奈良教育大学学術リポジトリNEAR
19世紀初頭のフランスにおける白痴教育に関する一 研究
著者 津曲 裕次
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 18
号 1
ページ 205‑225
発行年 1969‑11‑26
その他のタイトル A STUDY ON THE EARLY 19TH CENTURY EDUCATON FOR THE IDIOTS IN FRANCE
URL http://hdl.handle.net/10105/3119
205
19世紀初頭のフランスにおける白痴教育に関する一研究
津 曲 裕 次 (障害児学教室)
I は じ め に
(3D
本稿は、先にあきらかにしたエドワード・セガンに関する研究において、論文の構成のうえか ら若手の考察を試みたところの19世紀前半のフランスにおける白痴教育をあらためて考察してみ ,ようとするものである。先の論文においては、この点は、エドワード.セガンの人物研究の一部 としてとりあつかわれたということもあって、資料的にもあいまいな点が多くとりのこされてい た。ただ、そこで19世紀前半、セガンが白痴教育にとりくむ頃には、フランスにおいてかなりの 白痴の処遇・教育の実践・理論が先行していたということは明らかとなった。この事実をセガン 研究の中に位置づければ、セガンの白痴教育の実践及び研究も、彼自身の偉大さもきることなが
ら、 19仕紀初頭というフランスの社会の要求するところでもあったということである。とすれ ば、我々の追究するセガン研究を更に深めるためにも、彼の白痴教育に連なるフランス19世紀前 半の白痴処遇.教育の実態を更に明らかにする必要がある。本論は、かかる問題意識のうえにあ つめられた資料にもとずく研究である。
したがって、本論は、フランスの精神薄弱教育史という観点からみれば、まだまだ不十分な点
‑を多く残している。本論における研究上の課題は、セガン研究の延長として、セガンに連なる白 痴教育の実践をはりおこし,その事実相互の連関を明らかにしようとすることであって、精神薄
)蒔3]E
̲弱教育史研究のねらいであるところの法則性の追究という観点からは、その‑歩手前の段階であ るといえる。ここで集められた事実を更に深め、社会の中に位置づけ、歴史現象としての法則性 を導きだすのは今後の課題であるが、特にフランス精神薄弱教育史の研究ということになると、
研究者の層の薄さ、資料的制約等もあって、某に多くの困難な問題が前途に横たわっている。
本論は、こうした研究の発展段階を考慮しっつ、現在手元に集ってきた資料をもとにして、 19
‑倍紀前半、具体的には1840年代を軒Dに、フランスでの白痴教育の事実を明らかにし、若干の問 題点を提起することを直接の課題とする。したがって、先の論文と関連しており,その後の研究 の発展及び資料にもとずいて、先の論文を深め、訂正しつつ、より具体的な叙述を展開する。論 文は年代を追って構成されるが、一応、理論的な流れと実践面の系譜に分けて章をたてた。章の 中では、実践者、研究者による節をたてたが、これは、現段階ではやむを得ぬことであった。将
(37)
一乗は、事象の発展段階を加味した時期区分がとりいれられなければならないだろう。叙述の特徴 としては、本論文は、先の論文とは趣きをかえて、異説の整理や註釈にあたる部分もできるだけ
「本文の中に組みこむようにこころがけたo論文をできるだけ読みやすくとこころがけるのは研究 者のつとめであり、そのひとつの試みである。したがって、文末の証は、この論文を書くにあた
って参考にしたり、引用した著書・論文を著者のアルファベット堀に列記するに止めた。
精神薄弱教育史の研究としても、こうした具体的な研究がつみ重なって、その法則性が一層明
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19世紀初頭のフランスにおける白痴教育に関する一研究(津曲)
らかとなり、現代の精神薄弱教育の課題が明らかになるのではないかと考えるO精神帯封教育のヵ 研究の方法論としての精神薄弱教育史研究のあり方を含めて、先学諸兄姉の御指導・御批判をみ おぎたいと考えているo
Ⅱ 19世紀初頭のフランスの白痴教育の研究 1.白痴の処遇の実態
人類の始願から中世にかけて、精神薄弱と呼ばれる人々がどのような生活をおくり、どのよう な処遇をうけていたかということについては、必ずしも明らかになっているとはいい難い。中世 社会における精神薄弱者の処遇についていわれている現在の通説は、精神薄弱者は永遠に成人に̲
ならない「善なる主の子」であり、神と神秘的な結合をもって神と語りうるものとして畏敬をも ってながめられ、尊敬されたり、意魔に愚かれたものとして疎意されたり、排斥されたり、その・
特異性のために、ことにクレテン性の精神薄弱者はその性質が好機嫌で社交的であることから大
)il生E
々に愛玩として迎えられ、道化師としてヨーロッパ各国の宮廷に入ったりしたという ことであ る。し右ゝし、このような理解の仕方は、研究方法の上からも数少ない資料の拡大解釈におちいり
3順E
やすいという批判があり、更に、こうした相互に相矛盾するような理解が,近世以降の精神薄弱 者の処遇にどのように結びついているのかが明らかでないという歴史研究上の根本的な間塩点が あったO したがって、現在の精神薄甜教育史の研究の段階では、どの時代、どの国をとりあげてI
3耳翌i]
も、研究方法及び研究の視点における議論をよぴおこさずにはおかない。故に、本論のように、
19世紀初頭の白痴教育を論ずるにあたって、白痴の処遇の実態から書きおこすのは、それだけで ひとつの研究方法を示していることになる。
この研究上の立場を要約すれば、それは、精神薄弱教育が成立を近代社会の成立期に求め、そ
b苧串i:
れ以前を「前史」部分として、ここでいう白痴の社会問題化の過程とみるアプローチの方法であ るO具体的には、白痴と呼ばれる人々が、近代社会の成立とともに社会問題として顕現化し、救 貧院や精神病院の中で、非人道的な処遇を受けているということが社会の関心を呼びはじめたと
いうことであった。
こうした事情は、 18世紀のフランスにおいても同じであったO狂人、病魔と呼ばれた精神異常 者たちは、治療は不可能であるとみなされ、身よりがなかったり、犯罪性向があったり、貧困に
おちいったりしたものは、監獄や精神病院,救貧院等に収容きれていたO もし、こうしたり恐怖l の家Hに収容きれない場合でも、世間の人々に噸笑されたり、石を投げられたりしながら町から 町へと放浪の生活をおくっていた。この時代の精神異常者は、医学の対象ともされず、狂人とし
V
て恐れられるばかりであった。
したがって、救貧院、精神病院や社会での白痴の処遇は非科学的、且つ、非人道的であった。
「彼らは監獄に入れられ、あらゆる種類の犯罪者たちと‑諸に処遇されていた。要するに全く非二 人道的な取扱いを受けていたのである。鎖で鉄の玉につながれたり、重い足伽をはめられたり、
暗く狭い不潔な監獄に閉じこめられていることは日常茶飯の事であった。彼らになんの同情心、を も持たない獄吏の虐待のままに身をまかせ、彼らの苦しみを見て楽しもうとする物見高い人々0}
