• 検索結果がありません。

龍谷大学学位請求論文2014.09.18 宮本, 亮一「バクトリア史研究」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "龍谷大学学位請求論文2014.09.18 宮本, 亮一「バクトリア史研究」"

Copied!
224
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

平成

25 年度 学位(課程博士)申請論文

バクトリア史研究

龍谷大学大学院文学研究科

宮本 亮一

(2)
(3)

目次 略号 ··· vii 序論 ··· 1 第 1 節 研究の目的 ··· 1 第 2 節 バクトリアとトハーリスターン ··· 3 第 1 章 バクトリア語とその資料 ··· 9 第 1 節 バクトリア語概観 ··· 10 (1) 文字 ··· 10 (2) 音韻 ··· 14 (3) 文法 ··· 15 1. 名詞 ··· 15 2. 冠詞 ··· 15 3. 人称代名詞・不定代名詞 ··· 17 4. 関係詞 ··· 18 5. 指示詞 ··· 21 6. 形容詞・副詞 ··· 22 7. 接続詞・前置詞 ··· 23 i. 接続詞 ··· 23 ii. 前置詞 ··· 23 8. 動詞 ··· 25 i. 現在語幹に基づく形式 ··· 26 a. 直説法現在形 ··· 26 b. 接続法現在形 ··· 27 c. 希求法現在形 ··· 27 d. Injunctive ··· 30 e. 命令法 ··· 31 f. 現在不定詞 ··· 31 g. 現在分詞 ··· 31 h. 未来分詞 ··· 32 ii. 過去語幹に基づく形式 ··· 32 a. 直説法過去形 ··· 32 b. 接続法過去形 ··· 33 c. 希求法過去形 ··· 34 d. 不定詞 ··· 35 e. 過去分詞 ··· 35 f. 完了形 ··· 36

(4)

目次 g. 過去完了形 ··· 37 iii. 動詞のその他の形式 ··· 37 a. 受動態 ··· 37 b. 過去の継続 ··· 38 iv. 否定と禁止 ··· 39 v. 能格構文 ··· 40 第 2 節 バクトリア語資料概観 ··· 43 (1) 碑文 ··· 43 1. ダシュテ・ナーウール碑文 ··· 43 2. ラバータク碑文 ··· 44 3. スルフ・コタル遺跡出土碑文 ··· 44 4. ディルベルジン・テペ碑文 ··· 46 5. アイルタム碑文 ··· 47 6. ソコトラ島出土碑文 ··· 47 7. アム・ダリア以北で出土した碑文 ··· 48 8. インダス河上流域の碑文 ··· 49 9. ヒンドゥー・クシュ山脈以南で出土した碑文 ··· 49 10. タンゲ・サフェーダク碑文 ··· 50 11. トーチ渓谷碑文 ··· 50 12. 印章,貨幣,銀器 ··· 50 (2) 文書 ··· 51 1. 法律・経済文書,手紙 ··· 51 2. 仏教関係の文書 ··· 52 3. マニ教関係の文書 ··· 53 小結 ··· 54 第 2 章 クシャーン朝の歴史的展開 ··· 55 第 1 節 漢文資料から見たクシャーン朝の展開 ··· 56 (1) 安息,高附,濮達,罽賓への侵入 ··· 56 (2) 天竺国,東離国への侵入 ··· 60 (3) タリム盆地への侵入 ··· 62 第 2 節 碑文資料から見たクシャーン朝の展開 ··· 67 (1) クジュラ・カドフィセス ··· 67 (2) ヴィマ・タクトゥ,ヴィマ・カドフィセス ··· 71 (3) カニシュカ ··· 74 (4) フヴィシュカ,ヴァースデーヴァ ··· 79 第 3 節 クシャーン朝の北,及び西への展開 ··· 82

(5)

小結 ··· 83 第 3 章 カダグスターンの事例から見たバクトリアの歴史地理 ··· 85 第 1 節 カダグスターン/カダグ関係バクトリア語文書群 ··· 86 (1) カダグの人々の王(καδαγανο þαο) ··· 86 (2) kadag-bid(καδαγοβιδο) ··· 89 (3) カダグスターン(καδαγοστανο) ··· 91 第 2 節 カダグスターンの起源 ··· 94 (1) 月名の変化と kadag-bid の出現 ··· 94 (2) 4 世紀後半におけるバクトリアの状況 ··· 96 1. キオニタエとキダーラ ··· 96 2. エフタルの勃興 ··· 99 3. エフタルの展開とその後 ··· 100 (3) カダグスターンの起源 ··· 101 第 3 節 カダグスターンの所在地 ··· 104 (1) バグラーン・ゴーリー平原 ··· 104 (2) クンドゥズ平原 ··· 105 (3) ターラカーン ··· 106 (4) カダグスターンはどこか? ··· 108 小結 ··· 111 第 4 章 バクトリアの社会 ··· 112 第 1 節 地理的区域 ··· 113 (1) 町,地区 ··· 113 (2) 城砦,街区,村 ··· 117 第 2 節 社会構造 ··· 120 (1) 自由人と奴隷 ··· 120 (2) khār(χαρο) ··· 122 (3) khār の一族(χαραγανο) ··· 130 (4) 執務官(φρομαλαρο) ··· 137 (5) 書記(λαβιρο) ··· 141 (6) hostig(υωστιγο) ··· 143 (7) サーサーン朝の支配を背景に登場した称号 ··· 144 (8) その他の称号 ··· 146 第 3 節 社会習慣 ··· 147 (1) 土地の譲渡,購入,賃貸 ··· 147

(6)

目次 (2) 奴隷の解放 ··· 154 (3) 婚姻 ··· 157 小結 ··· 161 結語 ··· 163 一次資料 ··· 165 参考文献 ··· 167 図版 ··· 194 表 ··· 206 地図 ··· 212

(7)

略号

1s t, 2nd, 3r d = 1s t person, 2n d person, 3r d person

AAASH = Acta Antiqua Academiae Scientiarum Humgaricae adj. = adjective

AM = Asia Major art. = article Bac. = Bactrian

BAI = Bulletin of the Asia Institute BD1 = Sims-Williams 2000

BD12 = Sims-Williams 2012a

BD2 = Sims-Williams 2007 BD3 = Sims-Williams 2012b

BEFEO = Bulletin de l’École Française d’Extrême-Orient

BSO(A)S = Bulletin of the School of Oriental (and African) Studies CAJ = Central Asiatic Journal

CRAI = Comptes rendus de l’Académie des Inscriptions et Belles -Lettres dem. = demonstrative

dir. = direct

EI2 = Encyclopædia of Islam, 2nd

EIr = Encyclopædia Iranica encl. = enclitic

EW = East and West Gk. = Greek

HPGA = Adamec 1972-85

hyp. = enclitic hypothetical particle

IF = Indogermanische Forschungen IIJ = Indo-Iranian Journal

impv. = imperative indef. = indefinite

JA = Journal Asiatique

JIAAA = Journal of Inner Asian Art and Archaeology JAOS = Journal of American Oriental Society JRAS = Journal of Royal Asiatic Society MP = Middle Persian

MSS = Münchener Studien zur Sprachwissenschaft neg. = negative

obl. = oblique OIr. = Old Iranian opt. = optative

(8)

略号 part. = particle Parth. = Parthian pass. = passive pers. = personal pf. = perfect pl. = plural PN = proper name pp. = past participle prep. = preposition pres. = present pret. = preterit prohib. = prohibitive pron. = pronoun rel. = relative sg. = singular Skt. = Sanskrit subj. = subjunctive Sogd. = Sogdian

SPAW = Sitzungsberichte der Preußischen Akademie der Wissenschaft, Philosophisch-historische Klasse

SRAA = Silk Road Art and Archaeology StIr = Studia Iranica

TPS = Transactions of the Philological Society

(9)

