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著者 柏尾 昌哉

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(1)

カツオ専業漁業とマグロ専業漁業の生起 : 日本に おけるカツオ・マグロ漁業の発展(1)

その他のタイトル Development of Bonito‑Junny Fisheries in Japan (I)

著者 柏尾 昌哉

雑誌名 關西大學經済論集

巻 5

号 2

ページ 195‑233

発行年 1955‑05‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/15764

(2)

カツオ専業漁業マご`グ

四面に海をめぐらす日本は︑夙に﹁水産国日本﹂として往古からの発展と躍進すべき必然性とを喧伝これ努めて来

たのである︒即ち︑南北に細長く連なる大小無数の島々は︑農耕可能面積は狭くとも︑その周辺には獲れども尽きぬ

躍台として発展し第一次大戦によって飛躍的に伸展したのと同様に︑漁業においても多少のづれはあるが︑明治の頭

初からアジア略奪漁業を強行して所謂﹁無敵水産業﹂を育成したのである︒かくして︑サケ︑マス︑カニ漁業の北洋

三分の一を産し︑

ロ専業漁業の生起

—ー日本におけるカツオ・マグロ漁業の発展(一)ー

カツオ漁業の南海及びクヂラ漁業の南水洋等︑世界漁業の三分の一を占有し︑世界総漁獲の

ヨーロッパ罐詰市場を独占する帝国主義漁業国日本が形成されたのである︒而もそれは多数の小漁

民層︑漁家層の犠牲の上に構成された上からの逆ピラミッドであった︒その故にこそ︑世界随一の漁獲高を誇り続け

て来た日本漁業が大正以来は絶へず激しい矛盾に悩み抜いたのである︒それは︑生産部面への国家権力介入とそれに 海の幸を湛へ︑その開発は天意︵﹇日本精神︶とされていた︒それは立遅れた日本資本主義が日清日露の両戦役を跳

(3)

196 

奪︑横領は一層苛酷となり︑ 伴う国家資本の役割の増大とによる国家独占資本主義移行の過程において益々顕著となった︒即ち︑

日華事変以後はこの牧奪︑横領が拡大再生産され︑蔽いがたい矛盾は国家独占資本主義 一般漁民層の牧

の成熟化とともに益々露呈されるに至り︑遂には戦時崩壊期へと連なるのである︒敗戦は日本漁業をどのように変革

したであろうか︒答は実状がそれを物語ってくれる︒敗戦後一貫してとられた政策は大資本中心の日本漁業復興政策

であった︒再び華々しい世界の脚光を浴び始めた日本漁業は︑実は漁業のスター巨大資本の復興であり︑その繁栄は

又もや中小漁業と広汎な漁民層の没落の上に打立てられようとしている︒このような日本漁業の推移の中でカツオ・

マグロ漁業が如何なる地位を占め︑如何なる役割を演じて来たかを考察するのが本稿の問題である︒

現在の所謂カツオ・マグロ漁業の生成は比較的新しいことで漁船の動力化以降のことである︒同じ南方系漁業であ

つてもカツオ漁業とマグロ漁業は別々に生成し発展して来た︒

先づカツオが日本漁業の最初の立役者として登場す

る︒戦国時代の兵食として︑江戸時代の生ガツオ及びカツオ節として︑その存在は華々しいものであった︒そしてそ

れは主として沿岸漁民層による小規模の釣漁であった︒これに対しマグロ漁業は江戸時代元禄頃に西南方面に発生し

も領主経済の消滅は全体的に漁業における資本主義の発達を促した︒こ4

に ︑

た高度の生産力を持つマグロ大敷網による部落共同体漁業を起点として文化文政頃に至って始めて繁栄期を迎へたの

である︒そして︑か4る網漁の出現は︑その高度の生産性と協業的性格及び漁獲物加工技術の発達と連なって一種の

資本制協業的漁業へと向つて行った︒併しこの資本制協業的漁業は充分に発育しなかった︒

極めて多くの封建的関係を引継いだ明治政府の漁業政策は︑本質において旧い生産関係の承認であったが︑それで

カツオ漁業とマグロ漁業はその高度の

商品性の故に︑資本制協業的漁業として発展の可能性が与へられた訳である︒而も︑それはマグロ漁業とカツオ漁業

(4)

の合同によって一層促進された︒更に漁船の大型化と動力化はそれを必然にしたかと思はれた︒だが︑このような上

と言うのは︑北洋を中心とする遠洋漁業が︑国家資本と連なる大資本を擁してへ内外漁場の独占を凄惨に推し進め

たからである︒それは遠洋のみならず国内沿岸をもくまなく蔽う程のものであった︒運搬︑加工︑貯蔵︑販売等のす

べては大漁業資本によって独占された︒

これに対して︑沿岸漁民層は主として定置の大型化で対坑し︑中小漁業は沖合への出漁を拡大強化した︒ここに多

くの中小資本によるカツオ・マグロ漁業が編成されるに至った︒生産力の高い大資本漁業に対坑するには︑中小漁業

カツオ釣を中心に操業することは出来ず必然的にマグロ大網漁法が中心を占めて来る︒こ

4

に所謂現在

のカツォ・マグロ漁業が発生するのである︒

併し︑大資本はこのカツオ・マグロ漁業をも看過するようなことはなかった︒即ち大資本自ら巨大な規模で沖合遠

洋残すくまなくカツオ・マグロを追つて出漁し始めたのである︒そしてこの傾向は戦時中に一時中断されたが︑敗戦

後は益々激しさを加へて来ている︒而も政府の漁業政策は大資本復興政策である︒昭和ニ︱年の﹁中型カツオ・マグ

ロ漁業取締規則﹂

J の公布は︑明らかにこの傾向を示すものであった︒

而して︑昭和二七年︑マ・ラィンの漁区制限撤廃は行詰りつ4あったカツオ・マグロ漁業には起死回生の妙薬とな

った︒併しマ・ラインの不合理な制限にゆがめられて来た中小資本のカツォ・マグロ漁業は︑七〇屯から百屯未満の

中型漁船を凝集せしめ︑俄に遠洋には乗出すことが出来ず︑事実上は大資本を徒に太らす結果となってしまった︒今

や︑遠洋のカツォ︑マグロを追つて︑大資本が︑崩壊に瀕した中小資本が︑漁村の希望を一手に担った協同組合が︑

向化︑産業資本化は満足に育たなかった︒

(5)

