Title
[巻頭論考]評定所の機構と評定所文書
Author(s)
梅木, 哲人
Citation
琉球王国評定所文書, 4: 6-37
Issue Date
1990-03-20
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/19504
Rights
浦添市立図書館
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ノ、 ︹ 巻 頭 論 考 ︺評定所の機構と評定所文書
梅 木 哲人
は じ め に 評定所文書は、近世琉球王府の政治的中心機構である評定所で作成保管されてきた文書である。したがって近世琉 球を研究する上で最も基本的な史料であることは言うまでもないことである。 現存する評定所文書には二つの系統の文書がある。 一つは東京大学法学部蔵の﹁琉球評定所記録﹂であり 、もう 一 である。どちらもかつて評定所に保管されていたものの一部を伝えるもの つは国立公文書館蔵の評定所文書(原本) で あ る 。 東大法学部蔵のものは原本からの写本であり、 一冊のうちの一部を披書きしているものが多い。このため史料の最 初の形や全体的なことを考える場合制約されることがある。国立公文館蔵の原本は最近発見されたものであるが、右 の欠を補うものとして非常に意味のある発見である。評定所文書の研究史の上からいえば、この発見は今後の研究の 新しい視野を開いてくれることになろう。本稿もこの新発見の文書に多くを負っている。 さて評定所文書には、多くの興味深い事実が記されていて、歴史の一端を見事に見せてくれているのであるが、 しかしふり返ってみて、評定所文書とはどのような文書なのかということを考えてみると、 必らずしも明確になってい るとはいい難いのである。 本稿ではこのことを念頭において、 不十分ながら評定所文書の原点にかえって、この文書の評定所機構においての 意味と史料としての可能性を考えてみようと思う。そのため先ず評定所の機構について検討し、そこにおける文書作 成の場を確認してみたい。そして次に評定所の日常的な面と琉球内政のことを最もよく伝えるものとしての﹁各月日 記﹂や﹁廻文﹂、﹁帳当座日記﹂について検討してみたい。 一 、 評 定 所 機 構 と 文 書 作 成 近世琉球の評定所というのは、琉球王府の政治機構の中心をなす部分である。評定所という語の由来に ついては正 確には分らないが、近世初頭に薩摩藩では家老座のことをこう呼んでいたのであり、これが同じ時期の琉球の政治改 革の過程で入って来たのではなかろうか。薩摩藩では宝永二年(一七
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五 ) ( l ) のまま残ったものであろう。 に家老座と改称したが、琉球の場合はそ ところで、評定所というのは幕藩体制的な意味では裁判機関であるが、 その点について琉球ではどうだつたのだろ うか。評定所の記録の一つとして﹁愈議﹂があるが、その中で審議し、﹁役儀召迦﹂や﹁寺領﹂や﹁所払﹂などを上 ( 2 ) 御座に答申しているものもある。政治と裁判が機構的に十分に分離していなかったのである。しかし平等所の機能が 充実し、大興座が民事を扱うようになると裁判機関としての面は薄らいだようである。奥野彦六郎は﹁薙正十年以後 の愈議からは著しく刑事事件が影をひそめて居るから、 一方それが平等所の方に集 中されたものと認むるのは必ずし 七である。上御座と下御座がかみ合い政治の中心として機能するようになるのはその時期以後ということになろう。そ の意味で下御座の機構の成立が評定所機構の体制的成立を意味していたといえよう。 さて評定所機構の内容は . とうなっていたであろうか。これについては初期の史料はないが明治期に記されたものが 御評定所 ある。ここではそれによって検討してみる。評定所の機構は次のように説明されている。 一 摂政御壱人 御政道御評論之御座也 一三司官御三人 御評定所下御座 一御物奉行三人 一同吟味役三人 一日帳主取弐人 一同吟味役壱人 一同吟味役壱人 一同吟味役壱人 内御壱人ハ御物座、御両人は御廻合-一あ月番之御勤御座候也 御政道御伝達之御座也 内壱人御所帯方、壱人給地方、壱人御用意方 一御鎖之側壱人 一御双紙こおり壱人 一平等之側壱人 一泊地頭壱人 ( 5 ) 右人数を十五人と申候也 は摂政 ・ 三司官の四人で構成されていて、ここが﹁御政道御評論之御座也﹂という これによると評定所(上御座) ことになっている。下御座の方は御物奉行が三人、 その吟味役が三人、 日帳主取が二人、他は一人ずつの計十五人か ら成っている。下御座を﹁十五人﹂とも称する所以である。ここは﹁御政道御伝達之御座也﹂となっている。﹁愈議﹂ 九
