清朝後期における中央基層官僚の基礎的考察 ─ 戸部の旗人官僚を中心として―
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(2) との記載がある。なお宗室毓年は﹃履歴﹄によれば、﹁三十一. ︶. 年正月、籤分戸部行走、五月、選授兵部員外郎﹂すなわち. ︵. しかし、昨今は史料状況が大きく変わりつつある。たと えば﹃続修四庫全書﹄や﹃清代各部院則例﹄に吏部﹃銓選. 建司員外郎上行走の宗室毓年が﹁光緒三十一年三月到部﹂. 則例﹄をはじめとする各衙門の﹃則例﹄が収録された。こ. 光緒三十一年︵一九〇五年︶の正月に戸部員外郎行走へ掣. ︶. のほか、毎年毎季節の全国の正任官僚を網羅した﹃縉紳全. 籤 さ れ、 五 月 に は 兵 部 員 外 郎 に 選 任 さ れ、 以 降 宣 統 三 年. ︵. 書﹄ も出版された。ただし基本的に候補官僚は掲載されず、. していない。一冊本が五月以降の編纂であれば毓年の名は. ︵一九一一年︶に貴州省石阡府知府となるまで戸部へ再任. ︶. 後述の﹃同官録﹄に比べ情報量は少ない。また、官僚の履. ︵. 歴を詳細に知ることのできる﹃清代官員履歴檔案全編﹄ ︵以 ︶. 当 然 あ ら わ れ る は ず も な い。 と す れ ば、 二 冊 本 は 光 緒. ︵. 下﹃履歴﹄と呼称︶も出版された。この文書はもともと皇. 二十八年︵一九〇二年︶ごろの、また一冊本は光緒三十一. ︶. 官録﹄および﹃戸部筆帖式同官録﹄を調査し得た。これは. こうした出版事情の変化のほか、筆者は﹃戸部満司員同. 部則例﹄などを参照しつつ、清朝末期における中央官庁の. れより二種類の﹃戸部同官録﹄を中心に、 ﹃履歴﹄や﹃吏. 戸部の一端を垣間見ることができるのである。そこで、こ. ︵. 年︵一九〇五年︶五月までの編纂と考えられよう。この﹃戸. ︵ ︶. 帝が臣下を謁見する際の参考資料として作成されたもので. どちらも東京大学の東洋文化研究所の所蔵する抄本で、一 ︶. 実態につき検討を行っていこう。まず第一節では ﹃同官録﹄ ︵. ︶. 11. ︵. ︶. 最新記事は井田科郎中の鉄宝に関する﹁光緒二十八年正月. 部署の現任職員を記録したものである。このうち二冊本の. ︵. 10. 到部﹂ 、 ま た 四 川 司 学 習 筆 帖 式 の 蔭 信 に 関 す る﹁ 光 緒. 二十七年十一月到部﹂、山東司候補筆帖式の連元の﹁光緒. 12. 二十七年十二月到部﹂となる。また一冊本についても、福. ﹁筆 今次検討する﹃戸部同官録﹄はそれぞれ﹁満司員﹂ 帖式﹂と銘打っている。じっさい戸部に勤務する旗人官僚. 第一節 戸部の旗人奉職者 . 時の状況とともに分析していく。. 帙二冊のもの︵以下﹁二冊本﹂と呼称︶と一帙一冊のもの. いて延べ四百三十名に関する情報が記録されており、清末. あり、 この履歴を分析した研究も行われつつある。ただし、. 13. 部同官録﹄計三冊には科挙資格の有無や﹁到部﹂年月につ. 5. から判明することを、また第二節では中央官庁の様相を当. 9. ︵以下﹁一冊本﹂と呼称︶が存在する。﹃同官録﹄とは特定. されたわけでもない。. 8. 7. 6. この文書は謁見に呼ばれねば作成されず、また全てが保存. 清朝後期における中央基層官僚の基礎的考察(水盛). 85.
(3) について司員︵郎中以下︶を列挙し、堂上官︵尚書および. ︶. 穆特恩は﹃履歴﹄によれば、監生から筆帖式を捐納、その. ︵. して起用されることが決まったことが記されている。なお. 察一等として軍機処に名前が記録され道台あるいは知府と. 南司行走や司務庁行走を兼任していたことがあること、京. 作成を担当していたこと、俸餉処の掌印であったこと、雲. に戸部へ着任したこと、それまでに南檔房で満洲語の文書. た例えば郎中の穆特恩は鑲白旗満洲の人で、同治七年四月. 人︵常安︶、候補主事一人︵庚延︶の名が記載される。ま. 候補員外郎一人︵麟綱︶、学習員外郎一人︵奎濂︶、主事一. 特恩︶ 、候補郎中一人︵扎普善︶、員外郎二人︵文貴、震興︶、. まず冒頭に掌印の員外郎として震興、また幫印の主事と して銘山の名が、ついで四川清吏司に勤務する郎中一人︵穆. 冊本の﹁四川司﹂項を示そう。下段の附図を参照されたい。. 現審処、督催所、宝泉局の構成員が続く。ここで試みに一. 四川、広西となる。そして井田科、司務庁司務、俸餉処、. 湖広、浙江、山東、広東、山西、福建、江西、河南、雲南、. 清吏司の官僚が列挙される。その順は江南、貴州、陝西、. る南檔房の堂主事であり、続いて北檔房の堂主事、そして. 侍郎︶は現われない。その冒頭は戸部全体の文書を管理す. 86. 十八年の歳月をかけ光緒十二年︵一八八六年︶に主事へ昇. の ち 同 治 七 年︵ 一 八 六 八 年 ︶ に 戸 部 筆 帖 式 へ 選 任 さ れ、. 14. 一冊本﹃満司員﹄四川司の部分。本件の台紙は摺畳 され、台紙の上に短冊が貼付され、短冊に官僚情報 が抄写される。官僚が司間を異動した際に簡便に更 新するためか。穆特恩の職たる郎中は員外郎の字に 白紙を貼付されている。異動した者は短冊の表裏を 反転あるいは切除される。.
(4) 進、 つ い で 翌 年 に は 員 外 郎 へ と 昇 進、 光 緒 二 十 九 年. お郎中を郎、員外郎を外、主事を主、筆帖式を筆、蒙古を. で二冊本の現任官僚数を列挙すれば以下のようになる。な. 蒙、候補を候、学習を学、行走を走と表記した。. . 江南司. 北檔房 筆十一 郎一、候郎一、外三、候外三、学外一、主一. 七︵委署主四、委署主走二、筆一︶. 檔案が作成された。そして光緒三十一年︵一九〇五年︶の. ︵一九〇三年︶には現職のまま吏部帯領引見を受け、履歴. ︶. 学主一︵蒙一︶、筆七、候筆二、学筆二 貴州司 郎一、外三、候外三、外走一、主一、候主二 筆七、候筆二、学筆一 陝西司 郎二︵蒙一︶ 、外三、候外二、主一、候主一. 主走一、筆六、候筆一、学筆一 湖広司 郎二、外一︵欠一︶、候外三、主一、候主一 . 筆三、候筆三 浙江司 郎一、郎走一、外一︵欠一︶、主二、候主三. 筆四、候筆一、学筆一 山東司 郎二、候郎一︵蒙一︶ 、外三︵蒙一︶ 、候外一. 主一、候主三、筆九、候筆四 広東司 郎三、外〇、外走一、主一、候主一、主走一. ︶. ⅰ.定数と候補官僚 司員や筆帖式の定数は、光緒﹃会典事例﹄により知るこ ︵. とができる。例えば江南司は満郎中一、漢郎中一、満員外. 全体で宗室一、満一百、蒙古四、漢軍十六と定められてい. 郎三、漢員外郎一、満主事一、漢主事一であり、筆帖式は. 17. た。ただし従来は更に詳細な内容を知り得なかった。ここ. 主〇、候主一、筆二、候筆二、学筆二 福建司 郎一、外五、主二︵蒙一︶ 、筆八、候筆二. 筆七、候筆三、学筆二 山西司 郎一、外二︵蒙一︶、候外一、学外一、外走一. 基づき筆帖式を含む戸部の在職者を検討していく。. 本の触れない筆帖式が著録される。そこでまずは二冊本に. 行する二冊本も大きく変わらない。ただし二冊本には一冊. 以上、一冊本の概略を紹介してきた。その情報内容は先. に在って四川司幫印を勤めていたのであった。. 幫印﹂と記載されており、第二節に詳述するように貴州司. ﹁俸餉処廂黄旗管股・兼北檔房南檔房広西司行走・四川司. 16. . 南檔房. ︵ ︶. 春ごろに郎中へ昇進、同年の一冊本﹃同官録﹄へ掲載され たのであった。. ︵. 司の主事にその名前は見えない。この銘山は同書の貴州司. 名があらわれる。しかし、つづく﹁幫印﹂の銘山は、四川. なお冒頭では四川司の掌印として四川司員外郎の震興の. 15. に題缺主事として登場する人物で、実際その職務備考には. 清朝後期における中央基層官僚の基礎的考察(水盛). 87.
