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科学の方法とは理科教育に関する科学論的考察一

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茨城大学教育学部紀要(教育科学)40号(1991)13−25      13

科学の方法とは

理科教育に関する科学論的考察一

前田 安生*・高瀬 一男*

(1990年9月14日受理)

APhilosophical Study of Science Education

Yasuo MAEDA and Kazuo T飯KAsE

(Received September 14,1990)

1 は じ め に

理科教育とはそもそも何を目的にして行われる教育かということについては現在に至るまでいろ いろ議論されてきている。学習指導要領では科学的な方法や自然の事物現象などについて教える教 科としている。それに対して,理科教育は自然科学そのものを教えるべきであるとするものなどい ろいうな意見がある。

さまざまな意見があるにせよ,理科教育は自然科学を基礎に置く教科教育であることは疑う余地 のないところである。むしろ,自然科学と教科「理科」との関係を巡っていろいろな議論がなされ てきたと言ったほうがよいかもしれない。したがって,理科教育の目的について論ずるためには自 然科学とは何かということを正確に認識する必要がある。

しかしながら,今までなされてきた理科教育の目的に関する議論を見ると自然科学について正確 に認識されているとは言えないものもいくつか見受けられる。なかでも,問題と思われるのは「観 察の理論依存性」を唱える新科学哲学の影響を受けた考えである。この考えによると実験・観察は その結果に実験者,観察者の主観が反映されるために必ずしも客観的なものとはならないのである。

実験・観察というのは自然科学における主要な活動の一つである。この客観性が否定されること になれば自然科学の基礎が大きく揺らぐことになる。そうなれば,理科教育にも大きな影響を及ぼ すことは必至である。したがって,自然科学における実験・観察とはいかなる行為か,また自然科 学においてどういう役割を果たしているのかということを見直してみる必要があると思われる。

*茨城大学教育学部理科教育研究室.

(2)

H 「観察」とは何か

観察というのは自然科学における基本的な方法である。これは,あるがままの自然(これについ ては議論のあるところだが,ここでは取り扱わない。)を見つめることにより,情報を得ようとする 行為である。自然科学の客観1生というのは,観察が実在である自然を反映していることに根拠を持 つものである。しかし,「観察の理論負荷性」などと称し,観察の客観性に疑問を投げかける考え

も少なからず存在する。したがって,観察の客観性ということについて検討する必要があると思わ

れる。

アメリカの科学論者ハンソンは「観察の理論負荷性」ということを唱えている。見るという行為 の中に解釈が含まれており,解釈は知識に基づいてなされる。そして,ある対象についての観察は それについてあらかじめ持っている知識によって形成される。したがって,知識内容が異なれば同 じ対象について違った観察がなされることになり,観察の客観1生ということはありえなくなると言 うのだ。

また,東京大学の村上陽一郎氏はハンソンと似た立場を取る科学論者である。彼は事実の理論依 存性,理論の共役不可能性などといった基本的なアイデアをハンソンと共有している。この二人の 科学論について検討していこうと思う。

1.ハンソンの考え

ハンソン1)は,ゲシュタルト転換図形と呼ばれるいくつかの絵を指し示して議論を始める。これ らの絵は何通りかの見方が可能である。すなわち,図1−1は三通りの立体に,図1−2は老婆と 若い女性に,図1−3は熊の取り付いた木と枝を払われた木に,図1−4は鳥とかもしかに見るこ とが可能である。さらに,図1−4は図1−5のなかでは鳥に見え,図1−6のなかではかもしか に見えることを述べ,《見ること》の文脈依存性を指摘する。

また,彼はX線管をながめる物理学者と素人を引き合いに出し,「二人は同じ視覚経験を持つに 違いない。しかし,二人はそこに違うものを見る。素人はガラスと金属でできた物体を見る。物理 学者は,その物体がX線管であり,かくかくしかじかの性質を持ったものとして見る。」と述べて いる。そして,「物理学者が見ているのと全く同じものを素人も見るのだけれど,素人のほうはそ

ういったことを余り学んでいないので,物理学者と同じようには,それを解釈できないのだ」とい う反論に対し,「物理学者が,素人がX線管を見るときにしていること以上につけ加えて何かをし ているということはありえない。」と答えている。

