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「系 譜書上抜

書」について 前節 の観 点を 念頭 に 置 いて

、 本 節で は

、 信政 期の 系譜 問題 に関す る 動 向 を中 心に 見 て い く

。 具 体 的 に 扱 う 史 料 は

、「 妙 心 院 様 御 代 被 遊 御 正 候 古 代 御 系 譜 書 上 之 内 抜 取 候 写

」( 弘 前市立弘

前図 書館蔵八木橋文庫、以下「系譜書上抜書」と略記)

で ある。

ま ず

、こ の「系譜

書上 抜書」に

ついて

、 内 容

・ 構 成

・ 先行研究など、基本的な

情 報につ いて 確 認 して おこう

。 こ の「系 譜 書上抜 書

」には、

①信 政弟 可足 の筆にかかる「可足権僧 正筆記

」(以下

、「可足

」と 略記)の

写 し

(尚々 書

・十三藤原氏系図

を含む

)、② 津軽大 蔵(

為貞

)上 書、③ 津軽玄 蕃 政 朝 上 書、

④神 保三 郎右 衛門上 書

⑤ 山鹿大学高恒上

、⑥ 小太膳

(10)

奥付

、⑦乳井

貢奥 付、⑧工藤

武 正奥付

、 が収 録さ れ て いる。①~⑤は信政期に 家臣 が提 出した

「 系 譜 書 上

」か ら史実 と思 われる も のを、

「 小太 膳

」 が抜 き書 きし た も の で

⑥は そ の 元々 の奥 付に あ た る。⑦は

⑥ ま で を 乳 井 が 書 写 し た際に付した奥付

で あ り、宝暦元年(一

七五一)に書

写 し た こ と、

古記 録を焚書

した が、

これ(①~⑥

を書 写 し た も の)

は後々ま

で 残 す よ うにと記されて

い る。⑧は文化期に工藤武正

が野 呂某か ら 借用 し て 書 写 した際の奥付

である

。①~⑥ま

でに見える主張

、す べ て「可足記」

が 示 す 内容

(1 1)

と同 様、

津軽家 が 十三藤原氏

の 系 譜 であ る と い う もの である。

管 見 の限 り で は

、 弘 前 大学附 属 図 書 館蔵小 野 文庫 に一 点、

国文 学研 究資料館

蔵津軽家文 書 に 一点 の 写 本を確認

し て い る

。「 系譜書 上 抜書

」 を 取 り あげた 最 初 の 研究 は

、 佐 藤 彌六

『陸奥評林』

(菊屋出版

部 一九一五年

) で あ ろう

。取りあげた

写 本 につい て は不 明確 で あるが

、 佐藤氏は、

⑤ の「

山鹿 大学

」の名乗

りから

⑤ の 成立を天

和期以降(一六八

30

-一

)と して 年 代 比 定 して いる

。 そ の後

、盛 田 稔 編

『 みち の く 双 書 津軽家文書

』(

青 44 森県文化財

保 護 協 会 二〇〇一年

、 以下

、『 文書抄』と略記)

