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代 : 鷹場の性格規定と関連して

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代 : 鷹場の性格規定と関連して

著者 吉岡 孝

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 51

ページ 13‑33

発行年 1999‑03‑24

URL http://doi.org/10.15002/00011278

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寛政の改革の研究は、近世史研究においてポピュラーな(1)一ナーマである。しかし柳生久通に検討の主眼を置いた研究は、管見の限りないようである。本稿では以下の三つの点から柳生の施策について考察したい。第一として柳生は勘定奉行上席という余り例のない地位につき、幕領支配政策の責任者になった。柳生の政策の意義について問うことは大きな意味をもっている筈である。第二としては寛政四年(一七九二)に長期に渡って関東郡代を勤めた伊奈氏が失脚した。これについては既に検討されているが、筆者には従来の通説には疑問がある。柳生を始めとした勘定所は、伊奈氏失脚という事態に対してど はじめに

勘定奉行上席柳生久迦の施策と関東における村方惣代(吉岡)

勘定奉行上席柳生久通の施策と関東における村方惣代

l虐場の性格規定と関連してI

のように対応したのであろうか。第三として久留島浩の問題提起以来「惣代庄屋」的「自(2)治・自律」的視点で地域社会が捉え-られるようになった。しかし関東においては「関東取締出役l組合村体制」論の(3)影響で、「自治・自律」的研究は例外的である。筆者は寛政五年に関東の一部幕領で設置された「郡中御料私領取締役」には柳生の影響があると考えており、柳生の施策の分析を通じて、改革組合村設置の意義の一端を明らかにすることが可能だと考える。

(1)柳生久通の経歴(4)柳生久通の柳生家は一兀来村田を姓にしていた。久通の曾 柳生久通の経歴と活動

吉岡孝

::=

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祖父久辰は剣術の新陰流宗家柳生宗在の門人になり、剣をもって家宣に仕えた。正徳二年(一七一二)久辰は宗在の子俊方から柳生の姓を与えられた。久辰の子久壽も俊方に認められ、家治の剣術相手も勤め、西丸鎗奉行などになった。久壽の子は早世し、遺跡は孫の久通が継いだ。久通は宝暦一一一年(’七六二)九月に西丸書院番になったのを皮切りに、小納戸・小姓に進み、明和四年(’七六七)’二月には従五位下主膳正に叙任している。祖父の遺跡を継いだのは天明元年(’七八一)三七歳の時であった。その後小普請奉行を経て、天明七年九月に町奉行に任じられた。また久通は御家芸というべき剣術も良くした。『続徳川実紀』にも「町奉行柳生主膳正久通奥勤の輩に撃(5)剣教授せしをもて時服を賜一つ」とある。柳生は天明八年九月町奉行から勘定奉行に転役している。町奉行から勘定奉行への転役は、幕末の小栗忠順の例が一例あるだけであり、極めて異例のことといわなければならない。しかし「町奉行の次に列すべき旨仰せをかふぷる」とあるので、柳生は只の勘定奉行ではなく、勘定奉行上席になったと判断していいであろう。やがて寛政五年(’七九三)七月、定信が老中を解任されたのと同じ月に、以下のように御料所取締を仰せ付けられる。 法政史学第五十一号一四

(6)[史料一]申渡此度、御料所御取締之儀、柳生主膳正取扱仰被渡、松伊豆守殿御沙汰之趣ヲ以、於御勘定所別紙之通、御代官一統江申渡有之候二付申渡候間、右申渡候趣厚被相心得、卿無心置一様一一可被取斗候、尤猶心付之儀も有之候者可被申聞候七月(寛政五年)この史料により老中松平信明の沙汰により代官一統に柳生が御料所取締を仰せ付けられた旨が通達されたことがわかる。しかし柳生がこの地位についていた期間は短かった。(7)[史料二]御領所御取締懸御勘定所御取締懸之儀、去年中申渡置候得共、以来分而懸りハ被仰付間敷候問、弥厚心懸、一同出精候様可被致候事柳生主膳正殿一統御代官へ申渡去丑年自分儀御料所御取締可被取扱被仰渡、其剛伊豆守殿へ御沙汰之趣も有之、各勤方等之儀申渡、何れも心付候儀ハ勿論、手代共も在寄有之候ハ、、可被申聞旨申渡置候、然ル処別紙之通伊豆守殿被仰渡候問、弥

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厚心を用、一同出精可被致候、右二付以来心附等之儀も候ハ、、同役之内何れに成共可被申聞候寅(寛政六年)閏十一月これにより一年四カ月で御料所取締が「分而懸りハ被仰付問敷」となったことがわかる。しかし取締については一同の出精が記されていて趣旨は変わらない。柳生が「懸り」からおりただけともいえる。なぜこのように短期間で変更されたのか。もともと柳生は松平定信に引き立てられた人物であった。柳生が町奉行に抜擢されたのは、天明七年六月定信が老中首座に就任した直後であり、その影響によるものであろう。以下の記述をみて頂きたい。。西下(定信のこと)ハ柳生・佐久間(茂之、勘定吟味役)でなけれ(夜も明ぬ。とさた仕候よし。柳生ハ是非に構はず、一円二西下を尊敬致候二付、西下でもとかく柳生を御気二人被成そふナ、なんぼ西下でも御手前を信仰をする者を御歓被成そふナ、外の奉行衆一一、西下のおっしゃる事でも不承知な事が有そうナ。それゆへが柳生程二御気二入らぬそふナ、とさ(8)た仕候よし」(括弧内筆者註)。この記述か『b柳生が定信を無条件といってもいいくらい信頼し、定信がそれに応えていた様子がわかる。ここには卿の誇張があるかもしれない

勘定奉行上席柳生久通の施策と関東における村方惣代(吉岡) が、定信と柳生が職務上で深い関係があったことは従来の(9)研究史でも触れられている。御料所取締は[史料一・二]で明らかなように、当時の幕閣の実力者老中首座松平信明の力が大きかった。従来は信明は定信の盟友とされてきたが、近年の研究では定信解(川)任後、独自色を強めていったことが指摘されている。そのような信明にしてみれば、定信色の強い柳生は敬遠したかったのであろう。しかし剣術を通じて将軍やその側近と親しかったと考えられる柳生を免職するのも得策とはいえない。柳生が勘定奉行上席を退き、留守居に転出したのは、実に文化一四年(’八一五)’一月のことであり、約三○年も勘定奉行だったことになる。寛政七年以降も柳生が重要な法令を発令する事例もあり、実務を着実に行なって(Ⅲ)いるが、次第に”生き字引“的存在になっていったようである。しかし本稿の検討時期は、柳生が御料所取締において力を発揮していた時期である。

(2)無宿への対応本節では柳生の無宿への対応についてみてみよう。従来の研究では近世の百姓は土地に緊縛されていた面が強調されてきたが、近時の研究では多くの百姓が土地を移動した