序論 第1 節 研究の目的 本 論 は , 近 年 相 次 い で 発 見 さ れ た バ ク ト リ ア 語 資 料 を 考 察 の 中 心 に 据 え , さ ら に は 漢 文資料,ペルシア語やアラビア語で書かれたイスラーム資料 ,現地出土の碑文なども幅広 く用い,バクトリアを中心に展開した諸民族の歴史,及びバクトリアの歴史地理,社会の 解明を目指すものである.ここでいうバクトリアなる地名が指し示す地理的範囲について は次項で述べる. 近年,古代中央アジア史に関わる重要な資料 の発見が相次いでおり,1990 年代初頭に マーケットに現れ,世に知られるところとなった150 点を越えるバクトリア語文書は質・ 量共にその代表的なものと言える.これらの文書はN. Sims-Williams によって解読され, 2012 年には,全点のテクスト,翻訳,写真版の刊行が終了し,研究は新たな段階へと進 むことになった.そして,これらが刊行されたことにより,古代中央アジアの歴史に関心 を持つ者が,この資料を容易に利用することができるようになった.本論は一連の文書群 を中心に,広くバクトリア語資料を利用するという点で,国の内外を問わず他に類を見な い新たな試みであると言える. まずは,導入として,以下に各章の概要を記してお きたい.第1 章,第 1 節では,バク トリア語という言語について,その文字や文法を概観する.バクトリア語は,中期イラン 語の東方言に属する言語であり,表記にはギリシア文字を用い,左から右に記される.こ れは,アレクサンドロス大王の東征以降,この地がギリシア人の支配下に入ったことで, ギリシア文字,ギリシア語の使用が定着したことに由来し,クシャーン朝などの非ギリシ ア系の諸勢力が勃興しギリシア語の使用が廃れた後も,在地の言語を表わすため の文字と してその使用は継続した.この言語の文法に対する理解は,一連のバクトリア語文書が発 見されたことにより劇的に進歩した.本節では動詞の活用などを中心に,現時点で判明し ている文法事項を筆者の理解している範囲で解説する.また, 第 2 節では,この言語で書 かれた種々の資料について,碑文と文書に大別した上で概説する . 第2 章は,漢文資料,バクトリア語資料,サンスクリット語などのインド系言語で書か れた資料を用い,クシャーン朝の歴史的展開について論じる.まず第 1 節では,バクトリ ア語資料の利用に先だって,漢文資料から得られる王朝の展開に関する情報を整理する. 基本となる資料は,『後漢書』西域伝大月氏国条に記された王朝の勃興と展開に関する記 述であり,これを他の記述と比較検討する.また,ここでは漢文資料から看取される王朝 の支配形態についても論じる.続く第 2 節は,漢文資料から得られた情報を踏まえつつ, バクトリア語やインド系言語の資料に基づき,初代王クジュラ・カドフィセスから 6 代目 ヴァースデーヴァの治世までの王朝の展開を考察する.ここでも,諸資料から判明する王 朝の支配形態について論じる.第 3 節では,これまでほとんど論じられることのなかった, 王朝の北側,及び西側の領域について若干の考察を行う. 第3 章は,バクトリアの歴史地理について扱う.ここで考察の対象となるのは,一連の バ ク ト リ ア 語 文 書 が 発 見 さ れ た こ と に よ り 知 ら れ る こ と に な っ た カ ダ グ ス タ ー ン (καδαγοστανο)という地域である.まず,第 1 節では,バクトリア語文書群の中から, この地域と関連する文書を網羅的に挙げ,考察の土台を構築する.そこでは,「カダグの

(10)

第1 節 研究の目的 人々の王 」,及び 「kadag-bid」という称号,そして「カダグスターン」という地名が現 れる文書を基本にし,それらの文書に登場する人物と同一人物,あるいは親族関係にある 人物が登場する別の文書を探し出すという方法を採る.次に,第 2 節では,バクトリアの 地にカダグスターンという地域が出現した契機について考察する.第 1 節で収集したカダ グスターン関連文書の中には,ある時期バクトリアにおいてサーサーン朝の影響力が強ま ったことを示唆するものがあることから,カダグスターン出現の直接的な原因にサーサー ン朝との関係を想定しつつ,どのようなシナリオが有り得たのかを考える.その際, クシ ャーン朝の滅亡後,バクトリアに展開したキダーラやエフタルといった民族の動向につい ても確認し,カダグスターン出現の原因を探る助けとする.最後に第 3 節では,カダグス ターンの所在地について考察する.この地域に関連する文書の年代は,4 世紀後半から 8 世紀にまで及ぶが,漢文資料やイスラーム時代の資料にはこの地名を見出すことができな い.本節では,その理由を探りつつ,カダグスターンの所在地の候補となり得る幾つかの 地域を挙げ,その可能性について考察する. 最後に,第4 章ではバクトリアの社会について考察する.まず第 1 節では,バクトリア における地理的な区域について検討する.文書には,町,地区,城砦,街区といった語が 現れる.これらの語が現れる用例を検証し,それぞれの関係について考察する.その際, バクトリアにムスリムの勢力が及んだ後の時代に書かれたアラビア語文書 をも利用する. 第 2 節では,バクトリアにおける社会構造について考察する.まずは,自由人と奴隷とい う最も大きな身分の違いについて考 える.次に,文書中で khār(χαρο)と呼ばれる在地 の支配者について,その統治権の広がりなどを考察し,さらにこの khār と深い関係にあ ったと思われるkhār の一族(χαραγανο)についても検討する.そして,khār や khār の一 族に関係する文書に登場した幾つかの称号について若干の考察を行う.最後に第 3 節では, バクトリアにおける習慣について考察する.まずは土地の譲渡や購入に関わる契約文書に, 契約対象となる土地の四至を明記することについて考える.これは,現存するバクトリア 語文書中で非常に長い期間にわたって確認できる習慣である.次に,奴隷身分からの解放 について扱う.バクトリアでは,奴隷は主人に一定の金額を支払えば自由になることがで きた.この習慣について記す資料は 1 点しか存在しないため詳細はほとんど不明であるが, アラビア語文書の記述を参照して若干の考察を行いたい.最後に,婚姻制度について考察 する.漢文資料の記述から,バクトリアでは一妻多夫の習慣が行われていたと考えられて いた.そして,バクトリア語文書の発見により,実際にバクトリアにおいてこの習慣が行 われていたことが明らかになった.残念ながら,先の奴隷解放の事例と同じく,この習慣 について記す資料は 1 点しか存在しないが,婚姻に関係するアラビア語文書を参照し,当 地の婚姻習慣について考察する.以上が本論の概要である. 本 論 が 扱 う 中 央 ア ジ ア , と り わ け イ ス ラ ー ム 化 以 前 , パ ミ ー ル 高 原 以 西 の 中 央 ア ジ ア は,かつて日本人研究者が積極的に研究対象とした地域の 1 つであった.しかし,資料の 零細さなどから最近はこのテーマに取り組む研究者,特に若い世代の研究者は非常に少な く,盛んに研究が行われているヨーロッパの状況とは対照的である.本論はこのような状 況を打開するための叩き台を提供することをも目的としている.

(11)

2 節 バクトリアとトハーリスターン

本 論 の 表 題 に あ る 「 バ ク ト リ ア 」 と い う 地 名 が 指 し 示 す 範 囲 は ど こ か . そ れ を 定 義 す ることは非常に困難である.例えば,百科事典の解説には,アム・ダリア以南,ヒンドゥ ー・クシュ山脈以北の地を指すとある[Leriche & Grenet 1988].また,アム・ダリアの 対岸地域をも含むと説明されることもある[小谷 2005].これらの解説はアム・ダリア 以北の地を含むか含まないかという点で見解を異にしているが,双方に根拠があるはずで ある.以下,実際に資料の記述や考古学的な成果を頼りにこの問題について考え,最後に 本論で用いるこの地名の定義付けを行っておきたい . アケメネス朝のダレイオス1 世(前 522~486 年)の事跡を記した古代ペルシア語の碑文 に は , 彼 が 征 服 し た 地 域 や 彼 の 治 世 に 反 乱 を 起 こ し た 地 域 の 名 が 記 さ れ て お り , そ こに bāxtri-,即ちバクトリアの名が現れる1.これらの碑文がバクトリア に言及した最古の資 料である2.バクトリアは,アケメネス朝の東方領域における 1 つの dahyu「州」であっ た. し か し な が ら , ダ レ イ オ ス の 碑 文 に 見 え る バ ク ト リ ア と い う 地 名 が 指 し 示 す 範 囲 を 知 ることは難しい.例えば,ダレイオスのビーソトゥーン 碑文には,彼に服従した地域とし て,バクトリアと並んで suguda「ソグド」,gandāra「ガンダーラ」の名前が挙げられ, また,彼の治世に反乱を起こした州として margu「マルギアナ」の名が挙がっている[伊 藤 1974: 23, 35; Schmitt 2009: 39, 65].このことから,バクトリアの北にソグド,西に マルギアナ,南にガンダーラが位置していたと考えることはできるが,これ以上詳しい情 報を得ることは難しい. その後,アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス大王(前 356~323 年)は,その東 方遠征の途上,前329 年にバクトリアへ到来し,その年のうちにオクサス川(アム・ダリ ア)を越え,ソグドにまで到達する3.アレクサンドロス大王の事績を伝える文献には, 大王の通った行程を詳細に記しているものがあり,それらの記述には,当時のバクトリア という地名が指し示す範囲を知る手掛かりがある4 1 アケメネス朝の諸王が残した古代ペルシア語碑文 の内容の多くは,日本語で読むことができ る[伊藤 1974].最新の翻訳は Schmitt 2009 を参照. 2 紀元前 5 世紀のギリシア人歴史家クテシアス Ctesias が記した『ペルシア誌』には,アッシ リアの伝説的な 王ニヌ ス Ninus がバクトリアへ遠征したことが述べられている.しかし,こ の 王 が 存 在 し た か ど う か と い う こ と が 既 に 問 題 で あ り , 多 分 に 伝 説 的 な こ の 記 述 の 中 に ど れ ほどの史実が見出せるのかは分からない [Llewellyin-Jones & Robson 2010].ただし,この 資 料 に 記 さ れ る バ ク ト リ ア の 描 写 が , ア ヴ ェ ス タ 等 の ゾ ロ ア ス タ ー 教 関 連 の 文 献 に 見 ら れ る ものと類似するという指摘がある[Leriche & Grenet 1988 ].

