フリードリヒ・ヘルダーリン (その7) 小説『ヒュ ペーリオン』第二章『ターリア断片』及び諸々の遺 稿についての考察及び第三章完成作
その他のタイトル Friedrich Holderlin (7)
著者 高尾 国男
雑誌名 独逸文学
巻 21
ページ A249‑A319
発行年 1977‑03‑25
URL http://hdl.handle.net/10112/00017816
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前章で小説﹃ヒュペーリオン﹄の成立史を叙べた際に一寸触れておいたように︑この小説が完成されるまでに
は︑数多くの﹃断片﹄と遣稿とが先行している︒そしてこれ等はいずれもそれ自体において︑詩人のその時々の思
想・感情を表現している点で︑独自の価値をもっていると見られる︒従ってこれ等の﹃断片﹄と諸々の遺稿とを考
察することは︑いわば詩人自身の精神発展の跡を探れるものとも見られる︒
ウール先ず﹃ターリア断片﹄︵新ターリアの第四巻︑第五号︑一七九四年十一月一日日附︶の形式は﹃原ヒュペーリオ
ン﹄の形式が書簡体であったように︑また完成作が同様に書簡体でもあったように︑書簡の書き手ヒュペーリオン
が︑友人ベラルミーンに宛てた五通の書簡とその序文とから成り立っている︒この形式は勿論詩人の独創ではな
ウールい︒﹃原ヒュペーリオン﹄が﹃ドナーマー伯﹄の書簡体を模していたように︑また同じく詩人が愛読したのであろ
うと想像されるルソーの﹃新エロイーズ﹄と︑ゲーテの﹃若きヴェルテルの悩み﹄と同じように︑この﹃断片﹄も
また書簡の形式をとったのであろう︒しかし︑既に成立史のところで叙べておいたように︑就中︑当時のヘルダー
リンに最も強い影響力をもっていたシラーの﹃哲学書簡﹄がその直接の模範となったことは︑この﹃断片﹄の形式
上ばかりではなく︑思想の上から見ても首肯されると思う︒またこれも既に成立史のところで叙べておいたところ
であるが︑当時の詩人の書簡︵一七九五年三月上旬から四月上旬︶によっても明らかであるように︑詩人はこの﹃タ
ーリア断片﹄によって設計上の統一と︑作全体がもっと深遠に人間の世界に沈潜してゆくことを期待していた︒要 第二章﹁ターリア断片﹄及び諸々の遺稿についての考察
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形式が詩人の独創でないと同じように︑思想もまた彼自身の創造ではない︒シラーが﹃哲学書簡﹄を﹃新ターリ
ァ﹄誌上に公にし始めた一七八六年の同じ年に︑カントは﹃人類史の始源に関する憶説﹄︵三三日農嵐9日シロ毎口㈹
Q閂冨①易呂g照曽冨呂誌︶という論文で︑ルソーの所謂文化厭世観に対して︑教化によって不断に高まりゆく文
化の福音を提唱している︒シラーの﹃哲学書簡﹄は勿論カントに負うところ多く︑一七九○年シラーが更に公にし
た﹃モーゼの記録による最初の人類社会について﹄︵塵言四の働冨尉島①閂騨①富29言口婦開房o富津ロmggg
F凰蔑且gQg日○恩豚ggご禺屋ロ号︶は︑本質上カントの思想を詩的に表現したにすぎない︒そしてまたシラ
ーの信奉者であるヘルダーリンがシラーに負うていることは何等の異論を挾む余地はない︒というのはヘルダーリ
ンは人間の道徳的職能を︑失われた人間性の調和を再びとり戻すことだと解釈しているし︑シラーもまた人間存在
の二つの理想を対立せしめているからである︒
ここで︑当時ドイツ思想界における人類発展に関する思想の概略を回顧して見よう︒カントも︑またその影響を
受けたシラーも︑古代ギリシャの世界を目して︑人類発展の最初の時期と見ていた︒この見解がテュービンゲンの
若い哲学者達によって熱狂的に迎えられたことは既に知っている通りである︒しかし更にそれ以上に重大なこと
は︑個々人の道徳的意志の働きによって実現されねばならないと︑カントが説いた所謂人類最終の約束は︑当時の
精神力をいかに強く刺戟することはできても︑カントの考察は全体として極めて抽象的であることはまぬがれなか
った︒しかし︑ヴィンケルマンの﹃古代芸術史﹄によって新しく脚光を帯びてきた埋もれた過去のギリシャの時代 するにヒュペーリオンという哲学的で︑しかも詩人的な憂欝な人間が︑過去の体験と思惟とを回想的に物語る一種の告白文学の形式をかりて︑詩人自身の過去の体験と思想観念とを最もo目需凰巴な表現法をもって書いたものである︒
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多くをとり入れたことも既に述べておいた︒ が︑学院の若い学徒達の観照にとって大きな力となってきた︒かようにしてヘジオートやプラトーンの神話にいたく印象づけられた彼等は︑来るべき黄金時代として︑根源的な自然のこの邦土を数千年の眠りから目を醒ませよう 黄金時代の信仰は︑いろいろな著作によって広められ︑時代の共有財となった︒例えばオランダの哲学者フラン
ツ・ヘムスターホイス
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の著書﹃アレクシスまたは黄金時代について﹂
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は一七八七年にヤコービの翻訳によって出版され︑
りではなく︑弟に送っている︵一七九三年暮の手紙︶︒なお浪漫派の詩人ノヴァーリスもこれを愛読し︑その一部分
一七八六年公にされた﹃人類史の始源に関する憶説﹄においてカントは︑
簡素と無邪気の支配した古代ギリシャに復帰する念願の無価値なことを説いている︒
詩人によって讃美された黄金時代の幻影にすぎない︒そして彼等によって讃美された黄金時代とは︑奢俊淫蕩のみ に没頭している空想的な慾望からの解放であり︑自然の単なる必要の満足であり︑万人の等しい平等であり︑人類
一言にしていえば︑憂愁のない︑夢のうちに無為にすごした人生を純粋に楽しむ ことである゜ーロビンソンや南方の島に旅立つ人々の心を刺戟する憧憬である︒﹂
ーの部分的に間違った考え方によって惹き起された思想︑即ち文化厭世観に反挽していることは既に述べておいた 通りである︒ところがルソーの影響は当時ドイツにおいては抜き難いものがあった︒彼の著作は熱狂的に読まれ︑
