著者 トローヴィッチュ ミヒャエル, 稲山 聖修
雑誌名 基督教研究
巻 73
号 1
ページ 1‑11
発行年 2011‑06‑27
権利 基督教研究会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013145
現代社会に対して
カール・バルト神学が意味するもの
Die Bedeutung der Theologie Karl Barths fuer heutige moderne Gesellschaften
ミヒャエル・トローヴィッチュ
Michael Trowitzsch
稲山 聖修 訳
Kiyonobu Inayama
翻訳者による解説
本稿は、2011年1月12日(水)に、同志社大学神学部・神学研究科主催、同志社大 学一神教学際研究センター(CISMOR)共催のもとで、同志社大学神学部・神学館に おいて行われた公開講演「現代社会に対してカール・バルト神学が意味するもの」の ドイツ語草稿の日本語訳である。講師であるミヒャエル・トローヴィッチュ氏は、
1945年に生まれ、テュービンゲン大学、チューリヒ大学などで、とくにエーベリング とユンゲルに師事した後、テュービンゲン大学にて博士号、教授資格を取得した。そ の後、牧会を経て、1983年、ミュンスター大学組織神学教授としての働きの後、1993
−2010年には、イェーナ大学教授として研究・教育に従事し、学部長などを歴任し、
現在は名誉教授として後進の指導に携わっている。トローヴィッチュ氏の研究分野は シュライアマハー、ボンヘッファー、バルト、ハイデッガー、解釈学などに及ぶ。
講演の序
尊敬する同僚の皆様、お集まりの敬愛する皆様。 私は、「現代社会に対してカー ル・バルト神学が意味するもの」というテーマについて皆様にお話しできることを心 から感謝します。全く異なる文化圏出身のヨーロッパの神学者として日本の聴衆の前 で講演することは、私には名誉なことであります。私は、同僚である水谷教授、なら びに石川教授に感謝します。お二人は、私をこの場に招いてくださりました。皆様も
おそらくはご存じの、ドイツ人の気の弱い教授に関する逸話があります。このドイツ 人教授はアメリカ合衆国に招待され、そして講演を始めました。10分後、前から5列 目の席からひとりの屈強な男が立ちあがります。手には大きなリボルバー式拳銃を 持っています。教授は途方もない不安を抱きます。男はリボルバー式拳銃を持って 言うのです。「心配ない。私が探しているのはまさにあなたをこの講演に招待した男 だけなのだ」。お集まりの皆様、私が希望するのは、このような状況が避けられるこ とであります。もっとも、私の講演の第二部では、現代社会に関わる場合、皆様には 恐らく他人事のように、あるいは不愉快に思われる種々の意見を表明いたします。恐 らく皆様は、直接にカール・バルトを扱った第一部は、それほど刺激的であるとは思 われないでしょう。私は、この講演について皆様から、ご意見をいただくのを楽しみ にしております。
第一部 カール・バルトの神学
さて、カール・バルトの神学です。私は直ちに言わなければなりませんが、とりわ け現代日本社会にとってこの神学が意味するものは、推測するに現代の西洋社会に とっての意味と、それほど異ならないように思えます。全く同一ではありませんが、
大きく異なるわけでもありません。もしそうであるならば、日本社会の現実にもあて はまる何がしかのことで、このドイツの神学者はおそらく貢献することができるので す。
ところで私は、(1886年から1968年までスイスおよびドイツに生きた)カール・バ ルトの神学を並はずれて高く評価していることを、同時に告白いたします。バルト神 学は、ヨーロッパ近代全てにおける、最も重要かつ説得力に満ちた、賢明な神学であ ると見なしているのです。マルティン・ルター以降、私は思うのですが、これほどま でに徹底して聖書に方向づけられ、深く生の経験、そして世界の経験を比肩しうる仕 方で言い表した神学、そして一義的で明晰にキリスト教的な神学であった神学はあり ませんでした。私は思うのです。キリスト教神学に全面的に着手し、格闘しようと意 志する者は誰であれ、キリスト教神学の、この二つの非常に重要な刻印である、マル ティン・ルターとカール・バルトを看過することはできません。正真正銘のキリスト 教信仰の何たるかは、両者から、一層積極的に学べるのです。
