ヴァレリーのパスカル批判をめぐって
著者
中島 麻子
雑誌名
年報・フランス研究
号
32
ページ
81-94
発行年
1998-12-25
URL
http://hdl.handle.net/10236/9398
ヴァレリーのパスカル批半
Jをめ ぐって
中島 麻子 序 ヴァレリーがパスカルについて中心的に論 じた作品 としては、「『バ ンセ』 の一句 を主題 とす る変奏 曲」があげ られるが、 この作 品は、 ヴァレリーの、そ のあ ま りに辛辣かつ厳 しいパスカル批判 によつて、かえって注 目されているよ うな所があ る。 よく知 られているように、ヴァレリーの崇拝の対象 としていたのは、 レオナ ル ド・ダ 0ヴ ィンチ、マラルメ、デカル ト、ポー、ドガなどであ り、彼 らに対 するヴァレリーの関心の中心は、彼 らの作品における理知の働 きの重要性にあ るものと考えられる。そもそもヴァレリーは、自己の思想を表明するために、 偶像や敵対者 を、敢 えて設定す ることが しば しばある。そ うすることによつ て、ヴァレリーは、自らの思想を可能な限 り客観化 し、そこからこそ自らの思 想 を見つめなおそうと試みていたように見える。そ して、はつきり言えること は、ヴァレリーが取 り上げる偶像なり、敵対者な りは、必ず何 らかの形でヴア レリーの思想の糧 となっていたであろう、ということである。おそ らく、ヴア レリーは、特定の人物 を崇拝 した り偶像化 した りす ることによつてだけでな く、特定の人物 を否定 し、拒絶することによつて もまた、自らの思想 を見つ め、鍛え、深めていったのではないだろうか。このような観点から、ヴァレリ ーのパスカル批判の意味について考えてみたい。82 ヴァレリーのパスカル批判をめぐって 「「バ ンセ
Jの
一句を主題 とする変奏曲」 ヴァレリーは、いわゅる「ジェノヴァの危機」 として知 られる青年期の精神 革命の体験 を経て、「あ くなき厳密」や「純枠 自我」の追求に身を捧げること となった。この「ジェノヴァの危機」以降は、その数年後に『レオナル ド・ ダ・ヴィンチ方法序説Jお
よび「テス ト氏 との一夜Jを
発表 した以外に、ヴア レリーは約二十年間、作品を発表 していない。このような意味でも、この両作 品は注 目すべ きものであるが、ここではヴァレリーの崇拝の対象であるレオナ ル ド観を『レオナル ド・ダ・ヴインチ方法序説Jの
中に見てみることにする。 「彼 (レオナル ド)が
つねに思いを馳せるのは宇宙であ り、また厳密なのだ。 存在するものの混乱の中に含 まれるいかなるもの も、小潅木一本た りと忘れぬ ような彼である。彼は万人に所属するものの深みへ と降 りて行 き、そこで自己 を引 き離 して自己を眺める。自然の中にひそむ習性 と構造 とに辿 り着き、あら ゆる面からこれを鍛え上げる。そ して構築 し、数え上げ、感動 させるただ一人 の人 ということになる。」(0 ここで、 レオナル ドは、あ くなき厳密を志 しつつ、森羅万象を観察 し、それ を組み合わせ、結び付けて総合的に理解 しようとする人間として描 き出されて いる。すなわち、ヴァレリーは「構成するという意識的な行為によつて照 らし 出される精神の領域の、豊かさや機略縦横ぶ り」0を 示す人物 として、 レオナ ル ドをとらえて、賛美 しているのである。 こういったレオナル ド賛美に対 して、ヴァレリーは、パスカルについては、 極めて厳 しい批判を浴びせかけている。ヴァレリーは、パスカルの「この無限 な空間の永遠の沈黙はわたしを恐怖 させる」 という有名なパ ンセの中の一句を 主題 として、 くだんの作品を書いたのであ り、実際この作品でヴァレリーがパ スカルに対 して批判 している主な点は、この語旬にまつわる非難を中心 として 以下の点に集約 される。 まずは、パスカルが レトリックを駆使 して、自己以外の人間に対 して人間のヴ ァレリーのパ ス カル批半Jをめ ぐって 83 悲劇的側面を説 き付けて、信仰に引 き入れようとしている、とする点。 「偉大な能力を備えた精神がつつ しまなければならないこと、考えてさえも ならないことがあるとすれば、それはまさに他人を説得 しようとする意図を持 つ ことであ り、そのような目的を達するための手段 を用いることである」
