跡見学園女子大学国文学科報第二十六号(平成十年三月十八日)﹃今とりかへばや﹄の女中納言
ー男女並立から導き出される︿女﹀の罪と呪縛ー
馬場淳子
はじめに
かつては不当に評価されてきた﹃今とりかへばや﹄だが︑現
在ではこの作品を女の一生を描いた女の物語として読むことが
(‑)研究の主流となっている︒兄妹の並立を物語の基礎構造としな
(2)がらも明らかに女中納言の方に比重が傾けられていること︑そ
して古本と今本の相違点がすべて女主人公の人物造型に関わる
(3)問題にあることからも︑女中納言を軸にして物語を展開しよう
とする今本作者の試みがうかがえる︒しかしそれならばなぜ︑
兄妹の並立関係を描くことに対して︑あれ程までに執着し続け
たのだろうか︒
男尚侍と女中納言は異母兄妹(姉弟とも考えられる)だが︑
あたかも一卵性双生児のように分別不可能な程そっくりだと表
現されている︒神田龍身氏によって﹁性の記号化﹂が説かれて (4)いるが︑同性の兄弟もしくは姉妹ではなく︑異性の兄妹を並立
させることによる︿男﹀と︿女﹀の差異︑特に︿女﹀の性の在
り方を浮き彫りにするのが作者の狙いだったのではないだろう
か︒それを探っていくことを本稿の目的とする︒
一︑変性男女のナルシズム
性を交換して育つ瓜二つの兄と妹︒この二人の間には︑ナル
シズム(自己愛)的な愛情を顕著に見ることができる︒
︻女中納言︼
男尚侍への愛情は︑女中納言が梅壷の女御の一行を目撃した
時の心理描写に最もよく表現されている︒
﹁あはれ︑我も世の常にて身を心をももてなしたらましか
ば︑必ずかくてぞおりのぼらまし︒あな︑いみじ︒ひたお
うつつもてにて︑身をあらぬさまに交らひありくは︑現実のこと
(5)にはあらずかしL(巻一・七七頁)
と︑女中納言は﹁世の常﹂ではない自分自身の境遇を嘆き︑
﹁我こそ契りつたなくてかからめ︑姫君だに世の常にて︑
かやうの交らひし給はましを︒飽かぬことなからまし︒身
を嘆きても︑一人は世の常にておはすと見てこそは︑かや
うのおりのぼりのかしづきもせまし﹂など︑わが身一つの
ことを思ひ続くるに︑これより出でて︑やがて深き山に跡
も絶えなまほしくおぼさるるままに︑とばかり見送られて︒(巻一・七七〜七八頁)
と︑自分が叶えられない願望を兄に実現させることによって満
足を得たいというのである︒こうした女中納言の心理は︑男尚
侍を﹁そうなりたい自分﹂ととらえ︑自分と同一視していると
いえる︒︻男尚侍︼
男尚侍の心中思惟は女中納言に比して非常に乏しく︑(女中納言ハ男尚侍ノ)世に似ずをかしき御けはひなどを︑
わが身はさるものにいひ置き︑﹁この御有様をだに︑例の
人に見奉らばや﹂と︑飽かず悲しうおぼす︒督の君(男尚
侍)も︑この(女中納言ノ)御有様を見るたびごとに︑胸
うちつぶれつつ︑互におぼし乱るる心のうちども︑おのず
からさるべきほどといひながら︑疎からず︑あはれも深か
りけり︒(巻一・=二頁)
という描写や︑二人が対面した場面において︑女中納言が男尚 侍に対して﹁あはれ︑我︑もとよりかやうにてあるべきものを﹂(巻三・四四頁)と思い︑逆に今度は男尚侍が女中納言に﹁世
つかざりける身どもかな︒我ぞ︑かくてあるべきかし﹂(巻三・
四五頁)といって互いに見つめ合う︑というように︑兄妹の対
で表現されており︑単独で表われるようになるのは女中納言の
