奈良教育大学学術リポジトリNEAR
アメリカにおける初期白痴学校の成立過程に関する 一研究
著者 津曲 裕次
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 19
号 1
ページ 215‑236
発行年 1970‑11‑30
その他のタイトル A STUDY ON THE PROCESS OF THE ESTABLISHMENT OF THE "OLD" SCHOOLS FOR IDIOTS IN THE UNITED STATES
URL http://hdl.handle.net/10105/3069
アメリカにおける初期白痴学校の成立過程に関する一研究
津 曲 裕 次 (障害児学教室)
215
I は じ め に
本論は、筆者の研究テーマである一連の精神薄弱教育史の中では、いわゆる「個別史」に位近 づけられる研究である。筆者は、これまで、主として、精神薄弱教育史そのものを研究対象とす る、 「精神薄弱教育史研究」 (津曲、 1960、 1964c、 1965a、 1965b、 1968a、 1968b)をおこな い、そのかたわら、従来の精神薄弱教育史の史料を用いた「精神薄弱教育史」を構成しようと試 みてきた(津曲、 1968c、 1968d、 1969a、 1969f、 1970)c 後者の研究は、従来の歴史研究で 用いられている史実によるものであり、歴史研究の生命である厳密な史料を批判にもとずいた歴 史ではない。そこで、筆者は、こうした研究の段階をふまえて、それぞれの段階で与えられた主 題や、史料のあつまりに応じて、個々のテーマによる筆者なりの歴史研究を展開してきた。 (津 曲、 1964a b、 1965c、 1969b、 1969c 、 1969d、 1969e)cこれらの研究は、厳密な史料批判を 経ているとはいい難いけれども、筆者として、史料の発掘から手がけた歴史である。そのテーマ
は、その時々で遣ってはいたが、その主たる関心は、アメリカの精神薄弱教育史であった。その 主な研究及び学会発表を整理すると次のようである。
1.アメリカ精神薄弱教育史に関する一研究‑アメリカにおける『白痴学校』の成立過程と その後の若干の問題 (1963 a)
2.アメリカ精神薄弱教育史‑ 『白痴学校』の成立過程とその考察 I‑IV (1963a、 19
63b、 1964a、 1964b)
3.アメリカ精神薄弱教育史研究‑ 『白痴学校』の巨大化の傾向について (1968e) この他にも、前述の個別史の範噂に入るものでは、 「 『白痴の使徒』エドワード・セガンの生 涯」 (1969c)及び「19健紀初頭のフランスにおける白痴教育に関する一研究」 (1969d)も、
アメリカ精神薄弱教育史の問題意識のもとにおこなわれた研究である0
本研究は、以上の先行研究のうえにたって、アメリカ精神薄弱教育史のうち、 1840年代の後半 から、 1870年代にかけて成立をみせた、いわゆる初期白痴学校の成立の事情を考察したものであ る。本研究の主たる目的は、すでになされた一連の白痴学校の成立過程の研究成果を、その後得 られた史料をもとにして再検討することである。したがって、本研究は、先行研究を批判的にと り入れながら、初期白痴学校の成立過程を具体的に浮き彫りにし、その作業を通じて、今後の史 料探究の基礎とする。さらに、従来、筆者が仮説的にたててきた精神薄弱教育史の論理を検討
し、今後の研究の足固めにしたいとも考えている。
なお、本研究の史料としては、 「アメリカ教育局」が、 1871年から発行している年報、 Report oi the Commissioner of Educationが中心となる。同年報には、各種の統計が集録されてお
り、その中に公私の白痴学校に関する統計もある。但し、年報自体の年度区分、あるいは、統計
216 アメリカにおける初期 る一研究(津曲)
のとりかたによって、これらの数字がどの程度の信頼性があるか、また、どう解釈されるべきか ということは目下検討中であり、いずれ、機会を得て報告したい。史料としては、この他にも、
セガンSeguin, E. Oや‑ウHowe, S. G らに関する原史料、あるいは、 Journal of Psycho‑
Asthenicsなども入手できたが、今のところ、本研究にとりいれられるはど検討がすんでいない。
いずれ、機会を得て紹介したいと考えているが、本研究はそのための基礎ともいえる段階であ る。
Ⅱ 初期白痴学校の成立過程に関する具体的考察 1.初期白痴学校の概念規定
(1) 「白痴学校」の概念
まず、ここで、 「白痴学校」という概念について考えておくことが、今後の考察のために必要 となるであろう。筆者は、すでに、こうした学校が「従来は、精薄児学校として紹介されていた もの」 (津曲、1963b :26)であるとし、さらに「テーマを『白痴学校』とした点、目新しい題 だけに私も自信がない。今の言葉でいえば、重症精薄児ということかも知れないが、それなら ば、重症精薄児学校といってしまっていいのかということも疑問である。」 (津曲、 1964b :35) とのぺている。こうした問題について、筆者は、 『精神薄弱』という定義自体も歴史的なもので ある、 (津曲・松矢、 1967:47)という結論に達した。したがって、 「白痴学校」とは、精神薄 弱教育史上の歴史的概念をして使用されるものであると考えている。
「白痴学校」とは、英語でいえば、 School forIdiotsであり、 1840年代からヨーロッパ、ア メリカに成立する。それ以前においては、白痴とは治療も教育も不可能であるとされていたもの が、白痴に対する治療、教育をおこなうとなった時、そこにひとつの歴史的な転換がおこなわれ た。こうして成立してきたのが、白痴のための治療、教育、保護の施設、制度であった。具体的 には、 Hospital, Asylum, Institution, Schoo】といろいろに呼ばれていたが、これらの施設が、
多くは、白痴の治療・教育可能性を中心においていたことを象徴して、 「白痴学校」と呼んで みたのである。この点は、筆者の研究がアメリカを中心としているという事情もあって、学校 Schoolという言葉を強調しているが、ヨーロッパの事情は若干異なるようである。したがって、
現在のところは、白痴学校とは、アメリカ精神薄弱教育史上の概念であるとしておきたい。
歴史上の概念である「白痴学校」という名称は、現在ではもはや使用されていないことは言う までもない。 1963年のアメリカの特殊教育に関する統計(Mackie, R. 1969)によって、白痴学 校に該当するものをさがせば、公私の寄宿制学校Residential Schoolsであろう。白痴学校がど のような歴史的経緯のもとに、寄宿制学校となるかということはひとつの大きな研究課題である が、本研究の段階では、まだ言及するところまで達していない。したがって、本研究では、いく つかの統計や史料をもとにして,こうした白痴学校という概念をたしかめつつ、その後の展開過 程を予想してみようとするものでもある。
(2) 「初期白痴学校」について
1963年の統計によると、アメリカにおける・精神薄弱児のための寄宿制学校は全部で224校あり、
アメリカにおける初期白痴学校の成立過程に関する一研究(津曲) 217
38,653人の児童、生徒が教育をうけている。その内訳は第一表の通りである。なお1948年当時 第一蓑 寄宿制学校数(1963年度)
公的援助をうけているもの 公的援助をうけていないもの 不 明
(Mackie, R. 1969 : 41) 註1合計数が合わないのは、盲学校等の寄宿制学校
で精神薄弱児を収容しているものを含むからで ある。
ほ、寄宿制学校の児童、生徒数は21,460人であり、 1966年には約45,000人となっているという (Mackie, R. 1969 :36)。 1966年現在、精神薄弱児の出現率を2.3パーセントとして、学令児童 中の精神薄弱児は約1,155,000人であり、このうち、 46.8パーセントにあたる540,100人が就学し ていた。したがって、 1966年度において、寄宿制学校に就学しているもの45,000人に対して、 49 5,100人が、一般の公立学校での特殊教育の対象となっていたことがわかる。現在において、寄 宿制学校の占める位置は約一割といえよう。
現在の寄宿制学校が必ずしも白痴学校の流れをそのままうけついでいるものといえないことは 容易に推察できるし、今後の研究でさらに明らかになるであろうが、ここでは、独立の学校形態 をとっていること及び収容形態であるという二つの類似点から関連づけてみた。こうした現状を ふまえて、さらに時代をさかのぼると、 1914年、アメリカ内務省教育局の報告Department of the Interior, Commissioner of Education. Report, 1916年、には、公私の「低能児学薗」 Institu‑
