平成 二十一年度
弘前大学大学院人文社会科学研究科
修士論文 平成二
十 一年
( 二
〇
〇 九
) 十 二 月 二 十 五 日 提出 平成二十二年(二〇一〇)
二月
十六日
修正
【題 目】
日本 近世国家におけ
る
「 藩 意 識
」の研
究
―弘前藩の事例を
中心に―
文化科学専攻歴史文化財専
攻分野 歴史社会研
究 指導分野(日本近世史)
〇八 GH一
〇 二
蔦谷
大輔
【 目
次】
序 論 1
1
問題の所在・研究視角
2
本論 文の 位置付
け
3
本論 文の 構成 第一 章
「津軽
一 統志」成立と
「藩意識
」
―津軽信政言行録との比較から―
4
はじ めに
4
第一 節
「信 政言行録
」の特色
4
1
「信政言行録」の基礎
情報
2
「御意記
」 の 特色 第二節
「津軽一
統 志
」巻 十の記
述 の特色
9
まと め
12
第二章
修史事業
と
「 津軽一統志」編纂
23 はじ めに
23
第一 節 津軽信政の修史事
業 の展開
と 目的
23
1
為信 以 降 の歴 代 藩 主 の 事績 確 認
2
領 内 寺社縁起や棟札など
の 調査
3
近衛 家 と の 関 係の強
調 第二節
「津軽一統志」と信政修史事業の関係
26
第三 節 系譜認識
と「藩意識」
29
1
「系 譜 書 上抜書」
について
2
「可足記」
と 上書の成立時期
3
「系譜書上抜書」の主張
に 見え る系譜認識 まと め
34
第三 章
「津軽
一 統志」流布・引用に見る「藩意識」
49 はじ めに
49
第一 節
「津軽一統志
」流布の実態
49
第二節
「津軽一統志」現存
写 本と 収録史料の特色
50
1
現存 写 本 の特徴(
書 写 のされ
方
)
2
成立 時期と
書 写 傾 向 の 比較分析 まと め
56
結 論
64 参考資料
所蔵先別「津軽一統志」
写
本一覧
- 1 -
序 論
1
問題の所在・研究視角
①
信政期に
至っ て 領 内支配 体 制 が 完成し、
さらには蝦夷地へ
の出 兵 下 命 に 応じ て藩 体 制 が最高 に 機能 を 発 揮した姿
を記録にとどめ
、 後世の規範
と し て 歴史に刻
むことが
、「
津 軽一統志」編纂の最大の目的
で あったと
いえよ う
。
(長谷川成一『北奥羽の民衆と大名』清文堂出版
二〇〇八年
九四 頁)
②
なぜ 田村 麻 呂 伝 承 がかく も 広 範 に展 開 す るの であ ろうか
。 そ れ は 征 夷 の 象 徴 とし ての 存 在 だ か ら で あ ろ う
。 で は
、 そ れ と 元 禄
・ 安 政 の 二 つ の 画 期
( 弘 前 藩 の 寺 社 縁 起 に 坂 上 田村 麻呂 伝承が組み込
ま れ て い く画 期…
… 筆 者註)
はどう か かわるので
あ ろうか
。 元 禄 期 で は寛文蝦夷蜂
起に おける対蝦夷地認識
で
、 夷 はアイ ヌ 民族 を直 接に は指 すと考 え る。
安政 期 で は対 蝦夷 地認識を基底と
し な が らも 具体的対
象と し て は ロ シア で あ り、箱館 に来航す
る異 国船に対す
る も の で は な か ろう か。
(田中秀和『幕末維新期における宗教
と 地域社会』清文堂出版
一四〇 頁
)
③
蝦夷 地警 備とい う 軍役遂 行 を 各 藩 士 レベル の 場面 場面 で 想 定し た と き、
そ れ が忠 孝 の 精 神
(武士道
)に支えられ、また新た
に 警 備 に向か う子孫をはじめ
と す る多 くの藩 士 た ち にと っ て
、蝦夷 地 に関す る 予備知識が要求さ
れ、
手引 書 が 必要とされ
て いたのだ と考 えられ る の で は な い か
。
(瀧本 壽 史「弘 前 藩蝦夷地警備関係史料『忍ぶ草』横岡
雅雄氏蔵」
『年報
市史 ひ ろ さき
』三 一九九 四 年
) 享保一六年(一
七 三一)に成立した
弘前藩の官撰史書
「津軽一統志
」 ( 以下
、 「 一統志
」 と」略記)
は
、①に 見 えるように
、 大名津軽
家が 幕藩 体制下 にお ける自己の位置付けを明 確す る目的 で 編纂 されたと
いう。
一 方で
、② や③の引
用に 見 ら れるよ う に、藩内の寺社
縁 起 や 蝦夷 地警 備の際 の 藩士の意識の中に類似
した 意識 が見 られ、
「 一統志
」 に見 られた津 軽家 の位 置付 け が 藩 内 に共有 さ れ て いる 状況 を見 る こ とが できる の であ る
。 この よ う に考 え た とき
、 「 一 統 志」編纂が
藩 内に与え
た影 響はど の よ う なものなのか、そして
、 な ぜ、
「一統志
」に見られる認識
が藩内 に 共有さ れ てい った のか、なぜ、そ
う した 認 識 が、
津軽 家個 人 で はなく
、 藩 の 枠組みとし
て 認識されて
い ったのか。
それが、本論文における直接 的な 問題意 識 で あ る。
2
本論 文の 位置付 け 近 年 の日 本史 研究 に お い て は
、 時 代
・ 分 野 を 問 わ ず、
自 己 認識
( ア イ デ ン テ ィテ ィ
) 論 に 関 する 研究 が盛 ん に なっ てき てい る
。
弘前
藩
に
関
す
る先
行
研
究
は
以
下
の
各
章
で
触
れ
てい
- 2 -
るの で
、 こ こ では割 愛 し
、 全国 的な 研究 動向 の中 で 特 徴 的 な も の を 一 部 取 り あ げ てお きた い。
