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最 善 の 自 己 と 即 興 の 自 己

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(1)

即興演技と感受性

『分別と多感 J と 『 マ ン ス フ ィ ー ル ド パ ー ク J 中 村 英 男

最 善 の 自 己 と 即 興 の 自 己

もしジェイン・オースティンの『自負と偏見』においての、次に述べるよう なダーシーの行為をセクシュアリティに基づいて開かれた未来に向かつて自己 を書き換える行為と考えて良いのだとしたら、それに続く作品『マンスフィー ルドパーク』に見られる自己の書き換えに対しての忌避ともいうべき態度をど のように考えたら良いのだろうか。

ダーシーは高い家柄を誇る家の当主としての自分のあり方に惇ると初めは考 えていた相手エリザベスに対しての欲望に屈し( I 我量しようとしたけれど証 駄でした。(l 8 5 ) J )その女性を伴侶として求め、さらに相手の疑心をはらすた めに自らの妹の秘すべき過去を打ち明け、ついには教え込まれそれを保持しよ うとした当主としての自分のあり方を変革し、エリザベスの望むような自分を 作り上げようとする。このようなダーシーの自己の変容を、ある程度肯定的な 意味を込めて(それは同時にそれを引き起こしたエリザベスのセクシユアリ ティの勝利でもあるのだが) r 自負と偏見』の作家は描いているように見え る。仮に『自負と偏見j においてそのようなセクシユアリテイに基つずいて行わ れた自由な、それまで認められてきたのとは異なった自己のあり方の価値が作 家によって認められ、それに敵対する保守的な要素である愛情のない財産に基 づく婚姻(コリンズ氏とシャーロットの関係)や階級に基づく蔑視(ド

ノ守一

グ夫人)等々が批判の対象になっていると考えて良いのだとしたら、同時代の

同じ社会階級の登場人物遠のあり方について記述しながら、ほとんどあらゆる

(2)

自己の書き換えに対して敵意を見せる『マンスフィー J レドパーク 1 の有り様を どのように考えたら良いのだろうか。我々はそこに描かれたものをどのように 理解すべきなのだろうか。

ダーシーがそれまで教え込まれたあるべき姿から、いわば欲望に触発されて 自主的に逸脱して新しい自己像を創造しようとするのに対して『マンスブイ}

ルドパーク j における男性の主人公エド 7 ンド・パートラムはどこまでも伝統 に固執する。彼は将来の仕事として牧師の職にこだわり、愛する女性メアリ・

クロフォードが求めるその変更を頑なに拒み続ける。このメアリークロフォー ドという女性について、エドマンドは自らの妹マライアと彼女の兄ヘンリーと の不倫の関係に対しての非道徳的と彼の感じる彼女の判断を知ってようやくそ のシニシズムに満ちた内面を認識するに至り、苦痛と共に別れを決意する。ま たヘンリー・クロフォードから強く求められながら、主人公 7ァニー・プライ スは物語の前半で見せた彼の本質から目をそらすことなしその妹メアリに恋 愛心を抱いて振り向いてくれない従兄弟エドマンドを愛し続け、世間並みに言 えばもったいないほと、の相手であるヘンリーからの求婚を頑ななまでに拒み続 ける。求婚を続けるうちにヘンリーはある意味では 7ァニーに対しダーシー的 と言って良い肯定的な変化を見せるばかりか、ダーシーがエリザベスにもたら した思恵(妹のかけおちをスキャンダルから救う]に匹敵する恩恵(兄の昇 進)をもたらすにも関わらず、結局 7ァニーがへンリーに対して最初に下した 判断は覆されることがないままに終わる。このように 7ァニーの立場にもエド マンドのあり方にも根本的な変化は生じないまま、クロフォード達がマンス フィールドパークという空間にもたらした傷をふさぐように 7ァニーがパート ラム卿の失われた印刷の地位を手に入れて物語は終わりを告げる。

ファニーやエドマンド、さらにはパ}トラム卿が具現するマンスフィールド

ノ《ークというカントリーハウスを支配する倫理と論理は明瞭である。物語全体

が描こうとする構図は、その前半でパートラム卿の不在を利用して始められた

素人芝居の試みとその粉砕によってあらかじめ予兆されていると言えるかも知

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れない。問題は演技を否認するその態度を不安の表現とみるか、真理の顕現と みるかである。レオ・パーサーニはトニー タナーを引用して次のように説明 する。

