﹃大智度論﹂は﹁本有今無﹂渇を
如何なる空理解のレヴェルで論じているのか ー四十巻本﹃大乗浬繋経﹄成立論との連関における一考察ー
武
田 浩
寸 泣正手
4第一節 はじめに
現行の四十巻﹁大乗浬襲経﹂(所語る﹁北本﹂︑曇無識が四一回
j一二年に訳出したと伝わる)の数箇所に言及
されている﹁本有今無﹂掲とは︑巻十﹁如来性品﹂をはじめとして︑同テキスト全体において四欝慌に見出され
るところの︑﹁本有今無︒本無今有︒一二世有法︒無有是処﹂︑つまり﹁本有りて今無し︒本無くして今有り二二世
ことわ時 有法(三世に有である法︺︒是の(三つの]処有ること無し﹂のことなのである︒そして︑この俸は︑かつて先
学によって︑﹁顔る重要なるものとして︑仏教室埋の一題言とせられたち(常盤大定)﹂︑﹁後の連繋教学に多大の
関 係
を 有
す る
( 布
施 浩
一 記
) ﹂
と 言
わ れ
た よ
う に
︑ そ
の 意
義 が
重 要
視 身
︑
C れてきたところのものである(以下︑﹁本有
今無﹂・﹁本無今有﹂・﹁三世有法﹂の内容を説明している記述を﹁本有今無﹂説と呼ぶ)︒しかしながら︑近年の
高埼産道博士の研究において︑
四十巻本﹁大乗浬繋経﹂に最初に現れる巻十﹁如来性品﹂の﹁本有今無﹂傷は︑巻十一以降の記述を引き出
層際仏教学大学院大学研究紀要第西号平成十三年三月
ζ〉
﹃大智度議﹄は﹁本有今無﹂傷を如何なる空理解のレヴェルで論じているのか(武田)
ζ〉
1m
す導入の役を果たしているものであるが︑﹁蔵訳の確実な浬繋経﹂には無く︑法顕訳の六巻本にも無いので︑
後になって﹁大乗浬駒栄経﹂に付加されたものであち︑巻十一以捧にも数一回一引用されている︒(主配)
と指接されていて以来︑この信の本来性と存在意義は疑問視される趨勢にあるが如くに見えるのである︒とはい
え︑筆者辻︑むしろこの鑓が非本来的であるというところに︑四十巻本成立の問題との連関において︑特殊な興
味を覚えるのであり︑その点を本稿で論じてみたいと考えるものなのである︒なお︑ここで高崎博士が用いてお
られる﹁蔵訳の確実な浬繋経﹂という呼称は︑北京版でいうならば︑恥七八八を指しているのだが︑これは︑現
存する党本の猷片と符合し︑法顕訳六巻本と曇無識訳全四十巻中の前分十巻に対応するものであ討ので︑それは
麗訳されたものの中で本来の形態を反映していることが確実であると推定される﹃大乗浬繋経﹂である︑と理解
した上で︑本稿でもその呼称を患いていきたい︒また︑四十巻本に完全に対応する北京販の恥七八七の蔵訳は漢
訳からの重訳であると見なされている(筆者も重訳であると理解している)ので本箱で試用いない︒
さて︑詳しい考察に先立って︑﹁大乗浬襲経﹄の成立の段階について︑衛単に触れておきたい︒﹁大乗浬襲経﹂
の原始形態については︑下回正弘博士が平成三年に発表した詳しい論文があるのであるが︑それは︑次掲の①と
②に関するもの︑すなわち︑﹁義訳の確実な浬繋経﹂の範囲の中のものであり︑本稿の関心はその原始形態以誇
の成立過程にあるので︑ここでは︑それに立ち入って検討することはしない︒
まず︑四十巻本全体の構成辻次の如くである︒
前分十巻
中分十巻 @寿命品
③現病品 金関身品 聖行品 名字功徳品
交 行 品 嬰 克 行 品
②郊来性品
一切大衆所間品
後分二十巻 ④徳王品
⑤ 師
子 開
札 口
郎
③迦葉品 ⑦慢陳如品
﹁大乗浬繋経﹂には︑先学の研究によって︑一応︑このような三つの分︑細分すれば七つの段階の増広が認め
られるのであ足︒そして︑﹁蔵訳の確実な浬繋経﹂に対応するのは︑前分十巻︑すなわち①の三品と②の二品で
ある︒なお︑﹁本有今無﹂鑓は︑前分の②﹁如来性品﹂︑中分の③﹁発行品﹂︑後分の⑤﹁諒子現品﹂に二笛一所︑
存 在
し て
い る
︒
一方︑この﹁本有今無﹂傷の典拠であるが︑例えば︑和雄浩岳博士は︑大正蔵第二十六巻所収の世義造真諦訳
( 五
五
O
年訳出)と伝わる﹁浬繋経本有今無渇論﹂という小論(大正義で二頁分)の﹁解題﹂において︑﹁本有今
無﹂と﹁本無今有﹂が外道の説でつ二世有法﹂が小乗の説であることを﹁論﹄の著者は言っている︑と指掃して
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論 ﹂
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﹁ 大
乗 浬
繋 経
﹄ に
一 一
一 一
O
年ほど遅れて中国に紹介されたもので︑﹁本春
今無﹂掲が﹁浬業経﹂の確実な部分であることを前提にしているものであり︑かっ︑本稿の結論から見れ誌︑
﹁本宥今無﹂と﹁本無今宥﹂は外道の説ではなく︑仏教内の説であるのであるから︑この哀調﹂は筆者の当面の
関心の中にあるものではないのである︒また︑後世の中居の注釈者たちも︑大方は︑この鑓の存在に疑問を持っ
て泣いなかったのである︒もっとも︑中には︑例えば僧宗(四三入;九六年)の如く︑この掲の内容に疑問を持っ
た者もいたのであるが︑僧宗にしても﹁経の主題が加来の常住に関することであるのであるから無常を説くこの
楊は(この経本来の)その主題に沿うものであるかは疑問であれ﹂(攻意)と単に疑問を発するのみで︑この億
が﹁大乗謹繋経﹂に存在するに至った事由をそれ誌上追求してはいないようなのである︒
また︑この﹁本有今無﹂俸の内容理解に関しては︑例えば津影慧遠(五二三
j九 二
年 )
が ﹁
傷 の
解 釈
は 各
人 様
々
である(主配)﹂と言っていることからも想山復されるように︑中国の仏教者たちの簡では︑この喝の内容理解に
﹁大智度論﹄辻﹁本容今鉦⁝﹂渇を如何者る空理解のレヴェルで論じているのか(式田)
ニ (
) 五
﹃ 大
智 度
論 ﹂
は ﹁
本 有
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空 理
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田 )
二 (
) 六
