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浴 の 教 育 学 的 考 察

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浴 の 教 育 学 的 考 察

高 田 熱 美

はじめに

学習の特殊化が進んでいる。技術や知識の学習が拡大して、これらの学習が 学校で行われている。義務教育9年間、幼稚園と高等学校、大学を加えれば、

およそ 18 年間がそれに当てられている。平均寿命が格段に伸びたとはいえ、

その期間は長い。

現代の学校、ここでの学習は主として理解すること、いわば知の学習である。

カリキュラムは、ほとんどそこに絞られている。知育が中心である。知育のほ かに、体育も徳育もあるが、これらにも、知的理解が介入している。徳育のご ときも、道徳教育としてカリキュラムに定位され、道徳を理解するものとして 捉える傾向が強い。体育においても、スポーツのルールや身体制御の方法を理 解することが望まれている。これらが明示されたカリキュラムは、授業で学ば れるが、このほか課外の学校行事、すなわち文化祭や体育祭、クラブ活動、部 活動、勤労体験学習などがある。これらは、いずれも意図的教育の範疇にある。

他方、カリキュラムとして明示されない、いわば隠れたカリキュラムという ものもある。それは、学校生活全体にあるもので、日常性としての交友関係、

教師と児童・生徒との関係、学校の施設、自然環境などである。これらは、人 間が生きる状況ないし場であるので、カリキュラムとして明示することができ

福岡大学人文学部教授

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ない。つまり、生きるということはカリキュラム化することはできないのであ る。生きるということから切り取られた、一つの時間・空間にカリキュラムは 限定されているのであって、カリキュラムが生きることそのものではないから である。この生きるという生の地平がなければ、すべてのカリキュラムは瓦解 する。

生きるということ、これを日常生活の基本行動ということから見るならば、

それは、食べることと眠ることとがある。食べることが、いかに人間の心身の 育成に意味をもっているかは、語るまでもない。かの古代ギリシアのスパルタ は、公共の食堂で父と子が食事をしたというが、これは、子どもの教育を慮っ てのことであった。共に食べながら、父たちは、スパルタの歴史、社会、文化、

精神、宗教のすべてを語り、子どもは、それらを共に学んだのであった。

スパルタのみならず、食事は子どもの教育に裨益したのであった。わが国に おいても子どもは、家族の人びと、そして神仏と共に食したのであって、これ には、なにほどかの精神性が見られたのである。ここでは、食べる前に祈り、

食べた後に祈るのである。祈りにおいて、子どもは神仏の縹渺たる気韻に触れ る。一同に食し、共に味わって、生きてきた者は、同じく心を通い合わせるこ とができる。一味同心とはこの謂いではないか。

眠るということも、生活の基本的在り方である。一日に占める時間の長さか らいえば、三度の食事よりもはるかに長い。ただ、眠るということは学習では ない。眠りは休息である。休息が健やかな生を支えていることは確かである。

もっとも、人間の眠りは生理的なものに尽きない。眠りが真の意味での休息に なることにおいて、眠りは眠りとして成就される。人間学的にいえば、眠りは 心身の凝縮である。眠りは、世界のなかに没入し、同化することによって、世 界への関与を断つ。したがって、「眠りは生理的回復以上のものである1)

それゆえ、深い眠りにある人の顔や身体には安らぎがある。安らぎには静寂が ある。静寂は世界が沈黙していることを現わしている。入眠において、世界が沈

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黙するのである。かくして、あたかも、瞑想する仏像を前にして、人が沈黙する ように、安らかに眠っている人の傍では、人びとは、話すことを止め、静かに歩 を運ぶ。たとえ、聞こえないことが分かっていても、そうするのである。

眠りは、心身の凝縮ということにおいて、内面性である。眠りは世界への志 向・働きかけを放下する。ちなみに、死が永遠の眠りとされるのは、その内面 性においてである。死もまた、沈黙であって、世界への働きかけを放下するの である。ここには、世界からの働きかけもない。それゆえ、働きかけとしての 教育もない。