カツオ漁業の生起

カツオ

( E u t

h y n n

p e u s

l a m y

s )

とその生態

アヂマ等があるが︑同一種類に属しているので紛らはしいこ

ハガツオは普通カツオの中に入れられており又カツオの名称があるが︑種類

は別のものである︒中で最も多く漁獲されて来たのはマガツオで︑

る︒マガツオは最大︑体長四尺︑目方四五貫匁に達するが︑大体︑体長二尺︑目方︱二貫匁が普通である︒遊泳は敏

捷活澄且つ巧妙を極め︑摂氏十九ーニ四度の水温範囲を有し

・ 1 1 0

ーニ三度の水温を追つて深海上層部を群遊する︒そ

の群遊状態を所謂ナムラと称し次の数種類に呼び分けられている︒

アカトロ︑︑ヽ・・・・・・土用中にはカッオが円形を画いて沖合を涅遊することが多く︑望見すると淡赤色を提している︒これ

をアカトロ︑と言い︑夏季七八月頃のカツオ漁の中心をなすものである︒

クヂラマワツ⁝・・・ヒシコを取巻いたカツオ群を更にクヂーフ群が取巻いたものである︒この群は餌付きが非常に良く︑

日本漁業第一の発展期に厘々大漁をもたらしたのはこのクヂラマワツに遭遇したときが多かった︒ とはない︒ソウダガツォ︑

( 1 )  

カヅオはサバ科の魚に属し︑ [

I

(‑)  に鏑を削つているのである︒ カツオ専業漁業とマグロ専業漁業の生起︵柏尾︶

普通にカツオと言うときは大低これを指してい 六六

(6)

199 

J O

月頃︶迄行はれ︑往古から盛んに漁獲されて来た︒ 南は薩摩より北は奥羽︑

北海道に至る太平洋沿岸に饒産

ハネコムラ・ヽ・・・・多数群集して飛躍し乍ら淮遊するもので︑速力が速く︑餌にも付かず︑釣漁は勿論網漁も難しい︒

る︒やはり餌付きが悪く釣漁は難しいが︑発達した現在のカツオ網漁では或程度漁獲出来る︒

アマコダテ:・⁝ツラスを追つて来るものを言う︒性とんど夢中の状態でンラスを喰い決して餌に付かない︒

. .

 

:・・深海に散在しているものが突然上層に浮上して来たものを言い餌に付かない︒

卜⁝⁝七八月頃イワンを追い集めて周囲からこれを喰う魚群をエゴトと言い︑厘々沿岸近く迄群来し︑餌付 き良く釣漁が極めて容易である︒生産手段の甚だ幼稚な往古のカッオ漁は主としてエゴトを対象として行はれ

たようである︒

カツオは暖流魚である︒そしてその分布は︑普通には︑第一に日本近海及び南太平洋︑第二にアメリカ大陸太平洋

( 2 )  

岸︑第三にヨーロッパ及び地中海となっているが︑その他にも南アメリカ特にペルー及びチリー︑オーストラリア及

? 3 )  

びニュージランド︑印度洋︑アフリカ南部等は優秀な未開発漁場としての可能性を持つている︒

日本列島へは︑初春︑暖流の中心地帯両側に分布する暖流系水帯と共に近海を北上し︑秋に入って暖流系水帯が東

従って日本では︑

北海区より消去すると同時に南下する︒

し︑その時期は南方に早く︵二三月日頃︶から北方に晩く︵九︑

(1

)

カツオの簡単な生態を迦べたものは非常に多いが︑詳細な記述は意外に見当らない︒差当り次の書物を参照した︒

丸川久俊︑小金丸噌次郎︒佐々木繁太郎

カツオ専業漁業とマグロ専業漁業の生起︵柏尾︶ サイラナガジ:・:五月ないし八月頃迄の間︑風下に向つて静かではあるが︑

かなりの速度で進行するカッ沐群であ

(7)

堀されている︒ カツオ専業漁業とマグロ専業漁業の生起︵柏尾︶

田中茂穂﹁魚﹂

翠山︑牛田﹁*族誌﹂

(2

)

檜山義夫﹁水産学概論﹂.一七五頁

(3)

今田清二「ホ産経済地理」――八—―ニニ頁

鑑動期ーー古代カツオ漁業

カツオの食用史は日本民族の歴史とともに太古蒙昧のときから始まる︒と言っても︑ロ碑も伝説も伝はらない先史

時代のことは︑想像を中心としたものであって正確な実証では勿論ない︒併し︑先人種の遺物が散在する地表或は遺

物が埋もれている地層及び貝塚から発見される石器︑土器︑人骨等の類は︑当時の食用史を或程度迄的確に物語って

石器時代の遺物のうちで最もその時代を現はしているものは貝塚と言へよう︒古代人が日当りの良い海岸を好み︑

( 4 )  

そこから居住し始めたこと及びその主要な食品が貝類であったことは既に明らかにされている︒原始時代の幼稚極ま

る採取法でも貝類ならばたやすく採取され得るし︑程良く塩分を含でんいる上に火の調味がなくても良いから︑当時

は誂へ向きの食料品であった筈である︒かくてその貝殻は他の獲物の骨及び頭とともに部落全体の隆盛のバロメータ

ーとして渦高く積み重ねられたのである︒貝塚からは当時の部落の繁栄の跡を示す魚骨︑獣骨︑角細工等の器具が発

A

、その前期ー'—未分化の時代

9

(8)

る ︒

日本では貝塚が最も多数発見されたのは関東︑奥羽であり︑

れない︒だから︑

し︑骨鈎や角骨製の鋸で釣獲或は鋸突されたかも知れない︒

たことは疑う余地がない︒ その水産物遺骨は︑

ウナギ︑

トセイ等極めて多種類にわたっている︒中でも︑特にカツオが食用貝塚のうちからマグロ︑

シャチ︑ラッコ︑

カヂキ︑クヂラ等と一緒

に移しく発見されていることは︑既に当時の人々の主要食品の一端を担つていたことが想像される︒早くも黒潮の流

( 5 )  