皆様もおそらくはご存じの通り、カール・バルトは膨大な著作群を産み出しまし た。大量の講演、論文、説教、信仰告白文書、その他の神学テキストまた内容豊かな 手紙です。しかしとりわけ名をあげられるべきは、偉大な主著である、『教会教義学』
です。『教会教義学』は1932年から1967年にかけて執筆され、未完成ではありながら
も、10,000頁を超えるテキストを有しています。それは、思想的な力、学識、粘り強 い解釈のわざを有する驚異的な作品であり、これらの力や学識や解釈によって、バル トのテキスト群は、はっきりと開示され、理解されるのです。分量の点からしてすで に、バルトの膨大な著作群に比肩し得る神学的著作としては、全教会史において存在 していません。いずれにしてもさらに思い起こすことができるのは、おそらく中世の 神学者トマス・アキナスによる偉大な著作『神学大全』であります。見通し難いのは バルトについての二次文献であり、二次文献のタイトルのみがリストアップされた、
100頁以上の厚みを持つ書籍があります。世界に広がるバルト神学の受容には大変な ものがあります。そして、私は思うのですが、これは尤もなことなのです。
しかし、単なる分量よりも重要なことは、もちろんカール・バルトの著作の内容と 実質です。そして私は申しあげたいのですが、この神学者のもとで読みとれるもの は、徹頭徹尾キリスト教的であるという点です。むしろ私たちのテーマにとって重要 なのは、純粋にキリスト教的な事柄そのものなのです。この神学が、現代社会に対し て意味するものに関する問いにいたる前に、私はこの、とりわけキリスト教的な思想 を、今少し追求したく思います。この場合、キリスト教的な欧州という空間にとって 自明となっていることではなく、バルトの発見が問題となります。より的確には、再 発見、つまりかつて100年間にわたって、欧州において支配した思惟による抵抗に打 ち克ち、耐え抜いたところの再発見です。私は、この点を解説するために、今少し、
一層詳しく案内いたします。
バルトは、従来の神学が、全体として、ある特定の内的な方向づけを示しているこ とを発見します。この神学は、公然であれ密かにであれ、中心点を有します。この中 心から、この神学は思惟し、そしてすべてのこの神学の営みはこの中心点に通じてい ます。神学の対象であり主題であるこの中心点は、人間の宗教であり、宗教的人間そ のものです。確かに当然ながらその場合でも、神が重要であり、また神について大い に言及されうるのです。しかし、神に関して語られる事柄は、人間の宗教意識の限界 を超えることはできず、また超えてはなりません。この神学は、バルトの表現によれ ば、「人間を出発点にして」思惟するのであります。自明ではありますが無神論的に ではなく、宗教的人間、まさにキリスト教的人間を出発点にして思惟します。しか し、バルトの言及するように、この神学はまさしく「下から上へ」の方向にあるので す。神学は、宗教的な、キリスト教的−宗教的な意識の解明です。この思想に、最も 印象深く、そして最も影響を及ぼす表現を与えた、かのドイツの神学者は、フリード リヒ・シュライアマハー(1768−1834)でした。バルトの発見によれば、それは感銘 を与えるものです。しかし、聖書のテキストはまさしくそれとは異なる何かを語るの です。またそれゆえに、シュライアマハーに規定されたこの従来の神学は説教にも、
また同様に時代の出来事にも、適切に対応することができません。
