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現代社会の「経済」の意味を考える試論ノート ―

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現代社会の「経済」の意味を考える試論ノート ―

「スモール イズ ビューティフル」と「小さき兄弟 会」2008 年資料を手掛かりとして―

著者 勝俣 誠

雑誌名 明治学院大学キリスト教研究所紀要 = The

bulletin of Institute For Christian studies Meiji Gakuin University

巻 53

ページ 305‑337

発行年 2021‑03‑31

その他のタイトル Reflections on the Meaning of  Economy  in the Contemporary World:Revisiting Schumacher s Small Is Beautiful and the  Document of 2008  by Order of Frias Minor

URL http://hdl.handle.net/10723/00004111

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現代社会の「経済」の意味を考える試論ノート

―「スモール イズ ビューティフル」と

「小さき兄弟会」2008 年資料を手掛かりとして―

勝 俣   誠

私は,二人の若いアルゼンチン人の兄弟たちに,「私は『小さくあること』(la minorità)について何か話したいと思うが,何を話したらよいだろうか?」と助言 を求めました。すると一人の兄弟は「神が私を小さくしてくださいます」と答え,

もう一人の兄弟は「教皇様が今なさっていること,神に尋ねること,それこそ,

毎日私が行っていることです」と答えました。これが,私の国の二人の若い兄弟 が私に教えてくれた,「小さくあること」の意味です。

(教皇フランシスコのフランシスコ会へのメッセージ ―小さき兄弟の皆さんへ―)(1)

今,なぜ「経済」を改めて問い直すのか?―2つの体験から

現代社会では「経済」という言葉があふれている。ヒトが生きていく うえでこの「経済」とはどんなイミを持つのだろう。

この問いを身近に考えるきっかけとなった 2 つの体験から始めてみよ う。

何年か前にコンゴ民主共和国(旧名ザイール)を熱帯雨林の保全に関

する調査で訪問した際,首都のキンシャサの修道院に宿泊した時のこと

である。修道士たちとこの国の熱帯木材はどのように伐採され,輸出さ

れていくのかという国内流通の話をしている時,経済に詳しいからとベ

(3)

ルギーからの修道士を紹介された。彼は この国での木材統計の探り方に ついて,修道院の目前を流れるコンゴの川に集結する木材流送が目安と なるとアドヴァイスしてくれた。私はこの修道院にはエコノミストも活 動しているのだとその時感心したのだが,後になって彼はエコノミスト でなく,エコノーム(économe)として紹介されたことに気づいた。

私の聞き違いだった。エコノームとはフランス語で教会や修道院などの

「会計係」などと日本語訳されている職務である。現代用語として使用 される市場経済や景気循環を分析するエコノミストないし経済学者とエ コノームは,同じエコノミーという言葉から派生しながら,この 2 つの 用語はどう異なるのか疑問に思ったのである。

もうひとつは,やはり 2000 年代に入ってからの「経済」にまつわる 体験である。日本の経済系新聞で目についた,子供の夏休み前の「生き た経済の基本を学ぼう」という一文のある広告である。この「お父さん,

お母さんへ」という呼びかけで始まる広告は「夏休みの自由研究は親子 で経済を見つめてみませんか」と,T シャツ姿の親子が天の川を見上 げるイラストが掲載されている。しかしこのイラストをよく見てみると,

親子が観察している天の川は天体の星雲でなく,株の上下運動を示すグ ラフであることに気づく。子供の時から株式投資の仕組みを教えること の意味が今一つ私には理解できなかったが,同時に,ここで使われる株 式投資イコール経済,経済イコール金融といった「経済」の一般的了解 は本当にそうだろうかという疑問が浮かんだのである。

本稿の目的はこの 2 つの日常体験から生まれた「経済」なるコトを,

改めて現代世界の最中で問うことである。その出発点は,経済とは何よ りもまず生身の人間の生存のための一活動ないし手段の名称ではない か,という仮説である。

この問いかけを明らかにしようする試みの手掛かりとして 2 つの資料

を選んだ。ひとつはE・F・シューマッハの『スモール イズ ビュー

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ティフル―人間中心の経済学』(1986 年)

(2)

で,もうひとつは小さき兄 弟会の「「現世においては旅人であり 寄留の身である」会憲第四章に基 づく生涯養成のための資料」(ローマ,2008 年)

(3)

である。

この資料選択の理由は 3 つ挙げられる。

まずはこの 2 つの資料『スモ-ル イズ ビューティフル(以下SI Bと略)』及び「現世においては旅人であり 寄留の身である(以下OF M 2008 と略)」はいずれも現代世界における「経済」の性格と範囲の 問題を正面から「人間」をキーワードとして考察しているからである。

確かに『SIB』は社会科学書であり,「OFM 2008」 は宗教・倫理と いう人文系分野を扱っていて,アプローチはそれぞれ異なる。しかし,

社会現象を観察・分析する社会科学の説明の背後には必ず社会を構成す

出典:日本経済新聞〔全面広告〕,2005 年 7 月 19 日

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るなんらかの人間像ないし人間の表象(representation)が想定され ている。例えば現在の標準的経済学でいえば,モノやサービスの市場交 換を通じた各個人の最小費用による効用雇用の最大化を求めるホモエコ ノミクスという人間像である。

しかしながら,市場経済の原理が未曽有の規模で拡大・深化する中で,

個人の効用のあくなき追求の総和が地球温暖化のように人間社会と自然 界に負の影響を与えてきていることが明らかになってきている今日,改 めて社会科学,とりわけ経済学の中の人間像を『SIB』と「OFM 2008」の吟味を通じて再検討してみることは,「市場イコール経済」と いう図式の限界を明らかにするために大いに時宜を得ていると思われ る。かくして,この 2 つの資料は経済活動が単に市場参加や株や金融取 引に還元できないとしたら,一体どんな定義を与えることができるのか を考える優れて啓発的な比較考察材料に思えたからである。

次に言えることは,この 2 つの資料はいずれも「小さい」という規模

の問題を現代世界の中で提起していることである。『SIB』はタイト

ルが示す如く経済活動とその規模拡大がもたらす社会,政治,環境など

の問題を分析している。小さき兄弟会による「OFM 2008」も考察と

教えの原点ないし参照軸は「小さき人々」である。「小さい」とは前者

では計測可能な規模・量の問題であり,後者ではキリスト教の伝統にお

いての一般的了解による「貧しい」,「社会的に弱い」と社会科学的アプ

ローチでは明確に計測・定義しがたい概念として使われている。この一

見,つながりのないような 2 つの表現は「小さい」という言葉が両義性

を持つかのように位置づけられるかもしれない。しかしながら,いずれ

も金持ち,財産家,エリート,といった社会的成功者とは対極に身を置

いている人びととその小さな生き様という点では共通点がある。ちなみ

に,「小さい」とはシューマッハの『SIB』では small, フランス語で

は petit となる。フランシスカンの「小さき兄弟たち」のフランス語訳

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は frères mineurs と呼ばれ,mineurs は tout petits と換言出来る

