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二一世紀「中国」エピゴーネン「尖閣」論批判

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(1)

二 一 世 紀 「 中 国 」 エ ピ ゴ ー ネ ン 「 尖 閣 」 論 批 判

A C ritique of D iscussion about “S enkaku ” b y E pigones to “China ” in 21 Centur y

斎    藤    道    彦

    「 尖 閣 」 論 を め ぐ っ て 「 尖 閣 = 中 国 領 」 論 を 主 張 す る 二 一 世 紀 の 「 中 国 」 エ ピ ゴ ー ネ ン 村 田 忠 禧 、 大 西 広 、 孫 崎 享 、 矢 吹 晋 ら の 著 書 を 取 り 上 げ 、 批 判 す る 。「 尖 閣 = 中 国 領 」 論 の 根 幹 は 、 尖 閣 が 中 国 領 で あ っ た こ と が あ っ た の か ど う か で あ る が 、 こ れ ら す べ て の 論 者 は 、 中 国 が 尖 閣 は 中 国 領 で あ っ た こ と の 証 拠 と し て い る 明 清 史 料 の 検 討 を 満 足 に 行 な っ て い な い 。 村 田 は 、 中 国 の 議 論 を 踏 襲 し 、 陳 侃 の 『 使 琉 球 録 』 な ど が 「 古 米 山 」( 久 米 島 ) が 琉 球 王 国 の 領 土 で あ っ た と す る 記 述 を 根 拠 と し て 、 久 米 島 以 西 は 中 国 領 で あ り 、 従 っ て 尖 閣 諸 島 は 中 国 領 で あ る と 論 ず る が 、 久 米 島 以 西 は 中 国 領 な の か と い う 議 論 を 行 な っ て い な い 。 大 西 は 、 日 清 戦 争 や 沖 縄 返 還 協 定 を 取 り 上 げ 、 国 際 法 の 通 告 義 務 な ど を 論 ず る が 、 肝 心 の 尖 閣 は 中 国 領 で あ っ た こ と が あ っ た の か と い う 問 題 を 検 討 し て い な い 。 孫 崎 は , 明 清 史 料 の 名 を い く つ か あ げ て い る が 、 ど れ ひ と つ 読 ん で い な い 。 矢 吹 も、外務省は「棚上げ合意」の記録を削除したと主張するが、明清史料を検討していない。

キーワード 「尖閣」論、 「中国」エピゴーネン、村田忠禧、大西広、孫崎享、矢吹晋

(2)

は じ め に

日本では二〇一三年現在、自民党・公明党・民主党から日本共産党に至るまで尖閣諸島は日本の領土であると国

論は一致している。二一世紀に入ると、日本では芹田健太郎・原田 禹

のぶ

らが健筆をふるった。 ・琉 ・日     芹 田 健 太 郎 『 日 本 の 領 土 』 ( 中 央 公 論 社   二 〇 〇 二 年 六 月 、 二 〇 一 〇 年一二月中公文庫版あり) は、次の一五点をあげている。

かん

使 』、

りん

使 』、

しょう

すう

ぎょう

しゃ

けつ

使 』、

よう

・王

てい

使 録』 、⑤

せい

天使冊封琉球真記奇観』 、⑥張学礼『使琉球記』 、⑦汪

しゅう

『使琉球雑録』 、⑧徐葆光『中山伝信 』、

こう

』、

てい

使 』、 ・費 』、

りん

こう

ねん

・高 使

』。 』、

ちん

じゅ

じゅう

さん

福建通志』 (一八七一年版)

* な お 、 芹 田 健 太 郎 の 「 郭 如 霖 」 は 「 郭 汝 霖 」 の 誤 植 、「 簫 崇 業 」 は 「 蕭 崇 業 」 の 誤 植 、「 季 鼎 元 」 は 「 李 鼎 元 」

の誤植、 「斎鯤」は「斉鯤」の誤植である。

しかし、日本にも尖閣が中国の領土であると主張する人びとはいる。筆者の知る範囲では、一九七〇年代には日

本 史 研 究 者 の 故 井 上 清 ( 京 都 大 学 教 授 ) が そ の 代 表 者 で あ っ た が 、 二 一 世 紀 に な っ て か ら の そ の 後 継 者 に は 、 村 田

忠 禧 ( 横 浜 国 立 大 学 教 授 ) ・孫 崎 享

うける

( 元 外 務 省 国 際 情 報 局 長 ・元 防 衛 大 学 校 教 授 ) ・大 西 広 ( 慶 應 義 塾 大 学 教 授 ) ・動 労 千

(3)

二一世紀「中国」エピゴーネン「尖閣」論批判

葉 ・矢 吹 晋 ( 横 浜 市 立 大 学 名 誉 教 授 ) な ど が い る 。 こ の う ち 、 孫 崎 は マ ス コ ミ へ の 登 場 回 数 も 多 く 、 二 一 世 紀 日 本 に

おける「尖閣諸島=中国領」論の代表格である。

筆 者 は 当 初 、「 尖 閣 問 題 総 論 」 ( は じ め に 、 Ⅰ . 尖 閣 諸 島 問 題 を め ぐ る 歴 史 、 Ⅱ .「 尖 閣 諸 島 = 中 国 領 」 論 の 系 譜 、 Ⅲ . 党 国

家 主 義 と 「 近 代 国 家 」 の 枠 組 み 、 Ⅳ . 日 本 の マ ス コ ミ 論 調 と 尖 閣 シ ミ ュ レ ー シ ョ ン 、 Ⅴ . 結 論 、 Ⅵ . 尖 閣 関 連 参 考 文 献 、 Ⅶ . 尖

閣 関 連 資 料 ) を 発 表 す る つ も り だ っ た が 、 分 量 等 の 関 係 で 一 度 に ま と め て 出 す こ と が 不 可 能 に な っ た 。 本 稿 は 、 そ のⅡの一部分である。なお、引用文中の〔   〕内は斎藤による注であり、引用文中その他のゴチ・ルビも斎藤によ

る。

一、村田忠禧 (二〇〇四年)

村田忠禧のインターネット「尖閣列島・釣魚島問題をどう見るか――試される二十一世紀に生きるわれわれの英

知 」 ( 二 〇 〇 四 年 二 月 六 日 ) と 著 書 『 尖 閣 列 島 ・釣 魚 島 問 題 を ど う 見 る か ― ― 試 さ れ る 二 十 一 世 紀 に 生 き る わ れ わ れ の 英 知 』 ( 日 本 僑 報 社   二 〇 〇 四 年 六 月 ) は 同 内 容 で 、 井 上 清 に 対 す る 崇 敬 の 念 を 表 明 し 、「 尖 閣 諸 島 = 中 国 の 固 有 の

領土」論を展開する。村田も、文化大革命当時、文革礼賛の立場に立っていたので、さもありなんと思われる主張

で は あ る が 、 一 九 七 六 年 に 文 革 は 破 綻 し て い る の で 、 そ れ に も か か わ ら ず 反 省 し な い と い う の は 文 革 流 に 言 え ば

「 悔 い 改 め な い 中 国 追 随 派 」 と で も 言 う の だ ろ う か 。 も っ と も 、 本 家 の 中 国 で は と っ く に 「 文 革 は 間 違 っ て い た 」

と認めているが。

(4)

    村 田 は 、「 二 〇 世 紀 の 歴 史 を 開 拓 し た 優 れ た 先 人 た ち 」 の 「 知 恵 」 に 学 ぶ べ

きと言う。その「先人たち」とは、誰か。村田は、一九七二年の周恩来と一九七八年の鄧小平の名をあげている。

一九七二年九月二九日、日中国交正常化交渉のさい、田中首相が周恩来に「尖閣諸島についてどう思うか?」と

発言したところ、周恩来は「尖閣諸島については、今回は話したくない。今、これを話すのはよくない。石油が出

るから、これが問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない」と応じ、それでこの話は打ち切り

と な っ た と さ れ る 。 そ れ だ け の 話 で あ り 、 そ こ で 田 中 首 相 と 日 本 外 務 省 が 尖 閣 諸 島 は 「 日 本 の 領 土 」 と 発 言 し な