0
「蛇 と言えども、これより悪いことができるであろうか?」 (vp 468) 次に、パスカルが レトリックの効果によって、自らもそれに酔い しれてしま い、悲劇の主人公になりきっている、とする点。 「パスカルは、追い詰められた動物のように自分 を想像 し、わが身をうらみ、 嘆 く。 しか しなが ら、自分を追いつめているのはパスカル自身である。彼自身 の うちにあるす ぐれた才能、すなわち強烈な説得力、見事な表現力を駆使 し て、一切の明白なもの、本来ならいささかも嘆 くべ きでないものをことさらに 汚れたものにし立て上げるのは、パスカル自身なのである。」(vp 461) そ して、パ ス カルが「知識 と救 い との対 立 をあ ま りに も極端 に強調 し た」(VP 473)こ
とについてである。ヴァレリーは「′亡ヽ情 とは自分で神を作 り 出すことによって、自分に答える傾向がある。」(vp 470)と し、「心情の示す 速やかさ、気み じかさ、不安などと批判 と希望によって作 られるこの (=精神 の)落
ち着 きは、著 しいコントラス トを成 している」(vp 471)と 続ける。そ し て、「パスカルは F見いだしたJ。 それは、おそ らく、彼が もはや求めること をしな くなったからである。」(vp 473)と 結論づけている。ヴァレリーは、パ スカルが「心情(ccur)」 に委託 した ものを、精神の領域に止めなが ら人間の 可能性を信 じようとするのである。「無限な忍耐 と多 くの関心を持ってあらゆ る事物の巨大な圧力に対抗 しようとする場含、 どのような別な種類の思想が人 間に生 じ得るかを考えてみよう。/精
神は探求するものである。精神は、宇宙 の考察を続けるのに必要なものを、性急に想像 した りしない。」(vp 471) このように、一見ヴァレリーは、この小論において、ことごとくパスカルを はねつけ、どこかせせ ら笑っているかのような態度を取っている。 この作品に見 られるヴァレリーの短絡的とさえ見えるパスカル批判は、パス84
ヴアレリーのパスカル批判 をめ ぐって カルの存在が、 ヴァレリーに とつて何か特殊 な意味 を持 っているかの ような印 象 を抱 かせ るほ どなのだ。 「当時の私に精神の能力 と思 えていた もの、私はそれ を人間 と名付け、また レオナル ドと呼 んだのである。」0 「私 は、当時私 に付 きまとっていた幾多の難題 を、あたか も彼がそれ らに遭遇 し克服 したかの ように、彼 に帰 した。彼の能力 を想定 し、 自分の当惑の身代 わ りに した。私はあえて、彼の名の もとに自分 を考察 し、私の人間を利用 したの だった。」0 こういった言葉から推 して、ヴァレリーが逆に精神の弱さの方を、くパスカ ル〉と名付けていたと考えても、あながち見当はずれではないだろう。H
ヴァレリーの内面的葛藤 確 かに、 ヴアレリーは、パスカルに対 して、執拗 に抵抗 し続けたか もしれな い。 しか し、 この ことによって、 ヴァレリーがパスカルに対 して無理解であつ た と安易 に結論づけることはで きない。実際、あ る批評家は、「言葉の最 も広 い意味において、 また非常 に象徴 的な意味において、 ヴァレリーは、自らが考 えていたよ りも、そ して望 んでいた よりもはるか にパス カル的な人間であつた ことは確 かである。一一 そ こか らこそ非難の必然性 は生 まれている。」0と