3 東方遠征の概略については,森谷 2007: 110-123, 144-151, 212-220 を参照した.

4 アレクサンドロス大王の事績を伝える文献は 5 つ現存している.即ち,ディオドロス・シク

ロス Diodorus Siculus(前 1 世紀)の『歴史文庫』のうちの 17 巻,フラウィオス・アッリア ノス Flavius Arrianus(86~160 年頃)の『アレクサンドロス東征記』,クイントゥス・クル ティウス・ルフス Quintus Curtius Rufus (1 世紀頃)の『アレクサンドロス大王伝』,プルタ ルコス Plutarchus(1~2 世紀)の『対比列伝』中の「アレクサンドロス伝」,ユニアヌス・ユ スティヌス Junianus Justinus (3 世紀中頃)の要約によるポンペイウス・トログス Pompeius Trogus(前 1 世紀)の『ピリッポス家の歴史』の 11 巻と 12 巻である.これらの諸文献はア レ ク サ ン ド ロ ス が 活 躍 し た 時 代 よ り も 随 分 後 に 書 か れ た も の で あ る が , も ち ろ ん 先 行 す る 時 代 の 様 々 な 文 献 に 基 づ い て 記 さ れ て お り , ア レ ク サ ン ド ロ ス 研 究 の 基 本 資 料 と し て 用 い ら れ

(12)

第2 節 バクトリアとトハーリスターン ア ッ リ ア ノ ス の 『 ア レ ク サ ン ド ロ ス 東 征 記 』 に よ れ ば , ア レ ク サ ン ド ロ ス に 敗 れ 東 方 に逃れたアケメネス朝のダレイオス 3 世(在位,前 336~330)を捕え殺害したバクトリア 大守ベッソスを追い,アレクサンドロスはカウカソス山を越えてバクトリア地方に入った とある[大牟田 1996: 本文篇 445-449].同様にクルティウスの『アレクサンドロス大王 伝』,及びディオドロスの『歴史文庫』も大王がカウカソス山を越えてバクトリアに到着 したことを伝える[谷・上村 2003: 261-262, 266-268; 森谷 2011: 157].両文献でカウカ ソスと呼ばれる山について,アッリアノスは,マケドニア人が,アレクサンドロスがカウ カソス山(即ちカフカス山脈)を踏破して勝ち進んだと大仰するために,現地で「パラパ ミソス」と呼ばれていた山をわざわざカウカソスと呼んだと述べている[大牟田 1996: 本 文篇 591, 599].このパラパミソス山は普通ヒンドゥー・クシュ山脈に比定されている. ストラボン Strabon(前 63~23 年頃)の『地理誌』が,パラパミソス山の南がインドであ り北がバクトリアであると記していること[飯尾 1994: II 433-434],及びプトレマイオ ス Ptolemaeus(83~168 頃)の『地理学』もこの山脈がバクトリアの南限であると記して いることから考えても[中務 1986: 108a],この比定に問題はないだろう5.即ち,これ らの諸資料に言及されているバクトリアとは,ヒンドゥー・クシュ山脈以北を指すと考え ることができよう6 で は , バ ク ト リ ア の 北 側 に つ い て は ど う か . ア ッ リ ア ノ ス に よ れ ば , バ ク ト リ ア 侵 入 後 の ア レ ク サ ン ド ロ ス の 行 程 は 次 の 通 り で あ る . ベ ッ ソ ス は , ア レ ク サ ン ド ロ ス が ヒン ド ゥ ー ・ ク シ ュ 山 脈 を 越 え て 迫 っ て 来 た た め , オ ク サ ス 川 を 越 え て ソ グ デ ィ ア ナ 地 方の ナウタカという町へと退いたが,大王はそれを追って川を渡る7.そして,ベッソスはバ ク ト リ ア 人 の ス ピ タ ペ ネ ス に 捕 え ら れ , ア レ ク サ ン ド ロ ス に 引 き 渡 さ れ る . そ の 後 ,ア レ ク サ ン ド ロ ス は ス ピ タ メ ネ ス を 中 心 に ソ グ デ ィ ア ナ 各 地 で 起 こ さ れ た 反 乱 に 対 処 して 回 っ た 後 , ザ リ ア ス パ ( バ ク ト ラ の 別 名 ) へ 引 き 返 し て 冬 営 し , 再 度 オ ク サ ス 川 を 渡っ てソグディアナへと向かう[大牟田 1996: 本文篇 447-519]. ま た , ク ル テ ィ ウ ス に よ れ ば , ベ ッ ソ ス は 迫 る ア レ ク サ ン ド ロ ス に 対 す る 軍 議 の 中 で, ソ グ デ ィ ア ナ ま で 退 却 し , オ ク サ ス 川 を 敵 に 対 す る 障 壁 と す る こ と を 提 案 し , そ の 後川 を 渡 り ソ グ デ ィ ア ナ で 兵 を 集 め , ア レ ク サ ン ド ロ ス も そ れ を 追 い オ ク サ ス 川 を 渡 り ,ソ グディアナの状況を知ったとある[谷・上村 2003: 262-266, 270-272]. こ れ ら の 記 述 か ら , バ ク ト リ ア と ソ グ デ ィ ア ナ の 境 界 は オ ク サ ス 川 で あ っ た と 考 え る こ と が で き よ う . ス ト ラ ボ ン は , オ ク サ ス 川 が バ ク ト リ ア と ソ グ デ ィ ア ナ の 境 界 で ある と度々述べており[飯尾 1994: I 131, II 63, 71],プトレマイオスも同様である[中務 1989: 108]. 以 上 の 様 に , ア レ ク サ ン ド ロ ス の 事 績 を 伝 え る 諸 資 料 か ら は , 当 時 の バ ク ト リ ア と い ている.諸文献が基づいた資料の相互関係については大牟田 1996: 本文篇 53-78 を参照. 5 ス ト ラ ボ ン も ア レ ク サ ン ド ロ ス 大 王 が こ の 山 脈 を 越 え て バ ク ト リ ア に 入 っ た と 記 す [ 飯 尾 1994: II 434].アレクサンドロスのヒンドゥー・クシュ山脈越えのルートについては大牟田 1996: 註釈篇 1678-1680 を参照. 6 ポンペイウス・トログスの『ピリッポス家の歴史』には,アレクサンドロスの通ったルート や地域に関する情報はほとんどなく[合阪 1998: 169-211],プルタルコスの『対比列伝』も 同様である[井上 1996]. 7 大王の渡河地点に関する諸説は大牟田 1996: 註釈篇 1683-1684 を参照.

(13)