か っ た の は 誤 り で あ る 。 こ の 会 談 経 過 は 事 実 上 、「 棚 上 げ 合 意 」 と さ れ る が 、 約 束 と い う ほ ど 明 確 な 確 認 が あ っ た

わけではなく、日中間で明文化されたわけでもない。

一九七八年八月、日中平和友好条約締結のさい、鄧小平は「尖閣は次世代に譲ろう」と発言し、園田外相はそれ

以上いわんで下さい」と言った (園田直『世界   日本   愛』三二八頁   第三政経会   一九八一年五月) 。園田外相が尖閣は

「日本の領土」と発言しなかったのは、誤りと言えば誤りであり、事実上、 「棚上げ合意」とされているが、明文化

されたわけではなかった。日本政府は、これらの経過に縛られる義務はないのである。

しかも、この鄧小平発言のわずか一四年後、鄧小平健在の一九九二年に中国政府は尖閣を中国の領土と規定した

「 領 海 法 」 を 決 定 し 、「 棚 上 げ 」 を 中 国 政 府 自 身 が 破 棄 し 、「 棚 卸

おろ

し 」 し た こ と 、 こ の 決 定 に 中 国 の 最 高 権 力 者 で あった鄧小平が関わっているに違いないことについて、村田は言及していない。     次 に 村 田 は 、「 こ の 島 々 の 領 有 権 の ポ イ ン ト の 一 つ は い わ ゆ る 『 無 主 地 』」 で

あ っ た か 否 か 」 で あ る と 言 う 。 正 に そ の 通 り で あ る 。 だ が 、 彼 は 米 慶 余 論 文 と 同 じ く ( 村 田 は 米 慶 余 論 文 に は 言 及 し

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二一世紀「中国」エピゴーネン「尖閣」論批判

て い な い が ) 、 明 の 陳 侃

かん

な ど の 史 料 に 基 づ き 、「 古

くめじま

米 山 」 ( 久 米 島 ) が 琉 球 王 国 の 領 土 で あ っ た と い う こ と を 理 由 と し

て尖閣諸島は「中国」の領土であったという論法をとっており、琉球国の外側が明朝の領土・領海であったのかど

うかについて検討をしようとしない。米慶余論文同様、論理に大穴があいている。

村田は、琉球国の外側が明朝の領土・領海であったことの根拠めいたものとして、尖閣諸島が明朝の「海防」の

範 囲 に 入 っ て い た と い う こ と を あ げ る が 、 明 朝 が 海 防 の 範 囲 と 見 な し て い た と し て も 、 ど の よ う な 海 防 活 動 を 行

なっていたのかに言及しなければ、明朝の支配領域であったと断定することはできない。現在、中国はアフリカの

ソマリア沖で海賊監視活動を行なっているが、だからといってソマリアは中国の「固有の領土」だとは言わないだ

ろう。 しかし、村田は以上によって尖閣諸島は明朝の「領土・領海意識は明確であり、無主地論は成立しない」と結論

する。これは、明朝が尖閣諸島を実効支配していたという論証とは言えず、およそ説得力の欠けた議論である。

また、村田が指摘する一九五〇年代の日本政府委員が尖閣諸島について満足に島の名も言えないほどの認識しか

持っていなかったというていたらくもそれだけのことで、日本の領有を否定する根拠とはなるものではない。

村 田 は 、「 日 本 も 中 国 ( 台 湾 当 局 も 含 む ) も 、 …… こ の 島 々 周 辺 の 海 底 に 石 油 が 産 出 す る 可 能 性 が あ る と の 情 報 が

流されてのち、領有を主張するようになった」という点は、中華人民共和国・台湾についてはその通りだが、日本

に つ い て は 米 軍 占 領 下 の 一 九 四 五 年 か ら 一 九 七 二 年 ま で は 施 政 権 を 奪 わ れ て い た の を 除 い て 、 一 八 九 五 年 か ら

一九四五年まで領有・実効支配していた事実があり、一八九六年から一九四〇年まで島は利用されており、日本人

の居住という事実もあったこと、一九四五年以降も領有権を持っていたことを無視した議論である。

(6)

なお、村田が日本と中国における「民族主義的風潮」を憂える指摘には、日本に関わる部分については同意でき

ないが、中国については同感できる。

二、大西   広 (二〇一二年、二〇一三年)

大 西 広 の 『 中 国 に 主 張 す べ き は 何 か ――西 方 化 、 中 国 化 、 毛 沢 東 回 帰 の 間 で 揺 れ る 中 国 』 ( か も が わ 出 版   二〇一二年一〇月) は、二〇一二年九月反日騒動後に日本で出た最新の「尖閣諸島=中国領」論であろう。

大 西 は 井 上 清 と 同 様 に 、 一 八 九 五 年 一 月 の 日 本 政 府 に よ る 尖 閣 領 有 の 閣 議 決 定 が 清 朝 に 通 告 さ れ な か っ た ( 大 西

七九頁) と述べる。

これは事実であるが、清朝への通告は領有の必要条件ではなかった。その点は、大西も『季刊中国』二〇一三年

六月号論文で認める。

次に大西は、一八九五年四月の日清戦争講和会議では、日本に「割与」される「台湾」の範囲に尖閣諸島は入っ

て い な か っ た が 、 清 朝 は 尖 閣 諸 島 を 問 題 に す る 余 裕 は な か っ た 、「 抗 議 は 不 能 だ っ た 」 ( 大 西 八 二 頁 ) 、 従 っ て 、 尖 閣は日本による「戦勝による取得」 (大西 八一頁) である、とする。

この主張は、論理的だとは思われない。日清戦争講和のさい、清朝は抗議しようという意思があれば抗議できた

し 、 か り に こ の と き に は 清 朝 に 抗 議 す る 余 裕 が な か っ た ( こ れ は 大 西 の 推 測 に す ぎ な い が ) と し て も 、 一 八 九 五 年 か

ら 清 朝 が 滅 び る 一 九 一 一 年 ま で の 一 六 年 間 に は 抗 議 す る 意 思 が あ れ ば 抗 議 で き た は ず で あ る し 、 ま た 、 中 華 民 国

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二一世紀「中国」エピゴーネン「尖閣」論批判

三七年間にも、一九四九年に中華人民共和国が成立してからはじめて領有を公式に主張する一九七一年までの二二

年 間 に も 抗 議 し て い な い 。 一 八 九 五 年 四 月 に は も し か す る と 抗 議 す る 余 裕 が な か っ た と し て も ( そ ん な こ と は な か っ

たのだが) 、一八九五年四月に限定する理由はないのである。

次 に 大 西 は 、 日 本 政 府 に よ る 一 八 九 五 年 ( 大 西 の 「 一 九 九 五 年 」 は も ち ろ ん 間 違 い ) 一 月 の 尖 閣 領 有 閣 議 決 定 で は

「久場島・魚釣島」の二島だけで、 「大正島、北小島、南小島と沖の北岩・南岩、飛瀬の岩礁がいつであったか示せ

ない」 (大西 八三~八四頁) と指摘している。

これは、尖閣領有の閣議決定の当否を左右するような性格の問題ではないことは、奥原敏雄がすでに『朝日アジ

アレビュー』一九七二年夏号論文で述べていた。

大 西 は 、 琉 球 政 府 が 石 垣 市 に 「 標 杭 」 ( 国 標 ) を 「 久 場 ・魚 釣 」 二 島 に 建 て さ せ た の は 、 国 連 エ カ フ ェ の 調 査 後 の「一九六九年」だった (大西 八四頁) と指摘する。

一九六九年以前に標杭が建てられていなかったとしてもそれ自体が日本の領有を否定できる論拠とはならない。

日本の法学者によれば、領有における決定的要件は「領有意思の存在」と「実効支配の有無」だからである。

大西は、さらに中華人民共和国の一九七一年一二月の「釣魚島は中国の固有の領土」宣言は同年六月の「沖縄返

還 協 定 に 関 わ る も の 」 で あ っ て 「 一 九 六 八 年 の 海 底 石 油 の 発 見 へ の 反 応 と 主 張 す る の は 筋 違 い 」 ( 大 西 八 四 頁 ) と