失踪事件以降である︒このように︑男尚侍が女中納言に抱く愛
情は︑女中納言の場合と全く同様の︑﹁そうなりたい自分﹂へ
の愛情に他ならない︒また︑男尚侍が失踪した女中納言を捜し
に行く際には︑﹁この君をたつね出でずば︑わが身も世に帰る
べきにもあらずかし﹂(巻三・一〇五頁)と決意するように︑
まさに運命共同体としてとらえていることがわかるのである︒
外見の酷似や︑異装によって﹁世つかぬ﹂者同志という境遇
の類似︑そして同じ父親を持つ兄妹だという身内意識が︑互い
にナルシズム的な愛情を寄せあう要因として考えられる︒
二︑宇治での相互かいま見
出産の為に身を隠した女中納言を捜索するため︑男の姿と
なって宇治に立ち寄った男尚侍は︑同じように異装を解除した
女中納言と出会う︒この場面は︑二人のその後の生き方を象徴
する非常に重要な場面といえそうだ︒
︻男尚侍︼(女中納言ト)他人なるにても︑必ず見まほしく︑心に
かかる面影身に添ひぬる心地して︑うちつけに︑このわた
りさへ過ぎがたければ︒夕風吹き出でぬれば︑過ぐる心地
いと口惜しく︑この面影心にかかりて︑﹁世にもあらば︑
かやうなる人を見ばや︒宮を限りなく思ひ聞こえさすとい
へど︑事にもあらず﹂と︑これにさへ心とまりて思ひおは
す︒(巻三・一一六頁)
宇治で出合った女が女中納言であるとは気付かず︑男となる
契機の一つとなった女東宮よりも数段勝った理想的な恋の相手
としてとらえている︒宇治の女君が自分の妹だとわかると二度
と恋愛の対象として女中納言をみることはなくなり︑その埋め
(6)られぬ思いは吉野の大君・四の君・麗景殿の女御の妹君といっ
た人物に次々と向けられていくのである︒︻女中納言︼
失踪中の右大将を見たという女房の言葉から︑﹁まことか︒
見やし給へる︒誰をかくいふぞ﹂と宰相中将に問いかけられた
女中納言は︑
﹁まだ見ぬ心地する人のありつるを︑さいふめりつれば︑
もし我が身の身を離れけるにや﹂(巻三・一二一頁)
と答えて涙を流す︒男尚侍を過去の自分とみなして泣く姿から︑
男装時代の自分への︑消し去ることの出来ない未練の思いを読
み取ることができるのである︒しかし︑兄の姿を見て自分の男
装時代を回顧するのはこの場面のみで︑他にはない︒
これまで互いを理想的な自己の姿として見てきた﹁二人だが︑
ここではその正体に気付かぬまま︑互いを理想的な異性の姿と してとらえている︒心に適う女性を発見した喜びで一杯の男尚
侍と︑過去を思って現在の自分の悲しみにうちひしがれる女中
納言といった具合に︑二人の心情は対照的である︒これは︑関
心が外部へ向かっていく男尚侍と︑自己の内面へ向かうように
なる女中納言の今後を象徴しているといえるのではないだろう
か︒すでに述べたが︑兄妹の恋の情緒が漂よっているのも︑女
中納言が男尚侍を見て過去の自分を偲ぶのも︑この宇治のかい
ま見場面特有の描写なのである︒二人が地の文では﹁尚侍﹂﹁大将﹂といったもとの官位で呼ばれず﹁男君﹂﹁女君﹂と呼称(7)されていること︑物語一般のかいま見場面とは違って楽の音で
はなく﹁経の声﹂を契機としている異様さや︑男が一方的に女
を覗き見するのではなく男女が相互に見つめ合うという奇妙な
構造を呈していることなども︑それを暗示しているかのようで