う地名が指し示す範囲の北限をアム・ダリア,南限をヒンドゥー・クシュ山脈と捉えるこ とができる. ア レ ク サ ン ド ロ ス の 東 征 後 , こ の 地 は セ レ ウ コ ス 朝 の 領 域 に 入 る が , バ ク ト リ ア の 総 督(サトラップ)であったディオドトスが前 3 世紀中頃セレウコス朝から独立する[合阪 1998: 433].この王国は普通グレコ・バクトリア王国と呼ばれるが,この王国も前 2 世 紀中頃,北方から侵入してきた遊牧民族によって滅ぼされることになる. この間における バクトリアという地名が指し示す範囲を知るための資料は存在しないが,この 地名はその 後用いられなくなり,この地は北方から侵入した遊牧民族トハロイ(Τόχαροι)に由来す ると思われる「トハラ」「トハーリスターン」の名で呼ばれるようになる.ストラボンに よれば,ギリシア人からバクトリア地方を奪ったスキタイ諸部族の中にトハロイの名前が 見え[飯尾 1994: 60],ポンペイウス・トログスも,パルティアの王アルタバヌス( 1 世) がトカロイ族と戦ったことを記している[合阪 1998: 439]. 漢 文 資 料 に 見 え る 大 夏 , 吐 火 羅 , 覩 貨 羅 な ど は , こ の ト ハ ラ の 音 写 で あ る と 考 え ら れ ている8.前 129 年頃,中央アジアに到着した張騫の報告に基づく『史記』大宛伝には, この地域の様子が次の様に記されている: 大 夏 は 大 宛 の 西 南 二 千 余 里 , 嬀 水 の 南 に 在 り . 其 の 俗 は 土 著 , 城 屋 有 り , 大 宛 と 俗 を 同 じ く す . 大 君 長 無 く , 往 往 に し て 城 邑 小 長 を 置 く . 其 の 兵 弱 く , 戦 を 畏 れ , 賈 市 を 善 く す . 大 月 氏 西 徙 す る に 及 び , 攻 め て 之 を 敗 り , 皆 大 夏 を 臣 畜 す . 大 夏 は 民 多 く , 百 余 万 ば か り . 其 の 都 は 藍 市 城 と 曰 い , 市 有 り 諸 物 を 販 賈 す . 其 の 東 南 に 身 毒国有り.9 張 騫 が 訪 問 し た 時 , 嬀 水 ( ア ム ・ ダ リ ア ) の 南 側 が 大 夏 , 即 ち ト ハ ラ で あ っ た . 『 漢 書』西域伝や『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝の注に引く『魏略』西戎伝にも大夏の名は見 えるが,その地理的範囲については記 されていない[『漢書』: 3891;『三国志』: 859]. その後,この地域は,『魏書』,即ち『北史』の西域伝に次のように見える: 吐 呼 羅 国 は , 代 を 去 る こ と 一 万 二 千 里 . 東 は 范 陽 国 に 至 り , 西 は 悉 万 斤 国 に 至 り , 中 間 相 去 る こ と 二 千 里 ; 南 は 連 山 に 至 る も , 名 を 知 ら ず , 北 は 波 斯 国 に 至 り , 中 間 相 去 る こ と 一 万 里 . 薄 提 城 は 周 匝 六 十 里 , 城 南 に 西 流 す る 大 水 有 り , 漢 樓 河 と 名 づ く. 土は五穀に宜しく,好き馬・駝・騾有り.其の王曾て使を遣わして朝貢す.10 こ こ に は 吐 呼 羅 国 の 四 至 が 記 さ れ て い る が , そ の 方 角 に 問 題 が あ る . 桑 山 正 進 は , 従 8 以下,漢文資料に見える大夏,吐火羅などについての記述は,桑山 1987: 125-129 に依拠し ている. 9 大夏在大宛西南二千餘里嬀水南 .其俗土著,有城屋 ,與大宛同俗.無大(王 )〔君〕 長 , 往 往 城 邑 置 小 長 . 其 兵 弱 , 畏 戰 , 善 賈 市 . 及 大 月 氏 西 徙 , 攻 敗 之 , 皆 臣 畜 大 夏 . 大 夏 民 多 , 可百餘萬.其都曰藍市城 ,有市販賈諸物 .其東南有身毒國 .[『史記』: 3164] 1 0 吐呼羅國,去代一萬二千里.東至范陽國,西至悉萬斤國,中間相去二千里;南至連山, 不 知名,北至波 斯國,中間 相去一萬里. 薄提城周匝 六十里,城南 有西流大水 ,名漢樓河. 土宜 五穀,有好馬・駝・騾.其王曾遣使朝貢.[『魏書』: 2277 ;『北史』: 3229]

(14)

第2 節 バクトリアとトハーリスターン 来バーミヤーン Bāmiyān を指すと考えられていた范陽を,『新唐書』に「苑湯州は拔特 山 城 を 以 て 置 く 」 と あ る 「 苑 湯 」 の 誤 り で あ る と 考 え , こ れ を バ ダ フ シ ャ ー ン Badakhshān と考えた.そして,北と西の方角が逆になっているとし,東を范陽(= 苑湯, バダフシャーン),西を波斯(ペルシア),南を連山(ヒンドゥー・クシュ山脈),北を 悉万斤(サマルカンド)とした11 ここに記された四至は,7 世紀前半にこの地を訪れた玄奘の『大唐西域記』に記されて いる覩貨邏国の四至と概ね一致する: 鉄 門 を 出 で , 睹 貨 邏 国 に 至 る ( 旧 吐 火 羅 国 と 曰 う も , 訛 な り ) . 其 の 地 は 南 北 千 余 里 , 東 西 三 千 余 里 . 東 は 葱 嶺 を 阨 し , 西 は 波 剌 斯 に 接 し , 南 は 大 雪 山 , 北 は 鉄 門 に 拠 り , 縛 芻 大 河 中 境 を 西 流 す . 数 百 年 よ り , 王 族 嗣 を 絶 ち , 酋 豪 力 競 し , 各 々 君 長 を 擅 い ま ま に し , 川 に 依 り 険 に 拠 り , 分 か ち て 二 十 七 国 と 為 す . 野 を 画 し 区 分 す る といえども,総べて突厥に役属す.12 こ こ に は , 東 は 葱 嶺 ( パ ミ ー ル ) , 西 は 波 刺 斯 ( ペ ル シ ア ) , 南 は 大 雪 山 ( ヒ ン ド ゥ ー・クシュ山脈),北は鉄門(デルベント)とある.ここで両記述を比較してみると,東 に関しては『大唐西域記』には葱嶺(パミール)とあるのみだが,『魏書』の范陽(= 苑 湯,バダフシャーン)がより詳しい.西に関しては,上に挙げた 2 つの資料には波斯/波 刺斯(ペルシア)とあるのみで,桑山が述べるように漢文資料から具体的にどの辺りが吐 呼羅/覩貨邏の西限であったのかを知ることは難しい.ただし,桑山は,その西限をバル フ辺りと考えており,これは妥当な見解と思われる.その主たる根拠となっているのは, 10 世紀のペルシア語地理書 Ḥudūd al-‘Ālam であり,そこにはバルフ Balkh の西に位置す るグーズガーン Gūzgān について,「その東はバルフとトハーリスターンの諸境域,バー ミヤーンの諸境域までである」と記されている[Ḥ‘Ā: 95; Minorsky 1970: 105]13.南に 関しては,両記述に連山,及び大雪山とあることから,ヒンドゥー・クシュ山脈がその南 限であったと考えられる14.最後に,北に関して,『魏書』には悉万斤(サマルカンド) と記されるが,玄奘は鉄門としていることから,ソグドとバクトリアを分かつヒサール山 1 1 近年,É. de la Vaissière は,従来通り范陽をバーミヤーンとみなし,ここに記されている四 至は,全て方角が誤っているとした[de la Vaissière 2010: 215 n. 21].ただし,范陽をバー ミ ヤ ー ン と み な す 場 合 , 資 料 で は 南 と 記 さ れ て い る 連 山 が 東 に あ っ た こ と に な る が , そ の こ とについては明言していない. 1 2 出鐵門,至睹貨邏國( 舊曰吐火羅國,訛也). 其地南北千餘里,東西三 千餘里.東阨葱嶺 , 西 接 波 剌 斯 , 南 大 雪 山 , 北 據 鐵 門 , 縛 芻 大 河 中 境 西 流 . 自 數 百 年 , 王 族 絕 嗣 , 酋 豪 力 競 , 各 擅君長,依川據險,分為二十七國.雖畫野區分,總役屬突厥 [『西域記』: 100; 桑山 1987: 9-10]. 1 3 9 世紀の地理学者イブン・ホルダーズビフ Ibn Khurdādhbih は,「メルヴからトハーリスタ ーンへの道」について記しており,全 126 ファルサフ farsakh に及ぶその道程の最後にバルフ の名を挙げている[IKh: 32-33].この記述もトハーリスターンの西限をバルフ辺りに求める ことの傍証となるだろう. 1 4 玄奘はバルフ(縛喝国 )から南に進み,掲職国 を通過し,ヒンドゥー・ クシュ山脈( 大 雪 山 ) に 入 り , 「 覩 貨 邏 国 の 境 」 を 出 て , バ ー ミ ヤ ー ン ( 梵 衍 那 国 ) へ と 至 っ て い る . [ 『 西 域記』: 127-129].ここに見える「掲職」国は,吉田豊によってバクトリア語文書に現れる γαρσιγο-(< γαρσιγοστανο)に比定された[吉田 1998: 35-36].

