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著者 大木 昌

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高橋 源一郎著『101年目の孤独―希望の場所を求め て―』岩波書店,2013年12月,180頁

著者 大木 昌

雑誌名 明治学院大学国際学研究 = Meiji Gakuin review

International & regional studies

巻 47

ページ 137‑141

発行年 2015‑03‑31

その他のタイトル Genichiro Takahashi, One Hundred and One Years of Solitude: Seeking a Place of Hope, Iwanami Shoten, 2013, 180pp.

URL http://hdl.handle.net/10723/2346

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【書 評】

高橋  源一郎著『101 年目の孤独―希望の場所を求めて―』 

岩波書店,2013 年 12 月,180 頁

大 木 昌

およそ書評というものは,著者の意図やメッ セージなど全くお構いなく評者が勝手読みするも のだと私は思う。もっと言えば,書評にかこつけ て評者が自分の言いたいことを言っても一向に構 わないし,誤解があったとしても,それは評者だ けの責任ではなく,そのような誤解を与えてしま う書き方の問題でもある,と考えている。以下,

このスタンスで本書を見てゆくことにする。

本 書 は

8

編の ,元々は 別 個 に 書 か れ た ル ポ ル タージュ風「物語」と,著者の「長いあとがき」

から成っているエッセイ集である。通常の本は,

まず最初に全体のテーマがあり,各章がそのテー マを分担する形で構成されるが,本書はエッセイ 集という性格もあり,必ずしもそうではない。

まず

8

編のタイトルを示しておこう。①いいん だよそのままで―ダウン症の子どもたちのための 絵画教室―,②たいへんなからだ―身体障害者の 劇団「態変」―,③愛のごとく―「人間以上」の ものを愛することについて―,④電気の哲学者―

非電化工房代表の藤村靖之博士―,⑤山の中に子 どもたちのための学校があった―南アルプス子供 の村小学校―,⑥尾道―「東京物語」二〇一三―,

⑦ベアトリスのこと―子どもホスピス,マーチ ン・ハウス 前編―,⑧ここは悲しみの場所では ない―子どもホスピス,マーチン・ハウス 後編

―,そして「長いあとがき」である。

私の分類では,本書のエッセイ集は三つのグ ループに分かれる。一つは,上記の①,②,⑦,

⑧の

4

編(つまり半分)で,心身に障害をもって いるか,深刻な病を抱えている人たちの物語。二 つ目は,③「人間以上」に愛をいだかせるダッチ

ワイフの改良に情熱を注ぐ会社社長の「愛と情熱 の物語」 ,④非電化という信念に込められた非電化 工房の主催者の「非電化の物語」,⑤教えない,強 制しない,成績を付けない学校を主催する先生の,

「子供たちのための学校の物語」の

3

編である。

そして三つ目は⑥の,著者が幼少期を過ごした故 郷の尾道を訪ね,地縁・血縁社会の,文化的背景 をも含めた自分の出自を確かめる「自分再確認の 物語」である。なお, 「長いあとがき」では,身体 障害者と同様「弱い人たち」と見なされている老 人と,誰にでも訪れる「老い」の問題を取り上げ ている。この「長いあとがき」で,著者が言いた かった,結論らしきことが少しだけ書かれている。

さて,本書がエッセイ集であったとしても,そ れらが一冊の本として編まれるからには,たんな る寄せ集めではなく,読者はある程度は全体を貫 くテーマを予想する。こうしたテーマは通常,本 のタイトルに示される。本書の場合, 「

101

年目の 孤独」がメインタイトル,「希望の場所を求めて」

がサブタイトルということになる。著者は,この タイトルを付けた理由をはっきりとは説明してい ない。焼酎の有名銘柄『百年の孤独』とも,ガル シア・マルケスの『百年の孤独』とも関係なさそ うだ。あるいは,夏目漱石の「こころ」が発表さ れて

100

年目に当る今年,彼が抱えていただろう 孤独に寄り添いつつ,これから一歩を踏み出そう とする著者の気持ちを表わしたのかもしれない。

ただ,「長いあとがき」にある,「百年以上前か ら,この国は『坂の上の雲』を目指して歩んでい た」という記述から,次のように推測もできる。

つまり,百年という年月は,明治以来豊かさと近

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高橋 源一郎著『

101

年目の孤独―希望の場所を求めて―』

代化を目指してひた走りに走ってきた時間であ り,その結果日本人は本当に幸せになったのかと 言えば,むしろ孤独になったとさえいえるのでは ないかというニュアンスを伝えたかったのかもし れない。

