弱き思惟 : 解釈学の未来を見ながら
著者 マルラ ミケーレ
会議概要(会議名, 開催地, 会期, 主催 者等)
会議名: 日文研フォーラム, 開催地: 国際交流基金 京都支部, 会期: 1997年12月15日, 主催者: 国際日 本文化研究センター
ページ 1‑39
発行年 1997‑12‑15 その他の言語のタイ
トル
Weak thought : a look at the future of hermeneutics
シリーズ 日文研フォーラム ; 95
URL http://doi.org/10.15055/00005706
第95回 日 文 研 フ ォ ー ラ ム
■
弱 き 思 惟
一 解釈学の未来を見ながら 一
WeakThought:ALookattheFutureofHermeneutics
■
ミケ ー レ ・マ ル ラ
MicheleF.Marra
国 際 日本 文 化 研 究 セ ン タ ー
日文研フォーラムは︑国際日本文化研究センターの創設にあたり︑
一九八七年に開設された事業の一つであります︒その主な目的は海外
の日本研究者と日本の研究者との交流を促進することにあります︒
研究という人間の営みは︑フォーマルな活動のみで成り立っている
わけではなく︑たまたま顔を出した会や︑お茶を飲みながらの議論や
情報交換などが貴重な契機になることがしばしばあります︒このフォー
ラムはそのような契機を生み出すことを願い︑様々な研究者が自由な
テーマで話が出来るように︑文字どおりインフォーマルな﹁広場﹂を
提供しようとするものです︒
このフォーラムの報告書の公刊を機として︑皆様の日文研フォーラ
ムへのご理解が深まりますことを祈念いたしております︒
国際日本文化研究センター
所長河合隼雄
● テ ー マ ●
弱 き 思 惟
一 解 釈学 の未 来 を 見 な が ら 一
WeakThought:ALookattheFutureofHermeneutics
● 発 表 者 ●
ミ ケ ー レ ・ マ ル ラ MicheleF.Marra
カ リ フ ォ ル ニ ア 大 学 ロ サ ン ゼ ル ス 校 準 教 授 AssociateProfessor,UniversityofCaliforniaLosAngeles
国 際 日 本 文 化 研 究 セ ン タ ー 客 員 助 教 授 VisitingAssociateProfessor,Int'1ResearchCenterforJapaneseStudies
1997年4月15日(火)
発表者紹介
マ ル ラ ・ ミ ケ ー レ Dr.MicheleMarra
カ リ フ ォ ル ニ ア 大 学 ロ サ ン ゼ ル ス 校 準 教 授 AssociateProfessor,UniversityofCalifornia,LosAngeles
国 際 日 本 文 化 研 究 セ ン タ ー 客 員 助 教 授 VisitingAssociateProfessor,Int'1ResearchCenterforJapaneseStudies
1956年 1979年 1979‑81年 1983年
1983‑85年 1985‑86年 1988年
1988‑89年 1990‑93年
トリ ノ(イ タ リア)生 ま れ
トリ ノ大 学卒 業(日 本文 学 ・イ タ リア文 学 専 攻) 文部 省奨 学生 、筑 波 大学 研 究 生(日 本 古 典 文 学 専 攻) ワ シ ン トン大 学(セ ン トル イ ス)修 士 号 取 得(日 本 文 学 専 攻)
大 阪 外 国 語 大 学 客 員 教授(イ タ リア語 ・イ タ リア文 学) プ リン ス トン大 学 大 学 院(日 本 文 学 専 攻)
カ リフ ォル ニ ア大 学 ロサ ンゼル ス校 博 士 号 取 得(日 本 文学 ・ 日本 思 想 専 攻)
東 京 大 学 外 国 人 講 師(イ タ リア語 ・イ タ リア文 学) 南 カ リフ ォル ニ ア大 学 助 教 授(日 本 文 学)
1993.4‑93.8国 際 交 流 基 金 フ ェ ロ ー、 大 阪 大 学 研 究 員(日 本 美学) 1993‑95年 カ リフ ォル ニ ア大 学 ロ サ ンゼル ス校 助 教 授(日 本 文 学) 1995一現 在 カ リフ ォル ニ ア大 学 ロ サ ンゼ ル ス校 準 教 授(日 本 文 学 ・日
本 美 学 ・解 釈 学)
1996.5ト リノ大 学 客 員 準 教 授(日 本 文 学)
1996.7‑97.6国 際 日本 文 化 研 究 セ ンタ ー客 員 助 教 授(日 本美 学 ・解 釈 学)
主 な 著 書:
IharaSaihahu:StoriediMercanti(井 原 西 鶴 著 『日 本 永 代 蔵 』 ・
『世 間 胸 算 用 』 イ タ リ ア 語 訳).Torino:Utet,1983.