自己認 識 論に関する
研 究の全体的な
特徴は、藩主神
格 化 の 動 向 や史書・地誌・
軍 記物な どの 編 纂 動 向
、 修 史事業などを分析対象とす
る も の が多く、政治史・社会史・文化
史・書 誌学など
の観 点を用 い るなど
、 多 様 な 考 察が みら れる
。その中で
、 羽賀祥二『史蹟論―
19 世紀日本の地域社会と歴史意識―
』(名古屋大学出版会
一九九八年
) のよう
に
、 史 蹟 ( 記 念 碑 や古 戦場
・古 城跡 など
)を めぐる 研 究も 見 ら れる
。近 年は
、野口朋隆「
先祖の戦功を めぐる
「 御 家
」内 の動 向に ついて
― 佐 賀 鍋島家の系
譜 認 識 と戦 功書の成立
・ 作成状況―」
( 『
論 集 き ん せ い
』 二 八 二
〇
〇 六 年
) の よ う に
、 「 伝 承 さ れ る 先 祖 の 戦 功 と 歴 史 書 と の 関係 性や、
編 纂 さ れ た 歴 史 書 が どの よ う な広がりをもち
な が ら
、 そ の後、活用
さ れ て いっ たのかなど
、 歴史的段
階を含 め て 全 体像」を把握す
る 視 点 の重 要性が 指摘されて
いる。
近世地誌の起源から、近
世 期の地誌書編
纂の歴史的意義につい
て 考 察した も の と し て
、 白井 哲哉
『 日 本近世地誌編
纂史 研究』
( 思文閣出版
二〇〇四年
) を挙げることがで
きる
。 白井 氏 は
、 近 世 地 誌 の 起 源 を 中 国 の 地 方 志 に 求め
、そ の 形 式 や 思想 を 模 倣し な が ら
、 幕 藩 領主の 領 域支配の方法とし
て 取 り入 れられた
こと
、 そ うし て形成された地誌編
纂 の思想 が
、 村落などに
地 誌や 家譜 編纂をも
たらしたこ
と を 述 べた。
近 年 の自己認
識・
系譜認識
に関 する研究の
中 では、
九 州史 学研究 会 編
『 境 界 のアイ デ ン ティティ
』 ( 岩 田 書院 二〇〇八年
) が最も 新 しく、
ま とまった
成 果 であるとい
え よ う
。 同書は、幕府や大名が
作成し た 系譜や 系 図 を 中心に取り
あ げ、幕府や大名
が そ こ にどのよ うに自 ら を位置付
け る か
( 系譜認 識
) 、 そし て、
そ れ が ど の よ うに 変 容 し て い く か
、 とい う点 に つ い て
、 そ れ ぞ れ の 執筆 者 の 関心 に基 づい て考 察 さ れ て い る
。 右の 研究 動向 を踏 まえ て、
本 論 文 で は
、 大 名 の自 己認 識 と
「小 公 儀
」 と し て の 藩 の 権 威 認 識 の 関 係構 造を考察
する もの である。弘前藩
で 編 纂 された「一統志
」 が、
どのよ う な意 図をもって
編 纂され
、 成立後 の
「 一 統志」がどの
よ う に「活用」されたのか。近世国家
に おけ る弘 前藩 の存 在意義が形
成
・継承 さ れる 過程 を通 し て
、同 藩の地域的特質の一側面を 明らかにで
き ればと 考 えて いる。
なお
、 本 論文 では、
藩 に お け る
「 小 公儀
」とし ての権 威認 識 の こと を
「 藩 意 識
」 と表 現 し、その具体化も行った。
3
本論文の構成 以上の問題関心に基づ
い て
、本論文は次のよ
うに構成した。
第一章「
「津軽一統志」成立と「藩意識」―津軽信政言行録との比較から―」
で は
、 「一 統志
」所 収の寛 文 蝦夷蜂起記
事 が、いか
な る 特殊性を持っ
て い るのか に つい て、四代藩
主 津軽信政の
言 行 録 の 内 容 と 比較 する ことによ
っ て 論じ る こ と に する
。 さ ら に
、 「 北 狄 の 押 へ」と い う 認 識がど のよ う に して 藩の存在意義として
具 体化されて
い っ た のか、とい
う
点
- 3 -
につい て も言及 す る。その上
で
、前述した「藩意識」の具体化・定
義付けも行
う
。 第 二 章
「 修史 事 業 と
「 津 軽 一 統 志」
編纂
」で は
、 四代藩 主 津軽 信政の 修史事 業が
、 「 一 統 志
」編 纂に どの よ う に
「 活 用
」 さ れ た の か
、二 つの 動向 の関 係性 に つ い て 考 察 する
。 さ ら に
、 信 政が自家
の系 譜を どのよ う に認識 し
、 ど のよ うな施策
を実 施 し た の か
、 そ し て、
その動向と「一統志」編纂との
関連につい
て 具体的に論じることにす
る
。 第三章「
「 津 軽一統志
」流布・
引用に見る「藩意識」
」 で は、成立後の「一統志
」の「活 用」に関し
て
、流布 の 動向や、
現存 写 本 の分 析など、基礎
的な考 証 を行 うこと で
、 「 藩意 識」が い か に 変容し て いったのか、その具体化
を 図る。
な お、
本章 は、拙 稿
「 「 津軽 一統 志
」 の 流 布 と 利 用 に つ い て
」 (
『 弘 前 大 学 國 史 研 究
』 一 二 五 二
〇
〇 八 年
) 、 及 び
、 「 近 世 大 名 が 求 め た 権 力 の 根 拠
」 (
『 地 域 社 会 研 究
』 二 二
〇
〇 九 年
) を ベ ー ス と し て い る が
、 その後の
新知見や、新たな問題関心に基づき