もしそうだとすれば,これは,五木寛之が『下 山の思想』 (2011)で述べた,明治以来「坂の上の 雲」を追い求めてきた日本は,すでに坂を登り詰 め,今はゆっくりと下山への第一歩を踏み出すべ き時期にきているという認識と似ている。それに もかかわらず日本は,まだ「成長戦略」を掲げ必 死で登り続けようとしている。この状況に対する 違和感が著者の心の奥底にあったのかもしれな い。では,著者は副題にある「希望の場所」を見 つけることができたのだろうか?

この点に関して著者は,子どもホスピスのス タッフの, 「世界中が,ここと同じような場所だっ たらいいのに」という言葉を引用していることか ら,ここに「希望の場所」のヒントを見つけたよ うな印象をうける。しかし,続けて「私もそう思 う。そして,どうして,そう思えてしまうのか,

私にはわからないのである」という言葉で突然記 述は終わってしまうので,読者には(そして著者 自身にも)その意味内容は分からない。以上,本 書の主題と副題のタイトルに少しこだわりすぎた かもしれない。もしかしたら,著者はタイトルに それほどの意味を込めていないのかもしれない。

そこで以下に,内容に即して本書に収録された

8

編をみてみよう。

本書は最初から何らかのテーマに沿って書かれ たエッセイ集ではないが,著者の「思い」を推測 することはできる。身体障害や深刻な病気をもっ た「弱い」人たちの物語が

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編も占めていること からも分かるように,著者の目は,これらの人た ちに向けられている。著者は本書の出発点と到達 点を以下のように位置づけている。

ことばにすると「弱い人たちを訪ねる旅」という ことになる。 ・・・老人も子どもも障害者も,あるい は様々な理由で「弱い」と言われている人たちも,

訪ねてみれば弱くはなかった。 ・・・私のように, 「ふ

つう」の人たちの方がずっと「もろい」のではない か,と私は思った。

しかし,そもそも,なぜ著者は「弱い人を訪ね る旅」をしようと思い立ったのかが書かれていな い。結果的にそうなったのかもしれない。この問 題はひとまず置くとして, 「弱い」と呼ばれる人た ちも実は弱くはなかった,むしろ「ふつう」のひ とたちの方が「もろい」のではないか,という結 論が「弱い人たち」に関する著者の基本的な視点 となる。このような,常識とは異なる逆説風の記 述は,自分の主張を強調したいときにしばしば用 いられる手法である。ただ,この場合の逆説には 多少の無理がある。まず著者は,何をもって「弱 い人」とし,また「ふつう」の人たちであるかを 明確にしていない。著者が取り上げた人たちから 判断すると, 「弱い人」とは障害者,病を持った人,

子ども,老人などを指しているようだ。そして「ふ つう」の人とは,それらの心身の障害やハンディ キャップをもっていないということになる。

上記の意味での「弱い人」と会ってみると, 「弱 くはなかった」と言っているが,ここには論点の

「移し替え」がある。というのも,最初に「弱い 人」という場合の「弱い」は身体障害があるとい う意味なのに, 「弱くはなかった」というところで は,精神的な力,生きる力のことを言っているか らである。身体的な「強い,弱い」と精神的な「強 い,弱い」とは,密接な関係があるかもしれない が,本来は別次元の問題なのである。

重度の身体障害をもった人,深刻な病気を抱え た人は身体的に大きな負担(ハンディキャップ)

を抱えており,他人の介助なしには日々の生活さ え自分ではできない場合も多い。その意味ではこ れらの人は「弱い」けれども,精神的には「ふつ う」の人より強い「場合がある」ことは不思議で はない。つまり身体的に「弱い」ことと精神的に

「強い」ことは両立しえるし何ら矛盾しないので ある。もう少し具体的にみてゆこう。

①のダウン症の子どもたちが通う絵画教室の場

合,これらの子どもたちの,自由で豊かな想像力

を存分に発揮した絵は力強く,著者に感動を与え

(4)