若い精神的な世代の思想︑感情を形成する力は著しいものであった︒学院の学生もルソーと対決して︑彼の思想の
﹃ターリア断片﹂の総括的思想はその序文に現われていると思う︒その爾余のものは︑根本においてこの唯一の
永遠の平和であらねばならない︒ を翻訳までしていることは有名である︒ と
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カントのこの考え方は︑
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﹁この空虚な憧れは︑幾多の これをヘルダーリンは読んでいるばか
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思想の分析にすぎないI﹁われわれの生存の理想には二つある︒その一つは極めて簡素な状態で︑この状態にあ
︑っては︑われわれの諸々の要求が︑自己自身とわれわれの諸力とそしてわれわれと交渉のあるすべての人々と︑自︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑然の単なる機構によって︑われわれの関与もなく︑相互に調和するのである︒他は最高の教養の状態で︑この状態︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑においては︑われわれの要求や諸力が無限に多様化し︑強化されても︑われわれがわれわれ自身に与えることので︑︑︑︑︑︑︑︑きる機構によってわれわれの生存の理想が行われるであろう︒﹂︵第三巻一六三頁︶
こうした人間生存の二元的対立の状態はカントや︑その感化を強く受けたシラーの思想にも見られるところであ
る︒詩人の言わんとするところを解釈すれば︑われわれの生存には二つの理想がある︒その一つは自然のままの満
足の状態である︒この状態にある人間は︑彼をとり巻く自然と彼自身とが直ちにかなえることのできないような要
求を知らない︒またこの状態におれば︑人間の力は過度に緊張もしないし︑またふぬけにもならないで︑いつも簡
単な満足な活動をつづけられる︒これが人間の幼年の状態である︒しかし前世紀の初めにおけるドイツ人の偉大な
指導者は︑押しなべてかような状態を同時にまた人類の原始の状態と見徹していた︒従ってこうした自然のままの
調和という最高の完成が︑古代ギリシャ人の生活のうちに見られると信じていた︒他の人間生存の理想は幼年に次
いでくるところの状態である︒この状態になると︑精神上の力と要求との内的発展が更に進んでくると︑単純な自
ハルモニー然ではもはや人間を満足させ活動させるに十分でなくなる︒ここにおいて︑調和というより高い目標が︑理想とし
て人間の眼前に現われてくる︒もし人間が︑己れのうちに生き生きと躍動している一切の力が互に完全に調和ある
完全体を作りあげ︑その結果高まった精神的要求に︑高まった精神力が全く即応し︑かくして人間の完全な満足
が︑それ自身によって達せられるほどもその力を発展させていたならば︑この理想は到達しているであろう︒発展
する人間は︑この目標に到達することなく︑この目標に向ってもがいている︒しかしこの目標は同時に︑全人類が
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目がけて努力している目標でもある︒これ即ち人類教化の目標である︒﹁人間が︑全般的においても︑個人におい
ても︑ある点から︵程度の差はあれ︑純粋な簡素から︶他の点へ︵程度の差はあれ完成せる教養へ︶通ってゆく常︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑勺規を逸した軌道は︑その本質的な方向から見れば︑いつも同じのようだ︒﹂︵第三巻一六三頁︶
この原文の意味に解釈を施せば︑あらゆる人間生活の両支点l天真な︑簡素な調和と︑最高の教養によって到
達され︑完成された理想的調和との間にある道は︑たとえその軌道はそれ自体エクセントリックな高低に富み︑そ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑して各個人はこの本質的なものと種々な関係を有するにしても︑本質的に個人並びに全人類に対して同一である︒
さてこの本質的なもの︑即ち全人類の調和ある完成に向っている種々なる方向のうちの二三のものを︑ヘルダー
リンはこの小説﹃ヒュペーリオン﹄によって示し︑その価値と意義を明らかにしようとする︒
﹁人間は受容しつつ︑一切のものを獲得せんとし︑また人間は思惟しつつ一切のものを耐下せんとしている︒イ
エズス会の開祖ロョラの墓石には次の金言が彫ってある︒﹃偉大なものに制御せられず︑しかして卑少なものに満
足を見いだす︒﹄この金言は一切のものを慾求し︑一切のものを征服する人間の危険な側面と︑並びに人間の到達
しえられる最高︑最美の状態を示している︒そしていかなる意味においてこの金言が各人にとって価値あるかは︑
各人の自由な意志が決定せねばならない︒﹂︵第三巻一六三頁︶
われわれに安息を与える唯一のものを求めんとし︑幼年の幸ある時代のわれわれの心のメロディーに耳を傾けん
とするヒュペーリオンは︑はやくも回顧的な詠歎の言葉をもらしている︒彼は先ず心のメロディーを人間との水魚
の交わりのうちに求めた︒二人の貧しい人々が一つの心になり︑離れることのできない一つの命となりさえすれ
ば︑われ等の心の貧困も富となるように思われた︒しかし彼は名状し難い幻滅の悲哀にうちのめされた︒彼は本当
に死のうとさえ思った︒人間の存在が全くその意義を失ったときは︑愉えようのない苦痛であり︑絶滅の永続的な
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感情である︒のみならず彼はえもいわれぬ無気力に襲われた︒こうした只管な心の闇黒のうちに鎖された彼は︑突
然春の訪れに心を驚かしたけれど︑ヒュペーリオンのたましいからは生の希望も予感も次第に消え去っていってし
まった︒それでも春は青春のあらゆる光栄をまとってやってきた︒彼は窓を開き︑祭典に参ずる人のような装いを
まとって広野に出で︑スミルナの岸辺を祐裡うては︑人の歓びと自然の力を感ずる︒然しこれ以上のものを求め︑