ある︒そして︑二人のこのような相違は︑自発的に男となった
ことと︑無理矢理女にさせられたこととの相違といえるのだ︒
三︑異性を装う意味と行方
︻男尚侍︼
男尚侍は︑幼い頃は﹁あさましう物恥ぢをのみし給ひて﹂(巻一・二入頁)という性質で︑﹁御帳の内にのみ埋もれ入りつ
つ︑絵書き︑雛遊び︑貝覆ひなどし給ふ﹂﹁ただ母上・御乳母・
さらぬはむげに小さき童などにぞ見え給ふ﹂(巻一・二八頁)
という状態であった︒極端な恥ずかしがり屋であった男尚侍は︑
女を装うことで人との接触を最少限度に抑えることができ︑室
内遊戯にばかり興じることも許されたのである︒﹁さるは傍痛
ければ︑つくろひ化粧じ給はねど﹂(巻一・三五頁)というこ
とからも︑彼の目的が女そのものになることではなかったこと
がわかる︒つまり︑内向的な性格が改善されてしまえば男尚侍
の女装の意味もなくなるのである︒
尚侍として出仕し︑女東宮との関係から次第に男性としての
自己に目覚めていき︑女の姿のままで﹁いつかれ埋もれたるは︑
心憂き事﹂(巻三・九三頁)であると自覚し︑女中納言捜索の
際に名実共に男そのものとなった男尚侍なのだが︑その後の彼
の行動には女を装っていた頃の経験が何一つ活かされないばか
りか︑﹁(女君タチノコトヲ)さまざまおぼし合はするに︑御心
のうちぞ恥かしかりける﹂(巻四・入四頁)と︑手に入れた女
たちの品定めをする自分を羞恥する程の︑多情な男に成り下
がってしまうのである︒︻女中納言︼
また姫君は今よりいとさがなく︑をさをさ内にもも︑のし給
はず︒外にのみつとおはして︑若き男ども・童などと︑鞠・
小弓などをのみもてあそび給ふ︒(巻一・二八頁)
と︑女中納言は幼い頃から活発で︑さらに
御出居にも人々参りて︑文作り︑笛吹き︑歌謡ひなどす
るにも︑走り出で給ひて︑もろともに︑人も教へ聞えぬ琴・
笛の音も︑いみじう吹きたて弾き鳴らし給ふ︒ (巻一・二八頁)
程の才能をみせるのである︒室内で日々を送るしかなかった当
時の貴族の女性が︑鞠や小弓でもって野外で遊ぶなど︑とても
考えられないことである︒また︑漢学が男性必須の教養であっ
たのに対し︑女性が漢文の読み書きをするのは﹁はしたない﹂
とされていた︒笛は男性専用の楽器であり︑女性が吹くことは
なかった︒従って︑女中納言が男性のものとされていた分野の
才能を発揮するためには︑どうしても男を装うことが必要だっ
たのである︒しかしこれも男尚侍の場合と同じように︑決して
男そのものになることを目的とはしていない︒それは大勢の人
間からかしつかれる梅壺の女御への憧憬からも明らかである︒
宰相中将に女であることを見破られ︑心ならずも彼の子を身
籠もってしまい︑男性として生活を続けることが不可能となっ
たため︑宰相中将に連れられて宇治に身を隠し︑彼の手によっ
(9)て﹁女び﹂させられた女中納言であるが︑女姿となってからは︑
男性としての過去の生活によって培われた魅力が幾度となく語
られるようになる︒
①心のうちには︑﹁我をまたなく思はむだに︑ありしさま
にてはこよなしかし︒ましてかくのみ心を分けられては︑
何にかはせむ﹂などぞ思へど︑﹁いかにいかにこのほどま
では︑この人を背き隔つべきにあらず﹂と︑さはいへど男
に慣らひにし御心は︑うち取りて︑安らかなる気色を︑
﹁いと思ふさまにめでたく喜ばし﹂と思ふこと限りなし︒