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最後に,この 2 つの文献を選んだ理由には資料アクセスの容易性があ げられる。この 2 つの資料は平易な言葉で記述され,『SIB』は文庫 本で,「OFM 2008」はインターネット上で無料ダウンロードでき,い ずれも比較的容易に読める。誰もが身近なところから現代世界を考察し,

そこから引き出される課題を広く共有し解読するためには,アクセスが 難しくない資料ないし媒体を手掛かりにしてみようという啓発的意図が 本試論にはあるからである。換言すれば,本稿は現代世界におけるグロー バル化という限度なき資本主義的拡大現象を,身近な事象と資料で読み 解いてみようという「臨床的資本主義分析」の試みとも言える。

したがって,本稿はシューマッハの著作をめぐる経済学説史,社会思 想史,広くは現代社会科学での思想史的位置づけ,またフランシスカン の思想そのものをめぐる神学的,哲学的考察を目的としていない。現代 世界の「経済」問題を 2 つの資料を通じて,ひとつは社会科学から,も うひとつは宗教学から解読してみるという,今後より追求すべき課題を 残す予備研究的ないし序論的作業の域を出ていないことを強調しておき たい。

こうした目的と方法から本試論は以下のごとく展開する。

まずは,『S I B』における「経済」の意味を一般的に了解されてい

る「経済」との比較考察を通じて,著者シューマッハの意図する本来の

経済とはどんな特質を有しているのかを明らかにする。次に,その問題

意識を踏まえて,800 年前にアシジのフランシスコによって創設された

フランシスコ会の教えを現代世界の最中で考え,実践している小さき兄

弟会の「OFM 2008」における「経済」の位置づけとそこから導き出

される「小さき人々」の現代的意味を検討する。そして最後に,これら

の 2 つの資料を手掛かりとして見えてくる,現代世界が直面する時代的

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課題とその展望を提示してみる。

1.『スモール イズ ビューティフル』における シューマッハによる「経済」の性格と範囲

 『SIB』は経済学という対象が明確に限定された学問領域 (discipline)

内で一貫した分析用具と考察で構築するいわゆる「学術書」ではない。

本書は 19 章からなり,第 1 部「現代世界」,第 2 部「資源」,第 3 部「第 三世界」,第 4 部「組織と所有権」の 4 部に分かれ,各章の論考は一般 市民を聴衆とした講演会や講話をもとに手を入れたもので,必ずしも経 済学者を対象としたものでなければ,また詳細な注が付与された論文形 式をとっていない。だからこそ,経済学の知識をもっていない普通の 人々,市民にも読め,かつ考えさせるという啓蒙的内容を備えている。

『SIB』における「経済」の概念は,現代世界で了解され,経済学 として今日一般に大学教育で教えられている「経済」と比して,3 つの 特質が見出される。1 つ目は「経済」を人間の生活を支える活動として 定義していることである。2 つ目は人間の経済活動が依拠する技術の性 格の条件を,あくまでも生身の人間のアクセス可能性に求めていること である。そして 3 つ目の特質は経済活動の望ましい範囲をやはり人間の サイズに限定していることである。

1 - 1  『SIB』における経済の範囲

シューマッハの経済概念は『SIB』の第 3 章「経済学の役割」におい て明確に提示されている。 『SIB』では,我々が「不経済(uneconomic)」

という表現を使うとき,それはどんな意味なのかが問われる。現代世界

では「不経済」と言うとき,マイナスのイメージがあるとして,次のよ

うにこのコトバの持つ否定的側面に言及する。

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ある行為が不経済というレッテルを貼られると,その存在の権利が疑われるど ころか,強く否定されてしまうのである。経済成長を妨げているとわかれば,な にごとでも恥ずべきことであり,それをやめない人は妨害者か阿呆と見られてし まう。ある行為を不道徳だとか,醜悪だとか,単調だとか,ないしは人間を堕落 させるとか,世界の平和や子孫の繁栄を脅かすとかの理由でどんなに批判してみ ても,それが「不経済」だと証明できなければ,その行為の存在価値を本当に否 定することにはならないのである(『SIB』,55 ページ)。

そしてシューマッハは,「あるものが不経済だというのは,カネの形 で十分な利益をあげないということである。経済学の方法からは,これ 以外の意味は出てこないし,出るはずもない(『SIB』,56 ページ)。」

という明快な定義を下す。当然ながら,この経済学とは現代世界で支配 的な経済学のことで,著者によれば現実の社会やその中での個人や集団 はこうした損得勘定以外に芸術的,道徳的,政治的動機で活動すること があり,「経済学の判断はきわめて部分的(fragmentary)な判断なの である(『SIB』,56 ページ)。」とその部分的性格を批判している。

この経済学の人間活動全体に対しての部分的ないし断片的性格をさら に明らかにするために本章では経済学の持つ特異性について,この経済 学から導き出される経済的判断を次のように特徴づける。

非経済的な価値を経済計算の枠組の中に押しこもうとして,経済学者は費用・

便益分析の方法を採用する。これは,通常まったく無視される費用と便益を考慮 に入れようとするものであるから,一般に進んだ方法と見られている。けれども 現実には,これはより高次のものを低次のものに引き下ろし,値段のつけられな いものに値段をつけようとするやり方である(『SIB』,60 ページ)。

この特異性を『SIB』では市場という今日私たちがごく当たり前の

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行為として受け入れる仕組みの持つ前提の特異性から次のように明快に 説明する。

経済学は,財を扱う場合は市場価値を問題とし,その実質は無視する。第一次 的な財,つまり人間が自然から採取してこなくてはならない財と,こういう財を 前提として人間がこれを加工して造る第二次的な財に,まったく同一の規則と基 準が適用される。基本的な関心事は私的利潤であるために,すべての財は同じ扱 いを受ける。このことは,人間が自然界に依存している事実の無視(下線は原文)

が,経済学の方法論に内在した性格であることを示している(『SIB』,57-58 ページ)。

この財の交換を専ら市場交換としてのみ把握する方法論の特異性ない し歴史性はすでに経済人類学者であるカール・ポランニーの『大転換』

において指摘されている

(5)

。『SIB』では本書の参照は見られないが,

明らかにポランニーの「経済」の定義と重なる。今日,多くの社会科学 者が現代資本主義分析においていまだ引用するポランニーの「経済」の 定義の特質を,あらためてごく簡単に本章の文脈で 2 点だけ記しておこ う。

第一は「商品」の拡大解釈に対する批判である。人間生活に不可欠な 土地,労働,貨幣を市場交換可能にするためには,制度的段取りとして これらを「商品(commodity)」として位置づけないと実現できない。

そこで,土地は不動産市場,労働は労働市場,貨幣は貨幣市場という設 定が資本主義の生成の中で生まれた。しかし,これらはいずれも人間と その生きる環境を人為的に切り取って商品化しているのに過ぎず,土地 は自然の,労働は人間自身,貨幣はモノの売り買いの手段に過ぎず,人 類史で長らく行われてきたモノの交換行為とは断絶しているのである。

ポランニーは自然,人間,貨幣は市場向けに売られるために創られたの

(10)