い うように書いている。 そ もそ も自らの思想 を堅固な ものにす るために、わ ざわざ取 るに足 らない思 想 を対立 させ るなどとい うことを誰がす るだろ うか。おそ らくパス カルの思想 の在 り方 は、 ヴア レリーに とつて抵抗す るに足 るだけの驚異的存在 だったの だ。おそ ら く、 ヴァレリーは、パスカルに対 して愛憎半ば した気持 ちを抱 いて いた。 ヴァレリーはパスカル的悲惨 が どういったメカニズ ムをもってい るか を、分 か り過 ぎるほ ど分かっていた。パスカルは、人間存在の不条理 をどこまで も絶ヴァレリーのパスカル批判 をめ ぐって 望的に追求 し、あらゆる人間的現実の根拠に懐疑的な視線を投げかける。そ し て、パスカルは、そういった人間の不条理を、感 じ過ぎるほど感 じて しまう感 性の持ち主でもあった。そ して、この「うめ きつつ求める人」(L.405)0で ある パスカルを、感性 と分析の見事な結合であるような詩を創造 し得たヴァレリー が、理解 していなかったはずはない。実際、皮肉交 じりにではあるが、ヴアレ リーは次のように書いている。
_
「(……)相
対的な価値に過 ぎない ものに人間が絶対的な価値を与えないこと は、私 も好 きである。人間が自分について十分に明確な観念を持ち、自分が所 有 しうる才能を偶然的な もの とみなす ことは、わた しの賞賛するところであ る。 もっとも優れた力強い精神の持 ち主たちならば、思想 というものの もろ さ、不安定 さ、不十分 さに心 を動かされるはずであるが、実際は必ず しもそう とは限らない。 しか し、いかに偉大であっても自らを偶然的なもの と感 じない ものには、またいかに明確かつ好奇心を持って自己のうちに美点 と光明 (と き には非凡な)を
認めようとも自分の弱さと平凡 さに気づかないあらゆる精神に は、何か(ある種の高貴さ)が 欠けている。/こ れら全てを備えている点で、パ スカルはまさにパスカルらしい。」(Vp 466-468) このように、一方ではパスカルの絶望の内実に決 して無理解ではないヴァレ リーが確実 に存在する。だか らこそ、ヴァレリーは、まるで自らに言い聞か せ、鼓舞 しようとするかのように、次のように書かねばならなかったのではな いか。 「(…。)そ
もそも感性 というものは平衡 を知 らぬ ものである。生命体のうちに あって、そのさまざまな能力の平衡を破ることを本来的な使命 とするのが感性 である、 とさえ定義することもで きるであろう。それゆえ、われわれの精神は 自分自身を刺激 して、茫然自失の状態か ら解放 されねばならない。そ して、一 方では自分がすべてであるという感情 と、他方では自分は全 くの無であるとい う動かすことのできない事実 との、この二つが引 き起 こす荘厳で不動な驚きの 状態から、立ち直 らねばならない。」(vp 470) 8586 ヴ ァレリーのパ ス カル批 半Jをめ ぐって この言葉 は、パス カルが苦 しんだ ものの内実 と響 きあ っている ように見 え る。 ヴァレリーはこの文章の中で、感性の充溢 に対 して精神の抑制力、 とい う 構 図 を描 き出 している。 ここには、パスカルにおける幾何学の精神 と繊細の精 神 に通 じ合 うものが見いだ され る。確 かに、 ヴァレリーは、あ くまで精神 の 力、理性の力 に よつて、人間が茫然 自失の状態か ら立 ち上が ることこそを目指 している。周知の ように、 ヴアレリーは、偶然性 や習慣性 に縛 られ ることのな い純粋状態での人間精神の知的営為の可能性 を追求 し続けたのであ るが、 しか し、彼の視線 はその次元 に止 まっているわけではない。 ヴァレリーは しば しば 感受性や感性が人間に及ぼす威力 について言及す る。