にもかかわらず、眠りが、死と同じように、生の意味を豊かにしていること は確かである。人は、安らかな死に顔に安らかな死が訪れていることを見て、

その人の人生が豊かであったことを感受する。それと等しく、安らかな眠りに、

その人の一日が健やかであったことを見るのである。したがって、すべての人 が安らかな死と眠りを希求する。

死と人生、眠りと生は、それぞれ地と図の関係にある。善く生きた者が安ら かな死を迎え、善く生きた者が安らかな眠りにつくのである。ただし、死は人 生の終着点であって、安らかな死が生を蘇らせることはない。これに対して、

眠りは生を蘇らせ、豊かにする。このため、大人たちは、子どもに良く眠るよ うに勧告する。眠りから、何かを学ぶということではなく、眠りそのものが生 きることであるからである。

ところで、食事と眠りのほかに、もうひとつ、日常生活の基本というものが ある。浴である。わが国においては、浴は風呂として生活のなかに定着してい る。浴も、食事や眠りと同じように、住まいのなかに確かな時と場を与えられ ている。浴は生活の基本である。これは、身体の汚れを落とし、疲れを取ると いう生理的効果をかなえるのみならず、それを超えて、精神の蘇りを可能にす る。浴は、食事や眠りと等しく、生きることを豊かにしている。しかも、食事 と並んで教育的意味をも有する。もっとも、そうであるにもかかわらず、浴を

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教育学的観点からとらえる試みはない。本論は、この浴に教育学的光を当て、

その意味を明かにするものでる。

1 浴の人間学

人間にとって、浴は一義的ではない。浴の人間学とは、浴を人間存在の重層 的位相において見ることである。もっとも、ここでいう位相とは、位相数学や 位相幾何学の基礎的構造の謂いではない。また、物理学における周期運動の位 置を意味するトポロジィ(topology)をいうのではない。『字通』(白川静)

によれば、位相における相は、木と目であり、その義は、本質が外に現れ出る のを見ることであった。それゆえ、本稿における位相とは、ある立場・位置に 立って、事態ないし現象の本質、すなわち実相を見ることである。もちろん、

位相は一義的ではない。人間においては、位相は重層的である。したがって、

本稿は浴の諸実相を見る。このとき、浴が多義的であることを顕わにする。浴 の人間学は、このような理解のもとに進められる。

① 生理的位相 浴を人間学的位相においてみるとき、すぐさま、生理的位 相が現れる。そもそも、生物が生物である所以は、代謝と自己増殖ができるこ とである。ただし、ウイルスは、ほかの生物(細胞)に侵入・寄生して、はじ めて増殖することができるので、無生物であったものが寄生において生物に変 化するといえる。すると、ウイルスは無生物と生物のいずれでもあるというこ とにおいて、両者の中間的存在であるのか2)

生物は、ひとつの統一的個体であって、自己と非自己、つまり自己と自己以 外のものとの乖離があり、それだけに触れるという可能性をもつ。触れるとい うことにおいて、自己以外のものを排除するか、取り込むかする。たんなる物 は、外からの力が加わると他のものに触れることはあるが、それを排除するこ とも取り込むこともない。だが、ウイルスは他の生物に侵入して自己増殖をは かる。侵入するのは、自己に対象が適合したものであったからである。

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生物は、自己に適合したものとそうでないものを感知し、適合しないものを 異物として排除する。生物の進化の過程で現れた免疫の機能は身体に入った異 物を感知して、排除するものであった。もちろん、皮膚、身体の全体が異物と そうでないものを感知する。イソギンチャクもクラゲも、腔腸に入った小魚を 取り入れ、小石などの異物を吐き出す。乳児は、何でも口に入れるが、苦いも のや辛いものは吐き出す。それらは有害な異物であることが多いからである。

高等な生物においては、身体はつねに統一的な秩序をもった個体であるとと もに、なおほかの個体と微妙な関わりをもって生きている。それゆえ、ほかの 個体を判別することも繊細になっている。ちなみに、人においては自分の手で くすぐっても何ともないが、他人の手でくすぐられるとくすぐったくなる。人 に肩の凝りをほぐしてもらうと気持ちが良い。これに対して、イヌやネコはく すぐられても何とも感じていない。