トニー・タナ}はこの小説のペンギン版のイントロにおいて、こう書 いている。 I いったん f 演技する傾向が呼び覚まされてしまうと I 、 マンスフィールドパークはほとんど破壊されてしまう。というのはマ ンスフィールドパークは人が自らの最善の自己に対して忠実であらね ばならない場であり、それに対して劇場とは、人が他の複数の自己像 を探求し試みる場だからだ。人はその両方に存在することは出来な い。」そしてタナ}はこう結論づける。 I もし自己が流動的なもので あり、それが行う行為に制限がなく、それがとう振る舞うか人が知り 得ないのであれば、生きることが瞬間瞬間の環境の示唆に従う即興の 連続と化してしまう。 J と。マンスフィールドにとっての(そしてそ れが表している文化的な価値観に対しての)大いなる脅威はまさにこ の即興による自己であり、さらに言えば人がそれに対して忠実であら ねばならないような『最善の自己 J 、などというものは存在しないの だという可能性である。(7 6 )

上に引用した批評家たちの見方によれば、マンスフィールドパークという場 が表現しているような自己のあり方は「即興による自己」に対して表面上勝利 を収めているとみえるが、その実その勝利は非常に脆弱な基盤の上に成立して おり、その脆弱さ故にこそ I マンスフィールドパーク I という作品の 7 7 ニー という主人公のあり方が「道徳家ぶって堅苦しい j と感じられるものとなって いるのだということになる。いわば「即興による自己」のもたらすあり方に よって脅かされ守勢に立たされた別の種類の自己のあり方、引用によれば最善 の自己の危機、それが r ,ンスフィー J レドパーク』において描かれたものだと いうことになる。

パーサーニ、トニー・タナ一、そして恐らくトリリングを含めた批評家逮が 一種の危機感の表現としてみたものを、オースティン学者であるパトラーは、

より短いそれ故より厳密な歴史感覚のもとで捉え、恐らくは同じ事態を逆の方

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向から眺めている。ハトラーによれば、オーステインの{午品において一見自由 で解放的な方向を目指しているように見える「自負と偏見 j が例外であって

『分別と多感 J と「マンスフィールドパーク』がこの作家の基準値である反 ジヤコバン的保守性を示しているということになる。

その見方に従えば、分別を代表し受け身の形で耐えて幸せを勝ち取る二人の 女性、 I 分~rJ と多感J の姉エリナーと『マンスフィールドパーク』の 7 ア ニー プライス

1

がそれぞれキリスト教的な価値観を具現した存在として肯定的 に描かれているのであり、いわば近代的な価値観とつながるジャコパン的な、

親仏革命的な社会の傾向の恐らく核となる自己中心性と性の解放を予感させる 即興によって産み出された自己に対して鋭い批判をもって対峠している。それ が少なくとも私の理解する限りでのパトラーの見立てであるように見える。

キリスト教的な価値観を基本的に認めるとき、人は上記引用にある言葉を使 うならば「最善の自己」の存在を認めることになる。オーステインを反ジャコ ハン的保守主義の作家と見るとき、オーステインはキリスト教的な真理が最終 的には優越する世界を描いていることになる。しかし作家が生きていた時代を より大きな地平を意識して眺めるならば、 『マンスフィールドパーク』におい て表面上勝利するかに見える保守的権威のよって立つ基盤が、現実には様々な レベルで掘り崩されている事態にたいしてオーステインが全く無自覚であった とは考えにくいように思われるのである。

そもそもマンスフィールドパークという空間に「即興による自己」の活動す る機会、すなわち演劇を行う機会をもたらしたのはその正当な継嗣である長兄 トム・パ}トラムその人ではなかったか。エドマンドという後には立ち返って

「即興による自己」を拒むに至る人物すら、一度はもたらされた演技に参加し その自由な魅力にとらわれたのではなかったか。 r マンスフィールドパーク』

という作品の中の緊張感はそもそもパーサーニ達が言うようにある種の崩壊の 予兆によるものだったと考えるべきではないだろうか。

宗教的な価値観を保証していたものが科学的探求の対象となり、疑念を持た

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れやがて否認されて社会を包含していた意味の枠組みが揺らぎ始める。これま で予想もされなかった状況が立ち現れて、基本的にはこれまでの判断の基準自 体が無効化されるような状況の下に人が置かれていく。なによりも中産階級の 勃興によりパートラム卿が事受していた様々な特権は奪い去られていくことが 予想されている。彼の嫌う「我佳、自惚れ、そういった精神の自立へのすべて の傾向 ( 2 1 6 ) J を持つ者逮が、伝統的な土地所有者であるパートラム卿のような 存在に代わって社会の実質上の支配者になっていく時代が差し迫っている。

1  9 世紀初頭のカントリーハウスに具現化されたキリスト教的な価値観とは、

ヘンリー ジェイムズの『ある夫人の肖像画』において自己の存在を追究する 女性を象徴的な意味で閉じこめようとする権威主義的な「因習それ自体 J であ るような夫、オズモンドが妻のイザベルに持つように勧める伝統に近いものな のではないか。