を追つて沖合に出漁したとは到底考へ得べくもないが︑当時でも︑或るときは暖流が岸に強く寄るときがあり︑カッ

オの大群が海岸に来襲したことも履々あったに相違ない︒そのときは何尾かは砂上に跳ね上り手攘みにされただろう

ともかくもカツオが極めて太古から人々に食用されてい

この時代にカツオは如何にして料理され︑如何にして食用に供せられたであろうか︒石器時代に既に料理用

の土器及び煮物用器具が発見されているから︑火食は当然考へられるが︑火食以外は如何にして食せられたであろう

か︒普通の魚類一般では︑第一に生食で始まり︑第二に自然発生的な干物食が起り︑最後に意識的人為的干物食が行

はれるのである︒ところが︑貝塚から発見されたカツオの骨は生食されたものであって干物の骨であったとは考へら

カツオが千物にされたのはこの時代以後のように見える︒だが︑実は一般食品が生食から干物食の

コースを歩んだのに︑カツオのみは干物食から生食への逆コースを歩んだのではなかろうか︒理由は次のようであ

カツオの遺骨は関東地方︑奥羽地方の貝塚から発見された︒これ等の地方はアイヌ民族の居住地で︑文化的に遥か

に遅れ︑長い間石器時代が継続した︒ところが︑文化的にこれ等の地方より先に開けた関西地方︑九州地方の貝塚か

カツオ専業漁業とマグロ専業漁業の生起︵柏尾︶

(9)

( 6 )  

らはカツオの遺骨は発見されるに至っていない︒とすると︑

南部日本へは近寄らなかったのか︑

と言うものは甚だしく変化して暖流が寒流に変ると言うことは考へられないから︑カツオはこの時代にも暖流に乗っ

て津遊していたに相違ない︒又喰べられなかったと言う説についても︑他の多種多様の魚族が食用されているのに独

りカツオだけが太古から排撃されたとは到底考へられない︒ここに︑当時の人々がカツオを﹁生よりも千物﹂で喰つ

たと言う推論が成立つ︒つまりカツオを干物としてのみ食用に供したから貝塚からその遺骨が発見されないのであっ

て︑東北地方に住んでいたアイヌ民族は生食したからその遺跡からカツオの骨が発見されたのではなかろうか︒現今

( 7 )  

でも南方土着民のうちには︑カツオを生食せず千物にして喰べるところが散在する︒この土着民即ち南方民族が日本

( 8 )  

へ移住して来たかどうかは一応措くとしても︑同じく南洋方面から暖流に乗って日本を訪れるカツオに対して食用に

関する南方時代の古い知識が再生されてその慣習が日本で行はれたことは充分想像され得ることである︒

貝塚の遺跡によって︑

さもなくば喰べられなかったのか︑

アイヌ民族は生食したが︑ カツオ専業漁業とマグロ専業漁業の生起︵柏尾︶

﹁伊勢雑記﹂にも﹁かつを この時代にはカツオは関東及び奥羽地方のみを灌遊して

どちらかであると言うことになる

C

併し海潮

日本民族は意識的に生食しなかったと言う推論が一応成立した︒

然らばその干物はどんなものであったか︒千物には脂︵きたひ︶朦又は膊︵仕しし︶楚割︵すわり︶の三方法があり︑

( 9 )

1 0

)  

脂は﹁謂至千蜘也﹂とあって丸千のことであり︑腸と膊は﹁謂=割乾魚一也﹂とあって所謂三枚に卸す程度に魚肉を

( 1 1 )  

乾したものであり︑楚割は﹁割︳︳魚肉ノ乾一之其状如︳一条枝︳﹂とあって魚肉を細長く切つて千したものである︒偶然から

恐らくは発見されたであろう千食法は最初は丸干から出発したが︑二三尺もある肥満型のカッオは逐次分割して千さ

れるようになったのではあるまいか︒石器時代にその何れであったかは詳かでない︒

カツオは昔では余り生食されず︑むしろ千食が中心であったことが判明した︒

(10)

といふ魚は古へは生にて食せず︑乾したるばかり用ひしなり﹂とあり︑木下謙次郎は﹁美味求真﹂で﹁上代にはカッ

オは毒ありて.之れを食はず︑専ら千し堅めたるもの4も食ひたり﹂との昔の伝説を引用してこの間の事情を物語って

( 3 )  

いる︒漁業に係する神話としては例の有名な﹁山幸︑海幸の物語﹂が引合に出されるが︑このときの主役はタイであ

つて︑カツオはその他大勢の魚の中にあって︑主役として登場する機会を失った︒カツオが日本で最初に現はれるの

(13) 

は﹁古事記﹂である︒﹁⁝堅魚を上げて舎屋を作れる家有り⁝・:﹂の堅魚とは大体カツオを乾したものと考へて良い

( 1 4 )

1 5

)  

であろう︒次は﹁日本書紀﹂に出て来るもので︑景行天皇の五三年上総でカツオが釣れた記録がある︒頑魚︵カタク

ナウォ︶と名付けられた魚は正しくカツオを指したものと思はれる︒

﹁万葉集﹂に出て来るもので︑浦島次郎の伝説を詠む中に﹁⁝水江の浦島児が︑堅魚釣り︑鯛釣り︑七日まで︑家に

( 1 6 )  

も来ずて︑海界を過ぎて榜ぎ行くに⁝﹂と記されている︒このように上代においても既にカツオは数多く釣獲されて

(17) ﹁日本においては考古学から見ても漁業を二分して北方型漁業と南方型漁業とするのが合理的﹂なのであって︑

の二つは性格を異にする︒北方型漁業と言うのは︑東北から北海道にかけて専ら北方の寒流海域に棲息し或は春から

夏にかけてこの海域に酒遊して来る魚族又は海獣を目的とする漁業で︑それはアイヌ民族の生業であった︒これに対

し南方型漁業と言うのは中国︑四国︑九州と言う主として西南日本を中心とする漁業で︑その活動領域は今日のよう

に自ら暖流海域に局限されている︒ところで︑カツオは暖流魚であるからその漁業における比重は南方型漁業では重

く北方型漁業では軽くなる︒ いたことが推知出来るのである︒ ﹁日本書紀﹂に次いで古いカツオは

(11)