は十分な一致が見られなかった如くである︒つまり︑﹁大乗浬繋経﹂の内容自体にこの喝の説明を求めることは︑
彼らにとっても容易ではなかったと窺われるのであり︑環に筆者も﹁大乗浬襲経﹂︑それ自体の﹁本存今無﹂間関
に関する諸記述の出向に︑ある種の相互矛盾を惑じたのである︒
では︑﹁大乗浬葉経﹂以外にこの喝を理解する手がかりを求めることが可能であるか︑と言うならば︑関えば︑
この楊辻︑﹁大乗浬繋経﹄が釈尊の謹繋を題材にしていることからして︑京始仏典に説かれる釈尊の十四無記の
中の︑釈尊が︿如来の死後は︑﹁有・無・脊かつ無・有かつ無に非ず﹂のいずれか﹀という潤いに辻答えなかっ
かという︑具体的な問題意識に起因してい討のではないか︑と考えられるし︑また︑この喝の中の﹁三世有法﹂
辻︑有部の﹁三世実有︑法体恒有﹂説と関連している︑とも想復されるであろう︒
しかしながら︑事態はそれ誌ど単純で誌ない︒結論的なことを先に記すならば︑この﹁本有今無﹂喝の存在の
問題の背景には︑﹁大乗渥繋経﹂と﹁大智度議﹂との間にある︑それぞれの思想の桔違が存在しているが如くに
思われるのである︒要するに︑この﹁本有今無﹂信は︑多分︑﹁大乗浬繋経﹄の漢訳者︑すなわち曇無識が︑当
該テキストとそれに先行する﹁大智度論﹄との関に存するその栢違を意識したが故に︑﹁大智震論﹂の説に対し
て自らが漢訳を手がけたテキストの独自性を強譲せんとしたか︑あるいは︑﹁大乗浬業経﹂と﹁大智度論﹂との
思想の相違を調停せんとして︑その本来のテキスト(﹁蔵訳の確実な理繋経﹂に対忘するもの)に付加したもの
である︑という筆者自身の推測を述べてみたいのである︒筆者のこの推測は︑本稿における詳しい考察に先立っ
て述べておくならば︑次のような事実に支えられている︑すなわち︑﹁大乗浬繋経﹄の訳出は︑﹃大智度論﹂訳了
( 四
O
五年)のわずか九年後に始められたのであるが︑その﹁大智度論﹂に辻︑しばしば(二十笛所以日))﹁本有
今無﹂説に関する言及が見られるのであり︑かっ︑曇無識によって﹁大乗浬繋経﹂に用いられた﹁本有今蕪﹂説
を講成する諾漢語は羅什によって﹁大智度論﹂の中で先に吊いられていたのである︒そして︑その﹁大智度論﹄
辻︑諸法が﹁空﹂であるという理由で︑﹁本有今無﹂・﹁本無今宥﹂・﹁三世有法﹂のすべてを否定しているのであ るが︑一方の﹁大乗浬繋経﹄において辻︑﹁本有今蕪﹂・﹁本蕪今有﹂・﹁三世有法﹂を︑いずれの箇所においても︑
文字の上では︑﹁大智度論﹂と同じ理由で否定してはいないのであお︒したがって︑もし︑曇無識が漢訳に当たっ
て本来のテキストに﹁本有今無﹂喝を付加したとするならば︑そのこと辻︑﹁本有今無﹂・﹁本無今有﹂・﹁三世有
法﹂のすべてに対して﹁大智度論﹂と同じく否定的であるにせよ︑その否定的である理由において︑自己の立場
が﹁大智度論﹂と梧違する︑その点を主張せんとしたものであったか︑あるいは︑﹁大乗連繋経﹂と﹁大智度論﹄
との︑それぞれの思想の相違を調停せんとしたものであったのであろう︑ということになるのである︒
本稿では︑紙数の関係もあるので︑﹃大乗浬襲経﹄巻十一以降の﹁本有今無﹂傷の詳細な検討は次の機会に譲
号︑﹃大智度論﹂の﹁本有今無﹂説と︑﹁蔵訳の確実な謹繋経﹂には克られない﹃大乗浬繋経﹂前分②に嘉する巻
十﹁如来性品﹂の﹁本有今無﹂弱︑を考察することに留めることにする︒
第二節
﹃ 大
智 信
反 論
﹄ と
﹃ 大
乗 浬
繋 経
﹄
の思想的対立関係
まず第一に︑﹃大乗渥襲経﹂と﹁大智度論﹄とにおける︑それぞれの思想の棺違が︑象徴的に顕れている事例
を挙げておきたい︒それは︑﹁大智度論﹄が釈尊成道の内実を︿得無生法忍である﹀と規定している(これ誌か
つて筆者が論じたことであるので本篇ではその詳細を割愛す従)ことに対して︑﹃大乗浬葉経﹂は︑それを巻二
﹁寿命品﹂において︿見仏性である﹀と規定していることなのである︒すなわち︑よく知られているところの︑
成道産前の釈尊に対してスジャ i
タによって乳粥が捧︑げられ︑浬繋亘前にチユンダによってス
i カ
ラ ・
マ ツ
ダ ヴ
ァ
(きのび))が捧げられたという︑これら二つの場合におけるそれぞれの雄食の果報が平等であることを説く箇所
﹃ 大
智 度
論 ﹂
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本 有
今 無
﹂ 偏
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る 空
理 解
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武 田
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﹃ 大
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今 無
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論 じ
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武 田
)
二 (
) 入
において︑次の如くに言われているのである G
{ 引
用
1 }
純陀よ︑雄食に二つの果報無差なる有り G 何等をかこつと為す︒一つには受け己りて阿葬多羅三義三菩提を
得る︒二つには受け己りて浬繋に入る︒・:︒菩寵(或道前の釈尊のこと︺は菊の時に鍍金を受け己りて金制
三味に入り︑此の食を消し己りて即ち仏性を見て同葬多羅三義三菩提を得たるなり︒是の故に我れ(釈尊の
ことて二越の果報等しくして差出別無し︑と言う︒菩薩は需の時に西魔を破壊せれり︒今︑浬繋に入るに亦た
西魔を破すなり︒是の故に我れ︑二施の果報等しくして差刻無し︑と言う︒
(傍線( ]内筆者)
つまり︑本来︑唯一絶対であるべきところの釈尊成道の内実が︑﹁大智度論﹂においては︑(筆者自身が泊稿に
論じた限りにおいては)︿空の思想に基づくものであるはずの﹁無生法忍﹂を得る﹀と言われ︑﹁大乗浬繋経﹂に