既に述べたように『マンス 7 イ}ルドパーク J において「最善の自己」は 様々な誘惑を経験した後に、最終的には「即興による自己」を否認しそれに勝 利するように見える。エドマンドの経験する即興的自己の側に立つメアリのあ り方への幻滅と 7ァニ}の価値の再認識は、トロッターが『自負と偏見』にお いてエリザベスがそれまでの迷妄をダーシーの手紙によって晴らされ自己を書 き換える過程をとりあげて「回心」と規定した経験の一つであると考えること が出来る ( 2 6 ‑ 2 8 ) 。

結局それは基本的には欲望を悪と見なすような伝統的共同体や権威からの赦 しに回帰するより古い形式の自己の発見、いわば是認された権威に対しての恭 順(この場合は 7 7 ニーがその権威の役割を果たしている)としての自己の物 語である。 r エマjでの女性主人公の「回心」を含め、これら 3 人の人物遠の 到達する自己のあり方は利己心故に生じた迷妄からの覚躍であると同時に非個 人的な、共同体において是認された自己への到達という意味で「最善の自己 J

への回帰である。それは共同体が悪と見なす要素、自己利益に対しての過度の

関心に当然否定的な態度を取る。

(6)

最善の自己はどういう性質を持ったものなのか。その具現である 7ァニ}の 姿をみてみよう。パ}トラム卿の不在を利用して始まった演劇計画の初期段階 で演目選択をめぐって争う周りの人々の利己心のドラマを冷ややかに観察して 面白がるという、ある意味で他を牌脱する識別力をこの女性は備えていた。

77 ニーは人々を動かす力について冷静な観察を行う。

77 ニ}は耳を傾けて眺めていたが、すべての人々を多かれ少なかれ それぞれ偽装された利己心が支配しているらしい様を観察して少なか らず面白がり、果たしてこの利己心はどういう結末を迎えるのかしら と思っていた。彼女自身の満足の為であったならば、何かが演じられ るのを見てみたいと願ったかも知れなかった。 ( 9 3 ) 。

ここで偽装された利己心と呼ばれているものが、恐らく ~p興演技的自己の本 質を示しているだろう。パトラーが演劇を行う若者達の行為について「その不 適切さは彼らが演じているという事実ではなくて、不法な欲望を満足させる間 接的な方法を見いだしているという点にあるのだ(1 8 5 ) J と言う時、この批評家 は恐らく無自覚的に即興演技と利己心との関係について本質を捉えている。欲 望が存在する。しかし正義と見なされている権威のもとでは、その欲望は悪と 見なされ容認され得ない。その時その利己心は形を変え偽装を試みるのであ

る 。

77 ニーの過敏な倫理は利己心の偽装を見逃すことがない。恐らくそれ故に こそ、この「恋人達の誓い』上演の準備の段階ではエドマンドが全く気づくこ とのなかったマンスフィールドパークに大きな悲しみをもたらすヘンリーとマ ライアの演技のなかの真実、演技に仮託された彼ら三人の欲望のうごめきを鋭

〈読み取っていたのである。

ノ〈ートラム卿という即興演技を許さない厳しい最善の自己のものもとで教育

された娘ジユリアの利己心は厳しい監視のもとに置かれている。彼女の置かれ

た状況を明確に示すようなエピソードが書き込まれている。サザトンにおいて

(7)

他の若者達が楽しそうに話しながら先にいってしまい、彼女一人話の合わない 年輩の夫人達と取り残された際のジュリアの惨めきを利用して、作者は利己心 が偽装されて与えられた役割由、ら逃れ出ることが出来ない時、{可が起こるかを 描いている。

義務として行うよう育てられた礼儀正しさ故に彼女(ジュリアを指 す。中村記)は逃げ出すことが出来なかった。同時により高次の自己 統御や他者への正当な顧慮や、自分自身の心情への知識、さらに正し さの原則、そういった彼女の教育の根本的部分を形成しなかったも の、それらのものが欠けていたために、彼女はその礼儀正しさのもと で惨めであった。 ( 6 5 )

マンスフィールドパークの一員として最善の自己としてあることを求められ て、ジュリアは礼儀正しさの中に閉じこめられる。注意したいのは、最善の自 己として最後に勝利するように見える高次の自己統御や正当な他者への顧慮を 持ったエド 7 ンドヤファニーのあり方が理想的例外なのであって、利己心を 持った存在がその利己心を表現する手段を持たないとき、人はこの場面に描か れたジュリアのようであらねばならない。つまり、 「礼儀正しさのもとで惨 め」であらねばならないのである。

最終的にマンスフィー J レドパークが経験することになる打撃、ジュリアの姉 マライアのへンリーとの不倫行為はここでジュリアの問題として語られている ことが原因となっている。マライアも又父の厳しい監視が求める「礼儀正しさ のもとで惨め J であり、そこから演技を通して抜け出そうとするのだ。