人間においては、くすぐりは、たんに生理的なものではなく、他者との関わ りにおいて起こるものである。すなわち、両者に触れ合うことができるような 親和的関係がある時、くすぐったくなり、そこに笑いが生まれる。したがって、

見知らぬ他人や反感をもつ人においては、くすぐりは拒否される。くすぐる手 は触れる手ではなく触る手となって、自分の身体を侵害するものとなる。ちな みに、チンパンジーはくすぐりを感じるという。これは、チンパンジーが共同 体を生きていることの証左であろう。

人間は、首筋をそよぐ風にもくすぐりを感じる。せせらぎに浸した足の指に さえ、くすぐりを感じることもある。ここで、人は親和的関係を生きている。

人においては、親和的関わりがあるとき、事物は触れるものとなって受容さ れる。触れるものは異物ではない。したがって、人においては、触れることは 生理感覚を基底にしながら、心理、社会、精神の位相に連続している。

ところで、生物は、自己に適合するものを受容し、そうでないものを除くの であった。この点で、生物は石ころとは違っていた。小鳥や哺乳動物が水浴び

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をするのは、汚れや寄生虫をとるためであった。逆に、泥を身につけるものも いるが、これもダニのような寄生虫を防ぐためであった。人の場合、脱毛した 体をもっているので、皮膚に汚れが直接付いてしまう。しかも、発汗作用が盛 んであるため、体の分泌物も多い。汚れは不快感をもたらすので、水は欠かせ ないものになっている。水は汚れを落とすのに最も有効な物体である。かのナ イチンゲールが「からだから有害な物質をできるだけ速やかに取り除くこと3) としたが、もちろん、これは水によるものであった。

一般に、水は身体に適合できるように温められる。人は、温水で体を洗い、

温水に浴する。これによって、体が清潔になるだけではなく、血行が促進され、

内臓が活動し、体から老廃物が排出され、疲労が取れる。これは、爽快な気分 を生む。人は、このことを思って、湯に浴するのである。

社会的位相 わが国は、湯に身体を浸すという生活をつくりあげた。高 温多湿の風土、稲作農耕という泥土を基盤とした生産様式、豊富な水、各地に 湧出する温泉、燃料になる樹木を有する広い山地、これらが浴を生活のなかに 定着させた。

もともと、浴は、禅宗の浴堂に見られるように、宗教的行や上流富裕層の人 びとの贅沢な楽しみに限られていたのであったが、やがて、近世江戸期にいたっ て、浴は一般庶民の生活に入ったのであった。これは、滑稽本『浮世風呂』な どから窺うことができる。この時期に、浴が俗生活のものになったのである。

現在、わが国では、浴は生活に欠かせないものになっている。浴は、病院の 一般患者、介護施設の患者にも供されている。これらの施設では、週に2回ほ どの浴が当てられている。もちろん、浴槽に体を入れ、肩まで湯につかる全身 浴である。そのための機械も考案されている。西欧のように、患者のひざから 下、いわば足を洗うだけの浴(足浴)を思えば、わが国の浴は、独特の浴であ るといえる。一般の人と同様に、患者においても、浴は身体を洗って清潔にす るだけではなく、身体の疲労をも取り除くのであった。このため、患者は浴を

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待ちわび、それを楽しみにするのである。

わが国においては、浴は、古代ローマの浴場のように、疲労回復・健康のた めのみならず、娯楽と社交の場になっている。銭湯の代わりに、温泉浴場が盛 んになって、都市にもそれが現れている。浴は、共に食べ、共に眠るという、

いわば寝食を共にすることと等しく人間の連帯感を醸成する。浴は、衣服を脱 ぎ、裸になって浴槽に入る人びとが、湯を介して連なる共通の時間・空間を生 む。共に浴という独自の空間を過ごすということにおいて、人間的結びつきを 可能にするのである。すなわち、浴において、人はプライヴァシィを脱ぎ、湯 の触れにおいて私的欲望を離れ、なごやかになる。「いい湯だ」「気持ちよい」