主張している。

文字づらからはそうだが、これは的外れもはなはだしい。中華人民共和国が一九七一年に至るまで「釣魚島は中

国 の 固 有 の 領 土 」 と 主 張 し た こ と は 一 度 も な か っ た の で あ り 、「 釣 魚 島 は 中 国 の 固 有 の 領 土 」 と の 主 張 は 誰 が 見 て

(8)

も 明 ら か に 石 油 ね ら い で あ り ( 村 田 忠 禧 も 認 め て い る ) 、 そ の た め に 中 華 人 民 共 和 国 は 沖 縄 返 還 協 定 に 抗 議 し た の で

ある。大西は、周恩来が一九七二年に尖閣諸島が日中間の問題になるのは「石油」のせいと語っていた事実すら無

視している。

大西は、一九七二年周恩来発言と一九七八年鄧小平「棚上げ」論に田中首相と園田外相が「それぞれ反論しない

と い う 形 で 合 意 し て い る 。 こ れ が 外 交 上 の 正 式 の 合 意 レ ベ ル と 理 解 さ れ な け れ ば な ら な い 」 と 述 べ て い る ( 大 西

八五~八六頁) 。

田中首相と園田外相の尖閣問題をめぐる発言は日本の外交姿勢として誤りであるが、日中間に「棚上げ」という

合意文書は存在せず、日本政府が「棚上げ」論に縛られる必要はない。

大 西 は 、 井 上 清 『 釣 魚 諸 島 の 史 的 解 明 ― 「 尖 閣 」 列 島 』 ( 現 代 評 論 社   一 九 七 二 年 一 〇 月 ) に つ い て 、「 こ の 本 は 特

定政党批判を前面に出しているところに問題があるが、日本現代史学の大家が全精力を注いて書き上げた書物だけ

あって、日本史研究者の間では基本的な評価を得ている」 、「私が京都でお付き合いをしていた日本史関係者の多く

は基本的にこの見解を支持している」と言う (『季刊中国』二〇一三年六月号) 。

大西が井上清の追随者・崇拝者で「尖閣諸島=中国領」論を継承しているのは、残念なことである。井上清書の

問題点は「特定政党批判を前面に出している」ことなどではなく、誤読、つまみ食い、思いこみで綴られた内容に

あるのである。

大西は、 『季刊中国』二〇一三年六月号に「尖閣領有に関する外務省見解の国際法的検討」を発表している。

筆者は、国際法については門外漢なので、大西論文の法理論的検討は専門家に委ねるが、主として歴史的側面に

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二一世紀「中国」エピゴーネン「尖閣」論批判

ついてコメントしておこう。

大西論文は、第一に「先占において領有意思の宣言・通告は不要」とする「国際法上の通説」を検討する。大西

は、日本政府による尖閣諸島領有について清朝に対する「通告義務があったとは言えない」といちおう認めるが、

通告は「望ましかった」だろうと言う。それは、日本の「尖閣諸島=日本領」論に立つ国際法学者たちもそう考え

ているようである。

大西は第二に、 「無通告」の場合の「必要条件」を検討する。 「先占の四条件」は大寿堂鼎によれば、①「先占の

主体」は「国家」 、②「客体」は「無主の土地」 、③「先占の精神的要件」は「国家が領有の意思」を持っているこ

と、④「先占の実体的要件」は「実効支配」だが、③の「意思は、その旨の宣言、他国に対する通告、国旗または

標 柱 を た て る こ と な ど に よ っ て 表 示 さ れ る 」 の だ が 、 日 本 政 府 は こ の 「『 な ど 』 に 依 拠 し 」、 ( イ ) 一 八 九 六 年 に 尖

閣諸島を沖縄県八重山郡に編入、 (ロ)古賀辰四郎による開拓、 (ハ)下関条約に基づく台湾受渡しに関する交換公

文作成過程のやりとり、をあげているとして、それぞれ検討する。

( イ ) に つ い て 、 大 西 は 、 勅 令 第 一 三 号 に は 「 八 重 山 郡 」 と し か 書 か れ て い な い の に 、 尖 閣 諸 島 を 八 重 山 郡 に 含

むと解釈しているが、距離があり、無理があり、 「国家の意思」と言えるのかと疑問を呈する。

勅令第一三号には「八重山郡」としか書かれていないことは事実であるが、 沖縄県が尖閣諸島を「八重山郡」に 所属させた ことも事実であった。

(ロ)大西は次に、古賀辰四郎による開拓は「実効的な占有」として「一般的には十分な根拠となるものである」

こ と を 認 め る も の の 、「 中 国 側 は こ の 領 土 = 尖 閣 を 一 八 九 五 年 の 下 関 条 約 に よ っ て 日 本 に 割 譲 さ れ た と 考 え て い る

(10)

限り、古賀によるこの開拓を先占行為と認めることはでき」ない、と否定するのである。

中 華 人 民 共 和 国 は 「 釣 魚 島 」 が 「 台 湾 の 付 属 島 嶼 」 と し て 「 日 本 に 割 譲 さ れ た 」 ( 二 〇 一 二 年 九 月 中 国 国 務 院 文 書 ) と し て い る が 、 下 関 条 約 に 関 す る こ の 認 識 は 不 正 確 な の で あ り 、 大 西 が 尊 敬 す る 井 上 清 も 否 定 し て い た こ と で あ る 。

大西は、第三に「清国は一八九五年六月に日本の先占を認識できたか」を検討し、一八九五年六月時点で「当時

の 日 本 の 地 図 で は ど の 地 図 も 尖 閣 を 台 湾 の 一 部 と し て 示 し て い な い か ら こ の 時 点 で 中 国 は 尖 閣 を 中 国 領 土 と し て

残っているものと理解できたはずだ」とする。

一 八 九 五 年 六 月 の 時 点 で は 、 あ る い は 清 朝 は 日 本 に よ る 尖 閣 諸 島 領 有 を 知 ら な か っ た か も し れ な い ( あ る い は

知 っ て い た か も し れ な い ) が 、 一 八 九 六 年 以 降 の 古 賀 に よ る 開 拓 の 事 実 は 知 っ て い た で あ ろ う し 、 抗 議 す る こ と も で

き た だ ろ う が 、 清 朝 は そ の 後 い か な る 抗 議 も 行 な わ な か っ た と い う 事 実 は 重 い で あ ろ う 。 議 論 を 「 一 八 九 五 年 六

月」に限定することには、意味がないのである。

大 西 は 、 第 四 に 「 パ ル マ ス 裁 定 の 基 準 を 再 度 考 察 す る 」 と し 、「 中 世 に 遡 る 領 有 権 権 原 」 が そ れ な り に 尊 重 さ れ

るべきだと主張する。

し か し 、 明 清 期 に 尖 閣 諸 島 を ど の よ う な 程 度 に お い て も 領 有 し て い た 事 実 が ま っ た く 存 在 し な い こ と か ら 言 え

ば、この議論は意味をなさない。

大 西 は 、 第 五 に 「 パ ル マ ス 裁 定 自 体 へ の そ の 後 の 批 判 と 『 決 定 的 期 日 』 の 議 論 」 を 検 討 し 、 尖 閣 諸 島 を め ぐ る

「決定的期日」 、すなわち「クリティカル・デート」には「一八九五年」とする説と「一九七一年」とする説がある

ことを紹介している。この点は、国際法学者の議論に委ねよう。

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二一世紀「中国」エピゴーネン「尖閣」論批判

大西に期待したいのは、井上清のような「尖閣諸島=中国領」という思いこみを相対化し、日本の日中友好運動

が文化大革命のさいに中国に対して「自主性」を堅持した伝統の教訓を汲み取ることである。

三、全国労働組合交流センター (動労千葉   二〇一二年)

「全国労働組合交流センター」なる団体が二〇一二年一一月に街頭で配布していたビラは、 「動労千葉」系の団体

と思われるが、尖閣諸島について「一方的な略奪行為」とし、当時、辞任したばかりの石原東京都知事の尖閣諸島

購入計画について「無責任な戦争挑発」 、「高まる反原発のうねりや、六割近くが非正規になってしまった青年労働

者 の 『 生 き て い け な い ! 』 と い う 怒 り の 声 を そ ら し 押 し つ ぶ す た め に 、『 尖 閣 』 や 『 竹 島 』 を 叫 び た て て い る 」 と