問題は最善の自己である 7 アニ}自身にもまた、他人に打ち明けることの出

来ない利己心が存在するという点である。エドマンドへの思いにおいて、ジュ

リアを惨めにしたのと同じ状況に 7 アニーは置かれている。最善の自己の具現

として彼女は自己の内奥の欲望をただ秘めておくだけで、それをいかなる形で

あれ具体化 L 踏み込んで表現し行動していこうとはしない。言い換えれば、権

威から与えられた役割から逸脱して欲望に基づいた未踏の領域へ踏み込んでい

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くという近代社会において求められる心的可動性の要素をほとんど含んでいな い自己として 7ァニーは描かれている。エドマンドに対する彼女の欲望、彼女 自身の利己心は演技という形ですら現れてこようとしない。最善の自己の本質 とは、その意味で言えば利己心に支配された世界において自分の内なる悪とし ての利己心(パートラム卿はかなり後の段階まで 7アニーと自分の息子達の関 係を望んでいなしミ)を具体化する手段を取らない、あるいは持てないというこ

とのようでもある。

7ァニーのそのような状況は、その保守性において I マンスフィールドパー クj とつながる「分別と多感』のエリナーにおいて先行して描かれていた。利 己心を感受性に偽装した相手ルーシーに自分の欲望の対象エドワードを奪われ そうになるにも関わらず、エリナ)は自分の利己心を表そうとはしない。実際 上エドワードと彼らの問題を心を闘いて語ることで解決を試みることもない。

彼女は自分の欲望の実現に対してほとんど何もしないと言っても良い。エド

i

ワードを欲望しながらその欲望を具体的に実現する行為は、エドワードと J レ ー シーの婚約という前提の前で悪として抑制される。彼女は自分の欲望の充足よ

りも、全体としての正義と当事者の幸福を願ってすらいるように見える。

エドワード自身についても同様である。彼がエリナーに抱いた思いは最善の 自己の基準に照らせば悪である。なぜなら彼は既に別の女性と婚約している身 なのだから。それ故エドワードはそれを積極的に具現化しようとはしない。欲 望がありながら、彼はその欲望の前で立ちすくむ。

実のところ、この立ちすくむ姿、彼の自信の無さこそ彼を実質上の廃嫡に至

らしめた彼の存在の根本でもある。彼の母親が望むような(そして「マンス

フィールドパーク I においてメアリがエドマンドに望むような)欲望の解放さ

れた世界において求められる栄達に彼はほとんど関心を持っていない。この栄

達への不適格と無関心こそ、エドワードとエドマンドという存在によってオー

スティンが表現しようとしたものだと言えるかも知れない。彼は自分の欲望す

る女性(エリナー)を前にして正しさにこだわって立ちすくむように、新しく

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産み出される世界での職業選択においても立ちすくむ。エドワードとエドマン ドという保守的な価直観が一見肯定されている世界で主人公の女性の相手に遊 ばれた男性が二人告がら栄達を目指さず、牧師になろうとするのは欲望一般に 対しての後ろ向きとも言える態度が表現されているのだと考えられる。

彼らのこのあり方こそが、手 J I 己心に人々が支配された世界での最善の自己の あり方の不適切さを示している。 7ァニーやエリナーを含め彼らは皆、 「それ ぞれ偽装された利己心に支配されて J 存在する世界において適切に欲望を充足 させる手段を行使できないというあり方を具体化した人物なのである。これら 4 人とも、結局自分の内なる欲望を最善の自己が禁止したものと見なして抑圧 している。そのため他人が偽装された欲望を多かれ少なかれ表現しながら生き る世界を認識しながら、彼らは事実上観照する事しかできない。彼らの倫理が 彼らに課す道徳上の禁止を忠実に守り、その禁止を乗り越えてゆく手段も切迫 性も持ち得ないままにとどまるのである。この二つの作品の主要な二組の男女 が最後に幸せになるという運命は、まさに作者という彼らの生きる世界の神が 怒意的にもたらした摂理であるに過ぎない。彼ら自身は(ダーシーと異なり) 何一つ能動的な行動はとることがないまま、事態をただ眺め続けた結果理想の 結末を外から与えられて終わるのである。

即 興 演 技 的 自 己 と 感 受 性

ノてーサーニの引用にある用語を使って問題を整理するならば、マンスフィー

ルドパークの正当な住人である 7ァニ一、エドマンド、パートラム卿に代表さ

れる「最善の自己」は伝統的共同体が是認するような価値観を具現化した、い

わば固定された自己のあり方であり、欲望に対して敵意を抱き抑制されねばな

らないと考えている。それに対してロンドンから訪れたヘンリーやメアリに代

表される「瞬間、瞬間の環境の示唆に従う即興 J によって産み出される「即興

による自己 J とは、より自由で流動的な、しかしそれ故に可塑性をもったより

(10)

