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駒澤大學佛教學部研究紀要 67 - 003佐藤 秀孝「曹洞宗宏智派の短篷遠について : 天童如浄に参じて孤高な坐禅を貫いた遠鉄〓」

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Academic year: 2021

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全文

(1)

九七

曹洞宗宏智派の短篷遠について

―天童如浄に参じ

孤高な坐禅

貫いた遠鉄橛―

佐 

藤 

秀 

曹洞宗宏智派の流れ

  曹洞宗宏智派とは、南宋初期に明州 (浙江省) 鄞県東六〇里の天童山景徳禅寺に住持し て 多大の接化 をなした宏智正 覚 (宏智禅師 、隰州古仏 、一〇九一 ― 一一五七) を派祖 と し て 展開した曹洞宗の門流 を い う 。天童山の正覚 と い えば 、北 宋末期に湖北の地から江南 (長江以南) へ と 下っ て 黙 々と 坐禅に親し む 黙 照禅 を 唱導し 、曹洞宗旨 を 大いに宣揚した禅 者 と し て 名高い。正覚が天童山 で 活 動 を 開始 す る と 、多くの 学 徒 がその禅風 を 慕 っ て 会下に参集し、十二世紀中葉には 天童山に曹洞宗の一大叢林が形成さ れて いる。正覚は「黙照銘」 や 「坐禅箴」 と いった短編の銘文 を 撰 し て おり、黙 々 たる坐禅の境涯に至遊 す る こ とを 重視した消息が知られて いる。   そんな正覚の系統 を 宏 智派と 通称し て い るが 、宏智派の流 れを 後世に維持したのは僅かに自得慧 暉 (一〇九七 ― 一一八三) から 明 極 慧祚 (法祚 とも) へ と 伝えられ た一系に すぎず、その直系 を 示 すならば、   宏智正覚 -自得慧 暉 -明極慧祚 -東谷妙光 -直翁可挙 -雲外雲岫 -無印大証 -天章景雲 となり、正覚より八世代およそ二世紀半余りに わ た っ て 宏智派は江南禅林に綿 々と 継承さ れて いる。しかしながら、実 際には宏智派の勢力も法孫の代より以降になる と 、臨済宗の大慧 派や 虎丘派の隆盛に押さ れ 、十三世紀中葉にはすで に かなり衰微し て おり、元代には辛うじ て 法 統 を 維持し て いたに すぎない。   そうした中 で 明 極慧祚の法 を 嗣 い で 南宋末期に同門の東谷妙光 (? ― 一二五三) とともに宏智派の孤塁 を 堅持し て い た曹洞禅者 と し て 、 短篷□遠 (短蓬 と も 、遠鉄橛 、 ? ― 一二四七) と い う人の存在が知られて い る 。東谷妙光 と 短 篷遠 駒澤大學佛敎學部 硏 究紀 第六十七號   平 成二十一年三月

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曹洞宗宏智派の短篷遠につい て (佐藤) 九八 と い う両禅者によっ て 宏 智派の法統は辛うじ て 南宋末禅林に維持さ れて いた わけ で あ り 、 やが て 元代に入っ て 十四世 紀になる と 、妙光の門流から直翁可挙 (徳挙とも 、 静慧禅師 、一二一一 ― ?) の法嗣 で ある東明慧日 (白雲 、 一二七二 ― 一三四〇) と、雲外雲岫 (方巌、妙悟禅師、一二四二 ― 一三二四) の法嗣 で ある東陵永璵 (妙応光国慧海慈済禅師、一二八五 ― 一三六五) が輩出し、そ れぞれ 日本に渡来し、宏智派 (東明派と 東陵派) の法統は日本禅林にも導入さ れて いる。   ところ で 、南宋末期の江南禅林における禅者の活動 や その禅風 を 考 察 す る上 で 、 宏智派の短篷遠の存在はきわ め て 特 徴的かつ異色なものが見られ る 。しかも こ の 人は同じ曹洞宗の真歇派に属 す る長翁如浄 (浄長、一一六二 ― 一二二七) に も参 学 した経緯が存したものらしく、如浄の影響 を 多分に受け て いる と 見 られ 、生涯に わ た っ て 徹底した坐禅 を 行 じつ づけた人 と し て 知 られて い る 。如浄はいうま で も なく我が永平道元 (仏法房 、一二〇〇 ― 一二五三) の本師 で あり 、日本 曹洞宗の源流に位置づけられ る祖師 で ある こと から、短篷遠が道元 と 同じように如浄の影響 を 強く受け て いるの で あ れ ば、その事跡には興味 深 い ものが存しよう。 こ う した点 を 踏 まえ て 、以下、限られ た史料 を 通 し て で は あるが、 これ ま で ほ と ん ど 事 跡が明確 で な く、注目さ れ る こともなかった宏智派の短篷遠 と いう禅者につい て 、その活動の消息 と挙揚 した禅旨 を 可 能な限り詳しく窺っ て み る こ と にしたい。

短篷遠に関する伝記史料

  はじめに問題 とすべきは短篷遠に関 す る伝記史料につい てで あるが、 明代初期に編纂さ れ た 『増集続伝燈録』 巻末 「五 燈会元補遺」には「華蔵明極祚禅師法嗣」 と し て 「杭州霊隠東谷光禅師」の章 を 載 せるのみ で 、 短篷遠の章は残念なが ら収められて いない。その後につづく明末清初に編纂さ れ た多くの禅宗燈史におい て も 、短篷遠に関 す る 章は一切存し て お らず、そ れぞれ の「目録」にも名 すら 載せられて い ない。い わ ば 短篷遠は後世の禅宗の歴史 で は 何ら注目さ れ る こ となく、全く顧みられない存在 で あった わけ で ある。   そんな中 で 幸いにも南宋末期の景定年間 (一二六〇 ― 一二六四) に臨済宗大慧派の枯崖円悟が編集した 『枯崖和尚漫録』 (以下、単に『枯崖漫録』 ) 巻中に、 短篷遠禅師、 平生不 レ 設 二 臥具 一 昼 夜枯坐、 得 二 遠鉄橛之称 一。開 二 法余杭永寿 一、 為 二 明極嗣 一。中秋寄 二 同輩 一 云、 一点孤明徹 二 太虚 一、

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曹洞宗宏智派の短篷遠につい て (佐藤) 九九 体無 二 盈欠 一 任 二 方隅 一、光含 二 万象 一 珠懐 レ 蚌、影落 二 千江 一 井覰 レ 驢。馬祖翫時迷 二 向背 一、長沙用処絶 二 名摸 一、衲僧直下忘 二 標旨 一、 吐 レ 七呑 レ 三総自如 。不 レ 害 二 筆墨遊戯 一。後住 二 呉門承天 一。一日上堂云 、承天一句 、言前分付 、達磨不 レ 会 、 隻履帰去 。越 レ 宿 無 レ 疾坐逝。時光東谷亦道行、一力起 二 洞上之宗 一、無 レ 謂 レ 無 レ 人。 と い う記事が残さ れて いる こと から 、辛うじ て 短 篷遠の消息の一端が知られ る 。 ただ 、 『枯崖漫録』に記さ れ た 内容も 簡略なもの で あっ て、伝記的な記載も限られて い るが、円悟が大慧派の偃渓広聞 (仏智禅師 、 一一八九 ― 一二六三) の法 を 嗣 いだ高弟 で あ り 、 『枯崖漫録』は短篷遠が示寂し てわ ずか二〇年にも満たない時期 、その遺徳 を 知る人がいまだ存 命健在 で あった頃にま と め られ た逸話集 で あ るだけに、内容的にはきわ め て 注目 すべきものがあろう )1 ( 。   また『枯崖漫録』の記事内容 を そのまま受けたもの と し て 、 江戸中期の正徳元年 (一七一一) に黄檗宗の格峯実外 (断 橋、一六五二 ― 一七一五) によっ て 編纂さ れ た『禅林口実混名集』巻下「宋」の「遠鉄橛」の項にも、 短篷遠禅師、平生不 レ 設 二 臥具 一、昼夜枯坐、得 二 遠鉄橛之称 一。開 二 法永寿 一、為 二 明極之嗣 一 と い う記載が存し て い る 。 『禅林口実混名集』二巻は中国の混名 (渾 名 ) を 有 す る禅僧た ち の 謂 わ れ につい て 諸禅籍よ り収集し て 一 書 と なし て お り 、 唐 ・ 宋の禅僧た ち と その混名 を め ぐっ て の逸話には興味 を 駆り立 て られ るものがある )2 ( 。 『禅林口実混名集』 の 「遠鉄橛」 の項は、 内容的には 『枯崖漫録』 に載る記事から冒頭の混名に関 わ る部分のみ を 引 用し、 後段 をすべ て 省略したものにほかならない。   一方、短篷遠に関し て は、別に日本 で 編集さ れ た 宗派図の類いにその名が収録さ れて いる。古く南北朝末期の永徳二 年 (一三八二) に刊行さ れ た大東急記念文庫所蔵 『仏祖正伝宗派図』 と 、室町中期の応永二五年 (一四一八) に夢窓派 の古篆周印 (無礙) によっ て 編集さ れ た 『仏祖宗派図』に 、曹洞宗の流 れ に 属 す る禅者 と し て 短 篷遠の名が記載さ れて いる 、さらに江戸初中期の寛文八年 (一六六八) に大応派 (妙心寺派) の桂芳全久によっ て 編集さ れ た 『正誤仏祖正伝 宗派 図』 (以下 、単に 『正誤宗派図』 ) や 、 江戸中期の享保五年 (一七二〇) に刊行さ れ た 『伝燈歴世譜』巻下など にも 、 同じく短篷遠の名が記載さ れて いる。 これら日本 で 編纂さ れ た 宗派図によっ て 、 こ の人の道号 と 法 諱および嗣承さらに 住持した禅寺が確かめられ る。ただし、後に詳しく触 れ る ごと く、短篷遠は宏智派の明極慧祚の法 を 嗣 いだ高弟 で あ る が、日本の中世五山禅林 で 編集さ れ た『仏祖正伝宗派図』 と 『仏祖宗派図』によ れば、同じ曹洞宗の真歇派に属 す る長 翁如浄に嗣法した こと になっ て いる。