おいては︑(これは一志︑現仔の仏教学の通念にしたがって云っていることになるのであるが)その前分の②に
属する巻七﹁如来性品﹂の有名な一文である﹁我とは却ち是れ如来蔵の義なり︒一切衆生に悉く仏性有り︑即ち
是れ我の義なり﹂を挙げるまでもなく︑ウパニシャツド・ヴェーダ i ンタ的であると高崎博士に指損されている
ところの︑︿我の思想に基づく﹁仏性﹂を見ること﹀であると言われているのであるから︑再テキストの立場辻
栢互に異質的であると見なさざるを得ないのである︒
なお︑この︻引用 1 ︼は︑﹁議訳の確実在渥葉経﹂と法顕訳六巻本には無いので後世の付加である︑と下田博
士によって指摘されている部分の中に収まるもの︑つまり︑﹁大乗浬繋経﹂の非本来的部分であることには︑留
意しておかなければならない G
ところで︑﹁大智度論﹂を熟読した上で﹁大乗浬繋経﹄を理解せんとした浄影慧遠辻︑﹃大乗義章﹂﹁浄法緊﹂
中の巻十四﹁十無生忍義﹂において︑
{ 引
男
2 }
︹真実法について分別すれば︑無生法忍は︺即ち是れ不空知来蔵︹の忍︑あるいは{引用
1 }
ば 見
仏 性
] な
ち ︒
の言葉で言え
〆'ー¥
「司ーー宅
︺ 内
筆 一
軒 )
)
と言い︑一向テキストにおいて︑それぞれの思想的京理をなしているところの︑これら二つの相互対立的な披念
(無生法忍と仏性)を同一視するという︑思想の内実にさらに一歩踏み込んだ独自の理解を示しているのである︒
筆者はこれを卓見であると考えているのであるが︑この慧遠による無生法忍と仏性の同一視がなければ︑大乗仏
教という一つの枠組みが現在に至るまで保持されることはなかったであろうし︑また︑この理解が﹁大乗浬繋経﹂
の非本来的な記述をも視野に入れているとはいえ︑筆者にはこの理解が︑﹁大乗浬葉経﹂の作者たちの様々な思
想的意図よりも︑思想としての本質に鋭く迫るものなのではないか︑という畏敬の念を禁じ得ないのである G い
ずれにせよ︑この慧遠の理解は︑﹁大乗浬業経﹂に最接的に付け加えられた後分⑤であるところの巻二十七﹁踊
子札口問﹂に至って︑半ば唐突に提示される﹁仏性とは第一義空に名づ任﹂というよく知られたテ i ゼと︑﹁大智
度論﹂の空の立場からする無生法忍の理解とを︑統一的に理解しようとしたものであると考えられる︒そして︑
このように︑﹁大菅度論﹂と﹁大乗浬業経﹂とを思想的に対立しているものとはみなさずに︑再テキストの思想
﹃ 大
智 度
論 ﹂
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今 無
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理 解
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武 田
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﹃大智震論﹄辻﹁本有今蕪﹂喝を如何なる空理解のレヴェルで論じているのか(武司)
ζ
コ
をより根源的に理解する傾向辻︑慧遠のみならず︑精代の主な仏教者︑例えば士口議や智頭に共通するものである︒
ちなみに︑慧遠の理解は︑彼に先立つ道生(三五五;四三四年)の﹁要ず先に不空を見︑然る後に空乃ち第一義
なるを見るべげ︺)﹂という︑︿不空から空へという次第をつけた理解﹀とも︑勿論︑異なってい足︒
伊 亮 三 時 期
﹃大智度論﹂における諸法
さて︑本稿で考察する﹁大智変論﹄における︿﹁本存今蕪﹂説を否定する記述﹀は︑先行する﹁中論﹂の第十
五章と第二十七章における︿﹁本有今無﹂説を否定する記述﹀を前提としているはずのものなのであるが︑﹁中論﹂
については︑その詳細な検討を後日に譲ちたいのである︒なぜなら︑﹁大智度論﹂における各訳語の原語が基本
的に﹁二万五千領般若﹂に基づいていると考えられるのに対して︑﹁中論﹄辻経典の註釈ではないため(掲額と
しての制約はある)︑両論において羅什が用いた同一の漢語が党語では一致していない︑という例があるからで
ある︒言葉を換えて言えば︑羅行が漢訳の際に︑その訳語に対してその都度下していた辻︑ずの概念規定に辻︑遵
いうるものと遵いえないものとがあるのであり︑両論における同一訳語に対して︑それぞれのコンテクストに従っ
て︑その概念を改めて規定し直さなければならない︑という煩瑛な作業が必要になるのであるが︑そのためには
紙幅を要するからである︒
そこで︑ここでは︑手始めに﹁大智度論﹂の多岐にわたる諸記述を整理して︑常・無常を基準として﹁諸法﹂
を分類し︑その概略を次に挙げておきたい︒また︑以下の分類は︑﹁大智度論﹂に晃い出される全ての法に対応
する存在論的な範轄を網羅しているものではないのであり︑さちなる補足と︑次下の既出分に対する修正も今後
に挨たなければならない︒
それでは︑常・無常という規準に従った限りでの︑
﹃ 大
智 度
論 ﹂
に お
け る
諸 法
を 分
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て 次
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︒
常口広三であるとされ︑したがって常住
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生 滅
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①外教においては︑渥繋
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︑徴組ユ
E5 9(
五唯︑根底に性育長江肝の存在が予想されるところ
り:)︑農空嬰訟で神世告さ・持
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シカ学派の云う実体
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包 括