近代的な自己のあり方を示している。欲望を充足させるためにどう変化すべき かそれを知っている新しい種類の自己だと言える。

これら三つの自己の関係についてはキリスト教的な自己とルネッサンス的な 自己の関係と言い換えることも出来るかもしれない。私にとって興味深いのは

『マンスフィールドパーク J という 19 世紀初頭に現れた作品が、グリーンプ ラットが[,レネサンスの自己成型』において明らかにしたような、雄弁術によ る真理の相対化の技法をもとに発展したとされる、共有された真理としてのキ リスト教に基づいた固定化された自己からの逸脱とも言える即興演技的自己の 起源とも言えるような 17 世紀初期の演劇『オセロウ jのイアーゴウの姿と、

2  0 世紀初頭のコンラッドヤジェイムズの作品における即興演技的な自己の姿 とのいわば中間の時期における自己のありかたを示しているように見える点で ある。

ノてーサーニが 1969 年に「即興による自己」と書いたとき、当然の事なが ら 19  8  0 年にグリーンプラットが指摘した即興演技的自己については念頭に なかった。すなわちグリーンプラットが強調する他者の内部にあるイデオロ ギーの素材としての利用について、パ}サーニは特に意識してい者いという点 は確認しておく必要があるだろう。つまり 「即興による自己」とパーサーニ が言うとき、それは単純にその場その瞬間の快楽を求めて無定見に変容する自 己を表現しているに過ぎない。しかしながら固定的な自己像からの決定的な変 化はまさにそこにあるのだと考える。つまり共同体においての他者の視線にお ける正義に回帰するのでなく、己の内なる欲望に基づいて自己を変容させると いうその可塑性こそが近代社会を産み出す自己のあり方の、伝統的な社会にお ける自己との決定的な差異だと考えられるのである。グリーンプラットが強調 する他者の内面の利用は可塑性を獲得した自己と、固定的な状態に留まる伝統 的自己との接触において偶発的に発生する問題と見なすことができるように恩

う 。 1 )

状況に応じて自らを変えていけるか、それとも共同体が割り振った役割にと

(11)

どまることしか出来ないかという視点から見るとき、最善の自己と即興の自己 という区分は、概ねトロッター的回心による自己とグリーンプラット的即興演 技的自己という区分にそれぞれ合致すると言えるだろう。重要なのは冒頭に述 べたように『自負と偏見』で、ダーシーの変化において肯定的可塑性が描かれ るのに対して f マンスフィールドパ}ク』と『分別と多感』においてはあらゆ る可塑性、すなわち即興演技的な振る舞いが否定的に描かれているという占で ある。これら三つの作品にもセクシュアリティをめぐる欲望は同様に存在す る。にも関わらず「自負と偏見』を挟む二つの作品においては、その欲望に基 づいて可塑性を示すことが偽装として否認の対象となるのである。

その点で同様の保守性を示す『分別と多感』と f マンスフィールドパーク』

だが、この二つの作品に描かれた即興演技には一つの大きな違いが存在してい る 。 r マンスフィールドパーク』においてヘンリー・クロフォードの見せる即 興演技は『へンリー八世』の様々な登場人物を巧みに演じ分けるその鮮やかさ によって大きな印象を残すが、全体としてみると他者の操作という点において は格別特筆すべき段階にまで達しているとは言えないのである。

ヘンリーが最初マンスフィールドパークに現れたときに見せた変化(醜男か ら恋愛の対象へ)を含め彼の変容は恋愛における魅力という意味での変容が大 きく、他者の内面に踏み込んでそれを操作しようとする側面があるとしてもそ れは相手の女性のセクシュアリティの利用というのにとどまっている。彼の即 興演技はいわば欲望の対象を魅了するための自己の変容という段階に概ねとど まっているのである。 7アニーの内面のその最も奥に彼がたどり着いたと言え る瞬間、すなわち彼が7ァニーの兄ウィリアムの昇進を可能にしたときです ら、ヘンリーに7アニーの内面の操作と言えるような意識があったかどうか疑 わしい。彼にとって、それはいわば女性に対しての気前の良い豪勢な贈り物に 過ぎないように見える。彼が妹を通して与えた宝石とウィリアムの昇進との区 別が出来ていたとは見えないのである。

『自負と偏見j におけるウイカムの行為はその点においてずっと洗練された

(12)

ものである。もともとエリザベスが抱いていたダーシーへの反感を利用して ウイカムは自分にとって都合の良いダーシーのあり方をエリザベスに信じ込ま せることに成功する。事実を歪曲した像をエリザベスの反感を材料として結ば せるのである。

ウイカム以上に高度な即興演技を見せるのは『分別と多感』におけるルー シー スティールである。彼女の行為はウィカムの行為よりも全体としてさら に成功を収めている。彼女自身の内面が描かれていないために、物語の終わり に彼女の隠し持った欲望が露わになるまで、エリナーも読み手もその意図を十 分にとらえられないまま一種の謎としてとどまり続けるが、この女が見せた最 後の選択、財産を失ったエドワードの代わりにその弟を結婚相手に選ぶという 選択は彼女の行為全体の意味を暴露すると言える。