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曹洞宗宏智派の短篷遠につい て (佐藤) 一〇〇

法諱・道号と郷里

  はじめに問題 とすべきは、 こ の人の法諱 と 道号および混名 (渾 名 ) に関 す る考証 で あ ろう。短篷遠の法諱につい て は 単に□遠 と あるのみ で 、上字が何 で あったのか何 れ の史料にも記さ れ て お らず、 こ れを 明らかにし得ないのが惜しま れ る。 法諱の下字に遠の字 を 配 し て いる禅者 と し て は 、 北宋末期に楊岐派の龍門清遠 (仏眼禅師、 一〇六七 ― 一一二〇) がおり、 南宋初中期に楊岐派の瞎堂慧遠 (仏海禅師、 一一〇三 ― 一一七六) や 『十牛図』 で 名高い廓庵師遠 (則公) などが存し て いる。 また短篷遠 と ほぼ同世代の禅者 と し て も 如浄の法 を 嗣 いだ高弟に曹洞宗の無外義遠 (? ― 一二六六) が知 られ て い る が 、 義遠 は閬州 (四川省) の出身 で あ り 、 短篷遠 と は全くの別人 で あ る )3 ( 。ただ 、後に詳しく触 れ る ごと く短篷遠は修行期に 如浄に参 学 した経験が存したものらしいから、義遠 とは同時期に如浄に参 学 した同参 で あった可能性も存しよう。   つぎに短篷遠の道号につい てで あるが、 これ には短蓬 とす る史料 と 短 篷 と す る史料が併存し て おり、その何 れが正し いのかは判断に苦し むところ で あ る 。 短蓬が道号 で あ れ ば 、南宋末元初に周密 (字は公謹 、 号は草窗 ・蕭斎 、 弁陽老人 、 一二三二 ― 一二九八) が編輯した『癸辛雑識続集』巻上の「短蓬」に、 楊大芳、嘗為 二 明州高亭塩場 一、場在 二 海中 一。或天時晴霽、時見 レ 如 二 匹練横 一 レ 天、其色淡白、則晴雨中分。土人名 レ 之曰 二 短蓬 一、 亦蜃気之類也。 と あ るごと く 、明州高亭の塩場 (塩田) の海上に希に望ま れ る自然現象 で あ っ て 、雨が晴 れ よ うとす る とき 天に一匹の 練った白布のように横た わ る淡白な蜃気の類い と さ れ る )4 ( 。したがっ て 、 こ の人の名が短蓬遠 で あ る と す る と 、 短蓬の蜃 気が天の遠くに現 われ 出 て いるさま と い う こ と に なろうか。蓬にはキク 科の多年草「よもぎ」のほかに、仙人の居所 を 意味 す る ことがある。一方、短篷が道号 で あ れ ば、篷 と は苫の こ と 、 竹 や 茅などを 菰のように編ん で 舟 や 車の上 を 覆 う 囲いの ことで あり、あるいは苫葺 き の舟ないし小舟の ことを 指 し て いる。 こ の人の道号が短篷 で あ れ ば、小さい篷ある いは丈の短い小舟の意 と いう こと になり、短篷遠 と いう 名 で 、小舟の篷から望ま れ る遠方の雄大な景色あるいは遠く水 面に浮ぶ小舟のさま を 意 味 す る こ と に なろうか )5 ( 。   具体的には後に箇 々 の考察 で 逐一に触 れ た いが、道号 を 短 篷 と 記 す 史料 と し て は 『枯崖漫録』 『物初賸語』 『 重刊貞和 類聚祖苑聯芳集』 『仏祖正伝宗派図』 『仏祖宗派図』 『正誤宗派図』 『 禅林口実混名集』が挙げられ 、 短蓬 と 記 す 史 料 と し

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曹洞宗宏智派の短篷遠につい て (佐藤) 一〇一 て は 『石渓和尚語録』 『虚堂和尚語録』 『断橋和尚語録』 『禅林諸祖弔霊語薮』 『伝燈歴世譜』が挙げられ る の で あり、 『新 撰貞和分類古今尊宿偈頌集』 『虚堂録犂耕』 で は その両方が使用さ れて いる 。したがっ て、短篷 と 短 蓬の ど ち らとも断 定し得ない わ け で あるが、一応、本稿 で は 『枯崖漫録』に基づい て 短 篷遠 と い う表記 で 統一し、必要に応じ て 短蓬遠も 併用 す る こと にしたい )6 ( 。   短篷遠が何 れ の州の出身 で 如 何なる氏族 で あったのかは、残念ながら『枯崖漫録』巻中「短篷遠禅師」の項 で も 、そ の郷関 や 俗姓につい て は 何ら記さ れて いない。ただ、幸いにも郷里 を 知る手掛かり と し て 、当代随一の詩僧 と し て 名 高 い大慧派の物初大観 (一二〇一 ― 一二六八) が『物初賸語』巻一二「序」の「涌渓序」におい て 、 予昔過 二 呉門承天 一、見 二 諸衲 一 堅屹 二 長連 一、寂若 二 止水 一、有 二 霜花枯木之風 一。蓋前住山人短篷郷老所 レ 牧之衆也。 と 記 し て いる記事が注目さ れ る 。物初大観は大慧派の北 嵜 居簡 (敬叟 、一一六四 ― 一二四六) の法 を 嗣 いだ高弟 で あ り 、 こ の 「 涌渓序 」も大観が短篷遠の法嗣 で ある涌渓 (湧渓) と い う禅者に与えた道号序 で あ る 。 「涌渓序」そのものにつ い て の考察は後に詳しく触 れ た いが、その中 で 大 観は短篷遠の ことを 親しみ を 込 め て 「短篷郷老」 と尊称し て いる。郷 老 と は郷里 を 同じく す る古老の意味 で あ り 、大観に と っ て 短 篷遠は同郷の先輩に当たる存在 で あった ことが知られ る 。 と す ると 、 短 篷 遠 は 大 観と 同じ 明 州 (浙江省) すな わち 現今の寧波地区の出身 で あった こと になろう。   大観につい て は 幸いに『明州阿育王山志』巻八下「 高 僧伝法」に法嗣の晦機元煕 (仏智禅師、一二三八 ― 一三一九 )が 元の延祐二年 (一三一五) 六月に撰した「 隕貿峰西菴塔銘」が収められて おり、 いくぶん詳しい消息 を 知 る こ とが でき る )7 ( 。 隕貿峰 と は明州鄞県東五〇里の阿育王山広利禅寺の ことで あ り 、西菴 とは大観の墓塔の存 す る 塔頭の名 で あ るが 、 「 隕貿峰 西菴塔銘」には大観の出自に関し て 、 惟吾先師、物初和尚也。師諱大観。鄞之横渓陸氏。楚国公佃農師之後。父槐、母周。 と 伝 え て おり、大観が明州鄞県横渓の陸氏の出身 で あった ことが知られ る。大観 と 同族に当たる禅者 と し て は 、同じ横 渓の許氏の出身 で ある嗣承未詳の仲挙懐徳 と 破庵派無準下の無 学 祖 元 (子元 、仏光国師 、一二二六 ― 一二八六) の俗兄弟 がおり、いくぶん時代が下るが、宏智派の東陵永璵も祖元の俗姪 の子 と さ れ る から、大観 とも血縁が存した こと になろ う。さ す がに短篷遠が大観 や 祖 元らと 同 族 で あった とは見がたいが、少なく と も大観が「郷老」 と 呼 ん で いる以上、同 じ明州 (四明) の出身 で あった ことは疑いなかろう。 ち な みに 「五燈会元補遺」 の 「 杭州霊隠東谷光禅師」 の 章によ れ ば、

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曹洞宗宏智派の短篷遠につい て (佐藤) 一〇二 後に同門 となった東谷妙光は常州 (江蘇省) 無錫県の出身 で あった と さ れ る 。   短篷遠は明州 を 郷 里 と し て いる こと から、南宋初期に明州鄞県の天童山景徳禅寺に化導 を敷いた宏智正覚の存在 を 早 くから 意 識し て い たもの と 見られ 、 宏智派の曹洞宗に関心 を 寄 せる機会にも恵ま れ て い た こ とで あろう。あるいは明極 慧祚のもと に投ずる以前、郷里の明州 で 他 の曹洞禅者に参 学す る因縁などが存したものかも知 れ ない )8 ( 。   いま一つ 、道号 と 郷 里 (地名) と の関係 を 踏 まえて 興 味 深 いのは、 『虚堂和尚語録』巻二 「婺州雲黄山宝林禅寺語録」 の 「承天短蓬遠和尚遺書至上堂」におい て、松源派の虚堂智愚 (息耕叟 、一一八五 ― 一二六九) が こ の人の法諱 と 道号の 関係につい て「師乃云 、遠之莫 レ 及 、故曰 レ 短 。蹤之不 レ 即 、故曰 レ 蓬」 と 説明し て い る こ とが挙げられ る 。 短につい て は「遠くし て 及 ぶ こ と 莫し、 故に短 と 曰う」 と あり、 蓬につい て は 「蹤えども即かず、 故に蓬 と 曰 う」 と 記 さ れ て いる。 文意からす る と 、智愚はいくら追い付 こ う と し て も 追い付けない蜃気の意 で 短蓬 を 説明し て い る )9 ( 。   あるいは道号の短蓬または短篷から推測 す る と 、短篷遠は明州象山県西南三〇里の蓬莱山広福禅寺に近い地 で 出生し て いるの で は ないか と も見られ 、 こ の点、智愚が同じ象山県の陳氏の出身 で あ る こ と か ら、両者は県 を 同 じく す る同郷 の法友 と し て 早くから交流が 深 かったもの で は ないか と 推測さ れ る ) 10 ( 。   また『枯崖漫録』 や 『禅林口実混名集』など によっ て 、 短篷遠は徹底した坐禅 を 行 じた こと から、鉄の杭 を 打込んだ ごと く不動に坐禅 す る 意 で 、雅号ないし混名 (渾 名 ) と し て 遠鉄橛の尊称が存した ことが知られ る 。 こ の混名は短篷遠 の生 き 方 、禅風そ れ 自 体 を 示 す もの と し て 貴 重 で あり、 こ の点につい て は 後に詳しく触 れ たい。   短篷遠の出生年時につい て は 定か で な いが 、その活動期間 や 交流した禅者 と の 関 わ りなどを 踏まえるなら 、十二世 紀の後半に出生し て い るもの と 見られ 、具体的には南宋の乾道年間 (一一六五 ― 一一七三) から淳煕年間 (一一七四 ― 一一八九) の初め頃 で あ ろうと 推測さ れ る 。

