昭和初期における学校看護婦の執務の変化
―― 雑誌『養護』における子ども観の分析を中心に――
竹 下 智 美 埼玉大学教育学部学校保健学講座(非常勤講師)
キーワード:子ども観、雑誌「養護」、学校看護婦、養護実践
1.はじめに
1-1 問題意識
本稿は、昭和初期における雑誌『養護』に現れた学校看護婦の仕事の形成過程を子ども観に焦 点をあてながら分析を試みる。
現実に養護教諭の仕事を考えるにあたって、子どもをどのようにとらえるかという視点は、常に 重要視され、その議論の中心に置かれている。
森昭三は、創造的な仕事として取り組む養護教諭実践の特徴の一つとして、「健康現実をみすえ、
その背後に存在する生活や社会のゆがみを吟味しながら、対象に働きかけていく」ということを指 摘し1)、ザインからゾルレンを引き出すことについて言及している。さらに、「観(健康観)(教育観)、
(子ども観)」をもつことの重要性についても述べている2)。
藤田和也は、養護教諭の実践の全体構造の中で、子どもの実態をとらえること(子ども把握)
を根底的な仕事として位置づけ3)、教育実践とは「限りなく子どもをつかんでいくことであると言 える。つかみながら働きかけ、働きかけながらさらに深くつかんでいく。それを繰り返しながら相 互に深まっていく」ものであるとしている4)。
そのような中、これまでの養護教員史や学校衛生史では、社会諸制度、諸施策の中で当時の子 どもの実態(子ども状態史5))が描かれることはあっても、学校衛生実践(諸行為などに表現され るもの)を通してとらえられる子どもの実態や子ども観にまで目を向けることはなかった。
一方、教育学分野においては、他の分野に遅れるものの1960年代から、海後宗臣、堀尾輝久、
宮澤康人らによるいくつかの研究の蓄積がある。とりわけ、子ども観の形成について宮澤は、「子 どもとのある関係行為の事実を、自覚せぬまま実践的に創出し、その事実を自覚化し、言説化す るという形で作り上げられるもの6)」とし、子ども観を大人の子どもへの対し方としてとらえている。
まさに、その言説化の場が、本稿が研究対象とする雑誌『養護』であり、当時の学校看護婦の 子ども観もそのように実践的に創出され、言説化され、作り上げられていったのであろう。また、
そこで形成された子ども観は、それまで執務として行われてきた学校看護婦の仕事が、実践とし て展開されていく上で欠かすことのできない重要な要素となったであろう。
以上のように雑誌『養護』に秘められた学校看護婦の子どものとらえ方(眼差し)や子ども観 の分析は、今日の養護教諭の仕事の形成過程を明らかにする上でも貴重な分析視点であると思わ れる。
そこで、本稿で考察を試みる具体的事項は、以下の二点とする。
一、昭和初期の学校看護婦が、その執務の対象である子どもの何にその眼差しを向け、実践を行 埼玉大学紀要 教育学部,62(2):31-40(2013)
っていたのか。
二、前記一の実践は、どのような子ども観を形成していたか。
また、本稿の対象時期は、学校看護婦の急激な普及とその執務制度化及び様々な実践の展開と その仕事の模索が始まった昭和初期(1920年代後半から1930年代後半まで)とした。史料は、
学校看護婦による執筆が多数掲載されている帝国学校衛生会看護部発刊雑誌『養護』の実践報告 を中心に分析した。
1-2 雑誌『養護(学童養護)』の位置づけ
帝国学校衛生会学校看護部の機関誌『養護』は、昭和3(1928)年11月に創刊号を発刊してから、
毎月1回、昭和12(1937)年12月の第10巻の第12号(全110冊)まで刊行された。その間、昭 和8(1933)年1月より『学童養護』と改題された。この雑誌は、1部20銭、毎月約40頁で、学 校看護部年会費2円を納入する会員に配布されていた。創刊当時の全国学校看護婦数1200人中 500人が会員であり7)、半数近くの学校看護婦が、この雑誌を購読していたと考えられる。
雑誌の全体構成としては、①論説及び講演、②研究及び資料、③雑集、④雑報、⑤紹介及び通 信に分類されており、学校看護婦の実践は主に③雑集で紹介されていた。
学校看護婦の執筆内容は、①調査報告約25件、②実践報告約30件、③執務内容約15件、④感 想及び将来像や理想等約5件、⑤看護知識約10件、⑥その他約10件であった。
また、本誌全体の執筆状況は、学校衛生行政職員(116件)、学校看護婦(101件)医師(90件)