(5) 学筆四 江西司 郎一︵宗室一︶、外二、候外一、主一、候主二 . 筆三、候筆一 河南司 郎一、外二、候外一、主一、額外主一、筆四 候筆二 雲南司 郎二、候郎一、外三、候外一、外走一、主一 候主二、主走一、筆八、候筆二、学筆三 四川司 郎一、外二、候外二、主一、候主二、主走一 筆四、候筆三、学筆一 広西司 郎一、外四、外走一︵蒙一︶、主一 候主一︵蒙一︶、筆五、候筆三 井田科 筆七 司務庁 〇? 俸餉処 筆四. た。また雲南司の候補筆帖式額哲和は職務備考に ﹁南檔房﹂ 、. 同じく福建司候補筆帖式の春元は﹁南檔房、遞膳牌、浙江. 司﹂と記載される。こうした清吏司間の横断は筆帖式に限. らない。二冊本が光緒二十七年七月到部とする江南司学習. 員外郎の良揆もまた職務備考に﹁南檔房、福建司、俸餉処﹂. と記載されている。雲南司郎中の覚羅鍾峻も光緒二十九年 ︵ ︶. ︵一九〇三年︶時点で郎中を帯びて頤和園輪船公所委員を 勤めている。. また、筆帖式について﹃会典﹄は全体の定数を定めるの. みであるが、 ﹃同官録﹄では各司の配属数を知ることがで. きる。筆帖式の総数は八旗満洲九十五名、宗室一名、蒙古. 四名、漢軍十六名の計一百十六名となり、八旗満洲をのぞ. けば﹃会典﹄の規定と同様である。とはいえ﹃同官録﹄は. とを推定できるが、こうした清吏司には筆帖式も多く配置. えば福建司は員外郎五名が配置されており繁忙であったこ. 司務庁の勤務者を欠いており、あるいは司務庁に八旗満洲. 南廠大使一、北廠大使一 こ こ か ら は、 二 冊 本﹃ 同 官 録 ﹄ の 成 立 し た 光 緒 二 十 八 年. されている。なお正任の筆帖式のほか、候補筆帖式の総数. し候補たちも戸部行政へ参画していた。一冊本によれば、. あったことが分かる。. 員と同様に筆帖式もまた候補が正任の半数を下回る程度で. は三十一名、学習筆帖式は十七名であった。ここからは司. なお、当時は官僚数が激増し、地方官僚社会は混乱を極. 貴州司の幫印は本司貴州司の候補員外郎慶琛そして本司候 彬、そして広西司の幫印は四川司の学習員外郎奎濂であっ. 補主事隆樸であり、雲南司の幫印は山東司の候補員外郎恩. の筆帖式五名を配属していたのかもしれない。また、たと. こに候補や学習の官僚が加わっていることが分かる。ただ. ︵一九〇二年︶時点にあってなお定数は守られており、そ. 現審処 筆七 督催所 筆二 宝泉局 中廠大使一、東廠大使一、西廠大使一. 18. 88.
(6) 光緒二十八年︵一九〇二年︶現在の二冊本にあって﹃満司. 着任年月を記載する。ここから平均着任年月を計算すれば、. ⅱ.官員の戸部在勤年数 ﹃同官録﹄には一冊本と二冊本ともに﹁到部﹂すなわち. 特殊性によるのか、その理由は第二節に確認する。. る。なおその理由が中央官庁ゆえか、あるいは旗人官僚の. めていた。この戸部の状況は地方と比較すれば穏やかであ. 銓秀は優学生から同治. るが、たとえば主事の. は﹃履歴﹄に確認でき. でもない。彼らの一部. する古参層であるわけ. 者が平均を押し上げていることを示すものとなる。. に空白部分があるという事は、少なからざる数の長期在任. 在し、それより以前の着任者が散在する。平均着任年付近. ︵ ︶. 員﹄は光緒十四年︵一八八八年︶、﹃筆帖式﹄は光緒十三年. 十 三 年︵ 一 八 七 四 年 ︶. 着任した雲南司郎中の世昌となる。また二冊本﹃筆帖式﹄. ついて二冊本一冊本ともに咸豊八年︵一八五八年︶八月に. およそ十四年程度であった。なお、その最古参は満司員に. なる。ここからすれば、当時の司員たちの平均勤続年数は. ︵一九〇五年︶の時点. された光緒三十一年. へ昇進、一冊本が編纂. ︵一八九三年︶に主事. に筆帖式、光緒十九年. しかもこれは郎中や員外郎といった高官がみな長期在任. 年︶現在の一冊本では光緒十七年︵一八九一年︶の着任と. ︵一八八七年︶の着任となる。また光緒三十一年︵一九〇五. では咸豊三年︵一八五三年︶三月に着任し、勤続五十年に. でなお主事であり、光. ただし、彼らは一様に在職十四年程度で戸部を離れたわ. 順は文生員より光緒. した。また筆帖式の謙. 年︶に員外郎へと昇進. 緒三十三年︵一九〇七. けではない。﹃同官録﹄の司員と筆帖式の着任した年を散. 十 一 年︵ 一 八 八 五 年 ︶. ︵一八六二年︶三月の雲南司筆帖式の錫賢となる。. 布図に表すと下図のようになる。ここでは﹃筆帖式﹄に曖. ︶. 昧で﹃満司員﹄に顕著であるが、新任の分厚い層の下部に. に筆帖式となり、二冊. ︵. 光緒十一年︵一八八五年︶ごろを中軸とする空白部分が存. 左より一冊本『満司員』124 例、二冊本『満司員』133 例、二冊 本『筆帖式』169 例。縦軸は西暦の戸部着任年、横軸は各官員『同 官録』掲載順となる。. 19. 及 ぶ 広 東 司 筆 帖 式 の 八 旗 漢 軍 達 春、 つ い で 同 治 元 年. 清朝後期における中央基層官僚の基礎的考察(水盛). 89. 20.
(7) ⅲ.科挙官僚と戸部 しかも、こうした官員たちの多くは非正途出身である。. 本時点でなお筆帖式であり、光緒三十年︵一九〇四年︶に. ﹃ 同 官 録 ﹄ は 進 士 や 挙 人 の 場 合 の み 出 身 を 特 記 す る た め、. ︶. 主事、 三十一年︵一九〇五年︶に員外郎、三十二年︵一九〇六. ︵. ︵. 年︶に郎中へと昇進、宣統元年に戸部官員として召見を受 ︵ ︶. そ の 比 率 を 調 査 す る こ と が で き る。 二 冊 本﹃ 満 司 員 ﹄. ︶. ︶. ︶. 22. 26. ︵ ︶. ︵. けた。こうした長期在任者として、郎中の穆特恩︵四川︶、 ︶. ︵ ︶. ︵. 一百三十三例、二冊本﹃筆帖式﹄一百六十九例、一冊本﹃満. ︵. ︶. ︵ ︶. 全興︵貴州︶、文綬︵湖広︶、増厚︵山東︶、昆敬︵山西︶、 ︵. ︵ ︶. ︵ ︶. 司員﹄一百二十四例のうち、 文進士は二冊本に景溎︵南檔︶ 、. ︶. ︶. ︶. 誠鑑︵貴州︶、傅蘭泰︵山東︶ 、慶廉︵山東︶、一冊本に紹. ︵. ︵. 南︶ 、斌俊︵陝西︶、潤懋︵山東︶、傅蘭泰︵福建︶、瑞豊︵陝. 楽平︵福建︶、清泰︵雲南︶、鍾峻︵雲南︶、員外郎の錫廉︵雲 ︵. 25. ︶. ︵ ︶. ︵. ︶. ︵. ︶. 挙人は二冊本に恒年︵北檔︶、連桂︵北檔︶ 、錫廉︵江南︶、. 文郁︵江南︶ 、恩裕︵貴州︶ 、宗室溥春︵浙江︶、 清保︵江西︶、. ︶. ︵. もちろん前述のように長期在任者ばかりではなく、第一. ︵ ︶. 文貴︵四川︶ 、﹃筆帖式﹄に文治︵江南︶ 、忠文︵江南︶、文. ︶. 節冒頭に挙げた員外郎上行走の宗室毓年のように短期間で ︵. 彦︵山東︶、吉爾杭阿︵広東︶、松桂︵広東︶、連印︵山西︶、. ︶. ︶. ︵. 異動する者も多い。礼部から郎中として戸部に着任した鉄 ︵. ︵ ︶. 全広︵山西︶ 、延兆︵山西︶、善元︵福建︶ 、景浵︵河南︶ 、. ︶. 炳源︵井田︶ 、一冊本に賜恩︵北檔︶ 、文郁︵江南︶ 、 恒年︵貴. ︵. ︵. ︵. ︶. ︵. ︶. 州︶、巴図隆阿︵浙江︶、錫廉︵雲南︶ 、文貴︵四川︶の計. ︵ ︶. ︶. 明、員外郎上行走の衡璋、主事の桐寿、多齢、候補主事の ︵. 二十一名である。また繙訳進士は一冊本二冊本ともに博斉. ︵ ︶. 図︵雲南︶の一名のみ、繙訳挙人は二冊本に全興︵貴州︶ 、. ︵ ︶. 熙鈺、また筆帖式の世忠、同林、連印、慶瑞、毓彬といっ. 祥麟︵陝西︶ 、文綬︵湖広︶、銅盛︵福建︶ 、 ﹃筆帖式﹄に覚. ︵ ︶. た者はみな兵部や刑部などから着任、そして短期間で戸部. ここで全体数から見れば、清朝末期の戸部の満司員や筆. より他の中央官庁や外任へと異動している。ただし八旗漢. 43. 羅恩禄︵広東︶、楊鑑︵四川︶ 、恩麟︵俸餉︶、また一冊本. ︶. 42. 軍の筆帖式であった世忠や毓彬はともに知県として転出し. ︵. 41. に聯魁︵北檔︶、全興︵貴州︶、祥麟︵陝西︶、継勲︵陝西︶、. 52. 53. 54. として勤務し続けることになるのであろう。. 51. 55. 56. 50. 46. 40. 文綬︵湖広︶ 、銅盛︵福建︶の計九名が見られる。. 49. 45. ている。これは司員に漢軍の缺が存在しないためであろう。. 48. 39. もし転出しなければ、五十年勤続した達春のように筆帖式. ︶. 銓、 候 補 郎 中 の 薩 蔭 図、 員 外 郎 の 清 保、 候 補 員 外 郎 の 熙. 南︶ 、筆帖式の奎隆︵南檔房︶などが挙げられる。. ︵. 先︵江南︶と傅蘭泰︵福建︶の計五名のみとなる。また文. ︶. 33. 29. 24. 西︶ 、英傑︵広西︶、奎弼︵広東︶、候補員外郎の博斉図︵雲. ︵. 32. 28. 23. 27. 21. 90. 宝 は も と よ り、 郎 中 の 栄 霈、 紹 彝、 英 琨、 宗 室 溥 琦、 如. 38. 36. 31. 35. 30. 34. 37. 44. 47.