これらのことから彼は,「《見ること》は, 理論負荷的な 試みなのだ,という言い方に一つ の意味がでてくる。Xについての観察は, Xについて予めもっている知識によって形成される。」

と述べている。そして,「観察者の本当のねらいは,自分の見ている観察事実を,今までにすでに 確立されている知識体系という背景と,うまく合わせてみることにあるのである。こういう形での

《見ること》こそ,観察の終局点である。」としている。さらに,「どのように解釈して見るにして

も,その解釈は見ること自体のなかに現存するのである。とすれば,『解釈することこそ見ること

である』と言いたくなる。」と述べている。

(3)

前田・高瀬: 科学の方法とは一理科教育に関する科学論的考察一 15

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図1

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nンソンの示したゲシュタルト転換図形(文献1)

6

(4)

彼はまた「視覚は外界の模写であり絵画的なものであるのに対して,知識は言明の一体系であり 言語的に表されるのものである。言明には真偽があるが,絵画にはない。両者は論理的に別のもの である。」ということを指摘する。

したがって,「眼のなかに形作られるものには全く言語的なものはなくても,見るということに は, 言語的 な要素が入っているのである。もしこうした言語的要素がなかったら,われわれは いくら観察しても,その観察がわれわれの知識とうまく合ってくれることはなかったはずである。」

ということになる。つまり,見るということに言語的な成分がないと言語的に表されている知識と 照らし合わせることができず,観察は意味のないものになってしまうということなのである。

2.村上陽一郎の考え

まず,村上2)はハンソンの用いたゲシュタルト転換図形を用いて,人により見えるものが違うこ とを指摘する。「そこにあるのはただの線の絡み合いであって,それから先のことは解釈の違いに しかすぎない」という反論に対して,「各人に与えられた感覚(センス・データもしくは感覚所与)

は本当に同じか」と疑問を述べている。

そして,「客観性」ということが,いつだれがどこで見ても同じ,ということと同義だとすれば,

センス・データも「客観的」でなければならないことを指摘し,「センス・データは決定的に主観 的なものです。わたくしの視野のなかに拡がっているいろいろな色相を帯びた面分は,わたくしの 感覚であって,他のだれのものにもなりません。」と述べる。さらに「『客観性』ということをセン ス・データに求めることは本来不可能であり,公共的な(だれがいつどこで見ても,というあの客 観性の条件が成り立つような)場面は,言語活動をぬきにしては考えられない」と言う。

そして,「『物を見る』とは,色彩の連続多様体としての視野のなかに,何らかの分別もしくは 分節化を認め,その分節化させた刺戟群を,『何ものか(例えば,電気スタンド,母親哺乳瓶な

ど)』として認知することをいうのだ,と考えてよさそうです。」と述べている。

次に物を見るときにはその対象に関する知識が必要であることを述べた後,「わたくしどもは,

『見る』という行為のなかで『理解する』という行為を同時に行っているのだ,ということができ ましょう。『理解する』ということぬきの『見る』は,あの連続多様体を受け取っているだけの

『見る』であり,人間の『見る』ではない,といってよいのではないでしょうか。」と主張する。そ して,「『見る』ことの結果として得られたものは, 『人間の感覚と理解の力との協働作業によっ て能動的に造り出された所のもの』と考える方が至当ではないか」と述べている。

3.考察

ここで,彼らの思想について詳細に検討してみよう。彼らは見ることは理論負荷的な活動である

ことを説明するためにゲシュタルト転換図形を用いている。まず述べなければならないのは,これ

らの図は紙の上に描かれた単なる図であることである。肱岡3>が指摘しているように,「認識の対

象である,紙上に線で描かれた女性は実際には存在していないのである。単なる線の集まりなので

ある。一本の線はあらゆるものに見えてよい」のである。これらの図について言えることは,あく

までもゲシュタルト転換図形という何通りかに見えるように意図的に作った特殊な図形が,意図し

たように見えるということだけである。「見る」という行為一般に拡張してよいとする論拠はどこ

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前田・高瀬:科学の方法とは一理科教育に関する科学論的考察一         17

にもない。したがって,これらの例は「見ることは理論負荷的な行為である」と言うための論拠と しては不十分だと言える。

また,ハンソン4)は,知識は言語的なものであり,「Xは落とせば壊れる」「Xの中は空である」

といったたぐいの命題群の体系に還元できるとしている。その中には,将来現れるかもしれない潜 在的な性質についての言明も含まれるとしている。村上5)もまったく同じ見地から「電気スタンド」