などという言いながら、見ず知らずの人とも言葉を交わすこともできる。知己 であれば、さらに親しさが深まる。

かの介護病棟の患者においても、浴のあと、患者は介護した看護師に「あり がとう」と感謝を表すのであった。浴において患者と看護師とのラポールが生 まれる。かくして、浴は、わが国においては、あらゆる人びとに共有されるも のとなっている。

③ 心理的位相 それぞれの位相は相互に関連し、重層している。生理的快 感、爽快感は他者とのラポールを生成して、社会的連帯を促進する。これは、

同時に安らかな気分を生み出すのである。浴において、人は安らぐのである。

浴湯に身体を横たえる時、身体は弛緩し、顔はうっとりとなり、頬はゆるみ、

口はほころび、目は静かに閉じられる。介護病棟の患者においても、目はかる く閉じられ、顔全体が柔和になる。くつろいだ、ゆったりした状況が現れる。

こうした状況は、心も弛緩していることを語っている。浴にある人は、日常 生活のなかで、この時間空間においては何もしない。考えることさえも止めて いる。身体にも顔にも、何か目標を目指すような意志も志向性といったものも 見られない。ここには、自己の外に向かって働く力も内における力も消えてい る。浴にある人においては、いま・ここに在るということだけがある。在ると

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いうことさえ意識されてはいない。日常にありながら、そこから離れ、非日常 的な時空に漂うのである。

この意味で、浴は食べることと対極する眠りに近い。たしかに、食べること においても、人は生理的快感を覚え、共に食べることによって社会的連帯を培 い、落ち着いた、和やかな気分になる。このときには、心身は目的志向性を放 擲して、口(舌)と胃が浮上する。人は口と胃になって食べ物に触れ、それに 同化する。だが、この時にも、心身は弛緩してはいない。ここでは、口や胃は いうまでもなく、手も目も、いわば心身のすべてが食べ物に出会い、食べ物の 同化に傾注される。それゆえ、食べることは、非志向的であるということにお いて眠りや浴に通底しているが、弛緩ということにおいて、浴に対極する。

弛緩において、浴と眠りは近接している。また、浴は、ひと時の沈黙ではあ るが、沈黙ということにおいて、眠りに近接している。ただし、眠りは心身の 働きの凝集であり、心身が世界そのものへ沈潜することであるが、浴は心身と 湯水との触れ合いであって、ここには触れるという身体の感覚が働いている。

眠りは、世界への沈潜、それゆえ沈黙の現成である。これに対して、浴は、

身が湯に触れることにおいて、世界との和合を顕かにする。そもそも、生命の 進化の過程からいえば、触れることは表皮感覚、つまり触覚をもった生命の機 能であって、これは眠り以前のものであった。触覚は、クラゲやイソギンチャ ク、ゾウリムシなどのあらゆる生命にあるが、あらゆる生命が眠るわけではな い。アメーバもクラゲもナマコも眠ることはない。眠りは、目の誕生(5億4 千3百万年前)と関連があったであろう4)。目は脳の進化とセットになってい て、このことが眠りを生み出したのであろう。

それゆえ、触覚は、生命であることの根本機能であるが、眠りは進化した生命 の独特な在り様である。触覚は眠っている時でも働いている。体に虫などの異 物がつくと、眠りのままでも体が動いて、これらを排除している。夏の暑い夜 には、毛布をはねのけてもいる。触覚は、他の感覚が休んでいる時にも、常時

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働いている。ちなみに、ルソーは、人間の感覚について、的確な理解を示して いる。すなわち、「感覚の中には触覚のように、その働きが目の覚めている間 は、けっして休止しないものがある。それは、身体の表面全体に分布され、身 体に害を与える恐れのあるあらゆるものを警告するために、たえず見張りをし てくれているようなものである。触覚はそれを休みなく働かすことによって、

否応なしにわれわれがもっとも早く経験を獲得するものであり、したがって、

われわれがとくにそれを養う必要のないものである5)。」

古生物学ないし生物学の知見によらずとも、そもそも触覚は生命の根本的感 覚であることが分かる。視覚、聴覚、臭覚、味覚といった特殊感覚、すなわち 目、耳、鼻、舌という特化された器官において外界の刺激を把握する感覚は触 覚が分化したものであった。特殊感覚は、触覚を基層にしているので6)、感覚 の働きは特殊感覚から消滅していく。それゆえ、死に逝く者は、まず光(目)