(8) 帖式に正途出身者は少数である。さきに見た穆特恩は監生、. 清末戸部旗人官僚の普遍性と特殊性. . そもそも、彼らの在任期間は過去と比較して特殊だった. 第二節. や員外郎そして郎中へと至っていた。およそ戸部官員の大. のであろうか。たとえば清朝初期には、図拉なる人物が順. また銓秀は優学生、謙順は文生員より筆帖式を経由し主事 多数は進士や挙人を経ずして官階を昇ったことであろう。. の 異 常 事 態 で あ ろ う。 ﹃履歴﹄から無作為に抽出した事例. ︵一六五五年︶には郎中へ昇進した。とはいえこれは国初. ︶. 以上、﹃同官録﹄を読み取ってきた。ここで改めてその. ︵. 治 七 年︵ 一 六 五 〇 年 ︶ に 主 事 と な る や 早 く も 順 治 十 二 年 内容を振り返ろう。官員の平均在任年数は満司員と筆帖式. た、時には所属の清吏司の枠を横断しつつ戸部内で勤務し. わけではない。また学習や行走はもとより候補の官僚もま. いたが、正任の数を上回るような﹁壅滞﹂を起こしていた. かった。正任のほか候補や学習といった形で勤務する者も. と も に 十 四 年 ほ ど で あ り、 そ の 多 く は 進 士 や 挙 人 で は な. で十八年、あるいは十九年を戸部で過ごしたのであった。. 昇進、翌年には天津知府へと出任した。彼らは郎中昇進ま. 筆帖式となり、道光二十六年︵一八四六年︶に戸部郎中へ. している。また覚羅海瑛は道光七年︵一八二七年︶に戸部. 年︶に戸部郎中へ昇進、翌年には河南道監察御史へと転出. ︵一七六一年︶に戸部筆帖式となり、乾隆四十四年 ︵一七七九. で は、 た と え ば 乾 隆 年 間 に 徳 爾 炳 阿 が 乾 隆 二 十 六 年. ︶. た。地方官候補であれば委員や署理とならず候補のまま勤. 筆帖式から郎中まで長期に戸部に在任する官員も少なから. 異動、 また短期間で戸部から転出する官員が存在するなか、. 年、捐納や軍功により官僚となるものが増えております。. あった。同治十二年︵一八七三年︶ 、福建巡撫王凱泰は﹁近. とはいえ、その時代背景は乾隆や道光とは異なるもので. ︵. 務することは無く、中央官の実情と対照的である。また、. 第一節に見た光緒の戸部満司員の姿と相通じるものがあろ. ︶. 司員は古い者と新しい者が平均値周辺を境として前後に分. う。. ず存在したためである。では、彼らが当時どのような状況. 聞けば、六部や寺監の定員外の司員は少なくとも数十人、. は高騰しているとのこと﹂ ︵近年捐納・軍功両途入官者衆。. 多いところでは数百人にのぼるため、昇進は遅滞し、家賃. ︵. 布する傾向があった。員外郎や郎中といった身分で戸部へ. 57. に置かれていたのか、国初以来の各種史料を参照しつつ第. 59. 58. 二節に検討していく。. 清朝後期における中央基層官僚の基礎的考察(水盛). 91.
(9) 司署為之擁擠、内城以外租宅為之昂貴︶と現状を紹介、改. 聞部寺各署額外司員、少則数十人、多則数百人。衙門以内. 情、甯留有余之人才於京員中使之練達治体、而不置之. 知県者、不過三四十人。此亦固州県太多、朝廷特体其. 林十之一二、主事十之二三。今則毎榜三百余名、而用. ︵ ︶. 革を訴えている。こうした官僚数の増加は上海の新聞﹃申. 貪也。 ︶. 於外省員中、使之習染官場、以平時之窮、長其異日之. ︶. 報 ﹄ の 上 で も 度 々 論 じ ら れ て い る。 た と え ば 光 緒 三 年 ︵. こうした中央官庁の官員増加は昇任にも影響を及ぼしたよ. ︵一八七七年︶には以下のような記事を見ることができる。 この記事は客が戸部や刑部の額外司員がすでに四五百人も. うで、同治十二年︵一八七三年︶の左都御史胡家玉の上奏 ︶. いること︵至於戸刑両部額外司員皆四五百人︶を問うたこ. に よ れ ば、 戸 部 員 外 郎 の 李 延 簫 や 兵 部 員 外 郎 の 蕭 廷 滋 と. ︵. とに対し、その現象がそもそも地方官の激増に起因してい. いった人物が郎中への昇任保挙を受けて五六年を経てもな. た。しかし現在は合格者三百名あまりのうち知県に任. の一二割が翰林に、二三割が主事となったものであっ. けではない。翰林院は高雅な官であり、先には新進士. め中央官も増加してしまっている。しかも六部官員だ. 司員や中書舎人を捐納するものは日々に多く、そのた. 実際の就任は二十年︵一八九四年︶であった。おなじく潤. に倉場衙門より﹁員外郎即補﹂として保奏されたものの、. にして遅延した。たとえば文綬は光緒十六年 ︵一八九〇年︶. ではなかった。とはいえ旗人官僚とて保挙後の昇任は往々. 外の司員は清末にいたってもなお幾百もの数に達するほど. 漢人官僚であろう。旗人官僚の場合、さきに見たとおり額. 王凱泰や胡家玉、そして﹃申報﹄が論じるのはおそらく. ︶. じられるものは三四十人に過ぎない。これは州県官が. 懋は十七年︵一八九一年︶に海軍大臣に保奏され二十三年 64. ︵. 激増し、朝廷もその実態を考慮し、中央官に任じて政. ︵一八九七年︶に、清保は二十一年︵一八九五年︶の保奏. 65. ︵ ︶. 務に熟達せしめ地方へ送らないこととしたためであ. に よ り 二 十 五 年︵ 一 八 九 九 年 ︶ に、 傅 蘭 泰 は 二 十 四 年. ︶. る。もし送れば地方官界での悪い習慣をおぼえ、普段. ︵ 一 八 九 八 年 ︶ の 保 奏 に よ り 二 十 七 年︵ 一 九 〇 一 年 ︶ に、. 66. ︵. の貧困により今後の貪婪を助長することになりかねな. ︵ ︶. い。︵捐部員・捐中書者、接踵而起、而京官日漸見多矣、. 銓 秀 は 三 十 年︵ 一 九 〇 四 年 ︶ の 保 奏 に よ り 三 十 三 年. お郎中へ昇進し得なかったことを指摘している。. 62. 不特部属也。翰林為清華之品、向之新進士点用者、翰. 日形擁擠耳︶分析を加えたものである。. ることを指摘した上で︵此亦由於外省仕途之雜、致京員亦. 61. 60. 92. 63.
(10) ︵一九〇七年︶と、それぞれ保奏から実際の昇任までに時. 上官が戸部の実務に慣れぬまま異動していたことになろ. 員や筆帖式たちに長期在任の傾向があるなか、上司たる堂. ︶. をおいている。こうした遅延は管見の限り乾隆、嘉慶そし. う。実際、同時期に吏部主事を務めた胡思敬は左記のよう. ︵. て道光の事例には存在しないのである。すなわち、漢人司. に活写している。. ︵ ︶. 員ほどではないにしろ、八旗の司員たちにも官僚数増加や. 管内務府大臣︶→克們泰︵兵右︶→長麟︵礼右︶→剛毅︵礼. 戸部満右侍郎 嵩申︵礼右︶→景善︵工左︶→熙敬︵吏右︶ →敬信︵礼左︶→続昌︵礼左︶→崇礼︵兵右︶→立山︵総. 戸部満左侍郎 福錕→嵩申→熙敬→続昌→崇礼→立山→英 年︵工左︶→桂春︵礼右︶→景澧︵刑右︶. →崇礼︵刑尚︶→那桐→栄慶︵礼尚︶→鉄良. 戸部満尚書 額勒和布︵理尚︶→崇綺︵盛将︶→福錕︵工 尚︶→熙敬︵工尚︶→敬信︵兵尚︶→立山→崇綺︵吏尚︶. している。なお括弧内は前職、無記載は部内昇進を示す。. この二十年間の尚書、左侍郎、右侍郎は以下のように変遷. ︵ 一 九 〇 四 年 ︶ に か け て 戸 部 に 在 任 し て い た の で あ る が、. 録 官 僚 の 多 く は 光 緒 十 年︵ 一 八 八 四 年 ︶ か ら 三 十 年. 司員の状況と好対照なのは堂上官である。﹃同官録﹄収. に昇進できるだろうし、尚書であれば協辦大学士にな. そして吏部に至る。また侍郎であれば都察院左都御史. 例では工部より兵部や刑部に、また礼部に、戸部に、. で幾種もの職を兼ね、年齢も老境である。しかも六部. め当時の人はこれを﹁画黒稿﹂と呼んだものであった。. れば筆を動かして地位に基づき署名するのみ、そのた. などせず、︵ ﹃韓昌黎集﹄巻十三﹁藍田県丞庁壁記﹂に. め、やっと六部の政務を受けたとて、少しも計画立案. 方へ去ってしまう。侍郎は多くが翰林より起家するた. 京察で一等に挙げられ、ただちに道台や知府として地. 勤務してやっと六部の則例を諳んじるようになると、. 六部政務の不振は何故であろうか。司員が十年あまり. 左︶→溥良︵理左︶→那桐︵礼右︶→鉄良︵礼侍銜内閣学. れるだろう︶ 。とすれば、いきおい権限を司員へと委. このように尚書や侍郎にはこの二十年間で各衙門を越え. 厭うから、権限を胥吏に委ねる。こうして胥吏やその. ねざるを得なくなる。といって司員も安逸を喜び労を. 事務の繁閑を序列になぞらえ、転任を昇進とする︵旧. 尚書ともなれば政務にも熟練してくるが、時には一人. 吏と県丞の関係として言う︶司員が稿を擬して進呈す. 士︶→増崇︵兵左︶. 昇進遅延が発生していたと考えられよう。. 68. 67. て多くの人間が就任し、また離任している。とすれば、司. 清朝後期における中央基層官僚の基礎的考察(水盛). 93.