では、どこに代替案が存するというのでしょうか。宗教や、キリスト教的−宗教的 人間は、真実のところ神学の中心には立ちません。しかし、それならば誰が、そして 何が。キリスト教的−宗教的人間およびこの人間の意識を出発点にしては、聖書のテ キストは正しく理解することができません。しかし、それならば、どのような仕方で 正しく理解できるのでしょうか。テキストそのものは何事を欲しているのでしょう か。言い換えれば、優れた新しい神学は、どのようなありようを見せねばならないの でしょうか。
神学の本来の対象であり、神学の真正のテーマは、バルトによれば、人間の宗教で はなく、神ご自身です。出発点として、それに向かうものとして考えられなければな らない中心点とは、神ご自身です。奇異に映りますが、これがバルトの単純な発見で した。神学は再び、神について語ることを最重要の事柄とする勇気を持たなければな りません。まさに聖書のテキストはこのことを行います。聖書のテキストは何かに言 及し、何かを指し示します。あたかも聖書のテキストは、腕をあげて、大げさな意思 表示によって何かを指摘するかのように、まさしく神ご自身を示すのです。聖書は無 制約の神を証言します。そして、幾度も幾度も無制約で自由な至上の神を証言しま す。テキスト自体そのようなものであり、またその通りに読まれることを欲していま す。それゆえに聖書の著者たちは、自らの信仰を語るのではなく、そしてその信仰を テーマにしようとしません。彼らは自らのキリスト教的−宗教的意識を語るのではな く、彼らが信仰する事柄を語り、信仰する相手について語ります。著者たちは自らを 指示せずに、他の何者かとその行為を指し示します。著者たちは神および神の諸々の わざを指し示すのです。それゆえ、神が神学の対象であり、テーマなのです。
バルトの洞察によれば、聖書のテキストは、下から上へ、ではなく、上から下にい たる運動に注意を向けるよういざないます。高みから、深みにいる人間のもとにいた る神の降臨、この世の深み、また、そればかりか死の深み、さらには神放棄の深みに までもいたる神の降臨に注意を向けるよういざなうのです。上から下へというこの運 動―これは神の啓示です。神はご自身を開き示すと聖書は語ります。神はご自身を解 き明かし、ご自身を明らかにします。神は自らを示すのであり、隠れたままではおり ません。神について何事かを言及することができ、多くを語ることができるのです。
神が語ります。バルトは古ラテン語の表現である「神ガ語リタモウ」(Deus dixit)と いう表現を好んで用います。これの意味は次のことです。決定的な何かがあります。
この何かは端的に言って確実なもの、完全なものであり、覆すことができないもので す。つまりこれは、神ご自身が人間に語り、この語りの中で神は自らを啓示した、開 き示したということです。人間に向けて、すでに発せられた神の言葉があります。バ
ルト神学は、「キリスト教的−宗教的意識の神学」ではなく、「神の言葉の神学」で す。
神のこの言葉には、どのような意義があるのでしょうか。どのようにその意義を理 解すべきなのでしょうか。この決定的な神の言葉―これは、ひとりの人間です。神の 言葉とは、個々の語りではなく、個々の言葉ではなく、歴史に介入し、活ける、息遣 いが聞こえる、そして語り、目覚め、眠り、喜び、苦しみ、まさしく死に赴く人間、
一人の人間である、イエス・キリストです。イエス・キリストは彼の生涯の全体、そ の存在もろとも神の言葉です。このイエス・キリストの生、諸々の言葉とわざ、苦難 と死、死者からの復活、そして聖霊における現臨―全てはイエス・キリストの内で、
神について話し、神を語り、神から行為し、神を啓示し、神が誰であるかを解釈し、
明らかにします。イエス・キリストは、人間となった神の言葉です。
そして一層厳密に目を留める場合、次のようなことが分かります。つまり、このイ エス・キリストが限りなく愛に満ちた、そして同じように限りなく自由な人間だった こと、彼は愛に満ちて自由の中で人間に語りかけ、働き、苦難を受けたこと、さら に、無条件な愛と無条件な自由は双方とも、結局のところ、力を代表する者、軍事や 政治によって蹂躙され得ず、イエス・キリストにおける愛と自由は、抑制の利かない 権力への意志や、死よりも強いこと、そして死に打ち勝つことであります。