坐禅に徹した修行とその嗣法問題

  明州出身の短篷遠が如何なる経緯 で 出 家の道 を 歩んだのか、その間の事情につい て は 何ら 定か で な い。 わ ず かに虚堂 智愚が 『 虚堂和尚語録』巻六 「仏祖賛」の 「 宝林遠和尚遊山像 、師孫侍行」の祖賛 で「徳臘倶高 、孫枝益茂 、以 二 勤倹

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曹洞宗宏智派の短篷遠につい て (佐藤) 一〇三 苦節 一、中 二 興肄業 一 」 と 述べ て い る こ と に注目し、短篷遠が出家得度した と 見 られ る寺院につい て 推測し て お き たい。   こ の 祖賛につい て の詳しい考察は後に触 れ た いが、 こ こ に いう宝林遠和尚 こ そ後に婺州 (浙江省) 義烏県南二五里の 雲黄山宝林寺 (双林) に住持し、 倹約 と 精 進によっ て 伽 藍 を 中興した短篷遠その人の ことを 指 し て いる。興味 深 い のは 「肄 業 を 中興 す 」 と 記 さ れ て いる点 で あ っ て 、肄業 とは講習 すな わち 業 を 習う ことで 、僧侶 で い えば仏門に投じ て 受業 す る ことを 意 味し て い よう。 と すれば、短篷遠は若い頃に郷里 で ある明州象山県 を 離 れて 仏門に投じ、何らかの因縁 で 義烏 県の宝林寺に到っ て 当 時の住持のもとで 剃髪得度し て い るもの と 解さ れ る。ただ、 こ の とき 宝林寺 で 参 学 した受業師 す な わ ち 得度の師につい て は 、如何なる系統の禅者 で あったのか、何も窺う史料が存し て い ない。後に嗣法の本師 と なっ た明極慧祚は宝林寺に住持した と い う記録が存し て い ないから、受業師は慧祚 とは別の禅者 で あった と 見 て よ い で あろ う。しかも「徳臘は倶に高く」 と あるから、律寺の戒壇 で 具足戒 を 受 けたのも二〇歳以前のかなり早い時期 で あった と 見られ 、若い頃から真摯に精進辦道し て いたさまが窺 われ る。   ところ で 、 『枯崖漫録』によ れば 「余杭の永寿に開法し 、明極の嗣 と 為る」 と 記さ れて おり 、短篷遠が明確に後に開 堂出世 す る際に明極慧祚に嗣承香 を 炷いた ことが伝えられて いる。しかも同じく『枯崖漫録』には「時に光東谷、亦た 道行なり、一力、洞上の宗 を 起 こす 、人無し と 謂 う こ と 無 か れ 」 と もあり、短篷遠が東谷妙光 と 同 門 で ともに曹洞宗旨 を 振るった ことが強調さ れて いるから、慧祚の法 を 嗣 い で いる こと は疑いなかろう。ただ、短篷遠が慧祚のもとで 如 何 なる機縁 を 持ったのか、契当の問答商量などは残念ながら伝えられて い ない。   すで に慧祚につい て は 、 拙稿「曹洞宗宏智派の明極慧祚につい て ― 天童如浄 と の 交友 と 接化の相違 を 踏 まえ て ― 」 ( 駒 沢宗教 学 研究会 『宗教 学 論集』第二三号) におい て 論 じたの で 、詳しくは こ れを 参照さ れ た い 。慧祚は一に法祚 とも称さ れ、道号 を 明 極 と いい 、太平府 (安徽省) 当塗県の宋氏の出身 で あ り 、 宏智門下の自得慧 暉 に 参じ て その法 を 嗣 い で い る。その後、 慧祚は袁州 (江西省) 宜春県南六〇里の仰山太平興国禅寺 (甲刹) に出世開堂し て おり、 さらに常州 (江蘇省) 無錫県西三六里 、太湖の青山彎に存した華蔵褒忠毘陵顕報禅寺 (甲刹) に遷住し て い る 。 もっ とも状況的に短篷遠が遥 か袁州の仰山ま で 突 然に赴い て 慧祚のもと に投じた とは考え 難いから、おそらく義烏県の宝林寺 で 得度し、さらに律寺 で 受戒し て 後、諸方に遍参し て 諸禅者のもと に歴参し、 やが て 無錫県の華蔵寺に辿り着い て 慧祚に参 学 し、東谷妙光 と ともにその法 を 嗣 い で いるもの と 見 られ る。また慧祚のもとで は 宏智派の曹洞宗旨 を 究 め、法統の祖 で あ る宏智正覚が

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曹洞宗宏智派の短篷遠につい て (佐藤) 一〇四 唱導した黙照禅に心酔し、坐禅 を 第 一 と す る 日 々 の行持に邁進した こ とで あろう。   ち な みに『枯崖和尚漫録』巻中の「嘉興府光孝石室輝禅師」の項に、 嘉興府光孝石室輝禅師。僧問、 明招見 二 勝光 一、 纔 跨 レ 門、 光垂 二 一足 一、 意 旨如何。室曰、 乞児弄 二 飯椀 一。問、 只如招云 二 伎倆已尽 一、 払袖便行、又且如何。室曰、鈍鳥逆 レ 風飛。室久侍 二 明極 一、後嗣 二 無準 一。性介烈貴勢、不 二 敢干以 一 レ 私。住 二 慶元彰聖 一、官府科 擾無 レ 節、棄去。府公聞 レ 之雖 二 勉留 一、不 レ 回矣。嘗掛 レ 牌、首 二 衆径山 一。其語穏実。 と い う記事が存し て おり、 破庵派の無準師範 (仏鑑禅師、 一一七七 ― 一二四九) の法嗣の ひと り で ある石室法輝 (法 暉 と も ) が久しく明極 す な わ ち 慧祚に随侍した後、師範に参じ て 法 を 嗣ぎ、径山 で は 首座 を 勤めた ことが知られ る。後に法輝は 明州鄞県西南七〇里の小渓に存した彰聖禅院 (報忠福善禅院) に出世開堂し、さらに嘉興府嘉興県 (秀水県) の城内北に 存した万寿報恩光孝禅寺に遷住し て いる。法輝は久しく慧祚に参 学 し て い た と さ れ るから、おそらく無錫県の華蔵寺に おい て 短 篷遠 や 東谷妙光 と 同 学と し て 慧祚に随侍し て いた期間が存した ことで あ ろう ) 11 ( 。   こ の ように短篷遠は宏智派の慧祚の法 を 嗣 いだ ことで 知 られ る わ け で あるが、 日本 で 南北朝期の永徳二年 (一三八二) に刊行さ れ た 『仏祖正伝宗派図』 や 室町中期の応永二五年 (一四一八) に臨済宗夢窓派の古篆周印が編集刊行した 『仏 祖宗派図』には、 なぜか「天童如浄」の法嗣 と し て 「承天短篷□遠」の名が挙げられ 、「華蔵明極慧祚」の法嗣には「霊 隠東谷妙光」の名しか載せられて い ない。もともと 慧祚の法嗣 で あったはずの短篷遠がなぜ如浄の法嗣 と し て 扱 われて いるのか、 これらの宗派図が中世日本の五山派の史料 で あ るだけに興味 深 い ものがあろう ) 12 ( 。その後、江戸期の寛文八年 (一六六八) に臨済宗大応派 (妙心寺派) の桂芳全久が編集した 『正誤宗派図』 一 の曹洞宗の箇所 で は 、こ れを 改め て 「 華 蔵明極恵祚」 の法嗣 と し て 「承天短篷□遠」 の名 を 載 せ て いる。同じく享保五年 (一七二〇) に刊行さ れ た 『伝燈歴世譜』 巻下「雲居下」にも「甞州華蔵明極慧祚」の法嗣 と し て 「承天短蓬□遠」の名 を挙げ て いる。   で は 、果たし て 中世日本の『仏祖正伝宗派図』 や 『仏祖宗派図』が伝えて い る短篷遠 を 如 浄の法嗣 とす る説は、全く 根拠のない単なる間違い と し て 退 けて よいもの で あ ろうか 。 すで に 『 如浄和尚語録』 「偈頌」に 「送 三 僧見 二 明極和尚 一 」 と い う偈頌が存し て い るごと く、慧祚 と 如浄には道交が 存した ことが知られて おり、同じ時代に両者はともに曹洞宗に 属 す る禅者 と し て 活躍し て い る 。あるいは短篷遠は慧祚に参 学 した後 、如浄のもと に も投じ て 指導 を 仰ぐ機会があり 、 一に如浄の法 を 嗣 いだ門人のごと く 見られ た ものかも知 れ ない ) 13 ( 。