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概 念
) ︒
②有部においては︑三無為すなわち無菌縁さ
E5 33 5
三宮
59
なる︑浬般市・患空・非智縁滅
m 4 3 t
s s r y
可
m pE さき
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③(ふつう常住で・あると考えられているのであるが︑しかし︑それを)﹁大智度論﹄が︑空であり︑したがっ
て 不 常 立 法 三
9 不
断
5
言
0 7
喜であるとする齢
大乗においては︑諸法実栢き号
5
5
︑すなわち︑法性舎号
5 9
昏 丸
山 )
・ 如
喜 三
55
・実際芸己品︒立
であり︑それは般若波羅蜜のことでもあ足︒
︒無常主主}主であるとされ︑したがって断滅 ③
5 0
Z
含であり︑生滅が有るはずの法︒
①外教においては︑機塵和合の急なる(物体的な)諸存在︒
②存部においては︑それ自体常生であるところの七十二種の有為法が構成する事物︒
③ 無
一 国
か ら
生 ず
る 髭
③﹁大智度論﹂が︑空であり︑したがって不常不断であるとする法︒
大乗においては︑名宇和合生(仮の施艶てあるい辻五謹和合生︑とも言われるところの︑
菌縁所生
} U E
喜三塁言三宮
H 5 9
の個々の存在者あるいは存在物︒
す な
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﹁ 大
智 度
論 ﹂
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今 蕪
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武 田
)
﹁大智度論﹄は﹁本有今無﹂鑓を如何なる空理解のレヴェルで論じているのか(式缶)
この分類における①と③は対称関孫にあり︑③は空でなければ②の如き︿常住である法﹀である
c同様に⑤と
③も対称関係にあり︑③は空でなければ@の知き︿断滅である法﹀である︒であるから︑③と@は空の思想で克
服されるべき見方であり︑正しい見方として③の空と③の空が提唱されているのであ足︒
そして︑この分類から理解しうる﹁大智度論﹂の独自性の中から︑二点を挙げておくならば︑第一に︑それは︑
﹁二万五千領般若﹂に突如現れた︑そして︑﹃中論﹄にも﹃八千填般若﹄にもそれまで明示されることが無かった
ところの︑舎三言︒舎
m p ぎという京語における︿法性﹀の概念の解釈にあるのである︒すなわち︑﹁中論﹂の(右
に示した⑤に対応する③の)︿縁起による個々の法が空である(第二十四章第十入信)﹀という立場とは一見両立
し難いが和き︑③に対応する︑﹁大品般若﹂が説くところの︿法そのものとしての存の概念である③の法性
︹ 言
言 言
立
EZ﹀に対して︑さらに︿その空なること﹀を主張しようとした﹁大智度論﹂の著者の解釈的努力が
あるのである︒第二に︑後に本文中で触れるのであるが︑阿含経典(所語る﹃第一義空経﹂)や﹁大乗浬繋経﹂
が︑︿(﹁大智震論﹂で言えば⑤に相当する)諸法が﹁本無今有﹂的に無常であること﹀が︑そのまま︿(﹁論﹂で
言えば③の空に相当するはずの)﹁第一義空﹂である﹀としていることに対して︑﹃大智度論﹂辻︿@の法が﹁本
無今有﹂的に無常であること﹀と︿③の法性と③の法とが共に空であること﹀を厳密に区別して︑︿法が﹁本無
今存﹂的に無常であること﹀を否定し︑︿法性と法が共に空であること﹀を書定しているのである︒本稿はこの
二つの問題を絶えず意識しつつ論述を展開していこうとするものなのである︒
ところで︑﹃大智度議﹄は﹁一切法を略説して宥為富田島江戸・無為告白
5昨 江
戸 ・
不 可
g
説
p F F ‑ 8 3
﹂の三
種を言︑っ場合もある︒その場合の﹁不可説法﹂とは﹁護関婆域・虚空・夢・響・矯・影・幻・化などの如き法﹂
であか)と見なされるから︑@で問題とされている諸法が空であることの警えをなすところのものである︒この一一一
種の分類では︑③は含まれない如くであるが︑③は︑③の︹
FP Z
の如きものなのであれツ︑③に対する所一語る苓
在論的な根拠の金書に存しているところの︑いわば存在そのものの如きものである︒そして︑﹁大智度論﹂が言
うところの︿③の空﹀とは︑日常的な個体的存在に対して︑要素的捉え方ではないところの︑因縁所生という流
動的な存在のことなのである︒一方︑︿⑤の空﹀とは︑定有でも虚無でもないところの︑言葉で表現しがたい根
源的なメカニズムにおいて捉えられているものなのであるが︑この詳細辻次節でより明らかになるであろう︒ま
た︑無為法と有為法とは︑原始仏教においては︑それぞれが浬繋と諸行とであったのだが︑上記の分類を見る限
りでは︑﹁大智度論﹂においては︑それぞれが有部の三無為と七十二有為が構成する事物とに担当するだけでは
なく︑その範国を外教にまで広げて︑②と@が意識されていると考えられる︒その意味で︑理念的・範轄論的な
定春的概念における無為法(︿常住である法﹀)として否定的に考えられているときは②が念頭にあるのであり︑
それが空という言葉によって示される何らかの意味において肯定的に考えられているとき辻⑤が念頭にあるので
ある︒これは有為法(︿蕪常である法﹀)の場合も同様であり︑それを否定的に考えられているときは⑤が念頭に
あるのであり︑それが空であることによって脅定的に考えられているときは③が念頭にあるのである︒
なお︑﹁大智度論﹂において諸法空が言われる場合は︑(次節に挙げる︻引用 4 ︼にも見られるように)③の空
は別説されて法性空と言われているのであり︑③の空の立場が諸法空と言われているのである︒
以下︑この分類の②・③・⑤そして③という区別に考慮を払いつつ︑本稿の主題であるところの﹁本有今無﹂
掲に考察を進めよう︒
﹃ 大
智 度
論 ﹄
泣 ﹁
本 有
今 無
﹂ 矯
を 如
何 な
る 空
理 解
の レ
ヴ ェ
ル で
論 じ
て い
る の
か (
武 田