ではないので商品とは言えず,あくまでも「商品もどき,疑似商品,

quasi commodity」であるとする。

もうひとつのポランニーの経済概念のユニークさは,経済概念を 2 つ のカテゴリーに分類したことに見出される。『SIB』の本章で批判し ているような損得勘定のみに依拠した経済について,それを実行可能に する市場は人間が考え出した 1 つの制度,ルールに過ぎず,形式的

(formal)な経済として 1 つのカテゴリーに分類している。もうひとつ は人間の社会生活を継続するために営まれてきた財やサービスの移転活 動すべてを社会統合のためのパターンとしての「経済」として受け入れ,

互酬,再配分,交換の 3 つに分類し,これらは実質的な(substantial)

経済であるとする。後者の分類では市場交換は数ある社会内活動の中の 1 つのパターンに過ぎない。

『SIB』における経済とはポランニーの「経済」の定義と重なり,

目先の経済的合理性を超えた,人間の活動を支える手段として位置づけ られている。シューマッハはこのいわば広義の(lato sensu)経済に対 して「超経済学 meta-economics」という概念を与える。そして『S IB』では次のようにその「超経済学」を定義している。

経済学は人間を環境ぐるみで取り扱う学問であるから,超経済学とは二つの構 成部分,つまり,人間を扱う部分と環境を扱う部分から成るものと考えてよいだ ろう。言葉を換えていえば,経済学の目的と目標は人間の研究から導き出されな ければならないし,その方法論の主要部分は自然の研究から導き出すべきだと考 えてよかろう(『SIB』,61 ページ)。

1 - 2  生身の人間がアクセス可能な技術

今日,望ましい経済を語るとき,ほぼ確実に登場する言葉は「経済成

長」である。

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市場価格で表示される 1 年間のモノとサービスの増加分は年間経済成 長率として表示される。このレートが前年を上回れば,人々にとってい いことで,停滞したり,前年比で低下すればよくないことと受けとめら れる。例えば,「マイナス成長」,「ゼロ成長」が統計として発表される とき,多くの人々が憂えるのは,企業の倒産や失業の増大,ひいては購 買力の低下,ないし生活悪化である。2020 年初頭に勃発したコロナ危 機では政府は「経済」の維持をともすれば優先し,「ポストコロナ」で は V 字型の経済成長の再来と持続を描いている。今や世界中の政府の 政策目標となっているこの成長を決める要因は,教科書的には総じて資 本がどのくらい蓄積されるか,また労働に資する人口がどのくらい増加 するかに求められる。そしてこれらの所与の資本と労働の投入の効率を 高めるのが新たな技術である。この技術による経済的富の増加への貢献 を「技術進歩」と言ったり,「技術革新,イノベーション」と呼んだり する。

しかしシューマッハは,現代世界の技術の進歩は果たして私たちの生 活を豊かにしているかを問う。『SIB』の第 5 章「人間の顔をもった 技術」では進歩を重ねた技術が生んだ世界は 3 つの危機に直面している と指摘する(『SIB』,196 ページ)。すなわち,人間性への危機,人 間の生命を支える生物界への危機および再生不可能の資源枯渇への危機 である。この危機観から人々の生活をより便利,快適にして,さらに労 働の苦労を軽減してくれてきた技術が逆に生活や労働の質を劣化させて いるのではないかという問いかけがなされる。

この問いかけは,シューマッハによる次のような技術観に由来する。

技術というものは,人間が作ったものなのに,独自の法則と原理で発展していく。

そして,この法則と原理が人間を含む生物界の原理,法則と非常に違うのである。

一般的にいえば,自然界は成長・発展をいつどこで止めるかを心得ているといえ

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る。成長は神秘に満ちているが,それ以上に神秘的なのは,成長がおのずと止ま ることである。自然界のすべてのものには,大きさ,早さ,力に限度がある。だ から,人間もその一部である自然界には,均衡,調節,浄化の力が働いているの である。技術にはこれがない。というよりは,技術と専門化に支配された人間に はその力がないというべきであろう。技術というものは,大きさ,早さ,力をみ ずから制御する原理を認めない(『SIB』,195-196 ページ)。

この技術観は人間社会における技術そのものを否定しているのではな い。そのたえず追及される技術の革新・改善・発明がいつの間にか人間 生活の豊かさに貢献するのではなく,現代技術が社会の統治原理や人々 の思考回路を形成しかねないという危機観に由来している。換言すれば,

道具はいくら進歩を重ねてもそれ自体所詮は手段にすぎず,それを人間 の生活の指針の判断基準にしてしまう,イミを喪失した「道具的理 性 instrumental reason」の限界を指摘しているのである

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1 - 3  経済活動の望ましい範囲をやはり人間のサイズに限定している こと

巨大な生産工場,強大な都市,それらから生まれる大規模な生産と消 費,そして廃棄は現代世界のごく見慣れた風景である。これらはより多 く利潤を実現したい企業が選択した,ビジネス活動の規模拡大の結果で ある。そこではさらなる設備投資やさらなる「人材」の投入がその大方 の具体的内容となる。しかし,かくして巨大化する組織,構造に対して,

シューマッハがその経済観から注目するのは,人間活動の大規模化にお

ける生身の人間の居場所や行方で,限度なきこれらの規模拡大現象の中

で人間・個人は一体どこに行きつくのかという問いである。シューマッ

ハは第 5 章「規模の問題」で「今日でも,巨大な組織というものはどう

しても必要なのだといわれている。しかし事実をよく見れば,巨大な組

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織が生まれるとたいていの場合,すぐにその中に小さな組織を作ろうと する努力が払われることに気づく。」と最終決定の仕組みの規模につい て言及する(『SIB』,83 ページ)。

その理由をシューマッハは秩序と自由のせめぎ合い問題として提起 し,決定における生身の人間の存在を次のように指摘する。

無数の小規模な自治組織のもっている自由が必要であると同時に,大規模な,

ときによっては全世界にまたがる組織などの統一と整合というものの秩序も必要 である。何かの行動を起こすときには,小さな組織が要る。なぜならば,行動と いうものは個人色のきわめて強いものであって,だれでも限られた数の人としか 一度に接触できないからである(『SIB』,84 ページ)。

この組織の規模についてのジレンマを乗り越えるためにシューマッハ が提案するのは中庸である。現代世界で地上のすべての人間の営みを生 身の人間が直接関与できる小さなコミュニティーに細分化したり,逆に 現存する多様なすべてのコミュニティーを大規模な組織形態で統治する のが非現実的なように,その 2 つの組織的要請に折り合いないし妥協が 必要であるとして,ただ小さいことがいいことだという教条的理解を戒 めつつ次のように指摘する。

規模に関する人間の要求には二面があるということである。ただ一つの答えと いうものはない。目的によって,小規模なもの,大規模なもの,排他的なもの,開 放的なものというふうに,さまざまな組織,構造が必要になる。… 今日,人びとは ほとんど例外なく,巨大信仰という病いにかかっている。したがって,必要に応じ て,小さいことのすばらしさを強調しなければならない『SIB』,85 ページ)。

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2 .「OFM 2008」における「経済」と「清貧」の現代的 意味

