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シャルルマーニュ期・ルイ敬虔帝期のいわゆる「カピトゥラリア」についての一考察

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(1)

ピトゥラリア」についての一考察

著者

津田 拓郎

雑誌名

西洋史研究. 新輯

42

ページ

92-129

発行年

2013

URL

http://hdl.handle.net/10097/00098120

(2)

『西洋史研究』新輯第42号(2013)抜刷

シャルルマーニュ期 ・ ルイ敬虔帝期のいわゆる

「カピトゥラリア」についての一考察

(3)

論 文

シャルルマーニュ期 ・ ルイ敬虔帝期のいわゆる

「カピトゥラリア」についての一考察

(1)

津 田 拓 郎 

Ⅰ.序論

1)研究史と問題の所在

 「カピトゥラリア」はフランク王国研究においてもっとも頻繁に用いられてきた史

料の一つである.伝統的に「君主の勅令」であるとみなされてきたこの史料群は,現

在でも多様な分野の研究において利用され続けている.しかし,「カピトゥラリア」

の性質をめぐっては,以前からさまざまな議論が行われており,多くの問題が未解決

なままの状況が現在も続いている

(2)

 中でも活発に議論された論点の一つとして,「同意」定式の問題を挙げることがで

きる.「カピトゥラリア」にあらわれる「(聖俗貴顕の)同意」を得て規定がなされた

ということを述べる文言の位置づけをめぐって,相異なる見解が提示されてきたので

ある

(3)

.近年の議論の出発点となったガンスホーフの研究においては,シャルルマー

ニュ期(768 814)・ ルイ敬虔帝期(814 840)において,「同意」は貴顕が規定に服

従することを表現したものであり,事実上拒絶不可能なものであって,「カピトゥラ

リア」が効力を得るための前提条件ではなかったとみなされ,対照的に王権が弱体化

したとされる西フランクのシャルル禿頭王(840 877)のもとでは,「同意」は貴顕が

自由意思に基づいて行うものになり,それとともに「カピトゥラリア」が拘束力を持

つための前提へと変化したとの見解が出された .その後ガンスホーフ説を批判的に

検討していく形で,多数の論者によってこの問題が論じられることとなったが,その

際に「同意」の問題は君主と聖俗貴顕の力関係と結びつけられて議論されたため,こ

の問題は「カピトゥラリア」の性質のみならず,カロリング期フランク王国の国制理

解にとっても極めて大きな重要性を持つ事となった

(5)

.「同意」の意義を低く評価す

るのであれば,王権が独力で「勅令」を発布できたという理解が生まれ,「同意」を

貴顕の側の権利のごとくにみなすのであれば,王権の行動が聖俗貴顕の意向に縛られ

ていたという理解に結びつくのである.

 このような議論の背景には,「カピトゥラリアは国王に由来する勅令である」とい

う考えが存在していた.「カピトゥラリア」が王権の立法活動の所産であるというこ

とが自明視されていたため,その法的効力の源泉が,国王のバン権力にあるのか,貴

(4)

顕(又は人民)の「同意」にあるのかという形の問題設定が行われてきたのである.

ところが,「カピトゥラリアは法である」という考え方は,近年の「カピトゥラリア」

研究で大いに批判されている点に相当するため,従来の議論は全面的に見直される必

要が生じていると言わざるを得ない.王の役人に対する命令や一般性を持たない個別

事例を処理する規定の存在が指摘されているほか,近年は「カピトゥラリア」の宗教

的・道徳的要素も強調されているのである

(6)

 これと関連して,集会と「カピトゥラリア」の関係性を問い直したペッセルの研究

も重要である

(7)

.彼女は「集会のみがカピトゥラリア発布のための合法的かつ通常

のコンテクストであったとの想定を支持する同時代の証拠はない」として,先行研究

が「立法が行われる場としての集会」を想定し,それと「カピトゥラリア」を無批判

に結合してきたことを強く批判した.それまでの「カピトゥラリア」研究においては,

「カピトゥラリアは聖俗貴顕の集まる集会の場で彼らの同意とともに発布されるもの

である」ということが,(しばしば暗黙の内に)議論の大前提となっていたのであ

(8)

.ペッセルの研究は数点の事例を挙げるのみで,「カピトゥラリア」を包括的に

分析したものではないものの,「同意」をめぐる議論の問題設定そのものを疑う必要

性を浮彫にしたという点で高く評価されるべきであろう.「カピトゥラリア」が常に

集会で出されたとは限らないのであれば,すべての「カピトゥラリア」が貴顕の「同

意」を得て発布されたという考えも成り立たなくなるのである

(9)

2)筆者のこれまでの研究と本稿の目的

 上述の研究動向を踏まえた上で,本稿ではシャルルマーニュ期・ルイ敬虔帝期に焦

点を絞り,「カピトゥラリア」とみなされてきた史料群およびその類似史料を取り巻

くコンテクストを分析することで,同時代人がそれらの文書をどのようなものとして

認識していたのかを考察し,「同意」の意義とフランクの国制をめぐって交わされて

きた研究史上の議論に対しても新しい方向性を提示することを試みる.

 筆者の見るところでは,「カピトゥラリア」を扱う先行研究における最大の問題点

は,過度の一般化が行われる点にあった.これは「同意」をめぐる議論にも当てはま

る.「同意」をどのように評価するにせよ,そこで述べられる結論は,「カピトゥラリ

ア」一般,または特定の君主の「カピトゥラリア」一般に当てはまるものであるかの

ように提示されてきたのである.筆者はこれまでの研究において,シャルルマーニュ

期・ルイ敬虔帝期については,「カピトゥラリア」なる史料類型の存在そのものを疑

うべきであるという見解を示してきた

(10)

.「同意」の位置付けや,集会と「カピトゥ

ラリア」の関係性の問題についても,

「カピトゥラリア」が何らかの一様な性質を持っ

た史料群であるということを前提とせずに,一点一点が全く異なる性質の文書である

(5)

可能性をも念頭に置いた上で分析を行う事が重要であろう.従って,本稿ではあらか

じめ「カピトゥラリア」の範囲を厳格に定めて分析を行うという手法はとらず,先行

研究において「カピトゥラリア」とみなされてきた文書群およびその類似史料一般を

対象に,同時代人の認識を探るという手法を採用する.本稿の対象となる史料は基本

的に MGH の「カピトゥラリア」の版

(11)

に収録されているテクストとなるため,本

稿の議論も先行研究における「カピトゥラリア」という類型理解の枠組みを脱却する

ことができていないとの印象が生じるかもしれない.そうではあっても,先行研究に

おいて「カピトゥラリア」として一括して把握されてきた文書群が,当時の人々によっ

てどのようなものとして認識されていたのかを考察することは,これまでの理解を刷

新する可能性を提示する重要な作業であると考える.なお,こうした筆者の立場に基

づいて,本稿では鉤括弧付きの「カピトゥラリア」という語を,「研究者たちによっ

て『カピトゥラリア』として扱われてきた文書群」一般の意味で用いることとする.