している。井上清とほぼ同じ論調である。

この団体は、尖閣諸島を中国のものと思いこんでいるようだが、大局的に尖閣諸島問題をめぐる二〇一二年の日

中関係を見た場合、日本が「戦争挑発」をしているという主張は逆立ちした見方である。石原都知事の意図が何で

あれ、尖閣諸島問題をめぐって「戦争挑発」をしているのは紛れもなく中国であり、日本は受け身の姿勢に終始し

ているのが二〇一二年九月~一一月 (本稿ゲラ校正中の二〇一四年六月でも) の現状であった。

(12)

四、孫崎   享

うける

(二〇一一年、二〇一二年)

孫 崎 享 に は 、『 日 本 の 国 境 問 題 ― ― 尖 閣 ・竹 島 ・北 方 領 土 』 ( 筑 摩 書 房   二 〇 一 一 年 五 月 、「 孫 崎   二 〇 一 一 」 と す る ) と二〇一二年九月反日騒動後に『検証   尖閣問題』 (岩波書店   二〇一二年一二月、 「孫崎   二〇一二」とする) がある。

四―一、 『日本の国境問題――尖閣・竹島・北方領土』

孫崎享は、元日本外務省国際情報局長という要職にあった人物なので、当然、その発言は注目に値する。ところ

が、孫崎   二〇一一は日本外務省の見解とは正反対の意見で、争点を三つあげた上、ほぼ全面的に中国側の主張を

支持する。

孫崎   二〇一一は、争点を以下の三点に整理している。 「争点一」 は、 「歴史的にどちらが先に領有を主張したか」である。

孫崎は、すでに見た陳侃の記述、一五六二年の明朝冊封使の記述、明朝嘉慶年間の 『日本一鑑』 の「釣魚島

は 小 島 小 嶼 な り 」 と の 記 述 、 清 朝 の 冊 封 使 汪

おう

しゅう

の 記 述 な ど か ら 、

( 孫 崎   二 〇 一 一   六 三 頁 ) 、「 文 献 は 圧 倒 的 に 中 国 に 属 し て い た こ と を 示 し て い る 」 ( 孫 崎   二 〇 一 一   六 四 頁 ) と

結論し、 「一九世紀以前に漠としてであっても中国の管轄圏内に入っていた尖閣諸島に対して、 『これは〝無主

の 地 〟 を 領 有 す る 〝 先 占 〟 に あ た る 』 の 論 理 が ど こ ま で 説 得 力 が あ る か 疑 問 」 ( 孫 崎   二 〇 一 一   六 四 頁 ) と し

(13)

二一世紀「中国」エピゴーネン「尖閣」論批判

ている。

しかし、明朝も清朝も少なくとも王朝として尖閣諸島の「領有」を主張したり、実効支配した事実はない。孫崎

が あ げ た 文 献 に 自 分 で 目 を 通 せ ば 、「 中 国 が 領 有 を 主 張 し て い た 」 な ど と は 読 め な い こ と は わ か っ た は ず だ が 、 孫

崎は読んでいない。だから、こんなでたらめが言えるのである。明朝成立以来の歴史の中で尖閣諸島について国家

権力がはじめて領有を主張したのは、一八九五年の日本政府だったのである。

① 陳 侃

かん

、 ② 一 五 六 二 年 の 明 朝 冊 封 使 ( 郭 汝 霖 ・李 際 春 『 重 編 使 琉 球 録 』 を 指 す ― ― 筆 者 注 ) 、 ③ 明 朝 嘉 慶 年 鑑 の 『 日 本 一 鑑 』、 ④ 清 朝 冊 封 使 汪 楫

しゅう

が 「 尖 閣 諸 島

=

中 国 領 」 の 根 拠 に な ら な い こ と は 、 拙 稿 「 二 〇 世 紀 『 中 国 』 エ ピ ゴ ー ネ ン 井 上 清 批 判 」 (『 中 央 大 学 論 集 』 第 三 五 号 。 拙 著 『 尖 閣 問 題 総 論 』 所 収 、 創 英 社 / 三 省 堂 書 店 、 二 〇 一 四 年 三 月 ) で 検 討 し た通りだが、孫崎は奥原敏雄・尾崎重義・緑間栄・芹田健太郎・原田 禹

のぶ

らの著作を参照できたはずなのに手抜き

し、井上清の誤りを踏襲しているのは日本外務省国際情報局長という要職にあった人としてはあまりにも不勉強と

言わざるをえない。

中国は「尖閣諸島を管理してきた」と言っているが、明朝も清朝も尖閣諸島を管理したと言っているという資料

は 何 も 提 示 さ れ て い な い 。 い っ た い 明 清 史 料 の ど こ に 「 中 国 は 尖 閣 諸 島 ( 釣 魚 島 ) を 管 理 し て き た 」 な ど と 書 い て

あるというのだろうか。明朝も清朝も、尖閣諸島近辺の海を「海防」の対象と見なしたことはあったが、尖閣諸島

そ の も の を 管 理 し た こ と は な か っ た し 、「 領 有 を 宣 言 」 し た こ と も な い の で あ る 。 ま ず 、 議 論 の 出 発 点 が 間 違 っ て

いる。 、『 一 八 九 五 年 尖 閣 諸 島 の 日 本 併 合 を ど う み る か 』」 で 、 日 本 は 清 国 の 支 配 が 及 ん で い る 痕 跡 が な い 四、孫崎   享

うける

(二〇一一年、二〇一二年)

孫 崎 享 に は 、『 日 本 の 国 境 問 題 ― ― 尖 閣 ・竹 島 ・北 方 領 土 』 ( 筑 摩 書 房   二 〇 一 一 年 五 月 、「 孫 崎   二 〇 一 一 」 と す る ) と二〇一二年九月反日騒動後に『検証   尖閣問題』 (岩波書店   二〇一二年一二月、 「孫崎   二〇一二」とする) がある。

四―一、 『日本の国境問題――尖閣・竹島・北方領土』

孫崎享は、元日本外務省国際情報局長という要職にあった人物なので、当然、その発言は注目に値する。ところ

が、孫崎   二〇一一は日本外務省の見解とは正反対の意見で、争点を三つあげた上、ほぼ全面的に中国側の主張を

支持する。

孫崎   二〇一一は、争点を以下の三点に整理している。 「争点一」 は、 「歴史的にどちらが先に領有を主張したか」である。

孫崎は、すでに見た陳侃の記述、一五六二年の明朝冊封使の記述、明朝嘉慶年間の 『日本一鑑』 の「釣魚島

は 小 島 小 嶼 な り 」 と の 記 述 、 清 朝 の 冊 封 使 汪

おう

しゅう

の 記 述 な ど か ら 、

( 孫 崎   二 〇 一 一   六 三 頁 ) 、「 文 献 は 圧 倒 的 に 中 国 に 属 し て い た こ と を 示 し て い る 」 ( 孫 崎   二 〇 一 一   六 四 頁 ) と

結論し、 「一九世紀以前に漠としてであっても中国の管轄圏内に入っていた尖閣諸島に対して、 『これは〝無主

の 地 〟 を 領 有 す る 〝 先 占 〟 に あ た る 』 の 論 理 が ど こ ま で 説 得 力 が あ る か 疑 問 」 ( 孫 崎   二 〇 一 一   六 四 頁 ) と し

(14)

ことを確認した上で、一八九五年に日本の領土に編入した、下関条約には尖閣諸島は含まれていない、として

い る が 、「 日 本 が 中 国 を 侵 略 す る 野 望 が あ る と 疑 わ れ る こ と を 憂 慮 」 し て い た し 、 日 清 戦 争 で 「 清 国 は 敗 戦 し

た」ので、 「〝台湾全島とそれに付随する全ての島 嶼

しょ

〟を割譲させた」 、「近代国際法は侵略行為は合法的権利を

生 み 出 せ な い 」 と し 、「 一 八 七 九 年 か ら 一 八 九 〇 年 に か け て 日 本 が 清 朝 と 琉 球 問 題 に つ い て 交 渉 し た 時 、 双 方