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曹洞宗宏智派の短篷遠につい て (佐藤) 一〇五   そもそも 『枯崖漫録』巻中 「短篷遠禅師」の項には 「 短篷遠禅師 、平生不 レ 設 二 臥具 一、 昼 夜 枯 坐、 得 二 遠鉄橛之称 一 」 と 記 さ れ て いる。短篷遠は徹底した只管打坐 を 実践し、当世の江南禅者から遠鉄橛 と ま で 称 さ れ た人 で あり、当時の江 南禅林におい て も 短篷遠の坐禅に徹した姿は他の禅者らが一目置くほ ど 際立っ て い たもの と いっ て よい。臥具 とは寝具 の こ とで あり、具体的には睡眠の際の布団 を 意 味しようから、短篷遠は平生から昼夜に わ た っ て 坐禅 を 行 じ、臥具 を 必 要 と せずに坐したまま睡眠 す る の を 常 と したもの で あ ろうか。枯坐 とはあたかも枯木が置か れて いるかのごと く不動の かた ち を 保っ て 黙 々と 坐禅 す る ことで あり、そのさまから 短 篷遠は遠鉄橛の異称 をもっ て 呼ばれ る こと になる。鉄橛 と は鉄の棒あるいは鉄の棒橛の ことで あり、鉄の楔 を 打 ち 込 んだごと く、しっかり と し て 確固不動 で あるさまにも用いら れる ) 14 ( 。頑なに坐相 を 重 んじ、昼夜に坐禅 を 行 じつづける短篷遠に対し、当代の禅者た ち は 遠鉄橛の雅号 をもっ て 呼んだ わけ で ある。   ただ、そうした徹底した只管打坐 を 実践した消息 と い えば、同時に参 学 の師 と 目 さ れ る如浄の特徴 とも多分に重なる ものにほかならない 。 『仏祖正伝宗派図』 や 『仏祖宗派図』が短篷遠 を 如浄の法嗣 と し て 載 せ て いるのは全くの誤り で はなく、慧祚のもとで 参 禅 学 道し て い た短篷遠が如浄にも随侍し、如浄の示 す 禅 にも心酔した ことを 暗に伝承したもの で は なかろうか。雪竇山の文煥 や 浄 慈寺の如浄に参 学 した虚堂智愚がやが て 慧祚の高弟 で あ る短篷遠 と 東谷妙光の二禅 者 と 深 い 関 わ り を 保っ て いるのも、そうした慧祚 と 如浄の道交 や 短 篷遠が如浄に参 学 した消息が背景に存したため で は なかったか と 見 られ る。短篷遠が如浄に参 学 し て い た と す る と 、おそらく慧祚のもと に在っ て 修行し て 後、その指示に よっ て か如浄にも随侍し、 如浄から直に薫陶 を 受 ける機会にも恵 ま れ たもの と 見られ る。しかも年齢などを 踏まえる と 、 状況的に短篷遠が晩年の如浄 を 天童山に訪ねた とは見がたい こと から、如浄がいまだ杭州銭塘県の南屏山浄慈報恩光孝 禅寺など に住持し て い た時期にその門に投じ て いたの で は ないか と 推測さ れ る 。

杭州余杭県の永寿禅寺への開堂出世

  ところ で 、『枯崖漫録』巻中「短篷遠禅師」の項には「開 二 法余杭永寿 一、為 二 明極嗣 一 」 と あるから、 短篷遠は杭州 (浙 江省) 余杭県の永寿禅寺に開堂出世し、明極慧祚に嗣承香 を 炷いた ことが知られ る。 こ の とき 短篷遠は正式に宏智正覚

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曹洞宗宏智派の短篷遠につい て (佐藤) 一〇六 の遠孫 で ある ことを 世間に表明し、宏智派の曹洞禅者 と し て 活 動 を 開始した わけ で ある。おそらく短篷遠 と し て は参 学 の師 で ある慧祚 と 如浄のいずれ に嗣承香 を 炷 い て も不自然 で な い状況にあったもの と 見 られ るが、あえ て 縁のより 深 か った慧祚の法 を 嗣 いだ ことを 公表し て いるの で あ ろう。   こ の とき 短篷遠が入寺した余杭県の永寿禅寺につい て は 、残念ながら当時の『咸淳臨安志』巻八三「寺観九」の「餘 杭県」 で は その存在が確認さ れない。幸いに清の嘉慶一三年 (一八〇八) に刊行さ れ た 『餘杭県志』 巻一五 「寺観」 に、 永寿寺、在 二 県北三十五里常熟郷 一。晋天福七年、僧了悟祖師開山。元燬 二 於兵 一、明洪武二十四年重建〈旧県志下同〉 。 と あり、中華民国一一年 (一九二二) に刊行さ れ た『杭州府志』巻三八「寺観五」の「餘杭県」にも、 永寿寺、在 二 県北三十五里常熟郷 一。晋天福七年開山。元燬 二 於兵 一、明洪武二十四年重建〈乾隆志〉 。 と 記 さ れ て お り 、 ここ にいう余杭県北三五里の常熟郷に存した永寿寺 こ そ 、 短篷遠が開堂出世した禅寺 で あろうと 推 測さ れ る 。永寿寺は後晋の天福七年 (九四二) に了悟 と い う僧 を 開山祖師 と し て 創建さ れ て お り 、名称は永寿寺のま ま後世へ と 維持さ れ た ものらしく 、元代に至っ て 兵 火 で 伽藍が焼失 す る事態にも遭遇し て い るが 、明初の洪武二四年 (一三九一) に重建さ れて 以降、 近代ま で 存続し て い た こ とが知られ る 。 た だ、 余杭県 で も かなり小禅刹のよう で あるから、 短篷遠が初め て 開 堂出世した寺院 と し て は 相応しい規模 で あったもの と 見 られ る 。また永寿寺は小刹 で あったためか 、 短篷遠のほかに住持した禅者につい て は 何ら 定か で な い ) 15 ( 。   短篷遠が永寿寺に開堂出世したのが具体的に何時 で あったのか は定か で ないが、状況的には慧祚 や 如浄の晩年からそ の示寂した頃 で あった と 見 られ 、つぎの住持地 で ある婺州の宝林寺における活動などを 踏 まえる と 、少なく とも宝慶年 間 (一二二五 ― 一二二七) より以前 で あったもの と 推測さ れ る 。   また『枯崖漫録』巻中「短篷遠禅師」の項には、永寿寺における消息 と し て 、 中秋寄 二 同輩 一 云 、一点孤明徹 二 太虚 一、体無 二 盈欠 一 任 二 方隅 一、光含 二 万象 一 珠懐 レ 蚌 、影落 二 千江 一 井覰 レ 驢。 馬 祖 翫 時 迷 二 向背 一、 長沙用処絶 二 名摸 一、衲僧直下忘 二 標旨 一、吐 レ 七呑 レ 三総自如。不 レ 害 二 筆墨遊戯 一。 と あり、八月一五日の中秋に同輩に寄せた偈頌が載せられて いる。いま便宜上、 これを 書 き 下 し て みるならば、 中秋に同輩に寄せ て 云く 、 「一点の孤明 、太虚に徹し 、体に盈欠無く方隅に任 す 。 光は万象 を 含み珠は蚌 を 懐 き 、 影は千江 に落 ち 井 は驢 を 覰 う。馬祖翫ぶ時 、向背に迷い 、長沙用うる処 、名摸 を 絶 す。衲僧直下 、標旨 を 忘 じ、七 を 吐 き 三 を 呑み て

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曹洞宗宏智派の短篷遠につい て (佐藤) 一〇七 総 て 自如たり」 と 。筆墨の遊戯 を 害 せず。 と いった具合になろう。前半の四句 で は 実際に天空に輝く中秋の満月 を 眺 め て その光影 を 詠 じ て おり、主客 を 絶した物 我一如のありようが語られて いる。また後半の四句 で は 馬祖道一 (馬大師、 大寂禅師、 七〇九 ― 七八八) に因 む 「馬祖翫月」 の古則 ) 16 ( 、南泉下の長沙景岑 (岑大蟲) に因 む「岑大蟲翫月」の古則 ) 17 ( を 踏 まえ、月 を 弄 し て 禅の修証 を 現 す 好 例 と し て 示 し て いる 。 「筆墨の遊戯 を 害 せず」 と は 、 こ の 短篷遠の偈頌に対 す る枯崖円悟の評 で あ り 、 短篷遠が詩僧 と し て 風流人 の一面 を 持 ち 、その偈が詩的表現 を 巧みに用いた す ぐ れ た 内容 で あ る こ とを誉め称え て いる。

州義烏県の雲黄山宝林禅寺への入寺

  ところ で 、 『枯崖漫録』巻中 「短篷遠禅師」の項 で は 何も記さ れて いないが 、短篷遠は杭州余杭県の永寿寺の住持 を 勤め て 後 、婺州 (浙江省) 義烏県南二五里の雲黄山宝林寺 (双林) に遷住し て い る こ とが知られ 、しかもその住持期間 はいくぶん長期に及んだものらしい。   宝林寺は梁の普通元年 (五二〇) に傅大士 すな わち 傅翕 (善慧大士 、四九七 ― 五六九) が庵 を 結 んだ こと に始まる と 伝 えられ る。明の万暦六年 (一五七八) に刊行さ れ た『金華府志』巻二四「寺観」の「義烏県境内」によ れば、 宝林禅寺 、 在 二 県南二十五里雲黄山下 一。梁普通元年 、傅大士依 二 双檮木 一 結 レ 庵 。大同六年 、即 二 其地 一 建 レ 寺 、因名 二 双林 一。宋 治平三年、 賜 二 今額 一。大観二年、 賜 二 田十頃 一。宣和三年、 燬 二 于寇 一。紹興四年、 東陽賈 廻手佐首、 為鋳 レ 鍾建 二 蔵殿 一。住山僧標以来、 六伝次第復完。金華藩良貴・東陽胡 取力有 レ 記。宋楊傑詩云、山路崎嶇山頂平、兜羅雲向 二 下方 一 生、了 二 知大士夢中夢 一、更去 二 如来行処 一 行。 と あり、清の嘉慶七年 (一八〇二) に序刊さ れ た 『義烏県志』巻一八「寺観」にも、 宝林禅寺、 県南廿四都雲黄山下。梁普通元年、 傅大士依 二 双檮木 一 結 レ 菴。大同六年、 檀越賈曇穎、 即 レ 此開 レ 基建 レ 寺、 名 二 双林 一。 仏殿大士。於 二 寺前 一、製 二 両鉄浮図 一、或云 二 野塘 一。朱氏鋳 二 大士 一、曾叱衣双檮樹。有 二 徐陵勅撰碑 一。宋治平三年、賜 二 今額 一。大 観二年、賜 二 田十頃 一。宣和三年、燬 二 於寇 一。紹興四年、東陽賈剛足廷佐首、為鋳 レ 鐘建 二 蔵殿 一。住山僧標以来、六伝次第復完、 凡為 二 屋一千二百餘間 一。