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ことを明らかにしている。例えば美濃のある村では一○歳迄生存した子女の内、男子は五○パーセント、女子六二パーセントの者が都市などに働きにいき、男子の半分、女(旧)子の一二分の一がそのまま帰らなかった。もともと兵農分離政策のもと、武士は城下町に集中しており、その生活が成り立つためには武家奉公人など様々な百姓の移動が不可欠であったのである。つまり人間移動は権力によって「正当化」されており、土地緊縛とのバランスが図られていた。だから宗門人別帳による属地的な統制が、身分制の根幹になったのである。しかし市場経済の発展は物流の活発化を促進し、それに付随して人間移動も活発化させる。物流の増加は流通業に従事する人間を増やし、宿駅の人口を増やす。村から抜け出し、これらの宿駅に流入する人口も当然あり、これらが無宿になる。無宿は犯罪者と同一に扱われ(Ⅲ)ていることが多いが、それは全くの誤解である。近世身分制の基本は属地的人別把握にある。無宿はその人別把握から抜け出したために幕藩権力から禁圧されたのである。つまり無宿は身分素乱者であっても治安素乱者ではない。今日的視点にたてば犯罪者とはいえないのである。幕府は無宿の増加、つまり百姓身分の崩壊に頭を痛め、安永七年二七七八)無宿を厳しく捕らえて佐渡送りにする法令が 法政史稚第万十一号|」へ

(M)通達された。勿論これによってふい)無宿問題が解決したわけではない。松平定信にとっても無宿の問題は大きな問題であった。彼は諸国の人別が減っているのは、死亡によるものではなく、「只帳外となり、又は家出山伏となり、又は無宿となり、又は江戸へ出て」人別帳に載らなくなっただけだとわ(旧)かっていた。では定信はこの問題に対してどう対処lしたの(冊)である軍っか。それは「帰農勧本の術を第一」農村に人を返して農業を勧め、属地的人別把握を再建するというものであり、それが定信の無宿対策の基本である。つまり無宿対策は身分統制政策と表裏の関係にあるわけである。従来旧(Ⅳ)里帰農奨励くわは経済面から説明されてきた。そのような面も否定はしないが、定信の政策的意図は一義的には身分統制にあったとすべきである。そして身分統制とは無宿対策、勧農政策と密接に関係しているのである。定信は旧里帰農奨励令を「国体第一の事」だから絶対に変更すべきで(旧)はない、とした。非常に強硬な態度をとったわけである。「国体」という言葉には議論があるだろうが、筆者は国の成り立つ根本的秩序、身分制のことを指していると考えている。本稿ではこのような前近代身分制社会を全体的に規(旧)定する社会的関係を身分制社会システム、と呼ぶ。

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(3)勧農イデオロギー政策本節では寛政五年柳生が御料所取締に任命された直後(皿)に、代官雪bに申し渡したと推測される史料を検討する。長文のため全文を揚げることはできないが、|条毎に論じて そして柳生は定信の身分統制政策の忠実な実行者であった。例えば代官大貫光豊が越後に検見に赴く時、柳生は大貫に「越後へ無宿余程召連、耕作等致し習はせ見候て可(卯)然」と一一一一口った。大貫は越後は人も多く、手余り地もなく、道中無宿が逃亡するおそれがあるとして柳生の命令を断った。北陸地方の人口は減少しておらず、むしろ他地域の手余り地に人が移入しているほどであるから、大貫の認識は正しいであろう。しかし柳生は「上で無宿の事を至て御セ話被成に、其様ナ事をいふてハ済ぬ」と立腹した。大貫は「柳生も上へ随ふ計で素人だ」と批判した。この「素人」という評価は適格であろう。柳生は家柄の上でも、経歴から考えても勘定所の実務に明るかったとは思えず、ただ定信好みの封建的反動イデオロギー政策、身分統制政策を強硬に実行しようとした。しかし代官のような現場の実務官僚にとっては、このような観念的政策は現実から遊離した(別)実行性のないものとして反発が強かったであろう。

勘定奉行上席柳化久皿の施簸と関東における村〃惣代(背岡) みたい。第一条では代官手代が検見などの時、賄賂をもらうことなどが問題視されている。代官手代の賄賂禁止という点は、従来の研究史でもしばしば指摘されてきたところであ(剛)る。しかし賄賂禁止だけを寛政改革の特徴として指摘するだけでは不十分である。賄賂禁止はあくまでも御料所取締の一環に過ぎない。第二条では「御代官心之用ひ方」が等閑であり、手代に任せ切りになると下々がわがままになるとの現状認識が述べられている。松平定信政権は天明のうちこわしの影響で成立しており、下々の反権力的動向には注目せざるを得なかった。代官を中心とした「封建的社会政策」を施行した(別)のもこのような認識に基づく。しかし幾ら代官がそのことを心掛けても、手代たちが理解しなければ無意味になってしまう。だから民衆に不穏な動きを惹起させる手代は暇を遣わすように躯われている。第三条では代官手代の任用に関することである。手代は代官が私的に抱えるものである。どの代官も実務に慣れた手代を欲しがるが、そのようなベテランの手代は有能ではあるが、地方に明るいため癒着もしやすい。「其者宜敷人物二候得者、宜敷候得共」、そうでなければ未経験者でも

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適当な人物がいれば、任用はその意に任せるとしている。実務よりも人物を選択基準としており、これも政策を徹底させたいという志向の現われであろう。第四条は堤川除御普請について記されている。勘定方で代官の目論見を再検討してみると、その三分の一・半分で済むことがある。普請は村々が自力で行なうのが原則である。自力ではできない所を御普請で行なうのである。そうすれば百姓は利欲を忘れ、実意を尽し、御普請に労働力を提供する。そうなれば相応の賃銭を受け取っても、御救に当たることになる。しかし実際は請負に慣れた村役人が私欲を行なっているという。彼等は九十両で済むところを百両の金を出させ、差額を着服するのである。このような状況の背景には代官手代との村方の癒着が存在していたことは想像に難くない。ここで指摘しておかなければならないことは、御救いとは経済的恩恵のことのみを指す概念ではないということである。深谷克己は百姓一摸の正当性の意識を論ずる際、「御百姓相勤」めるための御救いという慨(顔)念を強調したが、「御百姓相勤」めることが前提である以上、御救いは百姓という身分を前提にしなければ機能しない。この点が御救いと近代社会における福祉政策の違いである。百姓身分が前提である以上、単なる金銭的扶助では 法政史学第五十一号