tion for the Feeble‑Mindedとして、 75の白痴学校の名前、創立年、収容人員等があがってい る。
これらの学校のひとつひとつについての検討がすんでいない現状では、まだひとつの資料でし かないが、このリストによれば、 1914年当時のアメリカには州立学校41、私立学校34、合計75校 の白痴学校があった。
これらの学校を5年を一区切りとして設立年代別にならべたのが第一図である。これによる と、 1870年代の後半を区切りにして、前半のグループと後半のグル‑プに分けることができそう である。すなわち、その前半のグループは、 1840年代の後半から1870年代の前半にかけて設立さ れ、どちらかといえば、州立学校が多い。これに対して、 1870年代の後半からは、再び白痴学校 の設立数がふえ、特に、 1890年代の後半から、私立学校の急増期をむかえる。したがって、 1870 年代の初期にかけて成立した学校を初期白痴学校と呼ぶ。第一図は、 1870年の資料を加えて修正 されているが、 1914年の統計によれば、具体的には次の様である。ここでは設立年代順に配列し てある。
218 アメT)カにおける初期白痴学校の成立過程に関する一研究(津曲) 第一図 五年間隔でみた白痴学校の成立年代の分布
(1870年及び1914年の報告から)
● 公 立学 校
○ 私立学校
0 0 0 0 0 0
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1. 1848年Elm Hill Private Home and School for Feeb一e‑Minded. (Mass.) 53人Private 2. 1848年Massachusetts School for the Feeb一e‑Minded 1,845人State 3. 1851年Syracuse State Institution for Feeble‑Minded Children 617人State 4. 1852年Pennsylvania Training School for Feeble‑Minded Children 1,151人State 5. 1857年Institution for Feeble‑Minded (Columbus, Ohio) 2,066人S}ate 6. 1857年Connecticut Training School for Feeble‑Minded 298人State 7. 1865年Lincoln State School and Colony (Illinois) 1,718人State 8. 1868年New York City Children's Hospital and School 1,706人State
しかしながら、この資料だけでは、この8校を初期白痴学校とするには不十分である。なぜな らば、アメリカ教育局の1870の報告は、 1870年以前に、次の9校の白痴学校が存在したことを伝 えているからである。
1. 1848年Private School for Feeble‑Minded Children 64人Private 2. 1848年Massachusetts School for Idiotic and Feeble‑Minded Children 106人State 3. 1851年Now York Asylum for Idiots 155人State 4. 1853年Pennsylvania Training School for Feeble‑Minded Children 193人State 5. 1857年Ohio Asylum for Imbecile and Feeble‑Minded Youth 232人State 6. 1858年Connecticut Institution for Feeble‑Minded Chi】dren 53人State
I,二一リIJにお;+.杏 る一研究(津曲)
7. 1860年Kentucky Institution for Feeble・Minded Children 8. 1865年Illinois Asylum for Idiots
9. 1870年School for Imbecile Children (Fayville, Mass.)
219
State
80人State 3人Private 名称や設立年代に多少のちがいがあるが、この二つの資料から問題になるのは、次の3校であ
oj
1. 1860年Kentucky Institution for Feeble‑Minded Children 2. 1868年New York City Children's Hospita一 and School 3. 1870年School for Imbecile Children (Fayville, Mass.)
あとでのべるように、これらの3校も、資料はすくないながらも、かなりの間存続したことが 知られている.そこで、一応、この3校も、初期白痴学校群の中に入れて検討することにした。
今一度整理すれば、次のようである。なお、名称は、 1870年当時のものを用いた。大きく変って いるものとしては、 New York City Children's Hospital and Schoolが、 Idiot Asylum, Ran‑
doll's Island となっている。
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1848年Private School for Feeble‑Mnded Children Private 1848年Massachusetts School for Idiotic and Feeble‑Minded Children State 1851年New York Asylum for Idiots State 1853年Pennsylvania Training School for Feeble‑Minded Children State 1857年Ohio Asylum for Imbecile and Feeble‑Minded Youth
1858年Connecticut Institution for Feeble‑Minded Children 1860年Kentucky Institution for Feeble‑Minded Children 1865年Illinois Asylum for Idiots
1868年Idiots Asylum, Randall's Island. N. Y.
1870年School for Imbecile Children, (Fayville, Mass.)
State Private State State State Private
筆者が、初期白痴学校という場合、以上の10校を仮定する。なお、この名称は必ずしも、正式 の名称とも思われないので、さらに次節以下で検討する。さらに、 Connecticut Institution for Feeble‑Minded Childrenが、州立Stateが私立Privateかということについても、疑問があ ることが、次節で明らかになるであろう。
2.初期白痴学校の成立過程に関する具体的検討
(1) Private School for Feeble‑Minded Children, Barre, Mass.の場合
アメリカにおける初期白痴学校の成立過程については、すでに、さきの論文(津曲、 1963a、
1963b、 1964a、 1964b)で、その大筋を明らかにした。本節は、それをうけて、各自痴学校の 成立過程を具体的に考察する。以下、各学校毎に、筆者の手元にある資料を中心に検討する。
さきの論文(津曲、 1969d)でふれたように、 1846年、当時パリに住んでいたジョージ.サム
220 アメ1)カにおける初期白痴学校の成立過程に関する一研究(津曲)
チ‑ George Sumnerは、パリでの白痴教育の状況を詳細に調べ、それを当時、マサチュセッツ 州で白痴学校の設立に努力していた‑ウHowe,S.G.に書きおくった。この手紙は、マサチュ セッツ州の白痴実態調査委員会のレポートに付録としてつけられる一方、サムナーの見聞記は、
チェンバース・ジャーナル誌に掲載されて大きな反響をよんだ(Talbot, 1967:185)当時、
マサチュセッツ州バーレBarreで開業していたヘンリー ・B ウィルバー博士Dr. Henry B.