 以下では,まずシャルルマーニュ期を対象に,「カピトゥラリア」と集会の関係性

を分析し,それに続いて「カピトゥラリア」内部に見られる過去の規定への言及のあ

らわれ方を見ることで,シャルルマーニュおよび彼の宮廷が「カピトゥラリア」をど

のようなものとして認識していたのかを考察する.続いてルイ敬虔帝時代についても

同様の分析を行い,シャルルマーニュ期との相違点を明らかにする.これらの作業を

通じて,「カピトゥラリア」(および「同意」の評価)から王権の強さ等の国制理解を

導き出していた従来の手法の問題点を指摘し,今後の研究に向けた展望を提示するこ

とが最終的な目的となる.

Ⅱ.本論

1)シャルルマーニュ期

 a)集会と「カピトゥラリア」の関係性が明らかになる事例

 上述の通り,ごく最近まで「カピトゥラリアは集会の場で発布される」ということ

が自明視されていたため,「カピトゥラリア」と集会の関係性について包括的に考察

した研究はこれまで行われていなかった.ヘーゲルマン

(12)

やハニッヒ

(13)

は,

「同意」

の問題の議論の中で,集会で成立したと思われる「カピトゥラリア」の事例を列挙し

ているため,以下の分析においても参考としたが,小ピピン・カールマン時代の事例

やイタリアの事例も区別なく考察に取り入れられている点,一部の事例に見られる知

見を過度に一般化している点など,彼らの議論には賛同しがたい部分が多く見られる

ため,本稿の結論は彼らとは大きく異なるものとなるであろう.ここで詳細を論じる

ことはできないものの,小ピピン時代の「カピトゥラリア」やイタリアのみを対象と

した「カピトゥラリア」はそれ自体独自のものとして調査されるべき史料群であると

(6)

思われる.例えば,ピピン ・ カールマン時代の 「カピトゥラリア」 の大部分には何ら

かの集会で成立したものであることを示す文言が見られ,比較的形式が整っている点

で,以下で扱うシャルルマーニュの 「カピトゥラリア」 とは大きく異なる印象を与え

ている.よってこれらは本稿の分析の対象外とした.以下では,シャルルマーニュ期

の 「カピトゥラリア」 およびその類似史料に関して,集会での成立ないし発布の痕跡

が見られる事例を検討していくこととする.

 実際の分析に入る前に,分析対象を明確にするため,「教会会議決議」について触

れておく必要があろう.カロリング期に関しては,「カピトゥラリア」と「教会会議

決議」の類似性がしばしば強調されてきたが,両者は基本的に異なる文書類型として

扱われてきた

(14)

.この背後に,「教会会議」なる集会類型の存在を大前提としてきた

研究態度が存在する事は明白である.「(世俗の)王国集会」で成立するものは「カピ

トゥラリア」であり,「教会会議」で成立するものは「教会会議決議」だという考え

方である.近年になって「教会会議」と「カピトゥラリア」の結びつきの強さがしば

しば強調されてはいるものの

(15)

,「教会会議決議は『カピトゥラリア』として発布さ

れた」,「教会会議の場で『カピトゥラリア』が出される事もあり得た」といった文

(16)

からは,聖俗の集会ならびにその決議が本来は別個のものであると考える態度

が垣間見えるのである.しかしこの点について,筆者のこれまでの研究により,シャ

ルルマーニュ期・ルイ敬虔帝期には「教会会議」とそれ以外の集会は必ずしも明確に

区別できないこと,カロリング後期になると,「教会会議」という集会類型が比較的

明瞭にあらわれてくるため,「教会会議決議」とそれ以外の集会の産物はある程度区

別可能になることがそれぞれ明らかになっている

(17)

.このことを踏まえるなら,少

なくともシャルルマーニュ期・ルイ敬虔帝期については,「教会会議」ならびに「教

会会議決議」という集会類型・史料類型を所与のものとして前提する態度は改めるべ

きであると考えられる.従って,本稿では基本的に「集会」という中立的な語のみを

用いて分析を行う事とした.先行研究がしばしば区別してきた「王国集会」,「貴族集

会」,「宮廷会議」といった集会の諸類型も,同時代の認識に根ざしたものではないた

め用いない.本稿では,史料中に何らかの形で王と貴顕の会合が行われたことを強く

推測させる文言があらわれる事例はすべて「集会」とみなすこととした.

 以下の分析の結論を先取りするなら,シャルルマーニュ期の「カピトゥラリア」に

関して,何らかの集会で成立したことが分かる事例の割合は極めて少数であるといえ

る.

「聖俗貴顕の集まる集会で参加者の同意を得て出される勅令」という伝統的な「カ

ピトゥラリア」のイメージに良く合致する事例として言及できる事例の数は多くはな

いのである.まず言及すべきは,779年のエルスタル集会である.この時出された全

23条の「カピトゥラーレ」capitulareの序文において,

「集会に」sinodali concilio集まっ

(7)

た司教,修道院長,伯がシャルルマーニュとともに「勅令」decretum に「同意した」

consenserunt ことが明言されているのである

(18)

.また,この集会で出されたと考えら

れているもう一つの「カピトゥラーレ」capitulare においても,「司教たちの同意」

episcoporum consensus への言及が見られる

(19)

.叙述史料にはこの時何らかの集会が開

催されたことへの言及は見られないものの

(20)

,これらのテクストは比較的多くの写

本で伝わっており,集会で成立した「勅令」のごとき文書が広範囲に広められたこと

が推測できる

(21)

.このことは,シャルルマーニュがその一年後に出した書簡形式の

回状からも読み取れる.これは,一部の者たちの報告を受けて,書簡の受け手である

世俗官職保有者の怠慢を非難する内容のものである

(22)

.「司教,修道院長,さらにそ

の他の聖職者の同意とともに」作成されたとされるこの「定め」instituta において

(23)

,「朕がかつて朕のカピトゥラーレで定めたごとくに」

(24)

といった文言ととも

にエルスタルの規定が言及されており,受け手である世俗官職保有者たちが,エルス

タルで出された文書を知っていることが前提とされているのである.