御救いにはならず、農業経営体を援助するものでなければならない。翻っていれば農間余業にいくら貢献しても、それだけでは御救いにはならないのである。しかし実際は堤川除御普請は専門の人足による請負が行なわれるようになっていった。本来的には村々が農業を行ないたいというモチベーションがまず存在し、しかし自力では普請が及ばず、及ばないところを公儀は御普請にする。そのため百姓はこれを御救いと感じる訳である。しかし近世後期以降進展した市場経済の発展は、専門の土木人足を発生させ、普請はそれに伴う利権の確保が主眼となってしまったのである。つまり身分制故に機能しえた御救いというイデオロギー行為は、その封建的性格を失った訳である。柳生はこのような実情に鑑み、実意に百姓の世話をすることにより、御救いのもっていたイデオロギー的側面を再生しようとした。そうしなければ御救いは百姓に経済的恩恵を与えるだけになり、その逆機能である公儀権力に対する心意統治面が喪失しまうことになる。第五条では格別の損失のない村方の年貢を免除することはないが、水旱の愁いのある村から多く収奪することはないとの見解が示されている。そのため時宜に寄り、御勘定方御普請役御小人目付等が廻村することが記されている。

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(配)柳生自らも「川々御並日清二付」廻村を行なっている。寛政(〃)期に普請制度の改革が行なわれたことは明らかであるが、それは先述の普請を通じたイデオロギー政策として理解すべきであろう。第六条においても損地の見分などを手代任せにせず、きめ細かい見分をするよう述べられている。この意義については改めて指摘するまでもないであろう。最後に「此度御料所取締之儀被仰渡候一一付、松伊豆守殿御沙汰之旨も有之一一付相達候間、柳等閑之儀無之様厚く心懸け可申候」と柳生が松平信明の沙汰もあって、この通達を出したことが明らかになる。以上柳生の施策の特徴は身分制の再生、身分統制にあったということが指摘できる。近世身分制の特徴は属地主義にある。百姓の場合は村による人別把握こそがその基礎であった。だから無宿の大量発生は近世身分制の根幹を揺るがすものであった。そして村に人別把握されるものは当然ながら百姓身分でなければならなかった。過度の農間余業への依存、百姓身分でありながら市場経済で生活を立てている人物の増加は身分制の危機である。なぜなら百姓は農業生産を通じて「御百姓」l「御救い」という身分制に立脚したイデオロギー関係を結んでおり、これがただの「行

勘定奉行上席柳生久迦の施策と関東における村刀惣代(吉岡) (1)関東郡代伊奈氏の失脚関東郡代伊奈忠尊が、その職を免ぜられたのは寛政四年(一七九一一)二月のことである。この原因については「天領・私領を問わぬ関東一円支配体制」を確立しようとした勘定所が、対立した伊奈氏を失脚させたという竹内誠説が(別)通説になっているが、筆者には納得できない。残された史料を素直にみる限り、伊奈氏の失脚は純然たる御家騒動が原因である。第一竹内は伊奈氏の失脚が幕府の陰謀によるものということを示す史料を挙げてはいないのである。たとえ伊奈氏と勘定所の対立が事実としても、だから伊奈氏 政」l「納税」という関係に転化してしまえば、身分制は崩壊してしまい、従って近世権力は成立しなくなってしまう。このような農業生産を通じたイデオロギーを本稿では(油)勧農イデオロギーと称する。柳生の施策は松平定信の要求に従い、この勧農イデオロギー政策を実行し、身分統制を行なうことが主眼であったといえよう。このような柳生の身分統制政策は関東地方において顕著であるが、次章ではその前提として寛政期の関東の事情について検討してみよ》っ。

一一伊奈氏の失脚と勘定奉行による関東郡代の兼帯

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は失脚させられたというのは論理的飛躍であろう。要するに竹内説は仮説としては成り立つが、確実に実証されたものではない。本稿では伊奈氏の失脚は幕府の陰謀という立場は採らない。従って勘定所は伊奈氏失脚の空白を大急ぎで埋めなければならず、そのため当時勘定奉行上席であった柳生の方針が明確に現れたという立場を採る。伊奈氏失脚の後は、勘定奉行久世広民が関東郡代を兼帯した。久世は関東郡代の支配所三○余万石に「申渡」を触れ廻している画この史料は著名な上に長文なので全文は揚げないが、先の柳生の「申渡」と同一の志向を見出だすことができる。「御代官之申教を守り一村陸しく申合、無益之費を不致、風俗を正し法を慎、農業を励、地力を尽し一粒にても作り殖し、何様之御年貢諸役も柳無滞様厚心懸候(川)事」とあるが、この文言から年貢増徴といった側面にだけ注目するのでは不十分である。ここで躯われているのは代官の心を村方が熟知し、質素倹約により無益の出費を省き、風俗を矯正して法を正し勧農を行なう。その結果として年貢が完納される。筆者は先稿において風俗取締とは身(川)分統制に異な言わないと指摘した。久世の「申渡」にみられるのは、勧農を通じて身分制社会システムを再編成しようという志向であり、年貢増徴はその一環に過ぎないのであ 法政史学節バー百ケ

る。寛政五年二月関東筋代官に、老中松平信明の意図により(犯)「申渡」が通達されている。そこでは「くう度荒地免直等改正」が「取赦之様一一取違ひ、苛刻一一流れ候而者如何」との趣旨が述べられていて、荒地起こし返しは民力を引き立てる意味で行なうのであり、「御年貢取増候事而已一一者無之」年貢を免じなければならない場合は免じよとしている。このような志向は柳生や久世の「申渡」と通底し、広く寛政改革の基調といえるであろう。寛政期の御料所改革では「御救い」としての勧農を行ない、そのイデオロギー効果によって風俗を取締り、身分制社会システムの維持再編を図るというのが、その主眼であったと指摘できる。次節では勘定奉行が兼帯した郡代役所を中心に検討してみよ壹っ。.

(2)関東郡代役所の機能伊奈氏の支配地は久世配下の五人の代官に分割された。一方郡代役所では大番や書院番などの同心三○名が郡代組附になった。彼等は地方のことに習熟していなかったので、四川用水方普請役秋田園右衛門が普請役元締格になっ(羽)て指導に当たった。組附は検見廻村の時召し連れられたの

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で、その時の「お救い」的勧農行為、つまり収奪にならず、民力を引き立てる役割を期待されたのであろう。組附らを統括した中心人物が関東郡代附勘定組頭金沢瀬兵衛千秋であった。金沢は寛政四年(一七九二)四月、勘定奉行が関東郡代を兼帯した直後に郡代附の勘定になったロ金沢の父も勘定組頭や一橋家勘定奉行を勤めており、地方には習熟した家柄であったといえよう。四年一○月久世が金沢を勘定組頭格に推薦した史料をみると「右瀬兵衛儀常々御奉公無慨怠実躰相勤、差働も有之、格別出精仕、郡代支配被仰付候以来、御役所向之儀重立引請取扱、当秋私儀検見廻村之節も召連候処、昼夜差はまり、出精相勤、御取締宜御座候、其上支配御代官取扱一一も格式被仰付候得者上席之儀故一躰取締にも可相成候間、秀一統為励(洲)にも御座候付、御勘定組頭格被仰付」とある。金沢が「検見廻村」の時に活躍したことがわかる。これは秋田も(郷)同じであった。又金沢が勘定組頭格に推挙された理由の一つが支配代官の上席になり、代官の取締を良くするためであったこともわかる。この久世の願いは聞き届けられ、寛政四年二月二日松平定信の決済がおり、金沢は勘定組頭格になっている。寛政六年正月には金沢は「荒地起返井免(卵)直し等改方」のため郡代支配地を廻村している。これは