Wilburは、この記事を読んで、早速、パリにセガンの教材と著書を注文した。ウィルバ‑は、
セガンの著書を熟読し、セガンに会いたいとパリの友人にセガンの住所を問合せたが、当時、セ ガンはパリから姿を消しており、あうこと‑はできなかったという。写真①はセガンである。
ウィルバー博士は、 1848年7月1日、バ‑レの自宅に、 7才になる高 名な弁護士の息子で精神薄弱の児童をひきとって白痴教育をはじめた (Lincoln, D. F. 1902 : 2158)。彼の古くからの友人たちはおどろき、
金銭的に得にもならず、むしろ属鹿げた試みでさえある仕事(白痴教 育)のために、医者の他界における約束された地位を放棄することを残 念に思った。当時においては、白痴とは治療も教育も不可能な存在であ るということが常識であった。たとえば、 1837年に発行された医学辞典 Dictionnaire de Medicineは、白痴Idiocyについて次のようにのべて いる。 「精神的、実際的能力が欠如し、そして、脳の機能がほとんど完 全に失われているものをいう。白痴の状態を治そうとすることは無駄で ある。知的機能をつくりあげるためには、ほとんど治療の見込みのない
組織の構造をかえる必要があるだろうが、それは不可能である。」 (Brown,C. W. 1897 : 134) ウィルバーが、最初の生徒を受入れた自宅を彼は第1号館と後に名づけたが、ここは、学校と しては狭かった。そこで、彼は、 2人日の生徒を受入れる前に、第1号館より広い建物に移り、
これを第2号館と呼んだ。この二つの建物は、同じ敷地に建てられ、玄関の上の風変りな手すり と教室を除けば、外面的にはほとんど同じような格好をしていた(Brown, C. W. 1897: 134)。
ウィルバーの試みは、 1851年の冬には、人々の関心をあつめはじめた。彼のもとにいた生徒たち の数はすくなかったが、彼らは、当時の社会の人気者となり、町をおとずれる人々は必ず、ウィ ルバーのもとをおとずれた。後でウィルバーをついで、この学校をひきうけることになるジョー
ジ・ブラウン博士Dr. George Brownは、 1850年11月に結婚するが、その妻キャサリーン・ブ ラウンCatharine W. Brownは、ウィルバーの試みを見学した感想を次のようにのべている。
「私はあまり信じやすくなかったし、儀礼上必要となるまで、人々のあとについてそこを訪問す ることをおくらせていた。しかし、ひとたび、そこを訪れた時、私は自分の負けであることを認 めざるを得なかった。私は、そこでのすべてのことに強い関心を持つようになった。ひとりの可 愛いい頭と顔の少年が何かを求めるような目付きで、あたかも私に助けを求めるように、私の手 にからみついてきた。ウィルバー博士は、彼の能力が非常に低いということをはっきりと私にの べたが、私は、一時間もの間、あらゆる努力と忍耐のもとに、一本のピンをひろいあげることを おしえようと奮斗することによって、はじめて、そのことを納得することができた。この無益な 努力以来、私は、このあわれな運命の児らへの関心から離れることができなかった。」 (Brown, C.W. 1897 : 139)
ウィルバーの白痴に対する教育は、まもなく、 「精神遅滞のために通常の学校教育に不適当な すべての児童の教育と保護を目的とした私立白痴学校Private Institution for the Education
アメ.)カにおける初期白痴学校の成立過程に関する‑研究(津曲) 221
of Feeble‑Minded Chilrren」 (Kanner,L, 1964:63)となる。同校は、アメリカにおける収容 的形態をとった最初の「学校」 (Lincoln, D. F. 1902:2158)といわれるO
ウィルバー博士は、後にのべるように、 1851年に、ニューヨーク州の白痴学校の校長としてま ねかれる。この間の事情は後にふれるが、バーレの私立学校は、当時、バーレで開業医をしてい たジョージ・B・ブラウン博士Dr.George B.Brownによってひきつがれることになるo ブラ ウン博士の妻、キャサリ‑ン・ブラウンは,後年、次のように述べている。 「ウィルバー博士 が、アルバニ‑からの申し出(ニューヨーク州立白痴学校の校長になること‑筆者注)を受ゅ ようと決心すると、直ちにブラウン博士と私のところにやってきて、バーレに残される小さな学 校をひきうけることを申し出た。私たちは、熟慮の結果、彼の申し出をひきうけ、 1851年9月1
日から、その任務についた。」 (Brown, C. W. 1897: 139‑140)
ブラウン博士がその責任をひきうけた時、児童たちは第2号館に収容されていたが、ちょうど その裏側にもうひとつの建物が建設中であった。この建物には、すべての学習活動や体操にも使 えるような大きな広い部屋があった。部屋の一方の隅には三本の梯子がかけられ、近くの天井か らは一本のロープがたれさがっていた。部屋のもう一方の隅には、ある種の、馬の力を利用する 機械に以たような機械がおかれていた。この機械は、神経質な児童を鎮静する踏み卓(昔、監獄 等では、囚人へ罰としてこのような事を踏ませた‑筆者注)として、また、教師にとっては、
児童の移動能力をたかめるための筋肉の訓練に役立った。片方の窓には、平行棒が備えつけてあ った。移動式の黒板と文字板も備えられていた。壁には、地図、掛図、絵などがかかっていた。
調度としては、質素な長椅子と、旧式の机が備えられていた。机の上には、読本がおいてあり、
その傍には、色付きのカップ、ボール、地球儀、ブロック、計算器、ビーズの入った箱、ペッグ ボ‑ド等があった.これらは、先任者のウィルバー博士によって考案され、村の職人によって作 られたものであった。床には、ボール、亜鈴等が一緒に格納されていた。職員の数が少ないこと を考えれば、図書や手引きと一緒に、こうした多くのものは,大いに役立つものであった。さら に、作業場Workshop もあったという。 (Brown, C.W.1897: 140)
ここでは、ブラウン博士とその妻キャサリーンが、校長でもあり、教師でもあり、保母でもあ ったO キャサリーンはその実態を次のように書いているo 「私たちは、子どもたちに良い食事の 習慣をつけるために、子供たちと同じ食卓をかこみ、子どもたちの振舞に注意し、乱暴な習慣を 除くために、同じ居間で生活した。私たちの生徒は、典型的な白痴児であり、その誰もが、この 教育にとっての良い指標となった。ある年若い婦人が、かって、私に『白痴児たちは、だれにで も自由に中味の検査を許すふたのない壷のようなものだ』といったことがある。このようにし て、私たちは子どもたちとの密接な関係を持つことによって、この閉された心の持主たちの性 格、ニード、処遇の方法を具体的に知ることができた。私たちほ、彼らが安らかにねむりについ たあとで、居間にすわってセガンの『白痴の遺徒的取扱い、衛生及び教育』を読んだ」 (Browェ1, C. W. 1897 : 140)
ブラウン博土のレポートは、文章的にもすぐれたものであったといわれる。また、 1870年の Appleton's Journal誌には、同校の運営、実態に関する見学者の手記がのせられているという。
(Kanner, L. 1964 :63)同校については断片的な資料しかないが、以下に列挙しよう。
1872年のアメリカ教育局の報告は次のように伝えている。 「最後の隔年報以後、新たに20人の 児童が受入れられた。そのうち、学校部門の児童、生徒として入ってきたのほ13人であった。平 均児童総数は60名である。 6才以上の子どもたちが受入れの対象となっているが、園長は、もっ
222 アメリカにおける初期白痴学校の成立過程に関する一研究(津曲)
と幼い年令から入園させることが望ましいとのべている。同校のレポートは次のようにのべてい る。 『本校が、その教育に対する関心と、児童たちの進歩とによって示された活気を今はどみせ ていることはなかったし、こんな高い知的能力によってめぐまれた児童によって占められたこと