 789年の「一般訓令」

(25)

序文には「朕の聖職者ならびに助言者たちとともに」una

cum sacerdotibus et consiliariis nostris という文言が見られるため,このテクストも何ら

かの協議の中で成立したことがほのめかされているものの,synodusやconventusといっ

た「集会」を意味する語はあらわれず,叙述史料にもこの年アーヘンで何らかの集会

が行われたという情報は見られない.先行研究は,この文書がシャルルマーニュ周辺

の比較的少数の集団の中で成立したものであると考えている

(27)

 794年フランクフルト集会の事例は解釈が難しいものである.この集会で作成され

たいくつかの書簡と並んで,全56条の文書(通常「カピトゥラーレ」と呼ばれている

が本文中にはこの語はあらわれない)

(28)

が残されており,そこには王と「集会」

synodus が共同で決議するという体裁の条項が見られるため,この文書は一見すると

「集会で参加者たる貴顕の同意を得て出された勅令」のようにも見える.しかしテク

スト全体を見るなら,条項ごとの様式が不統一である点が目につく.この文書の伝存

状況が極めて悪いことも考慮に入れるのであれば,一部の研究者がすでに指摘してい

るように,これは(少なくとも我々に伝えられている形では)体系的に流布・保管さ

れることが意図されたものではなかったと判断すべきであろう

(29)

 年代記で言及される797年アーヘン集会と関連して,全11条のいわゆる「ザクセン

勅令」

(30)

が残されており,序文にあたる部分において,司教,修道院長,伯および

諸地域から参集したザクセン人たちが決定に「同意し,適切であるとみなした」

consenserunt et aptificaverunt と述べられている

(31)

.このテクストにおいては,序文以

外でも集会の場で決定が下されたことがたびたび強調されており

(32)

,「集会で参加者

たる貴顕の同意を得て出された勅令」というイメージに合致するものとなっている.

(8)

ただし,ザクセン人のみに関係する内容を含む規定であるためか,このテクストは2

つの写本でのみ伝存しているに過ぎない.また,『王国年代記改訂版』と『サンタマ

ン年代記』がそれぞれこの年のアーヘンでの集会について言及しているものの,「勅

令」の発布への言及は見られない

(33)

 802 803年にかけてアーヘンにおいて何度か開催された集会からは,多くの「カピ

トゥラリア」が伝存しているものの,そのほとんどには,集会での成立を示すような

文言は含まれておらず,アーヘン集会との結びつきは間接的に推測されているに過ぎ

ない

(34)

.「カピトゥラリア」内部で集会での成立が明言されているのは no. 77

(35)

みであり,それ以外では no. 39

(36)

,no. 41

(37)

の一部の写本のインスクリプチオにそ

れぞれ集会での成立をほのめかす文言があらわれているのみなのである

(38)

.なお,

これら3つのテクストがすべて「部族法典付加勅令」の体裁をとっている点は興味深

い.802 803年アーヘン集会について比較的詳細に叙述する『ロルシュ年代記』

(≒『モ

ワサク年代記』)においては,さまざまな処置が言及されているにもかかわらず,何

らかの文書の作成についての言及は,「王国におけるすべての法を読み上げさせ…必

要な箇所を修正させ,修正された法を書き留めさせた」

(39)

という「法」に関するも

のだけなのである.残されている多数の文書群からは,この時の諸集会における協議

や在地への決定内容の伝達過程においてさまざまな文書が用いられたことが推測でき

るものの,「集会の参加者たる貴顕を前に(またはその同意を得て)出された勅令」

のごとくに認識されているのは,いわゆる「部族法典付加勅令」のみだった可能性が

考えられる.

 MGH の「カピトゥラリア」の版に含まれるテクストで,集会での成立への言及が

見られるものとしてはさらに,805年にシャルルマーニュがリエージュ司教ゲルバル

ドゥスならびにその配下の者たちに宛てた書簡

(40)

を挙げることができる.これは「カ

ピトゥラリア」のメルクマールとされてきた条項別の形体を持っていないものの,

「聖

俗の朕の家臣たちと協議し,同意と正当な助言とともに朕が見いだした」ものである

と述べられている

(41)

.この「書簡」epistola の末尾においては,これを全員の前で読

み上げて解説し,さらにすべての洗礼教会ならびに修道院にこの内容を解説できる人

物を派遣することが求められている.3日間の断食を3度行う事を命じるこの書簡の

内容は,何らかの永続的に妥当する規定を定めるものではないものの,王権から在地

への意思伝達の一形態が垣間見える事例であるということができるだろう.

 813年にシャルルマーニュが王国内の5箇所で開かせた,聖職者による集会(「教会

会議」)の決議は,当然聖職者の集会で成立したものであるという体裁をとってい

(42)

.シャルルマーニュ自身が参加せずに,聖職者のみに集会を開かせるという形

式はそれまで見られなかったものであり,このような慣行はルイ敬虔帝によっても継

(9)

承されることとなる.ただし,

『王国年代記改訂版』や『モワサク年代記』が言及する,

アーヘンで皇帝を前に作成された5箇所の決議をまとめた文書は現在に至るまで同定

されていない.「アーヘン集会で(参加者たる貴顕の同意を得て)出された勅令」の

ような外観を持つテクストは一切残されていないのである

(43)

 「カピトゥラリア」およびその類似史料内部で集会における成立が明言されている

事例は,シャルルマーニュ期に関していえば,これまでに言及してきたものがすべて

である.806年シャルルマーニュによる王国分割については,その年のティヨンヴィ

ル集会において,フランク人の貴顕による誓いを獲得した上でその内容が文字化され

たことが『王国年代記改訂版』で明言されているものの,伝存している「分割令」自

体の中には,「同意」の文言や何らかの集会で成立した文書であることを示す記述は

あらわれない

(44)

.782年か785年に出された「ザクセン勅令」

(45)

には,「全員によっ

て決定された」placuit omnibus, ut... といった文言が見られるものの,文書全体の様式

の不統一や伝存状況の悪さを考えるなら,確定した文言を持った「勅令」として発布

されたものであるとは判断しがたい.一部の条項においてはシャルルマーニュが「国

王陛下」として言及されているにもかかわらず,シャルルマーニュが「朕」として一

人称複数で語る条項も見られるのである.上述の「フランクフルトカピトゥラーレ」

や,802年のいわゆる「綱領勅令」

(no. 33)にもあらわれるこのような「混合形態」は,

シャルルマーニュ期の「カピトゥラリア」にしばしば見られるものである

(46)

.こう

した要素の存在は,あらかじめ行われた聖職者や世俗貴顕,当該問題に関する専門家

等の部会における協議の成果に基づいて,王(皇帝)を前にさらなる議論が行われる

という,当時の意思決定過程を反映しているものとして説明されるのが一般的であ

(47)

.ただし,この種のテクストが,集会における協議において利用されたもので

あることは間違いないにしても,その後より体裁の整った「完成版」のようなものが

毎回作成されたとは限らないという点には注意が必要である

(48)

.シャルルマーニュ

や彼の宮廷人たちが,この種の文書に見られる規定を現実に適用しようと考えていた

可能性を否定すべきではないものの,確定した文言を持った「勅令」のごとき何らか

の文書が作成されたのかどうかは別の問題なのである.

 b)シャルルマーニュ期の「カピトゥラリア」と集会の関係性のまとめ

 これまでの分析から,集会で成立したことが「カピトゥラリア」内部で述べられる

事例は,シャルルマーニュ期に関しては極めて少数にとどまることが明らかになった

ものと思われる.上で言及したもの以外の「カピトゥラリア」には,集会での成立を

ほのめかす要素は一切あらわれないのである.その数を挙げるなら,ピピン期のもの

やイタリアのものを除いても40点以上,MGH 版の補遺 Additamenta 所収のものも加

(10)

えるなら60点以上にのぼる.従って,これまで本稿で見てきた事例をシャルルマー

ニュの「カピトゥラリア」の典型例であるとみなすことはできない.「聖俗貴顕の集

まる集会で参加者の同意を得て出される勅令」という伝統的なイメージに合致するも

のはごく一部の事例のみであり,それ以外の大多数の「カピトゥラリア」にまでその

ようなイメージを拡張することは許されないのである.