(11) 子孫が部中に蟠踞し、名剣泰阿を他人に渡してかえっ. 性に踏み込み、満司員にとっての戸部行政を照射していこ. る。︵部務之不振也、曹郎積資十余年、甫諳部章、京. ついて﹁筆帖式とは文官の人材プールであり、将軍や大臣. 自身も円明園八品筆帖式出身であった福格は、筆帖式に. ︶. う。. 察保一等、即簡放道府以去。侍郎多起家翰林、初膺部. といった官僚は多くが筆帖式より官階を昇っていく﹂︵筆. ︵. て害を受けるような事態をまねくのも故あることであ. 務、臨事漫不訾省、司員擬稿進、渉筆占位署名、時人. 帖式為文臣儲材之地、是以将相大僚、多由此途歴階︶に始. ︶. 謂之﹁画黒稿﹂。尚書稍諳練、或一人兼数差、年又耄老、. まる著名な一節を遺している。筆帖式︵ bithesi ︶は巴克什. ︵. 且視六部繁簡次序、以調任為升遷︵旧例由工調兵刑、 転礼転戸、至吏部。則侍郎可升総憲、尚書可升協辦︶。. ︵ ︶とともにモンゴル語から満洲語に入った言葉であ baksi り、就任者は満蒙漢の旗人官僚に限られ、いわゆる “漢土”. ﹃同官録﹄と同時代の漢人戸部司員孫毓駿は光緒四年. 出身の漢人官僚は就任することは出来なかった。たとえば. ここには侍郎に翰林出身者が多く、尚書となれば高齢とな. ︵一八七八年︶に戸部主事行走、 そして十八年︵一八九二年︶. ︶. に主事、十九年︵一八九三年︶に員外郎、二十一年︵一八九五. ︵. るうえ一人で数種の役職を兼ねるため、司員に権限を委ね. 年︶に郎中となり二十四年︵一八九八年︶に九江府知府へ. ︶. ざるをえなかったことが活写されている。こうした上司の ︵. 短期異動と部下の長期滞留の傾向は地方各省においても発. 転出しており、筆帖式を経由する満司員の主事以降の官歴. ︶. 生していた。地方でもまた何十年も一省で過ごす道台以下. と比すればその昇進は緩慢である。. は中央もまた地方と類似する状態に置かれていたといえよ. 69. “起家官” であるに過ぎず、このような基層官僚の勤務状況. るいは官学生からそれぞれ七品、八品、九品筆帖式となる ︶. とはいえ、旗人司員と漢人司員の経歴において大きく異. ︵. なる要素が存在する。それが第一節でも触れた筆帖式であ. は定かではなかった。この二冊本﹃筆帖式同官録﹄からは、. 官に登る可能性があるとはいえ、あくまで文挙人や監生あ. 73. 70. る。そこで﹃同官録﹄を参照しつつ、筆帖式の職種と特殊. う。. 74. ︵. の官僚たちが、頻々と省間移動する総督・巡撫・布政使・. 中期以降の実情は研究 ただし、そのような筆帖式の清朝 ︵ ︶ 史において殆ど知られていなかった。彼ら筆帖式は時に高. 勢不得不委権司曹。司曹好逸悪労、委之胥吏。遂子孫. 71. 窟穴其中、倒持之漸有自来矣。︶. 72. 按察使に代わって雑務一切を統括していたのである。結局. 94. 75.
(12) なお彼らの職には﹁四川司副稿﹂といった内勤のほか﹁遞 膳牌﹂と称する外勤があったことは注目に値しよう。そも. など多彩な職務についていた。. として勤務するほか、部内の各部署で稽核題稿や正稿副稿. 署主事・北檔房・捐納房﹂であった。彼らは時に委署主事. 帖式の錫賢は﹁司務庁・本司委署行走・遞膳牌・督催所委. 本司正稿・北檔房・四川司副稿・司務庁﹂、また雲南司筆. 委署行走﹂であったし、河南司筆帖式の奎禄は﹁遞膳牌・. 載され、南檔房委署主事上行走の耀昆も﹁飯銀処・江南司. 南司・司務庁・稽核北檔房題稿・捐納房・京察一等﹂と記. 着任した南檔房委署主事の善祺は職務備考に﹁飯銀処・河. である。たとえば光緒二年︵一八七六年︶の九月に戸部へ. 不明確であった彼らの姿の一部を確認することができるの. 件事者﹂︵清吏司の掌印の者をはじめとする六七名が上奏. いたこと、昨今は宮門で﹁自掌印以下、有六七輩斉声説一. について進士の﹁観政﹂する学習主事や筆帖式を遣わして. ︵司員で宮門の外で風雨のなか上奏を持ち裁可を待つもの︶. そこでは﹁嘉慶初﹂には﹁司員有於宮門風露中持稿乞画者﹂. 十八年︵一八三八年︶に堂上官へ四条の提案を行ったが、. 筆帖式の﹁持摺﹂は、光緒初年を待たずともそれ以前か ら 見 ら れ る。 礼 部 主 客 清 吏 司 主 事 で あ っ た 龔 自 珍 は 道 光. 筆帖式某﹂が深夜に御河で溺死したことを伝えている。. れていたため、﹁光緒初﹂ ︵一八七五年ごろ?︶には﹁持摺. という。また、筆帖式は宮内への行灯の持ち込みを禁止さ. 議﹂︵縦痕︶ 、﹁另有旨﹂といった皇帝の裁可を伝えられた. しの後に奏事官より口頭および爪跡で﹁知道了﹂︵横痕︶、﹁依. 奏事官に導かれ乾清門に至った筆帖式はそこで待機し、暫. 帖式一人に上奏を持って東華門へ至らせる︶という。また. ︶. そも上奏や謁見を求める膳牌は自身での提出が義務づけら. の主旨を高唱するようなこと︶が見受けられるため、今後. ︵. れていたが、嘉慶五年︵一八〇〇年︶の上諭により六十歳. は﹁遣筆帖式二員、彙捧至宮門面画。主事以上官、不許前. ︵ ︶. 以 上 の 大 臣 に 限 り 代 呈 す る こ と が 許 さ れ、 嘉 慶 十 二 年. 来﹂︵筆帖式二名を使わして各種上奏を集め捧げて宮門に. 必令堂官親遞﹂︵在京の各部院の上奏は必ず尚書や侍郎が. 達を出すべく発議している。とすれば、嘉慶五年の許可と. て裁可を仰ぐこととし、主事以上の進入を禁じる︶との通 ︵ ︶. 77. 一筆帖式、持摺至東華門外﹂︵毎日の子夜には各部院は筆. この﹁持摺﹂につき、二冊本﹃筆帖式﹄の職務備考に関. は現状の一部追認であったとも考えられよう。. 79. 78. 直接上奏せねばならない︶と規定されていた。しかし、父. 76. が戸部郎中を勤めた震鈞によれば、﹁毎日子正、部院各以. ︵. ︶. た。ただし、あくまで光緒﹃会典﹄では﹁在京各部院之摺、. ︵一八〇七年︶には六十歳未満の親王や郡王へも拡大され. 清朝後期における中央基層官僚の基礎的考察(水盛). 95.