も今までになかったことである。』学校では、児童たちの身体面の発育に最大の関心が向けられて おり、体育活動が最も重要視されている。さらに、白痴につきものの無気力さを矯正するため に、彼らをたえず活動させることが最も効果的であると考えられている。」 (Commissioner of
Fducation: 1872 : 177)
1880年、ブラウン博士は、アメリカ白痴、低能児童施設医務職員協会第三回大会で次のように 報告している。 「私たちは、学校部門そのものには、 30人ていどの児童を入れている。学校部門 に入っているのは30人ていどであるが、教師による保護、訓練をうけているのは約40人である。
私は、バーレにおいて,彼らに適した作業教育の設備を導入し、そこから生じた好結果を報告で きることは大変幸福である。」 (Asso, of Med. o庁icers of Am. Institution for Idiotic and Feeble‑Minded Persons, 1880 : 95)これによると、すでに、教育の対象となっていたものと、
いなかったものがいることがわかるし、作業の導入がなされたことがわかる。写真⑧はそのころ の建物であろう。
同校は、 1902年度の報告からは、 Elm Hill (Private) Institution for Feeble・Minded Youth として報告されている。 We】lin, W.(1955: 10)によれば、その後、閉鎖されたということであ る。
(2) M:assachusetts School for Idiotic and Feeble‑Minded Childrenの場合 Massachusetts School for Idiotic and Feeble‑Minded
Children‑ マサチュセッツ州立白痴学校の成立過程に関し ては、すでにいくつかの論文(津曲、1963 a, b, c, 1964 b.) 等でかなり明らかになっている。しかし、筆者らは、その 後、同校の設立に大いに貢献した‑ウ Howe, S.G. (1801
・1876)のレポート(Howe, S. G. 1848、 1851、 1852、 185 7)を入手し、さらに研究をつづけ、その一端を卒業論文(檀 田1970)、として明らかにした。本節は、これらの成果にも とずいて、主として事実関係を明らかにしようとするものである。
‑ウが学校経営の任にあたっていたパーキンス盲学校は、 1829年の創立であるが、開校当初か ら、幾人かの盲白痴児の教育が問題になっていた。この間の事情はよくわかってはいないが、盲 学校The New England Asylund for theBlind (1829年3月2日設立)という制度に対する障 害児教育の期待がそこに流れているように感じられる。こうして、実際に、何人かの白痴児たち が教育されたらしいが、そのうちでもっとも有名な事例は、 1837年に入学してきたラウラ・ブリ ッジマンLaura Bridgmanに対する教育である。彼女はニュ‑・‑ンプシャー出身で、当時7 才であった。彼女については、 「最初の盲・聾二重障害児」 (Waterhouse,E.J. 1968 :406)と いわれたり、 「歩くことのできない盲白痴」 (植田、 1970:38)とされたり、その障害の評価に 異説がある。さらに、彼女のその後の経歴からして、必ずしも、いまいうところの白痴一精神薄 弱であったかどうかは明らかではないが、 ‑ウの献身的な指導のもとで障害をもつ児童の教育の 可能性を明らかにするのに大いに役立った。彼女の教育の成果は、 1839年ごろには多くの人々の 関心を呼んだ。 ‑ウやその友人たちは、 「盲白痴にこれだけのことが出来たのだから、盲でない
アメリカにおける初期自学痴校の成立過程に関する一研究(津曲) 223
白痴にはもっと多くのことができるのではないか」 (Howe,S.G. 1852、植田1970:39)と考え るようになった。
こうして、白痴児の教育のためになんらかの努力をすることが試みられ、いくつかの計画がた てられた。これらの計画を成功させるための第一歩は、州内にいるこれらの人々に関する正確で 権威のある情報を入手することであった。こうして、 1845年冬、白痴の実態調査の計画がすすめ
られた。 (Howe,S‑G. 1852、植田1970:39)
‑ウらのこのような活動に刺戟をうけて、当時、州下院議員であったホレ‑ショ・ボイントン 判事Judge Horatio Boyingtonは、 1846年2月26日、 「『州内の白痴の実態を諏査し、その数を たしかめ、彼らの救済方策をたて、次の州議会に報告する任務をもつ委員会を任名する処置を検 討するため』の委員会の任命を求めた法案」 (Kanner,L. 1967:8)を提案した。この法案は即
日可決され、印刷に付された。この法案によって5人の委員が任命されたが、植田(1970:39) によれば、その名前はわかっていない。
同委員全は、 1846年3月25目付で報告書を提出した。この報告書では、用、l内には『白痴』の 保護と処遇という救済のための法による適当な制度がないこと、及び、これらの不幸な状態は大 変進歩する」ということをのべ(植田、 1970:39)ている。さらに、この報告書には、 1846年3 月12日付の‑ウの手紙が添付されており、この中で、 ‑ウの思想と実践がのべられている。こう して、この「5人委員会」は、さらに十分の調査をすすめるために、 3人の委員で構成される新 たな委員会をつくることを勧告して、その任務を終える。
州議会の議決をもとにして、 1846年4月11日、州知事は州内の白痴の実態を調査し、その数を たしかめ、彼らの救済方策を検討するための3人の委員を任命する権限を与えられた。 (Howe, 1851:1)こうして、即E]‑ウ、ボイントン、ギルマン・キンボールGillman Kimballの3名の 委員が任命された。
3人の委員たちは、きっそく、州内のすべてのタウンの書記やその他の責任ある人々に回状を 発送し、それぞれのタウン内の白痴の数や実態を知ろうとした。しかし、その回答はあまり信頼 がおけるものではないと判断されたので、委員たちほみずからタウンにでかけて行って、できる だけ多くの人々に会い、白痴の数、実態、収容先等を調査した。その結果は必ずしも満足できる ものではなかったが、この調査の結果は、委員会の座長によって、 1847年3月31日付をもって、
州議会に報告されたO この報告は、州議会文書第152巻House Document No. 152に収められて いるという(Howe,S. G. 1851:1)。
この第一次報告書では、白痴に対する教育の効果、価値についてのべ、さらに、さきの論文 (津曲、 1969c, d)で紹介したところの1847年2月1日付のパリのセガンの白痴教育の実情を伝 えたジョージ・サムナ‑ George Sumnerの手続が添付されている。この第一次報告書は、議会 関係者や慈善事業、救貧院の関係者たちの関心をよんだが、 ‑ウを座長とするこの委員会は、さ らに2年間にわたって調査活動をすすめたO彼らは、ほとんど100近いタウンを実地に調査し、
「近所の人によって『白痴』としてみなされ、扱われており、彼ら自身として獣性が残っている 希望のない『白痴』として宣言されている574人の存在を確め、状態を考察し」 (植田、 1970
:43)た。この結果が、同委員会の最終報告書として、 1848年2月26日付で州議会に提出され たO この内容については、その一部をさきの論文で紹介したが、さらに、植凶論文(1970、44‑49) でくわしくふれている。要するにこの最終報告書は、州内の「白痴」の数、実態、教育の可能 性、その方法等を詳細に記し、統計的資料を付した総合的な内容をもつものとなった。