によっ て

、国 文学研究

資料 館 蔵 津軽家文書本が紹介

され、同様の

年 代 比定を行っ

て い る

。そし て

、前掲

『 文書 抄』

に 収録された

写 本 が『県史中世2

』一 三五四号に再録され

て い る

。ここでは

、① の「 可足記

」 を

、「 可 足

」 の 名 乗 り の 時 期 を 踏 ま え る と

、 元禄一

(一六九七)~一六年の

間 に①~⑤ が成 立 し たと 推定 し て いる。

以 上 の ように

、 先行研 究 にお い て は

①~⑤の成立時期が

問 題とな っ て お り、収録

され た「可足記」や

家 臣 書 上のどれ

に比重を置くか

で 様々な年代比 定がな さ れて いると い え よ う

。 そこで

、 本 節 で は

、こ れら の先 行研 究を 踏まえ

⑤ の 成 立 年 代 を再 検討す る こと か ら始めたい

「可足記」と上書の成立時期

「 可 足 記

前 述 の 通 り

、『 県 史 中 世 2

』 で は

、「 可 足

」 の 名 乗 り が 元 禄 一

〇 年 で ある こと を根拠に

、「 可 足 記

」 成立はそれ

以 降 と い う 推 定 をし ている。

この

「可 足

」 の名 乗 り に つ い て

、『 県 史 中 世 2

』 が 依 拠 し た と 思 わ れ る 史 料 は

、『 み ち の く 叢 書 3 津 軽 藩 旧 記 伝 類

』( 国 書 刊 行 会 一 九 八 二 年 復 刻

、 以 下

、『 旧 記 伝 類

』 と 略 記

) で あ ろ う

。 こ の 中 の

「 慈 天 大 僧 正

」(

「 慈 天

」 は

「 可 足

」 と 名 乗 る 以 前 の 名

) の 項 に は

、 元 禄 一

〇 年 三 月 一一日に隠

居 し、

江戸本 所 石原に住居

し た が

(「 津軽系譜」

)、その

頃 から自 ら

「可 足

」 と 称 す る よ う に な っ た

(「 慈 公 小 伝

」) と 記 さ れ て い る

。 現 段 階 で は

、 特 に 批 判 す る 材 料 も ない の で

、 こ の見 解 に 則っ て「可 足 記

」 成 立 を元 禄 一

〇 年 以 降 と し てお く。

②津軽大

蔵(為

) 上 書 津軽大蔵為貞

は、信政の同母弟に当た

。彼 は、出家

し て 高野 山に入山

した が、寛 文 八 年 に 還 俗 し

、 そ の頃 から

「大 蔵」

と自 称 す るよ うに なっ た と いう

。還 俗 後 ま も な く

、 信 政に 蟄 居 を 命 じら れ、

それが 解 け る のが元禄三年

であっ た

(以 上

、『旧 記伝類』

五六~

五 七頁

、『 県史中世2』

五一 二 頁

)。 した がっ て、

本上書 の 成 立 時 期は

、元禄三年

以 降と 見る べきで あ ろ う

③津軽玄蕃

政 朝 上 書 津 軽 玄蕃 政朝もま

た、

信政の同母

弟 に当たる。彼は叔父津軽百 助信隆 の 養子 とな り、

万治二年(一六五九

) 家督相続、

寛 文五年一二月九日に「玄蕃」と 改め、

天 和元年二月二六日には

、 信 政より一字を下賜され

て「 政朝」

に 改めた と い う(

『 旧 記伝 類

』 二 四

~二 五 頁

)。 その後

、 貞享 四年 三月 に御役御免

と な っ たが、宝

永元年 一 二月 に家老職に再度命じられ

、翌年二月一一日に死去したと

い う( 同前二四~二五・二七頁

)。 家老 職再 役を 命じ られ た 宝 永 元 年 は

、 玄 蕃政 朝の 最晩 年に 当 た り

、 可能性が

全くな い わけ で は ないが、最初の家老職期(延宝

三年~貞享四年)の

間 で、かつ「政朝

」 と名乗った天 和元年~貞享四年の方が、

本上書 成 立時期 と し て 可能性 が 高い であろ う

④神保三郎右衛門上書

神保 三郎 右衛 門につい

、唯一確認し得

る史 料 は

、「

一統志」

巻 十 の上 に収 録さ れ て い る

、 明 暦 二 年二月の信

政 家督 相続の際

に同 伴 し た 藩 士の 一人 とし

31

-て 記 載 さ れて いる