を中心に、教職員(49件)、各都道府県学校衛生技師(33件)、その他(133件)合計522件の論 考が掲載されている。なかでも、学校衛生行政職員の執筆は、主に、本雑誌の編集者である大西 永次郎(74件)を始め、岩原拓(11件)によってなされ、また学校看護婦の執筆は、当時、また は後の学校看護事業に多大な影響を与えた春光サト(6件)、広瀬ます(4件)を中心に、数多く の学校看護婦によって執筆がなされている。また、その執筆内容も、当時の学校看護婦の仕事(執 務)と実践の関係を明らかにしうる貴重な史料である。これらの実践報告全てから、眼差しや子 ども観を読みとることは難しいが、その眼差しや子ども観と仕事の関係が読みとれる箇所について は可能な限り引用して分析を行った。
また、ここで注目すべき点は、創刊号で公表された「学校看護婦執務指針(1924年)」につい ての大西の紹介文である。大西は、この指針について、学校看護婦界を統一せる指針であると評 価しつつも、「その内容については、その後の研究に照らし、教育の実際に鑑み多少の改定を必要 とする点なきにしもあらず」と述べ、「次号より、本指針を中心として少しく学校看護事業に関す る解説を試みよう」としている8)。すなわち、本雑誌は、学校看護事業の発展を目指し創刊された ものであり、学校看護婦の執務内容を再検討する場として機能していたと推測される。
以上のように、確かに、この雑誌『養護』で紹介される学校看護婦の実践や理想像は、編集者 である大西のそれに少なからず影響を受けていたと考えられるが、それらは、昭和4(1929)年 の「学校看護婦ニ関スル件」や昭和16(1941)年の「学校看護婦令」において制定される学校看 護婦の制度的執務の内容にも影響を与えていたことは推測に難くない。
2.学校看護婦の子ども観の変化
2-1 学校看護婦の執務内容と子どもの外面(身体的)への眼差し
大正末期から昭和初期にかけて、大西永次郎、アメリカのC.E.ターナーを中心とした、健康 教育学者の影響をうけ、徐々に日本においても健康教育の必要性が叫ばれるようになっていた。
しかしながら、当時、日本の児童の学校生活は、家庭生活に比べ短きものであるととらえられ、
児童の健康に関しても、一日の生活のほとんどを過ごす家庭衛生をいかに改善していくかに目が 向けられていた。そこでは、「児童の健康を根本的に完成するものは両親である-両親を措いて外 にはない-このことは、今も昔も変わらない」とされ、児童の健康に関する責任は、児童の保護者 にあるものとされた。しかも、「両親をして児童衛生に関する新知識を速に理解させ、これに共鳴 させ、且つこれを応用せしめ得たならば、自ら児童は健康の法則を確守するに至るであろう」と いう考えからも、健康教育は、「子どもに直接行うよりも、児童の性質と人格を良習の養成よって、
でっちあげる仕事場」である家庭の保護者に行うことが、有効であると考えられていた9)。 雑誌『養護』昭和3(1928)年11月号で文部省体育課より、学校看護婦の執務の参考資料とし て紹介された「学校看護婦執務指針(1924年)」では、校内執務だけでなく、校外の勤務についても、
その方針が述べられている。
校外執務としての家庭訪問の大要には、「疾病異常ノ勧告」、「疾病治療ノ世話」、「疾病欠席児童 ノ調査慰問」、「家庭衛生ノ勧告」、「学校給食ノ決定」といった内容が規定されていた10)。校長や 学校医の指示のもと、学校看護婦の責任においてなされるものとして認められたそれらの活動は、
学校看護婦の重要な執務とされていた。しかしながら、『養護』で紹介された執務の実態は、そ のほとんどが校内執務で占められ、家庭訪問は、担任の申し込みがなければ行われていなかった。
また、実際に行われた家庭訪問に関する実践記録では、何度も足繁く通いながら、ようやく家庭 の理解を得るようになった学校看護婦の苦労の様子を見ることができる11)。
一方、校内執務については、以下のように示されている。
「学校看護婦ハ、学校内ニ置イテハ、概ネ学校医ノ執務ノ補助トシテ働クモノナルヲ以テ4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 、其ノ4 4 執務ノ範囲モ亦学校医ノ夫レ以外ニ出ズルコト少ナシ4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 。学校医執務ノ日ハ其ノ指示ヲ受ケ得ベシ ト雖モ、然ラザル日ハ豫メ其ノ意図ヲ聞キオキ、濫リニ独断専行セザルヤウ心掛クベキモノトス4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4」