では諸問題を審議して上御座に答申するのがここの役目のようになっているが、
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それは下御座の一側面で 、 この説明 のように御物奉行以下のそれぞれの構のいわば長官や次官が配下に諸事を伝達するのが日常的な役割であったのであ る。このことについては後に明白になろう。 評定所機構の成立は書記局としての筆者の制度の成立も伴なっていたことは言うまでもない。評定所で諸種の書類 が作成され、それが記録・保管され、後の政治に資するという形が出来たのである。 御評定所 筆者の成立過程や詳しい構成については史料不足であるが、前述の明治期の史料には次のように記されている。 一筆者主取壱人 一筆者六人 一寄筆者三人 壱 年 一里之子た弐人 一 御 物 座 帳 当 壱 人 一筆者 相 附 三人 一足筆者弐人 一 花 当 弐 人 御 客 屋 筆 者 よ り 進 申 口 方 一公事拝弐拾四人 内 頭 三 人 公 事 拝 六 人 同 お は 与 十 五 人 一中取壱人 申 口 衆 取 次 座 申 口 構 之 座 ヒ 、 御 物 取 締 此 座 一筆者弐人 一相附筆者弐人 一佐事拾八人 一仮筆者弐人 御 物 奉 行 衆 内 取次空
御 一 人 物 佐 之 事 出 = 入 一 人 弁 同 仕 世 マ お 上 マ は 与 之 十 穀 弐 物 人 諸 口 口口 支 配 方 此 座 帳 当 座 一帳主取壱人 一筆者四人一相附筆者六人 一仮筆者弐人 一足筆者弐人 一筑佐事三拾六人 ( 6 ) 内頭六人公事拝弐拾士宮人おは L 拾五人 これによれば評定所全体の書記局は三つに分れていたことが分る。﹁御評定所﹂というのが上御座と全体的なこと に対応し、﹁申口方﹂と﹁帳当座﹂が申口と御物奉行に対応しているものであろう。 別の史料によると﹁御評定所﹂の筆者等を記した後に次のような一文が付されている。 動向は月番方井御状方日帳方異国方御用物方仕上世方等、各手配を以相弁候事 ここの筆者の一番の仕事が月番方にかかわることで、その他に上御座から薩摩藩へ遣す書状を作成する仕事である と思われる御状方、下御座が主にかかわる﹁各月日記﹂のことと思われる日帳方などの仕事を手分けして遂行すると いうことであろう。また別に﹁時ヒ御吟味御差図廻文等引受相勤候事﹂という文言もあり、﹁廻文﹂もここで作成さ れていたようである。 御物奉行に対応する﹁帳当座﹂では御物奉行にかかわる文書を整理して﹁帳当座日記﹂を作成しているのだが、こ のことについては後述する。 このように評定所における文書の作成については役割の分担があり、 一つの部署で全てが 作成されていたわけでは な い の で あ る 。 さて、評定所は王府の政治機構の中心であるからこの下に多くの部局があったことは当然である。部局は改廃があ ったであろうからその全体 的なことは容易には分らない。明治期に作成された史料によ っ て 、 その構成を一覧表にし てみた。表
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がそれである。 ﹁各月日記﹂や﹁廻文﹂のことで注同すべき部局は月番方や日帳方であろう。月番方は御物奉行の御給地方と御用 一 一表(1) 評定所各構部局一覧 評定所各構 各 部 局 御所帯方御 御所帯方、取納奉行、請地方、宮古御蔵、銭御 物奉行弁同 蔵、米御蔵、仕上世座、諸問切検者方、芭蕉苧 吟味役構 当方、団地奉行方、両先島 給地方御物 給地方、月番方、勘定奉行方、御船手奉行方、 御物奉行 奉行弁同吟 御用物奉行方、船改奉行方、給地御蔵、御道具 味役構 当、唐船階船御作事井修補方 御用意方御 御用意方、月番方、高奉行方、砂糖奉行方、山 物奉行井同 奉行方、山方津口勤番方、御料理座、大台所、 吟味役構 御用意御蔵、川原調部方 御系図座、高奉行、那覇久米村、異国方、諸浦 御鎖之側方弁日帳主取方 寄物、在番方、通手形、御客屋守、御物座帳当 御状方、御茶園井花奉行、日l帳方 ー ー ー ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ - - - ー ー ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ー ー ・ ・ - ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ー ー ・ ・ ・ ー ー ー ー ・ ・ ー ー ー ー ー ・ ー ー ー ー ー ー ・ ・ ー ー ・ ー ー - - ー ー ー ー ー ー ー , ー 司 ー ー ー - -- ー ー 噌 噌 酔 + 喝 . . . . ・ 日帳主取構 御書院御状方弁日記方、御用物方 下庫理、御書院、御茶屋、納殿、小細工奉行方 御双紙庫理子千同吟味役構 貝摺奉行方、御別当、漏刻方、地頭所弁知行方 文は御褒美方、御位寄方 大輿奉行方、札改奉行方、寺社奉行方、普請奉 泊地頭弁同吟味役構 行方、加冶奉行方、惣横目方、瓦奉行方、惣輿 奉行、泊井鳥島、御用物封印方 平等之側弁同吟味役構 首里中、平等所、御獄当 月番方構 月次公事方、諸御殿おかす (注)