)
﹃ 大
智 度
論 ﹄
は ﹁
本 有
今 無
﹂ 喝
を 如
何 な
る 空
理 解
の レ
ヴ ェ
ル で
論 じ
て い
る の
か (
武 田
)
立 ヨ
第四第
﹁本有今無で﹁本無今有﹂・﹁三世有法﹂に対する﹁大智慶論﹄
の立 場
では︑﹁大智度論﹂が︑﹁本有今無﹂掲の中の︑﹁本有今無﹂・﹁本無今有﹂・﹁三世有法﹂をどのように克ている
のか︑その現実を見ることにしよう︒それに対する言及は諸処に見出されるのであるが︑今は︑その中でも最も
説暁が詳しい︑巻八十九﹁釈善達品第七十九﹂から︑対応する﹁大品般若﹂の経文と共にその解釈を掲げてみた
い︒﹁大品般若﹂の関口問は︑釈尊と須菩提の問答の形式を取っているのであるが︑まず︑筆者の補足を加えた上
で︑そのコンテクストを要約してみれは次の如くである︒
同品は︑法性と法との存在論的な区別を問題にして︑それが︑菩護の修道すなわち﹁大智度論﹄を一貫する主
題であるところの﹁不住浬業毛主
5 5 2 5
宝︒を実現する菩藍配﹂と︑いかに関連してくるのかを説いて
いる︒そして︑釈尊は︑幻入の壁画一えを借りて︑この世界内の菩薩の修道の未来永劫に亘る持続性を説くのである
が︑それは︑人口に捨突しているところの﹁殻若心経﹂的表現を告ちるならば﹁諸法の空なることを知って無明
が明に転じても無明はなくならない﹂からであり︑﹁大智度論﹂で言えば﹁(未来永劫に亘って蕪量であるところ
の)衆生が諸法の空なることを知らない‑からなのである︒そして︑修道の利他の局面における幻入の術作する
現象︑すなわち方奨力による援の施設に対して︑無智の者は驚嘆するのみであるが︑有智の者はその現象の本費
に存する根拠を認識している︑と教示するのである︒この場合の幻入とは︑無論︑不退転の境泣に到達した菩寵
を指しているのであり︑われわれがここで示すべき理解は有智の者のそれに対応しなければならないのであるか
ら︑その有智の者の理解とはどのようなものであるのかと言えば︑それは︑現象の本質に存する根拠としての︑
つまり修道の持続性を可能ならしめる模拠としての︑︿法性のメカニズム﹀のことなのである︒
その︿法性のメカニズム﹀こそ︑今当に釈尊が説こうとしているものなのである︒
︻ 引
用
3
︼︿京文﹀須菩提︒若法性前後中有異者︒是菩寵牽詞寵不能以方領力示法性成就衆生︒須菩提︒以法性前後中
無異︒是故是菩薩行般若波羅蜜︒為利益衆生故行菩薩道︒
︿書き下し﹀須菩提よ︑若し法笠︑前・後・中に異存らば︑是の菩薩摩語薩は︑方便力を以て法性を示し︑
衆生を成就すること龍わず︒須菩提よ︑法性︑前・後・中に異無きを以て︑是の放に是の菩襲は殻若波羅蜜
を行じ衆生を利益せんが為の故に︑菩薩道を行ずるなり︑と︒
( 党
本 未
公 刊
)
文意を明らかにするために和訳を示そう︒
須菩提よ︑若し法性というものが︑その過去と未来と現在とにおいて︑それぞれ別異なるものであるならば︑
菩薩は方便の力を以て衆生に法牲を教示して︑衆生を浬繋に入らしむることができない︒須菩提よ︑法性と
いうものが︑過去と未来と現在とにおいて︑刻異なるものではないからこそ︑菩薩は︑(一貫して菩護の存
在を支えているはずの︑その)般若波羅蜜において行ずることができるのであり︑そして︑また︑衆生利益
の菩薩道を行ずることができるのである︒
こ れ
に 対
し て
︑ ﹁
論 ﹂
の著者は︑以下のような︿法性と諾法とが共に常に空である﹀という思想を主張して︑
﹁ 大
智 度
論 ﹄
は ﹁
本 有
今 無
﹂ 傷
を 如
何 な
る 空
理 解
の レ
ヴ ェ
ル で
論 じ
て い
る の
か (
武 田
)
三 E
﹃ 大
智 度
論 ﹂
は ﹁
本 高
今 無
﹂ 穏
を 如
持 な
る 空
理 解
の レ
ヴ ェ
ル で
論 じ
て い
る の
か (
武 田
)
一ーノ 、
法性や法の﹁本有今無﹂説を否定するのである︒
︻ 引 南
4
︼︿原文﹀此中仏自説因縁︒若法性先無後有
c菩薩不能得陪霧多羅三嘉三菩提︒亦不能以方便力説︒所以者何 G
若法牲先無後十有︒従因縁生者期出品︿凡夫共法無異︒若法性先有後無︒衆生及諸法則謹断滅︒以諸法性先空中後
亦爾︒非智慧力故令空
c衆生及諸法非以入禁余浬襲時乃空︒従本己来常空︒菩薩教衆生︒何以不観其実性高
著顛倒︒若観諸法畢寛空性者︒期知従本巳来常空︒今無所失︒如是行般若波羅牽菩薩︒期能祐利衆生
c︿書き下し﹀此の中に仏自ら因縁を説く︑若し法性︑先無後有︑ならば︑菩寵辻河端狩多羅三窺三菩提を得るこ
と能わざらん︒亦た方便力を以て説くこと能わざらん︒所以何んとならば︑若し法性︑先無後有にして因縁
よち生ぜば︑期ち凡夫の共法と異なることなし︒若し法性︑先存後無ならば︑衆生及び諸法は期ち断滅に堕
す︒諸法の性︑先に空なるをもって中後も亦た爾なり︒智慧力の故に空ならしむるに非ず︑衆生及び諸法︑
径一⁝余浬繋に入る時を以て乃ち空ずるに非ず︒本より己来常に空なり︒菩薩︑衆生を教う︑何を以てか其の実
性を観ぜずして顛倒に著するや︒若し諸法︑畢寛空性なちと観ぜば︑即ち本より己来常に空にして︑今失す
る処なしと知る︒是の如く般若波羅蜜を行ずる菩薩は則ち能く衆生を祐利す︑と︒
( 傍
一 線
筆 苧
) )
その和訳は以下の通りである︒
ここで︑仏は自ら(大乗的世界つまち菩護当人とその教化の対象の存続の根拠︑それを法性の或るメカニズ
ム︑それこそ空と呼ばれるものなのであるが︑を問題として)その菌縁を次のように説く︒法性というもの
が過去には無かったが現在は有るというもの(本無今有)であるのならば︑菩薩行を円満して菩提を得る︑
ということは成立しない︒ということは︑菩薩が方便力を以て(衆生に法性の真理を)説く(そして衆生を
浬繋に向かわせる)ことはできないであろう︒なぜなら︑もし法性というものが︑過去には無かったが現在
は有る︑という因縁所生の法であるのならば︑一所語る凡夫の(日常経験における共通世界の)諸事物(討共
法)と異ならなくなってしまうからである︒また︑もし法性というものが︑過去に有ったが現在は無いとい