(傍点筆者)されている。その執務の内容は、「設備衛生ノ視察」、「児童ノ視察」、「教授ノ視察」、「体 育運動ノ視察」、「疾病ノ治療及診療設備ノ整理」、「身体計測ノ補助」、「衛生教育ノ補助」、「学校 給食ノ介助」であった12)。
上記のように、視察や補助を主な執務とした校内執務は、「其ノ執務ノ範囲モ亦学校医ノ夫レ以 外ニ出ズルコト少ナシ」というように、学校医の執務を超えることは許容されず、「濫リニ独断専 行セザルヤウ心掛クベキモノトス」とされ、その執務は、自らの判断で行うことは、認められてい なかった。確かに、このような文部省による「学校看護婦執務指針」の提示は、教育現場におけ る学校看護婦の存在意義やあるべき姿、その方向性を示すものとして大きな意味をもっていたが、
その反面、その内容には、医師と看護婦というヒエラルキーが色濃く存在し、独自性のある仕事の 形成を阻止していたといえよう。
この指針で述べられた補助的(側面的)な執務の中で、学校看護婦の眼差しは、何に向けられ、
その子ども観を形成していったのか。発刊当初の雑誌『養護』に掲載された、竹本熊子「学校看 護婦より家庭への希望13)」と野原喜知「私の日課14)」の二つの実践報告を例に見ていくこととする。
竹本熊子「学校看護婦より家庭への希望」
「子どもが健康で成長してまいりますには、其の栄養が合理的であるばかりでなく、日光も空気 も都合よく恵まれなければなりません。そしてもう一つ大事なことは、自然のうちに活動させるこ とだと存じます。自然に抱擁されましたあの小さな人達こそ天使そのままの姿4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 ではないでしょうか。
時々附添つてまいります郊外教授の思いでは、美しい絵巻物を展開せずにはいられません。-中 略-大自然に恵まれた天然の運動場、あの広々とした校庭、紫に映ゆる山山を背に夢中に遊んで いる生々とした頬4 4 4 4 4 4、クルッとした眼4 4 4 4 4 4 4 、見るからに溌剌とした子供4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 達4!!」(傍点筆者)
竹本は、その執務である「教授ノ視察」を通して、子どもの姿を「天使そのままの姿」として とらえている。この時期の他の実践においても「天使」や「天真爛漫」といった子ども観をいくつ か見ることができるが15)、特に、竹本の記録に述べられるような「生き生きとした頬」「クルット とした眼」といった身体に向けられた学校看護婦の眼差しからは、日光や空気、栄養といった環 境条件を整えることによって子どもの健康と成長を支えていこうとする様子が読みとれる。
野原喜知「私の日課」
「廊下等で会います子供に「おはようございます」に答えながら幾分子供の衣服その他外部4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 を衛 生的立場から視察し-中略-一寸した例えば、ほころびのある衣服、不潔なエプロン等をもちい ている子供には、一寸注意をいたしますし、咽喉を巻いているやうな子供には後で衛生室にくるよ う話しておきます。-中略-出来る限りは休養児童(頭痛、腹痛、発熱)等は、私が家庭迄送届 けます。それで父兄にいろいろと子供のさんの様子(主として身体に関すること4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4)をきかせていた だいて参考にいたします。」(傍点著者)
この記述からは、「児童ノ視察」、「疾病治療ノ世話」といった執務を展開する中での、子どもへ の眼差しをみることができる。野原の実践は、「児童ノ視察」を通して、衣服や身体といった外見 に目が向け、また、休養児童を家庭に送迎する際にも、父兄に対し児童の身体の様子を尋ねると いった様子をみることができる。
以上のように、発刊当初の学校看護婦の眼差しは、主に身体へと向けられ、「天使のような子ど もの姿」や「天真爛漫な表情」に着目する子ども観を形成していた。ここでは、子どもの内面へ の眼差しは見出すことはできず、天真爛漫で溌剌とした子供たちの外面的な身体の状況に目が向 けられ、その執務が遂行されていた。
2-2 内面への眼差しと子ども観の変化
昭和初期は、学校看護婦数が、年々に飛躍的な増加(昭和2(1927)年971人、昭和4(1929)