またこれによって死から救われえなかったヒュペーリオンは︑悲しみにわれを忘れて︑友人ノタラの園に足を踏み
入れた︒ああ/︑そのとき苦しい孤独の感情と歓喜のない心を懐いた彼の面前に︑愛の尼僧のように︑やさしくも
神聖な一人の女性が現われた︒光と匂から織りなされているように︑いと霊的になよやかにその女性は彼の面前に
立った︒落ちつきとこの世ならぬやさしさとに満ち満ちた微笑を湛えながら︑神のごとき威厳を具えて︑彼女の大
きな霊感を受けた眼は輝いている︒朝焼けの光にかがよう雲のように︑春の風に吹かれて︑金色の髪は彼女の額に
浪うっていた︒この愛の歓喜に酔った彼は︑﹁ベラルミーン君/︑当時僕の心のうちに起ったこの名状し難いもの
を全部︑生き生きと君に知らせることができるといいのだが︒僕の生の悩み︑生の闇夜と貧困︑すべての乏しいこ
のうつし世はどこへいってしまったか︒勿論︑解放のかような瞬間は︑尽きざる自然が己れのうちに把握している
うちで至高︑至福のものだ︒それはわれわれの酔生夢死の生活の永劫にも匹敵する︒僕の地上の生活は終った︒時
間はもはや存在しない︒解放され︑蘇生した僕の精神は︑その類縁と根源とを感じた﹂︵第三巻一六七頁︶と書い
ている︒この女性こそメリーテと呼ばれ︑ツモルスの寂しい谷間から流れでるパクトーム河の岸辺の生れで父はギ
リシャ人の現状を忌んで︑既に永い間スミルナからこの地に移っていた︒母は曽てイオニアの華で︑ノタラの親戚
にあたる︒自然の素晴らしい像︑偉大な芸術家が創造した遺物はヒュペーリオンの眼を悦ばせてくれたが︑それ等
のものは概ねわれわれの憶い出のうちに色槌せてしまう︒ただメリーテの像のみが︑それと類縁なあらゆるものと
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は色づき︑柵なくもその土地は安全に護られて︑侵される憂もなく︑大地の永遠の春と雲もない空︑その空に輝く
太陽とやさしい星々の外に何も知られていない平和なアルカディアのように︑メリーテの心と精神との聖殿が私の
眼前に開けている︒メリーテノ.ああメリーテノ.神々しいものよ/︑﹂︵第三巻一六七頁︶ヒュペーリオンは永遠
におけるメリーテとの再会を期待して︑こう書いている︒﹁僕は永遠の存在のある時期に彼女に再会するだろう︒
きっとだ/︑互いに類縁なものは︑互いに永遠に離れることはない︒﹂︵第三巻一六七頁︶
ヒュペーリオンとメリーテとノタラの三人の間にはますます生命と精神とが燃えてきた︒春の夕︑彼等は園の木
蔭に立って古代イオニアの詩人︑ザフォーやアルケーウスやアナクレオン︑特にホメーロスについて語りあった︒
メリーテの口吻には何の虚飾もなく︑態とらしさもなく︑この世ならぬ言葉を多く語った︒特に二人の間には曽て
ヒュペーリオンが経験したことのなかったほどの理解が成りたった︒そのときの感激をこう書いている︒﹁ああ︑
ベラルミーン君よ/・僕は彼女をどんなに理解したか︑そして彼女はそれをどんなに喜んだか/︑彼女の偶然な言
葉が︑どんなに僕の心の中に思想の世界を喚び起してくれたか/︑われわれの思惟と詩作のこの静かな合一こそは
一切の卑小なるものと虚弱なるものとを支配する霊の真の凱歌であった︒﹂︵第三巻一六九頁︶
ヒュペーリオンは独り愛の歓喜に酔いながらわが家に帰ってくる︒四辺の風物は従来とは全く違った情景を彼に
示してくる︒﹁僕の心の春は再び帰ってきた︒尋ね求めていたものを今僕は手にした︒メリーテの神々しい典雅こ
そ僕が求めあぐんでいたものだったのだ︒僕の心の中は再び明けそめてきた︒あの気高い人が僕の霊をその墓から
呼びさましてくれたのだ︒﹂︵第三巻一七○頁︶
しかしヒュペーリオンの心には真の平安は戻っていない︒それは有限の︑制約された精神をもって︑愛と認識を
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通じて無限の万有を包括しようとする哲学的衝動が︑彼の胸中に働いていたからである︒﹁僕も無限者を包括した
いものだ︒ああ︑僕はそれをしたい/︑われわれを上から押しつけ︑われわれの神聖な愛を噛る無常を絶滅したい
ものだ︒そして生きながら埋められている人のように︑僕の霊は︑それを縛めている闇に抗っているのだ︒﹂︵第三
巻一七一頁︶こういう不安は仲々癒し難いものである︒憂愁な気持ちに囚われたヒュペーリオンは再びメリーテの
許へゆく︒メリーテは次のような言葉をもってヒュペーリオンを慰めている︒
﹁あなたがどうしてこんな不思議なお方になられたのか幾度も考えてみましたわ︒あなたのようなお方が︑こう
した悩みに苦しまねばならぬとは本当にお痛わしい謎でございます︒あなたがこうした不安から免れていらつした
こころ時がきっとございましたわ︒それが現在ではもうございませんか︒精神の深みからでてくるかすかな音も︑外から︑
天上から︑そして木の枝や花からのかすかな接触でも聞きとれる心の内部のこの静かな祝祭︑この聖なる安息をあ
なたのためにとり戻すことができればいいのですが︒あたしがこうして神々しい自然の前に立って︑あたしのうち
のすべての現世的なものも沈黙してしまったとき︑あたしはしばしばどんな気持になったかをあなたに申しあげる
ことはできませんわIそういう時こそ目に見えないものがわたし達に大変近いのですわ︒﹂︵第三巻一七五頁︶
このときメリーテは黙して︑何か秘密でもうちあけたかのように︑狼狽したようだ︑と作者はそのときの状況を
記している︒そして彼女は︑苦悩の結実としての父の言葉だといって︑いつも高く評価していた名言を伝える︒
﹁平和を自分自身に与えないのに︑これを外に求めても無駄なことを心に銘じておいて下さい︒.⁝:この平和をあな
たに与えて下さい︒そして悦んでいらっして下さい︒﹂︵第三巻一七五頁︶ヒュペーリオンはここで大悟一番する︒
﹁俺は別な人間にならなければならない﹂︵第三巻一七五頁︶と︒悪霊にでも追われたように︑彼は森の中へ走り込
み︑道を迷い︑枯れしおれた草の上に身を投げだした︒
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ある日友人ノタラは︑アダマスと名のる若いティーナ人をつれてヒュペーリオンを訪れてくる︒この人物はその