、 大幅に内容を
改め て い る こ とを予め
お断り して お く
。
- 4 -
第一章
「 津 軽 一 統 志
」 成 立 と
「 藩 意 識
―津軽 」
信 政言行
録 と の 比 較 か ら
― はじめに
享保一六年
( 一七三一
) 五 月に
、 弘 前藩五代藩主
津軽信寿に献上された
(1
官撰史書
)「 津 軽 一 統 志
」 ( 以 下
、 「 一 統 志
」 と 略 記
) は
、 津 軽 領 の 地 理 的 情 報 を 記 し た 首 巻
、 津 軽 領
、 ないし 津 軽家に 関 する伝説・伝
承を記した附巻
、 そ し て、津軽家
の 遠祖に 当 た る 大 浦 光信 から四代藩主津軽信政の時期の間の歴史をまとめた巻一~十
( 上~下
) で 構 成され て いる
。 本 編 巻一~十の
中 で、特 に 目につくのは、巻
二~
五に記された藩
祖 津軽 為信の津軽掌
握戦 争(いわゆる南
部 から の「
伐り 取」
り)過 程 と、
巻 十 の上
~ 下 の 三 冊 に か け て膨 大 に 記 さ れた寛 文 九年(
一 六六 九
) に発生した蝦夷蜂起
に 際し て の 弘 前 藩の 動向の二つ
で あ ろ う。
前者は
、 「弘 前 藩 史
」
( 2
とし
)て 後 世 ま で語り継
がれ ていった
も の で、弘前
藩の 成 立 を正 当 化 す るため に は必要不可欠
な 要 素 で あ っ た。後者は、幕藩制国家におい
て
、 弘前藩 が
「北 狄 の 押 へ
」 と い う 位 置 付 け を 有 し て い た こ と を 藩 の 正 史 に 確 定 さ せ よ う と し た と さ れ る
(3
。
)そ し て
、 最 近 で は
、 市 毛 幹幸氏 が
、 こ の蝦夷蜂起の歴史叙述の継承とい
う 観点から、
「 北 狄 の 押へ」と
いう 論理 の 変 容につ い て 指 摘し て い る(
「民 族衝突 の 記憶―「津
軽 一統 志
」 巻一〇収
載の寛文蝦
夷 蜂起 関連資 料 と叙述 の 継承
―
」 『 弘 前大 学 國 史 研 究』
一 二 六 二〇〇九年
) 。 本章の課題は
、 「 一統 志」寛文蝦夷蜂起記事が、いかなる特殊
性を有し
てい るのかを
検 討し
、そ の意 味を 探ることに
あ る
。 そ の た め に、
信政 の嘉 言徳 行をまと
めた言行録(本章 では
「信 政 言 行 録
」 と 表 記
) の 内容 を取 り あ げ、
そ の 中 に 寛 文 蝦 夷 蜂 起 記 事 が見 ら れ る の か ど う か を 確 認 す る
。 そ の 上 で
、 「 信 政 言 行 録
」 の 内 容 的 特 色 と
、 「 一 統 志
」 巻 十 全 体 の 内容構成の特
色の比較を
行 い、
「一統志
」に おい て、
どの よ う に
「 北 狄 の押 へ
」 の 論 理を 創 出 させたのか
、 とい う点 につい て 考 察 する ことに し たい
。 本 章 での考 察 は
、 「 北 狄 の 押 へ」と い う 論 理 が
、藩主 家津軽 家や
、 「 小公 儀」
とし ての 弘 前 藩 と い か に関 わるのか
を確 認 す るも の で あり
、本論文全
体 の通底 したテーマであ
る「
藩意 識」がどのよ
うなもの
であ るかを指摘
す るため に も必要不可欠の
も の で ある。
第一節
「信政言行
録
」の特色
1
「 信 政言 行録
」の基礎情報 管見の限り
で 確認し得た
「 信政言行録」
は
、「
信 政 公 御意記
」(
以 下
、「
御 意記」
と 略記)
「古往万徳
集
」 ( 以下
、 「 万徳集」
と略記)
「貞享規範
録
」 (以下
、 「規 範録
」と 略記)
の 三 書があ る
。ま ず、
それ ぞれ の成立年
・ 著 者など の 基 礎 的な 情報 につい て 整理し て おこう
。
①「御意記」
自序によると、享保二年三
月に成立したよ
う である。著者
は記 され て い な い が
、 信 政 一 代 記 の
「 奥 富 士 物 語
」 巻 一
( 『 新 編 青 森 県 叢 書
( 五
) 』 歴 史 図 書 社
一
- 5 -
九 七 三年
)には
、 「 伊 藤祐 明か家訓御意
書
」 ( 一 九五頁)と
あ るので
、 伊藤祐明
(4
の著作
) すけ はるで あ ろう
。 な お
、 前掲の
「 奥富士物語
」 巻一には
、 右 の記述の後に
「足立 氏 の玉話集
」 ( 同 前)
を 挙 げ て い る
。 し かし
、 管 見の限り
で 現 存 す る 写 本
「 高 照 霊社 玉話記
」 は
、 「 御 意記
」 とほぼ同じ内容
で あり
、 「 奥富士物語」著者の誤りと
考えられる。
現存 する
「 御 意記
」の 写本は、表
題 が 多 種多様 で ある。そ
の表 題を 列挙 する と以 下の 通 りで あ る
(5)
。
「 信 政 公 御 意 之 筋 聞 伝 集
」 「 御 意 書
」 「 妙 心 院 様 信 政 公 御 意 記
」 「 武 徳 明 君 記
」 「 信 政 公御大徳守実記
」「
信 政公御意書」
「高 照霊社 御 意書」
「 高 照 霊社 玉話記」
「 尊 聴 録
」「
高 岡 公 明 訓 録
」 「 明 君 夜 話 近 士 口 伝 集
」
( 6
「
)御 意 聞 書 集
」 「
津 軽 信 政 公 御 尊 意
」 「
