両大戦間期の農業保護政策研究のために
著者 村田 武
雑誌名 金沢大学経済論集 = The Economic Review of Kanazawa University
巻 26
ページ 85‑96
発行年 1989‑03‑25
URL http://hdl.handle.net/2297/37274
<研究ノート>
両大戦間期の農業保護政策研究のために
村 田 武
は じ め に
第2次世界大戦後の農業保護政策をとくにその歴史的系譜という側面から 研究するにさいして,両大戦間期の農業保護政策を,とりわけヨーロッパ諸 国におけるそれを多面的な視点から分析することが有意義であろう。
小稿はそうした作業の準備過程として,第1次世界大戦以降の世界農業を めく㈱る情勢の変化をドイツ農業とかかわらせながら分析した1930年代はじめ のドイツ農業経済学界の研究を,一部サーベイしようとするものである。
1927,28年以降,深刻な農業恐慌にたたきこまれたドイツでは,当時の経 済学界,とくに農業経済学界は,全力をあげて農業恐慌の性格についての理 論的解明とあるべき農業政策の模索にとりくんだのであって,それは当然な がら,第1次世界大戦以降のドイツ農業と世界農業の全般的分析を不可避な ものにした。その代表的な研究成果が,ひとつは,F・ベックマンやTh・
ブリンクマンの編集になる膨大な『国内・対外経済政策としてのドイツ農業 政策』であり,いまひとつがM・ゼーリンクの編集した『国民経済・世界経 済的視点のもとでのドイツ農業』であった。
以下では前者(以下では『ドイツ農業政策』と略称する)のなかから,第 1次世界大戦以降の世界農業の変化とそれがドイツ農業に与えた影響を直接 の研究対象としている論稿を主にサーベイする。
I.第1次世界大戦以降の世界農業について,何が変ったか。
「世界農業をめぐる諸条件が1914年以降に大きく変った」という認識は,
今日では第1次世界大戦以降の農業問題を語るさいのいわば常識となってい
るといえよう。しかも,第1次世界大戦後の世界農業の変化のなかみについ ては,今日では,なによりも世界の農業生産構造の変化が中心であって,
次いで食糧消費構造の変化と重ねて,農産物の世界的需要供給問題として理 解されているといってよかろう。
しかし,1920年代から30年代冒頭にかけての時期においてこうした認識は まだ確立していたとはいいがたいようであって,この問題について明確に世 界農業力§変化したという理論的立場が主張されているところにこの『ドイツ 農業政策』の第1の特徴があろう。
第2に,その変化の内容については,「ドイツ農業政策」は,まず食糧消費 の変化(WandlungeninNahrungsmittelverbrauch),次いで食糧販売・流 通システムの変化(WandlungeninVerteilungsapparat)としてとらえ,
第3に,生産分野の変化(WandlungeninderProduktionssphare)をみて いるところに特徴がある。注目したいのは,食糧消費やその生産構造の変化 とおなじレベル,ないしむしろより重い比重をかけて食糧の販売・流通機構 の変化力罫問題にされていることである。後にみるように,食糧の販売・流通 機構をめく.って1920年代後半以降に出現した新しい現象は,それが第2次世 界大戦後に全面的な展開をみることになる食糧流通問題の基本的要素であっ ただけに,なおさら重視すべきであろう。
ここでは,最初に農業生産分野における変化について簡単にあとづけ,次 いで食糧消費,最後に食糧の販売・流通問題についてとくに重点的にサーベ イする。
II.農業生産をめぐる変化
第1次世界大戦以降の世界農業の生産分野における変化は,まず何よりも 農業生産力の飛躍的な向上によって特徴づけられる。
第1に,内燃機関トラクターやコンバインの急速な導入による農業機械化 が,労働生産性を大きく上昇させ,それにともなって穀物作専門経営の規模 拡大と生産の拡大,さらに農業就業者の減少をもたらした。耕種農業部門の 機械化が急速に前進し,その利益力§とくに大きかったのは,合衆国,カナダ,
南アメリカ,オーストラリアなど,労働力にたいして農地面積の大きかった
両大戦間期の農業保護政策研究のために(村田)
