Title ジョン・バニヤンにおける律法と恩恵 Author(s) 深山, 祐
Citation 2010 年度 博士論文 要旨
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2010
年度博士論文要旨
( 指導教員 大木英夫教授 )
ジョン・バニヤンにおける律法と恩恵
聖学院大学大学院
アメリカ・ヨーロッパ文化学研究科 ( 博士後期課程 )
学籍番号
106DC005
深 山祐
要 旨
本論文は、17 世紀イングランドが輩出したピューリタン作家ジョン・バニヤン(1 628-1688
)
の1659年の神学論文『律法と恩恵の教義の展開』(The Doctrine of Law and Grace Unfolded, 1659)を中心に、その神学思想 ――
契約神学思想――
とりわ け、律法と恩恵についての考察を目的とする。その際、彼の文学作品の中から、ベス トセラーになった『天路歴程』をはじめ『悪太郎の一生』および彼の精神的自伝とも 言うべき『罪びとのかしらに溢るる恩寵』などを選び、それらの作品の中に表われた 神学思想、とりわけ、律法と恩恵についても捉えようとするものである。第1章「キリスト教思想史における律法と恩恵――パウロ、アウグスティヌス、ル ター
――
」においては、バニヤンの神学思想を彼の初期の著作『律法と恩恵の教義』から考察することを本論文の主要な目的とするがゆえに、ここでは、先ず、聖書の恩 恵概念を問題にし、とりわけパウロ思想におけるその展開を取り上げて考察すること から始めた。さらにキリスト教思想史においてこの教義がどのように発展しバニヤン に至ったかを解明するためにキリスト教思想史の中でもとりわけ重要な教義学上の 貢献をなしたアウグスティヌスとルターを取り上げ、思想史的研究からバニヤン独自 の教義学的な貢献を捉える手掛かりを探求することにした。
次に、第2章においては、前章でのキリスト教思想史において「律法と恩恵」の教義 がいかなる発展を遂げてきたかの考察に続いて、わたしたちが本論文で取り上げた
『律法と恩恵の教義の展開』の神学論文が、まずどのような時代的な思想状況の下で 書かれたのかを知るために、彼が生を享けた時代状況を概観し、続いて、『律法と恩 恵』が書かれた
1650
年代におけるバニヤン初期の神学的著作活動の背景をバニヤン の神学思想の源泉を探りつつ、初期神学の課題と問題およびバニヤンの内的な良心と 罪の自覚の問題を取り上げた。さらに次の第3章においては、前二章での考察に続いて、バニヤンが律法と恩恵に 関していかなる体験を持ったのかを彼の自伝的な作品『罪びとのかしらに溢るる恩恵』
(Grace Abounding to the Chief of Sinners
、 1666.
以下、特に、表題全体を記す必要があ る場合を除き、『溢るる恩恵』と略。)を通して明らかにしようとした。というのは、わたしたちはそれによって彼の律法理解の特質を把握することができるからである。
実際、ひとりの魂が救いに導かれるために、神はさまざまな仕方で人に働きかけて いる。ジョン・バニヤンが主イエス・キリストの救いに導かれるに至るためにも、神
の計りも知れない計画があったことは言うまでもない。その回心に至るまでの苦闘と 経緯について、わたしたちは彼の『罪びとのかしらに溢るる恩恵』を通して知らされ るのであるが、この書を通してバニヤンが他ならないルターとの出会い、特に、前章 で考察したルターの『ガラテヤ書講義』
(1531
年)との出会いがあったことが知られ る。その際、この出会いよりも前にバニヤンが自己の罪に悩んだ深刻な体験とそれを 克服した救済体験があったことを看過すべきではない。しかもこの救済体験も決して 一回的なものではなかった。なぜなら回心に至るバニヤンの若き日々の生活をくわし く調べることによって、わたしたちは神がどのように彼をさまざまな出来事を通して 導いていたかを理解し、その上で彼の律法と恩恵についての思想的な独自性を把握す べきであると思われるからである。そして第4章において、ニヤンの神学的主著である『律法と恩恵の教義の展開』
(The Doctrine of Law and Grace Unfolded, 1659)を通してその契約神学思想、とりわけ、律法
