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「自己」についての神学的考察 (3)

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(1)「自己」についての 神学的考察. 小林. (3). 謙一. Eine@theologische@Betrachtung@liber@das@Selbst@(3). KencR 2.. 9.. 1 .. 自己認識. 本 考察の 2.. 9.. KOBAYASHI. (続 ). ,において述べたことを、. バルトの人間論 (KD Ⅲ /2, S44 。 2. Phanomenedes. Menschlichen, 83-157) から補足したい。 要点は、 「人間の認識はただ 神の認識からのみ 可能であ り. 」. '、. 「われわれは、 自己を人間イェスに 向かい合わせることによってのみ、 人間の概俳を 見出す」. (fmm/2,86) ということであ る。 これ以外の「人間の 自己認識は・・・ 循環と言わなければならな い. 」. (87L。 バルトがここでデカルトを 念頭においていることは 明らかであ る。 「人は自分自身を 見. ることができる 舞台にどうして 立てるか ? ‥・そこに人が 見るものはただ 影の人間にすぎない」. 「聖書の覚にも 啓示があ るのではないかと 言われる」が、 それらは「おそらく. (仏教におけるよ. に ) 人間の否定的な 構想」であ り、 結局のところ「人間の 自分自身との 対決ではないか」 ∼ 351L. (87)。 う. (1 ハ , 350. 。. 「人間の実存は 彼自身であ る。 それは客観化不可能であ り、 定義不可能であ るからこそ、 ・,, 自 己を超えて、 自己の外に向かって 、 自己自身への 探求の途上にあ る」 (fmm/2,130,強調は原著者) 。. 人間が自分の 力 でできる自己認識は、 この節の表題にあ るように、 現象また兆候、. あ るいは可能. 性 ほとどまる。 しかしそれは、 バルトがアドルフ・ポルトマンの 生物学的人間論を 肯定的に取り げている箇所 (99-105) に表われているよ し 仮説として、. う. 上. に、 人間の現象・ 兆候についての 精密科学の試みない. 積極的な意義をもっ。 (236-239にも同様の指摘があ る。) そしてそれはまた、 実践理. 性と倫理の領域において 同様に一定の 価値をもっ (106-109)。 例えば観念論的倫理学、 実存哲学、 有神論的人間学. (239-241) 。. 「兆候を理解しょうとする 者はまず現実の 人間を見なければならない。 ・・・兆候それ 自体は中立 的 、 相対的、 両義的だからであ 2.. 9.. る」. (88L。 しかし. 「現実の自己」 へ 進む双に 、. 2. 罪. ほ ついて考察しなければならない。 現実の自己 (人間 ) を覆い隠しているものが 罪だからであ る。. さらに尖鋭に 言えば、 大澤真幸があ るピューリタンの 牧師の言葉として 引用しているように、 が主として悪く 言っているのは 自己なのであ る。 ・・・ 拍己 ). や伯身 ). 「聖書. というまさにその 名前が 、. 警戒を怠らないキリスト 教徒の耳には、 非常に恐ろしい 覚醒的な言葉として 響くはずだ。 それらは. 本紀要 N0. 3 、 2000 、 70 頁。. 2. KarlBarth,DieKirchlicheDoematik, 文中に巻数と 負数を示す。. 皿 /2, S. 84. 以下、 この書からの 引用は (1/1,. 1)のように 本.

(2) 小林. 96. 謙一. 罪や悪魔の名前に 近いのだから」 ,。. KDIV/1. ∼ 3 の 三 箇所に詳述されているところを 筆者なりに要約する。 罪 とは、 分析すると. 1. 人間の HochmutundFall. 分の主となろ. う. ( 高慢、. 矯り 、 プライド、 自尊心。 IV/l, S60L 。 それは、 人間が自. とする、 「神のように」なろ. う. とする. (創世記. 3 章の蛇の誘惑の 物語を見よ ) ことで. あ る。 人間は自分で 善 と悪の知識を 得られると思いこむ。 具体化すれば、 自分が一番偉 い、 頭が い い、 と思いこ む 、 など。 その帰結が、 自分の我欲・ 支配 欲 による、 本来 白り 関係性 (神の像、 また共. 同人間性の規定. ). の破壊であ る。 人は神によって 置かれた人間性の 限定・限界. ( よき具体性 ) を 超. えようとする。 プロメテウス 的・ニーチェ 的 罪であ る 4。 2. ℡ 益 gheitundElend. (惰ャ生、. 怠惰。 IV/2, S65L 。 これは、 1. と逆に、 キリストによって 与. えられた自由を 行使しない罪のあ り方であ る。重力に任せる。 いわば、 地上に這いつくばっていて、 高みを見ようとしない。 新しさを毛嫌いする。 古い、. 「あ りのままの」自分でよしとする。. キルケ. ゴ. 一かは 倣って言えば、 自己であ ろうとしない 絶望であ る 5。 ひらたく言えば、 「どうせ」をキーワー. ドとする生き 方であ る。 3. L 廿 geund. № rdammnis. W嘘 、. 虚偽、 非真理、 偽り。 IV/3, S70) 。 これは、 自分が神からキリ. ストによって 自由とされたことを 認識せず、 逆に、 間違って神を 自分のために 使用し 、 神の主人と なろうとする 倒錯であ る。 これが、 世の言論・思想・. 制度などに見られる 様々の倒錯、 間違いの 原. 因 となっている。 真理を知らない 無知、 「彼らは自分が 何をしているか、 知らないのです」. (ルカ. 23. 章 34 節 ) とのイエスの 言葉にあ るような無知もここに 分類されるであ ろう。 また、 自己欺 肺 (卍 auvaise. 俺 i, サルトル ) もこの罪の相の 顕著な現われであ ろう。. 自己の問題をめぐっては、 1. の様相がとりわけ 鮮明に顕われる よう に思われる。 W/1,. 477 円 79 においてバルトは Hochmut. の 表 われを 出 エジプト 記 32 章のイスラエルの 民の行動. に即して解明している。 彼らは自分の 心すなむち自己を 自分に取っておいた (Reserve, sich vorbehalten) 。 自分たちの本来のもの (ihrEigentliches)をモーセにも 神にも委ねようとせず、 分で自分を助けようとした。 自己自身に信頼し. 自己を信じた。 彼らが造った 雄牛の像は彼ら. の 像であ った。 それは自分に 任され, 自己を思いのままにしてよいと 信じる生命力・ 力. (創造者の. 自. 自身. 民衆力・創造. 力 ) . 豊 鏡の力 、 の 象徴であ った。 彼らが表明していたのは、 民また人間の 神へのあ ま. りにも近い直接性、 いなそれ以上に、 自己神化であ る。 (492-494 ではサウル王の、 自分に栄光を 帰 し 、 自分を創造しょうとする 高慢の罪について 述べられており、 503 円 08 では 列 玉詞上 21 章の ア ハブ. 王の自己神化について 論じられている。) ここには一種の horrorvacui. (真空恐怖 ). があ る。 彼らは. この空虚を、 神の秘密は彼ら 人間自身の秘密だと 信じる「健全な 自意識」で満たしてしまった。. し. かしこの空虚が 真の自己の場所なのではないか。 つまり,自己にはそれ 自身で充満した 実質はなく, ただ. (神との ). 関係だけがあ るのではないか。. IV/1, 643-648 でバルトは BuBpsalmen は自己の中心であ. り. (644)、. (悔 俊の詩篇 ). ( 一般に旧約聖書で. を考察している。 詩人が歌. ' 。. 大澤真幸『文明の 内なる衝突』. NHK. Herz. (心 ). Herz は自己また主体であ る。 551) 「神に赦しを 願. い 、 自らの罪を告白するほかに 何も残されていない 打ち壊された 魂. 。. う. (霊 ). 、. 打ち砕かれた 心、 を神は. ブックス、 2002 、 161 一 162 頁。. M. ウェルベック『素粒子』野崎 歓訳 、 筑摩書房、 2001 、 は神なき近未来の 人間の悲惨な 姿と、 新しい人間 の種 (超人 ) の誕生を描いて、 印象深い。 『死に至る病』第一編, C, B. b, 0 ,参照。.