は 琉 球 の 範 囲 は 三 六 の 島 嶼 に 限 ら れ 、 釣 魚 島 は そ の 中 に 入 っ て い な い こ と を 一 致 認 定 し た 」 と し て い る (『 北

京週報』一九九六年三四号) とする (孫崎   二〇一一   六七~六九頁) 。

これは、劉宗文一九九六年論文の主張のただの受け売りで、孫崎はこれらの論点を何も検討することなしに鵜呑

みにしている。

孫崎は、 「中国は一貫して尖閣諸島は台湾の一部と主張している」 (孫崎   二〇一一   六九頁) とする。

孫崎による中国側の主張の紹介は、客観的な紹介ではなく、中国側の主張への無条件的支持表明となっている。

これでは、 「アメリカ追随」の裏返しとしての「中国追随」にほかならない。

国標建設問題も、日本政府が一八九五年まで国標を建てる決定をしなかったのは、尖閣諸島が中国の領土である

と認識していたからではない。それくらい、 『日本外交文書』を読めばわかることである。外務省の役人が、 『日本

外交文書』もろくに読んでいないのだろうか。

日本政府が一八七九年から一八九〇年にかけての時期に尖閣諸島が琉球に含まれないとする合意などというもの

は存在せず、尖閣諸島が中国に所属するという合意を意味するものもない。すべて、中国の誤った主張の受け売り

である。

(15)

二一世紀「中国」エピゴーネン「尖閣」論批判

「争点三」 は、 「尖閣諸島は日本の下、及び第二次大戦後沖縄の一部として扱われていたか、台湾の一部とし

て扱われていたか」である。

孫崎は、日本の主張と中国の主張を次のように整理する。

日 本 側 の 主 張 は 、「 平 和 条 約 第 三 条 で ア メ リ カ の 施 政 権 下 に 置 か れ て い た が 、 返 還 さ れ る ま で の 間 も 尖 閣 諸

島 は 日 本 の 領 土 で あ っ た 」 ( 日 本 外 務 省 H P ) 、 二 〇 一 〇 年 一 〇 月 五 日 『 赤 旗 』 も 、「 中 国 は 一 八 九 五 年 か ら

一九七〇年までの七五年間、一度も異議も抗議も行わなかった」というものだった。

中 国 側 の 主 張 は 、 ① 東 京 裁 判 所 は 一 九 四 四 年 、「 台 湾 州 」 の 管 轄 と し た 、 ② ア メ リ カ 国 務 省 の マ ッ ク ラ ウ ス

キ ー は 、 ア メ リ カ は 沖 縄 の 施 政 権 を 返 還 す る が 、 施 政 権 と 主 権 は 別 物 で 、 主 権 争 い は 当 事 国 が 解 決 す べ き と

言 っ た 、 ③ 一 九 五 〇 年 六 月 二 八 日 、 周 恩 来 外 交 部 長 は 「 台 湾 と 中 国 に 属 す る す べ て の 領 土 の 回 復 」 を 主 張 し

た、④中華民国政府外交部は一九七〇年、釣魚列 嶼

しょ

を琉球と一括して日本に移管することに反対した、⑤中華

人民共和国外交部は一九七一年一二月三〇日、釣魚島を返還区域に組み入れた沖縄返還協定に反対した、⑥中

国は一九七二年五月二〇日、釣魚島を日本への返還区域に入れたことを批判する書簡を国連事務総長に提出し

た、というものである (二〇一一   六九~七二頁) 。 孫 崎 は 、 以 上 の 事 例 を あ げ た 上 で 、「 中 国 側 は 一 貫 し て 尖 閣 諸 島 ( 釣 魚 島 ) は 台 湾 に 属 し て い る と の 立 場 を と っ て い る 」、 サ ン フ ラ ン シ ス コ 平 和 条 約 ( 以 下 サ 条 約 ) で は 「 日 本 は 台 湾 に 対 す る 全 て の 権 利 、 権 原 及 び 請 求

権を放棄する」と規定しているとして、 「『中国は一八九五年から一九七〇年までの七五年間、一度も日本の領

有 に 異 議 も 抗 議 も お こ な っ て い な い 事 実 が あ る 』 と の 『 赤 旗 』 紙 の 指 摘 は 必 ず し も 正 確 で は な い 」 ( 二 〇 一 一  

(16)

七一~七二頁) とする。

し か し 、 孫 崎 が あ げ た 六 点 お よ び サ 条 約 の 規 定 は 、 中 国 が 尖 閣 諸 島 の 領 有 を 主 張 し て き た と い う 論 拠 に は 全 然

なっていない。

① は 、『 中 国 』 一 九 七 一 年 二 月 号 に 掲 載 さ れ た 月 刊 『 明 報 』 論 文 が ネ タ で 、 奥 原 敏 雄 『 中 国 』 一 九 七 二 年 六 月 号

論文がとっくに批判しているものである。奥原によれば、㋑尖閣諸島付近は戦前戦後を問わず、漁業権が設定され

るような水域ではなかった、㋺『明報』は「最高裁」判決と言っているが、当時は「大審院」である、㋩「台北州

の管轄」について「花瓶嶼あたりを魚釣島か久場島と錯覚したものと思われる」と論評しており、 そのような判決 の存在そのものが疑問視 されているしろものであり、判決証拠物件の提示が議論の条件である。

② は ア メ リ カ の 二 股 ( ま た は 三 股 ) 膏 薬 的 な 矛 盾 し た 政 策 で あ り 、 尖 閣 諸 島 が 中 国 領 で あ る と い う 証 拠 と は な ら

ない。 ③ は 、『 赤 旗 』 は 「 台 湾 と 中 国 に 属 す る す べ て の 領 土 」 の 中 に 尖 閣 諸 島 は 入 っ て い な い と 主 張 し て い る の で あ

り、またサ条約での「放棄」対象にも尖閣諸島は入っていないと主張しているだから、孫崎は「入っていた」こと

を論証しなければ、中国が「尖閣諸島は中国領だと主張していた」という証拠にはならない。

④ ⑤ ⑥ は 石 油 埋 蔵 の 可 能 性 が 指 摘 さ れ た あ と の 、 沈 黙 の 「 七 五 年 間 」 の あ と の 主 張 で あ り 、『 赤 旗 』 へ の 反 論 材

料ではない。

外交官であった人が、こんな 杜

ずさん

撰 な論法が通用すると思っているとは、想像を絶することである。日本の外交官

であった人の中にこんなに中国追随をする人がいるというのは、びっくりである。

(17)

二一世紀「中国」エピゴーネン「尖閣」論批判

次に孫崎は、①一九七〇年代に中国が尖閣諸島問題を「棚上げ」したのは中国にとっては不利なことであっ

た と し 、 二 〇 〇 〇 年 日 中 漁 業 協 定 は 問 題 を 起 こ し た 国 の 漁 船 に 相 手 国 が 直 接 接 触 し な い と い う 原 則 だ っ た の

に 、 二 〇 一 〇 年 九 月 、 日 本 が 中 国 漁 船 に 停 戦 命 令 を 出 し た の は 合 意 違 反 と 批 判 す る ( 孫 崎   二 〇 一 一   七 三 ~ 八四頁) 。

②孫崎はまた、菅直人首相が二〇一〇年六月八日に「尖閣諸島をめぐり解決すべき領有権の問題はそもそも

存在しない」との答弁書に署名したことは間違いと批判する。

その理由は、 (イ)中国が尖閣諸島を自国領と見なしている、 (ロ)アメリカは主権問題で日中いずれの側も

支 持 し な い と し て い る 、( ハ ) ア メ リ カ 中 央 情 報 局 ( C I A ) 、 ア メ リ カ 国 防 省 ( ペ ン タ ゴ ン ) 、 イ ギ リ ス 放 送 協 会 ( B B C ) ウ ィ キ ペ デ ィ ア な ど が 尖 閣 諸 島 は 「 主 権 を め ぐ り 係 争 中 」 と し て い る と い う 点 を あ げ て お り 、「 領 有権の問題はそもそも存在しない」とするのは「無理」と結論する (孫崎   二〇一一   八七~九〇頁) 。