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曹洞宗宏智派の短篷遠につい て (佐藤) 一〇八 と あり、 紹興六年 (一一三六) 二月に金華府 (婺州) 出身の潘良貴 (字は義栄、 黙成居士、 一〇九四 ― 一一五〇) が撰した 「宝 林禅寺記」によっ て 寺 の沿革が簡略に知られ る ) 18 ( 。伽藍が建 て られ たのは梁の大同六年 (五四〇) の こ とで、初めは双林 寺 と 称さ れて いた と さ れ る 。北宋の治平三年 (一〇六六) に宝林寺の額 を 賜 わ り 、大観二年 (一一〇八) には田十頃 を 賜っ て い る 。宣和三年 (一一二一) に寇に焼か れて いるが 、南宋の紹興四年 (一一三四) より慧炬行標ら六代の住持に よっ て 伽 藍が復興した と さ れ る から、短篷遠が入寺した頃には伽藍が完備し て い たもの で あろう ) 19 ( 。   しかも『扶桑五山記』一「大宋国諸寺位次」の「十刹」によ れば、 双林、婺州宝林禅寺〈金華県雲黄山、浙江金華府義烏県〉 。開山傅大士。行道塔 ・ 照影池 ・ 雲黄山 ・ 一撃亭 ・ 慈氏宮 ・ 金華山 ・ 第一輪蔵〈或第一上有 二 松山両字 一 〉 。 と 記 さ れ て おり、宝林寺が南宋末期には五山十刹制度の制定に伴っ て 禅宗十刹の第八位に列せられ た ことが知られ るか ら、まさに婺州 (金華府) を 代 表 す る名刹 で あった と い っ て よい。   短篷遠が実際に婺州義烏県の宝林寺に住持し て いる消息は、 破庵派無準下の雪巌祖欽 (慧朗禅師、 ? ― 一二八七) が『雪 巌和尚語録』巻二「普説」の「仰山普説」に語る消息によっ て 判 明 す る。 『雪巌和尚語録』の「仰山普説」には、 十八歳行脚、 鋭 レ 志要 三 出来究 二 明此事 一。在 二 双林鉄橛遠和尚会下 一 打 二 十方 一、従 レ 朝至 レ 暮、 只在 二 僧堂中 一、不 レ 出 二 戸庭 一。縦入 二 衆寮 一 至 二 後架 一、袖 レ 手当 レ 胸 、徐来徐往 、更不 二 左右顧 一、目前所 レ 視不 レ 過 二 三尺 一。洞下尊宿 、要 レ 教 三 人看 二 狗子無仏性話 一、 只於 二 雑識雑念起時 一、向 二 鼻尖上 一、軽軽挙 二 一箇無字 一。纔見 二 念息 一、又却一時放下著 。只麼黙黙而坐 、待 二 他純熟久久自契 一。 洞下門戸 、工夫綿密困 レ 人 、 動是十年二十年不 レ 得 レ 到 レ 手 、所以難 二 於嗣続 一。我当時忽於 二 念頭起処 一 打 二 一箇返観 一。於 二 返観 処 一、這一念子当下氷冷 、直是澄澄湛湛 、不 レ 動不 レ 揺 。坐一日 、只如弾指頃 、都不 レ 聞 二 鐘鼓之声 一 過了 、午斎放参 、都不 二 知 得 一。長老聞 二 我坐得好 一、下 二 僧堂 一 来看、曾在 二 法座上 一 賛揚。十九去、霊隠挂搭、見 二 善妙峰 一。 と あり、祖欽の ことばと し て 自ら修行時代 を 振 り返っ て いる中に、双林寺 す な わ ち 宝 林寺の短篷遠に参 学 し た事実が語 られて いる。 これ によ れば、祖欽は一八歳の と き 己 事の究明 を 志 し て 諸方行脚に赴い て いるが、その最初に宝林寺の鉄 橛遠和尚 す な わ ち 短 篷遠の会下に投じ て いる ことが知られ る。   ち な みに『増集続伝燈録』巻四「袁州仰山雪巌祖欽禅師」の章 で は 祖欽が短篷遠に参 学 した消息につい て 何 も伝え て いないが、 『五燈全書』巻四九「袁州仰山雪巌祖欽禅師」の章に、

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曹洞宗宏智派の短篷遠につい て (佐藤) 一〇九 浙之婺州人。五歳出家、十六薙髪。十八行脚、初参 二 双林遠・妙峰善諸老 一、無 レ 所 二 発明 一。 と 記 さ れ て お り 、 「仰山普説」の記事 を 受け て か 簡略に祖欽が宝林寺の短篷遠に参じた事実がま と め られて い る 。祖欽 は婺州 (一に福建の漳州) の出身 で あった と さ れ、元の至元二四年 (一二八七) に七〇余歳 で 示寂した と さ れ る から、そ の出生年時は定か で な いものの 、およそ嘉定年間 (一二〇八 ― 一二二四) の中頃 で あった と 見 られ る ) 20 ( 。一六歳 で 剃髪し た祖欽は一八歳の と き に 諸方に行脚し、最初に義烏県の宝林寺に掛搭し て 短 篷遠の会下に投じた と さ れ る から、その時 期は 概ね 紹定年間 (一二二八 ― 一二三三) の頃に当たるもの と 推測さ れ る 。   また興味 深 い のは短篷遠が会下に到った祖欽に対し て 「趙州無字」の公案 をもっ て 積極的に指導し て いた消息が記さ れて いる点 で あ る ) 21 ( 。 こ れは当時の看話禅のごと く必ずしも悟りに導くための接化 と い う わ け で はなく、雑識雑念 を 払っ て 坐禅に徹 す るための手段 と し て 初心者に課したもの で あった と い える。い わ ば 、短篷遠 と し て は 学 人 が黙坐に親し む ための方便 と し て 「趙州無字」の公案 を 積 極的に用いたもの と 解 さ れ る ) 22 ( 。 こ の点につい て は 後段 で 短 篷遠の禅風 を 考 察 す る際、改め て 問 題 と す る こと にしたい。

宝林寺における活動

  短篷遠が義烏県の宝林寺に住持し て い る事実が判明した こと から、松源派の虚堂智愚が『虚堂和尚語録』巻六「仏祖 賛」におい て 、    宝林遠和尚遊山像、師孫侍行。 徳臘倶高、孫枝益茂。以 二 勤倹苦節 一、中 二 興肄業 一、以 二 老気余韻 一、平 二 視諸方 一。眉稜垂 レ 雪、杖竹凝 レ 霜。歩趨有 レ 人兮清風可 レ 継、澹常古道兮劫外徜徉。 と し て 祖 賛 を 残し て いる「宝林遠和尚」 と い う禅者も、時期的に宝林寺に住持した短篷遠の ことを 指 し て いる と 見 て よ いで あ ろ う ) 23 ( 。 す で に考察したごと く、智愚は明州象山県の陳氏の出身 で あり、短篷遠も同じ象山県に生 を 受 け て いるの で は ないか と 推測さ れ る。また智愚は若い頃に明極慧祚 と 同門に当たる文煥 を 明州奉化県の雪竇山資聖寺に参じ、さら に慧祚の法叔に当たる石窓法恭の高弟 で ある中庵重皎にも杭州銭塘県の南屏山浄慈報恩光孝禅寺 で 参 じ て いる。しかも