(3) 「自己」についての 神学的考察. (3). 97. 欲し、 また創り出す」 (648)。 「神と人間との 真の状況に置かれてはじめて、 神は人間の自己につい ての知識を与える (648L。 パネンベルクは、 悔 俊の詩篇に顕著な 罪責意識が近代プロテスタンティ. ズム、. とりわけその. 敬虔主義的傾向において、. それ自体で関心の 中心となってしまったことを. 地平Ⅱ. している。。 本稿の文脈で 言えば、 自分の罪に集中する 敬虔な意識は、 裏 返しの自己中心主義、 いわ ば病める自意識にほかならない。 このような高慢な 罪責意識からは 目をそらして、 その場所を空 っ ぽ にしておかなければならない。. IV/1, 518 でバルトは創世記 3 章の堕罪の物語にふれている。 アダム になる. ). と エヴァは自助. を期待した。 しかし木の実を 食べた後、 二人はかえって 自立性を失い、 相手. 自助は失敗し、. 人間は. hilfaos (助けなし、 寄る辺なし ) になった。. 従と. 感謝の中でのみ 生きられる。. 2.. 9.. 3.. (神のよ. う. にいたった。. う. 人間の主体性は 神の恵みへの 服. ロマ 害 7 章. ここは自己と 罪 との関係についての 基本的なテキストであ る。バルトは KDfmm/2, 367-368、 D/2, 654-659 等でもこの箇所を 論じているが、 本稿では IV/1, 648-659 の 講 解を手がかりに 考えてみたい。 この部分には sichselbst ( 自分自身. ). という語が頻出する。. 我々自身とは , 肉 (saⅨ, FleischHにあ る存在であ. 自分自身を見れば、 も不可能であ. る. (649、 651 、 655) 。 パウロは、 つまり人間は、. 申し開きをすれば、 過去においても 現在においても、. つまり自分自身について. 相変わらずこの 肉にあ る存在であ. る. (650、 651)。 肉にあ る人間は自己認識ができず、 自己との一致. り、 自己と自分の 行為とが対立し、 矛盾する。 私自身がではなく、 私の内に住む 罪が、. 行動している。善を行う意志はあ るが、 実行できない。 私は自分の主人・ 主体でなく、 単に罪の Agent 、. (655)。 自分が自分にとって 見知らぬ者 (ein Fremde め になる (656L。 いわば私が二人の 私に分裂するのであ る。 KDIV/2, 553-554においても、 肉が自我 の分裂、 Selbstent丘emdung ( 自己疎覚 ) 、 Selbstwiderspruch( 自己矛盾 ) と説明される。 パネ ン. 罪に駆動されて 機能する客体にすぎない. ベルクに. ょ れば「自己同一性とは、. はじめから与えられているものなのではなくて、 それはむしろ. 分裂し混乱した 自己同一性を 克服したあ かっきに到達さるべき 一つの目標なのであ る。そして、 ・‥ 人間に元来内在しているあ の自己同一性の 分裂を『 罪コと 呼ぶことには 十分なる根拠があ 本 考察 (1) あ るよ. う. の. ろう」 '。. 1. 導入, (2 頁以下 ) で述べた精神病者の 様々な現象はこの 種の罪の極端な 現れで. に見える。. しかし「自分自身から 日を離して前に 向かって思いきって 跳躍すれば、 キリスト・イェスにあ 者にとってもはや 罪への定めはない。 ここから、 この跳躍が敢行されうるし、 されてよいし、 なければならない. この現実的な、 それゆえまさに 真正に霊的な 自己認識において」. る. され. (65L。 強調. は 原著者 ) 。 「キリストを 信じない者はこのような ,自分から距離をおいた 認識ができず、 自分が自 分に対して 什emd であ ると告白することができない。 ・・・異教徒は、 最後のところ、 自己と一致し、 自己に満足している、 と主張する」. しかしこのような、. (656)。. 自分から距離をおいた 認識によってすべてが 解決するわけではない (657)。. その先には、 「選ばれ・召された 人間、 イスラエルの 経験の解釈者・キリス 卜者・使徒たるパウロ 、. 7. 頁。. I. 2. 年 如 8. 館. 文要 数 組. 。Ⅰ﹂. 介立 幸 谷国 浜 西横. Ⅰ @@ @V. @ Ⅰり Ⅰ 1 3乙 ノ 書論. W 同拙.

(4) 98. 小林. の 自己認識」. (654) があ る。。 同じ事態を人間の 召命の観点から 表現すれば、 主 キリストがすべて 「. の人間を、 また私をも脅かす 不安 不安. 謙一. を 、 彼らの、 また私の場所で. おいて、 克服した」. 神との、 隣人との、 また自分自身との、 分裂の結果としての (私に代わって ). 彼らおよび私のために、 主ご 自身の人格に. (IV/3, 771) 。 キリストが自己に 取って代わる、 「人がキリストの 姿 (Bild) に. 変えられる殊遇 (Auszeichnung.Ⅱコリント 3,18) (773)」ということであ る。 ュ. ンゲルも同様の 理解を示している。 「人間が人間にとって homo absconditus( ほほれた人間 ). のだ。 ・・・ ョブ の 問 いはわれわれに 理解できるものになる、 なぜならわれわれが 自分を理解. な. (認識 ). できないからだ。 ・・,自分で獲得する自己認識は、 ほんとうに自己の 深みに達するなら、 死に至 る。. ・・・人を生かす 自己認識は 、 私が神に認識されているよさに 認識するところではじめて、 生起. する」. '0。 「人間がほんとうには 何であ るのかを決定するのは 人間ではない。 人間は自分では 自己を. 定義しない。 神の義認する 行為と,この義認に応じる 信仰によって、 定義される。 ・・・人間は、 神 に人間として 決定的に承認されていると 知ることによってはじめて、 人間になる」. "。. なお、 ロマ 7 章 22 節の「内なる 人」についてはさまざまな 解釈があ るが、 パネ、 ンベルクによれば、 叩 内なる人』とは、. キリストの救いへと 招かれているその 人間の定めの 光に照らし出された、 その 人間自身のことなのであ る。 そのような視野に 置かれるとき、 かつて回心以前にそうであ った自分 というものが、 いまや回心を 経てこのようにしてあ ると考える自分とはきわめて 異なっており、. し. かもなお、 異なってはいない、 同一の自分だ、 ということになるのであ る」,2。 この考えを筆者な りに敷桁すると 次のようになる。 本節の叙述では、 キリストを信じる 前の古い自分と 信じた後の新. しい自分とが 画然と分かれるような 印象を与えたかもしれないが、 実はそうではない。 表現が難し いが、 各個人の自己同一性. ( アイデンティティ ). はずっと変わらずに 連続している。 創造者なる 神. に 割られた、 そのような者として。 ただ、 古い自分 知らないで、 自分が見る. (思いこむ ). ( パウロの言う「 内 なる人」 ). 自分の姿を真の 自分だと妄想する. 分の見る自分というものは 本当の自分ではないのではないかと 疑って. 強まると自分に 絶望 り 、 どこか外に. (遠くに ). は自分の真の 姿を. (虚偽の罪 ) 。 あ ( 自分に不安を. るいは、. 自. 抱き、 それが. 本当の自分があ るのではないかと 夢想して、 拍分. 探し」を始める。 ここには確かに 一定の真理契機はあ るが、 いわば視線を 向ける方向が 間違って い る 。 グノーシス主義思想の 本質的構成要素の 一 たる「本来の 自己」概俳がもつ 誤劃 3 の現代版であ. る。 真の自分は、 堕罪によってひどく. 歪められてしまったが、 しかし失われることなく、 いわば ほ dei)」概俳. そぼそと、 自分にも気づかれることなく、 存在し続けている。 それが、 「神の像. (㎞ ago. が主張するところであ. 向けると見えてく. る '4。. 視線を正しい 方向に. ( つまりイェス・キリストに ). る 、 あ るいは、 開示されてくる、 真の自己とはどういうものかについては、. 2. l (u以下でいくら. か 詳しく論じる。. この点については 本紀要 N0. 3 の「 2 . 9 . 自己認識」でも 触れた。 E Jllneel,Wertlose Wahrheit,T は bingen, 1990 , S. 182.. Jiineel,op.cit.S.198. パネ ンベルク双掲 書 、 147 頁。. 主義・・・において、 すべての世界. 的存在からの 人間存在の根本的異質性がはじめて desNeuen Testaments,T 廿 bineen, 1965, S. 168. キーワードは「自己の 天的起源の知識」 (ebd.) であ ろう。 拙稿「カール・バルトにおける 神の像の間 題 」横浜国立大学人文紀要第一類哲学・ 社会科学 第二十 「バノーシス. 意識された。. ・. ,. (世俗 ). ・世は人間の 本来の自己に 対して異質で 敵対している」。 R.BuItmann,Theologie. 四韻、 1978 、 参照。.