諸国である。世界の穀物生産量の推移は表1のとおりであって,第1次大 戦後の穀物収穫面積・収穫量の増加,なかでも小麦生産の顕著な伸びが読み 取れる。
第2に,植物育種技術の向上(たとえば春小麦品種Marquisや,さとうき び作を大変革させたP.0.J.2878)や,化学肥料の普及,かんがい技術の前進,
病虫害防除の前進などにともなって,集約的・合理的な作物栽培が発展した。
第3に,耕種部門の生産性の上昇と並行して,畜産部門でも,家畜品種改 良,家畜栄養生理学と飼料効果研究の前進にともなって,とくに1914年以降 それ力§実際の農業に応用されるにいたって,生産性の上昇が顕著になった。
たとえば酪農では乳牛の1頭当たり搾乳量が増加した(たとえばデンマーク では,1914年の平均2750kgが30年には3300kgに増加した)。
このような技術の革命的な進歩は,同時に「農業の社会学的構造」(die soziologischeStrukturderLandwirtschaft)をも大きく変化させること になった。
一方では,合衆国,ソビエト連邦,海外の大国にみられるように,生産面 にとくに重点をおいて合理化と生産規模の拡大をおこない,生産性を高め ている。他方では,ヨーロッパ諸国にみられるように,戦後に農業改革を おこない,生産分野でも農民的個別経営の社会学的優越性を確保しようとし ている。このように農業構造の分化が進んでいることもまた,第1次世界大 戦以降の世界農業の変化の一側面をなしている。
ここに指摘されているような農業構造の世界的分化過程は,それじたいき わめて重要な問題提起であろう。
農業生産の分野でのドイツ農業の特徴は,どのように見るべきか。
ドイツでは他の国々とは異なって,第一次大戦中には農業生産が後退した。
戦後1921年にはとくに合衆国では戦後農業恐慌に見舞われるが,ドイツでは ようやく1924年になって生産の拡大が始まるのである。また,農業生産性の 伸びについても,ドイツは相対的に低かった。その要因として指摘されている のは,(1)ドイツは戦前においてすでに作物の単収水準では世界最高のレベル にたっしていたこと,(2)戦後における農業機械化では相対的に後れをとった のであって,それはとくにドイツでは農業労働者賃金が合衆国やカナダより
も低廉であり,農業経営も複合的(Vielfruchtbau)であり,かつ零細分散耕 地制度(winzigeStreuparzellen)がトラクター化の制約条件となったから であるといった諸点である。
IⅡ、食糧の消費をめぐる変化
『ドイツ農業政策』は,1914年以降に食糧消費をめく.って起こった変化と その要因について,次のような指摘をおこなっている。
まず何よりも強調されているのは,第1次世界大戦以降の食糧消費につい ては,戦前と比較してとくに主要な食糧輸入地域である西ヨーロッパ諸国で の消費の全体としての停滞化傾向についてである。
その要因の第1は,最先進諸国(diewichtigstenzivilisiertenNationen) での人口増加率が低下したこと。しかも,これらの国が1914年以前の世界市場 で主たる輸入国であったこと。また合衆国など,最も重要な輸出国でも同様 に入口の延びは停滞していること。
第2に,1914年以来,食糧の人口1人当たり消費量の伸びがストップし,
停滞ないし減少しはじめたことである。それはとくに重筋肉労働の減少によ るところが大きいとされている。戦前には,工業国での広範な購買力の上昇 にともなって,重要食糧の人口1人当たり消費量が増加したことを特色にし ていた。しかも,工業化・購買力の上昇にともなって,消費がとくに増加し たのは「任意に選択力ざ可能な食糧」(diefakultativenNahrungsmittel)と される高級食品群(バター・マーガリン,食肉・卵・牛乳・チーズのような 高級蛋白食品,野菜・果物のようなビタミン食品など)であって,こうした 食糧の販路を大いに拡大させた。たとえば,食肉消費量(年間l人当たり)
は,イギリスでは56.4kg,ドイツでも52.6kgにたっしていた。他方では,「必 須基礎食糧」(dieunentbehrlichenBasisnahrungsmittel)とされる食糧 群(これには穀物・じゃがいものようなでんぷん食品,植物油脂・ベーコン