勘定奉行上臓柳化久通の施策と関東における村方惣代(吉岡) (師)「関東上方筋一統」で行なわれた。この金沢の廻村4℃先述の勧農イデオロギー政策を貫徹しようという意図だったことはいうまでもないであろう。金沢は六年一二月に勘定組頭になり、引き続き関東郡代役所で活動した。寛政二年には新しい関東郡代中川忠英の下、郡代支配地の廻村調査(鯛)を行った後、寛政一二年一一月勘定吟味役になって郡代役所を転出している。以上のように考えてみると、関東郡代役所は金沢・秋田といった地方に習熟した指導者と地方に慣れていない組附とによって構成されていたことになる。なぜもっと地方に通じた者を組附にしなかったのであろうか。それはこの時期展開していた代官手代の綱紀粛清政策とも関係している。代官手代が身分統制面で問題化していたことは先述した。幕府としては能力は低くても試し済みの実躰の者を起用して、村との摩擦を避け勧農イデオロギー政策を実行したかったのである。それには実務には長けているが姦倭な人物よりも、実務には多少暗くても実篤な人物が望ましかったのであろう。また代官を金沢の管轄下におこうとしたのも、なまじ実務に明るい代官が地方と馴れ合い、勧農イデオロギー政策が頓挫してしまうことを恐れてのことだったに違いない。

一一一

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史料をみてみよう。(”)[史料一二]申渡支配所近在村々之内、触次名主ゲ唱、御鷹野御用之儀ハ右触次之もの村々へ巾触、村々よりも右触次を以申立候仕来二候処、御鷹野御用筋之外、宗門帳其外御廻米手本米等も収集、都而全地方に付候儀取扱候類も有之哉之段相間、如何之事一一候、御鷹野御用触次之儀者、前々より仕来にて御用弁来候儀一一候得共、地方御用筋触次与唱候もの可有之筋一一無之、全ク村方惣代之意味に相聞、惣代之儀者民間之害を生し、不可然事一一付、容易一一申付間敷旨、前以被仰出も有之、既二関東筋御代官村々一一者、触次び唱ものも無之儀一一候問、考以右粉敷触次之もの無之様、急度可被申付、尤実一一惣代之類無之候而難叶場所ハ、村方連印願之上申付、壱弐年を限引替候積、去ル酉年御勘定所一一於て申渡候趣も有之候間、万一惣代之類無之候而者差支候謂於有之 (3)関東における惣代制以上のように新たな展開を始めた関東郡代役所であるが、大きな問題点もあった。次の寛政四年(’七九二)の 法政史学第肛I|ザ

者、御勘定所へ被相伺可被任指図候、以上この[史料三]の「去ル酉年御勘定所二於て申渡候趣」については一言しておかなければならない。これは天明九年(一七八九)正月に発令された「御代官え申渡」を指し(㈹)ている。この法令は幕府が今迄認めてこなかった惣代を条(Ⅲ)件付きで認めたことで研究史上有名なものである。そしてこの法令は奥州村山郡幕領の郡中惣代名主を中心とした、幕府の廻米強化策に対する安石代要求闘争を直接の原因と(岨)して発く祠された。だか『b天明九年令が対象とした惣代とは幕領惣代であり、領主支配を越えた惣代ではない。御料私領を問わない中間支配機構をこの時期の幕府が政策的に志向したことを示す史料は存在しない。しかし岩田浩太郎が明らかにしたように、天明・寛政期の伊奈支配下の「領々(㈹)触次」は御料私領を問わない活動をしている。これは矛盾ではないだろうか。現在鷹場については相異なる矛盾した二つの説が対立している。領主支配が錯綜した関東地方において、鷹場が領主支配を越えた広域支配を行なう機能を果たしたとする大(Ⅲ)石学らの見解と江一戸周辺地域においては多一元的な支配と多元的な負担が存在したとし、広域支配を鷹場に一元化する(㈹)前者の説に疑問を呈する伊藤好一、bの見解である。両説と

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も地域社会で行われる役負担や「警察」的活動を、地域社会にとって他律的活動であるとする見解は共通している。大石学が明らかにした堀江家のように、鷹場支配を通じて広域支配を行なう地域社会的実態は存在する。その点では前者は正しい。しかしこの視点に立つ研究者は、地域社会的実態については熱心に検討するが、幕府が鷹場を軸に領主支配を越えた中間支配機構を設置するという政策的意図を有していたという実証的検討は行なわないのである。一方後者の見解は政策的にはむしろ常識的な主張であり、首肯できるのであるが、先に述べた堀江家のような地域社会的実態を説明できない。要するに両説とも政策的意図と地域社会的実態との統一に失敗するのである。両者を弁証法的に統一する視角は一つしかない。それは政策的意図と地域社会的実態との間に乖離を設定(Ⅲ)することである。鷹野御用触次は幕府の政策的意図としてはあくまでも鷹場御用を行なう機関であった。しかしそれが支配を越えた地域の「行政事務」や「警察」活動をするのは、それが幕府の政策によるものでは全く無く、地域社会の自律的活動と理解すべきである。近世後期「自治・自律」的な発展を遂げた地域社会においては、領主制原理に(、)依存した支配形態は姪桔でしかない。彼等は領主支配を越

勘定奉行上席柳生久迩の施策と関東における村刀惣代(吉岡) えた「自治・自律」を志向したはずである。そのためには鷹場役に限定されていたといえ、領主を越えた活動を行ない得た鷹野御用触次は格好な存在である。地域社会は鷹場役を捉え返して、領主支配を越えた広域的な「自治・自律」システムを作りあげたのである。そう考えて始めて[史料三]を正しくとらえることができる。ここでは鷹野御用触次が村方惣代に変質してしまったことを幕府が憂慮し、そのことを厳に戒めたのである。江戸周辺における村方惣代は、鷹野御用触次といった広域に役を賦課する存在を地域社会が換骨奪胎することにより成立した。従来の研究史は、地域社会が鷹野御用触次を捉え返した自律的活動を、幕府の政策的意図に基づくものと、実証的成果がないままに倒錯して位置付けてしまっていたのである。岩田浩太郎が明らかにした「領々触次」の活動も「自治・自律」的性格と判断すべきである。従って[史料三」に関して「以後、触次制は幕府の統制下にあって年番化が促進され、江戸周辺地域の中間支配機構として機能してゆく」と(州)いう見解があるが鷹野御用触次と中間支配機構は別個の存在である。奥州村山郡幕領では在地における年貢納入の「行政事務」は惣代に掌握されてしまっていた。それゆえ安石代要