(15)

脈をその北限と見なすことができよう15.ここで注目されるのは,トハラ(吐呼羅,覩貨 邏)という地名が指し示す範囲が,かつてのギリシア語資料に見えるバクトリアや『史記』 の大夏とは異なり,アム・ダリアの北側をも指していることである. 一方,先に述べた Ḥudūd al-‘Ālam に見られるように,7 世紀後半以降この地に向かっ て勢力を進めたムスリムの手になるペルシア語やアラビア語の資料には,トハーリスター ンという地名が現れる16.トハーリスターンの概念は資料によって様々であるが,基本的 にはバルフ以東,アム・ダリア以南の地を指し,アム・ダリア以北の地は含まれないとさ れ る . 確 か に ,10 世 紀 の 地 理 学 者 イ ス タ フ リ ーal-Iṣṭakhrī は , ト ハ ー リ ス タ ー ン Ṭukhāristān の町々として,フルム Khulm,シミンガーン Simingān,バグラーン Baghlān, ワルワーリズ Warwāliz,ターヤカーン Ṭāyaqān,ローブ Rūb,アンダラーブ Andarāb, マドル Madr,カーフ Kāh などの名前を挙げており,全てバルフ以東,アム・ダリア以南, そしてヒンドゥー・クシュ山脈以北の地名である [Iṣṭakhrī: 275-276]17.また,イ ス ラ ーム時代の資料に見えるトハーリスターンは,上トハーリスターンと下トハーリスターン とに区別されることも多い.その場合,イスタフリーの記述が示すようなトハーリスター ンとは,上トハーリスターンに当たると考えられている18.いずれにしても,イスラーム 時代の資料に見えるトハーリスターンの特徴は,そこにアム・ダリア以北を含めないこと である. ところで,土器組成の比較に基づいた岩井俊平の研究によれば,3 世紀後半頃から 8 世 紀前半頃まで,アム・ダリアの南北で共通の土器が出土し,その形状の変遷も南北で概ね 一致する[岩井 2003; 岩井 2004: 4-6].これは,この間,アム・ダリア南北の関係が一 体であったことを意味し,漢文資料に見える吐呼羅や覩貨邏がアム・ダリアの北側をもそ の範囲内に含んでいる状況と一致する.一方で,アム・ダリアの北側で は,7 世紀以降, コップ型土器,注口付壺,オッスアリなど,ソグドに由来する器物が出土し始め,これら はアム・ダリア以南では出土しない.つまり,アム・ダリア の南北で生活文化の違いが現 れることになる[岩井 2004: 6-12].岩井はイスラーム資料に現れるトハーリスターンが アム・ダリア以北の地を含まないことは,7 世紀後半以降に始めてこの地に到来したムス リムが上記のような状況を認識し,河の南北を異なる生活文化を持つ地域として理解した 1 5 鉄門に関しては,第 2 章,第 3 節(p. 82)を参照. 1 6 以 下 に 述 べ る イ ス ラ ー ム 時 代 の 資 料 に 見 え る ト ハ ー リ ス タ ー ン に つ い て の 記 述 は ,

Minorsky 1970: 337; Barthold & Bosworth: 2000 に依拠している.

1 7 10 世紀の地理学者ムカッダシーal-Muqaddasī やイブン・ハウカル Ibn Ḥawqal も,トハー

リスターンの町としてほぼ同様の地名を挙げる[Muqaddasī: 296; Collins 1994: 241; I Ḥ: 447; Kramers & Wiet 1964: 432 ].

1 8 イブン・ホルダーズビフ は「バルフから上トハーリスターンへの道」として,フルムなど 5

つ の 町 の 名 を 挙 げ て い る こ と か ら , 上 ト ハ ー リ ス タ ー ン が バ ル フ 以 東 に あ っ た と 考 え ら れ る が , こ の 記 述 か ら は , バ ル フ 以 東 の 地 が 直 ち に 上 ト ハ ー リ ス タ ー ン で あ っ た と は 考 え ら れ な い[IKh: 34].9 世紀の地理学者であるヤアクービー al-Ya‘qūbī の記述には,上トハーリスタ ーンは,シュグナーン Shiqnān とバダフシャーン Badhakhshān の王の国とある[Ya‘qūbī (K): 292; Wiet 1937: 109 ].また,10 世紀のイブン・アル=ファキーフ Ibn al-Faqīh は,バルフか ら上トハーリスターンまで 28 ファルサフと伝えているが,この距離数は上述のイブン・ホル ダ ー ズ ビ フ が 記 し て い る 5 つの 町の間 の距 離 数を足 したも ので ある[ IF: 325; Massé 1973: 385]. いずれにしても ,上トハーリス ターンは トハーリスター ンのかな り東よりの地域 を 指す呼称であったと思われる.

(16)

第2 節 バクトリアとトハーリスターン ことに起因するとした[岩井 2004: 12-14].この考古学的分析によって導き出された結 論は,漢文資料に見える吐呼羅や覩貨邏と,イスラーム資料に見えるトハーリスターンが 指し示す範囲が異なることを説明可能にする極めて説得的な見解と言える. ま た , 岩 井 は ヒ ン ド ゥ ー ・ ク シ ュ 山 脈 南 北 に お け る 土 器 組 成 の 比 較 研 究 も 行 っ て い る [岩井 2005].それによれば,幾つかの共通点は見られるものの,山脈の南北で出土す る土器は基本的に異なり,両地域が異なる生活文化圏であったことが分か る.岩井が分析 の対象とした時代は 2~6 世紀であるが,ここに示された状況は,漢文資料の吐呼羅や覩 貨邏,及びイスラーム資料のトハーリスターンの南限がヒンドゥー・クシュ山脈であるこ とと無関係ではないだろう. 以 上 , 諸 資 料 に 見 ら れ る バ ク ト リ ア , 大 夏 , 吐 呼 羅 , 覩 貨 邏 , ト ハ ー リ ス タ ー ン と い った地名が指し示す範囲を確認し,クシャーン朝期以降の状況については,考古学的な成 果も併せて確認した.そこで,これらの状況を踏まえた上で,本論の考察対象となる時代 が , ク シ ャ ー ン 朝 期 以 降 か ら 初 期 イ ス ラ ー ム 時 代 ま で で あ る こ と を 考 慮 に 入 れ , 本 論で 「バクトリア」という場合,その東限をバダフシャーン,西限をバルフ,南限をヒンドゥ ー・クシュ山脈,北限をヒサール山脈と,大まかに定義しておきたい.つまり,アム・ダ リア以北の地をも含む呼称として「バクトリア」を用いる. この地域は,現在のウズベキ スタン南部,タジキスタン南部,アフガニスタン北部にあたる. た だ し , 上 で 見 た よ う に , 「 バ ク ト リ ア 」 と い う 地 名 自 体 は , 紀 元 前 に 既 に 廃 れ , こ の地域は,実際にはトハラ(大夏,吐呼羅,覩貨邏など),或いはトハーリスターンと呼 ばれていた.新出のバクトリア語資料に τοχοαραστανο「トハーリスターン」の語が現れ ることから考えても,本論の題目は「トハーリスターン史研究」とすべき であるかもしれ ない.しかし,この地域で用いられた言語が「バクトリア語」と呼ばれることを考慮に入 れ,本論を「バクトリア史研究」と題した.

(17)

1 章 バクトリア語とその資料 バ ク ト リ ア で 用 い ら れ て い た 中 期 イ ラ ン 語 は 「 バ ク ト リ ア 語 」 と 呼 ば れ る . こ の 言 語 で書かれた資料は,20 世紀中頃まで,貨幣や印章の銘文,わずかな文書の断片などしか 知られていなかった.しかし,1957 年にスルフ・コタル Surkh Kotal 碑文が発見されるに 到り,この言語の研究は新たな段階へと進むことになった.碑文発見の翌年に研究を発表 し た A. Maricq は こ の 碑 文 の 言 語 を 「 真 の ト カ ラ 語 (étéo-tokharien) 」 と 呼 ん だ [Maricq 1958].しかし,W. B. Henning は,この言語に見られる種々の特徴に基づき, こ れ を 「 バ ク ト リ ア 語 (Bactrian) 」 と 命 名 し , 以 後 こ の 名 称 が 採 用 さ れ て い る [Henning 1960: 47]. スルフ・コタル碑文の研究は,Henning や I. Gershevitch といった高名なイラン語学者 によって進められ,碑文の内容やバクトリア語に関する理解は大きく進展した.スルフ・ コタル碑文の発見以降,新たな資料が発見されることはなかったが,1993 年,ラバータ ク Rabātak 碑文が発見された.Gershevitch の高弟 N. Sims-Williams によって 1996 年に 発表されたその内容は,それまで考えられていたクシャーン朝の王統を書き換える衝撃的 なものであった. 以後,バクトリア語の研究は Sims-Williams によって進められ,1990 年代初頭にマー ケットに現れた150 点を越えるバクトリア語の文書を解読・翻訳したのも氏であった.ア フガニスタンのルーイ Rūy(文書中では Rōb/ρωβο)に由来すると考えられているこれら の文書は,バクトリア語に関する我々の理解を劇的に進展させ,バクトリア語研究は,さ らに新たな段階へと進むことになった. 現 在 ま で の と こ ろ , バ ク ト リ ア 語 で 書 か れ た 最 も 古 い 資 料 は , ア フ ガ ニ ス タ ン , ガ ズ ニーGhaznī の西方,カラバーイ Qarabāy 山の頂上付近にある巨石に,3 種の文字(ギリシ ア文字,カローシュティー文字,未解読文字)で刻まれたダシュテ・ナーウール Dasht-i Nāwūr 碑文である.そこには,クシャーン朝の第 2 代王ヴィマ・タクトゥの名が見える. その後,クシャーン朝の第 4 代王カニシュカの時代になり,当初ギリシア語で表記されて いた貨幣の銘文がバクトリア語に変化することから,この時代にバクトリア語が組織的に 使用されるようになったと考えられている.一方で,現存する資料の中で最も新しいもの は,パキスタンのトーチ Tochi 渓谷で発見された碑文で,その年代は 9 世紀中頃である. ダシュテ・ナーウール碑文の年代は 104/105 年と考えられていることから,バクトリア語 は少なくとも 700 年以上にわたって使用され続けたことになる19 まず本章では,続く2,3,4 章のための土台を作る作業を行いたい.まず,第 1 節では バクトリア語という言語そのものについて,続く第 2 節ではこの言語で書かれた資料につ いて解説する. 1 9 ここで言及したスルフ ・コタル碑文,ラバータ ク碑文,バクトリア語文 書群,ダシュ テ ・ ナーウール碑文,トーチ渓谷碑文の詳細は本章,第 2 節のそれぞれの項目を参照.