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近世地方経済史料』第1
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巻、P
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0 W職制秘覧~ (法政大学沖縄 文化研究所蔵)より作成。意方の構になっている。これは上御座の二人の月番三司官に対応するものであろう。 日帳方は御鎖之側と日帳主取の 構である。また﹁月番方構﹂で月次公事方というのがあるが、評定所の毎月の実務を指しているものと思われる。評 定所の月々の実務の分担については、﹁各月日記﹂表紙にその月の当番人名が記されている。この月番当番について は後程一覧表を示す。 二、﹁各月日記﹂と評定所 評定所文書の中にはいろいろの表題がついた日記が多く含まれている。それらの日記の中で﹁各月日記﹂が最も数 が多くまた重要な意味を持っている。ここではこの﹁各月日記﹂について検討してみたい。 ( 8 ) ( 9 ) ﹃旧琉球藩評定所書類目録﹄の中では大体﹁各月日記﹂と記されているのであるが、東大の﹁琉球評定所記録﹂中 のものは﹁何年 日 記 評定所﹂と記されている。また最近発見された評定所文書の原本にも日記が二冊含まれてい る が 、 この表紙も﹁何年 日 記 評定所﹂とだけ記されている。 したがってもともとの表題はただ﹁日記﹂と記され ていたことになろう。﹁各月日記﹂の名称は内務省で整理された時につけられたのであろう。この﹁日記﹂は確かに 一月から十二月までの各月の文書を日を追って書写して一年分としたものであり、﹁各月日記﹂と呼ぶにふさわしい 内容である。ここでも表題にこの名称を用いたが以下便宜上ただ﹁日記﹂と記すことにする。
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ここでは原本の﹃大清威豊五より この﹁日記﹂の形態について述べるが、 日 記 評定所﹄(千五百二十六号) と﹃威豊六年 日記 評定所﹄(千五百四十号) を参照して述べることにする。先ず各月ごとに内表紙があり、 そ こ に﹁大清何年﹂、﹁日本何年﹂と年号が左右に-記され、真中に﹁何月中日記﹂とあり、その下に月番三司官名と当番の四 申口、御物奉行、吟味役の名が連記されている。 次にその月の記事の内容についての見出しである﹁目録﹂が付され、その後に日付と天候があり﹁日記﹂の記事が 続 い て い る 。 ﹁日記﹂といってもその日の出来事を記したといったものではなく、月ごとにその月の評定所の書類を整理書写し、 目録を付して冊子としたものである。全体は各月の冊子が一年分合わされ部厚いものになっている。 日記に書写されている評定所の書類は下御座から各方面に伝達された書状である。 したがってこの﹁日記﹂は評定 所の行なう琉球内政上の公式の記録であることが分る。各頁ごとに﹁法司之印﹂が割印されていることもその重要性 を示しているといえよう。行政上度々参照されたのではなかろうか。 内政上の文書を綴ったものとして﹁廻文﹂や﹁帳当座日記﹂もあるが、これらには割印はないので﹁各月日記﹂の 方が重要視されていたと思われる。 この評定所の公式記録としての﹁日記﹂は、評定所機構の運営に必要なものであったから機構成立の当初から作ら れていたようである。 ﹃旧琉球藩評定所書類目録﹄によれば﹁各月日記﹂の最も古い例は康照十年(寛文十一、 一六七二 の も の ( 第 三 十八号) であり、前述した評定所機構の成立の時期とほぼ一致する。この前にも﹁日帳﹂や﹁日記﹂の名が見えてい るが、それらが機構の確立とともに﹁各月日記﹂としての形態を整えたのであろう。 ﹁日記﹂はこの時からずっと書き続けられ、明治に至っていることは﹃目録﹄を見れば分る。 しかし現存している ものとなると非常に少ない。先記の原本の二冊と東大法学部蔵の﹁琉球評定所記録﹂に含まれるものだけである。東 大本は目録では十一点あるが、 一つは表紙だけの書写であり、内容を伝えるのは十点だけである。 しかしこの十点も