まず本資料の性格であるが,冒頭で言及したごとく哲学や神学の学術 論文ではなく,平易な言葉と表現で作成され,その読者対象は,あくま でも小さき兄弟会の総長ホセ・ロドリゲス・カルバッリョが「はじめに」

で記している如く,「本書の主たる目的は,生涯養成のための材料を兄 弟各人および兄弟共同体に提供することです(「OFM 2008」,5 ペー ジ)。」とあるように小さき兄弟会の信者層を主として想定している。し かし本資料には,現代世界を解読するいくつかの重要な分析ツールない し概念・思想が見出される。以下,本資料における「経済」の特質,そ こから生まれる「小さい」ことの意味および小さき人々と共に現代社会 に関与する根拠の 3 点を考察してみたい。なお必要に応じて本資料の原 典となった英語版からの英文を併記した。

2 - 1  「OFM 2008」における「経済」概念の特質 

「経済」とは何かを問う知的営みは,しばしば経済哲学や経済倫理の 分野から発せられてきたが,最もよく参照されるのがアリストテレスの

『政治学』における,共同体のメンバーの生活・生命維持に必要とされ る財の入手と利用を指す「家政術(oikonomike)」と,その必要を超え た財をさらに増やそうとする「貨殖術(chrematistike)」の区別であ る

(7)

。「OFM 2008」では明示的に経済概念は定義されていないが,小 さな兄弟会の経済活動は会憲第 72 条では所有の否定とそこから導き出 される「清貧」に限定されており,前者の家政学の経済概念に分類され るであろう。

第 72 条 (1)この世にあっては旅人,寄留の身である兄弟たちは,個人として

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の所有を放棄し,会則に従って,家も,土地も,他のいかなるものも,自分のも のにしてはならない。 それゆえ自分自身と,生活および活動のために使うすべて の物を,貧しさとへりくだりをもって,教会と世界への奉仕のために役立てる。

(2)兄弟たちのために建てられる建物,および兄弟たちが自分たちのために買っ たり,使用したりする物は,その地域と時代の状況に応じて,清貧にふさわしい ものでなければならない(「OFM 2008」,129 ページ)。

そして,「貧しさ」の意味の時代的変遷を次のように解説する。

現在,多くの言語で一般的に用いられている「貧しい」という言葉は,もっぱ ら経済的な状態,つまり,お金を手に入れる手段がない状態を指します。そして,

中世において「貧しい」とみなされていた人々の中のある人々は現代では必ずし も貧しいという表現が適切ではないようです。現代では,身体障害者ではあっても,

経済的に困っていない人もいます。ハンセン病の感染者でも,場所によっては,

発病しない治療を受けることができます。今日の外国人は,居住国ではかなりの 社会的地位を持っているかもしれません,あるいは,逆に全く何の保護もなく,

弱い立場であるかもしれません。今日巡礼に,特に遠くまで出かける人々は,他 の多くの人々よりもはるかに経済的に豊かであるかもしれないのです。

これらのことはすべて,私たちが現代の現実を理解する必要があることを示し ています。それは,貧しさの現実が 13 世紀と 21 世紀とでは違っていることを考 慮せずに,単純にフランシスコの行為を繰り返す,一種の「フランシスカン原理 主義」に陥るのを避けるためです。私たちが,会則を作ったフランシスコとその 兄弟たちのように,現代の貧しい人々と連帯したいのならば,自分の暮らす国や 地域では貧しい人々とは具体的にどういう人たちを指すのかを知らなければなり ません (「OFM 2008」,167-168 ページ)。

(16)

ここで注目しなければならないのは,小さき兄弟会のメンバーは持つ ことを自ら拒否しているが,時代の社会的関与においては,生存のため の小さき人々の所有を支援している点である

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「OFM 2008」では,今日のブラジルの土地紛争に対して平和を模索 するOFMの関与の事例が以下のように分析・考察されている。

ブラジルは多くの貧しい人々を抱えた豊かな国です。貧困と,一握りの金持ち

(億万長者)と多くの貧しい人々との間のひどい格差の構造的な原因の一つは,土 地が一握りの人々の手に集中していることにあります。こうした状況の中で,地 方では 400 万もの家族が,社会の片隅で土地を持たずに,あるいは持っていても ごく狭い土地で,非人間的な条件のもとにかつかつに暮らしています。ここ数年 間に,田舎から大都会に移ってきた人々の数が増え,スラム街の規模も失業率も 暴力の件数も増大しています。

1950 年以降,ブラジルのカトリック教会は,フランシスカンの司教イノセンシ オ・エンゲルケの要請を受けて,農地改革の必要性を主張してきました。それは,

神の御言葉に忠実に,しかも教会の社会教説に促されて,行われたものでした。

今日,田舎の貧しい人々は,この選択肢を得て,土地の所有権と尊厳のある生活 を求めて一丸となって戦うように励まされています。

このような教会の後押しと社会状況の中で,「ブラジルのアジジの小さき貧者の 弟子たち」と称するグループは,土地を持たない貧しい人々と生活と目標を分か ち合うように求められていると感じています。つまり,彼らと連帯し分かち合い ながら,彼らを助けることです。ある兄弟たちは,貧しい人々の暮らす社会環境 に身を置き,彼らの喜びや希望,悲しみ,苦しみを共にしています。私たちは小 さき兄弟として,田舎の貧しい人々の土地を求める戦いに参加し,それが実現し てからも,ずっと彼らとそこに留まります(「OFM 2008」,67-68 ページ)。

かくして,「OFM 2008」における「経済」とは貧しい人々が本来も

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つ尊厳ある生存のために必要な手段の充足であり,これらの人々ととも に生きようとするOFMのメンバーの活動を支える最小限のモノとの関 係を指す。したがって,OFMメンバーによっての「経済」はモノの分 かち合いはするが,「物品や金銭やいかなる貯めこみ(accumulate)を したくない(「OFM 2008」,139 ページ)」というモノや貨幣の増殖を 狙いとしない。  

そこでは,あくまでも「清貧」を生きるための手段として,「経済」

が次のように位置づけられている。

現代の用語で,また,兄弟としての私たちの生活の枠内で使われる「清貧」(そ の歴史的な重要性のゆえに,恐らく私たちが手放すことのできない清貧)という 言葉は,ものが完全に欠乏している状態を指すものではなく,むしろ,世界に広まっ ている消費文化に対抗する姿勢としての,責任ある正当なものの使用,つまり,「足 るを知る」という態度を指します(「OFM 2008」,138-139 ページ)。

したがって,ここでの清貧とはいずれ富裕層になることを目指すため の過度期を正当化するための世俗的方便ないし単なるコスト削減による 節約ではないことを意味する。

2 - 2  「小さい」ことの意味

小さき兄弟会はラテン語では Ordo Fratrum Minorum と表現され るように,「小さい」とは英語では minor と訳され , minor は一般的に はマイナー,少数者などと訳されている。この表現からわかるように,