年1438人、昭和6(1931)年1824人)を迎える重要な時期でもあった。同時に、その執務に関 する議論も学校衛生大会をはじめ多くの場でなされはじめ、その骨格が形成されつつあった。こ こでは、広瀬ます、野原喜知、石井フユの実践報告や宮本アキの手記か彼女たちの描いた学校看 護婦の理想とそこから読みとれる子ども観をみていくこととする。
広瀬ます「凍傷の予防と手当16)」
「手当を受けるため治療室へ参ります患者は、何れも寒さと傷の痛さとに元気もなく今にも泣き そうな顔をして居りますが、一旦浴にはいれば-中略-嬉々として歌を唱うやら、お話を始めるや ら、その天真爛漫さに、今まで目の廻る程の忙しさでも総ての苦労も打忘れて共に喜んだり、お
話の相手をしたり致します。その中には、思いがけない家庭の事情もわかり非常に親しくなり、遂 には余りのいじらしさに今度は私の方が涙が滲む程でございます」
広瀬は、凍傷の治療をする中で、はじめは、子どもの天真爛漫さとらえながら、忙しさや苦労 も忘れ、共に喜び、話し相手になったりしているが、そこで交わされる会話の中で、「いじらしさ」
といった子どもの内面にふれる様子を見ることができる。
野原喜知の後の実践記録「学校看護と児童の個性17)」
「私共のように数多くの子供に朝夕接して居りますと、随分種々様々な性格を持ちました児童を 知ることが出来ます。お休み時間や放課後に、色々な用事のために私のところへ来ます児童は、
私を先生とも、兄姉とも、またお友達ともつかない、いわば先生とお友達の間のもの位の対象物4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4と 考えましてか、誠に正直な、赤裸々なお話など致します。如何に正直な児童でも、教室に学習を 受けております時の先生に対する、又は、運動場を飛びまわって教師と共に遊び戯れる4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4、そうし4 4 4 た中にも幾分年齢相応に表面的な生活をと心を使ひますさまが窺われます4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 。それが、私のところ4 4 4 4 4 へ参りますとそうした気分が比較的薄くなりまして4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4、殆ど心のそのままな言葉や行動を見ることが4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 出来ます4 4 4 4 。時によりますと、先生にも比較的信用厚く、相当によい成績の児童が、体操後に全身 疲労を癒すために、頭痛等を名として、二三時間も昼寝をしておりますとか、高学年女性となどで、
まれには、自分の最も嫌いな学科を気持ち悪いとかいいまして休養室に過ごしますとか、担任の 先生ともご存知のないような家庭事情をお話してくれますとか、諸方面に児童の生活状態を知る 場合が多いのでございます。-中略-三分や五分の児童との接近も何か意義あらしめなければと 考えておりましたところ、こんなことに気附きました」(傍点筆者)と述べている。
この野原の記述からは、その眼差しが、先の記述(「私の日課」)には見られなかった内面へも 向けられている。また、同時に、自らの存在を、一般教師には見せないような内面をみることので きる数少ない存在であることを認識し、「三分や五分の児童との接近」も意義があることと考え実 践している様子がうかがえる。
石井フユ「学童の弁当に関する調査18)」
「ここで面白いのは、虚弱児童の多くは、神経質で偏食するものが多いのはご承知の通りであり ますが、量を計ることに興味をもつて学校で昼食を取る児童が多くなりましたこと、-中略-平素 父兄は、学校であつたら持たせただけ食べて帰るけれども家では食べないと申しております。間 食などの関係も大いにあるとは思いますが、児童の個性を充分理解する必要を感じましたと同時 に本当に面白い事実だと思ったのであります」
弁当に関する調査を通じて石井は、子どもが、量を計ることに興味をもって学校で昼食をとる 児童が多くなったり、学校であったら持たせただけは食べるといった働きかけや場によって変化す る子どもの個性へ興味をもち理解を深めようとする様子が見られる。
宮本アキノ「学校看護婦執務状況報告19)」
「学校看護婦は臨床看護婦としての知識と技能を修め相当の経験を有している上に、更なる教育 者としての自覚と強い信念がなくてはなりません。教育を理解し、児童を愛し、親切丁寧に接し、