を失い、つぎに音(耳)を失い、やがて臭と味の感覚を失い、ついに触れる手 を失うのである。

クラゲやイソギンチャクのような原始的な生物は、何かに触れると、とっさ に腔腸にそれを取り込み、異物であると排除し、同化できるものを吸収する。

これらの生物は何かに触れるのを待つ。まだ、さわることはできない。さわる には、移動してさわることのできる身体および光、音、臭気などをとらえる特 殊な感覚が生まれねばならない。つまり、触れるは受容的、触るは能動的働き である。ちなみに、日本語の文法では、触れるは自動詞ラ行下一段活用である が、触るは自動詞ラ行五段活用である。

触るは、特殊感覚に誘導されて働く能動的接触である。人においては、触る は、特殊感覚の認識と連動しておこる意志的認知行動である。人は、対象に触 り、それを知るのである。それゆえ、触るは障るに転移することにもなる。痴 漢が触るのは障るのである。この時、人は「触らないで!」というのである。

これに対して、「触れないで!」とはいわない。触れるは、意志的ではないか

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らである。

ただ、触れるも触るも触角の働きであり、対象への接触によって成立するの で、対象に対して格助詞「に」をとる。すなわち、花に触れる、花に触る、と いう。他方、特殊感覚は、感覚する主体の意志・志向性が全面に出て、対象に 格助詞「を」をとる。見る、聞く、嗅ぐ、味わう、は主体の欲求ないし意志的 働きである。ここでは、主体が対象に対して屹立する。すなわち、対自的関係 としての主と客が浮上する。

触覚は欲求もしくは意志によって働く特殊感覚の基層にあって、進化の段階 においては、特殊感覚および脳の生成より遥か以前、誕生した生命そのものに あるのであって、そのために、触覚は欲求や意志の働きから遠いところにある。

ちなみに、日本語の用法は、そのことを反映していて、興趣がある。すなわち、

触れるは、主体の意志的行為ではないので、主体・客体の二分法を越え出てい る。「私はそよ風に触れ、そよ風は私に触れる。」ここには、一方的な作用はな い。私とそよ風が出会い、安らかな和合が現れている。「私はばらの花に触れ、

ばらの花は私に触れる。」においても、そうである。両者には、触れる意志な どはなく、ただ、思うこともなしに、触れるのである。

これに対して、「私はバラの花を見る。バラの花は私を見る。」「私は風の音 を聴く。風の音は私を聴く。」といった相互性は、特殊感覚には成立しない。

意志の作用主体は私だけである。私は、バラの花やそよ風から離れている。私 は主体、バラの花やそよ風は客体・対象である。

触覚が特殊感覚の基層であることから、わが国の語法においては、触れるは、

他の特殊感覚のすべてにわたって用いられる。すなわち、目に触れ、耳に触れ、

香りに触れ、味に触れる、のである。ここでは、特殊感覚を発動する意志主体 は後退している。目に触れる、とは、私が意志して対象を見たのではなく、思 いがけなくも、対象が自ずから私の目に進入したのである。触れることにおい て、見る、聴く、嗅ぐ、味わう、などは消去される。特殊感覚の働きは、触覚