イエス・キリストは死者から復活します。神は妨げなく自由に、イエス・キリスト の姿において、人間のもとに、人間の深淵に、また死の深淵に降ってきます。バルト が『教会教義学』で何百ページにもわたって論じたように、神の本質は自由であり愛 です。神は自由において妨げなく愛するお方です。
これは「上から下への」運動であり、この運動は聖書のテキストに証言されていま す。とにかく、新たな神学は、バルトが発見したように、神、つまりイエス・キリス トにおいて、自由に、愛の内に自らを啓示するこの神について語る勇気を持たなけれ ばなりません。そのような神学は、まさしくキリスト教の神学です。キリスト教の神 学とは、要するにキリスト論の神学なのです。キリスト教の神学、まさしく、キリス ト論の神学は、現代社会に対して、決定的かつ批判的な意義を有します。それは、ど の点でそう言えるのでしょうか。そう、つまり、第二部における現代社会への問いで す。
第二部 現代社会への問い
私たちは本日、社会に関する個別の問いに解答を求めるのではなく、非常に普遍的 であり、包括的であり、かつ、非常に重大な問いについての解答を追求します。恐ら
くこの問いはあまりに大きすぎます。いずれにせよ、問題は近代文明なのです。 文 明花咲く近代や、現代社会の中に人間が生きていることを描写する単純な定型句を探 しますと、通常、かなりのキーワードが浮かびます。混合主義(シンクレティズ ム)、多元主義、分散していく不均質な社会の構造、複雑に軋轢を引き起こす発展の 道筋等―もちろんこれらは、申すまでもなく、大なり小なり多様な表面上の現象を示 す目印でしかないと思います。しかし真実のところ、深いところでは多元性は全く支 配的ではありません。末期的なみじめな無秩序ではなく、むしろ逆に、単一言語的な つぶやき、全体主義的なもの、全く単細胞的で代替案を持ち得ない状態、そこでは全 てが均質的に存在し、全員一致し、変化のないまとまりに収縮しています― 一筋の 筆致で全てができあがっているのです。そうすると、確実さの時代が進展しているの でしょうか。決してそうではありません。近代文明の、堅固な確実さとは、どこにあ るのでしょうか。
一体、代替案を持ち得ない状態のありかは、どこに存するのでしょうか。それは代 替案をもちえず、絶対的で原理的には問いかけ不可能なものです。すなわち近代自然 科学と近代技術の併存と両者の絡み合いであります。私の判断では、異なる国々や諸 国民の文化的な差異は、さほど重要ではありません。近代文明は、根本において一様 なものです。言い換えますと、科学と技術によって非常に深く規定されているので す。文化とは変数、つまりいろいろな姿をとりうるものです。北斎とピカソ、黒澤明 とスティーブン・スピルバーグを見れば分かります。しかし、科学と技術、それらの 進歩は、日本、中国、ヨーロッパ、アメリカ合衆国そしてその他全てにおいて、確固 とした、盤石の定数、つまり変化することのないありようを構成します。別の言い方 をすれば、表面的には多様であるけれども、その堅固な核心は常に同一なのです。
ニーチェによる近代への洞察を通して
しかしながら、近代の自然科学と近代技術は、いったい何を踏まえているのでしょ うか。私の判断では、他のどの思想家にもまして明確にこの近代の発展を概念化した ひとりの思想家の名を挙げたいと思います。私の思うところでは、これほど眼力の鋭 い近代の理論家はおりません。彼は、近代という時代、近代なるもの、自然科学と技 術を伴う近代の文明について、その根源を見極めました。皆様方は、おそらくきっと 驚かれることでしょうが、私はフリードリヒ・ニーチェの名前を挙げさせていただき ます。ニーチェ(1844−1900)は、晩年に近代社会の内的衝動を言い表す洞察に突き 進みます。私は、権力への意志をめぐるニーチェの洞察を、存在の根本原理、根本的 衝動、運動の法則であると考えています。私はニーチェの洞察を、特別に近代的な理 論に移しかえて申し上げます。近代とは、権力への無制約な意志という巨大で不吉な