うもの(本有今蕪]であるのならば︑(その法性を存在論的な根拠としているはずの)衆生及び諸法は断滅
の(すなわち既に減してしまって存在していない)ものになってしまうからである︒諸法の法性というもの
辻︑過去においても空であって︑現在においても未来においても︑空(なるメカニズムにおいて存在してい
るはず)である︹舎の空]︒(この法性というものの空というありかたは︑本来的な存在性格なのであり︑
仏がその覚りの)智慧力によって(法性を)空ならしめたものではないし︑また︑(その法性を根拠として
存在しているところの)衆生及び諸法は(仏が未来において)無余浬繋に入る持に空ならしめるものなので
もない︒(その法性は仏の成道や入渥繋には関わりなく︑)本初より以来(そして現在︑未来に亘って)空
(なるものとして存続しているもの)なのである︒菩薩は(このことを)衆生に教えているのである︒どう
して︑衆生がその教えに従って︑その法性の真実の存在性格を観ずることなく︑従来通り顛到した現実認識
に留まっていてよいものであろうか︒もし︑衆生及び諸法を(このような)究極(的な存在桓)において空
であると観ずるならば︑それら諸法も(法性と同じく)本より己来(そして現在︑未来に亘って)常に空
︹③の空︺であり︑今(仏が成道した現在においてその本来の存在性格を)失うことはない︑ということが
わかるだろう︒このような(法性の認識に基づいて)般若波羅蜜において行ずるからこそ︑菩薩は衆生を利
﹁ 大
智 度
論 ﹄
は ﹁
本 有
今 無
﹂ 備
を 如
何 な
る 空
理 解
の レ
ヴ ェ
ル で
論 じ
て い
る の
か (
武 田
)
→ =
﹃大智度論﹄は﹁本有今無﹂儀を如何なる空理解のレヴェルで論じているのか(武田)
f
、、益することができるのである︒
この和訳に示した理解からして︑この場合の﹁本有今無﹂・﹁本無今有﹂の又ことは︑釈尊の入翠葉の時点で
はなく︑成道の時点をより強く指示している︑と見なさざるを得ないのである︒つま与﹁本有今無﹂が︑仏の成
道によって克服されその存在を否定されたところの無明︑その滅を言い︑﹁本無今有﹂が︑それによってその存
在が肯定されたところの明︑その生を言っている︑と見えるのである︒が︑しかし︑﹃大智度論﹂の著者は︑前世⁝
明や照的がそのようなものなのではなく︑三世を一貫して存続しているところの法性空というメカニズムにおいて︑
︿無明が明に転ずる﹀と主張しているのであり︑﹁論﹂はこのような患想を{引用
4 }
藍請の丈振で﹁無明は転
じて実ならしむべからず﹂と表現しているのである︒これは︑つまり︑︿無明が明に転ずる﹀という︑いわば歴
史的に一臣性であり瞬間的な出来事であるところの釈尊の成道という事実は︑大乗的な観点からするならば︑法
性そのもの内において︑常に生起し続けている︑ということなのであり︑この空という動的なメカニズムにおい
て︑過去・現在・未来を一貫して存続しているところの法性が︑菩寵の活動を永遠に支え続けているのである︒
したがって︑﹃大智度論﹄の﹁本在今無﹂・﹁本無今害﹂・﹁三世有法﹂に対する立場は︑
①法性(③)は︑﹁本無今有﹂という︿因縁による法(⑤)﹀ではないし︑﹁本有今無﹂という︿断滅である
法(@)﹀でもない︑また︑﹁三世有法﹂という︿常住である法(②)﹀でもない︑なぜなら︑﹁三世(過去︑
現在そして未来に亘って先・中・後)に常に空というあり方において存続しているもの﹂であるからである︒
②法性が以上のようなものであるから︑法性に根拠づけられている諸法と衆生(共に③)は︑同様に﹁本存
今 無
﹂ ・
﹁ 本
無 今
有 ﹂
・ ﹁
三 世
有 法
﹂ で
は な
い ︒
というものなのである︒この場合︑﹁大智度論﹂は空の思想によって②と@の両者を否定しているのであるから︑
﹁本有今無﹂・﹁本無今宥﹂というのは︑@の︿蕪常である法﹀の否定すべき震性であり︑﹁三世有法﹂とは︑﹃大
智度論﹂の中にそのまま記されている言葉ではないのであるが︑﹁大智度論﹂が右に示した①の中の﹁三世(先・
( 同 日 )
中・後)に常に空﹂を主張する際に敵者としているところの︑③の︿常住である法﹀のことである
cそして︑これが︑われわれが注
Eすべき点なのであるが︑②を破するのが③の空(法性空)であり︑それはす
なわち第一義空ないしは諸法実相の空あるいは般若波羅蜜の空︑とされるのである(その事態を具体的に示すも
のが︻引用 4
︼ の
文 で
あ る
) ︒
ち な
み に
︑ こ
の 諸
法 実
相 の
実 相
と は
︑ ﹁
大 品
般 若
﹄ の
ニ 一
一 口
︑ っ
法 性
舎 号
自 主
冨 宮
︑ あ
る い
は 歎
者 り
一 一
一 口
う 自
性 三
喜
g h γの如きものと解しうるのであり︑それ辻︑諸法すなわち個々の存在者(物)
に対してその存在論的基盤をなすところの︑まさに存在そのもののレヴェルであったのである
cが︑しかし︑そ
れが空であるとは如何なることであるのかと言えば︑少なくともこの場合の第一義空とは︑表面的には︑煩悩を
具足する因縁所生の主体(空であるところの③)が修道(行般若波羅蜜)することで︑数者の主張であるところ
の主体の岳性︑ないしは︑その自性に付随する直定的な有の観念︑を否定するという︑所誇る﹁無自性空﹂のこ
となのであるが︑それに留まらず︑ここにおける第一義空とは︑その修道の主体自らが掠って立つ根拠としての
法性を本質的に変容せしめるという︿蕪明が明に転ずる可語性﹀であり︑かっ︑それは︑その主棒において無明
が嘆に転じても︑世界内には依然として明に転ずべき無明が存続しているという︿無明の無尽性﹀である︒であ
るから︑第一義空は︑その主体をして︿永遠に菩襲道を行ぜしめる根拠﹀の如きものなのである︒
なお︑この意味における第一義空とは︑例えば︑﹃中論﹂第二十四章に述べられる四諦説を根拠的に再確認す
る意味における二詩︑その内の第一義諦という概念が︑﹁大智度論﹂において空という言葉によって措足され︑
﹃ 大
智 度
議 ﹄
は ﹁
本 有
今 無
﹂ 傷
を 如
何 な
る 空
理 解
の レ