全部抜書きである。 ﹁日記﹂は評定所の下御座から各部局への伝達書状を評定所の書記官である筆者が書写して出来たものであること は先述したが、これの評定所での責任者となっていたのは御鎖之側と日帳主取であった。原本では各月の末尾に次の ように筆者と日帳主取・御鎖之側の名前が記されている。威豊六年の﹁正月中日記﹂で示す。 威 豊 六 年 丙 辰 正 月 品 川 日 評定所筆者相附足 伊地筑登之親雲上 日帳主取 国吉親雲上 御鎖之側 宜野湾親雲上 御鎖之側の配下の部局に﹁日帳方﹂というのがあるが、これとの関係であろう。 ﹁日記﹂には各月の表紙に月番の三司官名と当番の申口・御物奉行の名が記されているのであるが、これによって 評定所の人的構成について具体的に知ることが出来る。書状の動きを知る上でも重要なので現存する﹁日記﹂の中か らそれらを拾い出して一覧表を作ってみた。表
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後掲)がそれである。道光二七年(弘化三、 一 八 四 七 ) 、 同 二 八 年、同二九年、威豊元年(嘉永田、 一八五二、同二年、同四年 、 同 五 年 、 同六年の八ヶ年分の評定所の構成が分る。 一覧表からいろいろのことを読みとることが出来る。先ず道光二七年の場合、月番三司官は国吉親方が一年間を通 して勤めているが、他の場合は大体二人が交代で勤めている。御物奉行も二人が大体月交代で勤めていることが分る。 月番ということの実態を確認できるわけである。御鎖之側、御双紙庫理、泊地頭は二ヶ月おきの当番である。吟味役 はそれぞれの吟味役ではなく、申口方と御物奉行方の二つに分けてある。 日帳主取とともに吟味役も二人が交代で勤 務している。月番、当番に当っていない人はどうしていたのかよく分らないが御鎖之側は毎月の﹁日記﹂の責任者と して名を連ねているし、﹁廻文﹂や﹁帳当座日記﹂に含まれる書状に名前が登場している例が多く見られる。これら 一 五一 六 のことから当番でなくても何らかの形で評定所の運営にかかわっていることが分るが、その具体的なことは不明であ る 次に﹁日記﹂に書写されている書状について見てみよう。 書状は内政上のものに限られていて、大体が中央政府である評定所から那覇・首里・久米村・泊の長官と地方間切 を取り仕切る御物奉行に出されたもの、及びこれらの長官から政府の担当官に宛てられたものである。このうち那覇 との遣り取りが特に多く、評定所における那覇の担当官である御鎖之側宛のものや日帳主取から那覇役人である里 主・御物城に宛てられたものが多く目につく。 これは那覇に薩摩藩の出先機関としての仮屋があったためである。 遣り取りされている内容は薩摩藩の役人の来着についての接待のこと、役人が盗難に逢い、その探索方を求めたもの、 病気にな っ た 役人への医者の手配、役人たちの宿借りの手配とそれへの飯料の支払いの件などいろいろである。薩摩 がらみでないことも勿論記されている。国王の社参のこと、潟原での馬見立のこと、﹁風巻﹂によって家が数軒吹破 ( 日 ) られたこと、庭に空から銭が落ちて来たことなどについて関係方面に伝達されているのもある。 評定所が地方行政に関して出した法令については﹁日記﹂には-記されていない。管見の限りでは﹁廻文 ﹂ にいくつ か -記 さ れ て い る 例 が あ る 。 ﹁日記﹂の中から評定所と郡覇との連絡文書を一つ例示してみる。 一産物方御目附御宿 西 村 許因子宅 一同御書役御宿 東 村 大城筑登之親雲上 一同足軽宿 西 村 永田仁屋宅 右当年御下被成候御役ミ御宿井足軽宿相賦置申候問、此段致問合候、以上
二月八日 糸洲親雲上 御鎖之側御方 右之通申来候問、此段可被申上候、以上 二月九日 大 豊 王 子 伊 江 王 子 大親 座喜味親方 与力 兼城親雲上 玉川王子 国頭王子 池域親方 季地親方 此段致通達候、以上 二月九日 御書院 御物奉行 由 ' ロ 銘 ミ これは薩摩役人の宿賦のことについて那覇役人の糸洲親雲上から評定所の御鎖之側に報告があり、評定所の日帳主 取である兼城親雲上がそれを四人の王子と 三人の 親方に大親 ・ 与力を介して伝え、 さらに関係方面に伝達したもので ある。王子や親方は琉球王府の官職ではなく家格あるいは位階であるが、 その最上層に評定所から連絡が行っている のである。なお、大親・与力は王子や親方の私的な従者ではなく王府の官職の一つである。このような点は王府機構 を考える上で興味深い。 右の例は那覇役人からの報告を評定所が関係方面に伝達しただけのものであるが、事柄の内容によ っては配下への 伝達を申付けるものもある。薩摩役人のからんだ内容であるが、次のような例がある。 七