帆を上げて航行する帆船です。
この場合、私は、次のことを、あらかじめ強調しておきます。それは、前近代的、
プレモダンな状況を再び望むことに関心を持っているのではないということです。こ れは全く意味がないでしょう。後戻りはないのです。むしろ、どうすれば私たちは近 代から先へと進むのかという問いを設けるべきです。近代を超え行くこと。後戻りで はなく、前に進むこと。これこそ近代文明の内的衝動を形成しているものを洞察する ことの前提なのです。さて、何が文明の花開いた近代の本質を形成しているのでしょ うか。それは権力への無条件の意志です。この場合、「権力」という言辞は、全く広 く把握されるべきです。つまり、政治的な、または軍事的な権力のみではありませ ん。(もちろんのことそれをも含んでいますが)。問題は、さまざまな様相や種類をと りうるのですが、「できる」ということへの意志にあります。活動の余地の拡大、将 来を見通して選択することと将来を制御しようとすること、種々の情報処理システム の運営、具体化、実行可能性、実行可能なものの実現、ただひたすらに管理と制御を すること、介入して形成しなおすこと、選択可能なものの拡大(大量破壊兵器の残忍 な可能性の拡大も含めて)、制限のない拡大化と改良、そういったことへの意志に問 題があるのです。
さてしかし、近代を特徴づけるために念頭にあるのは、さらに強調して言えば、単 に権力への意志ではなくて、まさしく権力への無制限の意志であります。これは決定 的な違いです。自ずと理解できることですが、人類の歴史全体は、権力への意志を 知っています。しかしながら、近代において、この意志は、無制限的で、支配的力を 持ち、絶対的、全体主義的になるのです。これこそ厳密に言えば、近代の特色なので す。それゆえに、この権力への無制限の意志を問題とすることを、権力志向自体を取 り上げることだと言い表し、かくしてそれは無意味であり、無分別であるとしてしま うことは、一種の過小評価なのであります。そうではなくて、まさに絶対化というこ とが問題なのです。科学技術を、名目上それとして、倫理的にあたり障りなく、徒に
「絶対である」とするべきでないというような、そこかしこで出くわす警告は、役立 たずです。科学技術はすでに絶対的なものとして設定されており、全てにおいて、遍 く押し通されてきたのです。このことを是認することは、更に次に進むための前提で す。私が以下に申し上げることは、それゆえに常に権力へのこの無制限で、絶対的 な、代替案を持ち得ない意志に関わります。
結局のところ、すべての上に立つ支配権、この世界というもの全体に的が絞られて いるのです。この仕組みは、遍く存在します。世界は、完全に修正への道が許されて いるように映ります。全面的に変更され、新たに形作られ、具体化され、変えられ、
改善された状態のように見えます。世界は単なる「材料」に過ぎません。それは、自
由裁量に任せられ、大変な見込み違い(巨大な損得勘定)に入り込みます。全てが 行えるのです。自然への政策(自然が作られます)、歴史の政策(歴史が作られま す)、自己の政策(自我という機械の中で、自己自身を形成します)。ハイデッガーの 言葉では「実現可能なものをどんどん作り上げていく過程」なのです。
私はこの無条件性を、大がかりなイデオロギー(観念体系)、大がかりな世界観、
「新しい信仰」、つまり宗教であると名付けています。私は、近代文明とは固有の宗教 であり、今日にいたるまでの人類の歴史の中で比較できる形式においては存在しな かったと思います。このイデオロギーの世界史的発端はヨーロッパにあります。ガリ レオ、デカルト、ベーコンなどによってその基礎が置かれました。それから何世紀に もわたって強化統合、維持され、そしてついには今日、代替案が喪失する事態が生じ ます。