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求闘争は地域社会に有利に展開したのである。歴史を規定してゆくのは一侯やうちこわしといった派手な事件ではなく、民衆の日々の地道な実践である。地域社会の「行政事務」の掌握という現象は決して小さいものではない。年貢に限ってもその生産l上納を地域社会に握られている以上、幕府も譲歩しなくてはならなかったのである。[史料三]には「宗門帳其外御廻米手本米等収集、都而全地方に付候儀取扱候類も有之」とあり、江戸周辺地域においても「行政事務」は地域社会に捉え返されて、村方惣代に変質(Ⅲ)した鷹野御用触次に掌握されていたのである。寛政以前は彼等は伊奈氏がカリスマ的魅力もあってなんとか統治して(叩)いた。しかし伊奈氏も失脚し、勘定奉行上席柳生久通は、関東においてこのような惣代と直接向かい合いながら、前章で述べた身分統制政策を実行しなくてはならなかったのである。その様相は次章でみてみよう。

(1)寛政五年の博突禁令寛政五年(一七九三)幕府は博変禁令について代官に通達している。(別)[史料四] 三寛政期の取締役の基礎的考察 法政史学第五十一号

博突並惣而賭之諸勝負、前々より御制禁候処、猶又近年厳敷被仰出、其度々相触置候然処此節支配所村々何となくゆるみ、博変賭之諸勝負事有之由、粗相聞候趣之御沙汰二候問、銘々支配所厳重二取締方被申付、博突致候者有之候ハ、支配所内者勿論、最寄他領村々一一候共、踏込召捕候様可被致候事代官早川八郎左衛門らの享和二年(一八○二)伺書には。博変亦は賭的等、都而賭之諸勝負いたし候節は寛政五年丑年十月被仰渡候通、支配所内ハ勿論最寄他領村々一一候共、踏込召捕候様仕、御仕置之義は翌寅年六月御触書之通(脳)相心得」とあり、[史料四]が寛政五年一○月、つまり柳生が御料所取締を仰付けられた三カ月後に通達されたものであることがわかる。この通達は「仕置御改革」や関東取締出役の成立について考える上でも貴重なものなのである(別)が、従来なぜか軽視されてきた。代官の手代が他の支配所に踏み込むことはこれ以前から行なわれてきたが、それに(則)は勘定奉行の許可が必要だった。この[史料四]にはそれに関する規定はなく、代官手限りで「最寄他領村々」に踏み込めるようになったと理解できる。この方針転換がやがて関東取締出役の成立に結び付くのであるが、指摘しておきたいのは、直接の契機が博突禁令だったということであ

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る。寛政期は博突禁令が徹底的に行なわれた時期であった。寛政二年には火付盗賊改が博突犯の逮捕に積極的に乗り出(弱)しているし、寛政六年七月一五日、前月に発く祠した「仕置御改革」の趣旨を徹底するため、柳生がわざわざ立ち会って「無油断手代等相廻し」博突犯を召し捕るように、代官(叩)に通達している。享和元年には町奉行所の与力・同、心が安一房国以外の関八州・伊豆国を廻り、博突犯の逮捕に尽力し(訂)ている。法令でも博突禁くわは頻発している。なぜここまでして博突は禁止されたのか。それは寛政期が身分制社会システムの再編を志向したためである。幕府は博突は「農業疎略一一相成困窮一一および、御年貢差支致欠落」す状況に百姓を陥し入れるものと判断(調)していた。「欠落」は無宿に直結する。つまり博突は百姓身分を崩壊させる行為と幕府には思われていたのである。それゆえ身分制を擁護するために博突禁令は強調された。従来の研究史では博突禁令の意義を治安警察活動としていたのであるが、それは残された史料を正しく位置付けたものではない。

勘定奉行上席柳化久通の施策と関東における村〃惣代(吉岡) (2)寛政五年の取締役の設置 寛政五年(一七九三)に設置された「郡中御料私領共取(別)(㈹)締役」(以下取締役)にいては、牛米努・小松修による研究がある。それに拠ってその様相をみてみよう。武蔵国多摩郡熊川村名主弥八郎が、年貢上納を兼ねて自身が江戸へ出よ、という通達を支配代官伊奈忠富手代森儀左衛門から受けたのは寛政五年二月のことであった。伊奈は関東郡代久世の配下の五人の代官の一人であった。この時弥八郎を始めとする多摩・高麗郡の一二名の人物が取締役に選ばれている。この選定については事前に相談があったわけではなく、いきなり申し渡されたようである。村に戻った弥八郎は一札を取っている。(剛)[史料五]差上申一札之事一博突井賭之諸勝負、前以御法度之処、尚亦厳鋪御触度々有之候得共、今以不相止段、村方制止方不行届趣達御間一一、当年も再応被仰触有之、其上今般郡中取締り之もの所々江被仰付、時々見廻り有、山林川原非人小屋迄御吟味二候間、急度相慎可申旨、組限二相改候様御申渡奉畏候、以来右類之義二携候ものハ御用捨なく被仰立候旨承知仕、決而右躰一一拘り申間敷候、乃而為取締一札入置申候処、如件

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熊川村新田寛政五丑年十二月百姓大兵術印(二七名略)年寄七兵衛印柳生が御料所取締を仰せ付けられたのが寛政五年七月、[史料五]が通達されたのが一○月、取締役が設置されたのが二月であり、これは関連して捉えるべきであろう。従来御料私領を問わない取締活動といえば改革組合村研究の影響から、治安警察活動と速断されてきたが、この事例では取締役の主目的は博突取締にあったことは明確であろう。そして博変は身分制維持の観点から禁令されていたのだから、取締役は治安警察ではなく、身分統制を主任務としたことになる。この取締役は博変禁止のために御料私領を問わず、見廻ったわけであるが、彼等は博突犯の逮捕に主眼をおいたわけではない。勿論逮捕する場合も有り得たであろうが、それは主眼ではない。[史料五]に「被仰立」とあることに注意されたい。これは村人が博突を行なっていた場合、代官所に取締役が「被仰立」、注進することを村人一同が認めたということであろう。[史料四]以前なら地頭人別の者は地頭所に注進され、地頭が裁いた筈である。しかし[史料五]以降は代官所で博突犯は逮捕 法政史学第パー|ザ