そもそも、エドワードとエリナーの恋愛の可能性を知った小説の早い段階で すかさず自分とエドワードとの婚約の事実をエリナーに秘密として告白する行 為からして、恋敵かも知れない女性の内面を十利下しようとする底意が感じられ る。もちろんより重要なルーシーの即興演技は、エドワ}ドとの関係において 行われていたはずのもの、 & p ち自分との婚約を維持させ続けたそれである。そ れがどのように行われたのかについては読み手は直接の判断の基準を持たな い。それは小説の前景において描かれる J レーシーのエリナーに対する振る舞い から推測するしかない。しかしながら却興演技という視線から眺めれば、ルー シーがエドワードの意識に存在した感受性故に傷つきやすい存在としての女性 像を利用して過去の約束に縛りつけていた事は想像に難くない。

このように J レ}シーの 1 T 為を見るとき、ルーシーのあり方をオーステインの

描く感受性の典型とするパトラーの見方は意図的な偏向を感じさせるものであ

る。パトラーはルーシーについてこう述べる。 r ジェイン・オーステインの見

るところの感受性、即ち個人主義、あるいは自己の崇拝と言った様々な見慣れ

た偽装をほどこされたものが、反ジャコパンの伝統において同様にここでも手

厳しく取り扱われている。 ( 1 9 4 ) J と 。

(13)

感受性を個人主義と等号で結ぶのは正しい。しかしそれを J レーシ}の見せる

「自己利益へのとめどない関心 J と同じものと見なすのは、ルーシーの見せた 感受性と 7')7 ンの感受性とを同列に扱うのに等しいことになる。このような 見方が、感受性に対して上記の三つの作品で恐らく同程度にオースティンが与 えていると恩われる意義を過小評価する事につながっているように思われる。

『分別と多感 j のマリアンや二人のイザベル、さらに言えば『マンスフィー ルドパ}ク j のマライアの運命が示すように、それは人を死や社会的な破壊や 深刻な病に追いやる力を秘めたものであり、そもそもヘンリーの最後の運命が 示すように即興演技を越える力を持ったものであることが繰り返し示されてい るように思われる。即興演技としての感受性と本物の感受性とは区別して考え ねばならない。ウイカムやルーシーカ九、わば具体的な利益を得て自分の立場を 良くしようとして即興演技を行うのに対して、ヘンリ)のそれはより感受性と の結びつきが強調されたものとなっていることに注目する必要がある。

本物の感受性の持つ強い力について『マンスフィールドパーク』も『分別と 多感 J 同様の態度を示している。最初はうまくいかない 7 ァニーとの関係から の気散じのつもりで始めたマライアとの関係だったが、ヘンリーがやがてそれ に足をとられ最後には 7 アニーとの関係をあきらめざるを得ない地点に追い込 まれていく。その決定的な原因となったものについて作家の言葉は明白であ る 。 I 彼は既に自身を彼女の側の感情の支配のもとに置いてしまっていた ( 3 1 7 )   J  、そう作家は説明する。マライアのヘンリーへの思いは彼女なりの 仕方で真実であり、その感育の力にヘンリーは圧倒される。最後の不倫に決定 的な力を及ぽしたのはヘンリーの演技ではなくマライ 7 の感情だったとされる のである。ヘンリーが何らかの利益を得るために相手の感情を利用したという よりも、逆に相手の感情に引きずり込まれていった結果として破綻は起こった のである。

さらに、重要なのは次の点である。 r マンスフィールドパーク j の後半の核

となるヘンリーの 7 アニーへの求婚を行わせたものが、ヘン ' J ‑をある意味で

(14)

の滅びに導いたものと同じものであったという点である。 7ァニーが大好きな 兄であるウィリアムから海上生活の話を聞き興奮を抑えきれないでいる姿に、

ヘンリー・クロフォードが強い魅力を覚えるという次の場面にそれが明示され ている。

それはヘンリーの道徳感覚でも評価することのできる姿だった。 7 ア ニーの魅力は増大し、二倍になっていた。というのも、その顔立ちを 美しくし、表情を照り輝かせる感受性それ自体が慨に一つの魅力だっ たからである。彼はもはや彼女の心の可能性を疑っていなかった。こ の女性には感情が、それも本物の感情がある。このような人に愛され るなら、そしてその若々しいまだ洗練されていない精神の最初の熱情 を呼び覚ますことが出来るならばそれはたいした事だと思えた。

( J 6 1 ‑ 1 6 2 )  