を視野から分節化するのには「かくかくしかじかの方向から見ればどのように見えるか」といった 見え方の知識また「赤いスイッチを押せば電灯がつく」などといった潜在的な性質についての知 識が必要としている。

この事に関して秋間6)は「物についてのある命題を知覚についての一群の命題に翻訳する(還元 する)ことはできない。やってみればわかる。たとえば,『ここに机がある』ないし『これは机で ある』という命題の翻訳は,『何か平坦なものが見える』,『なにか四脚のものが見える』,『手 になにかすべすべしたものを感じる』,『かたい感じがする』,というたぐいの命題を,どこまで 精密化し,いくつあつめれば,終了するのであるか。また,『隣室に机がある』という命題の翻訳 は, 『わたしがこれこれのしかたで隣i室にはいっていってこれこれの方向を向くならば,これこれ の形が見える』,というたぐいの仮言命題を,どこまで精密化し,いくつあつめれば,終了するの であるか。この作業は決して遂行できない。この翻訳(還元)不可能性にこそ,唯物論が確認する 物質の客観性一意識からの独立性一は示されているのである。」と明快に批判している。つまり,知 識をすべて言葉で書くのは不可能であり,必ずしも「見る」ことのなかに言語成分が含まれていな

くてもかまわないのである。

ところで,我々が判断に困るような物を見たときにはどうするであろうか。よくわからないまま 放っておくだろうか。確かに重要でないものならそうするかもしれない。しかし,普通なら一体な

んだろうともう一度よく見直すようにするだろう。見ただけでわからなければ,いろいろなことを して一体何ものであるか確かめるだろう。肱岡7)が述べているように「真なる認識を求める科学的 認識過程では,常に対象である自然への働きかけが不可欠である。真なる認識は,人と自然との無 限の相互作用によって得られる」ものなのである。現実の場面であれば「若いか,年寄りか知りた ければ,近づいて声をかければよい。木に登る熊かどうかは,近づいて,木の後ろに回ってみれば よい。手で触ってみればよい。熊なら怒って噛みつくだろう。」「科学哲学者も熊に追いかけられ,

必死に逃げまわる羽目に陥れば,それが枝をきりおとされた木ではなく,熊であることは100%真 であると信じざるをえないだろう。」ということになる。

村上8)も引き合いに出している「幽霊の正体見たり枯尾花」という川柳を例にして考えてみよう。

この句の意味は,暗い夜道で幽霊でも出そうだなと思って歩いていると,枯れたすすきが風に揺れ ているのが幽霊に見えてしまう。でも,もう一度よく見るとただの枯れすすきだとわかってほっと するということである。この辺の事1青を考察すると,暗い夜道という文脈が幽霊が出そうだという 先入観を作り,風に揺れている白っぽいものを幽霊として見てしまうのである。そういった意味で 白っぽいものを幽霊として見るということは暗い夜道という文脈に依存していると言えるだろう。

しかし,もう一度よく見ると枯れすすきであったということはどう理解すればよいのであろうか。

白っぽいものを「枯れすすき」と見る文脈にゲシュタルト変換したと言うのだろうか。そんなこと

はありえない。なぜなら,枯れすすきは枯れすすきであって人が何に見ようとも枯れすすき以外の

(6)

何ものにもなりえないからである。幽霊と見たのは真っ暗な夜道でよく見えなかったからで,情報 不足による誤判断だったからである。よく見ることによって判断に十分な情報が得られたために枯 れすすきであると正しく判断できたのである。つまり,暗い夜道というのは「文脈」としての役割 をはたすと同時に視覚情報が少ないという条件をももたらしているのである。したがって,ろうそ くや懐中電灯で「幽霊」を照らせばそれが「枯れすすき」であることははっきりとわかる。冷厳と した事実の前には偏見も先入観も跡形もなく粉砕されてしまうのである。

念のためにもう一つ例を挙げておこう。ハンソン9)も引用しているエイムズのゆがんだ部屋の知 覚である。彼は,「決してその部屋をあるがままのものとして,つまりそれ自体あらゆる次元で歪 んでいるものと見はしない。」と述べ,見ることの理論負荷性の証拠にしている。だが,大山1°)は,