(18)

第1 節 バクトリア語概観

1 節 バクトリア語概観

バ ク ト リ ア 語 は , ソ グ ド 語 , コ ー タ ン 語 , コ レ ズ ム 語 と 同 じ く , イ ン ド ・ ヨ ー ロ ッ パ 語族,イラン語派,中世語の東方言に属する20.この言語やこの言語で書かれた資料につ

い て は , イ ラ ン 語 の 専 門 家 に よ っ て 幾 つ か の 解 説 が 発 表 さ れ て い る [ 熊 本 1983; Sims-Williams 1988; idem 1989b; Schmitt 1990; 吉田 1992; Skjærvø 2006].なかでも,N. Sims-Williams と吉田豊による解説は,執筆当時知られていた情報を網羅した極めて有益 なものであり,現在でもその価値 は失われていない.しかし,前述した様に,1990 年代 初頭に発見された150 点を越えるバクトリア語文書群とそれらの解読により,この言語 に 関する我々の理解は劇的に進展した21.そして,新たに判明した文法の諸事項については, これらの文書を解読した Sims-Williams によってまとめられた[BD2: 40-49].また,最 近 に なっ て ,S. Gholami がこの言語の文法に関する専門的な研究を発表した[ Gholami 2012]. そこで本節では,上に言及した種々の研究に依拠し,この言語について簡単に解説して おきたい.ただし,筆者はイラン語の専門家ではなく,バクトリア語資料を言語学的に扱 う能力を有していないため,先行研究の全てを完全に理解することは難しい.そのため, ここでの記述は筆者が理解している範囲内の情報に限られる22 (1) 文字 バクトリア語の資料は,マニ文字で書かれた 1 点の資料を除き,全てギリシア文字を用 いて表記されている23.玄奘は,バクトリアの文字について,「文字は二十五言で,組み 2 0 中期イラン語の東方言に関しては Sims-Williams 1989a を参照.また,バクトリア語と近世 イ ラ ン 語 の 東 方 言 ( パ シ ュ ト ー 語 , イ ド ゥ ガ ・ ム ン ジ 語 ) と の 関 係 や , 両 者 に 見 ら れ る 共 通 点に関しては Skjærvø 1989: 376 を参照. 2 1 P. O. Skjærvø の解説はバクトリア語文書群の刊行が開始された後に発表されたものである が , 恐 ら く 紙 幅 の 関 係 か ら , 短 く , 簡 単 な 解 説 と な っ て お り , こ れ に よ っ て バ ク ト リ ア 語 の 詳細を知ることはできない. 2 2 Sims-Williams が公刊した文書群は,第 1 巻(BD1, BD12)に法律・経済文書が,第 2 巻 (BD2)に手紙,仏教文献が収録されている.1 巻所収の紀年を有する文書には,年代の古い 順に A~Y,年代の判明しないものや断片には aa~al,木簡には am の記号が振られている.さ らに,法律・経済文書には1 枚の文書の上下にほぼ同内容の 2 つの文章が書かれているものが あり(詳細は本章,第 2 節,p. 51 を参照),そのような場合には, B と B΄という 2 つの記号 を用い, 両者 を区別 して いる. 2 巻所収の手紙は,文書中に記された紀年や人名を基にグル ープ分けされ,年代の古い順に並べら ている.例えば,1 巻に収録された Doc. B に年代の近 いグループには小文字b の記号が振られ,さらに枝番としてアルファベットが振られているの で,Sims-Williams がこのグループに分類する最初の文書は ba という記号が振られている. 本 章 で 文 書 か ら 文 章 を 引 用 す る 際 は , こ れ ら の 記 号 の 後 に 行 数 を 添 え て 提 示 す る . ま た , ク シ ャ ー ン 朝 期 の 碑 文 か ら 文 章 を 引 用 す る 場 合 は , 碑 文 の 一 般 的 な 名 称 に 行 数 を 添 え て 提 示 す る.な お, 引用 するテ ク スト中 にお いて,●は文字が判読できないこと, [ ]は欠落,或いは 完 全 に 判 読 で き な い 箇 所 を 復 元 し た こ と ,< >は二 次 的に 付 加さ れ たこ と, ( )は書 き落 と し で あ る こ と ,{ }は誤 って書かれ たこと を示す .また,和 訳にお ける( )は説明 補筆, [ ] は 復 元 し た テ ク ス ト に よ っ て い る こ と , … は テ ク ス ト が 欠 落 , 或 い は 判 読 不 能 で あ り 訳文を提示できないことを示す.ただし,テクストの固有名詞中に[ ]がある場合,これを和 訳には反映しない. 2 3 マニ文字で書かれた文書 に関しては本章,第 2 節(pp. 53-54)を参照.バクトリア語の表 記に用いられるマニ文字には,通常のマニ文字の他に,š 及び j の上部に補助記号として 2 つ

(19)

合わさって文ができ,これで必要に備えている.書は横に読み,左から右へ向かう」と述 べている[桑山 1987: 10].「二十五言」というのは,通常のギリシア文字 24 字に,ギ リシア語にはない音[š]を表記するためのショー(þ)を加えた数字である24.通常のギ リ シア文字24 字のうち,クシー(ξ)は「60」を表わす数詞として用いられるだけであり, また プ シー (ψ)は在証されていない.一方で, 数詞として,「6」を表わす合字スティ グマ(ϛ),及び「90」を表わすコッパ(ϙ)が在証されている(pp. 12-13 掲載の文字一 覧を参照). ク シ ャ ー ン 朝 期 の 碑 文 や 貨 幣 の 銘 文 と い っ た 古 い 時 代 の 資 料 は , 全 て Monumental Scripts と呼ばれる楷書体で書かれており,それぞれの文字は独立して 記され,資料の保 存状態が良好であれば,判読は難しくない.その後,文字は次第に草書化されてゆき25 クシャノ・サーサーン朝の貨幣の銘文は完全に草書化されている.また,紀年を有するバ クトリア語文書の中で最も古い 4 世紀前半の文書は,草書体で書かれている26.草書体で は 基 本 的 に 文 字 を 続 け 書 き す る た め , 外 見 上 ア ル フ ァ (α)とデルタ(δ)の区別がつか ない.オミクロン(ο)もアルファ,デルタと同じ形で記されるが,この文字は後続する 文字と続け書きされないため判別が可能である.さらに,草書体で書かれた文書の中には, 特殊な文字や記号のようなものが存在する27 の点を付した文字が存在する[吉田 1992: 113; Sims-Williams 2009c: 247; idem 2011d: 244 ]. マニ文字については吉田 2001 を参照.

2 4 Sims-Williams 1988: 347a; 吉田 1991: 112b-113a.文字ショー(þ)が導入される以前は,

ロー(ρ)を連続させてこの音を表記していたと考えられている[ Falk 2010a: 77].H. Falk 以前の議論に関しては Alram 1986: 294 を参照.

2 5 クシャーン朝期のラバータク碑文 15 行目には,イプシロン( ε)とイオータ(ι)が続け書

きされている例が確認できる[Sims-Williams & Cribb 1998: Fig. 7, 8 ](図 1).また,スル フ・コタル碑文で も,幾 つかの字が続け書 きされ ている[Cf. Göbl 1965: Tafel XII; Davary 1982: 53-64].