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好奇心の対象ときれていたのである。 」あとでふれる当時の精神科医エスキロールも次のように
のべている。 「これらの不幸な人々は、犯罪人たちよりもひどい扱いをうけ、動物にもおとる披
19世紀初頭のフランスにおける白痴教育に関する一研究(津曲)
207° °
腰にまで退化させられている。私は裸のまま放置きれていたり、ぼろしか身につけていない人々 や、寒さや湿気をしのぐのにわずかにワラしか与えられずに堅い石の上で寝なければならない多
(33.1
くの人々を見た。 」
パリ及びその近郊にはこのような「収容所」が二カ所あったO その所在地の名前をとれば、ビ セ‑トルとサルペトリエ‑ルである。ビセ‑トルBicetreはパリの郊外にあり、 13世紀に築かれ た横主の居城に由釆する。ルイ三世によって傷病兵たちの病院となり、 17世紀に入って救貧病院 として貧しい病人、犯罪者、老人などを収容するようになったO サルペト1)エ‑ルSalpetri芭re は不治永患院とも呼ばれ、パリ郊外の小村にある017世紀にはヴィンセント・ド・ポール Vincent de Paul が救貧院をおいたと伝えられ、 1778年には約8千人の貧困者や病人を収容し ていたといわれる0 18世紀の末には、ビセ‑トルには男子、サルペトリエールには女子の精神異 一常者が収容されていた。
このように、まだ直接的な資料はないけれども、 18世紀の未までは、白痴たちが、救貧院や精 胡り両院で極貧者や犯罪人たちと一緒にみじめな生活をおくっていたということは言えそうであ る。このような状態がいかにして成立してきたかということの研究が、筆者のいう「前史」部分 の研究であるが、いまはふれない。ただ、この時期が、いわゆる中世の崩壊から近世の夜明けに
あたること、具体的には救貧法体制、社会的医療、啓蒙思想の展開などが関連しているという指 一摘に止めるo
さて、このようにして、白痴が社会問題化することは、一方ではその改革運動を引きねこすこ とにもなった。先の論文でもふれたように、 1785年の狂人待遇の改善に関するコロンビェの論 文、同年のルイ16世によるロテル・デュ‑病院の改革案、 1788年のミラボーによる「イギリス旅 行者のビセ‑トルとよぶ監獄の見聞記」 、貴法修正議会でのラ・ロシュフーコーの病院改革案な
(36)
どがその一例であるが、より直接的には、次節以降でのべるような精神科医や博愛主義者による 由痴に関する研究、治療、教育の試みがあった。
2.白痴の研究と治療・教育の可能性の追究
<1 フィリップ・ピネルによる白痴の研究と解放
フィリップ・ピネル Philip Pinel は、 1745年4月20日、南仏のサン・アンドレSt.Andr色
5『m
の医師の子どもとして生れ、 1826年10月25日に死んだoなお、先の論文では、ピネルの死んだ年
・・を1820年としているが、これは間違いである。
彼は、最初は古典哲学に興味を持ったが、やがて、当時の新思想であったロック Locke, J.
し一(1632‑1704)やコンディアック Condillac, E.B. (ユ715‑1780)の影響をうけるようになった。
彼はツールーズで医学を学び、モンペリエでさらに研究を積んだ後、パリにでてくるO彼が若い イギリスの友人とともにパリについたのは、人間精神の偉大な指導者、ヴォルテ ‑jV Voltaire, (1694‑1778)とルソーRousseau, J. J. (1712‑1778)の死んだ年、即ち、 1778年のことであっ たQ ピネルがパリに到着したのはルソーの死後数日の後であったというo彼は早速、パリ郊外エ ールノンヴィルのルソーの墓に詣でて探くその死を悲しんだo ピネルはこうした偉大な思想家のみ
ならず、モンテスキューMontesquieu, C.L.S. (1689‑1755)の法の精神に親しみ、エルグェシ
ウスHelvetius, C. A. (1715‑1771)夫人のサロンで当時の駐仏アメリカ大使フランクリン
ーFranklin, B. (1706‑1790)やラヴオアジエ Lavoisie, A. L. (1743‑1793) 、 コンドルセ
208
19世紀初頭のフランスにおける白痴教育に関する一研究(津曲)
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Condorcet, A. C. M. (1743‑1794)らと交際していた。一方では古い医学を批判しながら、医 学の研究を積むが、彼がこうした時代の思想家たちの影響を深く受けていたということが、彼の 精神異常者を人間としてみるという姿勢に深くかかわっているということがいえるのではあるま いか。
ピネルが本格的に精神の病気に関心をよせるようになったのはかなり晩年のことであった0 1783年、彼は一人の友人の発狂とそれに対する当時の治療の実際をみることによって、新しい精 神病の治療方法を構想しようとした。彼は、ヒポクラテスHippocrates (c.460‑c.377B.C.)、
ケルススCelsusガレノスらの古典をよみなおす一万、当時、金持の狂人だけを収容していた私 立のベロムBelhomme病癖院に出入りを許されて、実際的な観察をおこなうことができた。こ うして彼は本格的に精神病の問題ととりくむようになり、雑誌に発表した彼の論文が世人の注昌 をひくようになった。
前にのべたように、時あたかも、井人道的な扱いに終始していた精神病院に対して数々の改善 案が示されつつある時であった。ピネルは、みずからの体験を通して、 1789年から1793年のルイ 16世の処刑に至るフランス革命を知った。そして、一時は政治に失望して科学の橿界に逃避しよ うとしたが、 1793年8月25日、ビセ‑トル精神病院の改革委員会に懇願されて、院長に就任し、
その改革の任にあたることになった. 48才の時のことである。ピネルがビセ‑トルで第一にやっ たのは狂人を鎖から解放することであった。彼は数日の間に53人の狂人を鉄の鎖から解放した。
狂人はピネルの手によってはじめて人間として医学の対象となった。かくて、彼は、狂人に対す る新しい治療方法の研究に着手したO その理論と実践が精神病に関する医学哲学論として集大成
国Bj至ぢ
されたが、その詳細は、安田徳太郎氏の「世紀の狂人」に紹介されている。
ピネルは1795年からは同じくパリ郊外で、女子の精神異常者を収容していたサルペトリエール 精神病院の院長としてその改革の任にあたる。あとでのべるエスキロールやベロムがサルペトリ エールで研究や実践したのはこの時期であった。ピネルは、この間、バリー医学校で講義をした り、科学アカデミー会員として活躍したりしていたが、 1826年10月15日に突然に倒れ、 25日午前、
6時、この世を去ったo年老いた狂女たちがいつまでもつきそっていた彼の葬式は、世にも気高
(3tO
い光景であったという。
精神医学者としてのピネルの業績については本論の主題ではないが、白痴教育の系譜の中で注.