たようである。もっとも,彼らは意識的に力強い 絵を描こうとか,自由に描こうなどということを 思っているわけではなく,その時のあるがままの 気分を,絵という形で表現しているのだと思う。

同様に,山下清氏は知的障害をもっているが,彼 が描く絵(貼り絵)は生き生きとして力強く見る 者に感動を与える。また,テレビでも紹介された,

南三陸で風景を描いている(知的または精神的障 害を抱えていると思われる)青年の絵も,実に力 強い。

次に②は,身体障害を抱えているけれども,劇 団を結成して活動している人の事例である。劇団 を結成し公演しているそのこと自体,自分の意志 で強く生きようとしていることの証であり,当然,

彼らは「弱い」どころか,とても「強い」精神の 持ち主だと思う。また, 『五体不満足』を書いた乙 武氏のように,両足がなく,極端に短い手しかな い「五体不満足」な体ではあるが,それでも元気 に強く生きている人もいる。

著者が, 「訪ねてみれば弱くはなかった」という とき,著者は障害者や病気を抱えている人は,不 利な状況に悪戦苦闘している「弱い」人たちであ ろうという先入観をもってこのような人たちと会 い,そして自分の予想に反して「弱くはなかった」

という印象をもったのではないだろうか。結局,

①と②に関しては, 「心身に弱さがある=精神的に も弱い」とは言えない,という,ある意味でごく 常識的なことを言っているのである。そのことは 分かった上で,著者は,こうした人たちを映し鏡 として,改めて自らの(つまり「ふつうの人の」)

偏見や誤解,そして「弱さ」に気づかされた,と 言いたいのだと思う。もちろん,障害を持ってい るひとたちすべてが「弱くはなかった」という状 態にあるわけではない。

⑦と⑧の例では,自分の命がそう長くはないこ と,死が間近に迫っていることを了解している子 どもたちが,不安や恐怖に打ちのめされることな く,精一杯生きている。死に対する恐怖心は,む しろ大人の方が強いかもしれない。著者は,子ど もホスピスにいる子どもたちの強さに,驚きと感 動を覚えたようだ。この点に関しては私も素直に

著者に共感できる。ただし,当然のことではある が,ホスピスにいる全ての子どもたちが,死への 恐怖に怯えることなく強く生きているわけではな い。

ところで,著者が会った障害者に限って言えば,

「弱い」と言われる人たちが,「弱くはなかった」

ことは確かであるが,それを一般化できるかどう かは別問題である。同様に,これらの障害者より も「ふつう」の人の方が「もろい」と一般化する こともできない。私は

3

年間ほど,心身障害児の ケアに関わってきたが,現実はかなり厳しいもの だった。その経験から,障害をもっていても「弱 くない人もいる」という程度の控え目なことしか 私には言えない。世間で常識化している事柄の逆 説に幾分かの真実はあるが,逆説はやはり「幾分 かの」真実に留まることが多い。著者自身も含め て,人は「強さ」と同時に「弱さ」も持っている のが普通である。個人的な経験から言えば,普通 の人は,内心では「強さ」よりも「弱さ」や「も ろさ」の方を強く意識していると思う。

この問題は,すでに述べたように著者がそもそ も「弱い人」とはどのような人を指すのかを定義 をしていなことから発している。人間は全て「弱 い」赤ん坊として生まれ,時が経つと「老い」衰 える。この意味で, 「弱さ」とは人間の属性なのか もしれない,という場合の「弱さ」は明確で,こ れは生物学的・身体的な脆弱性のことである。もっ とも,老人でも「強い人」はいくらでもいること も確かだ。いずれにしても,①②⑦⑧はおおむね

「弱い人だと思って会ってみると弱くはなかっ た」という,著者の言いたいことにぴったりと当 てはまる事例であるとは言える。

著者は「弱い」人たちと会うごとに,強く励ま される思いがしたと述べているが,それは「なぜ」

なのか,また, 「どのように」強く励まされる思い

がするのかは語っていない。同様に著者は, 「彼ら

は,何もできずに放り出されているように見えた

けれど,私たちにはない,もっと『強い』なにか

をもって佇んでいるようでもあった」と述べてい

るが,「『強い』なにか」とは具体的に「なに」を

指すのかは語っていない。著者の心には何らかの

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高橋 源一郎著『

101

年目の孤独―希望の場所を求めて―』

イメージがあるはずであるが,それらを敢て言葉 にしないのか,あるいは言葉で表現しにくいのか 分からない。ここは読者としては最も知りたいと ころであるが,自分で想像してください,という 書き方になっている。読者としては,ここで突き 放された気分になるだろう。