2 6 この文書(Doc. A)はバクトリア紀元 110 年,Ahrezhn 月,Abamukhwin 日に書かれたもの

である[BD12: 26-29].この紀年をユリウス暦に換算すると 332 年 10 月 13 日となる.サー

サーン朝のアルダシール 1 世の登位年(223 年)をその初年とするいわゆるバクトリア 紀元に ついては,de Blois 2008; Sims -Williams & de Blois 1998; idem 2005 を参照.本論では,必 要な場合, F. de Blois が換算したユリウス暦を,バクトリア紀元の後に《 》で併記する. 文書中に記されている紀年,及び換算されたユリウス暦は BD3: 12-31 に掲載されている.バ クトリア紀元が 223 年に開始されたという説には疑問も提示されているが,説得的な理由は 示されていない[Rezakhani 2010: 194; Schindel 2011 ].バクトリア語文書中に見えるバク トリア紀元の一覧は表 1 を参照. 2 7 遅い時代の文書には, 三角形をした特徴的なデルタが現れ,BD2,BD12 では大文字の デル タ(Δ)で翻字されている[ BD2: 38-39].また,手紙の冒頭の前置詞 αβο「~へ」や ασο 「~から」では,最初のアルファ(α)が数詞の α΄に似た文字で書かれる場合があり,大文字 のアル ファ (Α)で翻字されている[ BD2: 50].また,文字ではないが,Sims-Williams は, ア ル フ ァ の 前 に 書 か れ る カ ッ パ (κ) に 似 た 特 殊 な 飾 り 書 き (flourish) が Doc. A に 現 れ [BD12: 27 n.1; BD3: plate 1, 2 ],この飾り書きが Doc. ab の 20 行目にも現れるとしている [BD12: 149 n. 195; BD3: plate 107 ].しかし,吉田豊が述べる通り, Doc. ab に現れる飾り

書きは,むしろDoc. aa の 36 行目に現れるものと類似している[ Yoshida 2013a: 158; cf. BD3: plate 106].吉田は Doc. aa,ab に現れるこの飾り書きがどちらも署名の前に現れることにも 注目している.この点に関しては,第 4 章,第 2 節(pp. 142-143)を参照.

(20)

第1 節 バクトリア語概観 バクトリア語で用いられるギリシア文字一覧*1 名称 翻字 (数値) 楷書体 草書体*2 (独立) 草書体 (語頭) 草書体 (語中) 草書体 (語末) 推定音価 *3 Alpha (1) α a, ā, ə Beta (2) β b, v Gamma (3) γ (γγ = ŋ) g, γ Delta (4) δ d Epsilon (5) ε e Zeta (7) ζ z, ž, dz Eta (8) η ē? Theta θ (9) θ Iota (10) ι y, i, ī Kappa (20) κ k Lambda (30) λ l Mu (40) μ m Nu (50) ν n Xi ξ (60)

(21)

名称 翻字 (数値) 楷書体 草書体 (独立) 草書体 (語頭) 草書体 (語中) 草書体 (語末) 推定音価 Omicron (70) ο w, u, ū, o, ə, ø Pi (80) π p Rho (100) ρ r Sigma (200) σ s, ś?, ts, dz Tau (300) τ t Upsilon (400) υ h, ø Phi (500) φ f Chi χ x Psi ψ Omega ω ō Sho þ š Stigma ϛ (6) Koppa (90) ϙ (1000) *1 文字の左右にある破線は,前あるいは後ろの文字と続けて書かれることを示す *2 独立形は数詞として用いられる

(22)

第1 節 バクトリア語概観 また,文字に関連して,注意しておかなければならない点が 2 つある.1 つは,語末の 文字である.バクトリア語の単語は,幾つかの例外を除き,基本的に母音字で終わってい る28.母音字の大部分はオミクロン(ο)であるが,古い時代の資料では,語末の-το の代 わりに-τι で記されることがある.また,Doc. L より古い文書では,語末の[w]或いは[u] を表わすため,-οο や-ο の代わりに-οι と記されることがある.さらに,大部分の単語が 母音で終わることから,ある単語に後続する語が母音で始まる場合,それら 2 つの語が融 合する.例えば,ταδο「それで」という接続詞の後に αζο「私」という母音で始まる人称 代名詞がくると,ταδαζο という形になる29 2 つ目は文書資料や印章類に見られる上付き線(superscript line)である.バクトリア 語文書を見ると,しばしば上付き線が引かれている文字に遭遇する(図 2).この線は主 と し て 文 字 υ[h]が 省 略 さ れ て い る こ と を 示 す た め に 引 か れ て い る と 考 え ら れ て い る : μαο30 = μαυο「 母 」 ,πορο = πουρο「 息 子 」 . し か し ,υ[h]以 外 の 省 略 を 示 す 例 や (βαγοβαο = βαγοβανδαγο「Bag-bandag」,πιριþτο = πιδοριþτο「遺産」),文字を省略 していない例も知られており(διναρο「ディーナール」,μολραγο「封印文書」),その 機能は完全に解明されていない31 (2) 音韻 バ ク ト リ ア 語 の 音 韻 的 特 徴 に 関 し て は ,Sims-Williams と 吉 田 の 解 説 が あ る [Sims-Williams 1988: 348; idem 1989b: 233-235; 吉田 1992: 113b-114a].また,中期イラン語 の東方言に共通する音韻的特徴に関しては,同じく Sims-Williams の解説がある[Sims-Williams 1989a: 167-168].さらに,最近になって Sims-の解説がある[Sims-Williams はマニ文字で書かれた 資料を利用し,文字と発音に関する研究を発表し[Sims-Williams 2011d],Gholami は 文 法 全 般 に 関 す る 研 究 の 中 で こ の 言 語 の 音 韻 に つ い て 組 織 的 に 研 究 し て い る [Gholami 2012: 8-39]. 言 語 学 を 専 門 と し な い 筆 者 に は 残 念 な が ら こ れ ら の 研 究 内 容 を 理 解 し , 解 説 す る こ と は不可能である.しかし,それらの研究で述べられている音韻的特徴の中に, 歴史を研究 する者にとって興味深い点が無いわけではない. バクトリア語では,古代イラン語における語中の*-k-が有声音化し,-g-となる32.そこ で,歴史的に興味深いのは,クシャーン朝期のラバータク碑文,及びスルフ・コタル碑文 に登場する高官ヌクンズク(νοκονζοκο)の名前である.即ち,ここでは語中の-k-が有声 化 し て い な い こ と か ら , こ の 人 物 は バ ク ト リ ア 出 身 で な い と 考 え ら れ て い る の で あ る [Sims-Williams 2010a: no. 289].もちろん,王朝でかなりの高位にあった人物がバク 2 8 例外の大部分は省略形である.詳細は BD2: 40,及び BD2: 287-308 の Reverse Index を参 照. 2 9 本節でこのように融合した語を示す場合には,便宜的に 2 つの語をハイフン(‐)で区切 ることとする:ταδ-αζο(< ταδο + αζο ). 3 0 ここでは便宜的に上付 き線が引かれている箇所 を下線で示す.本論でバ クトリア語の テ ク ストを引用する際は,繁雑になるためこの上付き線は省略する. 3 1 詳細は BD2: 39-40 を参照. 3 2 SimsWilliams 1989b: 233 .古代イラン語の*k の変化について,詳細は Gholami 2012: 10 -11 を参照.

(23)

トリア出身でないということが何を意味するのかを俄かに判断することはできない.この 人物が,クシャーンの諸王と同じ民族出身であるならば,クシャーンの出自問題と関わっ てくるであろうし,またこの人物がクシャーン朝治下のある地域の出身者でクシャーンの 諸王とは異なる民族であるならば,王朝の領域問題と関わってくるであろう. (3) 文法 1. 名詞 ク シ ャ ー ン 朝 期 の 資 料 で は , 名 詞 に は 単 数 (singular)と複数(plural),そして直格 (direct)と斜格(oblique)の区別があり,活用は以下の通りである: sg. pl. dir. -ο (βαγ-ο「神」) -ε (βαγ-ε) obl. -ι, -ε (κανηþκ-ι「カニシュカ」, κανηþκ-ε) -ανο (βαγ-ανο) 名詞には,女性形の語尾(-α)を保持しているものが存在するが,その数は非常に少な い:λογδα (= λογδο)「娘」(Dilbeljin),λιζα (= λιζο)「城砦」(Surkh Kotal SK4B), φρομανα (= φρομανο)「命令」(Ayrtam,Rabātak).また,次項で述べるように,冠詞 にも女性形が存在した. 上 掲 表 の よ う な 活 用 が 保 持 さ れ て い る の は , ク シ ャ ー ン 朝 期 の 資 料 に 限 ら れ る . 語 末 の母音は次第に区別を失っていき,4 世紀前半の草書体で書かれた文書の段階では,単数 形と複数形のどちらをも表わす活用語尾のない無標の-ο,及び有標の複数形-ανο という 2 つの形だけになり,格の区別は失われる. 2. 冠詞 冠詞にはμο と ι の 2 種類があり,クシャーン朝期には性・数の区別があった33 m. f. pl. μο (μο κανηþκο「カニシュカ」) μα (μα λιζο「城砦」) μι (μι βαγανο「神々」) ι (ι βαγο「神」) ια (ια νιþαλμο「座」) また,冠詞は指示詞と共に用いる場合があり[Sims-Williams 1988: 349a],Gholami は, この 「 冠詞 + 指示詞」という構造が,名詞を強調していると述べている[ Gholami 2011: 15]: 3 3 バクトリア語の冠詞については, S. Gholami の専門的な研究がある[ Gholami 2011].