目すべき点は次の二つである。それは、まず、彼によって、白痴が精神異常者の中から区別して 考えるきっかけをつけられたということである。彼は科学的な観察にもとずいて、精神病を四つ・
のカテゴリーにわけたQ この分類は論者によって違いがあるが、いま一つの例をあげれば、憂う
ゥ
つ症、精神錯乱を伴う操病、精神錯乱を伴わない繰病、痴呆の四つであるo ここでいう第四のカ・
テゴリーの痴呆Dementiaの中に知的な退化現象と白痴Idiocyが含まれていた。後にアベロン
Bl串型官
の野生児の教育をめぐって、ピネルとイタ‑ルとの間に論争がおこるのだが、それには、こうし たピネルの研究が土台となっていた。彼の時代には、白痴とは治療不能の代名詞であったが、白 痴を精神病学の中で分類し、位置づけるという試みがここにはじまったといえるであろう。
第二には、ピネルが、精神異常者を人間として処遇したということである。その当時の精神異̲
常者の治療方法は古代ギリシャ時代さながらに、下剤をかけたり、血液をとったり、乾燥した草
根の粉末を飲ませたりすることにつきていた。そして、一方では、人間以下の境遇にわとしいれ
ていたのである。これに対し、ピネルは、精神異常者に対する社会の観万をかえることが必要で
あるとし、彼らを病める人間として医療の対象にすえた。彼の言葉による=道徳的処遇"
19世紀初頭のフランスにおける白痴教育に関する・一研究(韓曲)
209(21)
HTreatment moral"である.セガンの著書の題名ともなるように、 =道徳的処遇日もまた当時 の白痴教育を貫く思想であった。そこには、白痴をも人間として待遇するという姿勢がみられ る。後でのべるように、道徳的処遇という治療の型態はピネル以外にも認められるのだが、彼が 精神異常者の解放、治療をその原理のもとにおこない、エスキロ‑ルやセガンを通して白痴教育 の一つの原理としてもたらす要因となったことは否定できない。
(2)エスキEI‑ルの白痴観
ェスキロ‑ルJean Etienne Dominique Esquirolは1772年に生れ、 1840年に死んだ.彼は ピネルの‑の弟子であったと伝えられているが、その生涯についてはあまり知られていない(34)皮
もまた師ピネルと同じように、フランス革命の激動の中で思想的な影響を受けながら、ビセ〜ト ルとサルペトリエ‑ルで精神病の研究を積んだ。白痴の治療・処遇に関して、エスキロールがピ ネルから受けつぎ、更に発展させたことは、白痴に関してピネルのそれよりも詳細な定義を与え たことである。
ピネルは、精神異常の第四のカテゴリ‑の中に白痴Idiocyを含めていたが、この他にも、現 在の定義でいえば緊張性精神分裂症Catatonic Shizophrenia、慢性退化性精神分裂症Chronic Regressed Shizophrenia、 器質性脳障害 Organic Brain Disease、 精神遅滞Mental Deficiency などや、観念の連合がうまくいかないという痴呆 Dementia と知的、情緒的機能 が部分的又は全体的に欠けている結果生ずる無感覚・無感動な状態にある白痴Idiotも含んでい た。 く弱っ
ピネルの分類の特徴は、患者の症状にもとずいた分類であり、このために、彼は症候が類似点 をもっている精神異常を同一のカテゴリーに分類してしまった。これに対し、エスキロールは、
精神異常者の観察や事実の集積による分析を通して、精神異常者にみられる知的欠陥は必ずしも,
(1〕
同じ現象とみるべきではないということを明らかにした。このようにして、他の精神異常者と白 痴を区別して次のように言っている。
「白痴Idiocyとは病気ではなく、ひとつの状態である。この状態にあっては、知的機能がほ とんど存在しないか、または、同一年令の者と同じ程度には自分の身のまわりの世話をできるほ どの発達は不可能である。白痴は生れながらにして白痴の状態であるか、または、その状態が知
(5)
的機能や感情機能の発達に先行し、生涯を通じて白痴の状態が続くように運命づけられている。J エスキロ‑ルに関する資料・文献、特に彼自身の論文、著書がきわめて乏しい現状では、彼の 白痴観にこれ以上ふれることは不可能であるが、彼の白痴観がピネルのそれを発展させ、セガン への楕わたしの役目をしていたことは明らかなようである。更に、ピネルのもうひとっの流れで ある道徳的処遇においても、同じような立場にあった。精神異常者の道徳的処遇の起源を問題に
W推E:
すれば、必ずしも一致した見解があるわけではないが、エスキロ‑ルもまたピネルの影響をうけ
wm
て、道徳的処遇を推進する一員であった。しかし、一方では、彼は、白痴は治療、教育の対象と
51蒔ilE
はなり得ないという見解をもっていた0 ‑万では精神異常者を人間として待避しようという道徳 的処遇の主張をしながら、一万では白痴の治療・教育の可能性の論争では否定的な側にまわって いたというところに、エスキロールの位置づけがあるO
(3)ペロムの「白痴論」について
ベロムBelhommeは1800年に生れ、サルぺトリエ‑ル精神病院の医師となった.おそらく、
ピネルの院長時代の末期で、エスキロールが活躍していた時代のことであろう。後に現代医学協
会の会長、王立講習会の精神病学教授、精神病院長などを歴任し、 1880年に80才で死亡した。
210
19位紀初頭のフランスにおける白痴教育に関する一研究(韓曲)
彼は、サルペトリエールに勤務している時に、白痴の教育に関心を持つようになり、 1824年に
U2)
白痴の知能の段階、教育の可能性に関する論文を発表したOベロムによれば、この論文はかなり の反響があったが、次第に忘れられていった。そこで、彼は、 1835年、フランス科学アカデミー に手紙をおくって白痴教育論におけるみずからの優先権を主張し、更に、 1843年には、 1824年の
(2)
論文を主体とした「白痴論‑白痴の教育に関する提案o付、白痴の知性の段階に関する報告」
を世に問うているO この1843年の論文は72ペ‑ジにわたるものであるが、この中で彼は次のよう に主張している。
ベロムによれば、白痴の不幸な状態は改良することが可能である。そのためにはなんらかの治 療・教育が必要であり、彼の経験によれば、白痴の知性の段階に応じた教育をすれば、その教育 が可能であると主張した。彼は、また、それまではまとめて白痴と呼ばれていた人々を大きく、
痴愚 上mbecillite と白痴Idiotieに分け、更に痴愚を三段階に、白痴を二段階に分類した。彼 らの教育はこうした知性の段階に合せておこなわれなければならないから、教育をはじめる前 に、その知性の段階を明らかにしなければならないとのべている。更に検討が必要ではあるが、
(2)
後世の知能テストに似た考えが打ちだきれていたのである。
ベロムは、彼自身の経験から、痴愚級の白痴たちは、不十分なまでも、読み・書き・計算等が 可舘であることを明らかにした。更に、進歩させるためには継続的な指導が必要であるとも述べ ている。また、こうした教育が期待できない子どもたちでも、作業のいくつかを学ぶことは可能 であるし、病院内での雑役的な仕事をすることができるし、どんなに障害の程度の重い白痴児で
(2)
も、なんらかの知的表現は可能であると書いている。
(12)