① 漁 業 協 定 の 問 題 は 、 筆 者 は 確 か め て い な い が 、「 問 題 を 起 こ し た 国 の 漁 船 に 相 手 国 が 直 接 接 触 し な い と い う 原

則」は領海外で適用されるのではないか。漁業協定は、領海に侵入した中国漁船がしかも海上保安庁船に体当たり

するという不法行為をしたのに対して海上保安庁が逮捕することを禁止しているのだろうか。そんなことは、ない

だろう。 ② ( イ )「 中 国 が 尖 閣 諸 島 を 自 国 領 と 見 な し て い る 」 か ら 、 日 本 政 府 が 「 領 有 権 の 問 題 は そ も そ も 存 在 し な い 」

というのは間違っているなどと言うのは、まともな理屈とは思われない。日本は、中国の属国ではない。

(ロ)アメリカは主権問題で日中いずれの側も支持しないとしているという点は、 「第三者」としての立場の表明

(18)

であり、日本の領有権主張に反対しているわけではなく、中国の主張を支持しているわけでもない。

( ハ ) ア メ リ カ な ど が 「 主 権 を め ぐ り 係 争 中 」 と し て い る と い う の は 、 同 じ く 「 第 三 者 」 の 立 場 の 表 明 に 過 ぎ

ず、日本の領有権主張の当否に影響するものではない。

二国がそれぞれ領有権を主張する地域について第三者、第三国が「主権をめぐり係争中」と見るのは無理もない

が、実効支配を行なっている国が「領土問題は存在しない」と主張するのは通常のことである。たとえば韓国は竹

島について「領土問題は存在しない」と主張しているし、中華人民共和国も南シナ海の中国名「黄岩島」について

「領土問題は存在しない」と主張している。

孫崎はまた、領海侵犯した中国人船長を「国内法によって粛々と行なう」としたことは間違いで、 「棚上げ」

廃止は「中国軍部が望んでいること」と批判し、中国にも軍事力を使って尖閣諸島を奪取しようとしているグ

ル ー プ と 紛 争 を 避 け た い グ ル ー プ が い る の で 後 者 と 連 係 す る こ と が 重 要 と 述 べ て い る ( 孫 崎   二 〇 一 一   八 七 ~ 九四頁) 。

領海侵犯した中国人船長を「国内法」によって処罰するのは主権国家として当然の行為ではないのか。

尖 閣 諸 島 「 棚 上 げ 」 廃 止 は 、「 中 国 軍 部 が 望 ん で 」 い よ う と い ま い と 、 中 国 が す で に 一 九 九 二 年 の 「 領 海 法 」 で

釣魚島は中国領と規定したときに「棚上げ」論は廃止されているのである。

中国内の紛争を避けたいグループと連係することによって、現在中国がとっている領海侵犯・領空侵犯などの冒

険主義政策を転換させることができるのなら大変結構なことであるが、具体的にどんな展望があるのだろうか。実

行 を 期 待 し た い が 、 孫 崎 の 主 張 か ら 二 〇 一 三 年 七 月 現 在 に 至 る ま で 中 国 は 冒 険 主 義 的 を や め る 気 配 は ま っ た く な い 。

(19)

二一世紀「中国」エピゴーネン「尖閣」論批判

同 じ 元 外 交 官 で も 、 東 郷 和 彦 ( 保 坂 正 康 ・東 郷 和 彦 『 日 本 の 領 土 問 題 ― 北 方 四 島 ・竹 島 ・尖 閣 』 角 川 書 店   二 〇 一 二 年 二 月) は孫崎とはかなり異なるスタンスを取っている。

四―二、 『検証   尖閣問題』

孫 崎   二 〇 一 二 は 、「 Ⅰ . 尖 閣 問 題 に ど う 対 処 す る か 」、 「 Ⅱ . 日 中 両 国 の 主 張 を 検 討 す る ( 小

てら

彰 論 文 、 天

あま

慧 論 文 、 小 寺 ・天 児 ・孫 崎 に よ る 座 談 会 ) 」、 「 Ⅲ . 座 談 会   外 交 力 が 試 さ れ て い る ( 石 川 好 ・宋 文 洲 ・孫 崎 ) 」、 「 Ⅳ . 座 談 会   国 境 問 題 を 解 決 す る 道 は ど こ に あ る か ( 岩 下 明 裕 ・羽 場 久 美 子 ・孫 崎 ) 」 と な っ て い る 。 孫 崎 以 外 に つ い て は 、「 中 国 」

エピゴーネンという呼称はとりあえずはずしておこう。

Ⅰ.は三節に分かれている。

「 一 、『 尖 閣 諸 島 は 日 本 の 領 土 で 何 ら 問 題 な い 』 と い う 日 本 側 の 考 え 方 は 国 際 的 に 通 用 す る か 」 ( 孫 崎   二〇一二   二頁) である。

①まず、 「軍事面に発展した時、中国政府は断固とした態度をとる」 (孫崎   二〇一二   四頁) と言う。

日 本 政 府 は 「 軍 事 面 に 発 展 し た 時 、 日 本 政 府 は 断 固 と し た 態 度 を と る 」 な ど と は 言 っ て い な い こ と は 、 誰 で も

知っている。ここで不思議なのは、このような軍事威嚇をしているのは中国であって日本ではないのに、孫崎は中

国の威嚇的言動を全然批判しないことである。

②に「 『尖閣不況』が起こる可能性がある」 (孫崎   二〇一二   七頁) と言う。

だからと言って、問題は中国の不当な要求に屈するわけにはいかないということではないか。

(20)

③孫崎は、 「相手の主張を十分理解」することが必要 (孫崎   二〇一二   一一頁) と言う。

そ れ は い い と し て 、 し か し ま た し て も 不 思 議 な こ と に 孫 崎 は 日 本 が 中 国 の 主 張 を 「 理 解 」 す る こ と だ け を 要 求

し、中国に日本の主張を理解するよう求めないことである。

④尖閣諸島を「日本固有の領土」と見るか、 「係争地」と見るかが問題で、 「ポツダム宣言」では「日本国の

主権は本州・北海道・九州・四国ならびにわれらの決定する諸小島に局限」されているのだから、尖閣諸島を

「日本のもの」と主張するのは、 「通用しない」 (孫崎   二〇一二   一二~一四頁) と言う。

しかし、 「われら」 (連合国) は尖閣諸島には日本の主権は及ばないとは「決定」しなかったのではないか。

孫 崎 は 、「 カ イ ロ 宣 言 」 は 「 満 州 ・台 湾 お よ び 澎 湖 島 の ご と き 日 本 国 が 清 国 人 よ り 盗 取 し た る 一 切 の 地 域 を

中 華 民 国 に 返 還 す る こ と 」 と し て お り 、 中 国 は 「 中 国 が 最 初 に 釣 魚 島 を 発 見 し 中 国 の 版 図 に 入 れ た 」 云 々 と

言 っ て お り 、 中 国 側 は 尖 閣 諸 島 を 日 本 が 「 盗 取 し た る 一 切 の 地 域 」 に 入 る と 見 な す 可 能 性 が 高 い ( 孫 崎   二〇一二   一四~一五頁) と論ずる。

そ れ は 、 中 国 の 一 方 的 な 主 張 な の で あ り 、 中 国 の も の で あ っ た と い う 根 拠 を 中 国 側 は 提 出 で き て い な い の で あ る 。

孫崎は、尖閣諸島=日本領を主張するひとは「ほとんどポツダム宣言、カイロ宣言、サンフランシスコ条約

に言及していない」 (孫崎   二〇一二   一六頁) と称する。

そんなことは、ないのではないか。孫崎自身が所属していた日本外務省のホームページでも、ちゃんと言及して

いるし、冊封使録に限定している原田禹雄を除いて日本の論者のほとんど全員が言及しているではないか。それな

のに、 「カイロ宣言」 、「ポツダム宣言」に関する「言及がない」というこの論点は、孫崎   二〇一二 の一二~一四

(21)