(5) 「自己」についての 神学的考察. 99. (ぉ ). 本 考察 (1) でたびたび言及した 多田富雄によれば、 癌 ウィルスを含めてすでに 人間に住みつい. 抜な. 「. てしまったウィルスや 寄生虫は、 身体的にはすでに. ニ. 自己』に属することになる」. " 。 これは、 パ. ウロがとりわけロマ 書 7 章で対決している、 自己と 罪や悪 、 さらには悪魔、 との関係についての 卓 アナロジ一であ ると 思 つ-. 2.. 9.. 4. 自己理解. ヨハネ福音書では「 世 (koSmos) は自己を神の 被造物として 理解しない」 (IV/1,75L 。 「世は最も 深く 、 最も致命的な 自己欺備にとらわれている」 バルトは KD. (82L。. の多くの箇所で 近代批判を展開している。 すな む ち、信仰の私事化 (Privatisierung) 、. 古 プロテスタンテイズムによる 和解・義認・ 聖化の心理的な 恵みの体験への 縮減、 敬虔主義におけ るそのいっそ. う. の進展、 つまりはキリスト 教の主観主義化 (IV/1,164-165) 。 啓蒙主義の神学は「人. 間の自然的自己理解をキリスト 教的思考の基準に 高めてしまった」. (532-533) 。 このような 前 理解、. 人間の自分自身への 信頼はしかし、 力ルヴ アンの言い方を 借りれば、 蕊 atus co 「「 uPtlonlS ( 堕落状 態 ) にほかならない (533L 。 近代の人間学の 自己理解はナルシシズムに 基づいているから、 近代人 の 自己観察、 自己判定、 自己描写、 自己分析は間違った 道を歩んでいる (IV/3.91gL 。 この罪人リス. トにはさらに 実存主義、 Ich-Glaube. ( 自我信仰 ) 、. 主観主義哲学、 キリスト教的個人主義が 付け加. わる (1V71,846) ,6。 しかし教会の 語りかけの対象たる 人間は、 あ くまでも彼自身であ って、 近代 の自然的自己理解が 教えるような 人間像ではない (IV/3, 920) 。 「恵みの言葉は 言. う. : お前と語って. いるのは 私 イェス・キリストだ。 お前は 、 私がお前の中にいようと 意志することによって、 私の中 にいる。 私に固着せよ。 私がすでにお 前の保証だ。 私の勇気はすでにお 前の勇気だ。 だから、 Wage. es,zusein,derdubist. ( 勇気をもってお. 前がお前であ るところのものであ れ ) (IV/3,287. 強調は原. 著者 ) 。 使徒パウロの 自己理解,自己証言 (W/3, 678) 、 SelbStbezeichnungen. (699)、 自己描写 (740). ほ ついての叙述も、 キリスト教的自己理解に 関する具体何として 興味深い。 2 . 9 . 5 . 白煮 i哉 (SelbstbewuBtsein). これについては 本論考 1.. 2.. 3 で精神医学的観点から 簡単に論じた。 KD. ではこの語はほとん. ど 使われていない。 この概念の意味する 事態はこれまで 述べたことに 既に含まれているからであ ろ. う。 一箇所だけが 引用に値する。 シュライアーマッハ 一にとって「神学はキリスト. religiosusincurvatusinse. ( 自己の内部に. 教的な敬虔な. 自. (己 ). 意識それ自体、 homo. 向かう宗教的人間 ) の自己解釈であ るほかなかった。 彼. は上述した 古 プロテスタンティズムの 縮減傾向を、 天才的にまた 首尾一貫して、 その終局にまで 導 いた」 (IV/l,. 169L 。. 2. 9. 6. 自己観察. ( 省察 ). Betrachtung ないし contemplatio は神秘主義の 出発点であ り、 その対象はもっぱらまず 自己自身. ". ". 多田富雄『免疫の 意味論』 青 土社、 1993 、 214 頁。 この問題については 拙稿「啓蒙主義の 理解をめぐって 一一ディルタイ、 トレルチ、 ティリッヒ、 バルト一一 横浜国立大学人文紀要 第二 類 文学・語学 第三十四韻、 1987 、 でいくらか詳しく 論じた。.

(6) 小林. 100. であ. 謙一. (fTT/4,643-644)。 しかしこの方法によっては、 神秘主義者が 主張するような 自己変革はあ. る. りえない。. 「. 由引 省察それ自体は 出口のない袋小路であ. (646)。 この道も視線の 方. るほかない」. 向の誤謬であ る。 付け加えれば、 神を次の観察の 対象にするのも、 神秘主義の誤りであ. る. (647)」。. 神は、 というより、 神が、 行動の主体なのであ るから。 パウロは「私は 自ら省みて、 なんらやましいことはない」 同時に、 「私は自分を 裁かない」. (4章 3 節 ) とも言. う. (. 1 コリント 4 章 4 節 ). 。 「私を裁くのはキリストただ. と. 言. う. 一人」. 。 しか彼は (同 ). だか. らであ る。 自己審判は、 神学的には、 越権 であ る。 なお自己瞑想、 (Selbstbesinnung) について短 い 言及があ る (IV/1, 47 ; IV/2, 360) が、 内容的 に 付け加えることはない。. 2.. 0 .現実の自己. 1. 2.. 9.. 1. で紹介した Km. Ⅲ /2 S44, 2 の次の節が 3. Der wirkliche Mensch. (現実の人間 ). であ り、 ここでバルトは、 前節が「批判の 部分」であ ったのに対して「構成的部分、 positivな 答え」 を 展開している (158L。 「自己」に直接に 言及しているところを 紹介する。 本論考の文脈からすると 1.. 2.. 5. への神学的応答となる。. 「人間であ るとは、 神とともにあ るということであ. る」. あ る。 これが歴史の 中で実現したのがナザレのイェスの. (167, u. passim) 。 これが基本テーゼで 出来事であ る。 「イェスが人間であ. ら、 ・・・人間存在が 明らかになった。 ・・・イェスにおいて、 が自分自身に 対して明らかにされた」. るか. 人間に対して 神が示され、 また人間. (165-166L。 この事態に「まさに 対応して、 人間は今やもはや. 自己のもとにとどまることができない。 人間はこの丘 emd にして高く優越した 他者、 自分の創造者を 見るよ らない」. う. 決意し、 また自分を開き、 神に自分を、 自分を神に 、 向かい合. ものとして見なければな. (211L。 「人間自身、 現実の人間、 とは、 このような認識過程において. 分自身であ り、 かつ 「人間は神に となる」. う. (神に向かって ). 自分自身を措定する、 そういう存在であ. (神からすると ) る」. 自. (212L。 こうして. 向かって自己から 外へ出る。 自分自身に対して 距離をとる。 ・・・自分に 対しても他者. (212)。 そこで人間はいわば 改めて「自分を 客観的に認識し、 自覚する一一神から 来て神に. 向かう存在として」. (212L 。 そこで改めて「私は 私自分を見いだす」. コブ書 1 章 25 節にあ る「目標へ導く. (213) 17。 真の自己認識は 、 ヤ. 自由の律法を 一心に見つめ」、 その下に固くとどまることであ る。. ここでこそ、 自分自身であ ることができ、. 自分自身を自分の 前に 、 見ることが許される. (215)。. ここから導かれる 人間のあ り方は、 一言はきとめれば、 自由ということであ る。 つまり、 神の前 の自己責任 (Selbstverantwortung) における存在が 人間存在なのであ ら 存在する ) る」. 神が人間に関わってくるから、 人間存在も自存的存在. る. (229-230)。 「自存する. (selbstseiendesWesen). (自. とな. (230L。 そして人間は 自己の可能性、 自己の存在を 選ぶ自由をもつ (235L。 「しかしそれは 罪を. 犯す自由ではない。 ・‥ potestnonpeccare,nonpotestpeccare.(. お前は罪を犯すことができない. ). 」. (235L。 「人間は事実、 善なのであ る。 このことは、 人間の罪によっても 変えられない。 罪によって 人間が自分にとって 失われるということはあ るかもしれないが、 人間が神にとって 失われるという. ュ ンゲルも同様の 理解を示している。. 「人間は、 神によって自己存在を 破られて、 自分自身に向かい 合. う. 場. 所に移され、 そこで自分との 新たな一致を 得る。 ・・・・人間は、 自己の外で、 つまり絶対他者、 神のもとに あ り、 神に信頼するから、 自己を人格として 神から新たに ぅ けとる。 ・・・神からして 私は新たな、 高めら れた仕方で、 私自身であ る。 JUngeI,op.cit.S.104f. (強調は原著者。 ) 」.