一 八 御目附築瀬源之進殿小姓庄右衛門夜前夜半時分何之懸合もなく出去、亦今様子無之候間郡覇其外近方之田舎/¥山 野等迄急度致探索、罷居候ハ、捕付差出候様、自然不罷居候ハ、其段も申出候様源之進殿御申出有之候段、被申越 紙面相達遂披露、向ヒ・は探索方申渡置候問、何分申出次第重量叩可申越候、尤郡覇中ゑ探索方申渡置候段昼間相達候、 此旨及返答候、以上 七月十五日 阿波根親雲上 里 主 御物城 これはこの日に(七月十五日)里主・御物城から庄右衛門の探索方と至急の返事を御鎖之側に求めてきたことへの 返答である。阿波根親雲上は日帳主取である。評定所では同日中に国王へも披露し、その承認のもとで﹁向ミ比探索 方申渡﹂したことを返答しているのである。﹁日記﹂ではこの件についてはこれだけで、どこに探索方を申渡したの ( は ) かは記されていない。実はこの件についての申渡しの文書は﹃威豊五年より同六年迄評定所﹄ 廻文 (千八百六 号)の中に出てくる。それによると翌日(七月十六日)付で阿波根親雲上から﹁平等之側、御物奉行、惣役・長史、 泊頭取﹂に・申渡されている。那覇以外の首里、久米村、泊と地方間切に伝達されたのである。このうち地方間切を管 轄する御物奉行への申渡しと、そこから間切への申渡しの経過については同年の﹁帳当座日記﹂(千五百四十ご その文書を見つけることが出来る。これによれば御物奉行は間切への探索方を取納奉行に申渡している。取納奉行か ら間切へ伝えられたのであろう。 このように評定所の書状をたどってみると﹁各月日記﹂が中心にあり、各配下への伝達は﹁廻文﹂や﹁帳当座日記﹂ 手記されていることが分る。 したがって﹁各月日記﹂や﹁廻文﹂﹁帳当座日記﹂はお互に関連したものであることを
確認出来るのである。 三 、 ﹁ 廻 文 ﹂
の
伝
達
廻文は評定所の上御座で決定されたことや、前節で例示したような評定所に入った諸情報を関係方面に伝達するた めに、評定所の下御座から出された文書のことである。本来は一つ一つの文書を廻文と呼んでいたのであろうが、評 定所ではこれの書写しを一定期間分まとめて冊子にしたものに﹁廻文﹂と表題をつけている。 ﹁廻文﹂が王府の行政の一つの形として成立したのは王府機構の成立と関連していたであろうことは﹁各月日記﹂ の場合と同様であろう。 ﹃旧琉球藩評定所書類目録﹄でみてみると康県六年(寛文七) の﹃廻文例寄﹄(第二十六号)が最も古いものであ る。それ以後は大体年を追って作られたようである。﹃目録﹄では約四十点を確かめることが出来る。 しかし残存し ているのは東大法学部蔵の﹁琉球評定所記録﹂の中に抜書きが一点、最近発見された評定所文書の中の﹃威豊五年よ り同六年迄 廻文 評定所﹄という表題のもの一点の計二点だけである。東大本の﹁廻文﹂は既に翻刻され、本書第 二巻に収められている。 廻文の形態を原本によってみてみると、表題にあるように威豊五年から六年までの廻文が年月日に従い書写されて いるだけである。目録も奥書等も記されていない。 ﹁廻文﹂の内容はいろいろで、﹁日記﹂より豊富である。薩摩役人にかかわる諸事や抱痛の時行などは﹁日記﹂と 共通するものであるが、 王府の役人や間切役人の御用動方に関しての督励や、無判の斗升の使用禁止、あるいは間切 一 九表(3) 廻文の宛先(威豊 5年) 月 日 評 定 所 ー-ーーー一一ー少 宛 先 正月 7日│国吉親雲上 → 平等之側、御物奉行、惣役・長史、泊頭取 正月23日
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三司官 → 御物奉行、申口 向上 │国吉親雲上 → 平等之側、惣役・長史、里主・御物城、泊頭 取 向上 → 三平等惣横目、寺社奉行、郡覇惣横目、久米 村惣横目、泊惣横目 正月27日│国吉親雲上 → 本部間切・今帰仁間切在番、下知役、検者 4月13日│国吉親雲上、宜野湾親雲上 → 与那城間切両惣地頭 4月21日│賀数親雲上、伊舎堂親雲上 → 御医者相附稲嶺親雲上 8月9日│評定所 → 国学奉行、 三平等学校所奉行 10月 │国吉親雲上、兼城親雲上、宜野湾親雲上 → 寺社奉行 12月14日│国吉親雲上、兼城親雲上、宜野湾親雲上 → 大興奉行 (注)W威豊 5 年より同 6 年迄廻文評定所~0
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号)により作成。。
への漂着船があった場合これを助けるようにとい っ たような内政面にかかわるより具体的な督励や法令などは﹁日記﹂ にはないものである。 またその宛先も、﹁日記﹂の場合平等之側、 里主・御物城、惣役・長史、泊頭取、御物奉行と大体決ま っ て い た が 、 ﹁廻文﹂はもう少し広く宛てられている。威豊五年の﹁廻文﹂のなかからなるべく重複しないように宛先を披き出し 一覧表にしてみると表