例 えば、 ヴァレリーは以 下の ように書 いている。 「音楽 を感 じて しまう人間は、単に聴 く以上の ことをしているのだ。その人 は、ほん らい組織可能な感晉性 である聴覚 によって刺激 された 自らの組織不可 能な感受性 に よつて捕 らえ られているのである。」0 こういつたヴアレリーの言い方 には、パスカルの心情 に通 じる ものがあるよ うに見 える。 ヴァレリーは、明 らかに、感性や感受性が捉 える筆舌 に尽 くしが たい もの、説明不可能 な ものの存在 に圧倒 され、 またそ こに、人間の現実のあ る種の絶対 的真実 を見いだ してい るようで もある。 「唯一の現実は純枠 な感覚である。
/現
実はそれゆえ瞬間的である。/な
ぜ ならそれは異論の余地のない、模倣のできぬ、描写できぬ ものであるから。」0 「感覚す るこ とは、一切 を開始 し、それ に先行 し、同行 し、そ して完成す る。/ま
たそれ故 に、一切である。/こ
の ことに依 り、 この話 の手前に も彼方 に も行 くこ とは不可能である一一 これは一つの限界点 の議 であ リーー或いは一 つの全体的反射物、すなわち一切 を反射 して何物をも吸収 しないものである。」00 おそ らく、 ヴァレリーに とって、感性的な もの と、知性的な ものは、 どち ら が優勢であるか とい うような問題ではな く、相互補完 的に、現実 を支 えて くれ る ものであ つた。だか らこそ、 ヴァレリーは、現実の領域 を無限に超越 して行 き、心情の欲求 によつて、神 を生み出す ことで解決 しようとしたバ スカルを、ヴ ァレリーのパ ス カル批半Jをめ ぐって 87
非難せずにはいられなかったのだろう。それは、以下の言葉の中に表現されて
いる。 「 亡備 は、世界 という恐ろしい姿 とたたかうにあたって、欲求の力におされ ほ とん どと言 つていい くらいつ ね に、何 らかの存在(者 )を生 み 出す ものであ る。」(vp 470) 「心情 ほ ど愚か しい ものはない一一パスカルは心情 を信ずべ きだ と考えてい るが。」(11) この ように、心情 に対 してあ くまで抵抗 しなが らも、 ヴァレリーは亡 くなる 三 カ月ほ ど前、 カイエの中で以下の ように書いている。 「(……)心
情 は勝 ち誇 る。精神 よ り、身体組織 よ り、あ らゆるもの よ り強いの であ る。―― それが事実だ。…。 もろ もろの事実の うちで も最 も理解 しがたい暗 い事実なのだ。生 きん とする意志 よ りも物事 を理解す る力 よ りも、だか らこの い まいま しい一一c〔 心情〕の方が強いのである (…¨)人
間存在の うちには、 諸 々の価値 の創造者たる何 かが棲 んでいる一一 そ してそれは全能で一一非合理 的で一一説明で きず、自分 を説明す ることもない。J oη ヴ ァレリーは カイエの中で何 度か、パ スカルの「心情 は、理性の知 らない、 それ 自身の行動理 由を持 っている(L。277)」 とい う言葉 に言及 し、心情 には 「無言の圧力 と決定があるのである」t13D としてぃる。そ して、以下の ように 書 く。 「(…")精神 は納得 していて も心情 のほ うは納得 しない とき、あるいはまた、精 神 に とつてはなん ら問題が ないのに心情の方が要求 し、 また疑いをさしはさむ とき、そ こに何 もないのは明 らかであ りなが ら、割 り切れない何かが説明され ない まま残 るとい うことになる。/一
一何 も恐 れることはない、 しか し恐ろ し い。/何
も答 えることはない、 しか し私 は譲 らない、私は叫 びをあげる。/何
も希望の材料はない、 しか しなお私は希望す る。/私