と恩恵について考察しようと試みた。契約の思想を初めて明瞭に説いたのはコッケイユスであったと思われる。彼はその 主著『神の契約と約束の教義の概要』において旧約と新約との関係を救済史的観点か ら基礎づけ、両者の統一性と発展性とを「契約」によって把握し、契約神学を提唱し て、聖書全体を神の契約の連続として理解することを主張し、聖書各文書の多様性を 契約の発展過程として解釈する方法を提示した。こうして当時の改革派神学の全体に、
また後にはルター派神学にも少なからぬ影響を与えた。この契約の概念は旧新約聖書 の契約に淵源しておりキリスト教著作家たちは、最初期からそれを使用してきた。だ が、バニヤンで強調されているのは単なる歴史的な契約ではなく、契約の当事者とし ての神と人間との関わり合いであって、契約における当事者の関係がどのような特性 をもっているかということである。その際、神と人との関係が、神が与え、人が受け るという授受の関係を前提とした上での救済における人間の役割がこの時代におい ては問題となった。そこには契約を交わす当事者である神と人とが相互的な関係にあ り、そこに双務的要素があると考えられた。
宗教改革の初めからヒューマニズムの傾向が強かったエラスムスやツヴィング リまたティンダルは双務的な契約を強調した。カルヴァンはルターと同じく信仰義認 論に立っていたが、義認論に含まれている聖化の要素を重視し、信徒は労働や富さら に国家に対し積極的に関わる倫理を説いた。ここからこの双務的契約を説く人たちは、
一般に「穏健カルヴィニスト」と呼ばれたが、他方、神からの約束としての契約を神 の主権性の観点に立って強調する点でカルヴァンに従う人々は「厳格カルヴィニスト」
と呼ばれることができる。こうした「契約」の観点はバニヤンの神学的な著作『律法 と恩恵の教義の展開(The Doctrine of the Law and Grace Unfolded, 1659 )』においても最 初から「わざの契約」と「恵みの契約」、「古い契約」と「新しい契約」として継承さ れたが、恐らく他のいかなる著者たち以上にルターの影響を決定的に受けていたとい えよう。この点に関してリチャード・L.・グリーヴズが言うように、バニヤンは、
ルターと同じように、経験的に感じ取られた怒りと恩恵の二分法によって神を見い出 した。この神についての理解が『律法と恩恵』の根底を貫いている。ルターの宗教経 験は、彼を<恩恵の教義は決して律法の教義と両立しえない>という結論に導いたの であるが、これがまさしくバニヤンの神学的主著の主題でもある。バニヤンはまた信 仰者が現在所有するものとしてのルターの救済観および恩恵と信仰のみによる義認 の必要性についてその力説するところの影響を受けた。ルターがこれらの教義を繰り 返し強調したことがバニヤンの『律法と恩恵』の神学論文に明らかに影響を及ぼして いる。
このルター神学の影響による怒りの神と恵みの神についての二分法的見方は、また
「律法と恩恵」についてのバニヤンの考え方、すなわち、「律法の下にいる人はだれで あれ、いま心にキリストの恩恵が欠けており、しかも全くないのである、ということ である。
…
律法によって…
誰も義とされ得るということではなく、律法のわざによる 義を求める人々は皆、第二の契約、恵みの契約の下にいることを求めるような人々で はない」という考え方にもはっきりと反映している。律法と福音を峻別するルターの 思想にバニヤンは忠実に従っている。この区別においてルターは福音の真理を説いた のであった。だが、旧約聖書における神の律法には同時に福音が暗に含まれているこ とをもルターは洞察していた。たとえば十戒は何々すべからずという定言的命法によ って述べられ、峻厳な絶対命令のように響くが、その中には十戒の前文にあるような 恵みが含まれており、「してはならない」という命令形は当然しないはずであること を述べている。こうして律法の観念の中には契約の恵みが含まれているため、律法と 福音という対立はなく、律法のうちに福音が含意されていた。ところが時代が変わり、預言者の活躍した時代を通って、ユダヤ教の時代に入ると、律法の意味がすっかり変 化した。神との契約を実行するための律法から、その関係が逆転して、律法を守るこ とによって神との契約に入ることが目論まれるようになった。ここに「わざの契約」
という道徳主義的な律法の理解が生まれ、独善的なファリサイ主義が起こってきた。
バニヤンが捉えた「わざの契約」としての律法理解は新約時代に普及したこうした観 点から生まれたものである。彼の律法理解も、後に考察するように、こうした律法主