(7) 「自己」についての 神学的考察. (3). 101. (235L。 現実の人間はぼ、 されている。 それが人間に 把握できない 罪に覆われ、 とらわれ. ことはない」. ているからであ る。 現実の人間の 痕跡を我々は 自分の内にも 他人の内にも 再認できない。 しかしそ れは神にとっては 失われていない、 神には知られている。 そして神はその 現実の人間をわれわれに それが一人の 人間イェスであ る (235-236) 。 つまり、 このようにして 我々は真の自己. 知らせた. を 知ることができる。 2.. 1 1 . 共同的自己. KD. の次の. および 1.. (fTT/2,S45 「神の契約相手への 規定における 人間」 ) が、 本論考 1.. S. 6.. 5. 2. 12. への答えあ るいはその神学的展開となっている。 要約して紹介する。. 第 1 節「イェス. (241). る. 2.. 他人のための 人間」が出発点であ り基礎であ る。 ここにこそ、 現実の人間があ. その 最 内奥の規定における 人間が. 各個人 ) の場所に立ち (代わりとなり. )、. (251-252)。 イェスは、 現実に隣人 (Mitmensch. 隣人のために (各人に代わって. ). 自らを犠牲に 捧げた (253). 18。 ここにおいて、 人間の人間性は 神の神性に対応し (entsprechenk 、 それの模像となり (abb Ⅱden) 、 反映する (spiegeln)、 つまり神性への 類似 (Ahnlichke瑚が成立する (258。. 268 、 315 も同様 ) 。 しかし. この場合、 神性とは実体的にとらえられてはならない。 それは関係性、 隣人性 (Mitmenschlichke 田 であ って 、 神はイェスにおいてそのような 関係的人間性を 人間の間にも 繰り返し (wiederhole り 、 隣 人性の似 像 (Nachbild) を創り出す (260)。 こうして、 神の契約 (Bund) の像 (imagodei). なのであ. る. に基づいて、 人間は神. (261L。. その具体化が 続く第 2 節「人間性の 根本形式」であ る。 一言はきとめれば、 それは「隣人との 共同 存在 (Mitexistenz seines Mitmenschen). 」. (270)であ る。. て、 他の人間との 共同存在という 規定に存する」. 「あ らゆる人間の. 人間性は、 端的に言っ. (290)。 我は汝なしにはない (292)。. 「. 細 chbin 》. 一真の、 充実した 細 ch bin 》一一とは、 言い換えれば、 《私は出会いの 中にあ る》ということで あ る」 (295L。 さらに、 大事な点として、 このような我と 汝の共同存在は、 その最深の本質において、 (喜ばしい ). gerne. 第 3 節「地楡. ものであ ることが強調されねばならない. と 希望としての. (321L。. 人間性」は人間の 本質をさらに 具体化して、. 「. 男 と女」の向かい 合い. (Gegen 廿her) を共同人間性の 中心また基本形式として 詳しく展開している。 人間が男と女であ. る. ことの根拠は、 自然や歴史また 文化にはなく、 神による創造にあ り、 さらにその最後の 根拠は神の 三位一体にあ る。 男にとって女が 、 女にとって男が、 すぐれた意味で (Sensueminenti) Mitmensch 2.. なのであ る。. 1 l . 1 . 他者. ス. キ. 1.. リ. ト教では他者は「隣人 (derNachste) 」ととらえられる。 この観点からの 考察が、 本論考. 3. への答えとなる。 「. い。. 異なる人間、. @ 新約聖書には、 すべての人間への 愛 、 つまり一般的. (普遍的 ). ・・・人間の 愛は、 神の愛に対応して、 選び、 区別する愛であ. 人間 愛は 一度も語られていな. る」. (KDIV/2,. 9l0L。 人は「特. (911) にあ る隣人を愛せ、 「特定の場所、 特定の関連で、 共にいる人を 愛せよ」 (915) と命じられている。 ( ドイツ語で derNachste とは「最も近い 人」という意味であ る。). 定の、 特別の、. ". 近さ」. イェスの犠牲の 意味については、 拙論「代理観俳の 神学的考察」横浜国立大学人文紀要 第三十九 輯 、 1993 、 28 一 29 頁、 参照。. 会科学. 第一類. 哲学・ 社.

(8) 謙 土日. の. 福. こ. る. で. あ. こ. と. @Ⅴ り. フ. と. 9 1 9. 5 1 9. @V. 六C. し. な. こ. 愛. う. の. よ. 白日. 身. 12章 31 節 および平行箇所 ) は、 自分を愛するときの 切実さをもって 他人. ( マルコ う. 1 l 円 立・. お. 人. を. う. 隣. ユ% 1 j. は. お. 問題 、は. を愛せよ、 というふ は違. 林. Ⅰ /Ⅰ. 2 0 l. 書の イェスの言葉. に解釈されて、 自己愛を肯定する 根拠にきれることがあ るが、 バルトの解釈. 。 「《自分のように》、. すな ね ち、 自分自身として」. (929L。 つまり、 「自分を他者の 自由使用. に供すること、 自分の心を、 自分の側らにではなく、 その人の側らに 見出す、 ということであ る (931 一. 932L 。 このようなことは、 自然的な人間には 不可能であ る。 隣人愛は神の 愛の模像・模倣 (930). としてのみ可能になる。 つまり人間イェスの 模倣・模像・ 対応としての 愛 (935L。 「キリスト教的 隣 人愛の秘密は、 最後のところ、 決定的・根源的に、 イェス・キリストの 秘密であ る」 (932 、 強調は 原著者 ) 。 2.. 1 0 ・に略述したよ. う. に、 「イェスは人間のための 人間」 (fTT/2,248) であ り、 イェ 「. ス こそ隣人の心優しい 隣人」 (251) だからであ る。. 2.. 1 1 . 2.. アガペ ーと エロース. 新約聖書で「 愛 」「愛する」と 訳されているギリシア 語はすべて、 agape,agapao であ って、 eros は. 一度も使われていない。 愛は大きな項目であ るが、 ここでは「自己」の 問題に関わる 側面だけを 扱 ワ 。. 「アガペ ーは ・・・献身であ る、 しかし他者のために 自己を失 ろ エ ロース愛であ ろう. う. ことではない、 ・・・それはむし. (IV/2, 846) 。 愛は他者のために 自己を空しくするが、 しかし、 相手に没入. し 、 自分がどこかへ 行ってしまっている、 というのではない。. なっている、 その自分は、 (神の眼から見ると. ). 愛する他者. ( 隣人 ). のことで一杯に. 確固とした輪郭をもって、 充実して、 そこに生きて. 行動している、 ということであ ろう。 自分自身を欲し、 探し、 求めている」 (850 、. これに対して「 エ ロース的人間は・‥つまるところ. 強調は原著者 ) 。 しかし彼は自己を 見出さない。 自分を求める 限り、 自己を失 (本稿. う. からであ る (851)0. 2, 9. 3. で批判した「自分探し」。 ) しかし人間は 自己追求にピリオドを 打ってよ い (851L。. 「キリスト教的 愛は、 人が自分自身を 救お. う. とする意志を 断俳することによって、 人間を救. う. 」. (851) からであ る。 人は自分で自分の 髪の毛をつかんで 引っ張り上げることはできない。 むしろ、 キルケゴールに 倣って言えば、 「手を放す」ことが 必要であ る。 「神は自分をでなく、 ・・・人間だけ を 、 人間 旦 身を求めるから」 (851、 強調は原著者 ) 、 神が受け止めてくれるから、 安心して手を 放し. てよいのであ る。 神は人間の自己を、 求めるだけでなく、 見出す、 いな、 創り出す。 だから「人間 は 、 欲求し、 探求して得られないものを、 断俳の 力 によってでなく、 神の愛に答える 献身の 力 によ って、 すでに得た。 彼自身が、 神に愛される 者なのだ」. (851 一 852 、 強調は原著者 ) 。 アガペー 愛が. 「自己」を正しい 場所におく、 ということであ る。 「アガペ ーは エロースから 対象を奪い、 エ ロース を不要にすることによって、 それを克服する。 (852L。 しかし エ ロース的 愛は 、 最後のところ、 否定されない。 「神から来る 愛において、 またそれととも に、 エ ロース的人間にも Ja が言われねばならないし、 また言われるであ ろう」 (IV/2,. 849) 。. ェ. ロースはギリシアにおいて 自由、 特に人間と人間の 共同生活における 自由を育んだ (1D72,341)。 そ れは、 人間性が自由で 開放的、 自発的で喜ばしく、 また明朗で社交的であ ることを教えた (341)0 その影の面 (341) にもかかわらず、 「キリスト教 り愛を、 人間性 由. れてはいない、 自然的な. ;. つまり神に創造された. きっかけを、 ギリシアとそのエロースは 与えている」. 転倒し堕落した、 しかし失わ. 人間の性質 (Art)の覚醒・実現として 理解する. (342)。 愛について詳述する Exkurs. (fTT/2,.