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曹洞宗宏智派の短篷遠につい て (佐藤) 一一〇 智愚はその参 学 の 終 わ りには同じ浄慈寺 で 長 翁如浄のもと にも投じ、その薫陶 を 受 け て いる因縁が存し て い る ) 24 ( 。   智愚はおそらく短篷遠の後席 を 継ぐかた ちで 宝林寺に住持し て い るもの と 見られ 、両者はかなり 深 い道交 を 結 ん で い た可能性が高い。先の「宝林遠和尚遊山像、師孫侍行」の祖賛 と は、短篷遠が宝林寺の住持 で あった とき 法孫 を 従 え て 遊山し て いる姿 を 描いた頂相 (肖像画) が先に存し 、 こ れ に智愚が寄せた賛語 で あるから、おそらく短篷遠ゆかりの門 人か孫弟子が頂相 を 持参し て 親しく智愚のもとを 訪 れ 、 祖賛 を 依頼したもの で あ ろう ) 25 ( 。また祖賛の内容からし て こ の 頂 相は寿影 で あ っ て 、智愚が賛 を 寄 せた当時、短篷遠はいまだ健在 で あった と 見 て よい。   こ の 中 で 智愚は短篷遠 を 評 し て 「徳臘は倶に高く」 と か 「眉稜 は雪 を 垂 れ、杖竹は霜 を 凝 らす 」 と 記し て いるから 、 こ の ときすで に短篷遠は法臘がかなり高く、 老齢の身 を お し て 活動し て い た こ とが知られ る。また「勤倹の苦節 を 以 て 、 肄業 を 中興し、老気の余韻 を 以 て 、 諸方 を 平 視 す 」 と あるから、短篷遠はいくぶん長期に わ た っ て 宝林寺に住持し、精 進努力し て 伽 藍 を 中興し、老い て な お怯 むことなく諸方の叢林のありようを 直視つづけ て いたものらしい。興味 深 い の は肄業の ことば で あっ て 、 肄は習に同じく手習い をす る意 で あり、肄業は受業に通じ て いる。 とすれば、短篷遠が若く し て 出家得度した寺が宝林寺 で あった こと になり、 その縁によっ て 短 篷遠は後に宝林寺に住持し て い るもの と 見られ る 。   さらに表題に「師孫、侍行 す 」 と あり、文中にも「孫枝は益ま す 茂り」 と 記 さ れ る こ と か ら、短篷遠には法嗣のみ で なく法孫に当たる若 き 修行僧も育成さ れ つつあった ことが知られ 、 か なり隆盛の兆し を 見 せ掛け て いた ことが窺 われ る。 末尾に智愚は「歩趨 す るに人有り て 清 風 を ば継ぐべし、澹常たる古道、劫外に徜徉たり」 と 述 べ て おり、短篷遠の遊山 に随従した法孫の中から真に曹洞宗の空劫已前の宗風 を 継 ぐべき 人 材が輩出 す る で あ ろう ことを 予感し て いる。   いま一つ興味 深 い 記事 と し て 、 破庵派無準下 で 雪巌祖欽の法兄に当たる断橋妙倫 (松山子、 一二〇一 ― 一二六一) の『断 橋和尚語録』巻末「行状」に、つぎのような興味 深 い消息が記さ れ て い る )26 ( 。 庚子秋 、諸山挙 二 郷之祇園 一 出世 、瓣香為 二 仏鑑嗣 一。老屋数十楹 、羮藜飯麥 、 処 レ 之自如 。雖 二 僻絶荒寒 一、衲子無 レ 所 レ 容、 而 過 レ 門扣請者 、無 二 虚日 一。一日向 レ 火次 、有 二 僧正因 一 来参 。師問 、 曾見 二 甚麼人 一。因曰 、曾見 二 短蓬和尚 一 来 。 師曰 、短蓬室中 挙 二 甚話 一。因曰 、如何是塵塵三昧 、鉢裏飯桶裏水 。師曰 、作麼生会 。因曰 、不 レ 会、 特 来 見 二 和尚 一。師擲 二 火柴頭 一 示 レ 之。 因 礼拝曰、 恩大難 レ 酬。袖 レ 紙乞 レ 語。師作 レ 偈曰、 相逢驀箚問 二 来端 一、抛 二 下柴頭 一 君自看、 火種星児如搆得、 諸方却被 二 老兄瞞 一。 因辞 、帰 二 車嶺 一 所 二 自築 一 レ 菴。 報 二 道人 一 曰、 今 夜 有 二 猛虎 一 来 、 汝各自回避 。随以 レ 火焚 二 其菴 一、径帰 二 鴻福延寿堂 一 坐脱 。後

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曹洞宗宏智派の短篷遠につい て (佐藤) 一一一 有 下 自 二 中都 一 回者 上、過 二 酌水嶺 一 遇 レ 因。問曰、菴主何処去。因曰、我過 二 天台 一 去。客帰乃知 二 已遷化 一 矣。或以告 レ 師。 師曰、 我当時悔不 レ 痛 二 与一頓 一。其接人得力如 レ 此。   これは嘉煕四年 (一二四〇) 秋に妙倫が請 を 受 け、翌年の淳祐元年 (一二四一) に台州 (浙江省) 黄巌県南七〇里の瑞 峰祇園禅寺に開堂出世し、三年後に同じ黄巌県西北四五里の瑞巌浄土禅寺に遷住 す る ま で の期間の できごとで ある。 こ の間、かつ て 短 篷遠に参 学 した正因 と い う僧が祇園寺の妙倫のもと に来参した と さ れ 、妙倫は正因に対し て 短 篷遠の室 中 で の接化につい て 質問し て いる。正因が何 れ の 寺 で 短篷遠に参 学 し て いたのかは明記さ れて いないが、おそらく地理 的には台州に近い婺州義烏県の宝林寺における消息 と 解 し て よい で あ ろう。 と す る と 、 短篷遠は少なく と も一〇年あま りに わ た っ て 宝林寺に化導 を敷き 、その間に伽藍の修復などを 行い、中興 と 称 さ れ るに相応しい活動 をなし て いたもの と見 ら れ る 。   いま、妙倫が正因 と 交 わ した問答の部分 を 書 き 下 し て 示 す ならば、およそつぎのようになろう。 一日、 火に向かう次 で 、 僧正因有り て 来 参 す 。師問う、 「 曾 て 甚麼人に見ゆ」 と 。因曰く、 「曾 て 短 蓬和尚に見え来たる」 と 。 師曰く 、 「短蓬の室中 、甚の話 を か 挙す 」 と 。因曰く 、 「如何なるか是 れ 塵塵三昧 。鉢裏の飯 、桶裏の水」 と 。師曰く 、 「 作 麼生か会 す 」 と 。因曰く、 「会せず、 特に来たり て 和 尚に見ゆ」 と 。 師、 火柴頭 を 擲 ちて 之 れ に示 す 。因、 礼拝し て 曰く、 「恩 大にし て 酬い難し」 と 。   正因が妙倫に語る ところによ れ ば、 かつ て 正 因が「如何なるか是 れ 塵塵三昧」 と 問 うた ところ、 短篷遠は「鉢裏の飯、 桶裏の水」 と 答 えた と さ れ る ) 27 ( 。塵塵三昧 とは八十巻本『華 厳 経』巻四五「阿僧祇品」に説か れ る三昧 で あり、個物がそ れぞれ 一 切 を 含 む と い う禅定の境地 で あり、 一微塵の中に宇宙の真理が内包さ れて いる と い う発想にほかならない ) 28 ( 。 「 鉢 裏の飯、桶裏の水」 とは椀の中の飯 と 桶の中の水 で あ っ て 、そ れぞれ 一つ一つのものがそのあるがままのあり方 を 保 ち ながら 全 体 を 構成し て 安 ら い で いるさま を 述 べ て いよう。しかしながら、正因はその真意 を 会せず、 やが て 短 篷遠のも とを 辞し て 遠く祇園寺の妙倫のもと に投じた と い うの で ある。   こ の とき 冬 で あったためか火に当たっ て いた妙倫は、 活 き たはたらき (活作略) を 会得させるべく囲炉裡の火種 を 摘み、 これを 放り投げ て 正因に示し て おり、正因はそ れなりに悟る と ころが存したものらしく、妙倫に報恩感謝の ことばを 語 っ て いる。ただ、実際には こ こで も正因は妙倫の真意 を 会得し切 れて いなかったの で あり、妙倫のもとを 辞 し て 台州黄

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曹洞宗宏智派の短篷遠につい て (佐藤) 一一二 巌県西一〇〇里 (または西南七〇里) の車嶺に帰っ て 自 ら庵 を 築 い て 住 ) 29 ( し 、 やが て 同 じ黄巌県西八〇里に存 す る浮山鴻 福禅寺の延寿堂 (病室) で 坐脱し て し まうの で ある。その後、 中都 (国都) の杭州より妙倫のもと に帰る一客が酌水嶺 (未 詳) に て 正因に出会っ て 問答し、帰っ て か ら正因がすで に遷化し て い た事実 を 知った と さ れ る 。その ことを 告 げられ た 妙倫は亡 き 正 因 を 真に接化育成し得なかった ことを 悔い、一頓棒 を 痛 与せざる無念の思いに浸った と 伝 えられ 、妙倫の 「行状」はその逸話 を 特筆し て いる。   短篷遠の示した答えが誤っ て い た わ け で はなかろうが、正因は短篷遠のもとで も 妙倫のもとで も 真に塵塵三昧の意 を 体得 す る ことが で きず、空無に堕したまま坐脱し て い る わ け で あろう。 こ の正因が坐脱した因縁は、短篷遠の示 す 禅 旨 が学 人に容易に理解さ れず、誤っ て 捉 えられ る ことが存した逸話 とも解 す る こ とが でき よう。

蘇州呉県の承天能仁禅寺への遷住

  その後、短篷遠はさらに蘇州の承天寺に住持 す る機会に恵ま れて いる。 『枯崖漫録』の「短篷遠禅師」の項には、 後住 二 呉門承天 一。一日上堂云、承天一句、言前分付、達磨不 レ 会、隻履帰去。 と 記 さ れ て おり、呉門 すな わち 蘇州呉県の承天能仁禅寺に住持した事実 と 、承天寺 で なした短い上堂語が収められて い る。 『蘇州府志』巻三九「寺観一」の「呉県」によ れば、短篷遠が最後に住持した承天寺につい て 、 承天能仁禅寺、 在 二 皐橋東 一。 相伝、 梁衛尉卿陸僧瓉故宅。 因 レ 覩 二 祥雲重重所 一 レ 覆、 請捨 レ 宅為 二 重雲寺 一。 臺省誤書為 二 重玄 一、 遂 名 レ 之。 唐為 二 広徳重玄寺 一。銭氏時、又加 二 繕葺 一、殿閣崇麗、前列 二 怪石 一。宋初改 二 承天 一、宣和中禁 二 寺観 一、橋梁名不 レ 得 レ 用 二 天聖皇王 等字 一、 又 改 二 能仁 一。元 並 存 二 旧額 一、 称 二 承天能仁 一。以 三 寺前有 二 二土阜 一、 亦 名 二 双峩寺 一。寺 有 二 無量寿仏銅像 一、 高 丈餘。 盤溝大聖祠 ・ 霊姑廟・万仏閣・経楼・鐘楼。至順間悉燬 二 於火 一、至元間復新 レ 之。至正末、張士誠拠為 レ 宮。明初復為 レ 寺、僧綱司在 レ 焉。 と 記 さ れ て い る 。承天寺は蘇州 (呉県) 府署の北の甘節坊に存し 、皐橋の東に位置し て いた ことが知られ る 。古く梁の 天監年間 (五〇二ー五一九) の初めに、衛尉卿の陸僧瓉が故宅 を 捨 てて 伽藍 を 建 立し、重玄寺 (重雲寺) と名 づ け た こ と に始まり 、唐の広徳年間 (七六三 ― 七六四) の初めには広徳重玄寺 と 称せられて い る 。 北宋の大中祥符年間 (一〇〇八 ― 一〇一六) の初めに額 を 承天寺 と 賜い 、宣和年間 (一一一九 ― 一一二五) に一旦は寺院名 を 廃 さ れ て い る 。南宋初期にも