信 政 公 高 照 霊社守 御 意
」 「神君御一
代御意書
」
(7)
後述のよ
うに、著
者祐明の
意図 は、自 分 の 子 孫 に 対し ての み信 政 の 姿 を 伝 え る こ とに あ ったが、それにも関わ
ら ず 現存 写 本 の多い こ とがわかる。
こ の ことは
、 「御意記」に記
さ れ た 信政像が
、家中にとっ
て
「 明君」として
の信政像を鮮明に
描いた も の で あり、それゆ え
、 個人の家系に伝
わ ったの で はなく
、 広く家中に読み継がれる
も の と し て 捉 え られた こ とに よるので
あろう
。
②「万
徳 集
」
成 立 年代は不
詳 で ある。た
だし
、現存 す る 写 本の中 で 最 も 質 の 良い と 思わ れる 写 本 (弘 前市立弘
前図 書館 蔵 八 木 橋 文庫 YK二八九・四
. 一一・一~二
、 以 下
、 本章ではこの
写 本 を用いる)によれば、宝暦二
年(一七
五二)
の 記 事 がみ ら れ
、 明 和二 年
(一七六五)の自序
を もつ「奥
富士物語」
に も
、 「万徳
集
」が引用史
料 とし て挙げら
れ て いる こ と からも、右の一三年間のうち
に 成立し た と 見 て よ か ろ う。た だ し、右 写 本末尾に は
、 明和 六年 の御 城番の 記 事が 見られ
、 「 万 徳集」成立
以 後も 加筆さ れ た可 能性が あ る。
著者につ
い て も
、 明確に確認し得るも
のはな い
。 し かし
、 本 文中に
「 予祖父半
兵衛正盈
」 とい う文言が見られる
ほか、
後 世 の 筆 と さ れ る 頭 註 に は、
桜庭正盈の
孫 に あ た る 桜 庭 兵 助
(正慶)から
本 書 を借用し
て 書 写 し た こ とが 記 さ れて いる
(8)
。加 え て
、 「 奥富士 物 語」巻 一(
前掲『
新 編青 森県 叢 書
(五
) 』
)に も「
桜 庭 正慶 か懐 誌万徳集
」 ( 一九五頁
)とあるの で
、 「津軽一統志」の編者桜庭
正盈の孫桜庭
正慶の著
で あ ると 考 え られる。
と こ ろ で
、 下 沢保 躬
「 津軽 旧記 類 引 用 書 目
」 (
『 弘 前 図 書 館 蔵 郷 土史 文献 解 題
』 弘 前 市 立 弘前 図書 館 一 九 七〇 年
) は「
往古 万徳 集」と し て
「 添 田 氏 ノ 記ナリ
。 是亦 多ク信政公
ノ 事ヲ 記 ス
」 ( 七 三 頁
) とあ る が
、 先 に 述 べ た よう に
、 桜庭 正慶 の 著 作と す る のが妥 当 で あ
③「 貞 享 規 範 録 」 ろう。
序文には
「 文化丙寅秋
森内繁 富 自序」
と あり
、 『 新編 弘前市史
』 資 料 編2 近世 編1(弘
前市 一九 九六 年
) 五七六
~ 五 七 七 頁 の本 史料 解説にお
い て
、自序 の内容は整合
性 が 見ら れる の で 信頼 で き るものと指摘し
て いることから、文化三年(一八
〇六)に森内
繁富が 著 したも の で あ ろう
。下沢保躬「津軽旧記類引用書目」
( 前掲
『弘前 図書館蔵郷土史文献解題
』 ) に は「信政
公ノ行 事 ヲ記 スルモ ノ 也。
伊東
八
右
衛
門
ノ筆
記
ト
- 6 -
云」
(七二頁)とあるが、
これは「御意記」との勘違いに起因
するもの
だろう。
以上、三
書の「
信 政言行録」につ
い て 見 たが
、ここで
、三 書の内容的な関係につ
い て 簡 単に 触れて お こ う
。 具 体例 を挙げる
と 枚 挙に いとま が な い ので
、三書の箇条数を比較し
て みる と、
「御意記」
は 四 九 ヶ条、
「 万 徳 集」
は一 三五 ヶ条、
「 規範 録
」 は八四
ヶ 条 ( た だ し、
信政 期の主な
出来事 を 編年体で
記載し て いる 下巻は割愛)
となっ て い る
。 も ちろん、信政 が領 内を 巡見した時のエピソ
ー ド の ように
、 複数のエピソ
ード を一ヶ条に収める場合と数 ヶ 条 に 分 け て 収める場合
が 見 ら れるの で
、単 純な比較は
で き な い が
、そ れ を 斟 酌 し て も、
「万徳集
」 と
「規範録
」 の 箇条数が
「 御 意記
」 の それを圧倒的に上回ることがわ
かる
(9
。
)これは、前掲
『新編 弘 前 市 史』資料編2近世編
1 の解 説の中 で
、 「 規範 録」
が「御 意 記」
を加筆 し て構 成した も の で ある とした指
摘 を 補強 する もの とい えよ う
。 つまり、
「万 徳集
」
「 規 範 録
」 は
、 「 御 意 記
」 の 記 事 に 加 筆 し た も の で あ り
、 「 御 意 記
」 は 信 政 言 行 録 の 原 型 とし て位置付
けられるもの
だったの
であ る。
そ こ で
、 次項では
、 「 一 統 志」と 成 立時 期も比較的近い「御意記」を取りあげ、その特 色を見 て いくことにする。
2
「御意記」の特色
「御意記」のおおまか
な内容は表1
にまとめた通り
で ある。表を
も とにした
分析 は 後 述 すること
にして
、 ここで は
、分析であま
り触れ な かった序文と第一~二条目につい
て 簡単 に 確 認 す る
。 な お
、 本 章 で 使 用 す る
「 御 意 記
」 は
、 「 高 岡 公 明 訓 録