歪んだ部屋は正常な部屋とまったく同じ知覚をもたらすように作られているので,日常経験の蓄積 や規則化への傾向から正常な部屋と見る傾向が現われるのだろうとした上で,「このゆがんだ部屋 で,新たな経験を重ねると,知覚も変化するという。すなわち,観察窓から見ながら,手に棒をも って床や壁をつついたり,ボールを壁に向かって投げたりする経験を繰り返すうちに,次第に,こ の部屋が実際通りにゆがんだ部屋と見えるようになってくるという[Kilpatrick,1954]。」と述べ ている。つまり,対象に働きかけることにより正しい認識が得られたのである。このことはさきほ

どの肱岡の考えとも一致する。

今までの議論ではっきりとしたと思われるが,彼らは認識の過程を静的なものとしてみるところ に特徴があると言えよう。つまり,対象からただデータを受け取ってあれこれと解釈しているだけ なのである。彼らは,データから得られた認識を正しいかどうか確かめようとしない。なぜか,彼 らは検証の問題を避けて通っているのである。

実験はハンソン11)の言うように,因果的説明を可能にするために自然を操作して,都合のよい結 果をでっち上げるものではない。肱岡12)が指摘したように「ある段階の自然認識を基礎・基盤とし て,認識内部における矛盾・不整合を解決するため,直接自然に聞いて,それに語らせることが実 験の意義であり,目的である」のであり,「探求者がどれほど強い期待を持とうとも,どれほど大 きな自信を持とうとも,さらに,どれほど科学者集団の一致があろうとも,自然はNO!とも言う し,新規の挙動を現したりもする」ものなのである。そして,最終的には「自分の観念・考えを自 然に合わせなくてはならない」のである。しかも,「探求者と自然とのこうした相互作用は,自然 の主導性の強いいわゆる観察のレベルでも,探求者の主導性の強い高度な理論レベルでも続けられ る」のである。これが,自然科学の本当の姿なのである。

誤解のないように述べておくが,私は見ることは理論負荷的な活動であるということを全面的に 否定するつもりはない。人間は,ある種の期待や思い込みを持って対象を見ていることは事実であ るし,受け取った視覚データを過去の経験(知識)と照らし合わせて解釈しているのは事実である。

また,解釈された結果が通常の「見る」ことであるというのも問題はない13)。問題にしているのは,

知識や予想と違ったデータが入ってきたときに,その知識や予想が修正されうるということを無視

していることなのである。

(7)

前田・高瀬:科学の方法とは一理科教育に関する科学論的考察一         19

皿 「事実」とは何か

1.ハンソンの考え

ハンソン14)は「さきほどの図1−3を眼前にして,私は枝を払われた末の幹を見,あなたは熊を 見るとしたら,われわれ二人は同じ観察をしたことにはならないのである。」と述べる。そして,

「われわれのデータを描いたものをつき合わせてみれば同じになるかもしれないが,データそのも のは違うのである。われわれは,合同であるとしても本質的には異種な証拠から出発することにな る。」と言う。つまり,二人が同じ対象を観察して異なった解釈をしたとしたら,同じ観察をしたこ とにならないということであり,事実は二人の問で異なると言うのである。

そして,「同一の世界であっても,別なやり方で解釈されることもあるかもしれない,というこ となのだ。つまりわれわれは,世界を違ったやり方で語り,違ったやり方で考え,違ったやり方で 知覚していた,ということもあり得るのだ。恐らく,事実は,事実を述べ伝える言語の論理形式に よって,ある程度鋳型にはめられるだろうし,それを使って世界がわれわれの前に,あるはっきり した形で凝固するようなある種の 鋳型 が,そういう形式から得られるだろう。」と述べている。

すなわち,同じ対象であっても,何通りかの解釈,すなわち観察ができ,その解釈は言葉で枠をは められると言うのである。

2.村上陽一郎の場合

また村上16)は「わたくしの認知した事実に客観性を与えようとするときは,『電気スタンド』の ような概念を表わす語を使うことがもっとも適当であることになります。しかし,この『電気スタ ンド』という語は当然のことながら,それを日常言語のなかに組み込んで使っている人びとの問で しか伝達能力をもちません。したがって,『事実』は,そういう伝達能力の行き届く範囲のなかで のみ,何らかの『共通のもの』としてわかち合われる可能性があることになりましょう。それが