偏重していることは︑その遅延性とサケ︑ 物の類が発見されているのはこれを示している︒

けれども︑当時の漁業の態様に関しては︑資料に乏しく明確には捉へることが出来ない︒唯︑初期貝塚から発見さ

れる遺物は︑先づ漁猟物であり︑次いで狩猟物及び植物性食物であって大勢としては﹁まだ漁猟民︑狩猟民︑農耕民

C 1 9 )  

という分化は起つていない﹂と見るのが至当であろう︒

は︑山野の猟を朝狩︑夕狩にむかうていへるなり﹂とあるのはこの間の事情を物語っている︒かくて︑舟︵独木舟︶

及び漁具も極めて幼稚で︑その方法も単純な手掴み︑突漁及び釣漁が主であり︑南北両漁業において著るしい差はな

かったようである︒

中期以降になると︑西日本の暖流海域に逐次漁業中心地帯が形成され始める︒羽原又吉氏はこれを﹁第一松島湾︑

石巻湾を中心とする一帯の沿岸地域︒第二霞ケ浦︑利根川︑東京湾を包括する沿岸地域︒第三渥美半島︑志摩沿岸を

包括する伊勢湾沿岸地域︒第四紀伊半島から瀬戸内海沿岸地域︒第五筑豊沿岸から有明湾にかけた沿岸地域︑第六若

G 2 0 )  

狭湾から能登半島へかけての沿岸地域︑第七能登湾︑富山湾を一.括する沿岸地域﹂以上の七地域とされている︒これ

等は何れも南方型に属し︑そのうちカツオは主として一から三に当る地方で漁獲された︒漁法も北方型が停頓してい

るのに較べて︑潜水漁法や網漁法が始められている︒中期以後の西日本貝塚から当時の土器と共に石錘︑土錘及び編

先づ石錘について見るに︑漁業用としては網の重りとして考へねばならない︒その分布で東北が少なく且つ山手に

マス属を対象としたことを示す︒南方はかなり多いけれども︑当時の粗雑

極まる漁網︵当時の漁網は︑れ手綱︑剌網︑曳綱等があったと思はれる︶で敏活なカツオが漁獲される可能性は先づ考へら

れない︒次に︑槍︑鋸であるが︑これ等は関東以北主として北海周辺に多く︑ラッコ︑オットセイを漁獲対象とした ﹁無名抄﹂に﹁海士の舟にて伊佐利するを夕狩といふとある

(12)

ものと思はれる︒最後に︑釣針は多種多様のものが各地で発見されている︒従って釣漁が比較的日本全地域にわたっ

て行はれていたことが判明する︒中でもカツオ漁の場合は釣漁中心であ.ったことは︑

れば当然であろう︒

その敏捷性或は沖合性を考慮す

人類は︑所謂原始的移動の後もその自然に対する受動的性格から引続いて第二の移動を始める︒だが︑この段階に

なると同じく採取経済ではあっても︑既に漁猟と狩猟は分離し︑海猟民は次第に海住民としての生活態度を形成する

( 2 1 )  

に至る︒前記の南部中心地帯の形成はこれである︒尤も当時の漁猟民は未だ一ないし二種類の魚類のみをその対象と

する程には生産力が発展しておらず︑従つてカツォも尤より特殊なカツオ漁業の一'範疇をなすものではなかった

C ,

B

、その後期ー~分化の時代

既述のように太古未開時代のカツオは主として千物として食用され︑生食されたのはアイヌ民族においてのみであ

(22) 

った︒何故︑生食されなかったかについては二つの説がある︒その一っは食傷説である︒カツオは熱帯地方に棲息す

るものであるから︑漁法未発達の時代には暖流が岸を洗うような土地で主として捕へられたが︑人体にさしてカロリ

ーを要しない熱帯地方では︑生食はそれ程の必要性もなく従って又余り行はれなかったらしい︒他の説は︑悪疫流行

からカツオの生食が禁ぜられたとする疫痢説である︒だが︑何れにしても正確とは言へない︒

南方で禁止されたカツオ生食が︑日本民族にもその慣習が長期間続いたとすれば︑それが破られたのは如何なる理

由によるのか︒尤より想像の範囲を出ないが︑結局においてカツォも正当な生理的慾求が慣習を打破して生食に赴か

されたのであろう︒ではその時期は︒先づ︑石器時代以後であることは正確である︒最初に現はれる記録としては︑

カツォ専業漁業とマグロ専業漁業の生起︵柏尾︶

①副食物から調味料へ

(13)

206 

注目せねばならない︒ カツオ専業漁業とマグロ専業漁業の生起︵柏尾︶

が公布されている︒この中でサバ及びニシンの食用は禁止されたが︑ 聖武天皇の天平九年六月︑悪疫の流行に対し太政官から東海︑東山︑山陰︑山陽の諸国司に対して食物に関する注意

( 2 3 )  

カツオに対しては﹁堅魚之類煎否皆好﹂とある︒

要するに︑カツオは煎ても生でも食べて良かった訳であり︑既にカツオ生食が普遍化されていたことは明瞭である︒

一方この時代になるとカツオは主食品或は副食品の他に調味料としての性格を帯びて来る︒食事に甚だ贅沢で選り

( 2 4 )  

好みの強かった小野小町でも堅魚の煮焦しはその献立の中に入っていた︒当時の上流では既に調味料としてカツォ

( 2 5 )  

︵恐らくは干物︶が広く愛用されていたのであろう︒大宝令の﹁海産物調賦の制度﹂の中にもカツオは重要な地位を占

これによると堅魚が三五斤︑煮堅魚が二五斤︑堅魚煎汁が四升となっていて︑堅魚は鰻に次いで上位に扱

はれている︒堅魚煎汁とはカツオの煮汁を更に煮熟したものである︒これが煮塩鮎の四斗に対しその十分の一︑四升

分が一人前となっているから︑当時の海産物調賦のうちでは分量から言っても最高級品に扱はれている訳である︒か

くて︑太古には単に素千にされたのみで食用に供されて来たカツオがこの時代になると煮堅魚となって現はれ︑現在

のカツオ節製法に梢々接近するが︑主体は依然副食物としてのそれであって︑後代の純粋な調味料としてのカツオ節

とは非常な距離があった︒併し︑

ともかくもカツオが当時最高級の調味料として貴重な存在となりつ

4

あった事実は

( 2 6 )