」 ( 弘 前 市 立 弘 前 図 書 館蔵岩見文庫
、『
青森県史
』 資 料編 近世学芸
関係 青森県
二〇〇四年
一号
) で ある
。 まず、序文を見
る と、藩 祖 津軽 為信 を は じめ とした 歴 代の藩 主 を
「 良智明 君
」 と 称 え る こ と から始め
て お り
、 その中で
も、
信政が特に
優 れ た 明君 で あ ると述べる。そし
て
、 信政 に受けた仁
徳
・恩恵を子々孫々ま
で 伝え たいと 著者伊藤
祐明 の執 筆 動 機を述べ
て い る。前 半 部 からは
、 歴代の藩主、及
び 津軽家の
祖 先 に対し て は
、 「良将」
と か
「智将」
と い う文 言を 用いて お り、武将と
し て の 功 績 を 称 える 意識が 基 底に あっ た こ とがう か がわれる。一 方、信政
に対し て は
、 「明君賢
主」とか「聖智賢
徳
」 とい う文言 を 用い て お り
、 儒 学 など の諸学問に精通した
才 徳兼備の君主
である こ とを強調し
て いる感 が ある
。 本 文第二条
では
、 諸 武 芸
・ 学 問 を 修 練
・ 修 得 し
、 「 下
江
志次第御
教」えた信政の
姿 を描いて
おり
、 こ うした 信政像の基
礎 には儒学における君主論
が あるよ う だ
。 した がっ て
、 ここに見
え る 信政像は
、 聖賢と呼ばれる
儒 学 者 たち の 教 えを 実践する
姿 で あり、儒学の思
想 に基づいた
「 明君」
で あるといえよう。加
え て
、 本文第一条に幕府、
あ るいは他大
名 の信政の
評価 とし て「良将 明君」
と い う 表現を使っ
て おり、一般的
評価 とし ても「良将明君」
とい う認識 で あったよ 次 うだ。
に
、 本 文 最 初 の 二ヶ 条に つ い て 見 て み よう
。 表 1で も 示 し た よう に
、 最 初 の二ヶ 条 は
、 信政の明君
た るゆえ ん を総括し
た も の で ある
。信政は聡明叡智の良将
で
ある
こと、優れた
- 7 -
大名
「 七 傑」
の一人 と し て 数 え られた こ と
、 文武両道
に優れ
、 神学を学ん
だ ことにより
「 高 照 霊 社」の神号を
授かり死後は
高 岡
(高 照神社)に
埋 葬されたことを記し
て い る
。 こ れら の内容は、弘前藩の
藩 政の 基礎を築きあげた「中興の祖
」 と し て 語 り伝えられ
て いる信政 像 と ほぼ合致
す る も の で あ り、やはり信政
は 後世に至るま
で
「 明君」
と し て 顕彰 さ れ 続け られ てきた存在
で あった と いえよ う
。 第 三 条 以 下 は 信 政 が「明 君
」 で ある ことを 示 すエ ピ ソ ー ド である。
表 1 を使 用し て内 容 別 の 分類を行
った。以下、
それをもと
に
、本史料に見える
信政像の特色につい
て 検討し て み よ う
。 な お
、内 容分 類は
、本 章 の 考 察 を し や す く す る た めに 便宜上 行 ったも の で あ るこ とを予め断っ
ておく。
《分類基準》
Ⓐ信政の発言(御意)とし
て 表 現され て いるもの
㋐信政が武士の本分を説い
て い るも の
㋑信政の大名(藩主、君主)と
し て の心構えを
述 べ て いるも の
㋒家臣への訓戒や、勤務の心構えを述べ
て い るもの
Ⓑ信政 の 御意とし
てではなく、エピソードとし
て 表現され
て い るもの
㋐信政の家臣への評価
㋑信政の性格・心構えを
描 いたも の
㋒信政の取り組みと家臣への配慮
㋓信政に関す
る 奇 異のエピソード
《分類》カッコ内は表1の表番号(
) 、
及 び そ の 内 容 を 指 す
。 No.
Ⓐ信政の御意…
… 二八ヶ条(4~9・
・ ・ ・ ~ ・ ・ ~ ・ ~ )
12 13 17 19 21 25 34 36 38 49
→㋐武士の本分
…
…一四ヶ条(
4・5・7~9・
・ ・ ~ ・ ・ ・ )
25 36 40 43 45 47 49
→㋑大名とし
て の 心構え……四ヶ条(
・ ・ ・ )
13 20 21 48
→㋒
家 臣 へ の 訓戒、
心 構 え
…
… 一〇 ヶ条
(6・
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ )
12 17 19 34 35 38 39 44 46
Ⓑエピソード
……一九ヶ
条
(3・
・ ・ ~ ・ ・ ~ ・ ~ ・ )
10 11 14 16 18 22 24 26 33 37
→㋐家臣の評価……三ヶ条(
・ ・ )
22 24 27
→㋑信政の性格・心構え……八ヶ条(
・ ・ ・ ・ ~ ・ )
10 11 16 18 31 33 37
→㋒取り組みと
家 臣への配慮……七ヶ条(
・ ・ ・ ・ ~ )
14 15 23 26 28 30
→㋓奇 異
…
…一ヶ条(3)
右の分類に基づき
、 「 御意記」に見
える信政像の特色を三点指摘し
てお こう。
第一点は、信政の御意とし
て 表 現される内容が全体の
六割程 度 に及ぶ こ と で あり、
さ ら にその半分が、武士
の本分を説く
信政の姿を
表 現した も のであること
で あ る
。 「文
は武の
- 8 -
助」
けと なる ことを 表 現し て い る よ うに(
4
) 、文武両
道 と いう よりは、武に重き
を置 No.