『客観性』の本質だといえるのではないでしょうか。逆に言えば,言葉を超えた『客観性』などと いうものが,何らかの意味を持ち得ることはありえない,ということにもなります。」と述べ,結局

「わたくしどもは,『だれにとっても,いつでも,どこでも』完全に同じてあるような『客観性』

という概念はあきらめなければならないようです。」と主張する。

ここで,彼は自然科学の問題に話題を転じ,次のように述べている。「眼前のシャウカステンに あるX線写真のフィルムが装填されています。しろうとのわたくしには,何が何だか皆目わかりま せん。しかし,隣にいる呼吸器専門の医師には,はっきり肺ガンの病巣が見えます。ここに一つの 典型的な構造が見てとれます。

しろうとのわたくしにも眼前にあるモノクロームの写真が,X線写真のフィルムだということは 見えます。それは,別に専門的な科学的知識を前提にしなくても,そう見えます。しかし,そのフ

イルムのなかのある模様が,肺ガンの病巣に見えるためには,専門的な知識の前提が必要になりま す。視野のなかに電気スタンドを見るために,ある種の知識が前提とされたのと構造的には同じだ

と言えますが,しかし,そこで前提とされている知識の質はかなり違ってきているわけです。

あるいは,ぼんやりした地のなかに微かな線が斜めに走って,途中で折れているように見える写

(8)

真があったとします。しろうとのわたくしには,やはりとりたてて何も見えません。しかし,宇宙 線を研究している専門の素粒子物理学者はそこにメソンの飛跡を見ます。それはやはり前提されて いる専門的知識の差によることは明らかでしょう。このように,肺ガンの病像とか,メソンの飛跡 などになると,人間が『事実』を造り出しているということの意味が,電気スタンドの場合よりも っとはっきりしてくるのではないでしょうか。 『ここに肺ガンの病巣がある』という『事実』,あ るいは『ここにメソンの飛跡がある』という『事実』,これらは明らかにわたくしの眼前にはない のです。ところが専門の医師,あるいは専門の物理学者の眼前には,これらの『事実』はあるので

す。

これらの『事実』は,外界と専門家の眼とそして専門家の前提的知識との相互作用によって初め て『造り出されたもの』だといえましょう。そして,その場合,専門家の前提的知識のなかには,

医学に関するさまざまな理論の網の目が含まれており,あるいは物理学におけるさまざまな理論の 網の目が含まれているのです。」16)

そして,「電気スタンド」より「肺ガンの病巣」や「メソンの飛跡」のほうが理論を共有する範 囲が狭いので,客観性が保証される範囲が狭くなると主張する。つまり,「日常的なものの方が科 学的なものより,より広い客観性がある」と言うのだ。そして,特定の理論を共有する自然科学の 専門家の社会を科学者共同体と名づけ,「『肺ガンの病巣』や『メソンの飛跡』は,厳密には,こ れら共同体のなかだけで『客観性』が保証されている」とまで述べている。

3.考察

彼らは,あなたと私,もしくは専門家と素人である私では「事実」が異なると述べているが,こ の事から考えると彼らは「事実」を何か個人の感覚の中にへばりついているものとして考えている ようだ。そうすると,原理的には個人の数だけの「事実」が存在しうることになる。そして,その 個人的な感覚の中に存在している「事実」を共有するのには, 「事実」を見るための理論(知識,

これには言語も含まれる)を共有しなくてはならない。そして,理論を共有する人々の間では「事 実」は公共化され,その「客観性」が保証されることになる。その際 「事実」はそれを述べ伝え る言語によっても枠をはめられ(ハンソン),言葉を越えた「客観性」は無意味となる(村上)。

そして,結局「科学」は理論を共有する科学者集団の中でのみ「客観性」が保証されることになる

わけだ。

つまり,彼らは感覚が我々の意識から独立した客観的な実在の反映であることを認めていないの である。彼らにとって世界は感覚の集合であり,すべての現象は彼らの意識のなかで起こっている のにすぎないのである。したがって,彼らにとって「事実」は観念上の構築物にすぎず,個人の感 覚から独立した「客観的事実」の存在など思いもつかないのだろう。とにかく,彼らの議論がおか