名から見ても︑また古代ギリシャに熱烈な憧慢を寄せている点から見ても︑一見完成作に出てくるアダマスを髻鶚
させている︒しかし年齢から見ると完成作のアダマスは既に老齢に達し︑いわば︑ヒュペーリオンの師の役割を演
じているのに︑この﹃断片﹄のアダマスは年齢も若く︑友人としての役割を果たしている点から見ると︑寧ろ完成
作のアラパンダに照応している︒しかし勿論両者の思想︑感情や︑性格︑行動には雲泥の差がある︒
かくてヒュペーリオンはノタラや愛人メリーテと相携えてアダマスとともに旅の路に上る︒彼等はメーリス河の
ほとりなる︑ホメーロスが曽て英雄叙事詩イーリアス︵屋尉︶を謡ったという洞窟を訪れる︒彼等は盲人の詩人の
霊と︑その時代を偲んで悲歌を歌う︒彼等は深く感動する︒とりわけヒュペーリオンは心の奥深く揺り動かされ︑
メリーテは身うごきもせずじっとホメーロスの大理石の像に見入る︒彼女の眼は憂愁と感激の涙にかがやく︒あた
りは寂として声がない︒彼等は互に相触れあうこともしない︒互に目を交わすこともしない︒このとき確かにすべ
ての人の心は一つに溶けあっていただけに彼等の胸中に躍動していたものが言葉にはならなかったのであろう︒彼
等は巻き毛を切りとると︑最後にメリーテも自分のものを切りとって︑それを合わせ︑これを霊前の供物として︑
ホメーロスの胸像に献げる︒他の三人は再び挽歌を歌う︑このときヒュペーリオンの今までおち着いていた心が急
に騒ぎだした︒愛人の姿に再び見入っていると︑今までよりも激しく︑愛人に対する愛と苦悩に襲われてきた︒彼
は遂にこの場に耐え切れなくなってここを立ち去らざるをえなかった︒彼の悲しみは限りなかった︒彼はメーリス
河のほとりにおり立って︑岸辺に身を投げだし︑激しく泣いた︒彼はかすかに幾度も愛人の名を呼ぶと︑彼の苦痛
も和らいできた︒そこへメリーテが追いかけてくる︒そこに打ち砕かれたヒュペーリオンの姿を見てうち驚く︒メ
リーテは神々しい涙を流しながら︑彼女の知っているヒュペーリオンという人物の高貴な︑強い部分を識るように
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﹁しかし完全なものは︑遠い国に︑再会の と懇願する︒それは万人のうちにもあるように︑
ヒュペーリオンのうちにもある独自なもの︑金剛不壊なもの︑神
的なものに注目してくれという意味である︒︵第三巻一七九頁︶
そこへ他の人達もやってくる︒彼等は再びホメーロスの洞窟に戻る︒ヒュペーリオンは独りで更に旅をつづけよ うとする︒ヒュペーリオンは先きに大悟一番したようにここで全く別人となる︒ヒュペーリオンはかく叫ぶ︒
﹁僕は全く別人となった︒逝くものは逝かしめよ︒再び還るために去り逝くのだ︒若返るために老いゆくのだ︒
これは万物の更生︑復帰︑帰還を示す自然の法則を歌っている︒アダマスもそれにつづいていう︒
さ き
年時代の予感が消えてゆかねばならないのは︑真理として再び大人の精神に蘇るためなのだ︒前の世の美しく︑若 々しい神話︑ホメーロスやその時代の詩︑予言や啓示がかようにして散りゆくのだ︒しかしそれ等のうちに宿って いた芽は︑秋には熟れた実として現われてくるのだ︒最初の時代の簡素や無邪気の滅びるのは︑完成した文化とな ってそれが再び還ってくるためなのだ︒楽園の聖なる平和の滅びるのも︑自然の賜物にすぎなかったものが︑人類 が獲得した宝として再び花を咲かすためなのだ︒﹂︵第三巻一八
0
頁 ︶ノタラは︑素晴らしい/.素晴らしい/と叫ぶ︒メリーテは口を開く︒
たそがれ
国︑永遠の青春の国に初めて現われるでしょう︒ここにはまだ黄昏があるだけです︒しかし外のどこかでは︑聖な る朝が必ず私達のために明けてくるでしょう︒わたくしは楽しみ悦んでそれを考えています︒
大きく合一するとき︑わたし達は皆再び会えるでしょう︒﹂︵第三巻一八
0
頁以
下︶
一切の離れたものが
メリーテと別れたヒュペーリオンはアダマスと再び旅に上る︒闇夜に輝やく星のように︑古代ギリシャの世界の
墓石や廃墟の中から起ってきた素晴らしい空想や思想︑光と大地︑空と海とにとり囲まれているところでは到ると 一層心を込めて互に相結ぶために離れるのだ︒
﹁かように少 一層生々と生きんがために死ぬのだ︒﹂︵第三巻一八
0
頁 ︶
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多くの人に対する愛︑一人の人に対する愛の代りに世界に対する愛︑自然に対する愛︑真理に対する愛が目醒め
てきた︒この瞬間から世界は一層神聖なものとなったが︑一層神秘的になった︒彼は海の彼方に真理を見いだすた
めに母国を去った︒﹁遠大にして若々しい希望をもった僕の心臓はどんなに鼓動したことか/︑君以外の何物をも
見いださなかった︒ベラルミーン君︑僕は君に断固としていう︒君も僕以外の何物をも見いださなかったと︒僕達
は無だ︒僕達の求めているものは一切なのだ︒﹂︵第三巻一八四頁︶
彼は真理を見いださないで︑まだそれを予感している︒この薄明の状態にあって彼の心はしばしば爽快をおぼえ
ぺIルる︒彼はこの不可解な自然を凝視するとき︑どういうことが起るかを知らない︒この面紗に覆われた愛人の面前で
流す涙は神聖であり︑祝福されている︒彼は告白していう︒﹁夕暮の神秘に満ちたいぶきがかすかに吹き寄せてく
ると︑私の全身全霊は黙して耳を傾ける︒砿い碧色に我を忘れて私はしばしば仰いではエーテルを見上げ︑傭して ころで現われていた自然の神秘力によって︑彼の精神は強められ︑かの欠乏の感とは全く違った心を懐いて愛人のもとに帰り︑彼の胸は数限りない黄金の希望でいっぱいであった︒しかし愛人はすでに父の命令でどこかへか消え去っていた︒ヒュペーリオンが完成されたものを抱かんとした刹那にそれは消え去ってしまったのだ︒それは所有慾のためにすべての努力と観照とを忘れてしまったからである︒愛人を失ってから彼は全く孤独におちいった︒然しヒュペーリオンが求めたものは﹁一切の生けるものからの隔離﹂︵診ず癌8m①ロ冨詳ぐ○口巴庁日F①言口&需口︶
︵第三巻一八三頁︶であった︒彼は古代ギリシャ人の深い思想が生んだ尊重すべき所産を日夜沈思した︒遂に彼は
ある静かな秋の夕︑海辺のすずかけの木蔭に黙座して考えた︒﹁そのとき僕は今のようなものになったのだ︒何故