のような低級脂肪食品,豆・にしんのような低級蛋白食品があると例示され ている)の市場はすでに戦前においてもそれほどの伸びではなかったとされ ている。
第3に,戦後,住宅や衣料などの工業製品,娯楽,旅行などにたいする需
両 大 戦 間 期 の 農 業 保 護 政 策 研 究 の た め に ( 村 田 )
要が高まり,また婦人の就業率の上昇が家事労働を節約させる家庭器具の需 要を高めたために,食糧費は絶対額では増加しながらも,家計費にしめる割 合では顕著に低下している。
ドイツについてはどうであったか。
ドイツでは,戦時中の4年間およびその後のインフレーションの6年間に わたって,国民の食糧消費水準は全体として生存の最低水準にまで減退した
(とくに脂肪食品についてそれがいえる)のであって,ようやく通貨安定後 になって,戦前水準を回復したという特殊性をもっている。ただし,その後 も戦前水準を大きく凌駕する様になったわけではなく,消費は停滞傾向をしめ したのであって,それはとくに食肉やバターで顕著であった。パン,じゃが いもの消費は戦前より低下していることは他の先進国と同じ傾向をしめしな がら,ドイツの特色はそれにかわる高級食品(野菜・果実をふくむ)の消費の 伸び率力ざ相対的に,とくに合衆国に比較して低かったというのが『ドイツ農 業政策』の認識であった。
Ⅳ 、 食 糧 の 販 売 ・ 流 通 シ ス テ ム の 変 化
『ドイツ農業政策』の執筆者たちがとくに注目した第1次世界大戦以降の 食糧の販売と流通における変化とは,どのようなものであったか。
(1)食糧流通経費の上昇
まず第1に,食糧の流通経費が戦前に比べて上昇したことが指摘されてい る。
食糧流通経費の上昇の原因としては,食料品店の増加にともなう1商店当 たりの売上高の低下や店舗家賃や雇用労賃の上昇,食糧輸送費(とくに鉄道 運賃)の上昇,さらには都市住宅の変化(貯蔵庫のない住宅の増加)にとも なう消費者の食糧購入単位の少量化と流通段階での貯蔵コストの引き上げな どがあげられているところが興味深いところである。
この問題でのドイツの特色は,戦後鉄道運賃が上昇したにもかかわらずト ラック輸送の発展が合衆国に比べてずっと遅れたこと,工業部門における合 理化運動にともなって就業者が商業部門に押し出されたこと−たとえばベ ルリンでは牛乳店が1914年の3000店から,1930年には6000店を数えるほどに
増加した−,さらに雇用労賃の上昇が食糧流通部門でもみられたことなど によって,食糧流通経費の上昇が大きかったようだ。
(2)食糧の質をめぐる競争一一食品の規格統一運動の展開
第1次世界大戦を契機に,食糧の品質や食品衛生上の要求が高まった。19 14年以降,世界各国でいっそう厳重な食品衛生管理法(とくに牛乳法や食肉 衛生法に代表される)が施行されるとともに,食品の規格統‑(Vereinheit‑
lichungundStandardisierung)に関する法規や,食品輪出管理(輸出にさ いしてとくに品質や衛生に関する管理)が強化され,そうしたことが農産物 輸出競争において重要な位置をしめることになった。
食品の規格統一運動は,世界的にはまず合衆国政府によって戦時中の1917 年に着手され実際に効果をあげたことから,世界の食糧貿易に大きな影響を およぼすことになった。「規格統一」は『ドイツ農業政策』では,「工業的 に大量生産された同質食品を最高品質保証つきで提供する」方式(Lebens‑
mittelinserienmaBigerGleichmaBigkeitinindustriellerMassen‑
zurichtungundmith6chsterGlitegewahrzuleisten)と定義され,理解
されている。
とくにこの時期の規格統一運動は,1)まずは酪農品や卵に代表される畜 産物と,ついで果実,野菜などについて,関税をはじめとする通商上の障壁 を越えるための対外競争力の強化策としての意義を与えられたこと,2)い まひとつは,この規格統一運動がとくに西ヨーロッパ諸国では農業協同組合 による運動として始まったところに特色があるとされている。
こうした食品の規格統一運動が展開される技術的条件として,食品の加工・
貯蔵技術(Konservierungstechnik)の革新があった。冷蔵技術の向上は,