いた信 政 像が表現されて
い るのが特徴的
で あ る
。 こ う し た 武を 強調 する信政像を描いた理 由に つ い て
「 御 意 記
」 で は 明 確 で は な い
。 そ こで
、 「 万徳 集」な ど 他の 言行録 の 内容 から 推 測 し て みると、次のエピ
ソードに注目
できる
。 「万 徳集
」 で は、
武芸 では馬術
を優先 的 に鍛錬 す べ きとい う 信 政の教諭
のあ とに、そ
うした 信 政 の 考えを裏付
け るエ ピ ソ ー ド を四 ヶ 条 挙げて い る
。 その上で
、 そ れらの内容を
総括し て
、 華 美な 服装など
奢る心を持たずに
、 平生 の 「 武備 之堅固
」 を徹底し
て 鍛 錬す る よ う 教 示す る信政の姿を
描い て い る
。 ま た
、「
規 範 録
」 ( 弘 前 市 立 弘 前 図 書 館 蔵 一 般 郷 土 資 料
、 『 新 編 弘 前 市 史
』 資 料 編 2 近 世 編 1 六
〇 九 頁
)
( 1 0
に
)は
、 信 政 の 教 諭 と い う 形 で
、 「 常
・ 変 共 に 武 士 之 所 作 全 け れ は
、 仕 損 あ り て も誉なる事なり
、 (中略
) 其時其場に
よ る事 な れ ハ、日頃の覚悟
こ そ大 切なる事なり」と あり
、平 生と変 事
( 反 乱
・ 戦 争 など
)のどの
よう な場 合にあ っ て も
、武士と
し て の 役目を 果たす べ きと い う 認識 が 示 さ れ て い る
。 以上 のエピソ
ード を勘案し
て 考 えると、武を強調 した 背景に は 変 事
( 反 乱・
戦争 など)に
対する武
備への強い
意 識 が あっ た よ う で あ る
。 も っとも
、 ここ に示され
た信 政像が 実 際 の 信 政 の 姿 を 描 い て いる かどうかは甚だ
疑 問 で はあ るが、家
臣、それ
も信政の側近が藩主
と し て の信政像をどのよ
うに描 こ うとしたのかを探 るこ とはで き よう
。 特色の 第 二点 は、Ⓑエピソードに関し
て
、家臣への配慮を見せた
り
、行動を
評価 する信 政の 姿 が 比較的多く
描 かれ て い ることで
ある
。具 体的 エピ ソード を 挙げると、上役の者に 下役の者を叱
る時と場
所を弁える
よ う 訓 戒した内
容(
)が 見られ、上に立つ者は下に No.
46 立つ者に
対 す る配慮 を 欠い てはいけ
な い ことを自戒とし
て 信政も意識し
てい た こ とを うか がわ せる。
こうした家臣への配慮の意図
は
、 のエピソードに見ら
れ るよ うな御家
騒動の火
種を No.
29 未然に摘み
取 ること に あ っ た と も考えられる
。 では、
北 村 源 八 と 村山有 右 衛 門 の改 名 No.
29 願いが信義期に勃発した北村
氏 と村山氏の
騒 動に端を
発 す るものである
ことが述
べられ て おり、両
人の改名願い
を許可すれば再
び 御家 騒動 に発 展 す る危険性を孕ん
で いた。そ
う し た騒動の火種
とな りかねな
い も のを、上に立つ
者 として 敏 感に 察知し、騒動に発展
す る前 に防 ご う とし ていた 信 政 の 様 子 が描 か れ て い るの であ る。
御 家 騒 動 の 勃 発 は
、 幕 府 に よ る 改易原因となりかねな
い も のとし て 認識され
て い た
(11
。
)し た が っ て
、 藩 存 続 の た め に も
、 信 政 は御家 騒 動を 未然 に防 ぐよ う心掛 け る必要 が あっ た と い え る。
そ れ は一 方 で
、 家 臣 の 側からす
れば信 政 からの 懇 篤な 配慮で あ り、後世まで
自家 が 存 続 し て い った ことの理由と して 語 り 継 が れて い っ たと 考え ら れ る
。 第三点は、勤務を
誠 実 に勤めることも武士の
本分で あ ると 述べる信政の姿
を 描い た点 で ある。具
体 的 に は
、 渡 辺 大 隅 守 の 勤 務引 き継 ぎの姿勢
を 武 士の鑑 と 評 価 し て い る 信 政 の姿
(
)や
、武 士の本 分 は 人 道に通 じ ると 発言 した 信政 の姿(
5)を描い
て おり、
こ れ No.
40
No.