義的な理解から恩恵を含意する福音的な理解へと進展している。
バニヤンにとって恵みの契約は、罪の赦しについての神の恵み深い約束であった。
反律法主義者たちおよび厳格なカルヴィニストたちとともに、バニヤンはこの契約を 父なる神と子なる神の間に最初に形づくられたものと考えた。しかも、それは人間の 創造以前に結ばれており、永遠の救いの選びの土台となっているがゆえに、この契約 は決して揺らぐことはない。これは『律法と恩恵』で主張されているように、この契 約の当事者は父なる神と子なる神であって、両者の間に交わされた永遠の契約が、バ ニヤンに救いの疑い得ない確信を与えた。
第5章の「『天路歴程』にあらわれた律法と恩恵」においては、バニヤンの最大の 神学的著作ともいうべき『律法と恩恵』(1659 年)が、その
19
年後に出版されたバニ ヤンの代表的文学作品となった『天路歴程』(1678
年)
に神学的基礎を与えたというこ とを見ようとした。このことを逆に言うと、私たちが『天路歴程』をただ文学作品と して読むだけでは、バニヤンが『天路歴程』を著した本来の意図を正しく汲み取った ことにはならず、その底に流れる神学思想を把握することなしには、本書を十全に理 解したとはいえないということなのである。それでは『律法と恩恵』が『天路歴程』という文学作品に「神学的基礎を与えた」ということは何を意味するのであろうか。そ れは『天路歴程』が神学的なバックボーンに支えられた作品であると言うこと、つま り、本書を手にする読者を明確な目あてへと導く意図を持つことを意味する。その目 あてとは、主人公クリスチャン(Christian)と共に、この作品のタイトルが示す『この 世より来るべき世への巡礼の旅(The Pilgrim’s Progress from This World to That which is
to come)
』に読者を導くことにある。そのことを第四章において考察した。第6章の「『悪太郎の生涯』における神学思想」においては、バニヤンの作品の中 でも、『天路歴程』あるいは『罪びとのかしら』に次いでよく読まれてきた『悪太郎 の生涯』を採りあげ、本論文の主題である律法と恩恵の教えにもとづき、しかも永遠 の予定というカルヴァンの契約神学にしたがって、悪の現実に染められた人間の生活 を考察した。
『天路歴程』がバニヤンの神学思想の文学的な表現であったのに対し、『悪太郎の 生涯』はもはや文学的な表現を用いることなく、語り手である「賢者」と聞き手の「謹 聴者」との間で交わされる対話形式によって人間における悪の実体を描写した作品と なっている。もちろんそれは単なる人間悪の社会的な叙述でも、対話形式による創作 でもなくて、人間的な反省と現象学的な本質理解をめざす意味で特異な作品と言えよ う。
最後の「結語」は、本論文のまとめとして、私が本論文で問題にしたのは、バニヤン の神学的主著『律法と恩恵の教義の展開』で取り上げられている「あなたがたは律法 の下にいるのではなく、恵みのもとにいるのである」
(
ローマ6
・14)
の聖句に短く言 い表されている福音理解が彼の60年の生涯を貫いて語られた説教および書きあら わされた著作を貫く神学的主題であること、この問題をバニヤンは律法と恩恵のかか わりと言う仕方で解明していること、その際、律法と恩恵を区別することは福音理解 において最も重要なことであるが、区別と同時に、両者のかかわりがバニヤンによっ て終始探求されていることを指摘し、またバニヤンが救済に際して、律法の問題を通 して、良心の苦悩を深く味わっただけ、それだけますます深く福音を体得し、苦しみ の深さだけ救いの確かさも大きくなったということ、この論理的には明確にされえな い生命のありようこそがバニヤンが今日の私たちに最も伝えようとしたことなどを 挙げた。つまり、福音によって生かされた律法のいのちを捕えることこそ、律法の本 来の意義であろう。問題は律法ではなく、律法主義なのである。この観点に立って、本論はバニヤンにおける律法と恩恵の教義の関係を論じているのである。
最後に、バニヤンの作品、とりわけ『天路歴程』を通して考えさせられたさまざま なことの中で二つの点――聖書の価値と伝道者の役割――を挙げ、今日の世界と日本 の教会に対する問いかけとさせて貰った。
聖学院大学大学院
アメリカ・ヨーロッパ文化学研究科 ( 博士後期課程 )
学籍番号