時代の根本法則と、そのエネルギーの中心は、あらゆる見地で限りなく権力掌握を 求める「権力に飢えた獣の」荒れ狂う欲求であり(イギリスの哲学者トーマス・ホッ ブスに則します)、原理的、全体主義的で、仮借ない権力形成性、最も広範な意味に おける権力への意志への荒れ狂う欲求なのです。産業化した現代の偶像である「経済 成長」を伴う物質主義と消費主義が形成するものは、もちろん巨大なこの欲求の一つ にすぎません。経済的な説明のモデルは単に、重要であるといっても、部分的でしか ありません。しかしながら、「権力への無制限な意志」というモデルは、全く広範囲 に及びます。
この権力への無制限の欲求、実行可能なものを探索し引き金とする欲求は、時代の 内的世界に刻印され、そして根付いています。誰からも邪魔されないで植民地の支配 者たろうとするこの意志は、時代の内的世界に亡霊のように徘徊し、そしていわゆ る、生活機器や、組織、制度、装置などの中に、権力を形作ろうとする精神の中に、
全てを規定する現実として、まき散らされているのです。人が苦労して取り出した事 物は、この意志の欲するところに任せられ、遂には、事の次第のままに運ばれていき ます。20世紀と21世紀の大規模な破局と脅威をめぐって―全ては科学と技術をめぐる 破局です―近代は一層、その起源に関する欠陥を指摘されます。
この近代化の運動は―歴史はこの近代化の道を歩んだのですが―甚だしく、長きに わたる出来事であります。主導的なのは、全体主義(無制限な権力行使)への大きな 誘惑です。世界は、できるかぎり大がかりに、できればその全体において、人間の介 入を広く受容しやすいことを示してして構わないとする根本方針や激情、また、現実 は、人間の恣意によって形作られる全体であると証明して構わないとする根本方針や 激情への大きな誘惑なのです。推測するに、最初は感知できなかった17世紀のおかし な状態は、その後世界という領域を次々にその傾向に陥らせてきました。そして、一
歩一歩、350年間にわたり張りつめられた習得のサイクルは、独自の実効ある影響力 を示すのです。科学技術は世界に襲いかかっています。そしてその結果、私たちが今 日見るように、人類の将来に致命的な危険が生み出されます。
根本にある不信の念とは、常に、侮蔑的なドイツ語で申しあげれば、不安に満ちた
「くよくよする者」のような事柄に過ぎません。それは、通例は、全く妨げを受けな いままでいる深みの、表面に生じる波紋(さざ波・杞憂)であり続けます。しかしそ れにもかかわらず、この疑いは、全体を包括しようとする、飽くなき要求のゆえに、
是認を求めるのです。「科学と技術」という大きなモデルを問いに付す者は、誰でも 早々と笑い者にされます。とは言え、どうあっても、全体は損得勘定の見通しに基づ いて判断されてはいけないのです。単に損害の清算が目指されてはいけないのです。
これは気力を消耗させることです。しかし黙ってはおれないのです。
恐らくは無制限な「権力への意志」を語るだけでなく、快適な生や快適な世界、楽 しみに満ちた自己への欲望という「無制限の欲望」を語るべきです。「無制限の欲望」
との関連では、世界はただ略奪品としてのみ魅力的なのです。「世界は全ての人々の 必要を充分に満たすが、欲望を満たすには充分ではない」。マハトマ・ガンディーに 帰せられるこの文章は、近代のいつの時代にも当てはまり、ついには、いたるところ で痕跡を残している記憶を表現しています。喉につかえた欲望。文明の飽くことのな い貪欲さ。大きな、責め苛まれるような不満。
まとめ
要約します。二つの宗教が少なくともお互いに対立して存立しています。権力への 無制限の意志と、自由と愛なる、無制約の神への信仰です。
終わりに、今少し短い結びの一段落を記します。近代の精神と脅迫を超え行く新し い文明は見いだされるのでしょうか。無理やりに権力的に形成しようとする、心の世 界や意識上に、更には無意識にも深く根付いている欲望を超え行く新しい文明は見い だされるのでしょうか。そして、どのようにして―特にこの近代との関わりという意 味において―真正のキリスト者たる存在を規定することができるのでしょうか。まさ にバルト神学は、この真正のキリスト者の存在を規定する際に、少なくとも助けを提 供することのできる、更には、勇気を与える、批判的な力を獲得することのできる、