ヘンリーの欲望を喚起した 7 7 ニーの表情、それは恐らく「自負と偏見 j で ダーシーがエリザベスの決定的な魅力は何かと問われて答えた際の表情と同様 の何かを秘めていたものだと考えられる。地味で病気がち、さらに無言で他者 を観察し観察対象者に対しての厳しい批判を胸に秘める 7 アニーは、その暗さ 故に主人公としてオーステインの読者にあまり人気の人物ではないが、彼女の 内には上に見たようにエリザベスがダーシーに対してそうしたような男性の自 己の書き換えを促す何かがあることを『マンスフィールドパーク』という作品 ははっきりと記録している。

ヘンリーがここで 7アニーの姿に見いだした「本物の感情」は『自負と偏

見j においてダーシーの自己変革を引き起こしたエリザベスの持つセクシユア

リティと事実上重なるものだと言って良いだろう。結局は挫折の憂き目を見る

とはいえ、かなりの程度までヘンリーはダーシーと同じ行程をたどる。あれほ

と、嫌っていた 7 アニー自身すら、彼の改善を認めざるを得ないところまでそれ

は成功する。ダ}シ)がエリザベスの持つ社会的ヒエラルキーや社会的妥当性

という観点から見た場合の欠陥、すなわち叔父夫婦の仕事ゃあるいは母や父や

(15)

妹の振る舞いの不作法さに対して、それまでの偏見を乗り越えて最終的にそれ を包容するような態度を示すように、ヘンリーも 7ァニーの恥部であるポーツ マスの家庭、なかんずくその不作法な父親の存在を 7 7 ニー故に受け容れるこ とに成功する。

~p興演技、すなわち固定化された自己からの変容を引き起こすものは様々な レベルにおける欲望である。欲しいものを手に入れようとするとき、ヘンリー は変容する。 r マンスフィー 1 レドパーク j の他の登場人物が即興演技をしよう とするとき、実際の演劇空間を必要とするのに対して、ヘンリーは実生活のい かなる瞬間にも自己を即興で変容させることが出来る。

ヘンリーに生じるそのような変化の仕組みは、上記に引用した 7 アニーの中 に彼が「本物の感情 J を見いだした際の彼の願望に明確に示されている。 7ァ ニーの中に本物の感情を見いだした場面のすぐ後でウィリアムか吉昔る海上での 経験を聞きながら、ヘンリーは自分がウィリアム・プライスであった告らと願 う(1 6 2 )

7ァニーが見せた強い感情の対象に自分が変容することを彼は夢 想するのである。彼は自分の欲望の対象が欲望するものにほとんど甚意識的に 惹き付けられていく。マライアとの最終的な不倫関係においてそうだったよう に、この男は強い感情に接すると、ほとんと'自動的にその強い感情の求める姿 へと自己を変容せずにはおれないのだとも言える。彼のこの過剰な可塑性にこ そ、最善の自己には想像も出来ない近代的な問題が存在している。

ウイカムと J レーシーの即興演技は実際上ほとんど十分な内面性を持たない人

物達の機能として作品内にあるに過ぎない。それは「オセロウ』においてイ

アーゴウの見せたような典型的な人間性の不在や欠如を示すものとして提示さ

れているのである。言い換えれば彼らの自己は伝統的自己の固定化をあぶり出

すために語られているとも言える。それに対 L 感受性によって引き起こされる

へンリーの即興演技は、確固とした自己を持ち得ないという近代社会に適合し

た自己のあり方が持つ否定的な側面に触れているという点で、後にジェイムズ

やコンラッドが描く事になる、 20 世紀初頭においてはさほど特別な存在では

(16)

なくなってしまった可塑性を持った者逮の運命を先取りしていると言える。

ヘンリーが I マンスフィールドパーク j においてみせた可塑性は既に主体の あり方にかかわる問題の っとして描かれているように見える。女性の中の強 い感情に動機づけられてほとんど不可避的に変容する自己。これは後にコン ラヅドやジェイムズが創造した状態とある意味で重なりある意味で異なってい る。コンラッドの『西欧人の目に J やジェイムズの『鳩の翼 J において、それ ぞれ男性主人公達は、彼らがそれぞれの愛する女性の中に見いだした強い感情 に刺激されて、失われたあるべき自己への回帰を試みる。女性の中に見いだし た強い感摘によって引き起こされる変容という点でこれらほぼ 100 年を隔て て描かれた自己の変容は通底するが、 20 世紀の即興演技者達が今ある自分の 姿を、彼らが信じている理想の恋愛物語の姿に適合させるべく、理想的な恋人 の型にはめようとするのに対して、 19 世紀の即興演技者ヘンリーの女性の内 に見いだされる強い感情への反応は、そのような恋愛イデオロギーの求める様 式化に至っていない。言い換えれば自己の変容を引き起こす強い感情は 20 世 紀の初頭においてそうであるような、十分な帰依の対象としての精神的権威を 帯びていないのだとも言える。女性の強い内なる惑育は、同じような強い魅力 を持ちながら、 19 世紀初頭において依然として未分化な欲望の対象であり身 体的反応の段階にとどまっているとも言える。ヘンリーにとって 7アニーの感 受性もマライアの感受性も決定的に異なったものではなく、代替可能な何かと して存在しているのである。ヘンリーは 7アニーの感受性を欲した際には彼女 の理想の相手である兄(或いはエドマンド)の姿をとろうとし、マライアの