2 7

)  

ところが王朝時代末葉には︑史上有名な肉食禁止令が公布される︒即ち熱烈な仏教信徒である白河天皇は天下の殺

(28) 生を禁じ︑崇徳天皇は漁網を焼却したりした︒かくてカツオは﹁上流社会の間には殆んど姿を消すに至った﹂ようであ

それはあく迄表面的且つ部分的現象に過ぎなかったのではなかろうか︒因に︑平忠盛の家臣が禁を犯して捕へ

( 2 9 )  

られたとき﹁朝制恐る

4

に足らず唯主人の厳科畏ろし﹂旨の申述べがある︒国禁であるから公然と食膳へ上す訳には 七四

(14)

C I J  

事実はその以前から︑彼等は海人として沿岸︑島々に特殊な漁猟部族としてその生活を営み︑かねて氏上ー後の連︑

宿禰︑首ーの純率の下に氏人および多少の種族的半奴隷労仇者をも交へた沿岸島々の散在的集団生活者であったと考

(31)︵

8 2 )

3 3

)  

へられる﹂だが中央地帯と地方地帯とでは漁民の態様は既にかなりの相違を示しており︑より古代的なものもあれ

( 3 4 )  

ば︑封建的農奴労仇民への転化を示しつ4あるものもある︒が︑何れにしても専門的な漁民層の成立されつ4あった

過程と言はねばなるまい︒そして︑それは封建社会の到来を準備するものでもあった︒

そして︑平安以後は︑そのような過程の中で︑王臣︑権門︑寺社の山野独占ならび厨の増設︑酷漁濫獲は次第に激

(35) しさを加へて来た︒かくて先づ国内の河川湖沼の魚族を枯渇し︑本来の漁猟民は各地の浜浦に放浪を始める︒これ等

は所謂悲観的な海人生活に入るのである︑地方漁業特に専業漁民である海人漁業は次第に定着的な衆落生活に入り︑

(3

6)

 

魚獲品の商品流通が開始されるに至る︒

カツオは古代から食用されその歴史も極めて古い︒それは古代前期即ちまだ漁猟民︑狩猟民︑農耕

(37) 

民と言う分化すら起つていない﹁古代家族﹂の時代から盛に行はれていたようである︒この﹁古代家族﹂が成長し始

( 2 )  

﹁当時の漁民といへば部民の一種である海部︵甕族︶がその主体であって︑記紀にも海部を置くの記事を見るが︑

以上のように︑

ではなかろうか︒

七五

(30) 

行かなかったが︑他方︑却てこれがより高度の加工技術を促したゞろうし︑又当時は朝廷の威力もさして強力でなかったから︑全体的に見ればカツオの漁業も消滅は勿論しなかったゞろうし︑大きく衰退したとは考へなくても良いの

(15)

カツオ専業漁業とマグロ専業漁業の生起︵柏尾︶

と移行し︑更に苛酷な牧奪は︑ める中期以降になると︑漁業は逐次分化し始めて若千の中心地帯が形成されるが︑牧奪の激しさは逐次血縁的な要素を打破して地縁的な海人属としての団結をもたらした︒それは氏族共同体の崩壊から半血縁的半地縁的家族共同体へ

( 3 9 )  

これを分裂して村落共同体の源流となったことに対応するものと思はれる︒農業の定

立にも拘らず当時の生活状態のものでは︑漁業は相変らず重要な地位を占めていた︒カツオ漁業もまだカツオ専門の

漁業として独立するには至っていないが︑それでも当時の海産物中で中心的地位を占めていたことは疑を入れない︒

(4)ハ﹇トランド︑中井竜瑞訳﹁原始民族の宗教と呪術﹂参照 桜 井 秀

︑ 足 立 勇

﹁ 日 本 食 物 史

﹂ 参 照 鈴 木 二 郎

﹁ 未 開 人 の 社 会 組 織

﹂ 参 照 萩 原 竜 夫

﹁ 食 物 の 歴 史

︵ 新 日 本 歴 史

︑ 通 世 史

︶ 一 四 二 頁 参 照 喰

﹁ 常 陸 風 土 記

﹂ の 那 賀 郡 の と こ る に も

︑ 原 始 人 の ハ マ グ リ ば か り を 食 っ た 話 が あ る

e

父︑丘浅次郎氏は次の六一種に及ぷ貝類を報告されている︒

﹁ く ろ い は お ほ け ま い ま い

︑ ひ だ り ま き ま い ま い

︐ ひ と す ぢ ま い ま い

︑ 山 だ に し

︑ あ は び

︑ つ め た が ひ

︑ え ぞ た ま が ひ

︑ き さ ご

︑ た ん べ い き さ ご

︑ す が ひ

︑ や か う が ひ や っ し う が ひ

︑ あ か に し

︑ か じ め し ひ

︑ い

4

だたみ︑れいし︑くりふれいにし︑

さざえまがきがひ︑みくりがひ︑ころもがひてんぐにし︑お牲たにし︑ばい︑きんしばい︑ながにし︑竜宮螢︑うみにな︑

に な

︑ お ほ へ び が ひ

︵ 以 上 巻 貝

︶ い た や が ひ

︑ ほ た て が ひ

︑ あ ふ ぎ

︑ は い が い

︑ さ る ぽ う

︑ あ か が ひ

︑ ま て が ひ

︑ べ ん け い が ひ

︑ た ま き が い

︑ お き し じ み

︑ か が み が ひ

︑ と り が ひ

︑ あ さ り う ば が い

︑ み る

< ひ

︑ し ほ ふ ぎ わ す れ が ひ

︑ か り が ね

︑ さ く ら び ひ

︑ お ほ の が ひ

︑ ま し じ み

︑ し ほ ぷ き

︑ ば か が ひ

︑ は ま ぐ り

︑ い が ひ

︑ た ひ ら ぎ

︑ な み ま が し は

︑ い た ぼ が き

︑ え ぞ がき︑かき︑︵以●二枚貝︶うに﹂

(5

)

宇 田 道 隆

﹁ 海

﹂ 九

0

頁︑に次の如く述ぺられている︱)