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曹洞宗宏智派の短篷遠につい て (佐藤) 一一三 伽藍が焼けたものの復興さ れ 、その後 、承天能仁禅寺 と 称さ れて いる 。禅刹開山は雲門宗の妙庵伝宗 で あ り 、伝宗は 雪竇重顕 (隠之 、明覚大師 、九八〇 ― 一〇五二) の法 を 嗣 いだ高弟 と し て 知 られ る 。承天寺の本尊は無量寿仏 (阿弥陀仏) で あり、寺の前に二つの土阜が存し て い た こ と か ら双峩寺の俗称 で も 親しま れて いた と さ れ 、 寺内には盤溝大聖祠・霊 姑廟・万仏閣・経楼・鐘楼など 諸堂が乱立し て いたさまも窺 われ る。   一方、 『扶桑五山記』 一 「大宋国諸寺位次」 の 「甲刹」には、 承天。蘇州〈平江長州県〉能仁寺。開山伝宗禅師。双峨峯・碧玉盤・万仏閣。 と し て 禅宗甲刹の一つに列した名刹 で あった ことが記さ れ て い る こ と か ら、南宋末期から元代におい て は 同じ呉県に存 す る虎丘山雲巌禅寺 や 万寿報恩光孝禅寺など に次ぐ蘇州の名刹 と し て 機能し て い た こ とが知られ る ) 30 ( 。十刹位の宝林寺か ら甲刹位の承天寺に遷住し て い る と なる と 、一面 で 官 寺の住職 と し て は 格下げの感もあるが、承天寺の住持 を 勤める こ とは五山に陞住 す る 上 で 一つの段階 ともなっ て い るらしい こと から、蘇州の名刹に住持したのは短篷遠に と っ て 栄 誉あ る こ とで あった と 見 られ る ) 31 ( 。短篷遠が承天寺に住持した時期につい て は 淳祐年間 (一二四一 ― 一二五二) に入っ て 以 降 の こ とで あろうから、承天寺における活動は晩年の数ヶ年に限られ る と 推測さ れ る 。   なお、短篷遠が蘇州の承天寺に住持し て い た時期には、同門の東谷妙光も同じ蘇州呉県の万寿報恩光孝禅寺に住持し て 化 導 を なし て お り 、 『増集続伝燈録』巻六に付録さ れ る 「五燈会元補遺」の 「杭州霊隠東谷光禅師」の章には 「而中 呉万寿居 レ 之最久 、衆盈 二 七百 一、法道為 レ 之一振」 と 記 さ れ て い る 。妙光は久しく中呉 (呉県) の万寿寺に住持し 、その もと には修行僧が七〇〇衆に満 ち た と さ れ る から、短 篷遠はおそらく妙光に遅 れて 蘇州に入り、同じ呉県の承天寺に法 門 を 振るったの で あ ろう。 こ の時期、蘇州府城 を 代 表 す る万寿寺 と 承天寺の両禅寺 で 、法兄弟に当たる妙光 と 短 篷遠が ともに力 を 合 わ せ て 盛んに曹洞宗旨 を 鼓吹し て い た事実には興味 深 いものがあろう。   さらに大慧派の物初大観は『物初賸語』巻一二「序」の「涌渓序」におい て 、 予昔過 二 呉門承天 一、見 二 諸衲 一 堅屹 二 長連 一、寂若 二 止水 一、有 二 霜花枯木之風 一。蓋前住山人短篷郷老所 レ 牧之衆也。 と 記 し て おり、 かつ て 自 ら呉県の承天寺 を 過ぎ て 短 篷遠のもとを 訪 ねた ことを 述懐し て いる。もっ とも「蓋し前住山人、 短篷郷老の牧 す る所の衆なり」 と あるから、 こ の 序が記さ れ た 時点 で は 、 す で に 短篷遠は示寂し て いたもの と 見 られ る。 大観は承天寺の短篷遠のもとを 訪 れ た 当時の感慨 を 「諸衲 を 見るに、堅く長連に屹 ち 、寂 と し て 止水の若く、霜花枯木

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曹洞宗宏智派の短篷遠につい て (佐藤) 一一四 の風有り」 と 描 写 し て いる。当時の承天寺の修行僧らは、住持 で あった短篷遠の指導によっ て 僧 堂の長連床に背筋 を 正 し て 坐 わ り、寂静の中 で 止水のごと く動かずに坐禅に集中し て いたさまが窺 われ る。   最初の 「堅く長連に屹 ち 」 と は 、 僧堂の座位 で ある長連単にしっかり と 山 が高く峙つように坐禅し て いるさま を い う。また「寂 と し て 止水の若し」 と あ るが、止水 とは流 れ ずじっ と し て いる水 すな わち 溜り水の ことで あり、動かず乱 れないものの譬え で あるから、彼らの坐禅が静寂不動のもの で あった ことを 意 味しよう。大観はさらに これを 「霜花枯 木の風有り」 と 述 べ て いるが、霜花 とは花のように白い霜の こと 、枯木は枯 れ 果 て た木の ことで ある。霜花も枯木もと もに生気 を 絶したものの譬えで あり 、あたかも短篷遠の門下は唐末に活躍した青原下の石霜慶諸 (普会大師 、八〇七 ― 八八八) に見られ る 「枯木衆」 を 彷 彿せしめる枯木禅のごとき 気 風が存したものらしい ) 32 ( 。老齢に達した短篷遠が僧堂内 で 若 き 修行僧らとともに大衆一如に息 を 潜 め て 面壁打坐に努め て いる日 々 の行持が偲ばれ 、そのさまはあたかも法統の 祖 で ある宏智正覚の黙照禅 を 継承し、また参 学 の 師 で ある如浄 や その法嗣の永平道元が徹底した只管打坐 を 行 じた消息 にも一脈通じる宗風が認められ よ う。

示寂と後事

  短篷遠が蘇州の承天寺に住持し て いた期間はそ れ ほ ど 長 くはなかったものらしく 、 やが て 終焉の ときを 迎 え て いる 。 『枯崖漫録』 巻中 「短篷遠禅師」 の項には 「後住 二 呉門承天」 と い う記事につづい て 「越 レ 宿無 レ 疾坐逝」 と 伝 えられて いる。 「宿 を 越 え て 」 と いうのが具体的に どれ ほ ど の期間 を 指 す の か定か で ないが、短篷遠はその最期も坐禅 を したまま示寂した ことが知られ る 。 「疾無くし て 坐 逝 す 」 と あるから 、 病いもなくいつものように坐禅 を 行 なったままのかた ちで 逝去し たもの で あり、坐脱 と い うのに相応しい最期 で 、まさに遠鉄橛 と い う 渾 名そのままの終焉 で あった と い えよう。   短篷遠は示寂に臨ん で 遺 書 を 婺州義烏県の宝林寺の住持 で あった松源派の虚堂智愚のもと に呈し て い る 。 『虚堂和尚 語録』巻二「婺州雲黄山宝林禅寺語録」には、 承天短蓬遠和尚遺書至上堂 。僧問 、昔本不 レ 離 レ 此、 今 朝 亦 不 レ 来 。 且道 、承天老子向 二 甚麼処 一 去。 師 云 、 趕 レ 人不 レ 得 二 趕上 一。 僧云 、莫 下 是向 二 不生不滅処 一 去 上 麼。 師 云 、 你 莫 レ 要 レ 撩 二 撥者気鼓老僧 一。僧云 、 他触著便三毒起 。師云 、 多少人仰望不 レ 及。