(13) 連する職を見出すことはできない。上奏に関連する名は他 を進める。. こうした六部行政の略述に続き、震鈞は筆帖式の職務へ筆. 堂官意指為之。 ︶. に貴州司郎中全興や河南司員外郎恩恵の勤めた﹁奏事官﹂. 筆帖式には委署主事、掌稿、繕摺、牌子があり、文書. ︶. 名の﹁各部院司員兼充者二人﹂にあたろう。何より彼らは. ︵. ︶. これは胥吏から権限を回収するものといえよう。そし. 事者惟掌印主稿而已。吏刑部有漢掌印、余部皆満員、. 上行走、主稿上行走、幫主稿上行走。名目雖繁、然任. 幫印、有主稿、有幫主稿。又或有掌印上行走、幫掌印. みな堂官が指名する。︵毎部分若干司、司有掌印、有. 或る司の候補人員が他司の掌印となることがあるが、. 官の意志による。主稿も同様で主事以上に限らない。. しかも任じられるのは郎中、員外郎、主事に限らず堂. は漢掌印がいるが、他の部はみな満洲の官員である。. 実際に働くのは掌印と主稿のみである。吏部や刑部に. 幫主稿上行走といった多くの名目が存在する。ただし. 主稿、幫主稿、上行走、幫掌印上行走、主稿上行走、. 六部は若干の清吏司に分かれるが、司には掌印、幫印、. ︵筆帖式之分、曰委署主事、曰掌稿、曰繕摺、曰牌子、. の 例 案 を 一 つ 一 つ 列 挙 で き る も の な ど 幾 人 い よ う か。. いようか。また一つの部に長く勤務したとて、その部. ある。しかし堂官で一つの部に長く勤務する者は幾人. たく反駁することもなく、こうして公事は定まるので. し、司員が少々潤色を加えて堂官へ奉る。堂官はまっ. 委ねる。胥吏は例案を調査し律例を検討して司員に呈. で公事があるたび、堂官は司員に下し、司員は胥吏に. 限は依然として胥吏に握られてしまった。およそ六部. ら塵芥と甘んじて全く公事に触れず、結局は公事の権. 僚と見なして公事を預託しなくなり、筆帖式もまた自. と弊害が生じるもので、堂官は筆帖式を身分の低い官. となり掌印となる。しかし規則が長く運用されている. て京察一等となった者は三年もせずして員外郎や郎中. 且不限郎中・員外郎・主事、惟堂官所任、主稿亦然、. 所以供筆札・司收掌・任奔走、而実則学習部務、以備. 帖式の運用趣意を称揚しつつ現状に苦言を呈している。. 亦不限定司缺。亦有此司候補人員掌他司印鑰者、全以. 81. 務により六部の職務を学習し、司員への昇進に備える。. 作成、文書管理、渉外を行っている。筆帖式はこの勤. 80. なお震鈞は続いて左記のように六部の職務を概括し、筆. 送任務全般を指す可能性がある。. 筆帖式ではない。結局﹁遞膳牌﹂こそが﹁持摺﹂を含む代. ︵. があるが、これは光緒﹃会典﹄に規定される奏事処章京六. 96.
(14) 司員略加潤色、呈之堂上、堂上苟無駁斥、則此案定矣。. 員委之書吏。書吏検閲成案、比照﹃律例﹄、呈之司員、. 権仍在吏胥。計一部中、毎遇公事、堂官下之司員、司. 以公事。筆帖式亦自甘廃棄、不復問及公事、而公事之. 外・郎中而掌印矣。乃法久弊生、堂官視為微員、不任. 司員之選、分吏胥之権也。故列一等者、不三年洊至員. 中半皆備員、公事但恃漢員与書吏主持、不習例故也。. 日到署、迎送堂官、所習仍奔走伺候。⋮⋮近来満司員. 即有心整頓者、亦不過厳察考・勤簿冊。就令筆帖式日. の で す。︵ 近 来 堂 官 視 筆 帖 式 如 吏 役、 往 往 不 屑 整 頓。. に在っては大学士に、外に在っては総督にも就き得る. ら例案の学習は不可欠です。しかも資歴を積めば中央. めたりはいたしません。しかし彼らが司員を望むのな. 外任甚有政声、則習例之效也。⋮⋮夫使終身、但為此. 然堂官久于其部者、能有幾人。即久于其部、而能于此. 官、固不必深求。如欲為司員、則不可不習例矣。而況. 聞直隷按察使剛毅在部時、専心習例、従学甚多。及官. なお震鈞は文末に宗室宝廷の上奏を挙げるが、礼部満右侍. 部成案、條挙歴歴者、更有幾人。︶. 郎であった彼は左のように述べており、震鈞の記述との強. 積資累俸、内可以正揆席、外可以領兼圻乎。 ︶. ︶. いますが、これは例案を学習しないためと存じます。. 限伴わなず、公事は漢司員や胥吏の処理に任せてしま. るのみです。⋮⋮昨今の満司員は半ばが地位のみで権. 門に日参し堂官を送迎して身辺の世話や迎合を習得す. も査定を厳格にし出勤簿を調べるのみで、筆帖式も衙. 是正に値しないと考えています。また是正を考える者. 昨今、堂官は筆帖式を吏役のように扱い、往々にして. の員外郎震興、広西司掌印の員外郎英傑の計八名に過ぎず、. 司幫印の員外郎澂厚、河南司掌印の郎中全順、四川司掌印. 湖広司幫印の員外郎桂英、山西司幫印の員外郎瑞源、福建. 勤 め る の は 貴 州 司 幫 印 の 候 補 員 外 郎 慶 琛 と 候 補 主 事 隆 樸、. 補官僚﹂で確認した現象であり、﹃同官録﹄で本司掌印を. たことを指摘している。これは第一節第一小節﹁定数と候. 鈞は正任はもとより候補官すらも本司を越えて掌印を勤め. ここで彼らの認識と﹃同官録﹄の実態とを比較しよう。震. ば筆帖式とは司員昇進後の勤務に資して胥吏の弊害を軽減. また彼らは満司員や筆帖式の弛緩を批判する。本来なら. 聞けば、直隷按察使の剛毅は部に在って例案の学習に. しょう。⋮⋮終身に筆帖式ならば例案の学習を強く求. 甚だ政績を挙げておりますのも習例の成果といえま. 三十九名が他司の掌印を務めているのである。. 82. 専心して多くを習い憶えたとのこと、外任に出てより. ︵. い関係性を伺うことができる。. 清朝後期における中央基層官僚の基礎的考察(水盛). 97.
(15) するはずのものでありながら、現状では上司は微賎と侮り. ︶. ていたわけではなく、宝廷が挙げる刑部の剛毅のように、. ︵. 頼る結果を惹起したとする。もちろん全ての官員が弛緩し. 査定も甘く、運用趣意を失って満司員が漢司員や胥吏らを. 98. である。. │. 本稿では戸部の旗人官僚について検討してきた。そこに は長期に戸部にとどまる官僚と、短期で他の官庁へ異動す. その後の旗人官僚社会. る官僚が存在した。司員の下には旗人官僚に独特の筆帖式. 結語. た。およそ清末の満司員そして筆帖式たちは、宝廷や震鈞. らの一部は短期間で戸部を離れるが、また一部は戸部で長. 務意欲の減退と請託行為の増加を招いた可能性がある。彼. らすれば官階の昇進に時間を必要とした。昇進の遅滞は勤. 容について検討してきた。彼らは乾隆や道光など前時代か. 以上、満司員や筆帖式の在任期間、あるいはその職務内. その中には、山東司候補主事であった熙鈺のように﹁直隷. 務は比較的少なく、候補官僚たちは苦労したことであろう。. 推進のため委員として雇用していた。中央ではこうした業. 省では、地方大官が候補官僚たちを近代化関連業務などの. 官僚数が激増、膨大な候補官僚を産み出していた。地方各. 候補、行走、学習として勤務したのである。清朝末期には. が存在した。そして彼らは戸部のなかで定額の正任のほか. 年にわたって勤務を続けた。その最たる存在が筆帖式であ. 総督袁世凱札委随辦北洋留京各営営務処﹂ ﹁袁世凱咨調北. ︶. り、 時 に は 筆 帖 式 か ら 郎 中 ま で 戸 部 内 を 昇 進 す る こ と も. 洋差遣﹂として北洋陸軍での勤務を選ぶものもいた。. 官僚数増加が発生し昇進が遅延していたからには、堂上官. 起こるのも当然であったろう。清末には満司員においても. きおい権限を司員へと委ねざるを得なくなる︶なる現象が. 各部を異動していた。とすれば﹁勢不得不委権司曹﹂︵い. たことであろう。それに対して上司たる堂上官は短期間で. なる。これは地方の総督・巡撫・布政使・按察使と、それ. 堂官は司員に下す︶とする権限の移動が起こり得ることと. 震鈞が﹁毎遇公事、 堂官下之司員﹂ ︵六部で公事があるたび、. 第二節で触れた胡思敬が尚書や侍郎は﹁委権司曹﹂、また. 郎中以下という現象が出現していた。とすれば当然ながら、. なお、六部では頻繁に異動する尚書・侍郎と、滞留する. 84. による﹁委権司曹﹂はさらに進んでいたものと思われるの. ︵. あった。彼らはいわば戸部専業の官僚として実務を習得し. とも思われないのである。. の抱く理想像とは隔たっていようが、全く無価値であった. 筆帖式出身で精勤し巡撫軍機尚書大学士に至った者もい. 83.