しいことは,彼らのあげている例をみればすぐわかる。

例えば村上は,X線写真を持ち出して専門家の前には「肺ガンの病巣」という事実があるが,私 の前には「事実」はないと言う。だが,X線写真に写っているものが本当に「肺ガンの病巣」かど うかは患者を調べてみればすぐわかる。肺ガンなら,すぐに治療を始めなければ患者は死んでしま うのである。村上も自分がガンになれば,「私の前には『肺ガンの病巣』という『事実』はない」

などという哲学論議をしているどころではなくなるだろう。

(9)

前田・高瀬:科学の方法とは一理科教育に関する科学論的考察一         21

メソンにしろ,熊にしろ同様である。彼らは,個人によって「客観的事実」の受けとり方が違う ことを個人によって「事実」が違うと誤認しているのである。彼らは,客観的実在が個人の認識に 反映されているということを否定して「事実の理論依存性」という図式に固執するので現実の場面 でみじめな自己矛盾に陥るのである。

他の議論でも,まったく見当はずれのことを述べている。村上の「電気スタンド」の議論では,

彼が言っているのは「電気スタンド」という言葉を知らない人には「電気スタンド」という言葉を 使って話をすることはできませんよということにすぎない。「客観性」とは何の関係もない的はず れな議論である。

結局,ハンソン,村上が唱えているのはすぐメッキのはげる中身の乏しい観念論にしか過ぎない。

秋間17)は,18世紀の観念論者バークリー僧正の主張を「(ア)存在するとは,知覚されているという ことである,ないし,物は『観念』の集まりである。(イ)右の主張は,普通の見かたと矛盾しない,

つまり,理にあった自然なものである。不条理なのは唯物論である。」と要約できるとし,「分析哲 学者たちの議論のなかで,このような主題がいろいろに変奏されてひびいているのに出あうはずで ある。」と述べているが,まさにハンソン,村上は「バークリーの主題による変奏曲」を奏でている にすぎない。

W 「科学」とは何か

1.ハンソンの考え

次に,彼らが自然科学をどのように考えているか見てみよう。ハンソン18)は「確かに原因は,結 果と結びついている。両者を結びつけているのは,われわれの理論である。」と述べて,因果律を否 定し,因果関係を理論が作り出したものだと主張する。そのうえで,「実験が,本来,できる限り 連鎖状をなすようにもともと仕組まれている」 「ある実験の 表層 についての連鎖型の説明が可 能となるためには,自然を様々にひねくり廻さなければならないのである。」などと述べている。す なわち,実験は因果的説明を可能にするために自然をさまざまにいじくりまわして,都合のいい事 実を拾い集めるための操作にすぎないということなのである。

次に彼は,「物理学者は仮説から出発するのではなく,データから出発するのである。」「物理学 者は,そのデータの説明を求めるのである。その最終目的は,それによってデータが,すでに熟知 されているデータと合理的に適合するに到るような,そういう概念パターンなのである。」と述べ,

物理学者はデータから出発し,そのデータを説明できる法則(概念パターン〉を求めて研究を進め ていると主張している。

ここで,彼は物理法則の発見のされかたについて説明するために例のゲシュタルト変換図形を持 ち出し,その細部についてはその誤りを指摘できるが,それを何に見るかというパターンについて は「それが, 誤り であることを示してあげるわけにはいかない」ものであると主張する。つま り,図1−2を見てメガネをかけていないことは指摘できるが,若い女性であるということは指摘 できないというのだ。彼は,このことは自然科学についても当てはまると主張する。

これらのことから,彼は「物理理論は,データが理解可能な形をとって現れるためのパターンを

(10)

提供するものである。つまり《概念のゲシュタルト》なのである。理論によって現象は体系になる。

一方理論は,『逆に』つまり,リトロダクティヴなやり方で形造られる。理論は,一群の結論があ ってその前提を探し求める,という形に似ている。現象の示す様々な観察された性質をもとにして,

物理学者は,それらの性質が当然のこととして証明され得るような鍵となるアイデアを探し求めて,

自らの推論を運ぶのである。物理学者が求めるのは一群の可能な対象ではなく,一群の可能な説明 なのである。」と言う。すなわち,自然科学の本質は現象を説明できるパターン(「概念のゲシュタ ルト」)の発見にあると言うのである。