はこれが好 きだ、 しか し それに理 由はない。 これでな くあれではなぜいけないか?/な
ぜ?一
一私は橋 ががん じょうなの を知 つている、それでいて私 は既 に橋が決壊す るの を感 じて88
ヴァレリーのパスカル批判 をめ ぐって いる。視覚や定義や推論が、橋が決壊することになる何 らかの要因 を等閑視 し ているという気が私にはするのだ。」00 これらの文章から、ヴァレリーにとってパスカルの言 う心情の観念が、非常 な脅威であったことが見いだせるように思われる。そ して、このような感覚に 悩 まされていたからこそ、ヴァレリーは、あれほどパスカルにこだわらずには いられなかったのだ。おそらく、ヴァレリーにとって、「不条理こそわれわれ を文配する法則その ものだ。」“)と
いう認識 と、パスカル的な心情の原理 と は、等価のもの となっていた。 Ⅲ 再起するヴァレリー ヴァレリーは「われわれにとってここ(普通の言語)か
ら、(……)「
自己Jよ
りも奇 しくもす ぐれた或る自己の観念 を伝達することのできるような、一つの 純粋 な、理想的な『声Jを
取 り出すことが、問題なのであ ります。」0° とい うように書いている。ここで、ヴアレリーは詩作によつて、自己を越えたもの が生 まれ出ることを期待 しているように見える。そ して、「「自己Jよ
りも奇 しくもす ぐれた或 る自己の観念」および、「理想的な「声J」 といった言葉 は、ヴァレリーの美に対する観念 とも無関係のものではないだろう。 「美一一 とは名状 し難さinexp‖mabilit6を 意味する一¬に ¨)/名
状 し難 さと は、あれこれの表現があ り得ないということではなく一一いかなる表現 もそれ を刺激 し惹 き起こした当の ものを復元することができず一一 またわれわれがこ の不能性ない し非合理性 を、原因としてのものの真の特性 として感 じているこ と を意味 している。(“…)」・η このように書 くヴアレリーの言葉の中には、それが決 して直接、信仰 と結び 付いたものではないにせ よ、パスカルの「神を感 じるのは、心であつて、理性 ではない。(L。 424)」 という言葉 と通 じ合っているように見える。 しか しさらに、ヴアレリーは名状 し難い美や、自己を越えたものを、創造行ヴ ァレリーのパ ス カル批 半Jをめ ぐって 89 為 を通 して、「取 り出」 し、「伝達する」 ことを目指 している。このことは、 ヴァレリーにおいて創造行為が人間の自由を保証 し、人間の可能性 を表現する 最 も有効な手段 となっていたことを物語つているようで もある。そうであるか らこそ、ヴァレリーの純枠 自我の追求は、人間の可能領域である創造への意欲 となって、最 も美 しく開花することとなったのではないだろうか。一方、「芸 術 にまった く無感覚な男」0」 とヴァレリーに言わしめたパスカルは、確かに 人間の営みの全てを虚 しい もの、気晴 らしで しかないもの、 と考えた。そ し て、実際、創造行為を通 してこそ、ヴァレリーと、パスカルの異質性は確認で きるように思われる。 パスカルにおける心情が、ヴァレリーが創造行為を通 して獲得するであろう 美への認識 と、ある意味で、同質のものであるならば、パスカルはいわゆる三 つの秩序の最 も高い所に、この心情の秩序(=愛の秩序)を おき、それらの秩序 の間に無限の距離を見いだしている点で、ヴァレリアと決裂することになるだ ろう。すなわち、パスカルの三つの秩序は、秩序間の断絶を確認するもので も あるのだ。それは、有名な次の言葉の中に表現 されている。「からだから精神 への無限の距離は、精神から愛への限 りもなく、さらに無限な距離を象徴する。 なぜなら、愛は超自然的なものだからである。に432J それに対 して、ヴァレリーは秩序間に断絶を設定することはない。それどこ ろか、ヴァレリーは、詩の創作 という知的な作業を通 して詩的感動 (これは、 パスカルにおける心情の秩序 と同質のものと言えよう