 このような知見は,「同意」をめぐる議論についても,問題設定の見直しを迫るも

のである.研究史においては長い間「同意」の意義をめぐって議論が進められてきた

ものの,実際の所シャルルマーニュ期の「カピトゥラリア」とみなされてきたテクス

トにおいて,

「同意」はごく少数の事例にあらわれるに過ぎない.ハニッヒは,

「同意」

定式が見られない「カピトゥラリア」であってもその原本には「同意」定式が含まれ

ていた可能性を強調するものの

(49)

,むしろ「同意」ないし何らかの集会での成立を

示唆する情報が含まれている事例と,それ以外の大多数の「カピトゥラリア」は根本

的に異なるものである可能性を考えるべきではないだろうか.以下ではさらにこの点

に迫るために分析を進めることとする.

 c)過去の文書(「カピトゥラリア」)への言及

 「カピトゥラリア」内部に過去の「カピトゥラリア」への言及が見られることは,

すでにいくつかの研究で指摘されてきたことである

(50)

.しかし,どのような文書が

どのような形で言及されているのかを網羅的に分析した上で,「カピトゥラリア」と

みなされてきた文書群が,同時代人によってどのようなものとして認識されていたの

かという問題を扱った研究は,管見の限りでは存在しない.以下では,a)で確認し

た集会との関係性の問題とも接合しつつ,シャルルマーニュ期の「カピトゥラリア」

に見られる過去の規定への言及を網羅的に取り上げた上で分析を行っていく.なお以

下の議論においてしばしばあらわれる capitula や capitulare という語の同時代における

意味については注意が必要である.これらの語は初期中世においては第一に,「条項

別の形式で書かれた文書」一般を意味し得たのであり,史料中にこれらの語があらわ

れたからといって,「カピトゥラリア」という何らかの一史料類型が意味されている

と考えるべきではないのである

(51)

.capitula や capitulare の語は,何らかの形容詞や

付加語を伴って初めて,特定の文書(ないし特定の文書類型)を意味する語としてあ

らわれてくるのである.

 はじめに取り上げるのは,特定の文書に言及していることが明らかな事例である.

803年の「巡察使カピトゥラーレ」

(52)

第19条において,「人民は,先日法に付加され

たカピトゥラについて意見を求められるべきである.そして全員が同意した後,その

カピトゥラに署名と置手確認を行うべし」

(53)

との規定がなされている.「法に付加さ

(11)

れた」と明言されていることから,ここで言及されている「カピトゥラ」が,同年に

出された「部族法典付加勅令」を指していることは明白である

(54)

.803年の「付加勅

令」は,シャルルマーニュが息子であるイタリア(副)王ピピンに宛てた書簡

(55)

おいても,「朕が法に書き加えられるよう命じた若干のカピトゥラ」

(56)

として言及さ

れており,これらの規定に「従わず,同意を与えず,法とみなそうともしない」

(57 )

者たちがいると述べられている.アーヘンでの集会において規定が成立した後,在地

で「同意」が得られることが念頭に置かれている点は興味深いものの,この問題には

これ以上は立ち入らない

(58)

.ここで確認しておくべきことは,シャルルマーニュ宮

廷および no. 40や no. 103の受け手(国王巡察使とその管区内の住民,イタリア王ピ

ピン)において,803年の「付加勅令」が確定的な文書の形で存在するものであると

認識されている可能性が高いという点である.

 同様の事例としては,806年の「王国分割令」を挙げることができる.この文書は

同年,ネイメヘンで出された「巡察使カピトゥラーレ」

(59)

第2条において,「朕の息

子たちの間での平和的な和合のために朕が定めた物事に,全員が同意を与えるべきで

ある」

(60)

として言及されているのである.ここで「物事」と訳した ea が何らかの文

書を指していると考えることが許されるかどうかは明確ではないが(ea = capitula と

いう解釈も不可能ではない),国王巡察使が自らの管区内でそれらの内容に対する「同

意」を獲得することを要請されていることを考えるならば,彼らが「息子たちの平和

的な和合のために朕が定めた物事」(=「王国分割令」)を文書の形で持っていること

が期待されていると解釈することは可能であると思われる.

 813年に王国5箇所で行われた聖職者による集会(「教会会議」)の決議も,一つの

文書

(61)

の中で引用されているため,確定的な文書の形で存在するものとして認識さ

れていたことがうかがえる.この事例では,「マインツで開かれた教会会議の第6条」

Capitula concilii Mogontiae habiti.

.などとして,各決議の内容が抜粋・引用されて

いるのである.この文書の成立事情について,確定的なことを述べるのは困難である

が,シュミッツはこれが宮廷で作成された文書である可能性も否定しない

(62)

 ここまでに見てきた事例は,過去の「カピトゥラリア」一般に言及するものではな

く,特定の文書に言及する事例に相当する.そして,これら過去の特定の文書への言

及は宮廷に由来する文書に見られるため,シャルルマーニュやその周辺の者たちが,

これらを確定した文言をもった文書として認識していたことを推測出来る.また,こ

れらの事例がすべて年代記中で決定が文字化されたことへの言及が見られるものであ

るとともに,直接的・間接的に集会で成立したテクストであることが判明している事

例である点は注目に値する.

 779年にエルスタルで出された「カピトゥラーレ」(no. 20)への言及は,これまで

(12)

見てきた事例ほど明瞭なものではない.780年の書簡(no. 94)において「朕がかつ

て朕のカピトゥラーレで定めたごとくに」と言及されていることについてはすでに

a)で扱ったが,794年の「フランクフルトカピトゥラーレ」第25条に見られる「国

王陛下のかつてのカピトゥラに従って」secundum priorum capitulorum domni regis と

いう文言も,「エルスタルカピトゥラーレ」を指していると考えられている

(63)

.両者

ともが教会所領のプレカリア契約と nona et decima の問題を扱っており,内容の点で

「エルスタルカピトゥラーレ」第13条に対応しているのである.これらの史料におい

て,「国王陛下のカピトゥラ」,「朕の(かつての)カピトゥラーレ」という言い方の

みで,特定の文書が指し示されている理由の説明は容易ではないものの,780年書簡

については,エルスタル集会から一年後のものであるため,「朕のカピトゥラーレ」

の指称対象が受け手にとっても比較的明らかであったことを推測できる.その14年後

の794年フランクフルト集会における討議の参加者にとっても,このコンテクストの

中で「国王陛下のカピトゥラ」といえば,nona et decima の問題を扱った779年の「エ

ルスタルカピトゥラーレ」を指すということが自明のことだったと考えるべきなのか

もしれない.その成立事情に関わらず,理論上は,君主に由来する条項別に書かれた

文書はすべて同時代人によって「国王のカピトゥラ」と呼ばれ得たのであるが,その

ような文書の中で nona et decima についてのある程度詳細な規定を含むものは,794年

段階では779年の「エルスタルカピトゥラーレ」のみだったのであろう

(64)

 続いて扱う事例は,宮廷周辺ではなく大司教区レヴェルの認識を示すものである.