2.村上陽一郎の考え

一方村上19)は「『事実』は,理論に対して完全に中立であると,いうわけにはいかなくなりまし た。『事実』は当の理論によって造られるのですから,元来,理論の内部に,むしろ理論によりか かって成立していることになり,そのような性格の『事実』が,理論に対して裁判官の役割を果た すことはできない相談なのです。」と主張する。

そして彼は,「ある『事実』が今もっている理論に対する致命的反証になっているということが 気づかれるのは,その『事実』を見るためのさまざまな理論上の前提が張り巡らす網の目の構造や その有機性に変化が生じたときだ,ということができます。『事実』を見るための前提の構造が変 わったとき,今まで,その図柄のなかにちゃんと収まっていたその『事実』が,どうしても収まり 悪く感じられてくる,というような状況が起こっているのです。ハンソンという研究者は,これを

『ゲシュタルト変換』と呼びました。そのとき起こっている変化は,人間の主観の側の意識構造の 変化ということができます。しかも,その変化は,彼がそれまでもっていた理論的前提の網の目の 構造の破壊だけではなく,例の『事実』を見るため,新しい理論的前提の網の目の創造をも意味し

ているのです。ここに科学理論変換の根幹となる要点があります。」と述べている。

さらに「科学理論の変換の起こる過程は,単に特定の科学理論の場面だけでの操作が関与してい るのではなく,それを組み込んでいる全体的な世界像や自然観などとの有機的な構造の総体が関与 している,ということだけはいえると思います。ある理論を反証するようなデータが発見されて,

仕方なくそれまでの理論を造り換えて,新しい理論を造る,というような形で変換が起こるわけで はないことは確かだと思います。」と述べている。

そして彼は,「科学の進歩主義」,「蓄積性」,「包括性」に対して疑問を表明する。そして,

「クーンという研究者は,こうして科学理論が変換する過程を『進歩』と呼ぶことをあきらめて,

それを『革命』と呼んだのでした。」と述べたあと,それに賛意を表明している。

そして,「包括性の原理」を否定して,「『ニュートン力学の運動法則』なるものと,『特殊相 対性理論の運動法則の一部としてのニュートン力学の運動法則』とは,同じものではなく,また

『データ』の側についてもこのことがいえるということになるわけです。」と述べ,「共役不可能性」

という術語で表現している。

最後に,「科学の歴史は,さまざまなレヴェルでの社会共同体に共有されている共通の前提,そ れらが相互に作り出す網の目の構造変革の歴史であり,そしてそれは,まさしく,人間の存在し,

思考し,行動する様式の変革の歴史なのです。」と結論を述べている。

(11)

前田・高瀬:科学の方法とは一理科教育に関する科学論的考察一        23

3.考察

彼らの議論は,客観的実在を否定する観念論者の行きつく先を示している。彼らにとって,「事 実」は観念上の構築物にすぎないので,「理論」を判定する基準にはなりえない。その結果,科学 理論は理解可能性だけが問題となり,科学者はより高い理解可能性を持つ概念のパターンを求めて 活動することになった。そして,ゲシュタルト変換の結果得られた新理論と旧理論とは,パターン

(論理構造)が違うのでどちらが正しいとも言えず,科学者集団の多数決に委ねられるわけである。

その結果,科学史は単なる学説の交替の歴史として理解されることになり,科学の発展は否定され ることになる。彼らは,客観的実在である自然が感覚を通して我々の意識に反映されることを否定 することにより,「客観性」の基盤を取り除き,自然科学を単なる思想としてしまったのである。

理論の優劣は,その真理性,すなわち客観的実在である自然をどれだけよく反映しているかによ って判定される。それは,自然科学上の実験・観察だけではなく,人類の実践のすべてによって確 かめられる。むろん,個々の実験では相対性は免れえないが,無数の実践によってその真理性が確 かめられるのである2ω。

もちろん,科学的認識はその発展途上において絶対的真理をとらえつくすことはできず,その相 対性を免れえない。しかし,相対性のなかにも絶対的真理の一断面は含まれており,不断の認識活 動でその絶対性が高められていくのである。ニュートン力学と相対性理論もその関係でとらえるこ