)を
生み出すことによつ て、秩序間に連続性 を見いだしている。「「詩Jは
「言語Jの
一芸術である。 言葉のある種の結合は、ほかの結合が生 じることのない一感動、われわれが詩 的と呼ぶような一感動を生 じ得る。(……)」 t19b このように、おそらくヴァレリーは、絶えず自らを脅かし続けるパスカル的 動揺を、 日々の思索や、創造行為へ と還元 しなが ら、「生 きようと努めなけれ ばならない」0)人
間としての尊厳 を守 り続けようとしたのである。0) 確かに、パスカルも幾何学精神 をおろそかに した ということでは決 してな90 ヴァレリーのパスカル批半Jをめ ぐって い。人間の現実の不条理 や定め な さをあれほ ど鋭 く見据 えたパ ス カルの視線 は、あ くまで理知の働 きに支 えられていたはずである。バ ンセの中に現れる、 徹底 的 な懐 疑精神 の行使 は、決 して ヴ ァレリーのそれ と無 関係 で はない だろ う。 しか し、パス カルにおいて、幾何学精神や懐疑精神 の行使 は、繊細 の精神 と絡みあい なが ら、最終的には心情で感 じ取 る神の愛 とい うものへ と収敏 され てゆ くことになる。 こういったパスカルの志向に対 してヴァレリーは、「 この絶望 した人物は、 月の理論 を考案す ることさえで きるのに、 自分の科学理論 に対 して さえ不快 と 反感の叫び声 を投 げ付 けようとす る。」(vp 463)と 書いている。そ して、パス カルに比 して、 レオナル ド・ ダ・ ヴインチの在 り方 を称賛す るのである。 「 レオナル ドには、啓示 などはない。右脇 に口をあいている深淵奈落などは ないのであ る。深淵で もあれば、 この人は橋梁の ことで も考 えるだろう。」。ブ そ して、 ヴァレリー 自身、 レオナル ドと同様 に、深淵があれば橋 をかけ よう とす る人間であつた。 ヴァレリー とい う人は、た とえ現実がいかに不条理であって も、 なお現実 を 引 き受 ける ことか ら始めるのだ。 それは決 して単純 な諦めによる もので も、 ま た単純 な希望 に よる もので もないはずである。 ヴァレリーは、生 を引 き受ける ため、 さらには生 を可能な限 り豊饒 な ものへ と変 えて行 くためにこそ、パスカ ルに抵抗 しようとしたのではないだろうか。 そ して、 こういつた点にこそ、 ヴアレリーの本質がある。 ヴァレリーは、決 して絶望の内部で立ち上 まらない。ただ し、それ は彼が絶望 に対 して無関心で ある とい うことで も、無感覚であ る とい うことで も決 してない。 ヴ ァレリーの 研 ぎ澄 まされた知性 と感性 は、パ ス カルが陥 らぎる を得 なか った悲惨 の正体 を、はっ き りと認識 し、感 じ取 つていた。ただ、 ヴァレリーにとって、それは 人間の領域 で、人間に許 された能力 を行使す ることに よって解決 されなければ な らない ものであつた。なぜ な ら、あの「ジェノヴァの夜」以降の ヴアレリー は、たゆ まぬ精神的営為に よつて知性 とい う人間的能力 をひたす ら誠実 に培 つ
ヴァレリーのパスカル批半Jをめぐって て来たか らである。 もしか した ら知性の営為その もの さえ幻想であ るか もしれ ない。 しか し、 ヴァレリーはそれで もよかったのではないか。 ヴァレリーは、 デ カル トの「我思 う、ゆえに我あ り」 という言葉 は、結局の ところ軍隊の起床 ラッパの ような ものなのだ、 と言 っている。“
)我