たしかに、カンナ‑も書いているように、白痴教育という社会的事象において、その思想な り、実践なりをみずからの手柄にしようとすることは非科学的ではあるが、ベロムの1843年の論 文に収められている本文が1824年の段階で発表された土とが確かであるとすれば、上述の内容は まきに検討に値する内容であるというべきである.しかも、彼がみずからの実践の中からくみあ げてきたということを注目すれば、次節以下でのべる、 18世紀初頚の白痴教育の実践家の先頭を
(21
きったことにもなる。事にして、ベロムの1843年の論文を入手することができたので、この間の 事情を検討してみたいと考えている。
3.初期白痴治療・教育実践の系譜
(1)ビセートルにおけるフエラスの実践
フェラスGuillaume Marie Ferrusは、 1784に生れた。 14才の時医学を学びはじめ、 20才で 学位を受けた。ナポレオンの軍隊に従軍したあと、ピネルにまねかれてそのスタッフに入る。
3iI革E:
1826年にビセートルの主任医師に任命きれたO 彼もまた、エスキロ‑ルやフランソワ・ロレー Fransors Leuret (1797‑1851)らとともにピネルの弟子であり、後に医学アカデミーの総裁も
11回
つとめ、 1861年に死去した。
彼は、ビセートルにおいて、白痴の状態に関心を持つようになり、 1828年(1829年の説もあ
m至E
る。 )に、ビセ‑トルに収容きれている白痴の中で最も知的水準の高い児童を数人選んで、読み
civ
書き、計算、清潔の習慣、秩序等を教えようとした0 7ェラスのこの実践は、早くからひとっの 学校School、として受けとられていたし、論者によれば、最初の精神薄弱教育の施設ときれて
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男ma
19世紀初頭のフランスにおける白痴教育に関する一研究(津曲)
211フヱラス博士は、この「学校」において、前述の読み書き等の他に、体操も指導し、白痴たち の怠惰な習慣を除去したり、弱い性格を強めるためにいろいろな方法を試みた。精神異常者に作 業をさせることの必要性と効果に気がつき、現在でいう作業療法を導入した最初の人であるとも
いわれる。彼は、 1832年にサン・アネSt. Anneに農場をつくり、そこでビセ‑トルの収容者た
1,臣吏E
ちに仕事をさせている。
彼は、 1835年に国の精神病院の査察官に任ぜられ、ビセートルとの直接的な関係はなくなった
O3)
が、彼の白痴教育の仕事は、あとにのべるヴァザンによってひきつがれていった。
(2)サルペトリエールにおけるフアルL/の実践
ファルレJean Pierre Falretは1794年に生れ、 16才で医学を学びはじめ、 1811年にパリにや
(ユ2)
ってきた。 1814年、エスキロ‑ルの助手となり、戦争で傷ついた兵士の治療にあたったo精神病 医としてのファルレは、当時用いられていた言葉にかわって、精神異常が社会との隔離に深い関 係をもっているということから Mental Alienation という用語を主張した。それ以釆、精神病
(1)
者と社会との接触をはかろうとする医師はAliensitsと呼ばれるようになった1870年に死去。
M
なお、石井亮一はファプレーFabretとしているが、これは間違いであろう.
(31)
ファルレは、 1831年3月30日、サルペトリエ‑ルに女子の白痴を集めた収容棟を新設したO論
(.38)
者によっては学校と呼ばれることもあるO ここには、サルペト']エ‑ルに収容されている女子の 白痴のうちから80人の白痴及び痴愚がえらばれて収容きれた。なお、彼は、このすぐあとに急性 の精神病者のために同じような治療棟をつくっているO更に、彼は、ビセ‑トルでも白痴のため の学校‑病棟‑を手がけているようでもある。
彼は、白痴の教育に関して、次のような意見をもっていた。 「白痴や痴愚が先天的に進歩の可 能性がないということを信じこむいわれはないo私はビセートルの白痴のためにつく った学校
し3S)
で、これとは逆のことを証明した。 」
このようにして運営されたファルレの実践については、成功・失敗の評価がわかれている。あ
31臣莞g
る論者は、この学校は成功し、他の精神病院にも広まった、とのべているが、ある論者は、この
)iJ覧E:
施設では、ほとんど白痴児の進歩はみられず、見学者によれば、死んだような施設であったと報 告している。
(3)ビセートルにおけるヴアザンの白痴教育
ヴァザンAuguste Felix Voisinは、 1794年に生れた。彼はエスキロ‑ルのもとで勉強し、生 理学者、骨相学者としても有名であった。彼は、かなり早くから白痴の治療・教育に関心をも ち、諸々の論文を発表していた。タイトルはわかっていないが、 1830年には白痴に関する貴重な 論文を発表したといわれ、ひきつづいて白痴にみられる種々の現象に関する論文を世に出してい
川)
Era
1831年、彼は、フェラス博士によるビセ‑トルの白痴教育の実践に参加した。しかし、彼は、
〔'11)
ビセ‑トルの実態に満足せずに、みずからの学校を設立しようとした1833年.彼はセベレ通り の精神病院に白痴のための学校を設立し、更に、 1834年、みずからの私的な白痴学校をイッシイ
し6)
lssyに設立する。ヴァザンは、この学校の性格を治療教育施設であるとし、みずから医学、生理 学、衛生学を担当した。しかし、彼はこの学校に公的な援助をとりつけることができなかったた
ヨil革E
めに、この学校を永続させることができなかった0
1839年、ヴァザン博士は、再び、ビセ‑トルの精神病院の医師として招かれるo そして、ロー
レ博士の援助のもとに、ビセートルの白痴学校の再建・拡張に着手する。ヴァザンは、みずから
蝣212
19世紀初頭のフランスにおける白痴教育に関する一研究(津曲)
(6)
周校の校長となり、教師としては、あとにのべるヴ7レーVail色eがあたったO ヴァザン博士 は、白痴を精神病棟からはなして建てた建物に収容した。ここでは、できるだけ普通の生活をさ せて、大がかりな教育・治療の試みがなされた。ヴァザンは、白痴児たちは能力において劣って おり、しかも、一般の人々の水準に到達することは不可能であるということを十分に理解しては いたが、その教育にあたっては、彼らの能力に合せ、可能なかぎり、精神的な結びつきをはから ,ねばならぬと考えていたO彼の実験が大きな成功をおさめることができたのは、こうした考えに
(3; (7)
よるところが大きかったのである。こうして、彼は、白痴教育者として「名声赫々」たるものが
・あったようであるO彼の実践は、セガン及びヴ7レ一によってひきつがれていくo彼はそのため の基盤をつくったのであった。
軸 セガンの白痴教育の実践から
(25)
「その教育に生理的方法というものを創案し、精薄児教育に理論的系統的基礎を与えた人」と
3萱門i:
いわれるセガンSdouard Onesimus Seguin (ユ812‑1880)が白痴教育の実践にたずきわったの
U9>
r・は、このような時期であったo彼は、 1837年にイタールJean Marc‑Gaspard ltard(1774‑1838) Lの手引きによって、一人の白痴児の教育を手がけるo論者によっては、 1837年にパリに白痴学校
51簡児i:
を置いたとする人もいるが、実質はこのようなものであったようであるo セガンはイタ‑ルと共
;同でこの白痴児の教育をつづけたが、 1838年のイタ‑ルの死後は、エスキロ‑ルを批判的協力者 としながら白痴児の実験をつづけるO セガンとエスキロールは、 1839年に共著「14カ月の間にし
(巳0.I