「小さい」とは必ずしも規模という計量可能なモノやコトを対象として

いず,時代と場所(place)によって変化しうる当該社会の弱者や貧者

や排除されている人などの属性ということができるであろう。この属性

はあくまでも人間に使われ「小さき人」が問題となる。そして,この小

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ささ(minority)は何よりも神と他者と被造物(creation)との関係 性の次元で理解,表現される(「OFM 2008」,17 ページ)。

そこでは「私たち小さき兄弟たちにとって,小ささが貧しい人々や謙 遜なキリストに従う手段であるならば,小ささには,父なる神との関係 や人間関係や貧しい人々との関わり方も含まれなければなりません(「O FM 2008」,19-20 ページ)」という原則から「貧しい人々」が認定さ れている。

本稿では「小さき者」にまつわる神学的解釈よりも

(9)

「OFM 2008」

における現代世界の「経済」を解読するという視点から,「OFM 2008」で言及される,OFMが創設された 13 世紀の「貧しい人々」と 現代における「貧しい人々」とは誰なのかを見てみることとする。

まず未裁可会則の同じ 9 章と記載されている 13 世紀における「貧し い人々」の範疇は次の通りである

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Viles :価値の低い人々(しばしば身体的にまたは社会的に障害を負った人々を 指す)

Despectas personas :卑しい身分として見下された人々

Pauperes :「生産性の低い」という語源で,自立できない,困っている人々を 指す

Debiles :弱者(身体障害者,虚弱者,知的性格的な弱者,権利を持たない者)

など

Infirmos:強くない者(弱く,脆弱で,病気の人など)

Leprosos :ハンセン病患者

Juxta viam mendicantes:「道ばたで」物乞いをする者(たいていの場合,身 体に障害を負っていることによる)

(「OFM 2008」,166-167 ページ)

(19)

現代世界の「貧しい人々」は「OFM 2008」では各項におけるOF Mのメンバーが直接関与する具体的な実践の場での紹介欄の「体験の分 かち合い (shared experience)」で見出すことができる。これらの人々 は次のように実に多様な地域にまたがり,かつ多様であることが理解さ れる。以下これらの地域を参照された各項とともに列挙してみると,次 のように世界各地に散在している。

―  モロッコのメクネスでイスラム教徒,イタリアのプラートでジプシーキャン プ在住者,フランスのリヨンでは無料食物をうけとる人々(第 1 項)

―  ルワンダ,南アフリカの黒人,ブラジルの土地なし農民(第 2 項)

―  フロレス島農民,アマゾンの先住民族(第 3 項)

―  コロンビアの内戦避難民,リビアの住民,ドイツのケルンでのトルコ人やク ルド人(第 4 項)

―  タイのHIVエイズ感染者,ブラジルの路上生活者,イタリアのミラノでの 無料食事を受ける人々(第 5 項)

―  ベトナム各地での国家による公共サービスを十分受け入れられない人々(第 6 項)

― スペインのアランサスでの薬物依存者(第 6 項)

― アルゼンチンのマルデルプラタの貧困家庭(第 6 項)

いずれも自分たちのおかれた状況を所得や公共サーヴィスの欠如ゆえ に自らの生活改善ができない,今日私たちが一般的に了解する「貧困層」

の人々であることが理解される。

2 - 3  自発的貧困の選択

「OFM 2008」から読み取れる「小ささ」に関する大きな特徴は現代

世界一般で了解されているこのコトバから来る「貧しさ」が二義性を担っ

(20)

ていることである。ひとつは前項で見た所得の不足や身体の疾病や障害 などによって尊厳ある生活を確保されていない人々の貧困であり,他方 ではこれらの人々と共に連帯する「小さき兄弟」たち自らが積極的に選 択する貧困である。「OFM 2008」ではこの 2 つの貧困は本資料が訳出 された英語版では同じ poverty が使用されているが,日本語版では 文脈によって「貧しさ」となったり,「清貧」になったりしている。こ の自ら「貧しくなる」ないし「小さくなる」という行為はフランシスカ ン的在り方として次のように明示される。

小ささは,フランシスカン的なあり方であり,行動様式(way of being and acting)です。それは,フランシスカン的なキリストへの従い方であり,聖フラン シスコの模範に倣うことです。それは,あらゆるフランシスカン的な価値(祈りと 献身の精神,兄弟的な交わり,清貧,福音宣教(the spirit of prayer and devotion, fraternal communion, poverty, evangelization)を特徴づける様式 なのです。ゆえに,小ささは,さまざまな時代に,さまざまな場所で,さまざま な生活の条件下で,「新しく生かされる」ことを必要とします(「OFM 2008」,

25 ページ)。

したがって,「OFM 2008」における「小ささ」は小さき兄弟にとっ ては自ら自発的に選び取る清貧さを生きるために「小さく」なるという 行動様式を示すためにも使用される。この世俗社会の最中に貧者を積極 的に求めて,共に生きようとする姿勢の歴史的原点についてヨーロッパ 中世史家のJ. ル・ゴフは『中世と貨幣―歴史人類学的考察』で当時の フランシスコ修道会の主張を「意志的貧困(pauvreté volontaire)の 原理の重視」と特徴づけた

(11)

さらに「OFM 2008」は,現代社会における個人的成功や昇進に邁

進する自活活動に立った人間像とは異なる仕方で偉大になるべきとし

(21)

て,その偉大さは「自律とか生産能力で測られるものではありません。

むしろ,大人度は,自分自身を小さくすること,そして,すべての人の 僕となる(becoming the servant of all)ことによって測られます(「O FM 2008」,41 ページ)。」として世俗的社会昇進や栄誉と福音書によ る偉大さとを峻別している。

3.2 つの資料から見えてくる現代世界の課題

以上 2 つの資料における「経済」の位置づけの特質を見てきた。では こうした「経済」概念からはどのような現代世界が直面する課題が見え てくるのだろうか。本章では①上位規範による社会現象の解読,②身の 丈の生活と生産活動の復権および③地球環境の修復という 3 つの課題を 2 つの資料から提示してみたい。

3 - 1  上位規範による社会現象の解読

冒頭に述べた如く,『SIB』も「OFM 2008」もいずれも「小さい

(small, minor)」人々やその生活,生産に注目しており,『SIB』のサ ブタイトルは「人間中心の経済学(A Study of Economics as if People Mattered)」で,「OFM 2008」ではこの地上での「持たない人々」を 考えさせるべく「現世においては旅人であり寄留の身である(Pilgrims and Strangers in This World)」となっている。

シューマッハにおける経済学とはすでに見てきた如く,標準的な経済 学とは異なるいわば「異端の経済学」である。そこでは経済はあくまで も自己を開花させるという目的を実現するための手段

4 4

に過ぎない。他方

「OFM 2008」での経済も,神への帰依を目指して生きる人間の活動を

支える手段に過ぎない。いずれも,この世の人間の生きるイミを霊性や

神の教えといった上位規範に求めている。『SIB』では仏教経済学が

(22)

第 4 章で言及され,仏教思想の八世道における「正しい生活」をその倫 理的規範としている。「OFM 2008」でも「小さき人々のための章であ る会憲の第四章についての資料(「OFM 2008」,9 ページ)」の作成目 的は,アシジのフランシスコの清貧思想の実践である。

