない.なぜなら,学 校・学級内に於ける事項としては次のものが挙げ られているからである. 「1.各科教授に於ける文化の伝達(説明略― 引用者) 2.課外読物(説明略―引用者) 3.社会生活をするための種々の文化的施設 (説明略―引用者) 4.子供達の娯楽慰労機関を考へる(説明略 ―引用者) 5.職業指導の基礎(説明略―引用者) 6.学校内職員に対する啓蒙活動(説明略― 引用者)74)」 こうしてみると,学校・学級内における事項は, 綴方のためだけのものとして用意されたものでは ないが綴方の内容にも反映するというような位置 づけとみられる. また,校外教育については,次のことが挙げら れている. 「1.小学生を通じて啓蒙する部面 2.直接に村内の人々と接触すべき部面 3.村内有力者を動かして活動すべき部面 4.局外の仕事に提携して活動する部面75)」 この校外教育の項目は,綴方の内容に反映する か否かではなく,農村における啓蒙活動そのもの である. こうした活動に小学校教員がかかわるというこ とについては,すでに国分の論文「社会事業的文 化事業的教師として」(『日本文化と国民教育』第 2巻第5号,1936年8月)以来のものである. 以上のように,この論文は,1936年以来の生 活綴方教育批判を集大成するものとなっている.
おわりに
本論文は,国分が1936年から展開し始めた生 活綴方教育批判をほぼ時系列で内容を把握してい く作業を試みたものである.論文「文壇的批評と 教壇的批評」(前出)の場合,単独論文として読 むと,文壇の動向に影響されたり,文壇的な目で 子どもの綴方を読んだりせずに,教育者の目で子 どもの綴方を読むべきであると書いてあるかのよ うに受け止めがちであるし,そのように読み取っ てきた先行研究も多い.しかし本論文で試みたよ うに,時系列のなかで読むと,それとは違った面 が浮かび上がってくることとなる. こうした読み方を試みる上で,生活綴方教育批 判を展開する前の時点での国分の生活綴方教育論 がいかなるものであったのかを確認しておくこと が求められる.そのために,「私の描く綴方指導 系統案」(『国語教育研究』第4巻第2号,1935年 4月)とそれにもとづいた雑誌連載の綴方指導案 を検討して,それらが「生活勉強」の綴方指導案 であることを確認した. なお,本論文では,国分が視学等から監視や干 渉を受けて,つねに弾圧をおそれていたことにも 言及した.国分が雑誌等に発表するものについて 視学等がマークしていたことは同時代の国分も承 知しており,それを逆手にとって視学等の心証を よくするために「日本精神に立つ綴方」を標榜す る古見一夫主宰の『新綴方教育』に執筆しようと したこともあった76).このことを考慮すると,国 分が生活綴方教肓批判を各誌に書きつづけ,視学 が 最 も マ ー ク し て い た と い う『 綴 方 生 活 』 の 1937年1月号にも生活綴方教育批判を書いたの は,視学等の心証を良くするためのものであった 可能性がある.ちなみに,掲載された翌月,『綴 方生活』1937年2月号をうけとった2月22日の 日記には,「『綴方生活』2月号つく.気持よいザ ツシではなくなつてしまつた77)」と記すほど,『綴 方生活』に対して距離を感じ始めていることが判 明する. 本論文では,国分の生活綴方教育批判に対する 同時代の批評等について言及することができな かった.次の機会の課題とするほかはない. 1)国分一太郎「“生活組織”“生活認識”というこ とばはどこからでてきたか」『教育学』第3号,1974年,50∼51ページ. 2)同前,51ページ.下線は引用者. 3)同前,45ページ. 4)同前,48ページ. 5)同前,53ページ. 6)国分一太郎「『生活綴方』の運動と『生活学校』 の運動」『教育』1952年3月号,374ページ. 7)国分一太郎「わたくしのそえがき つづりかた 教育とわが若き日」『国分一太郎文集5』新評論, 1984年,260ページ. 8)国分一太郎「生活勉強・農村綴方」,木下龍二編 『綴方生活指導の組織的実践』東宛書房,1935年, 4∼5ページ. 9)同前,4ページ. 10)国分一太郎「農村児童に与へる文話―特に文の 研究,生活研究のための―」千葉春雄編『系統的実 践文話 尋常四学年』東宛書房,1935年.60ペー ジ. 11)国分一太郎「生活勉強・農村綴方」前出,15ペー ジ. 12)国分一太郎「私の描く綴方指導系統案」『国語教 育研究』第4卷第2号,1935年4月,36ページ. 13)同前,34ページ 14)同前,39ページ. 15)国分一太郎「尋四 四月の綴方指導案」『実践国 語教育』1935年4月号,229ページ. 16)国分一太郎「尋四 五月の綴方指導案」『実践国 