南アフリカやカリフォルニア産の桃や高級プラム,ニュージーランド産のり んごをヨーロッパ市場に供給することを可能にした。また食肉も冷凍品 (frozen)ではな<,冷蔵品(chilled)が海上輸送できるようになった。ア メリカ人Birdseyeによる瞬間冷凍法が実用化された。
畜産部門での規格統一運動のなかから食肉処理・加工施設(packinghouse) が生み出された。これはいわば酪農部門の乳業工場(Molkereiwesen)に対 応するものであるといえる。
両大戦間期の農業保護政策研究のために(村田)
合衆国に次いでイギリス帝国諸国が規格統一運動に乗り出し,そのスピー ドを合衆国と争った。またソビエト連邦のこの分野での努力はめざましく,
果実やブロイラーの規格統一では合衆国に次ぐレベルに達している。ヨーロ ッパ大陸ではデンマークやオランダが,高品質で規格化された酪農品および 家禽製品の安定供給によって,とくにドイツ市場での販売シェアを高めた。
ドイツで規格統一運動力笥展開されるのは,合衆国より遅れることほぼ10年,
つまり1920年代の半ばにいたってからである。このこと力:デンマークやオラ ンダ産の畜産物のドイツ市場への浸透を許すことになったとされている。ド イツにおいて規格統一運動の導入が遅れた理由については,第1次大戦後の ドイツの経済困難は無視できないが,そもそも規格統一は管理や監督がより 単純な輸出管理(Exportkontrolle)に始まるものであって,輸入国ドイツ において国内市場における分散した農産物出荷・販売の管理をおこなうこと はきわめて困難であったことによっている。
規格統一運動と協同組合との関係については,以下の引用をしておこう。
「協同組合的自立がこれまで畜産部門でもっとも成功し,この部門におい て組合設立当初の機能がもっとも純粋に保持されているのは偶然ではない。
多数の分散した個別経営が出荷するものを規格統一し,集中化することは,
生産条件の合理化によって可能となる。協同組合が乳業工場,屠殺場,
食肉加工・包装出荷場,販売店などの設置や営業をつうじて,卸売業者にた いしても,また生産者にたいしても強い立場に立てるようになったために,
なおさらこの規格統一と集中化は統一的な購買・販売政策のもとで展開が可 能となった。このようにして協同組合による標準化(Normierung)・規格統 一方式力ざしだいに拡大され,畜産物にとどまらず,果樹・園芸部門作物の国 内販売や輸出にまで適用されるようになった。戦後に急速に進展したこの方 式を,ほとんどすべての輸出国はそれに必要な法制上の措置をとりながら採 用したのである。今日では,法律で保護された商標(Warenzeichen)
と輸出国家管理は,加工品の国際貿易においてきわめて多面的な形態で導入 されており,枚挙にいとまがないほどである。」
(3)食品卸売業・小売業における大企業の成立および消費協同組合の連合 第1次世界大戦後の食糧販売・流通システムの変化のなかで,卸売業機能
の拡大にともなって大卸売企業が成立する条件の整ったことが注目されてい る。
また小売部門においても,小売業者の統合や消費協同組合の連合(Konsum‑
vereine)が促された。小売商店の新しい形式として,支店制度(Filial‑
systeme)やいわゆるチェーンストア(Kettenladen),デパーート(Warenhauser) が出現した。消費協同組合の形態でのショッピンクとセンター(Einkaufszentralen) の開設も始まった。卸売,小売におけるこのような新しい動きが,上にみた 規格統一運動を生産者サイドにいわば強制する要因ともなったことはいうま でもなかろう。
ドイツでは,1)消費組合が組合員と販売高を大きく伸したこと(たとえ ばチューリンケン地方では47%の世帯が消費組合の組合員であった),2)流 通コスト引き下げのためにさまざまな購買組織が結成されたことを特色にし ている。たとえば,ドイツ植民地産品商仕入協同組合(Edeka,Einkaufs‑
genossenschaftDeutscherKolonialwarenhandler),ドイツ消費組合連合 会仕入・加工株式会社(Gepag,GroBeinkaufs‑undProduktions‑A.‑G.