らを含 め ると、勤務に
関 す る内容 も すべ て武士の
本分を説
く信政像を表
現し
て
い
る
こ
とに
- 9 -
なる。した
が っ て
、 本 史 料 の 中 核は武士のあるべ
き 姿 を説く信政
を 表現 する ことに あ った とい えよ う。
以上、三
点の特色
をまと め ると
、 「 御意記」は、変事に際
し て は 自 ら率先し
て武功を得 る者 であり、
日常 的に は、
武 備 を 徹 底し な が ら 誠 実 に 勤務 に励 み、
人 道 を 心 が け る 者 とい う姿を、武
士 の 理 想 像 と捉 え、
それ を 体 現 し
、 家 臣 に 教 諭 しよ うと する信 政 像 を 表 現 し て い る の で あ る
。 つ ま り
、 「 聖 智 賢 徳
」 の
「 明 君
」 と し て の 信 政 像 と は
、 「 武 士 の 鑑
」 と し て の 信 政 像 の こ と を 指 す の で あ る
。 「 万 徳 集
」 や
「 規 範 録
」 も 同 様 の 構 成 を と っ て い る こ とを勘案
すれば
、 「信政言行
録
」は、ま
さに文 武 両 道 であ る 信 政 の
「武
」 の 側 面 を強 調 し たも のと いえ よう
。 では
、 な ぜ
、 本書 では これ ほどま で に
「 武」
が強 調 さ れ て い る のか。
これ は
、 おそ ら く 寛文 蝦夷 蜂起を 意 識 し たものであると思われ
る。こ の 蜂起の 際 に
、 弘前藩は松
前 藩に加勢 隊を派遣し
た り、
松前藩や
蝦夷地の情報収集活
動 を行ったりした
こ とは 有名 で あ る
(12)
。
した がっ て、蝦 夷 地 で ア イ ヌ が 反乱した
際に は、
右の動向に
倣 っ て 派兵 や情 報 収 集 を 行 わ なければ
ならないとい
う規範 意 識 が
、藩 内に芽生えてい
た といえよ
う。そ う した 意識 を、
信政 とい う「明君」の言
行 で示 す こ とによっ
て
、 後世 ま で 継承させよ
う と す る 意 図 が
、 本 書には込
められて
いたので
あ る
。 しかし
、 そのよ う に意識され
て いた 当の寛文蝦夷蜂起に関する内容は、本
書 には全 く 見 られな い
。 す なわち
、 寛文蝦夷蜂
起 に際する弘前藩の動向は、信
政 個人の嘉言徳行とし
て 捉え られるも
ので はな いと 認識さ れ て い た こ と を 想定 させる
。 ここ から
、 「 一 統 志」に見 ら れ る
「 北狄 の押 へ」
論の 原型と も いうべき意
識 が
、 すで に上 級家臣には芽生えて
い たと いえ よう
(1 3
。
)第二節
「津軽一
統志」
巻 十の記述
の特色
では
、 ほ ぼ同時期に編
纂 さ れ た
「 一 統 志
」 で は、信政、お
よび当時
の出来事をどのよ
う に 表 現し て い る の であろ う か。本 節 で は
、 「 一統 志」巻十の内
容・構成を分析し
て そ の特 色を 述べ、その上で
、 「御意
記
」に 見える 信 政像との比較を
行 う。なお、本節
で 使 用 す る
「一統志
」 は
、 明 和三 年の 奥付 を有 する 弘前市 立 弘前 図書 館 蔵 八 木 橋文庫 本 である。
信政期の内容
は
「一統志」巻
十 の 上
・ 中
・ 下三巻より
な る。首巻所
収 の目録より、巻
十 の部分を抽出
す る と
、 「信 政公御 代
」 「 同御家督
」 「 津軽十郎
左衛門御後見
附
黒石 分地」
「 江 戸大 火事」
「 綱丸 御太刀奇瑞」
「 松 頓 和 尚御預
附
病
死
」 「
津 軽 百 助 死 去
」 「
信 政 公 御 入 部
」 「
津 軽十 郎左 衛門死 去
」 「 松 前 臼ヶ 嶽焼ル事
」 「 巡撿 使下向
」 「 大 円寺塔建立
」 「 信 寿公御誕生
附
公 辺 無 双 之 御 格
」 「 松 前 蝦 夷 蜂 起
巨 細 上 中 下 之 巻
二記レ之
」 と な る
。 つ ま り
、 信 政 誕 生 か ら
、 寛 文 蝦 夷 蜂 起 の 記 事
・ 記録 へと いう ほ ぼ 編年 体 の 構 成 を と っ て い るの で あ る。こ の 構成や内容 で注目され
る のは、
寛 文元年(
一六 六一
)の 信政入部以後展開し
た 支配 機構の整備、法
度
- 10 -
制 定
、 「 弘 前 藩庁 日 記
」 の 記録 開 始 な ど
、後 の藩 政の基 礎 とな った制 度
・機 構の整備に関 する 事 柄 が全 く 見 ら れ ない こ と である
。 加 え て、
時期 が前 後 す る に も か か わ ら ず
、 寛 文 一
〇年 か ら 貞 享 二 年
( 一六八 五)まで
、計 一〇 件にわ た る 信 寿 の 将軍 家への拝謁・献上・下 賜 を 先 に 記し
、寛 文蝦 夷蜂 起 を 最 後 尾 に 配 置 し て い る
。確 かに
、寛 文 蝦 夷 蜂 起 記 事 は
、 幕 府 老 中 連 署 奉 書 や 信政 注進 などの引
用 に よ っ て構成 さ れ て おり
、そ の 内 容 は 極め て膨大 で ある。
し た が っ て
、 読 みづ らさの軽
減のため
に、あ え て最後 尾 に 移 動させ た とい う編 者 側 の配 慮 も 込め られ てい る だ ろうが、そ