衛生活動の指導をなし、凡そ私共の行動は、児童ばかりでなく、児童を通じて家庭に響く事亦大 であります。故に衛生的模範をしめして接し、特に児童を理解することが大切4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4であります。臨床看
護婦と違って、相手は心身共に発育期の快活天心なる児童であります故、常に明るく寛大に抱擁 せねばなりません。なお職員全体との強調を保って凡ての教育施設の中に養護部面が食い入って 織り込まれなければ、片手落ちの教育とだと申しても過言でないと信じます。学校看護婦は、学 校施設として定められる任務だけでは決してありません。常に理想を以て能動的な研究をし、求 めて児童のよりよき衛生教育の向上の為に活動せねばならない立場にあります」(傍点筆者)と述 べている。
宮本の記述にみられる学校看護婦像は、臨床看護婦の知識や技能、その経験の上に、さらに、
教育を理解し、特に児童を理解することに重きを置き、発達期にある児童を対象にするが故に臨 床看護婦と異なった存在としての自らの仕事を認識している様子が見て取れる。そこから繰り広 げられる実践もまた明るく寛大に抱擁すべきものとして展開しようとする様子がうかがえる。
以上に紹介してきた実践報告からも学校看護婦が、自らの実践を通し、子どもの内面への眼差 しをもつようになったといえる。実践を通して拡大した眼差しは、その子ども観にも大きな影響を 与えていた。その子ども観は、天真爛漫で天使のようなものから、それぞれ個性をもち、悩み生活し、
発達途中にあるものとして変化していた。さらに、自らの存在が、一般教員にはとらえられない子 どもの様子をとらえることのできる数少ない存在であることにきづかせた。このことは、学校看護 婦の新たな実践の展開を支えていたといえよう。
これら、学校看護婦の仕事について、当時、学校衛生官であった大西永次郎は、「学校看護婦の 勤務」という論考において以下のように述べている。
学校衛生は、「教育に伴う衛生であり」、教育とは「教える立場からのみ考えてはならない。教 えらるるものの本質が如何であるかがより大切なものである。この点について従来病人という特殊 の人達に触接する機会の多かった皆様として、かなり急激な変化といわなければならない。元気 よく日々活発に登校し、勉学し、運動している児童、彼等は、日に月に生長している。我儘で4 4 4、気4 安で4 4、しかも快活そのもののようである児童の精神も月に日に心理的完成のためにその発達をなし4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 ている4 4 4。一見健康のように見られている児童も、少しく詳細の検診をすれば、殆んど完全無欠の ものはない位に多数の疾病を有して居る。更らに愛らしくて悧巧そうに見える彼等の中にも、一定 に心理的テストを試みれば、そこには精神的並びに質的発達において、無数の段階にある。-中 略-児童そのものの本態を心身の両面から十分に知悉する4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4ように勤めることは、学校看護婦の重 要な任務の一つである」(傍点筆者)としている20)。
学校看護婦の眼差しの在り方として、心身両面への眼差しの重要性が述べられたこの記述は、
その仕事が、学校看護婦の仕事の対象が、日々成長する子どもであるとし、さらに、生活や「生長」
を支援するものをも含みつつ、発展することを期待するものであったといえよう。
3.学校看護婦の実践の展開と執務への影響
3-1 衛生訓練における実践と子どもの発達への配慮
『養護』発刊後まもなく、大西は、「一国国運の発展の基礎を為すものの一つ」に公衆衛生の進 歩として、その「根本は青少年に対する衛生訓練の如何に着せなければなりませぬ。」と述べ、こ れまでの衛生教育が「知識としての生理衛生の教授に止まり、実行を目的とする訓練にまで及ば なかったこと」を反省し、この後の衛生教育の方向性として、「児童の内部的要求に出発して自ら 衛生の指導を実行せんとする思想の涵養なる衛生教育の復興」に向けるようになる。大西は、小
学校を「国民一般に衛生訓練の指導に対しても適当な場所」であると述べ、この時代を、「感化性 や順応性の最も大で、衛生上の習慣づけるのに最もよい時期」としている。さらに、衛生教育に ついて、「児童の年齢、学年の進歩、知識の発達等に鑑み」て、「日常における衛生生活の修練を 徹底」することを目指すものとした21)。