二一世紀「中国」エピゴーネン「尖閣」論批判

頁でも二九~三〇頁でも繰り返されている。

孫崎はさらに、サ条約は「日本国は、台湾および澎湖諸島に対するすべての権利、権原および請求権を放棄

する」としている (孫崎   二〇一二   一六頁) とする。

しかし、サ条約は尖閣諸島が「台湾および澎湖諸島」に所属するとは規定していない。

孫崎は、ポツダム宣言が「その他の島々は連合国が決める」としており、アメリカは尖閣諸島の主権に中立

を決めこんでおり、 「日中の間に 楔

くさび

を打ちこむ意図」がある (孫崎   二〇一二   一六頁) と言う。

しかし、すでに述べたように連合国は尖閣諸島には日本の主権は及ばないとは「決定」しておらず、アメリカは

尖 閣 諸 島 を 含 む 沖 縄 諸 島 の 施 政 権 を 日 本 か ら 取 得 し た の で あ る 。 ア メ リ カ の 尖 閣 諸 島 主 権 問 題 に つ い て の 「 中 立 」

表 明 は 、 一 九 七 〇 年 九 月 か ら 始 ま っ た も の で あ っ た が 、 そ の 打 算 が 何 で あ ろ う と 、「 尖 閣 諸 島 = 日 本 領 」 と い う 日

本の主張には影響はない。

⑤孫崎は、劉文宗論文ほかによって中国側の主張を次のようにトレースし、そのまま鵜呑みにする。

(イ)中国は琉球から尖閣諸島に行くのは不可能だと言っている (孫崎   二〇一二   二七頁) とする。

こ れ は 劉 文 宗 論 文 が 井 上 清 の 論 を 受 け 売 り し た も の ( そ の 元 は 楊 仲 揆 論 文 ) で 、 事 実 に 反 す る 。 孫 崎 は 、 い い 加 減 なことを書く前に奥原敏雄・尾崎重義・緑間栄・芹田健太郎・原田 禹

のぶ

などを読むべきだったのではないか。

(ロ)陳侃・ 『日本一鑑』 ・「汪 楎

ママ

」等の記述、等に言及し、 「以上の事実は」 「一五世紀からすでに中国の版図 に入っていたことを示している」と劉文宗論文が言っている (孫崎   二〇一二   二八頁) とする。

こ れ も 拙 稿 「 二 〇 世 紀 『 中 国 』 エ ピ ゴ ー ネ ン 井 上 清 批 判 」 で 論 破 ず み で あ る 。 な お 、「 汪 楎 」 は 誤 字 で 、 正 し く

(22)

は「汪 楫

しゅう

」である。孫崎は、劉文宗論文に書かれていることが正しいかどうか確かめようともせず、鵜呑みにして

いるのである。

(ハ)胡宗憲『籌海図編』がある (孫崎   二〇一二   二七頁) 、と言う。

『 籌 海 図 編 』 は 、 尖 閣 諸 島 が 中 国 領 で あ っ た こ と の 証 拠 な ど で は な く 、 航 海 の 目 印 を 示 し た も の で あ っ た こ と に

ついては、奥原敏雄・原田禹雄などを見よ。

(ニ) 西太后詔書 がある (孫崎   二〇一二   二七頁) と言う。

「 西 太 后 詔 書 」 問 題 の ネ タ は 、 楊 仲 揆 『 祖 国 』 一 九 七 二 年 二 月 号 論 文 で あ る が 、 緑 間 栄 は 、 ① 清 朝 が 尖 閣 諸 島 を

領 有 し て い る と い う 意 思 を 持 っ て い た の な ら 、 こ の 「 詔 書 」 が 告 示 さ れ た の は 「 一 八 九 三 年 」 で あ る か ら 、

一 八 九 五 年 の 日 本 に よ る 領 有 に は 抗 議 す る 機 会 は あ っ た 、 ② こ の 「 詔 書 」 の 実 物 を 見 た 日 本 人 は い な い (『 尖 閣 列

島 』  ひ る ぎ 社   一 九 八 四 年 三 月 ) と 指 摘 し て い る 。 本 物 だ と 言 う な ら 、 少 な く と も 実 物 を 提 示 す べ き で あ る 。 孫 崎

は、実物を確認したのだろうか。

虞正華『歴史月刊』一九九七年一一月号論文は、①この詔書には「欽此」という文字が書かれているが、皇帝・

皇后がみずから上諭を書くとき、この二字はありえない、②この上諭にある「慈諭」はかならず改行されるのにさ

れていない、③「慈禧太后之宝」という印が押されているが、正しくは満漢文が並列されるのに漢文しかない、④

盛宣懐の官職は「太常寺少卿」なのに「太常寺正卿」となっている、⑤清朝には土地を与える規定はない、と指摘

している。

この「詔書」は、ずっと前から偽書と疑われているのである。中国は、偽造品天国である。

(23)

二一世紀「中国」エピゴーネン「尖閣」論批判

( ホ ) 尖 閣 諸 島 = 中 国 領 有 論 の 根 拠 資 料 は 陳 侃

かん

・郭 汝 霖

りん

・向 象 賢 ・程 順 則 ・『 三 国 通 覧 図 説 』 で あ る ( 孫 崎   二〇一二   二七頁) と言う。

ここにあげた史料については、奥原敏雄・尾崎重義・緑間栄・芹田健太郎・原田禹雄などを見よ。これらが「尖

閣諸島=中国領」論の根拠とならないことは、すでに論破しつくされているのである。明朝でも清朝でも尖閣諸島

を領有していたという証拠は、一切存在しないのである。

孫崎は、これらの論述史をまったく見ていないのだ。いくらなんでもひどすぎないか。こんな人が日本外交の情

報を担当しているのでは、日本は確実に滅びる。ところが、週刊誌『アエラ』の広告によれば、この方は「憂国の

士」なのだそうである。言いたくはないが、それってブラックユーモアではないか。

⑥孫崎は、明治政府が陳 侃

かん

・郭汝 霖

りん

・向象賢・程順則・ 『三国通覧図説』などの文献を、 『沖縄当局を通じる 等の方法による現地調査』で行ったのであろうか。はなはだ疑問である」 (孫崎   二〇一二   二七頁) と言う。

やや文意不明だが、明治政府はこれらの文献を調べていないのだろうと言いたいのだろう。当時の明治政府がど

れだけ調べたかの記録が残っているのかどうか、わたしは知らない。孫崎自身がこれらの文献を調べていないこと

は 彼 の 文 章 か ら 明 ら か だ が 、 ① 当 時 の 明 治 政 府 は 内 務 卿 山

やま

がた

あり

とも

よ り 外 務 卿 井 上 馨

かおる

あ て 明 治 一 八 年 ( 一 八 八 五 年 ) 一 〇 月 九 日 付 け 文 書 の 付 属 書 で あ る 内 務 卿 よ り 太

じょう

かん

あ て 上 申 案 に 『 中 山 伝 信 録 』 を あ げ て い る 経 緯 か ら も 、 す

べてではないにしても明清・琉球・日本史料についてそれなりに知っていたと見るべきであろう。つまり、全然知

らなかったわけではない。さらに②全部知っていたとしても、尖閣諸島=「無主地」という判断に変化がありえた

わけでもない。孫崎のこの指摘は、無意味なのである。

(24)

⑦孫崎は、日本共産党が尖閣諸島をめぐって中国側が「七五年間、一度も日本の領有に対して異議も抗議も お こ な っ て い な い 」 と 指 摘 し て い る こ と を 、「 多 分 中 国 の 歴 史 を 無 視 し て い る 」 ( 孫 崎   二 〇 一 二   三 一 頁 ) と 批

判し、次のように述べる。

( イ ) 中 国 は 一 八 四 〇 年 以 来 の ア ヘ ン 戦 争 で 「 尖 閣 諸 島 う ん ぬ ん を 発 言 出 来 る 時 代 で は な い 。」 ( 孫 崎   二〇一二   三一頁) これは、悪女の深情けとは言わないが、中国もそんなことは一言も主張していない。腐っても 鯛