(16) より下位にあたる道台以下の官僚との関係に類似してい. とであろう。とはいえこうした官僚社会の細部は判然とし. 方官僚社会と同様に基層官僚の実務運営へ影響を与えたこ. する。中央で増加した漢人官僚の数もまた、当然ながら地. ︶. る。ただし、尚書や侍郎は各清吏司の掌印や正稿に、郎中. ︵. や員外郎といった官職、あるいは対象となる清吏司の枠を. ない。﹃履歴﹄などはもとより、 ﹃日記﹄など官僚生活の実. ︶. 横断する任命を行っていた。これはあるいは野放図に拡大. 態を伝える史料による更なる調査が必要であろう。. は管理系統が峻別されており、結節点となる総督や巡撫の. 州県︶の正任官と新設官庁︵釐金局・保甲局など︶の委員. 従来の研究では地方各省において旧来官庁︵いわゆる道府. 官と司員との乖離を促進した可能性がある。というのも、. られる。ただし、こうした清吏司間の人事交流はさらに堂. に残留する者が発生する。また戸部出身の地方官僚のなか. へと去った。ただしこの時期には、鍾峻のように更に戸部. 徳爾炳阿や道光の海瑛そして胡思敬の述懐のように地方官. る。本稿の戸部官員の一部は、第二節冒頭で触れた乾隆の. たとえば鍾峻は金銀庫庫長に財政学堂の庶務長を兼ねてい. であろうか。 中央官庁は宣統年間にいたって増加していく。. なお、彼ら八旗の中央官僚たちはその後にどうなったの. ︵. する現場主義を牽制し相互監視させるためのものとも考え. 権限増大に寄与したとされてきた。しかし正任官と委員も. には清理財政監理官に就任、あるいは大清銀行の支店に着. ︵ ︶. また省城を離れた地方で勤務する官僚であり、しかも同じ. 任する者があらわれた。 戸部の職務は増大し、 地方官となっ. ︶. 地方の正任官と委員とを往き来することによって癒着し、. らすれば良好といえ、また個々の旗人官僚にとっても望ま. 官僚数増加が緩慢であったことである。これは組織運営か. ここで注目すべきは、漢人司員と比較すれば旗人司員の. や異動の速度は改善されたように見えるのである。しかし. であればこそ、光緒末葉から宣統年間にかけて官僚の昇進. ることが可能であり、また中央権限の伸長にもつながる。. 中央官庁としての受け皿が増えれば官僚の増加にも対処す. ︵. 結局は省城の地方大官へ事後承諾を求めるのみで自律的経. た も の も 地 方 に お い て 戸 部 の 意 向 を 受 け た 監 理 官 と な る。. ︶. しいものであったろう。ただし、人数はそのまま圧力とな. その芽が成長するのを待たずに清朝は滅亡し、八旗の文官. ︵. 営を目指していたのである。. 87. 86. は国政の場からほぼ消え去ることとなったのであった。. 89. 88. りうる。地方各省では激増した官僚が出身地別に派閥を形. 85. 成、地方政治における影響力を強め、やむなく地方の八旗. 清朝後期における中央基層官僚の基礎的考察(水盛). 官僚たちも直隷や山東出身の漢人官僚との同郷団体を結成. 99.
(17) 注 ︵ ︶ たとえば ︵ 瞿 同 祖 ︶ . Local Government T’ung tsu Ch’u in China under the Ch'ing. Harvard East Asian Monographs 143, Harvard University Asia Center. 1962. また蕭宗志﹃候 補文官群体与晩清政治﹄ ︵巴蜀書社、二〇〇七年六月︶ 、徐 毅﹃ 江 蘇 釐 金 制 度 研 究 ﹄ ︵ 上 海 財 経 大 学 出 版 社、 二 〇 〇 九 年六月︶ 、 劉増合﹃ ﹁財﹂与﹁政﹂││清季財政改制研究﹄ ︵生 活読書新知三聯書店、二〇一四年四月︶の研究史整理を参 照のこと。 ︵ ︶ 張 徳 沢﹃ 清 代 国 家 機 関 考 略 ﹄ ︵ 中 国 人 民 大 学 出 版 社、 一九八一年十月︶ 、 李 鵬 年・ 朱 先 華・ 秦 国 経・ 劉 子 揚・ 陳 鏘 儀﹃ 清 代 中 央 国 家 機 関 概 述 ﹄ ︵ 黒 竜 江 人 民 出 版 社、 一九八三年六月︶ 、 鞠方安﹃中国近代中央官制改革研究﹄ ︵商 務印書館、二〇一四年四月︶ 。 ︵ ︶ ︵私家版、一九一四年三月。 ﹃清末 呉廷燮﹃清財政考畧﹄ 民国財政史料輯刊﹄北京図書館出版社、二〇〇七年四月、 第二十冊に収録︶ 、 賈 士 毅﹃ 民 国 財 政 史 ﹄ ︵ 商 務 印 書 館、 一 九 一 七 年 四 月、 上 海 書 店﹃ 民 国 叢 書 ﹄ 第 二 編 第 三十八・九冊に収録︶など。清朝財政の研究史に関しては 陳 鋒﹁ 二 〇 世 紀 的 清 代 財 政 史 研 究 ﹂ ︵ ﹃史学月刊﹄二〇〇四 年第一期︶ 、 ﹁二〇世紀的晩清財政史研究﹂ ︵ ﹃近代史研究﹄ 二〇〇四年第一期︶ 、 ﹃清代財政政策与貨幣政策研究﹄ ︵武 漢大学出版社、二〇〇八年四月︶第二章﹁学術史回顧﹂ 。 4. ︵ ﹃中国社会科学院研究生院学報﹄一九九〇年第二期︶。 ︵ ︶ ﹃清代各部院則例﹄︵全九十一冊、蝠池書院、二〇〇四年 五月︶、 ﹃続編﹄︵全六十冊、二〇一二年五月︶、 ﹃三編﹄ ︵全 四十五冊、二〇一三年八月︶。 ︵ ︶ 清華大学附属図書館所蔵の﹃搢紳全書﹄を影印した﹃清 代縉紳録集成﹄ ︵ 全 九 十 五 冊、 大 象 出 版 社、 二 〇 〇 八 年 十二月︶。ただ本集成には収書点数や校正につき批判があ る︵鍾少華﹁支離破砕的﹃清代縉紳録集成﹄ ﹂光明日報社﹃博 覧群書﹄二〇一〇年第十期︶。 ︵ ︶﹃中国第一歴史檔案館蔵清代官員履歴檔案全編﹄︵華東師 範大学出版社、全三十冊、一九九七年十月︶。 ︵ ︶ 謁見儀礼そのものに関しては水盛涼一﹁召見の風景││ 清朝後期における謁見儀礼の基礎的研究﹂︵東北大学文学 会﹃ 文 化 ﹄ 第 七 十 七 巻 第 一・二 号、 二 〇 一 三 年 九 月 ︶ 、 ﹁清 末 謁 見 制 度 論 考 ﹂︵ ﹃ 中 国 社 会 科 学 論 壇 二 〇 一 四 歴 史 学 第五届中国古文献与伝統文化国際学術研討会論文集﹄中国 社会科学院歴史研究所、二〇一四年十月︶を参照のこと。 ︵ ︶ 王 志 明﹃ 雍 正 朝 官 僚 制 度 研 究 ﹄︵ 上 海 古 籍 出 版 社、 二〇〇七年五月︶ 、﹁乾隆朝引見文官籍貫・出身及相関問題 分析││兼与雍正朝引見文官比較﹂︵﹃清史研究﹄二〇一一. ︵. 5. 6. 7. 8. ︶ それぞれ二冊本の請求記号は﹁大木文庫 総類 官制 職官 録 十﹂ 、一冊本は同じく﹁職官録 十一﹂である。概略は水 盛涼一﹁中国地方官僚人名録解題稿││﹃同官録﹄の世界﹂. 学術出版会、二〇一一年二月︶。. 年第二期︶ 。また伍躍﹃中国の捐納制度と社会﹄︵京都大学. 9. 10. 1. 2. 3. ︵ ︶ ︵ ﹃財経科学﹄ 湯 象 龍﹁ 鴉 片 戦 争 前 夕 中 国 的 財 政 制 度 ﹂ 一九五六年第一期︶ 、 彭沢益﹁清代財政管理体制与収支結構﹂. 100.