に汝は僕を愛さないのか?と杜の奥から僕を警め︑大地と海の深みから呼びかけるように思われた︒﹂︵第三巻一
八三頁︶
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は聖なる海に見いる︒すると眼に見えざるものの門が開かれ︑自分をとり巻くすべてのものと消えてゆくような気
持になる︒そのうちに瘻林の婆娑たる音が再び私を幸ある死から呼びさまし︑無理やりに私が出てきたもとの場所
に呼び戻すのである︒﹂︵第三巻一八四頁︶この薄明の状態にあって彼の心は爽快をおぼえる︒この薄明がわれわれ
人間の領分なのか︒なぜこの薄明の状態において心やすまれないのかという疑問をいだく︒ヒュペーリオンは︑彼
に生を与えるか︑それとも死を与える偉大な神秘をまだ見いだせないがどうしてもそれを見いださねばならないと
いう告白でこの﹃断片﹄は終っている︒
しかしこの神秘は完成作においては解かれたことになっている︒﹁万有と一体となることこそ神の生活であり︑
人間の天国である︒﹂︵第三巻九頁︶この神の生活と人間の天国においてこそ初めてヒュペーリオンの心のうちの二
元と矛盾l貧困と富︑物質と精神︑感性と崇高な努力︑愛と自由とは消えうせている︒
ワルタースハウゼン時代の詩人が美学上の論文を書こうとしたことは︑われわれが既に知っているところであ
る︒当時カントの道徳原理を新しく形成しようとしたシラーの解釈が︑いかにこの若き詩人に影響したか︑そして
また逆にシラーを通していかにカントの理解につき進んで行ったかを看過することはできない︒今までに幾度も引
用した一七九四年十月十日︑ノイッファーに宛てた書簡によると︑ヘルダーリンはシラーが﹃優美と品位に就て﹄
という論文で試みた﹁美なるもの﹂と﹁崇高なるもの﹂との分析を試みようとしたのであるが︑しかしシラーはカ
ントの分析を単純化し︑また他の側面からはカントの分析を複雑化したことを認めている︒そこで︑シラーがカン
トの限界線を一歩も踏み越えていないことに飽き足らなく思ったヘルダーリンは︑シラーの方法論をもって彼以上 ﹃韻文稿態﹄
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人
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引 き
入
れ
︑ そ
の﹃ファイドロス﹄を自己の思惟の出発点とした︒
シラーの美的判断の説明は︑カント流に﹁純粋抽象﹂の範囲から出発している︒彼は美を﹁現象における自由﹂
︵卑凰富津冨旦関国厨呂の言巨信︶として定義することによって︑美a開の呂含の︶と善a閉の具の︶とを同一
視して︑美と善との価値転換を行った︒この点が当時のヘルダーリンを促して︑プラトーンヘ復帰させたのではあ
るまいか︒それでなくとも彼は既に年来プラトーンには私淑していた︒特にプラトーンの愛の讃美には殆ど熱狂的
な信仰を懐いていた︒それ故批判哲学に基く美学に関心をもっていた時でも︑プラトーンは彼の師であった︒
こうした思想をもって詩人はイエーナに移ってきた︒ここにおいてカントの思想世界を改造しつつ新しい世界を
創造していた巨人フィヒテと︑新人間主義の理想である﹁美しき魂﹂︵島ののgqpのの$庁︶を説くシラーとはいか
に詩人の思想に影響したか︒たとえ両者の間には近い類似点があったにせよ︑フィヒテの世界とシラーの世界とは
決して一致しないことをヘルダーリンは感じていたに違いない︒そのためにこの二つの出発点の相反を和解せしめ
ようという要求は︑当時彼の心に起ったに違いない︒しかしまたここにフィヒテの世界と詩人の世界とを分つ限界
もあった︒フィヒテの主観主義の哲学によれば︑自我が非我Ⅱ世界を創造したものであるが︑生来の詩人であるヘ
ルダーリンは︑彼の世界はフィヒテとは違った他の基礎の上に立っていることを感じた︒既にプラトーンの愛の世
界に魅せられていた彼にとって︑世界を愛さなかったならば︑その世界は何の意味があるか︒それ故彼がその世界
を愛すことによってその世界は偉大なものになるのである︒こうした悲痛な感情をいだいて︑不満不足のうちに彼
の隻眸は再びプラトーンに立ち返っていったに違いない︒ここでプラトーンのエロスの神話﹃饗宴﹄の根本思想に
益々接近していった︒
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そうはいっても詩人はまだフィヒテの思想圏内を完全に蝉脱することはできない︒フィヒテはプラトーンの教理
を批判的に理解することを教えている︒それ故ヘルダーリンはプラトーンの教理を最も深く解釈することによっ
て︑却って彼自身の思想はプラトーンの教理以上に高まっていった︒ここでフィヒテの主観主義は﹃饗宴﹄のもつ
思想と融和して︑﹁美﹂a閉ぎぎ月︶の森厳な解釈となったのである︒
かようにプラトーンの愛の神話と︑フィヒテの人間の個人的存在の解釈とが偶然にヘルダーリンの意識に上った
とき︑彼は両者の思想の類似を感じたに相違ない︒即ちプラトーンにとって︑愛は富と欠乏との子供であるなら
ば︑フィヒテにとっては人間は無限性と制約とに向って反携する二つの本能の所産である︒そこでもしプラトーン
の神話をフィヒテの意味に解釈するならば︑人間即愛という方程式が直ちに成り立つ訳である︒これはシラーがカ
ントの道徳原理を我田引水的に解釈したように︑ヘルダーリンは︑フィヒテの主観的原理を感情の側面において偏
重することによって︑これを徹底せしめたのである︒それ故ヘルダーリンはこう思っている︒まことにフィヒテの︑︑︑︑主張するように︑われわれの感覚をもって認識する世界が︑自己の事行︵自画夢図画巳ロロ巴によって不断に創造する
︑︑︑意志の所産であるとすれば︑われわれが愛する世界もわれわれの自我の所産に外ならない︒即ち事行の所産に外な
らない︒愛は美の創造者である︒かようにフィヒテの教理に基礎をおき︑愛を美の創造者として解釈することは︑
ヘルダーリンの思惟の中心点をなしている︒
詩人の思惟のこの意義深い転向が︑﹃ターリァ断片﹄に不満を感ぜしめて︑更にこの小説の新しい設計に着手せ
しめた大きな動因を︑この点に看取することができる︒
運命と賢人とによって鍛えられ
わが若々しき感覚はわが罪のゆえに