800年前後に大司教アルノのもとザルツブルク大司教区で行われた一連の大司教区会

(65)

の序文に,シャルルマーニュによる過去の規定に対する言及があらわれる.こ

こでは,「(国王が)アーヘンで宗教の状況や生活慣行の適切さについてとりまとめた

もの」

(66)

ならびに,「フランクフルトと呼ばれる場所での大集会においてまとめられ

たカピトゥラをもって,すべての教会管区で遵守するよう命じたこと」

(67)

への言及

が見られるのである.前者は明らかに789年の「一般訓令」を指していると考えられ

るものの

(68)

,後者の「カピトゥラ」が我々に伝えられている「フランクフルトカピトゥ

ラーレ」と同一のものを指すのかについてははっきりしない

(69)

.すでに述べたよう

に,794年のフランクフルト集会から残されている「カピトゥラーレ」は,「完成版」

として流布させることが意図されたものとは考えにくいのである.この問題に対する

解答を現段階では筆者は持ち合わせていないものの,「我々はこれらを中央に運び,

一つ一つを読み上げるようにつとめた」

(70)

という文言から,この大司教区会議にお

いて何らかの文書が用意されていたことは確実であるといって良いだろう.

 「一般訓令」への言及は,1987年に新たに発見された文書

(71)

の中にも見られる.

このテクストを刊行したモルデク・シュミッツは,これが「シャルルマーニュのカピ

(13)

トゥラリアの一つ」であると考えたが,後にポコルニーにより,大司教区会議で行わ

れたスピーチ,

(おそらくザルツブルク大司教区の)大司教区会議決議,シャルルマー

ニュによる巡察使への指示の抜粋を結合した文書であることが明らかにされてい

(72)

.「一般訓令」への言及があらわれるのは,ポコルニーが大司教区会議決議とみ

なす部分である.そこでは「主君のカピトゥラリアに書かれているように」(第10

条)

(73)

,「主君のカピトゥラリウム[?]において」(第22条)

(74)

という文言ととも

にシャルルマーニュの過去の規定への言及が行われており,「一般訓令」の規定内容

が抜粋されているのである

(75)

.この文書が,ザルツブルク大司教区およびその地の

巡察使と関連しているというポコルニーの推測が正しいのであれば,この文書を作成

した人物もザルツブルク大司教アルノということになる.ここからは,アルノが「一

般訓令」の写しを所有していたこと,それを一つの確定した文書(「主君のカピトゥ

ラーレ」)とみなしていたことが推測できるのである.

 さて,ここまでで扱った事例以外にもシャルルマーニュの「カピトゥラリア」内部

における過去の規定への言及の事例は多数見られ,とりわけ800年頃からその数が増

加していくものの,それらはここまでの事例とは大きく異なる様相を示している.同

定可能な限りにおいて,過去の規定に言及する文言を含む文書ならびにそこで言及さ

れていると推測される文書のほとんどが,国王巡察使が用いるタイプのものなのであ

る.これまでに見てきた文書に関しても,789年の「一般訓令」や803年の「付加勅令」,

806年の「王国分割令」は国王巡察使を通じて在地の人々に伝えられることが意図さ

れていたことが明らかである.しかしそれらの文書は,国王巡察使のみに宛てて書か

れた形式をとっておらず,むしろ一定の形式性を持った「勅令」をイメージさせる外

観を示している.それに対し,以下で見ていく事例の多くは,国王巡察使のみに宛て

た形式をとっており,場合によってはメモ書きのような条項をも含んでいるという点

で,これまでに見てきた事例とは大きく異なるものである.また,国王巡察使向けの

文書におけるかつての文書への言及は常に不明瞭な形で行われており,どの文書を指

しているのかの判断に際しては,言及されている内容に基づいて推測を行う必要があ

る.

 805年のいわゆる「ティヨンヴィル第二巡察使カピトゥラーレ」(no. 44)

(76)

は比較

的多くの文書で言及されている.すなわち,806年「ネイメヘン巡察使カピトゥラーレ」

(no. 46)第10条

(77)

,808年 の 文 書(no. 52)の 第4条

(78)

,806 813年 の 文 書(no.

55)第3条

(79)

,809年の「アーヘン第一巡察使カピトゥラーレ」(no. 62)第16条

(80)

において,それぞれ no. 44の規定に言及していると思われる文言があらわれるのであ

る.

(14)

過去の規定への言及がいくつか見られる.そのうち,第14条

(81)

が言及する「別のカ

ピトゥラーレ」は,803年の「巡察使カピトゥラーレ」(no. 40)の規定を意味するも

のと推測できるものの

(82)

,第6条

(83)

,第16条

(84)

,第21条

(85)

にあらわれる過去の

規定への言及が,過去のどの規定を念頭に置いているのかは必ずしも明確ではな

(86)

 no. 44は30の写本で伝わっており,伝存数においても際立っているため,それなり

の数の写しが作成されて,国王巡察使に与えられたことが推測出来る.この文書が

805年にティヨンヴィルで作成されたものであることは,写本のインスクリプチオか

ら明らかになるものの,これが何らかの集会で成立した文書であることを示すような

文言は一切見られず,当然のことながら「同意」の文言も含まれていない.そもそも

805年にティヨンヴィルで何らかの集会が開催されたとの情報は年代記にも全くあら

われないため,この文書はシャルルマーニュ周辺の比較小規模な集団の内部で作成さ

れた後,国王巡察使たちに渡されたものであると推測できる.これは,何らかの公開

の場での協議に基づいたものではないのである.