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の よ う に な る 。 表中の国吉親雲上と兼城親雲上は日帳主取、宜野湾親雲上は御鎖之側、賀数親 雲 上は申口方吟味役、伊 舎堂 親 雲 上 は御双紙庫理である。 正月二十三日のものは次に本文を例示するが、 三 司官 ( 上御座 ) の決定を順次下位へ申渡していることを示してい る。正月二十七日のものは評定所から直接間切の在番・下知役・検者に申渡されたものである。四月十 三 日のものは 評定所から与那城間切両惣地頭に出されたものである。これは難風に逢い漂流している薩摩船を同間切の農民が助け たことに対する褒美の申渡しである。その他に医者や各奉行へも出されているが、現実に即して極めて実務的に行な っているように思う。 A同 貝, 一焼酎作出致商売候儀、穀物之禿ニ相成候付一往令停止候事 一一椛諸味井浸置候米之分ゑ急度相改、検者見分之上焼酎可為作調事 ( 略 ) 若相背致故垂候者ゑ家賎欠所ニ t w 流刑被仰付(中略) 此旨支配中不洩様可被申渡者也卯正月廿三日 三司官 御物奉行 申 口 右之通被仰渡候間堅固ニ可相守候、此旨儲悼・中久山川一明押不洩様可被申渡候、以上 卯正月廿三日 国吉親雲上 平等之側 物 役 長 史 里主 御物城 泊頭取 右之通被仰渡候問、被得其意能ミ気を付見分いたし、違背之者於有之ゑ平等方
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御・申出可被成旨、御差図ニあ候、 以 上 卯正月廿三日 三 平 等 惣横目 申出候様倹目中何御申渡可被成旨 寺社奉行 可被申渡旨 郡覇惣横目 久米村惣横目 泊惣横目 これは焼酎を作り商売することを禁止した法令であるが、前年以来の皐魅で﹁飯料差迫﹂っている事態に対して評定所がとった措置である。罰則も規定されている。三司官(上御座) で 決 定 し 、 それを御物奉行 ・ 申ロ ( 下 御 座 ) 伝 え 、 そこから配下に伝達されていることがよく分る。罰則を伴うから惣横目や寺社奉行にも伝達されているのであ る 廻文の文面の特徴は﹁此旨支配中不洩様可被申渡者也﹂とか、﹁此旨御差図ニめ候﹂という文言で締め括られ申渡 しているところにある。﹁支配中﹂については具体的に首里、那覇、久米、泊、唆 ( 間切 ) などを指定している場合 が 多 い 。 前節で例示した築瀬源之進の小姓の出奔についてであるが、探索方を諸方面に申渡したものもあるが、ここでは事 件解決についてのものを例示しよう。 御目附築瀬源之進殿小姓一昨夜出去り様子無之由ニあ探索方之儀、郡覇役人より申来与ヒ相札首尾可申出旨被仰渡 置候処、那覇内伐為罷居段猶又申来、最早探索方一一不及候、此旨間品川之吟刊 し沼 可被申渡旨御差図 ニ あ 候 、以上 辰七月十六日 阿波根親雲上 平等之側 御物奉行 惣 役 長 史 ( 日 ) 泊頭取 これは小姓が那覇内に居ることが分ったという那覇役人からの報告をうけて、探索方を申渡した各方面に日帳主取 の阿波根親雲上から﹁探索方ニ不及﹂の申渡しをしているものである。 各方面ではこれを受けて更に配下に申伝えたであろう。 しかし﹁廻文﹂にはそのことは-記されていない。
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二 四 御物奉行がこのことを配下へ伝えたものが同年の﹁帳当座日記﹂に記されている。文面の前半部は前掲のものと同 文なので省略するが、次のようになっている。 (前略)最早探索方ニ不及候、此旨近方之間切/¥民可被申渡旨御差図ニあ候、以上 七月十六日 阿波根親雲上 御物奉行 右通被仰渡候間探索ニ不及候、此旨近方之間切 k h 可被申渡候、以上 七月十六日 嘉手納親雲上 嘉味田親方 ( げ ) 取納奉行 嘉手納親雲上、嘉味田親方は御物奉行方吟味役と御物奉行である。ここから取納奉行に申渡していることが分る。 ﹁廻文﹂には日帳主取からの申渡しは平等之側、御物奉行、 里主・御物城など連名で記されているが、実際には個 別に申渡されていたことが分る。文言もそれに合ったように記されていたものと思われる。連名で -記してあるのは評 定所筆者が書写しまとめる時にそのように記したのかもしれない。 四、﹁帳当座日記﹂と御物奉行 帳当座は御物奉行の事務局に当るところであり、ここを経由して御物奉行から間切など関係方面に諸事が伝達され るとともに、御物奉行への言上や諸報告が行なわれたのである。