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という生命の基層に吸収されたのである。

触れるということが、主体の起動である特殊感覚を生命の深層に吸収するの であれば、これは主体の放下であるといえる。事実、人は、湯に浸っている時、

後も先も忘れ、「いま・ここ」をゆったりと生きる。格別なことを思いめぐら すこともなく、気はしずまり、おだやかになる。温かい湯に触れているとき、

私の身体は湯になり、ついに、私が湯になり、湯が私になる。私は湯において 私であり、湯において私は湯である。あたかも、鳥が飛ぶことが空を現成し、

空が鳥の飛翔を現成するように、あるいは魚の泳ぎが水を現成し、水が魚の泳 ぎを現成するように、私と湯は世界を現すのである。浴の「いま・ここ」に、

世界は沈黙し、世界は静寂となり、至福の安らぎが現れる。これは、我に返る までの、ほんのひと時であるが、日常を超えた世界の顕現である。したがって、

浴は精神的ともいえる超越的気圏に関わっている。

④ 精神の位相 浴は心身を爽快にし、心身を蘇らせる。浴によって、人は、

さわやかで、さっぱりした気分になる。人心地がついた、生き返ったような気 分になるともいう。浴の安らぎは、心身に生気を呼び起こし、生きる力を可能 にする。浴の弛緩が、反転して、心身の張りを喚起するのである。それゆえ、

浴は、たんに汚れを落としたり、ストレスを解消したりする以上の意味をもっ ている。浴は、日常にあって非ないし超日常的な精神の気圏にあったのである。

超越的気圏というのであれば、食事もそうであった。かつて、人びとは、食 事の前に、まず神仏に食物を奉じ、祈ったものであった。また、眠りも、超越 的気圏に通じている。人びとは、眠りにつく前に、今日一日が何事もなく終え たことを感謝して、祈ったのである。眠りは、心身が凝縮して世界に没入する ことである。それゆえ、眠りは世界、いわば神仏の懐に心身を委ねることであっ た。やがて、人は、眠りから覚めた時、いま・ここに、自分が在ることを実感 する。朝である。病の床にある者は、自分が生きていることを感謝することも あろう。ぐっと背伸びをする。こうして、世界に埋没していた心身が屹立する。

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今日の生活が始まるのである。

浴は、身体が湯に触れることにおいて、意識、その作用である特殊感覚の基 層へ心身を誘う。人は、この時、目を閉じる。意識、感覚が後退して、穏やか な精神的気圏が現れる。

古来、宗教は、水に触れることに格別な意味を与えてきた。キリスト教の洗 礼もそうであったが、とりわけ、わが国の修験道は水に打たれること、さらに 仏教は水に浴することを修行としてきた。また、神仏に祈る時、人びとは水垢 離をとったものであった。

浴は、『字通』(白川静)によれば、「廟見のためにみそぎをすること」(説文)

であった。また、「古いものを捨て、新しいものに蘇る」(国語、斉語)ことで あった。さらに、浴は、行事における儀礼であって、これは、「時節が改まり、

死してまた蘇るときのもの(論語、先進)であった。

それゆえ、浴は宗教的境位に通じる。ちなみに、わが国では、ゆあみは潔斎 精進のために行われていた。すなわち、みそぎは、神事に際して心身の汚れを 水で清め、はらうことである。これによって、心身が生まれ変わる。これは心 身の蘇りであるとともに、時節および世界が改まるのである。

したがって、日常の浴も超越的境位に通うのである。浴は、身を洗い清める ことにおいて心をも洗い清めるという象徴的意味を生成する。心を洗い清める とは、我を捨て、自他の乖離を超脱することである。もちろん、自他の超脱と は、乳児に見られる自他未分化の状態の意味しているのではない。乳幼児は、

長じて自他の分化を経験する。自他の分化は私我としての欲望を生起する。そ れゆえ、欲望は、自他の乖離ないし対立を生む。超脱とは、この分化から生ま れる乖離を超えるということである。

浴は、ひと時、自他の乖離を不能にする。日常においては、浴の時、意志、

意識、それに欲望も希薄になる。そのため、浴において人は受動的になる。ち なみに、日光に浴する、恩恵・栄誉に浴する、などという。これらには、有り

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難いものとして身に受ける、との意味がある。また、浴恩ともいう。これらは、

いずれも、超越的な気圏に通じている。人は、神仏の加護や仏の慈悲に浴する のである。

わが国の宗教においては、浴は、禅宗のなかで独自の地位を占めている。臨 済宗にとって、浴堂は、禅道および食堂と並んで三黙堂の一つであった。浴も 禅の実践であったのである。わけても、曹同禅は、日常生活のすべて、食事、