22‑1 アメl)カにおける初期白痴学校の成立過程に関する一研究(津曲)
この最終報告書は、アメリカではもとより、広くヨーロッパでも注目のまととなった。全般的 にいって、その価値を高く評価するものが多かったが、中には、 ‑ウやサムナ‑をドンキホ‑チ の属にたとえたり、 「ドクターのレポートは、彼らに関係していると同時に『白痴』であるとい うような見方もあった」 (植田、 1970:51)。こうした反論は、当時の白痴処遇の実態や、一般の 人々の考えからみれば、むしろ、当然のことであった。同上の最終報告書は次のようにのべてい る: 「数貧院での『白痴』の処遇においてあらわれた悲しむべき無知とか怠慢は直接的に個人の 不清潔さにおいて示される。彼は一週間に一度だけ身体を洗い、ベッドリンネルをかえ、それ以外 に水あびをするのは嵐の時ぐらいである。そのために彼の身体は垢でおおわれている。 (中略) 教育に関しても、我々の知っている範囲内で、彼らに教育を与えている救貧院は一つもなく、
『白痴』のかすかな精神と道徳的能力を発展させるためになんらかの組織的な企てがおこなわれ ている町や州は一つもないO他のすべての人々以上に教育を必要とするこれらの人々のための学 校は‑つもないのだ。しかしながら、公的保護を受けている『白痴』の状態はもっと悪い。彼ら
の現実の要求と能力に関する関係者の無知はひどいけれども、家庭にいる『白痴』の状態は、一 般的にいえば、さらに悪いし、彼らの保護をしている親類や友人の無知はもっと悪い。」 (Howe, S.G. 1848、植田1970:45)こうした状態が一般的である時に、白痴に対する保護、教育の必要 性と可能性を説くことは、まさに常識に反することであり、 、あたまのおかしい適中、の考えそ うなことであった。しかしながら、こういう時であったからこそ、この報告書を翼ぬく思想が単 なる方法論としてではなく、 「政治的に意味」 (津曲、 1964a :34)をもつものとなったのであ
る。
このように、この報告書のもつ意味や、当時の社会的状況との関連にっいては、あらためて考 えねばならない問題点をもっているが、結果的には、この報告書にもとずいて、 「白痴教育のた めの実験的教育施設」を設立することが提案された。
州議会は、この提案にもとずいて、 1848年5月8日、次のような決議を採択した。
「決議:もし、州知事や州議会と慈善目的のために州政府の補助をうけているところの適当 な施設とのに問なんらかの取決めが出来るという条件と、この決議による補助金が、学校基金 の負担とならないという条件があるならば、州内の各地区における公的扶助の対象者及び貧禍 家庭の中から、州知事及び議会によって選抜された10人の白痴児の訓練と教育の目的のため に、 3年間にわたって、年間25,000ドルをこえない金額が、州の財務局より支払われるべきこ と。
決議:前記の白痴児の教育と訓練をひきうけた施設の理事会は、年度末毎に、州知事と議会に 対して、前記の白痴児によって生じた実際の経費の計算書を提出すること。そして、もし、支出 の合計が、公費による補助金の合計に満たない時は、次年度の補助金の総額から減額される。
決議:前記の理事会は、その教育のために彼らのところへ白痴児をおくってきているすべて のタウンの当局者たちに、この白痴児たちに快適で見苦しくない衣服を供給しつづけることを 要求する権限が与えられる。
1848年5月8日、州知事認可O」 (Howe,S.G. 1851 : 1‑2)
こうして、州知事と、当時、パーキンス盲学校 Perkins Institution and Mass. Asylum for Blindの校長であったハウとのあいだに契約がかわされ、 「白痴たちの身体的、精神的状態が改 善されるかどうか、及び、マサチュセッツ州が他のすべての人々のために準備している教育の恩
恵が、州内のすべての子どもの中で、最も不幸なこれらの子どもにも、同様に、拡大されるべき
アメ1)カにおける初期白痴学校の成立過程に関する一研究(津曲) 225
かどうかという実験」 (Howe,S.G. 1851 :1‑2)がはじめられることになったO この契約の条件 のひとつは、州内の貧困家庭の児童をすくなくとも10人選んで教育することであった。こうした 児童は、1848年の秋に、州内の各地からあつめられたが、そのほとんどは、救貧院Almshouseか
らつれてこられた0
1848年10月1日、 ‑ウを校長にして、パーキンス盲学校の一隅に「白痴教育のための実験学 校」が開設され、同日、最初の児童が入学した。この時、 「‑ウはセガンにこの学校の校長にな
るよう説得した」 (Pritchard,D. G. 1961:70)が、果さず、結局、ハウが校長となり、実際の 教育にはジームズ・リチャードJames B. Richards が選ばれたo この時、ホレース・マン Horace Mannがハウとリチヤ‑ドをひき合せたと伝えられる(Williams,T.C.1886:44) 。リ チャードは、 1847年に教育方法の研究のために欧州にわたり、一年間にわたってイギリスやフラ
ンスの白痴施設を見学している(Lincoln, D. F.1902 : 2157‑8)。
1850年2月、 ‑ウは実験学校の第一年目の報告を提出する。同報告は議会の命令によって印刷 に付され、 House Document, No. 38に収録されている。実験学校の成果は多くの人々の注目を あつめ、この学校を恒久的なものとすることが望まれた。そこで、植田(1970:52)によると、
1850年4月4日、 「マサチュセッツ州立白痴、低能児学校Massachusetts School for Idiotic and Feeble‑Minded Youth法人化法」が成立、 2年目にして、早くも恒久化の基盤ができたと いう。同校は、なお、リチャードが教師をつとめていたが、そのほかに、エドワ‑ド・ジャービ ス博士Dr. Edoward Jarvisが、いろいろな点で協力していた。同校は、一時、南ボストンに 広い個人の家を借りて移転した。ここには広い庭があって、体育やリクレーションのために好都 合であったが、一年もたたないうちに再びもとの盲学校の古い建物の一隅にまいもどらなければ ならなかった。その理由は経済的なものであったようである(Howe, S. G. 1851:6)
第3年目をむかえて、州との取りきめによって入学した児童は17人であったが、そのうちの7 人は、精神病、脳水腫、虚弱、高知能等の理由で、すぐに外に出された1851年現在、在校生は 10人で、その内訳は男子7名、女子3名である。彼らは、すべて、州議会の実験学校の法令に 沿って、州内の各地の貧困家庭や救貧院からえらばれてきたものたちであった。同校には、この ような州費による児童の他に、 8人の私費生を入学させ、そのうち5人がが残っていた。この私 費生を入学させる目的のひとつは、州費のみではたりない実験学校の経費をひねりだすことにあ った。もうひとつの理由は、白痴教育の成果を一般に宣伝することにもなるということであっ た。
1851年、公立慈善施設連合委員会The Joint Committee of Public Charitable Institutions が同校を視察し、 「実験は非常に成功しているように思われる。発達のためのこの不幸な人々の 能力は疑問をこえていることがわかったように思われる。しかしながら学校は、もし州議会によ
る議決と恒久的な基礎づけがなかったならば、断念されるに違いない。」 (Richards, L. E. 1935、
植田1970:53)と報告した。州議会は、この報告を受けて、 1851年4月3日、毎年5,000ドルを 1851年10月1日以降、同校に支出することを可決した。しかしながら、この補助金の増額分は、
そのまま実験学校の内容面の充実にあてられるのではなく、入学対象者を30名ないし45名とし、
「利益をうる『白痴』の少年と少女を教えるために一週間につき3ドル支払う」 (Howe, S. G.
