茨城大学教育学部紀要(教育科学)40号(1991)13−25 13
科学の方法とは
理科教育に関する科学論的考察一
前田 安生*・高瀬 一男*
(1990年9月14日受理)
APhilosophical Study of Science Education
Yasuo MAEDA and Kazuo T飯KAsE
(Received September 14,1990)
1 は じ め に
理科教育とはそもそも何を目的にして行われる教育かということについては現在に至るまでいろ いろ議論されてきている。学習指導要領では科学的な方法や自然の事物現象などについて教える教 科としている。それに対して,理科教育は自然科学そのものを教えるべきであるとするものなどい ろいうな意見がある。
さまざまな意見があるにせよ,理科教育は自然科学を基礎に置く教科教育であることは疑う余地 のないところである。むしろ,自然科学と教科「理科」との関係を巡っていろいろな議論がなされ てきたと言ったほうがよいかもしれない。したがって,理科教育の目的について論ずるためには自 然科学とは何かということを正確に認識する必要がある。
しかしながら,今までなされてきた理科教育の目的に関する議論を見ると自然科学について正確 に認識されているとは言えないものもいくつか見受けられる。なかでも,問題と思われるのは「観 察の理論依存性」を唱える新科学哲学の影響を受けた考えである。この考えによると実験・観察は その結果に実験者,観察者の主観が反映されるために必ずしも客観的なものとはならないのである。
実験・観察というのは自然科学における主要な活動の一つである。この客観性が否定されること になれば自然科学の基礎が大きく揺らぐことになる。そうなれば,理科教育にも大きな影響を及ぼ すことは必至である。したがって,自然科学における実験・観察とはいかなる行為か,また自然科 学においてどういう役割を果たしているのかということを見直してみる必要があると思われる。
*茨城大学教育学部理科教育研究室.
H 「観察」とは何か
観察というのは自然科学における基本的な方法である。これは,あるがままの自然(これについ ては議論のあるところだが,ここでは取り扱わない。)を見つめることにより,情報を得ようとする 行為である。自然科学の客観1生というのは,観察が実在である自然を反映していることに根拠を持 つものである。しかし,「観察の理論負荷性」などと称し,観察の客観性に疑問を投げかける考え
も少なからず存在する。したがって,観察の客観性ということについて検討する必要があると思わ
れる。
アメリカの科学論者ハンソンは「観察の理論負荷性」ということを唱えている。見るという行為 の中に解釈が含まれており,解釈は知識に基づいてなされる。そして,ある対象についての観察は それについてあらかじめ持っている知識によって形成される。したがって,知識内容が異なれば同 じ対象について違った観察がなされることになり,観察の客観1生ということはありえなくなると言 うのだ。
また,東京大学の村上陽一郎氏はハンソンと似た立場を取る科学論者である。彼は事実の理論依 存性,理論の共役不可能性などといった基本的なアイデアをハンソンと共有している。この二人の 科学論について検討していこうと思う。
1.ハンソンの考え
ハンソン1)は,ゲシュタルト転換図形と呼ばれるいくつかの絵を指し示して議論を始める。これ らの絵は何通りかの見方が可能である。すなわち,図1−1は三通りの立体に,図1−2は老婆と 若い女性に,図1−3は熊の取り付いた木と枝を払われた木に,図1−4は鳥とかもしかに見るこ とが可能である。さらに,図1−4は図1−5のなかでは鳥に見え,図1−6のなかではかもしか に見えることを述べ,《見ること》の文脈依存性を指摘する。
また,彼はX線管をながめる物理学者と素人を引き合いに出し,「二人は同じ視覚経験を持つに 違いない。しかし,二人はそこに違うものを見る。素人はガラスと金属でできた物体を見る。物理 学者は,その物体がX線管であり,かくかくしかじかの性質を持ったものとして見る。」と述べて いる。そして,「物理学者が見ているのと全く同じものを素人も見るのだけれど,素人のほうはそ
ういったことを余り学んでいないので,物理学者と同じようには,それを解釈できないのだ」とい う反論に対し,「物理学者が,素人がX線管を見るときにしていること以上につけ加えて何かをし ているということはありえない。」と答えている。
これらのことから彼は,「《見ること》は, 理論負荷的な 試みなのだ,という言い方に一つ の意味がでてくる。Xについての観察は, Xについて予めもっている知識によって形成される。」
と述べている。そして,「観察者の本当のねらいは,自分の見ている観察事実を,今までにすでに 確立されている知識体系という背景と,うまく合わせてみることにあるのである。こういう形での
《見ること》こそ,観察の終局点である。」としている。さらに,「どのように解釈して見るにして
も,その解釈は見ること自体のなかに現存するのである。とすれば,『解釈することこそ見ること
である』と言いたくなる。」と述べている。
前田・高瀬: 科学の方法とは一理科教育に関する科学論的考察一 15
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