(9) 「自己」についての 神学的考察. 336-344) では gerne. (喜んで ). 間性、 自然性の根源に 属するのであ. る. よ いこ. (342-343)。 す な れ ち この喜ばしさは、 被造 性、 人. (343L。 だから「エロースと 連帯」することができる. 「キリスト教的愛は 人間性 (Humanitat)を内包する」. ! (343)。. (340) のであ る。 「この下へ向かう 関連、 す な れ. を経てギリシア 人のエロース ヘ 、. という繋がりは、 新約聖書の時代に、. (344L。. 諸領域のいかなる 分離にもかかわらず、 明らかに存在した」 本稿 2.. 103. という副詞が 頻出する。 それは新約聖書の 何箇所かにあ る、. と、 尊敬すべきことの 一覧表と結びついている. ち アガペ ー から Humanitat. (目. 1. で触れた、 gerne を本質とする 共同存在という「人間性の 根本形式」は、 アガペ. 1. とエ ロースを包含する、. ー. ということであ ろう。 バルトは創世記 2 章の男と女の 創造の記事について、. 「聖書はここで 全ギリシアよりはるかに 真面目にエロティックに 考え、 語っている」 (353) とまで 述べている。. 1 1 . 3.. 2.. 2.. 1 1.. 自己愛. 1. で触れたよらに、. 自己愛は正しくない。. 「自分を愛するというとき、 人間は自分自. 穿 と一人だけであ る」 (1/2, 427,499) 。 しかし、 上述したように 人間の本質は 共同性であ って、 「愛 には Gegen 廿ber (相手 ) 、 対象がいる」、 だから「自己愛の 戒めの発明は、 アウグステイ ヌス に反対 して、 根本的誤謬であ る」 (427L。 「アウバステイ ヌス にとって、 自己愛としての 自己主張は神の 三. 位一体的自己愛への《関係の 類比》において、 自己を愛し認識する 精神. (霊 ). の性質を得る。. 《霊は. 自己への燃えさかる 愛に身を焦がす》。 この思想は神秘主義、 実存哲学に受け 継がれている」 " 。 ア ウグスティヌスの 思想を詳しく 調べなければ 確定的なことは 言えないが、 見当としては、 三位一体. を人間に類比として 適用するなら、個人にではなく、隣人との共同関係に 適用すべきであ ると思う。 なお、 神秘主義、 敬虔主義、 ロマン主義への 批判については、 本論考 2. 論じた。 愛に関するこの 思想の系譜については KDIV/2,. 7. において別の 文脈で. 901 一 905 参照。. 「私が私の隣人を 愛するなら、 それはまさに 私の自己愛に 対する裁きであ. る」. (1/2, 499L 。 私が. ほ し とうに他者を 愛するとき、 私は自分のことにかまけている 余裕などがい。 隣人愛が自分の 心を. 満たしていて、 自己愛を追い 出し、 滅ぼす、 ということであ ろう。 そもそも我々は 罪人だから、. も. ともと我々のうちに 愛はな い のであ る。 隣人愛を実現するのは「神の 自由な恵みという 奇蹟」だけ であ り、 主 イェス・キリストの 手の中で他者もまた 隣人であ る、 キリストはその 人のためにも 人間 「. となり、 死んでくれた、 ということへの. 信頼」. (502) にのみ、 隣人愛は根拠をもつ。. 「神と隣人を 愛せとの戒めの 下に立つ者には、 自己愛. 最高度に洗練されたものであ っても一. (IV/3, 679-680)。 つまり、 自己愛は. 一は全く問題にならない」. (放逐され、. 滅ぼされる前に ) 、 そ. もそも不要になる。 要らなくなった 自己愛を我々はどこに 持っていけばいいのか。 「我々は我々の 心 配、 自分自身についての 心配、 を神に投げかければよい」. (503 一 504) のであ る。. 木村敏は自己愛について 精神医学の観点から 深い洞察を示している. 別。. 木村は、 自己愛はナルシ. シズムとは違う、 それは「自己が 自己自身によって 愛されるべきものとして 肯定されるということ」. (135頁 ) だとして、 アリストテレスや 西田幾多郎とともに、 正しい自己愛の 必要を説いている。 れは、 前述したような 意味での現象・ 兆候として、 当たっていると 思. 根拠として、 「自己が相手によって 19@. RGG@3.Aufl. '。. 木村 敏 『自覚の精神病理. , 1961 ,. Bd V , Art ・. コ. ・. T 愛されるべきもの. "Selbstbehauptung"@. von@H. コ. う. 。 しかし、 正しい自己愛の. として肯定される」 , van@oyen. 紀伊国屋書店、 1993 、 128 一 136頁。. , Sp. ・. こ. 1672. (同 ). ことが挙げられ.

(10) 者 他. 手 ﹂. 相. な 勺 白. 音. め. るあ. の. や. 火箸 友が. @V. 親ぅ. てと. めが. のけ. 深は 最れ. る. 実な 現れ ら て見 めが. 渉. を肯. プし. 一よ. 今仲 場る るた. 1 1 . 4. 謙. 林 Ⅰ﹂Ⅱ. 4 0 1. 2.. 教会的自己. 教会については 本論考 2,. 6. で、 キリストとの 共同性からの 帰結として短く 論じたが、 ここで. は 他者性の具体化という 観点から、 いくらか補足しておきたい。 イェスの召しは 人をまず個人にする " 。 しかし召された 者はキリストの 体の一つの肢体となる (1 コリント 12章 12-31 節 ) 。 これが信徒の 自己にとって 不可欠の契機をなす。 「教会 (Gemeinde). の肢体. ( メンバ一 ). はそ. の中に生きるのであ るから、 各個人の祈りは、 それ自体必然的に 、 他のメンバ. 一のための祈りでもあ. る」. (fTT/3, 318L 。 祈りは「キリスト 教的自己建徳 (Selbsterbauung) の 最. 高の形」「自分との 対話」と理解されてはならない 「教会の堕落の・・・ 一つの形が自己栄光化であ. (321L。 (IV/2, 756L 。 これは、 傲慢な自己主張に. る」. ょ. って 、 世において自己を 自己のために 展開し維持しょうとする 誤りで、 自分を見失って 世に合わせ. てしまう世俗化という 逆の方向の誤りと 並ぶ危険であ る。 個人の罪の第一の 類型の教会 版と 言えよ ぅ. 。 「教会 (Gemeinde). は 、 他ならぬイェス・キリストの 教会として、 自己を超え、 自己の外を指. し示す。 ・・・そしてまた、 彼の教会として、 自己から自由であ る」。 (IV/1, 809) 。 この教会の正し. があ り方も、 個人の自己の 場合と対応している。 2.. 1 2. 精神・ 心 ・身体. KD. Ⅲ /2, S46 DerMenschalsSeeleund. し ib に基づいて、. う側面から自己の 本質を考えてみたい。 これは本論考 1.. 「. 心. (魂 ). と何としての 人間」とい. 2. 6. 「自己の範囲」への 神学からの 答. えとなる。 「人間は, Geist. (精神、. 霊 ) をもつから、 存在する」. (425)。 持っというより、 与えられている、. むしろ貸し与えられている。 「人間の Geist は彼自身ではない」. (426L。 「キリスト教徒は 自分自身に. 任されない」 (IV/2, 365L 。 イェスだけが 例外であ る。 十字架の上で「イェスは GelSt す な れ ち 自己 自身を委ねた. (放棄した ). 」. (IV/1, 337) 。 人間にとって「 Geist は、 神 自身から出るのだから、 その. 起源において、 神 自身と同一であ る。 ・・・これが 新約聖書では 聖霊と呼ばれることになる」. (fTT/2,. 428L 。 創世記 2 章 7 節によると、 人は神の生命の 息 (霊 、 ruach た 吹き込まれることによって 、 生きた ものとなった。 神の霊が取り 去られると、 人は死ぬ. (詩篇、. ヨ ブ記 ) 22。. Geist をもっとはどういうことであ ろうか。 「第一、 神が人間のためにそこにいます、 ということ であ る」 (fTT/2,435) 。 第二、 「それは人間が 自分の体の心であ るという存在様式を 決定的に可能に する根本規定であ る」 (436L。 霊 (精神 ) が心と体のいわば 統合原理、 全体としての 人間の生命原理・ 生命力だ、 ということであ る。 つまり、 心身統合体は 開かれている、 伸三蓋 に 向かって、 いわば 無 限 に遠くまで、 ということであ る。 それは完結しない。 第三、 Geist は人間を主体にする 原理であ 「. る. ". 」. (437L。 人間は神の像であ り、 神に似たものであ るから、 不完全ながら、 主体,性 ・自発性・判断. ボンヘッファー『主に. 従 3%. (上 ) 岸. ・. 徳善訳 、 聖文会、 1963 、 100 一 113 頁。 なお 本 考察 2.. 4. 参照。. "' モルトマンも 同様の理解を 示している。 「神から来て 神へ行く生命の 霊は不死であ る。 ・・・それは 死ぬこと のない関係のことであ る。 ・・・これが 神の像 (imagodei) の意味であ る。 ・・・この関係によって 我々は 神において永遠の 現在をもつ。. 」. J.Moltmann,DasKommenGottes,M. 廿. nchen,. 1995, 5. 89 一 91..