﹁一般に暖流が強いか弱いか︑岸から遠いか近いかという事がカツヲの漁獲の豊凶を著しく左右する︒暖流系統の水が岸に 強 く 寄 せ る 時 季 及 び 寄 せ る 年 ほ ど カ ツ ヲ は 豊 漁 で あ る

︒ 船 が 小 さ く て 沖 へ 出 ら れ な か っ た 昔 の 時 代 に は 暖 流 系 統 の 水 が 岸 へ

七六

(16)

寄つて来るのを只管待って漁をした︒﹂

(6

)

例えば岸●博士の研究報告には次の四二種の水産動物が挙げられているが︑この中に所謂カッオの名は見当らない︒

﹁<ぢら︑まつかう<ぢら︑さかまた︑いるか︑ごたう<ぢら︑あらざし︑さめ︑うみがめ︑いか︑いわし︑えび︑かさご︑

あかえび︑とびえび︑だほぎす︑にしん︑かたくち︑ます︑こひ︑あかうお︑うなぎ︑ぼら︑すゞき︑へだひ︑まだひ︑く ろだひ︑あかだい︑まあぢ︑ひらあぢ︑たら︑ぶり︑さば︑まぐろ︑そうだかつを︑さはら︑ひらめ︑いしがれ︑ひ︑こち︑

ふぐ︑とらふぐ︑しび﹂

その他に烏居竜蔵︑丘浅次郎︑八木奨三郎︑後揺守一︑西村真次の諸氏の報告の中にも︑早く開けた南部日本の貝の貝塚か らはカツオの遣骨は発見されない︒

(7

)

ジャワ島及びその周辺の島々でカツオの生食を継対にしないところが散在する︒

(8

)

この点に関しては枇めて問題が多く意見も一致していないようである︒

薩 間 生 大

﹁ 日 本 民 族 の 形 成

﹂ 参 照 新日本歴史学会﹁原始及び古代﹂参照 安 田 窓 太 郎

﹁ 人 間 の 歴 史

﹂ 参 照

( 9

) 国 史 大 系

﹁ 令 義 解

( 1 0 )

国 史 大 系

﹁ 令 義 解

( 1 1 )

東大文学部︑狩谷被斉﹁箋註和名鉛﹂

( 1

2 )

﹁ 古

事 記

( 1 3 )

﹁ 古

事 記

( 1 4 )

この点に関しては︑神社の棟木の上に横に並ぺられている堅魚木と堅魚との因縁をめぐつて論争されている︒貝原益軒の

﹁日本の釈名﹂及び本居宣長の﹁古事記伝﹂には堅魚未の由来を﹁常食とする堅魚は屋根の上で乾かされた﹂から当時住宅 に似せて神社を建てる場合には堅魚の上つているま

4 作られたのであると言っている︒これに対し︑伊勢貞丈は﹁堅むる木 の義﹂であると言い︑高橋健自氏は﹁埴輸家によって堅緒木の両端に葛又は梧縄の類をかけて︑棟木に結びつけたるもの﹂

と諒明する︒

カツオ専業漁業とマグロ専業漁業の生起︵柏尾︶

(17)

カツオ専業漁業とマグロ専業漁業の生起︵柏尾︶

併し︑一般に堅魚が食用された時代において︑鑑魚の字が古事記に記されていたことは全然別なものを指しているとは考え られない︒又︑食品貯蔵の点から考えても︑堅魚を多量に貯えてある家を勢力家と見倣して天皇がマークした旨の古事記の

記載も堅魚即ちカツヲを解釈なければ瑾解しがたい︒堅魚は正しく食用カツヲであった︒

( 1 5 )

﹁日本書紀﹂上

(16)

( 1 7 )

弱原又吉﹁日本古代漁業経済史﹂七六頁

( 1 8 )

現原叉吉﹁日本古代漁業経済史﹂七八頁

( 1 9 )

(20)

現原又吉﹁日本古代漁業諾済史﹂︱ニ︱頁

( 2 1 )

萩野由之﹁漁業考﹂に当時の消革がかなり詳細且つ正確に述ぺられている︒

( 2 2 )

東京鰯節問屋組合﹁かつをぶし﹂ニーーニニ頁

( 2 3 )

﹁続日本紀﹂上

( 2

4 )

(25)

この賦役令はそれから一六年後︑元正天皇の養老二年に改修され︑それが今日迄残されている︒これは日本各地の物産を 記録する延喜式より二百年近くも前のことで︑一綾商品の歴史から見て最も古いものである︒この海産物調賊の制は次の通

﹁凡そ調に雑物を轍さは︑正丁一人に簸十八斤︑堅魚三十五斤︑鳥賭三十斤︑螺三十二斤︑熱海鼠二十六斤︑雑魚楚割五十

斤︑雑ー百斤︑紫菜四十八斤︑雑海藻一百六十斤︑海藻一百一1一十斤︑滑海藻二百六十斤︑海訟ー百三十斤︑謳海藻一百二十

斤︑雑謄六斗︑海藻根八斗︑未滑海藻一石︑蚊詐二斗︑胎貝昨三斗︑白貝す俎三斗︑辛螺頭打六斗︑胎貝後打六斗︑海細螺一

石︑棘甲嘉六斗︑雑凹五斗︑近江吋五斗︑煮塩年魚四斗︑煮堅魚二十五斤︑堅魚煎汁四升︑次丁は二人︑中男は四人にて正

丁一人に準す︒﹂

(26)﹁続日本記﹂下

( 2 7 )

家永三郎﹁上代仏教思想史研究﹁三五ー六九頁

(18)

7 1

( 2 8 )

山口和維﹁日本漁業史﹂︱二

0

(29)

( 3 0 )

加工調理技術の発達から種々の工夫をしてカツオを継続使用されたと思はれる

9

京都檜家の料理は公然とカツォ節が使用

されているが︑この時代からの遺風であろう︒

(31)

弱原又吉﹁日本古代漁業経済史﹂一七四ー一七五頁

(32)

この点に関しては現原氏の﹁前褐書﹂に極めて詳述されているから参照されたい︒

( 3 3 )

﹁常陸風土記﹂に︑内陸農耕民と海辺漁民の子女が歌垣に会合して歓楽を盛す有様が記されているが︑これは農漁民の混

(34)