掃除、入浴、それに排尿・排便、眠りさえも修行としたのであった。ここでは、

坐禅、食事、就寝に至るまでの修行の根本道場である僧堂(座禅堂)、東司

(便所)、浴堂が三黙道場とされたのであった。ちなみに、曹同宗の大本山・永 平寺の浴堂には、水を因縁として悟りを開いたという跋陀婆羅菩薩が祀られて いる。浴堂は、聖なる修行の場であったのである。

周知のように、『正法眼蔵』、第三十「洗面」では7)、浴が修行の眼目として 語られている。

≪法華経に云わく、「油を以って塗身し、塵穢を穢浴し、新浄の衣を着し、

内外倶に浄なれ≫

道元にとって、浴は、釈迦が『法華経』に説かれているがゆえに、行うべき ものであった。修行としての浴の根拠はこの一点に尽きる。すなわち、何のた めに浴をもって修行とするか、との問いに対して、答えは、釈迦の教えである ということである。これは、釈迦に帰依する者の必然の帰結であった。

もっとも、仏法を知らず、仏道を学ぼうとしない者は、これに異論を唱える であろう、と道元はいう。すなわち、身体を洗うと称しても、身体の内の五臓 六腑は糞便に汚れているではないか。それゆえ、洗っても、洗いきれるもので はない、と。だが、道元においては、身体の内外という区別は虚妄であった。

そもそも、体外にある空気や食べ物は、それを吸い、食するやいなや体外のも のでありながら体内のものとなる。どこで、体の内と外の区別ができようか。

そのうえ、心身の清浄についていえば、五臓六腑を細塵に抹して、洗っても同

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じことである。水や空には塵が満ちている。海水にさえ塵が満ちている。これ ら水や空、海水をどうして洗うことができようか。どうして、水で水を、水で 空を、海水で海水を洗うことができようか。これは不可能なことである。≪か るがゆえに、心身の内外また不可得なり≫と道元は語ったのである。

道元によれば、洗浴によって心身を清浄にするとの謂いは、たんに身体の汚 れを除くということではなかった。それゆえ、浴水の清濁は本質的なことでは なかった。行ということにおいて、浴水は清濁を超えているのである。そもそ も、心と体の分離、体の内と外の区別が虚妄であることから見れば、ただ、水 によって洗浴するという行いが本質的なことであって、この行いが身心を洗い 清めるのである。

かくして、道元は語る。≪このとき、六根六塵あらたにきたらざれども、清 浄の功徳ありて現前す。うたがふべきにあらず。三毒四倒いまだのぞこほらざ れども、清浄の功徳たちまちに現前するは仏法なり。

入浴の後に清浄の気が現れる。これは疑いようもないことである。清浄の気 とは、爽快な気分、さっぱりした心地、生き返った気持ち、などのすべてを意 味している。もっとも、これが、なぜ現れるのか、このことは誰にも分からな い。ただ、清浄の気が現れるがゆえに、ひたすら洗浴するのである。

≪心身内外、五臓六腑、依正二法、法界虚空の内外中間、たちまちに清浄な り。香花をもちゐてきよむるとき、過去現在未来、因縁行業、たちまちに清浄 なり。

道元は、洗浴によって、身心、その環境・生活、森羅万象、虚空の内外中間 といわず、現在過去未来、因と縁、その所業も、たちまちに清浄になる、とい う。もちろん、洗浴は、俗人、凡慮の者にも開かれている。身体を洗い、湯に 浴し、瞑目するとき、人は一瞬ではあれ、精神の超越的境位に触れる。このひ と時に、人は自己を放下して、ひと時、安らぎに生きるのである。

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2 浴の教育学

気候風土の違いというべきか、西欧には浴に関する教育学的知見を見ること がない。感覚について、丹念な考察を加えた、かのルソーにおいてさえ、浴は 感覚および身体の鍛錬に供されるのであった。すなわち、「子供が丈夫になる につれて、次第に温度を下げ、ついには夏でも冬でも冷たい水で洗うがよい。

凍った水でもよい8)。」という。

わが国においては、浴は日常生活に定着している。食事と入浴は重要な日課 である。生まれては産湯をつかい、長じては介護されながら入浴する。産湯の 赤ん坊には、うっとりした、快感に浸っているような表情が見られる。これは、