 805年の「ティヨンヴィル第二巡察使カピトゥラーレ」に続く時期からは,さらに

興味深い事例があらわれる.過去に行った諸々の処置に一括して言及する事例があら

われるのである

(87)

.これらの事例がすべて,国王巡察使とのコミュニケーションの

文脈内に位置付けられるものである点にも注目すべきであろう.すでに扱った1987年

の新発見文書の第43条(シャルルマーニュによる巡察使への指示文書からの抜粋とみ

なされている部分)には,「朕のカピトゥラリアに含まれていることすべて」hec

omnia, que in capitulariis nostris continentur

( 88)

に巡察使一人一人が配慮し,正すこと

ができなかった内容を君主に伝えることが求められている.813年に位置付けられて

いるもう一つの新発見文書においても,「このカピトゥラ,そしてこれらに類似した

ものを,あらゆる方法で守るように」ista capitula et his similia omnimodis observare と

の文言に続いて,「何年にもわたって朕が王国中に送ったカピトゥラリアやその他す

べ て に つ い て」de istis autem capitulariis atque de aliis omnibus, que a multis annis

misimus per regnum nostrum 巡察使たちがその遵守状況を皇帝に報告することが求め

られている

(89)

.802 813年の「巡察使カピトゥラーレ」第4条

(90)

にも同様の規定が

見られるほか,教会が正しい書物を所有することに巡察使が配慮すべきという内容の

同第1条には,「すでに他のカピトゥラーレの中で何度も命じたように」

(91)

との文言

が見られる.特定のテーマに限定して過去の規定へ一括した言及を行うものとしては

さらに,平和と正義についてを規定した810年のいわゆる「アーヘン第一カピトゥラー

レ」第10条

(92)

を挙げることができる.以上の例からは,シャルルマーニュが「条項

に分かれた文書」(capitula ないし capitulare と呼ばれうるタイプの文書)で国王巡察

(15)

使に指示を与えていたこと,それらを巡察使らが保管ないし記憶するよう期待してい

たことが明らかになる

(93)

 他方で,国王巡察使への指示が文書のみで行われていたわけではないことは,2007

年に新たに刊行された「カピトゥラリア類似文書」

(94)

の中で,「彼[シャルルマー

ニュ]が自身のカピトゥラリアの中で記述した,または彼の巡察使たちに対して記憶

に基づいて公知するようにと定めたすべて」

(95)

という文言から明らかになる.さら

に,裁判集会を行う場所を整備するよう求める809年の「アーヘン第一巡察使カピトゥ

ラーレ」第25条には,「朕が自分の声で述べたように」sicut ore proprio diximus

(96)

いう文言もあらわれるのである

(97)

 d)過去の文書への言及のまとめ

 以上の分析から明らかになるのは,我々が「カピトゥラリア」とみなしてきた文書

群が,同時代人によっても一様には把握されていなかったということである.802

803年の「付加勅令」,806年の「王国分割令」,813年の王国内5箇所で同時に開かれ

た聖職者の集会の決議といった事例は,他の「条項別の文書」とは異なる形で,それ

と分かる形で言及されていた.これらのテクストは条項別の形式で書かれていたた

め,他の多数の文書と同じように capitula や capitulare といった語で指称されていたも

のの,そこには「先日法に付加された」といった対象を特定する文言が付されている.

これらの事例は,多かれ少なかれ「集会の場で参加者たる貴顕の同意を得て出された

勅令」のごとき要素が見られる,伝統的な「カピトゥラリア」のイメージにある程度

合致するものである.そして同時代人も,これらの文書を,他の雑多な条項別の文書

とは異なるものとして認識していた可能性が高いのである.

 他方で,800年以降になると,国王巡察使宛の文書の中に,過去に彼らに与えたテ

クストに言及する事例が多数あらわれてくる.過去の capitula/capitularia に一括して

言及する事例も登場するものの,それらもすべて国王巡察使宛の文書における事例で

ある点に注目すべきである.このような事例で言及されている文書は,集会で成立し

たという形式をとっておらず,公の場にあらわれるものというよりは,国王巡察使が

その業務のために用いるタイプの文書であったと考えられる.ここでは,「カピトゥ

ラリアとは国王巡察使が用いる文書であった」との結論が得られた訳ではないという

点に注意が必要である.分析から明らかになったことは,800年以降の時期になると,

シャルルマーニュ宮廷が国王巡察使に宛てて出した文書を一つのまとまりとして把握

しているということなのである.シャルルマーニュが「過去のカピトゥラ」などと述

べる時,どの範囲のテクストを念頭に置いていたのかについて,現段階では確定的な

結論を出すことはできないものの,その範囲は我々がこれまで「カピトゥラリア」と

(16)

みなしてきた文書群の範囲とは大きく異なっていることを想定すべきであろう.そし

て,それらは「集会の場で参加者たる貴顕の同意を得て出される勅令」とは根本的に

異なるものとして認識されていた可能性が極めて高いということも忘れてはならない.

 もう一点重要な知見として,800年をまたいで行われる過去の規定への言及の事例

が基本的に見られないという点を指摘できる.同定できた限りにおいて,そのような

事例は,ザルツブルク大司教区における「一般訓令」とフランクフルトの決議への言

及のみである.比較的多数の伝存数を誇る「エルスタルカピトゥラーレ」ですらも,

800年以降の文書の中では言及されなくなるのである.以前から「800年の皇帝戴冠以

降カピトゥラリアの数が増加する」ことは指摘されていたが

(98)

,本稿の知見は800年

頃からシャルルマーニュのもとでの文書利用のあり方自体が一定の変化を経たことを

強く示唆している.それはおそらくは,単なる「カピトゥラリア数の増加」という事

象ではなかったのではないだろうか

(99)

 なお,ガンスホーフは過去のテクストへの言及の存在が,

「カピトゥラリア」がアー

カイヴに保管されていたことを示していると考えているものの

(100)

,過去の規定への

言及の仕方の不明瞭さを考えるなら,必ずしもそのような状況を想定する必要はない

ものと思われる.本稿の分析に従うなら,シャルルマーニュは,過去に与えた文書が

(宮廷ではなく)巡察使の側で保管されていることを期待しているとの印象が強い

(101)

2)ルイ敬虔帝期

 ルイ敬虔帝時代に関しても,何度か行われた王国分割の事例

(102)

を除くと,集会で

の成立が「カピトゥラリア」内部で明言されている事例は以下で扱う数例に限定され

ている.興味深いのは,過去の文書への言及もこれらの事例に集中している点である.

シャルルマーニュ期のような,過去の国王巡察使宛の文書一般に言及する事例があら

われなくなるとともに,他の文書への言及は,同時に出されたものか,過去1∼2年

程のものに対してのみ行われているのである.以下では事例ごとにルイ敬虔帝期の

「カピトゥラリア」と集会の関係性および「カピトゥラリア」の相互の言及を分析し

ていくこととする.

 a)815 816年イスパニア辺境に関する「文書」

 ルイ敬虔帝期の事例ではじめに過去の規定への言及が見られるものは,816年2月

にアーヘンで出された,イスパニア辺境からの亡命者に関する処置を規定した文書で

ある

(103)

.そこでは,前年に出された同種の文書

(104 )

が,「朕の権威に基づく文書」

praeceptum auctoritatis nostrae として言及されているのである.815年の文書において

(17)

にその底本が「朕の宮廷アーカイヴに」in archivo palatii nostri 保管されるとの内容が

見られるため,実際にアーヘンの文書庫に815年の「文書」praeceptum が保管されて

いたのであろう

(105)

.この2つの文書は,MGH の「カピトゥラリア」の版に収録さ

れているものの,praeceptum という通常「君主文書」を意味する語で呼ばれているほ

か,その形式も証書・命令書を思わせるものであるため,「カピトゥラリア」ではな

いとみなす研究者も多い

(106)