﹁出雲風土記﹂﹁肥前風土記﹂には既に特殊漁民層の成立していたことが記されているし︑﹁登後風土記﹂にも穴居土蜘 蛛の話があって既に海人族の存在が示されている︒又︑木島甚久氏﹁日本漁業史論考﹂にもこの時代の海人族存在を主張さ

れている︒

( 3 5 )

対象は内地河川湖沼であって︑﹁日本記略﹂に﹁池を乾かして魚を捕る﹂とあり︑﹁類衆国史﹁に﹁山城の民︑藻を巻て 漁す﹁とあり︑又﹁続日本後記﹂に﹁遂には家人︑奴婢の類まで寺社の池

J H に於て﹁事漁網﹂ふうになったとあって何れも

酷漁を示している︒

( 3 6 )

( 3 7 )

藤間生大﹁氏族制について﹂廃研一四の三・三参照

( 3 8 )

藤間生大﹁日本古代国家﹂参照

A

︑その前期ー│'独立の時代

鎌倉幕府成立以後︑

カツオは再び公然と桧舞台へ乗出した︒兼好法師は鎌倉時代の上流の様子を次の如く描写して

カツオ専業漁業とマグロ専業漁業の生起︵柏尾︶

(19)

ずつと食されていたものと見て間違いない︒ 此魚おのれら若かりし世までは︑

上流の盛大な饗宴にはこれ等の料理が配膳されてい はかばかしき人の前に出づること侍らざりき︒ カツオ専業漁業とマグロ専業漁業の生起︵柏尾︶

﹁鎌倉の海にかつをといふ魚は︑

申し侍りしには︑

理︑生鯰料理あり︑ この境には雙なきものにて︑

ず︑切捨て侍りしものなりと申しき︑ 頭は下部を食は

( 3 9 )  

かやうのものも︑世の末になれば上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ﹂

当時︑鎌倉における支配層の生活が京都に比して甚だ卑俗であることを諷剌したものとすれば︑

( 4 0 )  

室町時代に入るとその食生活は一段と進歩した︒特に騎奢を誇った将軍義満の時代には︑衣食住文化が一大異彩を

放ち︑殊に食物の調理技術は飛躍的発展を遂げた︒当時の発達した料理には︑﹁鰐汁︑鯛鯉の刺身︑川駿料理︑鯰料

その切り方に能切︑

烹雑︑盛り方に蟹の甲盛︑鮒の重波︑

して文献に出るのは︑ この頃もてなすものなり︑それも鎌倉のとしよりの

カツオは下流では

ゑり切︑作り方に汁︑剌身︑膳︑糸腑︑苔焼︑蒲焼︑松笠いか潮煮︑ぬた雑︑

(41) 鰹の岸盛り等﹂があり︑

た︒かくてカツオも発達した生食或は干食で又調味料として大いに愛用されたのである︒

この豪奢な上流の饗宴は長くは続かなかった︒群雄割拠の戦国時代が到来し︑食料法も一変して所謂兵食技術が発

達した︒カツオはその中心になるのであるが︑その加工法は現在のカツオ節に似たものであった︒カツオ節が兵食と

( 4 2 )  

その文字はないが﹁古事記﹂が最も古く︑全然出て来ない鎌倉時代を飛んで︑戦国時代におい

てゞある︒その縁起に関しては次の通りである︒

﹁鰹鮪は毎年夏に至て︑西海より東海へ来る︑伊豆相模安房の浦につり上る初鰹︑しやうぐはんなり︑天文六年の

夏小田原浦近く釣舟お低くうかび︑鰹をつる︑此よし北条氏綱聞召︑小舟にめされ︑海士のしはざを御見物︑珍事の

0

(20)

当時の信仰心の強さを考へるならば既にカツオ釣はここの中心漁業となっていたに相違ない︒このように最も良好な

カツオ漁場を追つて上代中期以降は漁業中心地帯が形成されるが︑それは更にここの海住民をして排他的独占的な団

結の方向へ導いて行った︒即ち﹁この自然的関係は彼等をして岬会合なる一団を成立せしめると共に︑精神的な結合

力としては︑大島︑串本︑出雲の触頭三ケ浦のもつ産之神信仰である通夜島上陸海神を以て潮岬の御崎明神社に勧請

らカツオ釣は盛であったらしい︒歴史時代に入ると︑ 漁法と産地と漁民

当時のカツオは主として釣獲であり︑若千の網獲が行はれたようである︒そしてその生産地は︑発達の最も顕著で

あった紀伊を中心に︑駿河︑伊豆︑相模︑安房︑土佐等であった︒

紀伊の﹁大島浦はかつては潮岬半島と合体した一大島であったが︑後代に分離して︑その中間に苗賀峨︑通夜島の

( 4 4 )  

二島と幾多の暗礁や突角を残したというのが地質学の見解のようである﹂とあるように︑現在の如く分離しない前の

所謂熊野灘は暖寒二流の交流する極めて豊饒な漁場であり古代海人属あこがれの地であった︒従ってここでは往古か

(45) ﹁水崎神の神慮﹂によりカツオの豊凶を知る文書が見られる︒

( 2 )  

貴重な役割を果したことは疑がない︒ とあれ︑カツオは戦国時代において武士の間に珍重され︑.又︑

御遊︑盃酒に興じ給ふ所に︑鰹︱つ御舟へとび入たり︑氏網喜悦におぼしめし︑勝負にかつうをと︑御祝詞な4

らず︑即時酒肴に用ひらる︑然におなじき七月上旬︑上杉五郎朝定武州へ発向のよし告来る︑氏綱出陣︑同十五日の

夜いくさに氏綱討勝て武州を治め給ひぬ︑其比は四方に敵有て︑毎日戦ひゃん事なし︑氏綱賞翫し給ふ件の鰹は︑勝

(43) 負にかつうをともてはやし︑常に支度し︑諸侍戦場門出の酒肴には︑鰹はもつばら用ひ給ひぬ︒﹂

カツオ節︵その性質は判明しない︶が携帯兵食として

(21)

2 1

( )  

し︑その神力加護の下に鰹漁の独占的牧獲を営まんとした﹂のであり︑それが後に侵入して来る熊野勢力と鉢合った

駿河湾一帯は所謂天然の湾入をなし︑往時からカツオ︑マグロ︑イルカが来襲することが多かった︒従ってカツォ

の主要漁法である釣漁の他に︑網漁もかなり早くから見出すことが出来る︒その網漁も天然の湾入を利用する比較的

( 4 7 )  