いずれも「経済」活動とは生きる規範である「よりよく生きるため」

の手段に限定されている。『SIB』では仏教経済学とは何か,という 設問で,現代経済学が生活水準の上昇とそのための貨幣所得の増加を自 明の理として「豊かさ」の基準としているが,シューマッハによればこ の豊かさの評価について「多く消費する人が消費の少ない人より「豊か である」という前提に立って,年間消費量を尺度にする(『SIB』,74 ページ)」「常識」を批判して,次のように仏教経済学者からの見解を述 べる。

この方法(年間消費量,筆者注)は大変不合理である。そのわけは,消費は人 間が幸福を得る一手段にすぎず,理想は最小限の消費で最大限の幸福を得ること であるはずだからである(『SIB』,74 ページ)。

『SIB』における仏教の教えからする上位規範としての「幸福」は,

「OFM 2008」ではアシジのフランシスコの教えによる「清貧」思想に

よって示される。本試論では『SIB』における仏教経済学とフランシ

スカンニズムの教義の比較は論考の目的ではなく,また私の能力を超え

るテーマであるので言及しないが,当面言えることは,いずれも標準的

な経済学ではその学問領域を一端離れないと見えてこない,しかし現代

世界における「豊かさ」や「貧しさ」のイミを解読するためには極めて

重要な思考次元から論じられている。

(23)

3 - 2  身の丈の生活と生産活動の復権

『SIB』においても,「OFM 2008」においてもそこに登場する「人 間」は抽象的な「人類」でも,利便性に応じて形成された高度の市場経 済の中に埋没した「個人」でもない。生きるために自ら体得した身体機 能と判断を駆使して営まれる日常生活や生産活動を担う生身の人間であ る。生身の人間とは体力の限界といずれ死ぬという有限性を逃れられな い存在である。現代世界ではこの人間が生まれて,生きるときから背負 う人間条件が見えにくくなり,なぜ生きるのか,なぜ働くのか,といっ た生きるコトのイミづけ,ないし目的を正面から問うことが希薄になっ ている。シューマッハに言わせれば「経済学は絶対・不変の真理性をも つ科学であり,それには何の前提もない」とあり, 「「形而上学」ないし「価 値」と無縁であるという主張をしている(『SIB』,69-70 ページ)」経 済学者がいるのであると,効用の次元を超えられないこの分野を皮肉っ ている

(12)

。したがって,身の丈の経済を考えるとき,形而上学や価値 からの考察は不可避であり,小さき兄弟会における経済の位置づけと重 なっている。

「OFM 2008」ではヨハネ・パウロ 2 世,1992 年 7 月 14 日の第 35 回イタリア司教協議会総会での講話を引用して「私たちは,個人として また共同体としての存在の基盤を,有限で当てにならない人間の努力に ではなく,聖霊の無限の豊かさに置くように求められているのです(「O FM 2008」,42 ページ)。」と「自分自身を小さくすることは,キリス ト者としての成熟の証です(「OFM 2008」,41 ページ)。」

(13)

という 節で身の丈の自分に戻って考えることの必要を説いている。

そして現代世界を特徴づける高度かつ複雑な技術も 2 つの資料におい

て,いずれも生身の人間が自らの目的を達する手段として適切か,また

は逆にその選択を妨げるものかという問いから検討されている。『SI

B』の第 3 部第 2 章では,いまだ人々の生活上の物資的ニーズが満た

(24)

されない「途上国」にあって,いきなり外国や政府から高度な技術を人々 に移転しようとするのでなく,身の丈の人間でもアクセス可能な技術を 推奨し,それを「中間技術」と呼んだ

(14)

。さらにシューマッハによる 仏教経済学によれば,「機械化には二種類あって,それははっきりと区 別しなければならない。第一は人間の技能と能力を高める機械化であり,

第二は人間の仕事を機械という奴隷に引き渡し,人間をその奴隷への奉 仕者にしてしまう機械化である(『SIB』,71-72ページ)」としている。

そこからは技術水準とはまずすべての人々が職を得られる中で決めら れ,生産性の名において生み出された技術が職を作るのではないという,

技術と人間の逆転関係が示唆されている。

他方,「OFM 2008」では小さき兄弟会の行動様式を支える技術とは 基本的には小規模農業,家屋の補修,「小さき人々」に対する対面ケア などいずれも身の丈の技術とスキルである。2 つの資料における技術は 普通の人々がすぐには理解も考案もできないように細分化され,専門用 語化,記号化,複雑化された少数のテクノクラートによる現代世界の管 理と方向づけに供される技術体系の対極にあるといえよう。

技術とは,もともと人間を豊かにするための物資的条件を満たす経済 活動を支える道具ないし手段であった筈だ。しかし,いつの間にか技術 のほうが人間世界をシェープし,方向づけだしているという,現代世界 における人間と技術の関係の逆転現象の危機を,これらの資料は説得的 に示唆してくれている。

3 - 3  地球環境の修復

この 2 つの資料はいずれも,地球環境という思考次元を設定し,小さ き人間が生き残れる自然環境の在り方を照らす現代世界の読み方を示唆 している。

『SIB』は 1960-70 年代,「OFM 2008」は 2000 年代と時代背景が

(25)

やや異なるが,いずれも再生不可能な資源の枯渇,工業化による自然環 境の破壊など現代世界の地球環境問題に言及し,その修復の必要を説い ている。『SIB』では,もっとも簡潔にシューマッハの自然環境観を明 示している言葉を現代世界の経済を解読するという視点から,2 つのみ記 しておこう。ひとつは「物的資源の中でいちばん偉大なものは,疑いもな く土地である(『SIB』,133 ページ)」で始まる第 2 章の「正しい土地 利用」において,「人間は開化されていようと,野蛮であろうと,自然界 の子であって,自然界の支配者ではない。人間が自然環境において支配 を保とうとするならば,その行動を一定の自然法則に順応させなければな らない(『SIB』,133 ページ)。」と生態学者のトム・デイルとヴァーノ ン・ジル・カーターの『土と文明』を引用している。これは自然環境ひい ては地球環境を,人間世界が生んだ市場原理と高度な技術によって利用 や保全できるという今日支配的な人間中心主義(anthropocentrism)と も呼べる思想とは逆のシューマッハの環境思想を明示している。

もうひとつは「財 goods」の性格を市場価格と消費向け用途からで なく,自然から生まれる富の源泉から規定して

いることである。標準的経済学で区別される「生 産財」と「消費財」といった市場価格では同等 に扱われる財を,シューマッハは右下の図のよ うに,大地から生まれる第一次財とそれを加工 して生まれる第二次財とに区別している(『SI B』,65 ページ)。

この分類によれば,第一次財は人間の活動に不 可欠な大地からの直接エネルギー摂取で,第二次 財はそのエネルギーで得た加工能力によって生ま れた財である。ここで直ちに想起されるのはフラ ンソワ・ケネー(1694-1774)が農業王国フラン

財 再生不能財   ⑴再生可能財   ⑵

工業製品    ⑶サービス    ⑷ 第一次財第二次財

(26)