.筆者は,「カピトゥラリア」を厳密に定義して議論を

行うことに有用性を認めない立場をとるため,この文書が「カピトゥラリア」に含ま

れるのかどうかという問い自体に意義を認めないものであるが,いずれにしてもこの

2通の文書は内容・形式両面において独自のものであるため,特殊事例として扱うべ

きものであろう.

 b)816 817年アーヘン

 ルイ敬虔帝時代の2番目の事例は,816年アーヘン集会で作成された「参事会会則」

および「女子修道会則」である

(107)

.両方の文書が序文に当たる部分で,アーヘンで

の「聖なる集会」で成立した文書であることを明言しているほか,叙述史料

(108)

やこ

の集会に参加できなかった大司教に送られた書簡

(109)

において,「書物」liber,「条項

の形で述べられた規範文書」capitulatim memorata institutionis formula などと言及され

ている.これらの文書は,国王巡察使を通じて王国各地に体系的に広められるべきも

のとされており

(110)

,極めて多くの写本で伝存しているため,この処置が相当程度実

現していたことが推測できる

(111)

.また,

「参事会会則」は,この時から5年以上たっ

たある時期に司教たちが皇帝に提出した「カピトゥラ」capitula

(112)

の中でも,「参事

会員の身分について…栄光あふれる皇帝の命令で一書にまとめられた抜粋集」

(113)

して言及されている.これは狭い意味での「勅令」とは異なるものであると言えるか

もしれないが,多くの点で伝統的な「カピトゥラリア」のイメージ(「集会の場で出

される文書」)に良く合致する事例である.

 816年の集会においては,修道会則についての協議も行われていた模様であり,817

年夏の集会でその成果は「修道院カピトゥラーレ」として公にされた

(114)

.この文書

においても,アーヘンでの修道院長と修道士たちとの集会において作成されたもので

あることが明言されており,これが40以上もの写本で伝存していることからは,叙述

史料に書かれているごとく実際に王国内の修道院に体系的に送付されたことが推測で

きる

(115)

 c)818 819年アーヘン

 818年末から819年にかけてアーヘンで行われた集会からは,「教会カピトゥラー

(18)

レ」,「部族法典付加勅令」,「独立カピトゥラーレ」が残されている

(116)

.一度の集会

で複数の文書が作成された事例は,802 803年にも見られたものの,818 819年の事例

においては,一連の文書の「序文」にあたるテクストも残されており

(117)

,ルイ敬虔

帝がこれらの文書をどのようなものとして認識していたのかが明らかになる.そこで

ルイは,アーヘンの集会において,教会人が守るべきもの,世俗の諸法に付加される

べきもの,「カピトゥラにまとめられるべきもの」

(118)

をそれぞれ書き留めさせたこ

とを述べ,それに続いて「朕は,まとめられたものを,記憶に留め確かなものとする

ために,簡潔に一つにまとめ,以下に続くカピトゥラに書き写し,公のアーカイヴに

保管することを欲した」

(119)

と明言している.ここでルイが「簡潔に一つにまとめ」

と述べている通り,ほとんどの写本中で,これらの規定群はひとまとまりの形で伝存

しており

(120)

,はじめからひとまとまりの形でこれらの文書が広められたことが推測

できる.このことは,「…については別のカピトゥラに書き留めておいた」de ... aliis

capitulis adnotavimus といった文言とともに,これらのテクストが相互に参照指示を

行っていることからも明らかである

(121)

.3つの文書は一つにまとまった形になって

初めて意味をなすものなのである.集会の場でテーマごとに3つの文書が成立したこ

とが明らかなこの事例も,伝統的な「勅令」としての「カピトゥラリア」のイメージ

に合致するものであるといって良い

(122)

 ただしこれら3種類の文書のうち,「部族法典付加勅令」だけは特別な性質を持つ

ものであると認識されていたことを示唆する痕跡がいくつか残されている.この「付

加勅令」は,この集会からやや遅れて成立したと考えられている文書

(123)

において,

「かつて[皇帝が]法とみなすようにと定めた皇帝陛下のカピトゥラに従って」

(124)

として言及されているほか,821年の文書

(125)

には,「過ぎし年に全員の同意を得てサ

リカ法に付加されるようにと朕が決定していたカピトゥラは,今後はカピトゥラでは

なく法とのみ呼ばれ,それにとどまらず法とみなされるべし」

(126)

という文言が見ら

れる.818 819年の「付加勅令」は,単なる「カピトゥラ」

(=条項別に書かれた文書)

ではなく,「法とみなすべき」ものと認識されていたのである

(127)

 d)823 825年アーヘン

 シャルルマーニュ期と異なり,ルイ敬虔帝の「カピトゥラリア」には,過去に出し

た文書一般に言及する事例はほとんど見られない.その種の文言を含む唯一の事例

は,ル イ 敬 虔 帝 が823 825年 に 出 し た Admonitio ad omnes regni ordines(以 下

Admonitio)

(128)

である.この文書は第26条において「現在や別の時に,朕の臣下の熟

慮の中で朕によって定められたカピトゥラ」

(129)

に言及し,それらを「朕のカンケラ

リウス」から獲得するようにと指示しているのである.ここで問題となるのは,「現

(19)

在や別の時に,朕の臣下の熟慮の中で朕によって定められたカピトゥラ」とは,具体

的に何を指しているのかということである.ほとんどの先行研究はこれを「ルイ敬虔

帝がそれまでに出したカピトゥラリア」と解釈してきたが,capitula という語と現代

の分析概念たる「カピトゥラリア」の同一視から導かれたそのような推論を支持する

ことはできない.筆者がかつて指摘したように,ここで「現在や別の時に,朕の臣下

の熟慮の中で朕によって定められたカピトゥラ」という文言で指し示されているの

は,この Admonitio と818 819年の一連の文書である可能性が高い

(130)

.ここで議論の

詳細を繰り返すことは避けるが,Admonitio 第26条以外にあらわれる,過去の capitula

や capitulare への言及が,818 819年の文書群に含まれる規定内容と良く対応している

ことがその根拠となる.ここからは,この時期になっても818 819年の文書は「集会

の場で君主が参加者とともに発布した文書」として捉えられていたこと,Admonitio

もそれと並置されうるような文書とみなされていたことが明らかになる.