そして、これら「衛生訓練の指導者として」の任務を、学校看護婦の重要な執務とすることで、
衛生教育の問題を補うだけでなく、「外の施設や設備の整備のみに目が惑うふて」、経費不足を理 由に行き詰まっていた学校看護事業の発展をも目指した。
昭和5年以降の『養護』に掲載された執務内容、実践報告には、これら衛生訓練の足がかりに なるような実践が数多く見られるようになる22)。それらは、どのようなものであったか、以下、そ の内容を見ていくことにする。
辻本道榮「健康のバロメーターである児童体重の毎月測定したる結果について23)」
「第4、児童が体重を毎月測定することによって自己の身体発育上の自覚を生じ、今月は〇〇増 えた○○減った、体月はもっと増加するようにせねばならぬと口々にいっています。恰も学科の標 点によって自己の学力に関する自覚を生ずるかのように……。これだけでも私は体重毎月測定に大 に意義があると存じます」
辻は、毎月の体重測定をする中で、病気の早期発見のみならず、児童自身が自ら健康を守ろう と内面でおこる身体への自覚の重要性を認識している様子がうかがえる。この認識は、後に衛生 訓練を通して内面をコントロールしていく24)プロセスの基盤にもなっていたと思われる。
飛田いね「衛生室だより25)」
「衛生室に凍傷薬を備え付けて児童に自分が手当てする訓練したところ、毎日毎時間の休み時間4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 に来ること来ること一年生から六年生まで4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 、中には毎時間来る熱心な児童も澤山見受けられる4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 。こ れでは、凍傷の出来るひまがない。自分で凍傷を直したいと言う4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4嬉しそうな顔を見ると、何ともい えない。凍傷薬などは極めて簡単に作れる薬ではあるが、児童の家庭では、なかなか億劫がって 作ってくれないと見える。またよしや家庭にあっても学校の薬の方が利目があると子供心に思い込 んでいるらしい。衛生室では4 4 4 4 4、児童に常備薬として折々4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4、説明している4 4 4 4 4 4。六年生ぐらいになれば4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 凍傷薬の主成分位は4 4 4 4 4 4 4 4 4、知っていてもいいと思う4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4」(傍点筆者)
飛田は、凍傷の訓練を通じて、事後の実践を学年や発達を意識しつつ行っている様子をみるこ とができる。凍傷の手当を通して、「凍傷を自分で治したい」という子どもの自律性に気づいた辻 は、児童を生活の中でとらえ、子どもに「凍傷薬の主成分」を説明するといった実践を行っていた。
ここには、「自律的に健康を守る姿」に着目し、子どもを教育の対象としてとらえられる子ども観 がうかがえる。さらに、その実践は、それぞれの執務と執務(衛生訓練と疾病の治療)を、衛生 室という場を用い実践によってつなぎ、当初の治療(cure)としての意図に加え、医学知識の向上、
衛生意識の高揚、衛生的生活習慣の形成に寄与していた。さらに、このことは、「学校看護婦執務 指針(1924年)」で校外執務とされた「疾病治療ノ世話」をも校内執務として行うことを可能にし ていた。
3-2 教育の対象としての子ども
『養護』刊行も中期頃になると、衛生訓練は、多様な実践へと展開されていくこととなる。福岡
市の学校看護婦坂田照子の「衛生訓練実施後の私の感想」では、訓練だけでなく、これまで学校 医の執務とされていた衛生講話をも取り込みながら多様な実践を生み出している。実施後には「児 童にどれだけの価値を与へて居るか、或いはどの位諒解しているかを知るために」衛生試験を実 施し、さらには、児童の「小さな頭に如何なる感じを起こしているか」といったことを知るために、