語教育』1935年5月号,124ページ. 17)国分一太郎「尋四 綴方指導案」『実践国語教育』 1935年6月号,126ページ. 18)国分一太郎「尋四 綴方指導案」『実践国語教育』 1935年7月号,127ページ. 19)国分一太郎「尋四 綴方指導案」『実践国語教育』 1935年9月号,96∼97ページ. 20)国分一太郎「尋四 綴方指導案」『実践国語教育』 1935年10月号,99ページ. 21)国分一太郎「生活をそだてる者の表現学―尋四 綴方の力点考察」『実践国語教育』1935年11月号, 116∼118ページ. 22)国分一太郎 尋四綴方指導案」『実践国語教育』 1935年12月号,108∼109ページ. 23)国分一太郎「尋四綴方指導案」『実践国語教育』 1936年1月号,104∼106ページ. 24)「尋四綴方指導案」『実践国語教育』1936年2月 号,106∼108ページ. 25)「尋四綴方指導案」『実践国語教育』1936年3月 号,102∼104ページ. 26)国分一太郎「この四十年―あとがきにかえて」 国分一太郎編『石をもて追われるごとく』英宝社, 1956年,245ページ. 27)成田忠久監修『手紙で綴る北方教育の歴史』教 育史料出版会,1999年,349ページ. 28)同前,349ページ. 29)同前,367ページ. 30)『国分一太郎の青春の記録』,新評論,1986年, 87ページ. 31)国分一太郎「社会事業的文化事業的教師として」 『日本文化と国民教育』第2巻第5号,1936年8月, 77ページ. 32)同前,77ページ. 33)同前. 34)同前,78ページ. 35)同前,79ページ. 36)『国分一太郎の青春の記録』前出,92ページ. 37)国分一太郎「“生活組織”“生活認識”というこ とばはどこからでてきたか?」前出,53ページ参 照. 38)国分一太郎「文壇的批評と教壇的批評」『教育・ 国語教育』1936年10月号,152ページ. 39)同前,152ページ. 40)同前,155ページ. 41)同前,155∼156ページ. 42)同前,156ページ. 43)同前,157ページ. 44)同前,167ページ.下線は引用者. 45)同前,157ページ. 46)同前,167ページ. 47)国分一太郎「自己に鞭打つの書―綴方教育の反 省」『教育・国語教育』1936年12月号,136ページ. 48)同前,136ページ. 49)同前. 50)国分一太郎「今年の収穫」『生活学校』1936年12 月号,34∼35ページ. 51)「『綴るその事が生活だ説』の再吟味」『教育論叢』 1937年1月号,60ページ. 52)同前,61ページ. 53)同前,61∼62ページ. 54)同前,62ページ. 55)同前,63ページ. 56)同前,63∼64ページ. 57)国分一太郎「『綴方教師としての悩み』について ―あまりに平凡な一面的な―」『綴方生活』1937年
1月号,112ページ. 58)同前,116ページ. 59)同前. 60)同前. 61)同前. 62)同前,119ページ 63)国分一太郎「わたくしのそえがき つづりかた 教育とわが若き日」前出,260ページ.下線は引用 者. 64)『国分一太郎の青春の記録』前出,174ページ. この時期の寒川の実践に関しては,太郎良信『「山 芋」の真実』教育史料出版会,1996年,270∼300 ページ参照. 65)同前,175ページ. 66)同前,176ページ. 67)同前,178ページ. 68)国分一太郎「綴る欲求と必要と機会と」『実践教 育講座 研究編2国語2』第一書房,1937年4月, 38ページ. 69)同前,37ページ. 70)同前,42∼43ページ参照.ここでは,七つの分 け方については,筆者がことばを補ったり修正した りして紹介した. 71)同前,41ページ. 72)津田道夫『国分一太郎』社会評論社,2010年, 205∼206ページ参照. 73)国分一太郎「綴方教師から文化技術者へ―農 村教師の文化的役割序説」『綴方学校』1939年1月号, 31ページ. 74)同前,31∼32ページ. 75)同前,33ページ. 76)国分は成田忠久(北方教育社主)に宛てた1933 年5月25日付の書簡で「『新綴方教育』から「日本 精神言[云]々の綴方」をたのまれてゐます.これ だけは私のレッテルをはぎとる生活技術としてかい てもいゝでせう.笑はないで許して下さい」と書い て い る. 同 年6月2日 の 書 簡 で は「 日 本 精 神 言 [云]々.近藤益雄氏の忠告でかくことをやめた. 又笑ふか」とあり,執筆を断念したことになってい る.『手紙で綴る北方教育の歴史』前出,93∼94 ページ. 77)『国分一太郎の青春の記録』前出,180ページ.