deutscherKonsumvereine),ドイツ消費組合連盟仕入会社(GEG,GroB‑
einkaufs‑GesellschaftDeutscherConsumvereine)である。さらに,2 つの食料品販売支店連合会(DeutscheVerbandefUrLebensmittefilial‑
geschafte)が8000店舗(Detailgeschafte)を擁した。
(4)農業協同組合運動の発展と協同組合的「市場調整」理念の出現
『ドイツ農業政策』がとりあげる食糧の販売・流通システムの変化にかか わって,たいへん興味深いのが,この問題である。
1914年いらい,農業協同組合は全世界でルネサンスを迎え,戦前とは決定 的に異なる発展をしめした。そして,このような農業協同組合の発展(生産 物の少なくとも過半数が協同組合によって集荷されるといった状況)のなか から明確な協同組合的販売イデオロギーが形成されることになった。オーダ リー・マーケティング(orderlymarketing,FiitterndesMarktes),つま り自主的な「市場調整」理念,とくに輸出秩序維持対策がその中心をなすも のであった。
このオーダゞリー・マーケテイングは国際穀物貿易,とくに小麦貿易におけ
両大戦間期の農業保護政策研究のために(村田)
る協同組合運動の発展過程で形成されたものである。
そのもっとも典型的な事例となったのがカナダ小麦プール(CanadianWheat Pool)である。カナダにおいては,戦後小麦作が西部に拡大したが,このい わば新開地では卸売業者や製粉業者との競争が旧産地ほどには激しくなかっ たために,農業協同組合の参入,つまり小麦集荷の拡大にとっては恵まれた 条件が与えられていた。また小麦の品種が主に硬質春小麦(Marquisおよび RedFife)に限られていたこと,および農民の農産物販売にしめる小麦の割 合が高かったことも農業協同組合にとっては有利であった。1921‑23年に,
小麦価格が低落してカナダ小麦農民の危機が深まったことを契機にして,分 散していた農協が郡・州組織に統合され,1924年には全国組織,すなわちカ ナダ小麦プールの結成をみた。各州・郡の農協連合会はうまく組織された穀 物エレベーター網を所有し,プールは販売量の割当てとポートエレベーター の建設によって,カナダ小麦貿易において決定的にその地位を高めた。1925 年度にはその小麦集荷シェアはほぼ50%,イギリス向け輸出では1926‑29年 平均で過半数をしめた。こうしてカナダ小麦プールは,国際小麦価格,とく にイギリス市場での価格形成に大きな影響力をもつことになり,イギリスの 消費組合にたいする直接販売方式の採用など興味深い実験的取り組みもおこ なっている。1924‑28/29年の時期においてはプールの在庫調整力ざ有効に機 能し,カナダ産小麦は相対的に高い価格水準を維持できた。しかし,1928年 の世界的な小麦豊作(カナダ小麦も戦後最大の豊作),1929年大恐慌の始ま
りのもとで,カナダ小麦価格の世界市場での崩壊に見舞われたプールは,膨 大な過剰在庫の処理に窮して,市場調整活動を放棄せざるをえなかった。
(なお,参考までに,1920年から31年にかけての時期の農産物世界価格の推 移についてのグラフを末尾に掲げておく。)
さて,このカナダ小麦プールがいわば下からの協同組合運動の積み上げの なかから成立したのにたいして,合衆国の連邦農産物委員会(FederalFarm Board)は,最初から中央組織が創設され,協同組合下部組織を組織してい くことが重要な課題となり,同時に,国家から独立して協同組合的民主的組 織原則にたちかえることが当初から困難であったというのが,『ドイツ農業 政策』の連邦農産物委員会にたいする評価である。そして,合衆国において
農業協同組合が地方的限界を越えることが困難であったのは,合衆国の小麦 作にとっては国内市場が大きく,小麦産地もきわめて多様であったために,
全国的利害の統一性を欠いたことによるとしている。にもかかわらず,1929 年夏という小麦過剰在庫のたいへん大きかった時期に委員会力:活動を開始し,
農民から直接小麦を買上げる機関(StabilisationCorporation)を創設し,
たとえそれが1930年夏には活動停止を余儀なくされたとはいうものの,小麦 在庫の解消のための取り組み(たとえば,小麦粉輸出の拡大をつうじて小麦 輸出圧力を緩和しようとして国内南西部の製粉業者への小麦直販,ドイツ穀 物貿易会社との31年秋の20万トン輸出契約やブラジルの価格調整機構と32年 初のコーヒーと小麦2000万ブッシェルのバーター協定の締結など輸入国との 大規模販売契約の締結)や,小麦作付即時制限・飼料化宣伝活動の強化(小 麦作付制限は32年になって,とくに軟質春小麦では一定の前進がみられたと
されている)がおこなわれた。
このように,『ドイツ農業政策』が小麦輸出国のオーダリー・マーケテイ ングを協同組合的「市場調整」理念の登場として特徴づけながら,カナダ小 麦フ.−ルと合衆国農産物委員会を分析の主な対象としたことについては見逃 すべきではなかろう。