たい

だ。一九世紀後

半の清朝は、落ち目であったとはいえ、まだまだ東アジアの堂々たる大国だった。だから、井上清は明治政府が清

国 を 恐 れ て 国 標 建 設 を 躊 躇 し て い た の だ と 言 っ た の で は な い か 。 孫 崎 は 、 歴 史 理 解 を 見 直 し て み る い い 機 会 だ ろ う 。

ひ と つ だ け 例 を あ げ て お け ば 、「 明 治 一 九 年 ( 光 緒 一 二 年 、 一 八 八 六 年 ) 長 崎 事 件 」 が あ る 。 孫 崎 が よ く 知 っ て い

る は ず の 『 日 本 外 交 文 書 』 に よ れ ば 、 同 年 八 月 一 三 日 、 長 崎 に 停 泊 し て い た 清 国 軍 艦 四 隻 か ら 上 陸 し た 清 国 水 兵

二 〇 〇 名 が 長 崎 人 民 に 暴 行 を 加 え た た め 、 日 本 警 察 の 巡 査 が 取 締 り に あ た っ た と こ ろ 、 水 兵 は 巡 査 に 刀 で 切 り つ

け、双方各一名が負傷した。同月一五日夜八時、上陸した清国水兵六〇〇余名が日本人民衆一〇〇〇余名と衝突し

た。水兵は巡行する巡査の棒を取ろうとし、日本の巡査一名を殺害した。清国水兵側も、日本側の認識では士官一

名死亡、一五~一六名負傷、清国側の主張では死者五名、重傷六名、軽傷三〇名、行方不明九名という乱闘となっ

た (『日本外交文書』第二〇巻五六五~五九七頁) 。

わたしは、この件について特に調べたことはないので詳細は不明であるが、当時の清国水兵たちにしても、日本

の長崎で少なくともこのぐらいの騒ぎを起こす元気はあったのである。

(25)

二一世紀「中国」エピゴーネン「尖閣」論批判

(ロ)一九四三年、 「満州、台湾および澎湖島のごとき日本が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に

返還する」としたカイロ宣言が出され、蔣介石も参加していた。ポツダム宣言は「カイロ宣言の条項は履行せ

らるべく」 (孫崎   二〇一二   三一頁) としている。

カイロ宣言の言う「満州、台湾および澎湖島のごとき日本が清国人より盗取したる一切の地域」の中に尖閣諸島

は入っていない。入っていると言うためには、日本が「盗取」したことが証明されなければならないが、それには

尖 閣 諸 島 が 「 清 国 人 」 の も の で あ っ た こ と が 証 明 さ れ な け れ ば な ら ず 、 そ の 証 拠 は 提 出 で き て い な い の で あ る か

ら、 「盗取」したとの主張は 破

たん

しているのである。

( ハ ) 周 恩 来 外 務 大 臣 は 一 九 五 一 年 八 月 一 五 日 、 対 日 講 和 問 題 に つ い て 「 カ イ ロ 宣 言 、 ヤ ル タ 協 定 、 ポ ツ ダ

ム宣言を基礎とすべし」と発言している。従って、中国は「七五年間、一度も日本の領有に対して〔異議も講

義も〕おこなっていない」 (孫崎   二〇一二   三二頁) という判断は正当ではない。

一九五一年周恩来発言は、尖閣諸島が中国のものだとは一言も言っていない。

以上、中国は「七五年間、一度も日本の領有に対して異議も抗議もおこなっていない」という日本共産党、日本

外務省など (だけに限らないが) の指摘は正しいのである。

孫 崎 は こ の ほ か 、 玄

げん

光 一 郎 外 相 が 二 〇 一 二 年 一 〇 月 、 仏 英 独 を 訪 問 し 、 尖 閣 諸 島 問 題 で の 協 力 を 求 め た が 、 不 調 に 終 わ っ た こ と か ら も 、「 日 本 の 主 張 が 国 際 的 支 持 を 受 け て い な い 」 ( 孫 崎   二 〇 一 二   三 二 ~ 三 三 頁 ) とする。

これは、中国の積極的対外宣伝活動にくらべて、日本の訴えが弱かったということにすぎず、どちらの主張に正

(26)

当性があるかということとは無関係である。

⑧、孫崎は日本外務省などの「先占の法理」論を批判する。

日 本 外 務 省 、 日 本 共 産 党 、 奥 原 敏 雄 ら 尖 閣 研 究 会 グ ル ー プ ほ か 日 本 の 法 学 者 は 、「 先 占 の 法 理 」 論 を 支 持 し て い

る。

孫崎は、 「先占の法理」を主たる論点とする判決は見たことがなく、尖閣諸島では「 『先占の法理』がポツダ

ム宣言やカイロ宣言よりも重視される可能性はない」 (孫崎   二〇一二   三五~三六頁) と断言する。

そうですかねえ、と言うほかはない。しかし、ポツダム宣言やカイロ宣言が尖閣列島領有問題の判断基準になる

などということは、ありえないだろう。

そ し て 、 孫 崎 は 「 尖 閣 諸 島 と い う 海 洋 交 通 の 要 衝 で 、 相 当 の 規 模 の 島 が 〝 無 主 物 〟 で あ る こ と は あ り え な

い」 (孫崎   二〇一二   三六頁) と断言する。

これまた、歴史を知らないにもほどがあると言わざるをえない。前近代世界では「無主の地」はたくさんあった

のだ。

孫 崎 は 、 重 ね て 「 尖 閣 諸 島 に お い て 何 よ り も 重 視 さ れ る の は 協 定 や 合 意 事 項 で あ り 、 そ れ は と り も な お さ

ず、ポツダム宣言とサンフランシスコ条約となる」 (孫崎   二〇一二   三七頁) と言う。

ポツダム宣言、サ条約が問題となるのは、東アジア太平洋戦争の戦後処理であるが、戦後処理で 決定的な合意と で あ る と 日 本 外 務 省 は 言 っ て お り ( 日 本 外 務 省 H P ) 、 サ 条 約 に は 尖 閣 諸 島 は 中 国 に 帰 属 す る と い う 規 定 が

な い こ と は こ れ ま で に も 見 て き た と こ ろ で あ る 。 さ ら に 中 国 自 身 、「 中 国 は サ 条 約 に 縛 ら れ な い 」 と 主 張 し て い る

(27)

二一世紀「中国」エピゴーネン「尖閣」論批判

のだが。

⑨次に孫崎は、日本の高校の歴史教科書における尖閣諸島問題を扱い方について、山川出版社『詳説   日本

史』がポツダム宣言の第八項を記載していない、カイロ宣言中の「清国人より盗取したる一切の地域」が落ち

ている、サ条約は第二条が落ちている (孫崎   二〇一二   四〇~四一頁) と指摘している。

東京書籍『日本史B』は、ポツダム宣言第八項は記載しているが、カイロ宣言は「日清戦争以降に日本が中

国 か ら 獲 得 し た 領 域 」 と 記 載 し て お り 、 サ 条 約 は 第 二 条 が 落 ち て お り 、 第 三 条 は 記 載 し て お り 、「 極 め て 恣 意

的な選択」 (孫崎   二〇一二   四一頁) と批判している。

(孫崎はさらに、中学校の教科書からも拾っているが、ここでは省略する。 ) これは、このさい見ておけばいいだろう。

「二   尖閣問題は軍事的に解決が可能か」

第 二 節 の 論 旨 は 、 ① 中 国 軍 は 、 戦 争 を 準 備 し て い る 、 ② 日 本 の 自 衛 隊 は 中 国 軍 に 勝 て な い 、 ③ 米 軍 は 参 戦 し な

い、というものである。

①孫崎は「こちらが軍備を増せば、相手国は当然増す」 (孫崎   二〇一二   四五頁) と言う。

中国軍の発言については、孫崎は中国の軍備増強が東アジアの軍事バランスをくずし、日本の対策はそれに対応

する施策であるとは考えないのだ。

② 孫 崎 は 、 日 中 軍 事 紛 争 が 起 こ っ た と き 、「 日 本 に 勝 ち 目 は 全 く な い 」 ( 孫 崎   二 〇 一 二   五 一 頁 ) と 断 言 す る 。

だからといって、その裏返しで中国の言うことをきけというのは、帝国主義への屈服の論理である。卑屈すぎる

参照

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