"Mum:y薇(zshi:IntroductionandTranslation"(『 無 名 草 子 』 英 訳) . MonumentaNipponica39(1984).
IRaccontidilse(『 伊 勢 物 語 』 イ タ リ ア 語 訳).Torino:Einaudi, 1985.
TheAestheticsofDiscontent:PoliticsandReclusionin Medieval
JapaneseLiterature.Honolulu:UniversityofHawaiiPress,1991.
RepresentationsofPower:TheLiteraryPoliticsofMedievalJ apan.Honolulu:UniversityofHawaiiPress,1993.
今日は日文研フォーラムに招かれるという︑私には大変喜ばしい機会に恵まれ
ました︒この場をお借りしまして︑私を招いてくださった方々に︑また来て下さ
いました皆様方に心から深く感謝いたします︒私はカリフォルニア大学ロサンゼ
ルス校で日本文学を教えている者でございますから︑大学では人文科学(巨ヨき憎
けδ︒︒)に属する者なんですけれども︑最近は︑ご存じの通り︑人文科学は世界的に
脅かされていて︑どの大学でも経済的援助が段々と少なくなって来ていますから︑
もしかしたら何年かすると︑今の形での人文科学と言うものが完全になくなって
しまうかも知れません︒ある程度︑この傾向は必然的なものであって︑避けられ
ない過程の結果ということになりましょう︒アメリカでは授業をしていると︑昔
の事と今の私たちとどういう関係があるのかと︑必ずと言っていいほど︑学生た
ちに聞かれます︒歴史を知っているということが現在の社会の中でどういう意味
があるのか︒どういう風に私たちに役だっているのか︒これは単純な質問ではあ
りません︒なぜかと言いますと︑この質問に答えるためには︑自分の主体性に直
面しなければならないからです︒主体は対象に向かう時︑対象を再11現前化
(﹃①b憎①ωΦb﹁けω)するのではなく︑対象のイメージを作っています︒つまり︑主体は解
釈するにあたって勝手に自分を入れて︑勝手に他者のイメージを作っているので
す︒元にある対象は︑解釈する人の主体性を通過しない限り︑存在する事はでき
ません︒また︑その対象は︑解釈する人の主体性を通過した途端︑それ自身の主
体性を失くすのです︒と言っても︑実のところは︑なにも失う訳ではありません︒
対象は或る主体から離れた状態で存在する事が出来ないと言うことであり︑元々
の形ではあり得ないと言うことなのです︒何かが再11現前化される為には︑元の
ままの姿で現れると言うことが前提としてあります︒ここで問題となるのは︑こ
の元のままの姿の現れが最初からある解釈の結果でしかないということです︒学
生たちはその事をよく分かっています︒過去は再現することが出来ないのです︒
どうしてかと言いますと︑過去と言われる客観的な対象は︑実は︑確かには︑存
在しないからです︒過去ということは︑解釈の結果の形でしかあり得ない︒そし
て︑解釈は主体性に深く根ざしているから︑解釈の可能性は無限にあります︒そ
れなら︑過去の数も可能性としては無限に成る訳です︒つまり︑過去は客観的な
真実として元から存在しないのです︒そうすると︑客観的な真実と言う概念は消
えた途端︑誰も解釈の正しさを保証する事が出来なくなります︒というわけで︑
唯一の真実としての過去が存在しないわけですから︑それについて授業するのは
難しく成るし︑それと平行して︑人文科学の価値が学生たちに問われる訳です︒
実は︑これは学生たちからだけではなく︑一般社会から聞こえて来る声でもあり
ます︒
今︑私たちが生きているこのポスト・モダン世界では︑確実性と言う慰めが失
くなっていると同時に︑逆に新しいチャンスが私たちに与えられているのではな
いかと私は思います︒私たちは今︑過去二千年間続いてきた形而上学的な伝統を
遂に弱める事が出来るかもしれません︒ご存じの通り︑西洋の哲学では︑現実の
相対性は超越した所に根ざし︑絶対的な意味が与えられています︒この超越した
所は︑(有)(英語で言うと︑buΦぎσQ・)と言われています︒目の前に見える事は単に
影であって︑それを見ている人は束縛されていて︑頭を動かす事が出来ないから︑
影しか見えないのです︒しかし︑束縛から解放された途瑞︑洞窟に囚われていた