することができたのである。そして寛政六年六月の「仕置御改革」以降は、軽度の博突犯なら代官手限りで裁許することができた。これによって博突犯は代官所が集約的に迅速に罰則を与えることが可能になったのである。これこそが博突禁令のために勘定所が採用した新方式であり、柳生の施策の切り札といえよう。そのためにこそ取締役は設置されたのである。寛政五年の取締役の二一名をみてみると、中野村卯右衛門のように鷹野御用触次の者もいるが、弥八郎のように鷹野御用触次では無い者もいる。だから鷹野御用触次を中間支配機構に転嫁しようとしたという考えは誤りである。た(皿)だ弥八郎は上ケ鮎世話役を勤めていた。領主支配を問わず活動できる役であるので、地域社会に捉え返され「惣代庄屋」的「自治・自律」の中核になっていたことは想像できる。関東地方では様々な広域役負担をする触次に類似する存在があり、そのような存在を地域社会が捉え返すことで(岡)村方惣代が成立したと考えるべきなのである。だから新しく幕府が博突禁令を行なうのであれば、既存の期間を再構成するよりも、新しい役を新設した方が良かったのである。

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(3)寛政期の取締役の活動幕府が寛政一○年(一七九八)三月、「御領井大名領分」で身元宜しき者を選んで百姓風俗取締に当たらせたことは有名である。この時の法令には「都て村方之為二不相成もの共有之は、其始末御代官・領主え可申立段申渡」と(M)ある。この時選ばれた取締役はやはり「中立」を主眼としたのであり、寛政五年の段階と同じである。寛政一○年の取締役の見廻りを「逮捕活動」とし、「幕府の勘定所を頂点とした関八州全域に及ぶ在方取締機構Ⅱ『取締役』制の(価)設置を企図した」という見解があるが、首肯できない。取締役の主目的は「申立」にあることは史料から明らかである。支配役所へ上申し、しかるべき処罰を受け、村役人が教諭し、百姓風俗を矯正する。それにより身分制社会システムを守ることこそ取締役の目的なのである。取締役は治安警察活動を主眼とした役職ではない。さらにこの取締役は「御料井大名領分」から選ばれ、幕領の取締役は幕領・旗本領・寺社領を管轄し、大名領分の取締役は藩領を管轄する。「勘定所を頂点とした」という認識は事実誤認である。先の伊奈忠冨管轄下の取締役の活動をみてみよう。①寛政七年一一月隠酒造人摘発寛政五年取締役に任命された多摩郡下師岡村名主幸左衛

勘定奉行上席柳唯久通の施策と関来における村方惣代(吉岡) 門・羽村名主織部・河辺村名主宗兵衛の三人は「組合(船)村々」の隠酒造人を摘発して、伊奈に報告している。なおこの三人の内で寛政一○年に取締役になったことが確認される人物は宗兵衛一人であるが、幸左衛門も宗兵衛と同じ機能を果たしたと考えられる。②寛政一二年五月厄除札配布疫病が流行したので、郡代役所は厄除札を村に一枚づつ(、)配布した。幸左衛門はこの趣旨を代官の〈叩により羽村以下一三力村に廻している。③寛政一二年一○月神事祭礼調査(冊)代官は村々の神事祭礼の調査を行ない、その結果は宗兵衛・幸左衛門が取り集め、内一人が惣代として役所に持参するよう命じている④享和二年三月あかね草収集(的)薬草であるあかね草を取り集めるよう代官が下〈叩し、集めた分は「取〆役河辺村宗兵衛」が取り集めて役所に納入することになっていた。⑤享和三年四月薬法書付配布麻疹が流行したので「心得井薬法書付」が支配村々に配(、)布された。これは河辺名主惣({示)兵衛によって他の村々に通達された。

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なおこれらの記述は下師岡村名主幸左衛門家に残っていた御用留によったが、下師岡村周辺には田安領も存在し、田安領の御用留も残されているが、そこにはこの一一一人の取締役は登場しない。田安領は万石以上であるため幕領取締役は活動できなかったのであろう。この事例をみてみると取締役は従来の指摘と異なり、治安警察活動は全く行なってはいない。②④⑤は公共医療政策というべきものであるし、①③は風俗統制、身分統制と位置づけるべきである。①については説明がいるかもしれない。寛政期の酒造統制については安藤優一郎の力作があ(、)る。安藤によれば寛政期は米価が低下したにもかかわらず酒造が制限された特異な時期である。酒造を制限したのは上方から江戸への酒の入津量を減らし、江戸の経済的地位を引き上げるためであった。しかし入津量が減らないので強制的に入津量を減らしたが、酒造人の反対にあい失敗した。そして安藤は課題として下り酒の入津量を減らすことが目的なら、なぜ関東地方で酒造制限が行なわれたのかという問題を挙げている。この課題は安藤がその分析を経済史に限定し、社会史的視点をもたなかったために生じたものである。松平定信は「ことに酒てふものは高ければのむことも少なく、安ければのむこと多し。日用之品物価之平 法政史学第瓦十万グ

かなるをねがふ類とはひとしか(ら)ざれば、多く入来れ(〃)ば多くつゐへ、少なければ少なし」と記している。確かに江戸の経済的優位を確保するための酒造制限という視点は重要である。しかしその政策を支えていたのは、酒価は高ければ高くてもかまわないという認識である。なぜか。それは酒は「日用之品」とは違う嗜好品であり、飲酒は著侈であり、贄沢であるという認識である。だから酒価が高くてもいいという政策は風俗取締であり、身分統制策なのである。そう考えれば酒造制限が全国で行われた理由がわかる。酒は高価格で販売され、広く飲まれないほうが定信には望ましかったのである。この商業的論理に対する反動的(、)考一えのため、酒造人に大きな反対を受けたのである。このように考えてみれば隠造酒人を摘発する①が身分統制のための施策であるといっても理解が得られるであろう。飲酒そのものが風俗素乱に当たるわけである。また公共医療活動も身体こそ身分制の基幹と考えれば身分制社会システムの維持のための活動といえるであろう。つまり①から⑤までの職務は身分統制のための活動といえる。しかし幕領取締役は万石を越える領主の領地には権限が及ばなかったし、支配代官から必ずしも「警察」的活動を期待されたわけではなかった。