(18) 歴代勤務者すべてを列挙するものも存在する。ただし本書 掲載の官僚は一部の﹃履歴﹄掲載者や﹃清代縉紳録集成﹄. を 参 照 の こ と。 ﹃ 同 官 録 ﹄ の 一 部 に は﹃ 総 理 各 国 事 務 衙 門 同官録﹄ ︵上海図書館蔵、線普長四〇三五一二︶のように. 科 挙 文 献 整 理 与 研 究 論 文 集 ﹄ 下 冊、 武 漢 大 学 文 学 院、 二〇一一年九月︶ 、 ﹁中国題名録文化││官員名冊的形成与 発展﹂ ︵朱鴻林編﹃第四届中国古文献与伝統文化国際研討 会会議論文匯編﹄香港理工大学、二〇一三年十二月︶ 、 ﹁天 津の吉野作造とその時代││清朝における法政学堂を中心 として﹂ ︵ 郭 連 友・ 大 川 真 編﹃ 東 ア ジ ア 文 化 交 流 叢 書 ﹄ 創 刊 号、 吉 野 作 造 記 念 館、 二 〇 一 五 年 四 月 ︶ 、 ま た 伍 躍﹁ 前 近代中国の職員録﹂ ︵ ﹃大阪経済法科大学論集﹄第八十八号、 二〇〇四年十月︶ 、﹁帝制晩期江南出身官僚的一個側面﹂ ︵ ﹃江 海学刊﹄二〇一二年第一期︶ 、 ﹁清代末年江南出身官員社会 構成浅析﹂ ︵ ﹃ 江 南 地 域 文 化 的 歴 史 演 進 文 集 ﹄ 三 聯 書 店、 二〇一三年五月︶ 、 ﹁清代中国の﹁同官録﹂について﹂ ︵ ﹃大 阪経済法科大学法学論集﹄第七十三号、二〇一四年四月︶. 11. 当該年度︵第七十一冊など︶と対照が可能で、みな現任と. ︵ ︵. ︵ ︵. ︵ ︵ ︵. ︵. 見なせる。ただし﹃縉紳録﹄は候補官員の記載が不十分で あり、着任年月も定かではなく、筆帖式は貴州司の後に全 員が列挙されるのみで配属を記さない。 ︶ な お﹃ 履 歴 ﹄ 第 八 冊 三 八 九 頁 で は 光 緒 二 十 七 年 十 二 月 十二日の井田科郎中発令を確認できる。 ︶ ﹃ 履 歴 ﹄ 第 八 冊 三 〇 九 頁、 七 六 二 頁。 宣 統 元 年 刊﹃ 陸 軍 貴冑学堂同学録﹄ ︵ 東 洋文 化 研 究 蔵、 大 木 政 類 兵 制 八 旗 三二︶によれば毓年は礼部尚書溥良の子である。 ︶ ﹃履歴﹄第七冊一九五頁。 ︶ ﹃光緒乙巳夏季爵秩全函﹄︵﹃清代縉紳録集成﹄第七十八冊︶ ﹁京師﹂第二十一葉。直前の﹃乙巳春季爵秩全函﹄ ︵同冊︶ ﹁京 師﹂第三十二葉には江南司員外郎として登場する。 ︶ 題缺官員数は光緒﹃大清会典事例﹄巻五十二﹁各部司員 酌定保題﹂光緒十年条に記載がある。 ︶ 光緒﹃大清会典事例﹄巻十九﹁吏部三﹂ ﹁官制三﹂ ﹁戸部﹂。 なお勤務内容は﹃大清会典﹄巻十九から巻二十四を参照。 ︶ ﹃履歴﹄第八冊六一三頁、また光緒二十九年三月初七日 付頤和園管理事務和碩慶親王奕劻等﹁奏為輪船公所委員請 奨由﹂ ︵ 国 立 故 宮 博 物 院 図 書 文 献 処 軍 機 処 档 摺 件、 請 求 記 号 一 五 四 九 三 七 ︶ 記 載 の﹁ 輪 船 公 所 委 員 花 翎 三 品 銜 在 任 即 12 13. 15 14. 16. 17. ︶ 注一前掲の蕭宗志ら、また水盛涼一﹁清朝末期の候補官 僚と人事評価﹂ ︵﹃東北大学文学研究科研究年報﹄第六十四 号、 二 〇 一 五 年 三 月 ︶、 鍾 琦﹃ 皇 朝 瑣 屑 録 ﹄ 巻 三﹁ 掌 故. 選知府戸部郎中覚羅鍾峻﹂。. 18. 五 十 三 則 ﹂ 第 四 葉﹁ 同 治 十 年 八 月 ﹂ 条︵﹃ 皇 朝 瑣 屑 録・ 憑. 19. ︵﹃組織的な大学院教育改革推進プログラム 歴史資源アー カイブ国際高度学芸員養成計画 平成二二年度事業成果報 告書﹄東北大学大学院文学研究科、二〇一一年五月︶の第 九節﹁ ﹃戸部満司員同官録﹄││中央官庁の同官録﹂ 。 ︵ ︶ ﹃同官録﹄については水盛涼一﹁科挙正途官員与雑途官 員││通過同郷会館的建立看清末官僚社会的変革﹂ ︵武漢 大 学 文 学 院 等 編﹃ 第 八 届 科 挙 制 与 科 挙 学 国 際 学 術 研 討 会. 101 清朝後期における中央基層官僚の基礎的考察(水盛).
(19) ︵ ︵. ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵. ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵. ︵. 花館瑣筆﹄国家図書館出版社、二〇一一年十二月︶ 。 ︶ ﹃履歴﹄第八冊三二二頁。 ︶ ﹃履歴﹄第八冊二九七頁、 ﹃政治官報﹄宣統元年四月三十 日﹁宮門鈔﹂ 。 ︶ ﹃履歴﹄第七冊一九五頁、同治七年四月到部。 ︶ ﹃履歴﹄第七冊四一二頁、第七冊六九九頁、第八冊九五頁、 光緒七年三月到部。 ︶ ﹃ 履 歴 ﹄ 第 七 冊 五 七 四 頁、 第 八 冊 六 一 二 頁、 光 緒 十 六 年 十月到部。 ︶ ﹃ 履 歴 ﹄ 第 六 冊 三 一 六 頁、 第 七 冊 一 八 一 頁、 光 緒 二 年 八 月到部。 ︶ ﹃履歴﹄第八冊四七〇頁、光緒十八年七月到部。 ︶ ﹃ 履 歴 ﹄ 第 六 冊 七 二 三 頁、 第 七 冊 三 一 三 頁、 第 八 冊 一九六頁、同治十二年六月到部。 ︶ ﹃ 履 歴 ﹄ 第 六 冊 七 二 四 頁、 第 七 冊 三 一 四 頁、 第 七 冊 三九六頁、光緒五年六月到部。 ︶ ﹃履歴﹄第八冊六一三頁、光緒十七年十二月到部。 ︶ ﹃履歴﹄第七冊五五九頁、光緒十一年十二月到部。 ︶﹃ 履 歴 ﹄ 第 六 冊 五 七 九 頁、 第 七 冊 二 〇 〇 頁、 光 緒 元 年 九 月到部。. ︵. ︵ ︵. ︵ ︵. ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵. ︵. ︵. ︶ ﹃履歴﹄第七冊二五六頁、光緒四年十一月到部。 ︶ ﹃履歴﹄第七冊五七四頁、光緒二十一年五月到部。 ︶ ﹃履歴﹄第七冊一八〇頁、光緒十六年二月到部。 ︶﹃ 履 歴 ﹄ 第 七 冊 五 二 二 頁、 第 七 冊 五 二 二 頁、 同 治 八 年 十 月到部。. ︶ ﹃ 履 歴 ﹄ 第 七 冊 五 七 六 頁、 第 七 冊 七 五 一 頁、 光 緒 二 年 三 月到部。 ︶ ﹃履歴﹄第八冊四二〇頁、 光緒二十四年七月到部であるが、 ﹃政治官報﹄宣統元年五月初十日﹁宮門抄﹂召見記事にあ るように勤続十年を数えた。 ︶ ﹃ 履 歴 ﹄ 第 八 冊 一 九 七 頁、 第 八 冊 二 九 〇 頁、 光 緒 十 五 年 五月到部。 ︶ ﹃履歴﹄第八冊三八九頁。 ︶ ﹃履歴﹄第六冊七三三頁、第七冊二二頁。 ︶ ﹃履歴﹄第七冊一九八頁、第七冊三九五頁。 ︶ ﹃履歴﹄第八冊五四七頁。 ︶ ﹃履歴﹄第八冊二五九頁、第八冊五一六頁。 ︶ ﹃ 履 歴 ﹄ 第 五 冊 六 九 四 頁、 第 六 冊 三 一 八 頁、 第 七 冊 一九四頁、第八冊五六九頁、第八冊六一三頁。 ︶ ﹃履歴﹄第七冊五二六頁、第七冊七一八頁。 ︶﹃履歴﹄第七冊四六〇頁。 ︶ ﹃履歴﹄第八冊二六八頁。 ︶ ﹃履歴﹄第七冊七四〇頁。 ︶﹃履歴﹄第二八冊四四一頁。 ︶ ﹃履歴﹄第二八冊五〇九頁。 36 37 38. 44 43 42 41 40 39. ︶ ﹃履歴﹄第八冊五四六頁。 ︶ ﹃履歴﹄第二八冊四四四頁。 ︶ ﹃履歴﹄第八冊四四九頁。 ︶﹃履歴﹄第八冊四一九頁。 ︶﹃履歴﹄第二八冊四七八頁。 . 55 54 53 52 51 50 49 48 47 46 45. 21 20 23 22 24 25 27 26 28 31 30 29 35 34 33 32. 102.
(20) ︵ ︶ ﹃履歴﹄第二八冊四五七頁。 ︵ ︶ ﹃欽定盛京通志﹄巻六十九﹁正黄旗満洲﹂図拉伝。 ︵ ︶ ﹃履歴﹄第三冊二一頁。 ︵ ︶﹃履歴﹄第三冊一五二頁。 ︵ ︶ ﹃申報﹄同治十二年五月初四日﹁四月十三日京報全録﹂ ﹁福 建巡撫王︵王凱泰︶奏応詔陳言敬抒管見摺子﹂ 。 ︵ ︶ ﹃申報﹄光緒三年四月十八日﹁論冗官﹂ 。 ︵ ︶ ﹃申報﹄同治十二年七月初三日﹁閏六月十一日京報全録﹂ ﹁都御史胡︵都察院左都御史胡家玉︶奏部院正途人員日形 擁擠請旨酌核保挙量予疏通摺子﹂ 。 ︵ ︶﹃履歴﹄第七冊五七四頁、第八冊六一二頁。 ︵ ︶ ﹃履歴﹄第七冊二五六頁。 ︵ ︶ ﹃履歴﹄第七冊四六〇頁。 ︵ ︶ ﹃履歴﹄第七冊五七四頁。 ︵ ︶ ﹃履歴﹄第八冊三二二頁。 ︵ ︶ 胡 思 敬﹃ 国 聞 備 乗 ﹄ 巻 一﹁ 部 務 ﹂ 。胡は光緒二十四年よ り一時吏部考功司主事を務めた︵ ﹃碑伝集補﹄巻十﹁科道﹂ の 劉 廷 琛﹁ 胡 公 漱 唐 行 状 ﹂ 、 ﹃ 碑 伝 集 三 編 ﹄ 巻 八﹁ 部 院 五 ﹂ の陳毅﹁副都御史胡退廬墓表﹂ ︶ 。 ︵ ︶ 実際、 スミス︵ ︶は﹃中国的性格﹄ Arthur Henderson Smith ︵ Chinese Characterietics ︶ に お い て﹁ 或 る 有 名 な 中 国 の 政 治家﹂が﹁或る国の公使館の通訳官﹂に語った言葉として、. 103 清朝後期における中央基層官僚の基礎的考察(水盛). ﹁ 閣 員︵ a member of the Chinese cabinet ︶ は 答 え た。 彼 は 自宅を朝二時に出発する。それは朝廷に三時から六時まで 詰めねばならない義務があるからである。そして軍機処の. 構成員として、彼は六時から九時まで拘束される。九時か ら十一時まで彼は兵部に在る。彼は兵部尚書であった。ま た刑部の一員でもあったので、彼はその役所に十二時から 午後二時まで出席する。そして、総理各国事務衙門の行走 として、彼は毎日午後二時より五時あるいは六時まで過ご す。これが彼の定期的な日常業務であった。それに加えて、 彼は度々会議や委員会へ出席するよう命ぜられた。そして 彼は出来うる限り右の業務の合間に出席した。こうして彼 は毎日午後七時から八時より以前に帰宅することはめった にないのであった﹂という。これは一八九〇年の上海初版 本第九章には存在せず、増補改訂版︵ New York, Fleming H. ︶ 第 三 章 に 現 わ れ る。 彼 は 程 な く 過 Revell Company, 1894 労のため逝去したというが、その彼とは符合する多職を兼 務した許庚身であろうか。 ︵ ︶ 前掲注十、十一、十九拙稿参照。 ︵ ︶ ﹃履歴﹄第二十五冊六六一頁。 ︵ ︶ 福格﹃聴雨叢談﹄巻一﹁筆帖式﹂。 ︵ ︶ ﹃ 履 歴 ﹄ 第 八 冊 一 九 七 頁。 彼 は 廕生 で あ り、 旗 人 官 僚 も 廕生ならば父の官階に応じて主事や員外郎からの“起家” と な る︵﹃ 欽 定 吏 部 銓 選 満 洲 官 員 品 級 考 ﹄ 巻 二﹁ 従 五 品 ﹂ ︵. や﹁正六品﹂を参照︶。 ︶ たとえば宮崎市定﹁清朝における国語問題の一面﹂ ︵﹃東 方 史 論 叢 ﹄ 第 一︵ 北 方 史 専 号 ︶ 一 九 四 七 年 七 月、 ﹃宮崎市. 73 72 71 70. 定全集﹄第十四巻﹁雍正帝﹂岩波書店、一九九一年十月に 再録︶ 、陳文石﹁清代的筆帖式﹂ ︵﹃食貨月刊﹄第四巻第三期、. 74. 60 59 58 57 56. 62 61. 68 67 66 65 64 63. 69.