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262
われわれは純粋に且つ神聖に保存すべきである︒ かように賢人︵ここでは主にフィヒテを指している︶の影響を受けて反自然の暴君となった主人公︵この稿態で
も︑主人公は﹁クーリア断片﹂と同じように﹁私﹂となっている︶は旅にでる︒ある日︑白樺の森の中で︑少年の
髪の毛を額からかきあげながら︑立像の側に坐している見知らぬ賢人に出合う︒しばらく経ってからその賢人は︑
旅の間にどう人間を思ったかと若者に訊ねる︒若者は答えていう│ー人間は神的
(g
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h)
であるよりは寧ろ動
物的
( ti e r is c h )
であると︒賢人はこれに応酬していう
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人間の感覚が人間的(m
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でありさえすれば︑
この問答が恐らくこの一篇の主題であろう︒作者は﹁人間的﹂という概念を︑
しめることによって︑この概念を﹁神的﹂と﹁動物的﹂との綜合として現わしている︒若者の希望によって︑
人間の高貴なる精神が
そして万古不易そうあるべきだ︒
顕現する万物の理想を 万物を測る完全なる尺度は限りなく︑ 賢人は思索したことを物語る︒ そういうものではないだろうと︒ かくてわがうちに愛は栄えることができなくなった︒ われは疑いの眼をもって受けいれるようになった いつものように母なる自然の手から受けいれたものを 自然に対して暴君となった︒
この
﹁神的﹂と﹁動物的﹂とに対立せ
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︲ 1 自 然 に 平 和 と 和 合 と を 与 え
︑
戦いの苦痛もまたいやまして苦しくなる︒
かくてわれわれは人間的慾求を殺し︑
他の人々とわれわれとを統べていた
うちなる感受性を否定する︒ 自然と戦う危険I 自己を否定して動物となる危険lしばしば彼は反抗によっても憤らず 服従させようとする内なる本能を決して半ばで満足させてはならない︒しかししばしば血まみれの戦士が意気阻喪して神々の武器を遠く投げ捨て︑無常なる必然に屈服し︑反抗する自然を抑圧するためのみに 粗野なるものを︑わが内なる神的なものに倣って形成し︑力強く反抗してくる自然を︑それが増大すればするほど︑ われわれの支配主なる精神に︑
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かくてわれわれの周囲の世界は荒野となり︑
そして過ぎ去りしものは醜い姿となって
希望なき次代の凶徴となる︒
ここにわれわれ人間と自然との戦いがおこる︒しかし自然との戦いにおいても︑自然の好意に頼ることができる
とその賢者はいう︒存在する一切のもののうちにおいて︑われわれ人間の精神とコンゲニアルな親しい精神にわれ
われは出会う︒それは表面にはわれわれに武器を向けているが︑その盾の背後に勝れた巨匠が微笑を湛えながらか
くれている︒美なるものa閉浮きロの︶はこのかくされた意味を含んでいる︒この微笑が解明されたとき︑われ
われの前に聖なるもの︑常住なるものが現われてくる︒最も卑小なもののうちに最も偉大なものが啓示される︒こ
ウールピルトれが一切の和合の崇高な原像なのだ︒また自然の美しい諸々の形態が神的なものの現在をわれわれに告げるとき︑
ただわれわれの精神をもって世界を霊化することができる︒しかしわれわれによって霊化されないものがあるか︒
若しあらば一体それは何か?これは全くフィヒテ的な思想である︒賢人はかくいう︒
われわれの精神が神々の
自由な飛翔を失い
愛は生れた︒
アプロディーテが高潮より離れた
かの日に愛は生れた︒ エーテルより地上に向って降り︑かくて貧困が過多と相結びしとき
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精神は清純なるエーテルに戻らんとして憧れている︒
この思想はディオティーマが﹃饗宴﹄において叙べているエロスの根元に関する神話の影響を受けていること
は︑カッシィーラーの言によっても明らかである︒︵同日異O閉凰蔚儲固3口ごgQB冨岸.一二○頁︶﹁それにもか
かわらずまたこの桂桔を好んで保持するものが︑われわれの心の中にある︒何となればわれわれの心の中にある神
的なものが何等の抵抗によって制約されなければ︑われわれをも他人をも感じないだろうから︒しかし自己を感じ
ないことは死である︒何も知らないことと︑絶滅されていることは︑われわれにとって一つである︒﹂︵第三巻一九 しかしまた事物や物質を意識もしない純粋な精神にとっては世界は存在しない精神の外には無が存在しているからだI今やわれわれは自己の存在の制約を感じ制御せられたる力は堪え切れずして 物質とはかかわりがない︒ 受け身でない純潔な精神は 意識とを交換したI姪桔に反抗し 美しき世界がわれわれのために︑始まったその日にわれわれのために生の貧困が始まった︒そしてわれわれは︑われわれの純潔と自由と
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バイスナーによると︑詩人がまだイェーナ滞在時代の一七九五年の一月から書き始められて︑同年の夏の初めに
突然ニュルティンゲンに帰郷してから︑その年の八月位まで書きつづけられたものが︑六章からなる﹃ヒュペーリ
オンの青年記﹄である︒この小説は形式から見て︑﹃ターリァ断片﹄や完成作が書簡体であり︑イエーナ稿態が韻
ウール文であるのとは全然異って︑﹁私﹂という若い詩人を主人公とした所謂私小説である︒またこれは﹃原ヒュペーリ
オン﹄から数えて第四番目の断片である︒ツィンカーナーゲルとマリー・ョアヒーミⅡデーゲとが第一章と第二章
とを含む前部分と︑第三章の終りと︑第四︑第五及び第六章とを含む後部分とは元来一個の完全体をなしていたも
のだと論断したのは正しい︒しかしョァヒーミーデーゲはこの断片をツィンカーナーゲルと同じように︑所謂枠小