「神 保三 郎右 衛 門 清 成

」で あ る

。こ の人物と

同一 人物と 仮 定す れば、承 応期

( 一 六五二~五四

)頃 から信義

・信政に仕えて

き た家老で

あったと

いうことになる

( 尾 崎竹四郎編『青森県人名大事典』東奥日報

社 一九 六九年

三一六頁

)。

①~⑤ が

、信政 期 に 提出 された も の で ある ことを踏ま

え る と

、 少 なく とも右の家督

相 続 以 後 であ ろ う

。 隠 居した時

期が 寛文四年

のようなので

( 同 前

)、こ れが下 限 とな るだろう

⑤山鹿大学高恒上書

山鹿 高恒は

、 は じめは「八

郎 左 衛門」と称した

と いう(

『旧記 伝 類

』 三 八 四 頁

)。

「 国 日 記

」 天 和 元 年

= 延 宝 九 年

) 正 月 一 一 日 条 に は

、 信 政 と の 年 頭 挨拶の後のことと

し て

、 一

、 右 退 出 以 後

、 重 而 八 郎左 衛門殿 被 為 召 名

・ 名字

、津 軽大 学と御改、御

家老役被仰

(山鹿

付、知行千

石 被下 置、御名乗字政

之一字 被 仰付候、退出以後玄

蕃 殿 披 露有之、右之 御礼大学と

被 申上之、

とあり

、 こ の 家老役任命以降

「 津軽大学」

と 称 し た こ とが わか る。そ の 後

、「国日記

」貞 享二年七月二六日条には、

一、大学殿、名将監と御改候由就申

来候ニ、浦々

右之 段申遣之、

とあり、

名乗 りを

「大学

」 か ら

「 将 監

」 へと 改め た。

これ 以後 再び

「大 学

」 の 名 乗 り に戻 る こ とは な か ったようなの

で、本上

書 は 天 和 元 年 から貞享二年の五年間

に作 成された

もの であ ろう。

以上

、①

~⑤ の成立 年 代 の 確 認 作 業 を整 理す ると

、次 の三 つの時期に区分することがで きよ う。

( ア

)明暦二年

二 月 か ら 寛 文四年に成立

……④神

保三 郎右 衛門上書

( イ

) 天 和 か ら貞 享期(一

六八 一~一六八七)に成立

…③津 軽 玄蕃政朝上書、⑤山鹿大 学高恒上書

(ウ)元禄一〇

(一六九七)から宝永七年に成立

…①「可足記

」、

②津軽大蔵上書 つま り

、「可 足記

」及び 上 級家 臣の上 書 は、

すべ て同 時 期 に作 成

・ 提 出 され た も の で は なく、

信 政 が そ の つ ど 提出 を求めた

ものの 一 部 で あるといえよ

う。した

がっ て、

これ らの 内容 に見 え る よ う な津軽 家 の 遠 祖を 十三 藤原 氏 と する系 譜 は、信 政 が、

幼 少 の 頃 か ら 模 索 して き た も の だ っ た の で あ る

。 で は

、なぜ、

信政 は、近衛家

と の 関 係 を 重視し て いた にもかか

わらず

、 十三藤原氏

遠 流 説を採用したのか、この両者の関係は、い

か なる も の な の で あ ろうか、そ

れ は、信政の

中 でどのよ

うに咀嚼された

の であろうか。

これにつ

い て は、次のように

考 えられ よ う。第一に、十三藤原氏の位置付けにある。第 一章の註(13)にお

い て も 示 し た が

③と

⑤の 書上 には

、藤 原秀 栄を「狄

鎮撫す へ き」

役 目 を 負 った 人物 として 記 し て いる。こ

れは、異域で

ある 蝦夷 地、そし

て そ こに居住

する アイ ヌ を 支配 する 和 人 とい う血 筋 を 強 調 する もの であ り、

津軽 家 が そ の 血 筋 を 受 け 継 い で いると い う 主 張 は

、 ア イヌ を 鎮 撫す る 役 目が 血筋に よ って 裏 付 け ら れて いると い うこ と を

32

-表明 す る 意味合いがあったと思

わ れ る。

つまり、信政

は、十三藤原氏

遠 流 説 を採 用 す る こ とによっ

、 北方 世 界

(主に蝦夷地)に対する弘前藩の行

動の正 当 化を図ったの

である。

こう した意図が

直 接的に 示 されて い る の が

、寛文 蝦夷蜂起における弘

前 藩の行動で

あ ろう