とができよう2 )。

V ま  と  め

ハンソン・村上の主張は次のように要約できる。

①見ることは理論負荷的な活動である。

②知識は言明群の体系であり,すべて言語的に書かれうる。

③事実は理論を共有する集団の中でのみ客観性が保証される。

④科学理論は,「概念のゲシュタルト」である。

⑤科学理論の交替は,「ゲシュタルト変換」で説明される。

これに対する反論は,次のように要約できる。

①ゲシュタルト転換図形は「観察の理論負荷性」の論拠としては不十分である。

②真なる認識は対象に働きかけることにより得られる。理論負荷的に見るのは,見ることの一部 にしかすぎない。

③物についての命題を知覚についての一群の命題に還元することは不可能である。

④事実は,客観的実在が我々の認識に反映することによりその客観性が保証される。

⑤科学理論は,相対性を持ちながらも絶対的真理の断片を含んでいる。

⑥科学理論の交替は,絶対的真理の獲得過程である。

ハンソン・村上の主張に対する評価は次のようになる。

①客観的実在を認めない,観念論である。

②議論の根拠が曖昧であり,論理構成に無理がある。

(12)

③現実の科学活動を正しくとらえていない。

結局,ハンソン・村上の主張は自然科学を語るのには不十分であることがわかった。

V【お わ り に

私の目的は,理科教育のありかたを考えるために自然科学とは何かということを考察することに あった。それは,正しい自然科学観の下にこそ実りある理科教育論が展開されると考えたからであ

る。

その手初めに, 「観察の理論負荷性」を唱えるハンソン・村上の科学論を考察した。以上見たよ うに,その科学論は自然科学の姿を正しくとらえておらず,とてもまともな議論に耐えられる代物 でないことがわかった。

しかしながら,その科学論は理科教育関係者に少なからぬ影響を与えている。また,いくつかの 理科教育関係の出版物にもその影響が散見される。このことは,今後の理科教育の発展にとって好

ましからぬ影響を与えるおそれがある。

したがって今後とも,理科教育学の発展のために,彼らのように自然科学を歪曲しようとする試 みには批判を加えていく必要がある。それと同時に,正しい自然科学観について提示していく必要 があるだろう。

なお,本研究は日本理科教育学会第40回全国大会(島根大学)で口頭発表した内容を加筆修正し たものである。

1)Norwood Russel Hanson, PA暫隙Ns oF DIscov皿Y,(Cambrige:Cambrige University Press,1958),村上陽 一郎訳『科学的発見のパターン』(講談社,1986),pp.11−66.

2)村上陽一郎『新しい科学論』(講談社,1979),pp.135−166.

3)肱岡義人「科学の発展とは何か」,山崎正勝・兵藤友博・奥山修平・大沼正則編著『科学史一その課題と 方法一』所収(青木書店,1987),p.53.

4)ハンソン,前掲書,pp.47,53,54,57.

5)村上,前掲書,pp.161−164.

6)秋間実『現代科学と唯物論』 (新日本出版社,1971),p.127.

7)肱岡,前掲書,p.53.

8)村上,前掲書,p.136.

9)Norwood Russel Hanson, PERcE囲oN AND DIscovERY,(San Francisco:Freeman, Cooper&Company,1969),

野家啓一・渡辺博訳『知覚と発見・上』 (紀伊國屋書店,1982),pp.230−234.

10)大山正「知覚と認知」,大山正・東洋編『認知心理学講座・1.認知と心理学』所収(東京大学出版会,

1984),PP.82−84.

11)本論文IV. 「科学とは何か」を参照のこと。

12)肱岡,前掲書,pp.51−52.

(13)

前田・高瀬:科学の方法とは一理科教育に関する科学論的考察一        25

13)大山,前掲書,p.90.

14)ハンソン,ノーウッド R.,村上陽一郎訳『科学的発見のパターン』(講談社,1986),pp.67−79.

15)村上,前掲書,pp.167−186.

16)村上陽一郎『科学と日常性の文脈』 (海鳴社,1979),pp.108−143には同様の内容で詳しい議論がなされ ている。

17)秋間,前掲書,pp.119−120.

18)ハンソン,前掲書,pp.107−194.

19)村上,前掲書,pp.187−199.

20)岩崎允胤・宮原将平『科学的認識の理論』 (大月書店,1976),pp.41−46.

21)岩崎・宮原,前掲書,pp.201−204.

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