ヴ ェ
ル で
論 じ
て い
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か (
武 田
)
ブ
L﹁ 大
智 度
論 ﹄
は ﹁
本 有
今 無
﹂ 渇
を 如
何 な
る 空
理 解
の レ
ヴ ェ
ル で
論 じ
て い
る の
か (
武 田
)
〈 コ
大乗の菩寵の求道との連関において表明されたものである︑と考えられる︒したがって︑このような空の患想の
意味において︑﹃大智度論﹂は積極的であると言うべきであり︑この﹁論﹂が﹁真空妙新)﹂・﹁諸法実相の積極的
肯起﹂・﹁永遠の肯起﹂を説いている︑つまり﹁中論﹂に比して穫極的・肯定的である︑という一般的理慨も︑そ
の理解が﹁大智度論﹂が﹁中論﹄よりも存在論的な認識において顕示的な有論であるということではなくて︑
﹁大品般若﹂が説く法性
SR
自 立
EZ
を空というメカニズムにおいて解釈したところのもの︑約言すれば︑︿菩
薩行の永遠性を根拠守つける第一義空の思想﹀からして︑あらためてよち根源的に理解しうるし︑またそこにおい
て︑先掲したところの浄影慧遠の理解(これは時代的に後行するわけであるが・:)の必然性をも予想せしめるの
で あ
る
c
ところで︑﹃大智度論﹂においては︑﹁本有今無﹂的な禁常に対して︑それが︑﹁期ち是れ空の初門なち﹂と言
一切(要するに︑その議論をあたかも低次元のものとみなしている)ような一面があるのであり︑それは多分︑巻
九十六﹁釈浬繋如化品第八十七﹂中の﹃大品般若﹂の一箆に見出される︑次の知き﹁本存今無﹂の用例と桔通ず
る も
の で
あ ろ
う ︒
{ 引
用
5
︼仏︑須菩提に告︑げたまわく︑是の如し是の如し︑諸法は平等にして声関の所作に非ず︑乃至︑性空は即ち是
れ浬繋なり︒若し新発意の菩薩︑是の一切法は皆な畢寛して性空なり︑乃至︑浬繋も亦た皆な化の如し︑と
聞かば︑心別ち驚儒せん︒是の新発意の菩薩の為の故に︑生滅は化の如く︑不生滅は化の如くならず︑と分
別す︑と︒須菩提︑仏に白して言さく︑世尊よ︑云何にして新発意の菩藷を教えて︑是の性空を知らしめん︑
と︒仏︑須菩提に告げたまわく︑諸法は本有今無なるや︹と問︑っべしてと︒
(傍隷(
︺内筆者︑党本未公刊)
とあるが如くである︒この文章の趣旨は︑
諸法の法性が空であることを教えるには︑新発意の菩薩が畏れないように︑まず︑諸法は本有今無という生
滅(無常)であろうか︑と潤いを発してからそれを否定すべきである︒
ということである︒党本未公判切であるのが残念ではあるが︑﹁大品般若﹄が﹁本有今無﹂に言及するのは︑筆者
の知る限りにおいて︑この一例のみである︒また︑これに対恋する﹃大智度論﹄の註釈は︑経文に添った説明を
しているのみで︑特に巨を引く内容はないよ
なお︑念のため付け加えておくならば︑﹁大乗浬繋経﹂の﹁本有今無﹂揚が﹁大智震論﹂へ影響を与えたとい
うことは︑般若空思想が仏性思想に先行することや︑﹁大智度論﹂中に仏性思想の痕罫がないことから見て︑考
え ら
れ な
い よ
第五節
﹁大智信反論﹄における﹁本無今有︑己有還無﹂説
そして︑もう一つ注呂すべきこととして︑﹁大智度論﹄巻三﹁初品中住王舎域釈論第五﹂における︑牽語通葉
が自らの殻謹襲に臨んだ時の教説が挙げられる c
﹃ 大
智 度
論 ﹄
は ﹁
本 有
今 無
﹂ 慢
を 如
何 な
る 空
理 解
の レ
ヴ ェ
ル で
論 じ
て い
る の
か (
武 田
)
﹃ 大
智 度
論 ﹂
は ﹁
本 有
今 鉦
⁝ ﹂
渇 を
如 何
な る
空 理
解 の
レ ヴ
ェ ル
で 論
じ て
い る
の か
( 武
臣 )
{ 引
用
6 }
長老摩詔迦葉は誉罷嘱山に於いて三法蔵を集め︑度すべき衆生を度し克って︑仏に隠って浬繋に入らんと欲
し・:︒長老牽詞迦葉辻晴蒔に禅定より起って︑衆中に入ちて坐し︑無常を讃説せち︒
a諸 の
一 一
切 の
有 為
法 試
因縁の生なるが故に無常なり︒ b 本舞今有︑己有還無(本と無くして今有り︑己に有って無に還る︺の故に
桂 川
常 一
な 炉
︒ (
鋒 破
線 [
︺ 内
ab
筆 苧
) )
この傍破線部 b の﹁本無今有︑己有還無﹂は︑﹁大智度論﹂中に少なくとも六箇聞に認められるものであり︑
接破線部
a'
b
の連続性から見れば︑﹃論﹂が否定しているところの︑有為法の生滅の担(@)を言っているので
ある︒また︑﹁大智度論﹂には︑﹁本無今有﹂は生であり﹁己有還盤には死(減)である︑とも説明されてい討の
であるから︑﹁己有還無﹂は︑それを﹁本無今有﹂と切り離して独立させれば︑﹁本有今無﹂と同意であるはずで
あ る
一方で︑この﹁本蕪今有︑己有還無﹂は︑経量部と大衆部の説︑すなわち︑﹁過去蕪・現在有・未来蕪﹂を言っ ︒
ていると見なされる︒そして︑この﹁本無今宥︑己有還無﹂説は︑求那駿陀羅訳﹁雑阿含﹂巻十三の所語る﹁第
一義空経﹂に﹁不実詣生︑生己尽滅﹂︑真諦訳の﹃担保舎論﹄に﹁先未有有︑有己後無﹂と︑ほほ用意の文として
存在しているのであり︑また︑玄英訳の諸論︑例えば﹁倶舎論ア﹁顕正理論﹂に︑それぞれ﹁本無今有︑有己還
無﹂・﹁本無今有︑有己還去﹂と︑ほぼ同語の文として記されているのである
cしかしながら︑羅什訳﹁大智度論﹂
以前に﹁本無今有︑己存還蕪﹂が詞語で紹介された例を︑筆者は寡罰にして知らないのである︒なお︑憎掴提婆
訳と伝わる﹁増一阿含﹄ではこの部分が省略されている
) O
さらに︑この間含の﹁第一義空﹂の思想は︑﹁本蛙⁝今
右︑巳害還無﹂という諸法の生滅の相︑つまり︑諸法が﹁本無今有﹂的に無常であること(⑤)を言っているに
過ぎないのであり︑かっ︑それは﹃大乗浬薬経﹂にも受け継がれている(註日参照)如くであるが︑﹁大智度論﹄
の︿﹁第一義空(③の空)﹂や﹁諸法空(③の空)﹂の思想﹀は﹁本無今有﹂的な無常(⑤)を否定しているので
あるから︑﹃第一義空経﹂・﹃大乗浬繋経﹂と︑﹁大智度論﹂とでは︑それぞれの空の思想の本質が異なっているの
で あ
る ︒
ちなみに︑玄笑訳﹁倶舎論﹂の﹁本無今有︑有己還無﹂に対応する党文は︑