1857、植田1970:55)というものであった。
1851年10月1日、 3年間の実験期問がおわった時点で、実験学校は、 「マサチュセッツ州立白 痴、低能児学校Massachusetts School for Idiotic and Feeble‑Minded Youth」として、恒久化
226 アメリカにおける初期 る一研究(津曲)
される。同校には6才から12才までの公費生及び私費生を入学させ、 「てんかん、気ちがい、希 望のない脳水腫、マヒ児」等は除外した。公費生となるものは、年間150ドルの月謝の支払いが 不可能であり、且つ、 「気ちがいでないが、他の同じ年令の子どもと同じように普通学校で教え
られない程精神能力において欠陥をもっている」 (植田、 1970:56)ものであった。
同校は依然としてパーキンス盲学校内におかれていたが、 1851年11月はじめに、南ボストンに 移転した。なお、 1848年から3年間は、さきにのべたりチャードが教師をつとめていたが、南ボ ストンに移ってから、セガンがその教育にあたったもののようである。しかし、その親間には異 説があるOすなわち、 「カンナーKannerによるとハウがホレース・マンにあてた1852年1月2 1目付の手紙でセガンを雇った内容のことが書かれ、 3月15日付のサムナ一にあてた手紙の中に セガンが学校を去っていったことを書いている。 1851年11月からセガンが‑ウの学校で働いたと いう‑ウのFirst Report,やTalbotが示す内容とは時期が違っている。」(植田、 1970 : 6ト62) 写真⑧はそのころの建物である。
同校は、 1855年、南ボストンに新校舎を建設する。州はその ために25,000ドルを支出することを承認した。こうして、マサ チュセッツ州立白痴学校は名実ともにひとつの学校としてのか たちをそなえることになる。同校は、その後、 1897年にウェイ バリーに移る。 1890年代から児童数が確実に増加の傾向を示
し、巨大な収容施設として変容していくのである。なお、同校 は、長い間同校の校長をつとめたウォルター・E・ファーナル ドWalter E.Fernald (1850‑1924)を記念して、ウォルター
・E・ファ‑ナルド州立学校として現存している。
(3) Syracuse State Institution for Feeble‑Minded Childrenの場合
ニューヨーク州における白痴学校成立の機運は、前記のマサチュセッツ州に先行していた.ニ ュ‑ヨーク州上院議員(ロチェスター選出)バッカス博士Dr.Buckusを委員とする医学委員会 が、州内の白痴の実態調査をおこない、その結果を州上院に提出した。 1846年1月13日のことで ある。この報告書は、州内の白痴の数、実態、ヨーロッパ諸国の白痴教育の紹介等からなり、白 痴のための教育施設は時代の要求するところであると結んでいる。ついで、同年3月25日、バッ
カス上院議員が中心となって、 「白痴施設An Asylum for Idiots設立法案」を議会に提出した。
同法案は、上院は通過したが、 「ある政治上の理由」 (Seguin, E. 0. 1866:13)によって、下 院で否決されてしまった。同法案は、次の年の1847年にも上提されたが、同じ結果となった。
かくて、ニューヨーク州における白痴施設設立の動きは一時中断され、前節にのべたマサチュ セッツの白痴教育実験施設が先に設立されることになる。そして、このマサチュセッツの白痴教 育の実験の成功が、ニューヨーク州にもたらされて、同州の白痴学校設立の誘因となった。
前にのべたマサチュセッツ州の白痴教育実験学校の校長、サムエル・‑ウが、 1850年から1851 年の冬にかけて、彼の学校の児童をつれて、ニューヨーク州オールハニーAlbanyにやってき たO ここで、ニューヨーク州の当局者を前に、マサチュセッツ州の実験学校での成果をデモンス トレーションで示し、ニュ‑ヨーク州でも白痴のための学校が設立されるべきであることを説い た。この‑ウのデモンストレーションについて、ニューヨーク州の‑ントHunt知事は、 1851年 7月の‑ウヘの手紙で次のように書いている。 「去年の冬のあなたの私の州への訪問は大変有益 であった。私たちほ、今後の対策が成功すれば、それは多分にあなたのおかげであると思ってい
アメリカにおける初期白痴学校の成立過程に関する 227
る。また、私たちの計画を実行するために、さらにあなたの経験と助言を得たいと考えている。」
(Kanner,L. 1964:62)このような運動が効を奏して、ようやく、 1851年7月10日、二年間の 期限つきで、白痴教育のための実験学校を設立し、その運営のために、年間6,000ドルの補助金 を支出する法案が可決された。 (Brown, C. W.1897 : 134‑5)
同校はオールハニーに設立されることになり、その校長を選任する委員会が設置された。委員 たちほ、すでに設立後3年を経ていたマサチ3.セッツ州バ‑レの私立白痴学園を訪問し、白痴教 育の実態を知り、白痴学校の校長の資格、要件を知ろうとした。しかし、彼らは、バーレの学園 がウイルバ‑博士によって立派に運営されていることを見て、ウイルバー博士その人をニューヨ
‑クの白痴教育の実験学校の校長にまねこうと考えるようになった(Kanner,L. 1864:63)か くて、 1851年10月、ウイルバ‑博士を校長とする白痴教育の実験学校がオールバニ‑に発足し た。同校の第‑年報によれば、定員20名に限定されていたということである。
1854年、同校は、シラキュースSyracuseに新校舎を建設することになった。その定礎式は、
1854年9月8日におこなわれ、セガンをはじめ、ウイルバー、 ‑ント知事等が列席した。(Seguin, E.0. 1866:ll) ‑ウもお祝いの手紙をよせ、次のようにのべている。 「いまここに礎石がおか れるべき施設は、一つ鎖の最後の輪‑すなわち、公的な援助を必要とするすべての人々を包含 するような州の慈善の輪を完成させるものである。従来、長い間にわたって、聾唖者、盲者、精 神病者がその輪の中に含まれていたが、今や、白痴たち‑他のすべての障害者のどれよりも悲 惨な人々がその輪の中に含まれようとしている。儀式そのものは時がたつにつれて忘れられてし まうだろうD建物も時がくればこわれるだろうo しかし、この施設は州が存続する限りつづくO なぜならば、ひとたび人々があらゆる不幸な人々の要求を認識すれば、慈善の負担を拒否するお それはないからだ。あなたが、今、地中深く埋めた礎石と同じように、連帯のきずなは、人類愛 に富んだ心の中にしっかりとうめられたのである。」 (Seguin,E.0. 1866 : ll)
1855年に新校舎が完成、移転する。同時に、同校は実験学校から、恒久的に「州立白痴学園 The State Asylum for Idiots」として出発する。教育の内容、方法については、本報告ではふ れないが、同校は、セガンの生理学的教育方法を採り入れた学校としても知られている。
同校もまた、その定員が着実に増加していった。ウイルバー博士は、 1883年の死に至るまで同 校の校長の職にあった。彼の死後、カーソン博士Dr. J. Carsonが1912年まで在職、そのあと をコップ博士Dr. Cobbにひきついでいる。コップ博士が校長の時同校は、 「軽症の男女児」
(Kanner,L. 1964 :62)のみを対象とするようになり、重症のものは、 1894年設立のローム学園 等に収容するようになったO なお、同校は、後には、ニューヨーク州立シラキュース低能児学園 The Syracuse State Institution for the Feeble‑Minded と呼ばれるようになった。現在でも、
ニューヨーク州の精神薄弱教育の中心として,大きな影響を与えつつあるということであるo (4) Pennsylvania Training School for Feeble‑Minded Childrenの場合
ペンシルバニア州立低能児訓練学校は、ジェームス・リチャードが私的な学校をつくり、その あとで、州による白痴学校設立の動きがおこってきた。