説とは見ていない︒即ちこの小説はヨァヒーミーデーゲのいうように︑所謂私小説であることは︑今日の成立史研 五頁︶何の姪桔もなく︑自由であることは神的である︒だが何の姪桔も感じないことは動物的である︒能動的にわれわれを純粋にし︑高貴にし︑自由にする本能を否定することはできない︒さもなければそれは動物的である︒しかし他方われわれは受働的に制約されんとする本能︑受けんとする本能を否定することもできない︒さもなければそれは人間的ではないだろう︒もしこの二つの本能を調和するものがなければ︑われわれはこの反擁する二つの本能の戦の中に滅びなければならない︒しかし愛はこの二つの本能を結合する︒愛こそは至高︑至善のものに向って無限に努力する︒というのは愛の父は過多であり︑また愛はその母窮乏をも否定しないからである︒更に愛は母の助けをも望む︒かくて愛することは人間的である︒愛こそはわれわれの心の中にある不死なるものとの類縁を自然に与え︑物質の中に精神を信じようとするわれ等の心の最高の要求である︒
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﹃ヒュペーリオンの青年記﹄
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した
二元
論は
︑
プラトーン的愛によって解放されたと思われ さて︑この断片の根本思想は︑所謂哲学的論文ともいうべき第一章に遺憾なく表現されている︒即ち現世的︑人
間的なものと精神的︑神的なものとの分裂︑換言すれば地上の人間と天上の神々との隔離から起る人生の悩みであ
る︒更にこれを他の面から見れば︑人生の再側面をなしている欠乏と豊焼との対立から起ってくる諸々の闘争と敵
そしてこの人間性の二つの側面から起ってくるこの敵視的対立は︑その根源を尋ねると︑青春時代の心霊に燃え
ていた重々しい︑苦痛多い体験からでていたと思われる︒今ここでわれわれは学院時代からイエーナ時代までの詩
人を考えて見ると︑この推察の必ずしも過ちでないことを知るであろう︒当時の詩人の全精神は︑純粋に精神的な
財宝と人生の最高の目的とに向って止まない努力によって満たされていた︒そのためには彼は当時の仲間の一般的
思想から遠く離れていたし︑また彼等の日常生活からも遠ざかっていた︒然し彼も一個の人間であった︒特に孤独
と寂蓼とには永く耐えることのできない多感な詩人であった︒彼はヒュペーリオンのように人間との交わりのうち
に慰籍を求めようとして︑無限の愛と献身の心をいだいて︑しばしば仲間のもとに足を運んだ︒しかしその結果は
矢張りヒュペーリオンのように仲間から嘲笑され︑不愉快な目に合うだけであった︒
次ぎにヘルダーリンが体験し︑思索した現世的︑人間的生活の貧弱と︑精神的︑神的生活の豊焼との対立は︑勿
論キリスト教的な考え方でもあろうが︑更に詩人をしてこの対立を痛感せしめて︑優雅な詩人的情緒に重々しい思
弁的な苦痛を与えたものはカントの哲学であった︒もしカントを識らなかったとしたならば︑彼は自己の詩的創造
によってのみ︑彼自身の苦痛を救うことができたであろう︒それ故既に﹁クーリア断片﹄において詩人の心を悩ま
一切の対立と矛盾とを和解せしめるキリスト教的︑ 視とを表わしている︒ 究家がいずれも認めているところである︒
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その目的を実現することにおいて止むと︒ は
しな
いで
︑
ある
︒ フィヒテが倫理学的に克服していることを見て︑ところが今やシラーがカントの二元論を美学的に克服し︑
この
断片の根本問題の考案は益々深まってきたのである︒これによって彼は彼独自な観念論的︑汎神論的一元論に到達
しようとつとめたが︑中途にしてこの断片の完成を中止せざるをえなくなった︒さてここに注意すべきことは︑
ルダーリンが到達しようとした観念論的︑汎神論的一元論はどの程度までシェリングとヘーゲルとの影響を受けた
か︑また逆にどの程度までヘルダーリンの方から彼等に感化を与えたかを断定することは困難であるが︑少なくと
も円熟期の完成作﹃ヒュペーリオン﹄に現われている世界観は︑詩人の独自な思索の表現であることだけは明かで
この断片もまた先の韻文稿態と同じように反カント的思想から始まっている︒戦と勝利のために感覚世界と戦う
ことはカントの厳粛主義の倫理観である︒カントの理説に従えば︑人間の純粋な道徳的精神は︑感覚および感覚の
則な力'.感覚の世界ー│とに美しい和合を与えようとする戦もあるが︑ 世界とは決して和解することはできないというのである︒しかしまた純粋な道徳的精神と人間の感情を動かす無規
これは﹁美しい魂﹂という概念のうちに
最も鋭く表現されているシラーの美的倫理学である︒ところがこの青年ヒュペーリオンは︑
寧ろカント流に感覚世界よりも自分が卓越しているという感情をもって感覚の世界と戦ったのであ
る︒さてシラー流の﹁美しい魂﹂は︑ヘルダーリンが﹃クーリア断片﹄の序文で既に述べておいた人間の理想であ
る︒そのいうところを聞くに︑人間は﹁美しい魂﹂をもっていて︑かような人間は感覚の力と精神の力とが一個の
調和している完全体をなすように創られている︒従って人間の胸を動かす無規則な力に和合を与えんとする戦は︑ る ︒
シラー流に考えようと
ヘ
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運命と賢人達の教えを受けて︑具体的には自然と無縁なシラーやフィヒテ哲学の影響を受けた﹁私﹂というこの
小説の主人公は自然に対して暴君となり︑従って自然に対する愛をも喪失してしまった︒かくてまた彼はカント流
に純粋にして︑自由な精神が諸々の感覚やその世界とも和解することもできなくなったことを信じるようになっ
た︒そして人間の胸を動かす無規則の力に︑美しい一致︑和合を与えんとするシラー流の美的倫理観︑寧ろ卓越の
と口りこ感情をわが物にしようと自然と戦った︒かかる高慢な心の檎となった彼は︑芸術形成の仕事において自然がさしの
べてくれる助けと︑素材が精神に献げる覚悟とを排除するようになった︒その結果︑﹁私﹂というこの主人公は︑