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松平定信の信任を受け、勘定奉行上席・御料所取締の責任者になった柳生久通は、無宿を制限し、村に返し、村で百姓に農業を勧める勧農イデオロギ1政策をとった。近世(、)身分制の根本は属地主義であり、「農本主義」である。百姓は農業こそが中心であり、諸産業は民間余業としていわば「百姓成立」を補完する存在として許容されたに過ぎない。市場経済の発展により人々の移動が促進され、諸産業を中心に行なう存在に百姓が変容してきたということは、近世身分制の危機といえる。柳生の政策はこのような時流に杭して身分制社会システムを再建することを目的とした。その柳生にとって博突は百姓の無宿化に繋がるものであり、絶対に許容できるものではなかった。それは多くの幕府要人にとっても同じであった。関東地方の場合、鷹野御用触次を村方惣代化するなど、地域社会による「自治・自律」的活動が目立っていた。事実上の惣代が存在する以上、惣代に拠らなければ博突禁令は貫徹できなかった。そこで柳生を中心とした勘定所は寛政五年新しく取締役を設置し、博突禁令を中心とした身分統制活動を行なわせたのである。このような活動は基本的には寛政一○年の取締役 おわりに 勘定奉行上席柳生久通の施策と関東における村万惣代(吉岡) に引き継がれていく。ではこの後取締役はどうなるのであろうか。少なくとも上述の三人の取締役は文化以降活動が確認できなくなる。(布)これは他の取締役の事例でも同じような動向にある。一般に寛政期の取締役は一部を除いて存続しないのである。なぜであろうか。それは取締役が幕府主導で設置されたために、地域社会の「自治・自律」的活動を許容したものではなかったからに違いない。それならば従来通り鷹野御用触次などを捉らえ返した「自治・自律」的活動を続けた方が良い。「自治・自律」的活動が続いていたことは、村方に(、)残された史料か『b確認できよう。つまり寛政期の取締役の意義は設置されたことにあるのではなく、設置されても存続できなかったところにある。地域社会の承認が得られなかったのである。中間支配機構は文政になるまで関東では成立しなかった。しかし文政改革で設置されたのは取締役ではなく、大「惣代」・小「惣代」であった。なぜ官製御用組合の指導者が地域の代表者を意味する「惣代」なのか。従来の倒錯した改革組合村の研究史は、このような素朴な疑問にさえ答えることができない。それは改革組合村は官製御用組合なのではなく、大幅に「自治・自律」的性格が認められた存在であるためと筆者は考える。改革組合

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村の性格規定のコペルニクス的転換こそ今後の研究史の課題であろう。

(1)ここでは代表として、藤田覚「’九世紀前半の日本l国民国家形成の前提」(『岩波講座日本通史』第一五巻、一九九五年)を挙げておく。(2)久留島浩「甲州市川代官所管下の天領における郡中惣代の機能について」(『信濃』三○’五・六号、’九七八年)以下の久留島の一連の成果を参照。(3)森安彦『幕藩制国家の基礎構造』(吉川弘文館、’九八一年)など(4)柳生の経歴については『寛政重修諸家譜』『柳営補任』に拠った。(5)『続徳川実紀』第一篇、五三頁(6)『牧民金鑑』上巻、七七六頁(7)『牧民金鑑』上巻、六三~四頁(8)『よしの冊子』下S随筆百花苑』第九巻、中央公論社、’九八一年)’二一頁(9)藤田覚『松平定信』(中公新書、一九九三年)七○~七五頁(Ⅲ)高沢憲治「寛政九年老中松平信明の勝手掛専管lいわゆる”寛政の遺老“と将軍家斉l」(大石慎二郎編『日本近世の文化と社会』、雄山閣、’九九五年) 法政史学第H1百万

(Ⅱ)高沢憲治「老中松平信明の辞職と復職l寛政末~文化期の幕政運営l」角南紀徳川史研究』第五号、’九九四年)’二一頁(旧)連水融「人口誌(□の日・血目でご)」(『岩波講座日本通史』第1巻、’九九三年)’四一~一一頁(旧)氏家幹人「江戸の少年』(平凡社、’九八九年)二七○頁、参照。(u)『東京市史稿産業篇』第二六巻、二一一一一一~六頁(旧)松平定信『字下人言・修行録』(岩波文庫、一九四二年)二四頁(旧)『字下人一一一一弓修行録』’一六頁(Ⅳ)竹内誠「旧里帰農奨励令と都市の雇用労働」(徳川林政史研究所『研究紀要』昭和五一年度)二三一一一頁など(旧)『字下人言・修業録』’’六~七頁(岨)峯岸賢太郎は、石母田正に代表される「階級の固定化Ⅱ身分化」とする通説を斥け「前資本主義的階級関係一般が、本来的に身分関係として存在している」とした(峯岸『近世身分論』、校倉書房、一九八九年、二四頁)。システム論においては、「要素間の制約しあう関係性ゆえに統一的な全体を構成している」(『哲学・思想辞典』岩波書店、’九九八年、「システム論」の項)とシステムを捉える。個々の要素間を比較するだけでは無意味である。大切なのは「統一的な全体」と「要素」との関係にある。筆者は階級関係が身分関係として現象する社会が身分制社会だと考える。こう考えなけ

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れば歴史科学における最も根本的志向、実証と理論、現象と本質の弁証法的統一など不可能になる。階級と身分との関係は因果関係にあるのではなく、システムを媒介とした対応関係にある。このように全体的構造を重視する故に、本稿では身分制社会システムという言葉を使う。(卯)『よしの冊子』下、’三八頁(Ⅲ)柳生が不人気であったことは、『よしの冊子』に散見される。(皿)『牧民金鑑』上巻、六○~二百(別)松尾寿「寛政期畿内幕領における贈収賄とその処罰」(朝尾直弘教授退官記念会編『日本国家の史的特質』近世・近代、思文闇出版、’九九五年)など(別)註(9)藤田書、「封建的社会政策の展開」の章(配)深谷克己「増補改訂版百姓一摸の歴史的構造』(校倉書一房、’九八九年)(配)『牧民金鑑』上巻、七七八~九頁(汀)大谷貞夫『近世日本治水史の研究』(雄山閣二九八六年)八三~四頁(邪)勧農イデオロギーという言葉は、黒田日出男『日本中世開発史の研究』(校倉書一房、一九八四年)から借用した。(羽)竹内誠「関東郡代伊奈忠尊の失脚とその歴史的意義」(徳川林政史研究所『研究紀要』昭和四一年度)(釦)『御廻状留帳』(三)(青梅市教育委員会、一九八一一一年)九一一~三頁

勘定奉行上席柳生久通の施雌と関來における村方惣代(吉岡) (別)拙稿『近世後期関東における長脇差禁令と文政改革I改革組合村は治安警察機構に非ずl』(『史潮』新四三号、一九九八年)(皿)『牧民金鑑』上巻、六九五~八頁(詔)拙稿「江戸周辺における地域秩序の変容と「生活』l勘定奉行兼帯関東郡代役所の活動を通じてl」(村上直編『幕藩制社会の地域的展開』、雄山閣出版、一九九六年)、’二六~七頁(例)『小役人帳』(国立公文書館)第一二冊(妬)註(羽)拙稿、’四六頁(妬)『神奈川県史』資料編、幕領2、一七九号文書(〃)上方については、竹安繁治「寛政改革と畿内農村の動向」(大阪府立大学「研究紀要』第一一八号、一九六三年)。なお註(8)『よしの冊子」によれば、「手余荒地起返しの掛り、柳生へ被仰付」とある(二五五頁)。(胡)註(粥)拙稿、一三○~四頁(別)『牧民金鑑』下巻、五○七頁(川)『御触書天保集成』第四六四七文書(⑪)津田秀夫「寛政改革」(『岩波講座日本歴史』近世4、一九六七年)二五一一一頁、但し、津田の惣代理解には疑問がある。(岨)宮崎勝美「天明期羽州村山郡幕領の石代納闘争と惣代名主制」(尾藤正英先生還暦記念会編『日本近世史論叢』下巻、吉川弘文館、一九八四年)