。 しかし

、信政の模索が

そ れ 以前から行わ

れて いた ことを斟酌す

ると

、同 蜂起勃発以前

から

、 右のよ う な対北方意識を信政

が 有し て い た と 考 え られる。

第 二 は

、 幕 府 の 官 撰 系 図 集

『 寛 永 諸 家 系 図 伝

』( 以 下

、『 系 図 伝

』 と 略 記

) に 収 録 さ れ た津軽家

の系図と

の 関 連で ある

。『 系図 伝』に収録され

て いる津軽家

の 系図は、為信の祖 父大浦政信

か ら始まり、政信に関し

ては

、「 家 伝 にい はく、

近 衛 殿 後法成寺

尚通の 猶 子と な る

、 こ の ゆ へ に 藤 氏 と 称 す

、 い ま だ 其 実 父 つ ま び ら か な ら ず

」(

『 寛 永 諸 家 系 図 伝

』 第

続群書類従完成

会 一九八 六 年 一 八 四 頁

)と して いる

。と ころ が

、 現存 す る

『 系 図 伝』

写 本 のうち

、 林道春四男の林靖の旧蔵本と推定される

写 本

(12)

(国立公文

書 館蔵内閣 文庫)

に は、Ⓐ諸藩か

ら幕府に提出された

系 図、ないしその系

図 の 原型をよ

く残し て い る と思 われる も の、Ⓑ

『 系 図 伝』の未

定稿の段階にあると思われる

も の、Ⓒ

『 系 図 伝』の編 纂に際し

ての考 証筆 記、

Ⓓ『系図伝

』 編 纂 のため の 参 考 資料、の

四 種 類 が 合綴 さ れ ており

こ こ に 収 録 さ れ て い る 津 軽 家 の 系 図 は

、 近 衛 尚 通 か ら 始 ま っ て い る

( 図 参 照

)。 こ の系図 の

「 私 考」に お い て

、太田資

宗は 政信が近衛尚通

の 猶 子 で あ ることに疑問を抱き、

その 内容 について

問 い 合わ せ を 行っ たと 記さ れて いるこ と や

、 津 軽 家が近衛家に使者を送 り、

自家の筋

目を保証してほ

し いと依頼し

て いた動向

(14)

を踏 まえると、

右 の系 図は、

当 初津 軽家が幕

府に提出

した系図

で あ ると推測され

よ う

。し かしながら、前述の通り、実際 に完成した

『 系 図 伝』に は

、政信以前の

系図 が収録され

て おらず、

幕府 はそ の部 分に 関し ては認め

なかった

の で ある

(前 掲 長 谷川「自

己認 識」

)。 こ う し た 事 情 に よ り

、 自家の筋

目の 正統 性をどこに

求 めるかとい

う ことについ

、信政 は 模 索す る 必 要 性 が 生 じ た と い え よ う

。 藩内 にお い て は

、 後 述 の よ うに、津軽家が南部家 の支流 で あるとい

う 認 識も広まっており、迅速

な 対応が求められ

た と考 えられる。そ

うし た中で

、信政が

導き 出 し た 解 決策が

、「 平 泉伝説そのほかのあらゆる語り物を動

員 するこ と に よ っ て

、 自 家 の系 譜 を 飾 る こ と

」( 入間 他信夫

「 中世奥北の

自 己認 識―安 東 の系 譜を めぐって

」北海 道・東北

史研 究会編『北

か ら の 日本史

』 第二 集 三省堂

一九九〇年

、 の ち

、入 間田宣夫

『 中 世 武 士団の自己認識

』 三弥井書

店 一九九八年に再録)

で あった と いえる の であ る

「系 譜書上抜書

」の 主張に見える系

譜認識 さて

、「

系 譜 書上 抜 書

」 に 見え る 主 張 を 確 認 して おこ う

。前 述 の 通 り

⑥ の 内 容 は

「 可 足 記

」と 同様に津

軽家を十

三藤原 氏 の 系 譜とす る 認識を主

張し て い た。そし

、 そう した十三藤原氏遠

流説をさらに

強調す る ために

、 もう 一つの主張が

込 め られて い た。

すな わち

、津 軽 家 が南部家の支流

で あるとい

う系譜認識を否定

する主張

である

。①の

「可

ドキュメント内 弘前大学大学院人文社会科学研究科 (ページ 31-51)

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