スの「富」の生産を循環として表にした「経済表」における,農業部門 こそが純生産(produit net)を生むという経済思想である

(15)

。日本で は経済史において当時の富の形成の説明を,重商主義に対するケネーた ちの重農主義(phisiocratie)という論争で整理されることが多いが,

大地のみが富を生むという地力主義として考察すると,シューマッハの 主張する財の性格の現代的意味がより明確になる。

「OFM 2008」では第 3 章の「被造物の擁護者」において明示的に,

現代世界に支配的な市場と科学技術による個人と社会の編成原理の限界 を地球エコロジーの観点から言及している

(16)

。そこでは,まず,「歴史 を経るうちに,人類は地球という惑星の生態系を根底から変え(「OF M 2008」,89 ページ)」たという認識から,その結果生じた自然に対す る暴力ないし破壊行為を「変性化した(denaturalizing)(「OFM 2008」,89 ページ)」として表現している。その具体的な現代世界の現 象の事例として「山や川,海,森林の汚染,多くの種類の動植物の絶滅,

「変性化した(denaturalizing)」食物,軍備(化学兵器や生物兵器,大 量破壊兵器)増強に伴う危険,天然資源の枯渇,地球温暖化,バイオ技 術によるリスク(疫病を誘発する遺伝子の組み換えや変形)(「OFM 2008」,90 ページ)」を挙げている。

そしてこの環境危機を懸念する根拠として,シューマッハの環境思想 と同様,以下のようにエコロジーとキリスト教の関係を明記している。

人間は自然界とすべての被造物がそうであるように創られたものです。人間だ けが善なのではなく,すべての被造物と生態系が善なのです。地球と地球にある すべてのものは,人間に属しているのではなく,神に属しています。人間は地球 の世話人にすぎません(Men and women are its stewards.) (「OFM 2008」,

93 ページ)。

(27)

さらに,アシジのフランシスコのエコロジー思想を「自然と友達であ り,調和していましたが,それは神学的な理由によるだけでなく,彼が 本来持っている傾向,温かさ,本能的な友愛感にもよるものでした(op.

cit., 96 ページ)。」として提示し,フランシスコの神を賛歌した「兄弟 なる太陽の歌」を「被造物は神の愛の現れ(op. cit., 96 ページ)」とし て言及している

(17)

むすびにかえて:コロナ危機下から身の丈文明を探る 

以上,現代社会の「経済」なる言葉を 2 つの資料を通してどのように 意味づけが可能かを試論的に考察した。この試論では,私たちが「経済」

と呼んでいる行為や思考による自分,他人,ひいては自然との間にはど のような関係が形成されているのかが大きな問いとなった。しかし,資 料の限定性ゆえにこの大きな問いに明確に答えるにはそこで展開された 思考はあまりに不十分である。折から,世界では程度の差こそあれ,

2020 年初頭から新型コロナウイルスの広域感染によるいわゆるコロナ 危機が発生・拡大してきている。日本では,対策として人の移動と身体 的密着・接近の制限という未曽有の社会的実験が試みられている。政治 レベルでは移動制限によるビジネスの収縮現象を前に,「経済」優先か 感染症対策優先かという政策論議が活発化している。こうした新たな劇 的時代背景も念頭において,最後に今後の課題として,この試論からよ り明確に見えてきたいくつかの切り口を 2 点に限定してむすびにかえた い。

まず第一は,地球環境の劣化,より具体的にはその結果確認されてい

る地球温暖化である。18 世紀のヨーロッパの産業革命以来,世界に拡

散したおびただしいモノの生産と移動を生む経済活動は,二酸化炭素を

減らす原則は広く受け入れられても,実際に人類が生き残れる地球を残

(28)

すための具体的な実践は,企業や個人の次元では遅遅として進んでいな い。なぜなら,未曽有の物質的富を生産し,消費し,廃棄する巨大化し たグローバル経済システム自体を根本的に問い,誰もがその社会におい て取り残されることのない経済システムはいまだ未完だからである。企 業や市民によるSDG s,ESG投資,消費者によるエシックな商品購 入,断捨離による簡素な生活

(18)

などは,いずれも生身の人間の判断を 超えたこの巨大なシステムの進行に目に見える形での変更を迫るまでに 至っていない。

私たちは 20 世紀に入って,非西欧世界での社会主義国の登場の栄光 とその後の現実を知った。今や「歴史的社会主義」とも呼ぶべきこの巨 大化したシステムの運用・濫用の実態を知れば知るほど,グローバル資 本主義に替わる 21 世紀の地球環境保全型の経済システムのモデルにな りうる可能性は遠ざかる。より少ない格差,暴力,抑圧とより多くのケ アと自然の恵みを万人に確保できるシステムにおける「経済」とはどん な性格と範囲を持つのか。

2016 年,教皇フランシスコはその 『回勅ラウダート・シ』において「聖 フランシスコは,総合的な(integral)エコロジーが,数学や生物学の 言語では言い表せられない実在領域への開きを求めるものであり,人間 であることの核心へとわたしたちを連れていくものであることを理解す るのも助けてくれます。

(19)

」とアシジの聖フランシスコの教えに言及し,

そこから生まれる節制や気遣い(care)について,「聖フランシスコの

貧しさと簡素さは,禁欲生活の単なる外観ではなく,はるかに徹底した

ものであって,現実を利用や支配の単なる客体におとしめてしまうこと

への拒絶なのです。」と言明している

(20)

。かくして信仰の世界からも発

せられる「どんな世界に人間は暮らすべきか?」という問いは,地球温

暖化をくい止め,未来の世代に残せる地球環境を実現することを可能に

する世界とはどんな秩序を必要とするのかという体制論からの考察は避

(29)

けては通れない課題となろう。コロナ危機はこうしたグローバル資本主 義による環境負担の限度が国際社会で明確に守れていない状況下で生じ ていることだけに,この課題の緊急性は高いと思われる。

第二はこのグローバル資本主義を支え,加速化させているIT/AI に代表される技術と人間の関係である。本試論では第3章2項において,

人間のための技術がいつの間にか新技術に適応する人間の訓練という技 術と人間の関係の逆転現象が,IT/AIがますます進化する中で顕在 化している点に言及したが,いささか不十分である。IT/AIによる 人間行動の未来の予測性,そのための社会設計の試みが身の丈の人間が 自由かつ尊厳をもって生きれる世界構想と両立可能なのかは,やはり人 間の定義を巡る問題と重なり今後の大きな課題である

(21)

。どの技術が 個人や社会や自然にとって望ましいのか,あるいは望ましくないのかの 判断は技術分野の専門家に任すのでなく,どんな世界に住みたいのかと いう誰もが問える未来への信頼関係から引き出されるべきであろう。例 えば,本試論では明示的に考察できなかった原子力発電エネルギーにつ いても『SIB』の第 2 部「資源」の第 4 章「原子力―救いか呪いか―」

において,シューマッハは 1960 年代にすでに,放射能物質の廃棄問題 など未解決なまま推進されることは生命そのものに対する冒涜であり,

それに立った文明は倫理的にも形而上学的にも許せないと明言してい る。その後チェルノブイリ事故(1986 年),フクシマ事故(2011 年)