た我々の仕事に関する要約」を公けにしている。
セガンのこの実験は各方面で関心を呼び、この実験をもとにサルペトリエ‑ル精神病院で白痴
しごG、)
教育の実験学級を開くことを許された1839年のことである。更にここでのセガンの教育がパリ Lの病院運営審議会に認められ、前述のヴァザン博士の仲介もあって、 1842年と思われる年にビセ
‑トルの精神病院にまねかれて、そこの白痴教育をまかされることになる。ビセ‑トルにまねか
(26) (5)
れた年については、 1841年、 1843年という説もあるが、いずれを正しいとする極め手はまだ兄い だきれていないo セガンは、ビセートルで1人の助手を相手に白痴児の教育にあったが、病院当 局との意見の食い違いもあって、 1843年の碁と思われる時期にビセ‑トルをやめる。セガンが去 ったあとのビセ‑トルの白痴児の教育は、ヴァレ‑によってひきつがれ、セガン白身は、前から 戯けていた個人的な白痴教育の実践や文筆活動、医者の開業などをはじめる。こうして、彼は 1850年と推定される年のアメリカ亡命に至るまで、個人的な実践と、白痴教育の理論的研究とそ のまとめにあたるのであるO
セガンの生涯や紋の白痴教育の実践及びその背景等については、筆者が先年発表した論文「『白
3苧‖E:
痴の使徒』エドワード・セガンの生涯」を参照していただくことにして、ここでは、その後入手 した資料の中から、セガンの実践をよく伝えている文献を紹介する。
1843年12月11日、フランスの王室アカデミーは、セガンの白痴教育の実践を調査するために、
セラスSerrus、フローレンスFrourens、パリセParisetからなる委員会を設立した.この委 員会が、 「セガン氏は、慈善事業における全く新しい分野を開拓した。彼は、衛生学、医学、倫 :理学の分野に見習うべき実践例を示したO我々はセガン氏によって当審議会 the Councilにあ てられた数々の報告に感謝するとともに、彼の慈善的業績により一層のはげましをあたえるもの である。 」という報告書を出した。この部分は先の論文にも引用しておいたが、この報告書から 更にくわしく紹介すれば次のようである。
「白痴という存在について一般的な観念を得るためには、セガン氏のような教育者のいない
19世紀初頭のフランスにおける白痴教育に関する一研究(津曲)
213収容施設に紹介された場合を想像してみよ。そこではなんという光景が展開するであろうか。
ある子どもは、跳びはねたり、どなったり、叫んだりしているO ある子どもは部屋の隅でもの一 もいわずに床をはいずりまわったり、彫像のように動かないでいる。あなたが話しかけようと すると、最初の子どもはペチャクチャしゃべりながら向うの万へ行ってしまうだろう。次の子‑
どもは、あなたにおじぎを繰りかえしながら近づいてきて、あなたの手に接吻をする。その次 の子どもは身体いっぱいに十字をきり、次の子どもは床に寝そべり、最後の子どもは指をしゃ ぶりながら大声で笑うだけだろう。
一人としてあなたの質問に対して知性のある返答をすることができないし、はっきりとした 発音で話をすることもできない。こうした状態が更に進行すれば、一層希望のもてない白痴
‑目もみえず、療痛や痴醇をともなう‑になる.彼らには目があっても見えず、耳があっ ても聞くことができない。足があっても、それは立ったり、身体のバランスをとったり、歩い たり、跳んだり、走ったりするにふさわしいものではなくなる。こうしたことが極度の無視と 残酷な処遇、あやまったとりあつかいのもとにある白痴の実情であり、その故に、白痴を教育
しようとすることは最も困難な仕事となるのである。
しかしながら、私たちは、セガン氏がこうしたすべての困難を、大巾に克服したということ を宣言できることを誇りに思う。適切に調整された体操によって彼らの運動器官にはより大き く‑様な力が与えられた。彼らの感覚が訓練きれたので、彼らの運動は以前よりも正確になっ た。彼らは、以前には知られていなかったところの意志の力の統御のもとに身体の諸器官の活 動を服させることができるようになった。
その詳細をここでのべることは不適当であるけれども、セガン氏による独得の教授法によっ.
て、セガン氏は、彼の生徒に、文字の読み、書きの知識、絵画、算数と地理の初歩を教えるこ とに成功した。身体の諸部分を比較させることによって、彩色、密度、重量等の抽象的概念や 秩序、服従、義務などの社会的関係の概念が導きだきれた。セガン氏は子どもたちの内証の有
ヨ3X
害な習慣をやめさせ、忘れさせることにも成功した。 」 (5)ビセ‑トルにおけるヴ7レーの実践
ピネルやエスキロールは言うに及ばず、それにつづくフエラス、ファルレ、ヴ7ザン、セガン 等は、それぞれにすぐれた精神病医であった。彼らは、医学的な観点から白痴の治療・教育にあ たったが、どちらかといえば、有能な助手を得て、みずからは実践の指導、組織にあたり、その 成果を研究にまとめるという役割をはたしていた。したがって、そうした人々のもとには、助手 ないし実践者として働いた人々がいたO これらの人々は教師と呼ばれることが多かったO
ここでいうヴァレーVailとeは、そうした人の一人であるo ヴァレ‑の人物については、こう した事情もあってあまり知られていない。すでにふれたところをまとめれば、ヴァサンがビセ‑
トルの白痴教育を拡大して再建した時に、ヴァザンのもとで実際の白痴教育にあたった。更に、
セガンの助手をつとめ、セガンがビセートルを去ったあとも、ビセ‑トルに止まり、白痴教育に 従事していた。彼は、のちに、 1848年には、パリ近郊にみずからの私的な白痴の教育施設を設立
3i]司ぢ
するといわれるが、彼が、 1840年代にビセ‑トルで白痴教育を実際的に支えていたということが 事実ならば、このことは、精神薄弱教育の歴史の上にすくなからぬ意味を持つことになるだろ
う。
それは、 1840年代において,数多くの国から、医師、慈善家、教師、作家等がビセートルを訪
ねて、その感激や白痴教育の必要性を故国にもたらし、それぞれの国での白痴教育の発展に刺戟
214
19世紀初頭のフランスにおける白痴教育に関する一研究(津曲)
を与えることになるのだが、その時にビセートルの教育の中心となっていたのがこのヴ7レ‑で あったということにもなりかねないからである。事実、セガンは、その白痴教育者としての名声 にもかかわらず、ビセ‑トルにいたのは、わずかに一年ぐらいの期間であった。したがって、こ の前後にビセートルを訪問した人がみたのは、ヴァレーの実践である公算が大きいのである。現 在利用できる資料からだけでは、セガンの実践とヴ7レ‑のそれを区別することは困難である が、こうした事情をも考慮した上で、 1840年代後半のビセ‑トルの訪問記を検討してみよう。
1847年2月1日、当時パリに在住していたジョージ・サムナ‑は、アメリカのマサチュセッツ 州で白痴学校設立のために奮斗していたハウ Samuel G, Howe (1801‑1876)にあててパリで の白痴教育の様子を詳細に書きおくっている。ホレース・マンMann, H. (1796‑1859)も6か
3I"完E
月の間、新婚旅行と健康回復のために1度おとずれた欧州旅行で訪問している。この時にチャー
(18) (12)
ルス・サムナ〜が同行したとされているが、チャ‑ルス・サムナーの紹介で、パリ在住のジョ‑
ジ・サムナーに会ったと考えるのが妥当であろう。但し、現在のところは、極め手はないので、
更に問題点として残しておきたい。
3蔓i!E