はあって もな くて もよい。 少 な くとも、その言葉が、デ カル トの意識 を鼓舞 し、それによつて、意識が 目 覚 め、立 ち上がろ うとするな らば、それで コギ トは十分価値 を持つのである。 おそ らくヴ ァレリー もまた、そ うい う機能 を知性 に付与 していたのだ。早朝の 絶 えることない思索 を通 して精神の営為 を言語化す ることによつて、 ヴァレリ ーは、彼の五感が捉 えたあ らゆる現実の諸相 と向 き合 い、それに疑念 を投げか けた り、それ を確認 した りする時間 を、 自らに課 していた。 感性 の充溢があ り、理性 を越 えて行 くものが偏在 していることを直感する と き、それにけ りをつけて くれるのは、 きっと朝の数時間の思索の時間だったの ではないか。 ヴテレリーにおける知性 は、 自らを含めた人間存在や、世界の現 実 を、絶 えず新たな懐疑 の対象 としようとす る働 きを担 っていた。 人間を肯定 し、人間に敬意 を払お うとするヴァレリーが信 じようとした もの は、知性で あつた。それ は決 して不 条理 な現 実 を変 える ものではない。 しか し、生 きて行 こうと意志す る人間であるヴァレリーは、それで もなお知性 を信 じ続 けるために、パスカル的な弱 さ(と ヴァレリーには感 じられただろう)を、 何 として も克服 しなければな らなかったのだろ う。 ヴァレリーは、理知の網 目 を擦 り抜 けて行 く不条理への直観 か ら絶 えず立 ち上が ろうとす る人 間だった。 以上の ように、ヴァレリーは、人間に許 された知性 とい う能力 を行使す るこ と、そ して さらにはそれを創造行為へ と深めて行 くことによつて、人間の現実 をあ くまで肯定 しようとしていたのだ とい うことが分かる。IV
結語 このように、ヴァレリーのパスカル批判の不当なまでの激 しさや厳 しさは、92 ヴァレリーのパスカル批判 をめ ぐって 必ず しも一面的に捉 え られるべ きものではない ことが見いだせた。 実際、幾何学の精神 と繊細 の精神 に支 えられたパス カルの思想の在 り方は、 感性 と知性 との見事 な融合であるような詩 を創作 し得た人ヴァレリーにおいて も、決 して無縁 の ものではなかつたのである。 確 かに、芸術 や学問 を含めた人間の営み全てが気晴 らしで しかないのだ と言 いなが ら、 しか もそ ういつた考 えを極めて詩的な言葉で表現す るパスカル とい う天才の無秩序 なや り方に、 ヴアレリーは我慢が な らなかった。詩 と同 じくら い に豊饒 なイメー ジをたたえた言語表現 を、人間的秩序 の中で規制す る よ り は、神の次元 と結 び付 けて しまったパス カルの到達点 は、ヴアレリーの 目指す ところ と全 く異質であった。 「理性の最後の一歩は、 自分 をこえるものが無限にあることを認めることで ある。理性 はこの点 を知 る ところまでた どりつけなければ、 しよせ ん、弱い も のにす ぎない。(L。188)」 この ように書 くパスカルに対 して、ヴアレリーは、その最後の一歩の ところ に とどま りつづけた。 しか し、この ことはヴアレリーが、 自分 を越 える事物が 無限にある とい うことを認めていなかつた とい うことでは決 してなかった。た だ、ヴァレリーは、「た くさんの偶像の中で、少 な くとも一つは崇拝 しなけれ ばな らない」“
)の