 ただし,「朕の臣下の熟慮の中で」出されたと明言されている Admonitio であるが,

818 819年の事例と異なり,叙述史料にはこの文書の発布と結びつけられるような集

会への言及は見られない.これは,シャルルマーニュの「一般訓令」と同じように,

叙述史料にあらわれないような比較的小規模な集団の内部で作成された後,国王巡察

使を通じて各地に送付された文書だったのかもしれない.このことを裏付けるよう

に,Admonitio と同じ年に出されたと考えられる国王巡察使向けの文書には,「朕が朕

のカピトゥラを通じて定めたことが,すべての者に伝えられ,すべてのものにおいて

実行されるようにすることを彼ら[国王巡察使たち]は配慮すべし」

(131)

という文言

が見られるのである

(132)

 e)828 829年アーヘン・ヴォルムス

 828 829年にかけての一連の集会は,ルイ敬虔帝の文書利用を考える際に興味深い

事例を与えるものである.まず,828 829年にかけての冬にアーヘンで比較的小規模

な集会が開催され

(133)

,王国内の4箇所で聖職者の集会(「教会会議」)を開くことな

どが決定されて,国王巡察使が各地に派遣された.この時の巡察使派遣と関連してい

ると思われる文書が何点か残されているが

(134)

,「集会の場で参加者たる貴顕の同意

を得て出された勅令」のごとき文書が作成されていない点には注意が必要である.こ

れらの文書の中でルイ敬虔帝は,各地で行われる聖職者の集会の成果を文書の形でま

とめることを要求しており,実際に司教たちが作成した報告文書が残されている

(135)

 これらの成果に基づいて行われたのが829年8月のヴォルムス集会である

(136)

.こ

こでも,818 819年と同じように,テーマや機能ごとに3種類の文書が出されている

ものの

(137)

,相互に言及し合う事例があらわれないのみならず,過去の規定への言及

(20)

の仕方に大きな変化が見られる点は注目に値する.「以前のカピトゥラーレに従って」

secundum capitularem priorem などと818 819年の規定への言及がなされるのに加え,

827年にフォントネル修道院長アンセギスが私的に作成したと考えられている「カピ

トゥラリア蒐集」

(138)

に従って,「良き記憶の中の朕の父のカピトゥラーレ,第1巻

157条」in capitulare bonae memoriae genitoris nostri in libro primo, capitulo CL

VII

,「朕の

カピトゥラーレ,第2巻第21条」in capitulare nostro in libro secundo, capitulo

XXI

(139)

といった文言がいくつもあらわれるのである.

 実際の所,これらの文書(nos. 191 193)の内部には,これらがヴォルムスの集会

で成立したものであることを明確に示す文言は見られず,ヴォルムス集会との結びつ

きは,写本中の伝存形体や no. 191に付された「朕の帝位16年目」という文言から推

測されているに過ぎない.こうしたことを踏まえるなら,これらの文書はそもそもは

「集会で参加者の同意を得て出された勅令」のようなものではなかった可能性も考え

られるかもしれない.いずれにしても,これらの文書は多くの場合アンセギス蒐集自

体と結合した形で伝わっており,この蒐集との結合がこれらの文書の大量の伝存を促

したのだと考えることが可能である

(140)

 過去の規定を体系的に蒐集しようと試みたアンセギス蒐集の成立と君主によるその

利用のもつ意義については,稿をあらためて論じる必要があろうが

(141)

,830年以降

王子たちの反乱が勃発し,「カピトゥラリア」がほとんど伝存しない状況が訪れるた

め,ルイ敬虔帝宮廷におけるアンセギス蒐集の影響を判断することは困難である.王

国分割関連を別とするなら,830年以降に,集会での決定を文字化したものであるこ

とを明言するルイ敬虔帝の文書としては,836年2月のアーヘン集会から残されてい

る教会関係の決議

(142)

を挙げることができるに過ぎないのである.

 f)ルイ敬虔帝期のまとめ

 ルイ敬虔帝期に関しても,「カピトゥラリア」と集会の関係性については,シャル

ルマーニュ期について検出されたのと同様の印象が得られている.818 819年や828

829年の事例では,何度か連続して集会が開催されて国王巡察使が派遣される中で,

多様な文書が用いられたことが明らかになってはいるものの,「聖俗貴顕の集まる集

会で参加者の同意を得て出される勅令」という印象が得られるような事例は,ごく少

数にとどまっているのである.そのような少数の事例のみに,底本のアーカイヴへの

保管に関する規定があらわれる点

(143)

,これらのテクストが伝存数において他の「カ

ピトゥラリア」を大きく上回っている点

(144)

は注目に値する.

 これに対して,ルイ敬虔帝期における他の「カピトゥラリア」への言及のあり方は,

シャルルマーニュ期と比較すると大きく変化している.ルイ敬虔帝期から検出された

(21)

のは,同時期や直近の過去に出されたものへの言及がなされる事例がほとんどであ

り,アンセギス蒐集の登場以前で,一定期間を経た後に過去の文書に言及する事例は,

823 825年の Admonitio にあらわれた818 819年の諸文書に対する言及のみなのである.

また,800年以降に見られた,過去の巡察使宛ての文書一般を指して「朕のカピトゥ

ラーレ」などと述べる事例はルイ敬虔帝においてはあらわれない.すでに見てきた事

例からも明らかなように,ルイ敬虔帝期になって巡察使が用いるタイプの文書が消滅

したわけではないものの,シャルルマーニュ期に見られたような形式が大きく乱れた

ものや,成立事情が不透明なものの割合はルイ敬虔帝期には減少しており,この点に

おいて何らかの慣行の変化を読み取るべきなのかもしれない.他方で,818 819年の

「付加勅令」は明らかに他の文書とは異なる性質のものとして認識されていた痕跡が

見られ,ルイ敬虔帝はそれを「法」lex と呼ばせることすら試みている.この点につ

いては,シャルルマーニュ期の認識が継続しているとみなして良いだろう.

 最後に,アンセギス蒐集があらわれるまでは,ルイ敬虔帝の「カピトゥラリア」に

はシャルルマーニュ期の文書に対する言及がほとんど見られないことも指摘しておき

たい.「集会で参加者たる貴顕の同意を得て出された勅令」のごときものであったこ

とが推測できる779年「エルスタルカピトゥラーレ」や802 803年の「付加勅令」,大

量の写本中で伝存している789年「一般訓令」,アーカイヴへの保管が示唆されている

813年の諸集会の決議,800年以降に多数用いられシャルルマーニュもひとまとまりの

文書類型のごとくに認識していた巡察使向けの文書群などは,ルイ敬虔帝の「カピ

トゥラリア」の中では一切言及されていない

(145)

.この知見が何を意味するのかにつ

いて,筆者は現段階では十分な説明を行う事ができないものの,何らかの理由でシャ

ルルマーニュ期とルイ敬虔帝期の文書慣行に一定の断絶が見られることは間違いない

ものと思われる

(146)

Ⅲ.結論と展望

1)同時代の君主たちにおける「カピトゥラリア」認識と文書慣行のあり方

 本稿の分析により,シャルルマーニュ期・ルイ敬虔帝期の「カピトゥラリア」にお

いて,「集会の場で参加者たる貴顕の同意を得て出される勅令」のごとき印象を与え

るものはごく一部にとどまることが明らかになった.確かにこれら少数の「勅令」の

ごときテクストは,条項別の形式で作成されているという理由から,その他の多種多

様なテクストと同じく capitula/capitulare といった語で指称されうるものではあった.

それでも本稿の分析からは,君主およびその周辺の者たちが,これら「集会の場で発

布される勅令」のごときテクスト,とりわけ「部族法典付加勅令」を,その他の多種

多様な文書群とは異なるものとして認識していた可能性が高いことが明らかになっ

参照

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