ジョージ・サムナ‑がハウにおくった手紙の内容については、その一部を先の論文でも紹介し
bl夢羊E:
ておいたが、その部分も含めて、あらためて再録する。但し、先に紹介した時に利用した文献に
Bl括E:
は省略の部分があったようで、新しく入手した資料からあらためて、訳出する。ここでも、前述 のように、セガンの実践とビセートルでのヴァザン、ヴァレーの実践が区別されていることがわ かる。このように、 1840年代後半のフランスの白痴教育の実態とセガンとの関係、更に諸外国へ の影響等は、かなり複雑な要因を含んでいたものとみなければなるない。
「私は、この6カ月の間、非常な熱心さでもって、パリでセガン氏の指導のもとでなされ、
ビセートルでヴァザン氏とヴァレー氏の指導のもとで多くの白痴児がみせた進歩を見守ってい る。私は今、単なるおどろき以上のこの上もない感激を昧っている。そこでは、ほんのしばら く前までは百人近い我等の同胞が、人類とのすべてのコミニュケーションから隔離され、嫌感 と軽蔑の対象となり、彼らの多くは一片の着物さえ受けつけず、他の者たちは、まっすぐに立 つこともできず、隅の万でいざってあるいており、わずかにあわれっぼくうめくことだけで生
きていることがかろうじてわかり、また、話す能力がついに発達せず、なんでも手に触れるも の、膝に投げ与えられたくず野菜や、自分たちの排湛物でさえも、がつがつと手あたりしだい
に食べることで満足していた.ところが、このように人間であることを否定きれていた不幸な 動物が、今やきちんと洋服を着て、しっかりと立ち、歩き、話し、食卓で仲間たちと秩序正し
く食事をし、農夫や大工のように静かに仕事をし、自らの労働によって生活費を稼いでいる。
また、お互いに本を読み合って知識を貯え、教師たちにおしえられることを希望し、友人たち の間では人間の本質である一般的感情を培い、声を合せて感謝をささげる歌を歌っているo
あなたは、きっと、これは一つの奇蹟だと言うだろうO その通り、それは、まさしく知性と
忍耐と要の奇蹟であるO私がビセ‑トルの学校の教師であるヴァレ‑氏に彼の努力の結果への
驚きと感激の気持ちを伝えた時の彼の答えは、美し(慎み深いと同時に、昧いのあるものであ
った。 『忍耐となにか良い事をしようとする望みが必要なすべてです。 』というのがその答え
であったo このことに加えて、私はさらに、ポルトガルのドン・ヘンリーDon Henryが彼の
墓銘とし彼の行動で示したあの高貴な標語、 『良い事をなす才能』をつけ加えて、ヴァレー氏
の言葉を完成させる必要があると思った。忍耐と良い事をなそうとする意志と才能‑これが
必要ときれる全てである。しかも、こうしたことは、すべて,ラウラ・ブリッジマンの教育が
19位紀初頭のフランスにおける白痴教育に関する一研究(津曲)
215おこなわれ、成功の可能性が確実となったこの国(米国)においても見出され得るものであ る。もし、米国が、すでに多くの欧州諸国ではじまっている白痴たちのための努力を開始する 最初の国たり得ないと想像することはマサチュセッツ州に対する侮辱となるだろう。
私がここで述べた事実は、すでに、白痴の教育が可能であること、内省力 the reflective power が彼らの中にそなわっており、適切な教育方法によってそれらをめざめさせることが 可能であること、彼らが現在おちいっている不潔な状態から人間のレベルにまで向上させられ
ることが可能であること、彼らが真面目な生計をたてることができるような様々な生活技術を 教えることが可能であること、及び、多分彼らの知性は、彼らをある時代に足跡を残した高遊 な思想や業績の著作者とするほどまでには発達しないであろうが、それでもなお、尊敬される 凡人となることはできるし、知能の点で、多くのヨ‑ロッパ諸国の普通の農夫に優ることがで
M
きよう。」
ハウのレポートに引用きれているサムナ‑の手紙は以上である.この後半の部分は、当時マサ チュセッツ州で白痴学校を設立しようとして努力していたハウらにとって大きな力となり、 1848 年10月1 E]、ハウを校長とした白痴教育のための実験学校がパーキンスPerkins盲学校に設置さ
(27)
れることになった。この点は本論の主題ではないが、アメリカの白痴学校の歴史を考える上から も、この時代のパリでの白痴教育の実態を更に詳細に把握することが必要であろう。
4.初期フランスの白痴教育の実態 棚 コノリー博士の報告から
ある国、ある時代の教育を語る際には、そこにおける教育の実践がもとにならねばならないこ とは言うまでもない0 19世紀前半のフランスの白痴教育・処遇についても、その実態を明らかに することなしには、歴史的な評価を下すことは許されることではない。この点において、原史科 になかなか接近しにくいというのが現状である。幸にして、セガン研究においては、彼の著作目
(22)
録も整備されっつあり、そのうちの主な著作は原文で検討中であるが、それとてもまだ不十分で あるo それに加えて、くりかえし述べて来たように、セガンの実践とビセートルでの白痴教育を 明らかにする史料が乏しいことが、当時のフランスの実情を明らかにすることをますます困難に している。したがって、ここでは、ハウのレポートに引用きれているコノリー Conolly博士と 前記のサムナーの報告から、当時のセガンの実践とビセートルの白痴教育の実態をきぐってみた い。
コノリー博士John Conolly (1794‑1866)は、イギリスの医師で、精神病患者に深い関心を 寄せていた。彼はバンウエルHanwellの精神病院長を勤め、ピネルのように、精神病者の拘束を
(6)
非とした治療法を確立した。彼は、 1845年にビセ‑トルを訪問している。その報告書が以下にの べるものであるが、ここにおいて、セガンの業績が紹介され、イギリスでこの種の仕事が発展す
(23)
るひとつのきっかけとなった。
彼の報告書は、彼が精神病患者の治療・処遇に十分の経験があったということで、かなりの信 頼性をもって受けとめられていたようである。アメリカで最初の私的な白痴教育に携ったウイル
5(l司E
バ Wilbur も、サムナ‑の見聞記とあわせて、コノリーの報告書を読んでいるL,、ハウもま た、彼の報告書の中で「コノリー博士は、最も重要な証人である。そればかりか、ある点では、
旨の
その学校の教師たちよりも重要でさえある。 」と述べている。
216
19低紀初藷のフランスにおける白痴教育に関する一研究(津曲)
コノリーは次のように報告しているo 「非常にすぐれた校長先生であるセガン氏の指導のもと に40人を越える白痴児たちが、申くらいの教室にあつめられ、いろいろな課業を受けたり、いろ いろな運動をしたりしているo セガン氏自身はあの有名なイタールの弟子で、以前はその困難き
(8)
の故に長続きしなかった彼の仕事をやりとげる熱意に恵まれているo 」
この文章で見るかぎり、コノ.]一博士は、セガンの白痴教育について報告しているO しかし、
3矧g
先の論文で明らかにしたように、セガンは、おそくとも1844年のはじめにはビセ‑トルを辞し、
(26)
みずからの「私的教育実践」に入っているo さらに、ビセ‑トルにおけるセガンの生徒は90人を 対象としていたことなどを考え合せれば、コノリー博士が見学したのは、セガンの私的実践の場
とも考えられるが、ハウは、ビセ‑ト)i,と述べているので、この点もいずれ解明すべき疑問点と したいO いずれにせよ、コノリー博士の報告書は、以下に紹介する如く、パリにおけるセガンの 実践の紹介である。