身体と湯との和合であり、ここには全身の弛緩が現れる。このため、尿便を漏 らす子もいる。これは眠りを誘う。ここには、眠りがそうであるように、安ら ぎが現れている。安らぎには静寂が随伴する。静寂は、物音を立てたり、語り かけたりすることを拒む。周囲の大人たちは、それを見て、静かに微笑むので ある。

幼児期になると、子どもは入浴では水と戯れる。子どもは遊ぶために浴する。

この場合、ほとんどの子どもは、親、きょうだい、祖父母など、誰かと一緒に 入浴する。浴において、裸の子どもは、湯のみならず、裸の肉親の肌に触れる ことになる。この点で、浴室は住居のなかで特異な空間であって、入浴は、日 常性を脱した時間空間を創造するのである。ここには、親和的な世界が生まれ、

子どもはこの世界を生きる。

長じて思春期に入ると、一人で浴することが多くなる。湯につかり、じっと している。体に触れる湯を感じながら、ゆったりとひと時を過ごす。考えるこ とは何もない。いやなことも、悲しいことも、消えて行くようである。日常を 離れるため、今まで思いもしなかった想念や発見が生まれることもある。

子どもは、日常生活において食事と浴を経験する。いずれの人であれ、思い 出のなかに食事と浴にまつわるものをもっている。かりに、もたないとしても、

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食事や浴の経験は深く身心に浸透して、生きる力を育むのである。とはいえ、

食事も浴も教育の範疇に入ってこない。とりわけ、浴はそうである。食事と同 様に、浴は、あまりにも日常的であって、これは、意図的働きとしての教育の 前にあるからである。

教育は意図性であって、教えることも学ぶことも意図ないし意識的になされ る。技術や知識、生活の仕方、規則を子どもは教えられ、学ぶ。これに対して、

浴は、食事がそうであるように、生理的欲求に支えられている。それが、文化 として日常の生活に定着していて、個人においては習慣となっている。それゆ え、浴の生理的効果や清潔が文化的要求でること、さらには、浴が気分を爽快 にし、浴によって超越的気圏に触れることなどを語って、浴から学べというご ときは、無意味というほかはない。

浴も食事も、教育の前にある。これは生活、生きることそのものである。た だ、望まれることは、食を愉しみ、浴を愉しむということだけである。本来、

浴であれ食であれ、これは日常のなかで繰り返される出来事であって、これが 人間性の連続的発展を可能にしているわけではない。何回、幾十年、浴し、食 事をしてきたからといって、人間性が形成されるという保障はない。

浴も食も、繰り返されるとはいえ、一回的なものである。この点で、浴も食 も祝祭に近い。祝祭が神仏に由来し、超越的気圏に通じているように、浴も食 も非日常的かつ超越的なものに触れるのである。したがって、浴と食とは、日 常にありながら日常性を裂開する。それゆえ、浴においても、ひと時とはいえ、

人は、今日一日に生じた身心の垢を落とし、蘇るのである。こうして、人は、

浴において日々蘇りを体験する。こうした体験は、教育そのものではないが、

教育の前にあって、教育を根底から支える。すなわち、浴は、あまりにも日常 的で、教育の前にあるため、教育が看過したものであったが、生きる力を醸成 して、教育を促進するのである。

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1)J. H. van den Berg, The Psychology of the Sickbed, 早坂泰次郎他訳『病床の 心理学』現代社、1975 p.75

2)福岡伸一『生物と無生物のあいだ』講談社現代新書 2007

3)ナイチンゲール著作集第1巻 湯槇ます監修 現代社 1974 p.271

4)A.Parker, In the Blink of an Eye 『眼の誕生』渡辺政隆・今西康子訳 草思社 2006, 第7章

5)J.-J. Rousseau, Emile 『エミール』平岡昇訳 河出書房新社 1966 p.124 6)坂部恵『「ふれる」ことの哲学』岩波書店 1983 p.26

7)道元『正法眼蔵』石井恭二注釈 河出書房新社 第五十「洗面」

8)ルソー『エミール』前掲訳書 p.34

参照

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