(11) 「自己」についての 神学的考察. (3). 105. ・行動力をもつ、 ということであ ろう。 第四、 Geist は心には・・・ 直接的関係にあ るが、 体に. 力. 「. は間接的関係にあ る」 (438) 。 実際には霊は Geistseele という形をとって 、 心と一体になって 働く (438 、 447). このような神学的立場からすると、 プラトンとデカルトに 代表される心身二元論は 間違いであ る. (445L。 また心身の抽象的一元論、 特にフォイエルバッハやマルクスの 一元論的唯物論も 間違いで あ る (458-468) 。 現在の問題で 言 うと、 脳という生きている 物質の一元論も 拒否されねばならない。 またチベット 仏教の一部にあ る肉体の享楽の 一元論、 さらに日本の 伝統に強固にあ る自然主義につ いても同様であ る。 そして逆の形態、 一元論的唯心論も 誤謬であ る (468-470) 。 インド古代哲学の. 一部やヨーロッパ 神秘主義のあ る傾向、 さらに「大和魂」の 精神主義は、 否定されねばならない。 聖書の心身論は 具体的一元論であ る (471)。 この点について、 多くの人は預言者エレミヤの 苦闘を. 思い起こすであ ろう。 彼のあ らゆる言行にそれは 具体的に現れているが、 特に「わたしのはもめた よ 、 はらわたよ。. られない。. 」. っても. わたしはもだえる。. (エレミヤ 書 4 章 19 節 ). や 、 「主の名を口にすまい. 主の言葉は、 わたしの心の 中. さえつけておこうとして. 心臓の壁よ、 わたしの心臓は 哺 も. 骨の中に閉じ 込められて. わたしは疲れ 果てました。. 」. (エ. う. く. 。. わたしは黙してい. その名によって 語るまい、 と捧、. 火のように燃え 上がります。. 押. レミヤ 書 20 章 9 節 ) のような叫びに 典型. 的に表わされている。 このような一元論の 方が現代の見方に 近いのではないか。 メルロ コ ポンティは. 心身の二元対立を 哲学の面で突き 破ろ うと 努力しているよ. う. に見えるし、 心身症の知見はまさに 心. 与一元を証しているのではないか。 「心と体を統合し、 維持しているのは 精神. (霊 ). であ り、 すなむち 神 自身の働きであ る。 これを. (472)。 ひらたく言えば、 世俗化すると、 つまり神が見失われる. 抽象すると、 心身の二元論になる」. と、 心身を統合する Geist が失われて、 二 つ がばらばらに 分離してしまう、 だから心も体も 不安定 になってしまう、 ということであ ろう。 「人間の言語は、 しばしばそうであ るよ 間の思想より 賢い。 ・・・我々は 単純に. T 私は考える』『私は. 見る』・・・. と言. う. に、 この場合も人. 」. (472)。 つまり 二. う. つめ 実体で表現するような 面倒なことはしないのであ る。 「人間自身とは 全体としての 人間 (der. ganzeMensch. のことであ る」 (IV/2, 366 u.passim)o. 二元論は典型的にギリシア 的な思想であ ると筆者には 思われる。 中世以降のキリスト 教において、 人間の死後、 不死であ る 魂. (心 ). が身体から分かれて 天国へ行く、 という考えが 広まって現在に 及. んでいるが、 これはプラトン・オルフェウス 系の思想が混入した 結果であ って 要素も大きく 影響したと思われるが. うより、 希望なのであ る。. 1. )、. (終末の遅延という. 本来の聖書的思想からすれば、 体の復活が死後の 定め、 とい. コリント 15章では復活した 人間は「霊の 体」になると 表現されている。. アダム以来の「土の 体」でなくて。 心身がいわば 霊に一元化するのであ ろうか。 しかしそれは 純粋 精神存在とひったものではない。 うより、 体であ る. ( それは天使の. 存在様式であ る。) 人間は復活後も 体をもつ、 とい. 霊を素材とする 新しい体で。. 人間は Geist をもち、 神 関係の中にあ ることによって、 人格 (Person) であ る (fTT/2,474) 。 こ. のような意味での 人格たる人間は、 「神を聴き取る (vernehmen, 認識する. ". 「ふつ ぅ、 心は身体に対して 内部と考えられているが、. ) よ. う. 規定されているか. 心に対しても 身体に対してもともに『内部. 団. であ る. ような領域、 それが内因性精神病の 原因領域としての 下内なるもの コ (エンドン ) ではないか、 とテレンバ ッハは考えた。 」木村飲口生命のかたち. 神学的にとらえた 霊三 精神ではないか。. / かたちの生命日 青 土社、 1992 、 203 頁。 この「内なるもの」こそ、.

(12) 106. 小林. ら、. 謙d. およそ聴き取る 者として規定されている、 つまり他の物それ 自体を自意識の 中に取り入れるこ. (478-479)。 これが理性. とができる」. の 能力をもつ。. (№ rnun. 田の起源であ る。 「人間は自意識 (SelbstbewuMsein). しかしまた同時に 、 他の物をこの 自己意識の中に 受け入れる力をもつ。 人間は自分. 自身を措定することができるだけでなく、 自己を措定することによって、 ・・・他の物をも 保 させることができる」. 自己と 関. (479)。 本論考 1. 2. 3. で精神医学の 観点から簡単に 触れたが、 神学的. に 見ても、 自意識はそれだけで 成り立っのではなく、 他 (者 ) 意識と不可分だ、 ということであ る。 しかも. 神 関係がその根本条件なのであ る。 このような理性能力から、 知覚と思考の 能力、 さらに 行. 動 ・決断・欲求・ 意志・愛の能力が 導き出される. (479 一 499) 。 「人は神を欲求し 、 神を愛すること. ができるからこそ、 およそ欲求し 、 愛することができる」. (496) 。. 人格には中心と 周辺の区別があ る。 心が中心、 体が周辺 (Pe 「 iPhe 「 ie) であ て、 心が統治し、 体が仕える」 (505L。 つまり「人間は 自分自身を統治し、. る. (475L。 「事実とし. 自分自身に仕えることが. できる存在」であ る (509L。 「人間の心が 自分の身体に 対する、 つまり自己自身に 対する、 人間の自 由であ. る」. (509L。 しかし、 二元論の誤りに 陥ってはならない。 「人間は登頭登尾身体であ. 同時に「頭のてっ 尺 んから足の先まで、 心的であ また Ge おtleibでもあ. る」. る」. り」. (5l0L、. (5l2L。 先に Geistseele と言ったが、 「人間は. (511) と言わなければならない。 二つの部分と 考えるのが間違いであ って 、. 一つの統一体の 二つの面、 というより、 相、 機能、 働き方、 と見るべきであ る。 素粒子が同時に 粒 子でもあ り波動でもあ る、 というのがアナロジーとして 役立っであ ろう。 なお、 ここでの Geistleib. は終末時の「霊の 体」とは異なり、 いわばその不完全な 未完成体であ ると考えるべきであ ろう。 なおモルトマンはブルトマンおよび 哲学的人間学との 対決を通じて、 身体と自己の 関係を論じ、 身体と環境世界・ 社会・コミュニケーションとの 関係へと視野を 広げているが、 ここでは詳述する 余裕がな. し. 柄谷行人は、 西田幾多郎が「絶対他者」を 措定することによって 相対的他者を 排除してしまった ことを批判する。 そもそもキリスト 教であ れ仏教であ れ、 絶対者を想定し、 すべての人間に 罪を内 在 化させることが 関係の絶対性を 消去してしまう、 そこでは現実の 他者が考えられていないと 同時 に、 「主体」また「責任」が 消えてしまう、 というのであ び 5。 これは本稿の 筆者と柄谷との 根本的. 立場または前提の 違いというほかない。 バルトに依拠した 筆者の「自己」・「他者. ( 隣人 ) 」・「心身統. 筆者は確信している。. 合体としての 人間の主体性」の 理解は十分に 具体性をもっていると. 「人間は. 、. 同時に本来の 、 R は 7だする客体であ りえないとしたら、 どうして本来の、 自由な主体であ りえようか」. (fTT/2,5l0L 。 柄谷の、 唯物論ないし 無神論を基礎とする 他者関係の絶対性の 主張は、 結局のとこ ろ 自己中心性を 払拭できず、 不登底にとどまると 筆者には思える " 。. 2.. 1. 3. 時間における 自己. Km Ⅲ /2 の次の. S. 、 S47. DerMenschinderZeit. は人間の時間性について 詳述しているが、 こ. こでは「自己」に 直接関わることだけを 考察する。 本論考Ⅰ ろ. う. 2. 8. への神学的答えとなるであ. 。. 神の時間、 す な れ ち 創造されざる 永遠性とは異なり、 人間の時間は 、 他の万物とともに 創造され. 甘 、 , 1 0椎ヲ 、 参 Ⅰ 批判 谷 柄 の 頁. ふ㎏9 ㏄. ㎞人ブ. 山柄イ.