「彼(セガン)の生徒たちは、みんな歌をうたうことを教えられた。そして、その伴粟をす るために、小規模なヴ7イオリンをifiOとする楽団が年長の収容者たちによって形成されてい た。しかし、このすばらしい学級の白痴児たちは、すべて、楽器の伴奏なしに歌うことができ たし、リズムも音階もきちんとしていた。彼らは、いくつかの曲を歌うことができ、そのレパ ートリーの中にはパテ‑ル氏M. Batelleによって彼らのために作曲され、教室に入っていく
ときに歌われるいくつかの可愛いい曲があった。癒痛の子どもたちも白痴の子どもたちも字を 書くことを教えられた。彼らの習字帳は、どんな書き方学校でも使うことができただろう。数 多くの体操種目が軍隊調に完全な正確きをもっておこなわれた。このクラスの最年少の子ども は5才になる白痴児であったが、彼がクラスの友だちのあとをついていくのを見ることは興味 のあることであった。彼は、号令や太鼓の音に合せて、他の友だちの動作を真似て、右手、左 手、両手を差出したり、右や左に行進したりする。また、この太鼓は、軍服に似た制服を着る ことを喜んでいる白痴児が本職のドラマーそこのけのうまさでたたいていた̲o これらのすべて の体操は知的なレベルでは最低の、且つ、普通のアサイラム(施設)ならば、全く怠惰で無感 動のままに放置きれている人々の集団によってなされていた。彼らの中には、その顔付き、動 作、姿勢のどれをとっても、知性の低さがはっきりとあらわれている1人の少年がいた。私 は、この多くの困難はあるけれども、その成果が決して期待できないわけではない新しい教育 の分野に慈善Jbに富んだ人々を導くために、この少年の進歩ぶりを詳細にのべる価値があるだ ろうと考えた。
チャ‑ルス・エミールCharles Emileの年は15才である。彼はこの学校に1843年6月に入
ってきた。彼は神経質で多血質であり、完全な白痴の状態であった。いくつかの能力は、長い
間、過度に活動的な状態にあり、自身をも、他人にも危険をもたらしていた。性向、感情、知
覚、認知と理解の能力の面では白痴的であり、感覚面では、いくつかは鈍く、いくつかは過度
に過敏であった。ヴァザン氏の言葉によれば、彼は、このような欠陥の結果、彼の外の性界と
調和するには不向きであった。彼の性向に関していえば、彼は大食漢で、何の見きかいもな
く、がつがつ食べ、目もあてられない色情狂で、盲目的で恐暴な破壊性をもっているとして有
名であった。彼は、全く、一個の動物であった。彼には愛情というものはなく、すべてのもの
を彼の流儀でひっくりかえした。しかし、勇気とか意欲があるわけではなかったし、気転や知
性もなく、感情を抑制する力も、所有の観念もなかった。彼は極端にはしることに注意が必要
であった。彼の道徳的観念に関しては、人にみとめられたいという欲望と彼以外の世界とは無
19世紀初頭のフランスにおける白痴教育に関する一研究(津曲)
217ニ関係なやかましい本能的なにぎやかきを除けばなにもないと診断されたO彼の感覚についてい えば、彼の目はいつも定まらず、彼の意志なしに動いているように見えた。味覚は欠けてお り、触覚も鈍かった。彼の耳は音を聞くことはできるが、ひとつひとっの音には興味を示さな かった。彼はほとんど嘆覚をもっているようには見えなかった。すべてのものをむさぼり食
い、むかむかさせる、動物的に色情的で、彼の手にふれるものをこわし、やぶり、焼きすてる
・ほど感情的であるo もし、彼がこうした行為をすることを防げられた時は、ひっかき、かみつ き、つねり、血まみれになるまであばれまわる。彼は、兄弟や仲間の目によって見つめられる と、それらを指でおしかえそうとする奇癖を持っている。彼は、非常に不安定に歩く。走るこ とも跳ぶことも、ものを投げる動作すらも出来ない。時には、彼は豹のように跳躍する。彼の 二喜びは、他人の腹部をたたくことであった。彼を他の仲間と遊ばせようとする試みがなされる
と、彼はいっも金切声をあげ、いそいで、彼らのところへかえってくる。ヴァザン氏は、この ような事象から次のような結論をだした。 『この少年にみられる認知の能力の全ては、きわめ て未発達な状態にあるO そして、もし、私があえて何か結論めいたことを言うとすれば、彼 を、彼の個人のからの中からひきだしたり、彼の外の世界の事物の前においたり、それらに注 二意を向けさせることは、この上もなく困難なことであろうo彼にあっては、すべての人間とし
ての本質がヴェールでおおわれてしまっているといっても、間違いではないO 』
こうした描写は、ヴァザン氏の観察の注意深さの例であるばかりでなく、教育の可能性の少
‑ない白痴の一例が、かろうじて教師の前につれてこられたということを示している.この同じ 少年が、今は、すなおな行動をし、上品な習慣をもち、なんらかの目に見える努力次第では、
彼の漠然とした感覚を使いこなし、注意を集中させて、彼の記憶を発達させ、いろいろの事物 Lに関して若干の教育の成果を獲得し、教師や友人の存在を愛情をもって認識できるようになっ .た。彼のいっもの見かけは、今でも白痴のそれである。彼の容貌、歩きかたその他のどれをと っても、彼の能力の欠陥があらわれている。生れつき、彼の力には限界があり、それを回復す る手段は存在しない.しかし、彼は、最低の動物的性向から抜け出すことができた。いくつか
・の知的な能力は教育の成果があがり、新しい生命が与えられた.そして、彼の良い感情は、い くつかの対象を獲得し、実際に役立った。こうした事例において、私たちは、単なる一個人の 事例以上のものを見る。これを通じて、何千という欠陥をもつ人々のための一般的な原則が導 きだされる。多くの痴愚児に関するこの学校の一般的努力を見学し、チャ‑ルス・エミールの :進歩の目ざましきを聞いたあとで、彼が呼ばれたらこちらに来たり、求められて簡単な歌を独 麦唱するのをきいたりすることは、全く、おどろくべきことであったo こうした時も、彼の努力
は、最初はうまく行かなかったが、それに注意を集中することによって、うまくいったのであ る。その時みせられた彼の習字帳によれば、彼の字はしっかりとしており、同じような境遇に
・いる児童の多くの字と同じように書けていた。この可表そうな子どもの進歩に喜びを持ってい るように見えた校長が、それから、私に、チャールスが、おはじきや小さな木切れや、黒板の 上に最初に0、次に00、三番目に000などと順序よく書くことによって数をかぞえること ができるようになったプロセスを話してくれた。テヤールスは、時には、最初に間違うことが あるが,がんばって訂正する。彼は、形をひとつづつ区別し、そのイ酎直をいう。いろいろな型 をした厚紙のカードが、次々に手わたされると彼は、四角とか三角とかいうo そして、その後 tに、その型を黒板にチョークで書くOそして、セガン氏の言う通りに、垂線や水平線、斜線を書
く。その際に、彼が何をしているかということを効果的に見させるので、その線がまちがって
218
19也紀初頭のフランスにおける白痴教育に関する一研究(津曲)
いれば、それを消して新しくはじめる。また、彼は、黒板にいくつかの文字を書く。ビセ‑ト ルの院長の名前も書いたが、その時もその名前を自分で覚えていて書いた。
この事例は、私が見学した中で最も興味のあるものであった。しかし、時間の大部分の間、
部屋の片隅に立ちつくし、一見して非常に絶望的に見える一人の貧しい白痴児がいた.しかし ながら、このあわれな子どもでさえもアルファベッ丁を識別できることをみせてくれた。.他の.