(24)

第1 節 バクトリア語概観

1. ειδο μα λιζο dem. art. fortress

まさにこの城砦(Surkh Kotal 1)

Gholami はこの構造を,クシャーン朝期のスルフ・コタル碑文にのみ見られるものであ ると述べているが[Gholami 2011: 16],クシャーン朝期以降の文書資料にもこの構造は 見える34

2. εδο μο λαþνοβωστογο μαλο νιβιχτο αβο μο ρωβαγγο þαρο dem. art. deed of gift here write.3sg.pret. in art. of Rōb city

αβ-ιιο ανδαγο in-dem. borough まさにこの譲渡証書は,ここRōb の町の,この街区で書かれた35(C1) 名詞の活用と同じく,クシャーン朝期以後の資料では,性と数の区別が失われ,μο と ι だけが用いられる36.ただし,文書中で同一の単語に冠詞が付されている場合とそうでな い場合があり,これらの冠詞は必ず用いられる訳ではなく,どのような条件下で冠詞が用 いられたかは判明していない37 ま た ,ι は い わ ゆ る エ ザ ー フ ェ と し て の 機 能 も 有 し て い た [BD2: 214b; 吉 田 1992: 114b; Gholami 2011: 17]: 3. νοκονζοκο ι καραλραγγο ι φρειχοαδηογο PN ezafe lord of the marches ezafe lord's favorite 地方官であり,主の寵臣である Nukunzuk(Surkh Kotal 6-7)

4. φαρο οιριþτομιþο ι χοηοι for. PN ezafe lord 主たる Wirishtmish へ(al18) ただし,バクトリア語のエザーフェは,近世ペルシア語のそれと異なり,所有を表現す るためには用いられなかったと考えられている[Gholami 2011: 17]. マニ文字で書かれた資料には,ギリシア文字で書かれた資料に見える冠詞 ι に対応する 3 4 不思議なことに Gholami は,冠詞に関する研究よりも以前に発表していた別稿で以下に挙 げる用例に言及している[Gholami 2009b: 22 -23]. 3 5 動詞が受動の意味に訳されていることについては,本節「受動態 」(pp. 37-38)を参照. 3 6 クシャーン朝期以後の資料にも,わずかながら冠詞 ι の女性形 ια が用いられている例が知 られている:ιαμαργο (< ια-+ μαργο),ιαρωσο (< ια- + ρωσο)[BD2: 41, 214b].後者は,古 い中性形に女性形の冠詞が付されている例であり[BD2: 261a],このような例はスルフ・コ タル碑文にも見えるという:ια νιþαλμο[BD2: 41]. 3 7 音韻的な条件が指摘されており, Gholami の分析によれば,μο は α-で始まる語の前で, ι は 子音で始まる語の前で用いられる傾向が強い[Gholami 2011: 18 -20].

(25)

y-が在証されている[Sims-Williams 2009c: 261b].マニ文字資料には,この y-以外に も冠詞‘yg が現れるが,ギリシア文字で書かれた資料にはこれに対応する形は現れない. また,μο と ι は指示詞としても用いられる38 3. 人称代名詞・不定代名詞 人称 代名詞 には ,独 立した 形と, 先行 する 語に付 加され る前 接的 な形(enclitic)があ り,一覧にすると以下の通りである:

dir. obl. encl.

1s t sg. αζο μανο -μο -μαγο (with prep.) 2nd sg. τοι, τοοι, το, τοο, τογο, τοουο ταοι, ταοοι, ταοο, ταο *-δο -δηιο, -τηιο -φαγο (with prep.) 3r d sg. -ηιο, -ιηιο, -ηο, -ιι-, -ι- 1s t pl. αμαχο, μαχο, ιαμαχο -μηνο 2nd pl. τωμαχο, τομαχο, ταμαχο -δηνο 3r d pl. -ηνο, -ιηνο, -ινο 独立形は,1 人称と 2 人称の単数形で直格と斜格の区別があるが,複数形では区別がな い.また,3 人称の独立形は知られていない.前接的な形は,斜格として機能する[ BD2: 41]. バ ク ト リ ア 語 で は , 他 動 詞 の 過 去 時 制 の 場 合 , 能 格 構 文 が 用 い ら れ る . こ れ は , 意 味 上の目的語が直格に置かれ,行為者が斜格に置かれる構文で,動詞は直格に置かれた目的 語と一致する.つまり,ここに挙げた人称代名詞の独立形斜格や前接的な形は,他動詞の 過去時制の場合,行為者,即ち主語を表わすために用いられる39 1 人 称 と 2 人 称 の 単 数 形 に は , 前 置 詞 に 付 加 さ れ る 特 別 な 形-μαγο(1sg.) と-φαγο (2sg.)がある:αβαμαγο(< αβο + -μαγο),αβαφαγο(< αβο + -φαγο).一方で,1 人 称と 2 人称の複数形には,前置詞に付加される特別な形はなく,独立形が前置詞の後に置 かれる. 1 人称単数の直格形(αζο),及び 1 人称複数(αμαχο)は,母音で始まるため,先行す る接続詞や前置詞と融合する:ταδαζο(< ταδο + αζο),μισιδαζο(< μισιδο + αζο), αβαμαχο(< αβο + αμαχο). 上掲表に挙げられている人称代名詞は,4 世紀以降のバクトリア語文書に見られる形式 である.より古いクシャーン朝期の碑文には,enclitic の三人称単数-ηια が現れる[Sims-Williams & Cribb 1996: 91].この形は後の資料には見られない.

3 8 詳細は本節「指示詞」( pp. 21-22)を参照. 3 9 詳細は本節「能格構文」(pp. 40-42)を参照.

(26)

第1 節 バクトリア語概観 また,バクトリア語には不特定の人や物を示す不定代名詞が存在する.人を指し示す不 定代名詞は κισο,物を指し示す不定代名詞は σαγισο である[BD2: 224a, 261]: 5. καλδο κισο πιδο χαλασο ... αχασαδο if indef.pron. on PN ... dispute.3sg.subj. もし,ある者が Khahas について異議を唱えるなら(P9) 6. ο-τα-καλδ-δηνο σαγισο αχασαμηιο and-then-if-2pl.pers.pron. indef.pron. dispute.1pl.opt. もし我々が汝らに何か異議を申し立てるなら(Uu26-27) これらの不定代名詞は,代名詞的形容詞 ανδαρο「他の」と共に用いられたり,動詞の 否定形と共に用いられたりすることが多い.またこれらの代名詞は不定関係詞節に現れる こともある40.また,バクトリア語には,「誰それ,これこれの」を意味する δανομανο という語が存在するが,今のところ 1 例しか知られていない[BD2: 208a]. 4. 関係詞 先 行 詞 が 人 , 物 , 場 所 の 場 合 で , そ れ ぞ れ 異 な る 関 係 詞 が 用 い ら れ る . 先 行 詞 が 物 (無生)の場合,関係詞は主として σιδο/ασιδο が用いられる41 7. ανδαγο σιδο στηβο ριζδο

borough rel. PN be called.3sg.pres. Steb と呼ばれる街区(A2)

た だ し , 先 行 詞 が 人 物 ( 有 生 ) の 場 合 も あ り , 現 在 知 ら れ て い る 実 例 か ら 判 断 す る 限 り,遅い時代の文書に見える特徴と言える42

8. ειο βαλακο ασιδο χαλασο ναμδο

this boy rel. PN be named.3sg.pres. Khalas と呼ばれるこの少年(P12΄) また,この語は,特定の動詞の補文を導く接続詞としても用いられる43 4 0 次項を参照. 4 1 BD2: 194b.クシャーン朝期の碑文には,この 関係詞の古い形として σιδι/ασιδι が現れ る [Davary 1982: 164, 270 ]. 4 2 最も古い用例は,ここに挙げた Doc. P であり,文書の年代は 669 年である. 4 3 詳細は BD2: 194b に挙げられている例を参照.

参照

関連したドキュメント

1)研究の背景、研究目的

北海道大学工学部 ○学生員 中村 美紗子 (Misako Nakamura) 北海道大学大学院工学研究院 フェロー 横田 弘 (Hiroshi Yokota) 北海道大学大学院工学研究院 正 員

本稿 は昭和56年度文部省科学研究費 ・奨励

雑誌名 金沢大学日本史学研究室紀要: Bulletin of the Department of Japanese History Faculty of Letters Kanazawa University.

学位授与番号 学位授与年月日 氏名

金沢大学学際科学実験センター アイソトープ総合研究施設 千葉大学大学院医学研究院

大谷 和子 株式会社日本総合研究所 執行役員 垣内 秀介 東京大学大学院法学政治学研究科 教授 北澤 一樹 英知法律事務所

関谷 直也 東京大学大学院情報学環総合防災情報研究センター准教授 小宮山 庄一 危機管理室⻑. 岩田 直子