(13) 「自己」についての 神学的考察. (3). 107. たものであ る (525L。 したがって「絶対時間などはない。 ・・・時間の 不可逆性もない。 ・・・神か ら 独立し 、. 神と競. 時間それ自体など、 ない」 (547L。 人間の時間の 本質は、 「与えられた 時間」. う. と. いうことであ る (617L。 ここを見誤ると、 時間の未来という 相に関して、 「自助 (Selbsthilぬ ) あ る いは自己慰安 (Selbsttrost)」という不可能な 道にひとは迷い 込む (656L。 「我々が未来を 現在にお い て絶対的に措定できると 思. う. なら、 それは自己欺 肺 であ る」 (657)。. 人間の時間は「限られた (be丘ねtet) 時間」であ. る. (671一 695) 。 「それは 縁 ( 両端 ) があ る」 (676)。. 「制限とはまさに、 割られた空間の 中で輪郭をもっということであ り、 限界があ るとは確定性があ るということであ る」 (686)。 それは「真に 限定され、 定義されている (de 丘niert). 」. そしてこのように「限定された 時間の中で生きてよいということは、 積極的 にとってよいことであ からであ. る. ( 肯定的 ). で、 人間. (683L。 それは「あ らゆる面で、 時間の主たる 人間イェスに 囲まれている」. (694L。 伯己 自身として人間は 時間内存在によって、 誕生と死という 限定によって、 構. 成されている」 別. る」. (687L。. (fmm/4,657 、 強調は原著者 ) 。 限定は善いことだ、 というのが神学的判断であ る。 性. ( その意味については. 前述した. ) .. 寿命・時代・ 民族・両親・ 社会環境等々、 個人の生はすべて 歴. 史的状況の中で 決められ、 限定を受けている。 これを不自由と 観じて無限. ( 無限定 ). へと逃れよう. とするのが、 大まかにいって、 仏教やグノーシス 主義、 また神秘主義の 選ぶ道であ る。 しかしキリ スト教はこの 限定 = 限界を肯定的にとらえる。 それはつまり 恵みであ り選びであ り、 具体性なので あ る。 これが、 個人の自己のかけがえのない 一回桂二歴史性、 さらに個体性・ 個人性・個性・ ュニ 一ク さの最深の根拠となる 27。 ひらたく言えば、 無限にあ るかと思われる 可能性の大部分を 捨てる ということであ る。 残る一 つ だけの自己を 発見あ るいは獲得する、. というより、 神学的には、 それ. を 神に受け入れられたものとして 自分でも受け 入れるのであ る。 このことはイエスの 歴史性すなむ ち一回 性 と深く 係 わる。 イェスは一人の 歴史上の個人であ った。 抽象的かつ普遍的な「人間」では. なかった。 だから個々の 人間も、 イェスの存在. ( あ り方 ). の類比として、 歴史的一回性を 生きる 勇. 気が与えられる、 つまり、 suigenerisな 自己を生きてよいのであ る。 立原道造の「落葉 林で 」の一節 " はこのような 思想、と響きあ っているように 思われる。 私 らに. 一日が. はてしなく. 雲に. 長かった やう に. 鳥に. そして. あ の タ ぐれの花たちに. 私 らの. 短いいのちが. どれだけ. ねたましく. おもへるだろう. か. モルトマンは 自己の未来性を 強調する。 「人間の自己自身への 問いに対する」神の「答えは、. 人間. とは本来 誰 であ るのか、 を教えるのではなく、 ・・・召命と 派遣が人間を 連れて い く末来に 、 彼が誰にな. 参照。. 任 1 7 3 S 6 8 9 1. he頁 n。. c9 n3. n1. M m、 lJ 9. ﹃新編. chunge. e り. ぴ角. 詩 集 コ E ︰n t. Ⅲ池垣. G. d ber. ㌧ 編 l,ほ 良 g 一. 廿 J n 村眞. E 中. 文.

(14) 小林. 108. 謙一. るか、 を示している。 ・・・人間は 自分の人間存在を 自分自身からでなく、 未来から経験する」 自己は未来にあ. る,むしろ未来からの 約束にいわば 引っ張られで、 自己になる、. う. に、 人間の自己肯定は 神のこの原初の 自己肯定に基づいてのみ 可. バルトは創世記 8 章 20-22 節に神の自己対話を 見ている. (IV/l, 26L 。. (新共同調では「主は・・. 御心 に言われた」となっている。 ) またイザヤ書 53 章 11-12 節の僕の歌の 部分にもヤーウェの 話を聴きとっている. 明瞭に. Ⅱ中 大いて 。、自 、お︵ は て に 几なっ 神 れ 性 Ⅱ れ が あ し﹂ Ⅴ @ 6離で 0 た し D間り. で論じたよ. う. @V. 1. @ つV. 8.. 見当違いであ ることがいっそ. 自 の 9 Ⅱ ミ リ おトⅤ 肌ル 白 き そ むけ阻 研 こ 為 干に. なま た 、に 時 べ えが観 力 ゆ と 客 述 ばいい て れ こ︵ るこ失 @ つV る ・ 。 ア Ⅰ 己己 あ ぬ穿と動もさの 相わ中. 自 で 能 となる。. に忠白 、目すし こは三に 自 己自 どて 己の か神 と 己と. 3 間白純 本論考 2.. 「自分探し」が. にかを. るが あン がる の えら でお な 身 な2 13. 確定だ、 ということであ る。 この観点からは、. 現在まだ自己は 未. 自己. お. Moltmann,op.. 対. (IV/1, 30)。 神は主体と客体に 分裂することがないが、 しかし主体の 内部に構. 造をもつ。 だから神の内部で 対話がなされる。 @ 約ではしばしば 神は一人称複数で 語っている。 エ スの十字架は・・・. ,. 神の回心、 innergottIichestasis(神の内部の状態、. cit.S 263. なお S. 80f. でも自己のアイデンティティが. 「. イ. あ るいはむしろドラマ ) を. 未来と約束においてとらえられて. いる。 ㎝. モルトマシはカント、 ヘルマン、 ブルトマン、 バルトを引いて、 神と人間の「自己」の 客体化不可能性を 論 じている。 Moltmann,op.cit.S.3gff ‥なお、 ティリッヒは「神は 自己とは呼べない。 自己という概念は 非 自己との分離・ 対立を含むのだから」と 言 う 。 P.Tillich,SyStemat 柚cheTheologie,Band I,Stuttgart,1980 , s. 282. このような見方は 聖書的 神 観を逸脱し、 汎神論に傾いていると 思う。 しかしティリッヒは 一方で「 神 の 自己自身との 永遠の同一性」とも. 言. う. 。 Op.cit.Band. Ⅲ, 1978, S. 458.