であればこそ、 この世の次元 において最 も人間的な能力 と して、知性 を選 び取 つたのである。 あの比類 ない天才であるパスカルに対す るヴァレリーの言葉が、限度 を超 え た厳 しさや、短絡的 と見えるような非難 に満 ちている として も、それはヴァレ リー個人の内面 にのみ限つて言 えば、決 して軽率 な もので も、短絡 的な もので もなかつた。なぜ な ら、 ヴアレリーはそ うす ることによつてこそ、 自らの足場 を堅固な ものに していつたか らである。 ヴァレリーはパスカル とい う名 を借 り た 自らの内面の敵 を、告発 し、糾弾 していたのだ。おそ らく、 ヴア レリーの精 神 の奥深い所で、絶 えず影響 し続 けていたパスカルの存在は、非難の対象 とい う形 をとってはいる ものの、 ヴアレリーに とつて不可欠な存在だったに違いなヴ ァレリーのパ ス カル批半」をめ ぐって υ`。 ヴァレリーが、むしろ意識的にパスカル的な思考の在 り方への故意を養い育 てていった とすれば、それは、以上のような意味で捉 えられるべ きではないだ ろうか。 使用 テ キス ト及 び略記
Paul Valёry,α
“
ソ″s TomeletTome Ⅱ,Bibliothじque de la P16iade, 1957.1960
(C.I,CE.Hと 略記)
Paul Va16ry,CaんJθrs Tomel et Tome H,Bibliotheque de la P16iade,1973,1974 (CoI,CoⅡ と略記)
なお、引用に際 しては、筑摩書房版全集を参照 した。 注
(1)Va16ry,ルけ
oれ
εrlia“a ra"彪′ヵαJθ J`壼on"グ `ル ソJ"εJ9 C.I,p.H55。 (2)JbliJ。,p。1182。 (3)Va16ry,力 だα′わ “ ∫ “ r“ "θ′θ“ s`θ,COI,p.焙. 以下、 「『バンセ』の一句を主題 とする変奏曲」のプレイアッド版か らの引用につい ては、引用文の後にVpと略記すると共にそのベージ数を記す。 “ )Va16ry,ルroれ
εあ “ara ttdし dし肋 “ α “ ごdレッJ“εJ,OE.I,p.H55。(5)Va16ry,Na″ α alig″ss,ο■,CcI,p。1232。
(6)Judith Robillson,《 Va16ry,Pascal etla censure de la m6taphysiquc》 in Ca′ Jo4“` Pa“JlたIびり (Paris:Niat,1978),p.206.
(7)Pascal,α
“
ソ″s caЛりJ2″s,“.L.Lfuma,Seuil,《 L:in“grale》,1963。以下『バン
セ』か らの引用文は引用文は同書による。また本文の『バンセ』か らの引用文は引用 文の後に断章番号を記す。 (8)Va16ry,C.H,P.381。 (9)Va16り,C.I,p。 1200. (10)Va16ry,C。 ,p.1206. (11)Va16ry,C.H,p。 374. (12)Va16ry,Co H,p.388。 (13)(14)(15)Va16ry,C.H,p.353. (16)VJ6ry,Pttsiθθ′′ `濯″absrraJた,C.I,p.1339。 (1つVa16り,Co H,p.971。
(18)Val`ry,Nθ″″dlig″sslia",CoI,p.1210。
94 ヴ ァレリーのパ ス カル批 判 をめ ぐって (19)Valё ry,Pοあjθθ′′θ′雷び `αbsrrajた,C.I,p。1320. (20)ヴ ァレリーの レ C勧瞬jυ″ 燿7月 "の中の有名な一節。 (21)一方、神を感 じるのは、心であつて、理性ではないと言ったバスカルもまた、神の 愛を感 じ取る心情の次元へと飛躍するためには、意志の力を必要 としたものと思われ る。 「精神は意志 と一体になって進む(L。539)」 もので有る限 り、パスカルの心情 も また、意志や精神と決して無関係ではなかったはずであるか ら。
(22)Va16ry,助 たα Jlig″ssjO“,C.I,p.1210.
(23)Va16ry,Dθscar′θs,C.I,p。807。
(24・p va16ry,N♭′θα Jlig″sslia用,C.I,p.1209。
*引用文中の下線部は、原文においてはイタ リックで書かれている。