身体的衰えに加えて,ぼけや認知症を抱える老 人が,生への強い感情を持っていることもある。

以前,私は老人ホームで,メイクのボランティア をしたことがある。メイクの後,

80

歳を優に超え た 女性 た ち は 高 揚し た 気 分 で ,「 婚活 し な く っ ちゃ」と大いに盛り上がっていた。また,著者も 本書で引用している『九八歳の妊娠』(pp.79-80)

では,98 歳のおばあちゃんが,往診にくる医者に 恋してしまい,ついにはスタッフに「私のおなか に,どうも赤ちゃんがおるごたる。産んでもよか ろか」と,相談する話(もちろん想像妊娠である)

が登場する。何たる強さ,生命力だろう!

本書ではマーチン・ハウスという子どもホスピ スで,子どもが,ごく自然に死を受け入れる話が 紹介されている。私は「そういうこともあるだろ うな」と思う。著者が言及している,エリザベス・

キューブラー・ロスは自叙伝『人生は廻る輪のよ うに』 (1998,p.31)で,彼女の幼少期(4 歳のこ ろ)の,小児病院に入院中の体験を書いている。

仲良くなった隣のベットの女の子がある日「こん や,出発するわ」と打ち明け,ふたりはほほえみ を交わして,またまどろみの中にもどっていった。

そして「新しくできた友だちが出発しようとして いる旅にでることに怖さは感じなかった。友だち も恐れていなかった。夜になると太陽が沈んで月 と交代するように,それはごく自然なことのよう に思われた。 ・・・翌朝,友だちのベットが空になっ ていた」,とキューブラー・ロスは淡々と書いてい る。大人は死に対する強い恐怖心をもっていて,

キューブラー・ロスがいう「五段階のプロセス」

を経てようやく死を受け入れてゆくのに,子ども たちはそんなプロセスを経ないで,ごく自然に死 を受け入れる強さをもっているようだ。

以上で, 「弱さ」を中心テーマとした

4

編の問題 を終え,二つ目のグループを見てみよう。ここで

扱われている③④⑤は, 「弱い」どころか,とても 強い人たちだ。③の,世間からはひんしゅくを買 いそうな,女性の性的代用品であるダッチワイフ の製作に情熱を傾ける土屋氏は,世間体をも気に することのない「強い」意志を持っている人物で ある。④の藤村氏は,夥しい発明特許,それに基 づく資産と発明の才能をもっており,オール電化 や電気自動車が盛んに宣伝される風潮の中で敢然 と非電化を追求する「強い」信念の人である。ま た⑤のホリさんは,自分の教育理念を実践する学 校を経営する教育家である。つまり,これら

3

人 は,健康な心身をもち,企業や組織の経営者で地 位も財産もあり,なおかつ自信と信念をもってい る「強い人」たちである。この意味で,③④⑤は

「弱い人」たちとは対極に立っている人たちであ り,むしろ, 「こんなにも興味深い人,強い人がい るよ」という事例としてしか受け取れない。これ は私の読み方が浅く,著者は,これら

3

人も何ら かの意味で「弱い人」として描いたのかもしれな い。いずれにしても,この

3

人の物語が,なぜ,

「弱い人たちを訪ねる旅」という本書全体の文脈 の中に組み込まれ,どのような位置づけになって いて,どんな必然性があるのか,私には分からな かった。

最後に,⑥は著者が故郷の尾道を訪ねる話であ るが,ここでは昔と現在の風景を比べたり,老人 から昔の話を聞くという体裁をとっているが,実 のところ筆者は,それらを通して,自分自身に対 するルポルタージュを書いているのだと思う。そ れは,田舎から東京に出てきて都会の生活者と なっている無数の人々の一人として,著者自身が 自らの出自と現在の立ち位置を確かめ,これから どんな風に生きてゆこうかを模索する旅だったと いえる。著者はその答えを見つけたのだろうか。