などにもかかわらず,いまだ多くの論点はエネルギー需要の「経済」計

算の次元にとどまっている。それどころか,コロナ危機下でも情報の大

量,高速,広域の移動に立つIT/AI作業によってヒトの移動制約を

克服し,経済を継続かつ再活性化できるというデジタルユートピアさえ

登場してきている。かくして,この世界の非人間化,自然の変性化(「O

FM 2008」)に対して小さき人々からなる身の丈地球文明の輪郭と展望

を体制論からも考えることは困難ではあるが,大切な思考課題と思われ

(30)

る。

謝辞 

本稿執筆にあたり,参照テキストの英語版などについてアドヴァイス をいただいたフランシスコ会日本管区の方やドラフト段階で丁寧な,し かし鋭いコメントをいただいた査読の方々に感謝申しあげます。本稿の 誤認や脱漏などはすべて筆者の責任です。

( 1 ) http://augusutinusu-t-ukon.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-1bc6.

html (2020 年 10 月 18 日閲覧)

( 2 ) 小島慶三・酒井懋訳,講談社学術文庫,2012 年,原書は,E. F. Schumacher, Small is Beautiful A Study of Economics as if People Mattered, Blond and Briggs, 1980

( 3 ) 本稿の「OFM 2008」引用は日本語版であり,英語版は用語・表現につい てのみ適宜明示した。日本語版「OFM」は http://www.ofm-j.or.jp/doc/

Pilgrims-and-strangers-JP(A5).pdf(2020 年 8 月 31 日参照)。英語版は 次の通り。PILGRIMS AND STRANGERS IN THIS WORLD Resource for Ongoing Formation From Chapter IV of the OFM General Constitutions http://www.ofmjpic.org/wp-content/uploads/2018/09/2_

Pilgrims-and-strangers-in-this-world_2008.pdf

( 4 ) Michel Feuillet, Vocabulaire du christianisme, Que-sais-je?, PUF, 2001, 54 ページ

( 5 ) カール・ポランニー, 吉沢英成・野口建彦・長尾史郎・杉村芳美訳,『大転 換―市場社会の形成と崩壊』 東洋経済新報社,1975 年

( 6 ) 例えば,日常生活の中に現代資本主義の諸相を解読しようとした哲学者アン ドレ・ゴルツは,この道具的理性について「道具的合理性の支配的影響力は,

(31)

日常的な道具の機能性だけでなく,様々な椅子やテーブル,家屋,街角,交通 手段,都市景観,産業用建造物,音,照明,素材といった,私たちの身体のた めにつくられたはずの居住空間の機能性の中にも刻み込まれている」と記して いる。アンドレ・ゴルツ,真下俊樹訳,『労働のメタモルフォーズ―働くこと の意味をもとめて 経済的理性批判』,1988 年,151 ページ,(一部筆者により 訳変更)

( 7 ) 経済思想史の塩野谷裕一は,アリストテレスの経済哲学におけるこの 2 つの 経済を簡潔に次のようにまとめている。「アリストテレスにおける良き生・欲 望・必要・希少性・交換・公正・価格などの経済に関する一連の概念は,すべ て共同体としてのポリス(都市国家)を思考の枠組みとしており,経済とは,

共同体における必需品の確保と配分を行う制度化された過程を意味した。いく つかの重要な論点を挙げよう。第一に,人間の欲求は制度や慣習を前提として おり,共同体の基準の下では無限ではない。したがって,有限の資源と無限の 欲求との間の緊張・対立の関係から生ずる「希少性」の概念はここには妥当し ない。アリストテレスは共同体の維持にとって必要な財の獲得と使用を「家政 術」と呼び,それ以上の財の獲得と使用を「貨殖術」と呼び,両者を区別した。」 

http://kakeiken.org/journal/jjrhe/82/082_09.pdf (2020 年 9 月 12 日閲覧)

( 8 ) フランシスコ会士の伊能哲大は「フランシスコの示す「無所有」はむしろ,

本来所有権を有するのは絶対的に貧しい者であり,所有する者は彼らから一時 的に借りているにすぎないことを示すものである」と述べている。「フラテルニ タスの与える希望」,連載「現代に挑戦するフランシスコ」,『福音宣教』,2018 年 2 月号,53 ページ。

( 9 ) 実際,「OFM 2008」でも,貧しさとは何かという問いについて「忘れては ならないことは,フランシスコが貧しさよりも貧しい人々を好んだということ です。貧しさとか清貧について抽象的な議論をすると,行き詰まってしまいま すが,貧しい人々について,彼らと生活を共にすることについて話すならば,

具体的で,フランシスコの基盤となっている直観にたどりつくことができます

(32)

(「OFM2008」,139ページ)。」と,まずは貧しい人々に接することを説いている。

(10) 下記に掲げる貧しい人々のリスト以外に,さらに末尾には,「「全能の生ける 神の子,私たちの主イエス・キリスト」,貧しい人,しかも寄留者(訪問者,客 人,外国人)にましまし,施しによって生活された方,そして処女マリアと使 徒たちも含まれます(「OFM 2008」,167 ページ)」と追加が付記されている。

(11) 井上櫻子,藤原書店,2015 年,258 ページ。また 13 世紀のアシジのフラン シスコなどによる貧者への歩み寄り活動の社会史については例えば,日本語訳 は刊行されていないが「中世の貧者たち―社会研究」”Les pauvres au moyen âge - étude sociale” (Hachette, 1979)と題するヨーロッパの中世社会研究 者の Michel Mollat の研究を参照。

(12) 欧米の経済・社会思想史においてどのように功利的人間像が出現したかをたどっ た作品の書評論文として,勝俣誠,「クリスチャン・ラヴァル,菊地昌実 訳, 『経済 人間:ネオリベラリズムの根底』,新評論,2015 年, Christian Laval, L’HOMME ÉCONOMIQUE: Essai sur les racines du néolibéralisme,Gallimard, 2007 年」明治学院大学『国際学研究』第 52 号 , 49-57, 2018 年,を参照。

(13) ”Making oneself small expresses Christian maturity” 29 ページ, 「小さ い」ここでは,「small」が使用されている。

(14) 技術の性格を生身の人間から再考する「技術と人間」というテーマは日本で は手段の中にすでに潜む未来の理想像があるのではないかという 1960 年代か ら 70 年代にかけての反公害や反原発運動とエコロジー思想との関連で論じら れた。当時のフランスにおいての事例報告については,勝俣誠,「エコロジー団 体は 5 月革命の嫡子―噴出 した『反管理』の思想」,『朝日ジャーナル』,1978 年 6 月 30 日,を参照。

(15) フランソワ・ケネー, 平田 清明 / 井上 泰夫訳,『経済表 (〔改版〕)』岩波書 店,2013 年 ,および,地力主義に関しては労働価値説よりも環境内経済を考え た,書評,勝俣誠,「南北問題のパラダイム―『等身大の生活世界』を読む―」,

書評特集:〈地域〉に根ざし〈生命〉を大切にする広義の経済学のすすめ(『玉

参照

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