=二

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(冊)『川崎市史」通史編第三編第一一章「二在方風俗と取締役」(u)大石学「享保期における厩場制度の再編・強化とその意義」(『史海』第一一三・四号合併号、一九七七年、後に再構成して、大石『享保改革の地域政策』(吉川弘文館、一九九六年)に収録。(妬)伊藤好一「鷹場と広域支配lその研究史にそってl」(『多摩のあゆみ』第五一号、’九八八年)(㈹)太田尚宏「庇野御用組合の形成・展開と地域」(関東近世史研究会編『近世の地域編成と国家』、岩田書店、’九九七年)では、「幕府の政策基調と地域そのものとのズレ」が着目されている(二○八頁)。この太田論文は、伊奈支配下の厩場が地域により捉え返されていく様相を明らかにした貴重な実証的成果である。(Ⅳ)従来の関東一円支配体制論においては、あまりにも領主制原理を軽視し過ぎた。封建権力にとって領主制原理は絶対のものであったことは他言を要しないであろう。幕府権力が一円支配を目指したために、領主制原理と重層的関係が形成されたのではなく、地域性原理が領主制原理を相対化したのを研究者が権力の意図と誤解したのである。薮田貫は「九○年代は領主制論の『揺れ戻し』が起きている」と述べている(薮田「支配国・領主制と地域社会」註鮒書に収録、七一頁)。(岨)根崎光男「伊奈忠尊失脚後における関東郡代制」(『日本歴史』第五一一一号、一九九一年)五三~四頁 法政史戦鋪ハト一号

(伯)例えば武蔵国野方領の堀江家は厩野御用触次で鷹場以外の役も含めた諸負担を幅広く引き受けていたのであるが(大石学「近世江戸周辺農村の機能と性格l武州野方領の分析を中心にl」、徳川林政史研究所『研究紀要』昭和五八年度、後に大石註側書に再構成して収録)、これは堀江家が広域的「行政事務」の実権を握っていたことを示している。百姓にこのような実権をもたせることを政策的意図にするほど、幕府は「民主」的な政権であろうか。(別)伊奈は百姓等から「神仏之様-ご敬われていたという(竹内註別論文一七四頁)(皿)『牧民金鑑』下巻、七五九頁(皿)平松義郎『近世刑事訴訟法の研究』(創文社、’九六○年)四七○頁(田)岩田浩太郎「寛政六年『仕置御改革』の政策史的意義」(『史海』第二九号、’九八二年)でも、その存在は指摘されているが、検討は加えられていない。(別)古川貞雄「信濃国悪党取締出役の成立と展開」(1)(『信濃』第一一一一一一’’二号、一九八一年)一一一二四頁(閃)『東京市史稿』産業編四○、五七二~三頁(冊)『牧民金鑑』下巻、七六○頁(訂)『牧民金鑑』下巻、七六五頁(開)『牧民金鑑』下巻、七五五頁(別)牛米努「明治維新と石川家」(多仁照広編『多摩自慢石川酒造文書』第五巻、霞出版、一九九○年) 一一

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(Ⅱ)小松修「寛政期の『取締役』についてl多摩地域を中心にl」(『近世多摩川の史的研究』第二次研究報告、一九九四年)(Ⅱ)『多摩自慢石川酒造文書』第一巻、二四二頁。(田)註(Ⅲ)書解説(田)例えば上州山中領では、御脈見衆による役の「捉え返し」が強調されている(須田努「山間地域(石高外領域)における『公儀』支配と民衆支配l御巣厩山制度と御脈見役をめぐってl」『関東近世史研究」第二四号、一九八八年)。(M)『御触書天保集成』第五五一一一三号文書(開)註(別)岩田論文、六三頁(㈹)註(Ⅱ)小松論文八~九頁(W)『御廻状留帳』(三)二一○~一頁(冊)『御廻状留帳」(一一一)二一三頁(的)『御廻状留帳』(一一|)二二七頁(、)『御廻状留帳』(’一一)二一一一五頁(Ⅵ)安藤優一郎「寛政期における下り酒の入津制限l米価低落下の酒造制限I」(『歴史評論』第五七○号、’九九七年)(Ⅶ)『字下人一一一一口・修行録』’一二頁(門)『東京市史稿』産業編一一一四、六三五~四一頁、『千葉県史料』近世編下総国上、’四七頁によれば、柳生は関東での酒造の試作に関係している。なお、塚本学『生類をめぐる政治l元禄のフォークロアー』(平凡社選書、’九八一一一年)、二三八~四二頁によれば、元禄の酒造制限令の目的は「人民を

勘定奉行上席柳生久通の施策と関東における村刀惣代(吉岡) 酒狂から予防する」飲酒制限令だったという。この指摘は寛政の酒造制限政策を考える上でも参考にするべきであろう。(刊)網野善彦は「厳密に実証的でなくてはならない歴史家、科学的な歴史学を強調している歴史家たちが、史料に現われていることばを、使われている当時の意味にそくして解釈するという実証主義の原則、科学的歴史学の鉄則を忘れて」いるとし、百姓を農民と速断する態度を戒めている(網野『続・日本の歴史をよみなおす』筑摩書一房、’九九六年、三六頁)。この場合近世の大多数の民衆が百姓とされたのは、社会的実態を反映したものではなく、勧農イデオロギーだということになる。勧農イデオロギーは領主制と不可分である。網野は寛政の改革で「農本主義」が前面に押し出されるとした(網野『日本社会の歴史』下、岩波新書、’九九七年、’四四頁)。なお領主と勧農の関係については、藤木久志『戦国の作法l村の紛争解決l』(平凡社選書、’九八七年)在地領主の勧農と民俗の章参照。(両)註(咄)書では文化元年以後「史料上では取締役呼称の使用は確認されなくなる」とされている(五二二頁)。また西沢淳男「関東における天保の取締役l武蔵国一宮氷川神社領取締役を中心にしてl」(『関東近世史研究』第四○号、’九九六年)六頁参照。(冊)註(咄)書では取締役だった人間が文化末年まで地方御用などの活動をしていたことが指摘されている(五二一一一頁)。

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