著者はそれを,非常に漠然としか述べていない。

重症心身障害児・障害者の通所施設で重症心身 障害を持って生まれた赤ん坊を抱いたとき,その 子が「たじろぐほど強い視線」で著者を見つめて いたという。もちろん,その子の視線が客観的に

「たじろぐほど強い」ということではなく,それ

は著者が感情移入してそう感じた,という意味で

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ある。その時著者が感じたことは, 「どう書いても 嘘であるように思える」,とだけ述べて,結局“何 を感じたのか”は明らかにしていない。しかし,

その「何か」は「私が生涯を捧げようとしている

『文学』に似ていることだけは言える」,と書いて いる。

それにしても本書には,上に書いた「何か」の 事例だけでなく,読者が知りたい重要なことが説 明されていない場面が何回か出てくる。先に書い たように,「弱い人」と会うと感じる「強い何か」

の内容も,どのように励まされるのかも説明して いない。また,子どもホスピスのスタッフの言葉 の意味も「どうしてそう思えてしまうのか,私に はわからないのである」という謎を残したまま記 述は突然終わってしまうのである。本書は全体と して,「何が」,「どうして」,「どんな風に」,など の大事なこと,読者が一番知りたいことは語られ ない構造になっている。著者が明らかにしている のは, 「弱い人」と会って勇気づけられたこと,逆 に自分の「もろさ」に気づいたこと,くらいであ る。

著者がなぜ,こうした読者が知りたいことを書 かないのかを考えていたとき,ちょっと不適切か も知れないが,ふと,もんたよしのりが,しゃが れ声で絶唱するあの名曲『ダンシング・オールナ イト』の一節,“Dancin’ all night 言葉にすれば,

Dancin’ all night

嘘に染まる”,というフレーズが

妙にリアリティと説得力をもって想い出された。

確かに,著者が感じたことを「言葉にすれば」,そ れは「嘘に染まる」という心情は分からないでは ない。しかし,言葉で表現することを 業

なりわい

とする 小説家の著者であればこそ,そこを何とか読者に 伝わるような言葉にして欲しい。これは,無いも のねだりだろうか。

この意味で本書は,一応,外に向けたメッセー ジという体裁をとりながら,大切なことはあくま でも自分の胸の内に収めておく私的なエッセイ集 という性格が強い。それでも本書は,読者が自分 自身を深く内省するきっかけを与えてくれるとい う意味で,有意義な本である。個人的には,同じ

「弱い人」でも,心身障害者や重病を抱えた弱者

だけではなく,貧困や不幸にあえぐ膨大な数の「社 会的弱者」と会った時,著者はどんなルポルター ジュを書くのか読んでみたい気がする。

ここで,本書の主題である「弱さ」の記述にた いする私の感想を整理すると以下のようになる。

まず,人の「弱さ」について語ることには意味が あると思う。しかし,人の「弱さ」について語る ことと「弱い人」を語ることとは別である。著者 は時として「弱さ」の問題と「弱い人」の問題と を無意識のうちに混同しているように見受けられ る。人は身体的であれ精神的であれ「弱さ」も「強 さ」も両面を持ち合わせているのが普通である。

そうだとすれば,人を丸ごと「弱い人」と「強い 人」あるいは「ふつうの人」に分けることには無 理がある。従って,こうして「弱い人」に区分さ れた人と会ってみると,弱くはなかった,むしろ

「ふつうの人」の方が「もろい」のではないかと 感じたという著者の感想にも無理があると思う。

以上,色々理屈を並べてみたが,こんな面倒な ことは一切考えずに,「官能小説作家 高橋源一 郎」とも, 「日本文学史研究者 高橋源一郎」とも ちがう,生身の高橋源一郎の世界を,ありのまま に味わえばいのだと思う。

この書評を書いている

2014

8

6

日,理研の 笹井芳樹氏自殺のニュースが飛び込んできた。エ リートの「もろさ」の現れと言う人もいるかもし れないが,私はそうは思わない。私自身も過去に,

死ぬことしか考えない深刻な時期が二度ほどあっ

た。今生きているのは偶然の幸運なのかもしれな

いと感じている。一人ひとり,背負っている荷物

がちがうから,簡単に「もろい」などとは言えな

いのである。

参照

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