m w σ
冨 吉
川
FFミ 三
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国 立
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胃皇官
O O F ‑
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で あ
る か
ら ︑
﹁ 本
有 今
無 ﹂
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王 手
55 9
ぐ
さ で
あ ろ
一 円
︒
第六節 結びに代えて
遠回りをしたが︑ここで︑北本﹁大乗浬繋経﹄全四十巻の︑前分十巻に梧当する﹁議訳の確実な浬繋経﹂に対
応するテキストに後から付加された︑巻十﹁加来性品﹂の﹁本有今無﹂傷を挙げて︑本稿の考察の結論と今後に
考察すべき要点を挙げておこう︒
{ 引
用
7 }
文殊部利の言さく︑純詑は心に如来常住を疑う︑仏性を知見するを得たる力を以ての故に︒若し仏性を見
るを常と為さば︑本未だ見︑ざる時は応に是れ無常なるべし︒若し本蕪常ならば︑後に亦た爾るべし︒何を以
ての故に︒世間の物の︑本無今有︑己有還無なるが如く︑是の如き等の物は悉く是れ無常な号︒是の義を以
ての故に︑諸仏・菩襲・声関・縁覚に差別有ること無し︑と︒爾の時に世尊︑開ち喝を説きて言わく︑
ことわ号 本有りて今無し︒本無くして今有り︒三世有法︹三世に右である法︺︒是の︹三つの︺処有ること無し︒
﹁ 大
智 度
論 ﹂
は ﹁
本 有
今 無
﹂ 傷
を 如
何 な
る 空
理 解
の レ
ヴ ェ
ル で
論 じ
て い
る の
か (
武 田
)
﹃大智震論﹄は﹁本有今無﹂儀を如何なる空理解のレヴェルで論じているのか(武田)
o ; : I
善男子よ︑是の義を以ての故に︑諸仏・菩薩・声間関・縁覚に︑亦た差別有り︑事た差別無し︑と︒
(傍点務隷[ ]内筆者)
まず︑この前引用文に関する重要な事実を挙げておかねばならない︒それは︑﹁大乗浬葉経﹂の数少ない党文断
簡の中には︑この{引用 7 ︼を誇いだものがあるのである︑つまり︑︻引用 7 ︼の前後の党文が一読きに存在し
ているのに︑{引用 7 ︼の全文が︑その党文には欠落している︑ということなのである︒
そして︑ここには︑﹁純陀は心に如来常住を疑う﹂(傍点部)とあり︑その根拠として︑﹁堂開の物の本無今有︑
己有還無﹂(務隷部)が示されてい討のであり︑これに手えて釈尊が﹁本有今無﹂渇を説いたのである︒しかも︑
この﹁本有今蕪﹂掲には︑巻十一以降のそれとは異なって︑市閣の内容に関する説明が全く無いのである︒その上︑
この引用の中には︑﹁大智度論﹄の中において羅什が用いた漢語︑すなわち﹁本存今無﹂(︻引用 5
︼ )
と ﹁
本 無
今
有 ︑
己 有
還 無
﹂ (
{ 引
男
6 }
)
とが︑そのまま用いられているのであるから︑曇無識が﹁大乗浬繋経﹂訳出の襟に︑
漢訳の﹁大智度論﹂を参照しながら﹁本有今無﹂傷を付加した︑ということはほぼ確実であると考えられるので
あ る
さらに︑﹁大智度論﹂は︑諸法は空であるから︑﹁本有今無﹂・﹁本無今有﹂という蕪常でもなく︑﹁三世有法﹂ ︒
という常住でもない︑と主張したのであるが︑一方の﹁大乗浬繋経﹂は︑(﹁空の思想に基礎づけられている﹂と
言われてはい(むものの)当然の如く空の思想を主題とした経典ではなく︑如来や大浬繋の需を説く経典なのであ
るから︑如侍なる根拠によって︑世間の物の﹁本有今無﹂・﹁本蕪今有﹂・﹁三世有法﹂を否定するのであろうか︑
という疑問が生ずるのである︒第一節にも記したように︑少なくとも︑﹃大乗浬繋経﹂の巻十一以降において示
されている﹁本存今無﹂・﹁本無今有﹂・﹁三世有詰﹂を否定する理由は︑文字の上では﹁大智度論﹂に説かれてい
るものと同じではないのである︒
細かい資料論的なことも付け加えておこう︒それは︑曇無識の伝記に関することであるが︑そこには︑﹁大乗
浬葉経﹂の訳出が(二回ないしは)三国に分けられていたことが記されてい討のであり︑布施博士の曇禁識に関
する諸伝や経録の詳細な研究に依れば︑曇無識の訳経の第一段階が前分十巻であることも確実のようで為る︒つ
まり︑﹁如来性品﹂に﹁本有今無﹂渇が付加された十巻分の経典が︑まず最初に中国に紹介されたのであり︑こ
の傷を十分に説明しなかったことに︑曇無識が不足を感じて︑第十一巻以降のテキストを求めたのであるならば︑
曇無識の役割が﹁本有今無﹂掲の付加に留まらなかった可諮性も予想されるのである︒
筆を置く前に︑あえて筆者の予測を述べておくならば︑それは︑﹃大智震論﹄における︿空というメカニズム
において存続している法性﹀を︑曇無議が︑﹁大乗淫薬経﹂において︿仏滅後にも存続する仏性﹀として︑強読
しようとしたのではなかろうか︑というものである︒なぜなら︑﹁本有今無﹂掲を否定すれば︑必然的に︑空と
いうメカニズムにおける法性の常住説が明らかになるからである︒そして︑もし︑この予測が正しいのならば︑
曇無議の思想理解力は透徹したものである︑と言をわざるを得ないのである︒が︑しかし︑この予溺は︑﹃大乗浬
繋経﹄の中分十巻の内の﹁党行品﹂において︑第一義空と﹁本無今有﹂的蕪常とが混同されている(註日参照)
ことによって︑その正当性が危ぶまれるのであるから︑(﹁経﹂の訳出が三回に分けられていたという伝承に従う
ならば︑その三屈呂の訳出に当たる)後分二十巻の内容の更なる検討を要するのである︒したがって︑これらの
諸問題を携えて︑改めて﹃大乗浬繋経﹂の第十一巻以降を論ずることにしたいのであり︑この予測の当否は︑曇
無議がこの傷を付加した意図が︑︿﹁大乗浬繋経﹂の思想の独自性を主張するため﹀なのか︑︿﹃大智度論﹂と﹁大
乗浬繋経﹂とのそれぞれの思想の相違を課俸するため﹀なのか︑という疑問の解明と共に︑後
5の考察に委ねさ
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