う した 事情の み が理由 と は限 ら な い で あ ろ う。
享保 一二 年(一 七 二 七
) 一
〇 月 二 四 日付 の触 書
(14)
は
、 家臣に対し
て 歴代藩主に関する 様々な 旧 記・
伝聞の提出
を 命じた も の で あり
、 「 一 統 志」編 纂 方 針 を具 体的 に知り え る史 料 で あ る
。 こ の触 書 中 に、
わ ざ わ ざ 一 箇 条 を 設 け て 寛 文蝦 夷蜂 起 に 関 す る 記 録
・ 伝 聞 を 提 出す る よ う 命 じて い た
。 し た が って
、 寛 文 蝦 夷蜂起記事は、幾つ
か ある「一統志
」の 重要 な要素の一つだったの
であり、
全体の構成が歴代藩主毎に記され
て い る ことを踏
まえれば
、 同 蜂 起記事を
巻十 の最 後尾に 配 置す ること に よ っ て
、 全体 の歴 史叙 述の流れを、同蜂起記 事 に 収 斂 さ せ よう と し て い たと 考え るこ と が で き よう
。 では、
な ぜ
「 一統志
」 では寛 文 蝦 夷 蜂起 記 事 に収斂 さ せ る よ う な構 成を と っ た の だ ろ う か
。 これ につい て は、同 蝦 夷蜂起 関 係記事の特
色 につい て 分析・考
察 さ れた 前 掲 市 毛 論 文 をもと に 触れて おこう
。 市毛 氏は
、 巻 十 の 上 は
、 蝦 夷 蜂 起 初 報 か ら の 幕 府 と の 交渉
、 加 勢準備 か ら派 兵まで
、 情 報収 集活動な
どが 編 年 で 配 列 さ れて お り
、 い わば「北
狄の押へ」と
い う 弘前藩の位置付け を 明 確 に 示す ため の本 編 で あ っ たこと
、 巻 の 中
・ 下 は
、上 の内 容をより具体的に示した補 足編 であっ た ことを指
摘し て い る。
つまり、
「一 統 志
」 に おい ては、
寛 文蝦 夷 蜂 起 の 際の 動 向 を
、 信 政 個 人 の 事 績 で はな く
、 弘 前 藩全体で
の 対 応と して 鮮 明 に 描 き出し て いるの で ある
。 こ れは、藩祖津軽為信の最大の事
績 と し て
、津軽独立
過 程 を 詳細 に記し て い る 巻 二
~五 とは 全く 異なる 構 図で あ る
。 し たが っ て
、本 編に 当 た る 巻 一
~ 十のうち
、巻八(信枚 代
) 以 降 は
、 「 北 狄 の 押 へ
」 と い う 論 理 を 藩 の 存 在 意 義 と し て 表 明 す る と こ ろ に
、 「 一 統 志」
編纂 の主眼の一つが
置 かれて い たと いえ よう
(1 5
。
)こ こ ま で の 分 析 か ら
、 「 信 政 言 行 録
」 と
「 一 統 志
」 は
、 そ れ ぞ れ 信 政 個 人 の 嘉 言 徳 行 と
「北 狄の 押へ
」とい う
、 弘 前 藩 の 存 在 意 義 に 関わる論
理を 示 す 動 向 とい う、
全 く 異 な っ た 内容を収録
し たものである
ことが判明した。
寛文蝦 夷 蜂 起 に お け る 弘 前 藩の 動 向 は
、 信政 個人の事績
で はなく、藩
の 存在意義に即した行
動 とし て 認 識されたの
で ある。
で は
、 「 一統 志」に 見 られる よ うな
「北狄の
押 へ
」 と いう 論 理 は、いつから構想化され たも のな の で あろ う か
。 こ れ は
、恐ら く
、 享 保八年(
一七 二三
)と推定される幕府への高
増( 家 格 上 昇 ) 願
(16
に際し
)て であろう
。 九 月付の覚書
( 国文学研究資料館
蔵津軽家文書
) には、次のように記されて
いる。
覚
- 11 -
一
、 津 軽 土 佐 守
(
* 1
曽祖母者、松平古因幡守娘ニ而権現様御養女ニ而御
)座候処
、 慶
(信寿)(満天姫)(康元)(徳川家康)
長 年 中
、 曽 祖 父 越 中 守
(
* 2
妻
)ニ 被 下 候
、 御 養 女 様 之 義 故 此 方 ニ 而 者 大 御 前 様 と 称
(津軽信枚)
申 候
、辺 土之 在所 故
、 其 頃 迄 者 度 々 一揆 起 申 候
、 必 竟 領主 軽 故 と就被 為 思召 候、
御 . 養女 ニ下置候
狄地 之押 ニ も 有 之 候 之 間、
追而 者 御 取 立 可被 下置 旨 御 内 意 御座 候、
右
.
.....
.
.
.
.
.
.
.
.
. 御 入 輿之節
、 従御本 丸 御 供 仕候 者之末
、 只 今 ニ至 り土 佐守方 ニ 三 人 相残 罷有候、右 越 中 守
(
* 3
義
)者
、 幼 少 よ り 権 現 様 御 小 姓 相 勤 候
、 元 和 年 中 拾 五 万 石 之 高 を 以
、 信 州 江 所替 之御内 意 御 座 候も 右 之 趣と 申伝 候、右 曽 祖母 法名ハ葉縦院殿と申候而、在 所ニ霊屋
等御座候、
(中略)
一、寛文
年中犾蜂起之節ハ、亡父越中守
義急ニ在所
江
之御暇 被 下置 罷下
、松 前迄 人数
(津軽信政)
渡海為仕候処、其内々彼地
相鎮申候、
一、数代
之旧地者
、寛永年中
在 所 之 城雷火之
節 焼 失 仕
、 御当地 ニ而 も度 々之類 火 ニ覚 書等焼失仕候故、委細者相知兼申候、
粗
右之 通ニ御座候、以上
、
(ほぼ)