ぶれることのない熟慮の形式であるのです。それでは、どの点においてでしょう。バ ルト神学は、近代以前に揺り戻しをする神学ではありません。むしろ近代を超えた先 を指し示します。
と申しますのも、バルト神学は、人間を再び指し示すこと、宗教的人間ないしはキ
リスト教的−宗教的人間を指し示すことをいたしません。しかしまた、何がしかの理 由により、倫理的人間を指し示すのでもありません。もしそのような人、倫理的に行 動する人がいるのであれば、それは素晴らしいことではあるにしても、です。しか し、バルトに則して視界に入る展望においては、人類の致命的な危険の克服は、人間 のわざ、更には、人類の過酷な努力、道徳的革命、全世界に及ぶ倫理的な委員会によ る指令等に期待することはないのです。このキリスト教的展望がまずもって開き示す のは、神への視界、イエス・キリストにおける自由と愛の視界であります。
それゆえに、決定的な問いは、私たちが自明なものだと見なしている事柄とは別の ものです。 私たちは近代人であり、私たちには自明なこととしての決定的な問いは
「さて今、私たちは何をなすべきか」であります。 私たちはどういうわけか人間のわ ざや行為、また変化と完全性要求の落とし穴から抜け出していません。 私は、カー ル・バルトとともに、新たな視界が決定的となるのであり、それゆえにまた新たな問 いが真っ先に立てられなければならないと考えます。
考えられるのは、何がすでに神から私たちに行われたのかという問いです。キリス ト教信仰は、神がイエス・キリストにおいて存し、世界はイエス・キリストにおいて 神と和解したことを知っています。使徒パウロは書いています。決定的な事柄は、す でに生起しました。パウロはイエス・キリストが自らに語るのを聞きました。イエス はパウロに言いました。「私の恵みは充分である」。別の言葉では、快適な生への欲 望、快適な世界の欲望、快適な自己の欲望、また不埒な欲望や、これらの欲望から生 じる幻滅にいたる理由はありません。ところで、バルトの後期の説教のうちで、「私 の恵みはあなたに充分である。」というテキスト以上に印象深いものはありません。
神がなし給うた事柄に向かうことで、人間の行為は余計なものとなり、不必要にな るのでしょうか。いえ、決してそうはなりません。ただ、この人間の行為は、欲望に 満ちた行為ではあり得ず、権力への無制限の人間的意志をまとった行為でもあり得ま せん。この行為は、充足に基づく行為であり得るのです。これは、何か全く異なるも のです。私は、第一に、人間のそのような行為は自由と愛に基づいたわざであると考 えます。お集まりいただいた皆様、私たちは現在、歴史的−画期的な移行空間に、大 きな歴史的、構造上の断層に、時代の破れと歴史的加速性の中に暮らしていると言う ことができます。ひとつの時代からもうひとつの時代へと見通しの利かないままにわ たる航海の中にあると考えることができます。私の考えでは、今日、歴史的な光の包 括的な過渡期が生起しており、もしかするとそれに加え、更に、今日まで知られた歴 史上の空間から、人間が追い払われることを多くのことが示唆しています。
カール・バルトの神学が意味するものは、―これが私たちのテーマでしたが―常に 全能の、自由な、愛する、恵み深い神への指し示しです。この神への展望において、
人間は、何が充分であるのかを見出すことができますし、それゆえ、酷い、充足しな いという恐るべき宗教を超えることができるのです。要するに、私は繰り返します が、後ろにではなく、前へ、なのです。しかし、以上のことは、より広範な権力増強 や常に新たに能力の向上をはかることではありません。ひとつの代替案、より良い助 けとなるものがあります。上への展望があります。カール・バルトによれば、素晴ら しいことに、「高きにいます神」とは、私たちのそばに、今まさに降臨するのです。