マサチュセッツ州立実験学校の教師であったリチャードは、 1852年の秋、フィラデルフィアに やってきて、ジャーマン・タウンGermantownに私的な学校を開設した。 (Lincoln, D. F. 19 02:2158)。そして、彼の発案によって、 1853年2月10日、ジェームス・ J ・バークレー氏James J. Barday, Esq.の事務所で、白痴や低能児の教育と訓練のための施設をつくるための方策を話 し合うための市民の会合が開かれた。この会合でのリチヤ‑ドの演説は、アロンゾ・ポッター司
228 アメリカにおける初期白痴学校の成立過程に関する‑研究(津曲)
教Bishop Alonzo Potter,ジョージ・ B・ウッド博士Dr.Geo, B. Wood,アイザック・コリン ズIsaac Collins,ケーン判事Judge Kane,ト‑マス・ア‑ウイン Thomas Erwun,ヘンリー
・マーチンHenryMartin,ジョン・ファーヌンJohn Farnum らの心をうったO ジエーム・バ ークレー、 A.L.ェルウイン博士A. L. Elwyn,フランクリン・ティラー Franklin Taylorの 3人がこのよびかけにこたえて、最初に、このような施設の法人化法案を提出した。エルウイン 博士は、リチャードを伴って‑リスベルグHarrisburgに行き、そこでリチヤ‑ドは、上下両院 の合同会議において演説し、聴衆をして、彼の個人的な新しい分野の仕事の話にひきこませた。
(Williams, T. C. 1856:417‑8)そうして、 1853年4月7日、州議会は、ペンシルバニア州立 低能児訓練学校を認可し、育成する法案を可決した。こうして、アメリカにおける三番目の州立 学校が発足した。
この法律のもとで、リチャードが、ジャーマンタウンの二つの家屋をつかってHTraiming School" (Williams, T. C. 1886:418)を開設した。また、上にものべたアルフレッド・エルウ
インは、当時、フィラデルフィアの有名な医師であったが、リチャードと協力して、 1854年に は、州政府から、 10,000ドルの補助金と、 10名の公費生の委託をうけて、同校を法人組織とし た (Lincoln, D. F. 1902:2158)、 Wallin,W. (1955:10‑ll)によれば、同年、フィラデル フィアに移転している。
1855年、交通の便利さ、静かな環境、健康上の問題等を考慮して、ジャーマンタウンのウッド
・アベニューWood Avenueに一軒の家が購入され、移転している。そして、このごろ、リチ ャードは、同校をやめて、ニュ‑ヨークに行ったもののようであり、おそらく「1856年の初頭」
(津曲1969c :292)ニュ‑ヨ‑ク州立学校に来ていたセガンが、ペンシルバニアの学校の理事 会やポックー司教のまねきをうけて、同校の経営をひきうける。しかし、セガンは「ある理由」
によって、同校の校長を辞任し、再びニューヨークに帰ってっいたO ウッド・アベニューの校舎 は、移転当初は、ここを恒久的な敷地にする予定であったが、 1859年(Lincoln, D.F. 1902 :21 58)、ジョセフ・パリッシュ博士Dr. Joseph Parrishが校長の時、拡張の必要にせまられて、メ
ディアMediaの近郊に移った。
同校への入学経路には次の六つの場合があったOすなわち、ペンシルバニア州、ニュ‑ジャー ジー州、デラウェア州、メリーランド州の各州の費用、ペンシルバニア州軍人遺児基金及びフィ ラデルフィア市の費用からであり、それと私費による入学生である。このように、同校には、隣 接諸州の白痴児たちも入っていた。したがって、南北戦争がはじまった時、いわゆる反乱州出身 の児童が12名在籍していた。当時の理事長であったアロンゾ・ポックー司教は、 1865年1月3日 の口付で、州の両院に対して、次のように報告している: 「これらの児童の負担は、当校にとっ て、重大な問題となりつつある。しかし、人道主義の精神は、これまで通りに彼らを保護しつづ
けることを命じている。」 (Kanner, L. 1964:65)
1864年、パリッシュ博士は、傷病者問題を処理する委員会の仕事に携わるために、同校の校長 を辞任した。その後任には、パリッシュ校長の助手であったアイザック・N・カーリン博士 Dr. Isaac N. Kerlin (1834‑1893)がえらばれた。カーリン博士はペンシルバニア大学で医学を 学び、 1858年にペンシルバニア州立白痴学校のスタッフに加わった。彼は校長としてすぐれた業 績をあげるとともに、全米の白痴学校の組織づくりにも貢献した。こうして、ペンシルバニアの 白痴学校は、カーリン博士と、そのあとをひきついだマルテイン・バール博士Dr.Martin Barr
によって、大きな学校に発展していくのである。
アメリカにおける初期白痴学校の成立過程に関する一研究(津喧2 229
(5) Ohio Asylum for Imbecile and Feeble‑Minded Youthの場合
オ‑イオ州立痴患及び低能児学Eaは、 1857年4月17日の法律によって設立された。現在のコロ ンバス州立学校The Columbus State Schoo】であり、当初から大規模な学校として発足し、 20 世紀初頭には、 2,000人を超えるアメリカ最大の学園となる。しかし、その設立の事情について は、まだほとんどわかっていない。
校長は創立以来、 G. A.ド‑レン博士Dr. G.A. Dorenが長い間つとめた。 1881年11月18 日、本館が火事で全焼したが幸いなことに死者はなかったという(Kanner, L. 1964 :65)、1898 年にはコロニー建設のための土地を購入し、同校から12マイル離れたところに「保護農場」
Custodial farmを建設した。そこは1,068エーカーの広さをもつ豊かな土地であったという。
(Lincoln, D. F. 1902 : 2158)
(6) Connecticut Institution for Feeble‑Minded Childrenの場合
1858年、コネチカット州における最初の低能児のための学校の崩芽が、ヘンリー・M・ナイト 博士Dr.Henry M. Knightによってはじめられた。 (Kanner, L. 1964:65)。写真④はナイト 博士である。
ナイト博士は、 1827年8月11日にコネチカット州スタッフォ‑ド Sta庁ordに生れ、 1849年、バークシャ‑医科大学を卒業し、医師を開業 した。 1854年、州議会に選出され、みずからの音頭でつくった州内の白 痴児の実態調査委員会の委員に任命された。委員たちはその調査活動を 通じて、 「狂人と同数ぐらいで、叉、聾唖者の8倍、盲者の2倍以上の 白痴たち」 (Kanner, L. 1964:65)を見出した。 1855年ごろ、彼は、
他の二人の委員とともに、マサチュセッツ州バーレの私立学Eaのブラウ ンのもとを視察(Brown, G. 1880:116)している。同委員会は、 「す でに、このアメリカにおいてこの種の学校が設立されていること、コネ チカット州も、これらの不幸な子どもたちに必要なあらゆる人遺的にお
くれをとるべきでない」という勧告をだした。そうして、同委員会は、ウイリアム・T・マイナ ーWilliam T. Minor知事の支援のもとに、 40,000ドルの費用をこの種の学校建設のために支 出するように求めた。委員会の計画は、 40,000ドルのうち、 25,000ドルの州費の支出を州議会に 求め、のこりは一般からの寄付に訴えようというものであった。州費支出案は、 15,000ドルに減 額されたけれども、わずか5票の反対があったのみで下院を通過した。しかし、上院では議長の 反対のために、この法案は成立しなかった。そこで、ナイト博士は開業医をやめて、レークビル Lakevilleの自宅を白痴児たちの保護、治療、教育のために解放した。おそらく1858年のことで
あり、冒頭にのべたように、ここに、後のコネチカット州立低能児学園に発展すべき核ができた のであるo彼は、その後数年は、関係者や一般の人々の関心をたかめるために、独力でがんばっ た。そして、彼の実践は次第に多くの人の共感を呼ぶようになった。
1861年5月、 「州内のもっとも悲惨でめぐまれない人々」への援助を与えるための法律が成立 した。 1864年、ナイト博士の学校は、レークランドLakelandの新校舎に移転した。新校舎に よる開校式には、当時アメリカ存在していた白痴学校5校のうち、ウイルバー、カーリン、ブラ ウンの3校長からお祝いの言葉がおくられたQ ナイト博士は、 1880年1月22日の死に至るまで、