(15) 「自己」についての 神学的考察. Ⅰ. O9. 3,。 こうして神論は 必然的に三位一体論を 要請する。. あ らわに示す」. 3.. (ぉ ). 2. 三位一体. K D I /l, S 10 一 12 の Leits 批 ze に繰り返される. 「あ. らかじめ自己の 内部で (zuvor in sich. selber)」が示すように、 「神は自己自身への 複数の関係にあ るという仕方で、 神であ る。 ・・・神は 父、 子、 聖霊として、. (1/1, 384L。. 自己を持つ」. 「子は神への. 関係において 自己の中で、 神 内部の. 生 において、 愛であ る」 (IV/1, 76L。 だから子のわざは 神自身の Selbsthingabe,Selbstbetatigung,. Selbsteinsatz)であ. (76)。 それは「純粋に 神内部の決意」を 根拠とする. る. (69L。 神はその本質に. おいて共同存在であ る。 しかし「神の 自由な恵みの 選びは・・・ 神の自己だけに 限られない、 神 自身で満ち足りていない」 (70L。 それは「別の 仕方でもう一度」. (1 ハ , 335) 起こる。 「神は姉度繰り 返して一人の 神であ る. (369L。 この「神の中での 繰り返し、 repetitioaeternitatisin aeternitate (386) は外部との 関わ 」. りを 姥、 然 的に含む。 それはいわば 外へ溢れ出さずにはいない。 神 内部の愛の関係が、 外部に、 つま り人間に対して、 重複されるのであ る。. る"。. 「神の隠された 意志は我々に 神 自身によって 明らかにされ. 神 自身は愛だから、 その意志は自分の 中に隠されているだけではない、 それはまた明らかでも. あ る ( 啓示される ) 。. ることができる」. ( Ⅱ /1,. 義として示し (IV/1, 「神は自己を. こうして我々は 最 内奥の自己存在 (Insichsein)における 神 自身と関わ. ・. 667L 。 前項で神が義であ ると述べたが、 神は世界と人間に 対して「自己を. 593) 、 義を「執行する」. (596)。 バルトがカルヴァンを 引いて言. よ. う. う. に、. 栄光化しようとする、 ということはっまり、 神は自己の中で 自分であ るだけでぽ満足. しない。 自己をそのような 者として証明しょうとする。 神は自己自身の 外でも、 自分が何であ るか を 明らかにしょうと. 欲し、 自分が認識され、 承認、されることを 望む。 まさにそのために、 神は人間. を創って世界の 中に置いたのであ. る」. (fmm/2,218L 。. № stigiumtrinitatis(三位一体の痕跡・ 反映 ) す な れ ち その類比・模像 (KD. I. ハ , 352 一 367). が、 おそらく、 人間の自己と 神 またキリストの 自己とを っ なぐ概念であ ろう。 まず 神 自身の内部、 三位の間に 、 向かい合い (Geeentiber). .. 出会い・コミュニケーション・. パ一 トナーシップがあ る (W. /2, 382) 。 それが人間の 世界また歴史の 中に反映され、 繰り返される (384)。 「神は、 我々のもとに あ ることによって、. 自己のもとにとどまる」. (385)。 ここに反復・ 仮像関係・対応があ. る. (386)。 神. し. と人間の間に 移行・媒介が 成り立つ (387) のであ る。 この反復がなされる 舞台がすぐれた 意味での. 歴史であ る (377 、 384 、 387) 。 いくらか平明に 言えば、 人間にとってイェスの 上が「原型」また「範. (419) であ って、 人間はそれに 倣って、 仮像として、 つまり共同存在として、 生きることがで. 例」. きる. 3.. 生きるべきだ、 ということであ ろう。 「イェスの生を 今ここですでに 生きる」 (420). 3. イエス・キリスト. その人間イェスの 本質を要約すれば、. 31@ J , Moltmann. ". 「神のための. , Der@gekreuzigte@Gott , Munchen. 人間イェス」「他の 人間のための 人間イェス」. , 1973 , S , 180. 「重複」はキルケゴール 晩年の重要概俳の 一つであ る。キルケゴール 著作集 17 『キリスト教の 修練 白水仕、 コ. 1963 、 199 頁、 309 頁など参照。 ㏄. 前掲拙稿「カール・バルトにおける て 短く論じた。. 神の像の間 題. 」. 3. 一. 5 頁で、 lmagodei の根拠としての 三位一体 は つい.

(16) 小林. 110. 謙一. 「全き人間イェス」「時間の 主イェス」となる (KDfmm/2,S44 き人制とは、 上の 2.. 1 2. に略述したよ. う. 節の表題 ) 。. 一 47 のそれぞれ第 1. 「. 全. に、 心身の統合体のことであ る。 「イェス・キリスト. は 自分自身を我々の 罪のために捧げた、 とガラテヤ書 1 章 4 節にあ る。 ・・・自分自身とは、 彼の心. と体であ. る」. (395n 406 も同様 ) 。. 「ピリピ 書 2 章 7. 一. (IV/1, 334L 。 この. 8 節にあ るとおり、 彼は自己を死にいたるまで 低くした」. 「謙遜・草賊のうちに 生きられた服従」を、. 「. せ つまり被造物は 自分からは生み 出せない。. ・. 自身にしかできないことを、 神の子イエスは 服従によって 成し遂げる (228 、 強調は原著者 ) 。 こうして「 神 自身が世俗的に、 地上的に、 理解可能に、 可視的に 、 なった」 (IV/2, 54 、 強調は原 著者 ) 。 これが「啓示の 秘密」 (KD て 真の人間」. I/2,. S15 の表題 ) であ る。 イェス・キリストは「真の 神にし. (5 15 、 第 2 節の表題 ) なのであ る。 言いかえれば、 「人間イェス. (unio)、 とりわけ uniohypostatica. 」. と 神の子との一致. (IV/2, 54-64 に詳述 ) の神秘であ る 3。 。. 共観福音書を 読むと、 地上のイェスは 自分が誰かということを 暖昧 にしているという 印象を受け る 。 意図的にそうしているのかもしれないし、 または自分でも 自分が誰であ るか知らないのかもし. れない 35。 ここにイェスの 自己の秘密が 隠、 されているよ. う. に思われる。 ュ ンゲルの解釈によれば、. 「イェスは自分が 自分自身に近いよりも 自分を神に近くした。 ・・・彼の自己存在にとって 、 神は interior intimo meo であ った」 36。 逆説的に響くかもしれないが、 イェスにおいては、 自分の自分. への距離よりも、 神の自分への 距離のほうが. (無限に ). 小さい、 ということであ る。 いわば、. 自分. の底には自分ではなく、 神があ る、 ということであ る。 「イェスは神なしでは 自己自身ではない」, 7。. ヨハネ福音書のイェスは「子は 父のなさることを 見てする以外に、 自分からは何事もすることがで きない」と言. (5章 19節 ) 38。 いわば自分そのものは 無 なのであ る。 この事態を積極的に 言えば、. う. 「イェスの新しいアイデンティティ、. つまり。 ・・自己理解は、 自分が無比の 仕方で神の意志. と. 一. 致していることを 知っている人間の 自己理解であ る」 3。。. この人間イェスが 、 我々すべての 人間の原像であ る。. 4. 結び 本 考察 (1) ∼ (3) の全体を振りかえって、 まとめてみたい。 キリスト教神学が 扱. う. 人間は. 、. 神 またキリスト と 関わる人間であ. り、 神の行為すなむち. 愛の対象. となる人間であ る。 人間の何らかの 条件・持ち物・ 属性・特長ではなく、 その人自身としか 言えな い、 人間の全体が 神の、 したがってまた 信仰者の、 関心事であ る。 これを聖書は 心・ 魂 ・いのちと 言い換えている。 キリスト教は、 ということは 神は、 人間そのものに 関心をもつのであ って、 とは何かという 問いには. ;. 厳密にい うと. 、 関心をもたない。. (praktisch) であ る。 Praxis す ねね ち、 神の行為、. 「自己」. キリスト教はその 意味で、 実践的. およびそれに 応答する人間の. 行為、. に関心を集中. E. J 廿 ngel, Ba th-Studien, G 廿も e sI0h, 1982, S. 343: Go es Selbs iden i住 zieYung mitdem Menschen Jesus. また Entsprechungen,S.273 で ュ ンゲルは unio hypostatica を論じている。 35 Moltmann,op.cit. S. 101 参照。 モルトマンは、 未来が彼のアイデンティティを 生み出すであ ろうとする。 36@ E , Jtingel, Gott@als@Geheimnis@der@Welt , Tubingen , 1977 , S , 490 a4. 37@ 38@. Ⅰ. Ⅰ. Wertlose@Wahrheit , S , 230 S Schuiz , Das@Neue@Testament@Deutsch. 寸. 名. Ders , , ・. m. a。. もも. J 廿 ngel,Wer. も. l0se Wah. 耳. heit, S.235. ,. Das@Evangehum@nach@Johannes. ,. Gottingen. ,. 1972 ,. S , 87f ,. @.

(17) Ill. (3) 「自己」についての 神学的考察. 連関と現 て己へ 2 もがじらいこ ・候 家ら 見あ るは ﹁ 析 兆象 現 現 2 ︶ 教 ﹁ 分 は 神 た の、 はか 我 ト慢 は リ自 ・Ⅴ. 月 ﹂. 5 Cゴ p 一u レ 明 人. べ可 そと 受﹄ 述 神 学 を 道 をが 学 精 神 饗 T ぃ 科 は 教 影 映画 る Ⅱ @ Ⅴ 頁 。 て 4 2 ま 医を間り 述 のし 2 一 Ⅰ 神 人 9 て 精︶ 脳 をこ はキ は己 し 一 男、 書 実、 は神・と ず す み M 笠 一。 昭 4 、 A 1 99.. し関ィ属精︵ こに 関 , り精度に も へ 見る自. むかレ 。 吐 し 々 イ ・ @ @@ ブし お金ぅ レ すはうン部 、 て 兆立 の間あ る る 科 の の 関 触 キ な , の 違 い こ で でな く 分裂 な う のが と す人 学で わぅ い 象 の 愛 の が 手論 とると述 て能の 一け.

(18) 小林. 112. 謙一. の女主人公ジェル ソ ミーナの生き 方も興味深い 何。 ジェル ソ ミーナの姿はボンヘッファーが 示唆し た. 旧約的な「この 世的」信仰。。 を思わせる。 彼女は現実の 生から決して 離れない。. あ. りのままの自. 公 で精一杯生きている。 自己との乖離の 全くながあ り方であ る。 自分のことを 考えることなど 全く. ない。. あ えて言えば、. 自分などない、 自己のことなど 考えなくてよいのだ。 (, 士'). 。。. 司書 212 一 214 頁。. 朽. ボンヘッファー 選集 V 『抵抗と 信徒』 倉 松助・ 森 平太 訳 、 新教出版社、 1964 、 249 一 274 頁。.

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参照

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