(21) 一 九 七 四 年 六 月。 ﹃ 明 清 政 治 社 会 史 論 ﹄ 台 湾 学 生 書 局、 一九九一年十一月に再録︶ 、 李紅﹁清代筆帖式﹂ ︵ ﹃歴史档案﹄ 一九九四年第二期︶ 、沈一民﹁清初的筆帖式﹂ ︵ ﹃歴史档案﹄ 二〇〇六年第一期︶ 。ほか趙郁楠﹁清代筆帖式之特色﹂ ︵ ﹃満 族研究﹄二〇〇六年第四期︶も存在するが、 ﹁持摺筆帖式﹂ の発見も含め、陳文石ら先行研究を祖述するのみである。 ︵ ︶ ﹃欽定吏部銓選満洲官員品級考﹄巻三﹁筆帖式﹂ 。 ︵ ︶ ﹃仁宗実録﹄巻七十六・嘉慶五年十一月丁酉条および同 月戊戌条、巻一八一・嘉慶十二年六月庚辰。同様の規定は 光緒﹃欽定大清会典﹄巻八十二﹁奏事処﹂の﹁遞膳牌亦如 之﹂や﹁凡摺親遞者﹂の割注にも見える。 ︵ ︶ 北京古籍出版社版﹃天咫偶聞﹄ ︵一九八二年九月︶の出 版 説 明 も 触 れ な い が、 震 鈞 の 父 は 瓜 爾 佳 氏 英 恒︵ 英 傑 ︶ 、 実父の福建海防同知賀登額の兄で兵部尚書特登額の養子と なり、戸部郎中を経て揚州府知府をつとめた︵震鈞﹃天咫 偶聞﹄巻三﹁余家世代仕宦﹂条、 楊鍾羲﹃雪橋詩話余集﹄ ︵北 京古籍出版社、一九九二年一月︶巻八﹁鄭太夷序在廷詩稿﹂ 条︵ 第 五 七 〇 頁 ︶ 、同治﹃続纂揚州府志﹄巻六﹁秩官﹂ ﹁揚 州府知府﹂ 、 ﹃履歴﹄第三冊五四七頁︶ 。 ︵ ︶ 震 鈞﹃ 天 咫 偶 聞 ﹄ 巻 一﹁ 内 廷 奏 事 之 制 ﹂ 。 注 八 前 掲﹁ 召 見の風景﹂でも触れたが、光緒年間すでに尚書は自ら上奏 を行わず、皇帝との対面は召見時のみに限られていた。. ︵ ︶ 道光十八年正月付﹁在礼曹日与堂上官論事書﹂ ︵ ﹃定盦文 集補編﹄巻三︶の﹁風気宜力挽也﹂条。 ︵ ︶ 光 緒﹃ 欽 定 大 清 会 典 ﹄ 巻 八 十 二﹁ 奏 事 処 ﹂ 、 昭 槤﹃ 嘯 亭 . ︵. ︵. ︵. ︵ ︵. ︵ ︵. 雑 録 ﹄ 巻 九﹁ 膳 牌 ﹂ や 同﹃ 続 録 ﹄ 巻 一﹁ 奏 事 処 ﹂。 ﹃履歴﹄ 第七冊四一二頁、第八冊九五頁は﹁奏事官八年期満﹂とい う。 ︶ 震鈞﹃天咫偶聞﹄巻二﹁六部官廨﹂条。司員の様態は劉 体智﹃異辞録﹄巻二﹁部曹洊升定例﹂にも詳しい。ほか李 文杰﹁総理衙門章京的日常生活与仕宦生涯﹂︵﹃中央研究院 近代史研究所集刊﹄第七十期、二〇一〇年十二月︶を参照。 ︶ ﹃申報﹄光緒八年六月十二日﹁光緒八年六月初二日京報 全録﹂﹁侍郎宝︵礼部右侍郎宗室宝廷︶奏請整頓八旗人才摺﹂ 。 なお震鈞も﹃天咫偶聞﹄巻五﹁鄭府宗室﹂条で挙げる。 ︶ 剛毅は同治五年九月に戸科八品筆帖式となり、七年四月 に 刑 部 額 外 主 事、 以 降 刑 部 を 歩 み 郎 中 ま で 昇 進、 光 緒 六 年 二月に恵潮嘉道へ出任した︵国立故宮博物院図書文献処伝 包、 請 求 記 号 七 〇 二 〇 〇 一 九 六 四・一﹁ 剛 毅 履 歴 片 ﹂ ︶。 光 緒十五年版﹃秋讞輯要﹄沈晋祥跋も﹁吾晋撫軍剛公、官刑 部最久、秋讞之役公恒与之、是編其手輯也﹂なる恪勤ぶり を賞賛している。刑部における満漢諸問題については蘇亦 工﹁官制・語言与司法﹂ ︵﹃法学家﹄二〇一三年第二期︶を 参照。 81 82. ︶ ﹃履歴﹄第八冊五四六頁。 ︶ 水盛涼一﹁太平天国江南蘇福両省地域考略││以清末江 蘇甯属蘇属的分化為中心﹂︵王継平主編﹃曾国藩研究﹄第. 83. 六輯、湘潭大学出版社、二〇一二年四月︶。 ︶ 注十一前掲拙稿参照。 ︶ ほか、例えば翁同龢批注、光緒十七年・二十年﹃京察満 . 85 84. 87 86. 76 75. 77. 78. 80. 79. 104.
(22) ︵ ︵. 漢司員履歴冊﹄ ﹃京察満司官筆帖式履歴清冊﹄ ︵ ﹃国家図書 館蔵清代孤本内閣六部档案続編﹄全国図書館文献縮微複製 中心、二〇〇五年十月、第十六冊︶ 。 ︶ ﹃履歴﹄第八冊六一三頁。 ︶ ﹃ 履 歴 ﹄ 第 八 冊 一 九 七 頁、 第 八 冊 た と え ば 奎 隆 は 雲 南︵ 二九〇頁︶ 、鄂芳は安徽︵第八冊一九八頁︶ 、孫毓駿は江西 の監理官︵第八冊一九七頁︶ 、楽平は広東分銀行総辦や山 西分銀行総辦︵第八冊一九六頁︶に就任した。. 89 88. ︹附記︺ ﹁近 なお本稿は、科学研究費補助金・若手研究︵ ︶ 代中国における地方官僚およびその機構に関する研究﹂ ︵研究 課題番号二五七七〇二五二︶の成果の一部である。 また本稿は平成二十六年十一月十四日に広州市の第十一届科 挙制与科挙学国際学術研討会の発表﹁科挙制与中央機関﹂に基 づく。 筆帖式に関しては扱う時代を異とするものの平成二十七年一 月五日東北大学文学部提出にかかる高津真央氏の卒業論文﹁清 代後期の筆帖式人事││咸豊期の採用と昇進事例から﹂より大 いに示唆を受けた。 何より東京大学東洋文化研究所には本稿で検討した﹃戸部満 司員同官録﹄および﹃戸部筆帖式同官録﹄につき、平成二十二 年四月二十一日には撮影を、また平成二十七年五月二十八日に. 105 清朝後期における中央基層官僚の基礎的考察(水盛). は本稿への掲載をご快諾いただいた。記して感謝申し上げたい。. B.
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Potentilla freyniana was specific in present taxonomic group by high distri - bututional rate of dry matter into subterranean stem and stolons.. The distributional
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