評定所機構の中では事務量の多い部局の一つであったようである。その構成については前に記したが、筆者の人数 は評定所とほぼ同数である。 この帳当座の日記をここでは便宜上﹁帳当座日記﹂と記すことにする。 しかし原本に記されている表題は﹃威豊六年丙辰正月ぷ十二月迄 日 記 帳当座﹄となっている。東大の﹁琉球評 定所記録﹂の中に含まれるものも同様である。﹃旧琉球藩評定所書類目録﹄の表記はあいまいで、﹁各月日記 ﹂ の 隣 に 記されているところから﹁向上(帳当座)﹂と記している。﹁各月日記﹂と﹁帳当座日記﹂が名目上区別されていない のである。もとは両方ともただ﹁日記﹂と記しているのでそうなったという面もあるが、意味や内容は違ったもので あるから区別しなければならないことは当然である。 さて﹁帳当座日記﹂であるが、これも評定所の﹁各月日記﹂や﹁廻文﹂の場合と同様、近世的評定所機構の形成と 関連して作られるようになったものであろう。﹃目録﹄をみると﹁各月日記﹂とともに毎年作られていたようである。 ﹁帳当座日記﹂も現存しているものは少ない。東大法学部蔵の﹁琉球評定所記録﹂中に道光三拾年(千四百四十四 号)、威豊元年(千四百五十七号)、同弐年(千四百七十号)、同六年(千五百四十一号) の四つの﹁帳当座日記﹂が 入 っ て い る 。 しかしこれはいずれも最初の部分に-記されている目録を書写しているだけである。本文の書写はない。 最近発見された評定所文書の中にこの日記が一点含まれている。前記表題を記したものがそれである。 したがって全 部で五点(但し、 一点は重複)残っていることになるが、完全なものは原本の一冊だけである。﹁帳当座日記﹂の本 領は雑多な文書を書写した本文にあることは言うまでもないので目録だけの書写は非常に残念である。ここでは原本 を検討することで帳当座の機能や御物奉行の役割等について検討してみたい。 先ず﹁帳当座日記﹂の構成についてであるが、表題を-記した表紙に続いて、最初のベ l ジに﹁威豊六年丙辰正月ぷ 二 五
一 一 六 十二月迄日記目録﹂というのがある。この日記に含まれている文書の内容が一番から四百六十九番まで要約されて記 されている。本文の文書にもこれに対応する番号がつけられているので目録から文書を探すのに便利に出来ている。 文書は四百六十九点含まれていることになる。 ﹁帳当座日記﹂に含まれる文書の特徴は、評定所から伝達されたものを御物奉行配下の部局へ更に申渡すという﹁廻 文﹂にも見られた文書の形の他に、配下の部局や地方間切の農民等から御物奉行への﹁覚﹂や﹁口上覚﹂なども含ん でいることである。御物奉行と帳当座の、琉球内政面に果している役割を具体的に知ることが出来るのである。ここ でいくつか史料をあげて確認してみよう。 六十八 口上覚 卯正月ぷ同六月迄海御肴代 銭千百六貫七百七拾三文 知念間切 外三千五百六十四貫六百九拾五文 右ゑ恐多御座候得共申上候、卯上半年雑物代銭井海御肴代銭本行之員数久高島諸上納物払用御座候問、現銭被成 下、外書之分ハ間切・ほ御寄替請取被下候様被仰付被下度奉願候、此旨宜様被仰上可被下儀奉頼候、以上 辰二月 首里大屋子 屋比久筑登之 地頭代 仲里親雲上 右申通相違無御座候問、御達被下度奉存候以上 辰二月 久高島検者 仲井真筑登之親雲上
検者 当真筑登之親雲上 下知役 ( 日 目 ) 多和田筑登之親雲上 これは久高島農民が雑物代銭の上納の仕方について訴えているものである。三千五百貫余は銭で納められないので 品物で納めさせてほしいということであろう。これに検者、下知役が次書して御物奉行へ差出されたものであろう。 百 番 品 ... 見 去 年 上様御生年 佐敷按司加郡志様就 御厄年、御旧例之通御立願相勤置候付、当正月御結願相勤御花為宰領夫地頭謝名堂親雲上 ・ 比屋定提照屋にや差上申候、宜様御披露奉頼候、以上 辰正月 久米仲塁間切大錠 比嘉にや 同首里大屋子 喜久村筑登之 同地頭代 宇江域親雲上 右之通差上候間宜様被仰上可被下候、以上 辰正月 在番筆者 親泊筑登之親雲上
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漬元親雲上 在 番 二 七二 八 御物奉行御方 これは久米島からのもので、上様の生年と佐敷按司加那志様の厄年について結願のための御花宰領の役人を遣すこ とを上申したものである。在番次書で御物奉行へ差出されている。文言に﹁宜様御披露奉頼候﹂とあるが、このよう な書き方は﹁口上覚﹂や﹁覚﹂の決まった言い方だったようである。久米島の諸家の﹁家譜﹂にはこのような﹁口上 覚﹂等が多く記されているが、確かに評定所に届いているのである。 九十九番 御印覚印 川茸入移白木箱壱ツ油紙荷作付札共 代銭壱貫六百八拾文 右私共下物帳内ニ不足相立申候問、代銭を以無利にして銭御蔵・同上納被仰付可被下候、以上 辰二月 寅仕上位座 友寄筑登之親雲上 志良堂筑登之親雲上 これは前々年の仕上世座担当の 二 人から不足分の償いの訴えである。この他にも御物奉仕配下の部局からの訴えが いくつか見られる。 次に評定所からの伝達を受けて、配下の部局に伝えた文書についてであるが、これには御物奉行と吟味役が連名で 申渡している形が多い。ところで御物奉行は御所帯方、御給地方、御用意方の三人がいるわけであるが、この分担は 実際にはどうだ つ たのだろうか。伝達の文書の署名から何か手掛りは得られないだろうか。