人生の静かなメロディー︑家庭的なもの︑無邪気なものを受けいれる感覚を殆ど失ってしまった︒そこで落莫たる
気分にとらわれた青年ヒュペーリオンは︑不安の念に駆られて旅に上った︒ある日彼は白楊の茂っている森にある
王者のような賢人を訪れた︒ここで再びイエーナ時代の草稿に現われていた思想が繰り返されている︒賢人は旅の
間に人間をどういう風に思ったかと訊ねた︒人間は神的よりは寧ろ動物的であると青年は答えた︒そこで賢人はヒ
ュペーリオンに教えていうには︑人間の精神は到るところで無限性に迫ろうとしているし︑また一切のものの理想
的な完全性を要求している︒が︑この際人間は安息と忍耐とを失ってはならない︒また人間は目的に到達すること
なく︑単に目的に近づきつつあるという結果で満足せねばならない︒それだからとて人間は意気消沈して︑途中で
挫折してはならない︒これはフィヒテの哲学思想を思わせる節もある︒人間はまた盲目的に目的を目がけて進んで
はならない︒そしてそのために個々のもの︑有限のものの価値を低く評価してはならない︒また目的に到達する手
段である自然を軽蔑し︑絶滅しようとしてはならない︒
仮に自然が精神と全く別なものであるとすれば︑自然は精神によって創られないし︑精神は自然によって啓示さ
れない︒われわれの言語は動かされた空気であり︑人間の創造した芸術品︵彫刻︶は︑形を与えられた石である︒
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これは︑言語と芸術品とにおいては︑自然と精神とは根本別に別なものではないという関係を示している︒この思
想はシェリングの自然哲学及び先験的観念論とも相通ずるものである︒
また人間には︑永久に無常なる自然に︑われわれの精神のうちなる不死なるものとの類似を与えんとする要求が
ある︒またわれわれは万有の一部分に過ぎないという感じ︑即ち有限の感じをもっているということ︑更にまたわ
れわれは全体の一部分だけを理解しているにすぎないという感じ︑即ち制約の感じをもっているということは︑わ
れわれ自身より更に大きな全体を信仰しようとする要求がわれわれのうちにあるからである︒そしてこの有限と制
約とを人生がもっていることが︑人間の一切の宗教の源となるのであろう︒
﹁われわれの精神が神的なもののもっている自由な飛翔を失って︑エーテルから地上に降りてきたとき︑即ち豊
焼が貧困と相結んだとき愛が生れた︒アプロディーテが生れたその日に愛が生れた︒﹂︵第三巻二○一頁︶これはプ
ラトーンの﹃饗宴﹄の思想と相通ずるものである︒そしてわれわれのために美しい世界が始まったその日に︑生の
欠乏が始まったのだ︒われわれが曽て欠乏を感ずることもなく︑また一切の制約を受けていなかったとしても︑わ
れわれは純粋精神の特権ともいうべき万物に対する知足をいわれなく失うようなことはなかったであろう︒ところ
が生の欠乏が始まるとともに︑われわれは神々のもっている悩みのない安息の代りに︑生命の感情をもつようにな
った︒﹂︵第三巻二○一頁︶純粋精神を考えてみると︑それは物質には関与しないから︑いかなる人も物質のために
は生存しない︒純粋精神は一切である︒それ故純粋精神は無そのものである︒純粋精神は物を欠くことはない︒何
となればそれは希求することができないからである︒また純粋精神は苦悩を知らない︒蓋しそれは生きていないか
らである︒ところが︑われわれは今日われわれの存在の制約を感じている︒そして抑圧された力は耐え切れず姪桔
に対して反抗しているし︑精神は清純なエーテルに戻ろうとして憧慣れている︒然しわれわれの心の中には︑喜ん
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︒■718hk﹈P︐卜111トーlhlll1F︲h0︲l1
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でその桂桔に耐えるあるものがある︒何となればもし精神が何等かの反抗によって制約されないならば︑われわれ
はわれわれ自身をもまた他をも感じないであろうから︒しかし自己を感じないことは死である︒またわれわれのう
ちにおいては︑有限︵貧困︶と神性︵過多︶とは相結んで一体となっている︒われわれはまた自己を拡大させ︑自
己を開放する本能をも否定することはできない︒もしこの本能を否定すれば︑それは動物的であろう︒しかしわれ
われはまた受けいれるために制限されるという本能を高慢にも誇ることもできない︒何となればかかる本能を誇れ
ば︑それは人間的でないであろうから︒この思想は自我が能動的な本質に応じて︑反抗において自己を実証せんが
ために︑世界を自ら創造しているとするフィヒテの哲学に最も近いのである︒この二つの本能Iカッシィーラー
の用言を籍りていえば︑無限のものに発展せんとする本能a閂自国g目日ごロg&ぢぎロ︶と自己を制約せんと
リーペリーベする本能a輿弓風各国員団吊号墨口丙ロロ巴との矛盾を過多と欠乏との娘︑愛が結合する︒即ち愛は至高︑至善
リーペ リーペ
のものに向って無限に努力する︒愛の向うところは上方である︒愛の目標は完成されたものである︒何となれば︑リiべ
やからリーベ愛の父︑過多は神の族であるからである︒しかし愛はまたいばらからも漿果をつみとり︑生の刈りあとの畠から落リーペ問ソーペ穂を拾う︒そしてやさしい人が蒸し暑い日に愛に土製の壺を渡すと︑それを辞退しない︒何となれば愛の母は欠乏
リーベリーベであるからである︒これは愛の父︑過多は神性と自由な精神とをもっている人間の一側面を示し︑これに反し愛の
母︑欠乏は到るところで他人および自然によって自らが補充されることを要求する制約された人間の他の側面を示
リーペ
しているので︑愛は人間のうちに存在する二つの本能の闘を自ら調和しているからである︒﹁そして人間の精神が要求するところのものは偉大と純粋と自由とである︒従って人間の精神は決して自然の偉大に服従しない︒﹂︵第三
巻二○二頁︶しかし自然を愛することによって︑この自由にして高貴な精神は更に高尚な努力をする︒何となれば
自然に対する愛は︑制約された形式の中に存する精神であるからである︒また人間は自然と感覚世界とを軽蔑して
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