(5)農産物「市場調整」にたいする国家介入の強まり
農業協同組合運動がめざした農産物市場の調整は,その目標を達成するに は,結局のところ国家の財政的助成措置なしには困難であった。『ドイツ農 業政策』は,多くに国で協同組合活動が開始した「市場調整」を継承する形 で,国家の農産物市場支持活動がかってなく拡大することになったとしてい る。
このような主張は,国家の農産物市場への介入はまずは協同組合的市場管 理を補完するものとして期待されたのであって,農産物価格支持政策をもふ くむ国家の農業保護政策が農産物市場において主導的位置に立つのは,1929 年以降に世界農産物市場が全面的に崩壊し,協同組合的市場管理の手に負え なくなってからであるとする見解につながりそうであって,大いに議論の対 象にしてよい論点であろう。そのさいに,彼らが自国ドイツについてみてい る特徴は,農産物市場にたいする国家の干渉の強さの点で特筆されるという
両大戦間期の農業保護政策研究のために(村田)
ことである(ドイツでは,第1次大戦の初期から食糧流通にたいする国家統 制(Zwangswirtschaft)がなされ,戦後も1923,24年まで統制下におかれた ことを特色としており,その後も,流通部面への国家干渉をいっそう強まっ
たのである)。
ただし,国家の農産物への介入の頂点にたつのは,1917年以降のソビエト 連邦であって,この国は世男唯一の外国貿易国家独占国であり,1932年には ふたたび農産物分野で世界市場に登場することになった。オーストラリアと ニュージーランドの国際バター市場にたいする調整活動(オーストラリアの パターソン計画など)も見落せない。
結局,多くの国が食糧の自給自足(Autarkie)をめざし,いよいよ国内農 業にたいする保護主義的傾向を強めている。1931年の時点では,「自由貿易の オアシス」としては,イギリス,ベルギー,デンマーク,オランダが残され ているにすぎない。1932年に出版された「ドイツ農業政策」はこのように分
析していた。
〔注〕
(1)F・Beckmann/B.Harms/Th.Brinkmann/H.Bente/E.Salin/W.Henkelmann, DeutscheAgrarpolitikimRahmenderinnerenundauBerenWirtschafts‑ politik(TeillDieLagederdeutschenLandwirtschaftunddieGestal‑ tungderagrarpolitischenEinzelmaBnahmen,TeilllDiedeutscheAgrar‑ politikimRahmeneinerorganischenF6rderungderdeutschenGesamt‑
wirtschaft,ErganzungsteilLandwirtschaftundAgrarpolitikimAusland),
Berlin,1932.
M . S e r i n g , D i e d e u t s c h e L a n d w i r t s c h a f t u n t e r v o l k s ‑ u n d W e l t w i r t s c h a f t ‑
liohenGesichtspunkten,Berlin,1932 (2)ここでとりあげた論文は以下のとおりである。
K.Brandt,StrukturwandlungeninderWeltlandwirtschaftseitl914und ihrEinfluBaufdieLagederdeutschenLandwirtschaft,
R.Freund,InternationaleProblemederagrarenHandelspolitik.
繁雑さを避けるために,以下ではいちいち出所をしめすことはしない。
表|世界穀物収穫面積・生産量(1909/13年と1926/29年平均)
・00131926/29 1909/13 1926/
小 麦 ラ イ 麦 大 麦 え ん 麦 とうもろこし
合 計
109,382 44,469 34,397 57,808 71,847
125,084 46,363 34,128 60,160 75,806
48815●●●●●430451++++
106.77 48.63 39.74 68.10 104.79
118.79 45.36 38.30 69.41 111.28 318038 341540 + 7 4 368.03
(出所)K.Brandtの論文より。
360
I
I
340320300 図 l 農 産 物 世 界 市 場 価 格 の 変 動(1913年=100)(イギリスの卸売価格)
280
260
240
220
200
I80
160
M O
I20
IOO
80
コ イ y グ 礪 ・ 余
罰
0
000000 Z0864201
、
▽ 章語三詮壜壹熱ツ 型 . l Z 句 。 U 唖 . 廼 1 虹
(出所)表1に同じ