感想を書かせ、衛生思想の定着を確認したり、自らの実践の評価をしたりといったことも行ってい る26)。ここには、学校看護婦の実践を展開する重要な場として衛生訓練が位置づいていた様子を みることができる。
その反面、他の衛生訓練には、習慣として身に付けさせる手段として、教室にグラフを掲載して、
体重やう歯の有無を競い合わせるといった実践もみられた27)。
以上のように学校看護婦の実践は多様化し、教育的要素を含むものへと変化していた。これら の変化は、この後、学校看護婦に関する初の制度的執務が提示された「学校看護婦ニ関スル件」
にも少なからず影響を与えていたことが推測される。
昭和4(1929)年10月に文部省訓令二十一号「学校看護婦ニ関スル件28)」が制定され、学校看 護婦に関する初の制度的執務が定められた。そこで示された執務と『養護』発刊当初に参考とし て示した「学校看護婦執務指針」とを比較してみると、下記のような変化が見られる。
「学校看護婦執務指針」から「学校看護婦二関スル件」に至る執務内容の変化は、①主に学校 医の補助であった職務が、学校長、学校医やその他の関係職員の指導を受け従事できるようにな ったこと、②「家庭衛生ノ勧告」が消去されたこと、③衛生訓練に関して「補助」の文字が消え、
衛生訓練が行えるようになったこと、といったものであった。
これらの変化を見てみると、①の変化は、執務の補助性が薄くなり、学校医だけでなく多くの 学校職員から指導を受け、執務に直接従事できるようになったといえるが、これは、先の広瀬ま すや野原喜知の報告にみられるような直接的に子ども対応する実践にそして、②にみられる校外 執務の縮小は、竹本熊子の家庭への「衛生便り」や辻本道榮の「疾病治療の世話」といった校外 執務を校内執務化していく実践に、また③にみられる衛生訓練の実施者としての執務は、辻道榮、
平田つぎ、飛田いねにみられるような衛生訓練実践と通じるところが少なくない。
4.まとめ
昭和初期の学校看護婦の子ども観は、「天真爛漫または天使といった存在」または、「個性をもち、
悩み生活しつつ、生長をするもの」として存在し、それらは併存していた。
『養護』発刊当初、学校看護婦のまなざしは、執務遂行の中で、「天使のような姿」や「天真爛 漫といった表情」といった外面に向けられ、着目する子ども観を形成していた。「天使のような姿」
や「天真爛漫といった表情」に着目する子ども観は、学校看護婦に「子どもと共に喜びあい、話 し相手になる」といった実践を支え、その眼差しはやがて身体のみならず、内面まで向けられるよ うになっていた。心身両面への眼差しをもった学校看護婦は、子どもを、個性をもち生長するも のとしてとらえ、教育の対象とし、身体の発育だけでなく、衛生訓練をはじめその内面の発達にも 目を向けていた。その実践は、衛生室という場を利用した(1924年)執務と有機的につなぎなが ら多様に展開されていた。このことは、「学校看護婦執務指針」から「学校看護婦ニ関スル件(1929 年)」へ学校看護婦の仕事内容の変化からも明らかなように法制度にも少なからず影響を与えてい たと考えられる。
引用文献
1) 森昭三:養護教諭のしごと、ぎょうせい、39-41、1981
2) 森昭三:これからの養護教諭―教育的視座からの提言―大修館書店、150、1991 3) 藤田和也:養護教諭の教育実践の地平、東山書房、30-38、1999
4) 同上、85
5)海後宗臣は、日本の子どもについての歴史的研究を子ども史の研究とし、「子ども史研究」を(1)子 ども状態史(2)子ども表現史(3)子ども研究史(4)子ども思想史と分類し、整理している。また、
この「子ども思想史」として整理された子ども観の歴史的研究は、「子ども状態史」に対して、さらに 研究を進める上で仮説を提供しうる関係にあることも指摘している(海後宗臣:児童観の展開、国土社、
9-33、1969)
6) 子ども観を言語化された観念形態としてだけではなく大人の子どもへの非言語的身体的関わり方を無 意識のうちに表現したものとしても問題にできるのではないかととらえている(宮澤康人:大人と子 供の関係史序説、柏書房、48-49、1998)
7) 杉浦守邦:養護教員の歴史、東山書房、79-80、1985 8) 文部省体育課:養護 第1巻1号;15-17、1928
9) 井上圓冶:米国学校看護婦を視察して、養護 第1巻1号;29、1928 10) 掲載書8):20-24
11) 安田テイ:家庭訪問、養護 第1巻1号;34、1928および諏訪りん:学校看護婦の執務の実際、養 護 第3巻10号;23、1930