人は現実の本質的な形に近づいているのです︒しかし︑その過程は簡単ではあり
ません︒(有)の根元的な光に慣れるまでには時間が掛かります︒どうしてかと言
いますと︑肉眼で見えるものとは別のものとされている真理は見る事が出来ない
からです︒これはプラトンがイデアと呼んでいるものです︒(有)と真理は安定し
た︑変わる事のない本質とされています︒そうでなければ︑人と人との間で伝達
と言う事が不可能になるからです︒テーブルと言うときは︑どんな形や色をして
いても︑人間は︑ある程度︑通じ合うことが出来るものです︒どうしてかと言い
ますと︑テーブルのイデアが皆に共通して存在しているからです︒‑
真理が存在していると言う神話は人々に大変歓迎され︑世界に明瞭性︑安定性︑
確実性をもたらしました︒プラトンのいう︑時空を越えた︑非物体的な︑永遠の
実在である︑真実在とも言われるイデアも︑プロティノス(二〇四〜二六九)の
いう︑もっとも根本的なもので︑一切実在の根底をなし︑それなしには何物も成
立する事が出来ないと言われる一者も︑キリスト教のいう︑超越的な存在と言わ
れる神の理念も︑へーゲルのいう︑主観と客観︑有限と無限と言う対立の統一と
言われる絶対精神も︑人間の不安が失くなるように創造されたものです︒この思
想家たちに共通しているのは現実への強い解釈であって︑神話に根ざした真理へ
の強い信仰であります︒これに反して︑この信仰に敵対するものは歴史的現実で
あり︑私たちが住んでいる偶然性の生成(英語で言うと︑σΦoo巨口σq)の世界であ
ります︒歴史的現実としての未来は予知する事が出来ないし︑それが安心のもと
に成れる訳はありません︒逆に︑歴史的現実は不安のもとであって︑絶え間ない
変化の原因であります︒だからこそ︑人間は生成の過程を絶対化して︑現実の根
拠を不生不滅不変不動の(有)の領域に置こうとする訳です︒(有)と言う概念の
根拠がなかったならば︑普遍的な正統性は成り立つ事が出来ないし︑秩序を設立
するのが難しく成ります︒ここで問題になるのが︑もしこの絶対性を信条とする
宗教に属する信者があった場合に︑この過程を計画する者に対しても信仰が発展
して︑この世界に安楽な秩序を設立しようとする者に対しても︑尊敬と信用と崇
拝が起こってしまうということです︒そうなると︑単に哲学的な問題と思われる
ことに政治的な意味が加わり︑解釈学的行為が大変重大な結果をもたらしてしま
います︒歴史の発展を振り返ってみますと︑形而上学的な伝統が想像だに出来な
かった大変な悲劇を引き起こしてしまったケースがありました︒例えば︑ナチス
によるユダヤ人大虐殺︑あるいは原爆被爆者など︒形而上学に深く根を下ろした
重厚な︑強い解釈学的モデルは暴力と密接な関係があるのです︒
﹃偶像の黄昏﹄(一八八八年)という書物を読みますと︑二ーチェは形而上学の
歴史を錯誤の歴史と呼んでいます︒この歴史はプラトンの真理の理念から始まっ
て︑キリスト教へ移り︑カントの哲学に続いて︑実証主義者の懐疑論を引き起こ
し︑ニヒリズムの段階を経るところまでを指しますが︑これは遂には真の世界は
作り話であると言う柔和な思考へと溶解されていくものです︒もちろん︑最後の
段階は二ーチェの哲学がもたらしたものです︒次にあげますのは︑私が思うに︑
形而上学の歴史と呼んでいいものであります︒
コ︑真の世界は知恵のある者︑心の清らかな者︑徳を具えている者にとっては
到達可能な世界である︒彼は真の世界の中に生きている︑彼が真の世
界である︒(これは真の世界という理念の最古の形式です︒比較的に怜悧で︑
単純で︑また説得力がありました︒﹁われプラトンは真理なり﹂という命題
を書き変えたものです︒)
二︑真の世界は現在のところは到達不可能であるが︑しかし知恵のある者︑心
の清らかな者︑徳を具えている者(侮改める罪人)には約束されている世
界である︒(これは真の世界という理念の進歩を示しています︒理念はより
手の込んだ︑より油断のならない︑より掴まえ処のないものとなって参り
ます︒理念は女になったのです︑それはキリスト教的になったのです
⁝︒)
三︑真の世界は到達不可能であり︑証明不可能であり︑約束不可能である︒け
れども︑真の世界は考えられただけですでに一つの慰あであり︑一つの義
務であり︑また一つの提言命法(イムペラテイーフ)である︒(これは結局
のところは古い太陽なのですが︑ひとまず霧と懐疑を潜り抜けております︒