多くのこどもたちは、ここでのべられたぐらいの教育を受けており、数をかぞえたり、線や図;
を書いたり、字を書いたり、いろいろな体操をすることができた。また、頚、目、腕、足等々 の身体の部分を指された時には.、その違いを区別することができた。ここでのすべての児童、
とりわけ、チャールス・エミニルにおいて、諸感覚、運動器官、知性等にいくらかの進歩がみ られる一方、習慣が改善され、性質がおとなしくなり、感情が働くようになったという̲、教育d の無上の光栄がみられた。こうして、野生的で、手のつけられなかった動物のように、恐怖、
嫌惑、不潔の状態にあった存在が、人間らしい生物‑とかわってきたのである。このような鮮 やかな奇跡を目のあたりにしては表現が過剰になるのを避けることは難しいが、こうした奇跡・
を生みだした方法は極めて簡単なものであった。それは結果の善意にこだわらないこの上もな.
い忍耐を必要とするだけであり、生徒の健康と安全を保護するのに十分な広さと適切な場所、
清潔な習慣を身につけさせること、感覚、運動、知性の訓練を具体物を通して与えること、そ‑
して、良い感情と楽しく、積極的な性質をもたせるようにすることに尽きていたO セガン氏もA 述べているように、自分から遊んだり楽しんだりできる白痴は、既にある程度進歩がみられるJ 状態にあるのである。しかし、残念なことに、私はこの興味のある学校の成果を毎日通って見
る時間がなかったし、いろいろな生徒において、例えば、型や色に関する最初の観念から読二 み、書きに発展したり、発音が言語表現力に発達したり、記憶が計算に発展したり、最も有利 な境遇のもとでさえもその果実は期待できず、慈善Jbに富んだ教育なしにはすべてが不潔で全二 く実りのないような環境の中から、どのようにして悪い性質がなおきれ、良い感情が生じ、花
33X
と咲いてくるかということを見守る時間がなかったのが残念である0 」
以上、長々と訳出したが、これがハウのレポートに引用されているコノリー博士の報告の全部.
であるO読んでみてわかるように、コノリーの報告は、まだ長いものと想像されるO イギリスの・
精神病関係の雑誌に掲載きれた報告ということであるから、いずれ入手の上、全文を検討するこ とが可能になるであろう。その際には、上の訳文も改めて検討されることをおことわり してお.
く。さらに、一読してここで例として出きれているチャールス・エミールの描写、教育の方法な‑
(8)
どはイタールのアグェロンの野生児の描写によく似ていることに気づく。本論文において、イタ ールについてふれていないのは、別に確固とした論拠のあってのことではないが、セガンとの開 係で更に検討してみる必要ができたといえよう。コノリーの報告書から見るかぎり、セガンとヴー
ァザンのいたころのビセ‑トルでは、非常に重症の子どもがまじっており、イタールの野生児の・
教育にみられたような感覚教育が中心であったようにうかがえるのであるQ (2)サムナーの手紙によるビセ‑トルの白痴教育の日課
コノリー博士の報告が、ビセートルでのセガンやヴァザンの教育の具体的な方法を伝えている・
のに対して、サムナ‑の手紙は、ビセ‑トルの学校での日課を教えてくれているo前にふれたよ うに、サムナ‑の見たビセ‑トルは、セガンが去ったあとのヴ7レ‑の指導のもとにあった時代こ のようである.したがって、前節のコノリーの報告が、具体的な指導の内容・方法を伝えている,
ものの、この両者が同時期の報告であるかどうかは疑問の余地を残している。
19世紀初頭のフランスにおける白痴教育に関する一研究(樺曲)
219サムナーは、前に引用した同じ手紙の中で、ビセ‑トルの児童について次のように書いてい
ヨIIE
‑るo 「この学校の児童数は、時期によって違うが、かっては80人から100人の間であったo 」セ
3司旺E:
ガンがビセ‑トルで白痴教育を開始した時の対象児童数が90人であったといわれているから.、こ
・の数は妥当なところであろうoサムナ‑は更につづけて、ビセ‑トルの一日を時間を追って記述
、している。
「5時には、彼らは起床し、半時間の間に顔を洗い、髪をととのえ、着物を着る。指導生
‑生徒の中でよくできるもの‑が、新入生を援助するo それから教室に入り、二列に並 ぶ、このことも新入生には容易なことではない。それから、教師のあとをついて、簡単な朝の 祈りの歌をうたう。その後に、質素なパンによる第‑回目の朝食をとる。朝食のあと、 8時14 分まで、感覚教育の時間がはじまる0歳も能力の高い粗、第‑組では、数人の児童が風景など の写生をしているO能力的にすこしおとる次の組では、黒板に地図を書いている0 ‑番能力の 劣る第三組は、いくつかのグループに分れ、前に述べたような方法で嘆賞、味覚、視覚の訓練 や色や型の観察をおこなっている。いろいろな方法があるが、聴覚の訓練は、子どもたちが日 周Lをしたままで、ビオラの弦などによって出される自然の音を区別したり、その楽器の名前 をあてることを学んだりすることによって練習する。この間、 18人から20人の最年少のクラス は、初歩的な体操訓練によって運動能力を養う。
8時14分から9時までは、計算と算数の時間にあてられる。ここでは、学校全体は子どもた ちの能力にしたがって、いくつかのグループに分けられる。黄も低いクラスでは、子どもたち
、は一列に並び、大きな声で30まで数える。その時には、その数の分だけ、棒やボールや他の具 体物が提示される。こうした具体物は、彼らの発声を助け、模倣することの刺戟となる。他の グループは、はしごの段を数えながら、はしごをのばらされるO こうして筋肉組織と数の知識 が同時に発達させられる。更に能力の高いグループは、計算器を使って、50まで数えられる児童 Jこよって構成されている。彼らは、計算器の助けをかりて、結合、複数、除算、加算、同等な どの観念を学ぶ。さらに能力の高いグループは、 100まで算えることを学び、他のグループは、
ケースに入っているカードを用いて、数の結合を学ぶOなお能力のある子どもたちは、自分た ちの石盤を用いたり、黒板の上での計算によって、ヴァ‑レン・コルバーンWarren Colburn
・の子どもたちでもうらやましがるような正確さで計算する。
9時から9時34分oスープと肉の朝食の時間o ここでは子どもたちは食卓にすわり、フォー クとスプ‑ンを使って食事をするo うまく使いこなせる子どもが、使えない子どもを援助して やる。
9時34分から10時12分、戸外でのレクリェーションo走ったり、ポール遊びをしたり、輪回 しをしたり、小さな畑を耕したり、善いおこないをした時にもらえる札を何故かためてもらえ る庭の一画を借りることができるのである。
10時12分から11時14分。読み方の授業。全員が参加するが、前の時間のようにいろいろなゲ ル‑プに分けられるO
11時14分から12時。書き方の授業。ここでは、能力の 最もおとるグループは、黒坂上に寄かれた次のような線
を定規を使ってなぞることを数えられる 能力的に次のグループは、黒板の上に 次のような初歩的な文字を一列に三つづ
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