12) 前掲書8)17-20
13) 竹本熊子:学校看護婦より家庭への希望、養護 第1巻2号;21、1928 14) 野原喜知:私の日課、養護 第2巻4号;16-20、1929
15) 広瀬ます:凍傷の予防と手当、養護 第2巻12号;14、1929 16) 同上
17) 野原喜知:学校看護と児童の個性、養護 第2巻8号;28-29、1929 18) 石井フユ:学童の弁当に関する調査、養護 第4巻7号;23-28、1931 19) 宮本アキノ:学校看護婦執務状況報告、養護 第8巻3号;23-27、1935 20) 大西永次郎:学校看護婦の勤務、養護 第2巻1号;18-21、1929 21) 大西永次郎:衛生訓練と学校看護婦、養護 第2巻2号;1-8、1929 22) 平田つぎ:養護学級児童の弁当と其の対策、養護 第6巻6号、36-37
23) 辻本道榮:健康のバロメーターである児童体重の毎月測定したる結果について、養護 第4巻5号;
22、1931
24) 七木田文彦:健康教育教科「保健科」成立の政策形成―均質的健康空間の生成―、学術出版会、99- 115、2010
25) 飛田いね:衛生室だより養護 第4巻5号、21-23、1931
26) 坂田照子:衛生訓練実施後の私の感想、養護 第2巻3号、20-26、1929
27) 辻本道榮:児童体重の毎月測したる結果に就て、養護 第4巻5号、19-20、1931、および平田つぎ:
養護学級児童の弁当と其の対策、養護 第6巻6号、36-37、1933、および飛田いね:衛生室だより養 護 第4巻5号、21-23、1931
28) 文部省:学校看護婦ニ関スル件、養護 第2巻11号;1-2、1929
Change of the work of a School Nurse in the early years of Showa era. :
It analyzed focusing on the child view in a journal “yogo”
Tomomi TAKESHITA
Faculty of Education, Saitama University
Abstract
The purpose of this study was clarifying a school nurse’s child view. Until now, in a peda-
gogy field, there is some study accumulation about a child view. However, a child view was not studied in a school health field. A school nurse’s child view is a important factor which influences practice.The target time of this paper was aimed at the periods from 1928 to 1937. Historical re- cords were limited to journal “yogo”.
This paper clarified change of a school nurse’s child field of view, and clarified relation be-
tween a look and practice .By the early years of “yogo”, a school nurse’s look was turned to the body. Then, the look was directed to the inside. Simultaneous, a school nurse’s child view was changing from pure existence to the existence which worries like an adult and grows. And practice of a school nurse had become what was conscious of a child’s developmental stage. This change had also affected a school nurse’s system.
Key Wards : child view, journal “yogo”, school nurse, Care