「感情の手中に置かれる j と彼女が望むような退 J 屈な夫との生活から救い出し てくれる魅力的な恋人の役割を果たそうとする。

ある意味でヘンリーのこの姿は最善の自己の侮蔑する所、即ち欲望の虜と

なった状態に過ぎないように見える。しかし彼の変容が本物の感受性に対して

の反応であるという点で、彼は最善の自己がなし得なかったことを達成してい

ることもまた事実である。最善の自己が出来ないこと、欲望に基づいて自己を

(17)

変容させるという行為が、最も上手くいった場合それはダーシ}の行ったよう な理想的な変容を引き起こす。

ヘンリーの欲望への対応は可塑性を持つという点でダーシーのそれに近づく が、そもそもダーシーには教え込まれた理想とする自己像が確固と L てあった のに士すして、ヘンリーにはその点地司危弱であるように見える。ウィリアムを愛 する 7 アニーの感情に触れてウィリアムになりたいと願ったように、エドマン ドを見て後には牧師を職業にするのも良いかもしれないとも考える。それが無 意識のうちに 7 7 ニーの本当の欲望を言い当てている点についてどれほど彼が 意識的だったかは判らないが、彼の可塑性はほとんど無頓着と言える程度に外 界の刺激に依存し翻弄されるままなのである。

基本的に私は、キリスト教的な理想を具現しているとパトラーの言う最善の 自己は欲望の処理を知らない伝統社会という反復が是認された世界にのみ適合 した固定化された自己のあり方であると見なしている。その点で感情に反応す る可塑性においてヘンリーの自己のあり方は、これまで通りの反復が待ち受け る伝統的世界とは異なる新しい世界のあり方に対応する可能性を秘めたものに みえる。

その欲望への反応の手段を持った自己のあり方が最終的に敗れ去っていくよ うな否定的な提示が『マンスフィールドパーク j においてなされているのは、

結局新しい自己のあり方を脅威と感じる、より古い伝統的な自己のあり方であ

る最善の自己の視点からそれが描かれているからだと思われる。最善の自己の

視線から見ればヘンリーの姿は可塑性の持つ欲望に対して無制限に開かれた状

態の危険を暴露するものとしか見えなかったろう。ヘンリ}の破滅は欲望を満

足させる事に対 L最善の自己の感じている不安を表現しているように見える。

(18)

1 )   I 即興による自己」の原語は i m p r o v i s e d  s e l f  

r 即興演技jの元の英語は i m p r o

VI

抽 出

n である。

引用または参照した英語の著作 A u s t e n .  J a n e  

B e r s

却しLe

o Bu t 1 e r ,  M a r i l y n   Conrad ,  J o s e p h  

P r i d e 四 d 町匂 u d i c e .E d .  by Viven J o n e s .  P e n g u i n . 2

3 S e n s e   and  S e n s i b i l i r y , E d .  by Tony T a n n e r . P e n g u i n .  1 9 8 4  

Mansfleld P a r k .   E d .  by  C . L  J o h n s o n .  New York:W.W. N o r t o n  &  Com  p

y . l n c . 1 9 9 8

A  Fut υ 即 白 r Astyanax.  B o s t o n   ; L i t t l e ,  Brown and Company.1969. 

Jane Austen and t h e   War  of  I d e a s , Oxford;Oxford  U n i v e r s i t y  P

問 団

1 9 7 5 Under  Westem  Eyes ,  E d .  by Jeremy Hawthom. O x f o r d  a n d   Lo n d o n :  Ox  f o r d  U n i v e r s i t y  P r e s s . 1 9 8 3  

口 問 団

b l a t t , S t e p h e n .   Renaissance S e l f

Fashioning:  From  More  t o  Shakespeare ,  C h i c a g o

d Lo n d o n :  U n i v e r s i t y  o f  C h i c a g o  P r e s s .  2005 

James ,  H e n r y .   T r o t t e r , Oavid 

The Wings  of t h e   Dov ιEd. by J

. D . C r a w l e y  and R i c h a r d  A .  H o c k s .  New  Yor k : W.W. N o r t o n   &  Co

p a n y .J n c .  1 9 7 8  

α r c u l a t i o n : De 白 e . Dickess ,  and r h e   EcosomIes  ofthe  No

1 . Lo n d o n :  t h e   Macmil

P r

,回目

s .L t d . 1 9 8 8  

参照した日本語の著作

中村英男「ロマンティックラブと回心 J 23 買 ‑45 頁 人文学報 . 4 3 4 号 首 都 大 学 東 京 都

市教養学部人文学系 2  0  1  0 

参照

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