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曹洞宗宏智派の短篷遠につい て (佐藤) 一一五 僧云、 洞山遷化、 設 二 愚癡斎 一、 承天遷化、 有 二 何分付 一。師云、 有 二 分付 一。僧云、 有 二 甚分付 一。師云、 教 三 你近前退後牢記 二 話頭 一。 僧云、 也是不 レ 惜 二 口業 一 漢。師乃云、 遠之莫 レ 及、 故曰 レ 短。蹤之不 レ 即、 故曰 レ 蓬。波波浪浪、 西西東東、 直鈎已掛 二 双峨碧 一、 一橈香散 二 蘆花風 一。 と あり、承天寺の短篷遠の遺書が届けられ た際になした上堂が収められて い る ) 33 ( 。 こ の と き 智 愚は一僧 と の 間 で こ の遺書 を めぐっ て 問 答 を 展開し て い るが 、 『 虚堂和尚語録』 で は 短篷遠 で はなく短蓬遠 と 記 さ れ て い る 。おそらく宝林寺の智 愚のもと には、かつ て 短 篷遠の指導 や 影 響 を 受けた修行者がなお多く留まっ て い たもの で あろう。 こ の とき 一僧は「短 篷和尚はかつ て 久しく宝林寺に在っ て学 人 を 指導さ れ た が、今朝の訃報 で も う こ の寺に来られなくなった。果たし て 承 天寺の短篷和尚はどこ に行か れ たのか」 と 智愚に尋ね て いる。智愚は 「 人 を 趕うに趕い上ぐる を 得 ず」 と 答 え て いるが、 これは人 を 追 うときはぎりぎりま で 追い詰め て は ならない と い う意 で あ る ) 34 ( 。僧がさらに 「 是 れ 不生不滅の処に向っ て 去る こと 莫 き や 」 と 問うたのに対し、智愚は「 者の気鼓の老僧 を 撩 撥せん と 要 す る こ と 莫 か れ 」 と 窘め て い る。撩撥 は揶揄しからかう こ と 、気鼓は気の短いさま を 意 味 す るよう で ある ) 35 ( から、短篷遠は気性の激しい短気な性格 で あったも のらしい。智愚 と 一 僧 と の問答はやが て 曹洞宗祖の洞山良价 (悟本大師、八〇七 ― 八六九) に因んだ「洞山遷化」 と 愚 癡 斎の話頭に向けられて いる ) 36 ( が、 これも短篷遠が曹洞宗に属 す る禅者 で あった こと に因 むもの で ある。いま一つ注目 すべ きは、 智 愚が末尾に「短」 と 「蓬」に関し て 説 明 を 加え て い る こ とで あり、 明確に短蓬 と 理解し て い たもの で あろうか。   一方、 短 篷遠の遺書は前住地 で ある宝林寺の智愚のもと に届けられ たのみ で な く、 同じ松源派の石渓心月 (仏海禅師、 一一七七? ― 一二五六) のもと に も届けられて いる。 『石渓和尚語録』巻上「住臨安府景徳霊隠禅寺語録」には、 承天和尚遺書至上堂 。設有 下 一法過 二 於此 一 者 上、我亦見 レ 之、 如 レ 夢如 レ 幻 。是故短蓬和尚 、覚 二 斯夢境 一、因 レ 之為 二 出没之場 一、 知 二 彼空花 一、因 レ 之為 二 修習玩具 一。末後一句、坐 二 断千差 一。還知 二 落処 一 麼。尊貴位中留不 レ 住、肯為 二 林下守 レ 株人 一。 と あり、 やはり心月も承天寺の短篷遠の遺書が至った際に上堂 を なし て その遺徳 を 偲 ん で いる。心月は松源下の掩室善 開の法嗣 で あ り 、高弟の大休正念 (仏源禅師 、一二一五 ― 一二八九) はやが て 日本に渡来し て 鎌倉禅林に化導 を敷い て い る ) 37 ( 。また北条氏の一族 と さ れ る 無象静照 (法海禅師 、一二三四 ― 一三〇六) は日本から入宋し て 心月の法 を 嗣 い で 帰国し て いる。心月は杭州銭塘県の北山景徳霊隠禅寺に勅住 す る 以前、承天寺 と 同じ蘇州呉県西北七里の虎丘山雲巌禅寺に住 持し て おり、かつ て 蘇 州におい て 短 蓬遠 と 親しい道交 をなし て いたの で は ないか と 見られ る。ただし、 『石渓和尚語録』

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曹洞宗宏智派の短篷遠につい て (佐藤) 一一六 におい て も 短篷 で は なく短蓬 となっ て おり、 『虚堂和尚語録』 と 同 様なのは注目さ れ よ う。   末後の一句 とは遺偈の ことを 指 し て おり、おそらく遺書 とともに短篷遠の遺偈も心月のもと に齎さ れて いるもの で あ ろう。 こ れは全くの推測 で あ るが、心月の上堂からす る と 、短篷遠の遺偈には「末後一句 、坐 二 断千差 一 」や 「 覚 二 斯夢 境 一、知 二 彼空花 一 」 と いった ことばに近い表現が存したもの で は ない か と 見られ る 。また心月が末尾に語る「尊貴位中、 留め住せず、肯 て 林下に株 を 守る人 と為る」 と い うのは、短篷遠の坐禅に徹した生涯 を 振り返った感慨 で あ ろう。また 心月が短篷遠につい て 夢 境 を 出没の場 と し 、空花 を 修習の玩具 と し た と 評し て いるのは 、夢幻空華 と い うの と 同 じ で 、 空中に見える幻影の ことで あるから、おそらく短蓬 (彩虹) に因 む 発 想 で あろう。さらに短篷遠は尊貴な悟りの位に留 め置けない人 で あり、あえ て 修行僧 とともに生涯に わ た っ て 愚のごと く魯のごと く日 々 の坐禅 を 黙 々と 行じつづけた墨 守の人 で あった点 を 評 し て いる。 これは『韓非子』の「五蠧」に載る「守株待兎」の故事 を 受けるもの で あり、守株の 人 と は旧い や り方 を 頑 なに守る人の ことで あり、一に旧態然 と した硬直な面 を 示 し て いる ) 38 ( 。短篷遠は公案の参究 を 通 し て 悟 り を 求める看話禅が流行の大勢 を 占 め て いた南宋末禅林にあっ て 、 あえ て 坐禅そのものに親し むことを 重視し、修 行僧 とともに打坐 を 行 じつづける古風な禅者 で あった と い えよう。   さらに駒澤大 学 図書館所蔵『禅林諸祖弔霊語薮』巻七「掛真」に「無準範〈五章〉 」の一つ と し て 、    為 二 短蓬和尚 一。 者短蓬没 二 西東 一、踏飜不 レ 見 レ 踪。展開云、咦。在 二 者裡 一。蘆花明月夜、笛弄 二 一江 風 一。 と い う破庵派の無準師範 (仏鑑禅師 、一一七七 ― 一二四九) が短篷遠のためになした掛真の ことばが載せられて い る ) 39 ( 。た だし 、 『禅林諸祖弔霊語薮』 で も 『虚堂和尚語録』 や 『石渓和尚語録』などと 同 じく 、短篷 で はなく短蓬 と なっ て い る点は注目さ れ よ う 。 師範はいうま で も なく当代随一の禅匠 で あ り 、その門下には日本の東福円爾 (弁円 、聖一国師 、 一二〇二 ― 一二八〇) や 性才法心 (法身、 ? ― 一二七二) も連なっ て おり、 また中国僧の法嗣 と し て も 兀庵普寧 (宗覚禅師、 一一九七? ― 一二七六) や無 学祖 元 (子元、仏光国師、一二二六 ― 一二八六) は日本に赴い て 化導 をなし て いる。   掛真 とは住職の葬儀の際に、入龕・移龕・鎖龕につづい て 行 われ る掛真仏事の ことで あり、その人物 を 画いた頂相 を 祭壇に掲げる儀式 で ある。 こ の とき 師範は五山第一位 で ある杭州余杭県の径山興聖万寿禅寺の住持 で あった わけ で あ る が、おそらく実際に径山から承天寺に赴い て 短 篷遠の遺体 を 前 に肖像画 を 掛 ける掛真の儀式 を挙行し て い る こ と に なろ

(21)

曹洞宗宏智派の短篷遠につい て (佐藤) 一一七 う 。 師範は短篷遠の画像 を 前に虚空 を 踏翻し て 跡 を 残 さない没蹤跡のありようを 称えた後 、 「蘆花明月の夜 、 笛は一江 の風 を 弄 ぶ」 と 述 べ、静まり返った真夜中に白い蘆花 と 白い明月が対峙し、そんな中 で 笛の音が河畔に響い て いるさま が語られて おり、短篷遠が悟りにも安住しない自在の妙用 をなしたさまに準え て いる。   こ の ように短篷遠はその示寂に臨ん で 無 準師範・石渓心月・虚堂智愚 と 関 わ っ て いる ことが知られ る わ け で あり、三 禅者がいずれも当代一流の臨済禅者 で あり、師範につづい て 心 月 と 智愚もやが て 径山の住持 を 勤 め て 南宋末期の江南禅 林に絶大な接化 を 振るった事実 を 踏 まえるならば、短篷遠の活動が当時の臨済禅者にも一目置か れ る存在 で あった消息 が自 ず と 浮か び上 がっ てこ よ う 。   で は 、 短 篷遠が示寂したのは具体的に何時の ことで あったのか、 こ の点につい て 『 虚堂和尚語録』 と 『石渓和尚語録』 の上堂語の編成から推測し て お き た い 。 『虚堂和尚語録』巻二 「婺州雲黄山宝林禅寺語録」には 「 師入寺」の法語から 最後の「元 生 上堂」ま で 一〇〇余りの上堂 ・ 小参などが収められて おり、足掛け五年間に わ たる智愚の活動が知られ る。 こ の 中 で 「承天短蓬遠和尚遺書至上堂」は三年目の「解夏小参」の直前になさ れて いるが、智愚が宝林寺に入寺した時 期は語録に付さ れ る 「行状」 によっ て も 定か で な い。ただ、 幸いにも 「婺州雲黄山宝林禅寺語録」 の二年目に当たる 「結 夏小参」が閏月のために一二〇日安居 で あった消息 を 伝 え て いる こと から、淳祐年間に四月から六月に閏月が存 す る 年 を探 す と 、 淳 祐 六 年 (一二四六) 閏四月しか存し て い ない ことが判明 す る 。したがっ て、智愚が婺州義烏県の宝林寺に 住持し て いた期間は淳祐五年 (一二四五) の結夏直前から淳祐九年 (一二四九)の 元 生 (一月一五日) に至る足掛け五年 間 と いう こと になろう。 こ れ によっ て 「承天短蓬遠和尚遺書至上堂」 がなさ れ た時期 を 当 て はめる と 、 淳 祐七年 (一二四七) の夏安居の六月以降 で あった ことが知られ る ) 40 ( 。   一方 、 『石渓和尚語録』巻上 「住臨安府景徳霊隠禅寺語録」は入院の拈香から始まっ て 径山に遷る 「辞 レ 衆上堂」に 至るま で 六〇余りの上堂が収められて い るが 、 「承天和尚遺書至上堂」はその中 で 二年目の 「松源和尚忌拈香」の二つ 前に配さ れて いる 。 『石渓和尚語録』巻上 「住平江府虎丘山雲巌禅寺語録」には末尾に 「淳祐丙午八月初一日 、在 レ 寺 受 二 霊隠請 一 拈 二 勅黄 一 示 レ 衆」 と「辞 レ 衆上堂」が収められて おり 、つい で 「住臨安府景徳霊隠禅寺語録」 となっ て いる から、心月が淳祐六年八月一日に蘇州の虎丘山雲巌寺に て 杭州霊隠寺への入院の勅黄 を 受 け て いる ことが知られ る。ま た 「住臨安府景徳霊隠禅寺語録」の末尾には 「 淳祐十年六月廿一日 、在 レ 寺受 二 径山請 一 捧 二 勅黄 一 謝 レ 恩畢上堂」 と「辞 レ

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