ここで三月中に出された文書によってこのことを探ってみよう。この中に出てくる御物奉行の名前は宮平親方、与 那原親方、嘉味田親方である。また吟味役の名として嘉手納親雲上、内間親雲上、大田親雲上の名前がみえる。申渡 の文書にはこれがいろいろに組合わされて出てくる。 一例を挙げてみる。 百廿三番 (前略)此旨那覇近方之田舎伐不洩可被申渡旨御差図ニあ候、以上 辰三月七日 阿波根親雲上 御物奉行 右 之 通 被 仰 渡 候 間 棚 霊 訪 台 堅 可 被 申 渡 候 、 以 上 辰三月八日 嘉手納親雲上 宮平親方 ( 幻 ) 取納奉行 これは日帳主取からの申渡を宮平親方、嘉手納親雲上の組合せで取納奉行に申渡している例である。この組合せで 船手奉行宛のものもある。宮平親方と内間親雲上の組合せで船手奉行に宛てたものもある。また与那原親方と大田親 雲上の組合せで取納奉行と勘定奉行宛のものもみられる。嘉味田親方と嘉手納親雲上の組合せで勘定奉行宛になって いるものもある。 このような例を見てみると三人の御物奉行はそれぞれ三方を分担して役割が定っていたとは言い難いのではなかろ うか。実際には伝達の際、三方にまたがって申渡されることも度々あった。また﹁弐拾弐ケ所﹂宛になっているもの もあるが、それは御物奉行配下の全部局を指しているのかもしれない。 二 九
また月によって文書発給の多い組合せがある。三月は宮平・嘉手納の組合せであるが 、 三
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一 月は嘉味田・垣花、 二 月 は宮平 ・ 内 問 、 四月は宮平 ・ 嘉手納の組合せが多い。これが何に起因しているのかここでは知ることは出来ない。 おわりに 評定所機構と評定所文書の関係について検討すベくいくつかの史料を繰ってみた。 その結果、﹁各月日記﹂の意味や﹁廻文﹂ ﹁帳当座日記 ﹂ との関係、月番の実態、御鎖之側と日帳主取の役割、 御物奉行と帳当座の関係等について知るところがあった。 しかし分らないことが多く今後に課題を多く残すことにな っ た 。 評定所の月番担当の一覧表は 、 文書に出てくる人物の立場を知る必要からいくつか作ってみたのであるが、結局現 存する﹁日記﹂から全部拾うことにな っ た。同様な作業を多くの面で行なう必要があることを改めて悟 っ た 。 本稿では評定所下御座と内政面の文書について検討したのであるが、薩摩との関係の実態的な面や、上御座がかか わっている文書である﹁下状﹂や﹁案書﹂の検討も重要な問題である。これについては別の機会に考えたい。 ( 一 九九0
・ 一 ・ 三O
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表 (2) 評定所月番当番一覧 道光二十七年(一三人二号文書) 帳日 翠締存方 白申 地泊 御双 御鎖之 物御型軽 番月
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注 拙稿﹁近世農村の成立﹂(﹃新琉球史﹄近世編上所収 琉球新報社 崎浜秀明編﹃沖縄旧法制史料集成﹄第三巻。 奥野彦六郎﹃沖縄の人事法制史﹄(至元社 一九七七年)九八ページ。 桑江克英訳註﹃球陽﹄(一一二書房 一 九 七 一 年 ) 。 ﹃職制秘覧﹄(法政大学沖縄文化研究所所蔵)。同様のものが﹃近世地方経済史料﹄第十巻(吉川弘文館 昭 和四十四年)=二八ページに記されている。 同右。﹃近世地方経済史料﹄第十巻 三 一 九│三二0
ペ ー ジ 参 照 。 ﹃ 近 世 地方経済史料 ﹄第十巻三二0
ペ ー ジ 。 ﹃旧琉球藩評定所書類目録﹄(浦添市教育委員会 一 九 八 九 年 ) 。 拙稿﹁東京大学法学部蔵琉球評定所記録目録﹂ ( ﹃ 琉球大学短大部紀要﹄ 琉球評定所文書の原本(国立公文書館蔵 ) ニ 六 一 九 八 九 ) 。 一 九七九年 ) に よ る 。 これらの事例は法政大学沖縄文化研究所の古文書研究会完成豊五年 については全て法政大学沖縄文化研究所の写真本によった。 日 記 評定所﹄使用)で多くを学ん J M O JI ド ﹃ 威 豊 六 年 日記 評 定 所 ﹄ ( 千 五 百 四 十 号 ) 。 同 右 。 法政大学沖縄文化研究所蔵写真本による。( 日 ) (凶 ) ( げ ) (日 ) ( 印 ) ( 初 ) ( 引 ) ﹃威豊五年より同六年迄 同 右 。 廻 文 ﹃威豊六年丙辰正月ぷ十 二 月迄 同 右 。 ﹃威 豊 六 年丙辰正月ぷ十二月迄 同 右 。 同 右 。 評 定 所 ﹄ ( 千八百六号 )。 日記 帳 当 座 ﹄ ( 千五百四十 一 号 ) 二 百八十九番文 書 。 日記 帳 当 座 ﹄ 。 七