白痴児たちの教育に献身している。 (Kanner, L. 1964 :65‑66)
同校はアメリカ教育局の統計によれば、私立学校Private Institutionの中に入れられている。
230 アメリカにおける初期白痴学校の成立過程に関する一研究(津曲)
また、ニューヨーク、マサチュセッツ、ペンシルバニア、オハイオの各州立学校よりも、マサチ ュセッツ州バーレの私立学園に似た児童数の推移をとっている。したがって、同校は、私立学校 的色彩で終始したものと思われる。なお、同校は、 1917年、ユネチカット州立マンスフィールド
・トレイニング・スクール及び精神薄弱、墳痛病院The Mans丘eld State Training School and Hospital for Mentally De丘cient and the Epilepticが開校したのを機会に閉鎖され、 (Wallin, W. 1955: ll)その歴史を閉じた。
(7) Kentucy Institution for Feeble‑Minded Childrenの場合
ケンタッキー州立低能児学園は1860年に設立された(Kanner,L. 1864 :66)といわれるが、
その経過については、現在のところ、資料がない。この点は今後の問題としたいが、次に示すよ うに、かなり複雑な事情にあったようである。
アメリカ教育局の報告において、その児童数に関する統計があらわれるのは、 1874年以降であ る。これに対して、 1873年の同報告は、同年現在の児童数が95人で、その年には36人が入学し、
17人が卒業、 8人が死亡したことを伝えている。この17人のうち、 1人を除いて全部のものが顕 著な進歩をみせ、適切な指導者のもとで、仕事に従事し、自活していたという。 15人の在籍のう ち、四分の三のものは、同校の教育によって、自立自助ができるようになった。その多くのもの は、読み書きの能力を身につけ、神や人間に対する義務を理解できたという。
同校の在若者のうち、貧困者に対しては、州がその費用を負担し、財産をもつものは、その親 が財産に応じて、 150ドルを超えない範囲で、衣服代を負担した。入学希望者たちのうちで多く の児童たちが、次の二つの理由から入学をことわられた。ひとつには、収容能力が限定されてい たためであり、もうひとつには、学校の方針として、同校は精神異常者や慢性の療病たちの収容 所ではないという考えのためであった。同校は、進歩の見込みのない白痴の保護収容を目的とす るのではなく、州内の普通学校で読み書きを教えることができないような程度の低能児 Feeble‑
minded の教育を目的としていたのである。これらの児童たちが、彼らにふさわしい教育のもと で大いに進歩するということは、関係者の間では自明のこととなっていたのである (Commis‑
sioner of Edu. : 1873 : 130‑1)
このように報告されながらも、同校は、一方では、 「しばらくの間、ねむっていた」 (Comm‑
issioner of Edu. : 1874: 141)ともいわれる。そこで、 1874年2月23日の法律によって、 「再建」
されねばならなかった。この法人化法案には、はっきりと次のように規定してあった: 「これは 進歩の見込みのない白痴の保護のための収容所ではなく、低能児の教育のための学校であるThis
is not an asylum for the care of unimprovable idiots, but a school for the education of
feeble‑minded children.」 (Commissioner of Edu. 1874 : 141)入学年令は6才から18才の間で、
州が授業料を補助した。なお、当時審議中であったところの貧しい精神異常者の交通費支給法案 が成立をすれば、貧しい低能児の交通費も支給されるはずであった。
上記の法人化法案によれば、同校の在籍期間は10年間とさ れたが、どの児童も、同校の理事会の判断によって、いつで も退学を命ぜられることも規定されていた。この規定によっ て、低能児を入学させるために約20人の児童が進歩の見込み のないものとして退学させられた。同校はフランクフォルト Frankfort市の郊外の高台にあり、その教育、訓練の成果は 高く評価されていたという(Commissioner of Edu, 1874 :
アメリカにおける初期白痴学校の成立過程に関する一研究(津曲) 231
141)写真(参は1890年代の建物である。
(8) Illinois Asylum for Idiotsの場合
イリノイ州立白痴学校は、 1865年2月15日、州議会の法律制定により、 「白痴、痴愚のための 実験学校An Experimental School for Idiots and Imbeciles」として設立された。マサチュセ ッツ州の場合と同じように、既に存在していた聾唖学校 the Institution for teh Education of the Deaf and Dumbの理事会がその管理にあたるとされた。場所は同州モルガン郡ジャクソン ビルJaksonville, Margan Countyが選ばれ、初代校長にはチャールス・ T ・ウイルバー,C. T.
Wilbur博士が任命された。
同校は、 1865年9月1日に開校、低能児教育のための実験学校として発足する。その成果は、
短い期間ながら日をみはるものがあり、関係者や親・友人たちの期待をはるかに越えるものがあ った。そこで、州議会は、 1871年の全期において、同校を独立させることを決め、 1871年4月6
日の法律によって、 「イリノイ州立低能児学園Illinois Institution for the Education of the Feeble‑Minded Children」として法人化された。
新LLく発足した同学園は、州の慈善施設のひとつと見なされた。一学年は10カ月とされた が、この間の寄宿費、授業料は無料であった1870年当時の在学生の大部分は公的救済の対象と なっており、その両親の財産に応じて、児童の生活費や授業料を支払うことができたが、多くの 生徒は、州費の補助をうけていた。
同学園の教育、指導は、児童の能力が許す場合は、基礎的な教科もおしえられていたが、 1870 年代に入ると、日常の生活に必要な具体的な事柄を中心におしえられた。児童、生徒の進歩の度 合いは著しく、開園以来、 1871年末までに同園を卒業したものは64名にのぼっているが、そのう
ち、 44名は非常な進歩をみせた。あとの20名は、療病その他の理由で退園させられた。写真⑥ は、 1890年代の建物である。
(9) Idiots Asylum, Randall's Island, N. Y.の場合 ニュ‑ヨーク市のランドール島につくられたというこの白 痴施設については、ほとんど知られていない。 Davies,S. P.
(1960:24)は、 「ニューヨーク市は、 1870年にランドール 島に白痴のための学校と病院を設立した」とのべ、その説立 にあたっては、当時ニューヨークにいたセガンが個人的に援 助したという。しかし、アメリカ教育局の報告においては、
1868年設立となっており、現在のところ、きめてはないが、 1868年としておく。同局の報告に統 計的にあらわれてくるのは1876年からである。この施設は、後には、ニュ‑アーク、ローム、シ ラキュース、レッチウォース・ビレッジなどの諸施設とともに、ニュ‑ヨーク州及び市の施設、
学校群を形成した。ここは、当初から、あらゆる程度、重症のものを対象にしていた (Davies, S.P. 1960 : 24)
(10) School for Imbecile Children (Fayville, Mass)
マサチュセッツ州フエイビルの低能児学校は、 1870年、ナイト夫人Mrs. Knight及びグリー ン夫人Mrs. Greenによって設立された。ヒルサイド遅滞児・異常児学校Hil】 Side School for Backward and Peculiar Children と呼ばれていたようである。さらに、その後にくつかの名前 を経て、アメリカ教育局の報告から姿を消す。児童数も10人を超えない小規模なものであった。