大規模のそれである︒即ち一種の立網の類で湾口を立切つて︑魚類の脱出を防ぎ︑それから各種の漁網︵取網︶で漁

( 4 8 )

4 9

)  

獲する所謂建切網漁業であって︑それは古く天文或はその以前から行はれていたようである︒このような建切網漁業

は一定の自然的条件のもとにおいてのみ成立する特殊な漁業であるから︑自然と独占的形態をとるようになる︒ここ

•(50)

に網度株の制度が発達し︑社会経済的に重要な意義を持つようになる︒この網度株は海陸結合の未分化のもので︑そ

の分離は後代であって︑未だ漁業としての企業牧益的方向を顕著にしていない︒

又︑伊豆もこの時代に漁業が開眼した︒元来この地方は南方型漁業の限界点に位し︑半農半漁属か海人属か詳らか

G 3 )  

ではないがそれでも職業的漁猟民が比較的早くから住居し︑回遊するカツオ︑マグロを釣獲していた︒併し﹁・⁝・・建

久中源頼朝幕府ヲ鎌倉二開キ武門兵馬ノ権ヲ掌握スルニ及ヒ東国ノ漁業漸ク開クルニ至>リ︑殊二頼朝ノ覇業ヲ超ス

ノ前伊豆安房ノ沿岸二在リテ漁民ヲ使役ンタルヲ以テ特殊ゾ漁権ヲ附与センモノアリ⁝⁝︑東北地方ノ土豪ノ割拠シ

(51) 

テ各其地方ノ漁業ヲ開始ンタルモノアリ・:

. .

.  

﹂とあるように︑真に漁業が発達したのは鎌倉以後のことと思はれる︒

当時はすぺてが沿岸漁業であり︑こ4の漁法も中心は釣漁︵江戸湾ー﹁義経記﹂︶で︑他に内湾砂浜地帯において若千

の地曳網漁業︵相模湾︶が行はれていた程度であった︒それも自己生産による単なる生業に過ぎなかった︒だが︑室

町以降になると︑鎌倉を中心として人的物的交流が激しくなり︑従って社会経済的生活は一般的に向上し︑市が成立

~.

~

.—-·

←  ‑ ‑ ・ ‑ - ~

(22)

•室町期に一時的繁栄を示したカツオの食用史は、引続いた戦乱によって専ら兵食の方法へと切換へを余儀なくされ

方法を著しく進歩し﹁刺身によく︑霜降り︑ た︒併しこの兵食は江戸時代に入ると本格的調味料としてのカツオ節発生となって開花した︒又︑他にカツオの利用

( 5 4 )  

ナマリは夏季の賞美たり﹂とあるように広く生

食されるようになった︒

カツオ節は︑物資の大量消費地として登場した新開地江戸においては︑遠隔地運搬に最適の保存食料品であ

り︑又味を良く栄養価も高かったので︑上部から下部に至る迄広汎に愛用された︒既に徳川時代には贈答商品中の随

一となっていたことは︑町屋敷を売買したときに町中の家持全部にカツオ節を贈るのが江戸の慣習であった旨﹁寛政

(55)

5 6 )  

の町法﹂に記されてあるのを見ても明かである︒又有名な﹁天保大食会﹂にもカツオ節は登場している︒

もともとこの時代迄のカツオ節は単に素乾にするか︑煮熟後日乾又は火乾されたものであってその香気も充分でな

<又保有も長期間は堪へることが出来なかった︒ところが延宝二年に至り︑紀州甚太郎が土佐の字佐浦で燻乾法を用

B

カツオ節の発生

( 1 )  

カヅオ専業漁業とマグロ専業漁業の生起︵柏尾︶ き根拠はない︒

するに及んで︑鮮魚介類の需要は一段と喚起され︑漁業は大いに発展したのである︒そして既述のように鎌倉武士の

カツオ愛用と相侯つてカツオ釣漁業は重要な地位を占め︑若千の特権授与による保護政策も現はれるに至った︒

土佐カツオが盛んになるのは後の徳川時代である︒上代において既に土佐湾内の須崎︑浦戸︑宇佐沿岸の入江で︑

海人属によってカツオの漁獲が行はれ︑それは中世を引続いて行はれたが︑︑近世迄はさして盛行されたと考へるべ

ナマリに作とてもよし︑

(23)

漁業を専門的な一種の漁業として確立するに至ったのである︒ 併し︑何分にも技術の秘密を旨とした封建時代のことであるから︑ カツオ専業漁業とマグロ専業漁業の生起︵柏尾︶

いて略々今日の状態に近いあらゆる点で従来のものより優れたカツオ節製造に成功した︒甚太郎は長期保存を主眼に

ナラ︑クヌギの薪をもつて燻し︑可能な限り水気を抜いてあたかも木の端のように堅いものを造りあげた︒これは食

生活の豊富化に伴うカツオ節の副食物から調味料への動きに照応してすばらしい発展を示した︒この傾向を看破した

播磨屋佐之助︵回漕問屋︶は甚太郎のエ夫研究を援助しその販売に努力したのである︒

併しこの燻乾方法も当初は浦の掟として秘伝とされ公開はおろか国外に漏れることは厳重に戒められていたから︑

その伝播は遥か後代の土佐与市に負うのである︒与市により安房節︑伊豆節︑焼津節更には薩摩節︑肥後節︑肥前節

( 5 7 )  

と伝播して行ったのである︒その系譜は次のようである︒

•••…•土佐………阿波、.伊予

i:·

………・熊野…·ぶ…・・安扇………••三陸、常磐•……伊豆………・・・焼津

特権的にその利益を享受されるに過ぎなかった︒だが︑ 一般に広く公開されるには至らず︑特定の浦で

カツオ節製法の発達はカツオ漁業の急速な進展を促し︑この

次に︑カツオの生食である︒江戸の風俗画家にとつて︑日本橋と魚河岸とカツオを担った天秤棒の姿は切り離すこ

との出来ないものである︒カツオは江戸ッ子を代表する魚河岸の花形であった︒初カツオが如何に当時賞美されたか

(58) は世話本の中を見ても良く判る︒

参照

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